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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

十字架に戻れ!(5)

再び補足:十字架の間違った取り扱い方について

最近、気づかされたことがあります。それは、十字架の概念が度々、交わりの中で、誤用されている現実があるということでした。この危険性は、私たちが気づかないうちに忍び寄って来ます。たとえば、人が人に身勝手な要求を突きつけ、思い通りにならない人を責めたり、あるいは、厄介払いするための根拠として、「十字架」が使われている場合があり、それが意識もせずに行われ、キリストの御身体に損傷をもたらしている場合があります。

日々の十字架は、人が上からの光に照らされて、自主的に選び、負うべきものであって、いかなる理由があろうとも、人が人にそれを当然のごとく負わせるべきではありません。たとえば、私たちがある人に向かって、「あなたのその汚れた思いや感情という、古い自己を、さっさと十字架につけて下さい!」と命令するのは正しいことでしょうか。間違っています。

あるいは、仮に私たちが耐えられないほど嫌な人間に出会ったとしましょう。それでも、「あなたのその古い人を早く十字架で対処してください! 私があなたとつきあうのはそれからです」と、相手に求めてよいでしょうか。いいえ。私たちには、正直に、自分の思いを相手に告げて、つきあいが困難である人から離れ去ることは許されるでしょう。しかし、自分の嫌悪感を正当化する根拠として、御言葉を利用し、「その人の古き人が十字架で対処されていない」問題を持ち出すのは間違っています。

十字架がある人の人生において、どの程度、具体的経験として理解されているかは、人によって違いがあります。クリスチャンは、日々、十字架をより深く理解し、経験することをすすんで追い求めるべきです。いつまでも信仰の幼子のようであって良いと考えるのは間違っているでしょう。ですが、だからといって、そのことが他人への当然の要求や、強制となってはいけません。

私たちは、ある人が、まだ経験したことのない十字架の深い意義を、無理にでも、その人に経験させようと強いるべきではありませんし、また、その経験のなさを、非難したりすべきでもありません。

また、人が人に何かの負担を強いることの口実として、「自己を捨てる」よう要求したり、「十字架で自己を死に渡す」よう求めたりしてはなりません。それは十字架の概念の悪用です。人が自分の愛の足りなさ、寛容のなさ、利己主義を覆い隠すための口実として、他人にとって不利な負担を「十字架」としてすすんで耐え忍ぶよう要求したりしてはいけません。人から要求される「十字架」(多くの場合、圧迫や非難としてやって来る)には、常に注意が必要です。それは実に多くの場合、十字架の誤った取り扱い方に基づいているからです。

主は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました(マタイ11:30)。また、「…日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)とも、言われました。神は常に人の自由意志を尊重して働かれます。私たちが強制されてではなく、自分の意志で、神が望まれる日々の十字架を選び取ることを、主は願っておられます。御霊は常に人の決定を待っていてくださり、人の意志を無視して働かれません。ですから、私たちは、御霊でないものから、十字架を強制的に負わされる必要はありませんし、十字架を理由に人から支配されたりしてはなりません。私たちはただ主から十字架を受け取れば良いのであって、人からそれを強制される必要は全くありません。

人が人に十字架を無理にでも負わせようとすることは、人が神に代わろうとする越権行為です。人が御霊の働きを越えて、他人に対して、「古き人が死ぬこと」や、「自分の命を捨てること」や、「十字架を負うこと」を求めるべきではありません。十字架はあくまで人の完全な自主性に基づいて選び取られなければなりません。また、人が十字架をすすんで負うためには、まず、その人の内側で、上からの聖霊による照らしと導きがなければなりません。人は御霊によって、日々、キリストの十字架へと導かれるのでなければなりません。もしそうでなければ、十字架の意味は全くありません。私たちは十字架について人に語り、勧めることは許されるでしょう。けれども、その人自身がまだ主から示されていない問題を、まるで当然のごとく、理解するよう人に要求してはいけません。また、苦手な人を排除する理由として十字架や古き人の問題を持ち出してはなりません。もしも、人の自主性を無視して、人から人への強制として押し付けられる十字架があるならば、それはたやすくカルトへと結びつくでしょう。

信仰暦の長さに関係なく、私たちは、御霊の働きを妨げるそのような越権行為を他人に対して気づかずにしてしまう場合があります。ある時は、私たちは、高慢ゆえに、主より先走って、人に犠牲を求めていながら、それを「十字架」という言葉で正当化している場合があるかも知れません。または、自分では気づかずに、自分に有利な状況を作り出すために、他人に「十字架」を課そうとしている場合があるかも知れません。私たち人間には、そのようにして十字架の概念を利己的に歪め、他人を支配する口実として用いる危険性が十分にあることをいつも覚えておく必要があります。そのような危険性の中に、気づかずに足を踏み入れてはいないか、自分を振り返る必要があります。

私たちは、決して、主の働きを越えてまで、その人の自主性を侵害してまで、あるいは、御言葉の本来の意図を外れてまで、自分勝手な理由で、人に十字架を強制することがないよう常に気をつけるべきです。十字架は、キリストが私たちに与えて下さった最も尊い御業です。十字架は、キリストの命の最高の表現であり、私たちに与えられている最大の恵みです。それは神と人との和解の場であり、人と人との和解の場でもあります。私たちを新しい人としてくれる唯一の通路が、十字架です。にも関わらず、尊い十字架を、私たちが互いに裁き合ったり、責め合ったり、排除し合ったり、利己主義をかなえたりする道具として使うことがないように、常に気をつけていなければなりません。
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十字架に戻れ!(4)

主にあって強くなりなさい!

 肉には色々な性質があります。必ずしも否定的に見える性質だけではありません。すでに語ってきたように、肉には長所もあり、善を行う能力もあります。しかし、いずれにせよ、御言葉は、私たちの肉そのもの、さらに、肉や魂を支配している、生まれながらの古い命そのものが、堕落・腐敗した、罪なる性質を帯びたものであり、神の御前に、呪われた厭うべきものであることを示しています。肉にある者は神を喜ばせることはできません! 私たちが持っている生まれながらの命、古き人は、神の御前に永久に呪われ、廃棄されねばならないのです。

 人の生まれながらの魂は、自己を喜ばせ、自己に栄光を帰するために活動しようとします。私たちの魂は常に「自己」を中心として活動します。魂のそのような利己的で邪悪な性質も、古い人に属するものであり、私たちが御霊に従って歩むことを絶えず妨げます。
 「魂は、見られ、知られ、聞かれることを望む自分の中の『わたし』という自己愛、高慢の場所です。また、実際は『わたしは他の者のようではないことを神に感謝します』と言っている、宗教的高慢さに満ちた所でもあります。この宗教的高慢さは、最も霊的な魂の中にも忍び寄り、汚してしまいます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、付録1、チャールズ・アシャー、p.248)

 私たちの肉と魂を支配するこの古い命の邪悪な性質を対処することができるのは、カルバリだけです。
 主イエスの御血の清めは、私たちを罪の汚れから清めますが、十字架は、私たちの古い命の邪悪な性質そのものを対処します。チャールズ・アシャーは言います、「わたしたちの邪悪な性質を対処するのは、血の清めではなく、十字架です。『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた』(ローマ六・六)。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を……十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ五・二四)。」(同上)

 カルバリの十字架において、主イエスはご自身の肉に私たちの肉を含められ、それらを全てはりつけにされました。信じる者にとって、十字架は、私たちの古き人―罪の肉が最も恥辱をこうむった形で永遠にさらしものとされている場所です。そこでは、私たちの古き人が、キリストと共に、死刑宣告を受け、刑罰に処され、殺されました。私たちの古い命は、カルバリで死に渡されました。サタンの思うままに支配されていた肉は、もはや死んだので、効力を失いました。これは霊的な事実です。私たちがこの霊的な事実を信仰によって日々、自分のものとして受け取る時、キリストの死と復活の力が私たちの内で実際となるのです。

 パウロは、コロサイ人への手紙第二章十四、十五節でこう言います、「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」

 イエスは十字架に向かわれるよりも前に、こう言われました、「…ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・十四、十五)
 モーセが荒野で青銅の蛇を掲げ、それを見た民が、蛇の毒から救われて生き延びた(民数記二一・九)ことは、このカルバリの予表でした。今日、御子の十字架を信じる者は、蛇(サタン)の死の毒から救われて、もはや罪に汚されることのない、清く、新しい、神の霊なる命によって生きるのです。

 御子が十字架につけられた瞬間は、サタンにとって、あたかも、勝利の瞬間のように思われたでしょう、それはあたかも神の敗北であるかのように見えたでしょう。しかし、主を誉めたたえます、御子はサタンによってもたらされた死を通して、逆説的に、サタンに勝利されたのです。主イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル二・十四)たのです。

 主イエスは蛇(サタン)によって堕落させられた人類の罪を贖うために、十字架に上げられました。主イエスはそこで死なれましたが、カルバリで実際に滅ぼされたのは、蛇(サタン)でした。主イエスは肉体においては、全人類の身代わりに罪に定められて一度、死なれましたが、彼の内にある神の命は、彼の人としての死によっては何の損傷も受けることなく、よみがえりの命として、主を三日目に復活させたのです。それによって、主は蛇が人にもたらすことのできる最大の破壊である死に打ち勝ちました。そして、十字架を通して、主は、ご自身だけでなく、御子を信じる全ての人が、蛇に毒されることのない、神の新しい命によって生きる道を、キリストのご性質によって形作られる新しい人として生きる道を開かれました。カルバリは、主の死によって、蛇自身が滅ぼされる場所となったのです。

「創造主はその御子のパースンにおいて、全世界の罪をご自身の上に担い<…>、血と肉にあずかり、堕落した種族へと結合されるという束縛を受けられ、その神聖な性質において、あの堕落したアダムの命を十字架へともたらし、避けることのできない当然支払うべきものでもあり、またその結果でもある死の刑罰をそこで受けられました。それは、彼がその堕落した被造物のために、神へと立ち返る道を切り開き、彼の性質と実質そのものから建造され、形づくられた新しい種族のかしらとなるためです。」(付録5、ジェシー・ペン-ルイス、「十字架は蛇を滅ぼす」、p.297)

 十字架は堕落したアダムに属する人類の古い命が、神の刑罰を受けて死に渡される場所です。そしてまたカルバリは、堕落した古い種族が死んで、その代わりに、神の命と性質にあずかる新しい種族が生まれる場所でもあります。このカルバリに立ち、主の死に自分の死を同一化し、私たちの罪なる肉がすでにキリストと共に死刑に処せられた事実を、信仰によって受け取ることを通して、私たちは初めて、それまで自分を支配してきた罪の肉による支配から解放され、サタンによって支配されることのない、復活の新しい命によって生かされるのです。

 私たちの堕落した肉、魂、古き人は、これまで、邪悪な暗闇の勢力のもろもろの支配と権威に服し、邪悪な勢力によって思うがままに占有されてきました。わたしたちの内の古き人は、常に、サタンとその邪悪な霊たちを強めるための武具となり、彼らの家財道具となってきました。しかし、主イエスはカルバリで彼らに打ち勝たれ、強い人であるサタンを縛り上げ、サタンの武具とされて来た私たちの罪の肉を、ご自身からはぎとって、逆に、永久にさらしものとされたのです。こうして、サタンの支配と権威は、私たちから解除され、カルバリで主と共に私たちも凱旋し、サタンと邪悪な霊たちの支配と権威は永久に打ち負かされ、恥辱をこうむったのです。

「これが、その神聖な目的における十字架の意味であり、堕落した人がこの世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利の道です。これが、堕落、すなわちサタンの霊によって占有された堕落した肉の意味です。これが、サタンに対する、また罪に対するカルバリの答えです。堕落した被造物が十字架につけられたのは、すべての人が古い種族から離れ去るという選択を持ち、最初のアダムという共通のかしらから離れ去り、『キリストにあって』再び新創造を始めるためです。」(同上、p.297-298)

 私たちは、自分は長い間、罪に支配されてきたので、そこから抜け出すのはあまりにも困難である、と言うかも知れません。私はあまりにも弱く、罪や誘惑に打ち勝つ力が少しもない、と言うかも知れません。しかし、私たちは決して、自分自身の弱さを見つめて絶望してはなりません。私たちがどんなに弱く、未熟であり、信仰生活において勝利した経験が少なくとも、カルバリには神の勝利の命があります。私たちは絶えず、十字架を通して、自分がすでに暗闇の支配から新しい命へと移し出されたことを信じる必要があります、そして、御子が十字架で達成された事実に基づき、古い命ではなく、新しい命である聖霊によって支配されて生きることを、大胆に神に願いもとめる権利があります。十字架は私たちをアダムの種族から連れ出し、新創造へ入らせる道をすでに開いてくれているのです。私たちは道であられるイエスを通って、キリストの新しい命を生きなければなりません。そのことによって、私たちは暗闇の勢力に実際に勝利し、キリストの支配をこの地にもたらす人となるのです。

「キリストにある信者と、やみの力に関する神の目的は何でしょうか? これを見るために、わたしたちはカルバリにおけるキリストの働きへと目を向け、カルバリの勝利を理解しなければなりません。カルバリの十字架において、彼はご自身から邪悪な支配と権威とをかなぐり捨てて、彼らをさらしものとされました。

キリストの死において彼と同一化された魂は、彼と共に、また彼にあって、『やみの王国』から昇天された主の『統治する命』の中へと移されています。カルバリの勝利を通して、あなたは神の目的にあってやみの王国から移し出され、その領域の中を歩かず、その視点、尺度、方法、邪悪さを受け入れないのです。

 しかし、これが実際の経験となる前に、あなたはまず、あなたに対する神の全き目的と、彼があなたをやみの力から移し出してくださったことを理解する必要があります。それは、やみの君がもうあなたに要求したりせず、あなたに対する権利も持たないようになるためです。というのは、神はその統治する命にあって、『(わたしたちをキリストと共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』からです。

たとえどれほどあなたがその経験に不足していようとも、あなたは自分に対する神の目的を決して引き下げずに、常に彼の意図を見つめ続け、彼が目的としておられる命へと、あなたを導いてくださるよう彼に求めなければならないことを覚えてください。あなたの立場は、『やみの力から移し出されている』というものです。

それでは、どれだけあなたは自分自身の中で、また自分の生活の中で、実際的に敵を縛っているでしょうか? <…>あなたの願いは、『やみの力から、その愛する御子の支配下に移され』、『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』という神のみこころと同じでしょうか?(コロサイ一・十三―筆者註)」(付録6、ジェシー・ペン-ルイス、「やみの力から移し出される」、p.300-301)

 ジェシー・ペン-ルイスによれば、クリスチャンは三つの側面で勝利を得なければなりません。一つ目は、罪に対する勝利であり、すでに再三、語ってきたように、私たちが肉や魂の古い人に対して打ち勝つことです。ローマ人への手紙第六章は、十字架によって、私たちが「罪に対して死んだ者である」ことを認めるように教えています。第二の面は、たとえ私たちがキリストの御名のために人々に誤解され、そしられ、迫害され、罪に定められるようなことがあったとしても、その苦難を最後まで耐え忍ぶことによって勝利を得ること、あらゆる苦難に「勝ち得て余りがある」(ローマ八・三七)ようになることです。第三の面は、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ三・七)、キリストの御名によって悪魔に堅く抵抗する(Ⅰペテロ五・九)ことです。

 時々、これらの三つの面は互いに関連し合ってやって来ることもあるようです。たとえば、サタンの圧迫は、しばしば、身近な人々を通して私たちにもたらされます。身近な人々が、私たちに、信仰から逸れるように要求したり、圧力をかけたりすることがあります。それらの要求は、私たちが御霊ではなく、再び、肉に従って歩むようにという内容であるかも知れません。さらに、もしも私たちが彼らの助言や要求を拒否するならば、多くの人たちから非難されるかも知れない状況があるかも知れません。そんな時、私たちはこの全てに立ち向かって勝利せねばなりません。肉に従って歩むことは拒否せねばなりません。しかし、人々に対しては、小羊のようであらねばなりません。たとえ人から誤解され、そしられ、不当な苦しみを受けても、それらを耐え忍び、人を脅かさず、悪をもって悪に報いてはなりません(Ⅰペテロ三・九)。しかし、サタンの要求そのものに対しては、毅然と立ち向かって、それを積極的に拒まなければなりません。

 クリスチャンには火のように試練が降りかかることが御言葉によって予告されていますが(Ⅰペテロ四・十二)、これらの試練に打ち勝つことは、自分自身の力によっては到底、不可能です。私たちはただ「しし―小羊」であるキリストの命によって強くならなければなりません。試みを受けた時、私たちの内にキリストの霊が見いだされるのでなければなりません。

エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは人に対して『小羊』であると共に、悪魔に対しては『しし』でした。彼はもろもろの支配と権威との武装を解除し、彼らをさらしものとされました。そして、人の目には敗北であったことが、神の目には勝利となったのです。人の目には『恥』であったことが、神の目には勝利であったのです。サタンとその邪悪な軍勢すべてに対しては、キリストはしし、すなわち、ユダ族のししでした。

 エペソ人への手紙第六章でわたしたちは、やみの力に対する何か霊的な戦い、ししの命を見ます。ここでわたしたちは、兵士の霊を持った兵士を見ます。『こういうわけで、強くなりなさい』。人の側では、キリストは『弱さのゆえに十字架につけられた』(Ⅱコリント十三・四―筆者註)のでした。しかし、彼は『強く』、『強い人』よりももっと強いのでした。彼の名は『強い』です。『もっと強い者が襲ってきて』(ルカ十一・二二―筆者註)。ですから、キリストの名は『もっと強い者』です。彼は『強い人』よりもっと強いのです。

ですから、『キリストの中に』立ち、サタンへと立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、『強くなりなさい』です。もはやあなたは、『弱さ』について語ってはなりません。あなたは人性と自分自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは『主にあって強く』ならなければなりません。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.291)

 クリスチャンはたとえどのように信仰の幼い者であっても、すでに主を信じた時から、サタンとの荒れ狂う霊的な戦いへと一歩を踏み出しています。その戦いにおいて、いつまでも自分の弱さばかりを見つめている未熟な新兵であってはなりません。私たちは主にあって、強くされる方法を学ばなければなりません。

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ六・十、十一)

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ十六・三三)

<つづく>

十字架に戻れ!(3)

補足:カルバリについてのありがちな重大な誤解について

 以下に書いてきたような十字架のより深い認識について語ると、ある人はこう反駁します、「御子はすでに十字架上で勝利を取られたのだから、もはや私たちにはすることは何も残されていないはずです。サタンはすでに敗北しているのでしょう? 戦いはもう終わっているのでしょう? 私はもうサタンから完全に解放されたので、二度と、罪は私に触れることはできなくなったのです。私は神によって聖なるものとされ、もはや罪けがれとは全く無縁の人間になったのです。なのに、どうして私がこれ以上、サタンを恐れたり、警戒したりしなければならないのですか。どうして私がこれ以上、サタンの道具となるようなことがあり得るでしょう? そんなのは嘘です。そんなのはクリスチャンに対する侮辱です。サタンは敗北しているのです。彼はクリスチャンに対して何の権利も持たないのです。

 ですから、日々サタンは状況を通して私を圧迫しているとか、私の内に残る旧創造をサタンが利用して私に何とか罪を犯させようとしているとか、その旧創造を私がさらに十字架で死に渡さなければならないとかいった類の話は信じません。十字架を信じた時に、私はそれら一切からすでに解放されて、旧創造から全くきよめられたのです。この上まだ、解放を求める必要があるとは思えません。」

 読者よ、このような短絡的な誤りに落ちてはなりません。このような言い分は、二つの点で完全に誤っています。一つ目の間違いは、このような考えは、キリスト者が生涯においてずっと、十字架にとどまり続け、絶えず十字架が彼に適用される必要があり、そうでなければ彼はサタンに勝利する力を持たないという事実を見落としていること、また、十字架には罪からの贖いに加えて、私たちの古い命の性質を対処するという、より深い意義があり、私たちがそれを理解しておらず、求めてもいないうちに、それが私たちの意志を越えて自動的に適用されることはない、という事実を見落としてしまっている点です。

 十字架は永遠に達成された事実です。私たちは信仰によって、それを信じ、罪からの贖いを受け取り、クリスチャンとされました。しかし、十字架の意義はそれが全てではありません。私たちが罪からの贖いを受け取っただけであるのに、そこであたかも信仰の歩みはすべて完了してしまったかのように思い、私たちにはもう何もすることは残されておらず、十字架のさらに深い意義を経験する必要もないと考え、自分はもはやいかなる罪なる性質とも無縁な、完全にきよめられた人となったので、サタンを警戒する必要もなくなったと考えることは、完全な間違いです。

 私たちが主イエスを信じた瞬間から、神は、御子を受け入れたのと同様に、私たちをも受け入れてくださいます。私たちは救いを得た瞬間から、神の子供たちとされ、御子のあらゆるご性質にあずかるものとなりました。しかし、それは私たちの地位を保証しているのであって、私たちの実際の経験を表しているのではありません。実際には、救いを得た直後には、私たちは幼子のようなクリスチャンであって、さらに成熟していく必要があります。この地上において、私たちが、主に従う成熟した働き人となるためには、私たちは自分の古い命の性質が何であるかを知り、それが十字架を通して対処されることを避けて通るわけにいきません。

 思い出してください。ペテロは主イエスをとても愛して従っていたので、たとえ全ての弟子が主を見捨てて逃げ去っても、自分だけは、主を裏切ることなどありえないと自負していました。しかし、その愛は、彼の生まれながらの人(旧創造)から出て来た愛であり、いわば、彼の肉による誇りでした。それは主に従うには全く役に立たないものでした。しかし、その時、ペテロは自分に自信を持っており、自分の生まれながらの肉の強さが主に従うのには全く役に立たないものであり、むしろ、取り除かれなければならないものであるとは考えてもみませんでした。そこで、イエスは、ペテロが主を裏切り、見捨て、三度に渡って主を否定するという手痛い失敗を経験することを通して、自分が頼みとしてきたものが、神の御前では腐敗したものであるという事実を知り、自分の生まれながらの命が、主に従うのには全く役に立たないことを理解するよう導かないわけにはいかなかったのです。

 主に従うためには、私たちの生まれながらの、肉による力や、生まれながらの魂から来る感情は役に立ちません。主に従うためには、ただ上から、御霊によって与えられる新しい命の力や愛がなければならないのです。しかし、私たちはその事実をほとんど知っておらず、何が肉であり、何が御霊からのものであるかさえ、区別がついていません。そして自分勝手な思いに基づいて、主を喜ばせようとして、肉に頼って歩んでいることが多いのです。そこで、主は私たちにそれらの区別を知らせ、私たちの生まれながらの命の性質が死ななければならないものであることを教えるために、様々な出来事を按配する必要があるのです。

 神はどんな事柄についても、人の自由意志を尊重されます。それは、言い換えるならば、私たちの同意なしに、神は私たちの内で働かれないということを意味します。私たちが、日々、信仰と意志を活用して、神に向かって、具体的に祈り求め、信じた分だけしか、神は私たちに働くことができないのです。たとえ私たちの内にどれほどの腐敗が残されていたとしても、神は私たちの意志を越えて私たちを対処することはなさいません。それほどまでに、神は人の意志を尊重しておられるからです。

 このことは、私たちの内の古き人が十字架で対処されることについても言えます。神は決して、強制的に、あるいは自動的に、十字架を通して、何が何でも、私たちの古い命を対処するというようなことはなさいません。それは私たちの信仰による理解と求めに応じて、実際となります。もしも私たちが、キリストと共に、十字架で自分の肉がはりつけにされたという事実を信じないらば、十字架は実際に私たちの肉の働きを殺すことはありません。もしも私たちが十字架で自分の古い命の性質が死んだという事実を信じないならば、それは私たちの古い命の性質を実際に死に渡すことはありません。

 私たちの信仰(理解し、求めること)に応じて、十字架はより深く私たちの内に働きます。私たちが理解しておらず、求めてもいないものが、自動的に、私たちに適用されるようなことはありません。私たちがただ罪からの贖いのためだけに十字架を信じているうちに、十字架を通して、私たちの古き命の性質が死に渡されるようなことはないでしょう。後者は、私たちがより深く十字架の意義を認識し、それを求めた時に、それに応じて実際となるでしょう。

 私たちは恐らく、ペテロの失敗とよく似たような体験を通して、救いを得た後になっても、様々な出来事を通して、依然として、自分の肉がまだ生きていることを知るでしょう。主に従っているつもりが、肉によって歩んでいるだけであることを、神からの光を通して、何度も、何度も、教えられるでしょう。こうして、自己の腐敗の深さを知り、十字架を通して、自己を対処される必要があることを、私たちは、幾度も学ばされます。私たちは、救いを得たからといって、決して、その瞬間から、いかなる罪や汚れとも無縁のスーパーマンになったのではないことを思い知ります。救いを得た後も、私たちの自己は、依然として生きており、常に主に従う妨げとなっており、サタンを利する機会を与えていることを知らされるのです。それが分かる度に、私たちは沈痛な思いで、以前よりもさらに深く自己の腐敗を感じるようになるでしょう。そして、深いうめきを持って、その腐敗した性質から神が私たちを解放して下さることを願い求めるようになるでしょう。その時、私たちは十字架を以前よりもより一層深く理解し、旧創造を殺す十字架の働きを求めて祈るようになります。

 もしも私たちが「自分の内には十字架で対処されなければならないような古き命の性質は何もありません」と言い張るならば、神がそれを対処されることはありません。ですが、もし私たちが様々な失敗を通して、自分の内にある古い命から来る性質が、十字架によって死に渡される必要があることを認め、それを望むなら、その時、十字架上での御子の死はあなたの内で実際となり、古い性質は死に、よみがえりの命によって、あなたは全く新しくされるでしょう。

 こうして、十字架を通して、生まれながらの命である自己が対処されることは、一瞬で終わるようなことはなく、生涯に渡って、何度も、何度も続くでしょう。それなくして、私たちがさらにきよめられて、御心を地に成すための忠実な働き人へと変えられていくことはありません。自己の腐敗が明るみに出され、私たちが主の光によって倒されることは、痛みを伴う過程ですが、このような、痛みを伴う日々の十字架を避けながら、クリスチャンが実際にキリストの似姿へと変えられていくことは決してありません。

 これは決して、禁欲主義的な自制を通して、私たちが自分で自己を抑圧することと混同されてはなりません。私たちの旧創造を対処できるのは、神ご自身だけです。十字架は確かに、私たちが全く新しい人へと変えられる権利を保障してくれています。私たちは、それを信仰によって受け取り、神の命によって、日々、新しくされる必要があります。ある日、信じたから、それで終わりということは決してありません。古き命に死に、新しくされることは、人生を通じてずっと続かなければなりません。私たちはパウロのように、自分は日々死んでいるという認識に立たねばなりません。神の命の現われを妨げている私たちの自己、すなわち、古い命は、日々、死に渡され、無効にされなければなりません。

 そんなわけで、もしも前進するクリスチャン生活を送りたいのであれば、このようにしてキリストとの結合を積極的に選び取ることは、生涯、必要です。もしも、私たちが、日々、自分の十字架を取って、イエスに従うということを自主的に選び取らないならば、もしも自分の生まれながらの命の性質を憎み、それが死に渡される必要があることを認めないならば、私たちは、(たとえ永遠の命は得ていたとしても)、キリストの似姿へと変えられるチャンスを失うでしょう。キリストの死とよみがえりの命は、私たちの信仰による日々の応答なしに、自動的に私たちに適用されません。もしも私たちが自分の中には何もきよめられる必要のあるものはないと言うならば、神はそれ以上、私たちを新しくすることはなさらないでしょう。御子の勝利は永遠ですが、私たち自身が、御子の勝利を実際に受け取るためには、日々、私たちが肉を拒んで、肉を死に渡して、御霊によって歩むことを選び取っていかねばなりません。そこに一種の戦いがあることは明白です。

 さらに、前述のような意見の二つ目の間違いは、今の時代が何であるかということを読み違えている点です。御子が十字架でサタンに対して勝利を取られたのは永遠の事実です。しかし、この時空間において、今はまだサタンが実際に滅ぼされて地上から一掃されていないことは明らかです。今は恵みの時代です。御言葉がはっきりと語っているように、この時空間の中では、サタンはいまだにこの世を占拠しており、この世の君として支配、君臨しているのです。あなたは今、地上を見渡して、地上には災いも悲惨も流血もなく、サタンはすでに滅ぼされて地上を支配する権限を失っているので、クリスチャンは安堵してよいと言うことができるでしょうか。クリスチャンの間で、サタンは全く働く余地を失っているでしょうか。神の子供たちの間にはいかなる争いも分裂も見受けられないでしょうか。地上はキリストの支配だけに満ちているでしょうか。

 いいえ。永遠においては、カルバリでサタンは滅ぼされています。その事実は決して変わることはありません。その永遠の事実は、必ずや、神の御旨に従って、この地上にも、実際の事実となっていつか成就するでしょう。しかし、私たちはまだその途上の時代にいます。サタンが事実としてこの時空間の中でも敗北し、火の池に投げ込まれるまでには、まだ時間があります。そうなるまでに、私たちは何をしなければならないと、聖書は教えているでしょうか。

 御言葉は、私たちに「目を覚ましている」ことの重要性を教えています。サタンはほえたける獅子のように食い尽くすべきものを求めて地上を歩き回っており、神からのものとみまごうようなしるしと不思議と奇跡を行って、あわよくば、選民をも惑わそうとしていると御言葉は教えています。今の時代にあって、サタンは依然としてこの世を支配しており、多くの人達を罪の虜にすることによって、自分の滅びの道連れにしています。暗闇の勢力は、人の肉や魂を拠点として、人に働きかけ、人に住み込み、悪を行わせ、人を食い物として活動しているのです。サタンは神に逆らう人達を道具として用いることによって堕落した考えをこの世に普及し、さらに、人々の好みに合わせた偽の教えを流布することによって、キリスト者の思いをさえ不信でくらまし、神の民でさえも惑わそうと、日夜、激しく活動しているのです。御言葉は、信徒がこのサタンに対して信仰によって武装し、油断なく立ち向かう必要を教えています。それは、もし油断するならば、選民でさえサタンに惑わされる可能性があるということをはっきりと物語っているのです。

 キリストが達成された永遠の事実に基づいて、この時空間の中でサタンの敗北が実際となるためには、聖徒たちがさらに祈り、教会がさらなる前進を遂げなければなりません。クリスチャンたちは「御国が来ますように」、「御心が天になるごとく、地にもなりますように」と、祈ります。また、「主よ、来たりませ」と祈ります。それは、今の時代、教会がまだ前進している最中であるからです。御心は(永遠においては不変ですが)まだ今の時代にあってはこの地上に成就しつつある途中です。キリストの支配は地上にはまだ完全に確立されてはいません。キリストはまだ再び地上に来られてはいません。ですから、私たちはそれを求めて祈りつつ、自分自身が世の光として、御国を実際にこの地に現し、流し出していく管となる必要があるのです。もしも、私たちが日々の生活において、罪と欲に溺れ、サタンを実際に敗北させていないどころか、自分が罪の虜となって、暗闇の支配の中に生きているならば、どうしてそこに教会の前進があると言えるでしょうか。もしも私たちクリスチャンが肉に従って歩み、御霊を妨げているならば、どうしてそこに御国が現れていると言えるでしょうか。

 私たちを通して、内なる聖霊が生ける川々となって流れ、御国が実際にこの地にもたらされる時、初めて、サタンは敗北して私たちから逃げ去るでしょう。そうしてサタンに占拠されていた場所が、明け渡されることによって、そこに御国の秩序が到来するのです。この働きは、霊的なものであり、決して、地理的な領土の話であるかのように誤解されてはなりません。教会の地上の領土が広がり、教会の数が増えることや、クリスチャンの人数が増えることが、御国の拡大を意味するのではありません。御国の拡大、前進は、霊的な領域の事柄であり、何よりもまず、私たちの内側でこそ、日ごとにより深く、成就しなければなりません。まず、私たち自身の古き人が日ごとに十字架上で死に、私たちが日ごとに、古い命に従って生きるのではなく、キリストの新しい命によって生かされる新しい人とならなければ、どうして私たちは神の国を他の人にもたらすことができるでしょうか。

 一粒の麦が死ななければ、豊かに実を結ぶことはありません。これが神の国の変わらない原則です。御霊の現われを妨げている私たちの天然の命が死に渡される時、初めて、御国に収穫がもたらされるようになるのです。古き命が死んで、復活の命が芽生えた場所にのみ、御国が現れることができるのです。これが御国が地に実際にもたらされることの内容であり、私たちが自分の天然の命を拒み、神の命によって新しくされるその度合いに応じて、私たちを通じて、御国が実際に地にもたらされるのです。クリスチャンは、このようにして、神の国である教会を前進させ、神の光を世の光として輝かせ、闇を駆逐する使命を負っています。私たちがそれを成し遂げるならば、すみやかに主はこの地に来られるでしょう。

 いずれにせよ、私たちはまだサタンが激烈な活動を行っている時代に生きていることを忘れるわけにいきません。それを前にしながら、「主イエスが十字架で勝利を取られたのだから、私たちにはすることはもう何も残っていないし、私たちがもはや二度とサタンの虜にされることはなくなったので、安心して良い。」と、安易に考えてまどろむのは愚かなことです。私たちは決して、サタンを恐れる必要はありません。御子がサタンをすでに打ち負かし、世に勝ったのですから、それをあらゆる状況に対して信仰によって適用することが私たちに権利として与えられているのです。しかし、私たちが勝利を得るためには、「目を覚まして」いなければなりません。サタンが信者をさえ惑わそうと罠をしかけることを知り、目を覚まして警戒し、その罠を見破り、罪の誘惑や圧迫がやって来る時には、カルバリを拠点として、サタンに決然と立ち向かう必要があるのです。

 私たちは、御子の十字架に堅く立ち、キリストの死を絶えず自分の死として受け取り、この世の古い命の性質や、罪けがれとは一切関係のない、キリストの命によって新しく生かされることによってしか、サタンに対抗できません。しかし、それは、私たちが何も考えず、目をつぶっていても、自動的に起こる勝利ではなく、私たちが日々、信仰と意志によって選び取らねばならない決断です。ある日、十字架を信じたので、その時から、私たちにはもはやキリストの死と復活に自分を同一化することは二度と必要なくなったと考えるのは愚かなことです。

 神は人を通してサタンの敗北がこの地で実際となるよう願っておられます。そのために、神は御子の御血によって私たちのために道を切り開かれたのです。私たちは御子が開かれた道を通って実際に進んで行かねばなりません。御子によって永遠に達成された事実を、日々、信仰によって、自分自身に、また、実際の状況に適用しなければなりません。もし私たちが絶えず、キリストの死を自分の死とみなし、キリストの復活を自分の復活とみなさないならば、私たちはキリストとの結合から切り離されます。キリストとの結合から切り離されれば、御子の勝利は私たちには無関係なものとなり、私たちがサタンに勝利できる根拠はもはや何一つなくなるのです。

 十字架の意義は、罪からの贖いだけには終わりません。私たちはこの地上を生きている限り、さらに深く十字架を理解し、実際に経験していく必要があります。そのことを通して、私たちは御霊に従って歩むとは何であるかを理解し、神から賞与を得られる生き方を地上で送る秘訣を学ぶでしょう。旧創造から解放されて、罪の痕跡を一切持たない、御子の似姿なる新しい創造へと限りなく近づいていくことができるでしょう。神が人を通して実現しようと願っておられる素晴らしい計画を実際に生きることができるでしょう。
 十字架は理論ではなく、私たちが実際に経験していく必要があります。それは一歩、一歩、信仰によってたゆみなく続けられる歩みとなるでしょう。十字架はクリスチャンの生涯に、いかなる瞬間も、もはや要らなくなったとは言えないものです。十字架だけが、私たちをキリストへ結合し、私たちに、サタンに支配される旧創造に対する勝利の力を与えます。私たちが日々、目を覚まし、意志を活用して、常にカルバリの立場に立ち続けるならば、サタンは私たちから逃げ去り、主イエスが取られた勝利は、この地に実際としてもたらされるでしょう。

十字架に戻れ!(2)

ここ数日、サタンの放つ火矢に私は連日のように悩まされていました。その戦いの中で私は徐々に後退していました。十字架について語りながらも、私自身が、その十字架にとどまることが困難となっていたのでした。
 サタンは、アダムから今に至るまで、常に人間を研究して来ました。彼らは人の弱点を把握するプロと言って良いでしょう。ですから、私のどこをどのように攻撃すれば効果的なのか、暗闇の勢力が知らないはずがありません。

 サタンとのその軍勢の目的は、神の子供たちを十字架から引き離すことです。十字架を離れては、私たちには悪魔に打ち勝つ力がないことを暗闇の勢力はよく知っています。神の子供たちが十字架のもとを離れるようにと、敵が仕掛けてくる攻撃や作戦は数え切れません。

 暗闇の勢力は、人の中にある、まだ十字架で対処されていない「古き人」を足がかりにして攻撃します。彼らは私の弱点に対して一斉に火矢を放ち、私が霊的な穏やかさを完全に失うように仕向けます。私の願いが踏みにじられ、私が自尊心を傷つけられ、過去の悲しい出来事を思い起こさせられ、極度の悲しみや、疑いや、憤りで心がいっぱいになるような出来事を引き起こし、私が圧迫されて、それらの感情に完全に落ち込んでしまうように仕向けるのです。

 一例を挙げるならば、しばらくの間、私にはどういうわけか、まるで、会う人、会う人のすべてが、私の過去の心の傷を再び思い出させ、それを生きたものとするためだけに特別に派遣されて来たかのように見えました。耳に入って来る会話という会話のすべてが、私に特別な惨めさや、むなしさや、孤独を味わわせました。私は外から負わせられる重荷にどのように対処すべきか、まだ学んでいませんでした。その感覚があまりにも強く押し迫ってきたので、私は耐え切れないほどに圧迫され、魂は混乱の渦に投げ出され、ただ耐え切れない思いで、そこから逃げ出し、主の御許で涙を流すという他になすすべがありませんでした。

 その惨めな印象が覚めやらぬうちに、さらに、私が傷ついていることをよく知っている暗闇の勢力は、今度は私に自分を憐れむようにとささやきかけて来ました。「あなたには、未だに対処されていない心の傷があるんだよ。そんなにも心の傷の多いあなたが、すぐに十字架を負って、神の召しに応じるなんて、とても無理。あんまり高度な話題にふけらずに、今は自分の弱さを十分に考慮して、自分をもっともっと大切にした方が良いですよ。今は傷ついた感情をいたわり、神と人に十分に憐れんでもらうことだけを考えなさい。」

 連日のように、こうして、私の「心の痛み」が強調させられる事件が重なり、私はへとへとになりました。一体、このような場合、どうやって自分を憐れまないでいられるでしょうか。十字架は、こういう事柄に対処するには、あまりにも漠然としており、一般的すぎて、特に、私のような特殊な事例には当てはまらないように思えてきました。十字架の他に、もっと人の心の傷を早急に思いやりをもって癒すために、個別の、温かい方法がないものでしょうか。だんだん私はそのように思い始めていました。

 しかし、そんな考え方こそが欺きなのです!
 神は私が過去に立ち戻って、再び自分の心の傷を温め返し、自分を憐れみ、いたわるようにとは、全く命じておられません。神が命じておられるのは、私がそうした生まれながらの命に基づく思いや感情に従って歩むことではありません。むしろ、神が私に願っておられるのは、それらすべてがすでにキリストと共に死んだのだという事実を私が信仰によって受け取り、それらの圧迫が押し寄せてくる時に勝利すること、たとえ私自身は弱く未熟であっても、主によって「強くなる」秘訣を学ぶことでした。

「神がわたしたちの中で働かれるのを妨げるものの一つに、邪悪な生まれながらの命の活動があります。それは絶えずわたしたちをその霊(聖霊―筆者注)から引き離し、その霊の中を歩けなくさせます。わたしたちの霊は、絶えずこの邪悪な影響を受けています。そして、わたしたちは自分の霊を支配できず、神の静けさの中を歩くことができません。

この十字架につけられていない邪悪な性質はまた、サタンとその邪悪な霊が利用して、燃え立たせることができる道具でもあります。それゆえ、それはわたしたちとやみの力との戦いの多くの原因となるものであり、彼らが絶えず攻撃するための『土台』となるものです。<…>彼らはそこに『土台』がある限り、繰り返し戻ってきて戦いをいどむのです。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、「クリスチャン生活と戦い」、付録1、チャールズ・アシャー、「十字架に戻れ!」、p.244-245)

 何と恐ろしいことでしょうか! 私たちの中にある十字架にまだつけられていない古き人の性質、アダムに属する生まれながらの肉なる性質(旧創造)は全て、知らず知らずのうちに、サタンに用いられ、サタンが私たちを攻撃するための土台となっているのです! たとえば、もしも私が過去に受けた心の傷、そこから来る痛み、悲しみや孤独といったものに固執し、それらが十字架を通して死んだことを認めようとせず、未だ生きた傷とみなすならば、それは絶えずサタンと邪悪な霊たちが戻って来ては、攻撃をしかける足場となるのです。神の子供たちの多くは、神を信じた後も、なおもこうしてサタンの道具とされています!

 この他に、私たちの怒りっぽさ、疑り深さ、自己憐憫、妬み、恨み…数え切れない性質がサタンの道具となります。たとえば、私たちは人から自尊心を傷つけられる時に、何と容易に自制心を失って、怒り出すでしょうか。そういう時に、どれほど口にすべきでない言葉を容易に発するでしょうか。また、一旦怒り出すと、どれほど長く、怒りから抜け出せないでいるでしょうか。それがサタンに機会を与えることであると知っていながら、私たちはそれでも怒りを捨てようとせず、死の毒に満ちた言葉を吐き続けるのです。また、私たちは自分が傷つけられたと思うと、死をきたらせるような悲しみにさえ簡単に溺れてしまいます。

 他にも、私たちの名誉欲、自己愛、競争心、妬み、高慢などがどれほど私たちの生活を害して、絶えず、キリストとの結合を失わせているか知れません。さらに言うならば、否定的な性質だけでなく、一見、肯定的に見える性質でさえ、それが生まれながらの命に属する性質であるならば、私たちを神の御心から引き離してしまう障害となり得るのです。

 サタンと邪悪な霊たちは、私たちの弱さと欠点を知りつくしています。ですから、彼らは私たちが肉に従って歩むよう、絶えず、私たちの十字架につけられていない肉なる性質に攻撃を仕かけ、その性質を燃え上がらせようとするのです。たとえば、もしもあなたが自己憐憫を十字架に渡さないならば、闇の勢力はそこを拠点として、あなたが四六時中、自己憐憫に溺れるよう攻撃してくることは避けられないでしょう。

 私たちはそれぞれ、自分の中で対処されなければならない肉なる性質が何であるかを、ある程度、知っています。どうすればそれに打ち勝ち、肉によってではなく、神から与えられた新しい命によって歩むことができるのでしょうか。そうするためには、まず、あなたは自分はキリストと共に十字架につけられ、そこであなたの古い命は彼と共に死んだ、という事実に堅く立たねばなりません。

「カルバリは、キリストがあの木の上であなたの罪を担われただけでなく、罪人たちを木へと連れて行ったこと、すなわちあなたをそこへと連れて行ったことをも意味します。あなたが、神は古い命につぎ当てをするのではなく、あなたがそれを十字架につけられたと見なして、彼から新しい命を受け取るよう要求されることを認識するようになる時、あなたは新しい命の中には、それに属するすべての特質があることを見いだすでしょう。古いアダムの命にはそれ自身の特質があり、新しいアダムの命にもそれ自身の特質があります。<…>

 さらに、人の代表としてキリストは、あのカルバリの十字架へと罪人を連れて行かれただけでなく、その十字架の上で、またその十字架の死を通して、サタンを徹底的に征服されました(コロサイ二・十五)。こういうわけで、クリスチャンの側では、サタンを恐れる必要は全くありません。サタンは、カルバリの勝利を知っている魂にとっては、完全に征服された敵です。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.283-284。以下は全てペン-ルイスからの引用。) 


 サタンが私たちを肉なる性質に従って歩ませようとする時、私たちはカルバリに立って、自分の古き人そのものがすでにキリストと共に死んだという事実を、信仰によって自分に適用し、再び肉によって歩ませられることを断固拒否する権利があります。それでも、ある人々は言うでしょう、「私のかれこれの性癖はもう何十年間と続いているのですよ、これを直すためにはきっと特別長い訓練が必要になるはずです」、「私の心の傷は特別に深いのです。どんな方法によっても、それを癒せるとは思えません」。

 しかし、私たちが自分なりの方法で古き命の性質を対処しようとしている限り、それは何の解決にも至りません。私たちの肉に改良の余地が全くないからこそ、神は人の肉を一切、キリストと共に十字架につけられたのです。
 私たちは罪と完全に訣別する決意を持つべきです。もしも私たちが何らかの悪癖(または性質)を手放そうとせず、それを大目に見続け、それを甘やかそうとするならば、神はその罪(性質)を対処することができません。私たちは、自分を絶えず支配しようとしている邪悪な生まれながらの命の性質が何であるかを知った上で、主によってそれと全面的に訣別するという願いをはっきり持つ必要があります。そして、その古い命の性質はキリストと共に十字架ですでに死んだのだという事実に信仰によって立ち、その性質に、これ以上、支配されない権利を私たちは持っていることを覚え、古い命の性質が活動しようとする時、その権利をいつでも行使する必要があります。

「…キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ六・十―十一)

キリストの死を通して救われた罪人は、罪との関係を絶つ権利を持っています。彼は、勝利を得るイエスの御名において、『罪にはわたしを征服する権利はありません』と言うことができます。
また例えば、あなたはローマ人への手紙第六章六節の立場に立って言うこともできます、『疑いを抱かせる習癖は、わたしに対して何の権利もありません。わたしはそれによって縛られることを、わたしのために死んでくださったかたの御名において、絶対的に拒みます』。

あなたは贖われた魂として、こう言う権利を持っています。なぜなら、十字架上でみわざがすでにあなたのために成されたからです。あなたは、キリストがあなたのために獲得されたすべてを捕らえ、それを自分のものとすべきです(ローマ六・十三)。このような罪に対する勝利はあなたの栄光ではありません。なぜならそれは<…>十字架上で成就されたキリストのみわざを通して獲得されたものだからです。<…>

 カルバリの勝利の事実と、サタンは征服された敵であるという真理をつかみましょう。キリストは敵をカルバリで征服されました。あなたがローマ人への手紙第六章に立ち、古い命は十字架につけられたと見なす時、あなたの霊はキリストへと結合されます。

『主に結合され、一つ霊となる!』。あなたは一人で出て行って、強くて恐ろしい霊の敵と戦うのではありません。『主と結合された』あなたの霊は、彼と『一つ霊』です。キリストは征服者です。そしてあなたは、一つ霊の中でこの征服者と結合されています。

 神は、あなた自身によってあなたに勝利を賜るのではありません。彼は、あなたが霊の中で勝利者に結合されることによって、あなたに勝利を賜るのです『あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである』(Ⅰヨハネ四・四)。<…>わたしたちは征服者に結合され、勝利者に結合され、一つ霊の中で結合されているのに、敵の前ですくみ、震えるのでしょうか?」(p.285-286)

 あなたの古い命の性質がキリストと共に十字架につけられたという確信に立つ時、初めて、あなたの霊はキリストに結合されて、キリストという征服者を通して、あなたは古い罪なる性質に勝利する力を得るのです。圧迫がやって来る時、あなたは自分の怒りや、悲しみや、憐れみなどによってそれに対抗しそうになるかも知れませんが、生まれながらの古い命から出て来る思いや力をもって戦うべきではありません。キリストとの結合の中にとどまるべきです。キリストとの結合のない戦いはあなたを勝利に導かず、かえって、あなたを肉によって歩ませ、サタンに支配させることにつながるのです。

「…あなたがカルバリへとやってきて、古いアダムの命がキリストと共に十字架につけられたという事実に堅く立つ時にはじめて、その『結合』がわかるでしょう。なぜなら、『古い命』は邪魔をして、何らかの『戦い』をしてしまいますが、それは敵に対して何の役にも立たず、むしろあなたを支配する立場と力を敵に与えてしまいます。

こういうわけで、古いアダムの命は十字架につけられたと見なされなければなりません。なぜならそれはサタンにとって道具であるからです。もし古い命が絶えず死の立場にとどめられるのでなければ、それはサタンが『火の矢』を放つ道具となります。サタンは、旧創造すべてを支配する全き権利を持っています。彼は、あなたの中にある古い命のまだ『十字架につけられていない』部分を知っています。そして、すべての火の矢をその部分に向けてきます。これらの矢には、その先端に地獄の火(ヤコブ三・六)がついています。そして、それがあなたの中に入ると、燃え上がり、炎を上げて燃え、あなたを『炎』にしてしまいます。
 あなたはクリスチャンの中に『炎』を見る時、それがどこから来るのかわかります。それは、古い命からやってくるのです。」(p.286-287)

 私たちの旧創造、私たちのアダムに属する部分、私たちの内で十字架につけられていない古い命の性質は、サタンに打ち勝つ材料とならないどころか、むしろ、サタンに利用される絶好の足がかりとなってしまうのです。サタンはあらゆる機会をとらえて、私たちの古い命の性質を燃え上がらせようと、地獄の火のついた矢を放ち、もし私たちが十字架の立場に立ってそれらの古い命の性質が死んだものであることを認めないならば、私たちの全身がその炎に飲まれてしまう結果になるのです。(自尊心をひどく傷つけられた人が、しばしば、制御できない怒りや悲しみ、恨みや嫉妬などにとらわれて「燃え上がって」しまうことを思えば、このことはよく理解できるでしょう。そして彼らは間もなく自分を不義の道具として捧げてしまうことになるのです。)

「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」(ヤコブ三・六)

 このような炎で全身を燃え上がらせてはなりません。私たちが自分の身体を不義の道具とするようなことがあってはいけません。しかし、それを避ける方法は、ただ十字架にのみあります。

「神の子よ、あなたは『かっとなって』、言うべきでないことを言うことがあるでしょうか? あなたは不親切な事柄にすぐかっとなって、サタンによって『火で焼かれる』のでしょうか? これは、勝利を得ることができる『戦い』ではなく、常に敗北する戦いです。あなたは、ローマ人への手紙第六章の重要性を見ているでしょうか? もしあなたがローマ人への手紙第六章に立たないで、サタンを攻撃しようと企てるなら、何と彼はあざけり笑うことでしょう!

 彼は、『なぜわたしに属する『持ち物』がそこにあるのか。彼らはわたしの『物』をたくさん持っている』と言うでしょう。あなたは『強い人』を縛り上げることはできません。なぜなら、彼の家財は、あなたの中にあり、またあなたに関するものだからです。こういうわけで、あなたはカルバリの立場を取り、絶えず古い命が十字架につけられていると見なさなければなりません。それは、地獄からの火があなたに降りかかり、『生存の車輪』を燃やすことがないためです。それにはすでに、サタンがエデンで人に対して勝利を得たことを通して、蛇の毒があります。

 この黄泉のししとの戦いのためには、小羊の霊、しし―小羊、イエスの霊がなければなりません。火の矢がやってくる時、あなたの中に小羊―霊のおられることが見いだされるのでなければなりません。しかしながら、多くの人々はあなたを踏みつけ、虐待し、苦痛を加えるかもしれません。あなたの中には、『義の憤り』と呼ばれる炎があってもいけません! カルバリの解放が、そしてカルバリの小羊―霊が、必要となります。」(p.287-288)


 アダムの堕落以来、この世だけでなく、人の旧創造に属する部分も全て悪魔の家財となってしまいました。私たちは救いを得る前には、ただ罪にそそのかされて暗闇に生きるだけであり、存在そのものが悪魔の持ち物であったと言えるでしょう。しかし、救いを得た後でさえ、私たちの古き命の中で十字架につけられていない性質は、まだサタンの「家財道具」となって、敵に利用され続けています。

 「…まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を略奪することができる。」(マタイ十二・二九)

 サタンの支配下から、捕われている家財を取り戻すためには、誰かが「強い人」(サタン)を縛り上げねばなりません。そうしてサタンを征服されたのは、カルバリにおける御子イエスだけです。ですから、サタンを征服したカルバリの立場に立つことによってしか、私たちにはサタンの道具とされている古き命の性質に打ち勝つことはできないのです。
 たとえ人からどのように侮辱され、自尊心を傷つけられたとしても、生まれながらの命から出て来る義憤などによってそれに対抗してはなりません。肉の力によって戦おうとすれば私たちは炎に焼かれなければならず、ただ敗北が待っているきりなのです。サタンに立ち向かうためには、獅子のように強い小羊の力によって、霊的に武装する必要があるのです。
<つづく>

十字架に戻れ!(1)

今日、神の子どもたちに対して、サタンは何と巧妙に彼らが直面している霊的な戦いの実際と、その唯一の解決方法である十字架を隠そうとしていることでしょう。今日のクリスチャンたちの弱々しい様を見ればそれは明らかです。今や、クリスチャン同士が各地で互いに争い、傷つけ合い、教会は目を覆いたくなるほどの邪悪な事件に見舞われています。

 幼いクリスチャンたちは、十字架についてのより深い認識が欠けているため、神を信じた後になっても、自分の内に残る古き人(旧創造、肉と魂)を十字架で死に渡す経験がありません。そこで、彼らの全く対処されないままの古き人は、サタンにとってどれほど絶好の作業場となっているでしょう!
 たとえば、私たちの魂の持つ怒りっぽさや、性急さ、頑固さや、妬みや、自己憐憫、自惚れ、功名心などを考えてみるだけでよいのです。私たちの内側に残る数え切れないほどの利己的な性質が、外側からの邪悪な勢力の働きかけによってあまりにも簡単に敵に利用されています。その時、ほとんどのクリスチャンは、自らがサタンによって利用されていることを知るよしもなく、心の赴くままに従って、互いに裁き合い、互いに挑み合い、噛み合って、虚栄に生きているのです。

 サタンはこうしてクリスチャンたちの内側にある、十字架で対処されていない古き人の領域を足がかりにして働くことにより、クリスチャンを罪に陥れようと絶え間なく試みているだけでなく、外側からも、邪悪なこの世的な空気を用いてクリスチャンを汚染しようとしています。堕落した映像や言葉、価値観が、私たちの目にひっきりなしに飛び込んで来ます。また、日常生活にも、あらゆる困難を降り注ぐことによって、サタンはクリスチャンを消耗させます。私たちが暗闇の勢力に対する戦いに積極的に踏み出すならば、困難や誤解がひっきりなしにやって来ることを経験するでしょう。

 これら光の子らをひっきりなしに襲っている困難が、どこから来たのかを明確に見分け、また、どのようにしてその試練に立ち向かうのかを知らなければ、私たちはそこで訳が分からずに、ただ消耗し、絶望し、意気消沈する他なく、敗北を避けられません。
 チャールズ・アシャーは「十字架に戻れ!」のメッセージの中でこう言います。

「イエス・キリストは十字架へと行かれた時、わたしたちの罪のために償いをされただけでなく、わたしたちの霊的な敵であるサタンを打ち破られました。これは、カルバリにおけるキリストの働きの最も重要な部分です。

なぜなら、人は内側で罪に縛られているだけでなく、外側でサタンにも縛られているからです。イエス・キリストの働きのこの面を見失うことは、悪との戦いにおける立場を非常に弱めます。カルバリの勝利においてのみ、神の子供は、今日広がりつつあるサタンの力の現在の活動に立ち向かうことができます。

 サタンは、教会が天に向かって前進する道を彼の力によって遮り、こうしてキリストが地上で王として支配するために戻ってくるのを遅らせています。これらの力は霊的で、邪悪なものであり、霊的武具によってのみ対抗することができます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻『クリスチャン生活と戦い』、付録一、p.249-250)

 クリスチャンをいかにしてサタンが弱体化させ、キリストの再臨をいかにしてサタンが遅らせているか、その真の原因を、今日の聖徒たちは、ほとんど理解していません。クリスチャンは、むしろ、本質的な原因とは何の関係のない地上的な事柄に熱中することによって、再臨を早められるかのように誤解しています。たとえば、ある人たちは、地上にまだ教会の数が少なすぎることが、再臨を押しとどめているのだと思い、もっと多くの教会を建てようと運動に励んでいます。ある人々は、クリスチャンの小規模な集まりが必要であると思い、家庭的な規模での集会を増やそうと励んでいます。ある人々は、信徒を弟子として訓練することによって成熟させることが必要であると思い、弟子訓練プログラムを導入することに熱中しています。ある人々は、聖書の勉強会を開き、ある人々は、カウンセリングによってクリスチャンの心の傷を癒すことに熱中し、ある人々はカルトを取り締まり、キリスト教界を浄化することに必死です。

 しかし、これらの人為的な方法は、いずれも、私たちの地上の持ち物や、魂の知識を増し加えることはあったとしても、クリスチャンが敗北している真の本質的な原因には触れていませんし、それに対する何の処方箋ともなっていません。教会が天に向かって前進し、地上にキリストの支配をもたらすために、このような人為的な方法は何の役にも立ちません。なぜならば、再臨を遅らせている本質的な原因は、クリスチャンとサタンとの霊的な戦いにおいて、クリスチャンが勝利が得られていないことにあるからです。

 さらに、もっと悪いことに、暗闇の勢力との霊の戦いを主張している人々でさえ、その多くは欺かれて、無意味な戦いに時間をむなしく費やしています。ある人々は、ただいたずらに他宗教に敵対して、宗教の霊に対して戦いを挑んだり、悪霊追い出しの祈りに熱中していますが、これらの方法は正しくありません。

 クリスチャンはまず、私たちに敵対している勢力とは、あれやこれやの特定の霊力に限られたものではなく、その背後にいて彼らを操っているこの世の君(サタン)であることをまずはっきりと認識しなければなりません。そしてサタンと戦う方法はただ一つしかないこと、十字架を離れて私たちは敵に勝利できないことを認識すべきです。

「しかし、ある人は問うことでしょう、『どのようにして悪魔は、キリストが戻ってこられるのを遅らせることができるのでしょうか?』。
 それは、教会を敗北させておくことによってです。<…>

 神の民の多くは地的な事柄に注意を奪われているため、霊的な領域の事柄は彼らにとって全く聞きなれないことです。
 もう少し霊的な思いを持っている他の人も、絶えず打ち破られています。なぜなら、邪悪な力との戦いに立ち向かうための装備が貧しいからです。悪魔は、彼らの働きを絶えず侵害し、その労苦において彼らを悩ませることができます。そして彼らは、その攻撃がやってくる源がわからず、屈服し、こうして打ち破られてしまいます。
敵は彼らの働きを妨げるだけでなく、彼らの個人的な生活もまた敵の憎悪の対象となります。家庭問題、不和、誤解が次から次へと起こり、ついには彼らが絶えず消耗させられる状況が生み出されるに至ります。<…>
 わたしたちがそれらに抵抗しない理由は、その攻撃の真の原因を認識していないからです。わたしたちは、わたしたちの問題のひそかな、巧妙な源であり、わたしたちの考えの及びもつかない者であるサタンをそのままにしておきました。

しかし、わたしたちの目が開かれて敵を見いだす時、わたしたちはやみの力との個人的な霊的戦いへと召されたことに気がつきます。わたしたちはまた、教会に反対し、この世を支配している邪悪な力について、より広い幻と神聖な理解を得ます。そして、それらが超自然的で、サタン的なものであり、よみがえられた主との結合の中にある神の子供が抵抗しなければならないものであることを認識します。」(p.250-251)

 そうです、教会と個々のクリスチャンをあらゆる面で消耗させ、敗北させている真の原因はサタンであることをまず知らなければなりません。私たちはよみがえりの主を信じた瞬間から、望もうと、望むまいと、そのような戦いの中にすでに一歩を踏み出しているのです。では、その戦いに打ち勝つためにはどうすれば良いのでしょうか。「サタンよ、出て行け!」と大声で叫べばよいのでしょうか。悪霊追い出しの祈りに何時間も、熱中すれば良いのでしょうか。家の隅々の暗い一角に向かって悪霊払いをすればよいのでしょうか。そのような考えは完全に誤っています。

「しかし、どのようにして神の子供は、悪魔とその軍勢を征服することができるのでしょうか?
 ただイエス・キリストとの生き生きした結合を持つことを通してであり、サタンが完全に屈服される場所であるカルバリを霊的に認識することを通してです。

何と敵は注意深くこれを隠そうとしてきたことでしょう! また彼は何と巧妙に、自分が辱められ、敗北した場所から信者を引き離そうと企てていることでしょう!
」(p.251-252)

 そうなのです、今日、キリストの十字架こそがサタンの敗北の場所であるという明らかな事実が、クリスチャンの目から巧妙に隠されています。多くのクリスチャンが霊的な戦いを完全に誤った角度からとらえ、十字架の外にある誤った方法でサタンと対決しようとしては、敗北しています。それは敵による欺きなのです。クリスチャンが悪魔とその軍勢に打ち勝つことができるのは、ただ御子の十字架、すなわちカルバリだけなのです。

「ヨハネによる福音書第十二章三一節と三二節では、キリストが上げられることがサタンを追い出すことであることを、はっきりと教えています。
『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。

どこに上げられるのでしょうか? 御座にでしょうか? 違います! 十字架にです。三三節は明白に告げています。『イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたのかを、お示しになったのである』。<…>
 キリストの死は、サタンとその軍勢を完全に屈服させます。しかし、その勝利がわたしたちの中にもたらされるためには、わたしたちは十字架に戻り、やみの力に対抗してそれを行使することを学ばなければなりません。そのやみの力は、この世でサタンを王座に着けるために熱心に労しているのです。」(p.252)

 クリスチャンは、十字架におけるキリストの死に常に立ち戻り、御子の十字架の死と復活の命へと自分自身を常に結合することによってしか、闇の力に打ち勝つことはできません。御子イエスは、地から上げられ、彼の十字架へと私たちを引き寄せて下さっているのです。私たちは彼の十字架の中に住まなければならないのです!
 もしも私たちが、自分はすでによみがえりの命をいただいたので、もはや十字架のキリストの死は必要ないと考え始めるならば、それは私たちに敵に勝利する力を失わせます。

「『わたしたちは十字架を離れて、よみがえられたキリストとの結合へと進むのでしょうか?』とは、神の民の多くが尋ねる質問です。そして、キリストの死を継続して生活に適用する必要があることを告げられると、彼らは言います、『しかし、わたしはよみがえられたキリストの中にいます。そして、わたしが必要とするのは生けるキリストであり、死んだキリストではありません』。

このような誤解の多くは、この祝福に満ちた真理を霊の中ではなく、文字の中で取り扱うことによります。『文字は人を殺し、霊は人を生かす』(Ⅱコリント三・六)

 キリストの霊はカルバリの霊です。十字架上のキリストの死は、キリストの命の最高の表現でした。あなたが彼の命にあずかる時、キリストの十字架の霊は、あなたの命の原則となります。
 パウロはよみがえられた主とのさらに深い結合を求めた時も、十字架を越えて進むことはしませんでした。生けるキリストとの結合が深まれば深まるほど、さらに深くキリストの死の中へと沈み込まなければならないことを、彼は見ました(ピリピ三・十)

 キリストと共によみがえらされ、生ける信仰によって彼の中に住むことは、あなたがキリストの死にあずかることを意味します。
 勝利を得るクリスチャン生活の条件は、キリストとの結合です。
 罪に打ち勝つ唯一の方法は、イエス・キリストと結合した生活によります。
」(p.240-241)


 わたしたちは、信仰によって、主の死と復活とに自分自身を結び合わせなければなりません。キリストの死だけでなく、復活だけでもなく、絶えずキリストの死と復活に結合されなければならないのです。これは私たちが一時的な過程として通り過ぎることのできるものではなく、日々、継続的に行われなければならない永遠の霊的な結合です。「主につく者は、主と一つの霊になるのである」(Ⅰコリント六・十七)。私たちは日々、この永遠の結合へと絶えず戻って行く(その結合の中にとどまる)必要があるのです。

サタンの願望は、信者を十字架から引き離すことです。そして彼は、よみがえらされた主と結合した生活を求めるよう人を駆り立てて、しばしば最も大きな成功を収めます。悪魔は、十字架を外にしては、また十字架から離れては、真の結合がないことを知っています。それで彼は、その代わりとして偽物の経験を与えるのです。

 パウロはローマ人への手紙第六章で、生ける信仰によってよみがえらされたキリストに結合され、彼の中に住むことは、わたしたちが彼の死にあずからなければならないことを意味すると、はっきりと教えています。『キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである』(ローマ六・三)
 彼はまたわたしたちに、キリストとのより深い結合は、わたしたちがより一層深い十字架の認識を持つ時にのみ可能であることも教えています。
ピリピ人への手紙三章十節を見てください。『すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり』

これが、わたしたちの知る必要のあることです。それは神学や感情においてではなく、実際の経験においてです。そしてその結果は、力に満ちた生活であり、罪、サタン、病、死、この世に対する勝利の生活です。これは、わたしたちが十字架に戻る時にのみ可能です。」(p.243)

 私たちは十字架のより深い認識を持ち、それを実際に経験する必要があります。神学的に十字架を知ることや、思いや感情、知識の中で十字架を知るだけでは、役に立ちません。私たちは十字架の経験を実際に持つことによって、個人的に、十字架をより深く知らなければならないのです。私たちの古き人が十字架によって実際に死に渡されるという経験を持つ必要があります。十字架のより深い認識について、次回に見ていきましょう。
<つづく>