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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

さて、前回の記事から随分間が空いてしまったが、それはこの間に筆者にたくさんの天のお仕事が舞い込んで来たためだ。

権力を目指す人々は、東京へ向かったようだ。筆者の上司も、以前の方がはるかに人間味の感じられる新たなトンデモ写真と共に、新しいオフィス、さらなる権力、名声を目指して・・・。

筆者は、まさか彼らが本気で権力や名声を目指したりはすまいと思っていたが、それは間違いであった。すっかり、その人は変質し、人間性を失ってしまっていたのだ。

東京への集中、それは「昭和的価値観」の集大成だ。巨大なバブルの夢の残滓。眠らない夜の町。筆者は、彼らが誇る立派な建物、権力、名声、地上のすべてのものが、砂上の楼閣でしかないことを知っている。犠牲を払って困難に立ち向かう術を持たない人々に、業務拡大の夢はない。また、その安らぎを奪われた眠れない世界が、あなた方の心底からの願いではないことも、十分に分かっている・・・。

東京は町そのものが不夜城である。それは心の安らぎを奪われた悪者どもにふさわしい町だ。東京はこれから感染者も減らず、大きな困難に見舞われるだろう。もちろん、オリンピックは開かれないし、地価は下がる。

最悪の場合は、巨大地震が来る。政府の信用は失墜し、公共事業は厳しい監視の目に晒され、徹底的に分割される。これからの日本に、特に東京に繁栄や復興はない。

これまで筆者が見て来た立派なオフィスを構えた会社の中で、労働者への搾取によらずに富を築いたところはなかった。筆者に、誤った生き方をしていると指摘された際、筆者に拒絶され、馬鹿にされたのだと思い込み、筆者を見返すために、権力を目指して歩いて行った人が、成功した試しもない。

前にも書いたが、筆者が日露ビジネスを夢見ていた頃、安倍政権が筆者の夢を奪い去って行った。キリル文字も読めない首相が、これでもかとプーチン氏との友好をアピールした。

ところが、首相が領土返還の夢を煽り立てた直後、すぐに対露制裁が発動し、その後、政権が打ち立てた成果は何もなかった。

だから、どんなにうがったものの見方だと言われたとしても、筆者は筆者を置いて行った人々にこう言う。筆者こそ、あなたたちの夢だったのであり、筆者抜きで進められることなど何一つないのだと。

いや、筆者があなたたちの夢であり、あなたたちが筆者の夢だったときが、あなた方の最盛期であり、私たちが分離したときに、あなたたちも終わったのだと。

そうはっきり言えるのは、過去を振り返っても、筆者と関わったときが、すべての人々の最盛期だったからだ。筆者が宝を探し求めるようにして、はるばる尋ね歩いて彼らを見つけ、息を飲むようにして、彼らの前に立ちすくみ、仲間になれたことを心から喜んだとき――そのときが、彼らの人生の最盛期であり、その時、我々が出会った場所が、彼らの最高到達点だったのだ。

それはボロビルの一角だったり、まだ移転したばかりのオフィスだったり、プレハブのような小屋だったこともある。だが、そこがどんな場所であれ、我々が出会った場所が、最高の場所だったのであり、その後、彼らが筆者を置いて、どんなに立派な建物を建設したとしても、それは長くは続かない、崩壊を運命づけられたエルサレム神殿でしかない・・・。

出会った時に、我々が抱いていた共通の夢が、我々の間にあった最高の可能性なのであり、もしも筆者を欺き、その信念を踏みにじるなら、それ以後、彼らに未来はない。

だが、自分の心の弱さを正直に告白できない人々は、内側の弱さを暴露されること怖さに、外側を強化する。ボディビルと、整形と、立派な建物はみな同じもので、それらは心の弱さを隠すための城壁なのだ。

結局、それは虚構の世界であり、人類の強がりであり、人が自己の罪を覆い隠そうとするイチジクの葉、バベルの塔でしかない・・・。

筆者は、その人が財布を忘れて外に出たときを思い出す。それが、一番、ほほえましく、安心できる瞬間であった。気取った人間は、絶対に女の前で財布を忘れたりはしない。だが、筆者は、そういう気取り屋は大嫌いで、真の前で札束など見せつける人間はご免こうむる。

むしろ、財布などなしに、手ぶらで、自由に、無償で、この地球上の富を満喫しているときが、一番対等で、安心できる瞬間なのだ。

だから、誰であれ、心の装甲など持たないのが一番良い。何も持たず、気負わず、飾らず、何一つ相手に要求もせず、ありのままの自分で関われる人々が一番良い。

そういうわけで、筆者は、もしかしたら、トップがかつて持っていた無欲さ、砕かれた心の優しさ、意表を突くような自由を、奪い取って行ったのかも知れない。

筆者は立派なオフィスに背を向けて、大都会にも背を向けて、むしろ、プレハブ小屋のような名もない集会場へ向かう。そこには古めかしい上着を着て、ぽつんと一人で常駐している無名の人間がいるきりで、SNSはなく、立派な机もなく、もちろん、豪華な食卓もない。

ソーシャルディスタンスを取るために、離れた席に座って、愛想もなく話し込むが、人のにぎわいがないために、十分に話す時間がある。

また、筆者の電話を受けて助言をしてくれたある人が、大規模組織を目指さないように言った。2人だと堅苦しいかも知れないから、2,3人くらいが良いと。

戦いはせねばならない。だが、筆者は決して彼らのように、バベルの塔の頂上を目指さない。むしろ、今は拡散、ディアスポラのときだ。ますます手ぶらで、奪われるものを持たない生き方へ、ますます権力も、富も、名声も持たず、すべてを天に預ける生き方へ。

筆者が求めているのは、枝にとまるために羽ばたいて富んでくる雀のように、筆者を脅かさずにそっとそばに来て、筆者と同じように枝に止まってくれる小鳥なのだ。

あなた方は、筆者が変質したのだと考えているのだろうが、実際には、変質したのは、あなた方であって、筆者ではない。何者をも脅かさず、優しく、思いやり深い小鳥だったはずのあなた方が、いつの間にか、小鳥を食らうハゲタカに変わっていた。

いや、多分、筆者が気づかなかっただけで、最初からそうだったのだろう、あなた方の本質が現れただけなのだ。

しかし、筆者は小鳥なので、自己を偽るものには合わせられない。

前にも書いた通り、男性の本質は、人を抑圧することにはなく、自由にすることにあると、筆者は考えている。自己の圧倒的な強さを誇示して、他者を抑圧することは、男の本質ではないと。

むしろ、圧倒的な強さを持ちながら、圧倒的に弱い者を、少しも脅かさず、守り、共にいることができる才覚こそ、男の力である。

だが、そのような謙虚な強さは、十字架の死を通られたキリストにしかないだろう。人が生来持っている力は荒々しいもので、常に他人を凌駕しようと待ち構えている。自己の力によって、他人を脅かさない生き方は、死と復活を経なければできないのだ。

今後、彼らはますます砕かれた心の弱さを捨てて、自分の弱さを否定するために、外側の強さ、心の城壁、男の威信である「昭和的価値観」を追い求め、立派な塔建設という幻想へ向かうだろう。だが、それは崩壊して行く幻でしかない、いや、もうすでに崩壊している。

それはとうに廃れた価値でしかないから、二度と呼び起こせない夢であり、そんなものを目指している人間は、いずれ親しい人たちから離縁を言い渡されるだけだろう。

なぜ地域社会の素朴な生活、古くからある絆を捨て、洗練された都会人のふりなどしようとするのか。ハゲタカになり切れるほど、悪人になれるわけでもないのに。

自分一人しかいないのに、絶えず移動していては、すべての関係が希薄になるだけ。だから、心にもない無謀な試みは、やめておいた方が良い、悪者の道には平安がないから・・・。

ところで、筆者は不夜城は大嫌いだ。眠らない夜の街は好きでない。青髭の住居に近寄れば、傷つけられるだけ。睡眠時間は大切だ。これを削られるのは耐え難い。

* * *

その団体には、極端な傲慢さと、極端な謙虚さ、そして、極端な憎しみと、極端な愛らしさが混在していた。そして、ついに極端な傲慢さが、全てに勝って、何もかもを飲み込んだ。

悪が善を駆逐し、凶暴な虫が、さなぎとなった宿主を食い破って、外に姿を現した。弱い者を助けてやるふりをしながら、欺き、搾取し、己が権勢を勝ち誇って天まで届こうとする狡知が姿を現したのだ。

筆者は、弁護士の悲願は、憲法を変えることにあると思っている。だから、筆者は法曹界の人々を安易に信用はしない。弁護士は二枚舌の職業で、地獄の沙汰も金次第、どっちにでもつく。法律の解釈を自分に都合よく捻じ曲げ、悪人をかばい、弱い人を殺す。

誠実で信念のある弁護士は稀有な存在だ。だが、そういう人たちがいないわけではない。自らが法を順守するのか、それとも法を自分に都合よく変えるのか、そこが問題なのだ・・・。

これは価値観の決定的な違いなのだ。筆者は「父の背中」を追わないし、これを求めないし、模倣もしない。なぜなら、この世のすべては栄枯盛衰であることが分かっており、筆者は朽ちることのない天に豊かな資産を築きたいからだ。

その人は親を尊敬していると言った。カルトから暴力によって無理やり脱会させられた人も、同じように、親を尊敬していると言った。

だが、筆者は知っている、その尊敬は本物ではないと。キリスト教においては、親離れをすることは決定的に重要である。「無言の父の背中」、それほど恐ろしいものはない。

それはネグレクトする親、子供を遺棄する親、「天皇は親であり、臣民は赤子」というあの残酷な思想へとつながっている。天皇のために、人々は死を強要された。親が子供を戦地へ送り出し、特攻隊へ送った。そんな親が、どうして親と呼べようか。親が子供の面倒を見なくて、どうして子供が幸せになれようか。

ところが、今でもそのような価値観に生きている人々は多く、自らが死地へ赴かされても、なお、親を尊敬していると言い張るのだ。

筆者はその人の心の本心を知っている唯一に近い人間であり、その人は、遺棄された子供としての孤独を、筆者と分かち合った。しかし、その人の致命的な弱点は、自分が遺棄された子供だということを認めなかったことにある。

だからこそ、彼らの行く先は、お上のために心中する道なのだ。その道は、自己の弱さを覆い隠そうとしながら、すべてを失う道だ。たとえば、電通が、政府にすがって、生き延びられると思うか。いや、むしろ、すべてを失うだろう。やがて信用もなくなり、富も消えうせ、権力も、名声も、未来も、何もかもなくなる・・・。あと数年も持たず、ベルリンの壁のごとく崩壊するだろうと筆者は思う。

しかも、そのタイミングと来たらどうだろう。ちょうど筆者が当ブログで政府の委託事業を批判し始めた頃、電通の給付金スキャンダルが持ち上がった。

その「父の背中」を追ってはダメなのだ。それはあなたを置き去りにして、出征して行く人の背中だから。それは子供のあなたを置いて、戦地へ赴く父かも知れないし、企業へ出社する父かも知れないし、もっと違う背中かも知れないが、いずれにしても、その背中は、あなたをひたすら孤独の中に置き去りにするだけで、あなたを振り返り、慰め、養ってくれることはない・・・。

だから、人はこの「背中」を負う限り、決して、満たされることがない。努力しても、努力しても、決して心の空虚は埋まらず、ずっと無限のヒエラルキーの下層に踏みしだかれ、心は孤児のまま、抑圧されるだけなのだ。

どんなに寂しくても、歯を食いしばって、泣くことは許されない。愚痴も、不満も、一言も言えない。自分の父が、戦場で死んで行くときに、置き去りにされる苦悩を押し殺して、笑顔でその栄誉を讃えねばならない。生きた人間の代わりに、たった一枚の紙きれしか寄越さないお国のために、父は名誉の戦死を遂げたと、讃えなければならないのだ・・・。

その「背中」こそ、あなたを孤独に追いやり、抑圧している、打倒しなければならない幻想なのだ。あなたを遺棄した親という幻想。

筆者は、トップは悪ふざけでひどい写真に差し替えたのだと思っていた。それくらいひどい写真だからだ。それと同じように、新しいオフィスはきっとひどい場所になるだろうと思った。笑顔のない、人を信じられない、蹴落とし合い、搾取し合うだけの場所に。重荷を下ろす場所がどこにもないところに・・・。

筆者が望むのは、「父の背中」に置き去りにされることのない、孤児とされない世界なのだ。

主イエスは私たちに言われる、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ15:18)と。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)

筆者の信じている神は、筆者を孤独の中に置き去りにされることなど決してない。

だから、筆者は、もの言わぬ「父の背中」と訣別する。誰もが、本当のことを言わなくてはいけない。その背中は、あなたを愛してくれなどしないのだ。

言わなければならない本当の言葉は、「お父さん、なぜ、あなたはぼくに背中しか見せてくれなかったのか」ということ。「お父さん、お母さん、あなたたちはぼくを愛していると言ってくれたけれど、どうして二人とも全然、家にいてくれなかったの。お父さん、お母さん、あなたたちはたくさんの人たちを助けたけど、どうしてぼくを助けてくれなかったの。どうしてうちはこんなに貧しかったの」。

ほら、前へ回って見てごらん。その人はもう死んでいる。背中しか見せてくれないのではなく、死んでいるから、こちらを振り返れないのだ。冷たい、もの言わぬ、そびえたつ壁のような「背中」を、どうしてあなたは未だ尊敬などするのか。気づきなさい、それは死んでいるのだと。

筆者は、その道がどれほど苦悩に満ちているか知っているし、死へ続いていることも知っている。だからこそ、それとは違う「父」を信じなさいと言うのだ。

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

筆者は、どうしても、その人に処方箋を与えることができなかった。何とかしてその薬を受け取らせようとしたのだが、成功裏に終わらなかった。なぜなら、「父の背中」しか追いかけていない人は、筆者のようなすべての人たちに、「背中」しか見せないからだ。

立ち止まってくれと言っても始まらない、これはあなたの命のかかった話なのだと、呼び止めても止まらない。自分は大丈夫だ、任務があると、制帽を被り、出征して行く。自分の心を殺して、置き去りにして、他の人々のために「出征」して行き、そして帰らぬ人となってしまう。

これはとても残酷な法則性だ。自分の心の本当の弱さを認められない人は、真実に目を背け、破滅へ向かって行くことしかできない。

ロトの時代も、いつも同じだった。人々は、飲み、食い、娶り、嫁ぎ、売り、買い、植え、建て、いつも自分は大丈夫だから、助けは要らないと、神の救いを振り払った。

まことの神に背を向けるなら、見当はずれな商いに精を出し、自分たちの栄耀栄華に溺れた。

その結果、彼らを待ち受けるのは滅びでしかない。

その人は何もかも持っているように見え、そして筆者は手ぶらだったが、筆者の手には、すべてがあった。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

私たちの道ははっきり異なるのだ。筆者は今も手ぶらで、周りから見れば、悲惨なのは筆者にしか見えないだろう。だが、筆者の手の中には真実がある。真理がある。命がある。

真理を持たない人は、心の空虚さが人格を食い尽くし、やがて人生を食い尽くしてしまう。自分の命を保とうとする者はそれを失うのだ・・・。

何と罪深いことだろう、今日という日に、悔い改めを拒んで、立ち止まることのない「背中」よ。弱い者、貧しい者を傲然と踏みしだいてその上に君臨する「背中」よ。

それはエルサレム神殿の石垣、マサダの城壁、やがてことごとく分解されて地に落ちるだろう。筆者よりも圧倒的に富んでいる人が、家庭も、富も、仕事も、名声も、何もかもを焼き尽くされて消滅することになる。他人のものを奪わず、搾取せず、本業で勝負していれば、そのような結果にはならなかったのだ。その最後の時が迫っている。サムソンにも神殿を壊す力があったからだ。

* * *

主イエスは、平和をもたらすためではなく、分裂をきたらせるために地上に来られたと宣言された。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
詠めをしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10:34-39)
 
言葉には切り分ける機能がある。

キリスト者は地上において、自分の十字架を取ってイエスに従わなければならない。
 
犠牲を払わずに発言できる人などいようか。

だとしたら、主イエスの復活の命には、最悪の事態を常に乗り切る力があることを信じて進むのだ。

主張することをやめてはならない。前進することをやめてはならない。私たちの言葉の一つ一つが物事を切り分け、光と闇とを分けて行く…。
 
そういうわけで、天の仕事を進めねばならない。

<続く>
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わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。

ゴールデンウイーク中に休業していたお店が、休み明けに営業を再開していた。政府がPCR検査数を抑制しているため、日々、発表される感染者数が減っていることを見て、コロナが終息していると考えたのか、人々は、もはや政府の休業自粛要請など考慮に値しないとばかりに、日常生活を再開しようとしている気配が感じられた。

ネット上のお店も、ネット上でないお店も、クーポン券を出したり、割引をしたりして、一斉に経済を盛り上げようとしている。草の根的なレベルでは、まるで何事もなかったかのように、人々が日常に戻りつつあり、筆者自身も、「密室」からの脱出がほぼ終わったところだ。

しかし、公的なレベルで、人々がコロナの影響を脱することができるのは、まだまだ先になると見られる。緊急事態宣言が解除されても、すぐさま「社会的距離」を取る必要がなくなるわけではない。密集地帯が出来たせいで、クラスターが再発生して、減っていた感染者が再び増加に転じた国の例もある。確実で即効性のある治療薬が開発されない限り、これから2年ほどは、社会はコロナの影響を脱することはできないのではないかと筆者は考えている。

ところで、コロナウィルスが人々を恐怖によって萎縮させ、自宅や職場に閉じ込め、そこから出られないようにする「収容所化政策」に利用され、さらに、政府が補償なき休業を呼びかけることで、コロナ解雇、コロナ離婚、学生の中途退学などが蔓延し、弱い者から真っ先に滅びよとばかりの政策が取られることにより、コロナが社会的弱者の隔離・淘汰の手段として利用されているという説があることを、以前の記事で紹介した。

その説を私たちはあながち笑えない状況にあることもすでに書いた。

以下、そのことについて、少し触れておきたい。

* * *

筆者は、人間社会において、弱肉強食の原則が振りかざされることは、あってはならないと考えている。そういう考えの根底にあるものは、優生思想であり、この思想を筆者は心から憎んでいる。

優生思想に基づいて実行された隔離政策の中には、アウシュヴィッツ絶滅収容所などに代表されるユダヤ人の殲滅の思想、ハンセン病者を根絶することを目標に掲げたハンセン病絶対隔離政策などが挙げられる。後者は、日本で平成になるまで、政府主導で進められた。

ところで、ハンセン病の絶対隔離政策に天皇が利用されたことは、当ブログでも書いた。

筆者は一時期、長島愛生院を訪問し、隔離政策の恐ろしい真髄に触れた一冊の著書を書くことを本気で考えていたが、以下の記事は、その頃、筆者が書こうとしていた内容にとてもよく似ている。

PRESIDENT Online  の記事「「ハンセン病隔離施設」を後押ししたのは皇室だ  島に全ての患者を集めようとした男」(原 武史 政治学者)2019/12/23 11:00

この記事で注目されるのは、ハンセン病絶対隔離政策は、天皇を「ハレ」(=浄めの象徴)とみなし、他方、ハンセン病者は「ケガレ」であるとする思想に基づいていたとして、ただ単に優生思想に言及するだけでなく、日本の民俗的な用語を使って、その究明を試みている点だ。

もちろん、こうした視点は何ら新しいものではない。以前にも紹介した通り、厚労省のホームページに掲載されている「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」では、天皇制とハンセン病の絶対隔離政策についても、相当に詳しい分析がなされている。以上の記事は、そこでも言及されている問題のほんの一端を紹介しているに過ぎない。

ハンセン病の絶対隔離政策は、もともと、天皇は公的な存在であって、「ハレ」の象徴であり、他方、民は私的な存在であるから、「ケガレ」であるという考えを基礎として、そこからさらに進んで、「ケガレ」である民の中でも、ハンセン病者は、最も忌み嫌われ、見劣りのする「ケガレ」であるという考えに立って生まれたものである。

このような何の根拠もない「ハレ」と「ケ(ケガレ)」の思想を基礎に、前近代において、ハンセン病者は隔離と殲滅の対象とされ、そのために、各地に収容所が作られ、岡山県の長島は、島ごと隔離政策の拠点とされることになったのである。

前述の記事「「ハンセン病隔離施設」を後押ししたのは皇室だ  島に全ての患者を集めようとした男」(原 武史)から引用する(下線、着色は筆者による)。
 

前近代から天皇は、ケガレ(「穢」)の対極にあるキヨメ(「浄」)のシンボルであり続けた。だがここで意識されているのは、むしろ近代の衛生学的な「清潔」の観念と結びついた天皇である。

いや正確にいえば、両者は一体となっている。「島」に検疫所を設け、帰還した兵士を集めて徹底した消毒を行い、一人でも伝染病の患者が見つかれば隔離することで、天皇の支配する「清浄なる国土」を守らなければならないという思想が見え隠れしているのである。


この記事で解説されている通り、天皇を「神」とみなした戦前の日本では、日本という国自体が、「神」を入れる入れ物、つまり、天皇の支配する「浄土」とみなされた。

そこから、調和に満ちた「浄土」であるはずの日本に、見栄えの悪いハンセン病患者などいてはならない、ハンセン病者は「浄土」の調和と釣り合わず、これを穢す者であるから、忌み嫌われるべき者として、隔離せねばならないし、そうするのは当然だ、という恐ろしい思想が生まれたのである。

つまり、ハンセン病患者は「浄土(神国)」たる日本の「恥」と「不名誉」をさらすものであるから、「タブー」であって、隠さねばならず、さらに根絶せねばならないとみなされたのである。


こうして、ハンセン病者は、人間にも関わらず「神」として君臨しようとした天皇の威信を保つために、また、「神国」の体裁を守るために、生きたタブーとして隔離・根絶の対象とされたのである。

しかしながら、天皇は、まさか自分が、彼らを収容所に閉じ込めたなどとは決して認めない。

むしろ、天皇は、自分のせいで収容所に閉じ込められたハンセン病者に、優しく「おことば」をかけ、彼らを助け、慰めてやる存在として、彼らの前に登場する。もちろん、登場すると言っても、「ケガレ」であるハンセン病者の前に、「ハレ」である天皇が姿を見せるわけではない。そんなことはできるはずもないことである。だから、天皇は遠くから短歌を詠んで「おことば」をかけるだけである。だが、その「おことば」の効果は絶大であった。
 

この隔離政策にお墨付きを与えたのが、大正天皇の后、節子(貞明皇后)であった。

節子は、ハンセン病患者の垢を清め、全身の膿を自ら吸ったという伝説がある聖武天皇の后、光明皇后に対する強い思い入れをもっていた。昭和になり、皇太后となった節子は、「救癩」のため多大なる「御手許金」を下賜したほか、「癩患者を慰めて」と題する和歌を詠んでいる。

つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかはりて

行くことが難しい自分自身に代わって、患者の友となって慰めてほしい――皇太后からこう呼びかけられた光田は、感激を新たにした。天皇と並ぶ「浄」のシンボルとしての皇太后が、「穢」としての患者に慈愛を注ぐことはあっても、直接「島」を訪れることはない。だからこそ光田らがその代わりにならなければならないというのだ。

35年1月18日、光田は東京の大宮御所で皇太后に面会し、「一万人収容を目標としなければ、ライ予防の目的は達せられないと思います」と述べたのに対して、皇太后は「からだをたいせつにしてこの道につくすよう」と激励している(前掲『愛生園日記』)。

  
それにしても、何という無責任かつ高慢さの伺える短歌であろうか。

「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかはりて」という節子の歌を意訳すれば、こうである。

「私のように神々しい存在である天皇が、ケガレであるハンセン病患者のもとになど、どうして訪れられようか。私は彼らとは別格であり、穢れた病になど触れることも厭わしいため、絶対に彼らのもとを訪れるわけにはいかない。

だが、その代わり、私は私の慈悲の証として、彼らに「友」を送ってやろう。それは患者を人体実験に使う残酷な医師や、逃亡を阻止する見張り人などである。彼らは、私が遣わした者たちを「友」とみなし、彼らの振るう鞭を、「なぐさめ」であると考え、絶えず彼らを敬い、おとなしく言うことを聞いて、隔離されていなさい。それによって社会の秩序が保たれるのだ。」

こんな内容の短歌を、当時のハンセン病患者の強制隔離収容所の当局は、天皇の慈悲と慈愛を示すものとみなし、涙を流してありがたく受け取っていたのである。

一体、この歌のどこに慈愛と慈悲が見られるというのだろう。この歌の結論は明白であって、天皇は神であって、卑しいハンセン病者などとは別格の存在であるとして、安全地帯の高みから病者を傲慢に見下ろしながら、「慈悲」と称して、非人間的な絶対隔離を命じる、それだけである。まさに名目と実質が正反対である。

プロミンが開発されて、ハンセン病が不治の病でないことが証明された後も、この絶対隔離政策は、平成まで続いたが、それも、天皇制が戦後も続いたことと無関係ではなかろう。天皇を「浄」のシンボルとみなし、国民を「ケガレ」とみなして、国民が自己卑下しながら、天皇の存在や、その「おことば」をありがたがる心境が、天皇制と共に、戦後も長らく続いたからこそ、その陰に、こうした非人間的政策が、その忌まわしさを明らかにされることもなく、長期に渡り、存続したのである。
 

一方、長島愛生園は、戦後も戦前と同様の役割を果たし続ける。戦時中に米国で特効薬プロミンが開発され、ハンセン病が不治の病でなくなったにもかかわらず、国の隔離政策が改まることはなかったからである。

その背景には、皇室からお墨付きを得た光田の「衛生」思想があった。一見、近代的な装いをまとったその思想は、皇室を「浄」のシンボルと見なす前近代以来の思想と結びつくことで、揺るぎないものとなった。


戦前・戦中には、日本という国を、天皇を「神」にいただく「浄土」とみなす思想に基づき、この国は、「浄土」を全世界に広めようと、アジアの諸国に侵略戦争をしかけたのである。その頃に生まれたアジアの国々に対する蔑視と偏見は、戦後になっても、まだこの国に残っている。

GHQは、日本を占領した際に、天皇制こそが日本国民を死に追いやった元凶であることに、当然ながら、気づいていたはずであるし、天皇制を廃止することもできたものと思うが、日本を反共の砦として残しておくために、また、新たに米国が支配者となって日本を支配することをカモフラージュするため、天皇制を残しておいた方が、都合が良いと判断した。

そのため、未だに日本では、最も戦争責任を取るべき者がその責任を取らされることもなく、戦没者の遺族を「慰めて」いるのであって、国民は真の意味での戦後を迎えていないのである。

天皇及び政府が「ハレ」であって、国民は「ケガレ」だという思想が、未だ多くの人々の心に、見えない形で残り続けているのである。

政府は絶対隔離政策が終わってから、ようやくハンセン病患者に対する補償に乗り出したが、それも以前に触れた通り、甚だ不十分かつ不完全な制度であった。2001年に施行された「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」は、施行から5年間で申請期限が切れるという短いもので、自己申告制であったため、絶対隔離政策の犠牲となった人々のうち、この補償を受けられたのはごくわずかなパーセンテージに違いないと見られる。

また、安倍政権のもとで、ハンセン病者の家族による国賠訴訟が提起されたことを受け、昨年末に、ようやく「ハンセン病元患者家族に対する補償金制度」が始まった。しかし、この制度も、依然として申請期間を5年間と限定し、自己申告制を取っており、申請に必要な書類も膨大に上る。

隔離政策が世紀を通して続き、ハンセン病者は、長年、政府が主導した差別を恐れて、病に罹患したことだけでなく、自分の存在そのものをタブーとして生きて来なければならなかったことを考えれば、上記の制度は、あまりにもその償いとしては不十分である。名乗り出たくても名乗り出られず、思い出すことさえつらいから手を挙げることができない苦悩を負っている人々は多く存在するはずである。

国は、自分たちがタブー化して追い込んだハンセン病者とその家族が自主的に名乗りを上げるのを待つべきではなく、自ら絶対隔離政策を敷いた償いとして、彼らが生きているうちに、最後の一人まで見つけ出して補償を行う努力をなすべきである。

* * *

ところで、話は変わるが、筆者はハンセン病者の絶対隔離政策の中に、当ブログで幾度も触れて来た反カルト運動家の思想と共通点を見いださずにいられない。
 
プロテスタントのキリスト教界において、反カルト運動に携わる牧師や信者たちが、カルトとみなした宗教の信者を強制脱会させるために、路上で信者を拉致し、彼らを車に押し込んで連れ去り、窓に鉄格子がはめられ、ドアに南京錠がかけられた密室のアパートに監禁し、脱会のための説得を繰り返していた歴史があることは、すでに幾度も言及して来たことである。

プロテスタントのキリスト教界の一部の牧師や信徒らによって推し進められた強制脱会活動は、統一教会の信者を対象とするものだけに限っても、1960年代から2016年になるまで続いた。その犠牲となった信者は4千人を超えるとされている。

近年、こうした強制脱会活動に関わった牧師の中には、刑事告訴されたり、裁判で多額の賠償判決を受けた者もある。犠牲になった信者の中には、10年以上監禁された者もあった。

反カルト運動の場合は、長島愛生院へのハンセン病者の集団隔離とは異なり、あくまで個別の隔離であったものの、全体として見ると、そこには一つの共通するプログラムがあったことが分かる。

それは、自分たちは正しい福音を知って、救われた人間であるとみなすキリスト教の牧師が、息子娘がカルト宗教に入信した親から、助けてくれと依頼されたことを機に、そうした宗教に走った信者の存在そのものを「社会的タブー」とみなして、思想改造を目的に、密室に閉じ込めて懲罰を加えることを正当化するというプログラムである。

牧師たちは、自分たちの教会を、神の国の到来した浄土のようにみなす一方で、彼らがカルトとみなした宗教に入信した信者は「ケガレ」であるとして、彼らが誤った信仰を放棄するまでは、存在そのものを社会から隔離しなければならないとして、何の法的根拠にも基づかず、勝手に強制隔離を行ったのである。

それは脱会運動というよりも、「カルト」とみなされた宗教に入信した信者の存在そのものを「タブー」化し、「恥」とみなして、物理的に排除することを目的とした運動だったと言えよう。

表向き、その運動には「カルトからの救出」という名目がつけられていたが、そこで実質的に行われていたのは、救出という名の閉じ込め、身勝手な懲罰の容認であった。

そこでは、信者が「誤った信仰」を放棄するまで、密室から出さないという方針が取られていたが、そのような非人間的な拘束を正当化する名目として、そうした宗教に走った信者は、親を悲しませ、社会に迷惑をかけたのだから、密室に監禁されて、悔い改めるまで、懲罰されても仕方がないという身勝手な理屈が用いられた。

こうして、カルト思想を警戒するとか、信者を救出するとか言いながら、その運動は、カルト思想もろともに信者を危険物扱いし、信者がその信念を放棄しなければ、一生、密室から出られないようにするという、恐ろしい内容だったのである。

筆者が、実際にこの活動の犠牲となった信者の手記を読んでいて感じたのは、存在そのものを「ケガレ」とみなされて、密室のアパートに隔離され、身体の自由を奪われ、家族に24時間、監視されていた信者のもとを、キリスト教の牧師が訪れる瞬間の残酷さである。

ハンセン病者の隔離施設では、天皇は、感染を恐れて、訪れることはなく、患者におとなしく隔離に応じるよう命じる高慢な短歌を詠んだだけであったが、キリスト教の牧師たちは、「忌むべきカルト信者」に「誤った信念」を放棄させるために、自ら密室に監禁されている信者のもとを訪れ、説得を重ねた。

自由を奪われた信者たちは、彼らの誤りを上から傲然と指摘して、説教を繰り広げる牧師たちの姿を見て、どんなに屈辱を覚えたであろう。中には、牧師(反対牧師)からその際、ひどい犯罪に及ばれたという事件の報告もある。

信者は、隔離と監視を解かれたければ、牧師の言い分に従い、信念を放棄するしかなかった。

筆者は、キリスト教徒であるが、そもそも信仰というものは、他人から強制されるべきものではないと考えている。聖書の神は、人間を自由意思を持つ者として創造されたのであり、救いを人に強制されない。だから、以上に挙げたような、他宗教の信者に対する強制脱会運動が、聖書に基づく、正しい活動であるはずがないと筆者は考えている。

だとしたら、聖書の教えに反する活動を繰り広げる牧師たちが、正しいキリスト教の信仰を持っているはずがあるまい。むしろ、反カルト運動こそが、キリスト教と呼ぶべきではない、異端の考えに基づくものであって、実は、カルトを取り締まると言っている人々こそが、最もカルト思想に近い考えを持っている人間だと言えるのである。

このようなことを発言したところ、筆者はキリスト教徒であるにも関わらず、反カルト運動を率いる(自称)キリスト教徒らから、カルト信者と呼ばれるようになり、狙い撃ちにされた。彼らは、筆者に対しては強制脱会活動が行えないので、無理やり筆者を「カルト信者」に仕立て上げ、インターネットにバーチャルな「密室」を作り上げ、そこで筆者を袋叩きにして、「再教育」を施そうとした。

こうしたやり方を見ても、到底、こんな手段を用いる人々が、真のキリスト教徒であるとは、筆者には思えない。だが、全く恐ろしいことに、そうした人々の悪事を訴えた裁判において、法廷さえも、密室と化したのである。

だから、筆者は密室から脱出するための答えを探していた。神は正しい方であるから、この世の司法が曲げられて、正しい者の訴えが退けられるようなことをお望みにはならないであろう。だが、その答えが実現するためには、筆者自身が、この試練を乗り越える術を見つけなければならない。そして、その答えのヒントは、目の前に、筆者の職場の中にあった・・・。

* * *

なぜ今回、このような話を持ち出したかというと、今、天皇のみならず、政府もまた「ハレ」であって、「ケガレ」たる国民は、政府のために、すすんで犠牲になるべきだという、とてつもなく誤った思想が、再び、この国に台頭して来ていると感じずにいられないからだ。

今の世の中で、天皇のために国民が犠牲になれとは、誰もおおっぴらに言えないであろう。だが、政府が、国民を虐げる強大な権力となることは有り得ることだ。改憲が成し遂げられて緊急事態条項が創設されれば、たちまち戒厳令国家が成立する。検察人事に政府が介入できるような法案が国会に提出されていることも、その布石である。

そこで、私たちは、政府が「ハレ」として国民を「ケガレ」とみなして虐げ、戒厳令下で密室に隔離する事態となることを本気で警戒せねばならない時代に来ている。
 
さて、ここから先は、具体的なことは書けないので、物語風に「イソップの言葉」で書くことをお許し願いたい。

我が職場には、度々、現場を訪れる上司がいた。外見的には美しく、物腰は柔らかで、優しく、親切で、その言葉は、とても善良な響きを帯びているように思われた。少なくとも、その人が、他人を叱りつけたり、声を荒げて非難したところを、筆者は一度も見たことがない。

だが、その下にいる部下は、非常に残酷で、憐れみがなく、上司には似つかわしくないように見えた。そして、その上司が連れて来る社員も、利己的で、横暴で、思いやりがなく、なぜこんな人々ばかりが集められて来るのかと、筆者は常に疑問を感じていた。

しかしながら、上司は筆者には優しかったので、筆者は長い間、利己主義者と悪人だらけの職場で、その上司だけは、筆者の理解者であると考えていた。

ところが、ある時、上部に逆らった社員が、社内軟禁状態に置かれるという事件が起き、それを機に、筆者は社内の体制の正しさを根本的に疑い始めた。

特に、コロナが蔓延してから、上司は現場を訪れることさえなくなった一方で、社員には出社しないことは許されなかった。

そういう一部始終を見ているうちに、筆者は、この職場では、上司だけが、存在を守られるべき「ハレ」であって、社員たちは「ケガレ」なのだということに気づいた。

もっと言えば、社員たちは、実はコロナが蔓延するよりもずっと前から、職場へと隔離されていたのである。すなわち、やんごとなき人々の重荷を肩代わりし、誰かのやるべきだった仕事を、代わりに押しつけられ、未来へとつながらない、昇進の見込みもない、味気ない労働を担うために、職場へと隔離されていたのである・・・。

上司は、隔離された人々を慰問するために、現場を訪れていた。それを、励まされ、慰められ、助けられ、ねぎらわれていると思っていたのは、大きな間違いだったのである。

「ありがたきお言葉」が、上からかけられることにより、社員らは、自分たちがどんなに理不尽な境遇に置かれているか、気づかないようにされ、これから先も、隔離に応じ続けるようマインドコントロールされた。

それが優しさでもなければ、思いやりでもないことは、筆者自身が、「密室」を体験したことによって、初めて分かった。
 
上司に逆らった社員だけが、特別に密室に隔離されていたわけではなく、実は、この職場全体が「密室」だったのだと分かった。すなわち、その職場自体が、「ハレ」である人たちが、見たくないと目を背けた負の仕事を担うために、特別に作られた収容所であり、それ自体が「ケガレ」だったのである。

かくて、そこで働く社員たちは、やんごとなき人々から見れば、目を背けたくなるような仕事を担うために特別に集められた「ケガレ」の集団であり、それだからこそ、特別に目を背けたくなるような事情を持つ人々ばかりが集められて来たのであり、なるほど上司が滅多に現場に来ないわけであった。

筆者は、大勢の人々と共に、自分の能力も知識も生かすことができない、囚人のごとく味気ない労働を横並びに行なわされることには耐えられないし、社員らが囚人のように争い、互いに足を引っ張り合いながら、互いを監視して、密室に閉じ込め合うような関係性は、うんざりであった。

さらに、いつまで働いても、貧しさからも、不自由からも出られない囚人労働のような仕事などは、愚の骨頂としか言いようがない。

そういうわけで、筆者は、密室に「ケガレ」として閉じ込められる人生そのものに、我慢がならなくなって、自由を求めて、大胆に獄屋の戸を開けて出て行くことに決めた。

だが、皮肉にも、それを可能にしてくれたのは、冷淡で残酷に見えた幹部の容赦のない閉じ込め政策による圧迫と、滅多に職場に来なかった上司その人の言葉でもあった。その上司は、筆者を密室に閉じ込めておくためにこそ、筆者を慰問し、ねぎらいのことばをかけたのであろうが、その時、その人は、うっかりと本当のことを言ってしまったのである。

その上司は、自分と筆者とは、同じであると述べた。筆者に言葉をかける人は、上司に言葉をかけているのと同じであり、筆者は、上司と敵同士ではなく、たとえ職場が崩壊しても、筆者がその責任を担う必要はないと。

それはちょうど、天皇が収容所にいるハンセン病者に向かって、自分たちは同じ存在だと述べたに等しかった。

筆者はその言葉を、額面通りに受け取ることにして、獄屋を開ける鍵として利用した。こうして、「ケガレ」であるはずのものが、「ハレ」になったのである。

だが、それは至極当たり前のことであって、筆者は、上司から言葉をかけられなくとも、もともと「ハレ」なのである。

それは、真に「ハレ」なる存在は、全世界にただ一人、まことの神ご自身しかいないからである。

聖書によれば、もともとすべての人間は罪に堕落しており、よって、「ケガレ」なのであり、罪なきお方は、キリストただお一人しかいない。

そのキリストに連なればこそ、筆者は、彼と共に死んで、生きることによって、「ケガレ」ではなくなり、「ハレ」とされたのであり、だからこそ、他の誰からも、筆者の罪なきことを証明していただく必要はなく、誰にも罪人扱いされずに、堂々と密室を出て行く権利を有するのだ。

そこで、自分たちが「ハレ」だと考えたい人たちが、他人をどんなに「ケガレ」扱いし、抑圧し、ずっと閉じ込めておきたいと考えたとしても、そんな狂気の沙汰に、筆者はおつきあいするつもりはない。

聖書の事実を否定して、自分たちが罪赦されてもいないのに、「ハレ」だと名乗りたい人々は、勝手に嘘をつき、自分を「神(=ハレ)」とするだけでなく、「神」である自分の力を使えば、世の中をすべて「ハレ」に塗り替えられると嘘をつく。

その偽りに基づき、彼らは自己の周りに「浄土」を作ろうとする。そして、「浄土」が来ていると偽りを言う。日本を取り戻すとか、訳の分からないスローガンを述べている政治家も、要するに、同じことを言っているのだ。

だが、それは浄土などではなく、ただの密室である。

太古からずっと、悪魔的思想に憑りつかれた人々は、人類から自由を奪い、人類を密室に閉じ込めて懲罰を加えることにより、その人間性を改造し、浄土を作れるという、グロテスクな計画に熱中して来た。

彼らは、「浄土」を作ると言いながら、自分たちの考える「浄土」にそぐわないすべての事実を否定し、彼らの主張が嘘であることを見抜いた人々をすべて罪人扱いして、密室に閉じ込めて、社会から排除し、根絶しようとはかって来たのである。

つまり、「ハレ」であるはずの者の恥や不正を暴露し、「浄土」であるはずの場所に、不調和を発見するような人間は、不届き千万な「罪人」だというわけで。そういう者は「浄土」にふさわしくないから、考えを改めるまで、密室の牢獄に閉じ込めておけというのだ。

だが、そういうことは、彼らの言う「浄土」が、初めから嘘っぱちだからこそ、起きるのである。

天皇を「神」として崇めれば、「神」であるはずの天皇が支配する「浄土」であるはずの場所では、誰も生かされない世界が出来上がる。そんな偽物の「神」に着き従えば、全員がその者と心中を強要されるという結末が待っているだけだ。

ハンセン病者は隔離されて根絶の対象とされ、ハンセン病にかからなかった健康な者は、危険思想に感染したということで、非国民扱いされて、特高警察により拷問を受けて殺される。若者は徴兵されて、特攻隊に入れられて死に、国土に残った者たちは、空襲で焼け死に、死ななかった者も、捕虜になってはいけないからと、集団自決を迫られ、大陸に進出した者は、戦火の中に置き去りにされて死に、一億玉砕するまで、戦争を続行すると言われ、外圧によって終止符が打たれなければ、その戦争には終わりがなかったのだ。

それは、天皇を「神」とすれば、誰も生き残れない世の中が成立するだけであることをよく証明している。

生きた人間を「神」としようとすれば、いつの時代であれ、同じことが起きるのであって、彼らの言う「浄土」は、それ自体が、誰も生き残れない密室と化して終わる。

だが、それは天皇を「神」とする場合だけでなく、首相を「神」としたり、政府を「神」とする場合も、同じなのである。

聖書によれば、神の国は、キリストと共に、私たち信じる者の心の内にすでに来ている。従って、私たちには、誰か偉い人たちに、浄土を作っていただく必要ははないし、偉そうな政治家に、日本を取り戻していただく必要もない。

キリストの血潮によって罪赦された筆者を、再び罪人扱いして、密室に閉じ込めようなどと考える人々がいるならば、その人々は、筆者に敵対しているのではなく、筆者の信じている神に敵対しているのであるから、その人々に、正常な人生の結末が訪れるはずがない。

そういうわけで、密室と化した職場には、まともな明日は来ないと、筆者は考えている。そのことが分からない人たちだけが、そこに残ろうとする。つまり、そこが収容所であると気づいていない人だけが、その場所にしがみつき、自らの地位を保とうとする。だが、しがみつけば、しがみつくほど、密室はますます彼らを締めつけ、自由を剥奪し、逃げ道を塞いでいく。与えられるものは、ますます少なくなり、自由は狭まり、脱出にもタイムリミットがある。その機を逃せば、出られなくなり、いずれは倒壊に巻き込まれるだけだ。

その密室には、「バビロン」という名がつけられており、そのレンガの壁には「俺たちにはできる!」と記されている。神は天の高みから、彼らの高慢を見て、嘲笑われる。そして、「あなたたちにはできない」と宣告される。

神は、人間が天に届くために、ただ一つの道しか用意されなかった。それが、御子キリストの十字架である。「人にはできないが、神にはできる」ことを証明された、ただ一人の方の死と復活の道を通らないで、天に到達しようとする者は、みな罰せられる。

彼らは分裂し、言葉が通じなくなり、意思疎通ができなくなって、混乱に陥り、かくて彼らが作ろうとしている天まで届く救済システムは、永遠に完成することなく、崩れ去って終わる。

そんな生き方は、筆者はご免被る。そこで、バビロンの倒壊が起きるよりも前に、荷物をまとめて、密室を脱出した。密室は、快く筆者を釈放してくれた。「ハレ」なる上司は、とうに安全な場所に避難して、姿も見せなくなって久しいが、筆者が脱獄したのを見て、大切な取り巻きたちを、刑務所から引き上げさせた。

かくて「ハレ」なる人々は、みなその場所を去って行ったのである。もちろん、筆者と上司とは、異質であって、同じ意味で、「ハレ」という言葉を使ってはいない。彼らはこの世において地位を築いた人々であり、筆者は、天において、見えない神に承認された者である。

だから、我々は全く別の意味で「ハレ」なのであり、まことの神を知らない人々は、実のところ、自分をどんなに「ハレ」だと主張しても、「ケガレ」に過ぎないのである。だが、そのことをさて措いても、最も愚かで、最も無知な人々だけが、「自分たちはハレだ!」と主張しながら、密室に残されたのであり、そんな人たちがどんなに集まっても、何も生み出されるものは何もない。

筆者を「ケガレ」扱いしていた間は、密室は四の五のうるさく言っていたが、いざ筆者が、王になるからと、さよならを告げると、気前よくドアを開けてくれ、もはや筆者を非難することはなくなった。

もうこれ以上、貧しさと、不自由に脅かされ、自己の能力も、知識も、経験も、何一つ生かせず、大勢の囚人から監視され、身動き取れない生活はたくさんである。理解し合うこともできないほどに、道徳的なレベルの低い人々に、絶えず絡まれて、引きずりおろされながら、彼らと同じ牢獄に閉じ込められて生きることはできない。

筆者は、その牢獄から人々を解放するためにこそ、ここに置かれているのだ。

上司は、筆者と同じ者だと言いながら、筆者に何の権限も付与してくれなかったが、神は筆者にはかりしれない絶大な権限を、お与えて下さっている。

筆者には、見えない主ご自身が、慰めを与え、信仰によって、私たちは一つだと言って下さる。そこで、筆者には、どんなにやんごとなき人々であっても、人間に過ぎない者に結ばれる理由がない。

だから、筆者は天の父なる神が御子を通して与えて下さった高い地位と権威を利用して、「ケガレ」の世界を抜け出し、「ハレ」の世界で生きて行くことに決めた。だが、それは筆者だけが、高みから君臨するためではなく、より多くの人たちを自由にあずからせるためである。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの 命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 」(コロサイ3:3)

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。
 耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。
 キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。
 わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
 キリストは御自身を否むことができないからである。」(2テモテ2:11-13)


* * *

そういうわけで、筆者はまた一つ、新たな密室を打ち破った。

聖書の神は、正しい生き方をする人を、悪人と共に滅ぼすことはなさらない。神はロトの一家が脱出を終えるまで、ソドムを滅ぼすことはなさらなかったし、ソドムとゴモラに滅びが迫っていることを、アブラハムとその親戚には前もって告げて下さった。

そこで、筆者が出て行くまでの間は、神は地上の組織を守られるだろう。そして、この脱出劇は、地上における審理のリハーサルであったと筆者は考えている。密室は、筆者を吐き出したとき、置き土産を残して行った。それが筆者の出エジプトの戦利品である。

筆者が密室を打破したことは、この国で、人々が戒厳令下の生活を送ることなどあり得ないことをよく示しているように思う。コロナウィルスを理由に、国民を閉じ込めようとする政策があるなら、それは功を奏しないだろう。草の根的な活動を封じ込めることはできず、私たちの自由な発想の余地を潰すことはできない。

むしろ、今、政府が「ハレ」として、その威信をかけて進めて来たプロジェクトが次々と頓挫している。アベノマスクは届かないし、届いても、汚れだらけで使えず、使っても予防に効果がなく、東京オリンピックは、来年になっても、開ける見込みはない。

日本という国は、少子化と労働力の不足のために、放っておいても、これから未曾有の没落を迎えることとなる。そのツケは早晩、政府自身にも回って来るのであり、今は焼け太りしたり、かつての栄光よもう一度、とばかりに、ありもしないファンタジーを持ち出し、自己高揚に浸っているような場合ではない。

ところが、「神国日本よもう一度」と叫びたい人たちがごまんといるのだ。彼らに口を利くチャンスを与えてはいけないし、祭典など開かせてはならず、スローガンを叫ばせることさえいけない。

生まれながらの罪深い人間の威信を誇るだけのバビロンには背を向けて、真に堅実だと言える生き方を打ち立てる頃合いである。ヨセフが来るべき飢饉を予測して、エジプトの国中に穀物の備蓄を命じたように、今、破滅を逃れるためには、たくわえがなくてはならない。金銭的な貯えのことではない。正しい生き方の蓄えである。

そこで、ノアの洪水前に、ノアが箱舟を建設していた作業のように、人には理解されないかも知れないが、神の目に評価される、時を超えて残る仕事をしたいと筆者は願う。

密室を脱し、どこへ行って、何をするのか、筆者の心の中には計画がある。
 
筆者は、天の秩序を地に引き下ろすため、命の水を流し出すパイプラインを建設し、それをこの地から広域に渡って流し出す計画を進行中である。神の国は、信じる者の只中にこそあり、それゆえ、信じる者は、天の秩序を持ち運んでいる。筆者には、命の水を流し出すことも、止めることもできることが分かった。今、考えていることは、どこへ向かって、この水を放出すべきかということである。

困ってもいない人々を助ける必要はないし、誰かの怠慢を助長するために、額に汗して労するわけにはいかない。水は低い方へ流れる。真に困っている人、必要としている人のもとに、必要なものが、必要なタイミングで届けられなければならない。そのような流れが実現できれば、筆者が豊かになろうと思わなくとも、結果はついて来るはずだ。

そこで、筆者は、地上で「やんごとなき人々」と呼ばれる人々には背を向けて、彼らの承認や賛同を求めることをやめて、見えない神の御前で、真に高貴な人と認められるために、まだ見ぬ都へ向かって歩いて行きたい。それは目に見えない階段を一歩一歩上って、天の御座に近づいて行くような歩みである。一つの所で、功績を打ち立てても、決してそこに安住することなく、先へ進んで行く。この世では寄留者なので、どこにも定住せずに、常に「更にまさった故郷」を求めて旅して行くだけである。

地上におけるすべての試練を耐え忍び、それに勝利する秘訣を学ぶなら、やがて来るべき日に、彼と共に栄光を受け、支配者となるだろう。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)


急いで出る必要はない 逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから。 

「奮い立て、奮い立て
 力をまとえ シオンよ。
 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。
 
 無割礼の汚れた者が
 あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 立ち上がって塵を払え、捕われのエルサレム。
 首の縄目を解け、捕われの娘シオンよ。

 主はこう言われる。
「ただ同然で売られたあなたたちは
 銀によらずに買い戻される」と。

 主なる神はこう言われる。
 初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。
 また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
 そして今、ここで起こっていることは何か、
 と主は言われる。

 わたしの民はただ同然で奪い去られ、
 支配者たちはわめき、
 わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、
 と主は言われる。
 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。
 それゆえその日には、わたしが神であることを、
 「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、
 良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
 シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。
 彼らは目の当たりに見る
 主がシオンに変えられるのを。
 
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる味腕の力を
 国々の民の目にあらわれにされた。
 地の果てまで、すべての人が
 わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ
 汚れたものに触れるな。
 その中から出て、身を清めよ
 主の祭具を担う者よ。
 しかし、急いで出る必要はない
 逃げ去ることもない。
 あなたたちの先を進むのは主であり
 しんがりを守るのもイスラエルの神だから。
(イザヤ書第52章)

* * *

ハーバービジネスオンラインの離婚のエキスパート弁護士によるモラハラ夫特集が面白い。

 弁護士・大貫憲介の「モラ夫バスターな日々」

これを読みつつ、筆者は、就職と結婚は似ているように感じた。何が似ているって、悪い職場は、モラハラ夫が妻を威嚇し、恐怖によって支配しようとする夫婦関係にそっくりな点だ。

前にも書いた通り、悪い職場は、悪い家庭とよく似ており、たとえるならば、おとぎ話の「青髭」の支配する家のようだ。青髭は、それまで数えきれない数の「妻」(=労働者)を娶っては、ひそかに首を切り、あろうことか、自らの城の地下室に、殺害した妻たちの骨をためこんでいる。さらに、貧しさにつけ入って、数えきれない娘たちを「愛人」として囲っては、さんざん泣かせて来た。

だが、初めてお見合いする無知な娘にそんなことが分かるはずもない。不誠実な男ほど饒舌で甘言を弄するのがうまく、まんまと騙されて娶られた娘は、しばらくの間は、青髭と「蜜月」を過ごすが、ラブシャワーの後で、青髭は残酷な本性を現す。

モラ夫の支配する「家」と、社員を搾取するブラック企業は根底で一つにつながっている。そこにあるのは、強い者が弱い者を虐げ、搾取し、支配する関係だ。 

職場で一方的な命令を下し、弱い者を威嚇し、自分に逆らうことを許さず、逆らった者を闇雲に罰したり、女性に一切の口答えを許さないような男尊女卑の上司は、きっと家庭内でも同じことをしているに違いない、と筆者は思う。

彼らはあまりに心が傷つき、さらに自分では何も生産できない無能者のため、常に自分よりも下に見る人間、自分の代わりに厄介な仕事を片付けてくれる搾取する対象がいなければ自分を保つことができない。

モラハラは一生治らないと言われている。だから、職場でも、悪しき人間関係の中にとどまっていても、生産的な人生は送れない。面白い診断があった。もしもあなたの上司に、10項目全てに○がつくようであれば、その職場は早くあきらめて脱出した方が良い。 

【ダメな管理職】コイツの下では働けないと感じさせてくれる無能な管理職の10個の特徴!
1、責任者ではなく権力者だと勘違いする
2、個人的な好き嫌いで判断をする
3、情報共有と指示を的確に伝えられない
4、意見の強要や決定事項の突き付けをする
5、無駄な会議を開きたがる
6、問題やトラブルを大ごとにする・責任転嫁する
7、思い込みが激しく客観性や根拠がない
8、部下を納得させられていない
9、行うことの目的や動機を与えられていない
10、仲良くしたいという間違った欲求を持つ

だが、偽物があれば、本物があるように、嫌な関係があるなら、正常な関係もある。

幸福になる秘訣は、限りなく、正常な関わりを追い求めることにある。だが、正常なものに巡り合うためには、自分自身を高めなければならないことも、忘れてはいけない。

淀んで腐敗した水にボーフラがわくのと同じで、ダメな人間ばかりが集まる場所には、それなりの特徴がある。善良かつ誠実で、高い品性を持つ人々に巡り合いたいと切に願うなら、望んでいる環境にたどり着くための努力が、自分自身にも必要だ。

仕事であれば、質や内容を厳正に選ばなければならない。誰でも就けて、大した努力の必要のない職場に、特別に良い人間が集まるはずがないことは明白だ。

自分で自分の生きるフィールドのハードルを低く設定していながら、そこで最良のものに巡り合えると考えるのは、お門違いである。
 
だから、真に価値ある仕事をしようと願うなら、無責任な人々よりも、ハードルを高く設定し、自ら責任を負って立つ覚悟を固めねばならない。

「モラ夫」に「おまえはおれの情けによって生かされているんだ」などと恩着せがましい言葉を言われないためには、彼の専業主婦であることをやめねばならないのと同様、気に入らない、ダメな職場により、「メシ」を食わせてもらっている立場で、不満だけを言い続けても無駄だから、そこを脱しなければならないのだ。
 
モラ夫に仕える代わりに、身の安全を保障してもらえるという、お仕着せのパッケージを捨てて、自分自身で、上司と同じか、それを上回る責任を担い、人に頼らない人生を始める覚悟を決めねばならない。なおかつ、それができると信じなくてはならない。

逃げるとき、モラのディスカウントの言葉が、耳に聞こえて来るかも知れないが、絶対にそれを信じてはいけない。 そんな人間関係が、世の中の全てではない。自分で自分を何者と考えるかがあなたの人生を規定するのだ。

繰り返すが、あなたが自分を何者と考えるかが、あなたを規定するのである。

* * *

自民党が打ち出した減収世帯への現金30万円の給付が、公明党により、強引に国民一律への10万円の給付に変えられようとしていた頃、我が職場でも、クーデターが完遂し、ナンバー2であった上司が、トップに拮抗するほどの権限を持つようになった。
 
トップとナンバー2に逆らった社員が、社内軟禁状態にされたのを見て、筆者はここから逃げねばならないと悟った。

それは反カルト運動を繰り広げる牧師たちが、カルトからの脱会者を密室に隔離して、再教育を施そうとしていた光景を思い起こさせた。反カルト運動の指導者らは、カルト宗教からの脱会者を誤った教えから救うと言いつつも、その「救済」手段として、信者を鉄格子と南京錠つきの密室のアパートに軟禁して、ディプログラミング(再洗脳)を施したのである。信者の家族が、信者が脱走しないように24時間、つききりで監視し、その言動を牧師たちにつぶさに密告した。

職場で起きていた現象は、その光景にとてもよく似ていた。隔離された者には、苦しい仕事が与えられ、周囲との交流が断たれた。そして、全社員がその者を集団で監視し、密告を繰り返したのである。

筆者はブラックな職場をそれなりに見て知っているつもりであったが、これほど宗教めいた、気色の悪い、極端に悪口の多く、敵意に満ちた団体は、他に知らなかった。調べてみると、幹部はフリーメイソンへつながる団体の会員であった。やっぱり、そうだったかと、筆者は心の中で唸った。
 
協調性とは、グノーシス主義から生まれる概念である。それは、和の精神、自他の区別の廃止、対極にあるものの融合を意味する、聖書に真っ向から敵対する間違った理念であるから、協調性を重要な理念の一つに掲げている団体は、まともではないと見て良い。

以前にも書いたことだが、協調性とは、自他の区別を曖昧にすることによって、人が相応の努力をせずに、他者の持っている優れた資質を、自分のために盗み取ることを正当化する概念である。協調性が説かれる場所では、善人だけがひたすら努力を続ける一方、悪人は誰にも歩み寄らず、我が道を行くので、正直者が馬鹿を見るだけである。
  
当ブログを書いて来た筆者には、そうしたことは十分に分かっていたはずなのだが、筆者はずっとそれに気づかないふりをして、今までやり過ごして来た。しかし、ついにその団体が、滅茶苦茶な基礎の上に成り立っていること、破滅へ向かっていることを、目を開いて見ずにいられなくなり、悪しきものとは訣別せねばならない時がやって来たのである。
 
グノーシス主義とは、キリストの十字架なしに、人類が己が力で自分の罪をあがない、神に到達できるというサタンの教えである。そこで、グノーシス主義の教えには、共通の型があり、グノーシス主義者の考えることは、時代を越えて変わらない。

密室への隔離や、懲罰労働による人格改造、恐怖政治による支配などのグロテスクな方法によって、理想郷へ到達できるという、有り得ない誤った発想も、時代を超えて同じである。

19世紀、ロシアのデカブリストの一人は、理想郷を生み出すためには、200年間かけて警察国家を作り、国民の自由を奪い、民衆に再教育を施して、人類を作り直さねばならないと考え、クーデター計画を練った。 彼は帝政ロシアの軍隊によって反乱が鎮圧される前日に逮捕され、人類改造計画を記した大量の書類も押収されて、死刑に処された。
 
今日、コロナウィルスの蔓延は、グノーシス主義者による各国社会の収容所化のためのアジェンダだという説がある。

それは悪意ある人々が、恐怖によって人々の自由を奪い、日常生活を奪って、自宅や、職場に閉じ込め、再教育を施すことを目的に、人工的に計画したのだという。ステイホームも、自宅収容所化の手段なのだと言われる。

そんなグロテスクな計画を本気で考え、その達成の手段として、人為的にウィルスを世界にばらまき、騒動を煽る人々がいるのかどうか、筆者には疑わしい。

だが、その説をあながちトンデモ論として笑えないのは、実際に、コロナを口実にして、緊急事態条項を作ろうと、改憲を目論んでいる人たちが確かに存在していたり、政府が、事業者に100%の休業補償をせずに休業を命じることで、まるで「貧しい人は路頭に迷え。潰れるべき企業はさっさと潰れろ」と言わんばかりの冷淡な態度を取っているからだ。

一体、コロナウィルスは、悪意ある人々による、弱く貧しい人々の人工的な淘汰の手段として作られたのだろうかという疑問が、人々の心に生まれて来るのも仕方ない。

筆者の職場でも、以上に書いた通り、まるで労働によって人間の本質を改造しようとしたマルクス主義さながらなことが行われている。

マルクス主義は、労働によって、人類の幸福社会を築こうとした。人類が自らエデンを取り戻すためには、罪という終わりなき連帯債務を、労働によってあがなうべきと唱えたのである。

もちろん、マルクス主義において「罪」という概念はないが、要はそういうことである。人類の負い切れない罪の返済手段が、労働だったのである。人類が理想郷へたどり着くために必要なすべてを、人類自身が連帯責任として背負い、労働によってまかなうべきと唱えたのである。
 
だが、労働によって、人が己が罪を自力で贖うなどのことは、達成不可能な偽りであるから、そうしたスローガンに騙されて働く人間も、愚か者だけということになる。だからこそ、共産主義国においては、労働しない人間が、最も出世したのであり、政府の上層部は、卑劣漢、悪党、盗人で占められた。誰も責任を取らないので、その体制は、ありとあらゆる悪事を犯し、崩壊するしかなかった。

悲しいかな、筆者の職場では、まさにそれに等しいことが起きつつあるのだが、筆者は何度も、他でもないグノーシス主義者の幹部から、まだその人がグノーシス主義者だとは筆者が気づいていなかった頃に、組織を出て、新たな出発を遂げるよう、幾度も促された。

「あなたが望んでいるような自由は、あなたが自ら経営者にならない限り、きっと得られないと思いますよ」と、その人は言ったのである・・・。
 
筆者はその頃、職場が間違った基礎の上に築かれているとは知らずに、色々なことを語り合った。その人がグノーシス主義者でさえなければ、どんなに良い旅の道連れになっただろうかと、今でも名残惜しい。

筆者は、その人が筆者と話しているときに、時折見せた、自分はもう助からないとでも言うような、絶望的な表情を覚えている。それは一瞬、垣間見えただけであるが、それがあまりにも哀れであったので、筆者は何とかして、命に至る道を見つけて欲しいと願い、無理やりにでも、バビロンから連れ出したいと願った。残酷なナンバー2にも、同じことを願った。

だが、彼らは呼べば呼ぶほど、ますます筆者の忠告を振り切り、焼け落ちる火宅に自ら駆け戻って行く人のように、反対方向へ走って行った。

筆者には分かっている、神は悪人と正しい人を一緒に滅ぼすようなことはなさらないので、筆者がいる限り、組織が崩壊することはないと。筆者には、バビロンの崩壊を遅らせることもできれば、エリコの再建のように、滅んだ組織を再興することもできる。
 
だが、滅ぶべきものを延命させるという間違いは、二度と犯してはならない。誤った理念の上に築かれた城に、人情のゆえに、同情の涙を注いでも意味はない。タイムリミットは近づいており、そろそろエクソダスせねばならない。
 
記事には具体的なことを書けないので、かなり曖昧な表現を使わざるを得ないが、以上に書いた通り、職場で極端なカルト化現象が起きなければ、筆者は今でも見込みのないものに望みをつなぎ、戸口の前で、足踏みをしていたかも知れない。

何より、その職場が根本的に誤った反聖書的な理念を土台として成り立っていることに、今も気づかず、バベルの塔建設のためのレンガ運びの作業にいそしんでいたかも知れない。

だが、レンガ運びの作業が、苦行と化し、それを拒んだ者には、厳しい懲罰が科されるようになったことにより、分かったのである。それは収容所における囚人労働と同じであって、自由な明日を作り出すことに貢献することはないと。

隔離された社員だけが、密室に閉じ込められているのではない。そこでは、幹部から末端の人間に至るまで、誰もがみな閉じ込められているのだ、労働という檻の中に――。

その収容所に閉じ込められている限り、みなが破滅へ向かうだけで、誰にも自由な明日はない。労働による人格改造などあり得ない。だから、恐怖政治の果てに、待っているものは、ただ滅びだけである。
 
もちろん、だからと言って、筆者は、幹部の勧めに従って、明日、独立するつもりはない。そんな風に、一足飛びに何かを達成できると思うのは間違いだからだ。だが、それでも、幹部の言葉のおかげで、狭い密室を出て、地境を広げねばならないことに気づいた。より多くの自由、権限を手にするために――。

こうして、筆者が呼びかけた人は、筆者の招きに応じず、救いにも興味がなく、滅びると分かっている建物に戻って行っただけであるが、筆者は、ここで立ち止まるわけには行かないので、まだ見ぬ都へ向かって、進んで行かなくてはならない。

たとえ今、筆者の手元に、自分の身一つ以外に何もなくとも、信仰によって、無から有を生み出し、いつか想像をはるかに超えた大きな目的を達成できると信じて、勇気を持って、颯爽と、歩き出さなければならない。

バビロンを出て、聖なる都、新エルサレムへ向かって――。

* * *

キリストは花嫁なる教会のためにご自分の命を捨てられた。それは部下のために上司が命を捨てるような、奇跡的な愛である。いや、違う。部下のために命を捨てる上司くらい、いるだろう。だが、神は私たちが罪人であったときに、救う価値のない罪人である私たちのために命を捨てられたのだ。

神がそうされたのは、正しいことであり、神は無限に強く、正しい方であればこそ、その正しさと力を行使して、ご自分の被造物である私たちを助けられたのである。

だから、この世においても、権威ある者は、自分の権威の下にある者たちを守らなければならない。強い者の権力は、弱い者を守るために与えられているのであって、弱い者を脅かし、痛めつけるためではない。

ところが、グノーシス主義は、いつも正しい秩序を逆にして、弱い者が、強い者のために命を捨てるようにと、無理な要求をする。

たとえば、「親孝行」という、世間ではまことしやかに美徳のごとく讃えられている概念について、考えてみよう。

考えればすぐに分かることだが、自然界の動物社会では、親が子の世話をすることはあっても、子が親の世話をしたり、親のために命を捨てるという原則はない。そもそも弱い子供にどうやって親の世話ができるというのか。弱肉強食は、同じ種の親子間でなく、異なる種類の生物の間で起きることである。

ところが、人間社会では、「親孝行」という、自然界の動物にはあり得ない教えがまかり通っている。
 
それは元を辿れば、死者の霊の崇拝、すなわち、先祖崇拝に由来する。

人間が生まれ持った命は、本当は、神聖でも何でもない、ただの動物的命である。虫でも繁殖くらいはしているのだから、人間に子孫が生まれることも、珍しくもなければ、偉業でもない。

ところが、偽りの教えにかかると、それが神業のようなものにまで変化する。つまり、人間の子孫は、「ご先祖様」から「神聖な命」を受け継いでいるから、自分に命を与えてくれた先祖に絶えず感謝し、先祖供養につとめると共に、その「神聖な命」を絶やさないために、「家名」を背負って、これを穢さず、「神聖な家」を維持していく責務を負う、ということになる。

それゆえ、その子は、生きている限り、「神聖な家系」の入れ物となる「家」を守るために、親に孝行するだけでなく、口を利くこともできない先祖の霊の供養を続けねばならない。

我が国では、戦前戦中、万世一系の天皇家を「神」にいただく「神国」などというフィクションが作り出され、その虚構の物語に基づき、臣民は天皇の赤子であるから、親である天皇のために命を捨てるのが当然、などという荒唐無稽な教えが説かれた。

もしも天皇が「親」であるというなら、天皇こそ、「赤子」なる臣民を守るために、身を投げ出し、命を捨てるべきであると筆者は思うが、それとは全く正反対の教えが説かれたのである。

それと同じ理屈で、戦後になっても、男は会社組織や共同体社会のために身を捧げよとか、妻は夫のために身を捧げて尽くすのは当然といった誤った考えが、社会の至るところにはびこっている。共に生きるために協力するのではなく、命を捨てても服従せよというのである。三島の『憂国』を彷彿とさせる世界観だ。

もちろん、親に感謝したり、親を尊敬することは何ら悪いことではない。だが、「親に感謝せよ」という考えを究極まで推し進め、子の人生を親(先祖=家)から一生離れられないように束縛してしまうのは、罪なことであり、異常である。

自然界の動物社会では、子は成長すると、自立して親を離れ、新しい家を形成する。近親交配を避けるためにも、生まれ落ちた家をいつまでも存続させることに意味はない。

子が自立して親を離れるのは、親が子より早く老いて死ぬためである。親は力の上では、子よりも強いかも知れないが、老いと死には勝てない。そのため、子をいつまでも守ってやることはできない。

だからこそ、子は親が老いる前に、親から自立し、自力で生きて行く方法を獲得せねばならないのだ。自立して初めて、親と一緒に死の中に引きずり込まれるのを避けられる。

ところが、人間社会においては、子は親が死ぬまで面倒を見、親が死んであの世に行っても、なお、面倒を見続けねばならない(供養せねばならない)という、自然界の掟にも逆らう、支離滅裂な、むなしい虚構の概念が普及している。

現代社会にも、そうして時代錯誤な家制度が生きている。自立した夫婦は、生家を出て、新たな家を築いているように見えるかも知れないが、依然として、多くの場合、男性が自分の生家の名を継承している。それは、彼が生家から離れられていないことの証である。

一体、子をいつまでも自立させず、死んでもなお手放さないという姿勢が、親心と言えるだろうか・・・。

こうした家制度の根本には、先祖崇拝という、しょせん、人間に過ぎない者を「神」として祀りあげる「神聖な家系」というフィクションの世界観がある。

そのようなフィクションに騙された子孫が、生きているうちから、親の望みをかなえることで、「家」に名誉をもたらそうと、親の附属物のようになって、苦しい人生を生きたりしながら、先祖という死者に縛られ、一生、「家」という密室の入れ物から離れられなくなるのだ。

それは何もかもを滅びと死へ引きずり込み、破滅させてしまうオカルトの教えなのであるが、多くの人々はそれに気づかないまま、これを信奉している。

この教えが究極的に目指しているのは、罪に定められた人間の欲望を、永遠にまで至らせることである。滅びゆくアダムの命を、神聖なもののように偽り、人間が堕落した欲望に生き、そのままの姿で、神のような永遠に達することができると教える。

その教えは、人類が罪に堕落したという事実を認めず、罪のゆえに死に定められたという事実も否定して、己が欲望の追求の果てに、神のような永遠性を手に入れられるとうそぶく。

人間が生まれながらの命のままで、永遠性を手に入れるなど、できるはずもないことなのだが、その教えは、代々、家系が続いていることにより、あたかも命の連続性が保たれ、永遠性が獲得できるかのように、屁理屈を並べているのである。

* * *

さて、筆者はいきなり経営者になることはできないと述べたが、それでも、人格改造のために懲罰労働が課されるような密室に居続けてはならないと悟った。

筆者の職場のみならず、現代社会における労働は、およそその多くが、収容所生活になぞらえた方が良いようなものである。

そうした人間性を奪い取る密室から解放されるためには、自分の仕事の内容と質を高めて行くしかない。一歩一歩、自らの責任の範囲を拡大し、他の人々と異なる、より自分の裁量が大きくものを言う、自由な仕事、そして、広範囲に影響の及ぶ、決定権のある仕事を模索していかねばならない。

それは筆者が見えない領域で、多くの「扶養家族」を持ち、多くの人々を養う仕事をするようになることを意味する。

筆者の目指している「事業」とは、ジョージ・ミュラーがしたように、信仰によって、たくさんの人々を養い、支え、命と自由を与えるためのものだからである。

その願いが、可能な限り、広範囲の人々に及ぶよう、筆者の仕事の責任をより重いものに、より大きな内容に変えて行かねばならないのだ。
 
だが、いきなり一足飛びの生長は、誰にもかなわない。そういうことを試みるのは危険である。
  
たとえば、10人しか社員を雇ったことのない事業所が、いきなり50人もの社員を採用して、億単位の新規事業を始めると、どういうことが起きるだろうか。

事業所の意識は一日では変わらず、それが手かせ、足枷となって、成長を妨げる。つい昨日まで、田舎の商店街にある個人商店のように、電話回線も少なく、アシスタントもごくわずかしかいなかったような小さな事務所が、いきなり大企業と並んで、巨大ビルのフロアに大きな部屋を借り、そこに大勢の社員を雇って、労務管理を行い、大規模事業を支えられるようになるかと言えば、そうはならない。そういう無理なことをしようとすると、あらゆる方面にひずみが生じる。

大規模な事業を創設し、これを育成し、完成にまで導いて行くためには、必ずメソッドが必要となる。それを打ち立てた経験が過去に一つもなく、ノウハウすらも持たない人たちを、人数だけ揃えても、いきなり事業が軌道に乗ることは絶対にない。

下手をすれば、組織が成長途中に、組織の体をなさなくなり、半熟卵のようにドロドロに溶けて、メルトダウンして行くだけだ。

同じことが、事業所のみならず、働く側の人間にも言える。昨日までパートタイムのアルバイトしかしたことのなかった人間が、いきなり、大きな店の店長や、大企業の社長になっても、物事はうまくいかない。学生時代の趣味が高じてベンチャー企業の社長になるような人々も、まずは小さな会社を立ち上げるところから始める。
 
このように、堅実な歩みを進めるためには、一歩、一歩、地道に責任の範囲を拡大して行くしかないのであって、そうした小さな意識改革を積み重ねて行った先に、ようやく、大きな事業を手がけるスキルが生まれる。

ステップを数段すっ飛ばかして、いきなり濡れ手に粟式に、巨大な成功を手に入れられると思うのは間違いである。たとえ大きなチャンスに巡り合っても、それを活かす知識と経験がなければ、失敗に終わるだけなのである。
 
そういうわけで、筆者は、自分を閉じ込めていた密室を出て行こうとしている。だが、自分一人、収容所から釈放されて、孤高の高みに君臨するためでない。大勢の人たちを生かし、自由にするために、筆者は、これから山へ登って行こうとしている。

小さな一歩かも知れないが、これまでの出発と違うのは、これから歩むべき行程がはっきり見えていることだ。神はその歩みを喜んで見守り、承認し、後押しして下さるだろうと思う。

* * *

人間とは、言葉(規則、掟、論理)が先に来るのか、それとも、行動が先に来るのか、という議論がある。

鈴木大拙は、人間の本質とは、考えるよりも先に行動するものだと言った。

しかし、筆者はそれは絶対に間違っていると確信する。なぜなら、聖書の秩序は、まず掟があって、次にそれに従った行動があるというものだからだ。

人間はエデンにおいて、神の掟よりも、自分の快楽を求める衝動に負けて、行動を先にしてしまったことにより、罪に堕落した。

だが、それは悪魔の唆しによるものだから、それが人間の本質だとは言えないだろう。

ところが、グノーシス主義者は、今日も、それこそが人間の本質だとうそぶく。人間とは、まず衝動的に行動してから、後でその行為について反省し、知性が芽生えるのだと。そうして、いつも、行動を、言葉よりも優位に置こうとする。

世の中に、政治家を始めとして、やたら人前でむなしい演説を繰り広げ、空虚なパフォーマンスに明け暮れる人間が横行するのもそのためで、彼らは口先だけでペラペラと意味のないことをしゃべり、息を吐くように嘘をつき、人の注目を集めた後で、法律や規則を曲げて、ないがしろにし、義人を罪に定め、多くの人々に害を与える。

彼らの目的は、派手なパフォーマンスによって、身勝手な行動を実行に移し、これを既成事実化し、後付けで正当化するために、規則を変えることにある。

たとえるなら、ある人が人殺しに及んでおきながら、「世の中に殺人が横行するようになったので、いっそ殺人罪を撤廃しましょう」などと言うようなものである。

聖域なき改革だの、岩盤規制を突破するだのといった威勢の良い謳い文句のほぼすべても、古くからある規則を「悪」と見せかけることによって、規則を撤廃して、自分たちの悪事を正当化するために唱えられる。

もちろん、「コロナで社会不安が広がったので、改憲して、緊急事態条項を創設し、人権を抑制しましょう」などというスローガンも、同じ理屈に基づいている。

なぜコロナウィルスが蔓延したくらいのことで、最高法規である憲法を変えなくてはならないのか。そこにどれほどの論理の飛躍があることか。

だが、彼らのやり方はいつも同じで、まず、不安を煽る様々な現象や、衝動的な行為をあげつらい、それを抑制できなかった規則など無意味だからと、最も重要な法規を、無意味だと言って、彼らに都合良く変えて行こうとするのだ。
 
私たちはそういう政治的パフォーマンスに踊らされるべきではない。弁舌巧みで、パフォーマンスが得意なのは、詐欺師だけである。
 
実際には、コロナの脅威によって、むしろ、そうした空虚なパフォーマンスこそが抑制され、駆逐され、そのむなしい本質が暴露され始めているのは、良いことではないかと筆者は思っている。

たとえば、筆者は、コロナウィルスのおかげで、「連休中はどこへ行きましたか?」という愚問から解放されて、ほっとしている。毎年、この季節になると、行楽地に大量に押しかけ、人数にものを言わせて、孤独な人々を隅に追いやり、自分たちこそ世界の中心だと言わんばかりに、厚かましく自慢話に明け暮れる家族連れを、今年はもう見なくて済むことに、安堵している。

連休は出かけるためにこそあるという、この人々の愚かな思い込みを解くのに、どれほど無益な苦労をさせられ、非難を浴びせられたことだろう。マウンティングだけが目的の、むなしい自慢話を聞かされずに済むようになって、筆者は安堵している。

休暇は休息のためにこそある。休息の方法など十人十色だ。休息期間には、大切な考察が行われ、未来への挑戦が始まる。何もしていないように見える1日、1日が、エネルギーチャージに必要な時間なのだ。

だから、筆者は今年は、心の休息を得て、信仰によって、未来をどのように創造していくか、それを思い描くことに、主要な時間を費やすことにしている。それもコロナウィルスがなければ、与えられなかった静けさだったかも知れない。

さらに、コロナは社内で行われるつまらない会議にとどめを刺し、社員同士の無駄話にも大いに水を差した。裁判所にさえ、コロナの影響は及び、法廷における弁論が、停止に追い込まれたのだ。

それによって、限りなく重要な教訓が、証明されつつあるように思うのは、筆者だけだろうか。物事の重要な本質は、耳目を集める口先だけの言葉や、見せかけのパフォーマンスにはない。行動に先んじて、行動を支配する見えない掟、法、規則、理念、思考があって初めて、人の行為には価値が生まれるのだ。

だから、断じて、行動が先んじて、思考が後に来るのではない。その反対こそが正解なのだ。どんなに束の間、繁栄しているように見えても、人間の本質を逆にしようとした者は、自らの行動の価値を証明できない。どんなに衝動的な行動をたくさん行っても、それが掟破りなものであれば、少し時が経てば、間もなくその価値は全くないことが判明し、その成果も、跡形もなく消えて行くだろう。
 
コロナウィルスの襲来によって、むなしいパフォーマンスの数々が駆逐されたなら、それは筆者にとって、非常に喜ばしいことである・・・。

* * *

グノーシス主義者の考えるユートピアは、広き門である。それは神の戒めに従わず、キリストの福音から落ちこぼれた、ダメ人間ばかりを救おうとする、偽りの大衆救済宗教である。
 
己が罪を悔いることもなく、他人ばかりを責め続け、本物の福音には到達できず、その意欲もない、無責任で、無反省な人ばかりを救おうとする偽物の福音だからこそ、その偽の福音には、最も怠惰で、最も無能な者、最悪の利己主義者、この世の失格者、落伍者、筋金入りの悪党、卑劣漢など、悪い人々ばかりが群がる。結局、その悪者のユートピアは、何一つまともなものを生み出せないまま、自壊して行くことになるのだ。

怠惰な人間を富ませるためには、真面目な人の労働の成果を盗むしかない。ダメ人間を救済するためには、ダメ人間でない人々の評価を下げるしかない。悪人を救うためには、正しい人を罪に定めるしかない。

こうして、グノーシス主義の唱えるユートピアは、ダメ人間を聖人に祀り上げるために、何もかもをさかさまにした世界観に基づいている。

そうして出来上がる「広き門」が、人に優しく見えるのは、最初のうちだけで、悪と偽りと不法と搾取は、やがて彼らが復権しようとしたダメ人間も含め、その教えに帰依した人々全員に及ぶことになる。

キリストの十字架がないので、悪人には罪が赦されることは永遠になく、その代わり、労働による人格改造という懲罰が待っているだけだ。そこで、労働による彼らの救済は、何万光年経とうが、永遠に達成されることはない。

人類の罪を人類が自力で贖うための果てしなく重い軛は、人類に連帯責任として落ちかかり、最後には、真面目で誠実な人間だけでなく、悪人も含め、すべての人々が、極度の抑圧の中に投げ込まれ、自由を奪われ、恐怖政治が出来上がる。

こうして、グノーシス主義の偽りの福音は、多くの人を救う「広き門」に見えても、その先に待ち構えているのは、滅びと、死だけであって、それは結局、彼らが退けたキリストの福音よりも、はるかに厳しく、誰も耐えられないような裁きと懲罰を繰り広げるだけに終わる。

かくて広き門によって救われる人間はゼロなのだ。ダメ人間のユートピアなどあり得ず、そういうものを作ろうとすれば、生まれるのは、ファシズムだけであり、その結果としてもたらされるのは、滅びであり、死である。

それを考えれば、「労働廃絶論」(ボブ・ブラック)などという説が出て来るのも、頷ける話だ。
 
* * *
 
ちなみに、筆者は、あらゆる労働――いや、人間の社会への奉仕が一切合財、無価値だと言っているのではない。あくまで人が罪から逃れるために、死の恐怖から逃れるために、自己救済のために行う労働が、無意味だと言っているだけである。

人々は筆者に問うかも知れない。「ヴィオロンさん、あなたはプロテスタントにおける礼拝と、資本主義における労働が車の両輪で、今の時代には、その両方が終わりに瀕しているなんて、荒唐無稽な説を唱えています。

あなたによれば、日曜礼拝と、月曜から金曜まで会社にお参りすることは、本質的に同じなのだそうです。そして、それは自由をもたらす解放どころか、自己懲罰のために、人々が自ら「隔離」されていることなのだと、あなたは言います。あなたによれば、その労働は、強制収容所における人格改造と同じほどむなしい、無意味なものなのだと…。
 
それでは、あなたは労働そのものに反対なんですか? それなら、あなたはこの先、一体、どうやって生きるつもりなんです? 社会に必要なサービスは、誰が行うんですか?」

もう一度言うが、筆者が反対しているのは、罪のゆえに、死の恐怖の奴隷となっている人々が、その恐怖を紛らし、偽りの救済を得るために、強いリーダーのもとに馳せ参じ、そのリーダーに生存を保障してもらおうと、その教えに帰依し、自力で救済を得るための手段として労働を用い、みなで結集して、バベルの塔を構築する、そういう生き方である。

プロテスタントの日曜礼拝は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という、救いの内なる確信の持てない信者が、自らの心の不安をなだめるために作り出した鎮静剤のようなものである。

同じように、資本主義におけるサラリーマンの労働も、もともとは「救われているかどうか分からない」という不安を抱えるプロテスタントの信者が、日々、勤労に励むことで、神の御前に善行を積み、不安心理をなだめようと発生したものである。

現代社会においては、労働における宗教色はほとんど見いだせないほどに薄れているが、それでも多くのサラリーマンは、「自分がどういう生き方をすれば良いか分からない。どんな事業が自分の天職なのかが分からない。それを自分で始める力もない」という無力感を、手っ取り早く、誰かに埋め合わせてもらうために、他人に仕えて働いている。

産業革命以後、仕事の機械化、細分化が進んだことにより、人々は昔に比べてより一層、自己というものを喪失し、労働においても、より家畜のように一元化して管理しやすくなった一方で、逆に機械に使役される人間が大量に作り出された。

そのおかげで、神の救いが分からず、自分自身が分からないだけでなく、自分の仕事にも、価値を見いだせないという、迷える羊のような人々が大量に生まれた。

その迷える羊に対して、様々な職場は、一見すると、救済のように見える、各種のパッケージをケアキットのように提供している。その中には、コンビニエンスストアの店長や、政府の公共事業などのように、自らにアイディアや元手がなくとも、手軽に始められる事業もある。

それをいくつもいくつも取り替えながら、自分をごまかして生きている人々は多いだろう。一つの仕事に飽きれば、次の仕事を見つければ良い。
 
だが、それは「パッケージ」であるがゆえに、そこには自由がなく、最初は入りやすく見えて、その先には、厳しく搾取される日々が待っているだけだ。一つの密室を出ても、気づくとまた別の密室に囚われている。隔離でない労働とはどこにあるのか。
 
私たちは、自分たちが喪失してしまった二つのもの――神へのまことの礼拝と、天職――この二つを再発見しなければならない時代に来ている。

この二つのものを発見するためには、やはり、広き門ではなく、狭き門をくぐるしかない、と筆者は考えている。自分の人生の決定権を安易に人に委ね、手っ取り早く、出来合いのパッケージに頼ろうとする限り、そこにあるのは、広き門――すなわち、密室へ続く道なのである。

そこで、そのように他人に頼る態度を捨てて、自分のことには、自分で責任を負い、自分で決める自由裁量の余地を取り戻し、これを増やしていくしかない。

だが、それは、今まで松葉杖をついて歩いていた人が、杖を捨てて、真直ぐ歩けるようになるためのリハビリの過程にも似て、一足飛びに達成できるものではない。内なる自分自身を、何者にも頼らずに、強めて行く過程が必要である。

その一歩一歩の先に、密室とは無縁の、真に自由で、心から健康で、自立していると言える生活が待っている。松葉杖に頼ろうとしている限り、自由な空間には出て行けない。

私たちの自由と豊かさは、いかに目に見えるものに依存せず、目に見える誰かに依存せず、見えない神だけに頼り、自分の裁量と自分の責任で、自分の人生を決めたか、その度合いに応じて決まる。

誰かに頼って、自分の人生を何とかしてもらおうと願っている限り、金銭的搾取だけでなく、霊的中間搾取からも、逃れられない。
 
信じる者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が宿っている。それゆえ、コロナであろうと、他のどんな脅威であろうと、信者は、信仰だけによって、すべての脅威に立ち向かい、勝利をおさめる秘訣を得ている。

その本当の命の力に頼って生きねばならないのである。だが、信者の内なる人は、まだ弱く、未熟であるがゆえに、その信じる力を、十分に養い、行使するための秘訣を十分には知らない。そこで、彼は自分に与えられた命の力を引き出すことを、まずは学ばなければならないのである。


主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7)

キリストの復活の命は、無から有を生み出すことのできる命であり、この世の経済も、人間関係も、仕事も、すべてを支配し、キリスト者にいつでも必要な助けを供給することができる。

とはいえ、それらはあくまで私たちの精神的生長にふさわしいレベルにおいて、一歩一歩、実現する。私たちが主の死と復活の命を知ったからとて、いきなり一足飛びに億万長者になるとか、桁違いの賢人に引き上げられるというわけではない。

私たちの無力に見える人間的な要素の只中に、キリストが働いて下さり、すべての必要を満たすに十分な不思議な秩序が生まれるのである。

良い人間関係を得るには、キリスト者の人格的生長が必要である。たとえば、本人が無知である間は、周りにも、無知な人々が取り巻くであろうし、心の生長と共に、価値ある尊い人々との出会いが生まれて来る。

今、十年来、筆者の周りで続いて来た混乱に満ちた紛争が、終わりを告げようとしている。筆者の周りには、どんなことが起きても、筆者を決して見捨てず、裏切らず、そして、筆者の言い分の正しさを信じて、筆者の心の求めに応答してくれる人々が現れ始めたためだ。それは敵が長い間、蒔き続けて来た、分裂や、疑心暗鬼といった作戦が、ついに功を奏しなくなって、打ち破られたことを意味する。

しかし、そのように信頼できる人々が現れたのも、筆者自身が、彼らを命がけで愛し、従い抜こうと決意したことの結果であって、筆者が全く心を開かないのに、人々の側だけで、心を開いてくれたり、筆者を信じてくれることはない。

ある意味で、自分が人に与えたものだけが、自分に戻って来ているのだと言うこともできよう。
 
ところで、人に対して心を開くことは、裏切られたり、誤解されたり、離反されたり、不意の別れに至るリスクをも負うことを意味するから、容易なことではない。何より正直であらねばならないため、常に自分の心を試される。もちろん、信頼できる相手を見抜くための十分な知識と経験も必要となることは確かだが、人間関係に初めから100%の保障などというものがあるはずもない。

私たちは、常に様々な試練によって翻弄され、試されながら、自分で望んでいる関わりを、自分で作り上げて行くのである。状況や、相手の態度が、結果を決めるわけではない。物事の最終決定権を持っているのは、私たちキリスト者自身であり、私たちが心に信じ続けたことだけが確固として実現するのである。
 
2009年にキリストの十字架の死と復活の意味を知って以来、筆者は神に従う道を選びつつ、人間の指導者につき従うことを避けて来た。ところが、ここに来て、信仰者でないにも関わらず、目に見える人間としての地上の権威者に対し、神に従うのと同じように、従い抜くことの意味を教えられている。

そこには非常に不思議な、信仰者の交わりにも似た、えも言われぬ満足をもたらす関わりが存在することが分かった。
 
それは宗教団体とは関係のない、ごくごく普通の生活の中で起きていることである。

聖書はこう述べている、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22-24)

これは奴隷制のあった古代ローマ帝国の時代に、奴隷たちに向かって述べられた言葉であり、現代では、奴隷制度の肯定のためかと批判を受けることもあるかも知れない。確かに、奴隷制度は様々な理不尽をはらんでいたとはいえ、聖書はそうした制度の理不尽さを強調して、制度の廃止のために運動を起こすことなどを決して信者に奨励してはいなかった。

むしろ、各時代に、どんなに不合理な社会制度があっても、キリスト者は、あくまで地上において定められた主従関係や、社会の秩序を守りながら、その秩序を転覆させることなく、信仰のない主人に対しても、キリストに従うように従いなさい、その従順によって神に仕えることができる、と教えていたのである。

筆者はここしばらく、以上の御言葉の確かさを教えられている。信仰のない人々のもとで、地上の主人に従いながら、神に仕えることが、実際に可能なのだということを知らされている。

しかも、力づくで脅されて従うのではなく、生活のためにやむなく嫌々従うのでもなく、あくまで自由な意思により、真心から、主人に仕えなさいと言われているのであって、そのような関わりを打ち立てることは、実際に可能なのであり、それによって、天における報いを得ることができると知らされている。
 
それにしても、筆者の人生において実現している物事は、すべてが信仰によって呼び出されて来たものばかりである。

筆者はキリスト者の交わりに属していた頃も、新たな交わりに足を踏み入れる前には、必ずと言って良いほど、兄弟姉妹の心を得られるように、主に祈った。「主よ、あの人の心を私に与えて下さい」と、あまりに大胆かつ率直な祈りをしていたことを、しばしば兄弟姉妹にも、語ったくらいである。

それは、筆者が、見知らぬ交わりの中に出て行こうとする時、自分の生来の力を頼みとして、人々との関わりを築くことができないのを分かって、恐れを感じつつ、ただ主の御名のゆえに、自分がそこで受け入れられ、願っている交わりが実現するよう、神に求めたものであった。

そして、神は筆者がやむにやまれぬ思いから、新たな交わりに足を踏み入れる必要を覚えていることを知って下さり、必ずと言って良いほど、願いに応えて下さり、ほとんど特別と言っても良いほどに親しい交わりを与えて下さったのである。

筆者は、通過したほとんどの交わりにおいて、最も重要な部分を目撃し、必要不可欠と思われる体験を得ることができたと考えている。筆者が自らそれを手放すまでの間、その交わりは有意義であり続けた。だが、当時の筆者は、信仰の有無に関わらず、あらゆる人間関係は、暗闇の勢力によって激しく試され、その試練を乗り越えたものだけが、永遠に価値あるものとして残るのだという事実を知らなかった。

筆者が属した交わりにおいては、絶えず分裂、敵対、信頼関係を破壊するための様々な陰謀や工作がはりめぐらされた。それらすべての策略を乗り越え、信頼関係を守り抜かなければ、交わりを有効に保つことができないという事実を、筆者が知らされるまでには、相当に長い月日と、痛みに満ちた経験がなくてはならなかった。

そうした試みのすべてを耐え抜くためには、ただ現実的な策を講じるだけでは不十分であり、何より自分の心で、大切にしている人々や価値を、最後まで手放さずに、守り抜くための激しい防衛戦が必要となった。

目に見える状況に変化が起きるよりも前に、まず自分自身が、その交わりが、どれほどの疑いの中でも、神聖さを保たれ、守り抜かれることを信じ切らねばならないのである。心の戦いを突破したものだけが、現実生活において、揺るぎない価値として守り抜かれるのであって、防衛を諦めてしまった時点で、結果は確定する。

それが、とりなしの祈りの効果でもあるのだが、それには、とりなしの祈りなどという一般的な言葉では表現しきれないほどの意味がある。愛する人々を、絶対に一歩も退かないという強い覚悟と決意のもとで、敵の陣営から行われる激しい攻撃と圧迫の中から断固、守り抜く姿勢が必要となる。そうした激しい心の戦いに勝利をおさめ、自分の心のすべての恐れを自ら打ち破って、尊い価値ある交わりを保たなければならないと分かったのは、様々な試練によって、実に多くの交わりが、壊滅的なダメージを受け、破壊され、離散して、だいぶ後になってからのことであった。

私たちは、敵のあらゆる攻撃から、自分たちの交わりを信仰によって守る必要がある。そうして敵の放つ死の力によって触れられることなく、それによって滅ぼされなかったものだけが、復活の領域に移行し、揺るぎない価値として残るのである。

そのようなわけで、筆者が受けた判決文も、バプテスマを通過することを求められた。判決を放棄せよと求められたこと自体が、筆者にとって、一種の「死」を意味した。これは王妃エステルが王の前に進み出るに当たり、死を覚悟した瞬間にも似て、筆者が、価値ある宣言を守り抜くために、与えられた試練であった。

だが、こうして判決文が筆者と共に、信仰よって試されることになったのは、非常に良い契機であり、また必要不可欠な試練だったと言える。なぜなら、それによって、私たちは新たに死をかいくぐって、復活の世界に移行することができるからである。

筆者はすべての恐れに打ち勝って、これを守り抜くことができると確信している。そして、洪水のあとには、静けさと平和が訪れ、以前のような戦いはもうなくなることも。その領域に移行した時こそ、以下の御言葉を大胆に宣言できるだろう。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり

 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

このような天的秩序が実現するためには、私たちが深く主の死の中にとどまることが必要であり、それだからこそ、筆者が大切にしている価値は、常にあらゆる方法で試され、信仰によって試され、死を経由して復活の領域に移行し、そこで目に見えない永遠の証印を押されなければならないのである。

判決文は、筆者にとって、初めから、死んだ文字ではなく、実に不思議な効力を及ぼして、筆者に生きた命に溢れる出会いを与えてくれるものだったのだが、それが復活の領域に移行した後では、今まで以上に、不思議な効力を持つものへと変わるだろうと思う。

それはもはや紛争当事者に対する法的宣言などという意味合いをはるかに超えて、永遠に至るまでも変わらない、神から筆者へ向けられた愛の宣言のような効果を持つものとなり、常に筆者の生きているそば近くに、この地にいつまでも約束としてとどまり、筆者のみならず、筆者の死後に至るまで、広域に渡り、影響を及ぼすだろうという気がしてならない。
 
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 
それは未来に起こることでありながら、同時に現在起きていることなのであり、筆者は、信頼する人たちと共に、その宣言がもたらす洪水のような愛の只中にすでに立たされていることを感じている。その生きた宣言あればこそ、現在の人間関係も与えられたのであり、その交わりはこれから生長し、深まって行くものなのである。

判決文に限らず、すべての言葉は、筆者から見ると、実体を呼び起こすための命令である。命令としての効力を失って、抜け殻となった言葉は、もはや言葉とは呼べず、単なる死んだ文字の羅列でしかなく、筆者は、そういうものを憎んでいる。

だから、法的効力を失った判決文などというものを、筆者は考えることさえできないのであって、元来、言葉というものは、およそすべてが命を保った、実体の伴う、生きた効力を持つものでなければならず、権威ある命令でなくてはならない。

私たちキリスト者は特に、自分は神の力ある御言葉によって生かされているのであって、目に見えるすべてのものは、神の言葉によって保たれていることを信じている。その言葉とは、うわべだけの文字の羅列でなく、神が最初に天地を創造され、「光あれ」と命じられた時と同じ、真のリアリティとしての言葉である。

だから、判決文が、その効力を保つかどうかという問題は、筆者にとっては、筆者自身の生死に直結しており、それはつまり、筆者が、この先、命なるキリストご自身を知って、その御言葉によって生かされることの絶大な価値を知った後の、生きた言葉の世界にとどまるのか、それとも、キリストご自身に出会う前の、一切の希望のない、死んだ文字の世界に自ら逆戻るのか、という問題に直結している。
 
それは筆者がエクソダス前の世界に戻るのか、エクソダス後の世界にとどまるのか、という分岐点でもある。

エジプト軍は、何とかしてエクソダスを押しとどめようと、武器を手に主の民を追って来るが、私たちはすでに紅海を渡ったのであり、時計の針を逆にして、エジプトに戻って罪と死の奴隷になることはできない。

筆者は、ただ時間軸を逆にできないから、キリストを知る以前には戻れないというだけでなく、新たな出会いによって生まれた愛の関係が、あまりにも強く、死によっても断ち切れないほど強いものであるから、それに出会う前の自分に戻ることは決してできないと言う他ない。

そのことは、人がキリストに出会って、花嫁なる教会として完成するためには、「その父と母を離れ」、すなわち、自分の生まれながらの出自に死んで、新たな出会いに向かうことが必要であるという次の御言葉にも重なる。

「「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31-32)

ウォッチマン・ニーが、このことを『キリスト者の標準』の中で巧みに表現している。人類は、キリストの十字架を知って、救われる以前には、アダム、もしくは、モーセの律法(罪と死の法則)という残酷な「夫」に結ばれて、己が罪のゆえに絶えず責め立てられ、罰せられ、奴隷として売られ、過酷な生活を送っていたが、主と共なる十字架の死によって、その悪しき天然の関係が断ち切られ、キリストを新たな主人とする「再婚」が成立し、私たちは新たな自由な生活に入ったのだと。

エクソダス前の世界は、律法の支配する世界であり、そこには、罪と死の法則だけが働き、人は絶え間なく死の恐怖に脅されて、暗闇の勢力に屈従するしかない。それは不自由と、苦痛の満ち溢れた世界である。それは生まれながらの父母、すなわち、アダム来の出自が支配する世界である。

だが、神は私たちを暗闇の支配から連れ出し、愛する御子の支配下である、エクソダス後の世界へと導かれた。私たちはそこで生まれながらの「父と母を離れ」、新たな主人であるキリストに結ばれて、命の御霊の法則の中を、自由と安息の中を生きる。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

これは花嫁のベールアウトの瞬間であると以前に述べたことがある。ただ罪と死の法則から解放されるだけでなく、神と人とが、顔と顔を合わせて相見え、「似た者同士」へ変えられる。人類にとっては、弱く、劣って、みすぼらしい生まれながらの出自に死んで、神の栄光を反映し、キリストの性質を内側から付与されて、主に似た、新しい者へと変えられて行く過程である。

これが、キリストとエクレシアとの「結婚生活」であり、その生活は、私たちにあまりにも大きな平安、安息をもたらすものであって、そこには愛に基づく自由な関係が成立しており、栄光に満ちた変容がある。

そこで、このような絶大な解放、栄化の恵みが、信じる者に約束されていることを知ってしまった後で、再び以前の世界に、すなわち、「父と母」(アダム来の出自)に戻ることは、もはや不可能である。

そのような復活の領域へ向かう過程で、判決文のみならず、筆者自身や、筆者の人間関係や、筆者の交わりも、すべて絶え間なく、十字架を通るよう、試されており、死をくぐることによって、新たな価値としてよみがえらされている。

筆者の側で必要なことは、どんなに試みられても、心の中で、固く信頼を保ち、価値ある宝を手放さずに保ち続けることである。

保ち続けるとは、絶えずエクソダスを経て、復活の領域にそれらが保たれるよう、筆者にとってかけがえのない価値であるもの、人々を、絶えず守り抜き、かくまうことである。
 
それは言葉を変えれば、愛し、信頼し続け、呼び寄せ続けることを意味する。必ずしも、愛には愛で応答があるから、誰かを愛する、というものではない。地上でどんな関わりがあろうと、応答があろうとなかろうと、その関わりを決して手放したくない、敵に渡したくないと願うならば、自分の側からの愛と信頼を、どんなことがあっても、投げ捨ててはならないのである。

私たちが信仰の領域で、手放さなかった関係だけが、永遠に至るまで残り続ける。この法則性はすべてにおいて同じである。私たちの生活も、健康も、経済も、何もかもすべてが、私たちの信仰にかかっているのであって、信仰の領域において、私たちがあらゆる試みにも関わらず、確固として守り抜いて手放さなかったもの以外は、すべて滅びゆくものとして消え去って行くことになる。
 
そのことが筆者に分かるまで、相当に長い歳月が必要であった。だが、それを学習するために、最も必要だったのは、筆者が命を投げ打ってでも、自分自身がどうなっても構わないから、自分のすべてと引き換えにしてでも、守り抜きたいと思う交わりや、人々、価値に出会うことだったかも知れない。

キリストと信じる者とが、非常に強い信仰による愛の絆によって一つに結ばれているように、その他の人々との間でも、同じような強固な愛と信頼による連帯が、生まれることが必要だったのである。

神の御言葉は、相当以前から、筆者の心に蒔かれ、筆者の内側で発芽し、霊的には一つとなっていたが、筆者は、自分一人だけでは、主の御身体なる教会を完全に構成することができず、主の御思いを表すためには、団体に編成される必要があった。

敵はそれを全力で妨害し、筆者が決して人々と連帯しないよう、分裂や、悪評や、疑心暗鬼の種を蒔き、筆者を人々から引き離そうとしたが、判決は、そうして蒔かれた不信を打ち破り、筆者を信頼へと導き、筆者と人々との間に、確固とした協力関係、連帯が成立しうることの最初の強力な証しとなった。

主の御言葉が、筆者の霊に刻みつけられ、神との関係を再生させたように、人の書いた言葉である判決も、不思議な形で、筆者の心の中に刻みつけられ、筆者の人間関係を新たに再生させたのである。

そこで筆者は、以前には、信仰のためならば、命を賭しても構わないと、絶えず告白し続けて来たが、現在は、そうした生き方が、主に対して仕えるように、人々に仕え、人々を愛し、信頼するために、自己放棄するという生き方の中に実現するようになった。

以前には、筆者は、自分には確固とした信念があると思っていたが、今はかえって、人々の方に、筆者よりも、まさった信念、あるいは、高い目的があり、権威ある言葉や、宣言を発することができる人々がいることも分かったので、そうした人々を見ると、筆者は喜んで自分の考えを投げ捨て、彼らと共に協力して進んで行くようになった。

信仰者であるかないかはもはや関係がなく、信仰がなくとも、そこに信徒の交わりに非常に近い、それと同じくらい、愛情や、配慮に満ちた、強い信頼で結ばれた関係が成立している。筆者は、彼らに信仰がなくとも、自らの信仰によって、彼らを覆い尽くし、彼らを十字架のバリケードの中に入れてしまう。

そのように自由で新しい協力関係が、気づくと始まっており、筆者はもはや一人で生きているのではなく、キリストの目に見えない御身体なる団体の一員として召されている事実を発見した。また、そこで間接と関節をつなぎ、命を流し出すための管として置かれている役目が分かってしまったので、その役目を発見しなかった以前に逆戻ることはできない。

おそらく、生ける水を流し出すための干潟の掘削作業の中で、その水の流れを押しとどめていた最後の障害を、判決はぶち抜いて取り払ったのである。

だから、今や前から書いている通り、この不思議な名のついた土地から、全国に向かって、命の水が、生ける水の川々が、奔流のように流れ出す時が来ている。それはやがて洪水のようにすべてを覆い尽くし、やがて命が死を飲み尽くしてしまうだろう。

その頃には、筆者が辿って来た苦難の痕跡など、人が思い出すこともなくなるに違いない。筆者自身は、それを覚えているが、それも慰めや励ましによって、良き思い出に変えられていることであろう。

今、巨大なパイプラインからの放水作業が、すでに始まっているのであって、この作業はもはや何人もとどめることができないほどの勢いになろうとしている。

神は人々を死に至らしめるのではなく、立ち帰って生きることを望んでおられるのであって、尊い御子の犠牲の上に、神が自由を宣告された人々を、再び死の恐怖の奴隷とすることは、誰にもできない。

神が結び合わせたものを、人が引き離すことはできない。そこで、キリストとエクレシアとが強い愛と信頼の絆で結ばれているように、エクレシアの只中にも、愛や慰めや配慮に満ちた命が駆け巡っているのであって、一人一人はそこで助け合い、支え合う関係に置かれているのであり、これらをばらばらに分解して、再び出会わなかった以前に引き戻すことはできない。
 
主の民を追って紅海を渡ろうとしたエジプト軍は溺れ死んでしまった。主の民を絶滅させようと企んだハマンは木にかけられて吊るされた。筆者に命を与えた宣言を無効化しようなどと考える人々がいれば、かえってその人々自身が、命を奪われることになる。
 
筆者には、目には見えずとも、筆者のいる干潟から、命の泉がすでに激しい流れとなって湧き出ていること、祝福に満ちた流れとなって、筆者の周囲を潤していること、やがては洪水のような流れにさえなって行くだろうことが確信できる。敵にとらわれていた人でさえ、その様子を見れば、立ち帰って、その恩恵にあずかりたいと願うことであろう。

多くの人々が、敵の策略によって分裂、離散したが、同時に、信仰によって、多くの人たちを獲得し、さらにまさった交わりを得ることができた。その交わりは、未だかつてないような深いレベルに達しており、筆者の弱ったところや、欠けたところをも、覆い尽くしてし、互いの弱さをかばい、支え合うことのできる命の交換が確かに行われていることが分かる。

だから、いつの日か、紛争などというものがかつてあったことさえ、忘れ去られる時が来よう。それよりも、こうして、団体としての体が、少しずつ組み合わさり、生ける霊の家として生長しつつあり、御座から始まる、激しく、同時に、優しく、清らかで、澄んだ、生ける命の水の流れを、ようやくこの地から、本格的に流し出す作業が始まったことが、大きな喜びである。

この見えない事業の価値を確かに知っている人は、ほとんどいないが、筆者には、非常に長期に渡る壮大な事業が確かに開始したことが分かり、それがやがて多くの人々を潤すときを待ち望むだけである。
 
「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の満ちにとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 神に逆らう者はそうではない。
 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 神に逆らう者は裁きに堪えず
 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩編第1編)

私ではなくキリスト―自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 (ヨハネ12:24-26)

とても奇妙な夢を見た。横浜の小高い丘の上に、保養施設のような大きな家があった。

その保養施設は、私のよく知るとある宗教指導者が、集会に通う信者のレクリエーションのためにもうけたものであり、その指導者は車で私をその家の前まで案内したのであった。

到着すると、指導者は私に鍵を手渡して、この施設の管理をこれからすべて私に任せると述べた。

門の向こうの敷地内には、広い庭が広がっていた。屋敷の正面玄関までは、車いすが五台くらい並んで通れそうなほど、広く緩やかな坂道が続いている。

その指導者がこの施設の鍵を私に託したことは、いずれこの施設そのものを私に譲り渡すという意思表示のように感じられた。家屋敷だけでなく、信者の管理も、私に任せるという意思だと感じられた。何と大きな信任であろうか。

後日、私は、自分一人で車を運転して、夜にこの施設にやって来た。これからこの家屋敷をどう管理しようかと考え、計画を練るために来たのである。ところが、中へ入ると、屋敷内では、幼い子供たちを連れたいくつもの家族連れが、勝手に中に入って走り回って遊んでいた。さらに、よく知らない住人までもいた。

彼らは宗教指導者が滅多にこの施設に来ないことを知っていて、この家屋敷を普段から遊び場として利用し、我が物顔に占拠していたのであった。だが、私の姿を見ると、親子連れはバツが悪そうにそそくさと立ち去って行った。

私はその屋敷内にたくさんの部屋があり、広い廊下があり、いくつもの収納があるのを確かめた。住居として利用しても、数多くの空き部屋があるため、何の問題もない。だが、まずは不法侵入者をきちんと撃退して、勝手に人々が立ち入りできないようにし、この家屋敷を信者のために役立てられるようにせねばならない。

どうやってこれを管理すべきだろうか。自分がここに住むべきか、それとも、頻繁に訪れて点検すべきか、どのようにして信者に利用させたら良いのか・・・

考えている途中で、ふと思い出した。その宗教指導者は、確か私とは対立関係にあったはずである。それなのに、なぜこのような大きな財産を私に託す気になったのだろうか。なぜ私にそのような権限を与える気になったのであろうか。

そう考えたところで目が覚めた。目覚めると同時に、ポテパルの家を管理していたヨセフのことを思い出した。

ヨセフの生涯は、苦難の連続であった。彼は幼い頃に、自分が兄弟の誰よりも高貴な責任ある地位に就くことになると予感していた。だが、その地位にたどり着くまでに、彼が経験したのは、裏切り、そして、徹底的な苦難の道であった。

それでも、ヨセフは次第に苦難に立ち向かう術を知り、周囲の人たちから信頼を得るようになる。生涯の終わりに近づくに連れて、ヨセフはより多くのもの、より責任の伴う大きなものの管理を任されるようになった。エジプトの宰相になったヨセフはついに国を任されるようになったのである。
  
夢の中で見た家屋敷は、私に託されたものであったとはいえ、たくさんの不法住人に占拠されていた。まずは彼らをどうやって撃退するかを考えるところから、管理は始まった。

それとよく似て、今、私はまだ人生で多くの事柄について、迷いやためらいを抱えている。だが、そのような中でも、これから何を目的に目指して生きるべきか、どこへ向かうべきか、少しずつ、おぼろげながらとはいえ、目標が分かって来たのである。

これまで、私は弱者救済という言葉がとても好きではなかった。正義の旗を掲げて、いかにも弱い人たち、困った人たちの助けになっていますといった風を装い、弱者の代弁者として生きる人々にはうさん臭さしか感じられず、自分がそのようなことを公言するのも嫌だと考え、極力避けて来た。

だが、そんなアピールをするかどうかはともかくとして、これから先、私は、私と同じような、無数の目に見えない弱者、虐げられた人々の代弁者として、彼らの自由や解放に貢献する者として生きねばならないし、そうしたいと思うのだ。

逆に言えば、それができなければ、決して真の意味での成功や、あるべき高貴な地位にも就けないだろうことが、次第に分かり始めたのである。

人間の本当の高貴さは、自分自身の能力や経験や知識に基づくものではない。私の人生は、私一人ではなく、多くの人たちと密接に関連している。現実の私は、もちろん、宗教指導者でもなければ、自分の群れの羊などもおらず、私の手に任された信者などもいはしない。ところが、目に見えない領域では、私の行動は多くの人たちと関係している。

そこで、人々との関係性の中で、真にあるべき使命を果たすことができるようになった時に、私は初めて本当に高貴な人として、あるべき地位に就くことができるだろうことが感じられるのである。

そのために、何をすれば良いのか。それが次第に見えて来たのである。

アンシャン・レジームが終わろうとしている。新しい体制の担い手として、新たな時代を到来させるべく働くことこそ、真にあるべき地位、あるべき立場を見いだす秘訣である。
 
それは、人の目にはまだはっきりと見えていない、見えない領域に存在する新しい事実を、見えるものとしてこの地上に打ち立てることである。
 
私は以前から法体系という巨大な高層ビルの地下に降りて、基礎構造を確かめていると書いている。それは後々これを変えるための下準備である。

法体系は家の基礎構造のようなもので、屋台骨が腐れば、家は崩壊する。基礎構造を堅固なものとし、その骨組みによって、あらゆる物事をきちんと支えられるようにすることが、家を安全に保つ第一の秘訣である。

しかし、我が国という家には、いくつも屋台骨の腐食が見られる。土台の交換が必要となっている部分がたくさん存在するのである。

死文化した法というものが存在する。現実にはいくつもの違反があるのに、それを取り締まるための法が、ほとんど機能しなくなったような例がいくつもある。特に行政法はそうだ。行政法を管理する役所までが機能停止しているため、法は死文化し、どれほど数多くの違反が発生しようとも、違反自体がなかったこととされて終わる。そんな例が無数にある。

こうして死文化し、機能不全となった法を蘇生させ、現実に適用可能にしていくためのプロセスが必要である。言葉は生きている。それを生きたものとして現実に当てはめる方法論が要る。

死文化した法を蘇生して命を通わせる方法、そして、もし蘇生措置がないなら、法そのものを改正させる方法が必要なのである。

今、屋台骨が腐食しているせいで、雨漏りがしようと、隙間風が吹こうと、困っている人たちはどこにも助けを求められない。そういう事例があることさえ、人々は知らない。

そこで、今すぐに交換作業ができずとも、いつか未来にこの腐食部分を交換して、しっかりした骨組みに変えねばならない。そのための下見と点検作業を私は行っているのだ。

問題を取り上げて指摘する人がいなければ、そこに光が当てられることさえない。私が行っているのは、やがて来るべき改正に備えて議論の土台を作ることである。

訴訟をしてみて分かったことは、目指す目的がどれほど遠大なものであるかによって、各人の歩みが決定的に変わってしまうことだ。どこまで遠く歩いて行けると信じるか、どこまで遠くを目指すのか、それは各人が払える犠牲の大きさによって変わる。

つい昨日まで、私は裁判官という職務をとても尊いものだと考え、人々に命や解放を与える判決を書く仕事は、とても価値あるものだと思っていた。

ところが、今日は、尊いのは裁判官ではなく、判決を得るために戦い抜く人たちであると分かった。どんなに人格的に傑出した裁判官が存在していたとしても、粘り強く判決を求めて戦い抜く人たちの勇気と努力がなければ、何一つ達成はされない。

つまり、本当の英雄は、戦い抜いて勝利する無名の市民たちなのだと分かったのである。

もちろん、裁判官の人柄も、裁判の行く末を左右する重要な要素の一つではある。人格高潔な裁判官の存在は、市民にとって必要である。

だが、 画期的な判決を得られるかどうかは、それを得るまで確信に立って戦い抜く人たちが存在するかどうかにかかっているのだ。

そこで、一番の立役者はやはり無名の市民なのだと言えるだろう。

信仰の世界でも、それと同じように、私たち自身が御言葉を信じて、どれほど遠くまで歩いて行けるかにすべてがかかっている。
 
キリストがカルバリで取られた勝利の判決が、我々が実生活で遭遇するすべての問題を克服する根拠となるとはいえ、最も大きくものを言うのは、私たち自身の側からの信仰による応答なのである。

もしも私たちに信仰がなければ、神でさえ、私たちの人生をどうすることもできない。御言葉は死んだものとして、私たちの人生に適用されず、何の解放も勝利も生まれては来ない。

御言葉を生きたものとして、私たちの人生に適用するために、必要なのは、我々の側からの信仰、信仰に基づく応答である。
 
それが、神がこの地上におけるすべてを私たち人間に託され、任せておられる所以である。
 
そういう意味で、遠くまで犠牲を払って歩いて行くために、覚悟を決めねばならない時が来ている。だが、それは想像するよりもずっとずっと難しいことである。

絶えず困難に直面する勇気と覚悟なしにはできない決断である。
 
その歩みができるかどうかは、私たちの心次第であって、決して善良な他人に期待したり、他人に解決のバトンを預けてはならない。他人の人柄や決断がものを言うのではなく、また、自分の心を満足させるために、安易な妥協点で立ち止まるわけにもいかない。主が満足されるレベルまで犠牲を払って到達しなければならない。

それが、当ブログを巡る訴訟でも、一審で立ち止まれなかった理由である。

筆者は当時、戦いを早期にやめることに価値があると考えていた。裁判官も、筆者を争いから救い出そうとしてくれたし、その配慮はとても深い思いやりや、優しさに基づく、善良さから出た行為であるように思われた。

筆者だけではない。その当時、当事者の誰一人、この解決に反対する者もなく、これを平和であり、解決であると考え、そこで終止符を打つことに疑問を持っていないように見えた。

ところが、それにも関わらず、物事はそこで終わりにならなかったのである。それは人間的な観点から見れば、申し分のない解決のように見えたかも知れないが、偽りの平和であり、中途半端な解決でしかなく、宣言されたその瞬間から、ほころびが見えており、崩れることが運命的に定められていたものと言える。

そのことは、未だに一審判決が実現していないことを見ても分かるのだ。もしもこれが平和ならば、誰もがそこで立ち止まっていただけでなく、きちんとその判決が実行に移されていたであろう。そして、実行に移されてさえいれば、私自身でさえ、満足してそこで立ち止まっていたに違いない。私はそれ以上のものを求めるつもりもなかったのだから。

ところが、そうなっていない現状があるのは、これが最終解決ではあり得ず、そこで立ち止まって満足してしまっては決していけない事情があるからなのだ。

戦いは続行しており、それがたとえ人間的な観点から見て、消耗や損失に見えたとしても、中途でこれを放り出して立ち止まってしまうわけには行かない事情が存在するのである。

これは断じて人間的な思いに基づいて生まれた結果ではない、と私は考えている。むろん、裁判官の落度でもなければ、当事者である私の落度でもない。人間の思惑を超えた領域で起きている戦いの結果である。
 
ここで満足して立ち止まることを、主は、私にも、他の誰にも、お許しにならなかったのである。
  
当事者がどんなに人間的な観点に立って、これこそ解決だとみなすものがあっても、成らないものは、決して成らない。

特に、私の人生においてはそうだ。私自身がどんなに人間的な情愛から相手を赦そうと願っても、決して赦すことのかなわない相手も存在する。どんなに人間的に和解や、融和や、提携や、協力を願っても、成り立たない関係も存在する。

肉親であれ、他人であれ、誰かを愛するにも、関わるにも離れるにも、決して私だけの思いでこれを実行に移すことが許されないのである。
 
そして、何をするにしても、神の満足される目標以下のものは、人間的な観点からどんなに満足と見えても、結局、偽りの解決として、退けられ、打ち壊され、否定される。

私自身の目に最高と見える願いでさえ、主の御旨に届かなければ、打ち壊されることとなる。

そういう結果になることを、私自身が幾度も見て来た。

そこで、私は物事を決断するに当たり、決して自分の人間的な思いで安易な妥協をせず、主の御旨だけがなるように深く祈らされる。

私の人間的な思いに基づく解決は徹底的に退けられて、神の満足される水準と目的が明らかにされるよう祈る。

なぜなら、私自身の思いに従って行動しても、それが主の御心に反するならば、決してその行動に実りはないことが分かっているからだ。

そして、一旦、目指すべき目標が分かったならば、そこに至るまでに必要なすべての犠牲を払うことができるよう、その目的を決して取り逃がすことがないよう、勝利を得るまで戦い抜くことができるようにと祈る。

今、私は、いくつもの決断を迫られている。目的地に向かって歩き通すことが必要ならば、そのために必要なすべての判断材料を主が集めて下さるように、そのための道しるべを示して下さるように、歩き通す力を与えて下さるようにと願わずにいられない。

なぜなら、その犠牲が払われた時、初めて、私以外の人たちが、私の戦いの成果によって、恩恵を受けることができるからである。

とはいえ、ただ困難のためだけに困難を求める必要はない。争いを早期に終わらせることが主の御心ならば、それは成就するであろうし、そうなる可能性が十分に残されているときに、これを無駄に退ける必要はない。
 
今、とても重要な出来事が進行中である。私はそこで何が真の解決であるかを見極めるための最後のテストをいくつか主に願い出ているところだ。

これらすべての試験が一つ一つリトマス試験紙となって、何が正しい答えであり、解決であるのか、私の行く道をはっきり指し示してくれるだろう。

もしも主が願っておられる事柄が何であるか知りたいならば、主の御心は、私たちの側からの忍耐強いテストをすべて通過して、これに耐えうるものであることを覚えておかれると良い。

神は私たちの理解や納得を置き去りにして、無理やり何かを私たちに強制されたりはなさらない。強引に力ずくで、私たちを圧倒して、私たちの願いを置き去りにして、何かを受け入れるよう求めたりはなさらない。もしも私たちが真に御心を知り、これに従いたいと願うならば、神は私たちが納得できるまで、御心を確かめることを許して下さる。

だから、私は主の御心だけが成るようにと願った上で、何が真の解決であるのか、示して下さいと願い求める。主が私に任されようとしているものが何であるか、私自身に見分けることができるようにと、祈らないわけにいかない。主は必ず、一人一人に分かるように示して下さるはずである。

* * *

さて、私は船の右側に網を降ろすことにした。

長年、携わって来た私の専門分野というものが存在したが、その分野は、ここ5年間ほどのスパンだけを取って見ても、年々、収穫がなくなり、未来の展望もなくなり、不毛地帯のようになって行った。

そこで観察されるのは、コネや血縁による出世、サークルによる癒着、専門家同士の排除のし合い、企業による専門家への徹底的な搾取、といったものばかりで、要するに、同業者が互いに潰し合っているだけで、目覚ましい成果もなく、この分野からは、何も未来につながる展望が生まれて来るようには見受けられなかった。

そこで、私は勝負する分野を変えることとしたのである。

一体、どの分野ならば、本当に私のような人間が必要とされているのか、何をすることが、残る人生の時間を最も有益に用いることになるのか、 もう一度、これから先の人生で何を目的として目指すべきか、再び、その土台から考え直すこととなった。

それに際して、以前にも書いた通り、プロテスタントにも、資本主義にも、私のかつての専門にも、もはや戻ることはないと決意したのである。

次なる目標は、長い間、立ち止まって考えずとも、それなりに見えて来た。

当ブログに対する権利侵害を裁判所に持ち出したとき、私は今まで全く知らなかった未知の分野に触れることとなった。そこに新しい人生の展望をおぼろげながら見いだしたのである。

それは、法によって保障された権利を人生において具体的に取り返し、実現するという展望である。

むろん、私は法律の専門家ではないので、裁判官や弁護士のように、生涯、法廷を戦いの舞台として生きるつもりはないし、その他の何かしらの専門家として、もしくは、人助けのために、他人の裁判に関わるつもりもない。

だが、裁判という勝負の舞台が存在することを知ったのは、私の人生において、非常に大きな学びであった。書面を書き、主張を練り上げ、判決を通して、自由を獲得して行く方法があると知ったこと、一つの画期的な判決が、どれほど社会に影響を与えるかを知ったこと、それを得るための苦労を知ったことも、人生の大きな前進であり、学びであった。

私は法廷闘争を人生の糧とすることは決してないが、裁判所の判決が社会を変えて行く力を持っていること、さらにそこからもっと進んで、法改正を行えば、もっと多くの自由を社会にもたらすことができることも分かった。

前述の通り、法体系の中に、非常に重要な、尽きせぬ命の泉のようなものが隠されていることを発見したのである。

そういう意味で、私は自分なりの方法で、この泉から命の水を汲み上げ、約束された自由と権利を手にできないでいる人々を助けるために、残る人生を費やしたいと願うようになった。困っている人たちのために働くなどと、標語のようなことを言うつもりはない。ただ私自身が、自らの人生で、戦って束縛を抜け出し、一歩一歩、自由と解放を勝ち取って行くことにより、おそらくは、私のみならず、同じような問題に直面している大勢の人たちにも、必ず、解放的な影響を与えることができると信じている。そういう歩みを進めて行きたいのである。

私はこうして、専門家である肩書も捨て去り、自分の分野を去り、ただの無名の市民に戻ることとした。おそらく、専門家などという肩書を今後、二度と振りかざすことはあるまい。戦いは困難であればあるほど面白い。ますます何者でもない無名の弱者の立場から、最も高く遠大な目に見えない目的を目指して歩き続けたいと願うのだ。生きているうちにどこまで進めるか分からないが、地道に一歩一歩歩いて行けば、必ず、いつかヨセフのような到達点が見えて来ることであろう。

私はどうしても我が国が今のような現状のままではいけないと考えている。現在の日本は階級社会に移行しつつあると言われている。もはや格差ではなく、階級が出現している。それがますます固定化しつつある。

だが、そうして弱い人々を蔑み、虐げ、踏みにじり、弱い者たちをいつまでも弱さの中にとどめ、束縛から自由にさせない今の目に見えない社会の体制と風潮は根本的に変えられねばならない。そのために、どうしてもこの風潮に風穴を開けねばならないという危機感を覚えている。

とはいえ、私はその願いを、他の人たちとは全く異なるユニークな方法によって、実行に移して生きていきたいと願う。その具体的な方法論を今ここに書くことはしないものの、これから、その目標を実現することが、私のライフワークとなって行くだろうと分かる。そして、その方法がより洗練されて明らなものになればなるほど、私自身のユニークな生き方が確立し、人生の到達点も見えて来るだろう。

とにもかくにも、私は自分の網を、今まで考えていたのとは全く反対側に向かって投げることにした。すると、あれほど長い不毛の月日が続いたというのに、一瞬のうちに、網には魚がかなりたくさん入り、重くなっている。こういうものなのだ。長い不毛な行列にいつまでも並んでいても仕方がない。開いた扉に向かって走りなさい。

神の国と神の義を第一とし、心から真に正しいと思う目的に奉仕して生きるなら、何一つ不安に思うことはない。必要なものはすべて添えて与えられる。そして、自由になった時間を、自分のためではなく、他の人々のために費やすことができるようになる。

私は、もはや私だけのために生きているのではなく、主が置いて下さったこの地上において、果たすべき役割を果たすため、目には見えないが、大勢の人たちと、見えない領域で、手を取り合うように、彼らの利益のためにも生きているという、この生き方の目標、感覚は、今後、二度と変わることはないだろうと思う。

それは、私が自分の専門や自分の知識や経験に生きている間は、ついぞ感じられることのない感覚であった。自分の個人的な人生の目的と個人的な満足を投げ捨て、自分自身の垣根を取り払い、何者でもなくなったとき、初めてその感覚は到来したのである。私は新たな人生の目的を見つけ、新たに奉仕すべき人々の群れを見つけた。この方向性は今後、変わることはもうないだろうと思う。