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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

私ではなくキリスト―自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 (ヨハネ12:24-26)

とても奇妙な夢を見た。横浜の小高い丘の上に、保養施設のような大きな家があった。

その保養施設は、私のよく知るとある宗教指導者が、集会に通う信者のレクリエーションのためにもうけたものであり、その指導者は車で私をその家の前まで案内したのであった。

到着すると、指導者は私に鍵を手渡して、この施設の管理をこれからすべて私に任せると述べた。

門の向こうの敷地内には、広い庭が広がっていた。屋敷の正面玄関までは、車いすが五台くらい並んで通れそうなほど、広く緩やかな坂道が続いている。

その指導者がこの施設の鍵を私に託したことは、いずれこの施設そのものを私に譲り渡すという意思表示のように感じられた。家屋敷だけでなく、信者の管理も、私に任せるという意思だと感じられた。何と大きな信任であろうか。

後日、私は、自分一人で車を運転して、夜にこの施設にやって来た。これからこの家屋敷をどう管理しようかと考え、計画を練るために来たのである。ところが、中へ入ると、屋敷内では、幼い子供たちを連れたいくつもの家族連れが、勝手に中に入って走り回って遊んでいた。さらに、よく知らない住人までもいた。

彼らは宗教指導者が滅多にこの施設に来ないことを知っていて、この家屋敷を普段から遊び場として利用し、我が物顔に占拠していたのであった。だが、私の姿を見ると、親子連れはバツが悪そうにそそくさと立ち去って行った。

私はその屋敷内にたくさんの部屋があり、広い廊下があり、いくつもの収納があるのを確かめた。住居として利用しても、数多くの空き部屋があるため、何の問題もない。だが、まずは不法侵入者をきちんと撃退して、勝手に人々が立ち入りできないようにし、この家屋敷を信者のために役立てられるようにせねばならない。

どうやってこれを管理すべきだろうか。自分がここに住むべきか、それとも、頻繁に訪れて点検すべきか、どのようにして信者に利用させたら良いのか・・・

考えている途中で、ふと思い出した。その宗教指導者は、確か私とは対立関係にあったはずである。それなのに、なぜこのような大きな財産を私に託す気になったのだろうか。なぜ私にそのような権限を与える気になったのであろうか。

そう考えたところで目が覚めた。目覚めると同時に、ポテパルの家を管理していたヨセフのことを思い出した。

ヨセフの生涯は、苦難の連続であった。彼は幼い頃に、自分が兄弟の誰よりも高貴な責任ある地位に就くことになると予感していた。だが、その地位にたどり着くまでに、彼が経験したのは、裏切り、そして、徹底的な苦難の道であった。

それでも、ヨセフは次第に苦難に立ち向かう術を知り、周囲の人たちから信頼を得るようになる。生涯の終わりに近づくに連れて、ヨセフはより多くのもの、より責任の伴う大きなものの管理を任されるようになった。エジプトの宰相になったヨセフはついに国を任されるようになったのである。
  
夢の中で見た家屋敷は、私に託されたものであったとはいえ、たくさんの不法住人に占拠されていた。まずは彼らをどうやって撃退するかを考えるところから、管理は始まった。

それとよく似て、今、私はまだ人生で多くの事柄について、迷いやためらいを抱えている。だが、そのような中でも、これから何を目的に目指して生きるべきか、どこへ向かうべきか、少しずつ、おぼろげながらとはいえ、目標が分かって来たのである。

これまで、私は弱者救済という言葉がとても好きではなかった。正義の旗を掲げて、いかにも弱い人たち、困った人たちの助けになっていますといった風を装い、弱者の代弁者として生きる人々にはうさん臭さしか感じられず、自分がそのようなことを公言するのも嫌だと考え、極力避けて来た。

だが、そんなアピールをするかどうかはともかくとして、これから先、私は、私と同じような、無数の目に見えない弱者、虐げられた人々の代弁者として、彼らの自由や解放に貢献する者として生きねばならないし、そうしたいと思うのだ。

逆に言えば、それができなければ、決して真の意味での成功や、あるべき高貴な地位にも就けないだろうことが、次第に分かり始めたのである。

人間の本当の高貴さは、自分自身の能力や経験や知識に基づくものではない。私の人生は、私一人ではなく、多くの人たちと密接に関連している。現実の私は、もちろん、宗教指導者でもなければ、自分の群れの羊などもおらず、私の手に任された信者などもいはしない。ところが、目に見えない領域では、私の行動は多くの人たちと関係している。

そこで、人々との関係性の中で、真にあるべき使命を果たすことができるようになった時に、私は初めて本当に高貴な人として、あるべき地位に就くことができるだろうことが感じられるのである。

そのために、何をすれば良いのか。それが次第に見えて来たのである。

アンシャン・レジームが終わろうとしている。新しい体制の担い手として、新たな時代を到来させるべく働くことこそ、真にあるべき地位、あるべき立場を見いだす秘訣である。
 
それは、人の目にはまだはっきりと見えていない、見えない領域に存在する新しい事実を、見えるものとしてこの地上に打ち立てることである。
 
私は以前から法体系という巨大な高層ビルの地下に降りて、基礎構造を確かめていると書いている。それは後々これを変えるための下準備である。

法体系は家の基礎構造のようなもので、屋台骨が腐れば、家は崩壊する。基礎構造を堅固なものとし、その骨組みによって、あらゆる物事をきちんと支えられるようにすることが、家を安全に保つ第一の秘訣である。

しかし、我が国という家には、いくつも屋台骨の腐食が見られる。土台の交換が必要となっている部分がたくさん存在するのである。

死文化した法というものが存在する。現実にはいくつもの違反があるのに、それを取り締まるための法が、ほとんど機能しなくなったような例がいくつもある。特に行政法はそうだ。行政法を管理する役所までが機能停止しているため、法は死文化し、どれほど数多くの違反が発生しようとも、違反自体がなかったこととされて終わる。そんな例が無数にある。

こうして死文化し、機能不全となった法を蘇生させ、現実に適用可能にしていくためのプロセスが必要である。言葉は生きている。それを生きたものとして現実に当てはめる方法論が要る。

死文化した法を蘇生して命を通わせる方法、そして、もし蘇生措置がないなら、法そのものを改正させる方法が必要なのである。

今、屋台骨が腐食しているせいで、雨漏りがしようと、隙間風が吹こうと、困っている人たちはどこにも助けを求められない。そういう事例があることさえ、人々は知らない。

そこで、今すぐに交換作業ができずとも、いつか未来にこの腐食部分を交換して、しっかりした骨組みに変えねばならない。そのための下見と点検作業を私は行っているのだ。

問題を取り上げて指摘する人がいなければ、そこに光が当てられることさえない。私が行っているのは、やがて来るべき改正に備えて議論の土台を作ることである。

訴訟をしてみて分かったことは、目指す目的がどれほど遠大なものであるかによって、各人の歩みが決定的に変わってしまうことだ。どこまで遠く歩いて行けると信じるか、どこまで遠くを目指すのか、それは各人が払える犠牲の大きさによって変わる。

つい昨日まで、私は裁判官という職務をとても尊いものだと考え、人々に命や解放を与える判決を書く仕事は、とても価値あるものだと思っていた。

ところが、今日は、尊いのは裁判官ではなく、判決を得るために戦い抜く人たちであると分かった。どんなに人格的に傑出した裁判官が存在していたとしても、粘り強く判決を求めて戦い抜く人たちの勇気と努力がなければ、何一つ達成はされない。

つまり、本当の英雄は、戦い抜いて勝利する無名の市民たちなのだと分かったのである。

もちろん、裁判官の人柄も、裁判の行く末を左右する重要な要素の一つではある。人格高潔な裁判官の存在は、市民にとって必要である。

だが、 画期的な判決を得られるかどうかは、それを得るまで確信に立って戦い抜く人たちが存在するかどうかにかかっているのだ。

そこで、一番の立役者はやはり無名の市民なのだと言えるだろう。

信仰の世界でも、それと同じように、私たち自身が御言葉を信じて、どれほど遠くまで歩いて行けるかにすべてがかかっている。
 
キリストがカルバリで取られた勝利の判決が、我々が実生活で遭遇するすべての問題を克服する根拠となるとはいえ、最も大きくものを言うのは、私たち自身の側からの信仰による応答なのである。

もしも私たちに信仰がなければ、神でさえ、私たちの人生をどうすることもできない。御言葉は死んだものとして、私たちの人生に適用されず、何の解放も勝利も生まれては来ない。

御言葉を生きたものとして、私たちの人生に適用するために、必要なのは、我々の側からの信仰、信仰に基づく応答である。
 
それが、神がこの地上におけるすべてを私たち人間に託され、任せておられる所以である。
 
そういう意味で、遠くまで犠牲を払って歩いて行くために、覚悟を決めねばならない時が来ている。だが、それは想像するよりもずっとずっと難しいことである。

絶えず困難に直面する勇気と覚悟なしにはできない決断である。
 
その歩みができるかどうかは、私たちの心次第であって、決して善良な他人に期待したり、他人に解決のバトンを預けてはならない。他人の人柄や決断がものを言うのではなく、また、自分の心を満足させるために、安易な妥協点で立ち止まるわけにもいかない。主が満足されるレベルまで犠牲を払って到達しなければならない。

それが、当ブログを巡る訴訟でも、一審で立ち止まれなかった理由である。

筆者は当時、戦いを早期にやめることに価値があると考えていた。裁判官も、筆者を争いから救い出そうとしてくれたし、その配慮はとても深い思いやりや、優しさに基づく、善良さから出た行為であるように思われた。

筆者だけではない。その当時、当事者の誰一人、この解決に反対する者もなく、これを平和であり、解決であると考え、そこで終止符を打つことに疑問を持っていないように見えた。

ところが、それにも関わらず、物事はそこで終わりにならなかったのである。それは人間的な観点から見れば、申し分のない解決のように見えたかも知れないが、偽りの平和であり、中途半端な解決でしかなく、宣言されたその瞬間から、ほころびが見えており、崩れることが運命的に定められていたものと言える。

そのことは、未だに一審判決が実現していないことを見ても分かるのだ。もしもこれが平和ならば、誰もがそこで立ち止まっていただけでなく、きちんとその判決が実行に移されていたであろう。そして、実行に移されてさえいれば、私自身でさえ、満足してそこで立ち止まっていたに違いない。私はそれ以上のものを求めるつもりもなかったのだから。

ところが、そうなっていない現状があるのは、これが最終解決ではあり得ず、そこで立ち止まって満足してしまっては決していけない事情があるからなのだ。

戦いは続行しており、それがたとえ人間的な観点から見て、消耗や損失に見えたとしても、中途でこれを放り出して立ち止まってしまうわけには行かない事情が存在するのである。

これは断じて人間的な思いに基づいて生まれた結果ではない、と私は考えている。むろん、裁判官の落度でもなければ、当事者である私の落度でもない。人間の思惑を超えた領域で起きている戦いの結果である。
 
ここで満足して立ち止まることを、主は、私にも、他の誰にも、お許しにならなかったのである。
  
当事者がどんなに人間的な観点に立って、これこそ解決だとみなすものがあっても、成らないものは、決して成らない。

特に、私の人生においてはそうだ。私自身がどんなに人間的な情愛から相手を赦そうと願っても、決して赦すことのかなわない相手も存在する。どんなに人間的に和解や、融和や、提携や、協力を願っても、成り立たない関係も存在する。

肉親であれ、他人であれ、誰かを愛するにも、関わるにも離れるにも、決して私だけの思いでこれを実行に移すことが許されないのである。
 
そして、何をするにしても、神の満足される目標以下のものは、人間的な観点からどんなに満足と見えても、結局、偽りの解決として、退けられ、打ち壊され、否定される。

私自身の目に最高と見える願いでさえ、主の御旨に届かなければ、打ち壊されることとなる。

そういう結果になることを、私自身が幾度も見て来た。

そこで、私は物事を決断するに当たり、決して自分の人間的な思いで安易な妥協をせず、主の御旨だけがなるように深く祈らされる。

私の人間的な思いに基づく解決は徹底的に退けられて、神の満足される水準と目的が明らかにされるよう祈る。

なぜなら、私自身の思いに従って行動しても、それが主の御心に反するならば、決してその行動に実りはないことが分かっているからだ。

そして、一旦、目指すべき目標が分かったならば、そこに至るまでに必要なすべての犠牲を払うことができるよう、その目的を決して取り逃がすことがないよう、勝利を得るまで戦い抜くことができるようにと祈る。

今、私は、いくつもの決断を迫られている。目的地に向かって歩き通すことが必要ならば、そのために必要なすべての判断材料を主が集めて下さるように、そのための道しるべを示して下さるように、歩き通す力を与えて下さるようにと願わずにいられない。

なぜなら、その犠牲が払われた時、初めて、私以外の人たちが、私の戦いの成果によって、恩恵を受けることができるからである。

とはいえ、ただ困難のためだけに困難を求める必要はない。争いを早期に終わらせることが主の御心ならば、それは成就するであろうし、そうなる可能性が十分に残されているときに、これを無駄に退ける必要はない。
 
今、とても重要な出来事が進行中である。私はそこで何が真の解決であるかを見極めるための最後のテストをいくつか主に願い出ているところだ。

これらすべての試験が一つ一つリトマス試験紙となって、何が正しい答えであり、解決であるのか、私の行く道をはっきり指し示してくれるだろう。

もしも主が願っておられる事柄が何であるか知りたいならば、主の御心は、私たちの側からの忍耐強いテストをすべて通過して、これに耐えうるものであることを覚えておかれると良い。

神は私たちの理解や納得を置き去りにして、無理やり何かを私たちに強制されたりはなさらない。強引に力ずくで、私たちを圧倒して、私たちの願いを置き去りにして、何かを受け入れるよう求めたりはなさらない。もしも私たちが真に御心を知り、これに従いたいと願うならば、神は私たちが納得できるまで、御心を確かめることを許して下さる。

だから、私は主の御心だけが成るようにと願った上で、何が真の解決であるのか、示して下さいと願い求める。主が私に任されようとしているものが何であるか、私自身に見分けることができるようにと、祈らないわけにいかない。主は必ず、一人一人に分かるように示して下さるはずである。

* * *

さて、私は船の右側に網を降ろすことにした。

長年、携わって来た私の専門分野というものが存在したが、その分野は、ここ5年間ほどのスパンだけを取って見ても、年々、収穫がなくなり、未来の展望もなくなり、不毛地帯のようになって行った。

そこで観察されるのは、コネや血縁による出世、サークルによる癒着、専門家同士の排除のし合い、企業による専門家への徹底的な搾取、といったものばかりで、要するに、同業者が互いに潰し合っているだけで、目覚ましい成果もなく、この分野からは、何も未来につながる展望が生まれて来るようには見受けられなかった。

そこで、私は勝負する分野を変えることとしたのである。

一体、どの分野ならば、本当に私のような人間が必要とされているのか、何をすることが、残る人生の時間を最も有益に用いることになるのか、 もう一度、これから先の人生で何を目的として目指すべきか、再び、その土台から考え直すこととなった。

それに際して、以前にも書いた通り、プロテスタントにも、資本主義にも、私のかつての専門にも、もはや戻ることはないと決意したのである。

次なる目標は、長い間、立ち止まって考えずとも、それなりに見えて来た。

当ブログに対する権利侵害を裁判所に持ち出したとき、私は今まで全く知らなかった未知の分野に触れることとなった。そこに新しい人生の展望をおぼろげながら見いだしたのである。

それは、法によって保障された権利を人生において具体的に取り返し、実現するという展望である。

むろん、私は法律の専門家ではないので、裁判官や弁護士のように、生涯、法廷を戦いの舞台として生きるつもりはないし、その他の何かしらの専門家として、もしくは、人助けのために、他人の裁判に関わるつもりもない。

だが、裁判という勝負の舞台が存在することを知ったのは、私の人生において、非常に大きな学びであった。書面を書き、主張を練り上げ、判決を通して、自由を獲得して行く方法があると知ったこと、一つの画期的な判決が、どれほど社会に影響を与えるかを知ったこと、それを得るための苦労を知ったことも、人生の大きな前進であり、学びであった。

私は法廷闘争を人生の糧とすることは決してないが、裁判所の判決が社会を変えて行く力を持っていること、さらにそこからもっと進んで、法改正を行えば、もっと多くの自由を社会にもたらすことができることも分かった。

前述の通り、法体系の中に、非常に重要な、尽きせぬ命の泉のようなものが隠されていることを発見したのである。

そういう意味で、私は自分なりの方法で、この泉から命の水を汲み上げ、約束された自由と権利を手にできないでいる人々を助けるために、残る人生を費やしたいと願うようになった。困っている人たちのために働くなどと、標語のようなことを言うつもりはない。ただ私自身が、自らの人生で、戦って束縛を抜け出し、一歩一歩、自由と解放を勝ち取って行くことにより、おそらくは、私のみならず、同じような問題に直面している大勢の人たちにも、必ず、解放的な影響を与えることができると信じている。そういう歩みを進めて行きたいのである。

私はこうして、専門家である肩書も捨て去り、自分の分野を去り、ただの無名の市民に戻ることとした。おそらく、専門家などという肩書を今後、二度と振りかざすことはあるまい。戦いは困難であればあるほど面白い。ますます何者でもない無名の弱者の立場から、最も高く遠大な目に見えない目的を目指して歩き続けたいと願うのだ。生きているうちにどこまで進めるか分からないが、地道に一歩一歩歩いて行けば、必ず、いつかヨセフのような到達点が見えて来ることであろう。

私はどうしても我が国が今のような現状のままではいけないと考えている。現在の日本は階級社会に移行しつつあると言われている。もはや格差ではなく、階級が出現している。それがますます固定化しつつある。

だが、そうして弱い人々を蔑み、虐げ、踏みにじり、弱い者たちをいつまでも弱さの中にとどめ、束縛から自由にさせない今の目に見えない社会の体制と風潮は根本的に変えられねばならない。そのために、どうしてもこの風潮に風穴を開けねばならないという危機感を覚えている。

とはいえ、私はその願いを、他の人たちとは全く異なるユニークな方法によって、実行に移して生きていきたいと願う。その具体的な方法論を今ここに書くことはしないものの、これから、その目標を実現することが、私のライフワークとなって行くだろうと分かる。そして、その方法がより洗練されて明らなものになればなるほど、私自身のユニークな生き方が確立し、人生の到達点も見えて来るだろう。

とにもかくにも、私は自分の網を、今まで考えていたのとは全く反対側に向かって投げることにした。すると、あれほど長い不毛の月日が続いたというのに、一瞬のうちに、網には魚がかなりたくさん入り、重くなっている。こういうものなのだ。長い不毛な行列にいつまでも並んでいても仕方がない。開いた扉に向かって走りなさい。

神の国と神の義を第一とし、心から真に正しいと思う目的に奉仕して生きるなら、何一つ不安に思うことはない。必要なものはすべて添えて与えられる。そして、自由になった時間を、自分のためではなく、他の人々のために費やすことができるようになる。

私は、もはや私だけのために生きているのではなく、主が置いて下さったこの地上において、果たすべき役割を果たすため、目には見えないが、大勢の人たちと、見えない領域で、手を取り合うように、彼らの利益のためにも生きているという、この生き方の目標、感覚は、今後、二度と変わることはないだろうと思う。

それは、私が自分の専門や自分の知識や経験に生きている間は、ついぞ感じられることのない感覚であった。自分の個人的な人生の目的と個人的な満足を投げ捨て、自分自身の垣根を取り払い、何者でもなくなったとき、初めてその感覚は到来したのである。私は新たな人生の目的を見つけ、新たに奉仕すべき人々の群れを見つけた。この方向性は今後、変わることはもうないだろうと思う。

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人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうでないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。

しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。

すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)

改めて以上の御言葉が心に思い起こされる。

いくつか前の記事に、私たちは裁判官も含め、地上で立てられたすべての権威に服すべきということについて書いた。そうしないことの恐ろしさがどんなものであるかを、筆者はすでに結審した裁判の過程で十分に思い知らされたと言える。
  
今回、被告となった人々は、すでに結審したその訴訟のみならず、他の裁判においても、幾度も裁判所の判断を信頼しない姿勢を示して来た。彼らは自分たちにとって不利な判決が出ると、早速、「裁判所はこの世の機関であって、信仰の世界には疎いから・・・」という言い訳がましい弁明を持ち出し、自分たちにとって不利な判決を尊重しない姿勢を示して来たのである。

そのように、ご都合主義的に地上の裁判所の権威を利用して来た被告らの一人は、筆者の提起した裁判では、ついに裁判所の決定を「不法行為」であるとまで言い立てた。

詳細はここには記さない(それを記すのは、すべてが終結してからのことになろう)が、筆者が行ったある申請が裁判所によって許可されたことが許せないがために、被告はついに裁判所が「不法行為」を働いているとまで言い始め、裁判官の権威をさえ否定するような主張に及んだのである。

その主張を書面で読んだとき、筆者は、ついに来るべき瞬間が来たなと感じた。彼らはこれまでにも自分たちにとって不利な決定は何であれ、認めない態度を取って来たが、今となっては、ただこれまでのように、教会の権威に逆らうだけでなく、地上の権威にも逆らい、ついにおよそ自分の上に立てられた権威という権威をすべて否定して、自分はどんな裁きにも服さず、自ら裁き主となって、神に等しい権威者になろうとしていると筆者は感じ、そのような発言を非常に恐ろしいものであると感じたのである。
 
そして、その恐るべき発言を聞いたからこそ、筆者は、決してその姿勢にならってはならず、そのために、我々は信仰を持たない人々の決定であっても、自分の上に立てられた権威の前に、己を低くして、徹底的に従順な姿勢を貫かなければならないと固く心に留め、そうすることを決意したのである。
  
我々の上に立てられた信仰を持たない権威者は、彼らも人間であるから、しばしば、弱さも見せるであろうし、判断を誤りかけることさえあるかも知れない。しかし、もし我々が誰かを自分の上に立てられた権威者として選んだのであれば、私たちはたとえ彼らの弱さや限界を知ったとしても、それにつけこんだり、利用したりすることなく、彼らの人格を理解し、受け入れた上で、彼らが我々との関わりの中で、共に正しい判断へと至り着くことができるよう、最大限の努力を払わなければならない。私たちはそのために、仕える人々とならなければならないのである。

筆者はちょうど裁判が結審した日に、裁判官のみならず、自分の職場の上司に従うのかどうかも試されていた。その日、出勤するのか、それとも欠勤するのか、という選択が、死活的重要性を帯びる問題となったのである。

職場にはそれぞれ異なるルールがあり、自由に欠勤できる職場もあれば、欠勤が非常に厳しくマイナス評価される職場もある。その職場は、早退の許可を得ることさえ容易ではなかった。
  
筆者は、期日よりも前に早退の許可を願い出ていたものの、期日当日の朝になってから、審理の時間に遅れてはならないことを考え、いっそ大事を取るため、何か理由をつけて欠勤した方が良いのではないかと思いめぐらした。しかし、仕事も重要な時期であったので、やはり申告通り、勤務を早引けして審理に駆けつけることにした。

そして、それが正解だったのである。その日、出勤してから、改めて早退の旨を上司に告げると、不思議なことに、筆者が何も願い出ないうちに、上司から前もって申告していた時間よりも30分早く前に早退して良いと許可が出た。そのおかげで、筆者がいつもと異なる駅で降りたために、出口を間違えて道に迷ったにも関わらず、予定時刻に全く遅れることもなく、余裕を持って期日に到着することができたのである。

しかも、その日、裁判所の周辺では、パトカーが不法駐車を取り締まっていた。それは筆者が初めて見る光景で、これまで裁判所付近の道路には、広い駐車場もないため、常に色々な(業者も含め)車が止まっていた。そして、取り締まりなど一向に行われている気配もなかった
 
それなのに、その日には、パトカーが来てラウドスピーカーで停車中の車に向かって立ち退きを呼びかけていた。明らかに、その後、立ち退かない車には罰金が科されていたか、強制的に撤去・移動させられていたに違いない。従って、もしもこの日、筆者が職場を欠勤し、車で裁判所に向かうようなことがあれば、その後、何が起きていたかは保証の限りではない。

そうした出来事や、すでに書いた通りの結審の運びを見て、筆者は、この日、地上で立てられた権威者に従うかどうか、筆者の内心が試されていたのだと理解したのであった。
 
それは天から筆者に下されたテストのようなものであった。もしも筆者が、突発的な欠勤の一日くらい大したことはないと考えたり、もしくは、職場の上司であれ、裁判官であれ、あるいは警官であれ、誰か一人に対してでも序列および信頼関係を崩すような行為に出ていたならば、それだけでこの日受けられた一切の輝かしい勝利の結末を失わせるに十分な効果を発揮したであろうと疑わない。
 
 繰り返すが、我々の上に立てられたさまざまな身近な権威者には、人間としての弱さや限界も存在するかも知れない。たとえば、職場にたくさんの上司がいたとして、その全員が、私たちの気に入るわけではないであろうし、過度に厳しいルールが課されているかのように感じられ、改善が必要と思うこともあるかも知れない。あまりにもがんじがらめの自由のない規則に対しては、私たちの心は反発を覚えるであろう。

だが、そういった問題と、我々が権威そのものに従うかどうかという問題は別問題なのである。ルールは運用が変わったり、改善がなされたりして、変化して行く可能性がある。上司の顔ぶれも変わるであろう。

だが、現時点で定められているルールが不完全なものであったとしても、私たちはそのことを口実に、その背後に存在する権威を認めないことはできない。同じように、上司の人間性に限界が見えたとしても、私たちはそれを口実にして、その人に与えられた権威そのものを否定するという行動に出てはいけないのである。

言い換えるならば、神が立てられた権威はすべて、その権威者の人間性と、実に不思議なユニークな形で一つに結びついている。人間であるからこそ、長所もあれば、短所も存在するが、生きた人格を持った人間が、権威を行使し、決定を下すからこそ、その権威にはかけがえのない価値があると言える。

私たちは、権威者はいくらでも交替が可能であるように思っているかも知れない。首相も交替すれば、大臣も交替し、政治家も変わり、役所の職員などは、すべて交替可能な要員に見えるであろう。機械でも代行できるような仕事だと思う事さえあるかも知れない。誰が決定しても、同じ結果が出ると思うこともあるだろう。

しかし、実際にはそうではないのだ。私たちがさざまなところで出会う権威者は、実は一人一人が、人格を持ったユニークな存在であり、彼らの権威の行使は、彼らの人格や、彼らの人間的な判断と一つに結びついており、それは決して他の人々に真似ができるものではないし、二度と繰り返せるものではない。しかも、それは我々との関係性の中で行使される権威なのである。

従って、彼らが行っていることは、単なる職務上の処理や、偶然に過ぎない出来事のように見えたとしても、実際には、その一つ一つが、彼らの人間性の発揮であり、我々との人間関係なのであり、そうであるがゆえに、それは非常にユニークでチャーミングな権威の行使であると言える。しかも、それには我々の側からの関与も求められる。

そこで、どんなに些細な決定であれ、それは人間の自由意志の行使、また自己決定・自己表現の一つの形態であり、人間社会の方向性を決定づける上で、見逃せない意味や効果を持つものなのである。

そのため、我々はただ単に、権威者が自分にとって有利な決定を下せるからという理由で、彼らが持っている権威だけを恐れ、尊重するわけではなく、あるいは、自分に有利な決定が欲しいから、面従腹背の態度を取り、うわべだけ従うわけでもなく、その権威者の人間性にも注意を払い、彼らを全人格的な存在として敬い、認める必要がある。

それは、我々がちょうど神に仕え、神を愛するように、自分の上に立てられた地上の権威者たち、上司たちを敬い、仕えるべきことを意味する。ただし、これは私たちが、人間に過ぎない者を、まるで神のように思って絶対服従するとか、一切の不服を申し立ててはいけないという意味ではない。

私たちは地上の人間に対していかなる異議申し立てもしてはならないわけではない。変えるべきルールというものも存在する。しかし、権威者に対する異議申し立てを行う上で、重要なのは、上司への異議申し立ては、まず部下の側から上司への心からの敬意と従順と信頼の裏づけがあって、初めて効力を帯びるということである。信頼関係が構築されていないのに不服を申し立てることは、序列の転覆、人間関係の破壊につながり、本質的には反逆という要素をはらむ行為である。

そこで、私たちは、自分の上に立てられた権威者の人間的な欠点や弱さや限界をも理解した上で、彼らに心からの従順を示す必要がある。彼らに言いたいことがあるならば、信頼関係が損なわれない方法で、彼らの人格を尊重しつつ、助言や忠告を上に上げる必要がある。そのような配慮が必要なのは、私たち自身も、彼らと同じように、欠点や弱さや限界を持った存在であり、彼らの権威によって、尊重され、守られるべき立場にあるのに、その保護を失わないためである。

このような話を持ち出したのは、筆者が審理を抱えていた日に、単に一日、仕事を欠勤するかどうかという問題でさえ、心の深い所では、筆者の上司に対する態度、職場全体に対する態度、自分の上に立てられた権威者に対する態度を如実に示していたと思うためである。

その日から今日に至るまで、テストはずっと続いている。そのテストとは、筆者が自己の力を誇るためのものではなく、むしろ、自己を手放すことを求められるテストであり、自分の都合、自分の事情、自分の思い、自分の手柄を失い、自らの栄光を手放してでも、自らの上に立てられた権威に従えるかどうかを試すテストである。

私たちは一人一人が不完全さを持った人間であり、自分の事情、自分の都合、自分の利益を最優先したいと考える思いが出て来る時がある。そして、上に立てられた権威者に向かっても、まずは自分の事情を訴え、それを理解してもらうのが当然、という態度を取ろうとする。

だが、権威者は部下の事情を真っ先に考えて行動すべき立場にはない。そして上司と部下は、互いの弱さや欠点をも知りながら、共に協力して正しい決定を下して行かねばならない関係にある。そこで、もし私たちが自分の上司に対して、もっと我々のために自由を与えて欲しい、理解や配慮を示してほしいと願うならば、まずは部下としての私たちの従順が、正真正銘、心から真実なものであることが証明されねばならない。

そうすれば、その従順は、信仰を持たない上司にも、大きな影響をもたらし、彼らの心を動かす力となり、彼らが私たちを信用して、私たちの言い分を耳を傾け、正しく権威を行使して、私たちにより多くの自由を与え、さらに世の中をあるべき正しい方向へ向かわせる決定を下すきっかけとなりうるだろう。

だが、それとは逆に、もしも私たちが上司たちの人間的な限界、弱さ、欠点といったものにばかり目を向け、それを口実にして、彼らの人格だけでなく、彼らの権威までも否定し始めるならば、結果として、正しい決定が下される大きなチャンスが失われてしまうだけでなく、その権威者と私たちとは信頼関係を失って、互いが疑心暗鬼に陥り、あるいは離反し、ついに双方ともに暗闇の勢力に引き渡されるということが起きうる。

その結果、上司たちは部下を憎むようになり、部下に対して悪を行使するために、自らの権威を濫用するようになり、部下の側でもいつまでも上司に対する不服だけを心に抱え、いつか秩序を転覆してやるなどとクーデタの機会を伺うようなことが起きかねないのである。

しかし、本来、上司と部下はそのような存在ではない。それはキリストと花嫁なる教会がそうであるように、協力して正しい行いを成し遂げるべき関係である。

今はあまり時間がないので、この程度にとどめるが、これは非常に奥が深く、かつ重要なテーマなので、この先も、何度か繰り返すことになるのではないかと思う。

結論をもう一度述べる。私たちはクリスチャンとして、地上で立てられた権威に対して、従う姿勢を見せるべきである。それは主に従うように、上司に従うことを意味する。改善すべきところは提案し、不正には決して加担しない態度を取りながらも、私たちは上司に何か提案する時にも、権威そのものを決して否定しない態度を取るべきである。そして、自分の上に立てられた権威者も、弱い人間であって限界があり、いつ誤った判断に陥るか分からない恐れがあることを十分に理解して、彼らの弱さを助長したり、つけこむようなことを決してせずに、むしろ、彼らがその弱さを乗り越えて、真にあるべきふさわしい形で己が権威を行使し、大勢の人々に正しい影響を及ぼすことができるよう、絶えず祈り、願い続け、それを助ける姿勢を持つべきなのである。

私たちには、自分の上に立てられた権威者のためにとりなし続けることが必要である。だが、そのためには、私たちが口先だけで、自分以外の他人の振る舞いだけを正そうと、もっともらしい言葉を並べることが必要なのではなく、何よりもまず、私たち自身が、日々自分の十字架を取って、主の死を共に身に帯びることが必要である。我々自身に、主と共なる十字架が適用されていないのに、我々が何千、何万語を費やして正しい主張を語ってみたところで、そのすべての言葉はむなしい。私たちがどれほど神に従順であるかという度合いが、地上の権威者への従順の度合いをも決定するのである。


この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。

「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊(魂と霊)、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)


「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

今日のオリーブ園の記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (10)」(オースチンスパークス)も非常に意義深い。

 「エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。

とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(私は攻撃的になりたくありません!)。単なる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力がない、という雰囲気を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。

エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。

そしてエホデはこれを、それ自身の根拠に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。


 主が私たちに告げたいのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活が単なるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。」

円には完全という意味もあるが、当ブログにおいては、円とはどこにも行きつかない永遠の堂々巡り、人類が自力で神の懐に回帰して、神と分離される前の一体性を取り戻そうとするむなしい努力、すなわち、被造物を造物主と取り替えようとするグノーシス主義思想における「鏡」、相矛盾する概念の統合であるウロボロスの輪、東洋思想における永遠の混沌との一体化である「道」、禅においてすべてがさかさまになった「大円鏡智」などを意味し、すべて人類が歴史を逆行して自力で神に回帰しようとする不可能な努力のことを指していると示して来た。

そういう意味で、士師記に登場する、神が起こされた勇士エホデが滅ぼした、イスラエルを虐げていたモアブ人の王エグロンの名が「円」を意味することは興味深い。

(筆者はここで筆者がかつていたこともあるキリスト教の集会でクーデターを起こして集会を乗っ取った人物(夫妻)が、共に太った人物であったことを思い出さずにいられない。夫妻ともどもに非常に似た者同士だったのである。

筆者は外見で人を判断したいとは思わないし、外見がすなわち人の性格を表すものだとも言わないが、彼らの場合は例外で、彼らの外見は彼らの内面をよく表していた――自己を制御できない状態、貪欲さ、動物的で野卑な性格、忍耐のなさ、性急さ、緩慢さ、感覚の鈍麻といった内面の状態をはっきりと表していたのである。だから、筆者はこの集会のリーダーに向かって、この人々の危険性を告げたとき、彼らはなぜあれほどまでに太っているのか、という質問を投げかけたことがあった。他方、集会のリーダーは外見に非常にこだわりのある人物で、外見を鍛え上げ、自己鍛錬に励んでいたが、そのような人物が、自分のポリシーと相容れないエグロンのような人々と和合したことも、非常に象徴的であった。人の生まれながらの自己から発生するものは、何であれ、円を描いて対極のものと結びつき、腐敗して行くのである。)

 
  
異端思想(神秘主義)のシンボル
エグロン=円=輪=和=日輪=道=ウロボロスの輪=大円鏡智=グノーシス主義の鏡


こうして、神と人との区別を否定するすべての異端思想(神秘主義思想)が、相矛盾する概念の統合、循環する時間軸として、円というシンボルで表されるのに対し、聖書に基づく正統なキリスト教の時間軸は、直線であって、円ではなく、そこでは矛盾する概念が一つに溶け合うなどのことは絶対に起こらない。正統なキリスト教にはアルファ(はじめ)とオメガ(終わり)があって、それは決して円を描いて一つに結びつくことはない。

聖書は、神の御言葉には、切り分ける(切断する)機能があるとしており、それは何よりも人の生まれながらの腐敗した命の働きと、神の新しい聖なる命の働きとを鋭く切り分ける。その切り分けの機能は、ちょうど旧約聖書において、いけにえとして神に捧げられた動物が幕屋で解体される場面になぞらえられる。

エホデの名は「告白」を意味し、その言葉は、ちょうど黙示録に登場する「証しの言葉」に一致する。クリスチャンは小羊の血により罪を清められ、キリストの復活の証人として、神の御言葉の正しさを証言する人々である。聖書の御言葉が神に属する聖なる永遠に続くものと、神に属さない滅びゆくものを切り分ける機能を持つならば、御言葉を告白する人々の証しも、同様に、すべての物事を切り分ける機能を持つ。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

エホデがエグロンを対処したことは、今日、私たちが口先だけで十字架を唱えながらも決して自己を主と共なる十字架において死に渡そうとしない相矛盾した態度を捨てて、厳粛に御言葉に服し、生まれながらの自分自身に対する死の宣告を受け入れることを意味する。

エグロンのように天然の命に基づいて、緩慢な滅びである円を描いて生活する人々は、信者の中にも、あまりにも数多く存在するが、私たちは彼らにならうことなく、自分自身が、祭壇の上に捧げられた供え物として、まことの大祭司なる主イエスの御言葉の切り分けの機能の下に服し、切断されることに同意しなければならない。

裁きは神の家から始まる――私たちは世が滅びるよりも前に、世から召し出された者として、真っ先に神の裁きに服する者たちである。今日、主の民全体が、両刃の剣よりも鋭い神の言葉によって刺し通され、対処される必要があるが、私たちはその代表として、神が立てられたエホデである御言葉の剣を取り、自分自身の内側にあるエグロンが刺し通されることに同意する。

私たちはいついかなる瞬間にも、自分がゴルゴタで主と一体となって、この世に対してはりつけにされて死んでいることを認め、告白する。ただこのキリストの十字架によってのみ、地獄の全軍勢が、私たちに手出しをする力を失い、かえってその勢力がキリストによって征服されて、彼の凱旋の行進に捕虜としてさらしものとされるのである。


わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)

「体は一つでも、多くの部分から成り、 体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

身体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:1-26)

休暇中の時間は筆者にとって黄金の時だ。この時間をぜひとも活用して、忙しいときにはできない正しい仕事を果たさなければならない。

今年の新年は警察との連絡で幕を開けた。新年早々の仕事が、告訴状の文面の練り直しとは。しかし、思い起こせば、ここ何年間も、年末年始をゆっくり過ごした記憶がない。大勢で観光地を訪れたり、家でくつろいで料理を作ったり、TVでスポーツ観戦することもなく、常に何か波乱の出来事に見舞われて、日常生活が中断していたような気がする。

そんな年が続いた挙句、今年はもはや普通の正月を過ごすことに未練がなくなった。人生はそんなにも長くはない。大切な仕事を果たすには、時間が限られている。どうせ同じ時間を使うならば、束の間で消えて行く個人としての地上の幸福を享受することよりも、むしろ、御国に到達してから神に褒められ、永遠の収穫として残る仕事を果たしたい。

これは2017~2018年に激しい戦いを乗り越えた後で、筆者が心に確信することだ。とはいえ、年末年始をくつろいで過ごせない職業の人々は、筆者の他に多数、存在しており、警察官もその一人である。

年末年始に警察は当直体制となり、少ない人数で管轄の全域を担当する。筆者の事件を担当してくれている警察官も、奇跡的に当直していたが、呼び出しても、呼び出しても、全くつかまらない。ようやく連絡が入って来たのは、当直明けのこと。つまり、勤務中ではなく、勤務外で、要するに、筆者の順番は、区内で一番最後なのだ。
  
とはいえ、勤務が終わったから、ようやく電話できるのだと言われるのは、勤務中だから時間がないと言われることに比べてかなり嬉しい。一番最後の順番とはいえ、最もほっとできる瞬間に電話がつながったのだと思える黄金の時。まさにボアズがルツのためにわざわざ畑に残しておけと命じた落穂を拾うルツの心境である。

当ブログに対する様々な権利侵害を事件化することを決めてから、こういうコミュニケーションを関係者との間で取れるようになるまで、何カ月もの歳月を要した。警察官は、下手をすると、一日、二日どころか、一週間以上もつかまらない。黙って電話を待ち続けることには未だに慣れられず、当初はそのことでどれほど巨大な不安に陥れられたか分からない。

しかし、担当者は、ない時間をひねり出すようにして、時には休日出勤して対応してくれたり(つまり、通常の勤務時間にはこの事件に向き合う暇がない)、近くの交番まで書類を届けてくれたりし、それを見ているうちに、筆者は考えが変わり、長い時間、待たされても、それが怠慢や悪意によるものではないことを理解し、やがて彼らの誠意を尊重しないわけにいかなくなった。

それは裁判所の人々との関わりも同じであった。不愉快な事件をきっかけに人々と関わるのは、誰にとっても気が進むことではなく、それだけで関係者一同に大きなストレスとなりかねない。しかし、この事件に関わってくれるすべての人々も生きた感情を持つ人間であることを理解し、筆者はついに自分の感情を乗り越えて、事件の影響を乗り越えて、互いをよく知って、理解・尊重し、信頼関係を築くことが最後には可能となった。

そうなるまでには、多くの時間がかかった。何度、取っ組み合ったことであろう。その間に、彼らにも、筆者の心の弱点などは、きっとお見通しになったはずである。だが、筆者は、どんな時にも、心から正直であり、目指している高い目標から決して目を逸らさなかった。だから、人々は筆者の心の弱さや限界を見ても、それが悪意によるものでも、怠慢によるものでもないことを理解してくれ、筆者の弱さを彼らの強さで補い、覆い隠してくれるようになったのである。

こうして、最後には互いが互いの限界を理解した上で、相手を尊重する術を学んだ。筆者はこのような体験を通して、絶望的な状況下で、どれほど様々な波風が起きても、目的を見失いさえしなければ、最後にはその波乱をすべて乗り越えることができると言える。

たとえ一時的にものすごい痛み苦しみを味わうことになったとしても、その犠牲があって初めて、新しい関係が生まれて来る。何が生まれて来るのかは、苦しんでいる当初には分からない。だが、信仰のあるなしに関わらず、人が命をかけて訴えていることを、無碍に扱うことができる人はそう多くはない。あきらめないで前進していれば、少しずつかも知れないが、理解者は増えて行く。そして、それがついにはやがて固いチームワークのような結束になって行くのである。

かつてあるクリスチャンが、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったことを思い出す。ここで言う「関節」とは、私たち一人一人、エクレシアの構成員のことである。キリストのからだなる教会の成長は、節々がしっかりと組み合わされ、補い合うことによると聖書にある。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

その信者は、筆者には必要な関節と関節を出合わせ、互いに結束させる働きがあると述べたのであった。今、筆者は、いわゆる教会と呼ばれる建物の外で、その頃と同じような働きをしているのかも知れないと思う。

なぜそうなったのか。それは教会と呼ばれる団体があまりにも神の働きから逸れてしまったことによるものと筆者は思う。そこで、初めはユダヤ人に福音を宣べ伝えたパウロが、異邦人に向かねばならなかったように、筆者はいわゆる教会と呼ばれる信仰を持った人々の外に、関節や節を見つけるはめになったのである。

そうして、筆者が一人で始めた信仰を守るための戦いという目に見えない事業に、今や数多くの人たちが関係するようになった。そして、その人々は、嫌々ながらではなく、自らの意志で、自発的に積極的に事態に関与しており、筆者は彼らに大いに助けられている。

信仰者と呼ばれていないこの人々から、どれほど多くのことを筆者は学んだであろうか。彼らとの関わりは、本当に切実なメッセージを筆者の心に伝えてくれる。

この事件を進めるうちに、筆者は、人々から助けられることを学んだ。これまでの筆者はほとんどの作業をただ自分一人だけで成し遂げ、他者の力を借りることがなく、他者の知恵によって自分の知恵の不足を補われることもなく、そのような可能性があるという期待すらも持っていなかった。あまりにもすべてを自力で背負い、自力で処理することに慣れており、人を信頼する必要性にさえ見舞われなかったのである(それは裏切りや離反が横行していたためでもある)。

だが、今、筆者は、そうした離反を克服する方法を学び始め、自分の弱さを他人の強さによって補われる術を学び始めた。しかも、筆者が途中まで書きかけた歌の、見事な続きを書く人々が現れた。筆者が一人だけで行って来た途方もない気の長い作業が、他の人々の手に委ねられ、他の人々がこの作業に参加し始めたのである。

筆者はこのことに非常に驚いている。筆者は自分の肩から重荷が取り去られるのを感じ、初めて自分の知恵を超える知恵が存在すること(これは神の知恵のことではなく、神が地上のもろもろの人々を通して筆者に表して下さる知恵のことである)、その知恵に信頼して自分を委ねることを知った。人々を信頼して自分の仕事を託すことの意味を知った。こうして自分の知恵が限られていることを思い知らされ、他者によってそれを補われるのは、非常に嬉しく楽しいことである。

こうして、新たな関係性が生まれ、筆者が一人で編んでいた歌に、多くの人が参加するようになり、共同作業が生まれた。やがてはそれが大きな流れになり、合唱のようにまで至るのではないかとさえ思う。

これは実に不思議な関係性である。この世のほとんどの人たちの人間関係は、どんなに広いように見えても、地上的な絆の中に束縛され、そこから出ることがない。その人間関係は、自分の家庭、自分の職場、勤務上で生じた関係、所属団体の枠組みなどにとらわれている。

しかし、筆者が他者に関わるのは、そういう地上的な枠組みによるものではなく、信念に基づくものであり、信仰に基づく関係性である。そして、その関係性が、今や信仰を持たない人々にまで波及しているのである。

これまでもそうであったが、信仰のために必要なことならば、筆者は地上的な絆の束縛を超えて、どこまででも出かけて行く。そして、これまで知らなかった新しい人たちを見つけ出し、これらの人々を、一つの信念によって結びつける。

そうして彼らを目に見えないチームのように結束させるまで、根気強く説得する。だが、筆者は目に見えるチームを作っているわけでなく、そのリーダーでもないし、筆者が計画的にそのようなことを行って人々を感化しているわけでもないので、以上のような現象が起きているとは、はた目には分からない。

だが、筆者が命がけで人々に関わり、命がけで信念を訴えているうちに、いつの間にか、それまで敵対していたような人々にさえ影響が及び、協力してくれる人々や、筆者が目指しているのと同じ目的に向かう人々が増えて行くのだ。

このように、筆者の場合、人間関係を築く土台となる要素が、通常の場合とは全く異なる。それは個人としての筆者の利害に立脚するものでなく、それにとらわれるものでもない。それよりももっと広く、もっと高く、もっと大きな目的のために、筆者は人々に関わっている。そして、そうであるがゆえに、人々はその中で筆者の限界を見ても、それを寛容に扱ってくれ、筆者が目指している目的は、互いに立場の全く異なる人々を、個人的な限界を超えて、一つに結びつける原動力となりうるのだ。

このような人間関係が生まれるためには、やはり筆者自身はどこまでも十字架の死に身を委ねるしかない。一粒の麦として絶えず死に続け、自己を放棄する以外に手立てがない。

このことを指して、以上の信者は、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったのである。

そういうわけで、またも書面の練り直しである。世の人々は告訴状と聞いて眉をしかめるかも知れないが、これも公益のためであって、筆者個人の利益のためだけではない。この他にも大量の書面作りの作業が残っている。そして、筆者に関する事件の後処理が終われば、次に筆者と同じような被害を受けた人々の権利の回復を手伝う作業が待っている。それに着手できるのは、今年の春以降であろうか。気の長い仕事である。

味気ない新年であるが、自己の信念に基づく作業であるから、これで良しとせねばならない。こうして、筆者の心は地上を離れ、御国へと階段を上って行く。

だが、最後に一つ述べておきたい。聖書は、神のためにどんなに巨大な犠牲を払っても、愛がなければ一切は無意味だと述べている。ただ関節と関節をつないで、建物を作るだけでは不十分であり、そこに最後の総仕上げとして、上から神の愛が注がれなければならない。それはちょうど美味しそうな焼きたてのパンケーキに特上の甘いメープルシロップを注ぎかけるような具合で、エクレシアには上から下まで滴り落ちるほどに神の愛が溢れていなければならないのだ。
 
その愛は、私たち人間から生じるものではなく、まさに上から、神が注いで下さる愛である。ちょうど預言者エリヤが、死んだ子供を生き返らせた時のように、全焼のいけにえとなっている筆者の上に、新たに上から御霊によって吹きかけられる復活の息による。

人々は、死んでいたも同然の筆者が、生き生きとよみ返らせられるさまを見て、初めて神が今日も生きておられること、信じる者をあらゆる窮地から大胆に助け起こす力を持つ方であることを知る。

その御業は神のものであって、筆者の力によるものではない。だが、地上では極めて弱く限界ある存在に過ぎない筆者の神への信仰による愛と従順、そして、筆者に注がれる神の愛の深さを見ることにより、筆者の周りにいる人々も、神が生きておられること、そして、筆者のみならず、神を呼び求めるすべての人々に力強く応えて下さること、神が愛であり、すべての人間に対して、どれほど深い配慮を持っておられるかを知らされるのである。

筆者が行っていることはすべてそのためである。

そういうわけで、もう一度、以下の御言葉を引用しておく。

「「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:36-39) 


カルバリに住む―権勢によらず、能力によらず、ただ神の霊によって生きる―

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:12-14)

* * *

キリスト者は荒野の中で泉を探して地中を深く掘り続けているうちに、ついに願っているものに達した。神が信じる者のために用意して下さった尽きることのない命の水脈を発見したのである。

そこで、次なる課題は、灌漑設備を作り、命の水を荒れ果てた大地に広く流れさせ、土地を潤し、再生させるための装置を建設することにある。

生ける水の川々が流れだす秘訣は、十字架の死と復活にこそある。

キリスト者が自己を否んで十字架を負う時、そこに復活の法則が働く。信者は束の間、低められても、それがまるで嘘だったかのように、高く引き上げられ、重い栄光に満ちた瞬間を見る。

日々、主にあって、ほんの少しの軽い患難を負い、自分が低められることや、誤解されたり、栄光を奪われることに同意し、常に何者かでありたいと願って、人前に栄誉を受けようとする自己の願望を退け、十字架の死を負うならば、信者が自分自身で「何者かになろう」と努力する代わりに、主が信じる者を高く引き上げて、願っておられるところに到達させて下さる。人間の願いではなく、神が願っておられることが何であるかを見せて、実現して下さる。その時、多くの場合、信者一人だけでなく、信者を通して、多くの人々が潤されることになる。

この復活の命の現われこそ、御座から流れる生ける水の川々である。

* * *

ウォッチマン・ニーは、クリスチャンが生ける水を流し出す秘訣を「血の高速道路」と呼んだ。

血の高速道路とは、何ともすさまじい表現ではないだろうか。十字架が、文字通り、剣のように、クリスチャンの自己を貫き通し、刺し通すという意味である。つまり、主にあって真に祝福を得たいと願い、主と共に栄光を見たいと思うなら、その信者は、主と共に十字架を負い、自分が低められることに同意しなければならない。キリスト者の自己が裂かれた分だけ、生ける命の水の川々が、そのキリスト者自身から流れ出すのである。

その血がにじむほどの、いや、血が噴き出るほどの苦しみが、高速道路と表現されているのである。おそらく、それは他者がそのキリスト者の栄光を奪い、彼を踏みつけて、その上を走って行くことにも同意せよ、という意味であろう。

これはある意味、キリスト者が主にあって負うべき苦しみの極致を示していると言える。最終的には殉教を指している。

しかしながら、クリスチャンは殉教といった巨大なスケールに達するよりも前に、これをもっとごく小さなスケールで繰り返して生きており、日々、信者が神の国の義のために、神への愛のために、他者への愛のために、人知れず自分を裂き、注ぎだした分だけ、そこに命の法則が働くというのは確かな法則なのである。

ところで、殉教といった言葉を聞くと、必ず、反発する人たちが現れる。そういう考えはカルト思考だというのである。しかしながら、聖書の神は、願ってもいない人たちに、殉教を強制されるようなことは絶対にない。だから、クリスチャンが神のために死を強いられているなどといった考えは全く正しいものではない。たとえば、かつての日本がそうであったように、皇国史観に基づいて天皇のために国民に強制された死と、クリスチャンの殉教を並べて論じるのは正しいことではない。
 
キリスト者が日々、主と共に負っている十字架は、あくまで霊的な文脈であり、信仰によって、信者が自主的に同意して成るものである。そして、キリストを信じる者にとって、十字架の死は、決して死で終わることなく、復活という、実に栄光に満ちた事実と分かちがたく一つである。人間に過ぎない君主のために命を捧げても、何の見返りもないであろうし、それは人情の観点からは讃えられても、何も生み出すことのない無駄な犠牲でしかない。

だが、キリストはまだ我々が罪人であり、背く者であった時に、我々のために十字架でご自分の命を与えて下さったのであり、我々はそのまことの、永遠の命にあずかり、その命をこの地上に流し出し、主と共に天で永遠の栄光を受けるためにこそ、カルバリの十字架に自分を重ね、日々、主と共に自分が死んだことを認め、彼の死に自分を同形化するのである。
 
クリスチャンは、こうして日々、主と共に死を負うことにより、苦しみが苦しみで終わらず、患難が患難で終わらず、死が死で終わらず、御名のゆえに負った苦難には、どんな小さなものであれ、必ず、絶大な命の法則が働くことを実際の体験を通して知っている。

筆者もまた十字架の死と復活の法則が確かなものであることを、日々、自分の意志によって試しており、そこに相応の成果を見ているので、このやり方に間違いはないと確信している。

信仰の初歩においては、信者は殉教などといったテーマを考えることなく、日々の小さな十字架から始めるのが良いだろう。そうしているうちに、最終的にもっと大きなスケールの試練にも耐えうる力が養われる。

だが、信仰者にとって、一体、何が主の御名のゆえに負う「十字架」であるのか、一体、何が後々、天の栄光に満ちた益をもたらす土台となりうる苦難なのかは、人間的な観点からは、はっきりとは分からず、見分けがたいとしか言いようがない。

たとえば、人の目から見て、空振りや、無駄でしかないと見える様々な事柄、もっとうまくやりさえすれば、時間を短縮して、浪費を少なく出来たはずなのにと後悔するような出来事であっても、あるいは、みっともない恥だ、失敗だ、と思われるような出来事さえも、信仰の観点からは、損失でないばかりか、後々、えもいわれぬ大きな収穫を生み出す土台となることもあり得るのだ。おそらく、神の観点から見て、信者が御名によって耐えた全ての試練に、無駄というものはないのではないかと思われてならない。

たとえば、筆者は、ある年末年始の休日に、歯痛に襲われ(実際には一時的なストレスから来るもので病気ではなかったのだが)診療所を探して行ってみた。すると、祝日にも関わらず、待合室は大混雑して、長蛇の列ができており、待ち時間が一時間以上に渡り、パイプ椅子が並べられていたにも関わらず、数が足りず、子連れの親も数多く来て騒がしかった上に、診療それ自体も、決して良い雰囲気ではなく、結局、大した治療もできず、しかも病気でもないことが判明し、筆者は疲労だけを手に完全な無駄足だったと思いながら帰途に着いたという出来事があった。

ところが、その後まもなく、実に不思議ないきさつで、その診療所のすぐ近くに拠点を構えるある企業に仕事上でお世話になる機会を得たのであった。筆者が無駄足だったと思いながら、疲れて帰途に着いている時には、そのような縁が生まれることを予測せず、地上で誰一人、そのようなことが起きると知る者もなく、筆者自身も、その会社組織の存在さえ知らなかったが、今となっては、歯科医を探してその場所へ赴いたこと自体が、まるで未来へ向けての下見のようであった。神はそのような全くの無駄に見える出来事の中にさえ、しっかり働いておられ、不思議な形で、この出来事を新たな有効な出会いへと結びつけて下さり、筆者と共に生きて働いて下さっていたのである。この話には後日談もあるのだが、それはまたの機会にしよう。

さて、筆者は、キリストの復活の命に生きるために、何年も前にこの土地へやって来たのだが、長い間、悪魔の巧妙な策略のために、生ける水の川々を流れさせる法則をうまく掴めないでいた。

それは、かつて筆者の周りにいたクリスチャンたちの間では、主のために信者がすすんで負うべき苦しみについて、ほとんど語られなかったせいでもある。あるいは、語られることはあっても、実践されなかったのである。

その当時、筆者を取り巻いていた交わりでは、信仰者が主のために苦しむこと、いわれなき苦難を負うこと、主のために損失や、恥や、無駄を負うことについては、何か時代遅れの気まずい話題のように避けられ、信者が神を信じたことによって得られる祝福や恵みばかりが強調されていた。

信者たちは、仲間内で、自分が神に愛されている者として、他の人々には与えられない優れた祝福にあずかり、どれほど幸福に生きているかというイメージを演出することを、一種のお約束事のようにしていた。そうすることで、彼らは自分たちが他の信者たちの及ばない霊的高みに達している証拠のように誇示していたのである。

だが、筆者はこれにいたく疑問を感じていた。筆者はもともと世故に長けて器用に立ち回ることによって、己が力で人生の成功者となりうるような才覚の持ち主ではなく(もしそんな才覚が生まれつきあれば、自己過信して、神を求めることもなく、キリストに出会うこともなく、信仰を持つこともなかったであろうから、そのような手練手管を持たなかったのは、極めて幸いなことであり、また、それが神の筆者への特別なはからいであり、愛に満ちた恵みであることを疑わないが)、さらに、確固たる信仰を持つよりも前から、筆者はそのような地上的な成功を目指して生きることに、何の意味をも感じていなかったので、人生の成功だけを全ての価値のようにみなすこの世の不信者の社会においてならばともかく、信仰者の社会においてまで、自分が「上手に器用に立ち回って失敗を避け、そつなく生きている成功者」であり、「霊的勝ち組」であるかのようなイメージを演出して自己の成功を誇る空気には、全く同意できなかった。

そのため、仲間内で器用に立ち回って賞賛を浴び、他人の名誉が傷つけられても一向に平気であるにも関わらず、自分の名誉が傷つけられることだけには敏感で、それが起きないように先手を打ち、あるいは自分に歯向かう者には策謀を巡らして徹底的に報復し、自分だけは人と違って高みにいて幸福だと豪語して、他者の苦しみを高慢に見下す周りのクリスチャンたち(?)(おそらく彼らはクリスチャンとは呼べまいが)のあからさまな自慢話を聞かされる度に、筆者は首をかしげ、悩まされ、苦しめられていた。

幾度か、彼らのあまりの自画自賛のひどさに耐えきれず、それとなく間違いを指摘してみたこともあったが、しかしながら、いかなる説得によっても、彼らの強烈な思い込みを変えることは無理であった。

ついに最後には、筆者と彼らとの生き様や信仰的な立場の違いは、否定しようにも否定し得ないほどの大きな溝となり、彼らから見れば、筆者の存在自体が、彼らのままごと遊びのようなお楽しみの括弧つきの「信仰生活」に水を差すもの、彼らの虚飾の栄誉をいたく傷つけるものでしかないと感じられたのだろう。彼らは、すでに上流階級の特権的社交界クラブと化していた彼らの偽りのソサエティから、筆者を似つかわしくないメンバーとして除外したのであった。(ただ除外しただけでなく、相当な報復をも加えたのである。)

筆者は、彼らの進んでいる方向が、根本的に聖書に相違する間違ったものであることを随分前からよく分かっていたので、そのような結末に至ることを予想済みであったが、何とかその結末を食い止めて、彼らを真実な道に立ち戻らせることができないかと当時は思っていたので、その願いにも関わらず、目の前にいる生きた人間から排斥され、残念と思われる結果に至ったことに、何の痛みも感じなかったわけではない。

だが、その体験は、主にあって、筆者の人生でまことに幸いな実を結び、大きな恵みを受けることへとつながった。それからほどなくして、筆者は自分が神に出会って後、心から正しいと確信していた通りの、聖書に基づく、純粋で素朴な信仰生活に何の妨げもなく平穏に立ち戻ることができただけでなく、まがいものの交わりの代わりに、もっと親しく愛情に満ちた豊かな交わりに加えられ、人生の別な方面においても、収穫を得たのである。

その後も、色々なところで、類似した出来事が繰り返された。誤解や、非難や、対立や、排斥といった出来事は、往々にして起きて来るものであり、クリスチャンと呼ばれる人々の中では、特に、激しい戦いが常に起こるものであるが(なぜなら、真に聖書の御言葉を実践して、神に忠実に従う信者は、クリスチャンを名乗る者の中にも、極めて稀だからである)、今、思うことは、信者がそういった何かしらの尋常でない苦しみや痛みを伴う事件に遭遇し、人の誤解や、非難や、嘲笑、排斥に遭遇し、慣れ親しんだコミュニティを離れることがあったとしても、そのような出来事のせいで、傷ついたり、落胆する必要は全くないということである。

むしろ、信者が地上において、主に忠実に従うがゆえに、人からの拒絶を受ける時には、常にほどなくして、それに相応する天の栄光が待ち構えていると言って良いから、それを待ち望むくらいでちょうど良いのである。信者が主に従う過程で負った苦しみには、どんなものであれ、必ず、天での報いが伴う。

だから、信者は、人間に過ぎない者たちの言い分や、人の思惑に振り回される必要がなく、また、自分の地上生活における苦しみだけに注目して、落胆したりする必要もなく、それとセットになって天に備えられている絶大な栄光に思いを馳せ、神が地上の軽い患難と引き換えにどのような大きな喜びをもたらされるのか、それだけを心に留めて進んで行くべきなのである。

繰り返すが、信者が地上でいわれなき苦難を黙って身に背負うとき、神はその信者の態度をよく見て下さり、信者のどんな些細な苦しみに対しても、予想だにしない大きな祝福を備えて待っていて下さる。

むしろ、そのようにして、自分が地上で低められ、恥を負うことによって、十字架の死を負う態度がなければ、信者はキリストの死に同形化されることができず、キリストの死に同形化されていない者が、キリストの復活に同形化されることは決してない。

つまり、信者が主と共に十字架を負うことに同意しない限り、その者に神の復活の命の現われが見出されることもないのである。主の死を共に負わない信者が、キリストと一つであると豪語するのは、嘘であり、悪魔の罠でしかない。主の死に同形化されずに、主の復活にあずかろうとする者は、神に従うどころか、逆に悪魔と同じ高慢さに落ちて行くことになる。これは大変恐ろしい罠である。

聖書ははっきりと告げている、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)。これは世人のみならず、まさにクリスチャンを名乗る人々にも同様に当てはまる事柄である。

いのちに至るための小さな門、狭い道とは、主と共なる十字架の死のことである。主と共に、人前に蔑みや、排斥や、そしりを負い、自分で自分を高く掲げないことである。もし神の御前で高くされたいなら、その人は、まず低くされることに同意しなければならない。神と人との前に真に賞賛に値する者とされたいならば、まず、人前に低められ、誤解されたり、そしられたり、嘲られたり、のけ者にされたり、拒まれ、栄光を奪われ、無とされることに同意しなければならない。その経緯を辿って初めて、天の栄光にあずかることができるのである。

筆者がしばらくの間、生ける命の水の川々を流し出す秘訣を十分に知らずにいたのは、この絶えざる十字架の死こそ、復活の命の現われであると、まだはっきりと気づいていなかったためである。信者の信仰生活につきものである苦難を驚き怪しむどころかこれを積極的にキリストの苦しみにあずかる機会として用い、御名のゆえに、自己を余すところなく十字架の死に渡すことが、どれほど絶大な喜びへとつながるか、まだ具体的に十分には知ってはいなかったためである。
  
クリスチャンになってまで、主のための苦しみを避け、自分が人生の成功者であり、失敗や痛み苦しみとは一切無縁であるというイメージを醸し出しては、それを神の恵みと称して、人前に誇っているような人々は、ただ自分の生まれ持った肉の力を誇っているだけである。だが、人が生まれ持った人間的な手練手管によっては、誰も、神が信じる者のために備えて下さっている天の栄光にあずかることはできない。

旧約聖書に登場するヤコブは、自分の手練手管により、兄であるエサウを出し抜いて、長子の権を奪うことには成功したが、その後、彼より上手だったラバンからしたたかに利用され、つらい様々な紆余曲折を経なければならなかった。ヨセフは、父のお気に入りの息子として、他の兄弟たちにまさって親の愛を受け、自分が将来、兄たちの上に立つ支配者になることを幼い頃から予感していたが、その栄光に満ちた召しへたどり着くためには、兄弟たちに裏切られて、奴隷として売られ、家からも親の愛からも遠く引き離されねばならず、さらには使用人として仕えていた家でも、主人の妻の偽りの証言がもとになって、いわれなく投獄されたり、相当につらい体験を味わわなければならなかった。モーセも、エジプトの王子として育てられ、言葉にもわざにも力があったが、イスラエルの民をくびきから解放するという光栄な召しを果たすために、神によって指導者として立たされるまで、長い間の失意の逃亡生活を耐えなければならなかった。

待望の息子が生まれるまでに肉の力が尽きるまで待たされたアブラハムとサラは言うに及ばず、このようにして、天の栄光が信者に現れるためには、必ず、信者が地上で低められるという過程がなければならない。それによって、信者が生まれ持った肉の力が尽き、どんなに生まれつき才覚のある人間でも、もはや自分自身の力で自分を高く上げることができなくなったときに、信仰によって、神の力がその人に臨み、人間の努力や才覚によらず、ただ神の霊により、神の御言葉により、その信者を通して、神のご計画が成就し、信じる者がキリストと共に高く上げられるということが起きるのである。

筆者は、20世紀に地上の人間として生まれ、人間としての常識を持っているために、さまざまな問題が持ち上がる時、人間的な観点から、常識に従って、その解決方法を考えないわけではない。時には、専門家と呼ばれる人々に助けを求めたことがなかったわけではない。ヨセフがポテパルの妻の讒言が災いして投獄されていた時、一刻も早く釈放されたい願いから、他の囚人に助けを求めたように、人間の助言や力に頼ろうとしたこともないわけではない。だが、そういう方法では、決まって問題が解決せず、かえってこじれることの方が多いということを、筆者は思い知らされて来た。

つまり、神が信者のために供えられた苦難に対しては、神が定められた方法でしか、解決が与えられないのである。そして、その解決とは、人間の力によらず、ただ神の御言葉から来る。

人間は、自分の体に不調があれば、医者にかかれば治ると思うかも知れない。それがこの世の常識である。だが、結局、医者ができることなど限られており、人間の体を健康に戻す最大の力とは、その人の生命それ自体に備わった自然の治癒力にこそある。そして、しばしば医者の助言は、患者にとって極めて有害なものともなりうる。たとえ大手術をしても、手術が患者を救うのではなく、その手術から回復する力がなければ、むしろ、手術自体が命取りになりかねない。そして、本当に必要な手術でない手術も、病院では「治療」と称して極めて多く行われている。
 
人間が生まれ持ったアダムの命の治癒力には限界があるが、この治癒力を他のどんなものよりも効果的かつ完全に発揮できるのは、キリストの復活の命である。そこで、キリストの復活の命を持っているということは、その信者が、あらゆる問題を、主と共に、自らの力で解決することができる立場に立っていることを意味する。

同様のことは、病気だけでなく、人間が遭遇するあらゆる問題に共通する。何かしらのこじれた問題が起きれば、人は弁護士のもとを尋ねたり、裁判所に赴いたり、警察に赴いたりすれば、解決が早まると信じるかも知れない。だが、その問題を解決する力は、そのような識者や専門家にはなく、その人自身の霊的な状態と思考力、その人自身の判断力、交渉力、決断力にこそある。

だから、筆者は、今となっては、様々な問題が発生する時に、その解決を、この世のどんな「専門家」に委ねようとも思わない。そのような人々に接近して、自分の問題解決を委ねた信者たちがいることは知っているが、彼らの末路は決して明るいものではなかったとはっきり言える。

幾度も述べて来たように、医者に頼る者は、不安を煽られて、切除しなくても良い臓器まで切り取られて健康を失い、裁判に頼る者、警察に頼る者は、信仰の道から逸れて、人間のプライドを立てるためだけの終わりなき闘争に引きずり込まれて行った。

神は筆者に対して、そのような方法を決してお許しにならなかった。そこには何か目に見えない線引きがあって、他の人たちにはできることが、筆者には許されず、神ご自身がはっきりとそれ以上、その道を進んで行ってはならないと、ストップをかけられるのである。つまり、人間的な力を用いて、自分の名誉や権利を力づくで取り返そうとすることを、神は決して筆者にはお許しにならない。これは極めて厳粛な線引きである。そして、このような神の知恵と守りがなければ、信仰の道から脱落した他の信者たちと同様、筆者も誤った道に容易に足を取られていたであろう。

神は筆者に対してこのように語られる、「ある人々は、自分の名誉が傷つけられれば、徹底的に相手に報復することで、自分が潔白であると主張しようとするでしょう。そのためならば、他人に濡れ衣を着せて告発したり、有罪に追い込み、悪口を触れ回ることをも辞さないでしょう。しかし、あなたはそのような人たちが、自己を守るために引き起こしている絶え間ない争いを見て、それを美しいと思うでしょうか。そこに栄光を見るでしょうか。むしろ、その反対ではないでしょうか。

クリスチャンとは、人を罪に定めるために召された存在ではなく、神の和解と赦しを勧めるために召されたのです。人を告発し、罪に定める仕事よりも、人に罪の赦しを宣べ伝え、解放を告げる召しの方が、どれほど栄光に満ちた、名誉ある、感謝される仕事であると思いますか。どちらがあなたに栄光をもたらす仕事だと思いますか。あの不正な管理人のたとえ(ルカ16:1~13)を思い出しなさい。

だからこそ、信者には、この召しの実行のために、人前に甘んじて不義を受けるという態度が必要なのです。私があなたの義である限り、あなたの潔白はゆるぎません。誰もあなたを再び罪に定めることのできる存在はありません。しかし、私はあえて私の愛と栄光を、信じる者たちを通して地上に現したいのですよ。そのために、あなた方に、反抗する罪人たちに、終日手を差し伸べる者となって、私の耐えた苦しみを、あなた方にも共に背負ってもらいたいのです。私が神であるにも関わらず、その栄光を捨てて地上に弱い人間として生き、その中でも最大の恥辱を負って十字架にかけられることを辞さなかったように、その愛にあなた方もならって、地上で自分を低くすることで得られる天の栄誉の大きさをを共に知ってもらいたいのです。それによってしか、私の栄光をあなた方が共に得ることはできないのです。」

だから、信者は、どんな瞬間にも、自分は主と共にすでに死んでいることを思い、日々、人生に起きて来る、ごく些細な苦しみに同意して、神の御前に自分を低めることによって、ただ神だけがなしうる不思議な方法で、その些細な苦しみと引き換えに、それとは比べものにならないほどの、絶大な天の栄光が与えられるのを確認するのである。

信者にとって真のリアリティは、苦しみではなく、それと引き換えにもたらされる天の栄光である。地上的な試練は、ほんの束の間に過ぎ去るものでしかない。たとえば、車の運転をするときに、障害物だけを見つめて運転していたのでは危険であろう。また、障害物が現れたからと言って、それを迂回せず、無理やりどけてから進むという者はいないだろう。そんなやり方では1mも前進はできない。

同じように、信者の信仰生活には、様々な「試練」や「苦難」や「障害物」が現れて来るが、信者はそれを見つめず、あくまで進むべき進路だけを見つめ、道の先に待っているもの、目指している目的地だけをまっすぐに見つめるのである。それが天の都、信者が主と共にあずかるはかりしれない永遠の重い栄光である。

多くの信者たちは、障害物がリアリティだと思い込んでしまうので、そこでつまずいて前に進めなくなってしまう。自分が傷つけられ、栄誉を奪われれば、取り返さねばならないと思い、目の前に何か大きな障害が立ちはだかって、前進が妨げられているように見えるときには、その問題を解決しない限り、前に進めないと思い、主と共に解決を落ち着いて考えようともせずに、苦しみから早く逃れようと、不安を煽られて、専門家のもとを闇雲に走り回り、無用な忠告を受けて道に迷わされ、さらに問題をこじらせてしまう。人間的な力で物事を正そうとするがゆえに、御言葉を退け、十字架につまずいて、前に進めなくなってしまう。そして、もっと悪いことには、それをきっかけに、信仰から逸れて行ってしまう者も多い。

覚えておかなければならないのは、信者の人生に、主と共に信者が自分で乗り越えられないような障害物は、地上に何一つ存在しないということである。障害物を絶やすことは、信者の力ではできず、それらをすべて力づくで除去することもできない。必要なのは、障害物は進路ではなく、注意を払うべき対象でもなく、さらには現実でもないことを認識して、真にリアリティである方から目をそらさずに、まっすぐに前だけを見て進む方法を見つけることである。間違っても、障害物を除去するまでは前進できないなどと誤解してはならない。

信者が障害物を乗り越える方法は、その時々によって様々である。人間的な手練手管によって、上手に迂回することはほとんどの場合は無理である。むしろ、人間的な力や策謀によらない、実に不思議な方法によって、神はそれを乗り越える方法を信者に示して下さる。それが、御言葉が信者の人生において実際になるということである。障害物は、最初は巨大な壁のように見えても、信仰によって進んで行くうちに、いつの間にか、それは全くリアリティではないこと、すでにキリストによって打ち破られて、効力を失っており、注目に値しないことが分かる。信者に障害物だけを見させて、前進を忘れさせるのが、悪魔の目的なのである。
 
地上にどんなに障害物が多く現れても、キリスト者にとって、道がなくなることはない。道とはキリストである。この方だけが真のリアリティである。だから、信者はこの方だけを見つめ、他のものから目をそらすのである。すべてのすべてであられる方が自分と共におられ、すべての解決であられる方が、自分の内に住んで下さっていることを確信し、地上で何が起ころうと、それに心を留めず、自分の目の前に置かれた喜びだけをまっすぐに見つめて、天の栄光だけを信じてまっすぐに進むのである。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と、主イエスが言われたように、信者が信仰によって目を注ぎ、心に思い、それがリアリティだと思って見つめるものが、現実になるのである。あなたにとっての現実とは何だろうか。病が現実なのであろうか。障害が現実なのであろうか。苦難が現実なのであろうか。はたまた、不幸な過去や、嘆かわしい生い立ちや、過去の失敗や、恥や、不完全な自分自身や、人の身勝手な思惑や、いわれなき讒言や、迫害や、傷つけられた自己の名誉やプライドが現実なのであろうか。

仮にそういうものがどれほど数多くあったとしても、神はあなたにとってそういうものを解決できないほどまでに弱々しい存在なのであろうか。あなたは一体、何を現実として選び取るのか。人の弱さや不完全さの中にこそ、神の強さと完全が生きて働くという幸いな事実を見ることができるだろうか。信者が地上において御名のゆえに負うすべての苦しみは、信者を通して、神の栄光が現されるためのほんの些細なきっかけでしかないという幸いな事実を見ることができるであろうか。
 
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


「あなたのために、私たちは一日中、

死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)