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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(2)

「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)
 
* * *

さて、掲示板での騒ぎのために心痛めている人があるかも知れないので、一言書いておきたい。我々信じる者を巡って起きる対立は、人間的な対立ではない。その背後には、神の霊とそれに逆らう汚れた霊の対立がある。聖書には、次のように書かれている通りである。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

私たちが敵としているのは、目に見える肉なる人間ではなく、彼らを導いている悪の諸霊であり、暗闇の世界の支配者、それが率いるもろもろの支配と権威である。
  
はっきり言えば、私たちが敵としているのは、目に見える人間ではなく、彼らの吹き込む嘘偽りの教えである。

人間はたかだか100年ほどしか生きないが、おそらく霊には寿命というものがないのではないと思われる。創世記で蛇の姿をしていたサタンが、黙示録では、年老いた竜になっているところを見ると、サタンと暗闇の勢力にも、年を取るということはあるのかも知れないが、彼らには体がないので、寿命が来て死ぬことはなく、従って、世の終わりが来て、神の永遠の刑罰が彼らに下され、彼らが己が悪行の報いとして、火の池に投げ込まれるときまで、この諸霊どもは生き続けるものと見られる。

つまり、暗闇の勢力に属する悪の諸霊は、神の天地創造からこの方、ずっと変わり映えのしないメンバーで、人類を欺き、惑わし続けているのであって、彼らは自分の体を持たないために、常に宿主となる人間を探し出しては、その人間を通じて、堕落した惑わしの力を行使しようと、この人間を要塞として利用して来たのであって、悪の諸霊の吹き込む嘘を受け入れた人々が、その宿主となって来たのである。

従って、もう一度言うが、私たちが無力化して粉砕すべき対象は、目に見える人間ではなく、また、悪の諸霊それ自体でもなく、その霊どもが、人間を要塞化してそこから宣べ続けている「偽りの教え」である。

悪の諸霊は、人間の手によって根絶されることはない。これを最終的に裁かれるのは神である。従って、私たちの戦いの目的は、悪霊そのものを対処するというよりも、悪の諸霊の述べる嘘に満ちた偽りの教えを粉砕して、彼らの脅しを無効化することにあるということを、いつも覚えておかなければならない。
 
私たちが目にしている人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、もしも我々信者の証しを否定するために、立ち向かって来る人間があるとすれば、その人は自分の考えを述べているのではなく、彼らを導く悪霊の考えを述べているのであって、その究極の目的は、聖書の御言葉を否定することにあると理解しなければならない。
  
私たちは、どのような相手であれ、人に向き合うに当たり、彼らの述べている思想がどのようなものであるかを把握することによって、彼らがどのような霊に導かれて生きているのかを見分けることができる。

聖書が次のように教える通りである。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は、すべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)
  
 さて、当ブログでこれまでずっとグノーシス主義の構造を明らかにして来たのは、それが悪霊の教えの基本形だからである。基本形と言っても、これは聖書をさかさまにしたものであるから、悪霊にオリジナルの教えがあるわけではない。とはいえ、この基本形を知ってさえいれば、悪の諸霊が時代を超えて作り出すすべての思想は、すべてそのバリエーションに過ぎないことが理解できる。

たとえば、長年、当ブログに激しい攻撃を加え続けているカルト被害者救済活動の支持者の一人は、キリスト教徒を名乗っているにも関わらず、自らのブログで、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物ではなく、人間が書いたものに過ぎないとか、悪魔もなければ、暗闇の勢力も存在せず、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って現れて人類を惑わせたなどのことは事実でなく、ノアの洪水もなく、聖書の記述を文字通りに信じるなど、精神異常の産物であって馬鹿げている、という見解を公然と述べている。
 
当ブログでは、そのような見解からは、必然的に、乙女マリヤが御霊によって身ごもってイエス・キリストを生んだという聖書の記述などは、すべて「馬鹿げた作り話」という結論しか導き出せず、従って、このような人々は、うわべだけはキリスト教徒を名乗りながらも、結局、イエス・キリストが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定しているのだと示した。

このことから、彼らを導いているのは、反キリストの霊であると言える。そして、このように、彼らが、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、イエスが神の独り子なることを否定していることを理解した上で、改めて彼らが当ブログに投げつけている悪罵の言葉を見れば、その内容が、ほとんど彼らが聖書を非難している言葉とほぼそっくりであることも、すぐに分かるはずだと指摘した。

つまり、彼らは聖書が「嘘に満ちた作り話」であると確信していればこそ、当ブログの信仰の証しが「妄想の産物」であるかのようにみなして攻撃・中傷しているのであって、当ブログに向けられた非難は、それを通して、彼らが聖書の御言葉を否定し、聖書の神に敵対するための手段なのである。
 
さらに、彼らが「聖書の記述は嘘だ」と主張していることに加えて、彼らが何より広めたい第二番目の主張は、「神は唯一でない」ということである。
 
当ブログは、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。」(Ⅰテモテ2:5)の御言葉に基づき、聖書のただお一人の神以外の「神々」など存在せず、牧師などの指導者は、とどのつまり、キリストになり代わって信者の心を支配しようとしている偶像に過ぎないと主張して来た。

この主張こそ、彼らにとって最も許しがたいものなのである。なぜなら、この主張は、宗教指導者の権威を否定するのみならず、それに属する彼ら自身が、「神々」であることを否定するものだからである。
 
上記のような人々が、すでに心の内で、自分たちを「神々だ」と宣言していることは、これらの人々の一人が「神々の風景」という題名のブログを開設していたことや、当ブログにもかつて書き込みをしことのあるある集会の指導者が、今や「自分たちはエロヒム(神々)だ」と公言している様子を見てもわかる。これは決して偶然ではない。

彼らが言いたいのは、結局、「俺たちは神々だ! それを否定して、神は唯一だなどと宣言する輩は、俺たちの『神聖』を『冒涜』しているのであって、許せない」ということであり、自分たちこそ「神々である」と宣言するためにこそ、彼らは、彼らの考えに大いに水を差す当ブログを、何とかこの世から駆逐しようと、あれやこれやの言いがかりをつけては、当ブログの信仰の証しを否定しているだけなのである。

だが、恐れないでもらいたい。今、掲示板で馬鹿騒ぎを繰り広げている連中は、筆者に指一本触れることはできない(そのようなことは、彼らには許されていない)。彼らにできることは、彼らの偽りの教えを否定し、真実な信仰の証しを続けるクリスチャンに、あらん限りの罵詈雑言を投げつけることで、聖書に基づく信仰の証しを公然と続けることは、ためにならず、危険なことであるかのように多くの人たちに思わせ、信者を威嚇することだけなのである。
 
そこで、筆者は、このような卑劣な脅しには断じて屈しないようにと人々に呼びかけておく。

これまで幾度も書いて来たように、クリスチャンが信仰のために主に献げるものは、すべて前もって、神と信者との間で了承のもとに取り去られるものに限られている。従って、今起きていることは、将来起きることの予表ではあるにせよ、彼らは決して神が許した限度を超えて、クリスチャンに手をかけることは許されていないのである。
  
イエスが何を言われたか、思い出してもらいたい。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や楼に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

それはなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)


このように、クリスチャンが世から憎まれ、迫害を受けるのは、人々の前で立派に信仰を証する目的のためである、と主イエスははっきり言われた。

従って、私たちが迫害を受けたとき、せねばならないことは、人々の前で敵の嘘や詭弁に満ちた主張を、対抗弁論によって毅然かつ堂々と打ち破ることであって、彼らの脅しを恐れて退却することではない。

なぜなら、すでに述べた通り、私たちが向き合っているのは、あれやこれやの人間ではなく、悪の諸霊が吹き込む偽りの教えそのものであって、私たちがなすべきことは、すでに述べた通り、彼らの嘘を指摘し、聖書の御言葉が真実であることを公然と証明することで、大勢の人々に対して行使されている彼らの嘘による脅しと、惑わしの力を、無効化することだからである。

それが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉の意味なのである。

* * *

さて、今回は、「聖書の記述は嘘だ」という彼らの第一の言いがかりに加えて、「我々は神々である」という彼らの第二の嘘が意味するところについて、重点的に考えてみたい。

なぜなら、聖書のまことの神である唯一の神を否定して、自分たちが「神々である」と詐称することこそ、グノーシス主義思想の最大の目的だからだ。

福音書には、ぶどう園をあずかった悪い農夫たちのたとえ話が複数個所、登場する。

むろん、誰でも知っているように、この悪い農夫たちは、直接的には、ユダヤ人を指す。ユダヤ人たちは、神が自分たちのために遣わされた預言者たちを迫害して殺し、神が独り子なる救い主を遣わされたのに、これをかえって十字架につけて殺した。

そこで、救いはユダヤ人から取り上げられて、異邦人に与えられ、それだけでなく、主イエスを拒んだユダヤ人の都エルサレムは、やがてローマの進軍により滅ぼされ、神殿は石組一つも残らないほど徹底的に壊滅した。

実は、グノーシス主義の構造とは、まさにこの悪い農夫たちの策略そのものであると言える。そして、恐るべきことに、今日、目に見える教会には、まさに神と人とが主客転倒したグノーシス主義の教えが広まり、まさにこのぶどう園の有様が広がっているのである。

今回は、マタイによる福音書からそのたとえ話を引用しよう。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
 
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。


さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。

 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。


 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』

  だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイ21:33-46)

私たちは、このたとえを読んで、首をかしげるだろう。一体、なぜこの悪い農夫どもは、ぶどう園の主人の跡取り息子を殺したからと言って、農園が自分たちのものになると考えたのだろうかと。殺人によって所有権を奪うことなどできるはずもないのにと。

全くその通りで、そんな考えが荒唐無稽であることは言うまでもない。しかし、暗闇の勢力は、有史以来、殺人によって神の国(神への礼拝)を正しい人々の手から奪い取ろうとして来たのであって、カインはアベルを殺すことで、神への礼拝を奪い取れると考え、ユダヤ人たちも、キリストを殺せば、自分たちの教えだけが、正しいものとして残ると考え、自分たちが本当は神に受け入れられておらず、全くの罪人でしかないという事実を誰からも暴かれずに済むと思ったのである。

要するに、これらの人々は、本物を駆逐しさえすれば、誰にも本物と偽物との区別がつかなくなり、偽物である自分たちが、正体を暴かれることなく、公然と本物を名乗れるかのように考えたのである。

ここに、「唯一の神から、神であることを奪って、自分たちが神になりかわりたい」というグノーシス主義の究極的な願望が込められていると言える。

当ブログにおいては、グノーシス主義とは、被造物が主体となって、自らの創造主を客体に貶め、被造物が創造主の神聖を盗み出して自ら「神々」になろうとする「模倣と簒奪の思想」であると述べて来た。

要するに、グノーシス主義は、聖書の神と人とを主客転倒した「さかさまの思想」であって、神によって罪に定められ、神聖から排除された、堕落した生まれながらの人類が、自分たちを罪に定めた聖書の神に反逆し、神に復讐を遂げることを正当化するために造り出された思想なのである。そして、もちろん、その起源は、創世記において、人類を誘惑した蛇の教えにある。

グノーシス主義思想が、「擬制(フィクション)としての父の物語」だと言われるのもそのためで、この思想の持ち主は、神の国の後継者ではないのに、後継者であると詐称して、まことの神から、神であることを奪って、己を神としたいからこそ、彼らにとって「父なる神」はフィクションでなければならないのである。なぜなら、本当の父というものがあれば、彼らの嘘がすぐにバレてしまい、彼らは父の圧倒的な権威によって、家を追われることになるためである。
 
聖書において、父なる神は、「わたしは有る」(出エジプト3:14)と力強く宣言される方であって、断じてフィクションなどではない。

お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」(詩編2:7-9)

この箇所は、キリストを指したものであるが、父なる神が聖霊によって独り子なるキリストを生んだように、私たちクリスチャンも、バプテスマを通して下からの出自に死んで、御霊を通してキリストによって上から生まれた者たちである。

私たちはこうしてキリストによって、父なる神から生まれていればこそ、この父に、子として何でも願い求めることができるのであり、もしも私たちが「父が分からない」子だとするならば、私たちは信仰によって、何一つ神に願い出る資格を持たない者となる。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

と書かれてある通りである。

ここでは、神の子供であることを見分けるために、いくつかの条件が提示されている。まず、「神の霊」によって導かれていること。そして、その霊とは、人を恐怖によって奴隷とする霊ではなく、私たちが神の子であることを証する霊であること。

次に、私たちが神の子であるならば、キリストと共に「共同相続人」でもあること。これは私たちが、やがて来るべき新しい天と地で栄光に満ちた贖いに預かることを指している。

さらに、私たちがキリストと共に苦しみを受けることによって、栄光を受けることが出来ること。これはクリスチャンが地上で主の御名のゆえに負わねばならない苦難を指す。

また、非常に重要なこととして、神の霊によって導かれて生きるためには、「肉に従って生き」ず、かえって「霊によって体の仕業を絶つ」ことが必要になる。これは主と共なる十字架の死の効果が、信者の肉に対して絶えず及んでいることを意味するが、このことについては後述する。
   
ところが、被造物を主とするグノーシス主義は、「父なる神」をもの言わぬ「虚無の深淵」や「鏡」に貶め、「存在の流出」という考えにより、あたかも天地万物のすべての被造物は、父なる神の意志によらず、自動的に流出したかのように述べる。

幾度も述べた通り、ここには、父の意志というものが介在しないため、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」という父から子への明白な承認が全くない。それどころか、もの言わぬ「父」は、いるかどうかも分からない存在へと追いやられている。

このようにグノーシス主義は、「父なる神」から発言権を奪った上で、神の姿が水面に映って乱反射した映像から流出して出来たとされる被造物を「神々」として誉め讃えるのである。

このように、まことの神を骨抜きにして、その神から神聖なるリアリティを盗むがごとくに生まれた被造物を「神々」として賛美するという人類の自己満足、自己賛美のために造られた思想が、グノーシス主義である。

どこまでも人類の自己満足、自己賛美の思想であって、それを力強く承認してくれる者の存在がないからこそ、この思想には、この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。と言える「神の子とする霊」「証」の存在はなく、ただひたすら「俺たちの父祖は神だ!俺たちは神の子孫であって、神々だ!」という「自称」の世界が広がっているだけなのである。

しかし、彼らの自己満足にも、決定的に水を差す存在がある。それが、ソフィアの失敗作と生まれたヤルダバオートである。

グノーシス主義においては、地上を支配する醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)は、アイオーンたちのヒエラルキーを飛び超えて、単独で神の神聖を盗もうとして失敗したソフィアの過失の結果、生まれた悲劇の産物であるとされる。そして、これが聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されて、徹底的に悪罵と嘲笑の対象とされるのである。

私たちは、グノーシス主義とは、聖書の唯一の神を徹底的に憎悪し、悪罵・嘲笑することを目的に生まれた思想であることを覚えておく必要がある。

グノーシス主義がヤルダバオートを憎むのは、まず彼の存在そのものが、母としてのソフィアの企ての失敗(被造物の失敗)を示すものであることに加え、彼の外見が、自分たちは美しいと思って自画自賛しているアイオーンたちから見て醜く見え、さらに、何よりも、ヤルダバオートが「わたしの他に神はない」と宣言しているためである。

もちろん、ヤルダバオートのこの宣言は、「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。」(イザヤ45:5)などの聖書の神の宣言を、グノーシス主義者が皮肉り、嘲笑するために悪用したものである。
 
つまり、「神々」なるアイオーンたちから見れば、自分一人だけが神であるかのように宣言し、他の「神々」の存在を頑なに認めないヤルダバオートは、「高慢」で「無知」で「愚か」な悪神であって、許せない存在と見えるのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想は、至る所で、ヤルダバオートに聖書の唯一の神を重ねて、これを高慢で無知で愚かな神として、徹底的に嫌悪し、嘲笑の対象とするのである。

このように、グノーシス主義が最も憎んでいるのは、神は唯一であって、他に神はいないと述べている聖書の真理なのであって、この思想の持主の目的は、神が唯一であることを否定して、その代わりに、被造物を「神々」に据えることにこそある。

先に結論から述べるならば、掲示板において当ブログに盛んに悪罵の言葉を向けている人々が、当ブログの主張を「高慢」で「狭量」で「僭越」なものであるかのようにみなしているのも、同じ理由からである。

当ブログの信仰の証しを「妄想」や「精神異常の産物」として罵っている人々は、聖書の記述をも、人間に精神異常をもたらすだけの「作り話」だとみなして否定しているだけでなく、当ブログの信仰の証しを「高慢」だと罵ることにより、自分たちこそ「神々」であるとして、唯一の神を否定しているのである。

もちろん、彼らが神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いも認めていないことはすでに述べた。だとしたら、ただ一人の救い主を信じないのに、自分たちが救われていると自称している彼らは、自分たちが生まれながらにして「神々」だと詐称しているに過ぎない。
 
こうした悪罵の背景には、太古から続いて来た、聖書の神に反逆する思想があるということを、私たちは覚えておく必要がある。

グノーシス主義というのは、初代教会の時代に名付けられた呼び名に過ぎず、この思想それ自体は、もっと前から存在している。その起源は、創世記で人類をそそのかした蛇にさかのぼり、いわば、蛇の教えを体系化したものが、グノーシス主義なのであって、それが多くのバリエーションを作って、世界の宗教、哲学、政治思想などに受け継がれている。
 
結局のところ、世界の思想は、根本的に大別すると、キリスト教と非キリスト教(グノーシス主義)の二つしかないのであって、聖書の御言葉が真理であることを認めない思想は、すべてグノーシス主義のバリエーションとして分類することができるのである。

私たちは、このように、太古から、聖書の唯一神を徹底的に悪罵、憎悪し、神を誹謗中傷の対象として来た悪魔的思想というものが存在し、それが悪の諸霊によって、現代にも、惑わされた人々に連綿と受け継がれていることを理解しておく必要がある。

だから、掲示板における人々の当ブログに対する非難の根底には、グノーシス主義が存在しているのであって、当ブログがこの偽りの教えの嘘を体系的に明るみに出していればこそ、彼らの非難は苛烈を極めるのである。
 
とはいえ、私たちの神ご自身が罵られ、嘲られている時に、私たちがキリストの苦しみにあずかるのは当然であって、それによって、私たちは来るべき世において、主と共に栄光を受けることができるであろう。約束の相続人であるからこそ、キリストと共に苦しむという栄誉も与えられているのである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

話を戻せば、グノーシス主義には、もの言わぬ「虚無の深淵」とされているとはいえ、一応、形ばかりは「父なる神」が存在している。これは「神々」の誕生にほんのわずかなりとも口実を与えるために造り出された、骨抜きにされた沈黙する神であって、すでにフィクションのような存在である。

だが、東洋思想においては、このようにフィクションによって抜け殻と化した「父なる神」すらもなく、万物の生命の源は、公然と「母なる神」(神秘なる混沌)にあるとして、女性原理が神聖なものであるかのように誉め讃えられる。

この「母なる神」(老子によれば玄牝)は、言い換えれば、人間の肉の情欲そのもののである。詳しくは省略するが、東洋思想では、天地万物は、「神秘なる母胎」なるものから、情欲の交わりによって誕生したのだとされ、東洋思想の根本には、堕落した肉の情欲をあたかも神聖なものであるかのように誉め讃える思想がある。

幾度も述べて来た通り、このような思想は、ペンテコステ運動の中にも、「母なる聖霊」論などという荒唐無稽な形を取って入り込み、キリスト教の「父なる神」を骨抜きにし、堕落させようとして侵入しているのは言うまでもない。

このようなものは、要するに、唯一の神を否定して、「父なる神」の戒めなど完全に無視して、己の肉の欲望のままに、あらゆるものと奔放に交わり、無責任に子を生み出し続ける、忌むべき「母」バビロンのことである。

女は紫と赤の衣を来て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」(黙示17:4-6)

(ちなみに、今日、このバビロンが堕落した肉欲の象徴であり、偽りの教えの総体であることを否定する信者はほとんどいないであろう。そして、バビロンがどれほど豪奢に着飾っているかの描写が、次のパウロの言葉といかに対極にあるかもよく分かるはずだ。

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、髪を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(Ⅰテモテ2:9-11)

ところが、今日、ある人々は当ブログを非難して、このくだりの「婦人」とは、象徴を指すものではなく、文字通りの意味だと主張している。そして、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」(Ⅰテモテ2:12)という続くパウロの言葉を文字通りに解釈し、これを実行すべきだと述べて、彼らの教会の講壇に立っているわけでもない当ブログの記事が、ただ女性執筆者によるものだというだけの理由で、許せないなどと支離滅裂な非難を展開している。

だが、バビロンとの対比によっても、この「婦人」が象徴であることは明らかであり、そうでないと主張したい人は、まずは自分たちの教会の講壇から女性説教者をすべて追放すれば良かろう。そして、自分たちの娘にも、いかなる結婚式やその他の宴会でも、決して高価な着物を着させず、生まれてから一度も髪を編まず、金や真珠を一切、身に着けるのをやめさせると良いのである。そして、教会に足を踏み入れてから立ち去るまで、彼女たちには一言も口を利かないように教えるがよい。それが以上の御言葉を文字通りに受け取ることの意味なのだから、この人々は、まずは自分たちが信じるところを忠実に実践すべきなのである。)

このように、グノーシス主義における「神々(被造物)」とは、本質的にバビロンと同じく、堕落した被造物のうちに働く生まれながらの肉の欲望を「神聖なる女性原理」として誉め讃えたものであり、彼女の行いが悪いからこそ、グノーシス主義者は、「父なる神」には沈黙しておいてもらわなくてはならないのである。

彼らは「父」の戒めに従っていないからこそ、彼らにとって「父」はフィクションである方が都合が良く、むろん、バビロンの姦淫によって生まれた「子ら」にとっても、父が誰かなどといった問題は、タブーであって、放っておいてもらわなくてはならない問題なのである。

このような思想の特徴は、肉に対する霊的死がなく、心に割礼を受けていないという一言に尽きる。

だが、先の御言葉でも、正統な神の国の後継者には、「霊によって体の働きを殺す」という「一つの義務」が課せられている。

「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

これが、罪に対する赦しとは別の、キリストの十字架のもう一つの側面である。私たちの旧創造に属する堕落した肉を霊的に死に渡すことのできる絶大な十字架の効力である。

だが、グノーシス主義においては、罪もなければ、十字架もないため、この思想は、人間の肉欲を聖なるものであるかのように褒めたたえるだけで、それに対するいかなる処方箋も提示しない。

グノーシス主義では、天地万物の創造は、真の至高者が、水面に自分の姿を映し出すことによって、そこから「神々」の存在が、映像のごとく「流出」して生まれたとされる。

だが、この筋書きも、人間の自己愛の産物であって、ちょうどギリシア神話に登場するナルシス(ナルキッソス)が、水面に映った自分の映像に恋い焦がれて死んだのと原則は同じである。

ナルシスの悲劇は、「本体ではなく、映像こそが真のリアリティだ!」と宣言して、主客転倒して、本体からオリジナリティを強奪しようとするグノーシス主義者の願望をよく表していると言えよう(だからこそ、しばしばグノーシス主義の研究者らはこの物語に言及する)。

だが、ここで言う「映像」とは、堕落した被造物全体を指すだけでなく、人の肉の欲望そのもののことなのである。

ナルシスは、水面という鏡に自分を吸い取られることによって、本体は虚無であって、映像こそがまことのリアリティだという転倒したものの見方を提示し、その恐るべき思想の至り着く当然の結末として、自分を失って死んだのであるが、ここには、神は虚無であって、被造物こそがまことのリアリティだという転倒した思想が表れているだけでなく、被造物も、肉に対する霊的死など帯びる必要がなく、思う存分、肉欲に翻弄されて生きた結果、肉欲を「主」として、その持ち主たる人間(自分)を「従」として、肉欲に自分を吸い取られることにより、いずれ神にまで至れるとする完全に転倒したグノーシス主義の考え方がよく表れている(むろん、そんなことが起きるはずもなく、彼らを待ち構えている結論は、死だけである)。

ギリシア神話では、あくまで物語の主役は、まだナルシスにあったが、グノーシス主義は、そこからより進んで、主役(至高者)を完全に沈黙に追い込んだ上、ナルシスの自己愛を、水面に乱反射させるようにして「神々」という形で結実させる。そして、この「神々」の動向の方に巧妙に物語の中心を移していく。そして、東洋思想になると、形骸化して沈黙する「父」もいなくなり、被造物(「母」)だけが勝ち誇っている。

無限とも言えるほどにたくさんの鏡、数えきれない映像、それらがせめぎ合って、みな本体を押しのけては、自分たちこそ本体だと、真のリアリティだと叫ぶ――これは、東洋における八百万の神にも通じる考えであって、グノーシス主義のアイオーンたちの形成する世界と同じものであり、現在、掲示板で起きている現象そのものであると言える(彼らは無数の鏡を作り、そこに当ブログについても悪意ある歪んだ映像を作り出し、それがリアリティであるかのように叫んでいる)。

これらの「神々」は、すべて時期尚早に結ばれた肉の実、「ハガルーイシマエルーバビロン」の系統に属する、心の割礼を受けない堕落した人類の欲望を表している。

自己愛というのは、自己保存願望と同じである。そこで、「神々」などと言っても、結局、グノーシス主義における「神々」の正体は、煩悩とでも呼んだ方がふさわしい、数えきれない欲望を表しているだけなのである。それらの欲望の中で最たるものが、人類が自力で子孫を残し、自己保存することによって、神の永遠にまで至り着きたいという願望である。

その欲望が、老子の言う玄牝であり、東洋思想の神秘なる混沌であり、グノーシス主義における最初の被造物にして万物の母なるバルベーローであり、これらはすべて人類の肉の欲望の総体である「ハガル」を象徴し、最終的には「大淫婦バビロン」に至り着くものである。

旧約聖書におけるサラは、アブラハムの妻であったにも関わらず、自分に子が生まれないことに悩み、このままアブラハムの家の子孫が絶えては困るという考えで、肉なる力によって、アブラハムの血統を保存しようと、自分の代わりに奴隷のハガルをアブラハムに差し出した。

この時点では、サラは神の御言葉の成就を待てず、「霊によって体の働きを殺す」どころか、肉の思いによって、早々に実を結ばせようと、奴隷を主人に差し出して、苦しみを招いてしまう。

だが、ここで言う奴隷のハガルとは、罪と死の奴隷となって、絶えず死の恐怖に追い立てられている人類の肉欲そのものであって、何とかして死に至る前に、自力で死に打ち勝って、永遠に至り着きたいという、人類の焦り、恐怖を指している。

つまり、「ハガル」とは、罪と死の法則によって支配され、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」の象徴であると言えよう。

人類の肉の欲望は、何であれ、すべて究極的には、死の恐怖に追い立てられて生まれる自己保存願望である。

そこで、グノーシス主義とは、心に割礼を受けていない、人を奴隷として恐怖によって支配する霊、堕落した肉欲の実を結ばせようと願う「ハガル」という母胎を、あたかも神聖なものであるかのように誉め讃え、ハガルの生み出す肉の実によって、神に喜ばれる信仰によって生まれる聖なる約束の子を駆逐し、消失させようという思想であると言える。

そこで、ぶどう園の悪い農夫たちは、みな「ハガル」の子孫である、と言えよう。彼らは、アブラハムの正式な妻であるサラから生まれた約束の子を殺して、奴隷のハガルから時期尚早に生まれた子を跡継ぎに据えれば、神の国を強奪できるだろうと考えた。

彼らの言いたいのは、こういうことである、「本物を殺して、コピーだけを残せ。そうすれば、俺達がコピーであって模造品に過ぎないとは、誰にも分からなくなり、俺たちの犯罪行為はかき消される。」

「本物の信仰の証しを地上から消し去り、神の子供たちをインターネットから駆逐しろ。そうすれば、何が本物で、何が偽物かなどと、誰にも分からなくなる。本物の神の子供たちを教会から追い出せば、神の国の後継者を名乗れるのは、俺たちだけだ。俺たちは神々であって、神聖で侵すべからざる存在だ。俺たちを冒涜する者は、誰でも同じ苦しみに遭わせてやれ。」

それが、この悪い農夫たちの悪質な企みであり、いわば、悪魔の教えの根幹であると言えよう。そして、このような盗人・人殺しによって支配されるぶどう園の行く末がどうなるのかは、聖書に書かれている通りである。

今日、無数の「ハガルの子孫たち」が現れて、自分たちは神の国の後継者だと詐称しては、聖書のまことの神に反逆し、キリストに連なる神の子供たちを教会から追い出し、彼らに憎しみを燃やして迫害を繰り返している。そして、すでに地上の目に見える教会は、これらの詐称者によって占拠されてしまった。だからこそ、このような場所からはエクソダスせねばならないし、彼らの偽りの教えに加担してはならないと言うのである。

* * *

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)



「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

最後に、冒頭に挙げた御言葉は、私たちが神に従う上で、肉による下からの生まれに死ぬのみならず、肉による絆、魂の愛情にも死なねばならない時があることをよく示している。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。<略>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とある通り、時には、親族や、兄弟や、友人からさえも、迫害されて、厳しい試練を通過せねばならない場合がありうることが予告されている。

だが、それゆえに、イエスは
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)と言われ、迫害に耐え抜いたことに対して、大きな栄光があることを約束されたのである。

だが、ここには、妻と夫との関係だけは含まれていない。それは、妻と夫の関係は、血縁によるものではなく、キリストと教会を予表するものであるため、信仰による迫害によって捨てなければならないものの中に含まれていないのである。

しかしながら、冒頭に挙げた通り、「
天の国のために結婚しない者もいる。」と、主イエスははっきりと述べ、それを受け入れられる心のある人は、そうした心構えで生きるようにと勧められた。パウロも、これに準ずる考えを述べている。

ところで、夫と妻との関係を論じるに当たり、ある人々は、
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ19:9)というイエスの御言葉を取り上げて、聖書は絶対的に離婚を禁じていると主張しているが、「不法な結婚でもないのに」とある通り、イエスはそこに例外をもうけられたことに注意が必要であろう。

このことについて、終わりのない愚かしい議論を繰り返している人間どもがいるため、そういう彼らには、サドカイ派の人たちの質問を裏返しにして、お尋ねしたい。

たとえば、カルト被害者救済活動の指導者は、カルト宗教で、指導者が信者に「神の啓示」として命じた結婚は、解消しても構わないと触れ回っているが、それはイエスの言われた
「不法な結婚」に相当するのか、しないのか。

さらに、ある人が結婚して、二人か三人の子供をもうけた後に、自ら家族を捨てて、しばらく経ってから、誰か別の、誰とも結婚したことのない若い人をつかまえて、その人の無知と弱みにつけこんで、結婚したと仮定しよう。しばらく経ってから、その人は、その若い伴侶を捨てて、さらに別の若い人を見つけて結婚したとしよう。そうして、七度、その人は、家庭を築き、その度毎に、子をもうけるか、もしくはもうけないで、伴侶を捨てて、ついには独身になった。そのような場合に、その人が地上で築いた七つの家庭のうち、その人が離婚を禁じられた伴侶とは、誰(何人)を指すのか。

この質問にきちんと答えられる人が、他者に向かって石を投げつければ良いのである。だが、果たして、これに答えられる人間が、目に見える教会や指導者にしがみつき、それを己が神聖の根拠であるかのように主張している信者の中にいるのかと疑問に思う。

要するに、愚かでむなしい議論にははまらないことである。

エクレシアのまことの伴侶はキリストであるから、信者は地上の移ろい行くものに心を留めないで、真っすぐに神の国を見上げて生きるのが、最も賢明な策であることは、誰にも否定できない事実であろう。

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霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。


   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。
 
 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。
 
 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。
 
 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)


御霊に導かれて歩む(1) 霊によって体の働きを殺す

なぜ霊的先人の書物を読む必要があるのか?

 全てのクリスチャンの働きはそれぞれに異なっています。人真似によって得られるものは何一つありません。たとえば、ある人が今日、全財産を捨て、職業を捨てて、主に従うことを選んだとしても、別の人が今日、それを模倣することによって、御心に従うことができるわけではありません。誰もが宣教師の召しを与えられているわけではありませんし、誰もが教師になる必要もありません。私たちは人真似によって神の御心に従うことはできません。
 とはいえ、クリスチャンの働きと、信仰生活の原則とは別物です。働きはそれぞれに異なっていますが、信仰は一つです。従って、神の御心に従って前進したいと願う全てのクリスチャンは、霊的先人たちが辿って来た、信仰生活に共通した原則に注意を払うべきです。

 私は以下のコメントで使用したいささか不用意な言葉を訂正したいと思います。もしも私がクリスチャンとして、より霊的に深められた生活を送りたいと望むなら、たとえば、多くの霊的先人たちのメッセージと同様、ウォッチマン・二ー兄弟の述べている原則に、私は注意を払わなければなりません。たとえ、ニー兄弟の述べていることの多くが、初めのうち、私には理解できなかったとしても、だからといって、性急に、それは彼だけに必要なことであって、私には必要ないと決めつけることは愚かです。私が彼と同じ人生行路を辿る必要はありませんし、また、彼の言葉に妄信的に従う必要もなく、また、一時に全てを理解することは不可能でしょうが、少なくとも、彼が述べている信仰生活の原則が、私にも、全く同じようにあてはまるものであることは、認めなければなりません。

 私たちは、先人の残した著書を読んだからといって、ただちにそこに書いてある全ての真理と経験を我が物とすることができるわけではありません。しかし、ウォッチマン・ニーは、御言葉に基づいて、全てのクリスチャンの信仰の成長にとって曲げられない原則を明記しました。ですから、私たちは、彼が著書で述べていることを全て理解できるようになることを、主に願い求める必要があります。


全てのクリスチャンは、十字架のより深い働きを知る必要がある

 さて、なぜ今日のクリスチャンは、これほどまでに力を失っているのでしょうか。なぜ私たちのうち多くのクリスチャンは、いつまで経っても、罪にからみつかれたまま、それに打ち勝つこともできず、同じところを行ったり来たりして、前進のない信仰生活を送っているのでしょうか。私たちは、いかにして御霊によって導かれるクリスチャンとなることができるのでしょうか。この問題について考えたいと思います。

 アダムは創造された時(まだ堕落していなかった時)、神と交わることのできる霊を与えられていました。それは神の霊(聖霊)ではなく、人の霊であったけれども、アダムはその霊によって神に従い、神と交わり、彼の魂と肉体は、彼の霊に服従していました。神と交わることのできる霊を与えられていること、それが、あらゆる被造物と人間とのはっきりした区別でした。アダムの中では、崇高な霊が最も高い地位を占め、それに魂と肉体が従うという優先順位が守られていました(霊→魂→肉体)。

 しかし、アダムが堕落した後、人の霊の機能は死んでしまいました。それ以後、生まれながらの人の霊は神に対して全く閉ざされた状態となり、人の霊の正常な機能は死んでしまい、むしろ一部の人々にあっては、悪霊に対して開かれているような、異常で堕落した状態となりました。その結果、人の霊と魂と肉体の優先順位は全く狂ってしまいました。人の中では、肉が王様となりました。人は罪の奴隷となり、魂は、罪にそそのかされるまま、肉体を使ってあらゆる罪を犯すようになりました。

 また、神のいましめに逆らって善悪を知る木の実を選んだことにより、人の魂は神に頼らない独自の知識によって高ぶりました。人の魂は自ら善悪を判断するようになり、あらゆる知識を導引して、己が知性を誇るようになりましたが、魂の知識は人をただ暗闇へと導くだけで、何の救いももたらしませんでした。堕落した肉が人の中で最高位を占め、真理を知らない魂が次なる地位を占め、肉→魂→霊、と、優先順位が逆転しました。霊の機能はないも同然となり、人は神から遠く引き離されました。その結果、人の人生にはあらゆる悲惨や混乱がつきものとなり、暗闇の中で、罪と死に至るだけになりました。再生されていない人は、どんな努力によっても、その状態を変えることはできません。

 人が悔い改めて、御子イエスの十字架を信じると、あらゆる罪から贖われ、聖霊がその人のうちに住まわれることによって、人の霊も再び生かされます。しかし、多くのクリスチャンは、その時点では、御霊が我がうちに住まわれたことをただ信仰によって信じているだけで、聖霊の導きをまだはっきりと内に感じることはありません。彼は霊によって導かれる人にはまだなっていません。また、肉の罪に打ち勝つことができる力もほとんどありません。そのような時点でのクリスチャンは、まだ肉的なクリスチャンであって、ある日、涙ながらに、罪と訣別する決意をしても、翌日には、また罪に戻っているような有様です。

 また、そのような時点でのクリスチャンの中には、一生懸命に聖書を読み、御言葉を知識として蓄積し、主のために多くの活動をする人たちがいますが、依然として、彼の活動の内には、聖霊の命が働いておらず、そのため彼の働きは実を結ばず、死んだように力がありません。

 この時点でのクリスチャンは、まだ、肉→魂→霊という転倒した優先順位の中で生きています。御霊に導かれる人となるためには、この順位を覆し、肉体と魂を霊に服従させ、人の中で、霊を真の主人とならせることが必要です。そのために、私たちは、肉と魂の古い性質を、御子の十字架を通してさらに死に渡す必要があります。しかし、多くのクリスチャンは、それを経験することなしに、この地点で立ちどまってしまいます。それは、彼らが、これが非常に初歩的な段階であって、まだ先があることを知らないためです。彼らは御子イエスの十字架が、私たちの罪からの贖いのためであることは知っていますが、私たちの肉と、古き人を対処するために、十字架に、より深い働きがあることを知らないのです。そのことが、多くのクリスチャンの生活が少しも前進しない理由となっているのです。

 ウォッチマン・ニーは、十字架には客観的な面と主観的な面があると言います。

 十字架の客観的な側面とは、御子イエスが全人類の罪の贖いのために十字架にかかられることにより、私たちのために救いを達成されたという事実です。この十字架の贖いは、約2000年前にキリストによって完全に成就され、私たちはそれに何一つ付け加えることはできませんし、また、付け加える必要もありません。
 一方、十字架の主観的な側面とは、私たちが御子の十字架をただ私たちの罪の贖いのために受け取るだけに終わらず、さらに、それぞれの人生において、御子の十字架をどのように深く経験していくか、ということを指しています。

「事実、十字架の働きは絶対的に、完全に、永遠に達成されました。それは、もうそれ以上深めることはできません。しかしながら、この事実をクリスチャンが経験していく過程は、一歩また一歩と深くされていくことができるのです。少しずつ、聖霊は信者たちにこの十字架の原則についてさらに教えるのです。<…>
 これは、十字架は客観的な面では絶対であり、何もそれに付け加えることができないことを意味しています。しかしながら、主観的な面では、それは漸進的であり、さらに深く進歩することができるのです。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第一巻、p.184)

 多くのクリスチャンは、御子が達成された十字架を、ただ罪からの贖いとして受け取るだけで終わってしまうのですが、実際には、私たちは、御子の達成された十字架を、聖霊の導きに従って、それぞれの人生でより深く経験していく必要があります。そうすることによって、初めて、私たちの肉と魂の古い性質が死に渡され、キリストの復活の命が私たちのうちで実際により深く、より力強く働くようになるのです。十字架のこの二つ目の(主観的な)側面を知らない信者は、十字架を半面だけしか理解していない信者と言えるでしょう。それだけに、彼らは永遠の命をもってはいても、この地上における信仰生活において、多くの経験できるはずの恵みを失い、勝利するチャンスを奪われてしまうのです。


肉は何の役にも立たない!

 さて、私たちは肉が罪なる性質を持っていることを知っています。御言葉はこう述べます。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、享楽、および、そのたぐいである。」(ガラテヤ5:19-21)

 これらの肉の働きが邪悪なものであることはあえて説明する必要もないでしょう。クリスチャンは、これらの罪からの分離がどれほど完全にできているかに関わらず、とにかく、このような肉の働きが不義であることを認めています。ですから、これらの肉の悪なる働きについて詳しい説明は不要でしょう。しかし、私たちがうっかり見落としてしまいがちな点があります。それは、肉は不義をなすことができるだけでなく、善を成し遂げることもできるということです!

「聖書によれば、『肉』の働きは二種類に分類されます<…>。それは不義と自己義認です。肉は罪だけでなく義も生み出します。肉は卑しいものだけでなく、非常に高貴なものも生み出します。肉は欲があるだけでなく、良い思想もあります。」(p.164)

 一般的なクリスチャンの多くは、一生懸命に日曜礼拝を守り、徹夜・断食・早天祈祷に参加し、献金を捧げ、トラクトを配り、考えうる限りの良い活動に真面目に参加しようとしています。彼らは外面から見れば、まっとうなクリスチャンのように見えるかも知れませんし、自らそう信じ込んでいる人々も多く存在することでしょう。彼らは自分たちは世の罪人よりははるかにましな生活を送っており、自分達は肉的でないとさえ思っています。しかしながら、多くの場合、彼らには、神の命の現われがありません。むしろ、実際に、信仰生活の前進のなさに悩んでいることさえ多いのです。あれやこれやの活動にいそしんでいながら、何十年経っても、幼子のようなレベルにとどまっている信仰者が多くいます(悲しむべきことに、私もそのような一人でした)。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

 それは、その人が依然として、肉に頼って善行を行っているだけであり、肉により頼んで、聖霊に従おうとし、肉により頼んで、神を喜ばせようとして、むなしい努力をしているからなのです。彼らは肉そのものが神の目に忌むべきものであることを自覚せず、また、自らの肉が御子の十字架ですでに死に渡されたという事実に堅く立ってもいません。私たちは、肉には邪悪な働きがあるだけでなく、一見、善のように見える働きもあるということをも、覚えておく必要があります。しかし、善のように見えようと、悪のように見えようと、依然として、「肉から生まれる者は肉」(ヨハネ3:6)であり、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)のであり、「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」(ガラテヤ5:17)のです。

 クリスチャンは、肉において礼拝を捧げ、肉において祈り、肉において賛美をし、肉において奉仕をし、肉において献金をしたりするということが実際にあり得る(むしろ、大いにあり得る!)ということに注意せねばなりません。いかにそれが人の目に敬虔な礼拝のように見えようと、もしその礼拝が肉によって捧げられているならば、それは神の目に忌むべき礼拝なのです。肉による善は、肉による不義ほどまでに、汚れたものに見えないかも知れませんが、実際には、神から見て、肉による悪と同じように、滅ぼされるべき、呪われた「肉」なのです。そのことを知らないで、依然として、肉による善行に頼って生きていることが、多くのクリスチャンが信仰生活において敗北する原因となっています。

 私たちは肉の邪悪な働きだけでなく、肉の「善良な」働きも全て含めて、私たちの肉そのものが、御子イエスと共に十字架につけられて、滅ぼされなければならないものであり、また、それがすでに死に渡されたという事実を知り、それを信じ、それに立脚する必要があります。十字架を、私たちの罪の贖いとして信じ、それによって、再生されたというだけでは、私たちが肉の働きに対して完全に死ぬには不十分なのです。私たちは、肉の邪悪な働きに対して、死ぬ必要があると同様に、肉の善良な働きに対しても、死ぬ必要があります。どちらをも容赦してはなりません! 肉そのものが滅ぼされなければならないのです! そうなるためには、十字架のさらなる深い働き、十字架のさらなる意味を理解することが必要です。もしそれがなければ、どれほど長い信仰暦を持っていたとしても、私たちはずっと、「幼子」のようなクリスチャンにとどまってしまうでしょう!

 再生されたばかりの信者は、まだ肉的なレベルにとどまっており、肉の支配の力に勝利することができないでいます。

神の目的は、肉を改良することでなく、むしろ肉を滅ぼすことです。神は再生の時にご自身の命を人に与えられますが、その目的はご自身の命を通して肉の自己を滅ぼすことです。神が人に与えてくださる命は非常に力があるのですが、新しく再生された人は幼子のようであるにすぎません。彼は新しく生まれているのですが、まだまだ非常に弱いのです。しかし、肉はそのように長い間支配してきたので、その力は極めて大きいものです。なおまた人は信仰による神の全き救いを十分了解していません。

ですから、この時すでに新しく生まれてはいますが、肉的でないことは難しいのです。肉的であるとは、今なお肉によって支配されていることを意味します。最も哀れなことは、再生されて天的な光に照らされた人が、肉は忌むべきであることを知り、心からそれに打ち勝ちたいのに、自分の力があまりにも弱く、打ち勝つことができないということです。このような時、多くの涙と多くの悲しみがあります。なおまた再生された人はみな、神を喜ばすため罪を除き去る新しい願いを持たなければなりません。しかし、その意志はそれほど強くないので、多くの場合は肉に打ち負かされます。その結果、勝利することはめったになく、敗北が多いのです。このような時、人はどうして自分自身を憎まないでおれるでしょうか?」(p.127)

 多くの信者たちは、自力で肉を征服することによって、肉の働きを何とか殺そうと四苦八苦していますが、その試みには何の成功の見込みもありません。

「多くの信者は神の救いの道を理解していないので、彼らは戦うことによって肉に打ち勝とうとします。彼らは、勝利か敗北かは、力が大きいか小さいかの問題であると思っています。ですから彼らは、神がさらに大きな霊の力を賜り、肉に打ち勝たせてくださるようにと切に望んでいます。このような戦いは長く続くかもしれません。しかしながら、常に勝利よりも敗北があります。そして完全に肉を征服する、目に見える見込みもありません。」(p.142)


 私たちは自分で肉と闘って肉に打ち勝つことはできません。一つ一つの肉の働きや、一つ一つの罪に打ち勝とうとして、どれほど苦闘してみたところで、私たちは自分の肉そのものに対して勝利を得ることは絶対にできません。滅ぼされなければならないのは、私たちのあれやこれやの行いでなく、私たちの肉そのものだからです。たとえ一つの罪を犯さないように自分を制することができたとしても、それによって、私たちが自分の肉そのものを死に渡すことは決してできません。私たちが肉に対して真に死ぬためには、十字架のより深い意味を私たちが理解し、それを自分に適用することが必要不可欠なのです。


霊によって体の働きを殺す

 さて、十字架のより深い理解と適用とは何でしょうか。それは、私たちの肉は、すでにキリストと共に十字架につけられて死んだ、という事実を信じ、それを信仰によって自分に適用することです。

「ガラテヤ人への手紙第五章で使徒は、肉の多くの項目について語った後、続けました、『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」(二四節)。これが救いの道です。<…>
 キリストにある幼子は、まだ肉に属する者ですから、さらに深い十字架の意味を知るべきです。神の働きは、信者の古い人をキリストと共に十字架につけることであり、キリストに属する者は『肉をその情と欲と共に十字架につけてしまった』のです。どのような肉であれ、肉の欲がどのように強くても、それらは共に十字架につけられています。

過去において、この十字架を通して罪人は再生され、彼らは主によって罪から贖われたことを知りました。今また、肉に属する赤子のようなクリスチャン(たとえ再生されて何年経過していても)は、この十字架を通して肉から救われ、肉の支配から解放され、もはや肉によって歩まず、聖霊によって歩むことができるようになります。こうして間もなく彼は霊的な人になります。<…>

 『キリスト・イエスに属する者』とは、主を信じるすべての者を指しています。すべて主を信じた者、再生された者は、主に属する者です。この人の霊性がどうあれ、その働きがどうあれ、罪から解放されていてもいなくても、全く聖別されていてもいなくても、あるいは肉の欲に勝利していても勝利していなくても、すべて問題ではありません。ここでは、この人が命の中でキリストに結合されているかどうかです。言い換えると、再生されたでしょうか? 主イエスを救い主と信じたでしょうか? もし信じたなら、その人の現在の霊的状態がどうであれ、勝利であっても敗北であっても、この人は十字架の上で『肉を十字架につけてしまった』のです。」(p.147-148)


 私たちは御言葉に基づいて事実を堅く信じる必要があります。ここで言う事実とは、御子イエスが十字架にかかられ、肉体に死なれた時、御子を信じる私たちの肉も、彼と共にはりつけにされて死んだ、という事実です。私たちが自分の肉を十字架につけるために、新たな十字架を作り出す必要は全くありません。それはすでに御子が達成されたのです! 御子イエスが十字架において、その肉体に死なれた時、彼はご自分の肉の中に、私たちの全ての肉を含められました。彼はご自分の肉の中に、滅ぼされるべき全ての肉を含まれた、という事実を私たちは信じなければなりません。その事実は、私たちの現在の状態とは全く関係ありませんし、私たちにその実感があるかどうかとも関係ありません。私たちが生きている時代が、御子の歩まれた時代とどれほど遠かろうとも関係ありません。御子イエスの十字架は永遠に達成された事実なのです。ですから、私たちは永遠の中から、信仰によって(!)、その事実を今の自分に引っ張ってきて適用すべきであり、自分の現在のみじめな状態を見つめて、それを事実として信じられるかどうか判断すべきではありません。ただ、御子イエスが、すでに私たちの肉を十字架上ではりつけにし、死に渡された、という事実を信じるべきです。

「…もしキリストに属するなら、その人は十字架の上で『肉を十字架につけてしまった』のです。十字架につけつつあるのではありません、またこれから十字架につけるのでもありません。そうではなく、彼はすでに十字架につけてしまったのです。
 わたしたちは焦点をはっきりさせなければなりません。この節は経験の事柄を語っているのではありません。あなたの経験がどうあるかではなく、神の事実を述べているのです。強くても弱くても、『キリスト・イエスに属する者』は、『肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった』のです。

あなたはなお罪を犯している、と言うかもしれません。しかし、あなたはすでに十字架につけてしまった、と神は言われるのです。あなたは自分にはまだ短気があると言います。しかし、神は、あなたはすでに十字架につけてしまった、と言われるのです。あなたは、自分の欲は強いと言います。けれども神は、あなたの肉はすでに十字架につけてしまったと言われます。

どうか今は、あなたの経験に注意しないでください。まずあなたに対する神の語りかけに注意を払ってください。もし神の言葉に耳を傾けず、神の言葉を信じないで、ただ毎日あなた自身の経験を見ているだけなら、あなたは決して肉が十字架につけられた経験を持つことはありません。あなたの感情や経験に注意を払ってはなりません。神があなたの肉を十字架につけてしまったと言われるのですから、肉は本当に十字架につけられているのです。わたしたちはまず神の言葉に耳を傾け、神の言葉を信じなければなりません。そうすれば経験があるでしょう。

神はあなたに、『あなたの肉はすでに十字架につけてしまった』と言われました。あなたは『アーメン! そうです、わたしの肉は十字架の上につけられています』と答える必要があります。このようにすれば、あなたは自分の肉が本当に十字架につけられていることを見るでしょう。」(p.149-150)

 キリストの十字架上で私たちの肉が死んだことを信じ、その事実が経験となることを願うならば、言葉において、声に出してそれを宣言し、自分に適用することも有効であると私は思っています。そのようにして、主の死を自分の死として信じ、自分の肉を、主の十字架上で死に渡すならば、私たちはある時、十字架を経由して、本当に、自分の肉の働きが死んでしまった、ということを実際に経験するでしょう。

「神はすでにご自身がなし得るすべてを成し遂げられました。すでに神はすべてを達成されました。今、唯一の問題は、わたしたちが神の行われたことをどのように取り扱うか、神が達成されたことに対してどのような態度を取るかです。彼はわたしたちの肉を十字架につけてくださいました。これは言葉だけでなく、実際です。もしわたしたちが信じ、わたしたちのために神が達成されたことを意志を働かせて選ぶなら、そのすべての事柄はわたしたちの経験となるでしょう。

わたしたちはそれを達成する必要がありません。なぜなら神がすでにいっさいを達成されたからです。わたしたちが自分の肉を十字架につける必要はありません。神はすでに肉を十字架につけてしまわれたからです。今、問題は、これが事実であることを信じるかどうか、命の中で達成されたことをわたしたちが欲するかどうかです。それを信じ、それを欲するなら、わたしたちは聖霊と共に働いて、これを自分の経験とする必要があります。

コロサイ人への手紙第三章五節は言います、「だから、地上の肢体……を殺してしまいなさい』。これが経験する方法です。<…>肉を殺すためには、まず共に死んだことを理解しなければなりません。共に死んだことを理解したなら、肉を死に渡すことを実行しなければなりません。これらの二つは共に進み、互いに支え合うのです。」(p.152)


 あなたは御子イエスの十字架のこのような理解とその適用(実行)によって、自分の肉の欲が死んだように鎮まり、肉の罪なる性質から解放されたという経験を持つかも知れません。それは肉に対して霊的な死が適用されたことを意味します。しかし、一旦、そのような経験があったからと言って、そこで、あたかも自分が全く聖なる者とされ、肉から完全に解放され、もはや肉を死に渡す必要が一切なくなったかのように思うべきではありません。そのような油断は、肉の蘇生を招くでしょう。油断してはなりません。私たちが常に目を覚まして、御霊によって導かれ、「霊によって体の働きを殺す」(ローマ8:13)ことを続けないならば、肉は再びその力を盛り返し、私たちは再び罪の中へ落ち込んでいくでしょう。

「このような霊的な死は、一度限りではありません。いつでも信者が注意していないと、あるいは信仰を失うと、肉は再び活動します。もし信者の全存在を主の死と一つにならせたいなら、必ず彼は肢体の行いを死に渡し、それを霊の中で身体にまで至らせなければなりません。<…>

 信者の肉がキリストと共に十字架上で釘づけられたことは、達成された事実です。再び十字架につける必要はありません。それにもかかわらず、体の邪悪な行いが働こうとしているように見える場合、そこに死を適用する霊があります。主イエスの十字架はわたしたちのために達成されており、その邪悪な行いは主の死の力によって殺されるのです。

いつでも、どこでも肉の邪悪な行いは、わたしたちの体から出て行こうとしており、また現れようとします。ですから、その霊が信者を主イエスの聖なる死の力で力づけない限り、信者は打ち勝つことができません。もし信者がこのようにして行いを殺すことができるなら、内住の聖霊は罪の体を無効とならせて、神の目的を達成することができるでしょう(六・六)幼子の信者がこのようにして十字架を認識するなら、彼らは肉の支配から自由にされ、復活の命の中で主イエスに結合されます。」(p.154-155)

 私たちは地上にある限り、肉体という幕屋から逃れることはできません。しかし、だからと言って、そこで悲観したり、絶望したりする必要はありません。主イエスは十字架を通して、私たちの生涯に渡って、肉の問題への完全な解決を与えて下さいました。キリストの十字架の死にとどまり続けるならば、私たちは、肉の情と欲に支配されることなく、再び罪の奴隷として生きることはありません。主の十字架上の死を通して、私たちは肉の働きを死に渡し、肉を霊に従わせ、御霊に従って生きることができるようになるのです。