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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

二つの出来事、主が与え主がとりたもう(1)

最近、エクレシアには巨大な祝福がありました。
その内容は、またいずれお分かちしましょう。

ところで、最近、私の身の回りに起こった二つの事件について述べたいと思います。
一つは、私の盗まれたバイクはあれからどうなったかということについて…。

私のバイクはあちこち壊されて、大々的に修理が必要な状態となっていました。
さらに、バイクを引き取った交番では、このようなことを言われました。
「最近は修理費用も高くて、鍵一個を取り替えるだけで1万円くらいしたりするからねー、
修理した方がいいのか、買い換えた方がいいのか、考えた方がいいですよ」

そこで、私は主の御前にこの問題を提示しました。
主の御前に、私は何一つ所有はしません、と宣言した以上、
今となっては、バイクも、もはや、私の所有物ではあり得ません。

このバイクを関東まで運ぶのには、かなりの高い運賃がかかったことだけが
惜しまれるとはいえ、もしも主が今これを私からお取りになりたいならば、
私はそれに従わなければなりません。

しかし、その時、主が私に何を願っておられるのか、分かりませんでした。
これを所有し続けてよいのか、それとも、放棄すべきなのか。
そこで、財政状況に鑑み、修理費がある一定を越えるなら、
バイクはもはや私には必要ないと判断し、修理をあきらめて廃車とする、と決意したのです。

私は心の中で、逃げたい思いを隠しつつ、その祈りを祈りました。
「主よ、修理費がかれこれの金額を越えるなら、私は、
このバイクを私がこれ以上所有することをあなたが願っておられないと判断して、
この車を放棄します」

しかし、祈りながら、心の中で、思いました、
「修理費がそんな安い金額におさまることはないだろうから、
きっと私はこのバイクを手放さなければならなくなるのに違いない」
そして、長年連れ添った愛車との名残を惜しんでいました。

さて、バイク修理を見積もりをしてもらう店を決める際、
面白いことが一つありました。

夕闇が迫る中、破壊されたバイクを押して交番を出た時、
私にはどこへ向かうべきか案がありませんでした。
「主よ、私はこの町を知りません。どこにこの車を預けるべきか教えて下さい」と祈りました。

交番のすぐ目の前にバイク屋さんが一つあることは、来る時から分かっていました。
私のバイクはガソリンが抜き取られ、エンジンをかけることができません。
道幅も狭く、ひっきりなしに車が通る道路を、ずっと押して歩くのは危険です。
できるだけ近いバイク屋さんに預けた方が良いのは明らかでした。

しかし、「オートショップ」と書いた古びた看板のかかった、交番から最も近い
その店の前まで来た時、店のあまりの怪しさに、私はひるみました。
どう考えても、売り物とは思えないみすぼらしいバイクが、店の前にずらりと並べてあります。
入り口のまん前まで並べてあるので、店の扉(もちろん自動ではない)に近づくこともできません。

店の看板は、どこかしら薄汚れてぱっとせず、
ガラス越しに見える店内は、昭和時代のような蛍光灯で照らされているきり、
薄暗く、煤にまみれたようにそこら中真っ黒で、
うず高くつまれた工具のせいで、足の踏み場もないのが外から見て取れました。

一人のお兄さんの姿がガラスの向こうにありますが、彼はテレビに熱中しているのか、
外の様子に全く注意を払っていません。
オートショップ、と書いてあるこの店の、どこに売り物のバイクがあるのでしょう?
修理をする場所はあるのでしょうか?
そもそも、これは本当に店なのでしょうか?

私はその店を通り過ごしたい思いに駆られました。
そこで、バイクを押してさらに歩き続けました。

ところが、そこから15歩も行かないうちの出来事です。
荷物が邪魔なので、とりあえず、荷物をバイクの座席の下に入れようとした、その時です。
いつものように私は座席のシートをバタンと閉めてしまい、そのはずみで、鍵がかかってしまいました。

しまった!!
バイクの鍵も家の鍵も、全て荷物の中に入れたまま、
私は自分の荷物をバイクの中に閉じ込めてしまいました。

バイクの鍵は、壊れていますので、マイナスドライバーか何かがあれば
きっと簡単に開けられるのでしょうが、
工具の代わりになるものが何もありません。
その時、運よく、そばにある家から一人のおばさんが出てきました。
玄関の扉に鍵をかけようとしていたおばさんに、とっさに私は尋ねました、
「すみませんが、その鍵をかしてもらえませんか?」

他人の家の玄関の鍵を借りるという、思えば、あまりにも突飛なこの申し出を、
おばさんが不審に思わなかったことが幸いです。
事情を説明して鍵を借りましたが、
「えー?本当にこの鍵で開けられるの?」
と、おばさんはいぶかっていました。

果たせるかな、おばさんの家の鍵では、私のバイクの鍵は開けられませんでした。

そうなると、唯一の策はあの薄暗く埃まみれの「オートショップ」へ引き返すことだけ。
とにかく、何でもいいから、あのお兄さんに鍵だけでも開けてもらおう。
腹を決めて、そこへ向かいました。
そして出て来たお兄さんが意外に良心的な人に思われたので、
そこで修理の見積もりを出してもらおうと覚悟を決めました。

その際、私が長年放置していた前後のタイヤの取替えや、
ベルトやブレーキパッドの交換なども、
一緒に合わせてやってもらうとどうなるかという話になりました。
私は、心の中で、その修理金額は、きっと恐ろしく高くなるに違いないと考えて、
早くも失意落胆していました。

家に帰って、私はこのバイクを修理すべきか廃車にすべきかについて、主に直接、尋ねました。
そしてすでに述べたように、心の中でかなり低い修理費の限界を定めました。
その金額を越えるなら、5年間乗り続けた愛車とさよならすると覚悟を決めたのです。

これはきっと愛車とさよならせよという主の御心なのだろうと私は思って、
バイクが盗まれた時と同じように、再び、バイクをあきらめました。
しかし、この一連の出来事がどうやら主の采配だったのです。

後日、その「オートショップ」から電話がかかってきました。
そして告げられた金額は、私が祈りの中で、修理費の限界として想定していた金額より、
なんと一万円も低い金額でした。

どう考えても、通常のバイク屋さんでは、そのような金額で修理してくれるとは思えません。
その店が、良心的な提案をしてくれたことは明らかでした。
店を外見から判断してはならない、と、私は改めて知らされたことでした。

私は早速、兄弟にこの話を告げて、共に喜びました。
「きっと主がそのアクシデントを起こしてあなたをそのバイク屋さんへ導き、
その車の所有を許してくださったんだね」

盗まれたヘルメットとリアボックスも、ネットを通じて破格の値段で購入することができました。

これは主が私に取り去られた物品を再び与えて下さり、それを使うことを許して下さった事件でした。
せっかく与えられたのですから、今後は、必要最低限のメンテナンス費用をけちったり、
防犯対策を怠ることはすまいと決意したことでした。
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主が与え、主が取りたもう

今日昼ごろ、兄弟との電話での交わりを終えて、買い物をするために外へ出た。あれ、おかしいな?との疑問が脳裏をよぎった。いつもバイクを置いているはずの場所に、単車がない。
 あたりを見てみると、私が年中つけっぱなしにしていたハンドル・カバーが、植え込みの中にぞんざいに放り捨てられていた。きっと盗難だろうな…、そう思った。

 ハンドル・カバーを拾い上げ、それを持って、念のために、付近を見回りながらも、なぜか不思議に心が落ち着いていた。その上、不謹慎かも知れないが、何となく可笑しかったのだ、まあ、この道に歩む限り、何と毎日のように、事件が絶えないのだろう、と…。確かに、私は少し無用心だったかも知れない。見知らぬ土地に来たにもかかわらず、単車に何重にもロックをかけたりしなかったし、最後に使った日には、特に、確かにハンドルロックがかかっているかどうか、注意深く確かめなかった。

 だが、あのバイクは一度、車に当てられて、主軸が曲がり、全損と判定されているし、2万キロを走って、そろそろベルトの交換の時期が来ていたので、バイク屋にはこのままでは危ないと忠告されていた。前後のタイヤとブレーキ・パッドも、そろそろ取り替えなければいけない時期が来ていた。メットが壊れてしまったので、冬になる前にそろそろフルフェイスのヘルメットを買わなくちゃ、駅前に駐輪するなら、予備のロックも必要だなあと思っていたところだった。ずぼらな性格の私は、それら全部の用件を放置していた。誰が持っていったにしろ、あのまま乗り続けて、危ない事故が起きなければいいが…。

 だが、そんなことはどうでもいい。私はさまざまな土地で、何年来、同じバイクを使ってさまざまなところを走り、時には無用心な駐車や、危ない走行をすら、何度も行ってきたが、それでも、大事故や、盗難に遭ったことは一度もなかった。それは全て主の守りのおかげである。今回のことが、敵の仕業であるにせよ、何にせよ、全てのことは、神の主権の下でしか起こらない。特に、このような財産の「はぎ取り」は、神が許されない限り、決して、起きるはずがない、という確信が心にあった。

 しかも、ちょうど昨日、私は、サタンがヨブを試みることを願い出て、神に許された場面を聖書で読んだばかりだった。あり得ないほどの試練が次々と、ほぼ同時に、ヨブを見舞う。使用人や家畜は一挙に死に絶え、財産はなくなり、大切な子供たちは、不慮の事故で全員亡くなった。だが、ヨブは言う、

「わたしは裸で母の胎を出た。
 また裸でかしこに帰ろう。
 主が与え、主が取られたのだ。
 主のみ名はほむべきかな。」

 ヨブはそれでも、その上、さらなる試練に見舞われるのだが、すぐに私もヨブと同じことを祈った。主のみ名は誉むべきかな。どうぞこの事件を通して、より主に栄光が帰され、主の御名が崇められますように。私の財産など、どうでもよいのです。もとより私は、主が与えて下さるのでなければ、何一つ所有できず、主の御前に、自分の財産というものを持たないのですから…。
 まあ、一応、この世のしきたりに従って、交番に届け出て、盗難届けを作成してもらうことになって、警官がやって来るのを待っている。日々の生活は多少、不便にはなるが、構いはしない、しばらく様子を見よう。

 このところずっと、私は兄弟姉妹との交わりを通して、現代の志あるクリスチャンは、獄中のウォッチマン・ニーがそうであったように、制限の中で、神の無限な現われを体現して生きなければならないということを痛感させられていた。私たちは、時空間の制限の中に閉じ込められた中を生きているが、その制約の中から、逆説的に、神の無限の現れをこの世に豊かに流し出す、そのような管とならなければならない。

 神は霊である。だから、私たちは肉によって神の言葉を宣べ伝えるのではなく、霊によってのみ、御言葉を宣べ伝えることができる。私たちの肉体は、さまざまな制限を受けるが、神の言葉は決して制限されることはない。そこで、神は、クリスチャンのために、大変に矛盾した、しかも極限にまで矛盾した状況を作り出されることがある。神は私たちを極度の不自由の中に投げ込まれ、肉体の自由が、ことごとく奪われ、生きることさえ、ままならないような状況となって、あるいは、御言葉を語ることさえ、禁じられるような中にあって、それでも、私たちが神の無限の現れを豊かに流し出す管となることを求められるのである。それは私たちがますますこの肉体と魂に死んで、霊なるキリストを表すようになるためである。

 だから、物質界のことなど、ある意味、もうどうでもよい。決して、生きることをおろそかに考えるわけではないのだが、私の生活が、肉体が、移動の自由が、たとえどれほど制限を受け、追い詰められようとも、ただ神の御心が、私(や兄弟姉妹からなるエクレシア)を通して、より自由に地上に現されるようになりますように、私が砕かれ、閉じ込められ、制限を受けることによって、神の豊かな現れをもっと人々が知ることができるならば、ぜひともそうなりますように、と、祈ることしかできない。

 以下は昨年6月5日、まだ私が関西にいて、京都の教会に通っていた頃に書いた日記だ。この頃に書いた膨大な量の無意味な文章の中で、次の言葉だけは、真実、神を求める心から書かれていたような気がする。

「私はある法則性を学んだ。私が間違った選択をすると、それにこめられていた全ての期待が砕け散るということだ。私は日曜を休日にするために、生保の仕事を選んだ。だが、この日曜が、私に痛みをもたらすものにならないだろうか。それは怖いことだ。とても怖いことだ。そして、試練は、すでに始まっているという気がする。

 惑わしの風が強く吹いている。人の自惚れをくすぐり、好意を勝ち取り、それを担保にして、偽りを教え、自分たちの集団に緊縛し、詐欺を働く行為が全地に満ちている。自分の心の望みさえ、警戒しなければならない。ピアニストにしてあげるよと言われても、信じてはいけない。君の心の痛みは、私が分かってやれるよと言われても、信じてはいけない。どんなに私が聞きたかった言葉を言ってくれる人があらわれても、よくよくその人の行動を吟味してからでなければ、信じてはいけない。以前、私は『君は学者になる人だ』と言われ、その言葉を後生大事に温めてきたが、もうそんなことはどうでもいい。

 私の野心よ、全て消えてしまえ。物乞いにはなりたくない、誇りを失ってまで生きていたくないという思いも、消えてしまえ。私の生死は神様の掌中にあり、神様が生きよと命じる限りにおいて、私は生きていればそれで良いのだ。私の存在そのものが、風のようだ。どこから来てどこへ行くのか、私自身すら知らない。だがそれで良いではないか。神様が吹かせた風ならば、命じられるままに吹くがいい。

 自分で自分を救おうという努力はもうやめよう。決して自暴自棄になろうというのではない。生きようが死のうがどうでも良いというわけではない。私自身の心は、精一杯、豊かに 美しく生きることを望んでいる。だが、神様の御心がもし私にとって最善であるならば、御心の前に、私は自分が望み得る最高の願いさえ放棄しよう。

 それは人の言葉に従うのではない。もっともらしいクリスチャンのもっともらしい説教を聞いて、自分の願いを捨てるわけではない。人からは離れたところで、私は静かに、神様に申し上げる、私の全知識と全人生経験を合わせて下した結論さえも、あなたの御心にはかないません。だから御心を教えて下さいと。神様の思いの中で、神様の計画の中で生きることだけが、私の人生と心に最善の安らぎをもたらす秘訣なのだ。それを求めなかったことで、どれほどの傷を私は今日まで受けて来ただろう。

 私は羊として囲いの中に戻ろう。その囲いとは、決して、決して、教会というこの世の組織を意味しない。その囲いとは、神の御心なのだ。私を生かそうとして神が用意してくれた、私のための牧草地なのだ。隠れたところにあるその囲いを求めて、私は人里を離れて祈ろう。」

 この文章を書いてから一年以上が経った。既存の教会と訣別し、さまざまなことが起き、前よりも、エクレシアが近くなったように思われる。前よりも、少しばかりは光を見て、御心を知ったような気がする。私の野心も、願いも、あれから、ことごとく微塵に打ち砕かれなければならなかった。それでも、私は、今になっても、まだ完全な答えを得てはいない。隠れたところにある囲い=霊なるエクレシアを今日もまだ探り求めている。キリストを頭として、霊の一致の中に織り込まれた兄弟姉妹との交わり、彼らと共に作り上げられる霊の建造物の中で、礎の一つとなることを、求め続けている。その旅は、まだまだ続いていく…。

天幕と祭壇

「神はアブラハムに現れました。それでアブラハムは祭壇を築きました。
この祭壇は罪のためのささげ物のためではなく、全焼のささげ物のためでした。罪のためのささげ物は贖いのためですが、全焼のささげ物は神に自分自身をささげ物とします。

この祭壇は、わたしたちの身代わりになられた主イエスの死を指していません。それは神に自分自身をささげ物とすることを指しています。それはローマ人への手紙第十二章一節で語られた祭壇でした」
          ウォッチマン・ニー、『祭壇と天幕の生活』、JGW日本福音書房、p.6

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」ローマ12:1

(JGWの翻訳では回復訳が使われているようでしたので、口語訳聖書から改めて聖句を引用し直しました。)


* * *

 今日、どれほど多くの人が、自分のからだを神に喜ばれる生きた聖なる供え物として捧げる、ということの意味を本当に知っているでしょうか。聖書は、それが、私たちがなすべき霊的な礼拝であると告げており、言い換えるならば、それ以外の礼拝は、霊的な礼拝と呼ぶには値せず、私たちが神の御前に行うべき礼拝ではない、ということを教えているのです。

 「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです

神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7 太字は筆者)

 今日、自分は神のために奉仕している、と思っている人々のほとんどが、祭壇で神のために焼かれる、ということの意味を少しも知りません。残念ながら、実に多くのクリスチャンが、あれやこれやの活動にいそしむことこそが、祭司として神に仕えることであると誤解し、その活動内容が多ければ多いほど、それが徹底的な献身であると思い込んでいます。実は、そんな活動は、全て祭壇と天幕の外で行われるむなしい人間的な活動に過ぎず、そんな活動によっては、彼らは自分自身の魂のほんのわずか一部さえも、神に捧げることはできないし、それによって聖別されるわけでもない、ということを知らないのです。

 神に仕えるとは、私たちがひっきりなしに、自分が正しいと思い込んだ宗教活動にいそしむことではありません。神に仕えるとは、まず、私たちが全身全霊をいけにえとして、まるごと神の御前に置くこと、自分を神の御前にまるごと、祭壇の上のいけにえとして投げ出すことを意味します。私たち自らが、自分が神の御前に焼き尽くされることを望んで、自分自身を祭壇に横たえることを意味します。それは静止であって、活動ではありません! 私たちは自分の意志、自分の計画、自分の願い、自分自身そのものを祭壇に横たえ、天から下る聖なる火によってそれらが焼き尽くされるのを待ち、自分が死ぬのを待つのです。
 まことの礼拝はその死の後にのみ、可能になります。

 神によって焼かれるというこの経験、聖なる光に照らされて起きる自己の死という経験を待たずして、私たちは神に喜ばれる礼拝を捧げることはできません、また、自分自身を真に聖別された生きた供え物として神に捧げることもできません。つまり、神によって自分自身が焼かれなければ、私たちは祭司として神に仕えることができないのです。

 さて、焼かれるとはどういうことでしょうか。本当に死んでしまうまでに焼かれなければならないのでしょうか。けれども、もし私たちが死んでしまえば、もはや神に礼拝を捧げることもできません。
 ですから、神によって焼かれるということは、死には違いありませんけれども、その死には、場合によって、多少の違いが伴うでしょう。再び、W.ニーの引用です。

「祭壇でアブラハムは彼のすべてを神にささげました。それ以後、アブラハムは衣服や持ち物、すべての物をはぎ取られたでしょうか? いいえ! アブラハムは依然として牛や羊、その他の多くの物を所有していました。しかし、アブラハムは天幕に住む者となりました。祭壇の上で焼き尽くされなかった物だけが天幕の中に置かれました。

ここに一つの原則を見ます。わたしたちが持っているすべては祭壇の上に置かれるべきです。しかし、それでも残されるものがあります。これらの物はわたしたちが使うためです。しかしながら、それらはわたしたちのものではなく、天幕の中に残されているのです。
わたしたちは覚えていなければなりませんが、祭壇を経過していないものは天幕の中に置くことができません。しかし、祭壇を経過した物はすべて焼き尽くされるわけでもありません。多くは火によって焼かれ、何もなくなります。わたしたちが多くの物を神にささげるとき、神はそれらを受け取って何も残されません。しかし、神は祭壇にささげた物のうちいくらかをわたしたち自身のために残されます。祭壇を経過した物で天幕の中に残されている物だけ、わたしたちは使うことができます。」(p.9)

 私には個人的な体験から、このことがよく分かるように思います。以前、私は多くの所有物を持っており、この世の人々と同じ生活をしていました。物だけではなく、行きたい場所へ行き、なりたいものになる望みも、私の所有でした。当時、私は自分が将来、研究者になるものと思っていましたし、行楽的な行事があれば、大勢の人たちと一緒に、退屈をまぎらすためにそこへ駆けつけていました。そして、そんな生活が永遠に続くものと思い込んでいました。覚えていますが、ある年のクリスマスには、神戸のルミナリエに向かう長蛇の列の中に、私は友人と妹と一緒に並んでいました。ありふれた無邪気な楽しい生活でした。その友人が将来、自分の伴侶になるものと私は思っていたのです。

 しかし、ある時、神は私の生活をまるごと焼き尽くされました。何よりも大事にしていたペットの痛ましい死がありました。次に、友人は取り上げられ、家族の中にも剣が投げ込まれました。信頼していた人に裏切られ、親子・姉妹関係は極度に悪化し、将来の夢も微塵に壊されました。
 魂による愛は全て焼き尽くされて、失われていきました。私が憧れていたものも、忌まわしい偶像であったことが暴かれました。私が宗教心だと思っていたものにさえ、卑しい自己顕示欲が含まれていたことが判明しました。通っていた教会は、私をさんざん愚弄した挙句、私を追い出しました。助けを求めた教会もまた私を拒絶し、私の教会籍は悪徳牧師によって地上から消滅させられました。私が敬虔な信仰心だと思っていたものが、どれほど深い虚偽にまみれていたかを、その事件があってようやく、私は知ったのです。

 災いに災いが重なり、ついに、お気に入りの家からも、退去せざるを得なくなりました。高い値段を出して買って、大事に使ってきた家具が、リサイクル業者によって解体されて回収されていきました。私は何事にも抗う力がなく、ただ運命に翻弄されるしかありませんでした。

 そうなってもまだしばらくの間、私はただ自分の願いが砕け散ったことを悲しむばかりで、神が私の生活を聖別するために、私の生活の中に剣をもたらし、私の魂が執着していたものすべてを私から切り分け、不要なものを完全に焼き尽くされようとしているとは知りませんでした。私はさらなる死へと向かっていました。私はまだ人並みの生活に復帰することを願っていましたが、そういう願いそのものが、徹底的に焼かれなければなりませんでした。そして、その死が頂点に達し、自己が殺され、奪い去られるものがもうなくなったという地点にまで達した時、私は、御霊によって、はっきりと悟ったのです。それらのものはすべて、私の自己満足によってかき集めた無用な装飾物でしかなく、私が祭司として神に仕えるに当たり、忌まわしい障害物にしかなりえなかったことを。私が神の御前にどれほど多くのものを所有し、神以外のどれほど多くのものに心を向けて、それらを魂の愛で愛し、それらがどれほど、まことの礼拝の妨げとなっていたかを。ペットや友人や家族への愛でさえ、神を愛することの妨げとなっていたことを。ああ、家族への愛ですら、神への愛の前には、捨てねばならない障害物となる、聖書にははっきりと書かれているその言葉の意味を、今日、どれほど多くのクリスチャンが真に知っているでしょうか!

 今は分かるのです。次の御言葉の意味が。

「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、
 あなたの腕に置いて印のようにしてください。
 愛は死のように強く、
 ねたみは墓のように残酷だからです。
 そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
 愛は大水も消すことができない。
 洪水もおぼれさせることができない。
 もし人がその家の財産をことごとく与えて、
 愛に換えようとするならば、
 いたくいやしめられるでしょう。」(雅歌8:6-7)

 私たちの心の中には、神への愛と並び立つもの、神への排他的な愛の妨げとなるものは、何一つあってはなりません。カナンの地に至るまでの荒野で、モーセに導かれながら、どれほど多くの民が、神への愛を裏切ったために、剣や、疫病や、災いによって命を落としたでしょうか! どれほどの悲劇が彼らを見舞ったでしょうか。神の愛はねたむ愛です!

 イエスがこう言われたことを、私たちは思い出すべきです、
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10:34-35)

 まことに神の愛は排他的な愛です。それは魂の愛と、霊の愛とを切り分け、人が常に賛美しようとする魂の愛(家族愛、夫婦愛、親子愛、友愛、自己犠牲、等)を、神への愛の障害物として退けるのです! まことの光が来る時、私たちは、自分が魂の愛で愛していたものが、神の御前に呪わしい偶像であることを知るのです! そうして、魂の愛と、霊の愛とが対立するのです。
 神の愛は、あらゆる偶像に対して、洪水や、焼き尽くす炎となって残酷に燃え上がります。ノアの時代の堕落した人々に対して、神の愛は洪水となって押し寄せました。神よりも世を愛する者に対して、神の愛はどれほど残酷な結果をもたらすでしょうか! 神の御前に、不純物は全て、朽ちない炎によって、永遠に焼かれなければなりません。ですから、私たちは、二度と神の愛から離れてさまようことのないよう、御霊によって、自分の心の中に、御心を印のように押される必要があります、私たちの心が、神の掌の中に彫り刻まれて、両者は二度と別れることのないよう、堅く結びつけられなければならないのです。

 まことに、神と私たちとの愛の中には、他のものは何一つ入り込む余地がありません。神の私たちへの愛は、すべてを焼き尽くすほどに残酷で、恐ろしいまでに排他的な愛なのです。神以上に何かを愛したために、それらのものを奪い去られる苦悩を、私たちのうちどれくらいが、経験したことがあるでしょうか。神が私たちの愛の真実性を試すために、私たちからすべてを奪い去られる試練を、どれくらいの人々が真に経験したでしょうか。
 神は私たち愛する者をヨブのような究極的な試練の中に投げ入れます、そして、ご覧になるのです、私たちが本当に、心の底から、ただ神だけを愛し、求めているのか、それとも、あれやこれやの財産、家族、平和、豊かさがあったからこそ、一時的に、神を賛美していただけなのかを。

 神の歓心をお金で買うことはできませんし、活動によって買うこともできません。私たちは「神のために」自分が盛んに奉仕している時、それによって神を喜ばせていると思うかもしれません。しかし、私たちは知らないのです、自分が、財産や活動によって、神の歓心を買おうとしているだけの卑しい商売人であることを! 神は私たちのあれやこれやの部分的な捧げ物や、活動によって、喜ばれるような方ではありません。まるで道端のお地蔵さんに供え物をするようにして、私たちが自分の活動と供え物をちょっとだけ捧げて、それが神を喜ばせるだろうと考えるべきではありません。

 神はあなたのすべてが欲しいのです! あなたのすべてを要求されるのです! あなたの心のすべてがただ神にだけ注がれることを神は願われるのです。他のものにあなたが一瞬でも目を向けることを、神は望まれないのです。あなたのすべてをまるごといけにえとして神に捧げることだけが、神を満足させる供え物となり得るのです。そこにあなたの家族はいるべきではありません。あなたの財産もあってはなりません。あなたの将来の夢もありません。ただあなた一人だけが、裸一貫で神の御前に立ち、あなたの最大の捧げ物であるあなた自身も、御前に完全に焼き尽くされるのです。あなたの捧げ物は、何一つ、この世にあなたの手柄として残りません。むしろ、そうして自分を捧げる毎に、あなたという人は、まるでこの世から消えていくかのようです。あなたはますます世から遠ざかり、世のことを気にも留めなくなり、あなたの捧げ物は、この世ではその痕跡さえ残らないほどに、徹底的に焼き尽くされ、ただ見えない永遠へと移されて行くのです。

 しかしながら、捧げられてなお、残されるものがあります。今、私の天幕の中に、神は多くのものを残しておられます。なくなったものもありますが、再び与えられたものもあります。まず、絶体絶命にあった私自身が生き残りました。次に、家族関係が良好になって、再び上から与えられました。私の家具もいくらか残りました。一年の間、全く誰にも使われることなく、ガレージに雨ざらしになり、くもの巣が張っていたガスコンロが、再び私の家で使われています。電源を入れられることもなかった冷蔵庫も、再稼動しました。愛していた小鳥の一羽は残っています。その他、いくらか、私の持ち物は残され、いくらかのお金も与えられました。偽教会の虚偽の交わりの代わりに、新たな兄弟姉妹との交わりが与えられました。

 けれども、私は知っています、それらが決して私の所有物にはなり得ないことを。それらは祭壇を経過して、天幕に残されたもの、あるいは後に主によって与えられたものです。それらの物は私が自由にできるものではなく、私の財産でもありません。ただ神にお仕えする生活の中で、必要最低限、使用するために、私に与えられたものであり、私は二度とそれらのものに心惹かれ、しがみついてはならないのです。
 ですから、家族関係が良好になっても、やはり、私は神の御前に家族を捨てて、旅立つのです。ペットにも未練を持ちません。将来の夢も捨てました。著書を発行して、名を馳せようとか、立派な研究者になりたいとかいった夢はもうありません。私の職業は祭司(神に仕えること)であって、その他の職業を持ちたいとも思わないのです。私は何ものをも所有しておらず、それらに執着することは二度とありません。そんな私は、世間には、冷たい人、変人と思われるかも知れませんが、私は全焼のいけにえとなって御前に捧げられたのです。私の心には、もはや神以外のものは、何もあってはならないのです。

「祭壇がある時、もはやわたしたちの物は何もありません。祭壇を経過して残った物はすべて天幕の中に置かれました。もはやわたしたちの心を支配する物は何もありません。
わたしたちの良心には神の御前で平安があります。そしてわたしたちは大胆に神に言うことができます、『わたしはあなたに対して保留しているものは何一つありません』。

こうして天幕は祭壇に導き戻します。もしわたしたちの持ち物が根づいて、それらを落とすことができず、もはや動かせないなら、わたしたちはこれらの物によって縛られ、決して第二の祭壇は存在することがないでしょう。」(p.11-12)

 どうか主の御前に、私たちが何かを所有しようとすることがありませんように! 私たちの持ち物が、地に根を張り、それによって私たちが再び縛られ、この地に根づいてしまうようなことがありませんように!

 「天幕とは何でしょうか? 天幕は移動できるものです。それはどこにも根を張らない生活です。」(p.7)

 ある兄弟が遊牧民になりたいと言いました。しかし、私たちクリスチャンはまさに遊牧民も同然です。私たちは、この世では寄留者なのです。地での生活が、私たちが根を張る場所となることは決してないし、また、あってはならないのです。 

はかりしれないコントラスト

引っ越して来てから、幾人かの兄弟姉妹にお会いした。
その中のある方が、先日、私に尋ねた。
「それであなたは 毎週、そこの日曜礼拝に通ってるんですか?」

それは私の住処から最も近いところにある、とある素敵な集会を指す。
私は いいえ、と答えた。
引っ越してから一度も、私は日曜礼拝に出たことはありませんし、
出たいと思ったこともありません。

その方はちょっと驚いておられるようだった。
エクレシアのために、関西から関東まで大がかりな引っ越しを決行したと言っておきながら、
引越し後も、どこの日曜礼拝にも通っていないなんて!?
どこの集まりにも正式に属していないなんて!?
じゃあ、この人は何のために一体、この土地まで来る必要があったのだろう!?

もの問いたげな兄弟の眼差しを見つめながら、私は思った、
そうだろうなあ、これが普通の反応なんだろうなあ、
世間はきっと、そういう風に受け止めるんだろうなあ。

でもね、どう説明したらいいか分からないけれど、
私にとってのエクレシアって、全く、そんなんじゃないんです。
私が日々、神の御前で主イエスのまことの命を生きる、
それだけがエクレシアの始まりなんです。

* * *

最近、主にあって、些細だがとても重要な仕事の一端を任された。
その大任を 喜びのうちに 全力で果たそうと思って、
ちょっとだけ 以前の学究生活を思い起こさせるような不眠不休の時間を送った。

ところが せっかちな私がどんなに努力しても
いつも 判明するのは 過ちの連続ばかり。
私の常識が 真実には届かないことを思い知らされるばかり。

なのに、自分の限界を知らされることがとても嬉しい。
主は決して栄光を人にはお与えにならないと、
神の知恵はいつでも人の知恵にまさって高いのだと、
それを知らされることが なぜこんなにも嬉しいのだろう。

さらに嬉しいことがある。
三人集まれば文殊の知恵 ということわざがあるが
主にあっての二、三人は 軍隊にも勝るのだ。

一人では全力を尽くしても越えられないはずの限界を、
主にあっての二、三人が集まるときに、
私たちは 軽々と飛び越えていく。

まるで宇宙を足の下に踏みしだいているかのように
一人分の知恵と力ではどうにもならなかった限界をはるかに高く飛び超え
世からは半ば見捨てられたような ちっぽけな存在に過ぎない二、三人が、
誰も思いもつかなかった ありえないような事柄を達成している。

主にあって生きるとは 何と面白いことだろう。
この興味のつきない 終わりのないコントラスト!
固い殻に覆われて 自力では芽吹くことさえできない
一粒のからし種に過ぎない私と
永遠に豊かな実を結ばせる はかりしれない イエスの力ある命!

たとえ自己を焼き尽くされ、何も残らないのだとしても、
それでも燃え盛る炎のような光の中に 私たちは飛び込んで行く。
焼き尽くされるべきものすべてが焼き尽くされて
ただイエスの復活の命だけが 御前に残りますように!