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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

このところ、人の罪の赦しという問題について考えさせられていた。

紛争が起きた際、なぜ途中で和解することのできる人々と、そうでない人々が分かれるのだろうか。その違いが生じるポイントを考えると、やはり、罪の悔い改め(反省や謝罪)と償いができるかどうかにかかっているだろうと思わされる。

聖書には、兄弟から訴えられた場合には、早く仲直りをしなさいという忠告がある。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

これは早く謝罪と償いをして仲直りしておかないと、罪に問われて、返せないような負債の返済を命じられるかも知れない、という警告である。

この世の紛争においても、早期に和解することができなかった場合、紛争は長引き、時と共に、その告発の内容もより重くなって行く。

不思議なことに、起きた事件の性質は変わらないのに、時間の経過と共に、告発の書面がうず高く積みあがり、訴えられる罪の重さが増し加わって行くのである。

さらに、時間の経過と共に、関係性もより修復不可能となる。徹底的に事実を争えば争うほど、和解は遠のき、互いの印象が悪くなり、いつか最後には、罪を犯した者には、容赦のない裁きが下る時が来る。

この世の裁判は、私人間の争いであり、被害を受けた者が自ら被害を立証し、主張を争うので、判決が確定するまでは、事実の認定も確定せず、最後まで、どちらが勝つか分からない駆け引きのような部分がある。

担当裁判官の裁量も大きくものを言い、基本的に文系の人間である裁判官には、得意分野もあると思われ、不得手な分野については、どんなに証拠があっても、公平な判決が下せない場合もあると見られる。

しかし、行政機関に出される各種の訴えは、それとは種類が異なる。これは基本的に、被害の立証の責任を、訴えを出した本人が負うものではなく、最低限度の主張があれば、それに基づき、訴えが受理され、その後、行政機関が自ら捜査・調査を行う。

そういった種類の訴えは、受理された時点で、ある意味では、出した本人の手を離れる。その後は、手続きとしては、自動的に粛々と進んで行くことになるが、そこにある種の怖さがある。

なぜなら、そうした手続きは、事件の加害者と被害者が相対して事実関係を徹底的に争いながら、共に解決を目指すというものではないので、ゼロから主張を争う民事裁判とは異なり、基本的に、出された訴えに基づき、違反を裏づける方法で調査が進む。

民事裁判では、基本的に、訴えた人も、訴えられた人も、平等に扱われるし、当時者のどちら側からでも、裁判の行く末を見据えて、判決が下る前に、和解を提案することができるので、条件さえ合致すれば、いつでも争いに終止符を打てる。

いかに対立しているとはいえ、法廷で相対していれば、責任を持って向き合っているという意識が生まれないわけではなく、それにも関わらず、心から憎み合うのは難しいだろう。

何よりも、民事訴訟は、処罰を求める性質のものでないため、判決が下されて不法行為が認定されても、最終的には、金銭的な支払いで事は終わる。

ところが、刑事事件などの場合には、民事訴訟のように、当事者の主張が大きくものを言うわけではなく、当事者の意を汲んで捜査が行われたり、審理が進められるわけでもない。

加害者は、起訴されれば、被害者とではなく、国(検察)と対峙することになり、疑わしい訴えは、初めから受理されないため、高度な政治性を含む事件でない限り、罪の大小はともかく、何らかの違反が確定する方向へ向かって、事件が進められて行く。

事件の当事者が法廷で顔を合わせて議論を戦わせるわけではないので、そこには心理的な要素が働きにくい。だが、それゆえに、厳粛に処罰へ向けて事件が進められるという、ある意味では、容赦のない側面があるように筆者には感じられる。
  
以下のサイトでは、日本の法律では、「被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じている」と記されており、被害者が加害者に自ら報復しないためにこそ、刑事事件の手続きが存在すると解説されている。

 「誰かを刑事事件で訴えて処罰を願うなんて・・・」などと、犯人を訴えることを、何かしら、あるまじきことのように思っている人があるならば、人が自分で復讐することに比べ、こうした手続きが存在することの意味を、今一度考えてみた方が良いだろう。
    
刑事事件とは、傷害、窃盗、痴漢などの、いわゆる犯罪行為をしたと疑われる者(被疑者、被告人)について、警察や検察といった国の捜査機関が介入し、その者が犯罪を行ったのかどうか捜査を行い、裁判において刑罰を科すかどうか等について判断を行う手続のことを言います。

日本の法律は、被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じていますので、被害者に代わって国家機関が加害者の責任を追及し、最終的に刑罰という形で制裁を加えることになります。刑罰を科すためには、原則として、刑事裁判を起こすことが必要です。そして刑事裁判を起こすことができるのは、検察官のみとされています。

すなわち、刑事事件は、国を代表する検察官vs犯罪を疑われている被疑者・被告人という構図になります。

【弁護士監修】刑事事件とは?|刑事事件手続きの流れと民事事件との違いについて
   
 ここには書かれていないが、不慮の交通事故のように、特に加害の意志があって起きたわけでもない事件も、多数、刑事事件に含まれている。犯人が不明のまま進められる事件もある。そのような事件が毎日のように無数に裁かれ、世の中の秩序が保たれている。

刑事事件の他にも、行政が取り扱っている訴えがあり、裁判所で審理が行われないものもあるが、基本的に、出された訴えに従って、違反を裏づけるために調査が行われるという点では、同様である。

それは、和解の余地もなければ、当事者の了承もないまま調査が進められ、ある日、証拠が積みあがった時点で、違反が認定される方向で、結論が下されるという点で、軽微な内容の訴えであっても、筆者から見ると、非常に恐ろしい側面のある手続きである。

筆者が、違反を宣告されることを恐れているがゆえに言うのではなく、その手続きの事務的な進み方が、民事訴訟に比べて、非常に厳粛だと考えるため、ある種の畏怖を覚えるのである。

筆者は、当ブログを巡る訴訟もそうであったが、訴えを出すときには、二本立てで進めるのだと書いたことがある。

筆者自身の印象を言えば、民事訴訟は、非常に人間的な要素が強く、当事者感情が大きくものを言う争いであり、なおかつ、証拠の分量やら、主張の立て方で、同じ事実を巡っても、結論が180度違って来たりもする。
 
民事訴訟では、口頭弁論などの雰囲気次第で、相手方を罪に問いたくない、という感情が当事者一同に生まれたり、逆に、赦せないから何としても不法行為を認定したい、などの感情に傾くこともある。あるいは、訴訟に疲れたから、事実はどうあれ、もう争いをやめよう・・・などという結論になだれ込むこともあるだろう。

だが、民事訴訟において、様々な感情に見舞われつつも、これと並行して、当事者感情があまり大きく働かない別の訴えが並行して静かに進められることによって、感情に流されて冷静さを欠く判断が最終的に下されて、それが最終的に確定することを防ぐことができる。

これを保険のようなものだと言えば、不適切なたとえかも知れないが、なかなか自分の感情を客観的に見つめることのできない当事者にとっては、非常に重要な参考材料なのである。

そのことを最近も、筆者は、和解不可能かつ、心理的要素があまり大きく働かない別な訴えの進行状態を観察することを通して、学習させられた。

筆者があたかも不利な立場に立たされて、解決がより遠のいているかのように思われた問題について、筆者の知らないところで、粛々と進められていた手続きの進展が、伝えられたのであった。

前回、書いたように、筆者にも、できれば、誰をも罪に問うことなく、誰の処罰なども願うことなく生きていければ、それが最善だという願いがある。

人を罪から解放し、滅びから救いたいと、私たちクリスチャンの信じる父なる神は、願っておられるはずである。

私たち信じる者が、それにも関わらず、誰かを罪に定めることを心から願うはずもない。

だが、そうした願いとは別に、おそらく、人の犯す罪の中には、人の思惑次第で、赦して終わりにできる罪と、そうでない罪が存在するのではないかと筆者は思う。それが、和解できる人々と、そうでない人々が分かれる根拠なのである。
 
「和解しないって、ヴィオロンさん、それはあなたの心が頑なだからでしょう?」などと問う人があるかも知れないが、筆者は、和解は、願ったからと言って、かなうものではなく、和解できる条件と、そうでない条件が存在し、たとえ和解を拒むことによって、紛争の解決も遠のき、自らの負担も増えるとしても、事実がきちんと明らかにならず、誰も罪を認めることもなく、反省すらもしていないうちに、和解が成立することはないとみなしている。

それは民事訴訟と刑事訴訟の違いにもどこかしら似ているかも知れない。
 
この世の罪人は、ある意味では、自分が気づいてもいないうちに、神と人から二重に訴えられている存在だと言っても良いかも知れない。
 
人が人に対して犯した罪も、確かに罪であることは間違いないが、聖書における罪の概念とは、何よりも、人が神に対して犯した罪を指している。

人が人に対して犯した罪は、忘れられることもあれば、気づかれないこともあり、訴えが出されなければ、ないこととして扱われるかも知れない。当事者が赦そうという気持ちになれば、そこで終わる。

しかし、人が神に対して犯した罪は、人が自らの力で決して取り除くことができず、どんなに償いをしても、償いが完了することもなく、処罰が完了しない限り、決して忘れられることはないものである。

罪が赦されるためには、刑罰を受け切らなければならないが、その罰たるや、永遠という時を費やしても、まだ終わらない刑罰なのである。
  
人類は生まれ落ちたその瞬間から、すでに堕落しており、罪を犯しているのであって、やがて神から有罪宣告を受けることが確定している。従って、人類は訴えられている存在であり、その事件は、人類が気づこうと気づくまいと、粛々と終わりに向かって進められている。

検察が犯人を訴え、その罪を追及して処罰を求めるように、人が神に対して犯した罪は、決して訴えとして取り下げられることなく、決着がつけられるまで、事件は続行して行くのである。

そして、人が自分が罪により訴えられていることさえ知らず、滅びの宣告へ向かってひた走って行くのか、それとも、途中で気づいて、神と和解する道を探るのか、そのどちらかしか選択肢はない。

基本的に、この訴えに和解というものはなく、刑罰を受ける以外に道はないのだが、それでも、何事にも例外があるように、人類が滅びの刑罰へ突入することを逃れる方法がただ一つある。

それは、人が生きているうちに自らの罪を悔い改めて、キリストの十字架上の贖いを受け入れることである。

まず己が罪を悔い改め、次に、自分自身では償いきれないその罪に対して、神が自ら与えられた神の独り子なるキリストの十字架上の贖いを受け入れて、神と和解すること、それだけが、永遠の滅びの刑罰の例外として、人類に与えられた救いである。

* * *

だが、人がこの贖いを受け入れるに当たり、大きな障壁となるものがある。

それは、多くの人が、自分が生まれながらに罪人であることを認めることができないということである。

それは、人が人に訴えられた時点でも、和解できるかどうかを決定的に分けてしまう大きな違いとなる。

すでに述べた通り、人が人と和解するためには、罪を認め、反省し、謝罪し、償いをするというプロセスが必要となる。罪を認めない人間を赦すことは、誰にもできない相談である。

人が神と和解する時にも、その原則は同じである。

だが、世の中には、どうしても罪を認めることができず、悔い改めることも拒む人々が出て来る。

たとえば、異端化したキリスト教には、罪の概念もなければ、悔い改めもない。

カルト思想は、世界が滅びに瀕していると教え、そこから人類を救済することが自らの使命であると教え、独自の救済論を唱えるが、その救済のために、不法行為を正当化する。

世界を救うという大義名分さえあれば、どんな不法行為を行っても罪にならないと教える。たとえば、ハルマゲドンを近づけて世界を滅びから救済するためならば、地下鉄にサリンを蒔いても構わない、というのがその典型例と言えよう。

しかし、筆者が当ブログで述べて来た問題は、異端と闘い、カルトを是正すると言っている人たちの中にも、実に多くの人たちが、カルトを取り締まるためならば、不法行為を行っても、罪にはならないとして、いつの間にか、カルトや異端とほとんど変わらない思考に陥ってしまっているという事実である。

カルト宗教は、教祖の考えに従ってさえいれば、そして、カルトの集団生活に従ってさえいれば、救いから除外されないと教える。しかし、実際には、教祖も集団生活も、信者を救わないどころか、より一層、誤った道に導き入れるだけである。

ところが、キリスト教の中にも、同じような考えを信じている人々が見られる。牧師の教えに従い、日曜礼拝に通ってさえいれば、救いが保たれるというのである。

さらに、キリスト教徒であると告白し、カルトの脅威と闘うと豪語している人たちの中には、カルトと闘う自分たちこそ、世界を滅びから救おうとしている救済者であるかのようにみなし、カルトの脅威を阻止するという大義名分さえあれば、自分たちがどんな不法行為を行っても正当化されるかのように思い、法の裁きに身を委ねず、自ら報復行為に走りながら、自己正当化をはかる人々が、かなりの数、出現して来た。

強制脱会活動なども、そうした誤った考えに率いられた運動の一つである。カルトの脅威に立ち向かうなどと言っても、本来は、人が自分で報復しないためにこそ、法律が存在するのであるから、そこに任せれば良い。

たとえすぐに願っている通りの結果が得られないことがあっても、粘り強く戦い抜き、諦めずに主張を提示し続ければ良い。

それなのに、ある人々は、法的措置に出ることを野蛮な手段であるかのように言いながら、報復のための私刑を容認する。カルト宗教に対しては、報復しても構わないと、独自の理論を振りかざし、他者に対する人権侵害を容認する。

一体、なぜそのようなあべこべな考えが成立するのか、筆者には未だ分からない。目的は手段を決して正当化しない。カルトとの闘いやら、世界救済といった名目がついているからと言って、不法行為は正当化されないし、人権侵害は人権侵害に他ならない。

ところが、その人々は不法行為を犯しながら言う、自分たちは「カルトの脅威から人々を救う」ために闘っているだけだと。そして、恐ろしいことに、多くの人々が、それを聞いて頷く。

まるで昔、我が国で地震や火事がある度に、民族的マイノリティが攻撃されたことを思い起こさせるような風景である。「カルトの脅威から人々を救う」と言いながら、その攻撃の対象は、カルトへは向かず、かえって最も弱い、無実の人々に向いて行く。

「自分たちはカルトの脅威に脅かされている」と感じている人々が、集団となって、身を守る術もない弱い人々を攻撃し、大勢の人々は、黙ってこれを見物し、不法行為が犯されているのを見ても、不満のはけ口が見いだされたのは良いことだと言わんばかりに、それを見て見ぬふりをし、悪だと認識する力を失ってしまう。

筆者にとっては、これは極めて異様かつ不可解な光景である。

こうした現象に、抗う力もない今日の組織としてのキリスト教とは何なのかという疑問を、深く覚えざるを得ない。

筆者は今でも聖書への信仰に立つキリスト教徒なのであるが、前から書いている通り、だからと言って、たとえば、統一教会の信者を脱会させるために、人権侵害を容認して良いとは全く考えない。カルト宗教の信者が相手であれば、何をしても良いとは、考えることもない。

そのような人権侵害を伴う強制的な脱会活動を、「自分たちは正しい信仰を信じているから、救いを知らない人々に、これを教えてあげなければならない」という自負のもとに正当化して来たプロテスタントのあり方も、正しいものであるとは、筆者は考えない。

そして、プロテスタントが今日に至るまで、こうした強制脱会活動に対して、一度たりとも、これを反省する公式声明を出したことがないことも、恐るべき問題であるとみなしている。

反カルト運動だけが誤っているわけではない。聖書の信仰それ自体は正しくとも、以上のような誤った理念を生む母体となった組織や団体のあり方に、根本的な歪みがあるのではないかという気がしてならない。

そして、そういう活動を疑問にも思わない人々が、プロテスタントのあり方に絶望したと言ってカトリックに去ったところで、少しも問題は解決しないまま、未来に先送りされて行くだけであると筆者はみなしている。

当ブログを巡る訴訟の背後には、そうした問題が隠れている。

人間的な感情としては、筆者は誰をも罪に問いたいとは思わない。

だが、ここには、筆者の思惑次第では、どうにもならないほど大きな問題が横たわっていて、罪人への処罰は、筆者の感情次第で取り除けるものではない、ということを思わされる。

前から書いている通り、それが、当ブログを巡る訴訟が、一審判決で終わらなかった理由なのである。

一審判決が不完全であることは知りながらも、筆者はそこで紛争を終わりにするつもりであった。そして、当事者が完全に争いを放棄した状態は、非常に美しい平和的な解決のようにも見えた。

判決に100%満足がいかずとも、どうせこの世における争い事なのであるから、そこで、事実が完全に明らかになることなど期待しても仕方がない。まずまずの成果があれば、紛争を早期に終わらせて、そこから解放されることの方が、大切ではないか?

そういうわけで、筆者はある程度の成果があれば、そこで立ち止まるつもりであった。特に、何かしらの償いめいたことがらが成就して、約束が守られさえすれば、その後は、誰がどこでどう生きて行こうと、全く関与するつもりもなかったのである。

関係者の尽力は得られ、かなりの達成が得られたように見えた。

ところが、事件はそれで終わりにならず、筆者の感情をも裏切った。

そして、今も裏切り続けている。それはこの事件に限らず、他の場所においても同じであり、筆者がどんなに願っても、解決する争いと、そうでないものが分かれる。

和解を願っても、成立する場合と、そうでない場合がある。

兄弟に訴えられた人が、大急ぎで戻って来て、赦しを乞うこともある。そうなれば、筆者も心を和らげて、早期和解を模索し、すぐに争いは終わり、調和に満ちた美しい解決が訪れる。

赦すと決めたなら、筆者は二度とその人たちの罪を思い出すこともない。

だが、呼んでも、戻って来ない人たちがいる。筆者は、どんなに人を罪に問いたくないと考えても、貫徹せねばならない戦いがあって、結果が明らかになっていないのに、中途半端に諦めることも、退却することもできないことが分かる。

この世の判決に完全を願うことが、どんなに無理な注文であることが分かっていても、筆者には、それでもそれを踏み超えて、前に進まねばならないと分かるだけである。

人の思惑がどうあれ、ただ納得のいくところまで進み、成果を打ち立てねばならないことが分かるだけなのである。

何を明らかにしようとしているのか、自分自身で分かっていなくとも、それでも進んで行かなくてはならない。

これは同胞を刺し通したレビ人の剣であり、非常に喜ばしくない任務である。

ある時点までは、筆者から見て、行政機関の動きは遅く、とてもではないが、そこに何一つ正義など期待できないように見え、また、民事訴訟の判決には、初めから期待しても無駄であると見えていた長い時期があった。

それらはしょせんこの世の動きであって、聖なる事柄を裁くにはあまりにもレベルが低すぎる。それゆえ、もともと期待できることなどないし、期待する方が愚かである、と筆者は考えていたのである。

それにも関わらず、この地上においても、訴えを貫徹して行くときに、そこに成果が現れて来る。たまたま良い裁判官や、親切な警察官や、働き者の行政職員に出会ったから、成果が出たという話ではない。

時には、つきあいたくないと考える人を相手に、長時間、忍耐をすり減らす交渉を行い、これ以上の苦労はたくさんだと互いに思わされるまで、主張をぶつけあうような関係にあってさえ、徹底的に主張を貫徹すれば、成果が打ち立てられることが分かるのである。

従って、必要なのは、この世の規範とはかけ離れた、何かしら聖域のようなものを作って、そこに逃げ込むことで、自己の安寧を保とうとすることではなく、不完全かつ混沌として、しばしば不正義が支配するだけのように見えるこの世の中で、根気強く、正しい裁き、正しい解決、悔い改めと、真の和解を目指して、進み続けることなのである。

そうして、この世に正しい裁きを引き下ろすために、奮闘し続けるからこそ、その戦いに価値があるのであって、初めからこの世になど何も期待できないとあきらめて、自分の作った安全圏に逃げ込むことが、解決策ではない。

そこで必要なのは、現状がどうあれ、願っている目的を達するまでは、最後まであきらめずに主張を貫き通す姿勢である。徹底的に物事の真相を明らかにしたいと願い、また、そうするために努力を惜しまない姿勢があれば、この地上においても、目的の達成はそれなりに得られるのであり、それを合法的に、達成することができる。
 
こうして、物事を明らかにしたいという筆者の願いは、ただ個人的な願望を言い表しているのではなく、真実が明らかになり、正しい裁きが行われて欲しいという、筆者の切なる願いに基づいている。
 
最終的には、正しい裁きを行われるのは、神であるから、人が地上で事件を裁くときにも、ただ単に人間的な観点から見て、満足の行く結果が得られることを目指すのではなく、そこで真実が明らかになり、正しい裁きが反映されるようでなくてはいけないし、それを目指すのでなくては意味がない、と筆者は考えている。

つまり、天を地に引き下ろすことが必要なのであって、そのために奮闘があるのだと言えよう。
   
これまで筆者は、地上において様々な人たちに関わり、彼らに判断を委ね、彼らの協力を得て進んで来た。だが、少しずつ、そうした人々から筆者は離れつつあり、最終的には、他人に判断を委ねるのではなく、自らこれを決定する姿勢が必要となるだろうと思う。

もちろん、地上で物事を裁くのは私たち自身ではないのだが、罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も、実はキリスト者が有している。私たちが出した訴えが、その後、どうなるのかは、地上の裁判官やら判事やらにかかっているのではなく、私たち自身が、その事件に対してどういう態度を取るかにかかっている。
 
この地上で、正しい裁きを求め、それが実現するように、あくまで法に従い、許された範囲で奮闘して行くとき、ある人々に対しては、どうしても、筆者の思惑や感情次第で、訴えを撤回することができず、罪の赦しも成立しない場合があることを思わされる。

考えたくもないことであるが、それはもしかすると、その人たちとは、和解の道が、永遠に閉ざされているからなのかも知れない。

筆者自身は、ためらいもすれば、悩みもする人間の一人に過ぎず、自ら対立を願うわけでもないし、他者の人生を変えようと願っているわけでもない。他者の心を変えるのは、筆者の力ではできず、いたずらに紛争を起こしたり、人が破滅に至るような影響を、誰が及ぼしたいと願うだろうか。

だから、筆者はただ最後まで、人々に立ち帰って、自らの罪を悔い改め、過ちについては、早々にこれを改め、生き様を変えるように呼びかけるだけなのであるが、そんな筆者の考えや思いとは別に、厳粛に手続きが進み、筆者自身が赦す・赦さないの問題を別として、いつかは罪を犯した人々には、何かしらの違反が認定されて、宣告される時が来ることを思う。

たとえ多くの人々が、筆者の試みは、成功に終わらないと高をくくっていても、筆者にはその時が来ることが分かる。

そうなる前に、謝罪と償いができるかどうかは、それぞれの人々に与えられた運命的な選択である。

聖書によれば、神は憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようとする者の心を頑なにされる。従って、誰がへりくだって罪を悔い改め、神と人と和解し、自らの罪を赦されて、告発から解放されることができるのか、それは神が決められる事柄であって、罪を認めて悔い改めること自体が、人自身の功績ではなく、恵みとして与えられるものなのである。

筆者はそのことを思う。

干潟の恩恵に浴するためには、へりくだりが必要である。そして、そのへりくだりとは、人間の本質について、これを粉飾することなく直視する姿勢を含むかも知れない。

自分に対しても、他者に対しても、うわべを飾り、本質を偽る都合の良いものの見方をせず、人間が堕落している事実をあるがままに認め、その上で、人が塵に過ぎないことを認識し、互いを生かし合う関係を双方の側から模索することができるかどうかにかかっているであろう。

そうしていたわり合い、赦し合い、理解と配慮を示し合うことができれば、人は互いに告発し合う不毛な関係からは脱することができる。それは、ただ罪人同士が目くばせし合って、互いの罪を大目に見るという意味での「配慮」ではなく、自分の犯した過ちの有害性を知っていればこそ、これを深く悔い、他者の痛みにも共感と配慮を示すことが出来、しかし、だからと言って、自分を否定するのでもなく、あるがままの地点を出発点として他者と向き合い、それゆえ、他者もその事実をあるがままに認め、その罪を赦して和解に至り着くことができるという新たな関係性である。

罪を認めても、それが終わりではなく、現実的な出発点となり、また、罪を認めたからと言って、人から拒まれるのでもなく、かえって赦されて新たな関係に入れる。
  
だが、自分自身を偽り、自分にはいかなる罪もないと、自分を粉飾したままでは、現在地も分からないのに目的地へ向かうようなもので、偽った土台の上には、自分の人生設計も立てられないばかりか、他者との正常な関係も築けない。

従って、己が罪を頑なに認めないで自己正当化をはかる人々は、一時的には勢いがあり、正しいように見えるかも知れないが、その土台はひび割れ、水漏れがし、やがては偽りであったことが暴露される。

どんなに他者に偽りを吹き込み、自己宣伝に明け暮れ、自分を誇大に見せかけて、一時的に優勢に立っても、それが真実でないならば、必ず、その勢いは覆されることになる。

人が自らの罪を認めるとは、あたかも人が自己の存在を全否定することのように思われるかも知れないが、そうではない。賢明な人は、それが全面否定どころか、死の宣告を回避するための最善の策であることをすぐに理解する。

愚かな人は、一時的な面子にこだわり、その後の人生を失うが、賢明な人は、一時的な面子を失ってでも、その後の人生を回復する。

罪を認め、悔い改めることによって、死の剣が振り下ろされるのは一瞬のことで、ただちに贖いと赦しが適用されて、和解が成立する。

神との間でも、人との間でも、和解が成立し、罪と死の宣告は取り除かれる。多く罪を赦された者は、多く愛することができ、自分が罪人であることを知っている人間は、赦された喜びも大きく、自分自身もまた、他者の罪を覆い、赦すことができる。

どちらの生き方を選ぶのかは、筆者が決めることではなく、その人自身が選ぶ選択である。それは、筆者には、手の届かない、変えることのできない領域である。

人自身の人生には、その人でなければ、決して決められない事柄があって、罪の悔い改めに関しては特に、人は人に促すことはできても、他者の決断に介入できない。なぜなら、それは救いに直結している問題だからであり、信仰の根幹でもあるためである。

この信仰の問題については、キリスト教徒を自称しているかどうかや、異端やカルトとみなされる宗教に入信した経歴があるとかないとかいった、うわべだけの問題はまるで関係ない。

ただ、人が自らの罪を率直に認めて、神に立ち返ることができるかどうかが肝心なのであり、それができるかどうかが、人の救いを分ける。そして、キリスト教徒を名乗り、自分は救われていると言いながら、自らの罪を認めることも、これを悔い改めることも、兄弟と和解することもできない人間が、非常に多くの数、存在することは確かなのである。
 
そもそも目に見える兄弟を愛さない者に、見えない神を愛することはできないと、聖書は言う。従って、兄弟と呼ばれる人々と和解できるかどうかという問題の背後には、神と和解できるかどうかという問題が隠されている。

目に見える兄弟姉妹に対して、過ちを犯しても、これを告白することもできず、これを認めることも、詫びることも、償うこともできないとすれば、その人が神に対してだけ、罪を認めて悔い改めることはあり得ない。
 
そこで、神の家族とされ、兄弟姉妹の一人とされた筆者が、この手に抱えている訴えは、筆者の訴えでありながら、同時に、そこには、筆者の思惑とは別個に、厳粛に進んで行く「もう一つの手続き」が背中合わせに存在する。
  
そこには、神ご自身から、人に対して発せられた告発がセットになっており、それに人がどう応答するかという問題が、おのずから含まれている。

これはある意味では、とても厳粛で恐ろしい種類の手続きである。

筆者が訴えを出し過ぎていると非難する人たち、もしくは、訴えを出さないことこそ、解決であるかのように主張する人々がいるが、それでも、人々が目に見える人間としての筆者を相手に、事実を争っているときは、それはまだまだ平和な紛争なのである。

なぜなら、筆者は一人の人間に過ぎないので、筆者の感情を動かすことも、思いを変えさせることも、それほど難しいことではなく、いつでも紛争は停止できるし、和解も可能であるし、未熟な人間である筆者には、不当な攻撃を加えて劣勢に追い込むことさえ、可能である。

しかし、そこにもう一つ、筆者の思いによっては左右されない訴えが表裏一体になっており、そこには、神の福音に対して人がどう行動するのかという問題が含まれている。
 
そして、不思議なことに、そのもう一つの手続きが、どのように進んでいくのかは、筆者に対して、相手方がどのような態度を取るかにもかかっている。
 
筆者がこの手に抱えている訴えの中には、神の家を司る者に向けられた告発も含まれている。

聖書は、裁きは常に神の家から始まることを告げており、神の家を司る者の責任が非常に重く、とりわけ厳しいものであることを告げている。しかも、自ら神の家を告発し、神の家を司る者たちを告発し、兄弟たちを訴え続けて来た者が、自ら告発を受けるときには、その者の責任はいかばかりになるだろうか。

この問題は、筆者の手に負えるものではなく、また、筆者の思い次第でどうにでもなるものではない。地上の未熟な人間としての筆者は、あまりにも弱く、誰もが本気で相手にする価値すらもあるようには見えないかも知れないし、それゆえ、筆者の述べている主張を、軽視する人々は多いのであるが、筆者の主張の向こうに控えているもう一つの厳粛な訴えは、たとえ誰かが筆者を力づくで排除したとしても、決して消滅することのないものである。

それがあるから、未だに当ブログを巡る訴訟も続いているのであり、次第に、その訴えが、だんだん筆者個人のものではなくなり、その内容も、筆者の手から離れつつあることを感じさせられている。

つまり、これまで筆者が非常に人間的な思いで握りしめていた訴えが、次第に、個人的な思いから解かれ、筆者の思いの届かない領域まで移行し、厳粛な結論へ向かって、自動的に進み始めているのである。
  
筆者の主張の中には、常に悔い改めと和解を求める勧めが含まれており、それゆえ、そこには救いの問題が含まれている。筆者の主張に対する応答は、軽い問題でしかないが、神の救いに対する応答は、極めて厳粛なものであり、永遠の領域に至るまで、人々の生死を分けてしまう。
 
キリスト者を自認し、福音を聞かされて知りながら、自らの罪を認めることも、罪赦されることもなく、神と和解することもなく、兄弟と呼ばれる人との間で争いを終わらせることもなく、ただ救いを拒んで終わってしまったら、その人は、何のためにキリスト者になったと言えるだろうか。その人は福音を知らされなかった方が、はるかにましだったと言うしかないことであろう。

 改めて、罪を悔い改めて神と人と和解することの意義を繰り返すだけである。
    
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」 (マタイ25:40)
 
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネ一4:19-21)

   
* * *

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(27)―わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
 主は言われる。 
   
  
天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
 あなたたちの思いを、高く超えている。

  
雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。

  
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
 むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。

   
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち
 平和のうちに導かれて行く。
 山と丘はあなたたちを迎え
 歓声をあげて喜び歌い
 野の木々も、手をたたく。

 茨に代わって糸杉が
 おどろに代わってミルトスが生える。
 これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
 それはとこしえに消し去られることがない。 」(イザヤ55:8-13)

以上の聖句は、筆者の最も好きなものの一つで、ジョージ・ミュラーの椅子の話を思い起こさせる。神の御言葉は一つとしてむなしく地に落ちることはない。言葉は、約束であり、実体と一つなのだ。

筆者は、自分のための約束を握りしめ、それが空手形ではないことを確信している。そして、その確信が、欺きと嘲りだけによって報いられることなど、決してありはしないと確信している。

もしも地上の判決が、守らなくても良いものであるとすれば、法には意味がないことになる。法などあってもなくても、やりたい放題のことを行った者が勝ち、責任追及されても、責任が取れない者が、最も得をすることになる。

もしもこの地上で、そのようなことが当然視されるならば、まして神の御言葉になど、世人は誰も耳を傾けないだろう。それは単に絵に描いた餅でしかなく、法がむなしいなら、言葉もむなしく、あらゆる掟を破って、己が欲望のままに行動し、他者を思う存分蹂躙し、人間性を辱めた者が勝つことになる。
 
まさかそんな結論が正しいわけがあるまい。そして、それこそ、人類が創造された当初から、悪魔と暗闇の勢力が絶え間なく行って来た悪事なのである。彼らは神の御言葉に背き、これを踏みにじって、自分たちには責任の取れない行為に及び、その結果として、地獄の火の池に投げ込まれる運命が定められた。

だが、神はキリストの十字架において、人類が悪魔と連帯責任で負わされたすべての債務を帳消しにして下さった。だとすれば、債務を抱えているのは、キリスト者ではなく、悪魔と暗闇の勢力の側である。従って、我々は彼らから債務を取り立て、彼らが我々に与えた損失を取り返さなければならない。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

以上の御言葉の前半はすでに成就している。残るは後半である。暗闇の勢力のもろもろの支配と権威の恐怖と脅しによる武装を解除し、彼らを縛り上げて、キリストの凱旋の行進に加えて、公然とさらしものとして引いて行かねばならない。

* * *

さて、先日、杉本からは、職場を特定して取立を行うのは頼むから勘弁してもらいたい、という内容のメールが来たため、筆者は改めて今週中の供託を依頼しておいた。

裁判所への供託手続きは、手続きが完了してから、受け取るまでに1ヶ月近く(場合によってはもっと)時間がかかる。判決からすでに2ヶ月が経とうとしている。十分にリミットである。

筆者は、これが最後の温情措置であり、猶予であることを断った上で、杉本に宛てて、供託手続きの流れと、供託書および事情届の記入見本を送付しておいた。もしも彼が筆者の温情をこれ以上、悪用、あるいは無視するならば、この先、杉本にはもはや社会人としてやり直しができるチャンスは決してなくなるだろうことを断っておかねばならない。

筆者はこれ以上、侮られたいがためにこうした措置に及んでいるわけではないためである。

さらに、筆者は杉本に無意味な控訴も取り下げるよう呼びかけている。控訴審はもはや筆者と杉本との対決がメインになるのではない。そこで主要な争点は、村上による権利侵害である。筆者はこれ以上、杉本の怪文書のような泣き言の書面に煩わされて時間を失いたいとは願っていない。従って、杉本の口を封じることも、控訴理由書の主張の一つにせねばならない。

杉本は、本来ならば、一審で筆者に敗れた時点で、キリストが筆者を共に加えて下さった凱旋の行列に捕虜とされているはずである。それにも関わらず、杉本は未だべったりと村上の影に隠れることで、あたかも筆者に勝利したかのように自分に言い聞かせている。

そのような行為を続けるのであれば、筆者はまず村上に対する今後の見せしめの意味も込めて、杉本に対しては、徹底的に容赦のない法的手段に出ざるを得なくなるだろう。

今回、杉本の側から筆者の要求に応答もなく、支払いもないならば、この先は、今まで以上に情け容赦のない取立に及ぶことになるだけだ。勤務先の特定も、ほぼ不可避となるばかりか、採算度外視の動産差押の手続きなども、念頭に入れて動くことになろう。

時効になるまでには、まだ取立期間が十分に残されていることから、筆者はその間に、杉本が心を休める暇もないほど、ありとあらゆる手段を駆使して、徹底的な取立を日々、続行することになる。

いかに合法的な取立の範囲を超えないといえども、次は何が起きるのだろうかと、毎日、考えをめぐらしては、恐怖を感じざるを得ないほど、情け容赦のない取立を、絶え間なく続行することになる。今はそのようなことが起きる前の最後のチャンスである。
 
そのチャンスを杉本が棒に振るならば、もはや彼のために残された温情はない。むろん、二審でも、筆者は杉本の無責任な行為を強く非難し、賠償金を踏み倒そうとする杉本のメールもすべて書証として提出し、全面対決の姿勢を取りながら、掲示板の投稿等も含めて、厳しい責任追及を行って行くことになる。

さらに、刑事事件でも、有罪判決を勝ち取るために入念に主張を展開することとなるだろう。

筆者は、杉本がこの先ただちに供託の手続きをしたとしても、それが刑事事件の行く末に大きな影響を与えることはないだろうと考えている。刑事事件は、未来に向かって行くものではなく、すでに起きた事件について裁くものだからだ。杉本の書いた記事は、あまりにも分量が多い上、繰り返し、悪質な権利侵害が行われている。村上が不起訴になった事件とは、重さが違いすぎる。

そこで、筆者はこれが不起訴に終わるだろうなどとは全く考えていなが、さらに、杉本が賠償金を踏み倒したままの状態でいるならば、不起訴になる可能性など、さらに低くとどまり、このように社会的責任を負えない人間に対しては、処罰が残るのみとなるであろう。

おそらく、刑事事件については、筆者がどう考えるかではなく、行われた行為の重さに応じて、的確な判断が下されるであろうと思う。そして、事件はすでに筆者の手から離れつつあるのだ・・・。

だが、筆者がこのような記事を連続して投稿したことによって、今、ほんの少しずつだが、杉本のメールの調子の中に、そろそろ逃げおおせない地点に来たという自覚が見え隠れするようになった。

ヤギの会は、相変わらず、非常に丁寧に返信をしてくれている。本来、そのヤギの会の世話人をつとめていたくらいだから、杉本は、供託の手続きなどについては、すべて自力で調べ上げて、他人に教えてやれるくらいでなくてはならない。今、その作業を筆者が代行していることは、杉本にはやはり、世話人としての能力がないことをはっきりと物語っていると思う。

他人が自分に代わって苦労してくれるなら、それにすがって自分はどこまでも楽をしようとする杉本の性格は、およそ世話人という仕事には向かないと、筆者は考えている。おそらく、自己顕示と自己満足のためだけに、そうした仕事を求めたのであろう。

村上にも、唐沢にも、杉本にも、分かっていないのであろうが、リーダーとして人の上に立つためには、本来、他人のやらない仕事、避けて通りたい大変な作業を、人の何倍も引き受ける覚悟と能力がなければならない。晴れがましい舞台に立って、自分一人、注目を浴びることが、リーダーの役目ではない。他の人たちの負担を軽減するために、人の何倍も隠れた仕事を引き受け、自分よりも弱い者たちの心や生活の状態に気を配り、彼らを陰ながら支える能力が必要となる。それがないのでは、人の上に立つ資格が初めからないと言っても過言ではない。

他人にかしづかれ、もてはやされ、仕えられ、栄光を受け、注目される立場がリーダーなのではなく、最後まで契約の箱を担いでヨルダン川に立ち続ける人間が、指導者に最もふさわしいのだ。

さて、前から書いている通り、有罪となれば、間違いなく、杉本の社会福祉士の資格は剥奪されることとなる。今、杉本は勤務先の特定は嫌だと叫んでいるくらいだから、将来的にそうなる可能性の重さをまだ自覚していないのであろう。

しかし、筆者は、この先、杉本の自覚は少しずつ増して来るだろうと思う。

筆者という人間が、杉本の目に、以前のように不倶戴天の敵とは見えなくなり、自分と同じような人間の一人であることが分かるようになるに連れて、杉本は、これまで自分の行った行為の重さを自覚し、それを嫌悪するようになるのではないだろうかと思う。

筆者から怒りと憎しみと嫌悪ではなく、人としての健全な反応、健全な感情が返って来るのを見せられる度に、つまり、杉本が筆者に対して何をしようとも、筆者はそれによって心を汚染されないし、動かされることもないということが分かるに連れて、おそらく、杉本は自ら行って来た悪事に対して、向き合うことができないほどの自己嫌悪を感じるのではないかと思う。そういう瞬間がこの先、どこかの時点で来るのではないだろうか、と予想する。

* * *

さて、筆者はこの道で間違いないことを痛感している。ここまでやるかと呆れている人もいるであろうが、正しいことはきちんと主張して、最後まで貫き通さなくてはならない。どれほどの困難が伴おうとも、目的は貫徹するまであきらめてはならないのだ。

そして、目的を達するための方法論は、あくまで主張し続けることにこそある。

なぜ筆者がこのブログを書き続けているか、紛争を通して何を得ようとしているのか、その目的も、ここにあるのだ。判決文は、単なる紙切れでもなければ、空文句でもない。それと同じように、神の御言葉も、私たちの述べている証の言葉も、空文句ではない。

私たちは、神の姿を見ることはできないし、その声を聞くことも、その御体に手を触れることもできない。だが、たとえその存在を感覚によって確かめることができずとも、私たちは神からの紛れもない真実な約束を与えられている。

聖書66巻が、神が私たちのために与えられた判決文である。これは私たちが生まれるよりも前に、私たちの代わりに、キリストが人類の代表者として、原告となって悪魔を訴え、神の法廷において、悪魔と対峙して、悪魔を打ち破って、神の御手から直接受け取った勝訴判決であると言える。

私たちはその判決文から、日々、自分の糧を得て生きているのである。

御言葉は、物事を切り分ける剣であり、かつ、実体の伴う約束である。人間の言葉は、嘘が混じり、実体からかけ離れているとはいえ、本当は、あらゆる言葉には、必ず実体が伴うべきなのであり、それが言葉の本質なのである。
 
言葉と実体との関係は、キリスト(本体)とエクレシア(影)と同じだ。

私たち自身も、神の御言葉によって造られた被造物に過ぎず、影なる存在として、不確かさ、脆さ、儚さを負っている。しかし、どれほど私たちが不真実な存在であるとしても、私たちは、自分を生かす、永遠に変わらない、神の確かな約束に対して、「アーメン(その通りです)」と述べて、これに賛同・承認する民である。そこに、私たちの存在の確かさがある。

だから、与えられた命の約束を、決して手放してはならないし、あきらめてもならないのである。
 
そこで、一見、回り道のように見えるかも知れないが、これが最短コースであることを、筆者は疑わない。私たちは、キリストの復活の証し人であり、御言葉には、すべての障壁を打ち破って、約束されたことを実体化する力があることを知っている。

この御言葉を盾に、私たちは、何が正しいことであるか、何が神の喜ばれることであるか、何が正義であり、真実であるかを、公然と世に示し、聖なるものと俗なるものとの違いを世に示し、嘘偽りを憎み、暴虐や搾取を憎み、神の喜ばれない全ての事柄を退け、神の約束を、地上に実現するまで、あきらめずに戦い抜くのである。

東洋思想のはびこるこの国で、物事を中途半端に曖昧なまま残しておこうとする人たちは多いであろう。手間暇をかけて何かを論証すること自体を、無駄な苦労だと考える人も、忌み嫌う人も多いであろう。しかし、筆者は、約束を中途であきらめて、空文句に終わらせたくはない。

だから、物事を極みまで証明し、正しい約束の言葉を成就する努力が、決して徒労には終わらないことを、筆者はきちんと世に示したいと考えている。それは自分自身のためだけではなく、多くの人々を失意と絶望に終わらせないためにも、貫徹せねばならない仕事である。

そういうわけで、物事をあるべき秩序に戻すためには、この紛争を最後まで戦い抜くことは、避けては通れない課題だと、筆者は確信している。本当ならば、自分と相性の良い裁判官のもとで、早期に判決を書いてもらい、払う労力を最小限度におさえて事件を終えるのが、一番、本人にとっては楽に見えるものと思う。

しかし、まだ光を当てなければならないものが残っているならば、事件を終えることはできないのだ。研究者が顕微鏡をのぞきながら、細胞の隅々にまで光を当てて、研究対象を検証して行くように、物事の細部に至るまで、光によって検証する作業が必要なのである。光が当てられたとき、初めて、物事の真の有様が明らかになり、闇が払われる。

筆者は、この戦いを貫徹することで、暗闇の勢力の要塞を打ち壊し、彼らが脅しと恐怖によって、人心を支配してきたその手法を粉砕し、無効化せねばならないと考えている。彼らが教会に対して用いて来た脅しには、もはや力がないこと、彼らは、すでに打ち破られて、キリストの凱旋の行列において、捕虜とされてさらしものにされていることを、はっきりと世に示さねばならないと思っている。

悪魔と暗闇の勢力こそ、御名の権威に従わなければならない存在であり、御名の権威は、すべての名にまさるものとして高く掲げられねばならないのだ。

地上の判決は、この世の裁判官の名において言い渡されるが、私たちはそれ以上の権威者であるキリストの御名において、暗闇の勢力に対峙し、その手下どもに向かって命令している。そこで、彼らは我々の命令に従わねばならない。

それは筆者が被告とした杉本にしても同様である。
 
そして、この原則は、来るべき判決においても、同様に適用されねばならない。もしも筆者が今から、すでに手にした判決を空文句に終わらせるなら、この先、この戦いを戦い続ける意味はどこにもなくなる。
 
だから、筆者は、杉本を判決に従わせねばならないのである。もしもそれでも、従わないというならば、徹底的な恐怖によって、否が応にも従わざるを得ない状況を作り出すしかない(むろん、筆者は合法的な手段しか用いないとはいえ)。

だが、できるなら、そうなる前に、自主的に判決に従ってもらいたいものである。そこで最後の猶予を与え、呼びかけをしている。

このようにして、私たちは、暗闇の勢力がこれまで恐怖によってキリスト者を脅しつけ、支配して来た手段を無効化して、彼らの武装を解除し、今度は、それを裏返しにして、彼らこそ、私たち(の証しする神の御言葉)によって罰せられる恐怖のために、キリスト者に従わざるを得ない状況を作り出さねばならないのである。

しかし、我々は人を恐怖によって死に至らしめる判決を握りしめているのではなく、人を命と平安によって生かす神の御言葉を掲げているのであるから、聖なる神殿を破壊する者がいれば、その者は死に至らしめられるであろうが、神殿を清め、支え、維持するために仕えるならば、その人も、宮と共に生きるだろうと告げておく。

だから、悪を捨てて立ち帰りなさい。筆者は、杉本の今後に注目している。彼が予想通り、自分で吐いた呪いの言葉の跳ね返りを全身に浴びて、ただ自滅するだけに終わるのか、それとも、違った道を見つけ、選ぶのか。

もしも杉本が筆者に投げつけた呪いの言葉を、自分で背負う道を選ぶなら、遅かれ早かれ、死しか彼には待っているものはないだろう。十字架がなければ、それは決して誰にも背負うことのできない途轍もない呪いだからである。筆者の温情になど期待しても無駄なことであり、提案が反故にされれば、筆者は最も厳しい措置を取るだけのことである。猶予も今週いっぱいと告げてある。

だが、筆者は、杉本(およびその他の被告となる人々)が、ただ単に、これまでにも明白に予測できたように、「破滅」という当然の結末に自ら落ち込んで終わるだけなのかどうかを、見極めようとしている。それ以外に、結論はないのかどうかを。

そもそもこれほどまでに長年に渡り、彼らが筆者に執拗に絡んで来た理由はどこにあるのか。彼らが掴もうとしていたものは何なのか。神が贖われたキリスト者である筆者に接近して来た彼らが、ただ筆者の信仰につまずき、同時に、キリストにつまずき、御言葉につまずき、教会につまずき、これらを恨んで、エクレシア殺し(教会の破壊)という恐るべき所業に手を染め、その霊的刈り取りとして、当然の自滅を刈り取るだけに終わるのか、それとも、我々キリスト者の生き様を通して、何か違うものを掴むのか――筆者は知りたいと考えているのだ。

彼らがあくまでエクレシアに対抗する道を選ぶなら、粉みじんに粉砕されて、跡形もなく消し去られて終わるだけである。

前回の記事で、我々キリスト者は地上のすべての事柄を裁く者、御使いたちをさえ裁く者であると述べた。記事末尾に挙げる詩編は、そのような権威を持つ神の子らが、「自分たちは神々だ」と思い上がって、不正な裁きを繰り広げた結果、サタンが焼き尽くされたように、没落して惨めな死を遂げるという宣告を告げたものと筆者は理解している。

そこで、我々は以下の御言葉を、思い出さなければならない。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」
と言われている通りです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:12-19)

裁きは、神の家から始まる――今は神の教会が試されている時である。カルト被害者救済活動を支持する暴徒のような荒くれ者たちが登場して来て、諸教会を脅かすようになったことにも、それがよく表れている。それも、神の教会に対する裁きの一環なのである。だが、教会はそのような暴虐からも解放されて、あるべき状態が取り戻されねばならない。そのための方法は一つである。

悔い改めて、御言葉に立ち帰り、不正をやめ、嘘偽りを捨て、真実を尊び、虐げをやめ、苦しむ人、貧しい人を蔑むのをやめて、彼らを助け、神に逆らう人々の手から、正しい人を救い出し、神の正しい真実な裁きに立ち帰ることである。それがなければ、クリスチャンの名で呼ばれる人々にさえ、厳しい末路が待ち受けているだけである。そして、その裁きはすでに始まっている。我々は世人の前に自分たちが教訓とされないために、自分たちの姿を主の御前にかえりみなければならない。反カルト運動の終焉は、神の家に対する裁きの始まりに過ぎないためである。
  
「神は神聖な会議の中に立ち
 神々の間で裁きを行われる。

 「いつまであなたたちは不正に裁き
 神に逆らう者の味方をするのか。
 弱者や孤児のために裁きを行い
 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
 弱い人、貧しい人を救い
 神に逆らう者の手から助け出せ。」

 彼らは知ろうとせず、理解せず
 闇の中を行き来する。
 地の基はことごとく揺らぐ。
 わたしは言った
 「あなたたちは神々なのか
 皆、いと高き方の子らなのか」と。
 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
 君侯のように、いっせいに没落する。

 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。
 あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(詩編第82編)

「人はその父と母を離れて」ー「生み生まれる」天然の関係に、十字架の霊的死が適用されなければ、人は神の宮として生きることはできない

・「生み生まれる」天然の関係に対して十字架の霊的死を経なければ、人は神の宮とはなれない

前回では、三島由紀夫の『金閣寺』には隠れた霊的プロットがあることを見て来た。すなわち、金閣寺とは、深い文脈では、神の宮として作られた人間自身のことを指しており、人間が本来あるべき状態を取り戻したときの理想的な姿を象徴的に表していることを見て来た。

この物語の主人公は、吃音という(より深い文脈では人類の罪を象徴する)問題を抱えているため、恥や不完全さとコンプレックスの意識に絶えず苛まれており、自分が理想状態から遠くかけ離れており、それに「値しない」という意識を持っている。

そこで、主人公は自分を惨めで恥ずべき存在と考えているが、金閣寺に憧れるとき、彼は無意識のうちに、自分が本来的に、神の宮として創造されたことに思いを馳せ、その機能を完全に取り戻したいと思い焦がれているのである。

従って、主人公が金閣寺との一体化を目指すことは、決して自分の外にある、自分とは全く別の何かを得ることによって、高みに至り着きたいと考えているわけではなく、むしろ、彼は人類の願望を代弁して、「この堕落した状態から抜け出て、神の宮としての機能を取り戻し、あるべき完全さや尊厳に立ち戻るためには、どうすれば良いか」と考え続け、自分自身の理想を追い求めているのである。

つまり、この主人公にとって、金閣寺とは、被造物が罪を取り除かれて、あるべき姿を取り戻したときの美や完成の象徴であり、彼は自分自身がそのようになりたいからこそ、金閣寺に尽きせぬ憧憬と思慕を抱くのである。

それにも関わらず、主人公が金閣寺に到達できないことを知って、自らの理想である金閣寺を否定し、破壊することは、人類が目指していた本来的な目的を諦め、これを否定すると同時に、それに到達するために創造された自分身を破壊することを意味する。

それゆえ、「金閣殺し」は「自分殺し」に結びつくのである。

主人公が追い求めていたものは「永遠の女性美」でありながら、それは彼と全く関係のないものではなく、神の宮として創造された自分自身のことだからである。

だが、なぜこの主人公にとって、金閣寺はそれほどまでに手の届かない、到達不可能な目的だったのか。なぜ彼はこの神聖な神の宮を目指しても、それに拒まれているという意識しか持てなかったのか。

それは、この主人公には、罪を贖う「十字架」が欠けていたからである。

聖書によれば、人が神の宮となることができるのは、キリストの御霊が、信仰によって、信者の内に住み、信者がその霊に従い、この霊を尊び、崇めて生きる時だけである。

そうなるためには、人はアダムの命に対する死をくぐらなければならない。

生まれながらの被造物には、どんなことをしても、神の霊と交わる道はなく、それゆえ、神の宮としての機能を発揮することもできない。

その事実を知らず、受け入れられない人々は、生まれたままの命のままで、何とかして最高の美に到達しようともがき、それに値する存在となるために、自分の堕落した命を改造しようと必死に努力し、苦しむ。

そして、目に見える人間の誰かの中に、自分の模範となるべき像を探し求め、その人物を「神」として崇め、忠誠を誓うことで、自分自身も神に連なろうと試みたりするが、その試みが成功することは決してない。

彼らがどんなに被造物を神として拝み、これに近づこうとしても、結果として判明するのは、「自分は神から疎外されている」という事実だけであり、彼らは自分が神として拝んでいるものとさえ、決して一体化することができない。

さて、聖書の創世記が述べている「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)という御言葉には、霊的な文脈があり、それはキリストと花嫁たるエクレシアの合一を指している。
 
その霊的合一は人自身の中で起こるのであり、そのようにして人が神の霊を入れる神の宮となり、人の内側で神の霊と人の霊が一つとなった状態こそ、人間のあるべき完全な姿であるのだと言える。

人自身が神の幕屋となり、そこに神の霊が入り、神の霊の光によってその宮全体が照らされ、神ご自身だけでなく、宮も神聖とされるのである。

『金閣寺』の主人公は、そのようなことがありうるとは知らないまま、無意識に「永遠の女性美」を追い求める。彼はその理想の中に、神の霊を祀る宮としての機能を取り戻した時の人類の姿を見ようとしているのだとは自分では知らない。

そして、もちろん、彼の目指している「永遠の女性美」も、本当は金閣寺の中にはなく、キリストの花嫁たるエクレシア(教会)の中にしか存在していないことを知らない。

この主人公がそこに至り着くただ一つの方法は、人類を罪から贖うキリストの十字架を経て、自分自身に対して霊的に死ぬことだけである。

その唯一の解決を退けた結果が、霊的死ではなく、物理的な死を通して、この理想と一体化するという悲劇の結末を生むのである。

仏教の世界観においても、グノーシス主義と同様、世界の根源は、虚無の深淵のごとき存在としての「無」であるとされる。従って、仏教哲学の概念に照らし合わせても、主人公が至高の存在として追い求め、憧れている金閣寺には、真のリアリティはないということが分かる。

金閣寺は、結局、エクレシアの模造品としてのバビロンを意味するのであって、被造物が決して十字架の死を通ることなしに、美の極致、完成に至れるという偽りの思想なのであり、それは偽りの幻想でしかなく、その本質は「無」なのである。

しかしながら、人がキリストの十字架を通して贖われ、神の神殿となり、神が人の内側に住まれ、人と共にある状態は、決して人にとって達成不可能なおとぎ話のような理想ではない。

それは人類にとっての悲願であるだけでなく、神にとっての悲願でもあることが、聖書の記述から分かる。

「見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)

このように、神の霊が人の内側に入り、人が宮としての機能を取り戻すとき、初めて人は永遠の存在となり、自己の完全性を得ることができる。もちろん、最終的な贖いの完成のためには、復活の時を待たねばならず、地上ではその予表を見ているとはいえ、それでも、相当な程度、その完全性にあずかることはできるのである。

だが、聖書が、そのようにして、人が神の霊を受けるための条件として、要求していることは、「人はその父と母を離れて」という事実である。

これは何を指しているのか。より深い意味では、人が罪を悔い改めてバプテスマを受け、キリストと共なる十字架を通して、この世に対して死に、自分自身に対して死に、生まれながらのアダムの命とそれに関わるすべてのものに対して死んで、神に対して生きる者となることを意味する。

そのことが、創世記においても、すでに予表されていたのだと言える。つまり、人が生まれながらの「父と母」との関係を離れ、「生み生まれるという自然の関係」に対して死なない限り、神との出会いも結合もあり得ないことを、創世記の御言葉は予表しているのである。

教会を表す原語エクレシアとは、「この世から召し出される」という意味で、この世から召し出されておらず、天然の関係に死を経ていない者は、神の民とはならず、神の宮ともならない。

詩編の次の言葉も、同じことを意味する。

「娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

これもまた人が生まれながらの出自から召し出されて神の民とされ、キリストの花嫁たるエクレシアに加えられる十字架の死と復活のプロセスを表しているのである。

ヨハネの福音書には、主イエスとファリサイ派のニコデモの次のようなやり取りがある。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょう。」

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(ヨハネ3:3-7)

主イエスの言われた「新たに生まれる」ことは、人がバプテスマを受け、信仰によって、生まれながらの命に死に、キリストの命によって新たに活かされることを意味する。それがなければ、人は神の国に入ることはできない。生まれながらの命に生きる姿のままでは、誰一人、神の霊をいただいて宮となることは不可能なのである。

次の言葉も同じように、生まれながらの関係に対する霊的死の必要性を述べている。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

聖書は、父と母を敬えと教えており、両親を憎むべきとは教えていない。しかしながら、イエスは、人が神を愛する以上に、自分の生まれながらの出自や家庭を大事にして生きることは無理であると教える。

神に従う過程で、信者らは必ず、父や母への天然の愛情、娘や息子への天然の愛情という、「生み生まれる自然の関係」に基づく魂の情愛を死に渡さなければならない時が来ることを示されたのである。

従って、聖書の教えは、国家神道が教えるような「生み生まれるといふ自然の関係を本とし」て、人が神の国に到達できるというものではない。それは絶対的に不可能である。

それで人はその父と母を離れて」とあるのは、真に人がキリストに結ばれるためには、必ずキリストと共なる十字架を通して、自分自身の生まれながらの命や、天然の自己、この世、肉にあるすべての関係に対して死を通らねばならないことを示しているのである。

そういう意味で、「父と母を離れ」るという言葉の意味は非常に深いと言える。それは人が生まれたままの姿では、決して神の国に入ることができないことを示している。

しかし、すでに述べて来たように、今日、実にキリスト教界においては、この原則が破られて、さかさまの教えが説かれているのが現状である。

たとえば、多くの他の教会では、一人の信者の一家全員が救われて教会に所属し、「クリスチャンホーム」が形成されることこそが、信者の目指すべき到達目標であるかのように教えられる。

この世の習慣を通して「父の日」や「母の日」といったイベントが祝われるだけでなく、さらには、信者の家族であれば、救われていなくとも、教会の一員であるかのように教会で葬儀が行われたりするのが現状である。

肉による親子関係が、十字架の死を経ることもなしに、公然と神の家族であるかのように教会に持ち込まれているのである。

しかし、我々は、聖書を通して、神の家族と、肉による家族との間には、何の関係もないという事実を見る。

主イエスは、公生涯を始められてから、肉による親子関係を全く神の家族の中に持ち込むことは全くなさらず、生みの親子であるからと言って、ご自分の肉親を、信仰によって結ばれた神の家族以上に重んじることは全くなさらなかった。それは次の御言葉から明らかである。

「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:27-28)

「イエスが群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」」(マタイ12:46-50)

また、イエスは十字架にかかられた時、自分を生んだ母を目の前に見て、次のように言われた。

「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

このように、イエスはご自分の肉親を、信仰を持つ他の人々の前で、特別扱いすることはなさらなかったが、ついに十字架の下で、肉による親子の絆は本当に断ち切られ、それに代わって、信仰による神の家族が成立したのである。

使徒行伝では、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが、何一つ特別な待遇を受けることなく、他の信徒の兄弟姉妹と同じように、共に集まり、祈っている姿が描かれている(使徒1:14)

このように、主イエスは徹底して肉にある絆を退けられ、信仰によって結ばれた神の家族としての絆を重んじられた。にも関わらず、今日のほとんどの教会ではそれが完全にさかさまになってしまっているのである。

今日の教会では、ペンテコステ・カリスマ運動のように、あからさまに「キリスト教には父性的要素ばかりが強すぎて、母性的要素が足りない」と、ケチをつけることはないかも知れないが、それでも、「キリスト教はこれまで社会的強者ばかりを伝道対象とし、社会的弱者を容赦なく見捨てる冷たい宗教であった。キリスト教はこのような残酷な欠点を克服しなければならない」と言って、信仰によらない弱者救済活動に非常に熱心となる風潮は至る所に見られる。

ホームレス伝道やその他の慈善事業といった、本来、この世のNPOや市民団体が行うべき社会事業にまで、教会が積極的に乗り出し、弱者救済活動を売り物にして注目を集め、あるいは、カウンセリングなどと称して、精神的な弱さを抱える人々を積極的に招き寄せては、支援を表明する。

しかし、こうした弱者救済活動は、人の弱さを美化し、甘やかすことはしても、弱者を決して弱さから解放することはない。それどころか、人の弱みをきっかけとして、弱者をさらなる搾取と支配の中に巻き込んで行くだけである。

人の弱さ、愚かさ、恐れ、恥の意識、罪意識は、本来的には、罪から来るものであり、主と共なる十字架の死に渡されるべきものである。

教会が、そうした人の弱さを、あたかも大いに同情を受けるべき、哀れまれるべきものであって、まるで貴い神聖な要素であるかのように扱うことは根本的に間違っている。

だが、そのようにして、アダムの命に属するものは何であれ、すべて十字架で霊的に死に渡されねばならないという聖書の真理を無視して、教会が各種の弱者救済活動に熱心になり、弱者を美化した結果、今日の多くの教会には、元ヤクザ、元ホームレス、元カルト信者、障害者、病者などの社会的弱者が溢れ、特別な事情を抱える、精神的な弱さを持つ人たちが溢れ、これらの人々が、まるで自己の弱さを聖なる要素であるかのように考えて誇るという転倒した現象が起きているのである。

教会が「病院」や「駆け込み寺」のようになってしまった挙句、病院ならば、きちんと治療を施して退院させてくれるからまだ良く、「駆け込み寺」は一時的な退避の場でしかないが、いつまでも「愛」や「憐れみ」を口実に、人の弱さを甘やかし、助長するばかりで、何の治療も施さず(もちろん、病院でないのだから、教会が人の弱さの治療などできるはずもない。カウンセリングにしても同じことである)、人の弱さに終わりなき同情の涙を注ぎ、これを壊れやすい宝石のように扱うばかりで、かえってより一層、人がその弱さを手放して力強く立ち上がることが永久にできなくなるように仕向けているのである。

このようにして、今日のほとんどの教会は、旧創造に属するものを死に渡すどころか、これらを惜しみ、いたわり、哀れみ、尊びながら、本来ならば十字架で死に渡されるべき数々の肉にある関係、罪から来る弱さ、この世とのつながりを、あたかも信仰生活の欠かせない一部であるかのように説き、公然と受け入れている。

そういうことの結果、今日、教会と名のつくほとんどすべての教会において、信仰生活は、父なる神を中心とするものでなく、被造物を中心とする、被造物を喜ばせるための教えに代わってしまった。

福音とは、人間の指導者が、信徒の弱みにつけこみながら、信徒を搾取して生計を成り立たせるための手段でしかなくなり、人間の宗教指導者に栄光を帰する手段となり、信仰は、被造物を喜ばせるこの世的な祝福や恵みを引き出す手段とみなされ、信仰生活の目的は、自分たちだけが、どれだけ多くの恵みを獲得して、他の信徒の及ばない特権階級としてハッピーな生活を送れるかにあるとさえ考えられるようになったのである。

聖書の御言葉が骨抜きにされ、キリスト教が、父なる神ではなく、被造物を喜ばせる教えへと変えられているのである。

これはもうキリスト教ではない。それは明らかに被造物崇拝という、キリスト教とは異なるグノーシス主義的な偶像崇拝の教えである。

そこで、人がこのような偽りの只中に身を置き、目に見える人間を拝み、自分の欲望を満たすために、神を求め、信仰を手段として利用しているうちは、その信者の内に本当に神が住んで下さり、ご自分を現して下さることは決してない。

彼らが哀れみ、救済しようとしている対象は、神が十字架において、廃棄することを決定された古き人間であり、彼らが拝んでいるものは、キリストの十字架の死を経ていない、旧創造としての目に見える人間なのである。

このような教えは、根本から十字架に逆らう偽りであるから、これと分離・訣別しないことには、結局、そういう教えを信じている人々は、最終的には、金閣寺の主人公と同じような結末を辿るしかなくなる。

神殿とは、神を祀るための場所であり、俗世とは完全に区別された聖なる領域であって、ただ神のためだけにもうけられた特別な場所である。

ところが、クリスチャンを名乗っている信者らが、誰を神としているのかも分からない生活を送り、己が欲望を満たすためだけに信仰生活を送り、目に見える宗教指導者を誉め讃えていれば、一体、そんな人々を、誰が神殿と認められようか。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

「あの者ども」は、被造物を神として拝んでいるすべての人々のことを指す。それはキリスト教の神を知らないがゆえに、この世の様々な誤った思想のとりことなって生きている世人のことではなく、まさにキリスト教を知っていながら、神の御言葉を曲げて、それを被造物中心、人間中心の教えへと歪め、虚偽の福音を宣べ伝えている偽善者たちのことを指すのである。

残念ながら、今日、数々のキリスト教会で教えられているのは、このように転倒した教えであり、クリスチャンを名乗っている人々の大半は、そうした偽りの教えを信じる人々である。

これを行き過ぎた悲観であるとは思わないでもらいたい。なぜなら、聖書ははっきりと以下のように予告しているからだ。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「だれも健全な教えを聞こうとしない」時代がすでに来ているのである。

もはや9割以上の”クリスチャン”を名乗る人々が、グノーシス主義に汚染された被造物中心の教えを拝し、神を信じると言いながら、自分自身の欲望を拝んでいると言って過言ではない。

そのような人々は、自分に都合の良い話を述べてくれる教師たちをてんでんばらばらに担ぎ上げては、その指導者を偶像として足元に群がっているが、聖書は、クリスチャンがキリストに従う上で、いかなる目に見える「教師たち」からも教えを受ける必要はないと述べている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26-27)

御言葉がこのように、御霊に聞くよう教えているのに、目に見える人間から教えを受けることが必要不可欠であるかのように説く教えは、まさに聖書をさかさまにした偽りであり、その根本には、被造物を神として崇めるグノーシス主義があればこそ、そういう結果が出るのである。

今日、キリスト教界を名乗っているところでは、例外なく、御言葉を取り継ぐ教師を名乗る「牧師」が存在するのも、同じ理由からである。

牧師制度とはグノーシス主義的なヒエラルキーを教会に持ち込んだものであり、宗教指導者を神として目に見える人間い栄光を帰し、信徒への搾取を肯定する霊的階級制度なのである。

そのような制度を敷く教会では、信徒は目に見える人間である牧師を介することなく、信仰生活を送ることはできず、このようなシステムの中にいる限り、信徒がキリストの御霊から直接真理を教わって生きることは無理である。

だからこそ、そのような忌むべき場所からは、エクソダスせねばならないのである。

こうした教会にいる信者たちは、どんなに熱心に教えを乞うているつもりであっても、被造物を神として拝むことによっては、決して誰も神の国に入ることはできない。そこで、彼らは、自分たちは神を信じていると言いながら、ますます神から遠く「疎外」され、不自然で異様な生き方に転落していく。

そして、自分たちの罪を覆い隠すために、神に忠実に生きている兄弟姉妹や、本物のエクレシアである神の教会を攻撃したり、最後まで、自分が誤っているという事実から逃避し続けるために、自決のような形で自ら世を去るか、もしくは集団自殺を遂げるか、あるいは病や、精神的弱さや、罪や、それまでさんざん彼らが「哀れまれるべき弱さ」であるとして振りかざし、美化し、誇り、甘やかして来た自分のわがままのツケを支払わされて、罪に問われたり、刑罰を科されたり、病に飲み込まれたりしながら、自滅の道を辿るしかないのである。

キリスト教とは、十字架の死をキリストだけに押しつけて、人間だけはこれを元手に恵みに満ちたハッピーな生活を送れば良いというお手軽な教えではない。むろん、それは人間が苦行にいそしむことで「自らの十字架を負う」という教えでもないが、主と共なる十字架における霊的な死を受け入れた人々だけが、神の定めた滅びの刑罰を免れることができるわけであるから、アダムの命を愛し、天然の自己を愛し、己が欲望を神とする人々が、キリストだけにすべての苦しみと恥を押しつけたつもりいなって、自分は十字架における霊的死を免れられたかのように錯覚できるのは、ほんの一瞬でしかない。十字架を逃れたと思っていると、彼らにはその代わりに、現実の滅びが襲いかかるだけなのである。

もう一度書いておこう。イエスは言われた。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

また、パウロも言った。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)


主につまずかないために

 イエスは言われた、 「私につまずかない者は幸いです」と(マタイ11:6)。この言葉を思う時、私は厳粛な思いにさせられる。私たちは一体、信仰生活を送る上で、何に最もつまずかされているだろうか? 聖書的な知識の欠如? 未熟なクリスチャンたちの冷たい態度? 日曜礼拝の味気ない説教? 教会組織の不本意なあり方? それとも、私たち自身の自己中心や不完全さ?

 答えは、そのどれでもない! イエスが言われたことは、真理そのものが、私たちがつまずく最大原因となるということなのである。他のどんなものよりも、イエスご自身が、私たちのつまずきの源となるのである。イエスという岩の上に落ちる人は、粉みじんに砕かれ、またその岩が落ちかかっていけば、人を粉みじんに打ち砕く、という御言葉の意味がそこにある(ルカ20:18)。

 イエスにつまずく。この言葉は、自分をクリスチャンだと思っている人々には、厳しいものとなるだろう。何しろ、私たちが最も愛していると思っている主に、他ならぬ私たちがつまずくのだ。つまずくということは、主から顔を背け、主を見捨てることと同じである。イエスが十字架にかかられる前に、弟子達が主を拒んで散り散りに散ったように、私たちも、思いを頑なにして、主から離れるときが来る、ということをイエスは予告されたのである。
 以下、色を変えてある部分は、ジェシー・ペン-ルイス著、「つまずかない者は幸いです」からの引用。

「その時、イエスは彼らに言われた、『あなたがたはみな、私につまずくであろう』。」(マタイによる福音書26章31節)

「ペテロは答えて言った、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』。弟子たちもみな同じように言った。」(マタイによる福音書26章33、35節)

 主がこの世に来られた目的が成就される時が近づいたとき、彼はご自分の小さな群れにむかって、「あなたがたは、私につまずくであろう」と言われました。主は彼ら以上に、彼らのことをご存知でした。主の言葉は彼らの激しい抗議を引き起こしましたが、後に、「彼らはみな、彼を見捨てて、逃げ去った」と聖書は記しています。

 十字架のつまずきは、まだやんだわけではありません!昔、主に身近な者たちが主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです!

 「脱穀」が始まった時、私たちは試みに耐え、私たちの信仰の告白を揺らぐことなく堅く保ったかもしれません。私たちは、主が選んで遣わされた僕たちを通して、主の幻を見、主の御声を聞いたかもしれません。私たちは、彼の真理の鋭い刃を喜んで受け入れ、神の力強い御手の下にへりくだったかもしれません。私たちは、彼の御言葉を自分の心に秘め、彼に従ってその道を歩む時、「つまずかなかった」かもしれません。

 これがすべて真実だったとしても、主の十字架の真の交わりが身近に迫るとき、あの晩、ペテロが裁きの間で主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです。

 「私につまずかない者は誰でも、幸いです」は、特に今日のためのメッセージです。私たちは厳しい時代に生きており、多くの人は、主の再来が近づいていることを、内側深くで感じています。


 私にも、今までの人生で、何度も、主を捨てて立ち去った瞬間があった。それが、私が真理につまずいた瞬間だった。つまずきの瞬間は、暴露の瞬間である。人の心の中で、何が至高の価値であるかが、その瞬間に、暴露される。イエスを信じていると言いながら、真理以外のもの(=セルフ)を大切にしているならば、その人はその決定的瞬間に、必ず、真理なるお方を見捨てる。そして、光を捨てた報いとして、暗闇がやって来て、平安のない、混乱に満ちた人生が始まるのである。

 キリストのからだの生ける肢体たちは、火によってためされつつあります。すべて「火に耐える」ものは、「火の中を通され」つつあります(民数記31章23節)。

 一つの力が、(主を)告白する教会の中で働いており、主と真に結合されている者たちを、神と小羊へと分離しつつあります。

 十字架への招きが試金石です。十字架の道が試金石です。キリストは、「自分の十字架を負って、私について来ない者は、私にふさわしくありません」と何度も言っておられます。

 私たちの中で、小羊に従い、「つまずかない」人々は誰でしょう?

 主ご自身が、「私の名を告白する者の多くは、終わりの時代に『つまずく』であろう」と予告されました。

 「私の名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を欺くでしょう。また、あなたがたは、戦争、飢饉、疫病のうわさを聞くでしょう。・・・また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。・・・その時、多くの人がつまずき、互いに裏切ります。」(マタイによる福音書24章5~10節を見よ)

 時がたつにつれて、「十字架のつまずき」はますます激しくなるでしょう。この世は、キリストのからだの生ける肢体たちに、ますます激しく敵対するようになるでしょう。十字架を拒絶し、主の身代わりの死による救いの知らせを拒絶し、主に従って主の犠牲の道を歩むことへの召しを拒絶する人々は、十字架に栄光を帰し、十字架につけられたイエス・キリスト以外に人々の間で何も知らない人々を、ますます激しく拒絶し、憎むようになるでしょう。その時、「多くの人がつまずき」ます。しかし、悲しみの始まりの時代に、神と兄弟に「つまずかない者は誰でも、幸いです」。

 恐らく、今はつまずきの最も激しい時代なのであろう。キリスト教界の中で、何と多くのクリスチャンを自称する人々が、真理に、十字架につまずいていることだろう。十字架にあるはずのまことの命を否定し、互いに裏切り、告発し合って、果てしない罪定めのし合いという、泥仕合で信仰生活を終えてしまっている人々がどれほどいることだろう。悲しいことである。十字架がすでに全ての争いに対する和解の生贄を提供しているというのに、それを受け入れることができずに、司法の場に改めて和解を求めている人々がいるのだ。

 また、被害者のカウンセリング、各種の心のケア、リハビリテーション、などの心理学的方法論をさまざまな教会が公然と取り入れ、カウンセラーや牧師の手腕を堂々と誇って、世に宣伝し、まことのカウンセラーたる聖霊を強引に押しのけ、影に隠していることも、つまずきである。人知による方法論を誇り、十字架による復活の命を、人の目に触れないところに隠してしまっている人々も、十字架につまずいている。

 その他にも、生活の安穏を大切にしすぎるあまり、日々の十字架を負うことを拒んでいるクリスチャンがいる。自分たちの築いてきた組織形態に固執するあまり、他のクリスチャンを否定する人々もいる。合計するならば、おびただしい数のクリスチャンが、今日もキリストにつまずいていると言えるだろう。そして真理につまずいたクリスチャンが、まことのクリスチャンを攻撃し、迫害するという構図が続いているのである。

 私もかつては同じように無知なクリスチャンであり、死んでいた者だった。しかし、今は内なる人が変えられることによって、無知と誤謬から救われた。それはひとえに、私の努力や知識によるのでなく、ただ御霊の啓示によったのである。

 人に真理を啓示する力を持っているのは、聖霊だけである。その御霊を抜きにして、人が神の思いを知り、それに従うことは不可能である。過ちを犯した後の真摯な後悔や、自己反省や、カウンセリングとリハビリが人を救うのではない。

 「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずかないためです。」(ヨハネによる福音書16章1節)

 主は、私たち自身と、私たちの弱さ、失敗、罪を啓示される時、必ず、私たちの必要を満たす神聖な備えについても知らせて下さいます。

 主は晩餐の席上、「今晩、あなたがたはみな、私のゆえにつまずきます」と言われました。しかし、主と弟子たちが別れる前に――主は十字架と苦難に、弟子たちは恥と悲しみに向かう前に――、主は弟子たちに神聖な秘密を解き明かされました。弟子たちは、その神聖な秘密によって、主が自分たちから取り去られても、また、取り残されて、主の御名を負い、彼のゆえにすべての人から憎まれる(ヨハネによる福音書15章18節) ようになっても、「つまずかない」でいることができました。

 主は弟子たちに、短く次のものを約束されました。
  • 慰め主なる聖霊の賜物
  • 復活された主の現れ
  • 父なる神を知る知識

 「私は父にお願いしましょう。そうすれば、彼は別の慰め主をあなたがたにお与えになります。」(ヨハネによる福音書14章16節)

 「私は(あなたがたに)私自身を現します。」(ヨハネによる福音書14章18~21節)

 「私の父は彼を愛され、私たちは彼の所へ行って、彼と共に私たちの住まいを造ります。」(ヨハネによる福音書14章20~23節)
 
 慰め主なる聖霊は、キリストに関する事柄を弟子たちにとって実際とし、彼らにキリストの心を伝えます。また、彼らにキリストのいのちを分け与え、彼らをキリストの平安と喜びで満たします。  内住する慰め主によって慰められている人は、「つまずき」ません!

  弟子たちが聖霊の慰めの中を歩むなら、復活されたキリストはご自身を彼らに現されます。そして彼らは、共に栄光にあずかる者となるために、喜んでキリストの苦難にあずかる者とされます。

 復活された主と親密に交わる人は、「つまずき」ません!

 弟子たちが啓示されたキリストの御旨に絶対的に従順に歩むなら、主は彼らにはっきりと御父について語られます。そして彼らは、聖霊によって、御子を通して、御父を内住する方として知るようになります。

 御父を知ることを学んだ人は、「つまずき」ません!

 「私につまずかない人は誰でも」、父なる神、子なる神、聖霊なる神の祝福によって、「祝福されて」います。

 
 真に御霊によって歩くことを学んだ人は、もはや真理につまずかない。キリストの復活の命によって生き、御父のご計画を、御霊によって理解し、命なるキリストのご性質を自分自身のものとして保ち、父と子と聖霊との一致の中に完全に引き入れられている人には、決して、十字架につまずくということは起こらない。
 さらに、そのような人の歩みは、徐々に洗練されたものとなっていき、他のクリスチャンををつまずかせることがなく、彼らの信仰を成長させるような歩みとなるだろう。

(ただし、これはあくまで、真に神の霊によって生まれた兄弟姉妹のことを指すのであって、イエスに従って歩まない偽兄弟は含まれない。滅びゆく人々にとっては、真理そのものがつまずきの源であるから、そのような定めにある人々は、真理に従うクリスチャンにも、必ずや、つまずくだろう。そういう意味では、真のクリスチャンは、イエスがそうであられたのと同じように、世人にとっては、常につまずきの石である。しかし、滅びに定められた人々が真理につまずくことは、私たちの責任ではない。私たちが注意を払うべきは、同じ御父から生まれた兄弟姉妹たちをつまずかせることがないように、ということである。)


 メッセージを終える前に、この今の邪悪な世に生きていながらつまずかない人々の特徴について、簡単に注目することにしましょう。

 彼らは「純真で、非難されるところのない者」です(ピリピ人への手紙1章9、10節)。なぜなら、彼らは深い謙遜と愛の中で、「務めがそしられないために、どんなことにも、つまずきの機会を与えない」ように努めるからです(コリント人への第二の手紙6章3節)。

 彼らは、知恵を持たない人々に対して、知恵によって接します。それは、「彼らをつまずかせないために」(マタイによる福音書17章27節)、主が知恵によって行動されたのと同じです。

 彼らは他の人々のために、合法的なものでさえも喜んで犠牲にします。それは、人々が「つまずいたり、・・・弱められる」ことがないためです(ローマ人への手紙14章21節)。

 彼らは、自分の生活を対処する時、自分を「つまずかせる」ものを(マタイによる福音書18章8、9節)、すべて断固として捨て去ります。なぜなら彼らは、主が次のように言われたことを知っているからです。

「この世はつまずきがあるから、災いです!つまずきが来ることは避けられません。しかし、つまずきをもたらす者は災いです。」(マタイによる福音書18章7節)

 十字架の要求につまずく者は、他の人々が歩む道の「つまずき」、あるいは「つまずきの石」になります。

 「つまずきが来ることは避けられません」。これは貧しい世にとって、何と悲しい言葉でしょう!この世はつまずきがあるから、災いです。不幸なことに、世は、神に似つかわしくない子供たちのために、神に背を向けているのです。

 クリスチャンを自称しながら、十字架の赦しにも、和解にも見向きもしようとせず、己を義人と考えて高ぶり、他人を容赦なく罪に定め、その結果として、互いに殺し合ったり、法廷で裁き合ったりしているクリスチャンを見れば、世が彼らにつまずくのは当然であろう。そのようにして、十字架に背を向けたクリスチャンが、クリスチャン全体の名折れになってしまっていることは言うまでもない。

 しかし、つまずきをもたらさないとは、それ以上のことである。私たちがたとえ十字架を拒んでいなくとも、うっかりした言動によって、信仰に入ったばかりのクリスチャンに誤解を与えたり、つまずきとなることは、できる限り、避けなければならない。この点で、自分にはすでに十分な思慮が与えられているので、誰のつまずきともならず、神に知恵を願い求める必要もないと断言できるような人は、一人でもいるだろうか?

 私は自分がこの点で軽率であり、知恵と知識に欠けていることを思わざるを得ない。しかし、兄弟姉妹たちの信仰に配慮するために必要な知恵を、願い求めるならば、御父は必ず与えて下さるだろうと信じる。


 神は私たちに恵みを与えて、つまずかない者にして下さいます。そして、つまずきをもたらす者たちの災いから、私たちを救って下さいます。

 「あなた(あなたの御旨)を愛する者たちは、大いなる平和を持ち、何ものも彼らをつまずかせることはありません。」(詩篇119篇165節)

 神を愛する愛の中には、大いなる平和があり、その平和が、まことのクリスチャンを一切の争いから救い、調和のうちに一つにしてくれる。自分の未熟さを知りつつ、畏れを持って、キリストの完全さを切に追い求めていくならば、御霊の与える知恵が、私たちの愚かさと無配慮に対する美しい覆いとなってくれ、私たちが主の戒めからはみ出すことのないように、歩みを健やかに守ってくれるだろう。それは私たち自身にとっても、蜜のように甘く、金よりも貴い、麗しい知恵である。

 「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。<…>
 主を畏れる道は清らかで、
 とこしえに絶えることがなく、
 主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
 また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。
 これらを守れば、大いなる報いがある。」(詩篇19:7-11)