忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


主につまずかないために

 イエスは言われた、 「私につまずかない者は幸いです」と(マタイ11:6)。この言葉を思う時、私は厳粛な思いにさせられる。私たちは一体、信仰生活を送る上で、何に最もつまずかされているだろうか? 聖書的な知識の欠如? 未熟なクリスチャンたちの冷たい態度? 日曜礼拝の味気ない説教? 教会組織の不本意なあり方? それとも、私たち自身の自己中心や不完全さ?

 答えは、そのどれでもない! イエスが言われたことは、真理そのものが、私たちがつまずく最大原因となるということなのである。他のどんなものよりも、イエスご自身が、私たちのつまずきの源となるのである。イエスという岩の上に落ちる人は、粉みじんに砕かれ、またその岩が落ちかかっていけば、人を粉みじんに打ち砕く、という御言葉の意味がそこにある(ルカ20:18)。

 イエスにつまずく。この言葉は、自分をクリスチャンだと思っている人々には、厳しいものとなるだろう。何しろ、私たちが最も愛していると思っている主に、他ならぬ私たちがつまずくのだ。つまずくということは、主から顔を背け、主を見捨てることと同じである。イエスが十字架にかかられる前に、弟子達が主を拒んで散り散りに散ったように、私たちも、思いを頑なにして、主から離れるときが来る、ということをイエスは予告されたのである。
 以下、色を変えてある部分は、ジェシー・ペン-ルイス著、「つまずかない者は幸いです」からの引用。

「その時、イエスは彼らに言われた、『あなたがたはみな、私につまずくであろう』。」(マタイによる福音書26章31節)

「ペテロは答えて言った、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』。弟子たちもみな同じように言った。」(マタイによる福音書26章33、35節)

 主がこの世に来られた目的が成就される時が近づいたとき、彼はご自分の小さな群れにむかって、「あなたがたは、私につまずくであろう」と言われました。主は彼ら以上に、彼らのことをご存知でした。主の言葉は彼らの激しい抗議を引き起こしましたが、後に、「彼らはみな、彼を見捨てて、逃げ去った」と聖書は記しています。

 十字架のつまずきは、まだやんだわけではありません!昔、主に身近な者たちが主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです!

 「脱穀」が始まった時、私たちは試みに耐え、私たちの信仰の告白を揺らぐことなく堅く保ったかもしれません。私たちは、主が選んで遣わされた僕たちを通して、主の幻を見、主の御声を聞いたかもしれません。私たちは、彼の真理の鋭い刃を喜んで受け入れ、神の力強い御手の下にへりくだったかもしれません。私たちは、彼の御言葉を自分の心に秘め、彼に従ってその道を歩む時、「つまずかなかった」かもしれません。

 これがすべて真実だったとしても、主の十字架の真の交わりが身近に迫るとき、あの晩、ペテロが裁きの間で主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです。

 「私につまずかない者は誰でも、幸いです」は、特に今日のためのメッセージです。私たちは厳しい時代に生きており、多くの人は、主の再来が近づいていることを、内側深くで感じています。


 私にも、今までの人生で、何度も、主を捨てて立ち去った瞬間があった。それが、私が真理につまずいた瞬間だった。つまずきの瞬間は、暴露の瞬間である。人の心の中で、何が至高の価値であるかが、その瞬間に、暴露される。イエスを信じていると言いながら、真理以外のもの(=セルフ)を大切にしているならば、その人はその決定的瞬間に、必ず、真理なるお方を見捨てる。そして、光を捨てた報いとして、暗闇がやって来て、平安のない、混乱に満ちた人生が始まるのである。

 キリストのからだの生ける肢体たちは、火によってためされつつあります。すべて「火に耐える」ものは、「火の中を通され」つつあります(民数記31章23節)。

 一つの力が、(主を)告白する教会の中で働いており、主と真に結合されている者たちを、神と小羊へと分離しつつあります。

 十字架への招きが試金石です。十字架の道が試金石です。キリストは、「自分の十字架を負って、私について来ない者は、私にふさわしくありません」と何度も言っておられます。

 私たちの中で、小羊に従い、「つまずかない」人々は誰でしょう?

 主ご自身が、「私の名を告白する者の多くは、終わりの時代に『つまずく』であろう」と予告されました。

 「私の名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を欺くでしょう。また、あなたがたは、戦争、飢饉、疫病のうわさを聞くでしょう。・・・また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。・・・その時、多くの人がつまずき、互いに裏切ります。」(マタイによる福音書24章5~10節を見よ)

 時がたつにつれて、「十字架のつまずき」はますます激しくなるでしょう。この世は、キリストのからだの生ける肢体たちに、ますます激しく敵対するようになるでしょう。十字架を拒絶し、主の身代わりの死による救いの知らせを拒絶し、主に従って主の犠牲の道を歩むことへの召しを拒絶する人々は、十字架に栄光を帰し、十字架につけられたイエス・キリスト以外に人々の間で何も知らない人々を、ますます激しく拒絶し、憎むようになるでしょう。その時、「多くの人がつまずき」ます。しかし、悲しみの始まりの時代に、神と兄弟に「つまずかない者は誰でも、幸いです」。

 恐らく、今はつまずきの最も激しい時代なのであろう。キリスト教界の中で、何と多くのクリスチャンを自称する人々が、真理に、十字架につまずいていることだろう。十字架にあるはずのまことの命を否定し、互いに裏切り、告発し合って、果てしない罪定めのし合いという、泥仕合で信仰生活を終えてしまっている人々がどれほどいることだろう。悲しいことである。十字架がすでに全ての争いに対する和解の生贄を提供しているというのに、それを受け入れることができずに、司法の場に改めて和解を求めている人々がいるのだ。

 また、被害者のカウンセリング、各種の心のケア、リハビリテーション、などの心理学的方法論をさまざまな教会が公然と取り入れ、カウンセラーや牧師の手腕を堂々と誇って、世に宣伝し、まことのカウンセラーたる聖霊を強引に押しのけ、影に隠していることも、つまずきである。人知による方法論を誇り、十字架による復活の命を、人の目に触れないところに隠してしまっている人々も、十字架につまずいている。

 その他にも、生活の安穏を大切にしすぎるあまり、日々の十字架を負うことを拒んでいるクリスチャンがいる。自分たちの築いてきた組織形態に固執するあまり、他のクリスチャンを否定する人々もいる。合計するならば、おびただしい数のクリスチャンが、今日もキリストにつまずいていると言えるだろう。そして真理につまずいたクリスチャンが、まことのクリスチャンを攻撃し、迫害するという構図が続いているのである。

 私もかつては同じように無知なクリスチャンであり、死んでいた者だった。しかし、今は内なる人が変えられることによって、無知と誤謬から救われた。それはひとえに、私の努力や知識によるのでなく、ただ御霊の啓示によったのである。

 人に真理を啓示する力を持っているのは、聖霊だけである。その御霊を抜きにして、人が神の思いを知り、それに従うことは不可能である。過ちを犯した後の真摯な後悔や、自己反省や、カウンセリングとリハビリが人を救うのではない。

 「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずかないためです。」(ヨハネによる福音書16章1節)

 主は、私たち自身と、私たちの弱さ、失敗、罪を啓示される時、必ず、私たちの必要を満たす神聖な備えについても知らせて下さいます。

 主は晩餐の席上、「今晩、あなたがたはみな、私のゆえにつまずきます」と言われました。しかし、主と弟子たちが別れる前に――主は十字架と苦難に、弟子たちは恥と悲しみに向かう前に――、主は弟子たちに神聖な秘密を解き明かされました。弟子たちは、その神聖な秘密によって、主が自分たちから取り去られても、また、取り残されて、主の御名を負い、彼のゆえにすべての人から憎まれる(ヨハネによる福音書15章18節) ようになっても、「つまずかない」でいることができました。

 主は弟子たちに、短く次のものを約束されました。
  • 慰め主なる聖霊の賜物
  • 復活された主の現れ
  • 父なる神を知る知識

 「私は父にお願いしましょう。そうすれば、彼は別の慰め主をあなたがたにお与えになります。」(ヨハネによる福音書14章16節)

 「私は(あなたがたに)私自身を現します。」(ヨハネによる福音書14章18~21節)

 「私の父は彼を愛され、私たちは彼の所へ行って、彼と共に私たちの住まいを造ります。」(ヨハネによる福音書14章20~23節)
 
 慰め主なる聖霊は、キリストに関する事柄を弟子たちにとって実際とし、彼らにキリストの心を伝えます。また、彼らにキリストのいのちを分け与え、彼らをキリストの平安と喜びで満たします。  内住する慰め主によって慰められている人は、「つまずき」ません!

  弟子たちが聖霊の慰めの中を歩むなら、復活されたキリストはご自身を彼らに現されます。そして彼らは、共に栄光にあずかる者となるために、喜んでキリストの苦難にあずかる者とされます。

 復活された主と親密に交わる人は、「つまずき」ません!

 弟子たちが啓示されたキリストの御旨に絶対的に従順に歩むなら、主は彼らにはっきりと御父について語られます。そして彼らは、聖霊によって、御子を通して、御父を内住する方として知るようになります。

 御父を知ることを学んだ人は、「つまずき」ません!

 「私につまずかない人は誰でも」、父なる神、子なる神、聖霊なる神の祝福によって、「祝福されて」います。

 
 真に御霊によって歩くことを学んだ人は、もはや真理につまずかない。キリストの復活の命によって生き、御父のご計画を、御霊によって理解し、命なるキリストのご性質を自分自身のものとして保ち、父と子と聖霊との一致の中に完全に引き入れられている人には、決して、十字架につまずくということは起こらない。
 さらに、そのような人の歩みは、徐々に洗練されたものとなっていき、他のクリスチャンををつまずかせることがなく、彼らの信仰を成長させるような歩みとなるだろう。

(ただし、これはあくまで、真に神の霊によって生まれた兄弟姉妹のことを指すのであって、イエスに従って歩まない偽兄弟は含まれない。滅びゆく人々にとっては、真理そのものがつまずきの源であるから、そのような定めにある人々は、真理に従うクリスチャンにも、必ずや、つまずくだろう。そういう意味では、真のクリスチャンは、イエスがそうであられたのと同じように、世人にとっては、常につまずきの石である。しかし、滅びに定められた人々が真理につまずくことは、私たちの責任ではない。私たちが注意を払うべきは、同じ御父から生まれた兄弟姉妹たちをつまずかせることがないように、ということである。)


 メッセージを終える前に、この今の邪悪な世に生きていながらつまずかない人々の特徴について、簡単に注目することにしましょう。

 彼らは「純真で、非難されるところのない者」です(ピリピ人への手紙1章9、10節)。なぜなら、彼らは深い謙遜と愛の中で、「務めがそしられないために、どんなことにも、つまずきの機会を与えない」ように努めるからです(コリント人への第二の手紙6章3節)。

 彼らは、知恵を持たない人々に対して、知恵によって接します。それは、「彼らをつまずかせないために」(マタイによる福音書17章27節)、主が知恵によって行動されたのと同じです。

 彼らは他の人々のために、合法的なものでさえも喜んで犠牲にします。それは、人々が「つまずいたり、・・・弱められる」ことがないためです(ローマ人への手紙14章21節)。

 彼らは、自分の生活を対処する時、自分を「つまずかせる」ものを(マタイによる福音書18章8、9節)、すべて断固として捨て去ります。なぜなら彼らは、主が次のように言われたことを知っているからです。

「この世はつまずきがあるから、災いです!つまずきが来ることは避けられません。しかし、つまずきをもたらす者は災いです。」(マタイによる福音書18章7節)

 十字架の要求につまずく者は、他の人々が歩む道の「つまずき」、あるいは「つまずきの石」になります。

 「つまずきが来ることは避けられません」。これは貧しい世にとって、何と悲しい言葉でしょう!この世はつまずきがあるから、災いです。不幸なことに、世は、神に似つかわしくない子供たちのために、神に背を向けているのです。

 クリスチャンを自称しながら、十字架の赦しにも、和解にも見向きもしようとせず、己を義人と考えて高ぶり、他人を容赦なく罪に定め、その結果として、互いに殺し合ったり、法廷で裁き合ったりしているクリスチャンを見れば、世が彼らにつまずくのは当然であろう。そのようにして、十字架に背を向けたクリスチャンが、クリスチャン全体の名折れになってしまっていることは言うまでもない。

 しかし、つまずきをもたらさないとは、それ以上のことである。私たちがたとえ十字架を拒んでいなくとも、うっかりした言動によって、信仰に入ったばかりのクリスチャンに誤解を与えたり、つまずきとなることは、できる限り、避けなければならない。この点で、自分にはすでに十分な思慮が与えられているので、誰のつまずきともならず、神に知恵を願い求める必要もないと断言できるような人は、一人でもいるだろうか?

 私は自分がこの点で軽率であり、知恵と知識に欠けていることを思わざるを得ない。しかし、兄弟姉妹たちの信仰に配慮するために必要な知恵を、願い求めるならば、御父は必ず与えて下さるだろうと信じる。


 神は私たちに恵みを与えて、つまずかない者にして下さいます。そして、つまずきをもたらす者たちの災いから、私たちを救って下さいます。

 「あなた(あなたの御旨)を愛する者たちは、大いなる平和を持ち、何ものも彼らをつまずかせることはありません。」(詩篇119篇165節)

 神を愛する愛の中には、大いなる平和があり、その平和が、まことのクリスチャンを一切の争いから救い、調和のうちに一つにしてくれる。自分の未熟さを知りつつ、畏れを持って、キリストの完全さを切に追い求めていくならば、御霊の与える知恵が、私たちの愚かさと無配慮に対する美しい覆いとなってくれ、私たちが主の戒めからはみ出すことのないように、歩みを健やかに守ってくれるだろう。それは私たち自身にとっても、蜜のように甘く、金よりも貴い、麗しい知恵である。

 「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。<…>
 主を畏れる道は清らかで、
 とこしえに絶えることがなく、
 主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
 また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。
 これらを守れば、大いなる報いがある。」(詩篇19:7-11)

 

PR