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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(3)わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

短い短い休息のひと時であった・・・。

不思議なことだ。人間的な判断と、霊的な判断はしばしば大きく食い違う。判決言い渡しと共に解放感を覚えていたのは、筆者のあくまで人間としての感情、知性、判断であった。

心の深いところで、筆者の霊的な判断は、戦いがこんな中途半端なところで終わるはずがないし、終わってはならないことを的確に知って、大いなる拒否反応を起こしていたのではないかと見られる。

そこで、判決言い渡しの前日から引きずっていた風邪は、新たな一歩を踏み出すまでの間、日に日に悪くなる一方であった。
   
しかしながら、今週初めが来るまで、判決言い渡しと共に、事件は終了したものと考えていた筆者は、早くも事件の後処理をすべく、民事部にいくつかの書類作成を依頼し、事件ファイルの閲覧を申し出た。そこには、訴訟費用の計算という目的も含まれていた。

訴訟費用の計算は面倒で時間がかかる上、そこには弁護士費用などの大がかりな費用も含まれておらず、さほどの利益が見込まれないためか、裁判に勝っても、訴訟費用の確定をする人は非常に少ないという。だが、一応、ひと通りの手続きを学ぶ必要があるし、できることは時間のある間にきちんとやっておきたいと思った。

だが、筆者が晴れ晴れとした顔で記録閲覧を頼んだのとは対照的に、書記官はいささか顔を曇らせていたように見えた。

「訴訟費用の計算をしたいんですが」
「まだ送達が完了してませんし、判決の確定まで待った方が?」
「今の時点で見ておいた方がいいんで。後になると面倒なんでしょう」
「今はまだ記録の整理中で。しかも、控訴があるかも知れませんよ?」
「ないですよ」
「分かりませんよ、まだ」
「そんなのないですってば・・・」
 
筆者は、これまで書記官が常に裁判官の判断に忠実に従って動いて来たのを知っていたので、まさか書記官が控訴によって、裁判官の下した判決が覆されることを望んでいるわけでないことは理解していた。だとすれば、何が書記官の心にひっかかっているのだろうと、腑に落ちないものを感じた。
  
しかも、筆者は控訴を無意味なものとして一審判決を確定させるべく、早々に書記官に様々な書類作成を依頼していた。(これは被告が控訴しても全くと言って良いほどに利益がないようにするための措置である。)
  
ところが、4月1日に被告村上の出したブログ記事ですべての状況が変わり、思いもかけないことに、原告側から控訴を考える事態となった。その事情を電話で詳しく告げてから、再度、記録閲覧を申し出ると、書記官の表情が曇り後晴れになっていた。

もう一度記録閲覧に出向くと、再び緊張モードに入った筆者とは裏腹に、今度は書記官が晴れ晴れとした表情をしていた。そして、気前よく大量のファイルを出して来てくれた。

ちなみに、訴訟費用などは、実際に、全く微々たるものでしかないが、このようにほんのごくわずかな費用であっても、負債は負債に違いないと言える。従って、筆者は、このような負債が、たとえどんなにごくわずかであろうと、神の子供たちに負担として生じることは、絶対にあり得ないことだと理解している。

(なぜなら、キリストは私たちにとって不利な債務証書を、すべて十字架で破り捨てられたのであるから、私たちには債務というものが存在しないためである。)

そういう意味で、筆者は裁判官の判断に異議を唱えるつもりはないが、一審の判決は、霊的観点から見れば、必ず覆されることが前提とされているような内容だったと言える。

さらに、どういうわけか知らないが、筆者は訴えを出すときに、訴訟費用の負担を、仮執行の範囲から外した。なぜそうしたのか、今になっては理由がよく分からないが、そうしたことにより、実際に、現時点で、不法行為に問われなかった村上の訴訟費用の負担が、判決確定前に筆者にかかって来ることは決してないという結果が出ているのである。

従って、現時点で、筆者にはいかなる「債務」もない。こうしたことは、まさに神の知恵であるとしか言いようのないことである。従って、それにも関わらず、筆者が訴訟費用の計算をしているのは、いずれこれを被告ら(後の被控訴人ら)に請求するための備えである。
  
さて、控訴状を事件係に持って行ったとき、早速、訂正があると告げられ、見栄えにこだわりたかった筆者が、まだ日にちはあるので書き直すと言ったところ、係がいつになく断固たる表情で首を横に振った。

「いいえ、一か所くらいの訂正なら、今ここで訂正した方がいいです。とにかく早く出した方がいいですから・・・。これで十分にきれいですよ」
   
何だか抗いようのない口調であったので、筆者はそれに従うことにした。筆者は別にその日でなくても良いと考えていたのだが、付与された番号を見ると、まさにこの日のために特別に用意されていたような数字の並びで、天には今日でなくてはならない何かの事情があったのだろうという気がした。
 
その後、分厚いファィルに埋もれて、記録の閲覧謄写をした。筆者は書類の山に埋もれると、自分のことなど何もかも忘れてしまうたちで、朝からずっと様々な書類を作り続けて、その時まで、ほとんど何も食べていなかったことに気づいた。それに加えて風邪が追い討ちをかけた。
 
本当は判決言い渡し後、せめて一週間くらいは、ゆっくり休まなければならない。記録の閲覧など後回しである。だが、こういう事件の場合、そうも言っていられず、事件の記録を一つ一つめくっていると、様々な思いが込み上げて来て、思っていた時間をあっという間に過ぎ、5時前に急かされるようにして庁舎の外に出た。

車に乗り込んだ時、突然、ふとこの事件を担当してくれた裁判官の気配を、まざまざとそば近くに感じたような気がした。それはちょうどまるで筆者の目の間に、事件ファイルを持った裁判官が現れたかのようで、人間の常識を超えて、何か切迫したメッセージを伝えられたような気がした。

実におかしな出来事であった。裁判官は異動して横浜地裁にはいないはずであり、もちろん、筆者が記録閲覧したことも知るはずがなく、今ここで起きていることに関心を寄せる理由があるとも思えないが、一体、何かが起きたのだろうか・・・と筆者はいぶかしく思った。

理由は帰宅してから分かったような気がした。村上密のブログに、まさに筆者が裁判所を出る直前の時間に、早くも筆者が控訴したというニュースが投稿されていたのだ。
 
村上密が筆者の行動を、筆者自身よりも早く報道しているとは、驚き呆れることであった。しかも、彼が「完全勝訴」と書いた同日の夕方、3時から5時にかけて、裁判所の業務時間が終了するまでに残されたわずかな時間の筆者の動きを、これほど正確に知って素早く報道しているとは、実に奇妙かつ不気味なことである。
   
まさにジョージ・オーウェルの世界を彷彿とさせる出来事である。双方向のテレスクリーンには、「祖国を捨てた人民の敵ビオロン、本日夕刻、ビッグ・ブラザーを控訴!!」などという文字が踊り、テレスクリーンには、その他にも連日のように、筆者を人民の敵として告発するニュースが新たに流されている。まるでエマニュエル・ゴールドスタインさながらの扱いを受けている気分だ。

筆者が約10年前に、ビッグ・ブラザーの支配するあの国を、秘密警察の暗躍する全体主義国と呼び、そこから国外亡命を遂げてからというもの、筆者はあの国では、まさに祖国を捨てたゴールドスタインさながらの狂人・罪人として扱われているのだ・・・。

なぜ杉本ブログに賠償が命じられて後、また、掲示板が大々的に刑事告訴の対象とされて後、村上が自らのブログで、当ブログ執筆者の実名を公表したり、当ブログを名指しで非難する記事を次々と書き始めたのか、そこに、筆者の言う「全体主義国」の有様を、読者は伺い知ることができよう。

一審では、村上―杉本の共謀関係は立証されていないが、筆者はこのような結果となることを前々から予測していた。つまり、杉本による権利侵害は、杉本が独自の判断により、単独でなしたことでは決してない――というのが筆者の以前からの推測なのである。もしそうでなければ、村上は、杉本が自らのブログで筆者を批判できなくなったことを皮切りに、今度は自分のブログで筆者を批判し始めることは決してなかったであろう。

二人はメール文通も書証として提出して来ているが、その内容は、二人が完全に気脈を通じていると言えるものであり、さらに、杉本に賠償が命じられても、村上は決してそのことを報道しない。このことか分かるのは、つまり、村上には、杉本がしたことが許しがたい人権侵害であるという認識が今もって欠けているということである。

そして、杉本が果たせなくなった役割を担うために、村上はずっと何年も前から当ブログに掲載されていた記事について、今になって自らのブログで批判を展開し始めたのである。(だが、村上が書いている控訴以外に関する記事については、おそらく刑事事件等の捜査が進み次第、筆者の主張の裏づけとして、証拠を提示しながら書いて行くことになろう。)
 
さて、話を戻せば、おそらく裁判所の関係者ならば、事件番号が付与された時点で、リアルタイムで控訴の情報を把握することは可能であろう。

だから、裁判官も(村上の記事はさておき)、控訴のことを知っていておかしくないと思われるが、書記官の態度を見る限り、裁判官にも、きっとこの控訴が、判決内容を不服としての控訴でないことくらいは、十分に理解してもらえるだろうと思う。むろん、二審の裁判官にもそれが分かるように、理由書をきちんと作成する予定である。

裁判官には、法的根拠に基づいた判決しか出せない。そこにはいささかの情も込めるわけにはいかないし、事実と異なる事柄や、推測に過ぎない事柄も書けない。しかしながら、彼らにも人間的な感情はあって、それは必ずしも、法的な解釈に沿うものとは限らないのだ。

しかも、一審でこの事件を担当してくれた裁判官と書記官の二人は、筆者が口頭弁論の際に、被告杉本・村上の双方から、提訴・反訴・控訴の脅しを受け、被告杉本からは徹底的な誹謗中傷を受け、どれほど二人から見下され、蔑まれ、踏みにじられていたかを、実際に、その目で見て知っている生き証人のような人々である。

さらにもっと言えば、被告杉本は、一信徒に過ぎない筆者を、宗教指導者と呼び、まるで筆者が魔女か何かででもあるかのように形容した書面を提出して来た。杉本が提出した準備書面は、杉本が公表したブログに輪をかけて、筆者に対する恐ろしいほどの誹謗中傷に満ちており、こうした常軌を逸した内容の書面は、裁判所の関係者の目に触れたのである。
 
裁判官も、書記官も、裁判所の権威を守る側に立っているので、誰かが判決に異議を唱えることを自分から望んだりはしない。むろん、争いが長引くことを望んだりもしない。それでも、筆者は、この人たちに限らず、筆者を取り巻く、雲のような無数の証人たちから、「ヴィオロンさん、あなたはもう戦いが終わったと喜んでいるようですけど、本当にそれで満足なんですか。本当にこれがあなたの心から納得できる答えなんですか。これがあなたが命をかけてまで、立証しようとした内容なんですか。あなたは自分が目的達成できたなんて、本当に思っているのじゃないでしょうね。あなたは安全になったわけでなく、依然として、立ち向かうべき危機の最中にあるのに、まさか本当にこのような結果で、満足して立ち止まってしまうつもりじゃありませんよね・・・」と迫られていたような気がしてならない。

被告杉本からの控訴はあり得ないと、筆者は今も判断しているが(なぜなら、村上が完全勝訴したと宣言しているものを、杉本が控訴すれば、かえって敵に判決を覆すチャンスを与えることになるからである)、そのこととは別に、筆者自身が戦うことをやめて立ち止まってしまうことに対し、無言の警告が投げかけられていたように思う。

ここで立ち止まることは、妥協であって、偽りの平和への安住であって、それを選べば、たとえ被告から控訴がなされなくとも、あなたは遅かれ早かれいずれ死へ向かうだけだと。

だが、そのことは、誰よりも筆者自身が霊の内でよく分かっていたと言えよう。筆者は人間的な判断としては、この成果で十分だと考え、それ以上、争いを続行する理由もなかったので、ひとまず戦いは終わったと喜んでいたが、その心情とは逆に、日に日に具合が悪くなって行ったことが、人間的な観点から見る事実と、霊的事実がいかに異なるかをよく示している。

筆者がようやく食べ物をまともに口にできるようになったのは、控訴状を出し、さらに刑事告訴の具体的な相談を警察と始めてからのことであった。

今では被控訴人となった村上密の内心が、まずはブログを通じて、余すところなくぶちまけられるのを待つのみである。まずは隠れていた事柄が明るみに出されなければならないためである。
 
筆者は、この道は、筆者が考えているよりもはるかに長く、ずっとずっと先まで続いていることを思い知らされている。人間的な休息は、霊的停滞をしか意味しないのかも知れない。
 
こうして、筆者はお世話になった民事部を後にして、人生で初めて得たまずまずの判決をも後にして、さらに遠くへ歩いて行こうとしている。たった一人で、どこまで歩いて行かねばならないのかも分からないが、待ち受けている何もかもが、見知らぬ世界なわけではない。

いずれにしても、すべては天の采配である。ここで立ち止まってはいけないのだと、筆者は警告されている。塩が塩気を失えば、誰がそんなものに注意を払うだろう。心から望む通りの目標に達するまで、代価を払うことをやめてはいけない。もっともっと深く井戸を掘りなさい。もっともっと高く、遠くまで歩いて行きなさい。リスクを取って自分の十字架を負い、日々、主と共に戦い抜いて、勝利と解放を勝ち取る姿あってこそ、人々からも、真の意味での理解や尊敬を勝ち得ることができるのだ・・・。
 
どうして女性が一人で戦わなければならないのか。筆者はこの深い井戸から何を汲み上げようとしているのか。筆者が争いのために争いを起こしているわけでないことは、今後の一連の記事の中でも、説明して行かねばならないし、きっとそれは可能だろう。

というよりも、筆者は己が利益のためにここに立っているわけではないのだから、この仕事を貫徹するのは、筆者だけでなく、神のなさる仕事であると考えている。これは主との共同作業である。そうである以上、この先は、もっと多くの気負いを手放して行かなくてはならない。そうでなくては、各種の重荷を負いつつ、軽快な足取りで先に進んで行くことはできないだろう。

ここではっきりと断っておきたい。二審で出る結果は、筆者からいかなる負債をも将来に渡ってまで完全に取り除くものとなるであろうと。たとえ数千円に満たない被告1名の訴訟費用であろうと、残らずそれらは取り除かれる。

今、筆者がせねばならない仕事は、この事件に限らず、目には見えないが、うず高く筆者の机の上に積み上げられた悲痛な嘆願書を、次から次へと処理することだ。これが筆者の「お仕事」なのだと、今は非常によく分かる。週末も、作成せねばならない書類が山積みだ。

かつてできるだけ見栄えの良い履歴書を作成しては、何とかして人々に良い印象を与え、誰かから出来合いの仕事を与えてもらおうと奔走していた頃は、こんな仕事が存在することに、心を留めたこともなかった。

誰からも振り返られず、打ち捨てられていた、目に見えない訴えを取り上げ、それを悪魔と暗闇の勢力を打ち破るために、大いなる武器として行使する。誰も述べなかった新しい言葉を述べて、社会をよりよく変える起爆剤とするために、戦いの武器として行使する。これは心から意義があると言える敬服すべき有益な仕事だ。

そういう仕事が、一つ着手すると、次から次へと入って来る。そして、どういうわけか、戦い続行するために必要な材料も、自然と向こうから集まって来る。

今、筆者が「干潟」にとどまって掘り起こしているこの「仕事」には、はかりしれないほど深い意義がある。そうである以上、その仕事を果たすための前提は、神が整えて下さるであろう。そもそもそれがなければ、筆者は第一審の判決にたどり着くことさえ不可能だったのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

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生ける水の川々

「おおよそ人を頼みとし 肉なる者を自分の腕とし、
 その心が主を離れている人は、のろわれる。
 彼は荒野に育つ小さい木のように、
 何も良いことの来るのを見ない。
 荒野の、干上がった所に住み、
 人の住まない塩地にいる。

 おおよそ主にたより、
 主を頼みとする人はさいわいである。
 彼は水のほとりに植えた木のようで、
 その根を川にのばし、
 暑さにあっても恐れることはない。
 その葉は常に青く、
 ひでりの年にも憂えることなく、
 絶えず実を結ぶ。」(エレミヤ17:5-8)

「『わたしは産ませる者なのに
 胎をとざすであろうか』と
 あなたの神は言われる。

『すべてエルサレムを愛する者よ、
 彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。
 すべて彼女のために悲しむ者よ、
 彼女と共に喜び楽しめ。
 あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから
 乳を吸って飽くことができ、
 またその豊かな栄えから
 飲んで楽しむことができるからだ』。」(イザヤ66:9-11)


 オースチン-スパークスの「生ける水の川々」から

 「主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。
『その人から生ける水の川々が流れ出るようになる』。これが彼の願いです。

 どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。
 『国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である』と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。」

 聖霊降臨の起こったその日、聖霊である生ける水の川々が信徒に上から豊かに注がれた。その時、信徒はそれまでのように、自らの知識によってイエスを理解しようと努力する必要がなくなり、ただ御霊の教えてくれる通りに、父なる神と御子イエスを、そして主の貴い十字架の意味を理解するようになった。

 私にこのことが起こった時(それは聖霊派の言うペンテコステ体験のことではない、十字架における復活を経た後のことである)、福音の本質が驚くほど単純であることに目が開かれた。その単純さはどこから来ていたかというと、「すべては主によってすでに終わった(完成された)」というところにあった。
 この世や、私たち人間に必要な全てのことは、すでにイエスが完成された。イエスの地上での生涯と、十字架における死と、復活と、天に昇られ、御座につくことを通して、すべては成就したのだ。サタンの最後でさえも、すでに定められている。だから、私たちにはもう努力してなすべきことは何も残っていない。ただ御霊の導きに従って、地上で定められた道を歩む他には。

 そのことが分かった時に、これは本当に楽だと思った。すでに道は敷かれており、私たちはそこを安息のうちに楽しみながら歩いて行けばよいと言われているだけなのだ。聖書の字義的解釈がどうとか、神学がどうとか、終末がどうの、再臨がどうの、ハルマゲドンがどうのと言って騒いでいる人たちは一体、何をやっているのだろうか、と、その時、私は思った。1000人教会とか、5000人教会とか、リバイバルだとか言っている人たちは、何をやっているのだろうか。
 すべてはもう完成されている。人間側からの努力は一切必要ないというのに…。目的地は私たちが定めるのではなく、もうすでに定まっている。それははかりしれない神の栄光を表す永遠の都である。それに比べ、もしも1000人教会が私たちの目指すべき目標なのだとしたら、それは何という味気ない目標だろうか。

 福音を理解するのに、高度な学問的知識や、読みきれないほどの分厚い注解書は要らない。教えてくれるのは御霊だからである。漁師だったペテロなど、無学な者たちがイエスに招かれていったことには、何の不思議もない。聖書を解釈しようとして、学者たちによって書かれた膨大な量の文書のほとんどは、きっと、無駄な知識で終わってしまっていることだろう。そこには人間的な意味での知識はあるかも知れないが、どれほどの学識を積んだ人であっても、聖霊によらなければ、聖書が何を意味しているのか正しく理解することはできないのだ。

 ナビゲーターのような存在である御霊は、私の中にインプラントされてすぐに、御言葉の意味を教え、そして歩むべき道を教えてくれるようになった。だが、それで聖霊の働きは全てなのかと言えば、そうではない。

 神の御心は、私たち一人ひとりの信徒が、ただ永遠の命を受け取っただけに終わらず、このまことの命なる聖霊を、私たちの内から、生ける水の川々として豊かに溢れさせ、流すことにある。
 だが、それを一体、どうやって成し遂げればよいのか? そこで頭を抱えて悩む必要はない。それもまた主がなして下さることだからだ。神には一人ひとりの信徒に対する深いご計画があり、私たちが召し出された者である限り、そのご計画は変わらない。私たちの存在を通して、命の水がほとばしるように周囲に流れ出すことは、神の御心である。だから、私たちがそうなりたいと切に願っている限り、それが成就せずに終わってしまうようなことはない。もしそんなことが起こるなら、私たちの存在は誰にとって、何の役に立つだろう?

 塩はその味を失っては、何の役にも立たない。エクレシアがエクレシアとしての存在意味を失うならば、それは誰からも用のないものとして捨てられるだけだろう。そんなことは決して起こらない。主はそんなむなしいことのために、十字架というはかりしれない代価を払って、私たちを贖い出されたのではないからだ。私たちの命には、イエスの十字架の値段がついている。主がそれほどの代価を払って、私たちを買い戻されたのだ。だから私たちはもはや自分自身のものでなくなり、主のものとされている。僕は主人に何と言うべきか。「僕は聞きます、主よ、お語りください。」 それで十分である。僕が主人に代わってあれこれ悩み、命令を考える必要はない。進むべき道は主人が教えてくれる。

 生ける水の川々を豊かに流し出す管となるために、まず、必要なのは、私たちが日々、十字架における自己の死(大小さまざまな形でやって来る)を通して、自分がこれまで立ちふさがってきた水路を聖霊に譲り、御霊が自由に流れる広い水路を開くことである。

 次に、生ける水の川々を豊かに流れさせるためには、「神の宮」の中に、つまり、エクレシアの中にとどまっている必要がある。私たちは個人としてすでにエクレシアを形成しているが、より広い意味でのエクレシア、つまり、兄弟姉妹たちとの愛による一致の中にとどまる必要がある。

「川は第一に十字架と関係しています。十字架は道を開き続け、水路を深め、広げます。
次に、川は宮と関係しています。なぜなら、この経綸時代だけでなくあらゆる時代において、神の御旨のすべては『神の宮』という名が示すもの――教会――と関係しているからです。教会は『永遠の時の前』に神が計画した素晴らしい神の傑作です。偉大な聖霊経験を持ちたいのなら、この実に偉大なものの中にいる必要があります。 」

 エクレシアの一致とは、主にあっての兄弟姉妹たちと、恵みを分かち合い、豊かに与え合い、喜んで仕え合う関係である。エクレシアにおける兄弟姉妹関係は、キリストが弟子達にそうされたように、限りない恵みと祝福を互いに与える関係である。エクレシアには、互いを限りなく愛し、互いのためにわが身を喜んで差し出して奉仕する、キリストのご性質がそのまま体現される。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)であり、私たちが御霊の導きに素直に身を委ね、御心の通りに生きたいと心から願う時、それらの実は、ことごとく、私たちの努力によらず、主によって、私たちの人生に結実するだろう。

 生ける水の川々には豊かな恵みの現れが伴う。その川々の水量が豊かになり、エクレシアの隅々にまでびっしりと流れて恵みを漏れなく行き届け、(果てはエクレシアの外にさえ流れゆく)に連れて、エクレシアの一致はますます強固なものとなり、そこから分裂や党派や妬み、陰口などが一切、自然消滅していくことだろう。御霊の命が溢れるほどに流れるようになるに連れて、私たちの内からも、肉的な性質の残滓がますます消えていくだろう。
 この途方もない計画は、私たちの努力によって築き上げるものではなく、主自らがなそうとしておられることである。だから、私たちはその成就を信じて、主のご計画に身を委ねたい。

「親愛なる友よ、もしあなたがイエス・キリストの召しと神の恵みに応じてきたのなら、何か途方もないもの、何か巨大なもの、何か抗えないものに捕らえられていることを、先に進むにしたがって知るようになるでしょう。それがどのようなものなのかを描写しようとする時、エゼキエル書は見事に私たちを助けてくれます。覚えておられるでしょうが、川はその幅と深さを増しながら、宮の敷居の下から発し、祭壇の横を流れ、聖なる敷地全体を通り、国土を流れ下りました。

この預言者が告げるところによると、幻の中で一人の人が彼を川に連れて行き、次に川の中に連れて行きました。最初、川はかかとの深さでした。それから、川が膝の深さになるまで、さらに腿の深さになるまで、彼は導かれました。そして、『泳げるほどの水』になりました。最後の描写は、『渡ることのできない川』(エゼキエル47:1-5)です。

 これは素晴らしいです!これが神の恵みの川だとすると、それはあなたや私の理解・能力を超えたものであり、自分たちの貧弱な限られた容量内には収まらないものです。どんなに必要が大きくても、この川は私たちを超えています。この川は常に私たちを超えています。あなたはもうこのことを悟っておられるでしょうか?私は悟りつつあります。あなたは自分自身に絶望し、『もはや神の恵みも自分を助けることはできない』と思ったことはないでしょうか?しかし、この川が完全に自分を超えていることをあなたは知ります。あなたはこの恵みの川に抵抗することができません。前に述べたように、もし恵みの呼び声に応じるなら、それが何か途方もないものであることをあなたは発見するでしょう。恵みの川は時の前に遡り、時の後にも進み続けます。それは永遠と同じく広大無辺です。」
 

 


生ける水と死せる水

「…アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、『まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。<…>』
主は言われた、『もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう』。」(創世記18:22-26)

「町の人々はエリシャに言った、『見られるとおり、この町の場所は良いが 水が悪いので、この地は流産を起こすのです』。エリシャは言った、『新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい』。彼らは持ってきた。エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、『主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。」(列王記下2:19-22)


 私たちは今日、神の御前に正しく歩む聖徒たちの存在が、全世界の被造物に対して、どれほど大きな影響を与えているかについて、ほとんど知らない。多くのクリスチャンは(私も含めて)、サタンの捕囚とされて生きることにあまりにも慣れ過ぎてしまっているため、私たちの内におられる御霊、キリストの存在をあまりにも過小評価し、自分の存在に重大な意義があるとは少しも思わず、私たちの祈りが世界に影響を与えうるとはほとんど信じていない。

 だが、冒頭にあげた、ソドムの街の滅びについてのアブラハムと主との問答を通して、私たちが確かに知ることができるのは、神の御前に正しく歩む聖徒たちの存在が、神の大いなる憐れみを引き出すきっかけとなること、聖徒たちの存在の有無によって、堕落しきった一つの町の滅びの運命さえ、食い止められる場合があるということである。
 主はアブラハムへの答えを通して示された、たった10人の義人の存在でも、主にとっては、ソドムの滅亡を撤回するのに十分であることを。(ソドムの全人口がどれくらいだったのか、分からないが…。)

 だから、今日にも同じことが言えよう、私たちが自覚しようとすまいと、この日本に住んで、真実な心で主を崇める聖徒たちの存在は、この国に対する神の大いなる憐れみや、恵みを引き出すきっかけになり得るのであり、その意味でも、エクレシアの存在意義は、私たちが思っているよりもはるかに重大なのである。

 だが、エクレシアの存在意義を語る前に、まず、人と被造物とのかかわりについて、別の側面から述べておきたい。たった10人程度の義人の存在によって、ソドム全体の破滅が阻止されえたとすれば、逆のことも言える。たった1人の人間の悪事が、全世界を滅ぼすきっかけとなることがあるのだと。
 アダムの堕落がそれである。

 話がいきなり飛ぶようで申し訳ないが、かつてソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原発事故の悲惨な影響は、まだ終わっていないし、忘れられてはいない。人類発の社会主義国がもたらした人類史上最も劣悪な原発事故は、ソビエト連邦の威信を揺るがし、崩壊を早める大きな要因の一つとなったとも言われている。
 放射能の汚染は、実に何百年という単位でしか取り除かれないものであり、今日になっても、チェルノブイリ原発の脅威はなくなったとは言えないどころか、むしろ以下に述べるように、私たちは新たな危険に直面している。

 私はかつてウクライナのチェルノブイリ記念館を訪れたことがあるが、そこで受けた重苦しい、窒息するような印象を今になっても忘れることはできない。薄暗い広間の壁に、「人民の英雄」とされたリクヴィダートルたちの遺影がぼんやり照らし出されていたが、ソビエト体制によって与えられた表彰状や、記念館などは、彼らの恐ろしい死という事実の前に、何の意味もなかった。

 1986年4月に起きた原発事故の後、リクヴィダートル(汚染除去作業員)と呼ばれる男たちが、当局によって集められた。まだ若い男性がほとんどであった。彼らは原発の4号炉の壊れた壁を、人海戦術によって、コンクリートでふさぐために集められたのだ。このコンクリートで造られたシェルターは、「石棺」(саркофаг サルカファーク)と呼ばれている。
 集められた労働者は、ただ事故があったという他には、何も知らされていない人たちであった。放射能の汚染は目に見えず、耳にも聞こえない。専門知識のない一般人が、この前代未聞の事故の恐ろしさを理解できるはずもなかった。だから、作業員の男たちは、ただ指示に従って、いつものように、薄い防護服一枚で、言われるがままに、作業を完遂したのである。

 その後、彼らは次々と病に倒れた。それは普通の病気ではなかった。彼らの家族全員も、悲劇に巻き込まれた。だんだん、人の形をなさなくなる夫を前に、妻たちはなすすべもなかった。夫がまだ生きているうちに、せめて子供だけでも残せないかと努力した妻もあった。だが、生まれた子供は、人の形をなさず、生きられなかった。何も知らないまま被爆したリクヴィダートルの汚染は、子孫にまで受け継がれ、妻たちも、夫への接触によって被爆した。

 今日、チェルノブイリの「石棺」の劣化、崩壊が懸念されている。今もじわじわと汚染が続いているが、もしも原発のコンクリートの壁に亀裂が入れば、そこから再び放射能が大規模に漏れ出すのは必至である。

 「英国放送協会(BBC)によると、事故を起こした原子炉には今なお当時の核分裂性物質が95%も残っており、事故後に応急処置として建設されたコンクリートの覆いの下にとどまっているが、『石棺』とよばれるこのコンクリートの覆いは、風化と老朽化が進んでいるという。」
 2007年11月に書かれたWired Visionの短い記事によれば、この時点では、コンクリートの「石棺」を、新たに鋼鉄製のシェルターで覆うという計画が打ち出されていたようであるが、莫大な資金が必要となり、しかも、4号炉に人が近づいて作業することすら難しい状況で、今、補修工事はどうなっているのだろうか。

 チェルノブイリ(Чернобыль)という町の名前は、「苦よもぎ」 (чернобыльник チェルノブイリニク ウクライナ語ではチェルノブイリ)という植物の名前を起源としている。この名の意味について、時折、聖書に照らし合わせて尋ねてくる人があるが、私も、その名には聖書との一致が含まれていると考えている(ただし、ロシア語の聖書では「苦よもぎ」の翻訳はチェルノブイリではなかったように記憶しているが、ここでは翻訳の字義にとらわれる必要は全くないだろう)。

 チェルノブイリ原発は、人と地の産物に流産と死をしかもたらさない、汚染された、苦々しい水を生み出す源となった。そしてその汚染された水は、ドニェプル河や、その支流を通じて、その地方一帯に伝わっていった。(右の写真は、チェルノブイリ記念館にて、現地のウクライナ人から、放射能汚染が河を通じて地方一帯にどう伝わったか、地図を指し示して、説明を受けた時のこと。)

 ちなみに、ヨハネの黙示録8:10-11にはこう書かれている、第三の御使いがラッパを吹き鳴らすと、たいまつのように燃えている「苦よもぎ」と呼ばれる大きな星が空から落ちてきて、川の三分の一と水源を汚染した、と。
「水の三分の一が『苦よもぎ』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」。

 この黙示録の記述が、いつの時点での出来事を指しているのか、私には分からない(恐らく、未来に起こることのように思われる)。だから、これを直接、チェルノブイリ原発事故と同一視しようとまでは考えない。

 だが、少なくとも、そこに霊的象徴としての一致、共通点が存在していることは確かだろうと私は思う。すなわち、黙示録に示されている「苦い水」とは、チェルノブイリの事故の場合と同様に、何らかの汚染のせいで、流産と死をもたらすようになった「死せる水」なのであり、原因が何であれ、それは、オースチン-スパークスが述べている、旧約聖書に登場するエリコの「死せる水」と、本質的に同じものを指していると解釈できると思う。

「『死せる水』とも呼べる、生きていない水の例が、聖書の中に少なくとも一つあります(列王下2:19-22)。その水にはある要素が欠けていたため、熟する前に実はすべて落ちてしまいました。達すべき目標・目的に達したものは一つもありませんでした。それは死せる水でした!エリコの人々は『ここの水は悪い』と言いました。預言者はその状況を正常化しました。」

 「苦よもぎ」は水源を汚染し、どんなものにも実を結ばせないようにしてしまう。畑には収穫がなく、人には流産と死だけをもたらす。それはあらゆる活動を停滞させる「死せる水」である。何をやっても、実りがない。それは霊的な意味で、汚染された、呪われた、腐敗と死の水である。

 さて、これはチェルノブイリや、エリコという町に限ったことであろうか? 私たちが住んでいるこの世という土地に、関係のない話であろうか?

 私たちは、放射能の脅威についてはいつも大騒ぎする。だが、アダムの堕落が全世界にもたらした汚染が、それよりもはるかにひどいものであったことをしばしば忘れているのではないだろうか。アダムの罪のために、アダムその人のみならず、全世界が被爆したと言っても過言ではない。罪ゆえの堕落という放射能は、今日、私たちが知っている最も恐ろしい放射能の脅威よりも、さらに永続的な脅威として、全地球(宇宙)に残留しており、そのために破壊されたDNAが、父祖アダムから私たちに至るまで、この肉の体を通して伝わっている。それは、何千年という時が立っても、決して、分解されることも、消滅することもない放射能である。
 アダムの堕落によって、全地は永久に呪われ、実を結ばない不毛の土地となり、人には死と流産がもたらされるようになった(創世記3:16,17-18)。

 この全地を覆う堕落、汚染、呪いは、アダムとエバというたった一組の夫婦の誤った選択をきっかけにもたらされた。言い換えるならば、彼らは被造物を正しく管理すべく任されていたのに、管理を誤って、全地に永久に死と呪いをもたらすような、あまりにも大きな爆発汚染事故を起こしてしまったのである。今日、開発されているどんな兵器の威力も、彼らの行為がもたらした結果を前にすると、印象が薄れるとさえ言えるだろう。
 今、たとえ私たちが自覚していなくとも、この世界は、チェルノブイリと比べようのないほどの汚染に見舞われている。原爆投下後の広島、長崎よりも、さらにひどい汚染の中に存続している。もしも最後のアダムなるイエスがこの地に来られなかったならば、人類にはこの汚染のうちに死ぬ他に道はなかった。

 だが、今日、幸いなことに、イエスの命をいただき、召し出されたキリスト者は、イエスにならって、人々を十字架へ導くことによって、罪と死の汚染から救い出す、その手助けをする使命を担っている。その意味で、私たちは、まことのリクヴィダートルとしての任務を与えられているのである。

 チェルノブイリのリクヴィダートルには、悲劇しか待っていなかった。彼らの死を「殉死」や、「偉業」のように美化して考えたい人たちは、私の発言を非難するかも知れないが、現実を見れば、彼らの死が、悲劇であったことは明らかである。リクヴィダートルたちは、まるで騙されるようにして作業にかき集められ、その後わずかな年数しかもたなかった虚偽的なソビエト体制の怠慢と悪事の犠牲となって、虚偽的な「人民の英雄」の称号と引き換えに、望んでもいない非業の死を遂げされられた。しかも、リクヴィダートルは汚染を根絶する使命を完遂することさえできなかった! 彼らがその死と引き換えに遺した「石棺」(何という的確な名前だろうか!)は、人類に救いを与えず、汚染を完璧に食い止めることができなかっただけでなく、今また劣化のゆえに大々的な補修が必要とされているのである。

 幸いなことに、まことのリクヴィダートルとしてのキリスト者は、彼らのような悲劇を味わう必要がない。自分の命を投げ出しながら、不完全な救いしか提供できないということはないからである。私たちは罪と死からの完璧なシェルターが何であるか、完全な汚染除去の方法が何であるかを知っているので、的確にそれを指し示すことができる。キリストの十字架は、劣化したり、何十年か経つと、新たに補修が必要となったりするような、不完全な救いではなく、完全かつ永久の救いであり、人を滅びから救い、まことの命によって生かすために与えられたものである。

 キリスト者はすでにこのまことの命をいただいているので、肉体は、この世にまだ残されているとはいえ、すでに御霊の法則の中に移されて生きている(さらに言うならば、肉体さえも、御霊の法則に多大なる影響を受けて、キリストの命をもらいながら、生かされているのである)。だから、私たちは(原罪を除いて)もはや罪による汚染から解放されており、そのために死を味わう必要がない。

 従って、この世で作業に従事していても、私たちはこの世の汚染に影響を受けて、非業の死を遂げる、という結果に至らずに済むのである。リクヴィダートルのように、人助けのために自分の命を犠牲にする必要がなく、人に二次的、三次的な被爆を与えるということもない。私たちは、罪によって破壊された肉なるDNAではなく、自分の内に、キリストのまことの命のDNAをいただき、それによって生き、永遠へと向かっている。そこで、私たちは人と接触する時に、もはや自らの罪によって人を汚染することなく、身近な人々に不幸をもたらすことなく、子孫代々に至るまで呪いを伝えることなく、むしろ、新しいまことの命によって、人を潤し、生かし、豊かに与え、祝福するキリストの性質を、人々に惜しみなく届ける存在へと変えられているのである。

 キリスト者の使命とは、罪ゆえの汚染、堕落を食い止めるという消極的なものではない。この世の朽ちて行く命ではない、朽ちないまことの命があることを、はっきりと世に示し、その命の性質に他の人々をもあずからせることである。私たちの内から湧き出る、生ける水の川々によって、命を豊かに与えるキリストの性質を表すことが使命なのである。

 苦よもぎが、死せる水を流す川々を作り上げるとすれば、私たちは、生ける水の川々を流す源とされていることを信じたい。エリシャは、エリコの「死せる水」を、主にあって、刷新するために、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」と命じた。
 キリストの十字架によって死に、復活させられた私たちは、新しい器である。内にキリストをいただいている私たちは、地の塩である。
 主は、私たちという器を通して、地の塩であるキリストの性質を、水源に投げ込まれようとしている、それによって、「死せる水」は「生ける水」へと変えられ、罪と死、飢饉と流産は消え、多くの実が結ばれるようになるだろう。アダムの堕落ゆえに不毛となったこの土地で、私たちキリスト者が生きることによって、私たちの腹から、生ける水の川々が放出されて、汚染の代わりに、命の潤いが周囲に伝わっていくのである。

 さて、この先は、エクレシアの使命と、生ける水の川々、キリストの御座とは何か、ということについて考えていこう。