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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。

 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

 のであり、また、
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。

 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(ペトロの手紙一2:1-10)

* * *

まだ8月も終わっていないというのに、蝉の声がめっきり減って、すっかり秋の気配が感じられるようになった。駆け足で冬がやって来ようとしている。あまりに早すぎる時の流れに、困惑を覚えずにいられないほどである。

さて、前回に引き続き、「重荷を跳ね返す」ことの重要性について書くことから始めたい。これは正しくは、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返す、という意味だ。

このテーマを書くに当たり、類似した内容を書いている人が他にいないか探してみたが、見つからなかった。
 
この問題は、注目されていないようだが、キリスト者にとって極めて重要であると筆者は思わずにいられない。

私たちは、日々の十字架として、主から来た重荷を担うべき時がある。その中には、信仰ゆえの試練もあれば、恐怖に打ち勝って前進することが必要な場合もある。

しかし、時に、私たちが負うべきでない重荷が、敵から押しつけられる場合がある。そのとき、私たちは不当な圧迫をもたらす策略を事前に見抜き、その重荷が私たちの手に押しつけられる前に、罠を粉砕して、そこから抜け出すようにしなければならない。

それができないと、人生において長期に渡り、不当な重荷に苦しめられ続けることになる可能性がある。

サタンは責任転嫁の達人である。人をターゲットとして、自己の罪を他人に押しつけ、重荷を押しつけられた人が、あたかもそれを自分のものであるかのように考えて、自らそれを背負い込むよう仕向ける。一旦、背負い込んだら、ますますその荷を重くし、その重荷から二度と抜け出せないように仕向ける。

また、サタンは他人の成果を横取りする達人でもある。私たちが勝ち取った苦労の結果を、まるで我が物であるかのように、栄光をかすめ取ろうとする。

しかしながら、前回、述べた通り、神から来た重荷は、そのような性質のものではない。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

だから、私たちは、一口に重荷と言っても、その中には、神が私たちを成長させるために許されて起きた試練と、人を不当に苦しめ、栄光をかすめ取り、人生を停滞させようとして悪魔がもたらした重荷の2種類が存在することに気づき、後者の重荷については、これを受け取り拒否して、サタンにお返しする方法を学ぶ必要がある。

自分の人生にやって来る様々な困難を、どんなものであっても、すべて神から与えられたものとして受け取っていてはいけない。その出所をきちんと見分け、敵から来たものは、敵に担っていただくのが一番なのである。

* * *

 筆者はこれまで長い間、書類作成の仕事をして来たため、書面を作り上げることはまるで苦にならないと思い、訴訟や、各種の法的手続きのために時間を費やすことを、損と思うこともなく進めて来た。

しかし、そうは言っても、今年は、昨年と違い、審理や各種の手続きのために要する時間を、できるだけ省略する方法を考えなくてはならないと思うようになった。

それは特に、相手方が常に締め切りに遅れ、証拠もない支離滅裂な内容の書面を提出して来るのを見て、このような無意味な主張に、いつまでも膨大な手間暇を割いて反論していてはいけないと思わされたためでもある。

それに、筆者の人生が、訴訟から解放されなければならない必要性があることにもようやく気づいた。

訴訟を提起してからというもの、筆者の人生は、ずっと訴訟を中心として成り立って来た。筆者は、裁判所の仕事に心から敬意を払っているものの、今や審理と同じほど重要な仕事ができた以上、今までのように、準備書面を作成するために、仕事を脇に置くことはできない。仕事だけでなく、自分の人生の時間をきちんと守るため、訴訟に割ける時間を配分しなければならない。

とはいえ、それによって、訴訟において成し遂げなければならない事柄を省略するわけにも行かないため、この先の歩みには、神の助けと知恵が必要である。

それにしても、筆者が新たに選んだ仕事は、本当に、主がこれを与えて下さったのだと思わずにいられない貴重なものである。

そのことは、職場で日々起きてくる様々な難題に、筆者が正しい答えを見つけようと努力しさえすれば、常に問題が解消されて行くことを見ても分かる。
 
時に、働いていると、私たちの仕事の成果を、その本来の意味から全くかけ離れたものへと変えてしまおうとする悪しき圧力がかかることがある。真面目に働く気のない人間が、真面目に働く人たちの努力の成果を、自己の怠慢を覆い隠し、他者の栄光をかすめ取る目的のために、横領するように吸い上げ、利用しようとすることがある。

筆者はこれまでの職場においては、そうした理不尽に、立ち向かう術はないとあきらめていた。

なぜなら、日本の多くの営利企業では、労働の成果が個人に還元されず、集団の成果とされるため、そこでは、働けば働くほど、その者が、働かない者の怠慢をカバーすることになるような理不尽な仕組みがもとから存在するためである。

共産主義社会のようなものである。そこでは、無責任で何もしない人間が、最も軽い荷を負い、高い能力を持ち、責任感も強く、会社の行く末を案じ、周囲に気配りができる、最も誠実な人間が、人一倍、重い荷を負わされることになる。

もっと言えば、1人の優秀な社員の目覚ましい働きに、怠け者の5人の社員がたかり、怠け者が、働き者の仕事の成果をかすめとって自己の怠慢を隠すための集団が、始めから作り上げられていると言っても良い状況がある。そして、働き者は、働かない者の怠慢をカバーするために雇用されると言っても良いほどの仕組みがある。

筆者はそのような労働は、真に社会に役立つことはなく、呪われた罪の連帯責任のように、負債を分かち合うことにしかつながらないと考え、これと訣別すべく、「バビロン体系」を脱したのであった。

その後、筆者が携わっている仕事は、もはや以上のようなものではない。だから、筆者は、他人の労働の成果を我が物としてかすめ取ろうとする人々の不当な干渉が起きたとき、これをきちんと排除し、重荷はこれを考えついた本人に跳ね返すことが可能であることに、ようやく気づいた。

そのようなことが可能となったのも、筆者の行う仕事が、基本的に、筆者自身の裁量に委ねられており、他者からの干渉を受けずに、独立した判断を下すことができるためである。

筆者には、裁判官の仕事にどこかしら似た性質を持つ仕事が与えられたと書いた。裁判官の仕事は、独立しており、合議審を除き、単独審では、一人の裁判官の判断によって判決が下されるし、合議審の場合であっても、裁判官一人一人の判断は、独立しているはずである。

その独立性を保つためにも、裁判官は3年くらいのスパンで全国各地を異動している。地域とのしがらみや癒着が生じて、公平な判断が下せなくなることを阻止するためだという。

筆者がかつて属していた宗教団体の教団でも、同じような制度が存在したと聞かされている。牧師が一つの教会にとどまりつづけると、様々なしがらみが生じるため、それは良くないということで、数年間で、教会を転任するという制度が存在したのである。

ところが、今やその仕組みは崩れ、牧師たちは一つの教会に長年、堂々ととどまるようになり、さらにその息子や娘までが、その教会の跡を継ぐようにまでなった。しかし、裁判官が異動している世の中で、牧師たちが転任を拒む理由は、ないという気がしてならない。
 
わずか3年で全国各地を異動して行くのでは、どこにも定着できない寄留者のような感覚も生じるだろう。家族がいても、単身赴任になることもあろうし、子供たちも、学校を転校するなど、荷を負わなくてはならない。全く新たな見知らぬ土地に行って、その日から、何事もなかったように、日常生活を開始することもできまい。

それでも、あえてそのような制度をもうけることで、市民の訴えに対し、公平性が保たれるよう配慮がなされているのである。
 
筆者は、神から与えられた召しに基づき、信仰によって、この地にやって来たため、果たすべき役割がまだ終わっていないうちに、よその土地に移されることはないであろうと考えている。実際に、筆者自身がよその土地に移ろうと試みたことも何度もあったのだが、その試みはすべて頓挫して終わった。

筆者は、こうして異動こそしていないが、これまで仕事に就くときには、一切、コネを利用せず、常にアウトサイダーとして新たな組織の中に入って来た。
 
その原則は、ずっと前から同じである。どんな時にも、すべてを天に任せ、正攻法で、表玄関を通過して来た。さらに、最近は、複数の応募を同時に行うこともやめて、不実な企業に騙されるリスクがあっても、本命一本だけで勝負するようになった。そこで、勝負の全うさは、以前よりも増し加わっていると言えよう。

筆者の人生の原則は、ただ一つの真実だけを追求するというものであり、それは、神との関係、人との関係だけでなく、あらゆる場所において、貫かねばならない原則であると考える。

そこで、職場を選ぶにも、唯一無二の相思相愛の関係が成立しないような場所に赴く必要はないと考えて、不実な応募はしないことに決めた。相手が不実だから、自分も不実であることが許されると思うのは間違いであって、騙す側に回るくらいならば、騙される側に立つ方がましなのである。

その原則が、間違っていたと証明されたことは一度もない。

そこで、第一審が終わり、筆者が裁判所の近くにとどまり、紛争処理を生きるフィールドに定めようと決意したときにも、当然のごとく、筆者はたった一つの仕事にしか応募しなかった。

しかも、その時、筆者は審理の準備のために、数ヶ月も仕事を辞めていたので、無職となっていた。それまでの筆者ならば、そういう状況で、また新たに就職活動を行わねばならないことを非常に苦痛に思い、不利なスタートとして恐れを感じたであろう。

しかし、筆者にはその時、全く恐れがなかった。それだけでなく、生き方を根本的に変え、目指す方向性を変えようという考えがあったので、それはちょうど良い新たな門出にしか感じられなかった。

さらに、筆者の人生には、財布の中身を決して勘定しないという、もう一つの原則がある。ダビデが王になって人口を数えたことが、罪であると聖書に書いてあるように、筆者は自分の財産を数えないことに決めている。

そこで、いつ何をして働くべきかも、すべて天の采配による。明日のことをあれやこれやと思いめぐらし、懸命に自分の残りの財産を勘定して、損がないように立ち回るなどの計算は全くしない。

だが、歴代の宣教師たちの多くが、そうして自分の生計をすべて主に委ねながら、未開の地に赴き、伝道して来たことを思えば、これは何ら例外的な原則でも、不思議な方法でもない。

神の国とその義を第一にして生きるなら、すべての必要は添えて与えられるのであって、何をして生きるべきか、どうやって日々の糧を得るべきかという問題が、私たちにとって心を悩ませるべき第一義的課題ではないのである。

とはいえ、筆者がバビロン体系の中で生きているうちは、常に嘘や、搾取などといった問題から解放されることはなく、それゆえ、絶えざる困難に悩まされたため、筆者は熟慮の末に、バビロン体系そのものを離れることにした。

そうして、判決を手に新たな任務を探し、新たな場所へ赴き、そこで筆者の裁判を担当してくれた裁判官に、どこかしら似た経歴を持つ上司が、筆者を面接し、その場でただちに内定を受けたのであった。

判決が、まるですべての扉を自動で開けるための鍵のようになって、今までには筆者がどんなに努力をしても、得られることのなかった成果として、新たな進路をもたらしてくれた。

筆者は即日にして、これまでに最長の契約期間を得て、給与の額さえ、自己申告するよう求められた。その上司は、筆者の見栄えのしない履歴書に対し、ディスカウントの言葉を発することは全くなかった。

だが、それでも、筆者はこれを最高の満足とはとらえておらず、すべてはまだ始まったばかりで、この現状で満足してしまっているようでは、前進もないと考えている。さらなる自由、さらなる豊かさを勝ち取るために、進んで行かなくてはならない。

バビロン体系と訣別した以上、筆者の仕事の目的は、もはや自己実現、自己顕示にはない。そういう意味で、この干潟は、筆者にとって休息の場所であり、これまでのように忙しない、生きるためにやむを得ず、馬車馬のごとく働くための「労働」の場所ではない。

筆者は、この干潟のはしくれのような職場にたどり着いてから、一見、頼りなさそうに見える小舟に乗って、そこで船頭の一人のようになって、見張り人の役目を果たしている。舟が危ない岩にぶつかりそうになれば、その都度、警告を発するようにしている。

舟は、筆者の警告を聞き入れて、危険を回避している。こうして、筆者にも、何がしかの役目が与えられ、必要とされていることが分かっているうちは、そこを離れようとは夢にも思わない。

筆者の役目は、自分の労働の成果を誇示して、輝かしい栄達を遂げ、誰かを圧倒することにはない。ちょうど主イエスが、嵐が荒れ狂って、舟に乗った弟子たちが安全確保のために狂奔しているときに、船底で熟睡されていたように、誰からも存在すらも気取られないようなさりげない自然な方法で、舟の安全を守ることにある。

このような働き方は、これまでの筆者の人生にはなかったものである。

労働でありながら、それは安息であって、自分にも、他人にも、安息をもたらす働きである。

他者からの不当な干渉を排除し、自分自身の判断の独立性を保ちながら、自己の望む、真に正しいと信じる事柄を成し遂げるために働く。

徒党を組まず、不誠実な試みには加担せず、独立不羈を貫きながら、それでも、自分一人ではなく、仲間の存在がある。

そのような生き方が成り立つためには、他者と連帯せずに、独立して仕事を進められる自由がなくてはならない。しかも、そこに、仕事そのものが持つ深い意味づけ、筆者の判断が生かされる余地、真実を追求することに価値が見いだされなくてはならない。

さらに職場そのものが、そのような追求に価値を見いだし、これを評価できるところでなくてはならない。

そうした希少な条件が揃った「干潟」が、筆者の人生に出現した。それはまだ完成に至っておらず、本領も発揮しておらず、真の姿には至り着いておらず、船出したばかりであるが、完成体を表す萌芽のようなものが、はっきりと見出され、そこには、筆者と似たような理念、似たような価値観を持つ人々が集まっている。

だから、筆者は彼らと同じ船に乗って、この船の向かう方向性に期待をかけて、そこにとどまっている。おそらくは、一生のつきあいになる可能性もあるのではないかと見ている。

このようなことは、筆者の人生にはこれまで起きたことがなかった。一審で得た判決が、筆者を呪いの言葉から解放し、目に見えない宝を与え、新たな扉を開くための手形のようになってくれたのである。

こうして、筆者の目指す命の川の流れが少しずつ出現している。これはこの先、何年間もかかって完成に至る大型プロジェクトの始まりであって、筆者は地下から大量の生ける水を汲み出すための目に見えない大型パイプラインを建設している最中である。

その生ける水は、筆者が訴訟の最中、裁判所の地下に流れていることを偶然にも発見したものである。訴訟において、筆者は小さな井戸を掘っただけであったが、それだけでも、確かにそこに生ける水が流れていること、これを地上に汲み上げる方法があることが分かった。そこで、筆者は、裁判所の飛び地になっている干潟を探して、これを中継し、地下から地上にこの水を大規模に汲み出すためのパイプラインを作り始めたのである。

もちろん、これは比喩であるとはいえ、比喩とは言い切れない部分がある。判決には人を解放する力があり、人々の切なる訴えが集積している裁判所は、天に向かって人の訴えが届いている場所でもある。人間に過ぎない裁判官も、人々の悲痛な訴えに耳を貸し、自由と解放を与える判決を書くが、神もそれをお聞きになっていることを筆者は疑わない。
 
筆者の抱える訴訟においては、まだ第二審の最初の期日も開かれていないが、筆者の主要な関心は、もはや個人的な係争にはない。警察における手続きも、控訴審の行く末も、筆者の新たな仕事も、やがてはすべてがパズルのピースのように絶妙に組み合わさって、今までになかった新たな形が生まれて来るだろうという気がしている。

今はまだそれがどういう形で起きるのか分からないが、少なくとも筆者は、これまでのように、返済してもしても埋め合わせることのできない負債を返すというむなしい働きのために生きているのではない。ゼロからプラスを構築し、真に正しいと信じられる目的の実現のために働いている。

こうして、干潟に流れるうたかたのように、泥水の中に身を横たえて、上から光を当てられる瞬間をただ待っていただけの、影に過ぎない存在であった筆者が、今や干潟に光を当てて、神秘的作用を自ら引き起こす側に回ろうとしている。

どうしてそんな役目が筆者に回って来たのかは分からない、だが、これはとても光栄な働きであって、何かしら途方もないことが、これから起きようとしていると感じる。筆者はその瞬間に向かって、一人ではなく、他の人々と共に手を携えて進んでいる。

* * *

筆者は10年ほど前、夜行バスに乗って、横浜の街を幾度か訪れた時のことを思う。その頃、この街は、筆者にとって、まさに生ける水が泉となってわき出すために用意された特別な街のようであった。

早朝になって、窓から外の景色を覗くと、窓を開けたわけでもないのに、命の水の流れが、地下だけでなく、地上においても、大気の中に溶け込み、新鮮な空気となって、上から降り注いでいるように感じられた。

駅を歩くだけでも、筆者はこの泉の気配を感じずにいられないほどであった。その頃、筆者は、キリスト者の集会の中に、命の流れの源があるのだと思っていた。兄弟姉妹と共に、手を携えて、これからその泉を地上に流し出す仕事をするのだと考えていた。

その読みは、誤ってはいなかったのかも知れない。だが、その命の流れは、間もなくせき止められ、バリケードで塞がれ、これを受け継ぐ仕事は、筆者にバトンタッチされた。筆者は彼らの舟から失格者のように降ろされたにも関わらず、その仕事は、まさに筆者に受け継がれたのである。

それから何年も経ち、主イエスがスカルの井戸でサマリヤの女に出会われた時のように、筆者は誰も見向きもしないみすぼらしい干潟のほとりで、再び、この泉を発見した。その時、筆者には分かった。生ける命の水の泉を発見する秘訣は、へりくだりにあるのだと。

私たちが、人に捨てられ、誰からも見向きもされず、関心も持たれず、徹底的に侮られ、嘲られ、踏みつけにされ、孤独と、悲しみに暮れて、真のへりくだりに達しないことには、主イエスも、私たちの前に、姿を現すこともできないし、私たちを救うことも、手を差し伸べることもできない。

なぜなら、私たちはあまりにも強すぎて、自信満々で、独りよがりに陥り過ぎていて、常に自己過信し、自己充足し過ぎているためである。その自己過信が取り去られ、自己充足が打ち破られて、私たちが心から本当に主を求めないことには、神でさえ、人をどうすることもできない。

筆者が裁判所から離れたくないと思うのは、いつまでも訴訟にとらわれ、争いを続けたいがためではない。そこで学んだへりくだりから離れたくないためである。自分が最も低くされ、孤独であり、寄る辺なく、助けがなかった時に、神が筆者を見捨てられず、筆者の訴えを取り上げて下さり、筆者を迎える場所を用意し、必要な措置をすべて講じて下さったことの恵みを、片時も忘れたくないためである。

地上の裁判官は、人として束の間、この事件を担当してくれ、一瞬の出会いがあったに過ぎず、地上で筆者が得た判決文の文字も、完全なものであるわけでもない。それゆえ、係争は終わっておらず、判決の約束さえ、未だ完全な実現を見ていない。だが、そんなこととは一切関係なく、神ご自身が、この出来事を通して、筆者の前を通り過ぎて行かれたことを、筆者は忘れたくないし、その感謝に満ちた出来事を、終わらせたいとも、思っていない。

パイプラインの建設が完成に至るためには、おそらくは筆者自身が、第一審が開かれていた時と同じように、絶えず自己を無の立場に置いて、低めることが必要になろう。それは、筆者がただ神にのみ希望を見いだし、自分の何もかもを脇に置いて、この街にやって来た時と同じ心境である。

その頃の筆者は知らなかったが、そのようにして筆者がこの地に招かれたのは、その後、筆者が人の目に偉大な事業を成し遂げるためではなく、その後も、同じへりくだりの中にとどまり続けるためであった。

だから、現在、筆者は、自分が解放されたからと言って、これまで通過して来た大いなる試練を忘れたいとは思わない。最も重要なのは、筆者が解放されたことそれ自体ではなく、筆者を解放しようとして、あらゆる手を尽くしてくれた人々が存在すること、また、彼らの配慮を通して、神の豊かで憐れみに満ちた采配が、今も筆者に降り注いでいることなのである。

だから、筆者は、そのことを心に刻みつけておくために、あえてこの思い出深い場所を離れたくないと考えている。人が苦難の中に、いつまでもとどまり続ける必要は全くないが、人の心の泉は、苦難によって、人の魂に刻みつけられた裂け目から、流れ出す。神に出会うためには、私たち自身が、神と同じほど己を低くすることが必要で、それがなければ、私たちが飽くことなく求めている幸いも、自由も、解放も、決して私たちの人生に真にもたらされることはないのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

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わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。

さて、非常に意義ある一週間を過ごした。相変わらず、裁判所と警察と数多くの書類のやり取りを重ねており、その作業はこれからも続く。だが、控訴理由書を書き上げるために、主が特別に与えて下さった最後の自由時間が終わった。

数ヶ月をかけて書き上げた理由書が、ようやく筆者の手を離れると、主はたちまち新しい進路を筆者のために指し示された。

筆者が書類を自分で運んで行くことに決めて、霞が関駅へ向かっている最中、日比谷線の六本木駅あたりで、電話が鳴った。天はすべてを見ている。いつ筆者の仕事が終わったのか、いつのタイミングで新たな課題を与えるべきか、主はすべてご存じなのである。

こうして、御国への奉仕が一つ終わると、次の新たな仕事が与えられる。筆者は前回の記事で、自分の専門を去り、残る生涯を、見栄えのしない「干潟」としての紛争処理というフィールドにとどまり、この干潟から、可能な限りのエネルギーを汲み出して生きようと決意したと書いた。

これは決して筆者が法廷闘争に生きることを意味しない。裁判所で働こうとしているわけでもない。だが、筆者は、法律家ではない立場から、困っている人たちのために自分の経験を役立て、法律をパートナーに新たな人生を生きようと決意したのである。

かつての専門は、筆者とはついに相思相愛の関係にはならなかった。これは不幸な片想いの道で、このパートナーは、利己的で、横暴で、筆者に幸いを与えることもほとんどなかったが、新たな道連れは、どうやら非常に気前が良く、豊かで、何より正義と真実に溢れており、筆者を守ってくれることができるらしいと分かったのである。

そこで、筆者はこの新しく頼もしい道連れと、常に一緒にいられて、一瞬たりとも離れないで済むように、また、いつでもこのパートナーに頼んで、自分のみならず、他の人々のためにも、必要な命を汲み出すことができる働きをして生きることに決めたのである。

筆者には、まだまだこの「干潟」にとどまってなさねばならない仕事がたくさんある。

そうして、筆者が自分の興味関心ではなく、真に価値ある正しい目的のために、多くの人々を利する目的のために生きようと決意した途端、これまでとはうって変わって、ただちに生きる心配など全く無用な立場に置かれた。日常のために、あれやこれやと心を煩わせる心配もなくなったのである。

さらに、この一年間、筆者が取り組んでいた別の難問も、向こうから筆者を手放し、立ち去って行こうとしている。

筆者はこれらの問題について、どういう解決策を選ぶべきか、自分では分からず、まだまだ取り組む必要があるのかと覚悟を固めていた。しかし、自分だけの思いや判断で、誤った選択をしてしないように、神が願われる事柄が実現するよう、祈り求め、手探りで進んでいたところ、神は「もうよろしい。あなたの任務は終わりました」と言われるように、これらの問題に終止符を打たれたのである。

改めて、主の御心の中心は、当ブログを巡る訴訟――というより、筆者が最後まで、信仰の証しを守り通し、十字架上で約束された復活の命を通して、キリストにある新しい人として生きることを、どのくらい実現できるのか、というテーマにあるように感じられる。それ以外のすべての問題は、些末なものでしかなく、この戦いにおいて最後まで勝利をおさめるためにこそ、すべての時間と資金が采配されていると思わずにいられなかった。

だが、その戦いとは、要するに、筆者自身が、すべての恐れと圧迫に打ち勝って、神が約束された新しい人としての内なる尊厳を完全に取り返すための戦いなのである。

一審判決の前後、筆者に時間的余裕が与えられていたことには、非常に深い意味があった。この時に、ネット上で起きている事柄に注意を払っていなかったならば、当然ながら、控訴のタイミングも逸したであろうし、紛争は中途半端なまま終わっていただろう。

しかし、神はそのようなことが起きないよう、時間的余裕をもうけて下さっていた。その間、ネットで起きていた議論は、すべて控訴理由書の土台となるものであった。その当時に記事にしたためた内容を、正式な書面の形で書き表すために、数ヶ月を要した。

古書として破格の値段で入手した室井忠著『日本宗教の闇 強制棄教との戦いの軌跡』手元に届いたのは、理由書を提出しようとする前日であった。

今回、どうしても訴えねばならなかったのは、カルト被害者救済活動の中心には、こうしたプロテスタントの猛毒の副産物と言うべき強制脱会活動が脈々と流れているということである。

当ブログでは、カルトと反カルトは本質的に同じであって、どちらも牧師制度の悪から出て来るものだということを幾度も書いた。プロテスタントは、カトリックのような聖職者のヒエラルキーと、聖職者による聖書の独占という問題から、信徒を解放したものの、その解放は、牧師制度を残すことによって、不完全に、中途半端に終わっているのであり、今やプロテスタントからの「宗教改革」が必要とされているのである。

プロテスタントが、もはやかつてのような新鮮な御霊の息吹を失って、形骸化した歴史的遺物となり、さらに有害なものにさえなりつつあることが、様々な現象を通して、確認できるのが、今日という時代なのである。

そこで、この度、筆者はプロテスタントそのものを脱出することにした。

筆者のもらった判決は、見えない紅海を渡って、新たな復活の領域に到達するために、なくてはならない「エクソダス」の道を指し示すものであった。
 
数ヶ月前に、筆者は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)」という記事を書き、そこで、バビロン王国を去り、エクレシア王国の住人になったと書いた。

そのエクソダスは、理由書を書き上げている数ヶ月の間にいつの間にか完了していた。

エクレシア王国は、復活の領域であるから、そこに生まれながらの自分自身(セルフ)から出たものは、何一つ持って入ることはできない。

そこで、筆者はバビロン王国を脱出し、エクレシア王国の永住権を得るに当たり、➀プロテスタント、②資本主義、③筆者のかつての専門、この三つを「セルフ」に属するものとして捨てねばならなかった。

さらに、筆者は営利を目的としないエクレシア会社(企業ではないので、エクレシア法人としておこう)に雇用されるに際して、最初の給与は、判決という名の手形として支払われるから、これを現金化する方法を学びなさいと、ただ一人の主人から命じられたと書いた。

筆者は、それはあたかも取立によって債権を回収しなさいという意味であるかのように考えていたが、実はそうではなく、判決は、天の尽きせぬ富を引き出すための手形であり、目に見えない「干潟」から利益を汲み出す方法を知りなさいという命令だったのである。

地上の判決は、被告に対しては、永遠の断絶を言い渡し、天から新たな宝を引き出すための根拠となるものであった。
 
だが、それは死んだ文字だけにとらわれていれば、決して見えて来ない事実であった。

そこで、筆者は、見えない法の世界への招待券に書いてある、目に見えない地図に従って、しかるべき団体に出向いた。すると、そこに実際に、筆者が地上で果たすべきミッションを示す契約の書類が用意されており、それに対する報酬も約束されたのである。

地上の判決には、まだ補うべき点が存在しているが、そこには、それ以上に、もっと深い、尽きせぬ霊的な意味が込められていた。それ自体が、汲んでも汲んでも汲み尽くせない命の泉のような、終わりなき「支払い」を筆者に約束する手形だったのである。

しかも、それは筆者のためだけに命を与えるものではなく、いつの間にか、他の人々に命を分け与えるためにも役立つものとなっており、それが、筆者の新たなミッションとされていたのである。

ただし、その支払いは、純粋に天から来るのであって、地上のものに依存しておらず、地上の被告とは関係がなく、地上の人々に対して行使するものでもなかったのである。

その手形を天に向かって行使することが、天の富を地上に引き下ろす方法であって、これが天のサラリーを「現金化」する方法だと初めて分かったのである。

もしも判決を地上的方法で行使していれば、そこに死んだ文字として書かれたもの以上のものは決して得られない。ところが、筆者が得た天の報いは、使えば尽きてしまうようなものではなく、終わりなき富であり、新たな世界での筆者の身分を保証するものであった。

このようなことをどう表現すれば良いかよく分からない。多分、比喩としてさえほとんど理解されないのではないかと危ぶむ。

筆者はかつて裁判所は家のようなものだと書いた。筆者の目から見ると、そこは正義の実行される場所、真実が何であるかが明らかにされる場所、虐げられて、弱り切った人たちが、ようやく正しい裁きを得て、休息と安堵にたどり着く場所であった。

むろん、これは筆者の理想化に過ぎないと考える人たちは多いだろう。この世には、裁判所に正義など見いだしておらず、むしろ、不当判決ばかりの世界だと考えている人たちもいるかもしれない。

しかし、筆者はそうは見ていなかった。筆者にとって、そこは要塞であり、砦であり、真実と、正しい裁きが生まれて来る場所であり、それが与えられると信じないことには、そもそもそこに助けを求めて近づくわけにもいかなかったのである。

そのような望みを抱いてやって来た筆者の目には、まるで裁判所の地下に、見えない命の泉があって、そこから、人々を生かし、潤す命の流れが、こんこんと湧き出ているようにさえ映った。

ところが、いざ自分が判決をもらってみると、いつの間にか、その泉は、筆者の内側に移行していた。筆者は、「あなたは解放された。自由になって生きなさい」との宣言を受けたが、気づくと、その自由は、筆者自身の内側に書き込まれ、根づき、筆者自身が、与えられた命を持ち運び、これを他の人々に分かち与える存在となっていたのである。

判決を通して、筆者に分与された不思議な命は、筆者が地上の債権を回収しようとむなしい取立を行っている最中も、日々刻々と生長し、いつの間にか、それなりの分量に達して、筆者自身の内側から外へ川のように流れ出して、周囲を潤すものへと変わっていた。
 
それはまだ小さな川なので、気づくか気づかないという程度であろう。だが、それがやがて大きな川となって流れ出す時が来る。それが筆者に地上で与えられた真のミッションなのである。

一体、どういうわけでそういうことが起きたのか知らないが、まるで蝋燭から蝋燭へ火が灯されるように、筆者が飽くことなく求めて来た正しい裁きは、筆者の中に種のように蒔かれ、気づかぬ間に発芽し、他の人たちに向かって、新たな命をもたらす小さな種として伝播するようになっていた・・・。

こうして目に見えない終わりなき命の連鎖が始まった。それは地上におけるいかなる人間関係にもよらない、それを飛び越えた領域で起きる不思議な命の伝授である。
 
そうした立場を得たことで、筆者は内側で、あるべき尊厳を回復し、自分が何者であるかを、よりはっきり自覚するきっかけを得た。筆者は、自分があるべき場所、果たすべき使命に相当に近づいたことを感じている。

人の高貴さは、その人が抱いているミッションの気高さと大いに関係がある。聖書に登場する霊的先人たちはすべて神の解放のみわざに従事し、民を自由に導こうとする主の御旨を体現する人々ばかりであった。ヨセフは幼い頃から、おぼろげながらに自分に与えられた使命の大きさを知っていた。だが、そこへ到達するためには、様々な苦い試練を味わい、徹底的にへりくだらされねばならなかったのである。

それが十字架の道である。すべての先人はその道を通った。だが、へりくだる人に神は恵みを注いで下さり、試練がその人の糧となり、ますます高貴で栄えあるミッションを与えてくれる。その栄光、高貴さは、生まれながらのその人自身から来るものではない。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

「顔の覆い」とは、罪による隔てを意味する。地上の判決は、被告との間に打ち立てられた「永遠の遮蔽の措置」であると書いた。
 
その隔ては、裁判官と原告との間にはない。これは、あたかもまことの裁き主なる神と、贖われた人との関係を指すかのようである。

これらはすべて予表である。

地上における判決は、カルバリの十字架において破り捨てられた私たちの罪の債務証書を予表している。それは悪魔によって、私たちに転嫁されていたあらゆる不当な責め言葉や呪いを断ち切って、これを負うべき者へと投げ返すものである。

カルバリの十字架における宣言を根拠に、私たちは顔の覆いなしに、何の隔てもなく、まことの裁き主である父なる神に、子として近づき、大祭司なる方の恵みの御座に大胆に進み出て、必要なものを何でも願い出ることができる。
 
同時に、「顔の覆いなしに」とは、花嫁のベールアウトの瞬間のようなものである。花嫁の顔を覆っていたベールが取り払われるのは、結婚式のことであり、そこで花婿と花嫁とが初めて「顔と顔を合わせる」。

以上の御言葉は、キリストとエクレシアとが、ついに婚礼によって顔と顔を合わせる、人の贖いの完成の瞬間を指したものである。その時、神と人との間には、すべての隔てが取り除かれる。罪による隔てが、完全に取り除かれる日が来る。こうして、隔てが取り除けられたとき、人は神の栄光を映す存在となり、人は創造の当初、神に似せて造られたその目的と使命を完全に回復する。

人は神の助け手として創造されたのであり、人の役目とは、神が宣言なさることに対し、「アーメン(その通りです)」と答えることにある。第一審判決に対しては、筆者はまだ完全に「その通りです」と言えない部分が残っているがために、それを補うために控訴に及んでいるものの、このことは、あたかも、人の贖いが、地上にあっては、まだすべては完成されていないことを指すかのようである。

私たちには、完全な約束が与えられているが、その贖いの完全な成就は、来るべき世を待たねばならない。

とはいえ、そのことは決して、この地上において、私たちが目的に近付けないことを意味しない。むしろ、逆であり、筆者は、その瞬間へ向かって、一歩一歩、あるべき姿を確かに取り戻している。

ただし、それは純粋に筆者の内なる尊厳の回復であって、外見のことを指すわけではない。筆者の滅びゆく地上の人としての外見は、年々、ますます取るに足りない、見栄えのしないものとなっていくだけであろうが、主の御手の下にへりくだらされた人は、まるで外なる人に反比例するがごとく、内側では、栄光と尊厳がますます増し加わって行く。

その高貴さ、尊厳は、やがて隠しようのない不思議な魅力、権威、力となって、その人の内側から外へ溢れ出し、かつ他の人たちにも分け与えられて行くことであろう。

十字架で一度限り永遠に下された判決は、私たちに一生、必要なものをすべて与え、さらなる自由を、尊厳を取り戻させてくれる。もはや後ろを振り返る必要はない。

第二審は、より完全な贖いの成就を予表するものとなり、キリストにある新しい人の出現を、さらにはっきりと約束してくれるものとなるだろうと筆者は見ている。だが、それと並行して、筆者には、それと同じくらい重要なミッションがあって、今や自分だけではない多くの人たちにも、自由に至るエクソダスの道があることを告げ知らせ、自分に与えられた解放を、他の人々のために役立てたいとの願いがある。

その成果が一定の分量に達したときに、さらに大きなミッションが与えられることになるだろうと筆者は前もって感じている。いずれにせよ、筆者はなさねばならない仕事、新たな課題の只中に置かれたのであり、それを果たせることは、筆者にとってはかりしれない光栄である。


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(3)わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

短い短い休息のひと時であった・・・。

不思議なことだ。人間的な判断と、霊的な判断はしばしば大きく食い違う。判決言い渡しと共に解放感を覚えていたのは、筆者のあくまで人間としての感情、知性、判断であった。

心の深いところで、筆者の霊的な判断は、戦いがこんな中途半端なところで終わるはずがないし、終わってはならないことを的確に知って、大いなる拒否反応を起こしていたのではないかと見られる。

そこで、判決言い渡しの前日から引きずっていた風邪は、新たな一歩を踏み出すまでの間、日に日に悪くなる一方であった。
   
しかしながら、今週初めが来るまで、判決言い渡しと共に、事件は終了したものと考えていた筆者は、早くも事件の後処理をすべく、民事部にいくつかの書類作成を依頼し、事件ファイルの閲覧を申し出た。そこには、訴訟費用の計算という目的も含まれていた。

訴訟費用の計算は面倒で時間がかかる上、そこには弁護士費用などの大がかりな費用も含まれておらず、さほどの利益が見込まれないためか、裁判に勝っても、訴訟費用の確定をする人は非常に少ないという。だが、一応、ひと通りの手続きを学ぶ必要があるし、できることは時間のある間にきちんとやっておきたいと思った。

だが、筆者が晴れ晴れとした顔で記録閲覧を頼んだのとは対照的に、書記官はいささか顔を曇らせていたように見えた。

「訴訟費用の計算をしたいんですが」
「まだ送達が完了してませんし、判決の確定まで待った方が?」
「今の時点で見ておいた方がいいんで。後になると面倒なんでしょう」
「今はまだ記録の整理中で。しかも、控訴があるかも知れませんよ?」
「ないですよ」
「分かりませんよ、まだ」
「そんなのないですってば・・・」
 
筆者は、これまで書記官が常に裁判官の判断に忠実に従って動いて来たのを知っていたので、まさか書記官が控訴によって、裁判官の下した判決が覆されることを望んでいるわけでないことは理解していた。だとすれば、何が書記官の心にひっかかっているのだろうと、腑に落ちないものを感じた。
  
しかも、筆者は控訴を無意味なものとして一審判決を確定させるべく、早々に書記官に様々な書類作成を依頼していた。(これは被告が控訴しても全くと言って良いほどに利益がないようにするための措置である。)
  
ところが、4月1日に被告村上の出したブログ記事ですべての状況が変わり、思いもかけないことに、原告側から控訴を考える事態となった。その事情を電話で詳しく告げてから、再度、記録閲覧を申し出ると、書記官の表情が曇り後晴れになっていた。

もう一度記録閲覧に出向くと、再び緊張モードに入った筆者とは裏腹に、今度は書記官が晴れ晴れとした表情をしていた。そして、気前よく大量のファイルを出して来てくれた。

ちなみに、訴訟費用などは、実際に、全く微々たるものでしかないが、このようにほんのごくわずかな費用であっても、負債は負債に違いないと言える。従って、筆者は、このような負債が、たとえどんなにごくわずかであろうと、神の子供たちに負担として生じることは、絶対にあり得ないことだと理解している。

(なぜなら、キリストは私たちにとって不利な債務証書を、すべて十字架で破り捨てられたのであるから、私たちには債務というものが存在しないためである。)

そういう意味で、筆者は裁判官の判断に異議を唱えるつもりはないが、一審の判決は、霊的観点から見れば、必ず覆されることが前提とされているような内容だったと言える。

さらに、どういうわけか知らないが、筆者は訴えを出すときに、訴訟費用の負担を、仮執行の範囲から外した。なぜそうしたのか、今になっては理由がよく分からないが、そうしたことにより、実際に、現時点で、不法行為に問われなかった村上の訴訟費用の負担が、判決確定前に筆者にかかって来ることは決してないという結果が出ているのである。

従って、現時点で、筆者にはいかなる「債務」もない。こうしたことは、まさに神の知恵であるとしか言いようのないことである。従って、それにも関わらず、筆者が訴訟費用の計算をしているのは、いずれこれを被告ら(後の被控訴人ら)に請求するための備えである。
  
さて、控訴状を事件係に持って行ったとき、早速、訂正があると告げられ、見栄えにこだわりたかった筆者が、まだ日にちはあるので書き直すと言ったところ、係がいつになく断固たる表情で首を横に振った。

「いいえ、一か所くらいの訂正なら、今ここで訂正した方がいいです。とにかく早く出した方がいいですから・・・。これで十分にきれいですよ」
   
何だか抗いようのない口調であったので、筆者はそれに従うことにした。筆者は別にその日でなくても良いと考えていたのだが、付与された番号を見ると、まさにこの日のために特別に用意されていたような数字の並びで、天には今日でなくてはならない何かの事情があったのだろうという気がした。
 
その後、分厚いファィルに埋もれて、記録の閲覧謄写をした。筆者は書類の山に埋もれると、自分のことなど何もかも忘れてしまうたちで、朝からずっと様々な書類を作り続けて、その時まで、ほとんど何も食べていなかったことに気づいた。それに加えて風邪が追い討ちをかけた。
 
本当は判決言い渡し後、せめて一週間くらいは、ゆっくり休まなければならない。記録の閲覧など後回しである。だが、こういう事件の場合、そうも言っていられず、事件の記録を一つ一つめくっていると、様々な思いが込み上げて来て、思っていた時間をあっという間に過ぎ、5時前に急かされるようにして庁舎の外に出た。

車に乗り込んだ時、突然、ふとこの事件を担当してくれた裁判官の気配を、まざまざとそば近くに感じたような気がした。それはちょうどまるで筆者の目の間に、事件ファイルを持った裁判官が現れたかのようで、人間の常識を超えて、何か切迫したメッセージを伝えられたような気がした。

実におかしな出来事であった。裁判官は異動して横浜地裁にはいないはずであり、もちろん、筆者が記録閲覧したことも知るはずがなく、今ここで起きていることに関心を寄せる理由があるとも思えないが、一体、何かが起きたのだろうか・・・と筆者はいぶかしく思った。

理由は帰宅してから分かったような気がした。村上密のブログに、まさに筆者が裁判所を出る直前の時間に、早くも筆者が控訴したというニュースが投稿されていたのだ。
 
村上密が筆者の行動を、筆者自身よりも早く報道しているとは、驚き呆れることであった。しかも、彼が「完全勝訴」と書いた同日の夕方、3時から5時にかけて、裁判所の業務時間が終了するまでに残されたわずかな時間の筆者の動きを、これほど正確に知って素早く報道しているとは、実に奇妙かつ不気味なことである。
   
まさにジョージ・オーウェルの世界を彷彿とさせる出来事である。双方向のテレスクリーンには、「祖国を捨てた人民の敵ビオロン、本日夕刻、ビッグ・ブラザーを控訴!!」などという文字が踊り、テレスクリーンには、その他にも連日のように、筆者を人民の敵として告発するニュースが新たに流されている。まるでエマニュエル・ゴールドスタインさながらの扱いを受けている気分だ。

筆者が約10年前に、ビッグ・ブラザーの支配するあの国を、秘密警察の暗躍する全体主義国と呼び、そこから国外亡命を遂げてからというもの、筆者はあの国では、まさに祖国を捨てたゴールドスタインさながらの狂人・罪人として扱われているのだ・・・。

なぜ杉本ブログに賠償が命じられて後、また、掲示板が大々的に刑事告訴の対象とされて後、村上が自らのブログで、当ブログ執筆者の実名を公表したり、当ブログを名指しで非難する記事を次々と書き始めたのか、そこに、筆者の言う「全体主義国」の有様を、読者は伺い知ることができよう。

一審では、村上―杉本の共謀関係は立証されていないが、筆者はこのような結果となることを前々から予測していた。つまり、杉本による権利侵害は、杉本が独自の判断により、単独でなしたことでは決してない――というのが筆者の以前からの推測なのである。もしそうでなければ、村上は、杉本が自らのブログで筆者を批判できなくなったことを皮切りに、今度は自分のブログで筆者を批判し始めることは決してなかったであろう。

二人はメール文通も書証として提出して来ているが、その内容は、二人が完全に気脈を通じていると言えるものであり、さらに、杉本に賠償が命じられても、村上は決してそのことを報道しない。このことか分かるのは、つまり、村上には、杉本がしたことが許しがたい人権侵害であるという認識が今もって欠けているということである。

そして、杉本が果たせなくなった役割を担うために、村上はずっと何年も前から当ブログに掲載されていた記事について、今になって自らのブログで批判を展開し始めたのである。(だが、村上が書いている控訴以外に関する記事については、おそらく刑事事件等の捜査が進み次第、筆者の主張の裏づけとして、証拠を提示しながら書いて行くことになろう。)
 
さて、話を戻せば、おそらく裁判所の関係者ならば、事件番号が付与された時点で、リアルタイムで控訴の情報を把握することは可能であろう。

だから、裁判官も(村上の記事はさておき)、控訴のことを知っていておかしくないと思われるが、書記官の態度を見る限り、裁判官にも、きっとこの控訴が、判決内容を不服としての控訴でないことくらいは、十分に理解してもらえるだろうと思う。むろん、二審の裁判官にもそれが分かるように、理由書をきちんと作成する予定である。

裁判官には、法的根拠に基づいた判決しか出せない。そこにはいささかの情も込めるわけにはいかないし、事実と異なる事柄や、推測に過ぎない事柄も書けない。しかしながら、彼らにも人間的な感情はあって、それは必ずしも、法的な解釈に沿うものとは限らないのだ。

しかも、一審でこの事件を担当してくれた裁判官と書記官の二人は、筆者が口頭弁論の際に、被告杉本・村上の双方から、提訴・反訴・控訴の脅しを受け、被告杉本からは徹底的な誹謗中傷を受け、どれほど二人から見下され、蔑まれ、踏みにじられていたかを、実際に、その目で見て知っている生き証人のような人々である。

さらにもっと言えば、被告杉本は、一信徒に過ぎない筆者を、宗教指導者と呼び、まるで筆者が魔女か何かででもあるかのように形容した書面を提出して来た。杉本が提出した準備書面は、杉本が公表したブログに輪をかけて、筆者に対する恐ろしいほどの誹謗中傷に満ちており、こうした常軌を逸した内容の書面は、裁判所の関係者の目に触れたのである。
 
裁判官も、書記官も、裁判所の権威を守る側に立っているので、誰かが判決に異議を唱えることを自分から望んだりはしない。むろん、争いが長引くことを望んだりもしない。それでも、筆者は、この人たちに限らず、筆者を取り巻く、雲のような無数の証人たちから、「ヴィオロンさん、あなたはもう戦いが終わったと喜んでいるようですけど、本当にそれで満足なんですか。本当にこれがあなたの心から納得できる答えなんですか。これがあなたが命をかけてまで、立証しようとした内容なんですか。あなたは自分が目的達成できたなんて、本当に思っているのじゃないでしょうね。あなたは安全になったわけでなく、依然として、立ち向かうべき危機の最中にあるのに、まさか本当にこのような結果で、満足して立ち止まってしまうつもりじゃありませんよね・・・」と迫られていたような気がしてならない。

被告杉本からの控訴はあり得ないと、筆者は今も判断しているが(なぜなら、村上が完全勝訴したと宣言しているものを、杉本が控訴すれば、かえって敵に判決を覆すチャンスを与えることになるからである)、そのこととは別に、筆者自身が戦うことをやめて立ち止まってしまうことに対し、無言の警告が投げかけられていたように思う。

ここで立ち止まることは、妥協であって、偽りの平和への安住であって、それを選べば、たとえ被告から控訴がなされなくとも、あなたは遅かれ早かれいずれ死へ向かうだけだと。

だが、そのことは、誰よりも筆者自身が霊の内でよく分かっていたと言えよう。筆者は人間的な判断としては、この成果で十分だと考え、それ以上、争いを続行する理由もなかったので、ひとまず戦いは終わったと喜んでいたが、その心情とは逆に、日に日に具合が悪くなって行ったことが、人間的な観点から見る事実と、霊的事実がいかに異なるかをよく示している。

筆者がようやく食べ物をまともに口にできるようになったのは、控訴状を出し、さらに刑事告訴の具体的な相談を警察と始めてからのことであった。

今では被控訴人となった村上密の内心が、まずはブログを通じて、余すところなくぶちまけられるのを待つのみである。まずは隠れていた事柄が明るみに出されなければならないためである。
 
筆者は、この道は、筆者が考えているよりもはるかに長く、ずっとずっと先まで続いていることを思い知らされている。人間的な休息は、霊的停滞をしか意味しないのかも知れない。
 
こうして、筆者はお世話になった民事部を後にして、人生で初めて得たまずまずの判決をも後にして、さらに遠くへ歩いて行こうとしている。たった一人で、どこまで歩いて行かねばならないのかも分からないが、待ち受けている何もかもが、見知らぬ世界なわけではない。

いずれにしても、すべては天の采配である。ここで立ち止まってはいけないのだと、筆者は警告されている。塩が塩気を失えば、誰がそんなものに注意を払うだろう。心から望む通りの目標に達するまで、代価を払うことをやめてはいけない。もっともっと深く井戸を掘りなさい。もっともっと高く、遠くまで歩いて行きなさい。リスクを取って自分の十字架を負い、日々、主と共に戦い抜いて、勝利と解放を勝ち取る姿あってこそ、人々からも、真の意味での理解や尊敬を勝ち得ることができるのだ・・・。
 
どうして女性が一人で戦わなければならないのか。筆者はこの深い井戸から何を汲み上げようとしているのか。筆者が争いのために争いを起こしているわけでないことは、今後の一連の記事の中でも、説明して行かねばならないし、きっとそれは可能だろう。

というよりも、筆者は己が利益のためにここに立っているわけではないのだから、この仕事を貫徹するのは、筆者だけでなく、神のなさる仕事であると考えている。これは主との共同作業である。そうである以上、この先は、もっと多くの気負いを手放して行かなくてはならない。そうでなくては、各種の重荷を負いつつ、軽快な足取りで先に進んで行くことはできないだろう。

ここではっきりと断っておきたい。二審で出る結果は、筆者からいかなる負債をも将来に渡ってまで完全に取り除くものとなるであろうと。たとえ数千円に満たない被告1名の訴訟費用であろうと、残らずそれらは取り除かれる。

今、筆者がせねばならない仕事は、この事件に限らず、目には見えないが、うず高く筆者の机の上に積み上げられた悲痛な嘆願書を、次から次へと処理することだ。これが筆者の「お仕事」なのだと、今は非常によく分かる。週末も、作成せねばならない書類が山積みだ。

かつてできるだけ見栄えの良い履歴書を作成しては、何とかして人々に良い印象を与え、誰かから出来合いの仕事を与えてもらおうと奔走していた頃は、こんな仕事が存在することに、心を留めたこともなかった。

誰からも振り返られず、打ち捨てられていた、目に見えない訴えを取り上げ、それを悪魔と暗闇の勢力を打ち破るために、大いなる武器として行使する。誰も述べなかった新しい言葉を述べて、社会をよりよく変える起爆剤とするために、戦いの武器として行使する。これは心から意義があると言える敬服すべき有益な仕事だ。

そういう仕事が、一つ着手すると、次から次へと入って来る。そして、どういうわけか、戦い続行するために必要な材料も、自然と向こうから集まって来る。

今、筆者が「干潟」にとどまって掘り起こしているこの「仕事」には、はかりしれないほど深い意義がある。そうである以上、その仕事を果たすための前提は、神が整えて下さるであろう。そもそもそれがなければ、筆者は第一審の判決にたどり着くことさえ不可能だったのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)


生ける水の川々

「おおよそ人を頼みとし 肉なる者を自分の腕とし、
 その心が主を離れている人は、のろわれる。
 彼は荒野に育つ小さい木のように、
 何も良いことの来るのを見ない。
 荒野の、干上がった所に住み、
 人の住まない塩地にいる。

 おおよそ主にたより、
 主を頼みとする人はさいわいである。
 彼は水のほとりに植えた木のようで、
 その根を川にのばし、
 暑さにあっても恐れることはない。
 その葉は常に青く、
 ひでりの年にも憂えることなく、
 絶えず実を結ぶ。」(エレミヤ17:5-8)

「『わたしは産ませる者なのに
 胎をとざすであろうか』と
 あなたの神は言われる。

『すべてエルサレムを愛する者よ、
 彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。
 すべて彼女のために悲しむ者よ、
 彼女と共に喜び楽しめ。
 あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから
 乳を吸って飽くことができ、
 またその豊かな栄えから
 飲んで楽しむことができるからだ』。」(イザヤ66:9-11)


 オースチン-スパークスの「生ける水の川々」から

 「主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。
『その人から生ける水の川々が流れ出るようになる』。これが彼の願いです。

 どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。
 『国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である』と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。」

 聖霊降臨の起こったその日、聖霊である生ける水の川々が信徒に上から豊かに注がれた。その時、信徒はそれまでのように、自らの知識によってイエスを理解しようと努力する必要がなくなり、ただ御霊の教えてくれる通りに、父なる神と御子イエスを、そして主の貴い十字架の意味を理解するようになった。

 私にこのことが起こった時(それは聖霊派の言うペンテコステ体験のことではない、十字架における復活を経た後のことである)、福音の本質が驚くほど単純であることに目が開かれた。その単純さはどこから来ていたかというと、「すべては主によってすでに終わった(完成された)」というところにあった。
 この世や、私たち人間に必要な全てのことは、すでにイエスが完成された。イエスの地上での生涯と、十字架における死と、復活と、天に昇られ、御座につくことを通して、すべては成就したのだ。サタンの最後でさえも、すでに定められている。だから、私たちにはもう努力してなすべきことは何も残っていない。ただ御霊の導きに従って、地上で定められた道を歩む他には。

 そのことが分かった時に、これは本当に楽だと思った。すでに道は敷かれており、私たちはそこを安息のうちに楽しみながら歩いて行けばよいと言われているだけなのだ。聖書の字義的解釈がどうとか、神学がどうとか、終末がどうの、再臨がどうの、ハルマゲドンがどうのと言って騒いでいる人たちは一体、何をやっているのだろうか、と、その時、私は思った。1000人教会とか、5000人教会とか、リバイバルだとか言っている人たちは、何をやっているのだろうか。
 すべてはもう完成されている。人間側からの努力は一切必要ないというのに…。目的地は私たちが定めるのではなく、もうすでに定まっている。それははかりしれない神の栄光を表す永遠の都である。それに比べ、もしも1000人教会が私たちの目指すべき目標なのだとしたら、それは何という味気ない目標だろうか。

 福音を理解するのに、高度な学問的知識や、読みきれないほどの分厚い注解書は要らない。教えてくれるのは御霊だからである。漁師だったペテロなど、無学な者たちがイエスに招かれていったことには、何の不思議もない。聖書を解釈しようとして、学者たちによって書かれた膨大な量の文書のほとんどは、きっと、無駄な知識で終わってしまっていることだろう。そこには人間的な意味での知識はあるかも知れないが、どれほどの学識を積んだ人であっても、聖霊によらなければ、聖書が何を意味しているのか正しく理解することはできないのだ。

 ナビゲーターのような存在である御霊は、私の中にインプラントされてすぐに、御言葉の意味を教え、そして歩むべき道を教えてくれるようになった。だが、それで聖霊の働きは全てなのかと言えば、そうではない。

 神の御心は、私たち一人ひとりの信徒が、ただ永遠の命を受け取っただけに終わらず、このまことの命なる聖霊を、私たちの内から、生ける水の川々として豊かに溢れさせ、流すことにある。
 だが、それを一体、どうやって成し遂げればよいのか? そこで頭を抱えて悩む必要はない。それもまた主がなして下さることだからだ。神には一人ひとりの信徒に対する深いご計画があり、私たちが召し出された者である限り、そのご計画は変わらない。私たちの存在を通して、命の水がほとばしるように周囲に流れ出すことは、神の御心である。だから、私たちがそうなりたいと切に願っている限り、それが成就せずに終わってしまうようなことはない。もしそんなことが起こるなら、私たちの存在は誰にとって、何の役に立つだろう?

 塩はその味を失っては、何の役にも立たない。エクレシアがエクレシアとしての存在意味を失うならば、それは誰からも用のないものとして捨てられるだけだろう。そんなことは決して起こらない。主はそんなむなしいことのために、十字架というはかりしれない代価を払って、私たちを贖い出されたのではないからだ。私たちの命には、イエスの十字架の値段がついている。主がそれほどの代価を払って、私たちを買い戻されたのだ。だから私たちはもはや自分自身のものでなくなり、主のものとされている。僕は主人に何と言うべきか。「僕は聞きます、主よ、お語りください。」 それで十分である。僕が主人に代わってあれこれ悩み、命令を考える必要はない。進むべき道は主人が教えてくれる。

 生ける水の川々を豊かに流し出す管となるために、まず、必要なのは、私たちが日々、十字架における自己の死(大小さまざまな形でやって来る)を通して、自分がこれまで立ちふさがってきた水路を聖霊に譲り、御霊が自由に流れる広い水路を開くことである。

 次に、生ける水の川々を豊かに流れさせるためには、「神の宮」の中に、つまり、エクレシアの中にとどまっている必要がある。私たちは個人としてすでにエクレシアを形成しているが、より広い意味でのエクレシア、つまり、兄弟姉妹たちとの愛による一致の中にとどまる必要がある。

「川は第一に十字架と関係しています。十字架は道を開き続け、水路を深め、広げます。
次に、川は宮と関係しています。なぜなら、この経綸時代だけでなくあらゆる時代において、神の御旨のすべては『神の宮』という名が示すもの――教会――と関係しているからです。教会は『永遠の時の前』に神が計画した素晴らしい神の傑作です。偉大な聖霊経験を持ちたいのなら、この実に偉大なものの中にいる必要があります。 」

 エクレシアの一致とは、主にあっての兄弟姉妹たちと、恵みを分かち合い、豊かに与え合い、喜んで仕え合う関係である。エクレシアにおける兄弟姉妹関係は、キリストが弟子達にそうされたように、限りない恵みと祝福を互いに与える関係である。エクレシアには、互いを限りなく愛し、互いのためにわが身を喜んで差し出して奉仕する、キリストのご性質がそのまま体現される。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)であり、私たちが御霊の導きに素直に身を委ね、御心の通りに生きたいと心から願う時、それらの実は、ことごとく、私たちの努力によらず、主によって、私たちの人生に結実するだろう。

 生ける水の川々には豊かな恵みの現れが伴う。その川々の水量が豊かになり、エクレシアの隅々にまでびっしりと流れて恵みを漏れなく行き届け、(果てはエクレシアの外にさえ流れゆく)に連れて、エクレシアの一致はますます強固なものとなり、そこから分裂や党派や妬み、陰口などが一切、自然消滅していくことだろう。御霊の命が溢れるほどに流れるようになるに連れて、私たちの内からも、肉的な性質の残滓がますます消えていくだろう。
 この途方もない計画は、私たちの努力によって築き上げるものではなく、主自らがなそうとしておられることである。だから、私たちはその成就を信じて、主のご計画に身を委ねたい。

「親愛なる友よ、もしあなたがイエス・キリストの召しと神の恵みに応じてきたのなら、何か途方もないもの、何か巨大なもの、何か抗えないものに捕らえられていることを、先に進むにしたがって知るようになるでしょう。それがどのようなものなのかを描写しようとする時、エゼキエル書は見事に私たちを助けてくれます。覚えておられるでしょうが、川はその幅と深さを増しながら、宮の敷居の下から発し、祭壇の横を流れ、聖なる敷地全体を通り、国土を流れ下りました。

この預言者が告げるところによると、幻の中で一人の人が彼を川に連れて行き、次に川の中に連れて行きました。最初、川はかかとの深さでした。それから、川が膝の深さになるまで、さらに腿の深さになるまで、彼は導かれました。そして、『泳げるほどの水』になりました。最後の描写は、『渡ることのできない川』(エゼキエル47:1-5)です。

 これは素晴らしいです!これが神の恵みの川だとすると、それはあなたや私の理解・能力を超えたものであり、自分たちの貧弱な限られた容量内には収まらないものです。どんなに必要が大きくても、この川は私たちを超えています。この川は常に私たちを超えています。あなたはもうこのことを悟っておられるでしょうか?私は悟りつつあります。あなたは自分自身に絶望し、『もはや神の恵みも自分を助けることはできない』と思ったことはないでしょうか?しかし、この川が完全に自分を超えていることをあなたは知ります。あなたはこの恵みの川に抵抗することができません。前に述べたように、もし恵みの呼び声に応じるなら、それが何か途方もないものであることをあなたは発見するでしょう。恵みの川は時の前に遡り、時の後にも進み続けます。それは永遠と同じく広大無辺です。」
 

 


生ける水と死せる水

「…アブラハムはなお、主の前に立っていた。アブラハムは近寄って言った、『まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。<…>』
主は言われた、『もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう』。」(創世記18:22-26)

「町の人々はエリシャに言った、『見られるとおり、この町の場所は良いが 水が悪いので、この地は流産を起こすのです』。エリシャは言った、『新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい』。彼らは持ってきた。エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、『主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。」(列王記下2:19-22)


 私たちは今日、神の御前に正しく歩む聖徒たちの存在が、全世界の被造物に対して、どれほど大きな影響を与えているかについて、ほとんど知らない。多くのクリスチャンは(私も含めて)、サタンの捕囚とされて生きることにあまりにも慣れ過ぎてしまっているため、私たちの内におられる御霊、キリストの存在をあまりにも過小評価し、自分の存在に重大な意義があるとは少しも思わず、私たちの祈りが世界に影響を与えうるとはほとんど信じていない。

 だが、冒頭にあげた、ソドムの街の滅びについてのアブラハムと主との問答を通して、私たちが確かに知ることができるのは、神の御前に正しく歩む聖徒たちの存在が、神の大いなる憐れみを引き出すきっかけとなること、聖徒たちの存在の有無によって、堕落しきった一つの町の滅びの運命さえ、食い止められる場合があるということである。
 主はアブラハムへの答えを通して示された、たった10人の義人の存在でも、主にとっては、ソドムの滅亡を撤回するのに十分であることを。(ソドムの全人口がどれくらいだったのか、分からないが…。)

 だから、今日にも同じことが言えよう、私たちが自覚しようとすまいと、この日本に住んで、真実な心で主を崇める聖徒たちの存在は、この国に対する神の大いなる憐れみや、恵みを引き出すきっかけになり得るのであり、その意味でも、エクレシアの存在意義は、私たちが思っているよりもはるかに重大なのである。

 だが、エクレシアの存在意義を語る前に、まず、人と被造物とのかかわりについて、別の側面から述べておきたい。たった10人程度の義人の存在によって、ソドム全体の破滅が阻止されえたとすれば、逆のことも言える。たった1人の人間の悪事が、全世界を滅ぼすきっかけとなることがあるのだと。
 アダムの堕落がそれである。

 話がいきなり飛ぶようで申し訳ないが、かつてソビエト連邦で起きたチェルノブイリ原発事故の悲惨な影響は、まだ終わっていないし、忘れられてはいない。人類発の社会主義国がもたらした人類史上最も劣悪な原発事故は、ソビエト連邦の威信を揺るがし、崩壊を早める大きな要因の一つとなったとも言われている。
 放射能の汚染は、実に何百年という単位でしか取り除かれないものであり、今日になっても、チェルノブイリ原発の脅威はなくなったとは言えないどころか、むしろ以下に述べるように、私たちは新たな危険に直面している。

 私はかつてウクライナのチェルノブイリ記念館を訪れたことがあるが、そこで受けた重苦しい、窒息するような印象を今になっても忘れることはできない。薄暗い広間の壁に、「人民の英雄」とされたリクヴィダートルたちの遺影がぼんやり照らし出されていたが、ソビエト体制によって与えられた表彰状や、記念館などは、彼らの恐ろしい死という事実の前に、何の意味もなかった。

 1986年4月に起きた原発事故の後、リクヴィダートル(汚染除去作業員)と呼ばれる男たちが、当局によって集められた。まだ若い男性がほとんどであった。彼らは原発の4号炉の壊れた壁を、人海戦術によって、コンクリートでふさぐために集められたのだ。このコンクリートで造られたシェルターは、「石棺」(саркофаг サルカファーク)と呼ばれている。
 集められた労働者は、ただ事故があったという他には、何も知らされていない人たちであった。放射能の汚染は目に見えず、耳にも聞こえない。専門知識のない一般人が、この前代未聞の事故の恐ろしさを理解できるはずもなかった。だから、作業員の男たちは、ただ指示に従って、いつものように、薄い防護服一枚で、言われるがままに、作業を完遂したのである。

 その後、彼らは次々と病に倒れた。それは普通の病気ではなかった。彼らの家族全員も、悲劇に巻き込まれた。だんだん、人の形をなさなくなる夫を前に、妻たちはなすすべもなかった。夫がまだ生きているうちに、せめて子供だけでも残せないかと努力した妻もあった。だが、生まれた子供は、人の形をなさず、生きられなかった。何も知らないまま被爆したリクヴィダートルの汚染は、子孫にまで受け継がれ、妻たちも、夫への接触によって被爆した。

 今日、チェルノブイリの「石棺」の劣化、崩壊が懸念されている。今もじわじわと汚染が続いているが、もしも原発のコンクリートの壁に亀裂が入れば、そこから再び放射能が大規模に漏れ出すのは必至である。

 「英国放送協会(BBC)によると、事故を起こした原子炉には今なお当時の核分裂性物質が95%も残っており、事故後に応急処置として建設されたコンクリートの覆いの下にとどまっているが、『石棺』とよばれるこのコンクリートの覆いは、風化と老朽化が進んでいるという。」
 2007年11月に書かれたWired Visionの短い記事によれば、この時点では、コンクリートの「石棺」を、新たに鋼鉄製のシェルターで覆うという計画が打ち出されていたようであるが、莫大な資金が必要となり、しかも、4号炉に人が近づいて作業することすら難しい状況で、今、補修工事はどうなっているのだろうか。

 チェルノブイリ(Чернобыль)という町の名前は、「苦よもぎ」 (чернобыльник チェルノブイリニク ウクライナ語ではチェルノブイリ)という植物の名前を起源としている。この名の意味について、時折、聖書に照らし合わせて尋ねてくる人があるが、私も、その名には聖書との一致が含まれていると考えている(ただし、ロシア語の聖書では「苦よもぎ」の翻訳はチェルノブイリではなかったように記憶しているが、ここでは翻訳の字義にとらわれる必要は全くないだろう)。

 チェルノブイリ原発は、人と地の産物に流産と死をしかもたらさない、汚染された、苦々しい水を生み出す源となった。そしてその汚染された水は、ドニェプル河や、その支流を通じて、その地方一帯に伝わっていった。(右の写真は、チェルノブイリ記念館にて、現地のウクライナ人から、放射能汚染が河を通じて地方一帯にどう伝わったか、地図を指し示して、説明を受けた時のこと。)

 ちなみに、ヨハネの黙示録8:10-11にはこう書かれている、第三の御使いがラッパを吹き鳴らすと、たいまつのように燃えている「苦よもぎ」と呼ばれる大きな星が空から落ちてきて、川の三分の一と水源を汚染した、と。
「水の三分の一が『苦よもぎ』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」。

 この黙示録の記述が、いつの時点での出来事を指しているのか、私には分からない(恐らく、未来に起こることのように思われる)。だから、これを直接、チェルノブイリ原発事故と同一視しようとまでは考えない。

 だが、少なくとも、そこに霊的象徴としての一致、共通点が存在していることは確かだろうと私は思う。すなわち、黙示録に示されている「苦い水」とは、チェルノブイリの事故の場合と同様に、何らかの汚染のせいで、流産と死をもたらすようになった「死せる水」なのであり、原因が何であれ、それは、オースチン-スパークスが述べている、旧約聖書に登場するエリコの「死せる水」と、本質的に同じものを指していると解釈できると思う。

「『死せる水』とも呼べる、生きていない水の例が、聖書の中に少なくとも一つあります(列王下2:19-22)。その水にはある要素が欠けていたため、熟する前に実はすべて落ちてしまいました。達すべき目標・目的に達したものは一つもありませんでした。それは死せる水でした!エリコの人々は『ここの水は悪い』と言いました。預言者はその状況を正常化しました。」

 「苦よもぎ」は水源を汚染し、どんなものにも実を結ばせないようにしてしまう。畑には収穫がなく、人には流産と死だけをもたらす。それはあらゆる活動を停滞させる「死せる水」である。何をやっても、実りがない。それは霊的な意味で、汚染された、呪われた、腐敗と死の水である。

 さて、これはチェルノブイリや、エリコという町に限ったことであろうか? 私たちが住んでいるこの世という土地に、関係のない話であろうか?

 私たちは、放射能の脅威についてはいつも大騒ぎする。だが、アダムの堕落が全世界にもたらした汚染が、それよりもはるかにひどいものであったことをしばしば忘れているのではないだろうか。アダムの罪のために、アダムその人のみならず、全世界が被爆したと言っても過言ではない。罪ゆえの堕落という放射能は、今日、私たちが知っている最も恐ろしい放射能の脅威よりも、さらに永続的な脅威として、全地球(宇宙)に残留しており、そのために破壊されたDNAが、父祖アダムから私たちに至るまで、この肉の体を通して伝わっている。それは、何千年という時が立っても、決して、分解されることも、消滅することもない放射能である。
 アダムの堕落によって、全地は永久に呪われ、実を結ばない不毛の土地となり、人には死と流産がもたらされるようになった(創世記3:16,17-18)。

 この全地を覆う堕落、汚染、呪いは、アダムとエバというたった一組の夫婦の誤った選択をきっかけにもたらされた。言い換えるならば、彼らは被造物を正しく管理すべく任されていたのに、管理を誤って、全地に永久に死と呪いをもたらすような、あまりにも大きな爆発汚染事故を起こしてしまったのである。今日、開発されているどんな兵器の威力も、彼らの行為がもたらした結果を前にすると、印象が薄れるとさえ言えるだろう。
 今、たとえ私たちが自覚していなくとも、この世界は、チェルノブイリと比べようのないほどの汚染に見舞われている。原爆投下後の広島、長崎よりも、さらにひどい汚染の中に存続している。もしも最後のアダムなるイエスがこの地に来られなかったならば、人類にはこの汚染のうちに死ぬ他に道はなかった。

 だが、今日、幸いなことに、イエスの命をいただき、召し出されたキリスト者は、イエスにならって、人々を十字架へ導くことによって、罪と死の汚染から救い出す、その手助けをする使命を担っている。その意味で、私たちは、まことのリクヴィダートルとしての任務を与えられているのである。

 チェルノブイリのリクヴィダートルには、悲劇しか待っていなかった。彼らの死を「殉死」や、「偉業」のように美化して考えたい人たちは、私の発言を非難するかも知れないが、現実を見れば、彼らの死が、悲劇であったことは明らかである。リクヴィダートルたちは、まるで騙されるようにして作業にかき集められ、その後わずかな年数しかもたなかった虚偽的なソビエト体制の怠慢と悪事の犠牲となって、虚偽的な「人民の英雄」の称号と引き換えに、望んでもいない非業の死を遂げされられた。しかも、リクヴィダートルは汚染を根絶する使命を完遂することさえできなかった! 彼らがその死と引き換えに遺した「石棺」(何という的確な名前だろうか!)は、人類に救いを与えず、汚染を完璧に食い止めることができなかっただけでなく、今また劣化のゆえに大々的な補修が必要とされているのである。

 幸いなことに、まことのリクヴィダートルとしてのキリスト者は、彼らのような悲劇を味わう必要がない。自分の命を投げ出しながら、不完全な救いしか提供できないということはないからである。私たちは罪と死からの完璧なシェルターが何であるか、完全な汚染除去の方法が何であるかを知っているので、的確にそれを指し示すことができる。キリストの十字架は、劣化したり、何十年か経つと、新たに補修が必要となったりするような、不完全な救いではなく、完全かつ永久の救いであり、人を滅びから救い、まことの命によって生かすために与えられたものである。

 キリスト者はすでにこのまことの命をいただいているので、肉体は、この世にまだ残されているとはいえ、すでに御霊の法則の中に移されて生きている(さらに言うならば、肉体さえも、御霊の法則に多大なる影響を受けて、キリストの命をもらいながら、生かされているのである)。だから、私たちは(原罪を除いて)もはや罪による汚染から解放されており、そのために死を味わう必要がない。

 従って、この世で作業に従事していても、私たちはこの世の汚染に影響を受けて、非業の死を遂げる、という結果に至らずに済むのである。リクヴィダートルのように、人助けのために自分の命を犠牲にする必要がなく、人に二次的、三次的な被爆を与えるということもない。私たちは、罪によって破壊された肉なるDNAではなく、自分の内に、キリストのまことの命のDNAをいただき、それによって生き、永遠へと向かっている。そこで、私たちは人と接触する時に、もはや自らの罪によって人を汚染することなく、身近な人々に不幸をもたらすことなく、子孫代々に至るまで呪いを伝えることなく、むしろ、新しいまことの命によって、人を潤し、生かし、豊かに与え、祝福するキリストの性質を、人々に惜しみなく届ける存在へと変えられているのである。

 キリスト者の使命とは、罪ゆえの汚染、堕落を食い止めるという消極的なものではない。この世の朽ちて行く命ではない、朽ちないまことの命があることを、はっきりと世に示し、その命の性質に他の人々をもあずからせることである。私たちの内から湧き出る、生ける水の川々によって、命を豊かに与えるキリストの性質を表すことが使命なのである。

 苦よもぎが、死せる水を流す川々を作り上げるとすれば、私たちは、生ける水の川々を流す源とされていることを信じたい。エリシャは、エリコの「死せる水」を、主にあって、刷新するために、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」と命じた。
 キリストの十字架によって死に、復活させられた私たちは、新しい器である。内にキリストをいただいている私たちは、地の塩である。
 主は、私たちという器を通して、地の塩であるキリストの性質を、水源に投げ込まれようとしている、それによって、「死せる水」は「生ける水」へと変えられ、罪と死、飢饉と流産は消え、多くの実が結ばれるようになるだろう。アダムの堕落ゆえに不毛となったこの土地で、私たちキリスト者が生きることによって、私たちの腹から、生ける水の川々が放出されて、汚染の代わりに、命の潤いが周囲に伝わっていくのである。

 さて、この先は、エクレシアの使命と、生ける水の川々、キリストの御座とは何か、ということについて考えていこう。