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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上の必要をはるかに超えて、願うものはすべて添えて与えられる。

一つ前の記事で、私たちの目標は、ただ自分が何とか生き延びるといった低い次元にとどまっているべきではなく、キリスト者の人生は、ただ地上の必要を満たされて生きる、などという卑小なレベルをはるかに超えて、もっともっと自由で独創的なものであるべきだということを書いた。

これまで当ブログにおいては、信仰生活において、重要な役目を果たすのは、各自の望みであり、御霊と同労する生活においては、各自の望みこそ、無から有を生み出す原動力になって行くのだということを繰り返し強調して来た。

そして、その望みとは、神の国と神の義とを第一として生きることの妨げにならないならば、どんなものでも構わないのである。

聖書にはこうある、

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」( ピリピ2:13)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7-11)

今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。」(ヨハネ16:24)

「 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 」(マルコ11:22-24)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:7-8,11)

たとえば、筆者は珍しい鳥を探し求めている。そして、筆者のそのような趣味を「贅沢だ」と批判した人がいないわけではない。また、「福音の奉仕者となりたいならば、パウロのように自分をいつも身軽にしておくために、ペットなど飼うのはやめなさい」と忠告して来た人もいた。

しかし、筆者はそのような考え方が正しいものだとは思わない。伝統的なキリスト教では、あまりにも偏った禁欲主義や愛他主義が説かれており、それゆえ、クリスチャンが自分個人のために何かを望むこと自体が、まるで罪であるかのように教えられ、制限されている向きがあるが、その考えは誤っている。

クリスチャン生活とは、慈善事業ではない。大規模な福音伝道を行い、改宗者を増やすことや、困っている人々や、貧しい人々を助けることだけが、クリスチャンの目的なのではない。

もちろん、筆者は、豪奢な生活を送り、それを自慢したいがために、珍しい鳥が欲しいと言っているわけではない。庭つきの豪邸を手に入れ、そこに大型鳥のための部屋を作り、外国から特注の餌を取り寄せ、毎日のように鳥との触れ合いの写真をインスタグラムにアップする…そんな自己満足的生活を「神の恵み」として誇りたいがゆえに、以上のように言うわけではない。

もしも私たちが物欲を第一として生きるなら、その生き方は確かに根本的に間違っていると言えよう。しかし、神は地上のすべての生き物を人間のために造られ、すべての目に見える環境条件、物理法則を、人間のために造られたのである。

神はこの地上を、私たちのために恵みとして造られ、地上にあって、私たちが大いに主を喜び、その栄光を知ることができるように、万物を造られたのである。そして、それぞれの生き物に、他の種類とは全く異なる独自の生き方や個性を与えて下さった。それは人間も同じである。

キリスト者は、神にあって、自由と豊かさの中を個性的に生きる権利が与えられている。そこで、人前に敬虔な信者と見られたいがために、あれも望むまい、これも望むまいと、自分の望みを過度に制限し、あらゆる禁止事項で自分をがんじがらめにしながら、自分の心の必要を置き去りにして、人に批判されないかどかばかりを気にして、ただ他者の評価だけを求めて生きることが、クリスチャン生活の目的では決してない。

熱心に日曜礼拝に通い、奉仕と献金をし、伝道に邁進し、あるいは神学校に行くなどのことが、神が人に望んでおられる敬虔な信仰生活のモデルなのでは決してない。クリスチャン生活において、誰もが同じように指導者になったり、有名な教師やリーダーとなって人を教えることが、共通の目的では決してないのである。

信仰生活とは、もっともっと個人的なものであり、多くの場合、人がその人自身にしか分からない方法で、隠れた領域で、神と同労して生きることを指す。その中には、その人が真にあるべき自然でチャーミングな人として、誰とも異なる自分の人生をひそやかに生きて行くことも含まれる。
 
そこで、私たちは、それぞれに自分なりに他者とは異なる望みを抱いて、自分の人生を自由に個性的に生きて良いのであって、それは神の喜ばれる、神の御心にかなった事柄なのである。

そういう意味で、クリスチャンは、自分が心に抱く望みを、もっと尊重して良いのであり、大いにそうすべきである。

筆者は、そのように生きる中で、些細で個人的な望みであっても、主と同労して求めて行くならば、実にタイムリーで不思議な出会いが与えられ、それが実現の運びとなることを、幾度も経験して来た。

ただし、断っておかなければならないのは、目に見える物質的な何かを手に入れたいという願いは、人間が心に抱きうる願いの中で、あまり高い望みとは言えないことだ。どうせ願うならば、自分が何かを得て豊かになるだけで終わるような低く小さな願いではなく、もっともっと崇高で、達成困難な願いを持つべきである。ちょうど山上の垂訓のように。

ジョージ・ミュラーが信仰だけによって数えきれない孤児を養い、滅びる命を助けることに貢献したように、私たちも、一人の人間としての限界を大きく打ち破って、神の御心を大胆に実現するような、そういう願いを持つべきである。

だが、事の大小に関わらず、私たちの抱く望みこそ、人が御霊に導かれて生きるに当たり、霊的創造を行う起爆剤になるものだということは変わらない事実である。

当ブログでは、以前から、キリスト者は御霊と同労して「環境を創造する」ことができると書いて来た。各自の心に生まれる望みとは、最初はぼんやりした設計図のようなものであるが、設計図が描かれるや否や、御霊の中で、ただちにそれに沿った現実の創造が始まる。

たとえば、私たちが主にあって、何かを手に入れたいと心に願う。すると、それがどんなにかすかな願いであっても、また、私たちが現実に何もオーダーしていないうちから、霊的な世界においては、それがキリストのまことの命を経由して「発注」される。結果として、この世の物流・経済の中で、私たちの心のリクエストにかなったものが、私たちのそば近くまで呼び集められて来るのである。

そこで、私たちはそんなにも長い時間をかけて、ものすごい苦労を払って、望んでいる物品を探し出す必要がない。現実に何かをオーダーしようと決意するまでの間に、すでに願い求めたものは、私たちの近くまで送り届けられて来ている。必要なのは、所有権を移すための最後の手続きを信仰によってなしとげることだけである。

信仰生活とはこのようなわけで、神が恵みによって私たちのために用意して下さったものを、私たちが喜んで受け取り、それを自分の栄光、自分の満足のためだけに享受するのではなく、キリストにあって、御名の栄光のために、感謝して受け取り、喜び楽しむためのものである。そして、自分が満たされた分を、世の中に還元し、さらに御心を満足させるために、もっと大きな願いを心に抱いて進んで行くのである。

ヴィオロンは地上的な利益に憧れ、享楽的な生活を送りたいゆえに、今更のように「繁栄の福音」を語っているわけでなく、地上的な恵みを享受することの必要性を語るために、この記事を書いているわけでもない。

私たちクリスチャンの使命は、自らの望みによって、信仰によって無から有を呼び出して来る創造行為にあり、自分の願いを実現に至らせることによって、神の御心を満足させることが、私たちの人生目的なのである。そうして生きる時に、私たち自身にも、大いなる喜びと満足がもたらされる。そのことが、神が私たちに願っておられることなのである。

* * *

一つ前の記事で、尼僧になる夢をあきらめて、禅寺の住職の妻になったある人のことを書いた。それは、地上的には、何不自由のない幸福な生活であり、常識にもかなう、誰からも非難されることのない落度のない生き方であったろうが、それでも、筆者は、この人が自分の望みを中途で置き去りにしたことを、大変、遺憾なことだとみなしている。

筆者の考えによると、この人は、もしも自分の高い理想をあきらめずに最後までそれを貫徹して生きたならば、当然ながら、自分自身が女性住職となれたはずの人である。彼女こそ、最も重い責任を担うリーダーの役目を果たすにふさわしい人であった。それだけの評価は、彼女に早い段階で向けられていたはずである。

彼女の夫となった人は、彼女のように高い志を持っておらず、彼女のように誠意ある努力家でもなかった。しかし、彼は男性であるという利点を大いに活用し、彼女を妻として従えることで、自分にはない能力を補ったのである。

つまり、彼女が夫として、自分の主人として仕えた人間の理想は、彼女ほど高いものではなく、そのような人間が、自分よりも高潔な志を持つ人間を従えて、主人となるべきではなかったのだとさえ言えるかも知れない。

ところが、このようにして、本来、低い理想しか持っていない人間に、高い理想を持った人間が仕えさせられるということが往々にして起きる。そのために、崇高な目的が置き去りにされ、それが果たせずじまいとなるばかりか、かえって誰かの低い野望の実現の道具とされて行くのである。
 
このようにして、人が当初、抱いたはずの高い目標が、達成不可能に終わるばかりか、全くそれとは異なる悪しき目的のために利用されるという出来事が、あるべきことだとは筆者は思わない。

 (ただし、筆者はキリスト者であるから、禅寺に入って修行して悟りを得ることが、人の目指すべき崇高な目的だと言いたいがために、この記事を書いているわけではない。真理を探求する道に入った人は、答えを得るまで、決してその探求を捨てるべきでなく、自分が求めているもの以下の答えで満足することは、その人を道から逸らす誘惑になると強調しているのである。)
 
そこで、筆者はここで大胆極まりない仮説を提示しておきたい。それは、男であれ、女であれ、あるいは家柄や、血筋、財産などに関係なく、真に高潔で達成困難な志を持つ人間こそが、リーダーとして立つにふさわしいのであって、それ以下の望みしか抱かない人間は、むしろ、その人間に仕えるべきだというものである。

この世では、学歴、財産、性別、家柄、血統などによる差別が横行しているが、筆者は、人間の貴賎は、そのような要素によって決まるものではなく、かえってその人が抱く志の高さによって決まるものだと考えている。

ある人は、人間に貴賎などはない、と否定するであろうが、筆者はそうは思わない。志の高い人間と、そうでない人とが、同じだけのチャンスを与えられるべきで、同じ可能性を持っているとは考えない。しかし、志を高く持って生きることは、非常に高い代価を要求されることを意味し、それに耐えて目標を目指し続ける人間だけが、成果を勝ち取ることができる。そのため、その道を行くことのできる人たちはそう多くはない。

ヨセフと兄弟たちとの間に起きた確執はまさにそういう現象であった。ヨセフは幼い頃から、父に理由なく偏愛されたわけではなく、兄弟たちに抜きんでた志の高さを持っており、多くの賜物を与えられた人間であったからこそ、愛され、期待をかけられたのである。

しかし、そのように大きな可能性を与えられたがゆえに、その望みが実現に至るまでの間に、彼は厳しい代価を要求され、他の人々よりもつらく孤独な人生を送らなければならなかった。

筆者には、キリスト教と禅をごちゃまぜに論じるつもりはないが、高い目的を達成するために、厳しい試練が必要となることは、スポーツであれ、学問であれ、宗教であれ、どのような分野においても、変わらない事実である。
  
怠け者で自己中心な生き方をする人間ほど、努力を嫌い、自分を試されることを嫌う。そして、彼らは中途半端な努力で、大きな成果を得たいがために、自分以外の人間の誠実な努力を、自分の野心の実現のために大いに利用する。

高い志を持った人間が、そのような悪事に巻き込まれるべきではない。聖書には、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえがあるが、そこでは、賢い花嫁は、自分が真実な信仰によって蓄えた油を、怠け者の花嫁のために分けてやってはならないと教えられている。

それと同じように、志の高い人は、自分が厳しい代価を払って勝ちえた教訓や成果を、努力もせず、代価も払わなかった他人に、ただでくれてやるようなことを決してすべきではない。

人が代価を払うのは、自分の望みを実現するためであり、望む結果を実現することによって、社会全体にも、益をもたらすことができる。そうなるまで、その人は、決して自分の努力の成果を、他人に譲り渡してはならない。
 
勝ち抜いて最も素晴らしい賞を得ようとすることは、高慢さの証ではなく、真に厳しい代価なしには成し遂げられない偉業である。その偉業を一旦、目指したならば、最後までわき目もふらずに、その道を貫徹すべきであって、それを達成してこそ、人からも真の尊敬が得られる。
 
最も高い賞を勝ち取るだけの熱意も覚悟もなく、その努力も払おうとしない人間に、自分の成果を安易に与えるような態度では、その人は誰からも真の尊敬を得ることはできないであろう。
   
さて、ある宗教者が、霊的な世界においても、市場原理主義のような残酷な淘汰の理論が当てはまると吹聴しているため、筆者はこれに対し、反論しておきたい。もし霊的な淘汰の原則を振りかざすのであれば、それはまさに心の領域にこそ当てはまり、「志の高さによる淘汰」を主張するべきであると。

門地、家柄、血統、出自、学歴、性別、コネ、財産の有無、手練手管の有無などによって、人がこの世で淘汰されるかどうかが決まるのではない。極言するならば、志の低い人間こそが、真っ先に淘汰されて行くか、もしくは、志の高い人間に仕える僕の立場に置かれるにふさわしいのである。

それこそが、本来的に正しい霊的な秩序である、と言えよう。そして、この秩序が実現するためにこそ、クリスチャンは地上に置かれている。

しかし、多くの人は問うだろう、「ヴィオロンさん、それならば、なぜあなたの言う『あるべき秩序』とは正反対の現実ばかりが広がっているのでしょうか? なぜ正しい人々が罪に定められ、寄る辺のない者が虐げられ、悪者や暴君がほしいままに振る舞っているのですか。いつまでこんな時代が続くのでしょうか」と。
 
その問いには、クリスチャンが自ら目指している高い目的のために、いつまでも代価も払わず、世人と同じ目的しか目指さず、常に道を中途であきらめているからそうなるのではないか、と答えよう。どんな困難に直面しても、あきらめずに目的を目指して進み続ける人たちがあまりに少ないために、ここまで世の中が悪化した可能性を考えてみないのかと。
 
もしもクリスチャンが、神の国と神の義を第一とするという、最も崇高な価値のために、それ以外の価値をすべて二義的なものとして扱う態度を貫きさえするならば、その時、その信者の上に君臨していた横暴な主人は取り除かれ、かえって、そのクリスチャンの目的に、世人を含め、彼を取り巻くすべての人々が仕えさせられる結果となり、彼を憎んでいる敵でさえ、彼の目的に奉仕させられることであろう。

それはちょうどヨセフの作った束に、兄弟たちの作った束がお辞儀したのと同じである。愚かな人間が暴君となって民を支配している時代は、誰もにとって不幸でしかないが、高潔で憐れみの心を持つ君主が上に立てば、民は幸福になる。この地上において、真に高潔な人間が上に立って権威を担うことで、初めて霊的トリクルダウンが起き、自由と解放が行き渡るのである。
 
そのあるべき霊的な正しい秩序が実現するとき、見かけは全く平凡で弱々しい人間でしかないクリスチャンに対して、その内側におられるキリストのゆえに、この世のすべてのものが服従し、仕えさせられるという、実に不思議で逆説的な現象が起きる。

何の権威も持たない、か弱く平凡な人間に過ぎない者が、キリストと共に、すべてを足の下にするのである。しかし、それは決して、独裁者が強権的に暴力によって民を支配するような残酷な支配ではなく、自由と命による解放である。悲しむ者には慰めが与えられ、貧しい者は満ち足りて喜び、義に飢え渇いている者が正義を見て安堵する。

しかし、それが実現するためには、どのような試練が起きようとも、心の望みを決してあきらめず、自分の目指している栄冠を、決して誰にも奪われることなく、勇敢に目指して進んで行く人たちがいなくてはならない。私たちは、そのような光景を見るためにこそ、日夜、代価を払って奮闘しているのであって、その成果が着々と現れつつあることについては、追って書きたい。

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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(6)

 

「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:42-48)

一つ前の記事で触れた天に召された夫婦のことを書きたい。筆者はこの夫人から生前、一度だけ、有意義な叱責を受けたことがあった。

夫人が三渓園に筆者を誘い出してくれて、いつものように親しく交わりのひと時を持とうとした際のことである。その日は、筆者の霊的コンディションがそれまでと違い、交わりのために整えられておらず、最悪の状態にあった。

私たちは出店のテーブルに着き、夫人は道すがら買った筆者の大好きな桜餅を取り出して、団らんのひとときを持とうとしたが、その時、

「あら、お茶がないわね。あなた、買って来てくれる?」

と、気づいて筆者に言った。

筆者は立ち上がって、近くにある出店をいくつか覗いてみたが、目ぼしいものがなく、早々に引き返して来た。筆者が手ぶらで戻って来たのを見て、夫人は呆れて言った。

「あら、どうしたの?」

筆者が見つからなかったと言うと、夫人は呆れた様子で、

「お茶を売ってないわけないじゃない。もっとよく探さなきゃ」

と言ったが、筆者があまりに疲れ果ててもう行きたくない様子なのを見て言った。

「もういいわ、あなたはそこで待ってなさい、私が見つけて来るから」

夫人は自分で店を回り、すぐに戻って来て、ペットボトルのお茶を筆者の目の前に置いて言った。

「ほらね、すぐに見つかったでしょう。一体、あなたはどこを探したのよ?」

夫人はそれから筆者に向かってお説教を始めた。

「あなたには言わなくちゃいけないことがあるわ。このお茶のことだけじゃないのよ。あなたはいつもこんな風に、ちょっとした困難にぶつかったら、もう自分の望みを早々と簡単にあきらめてしまうの? この世のことなら、まだそれでも許されるかも知れないけれども、神様に従うに当たって、そんな姿勢では、この先、あなたは進んで行けなくなるわよ。
信仰を立派に守り通すためには、どんな困難があっても、それを突破して、最後まで望みを捨てずに進んで行く勇気と強さが必要なのよ。それがこんな情けないことでどうするの。あなたはもっと強くならなくちゃいけないわ。自分の目的を最後まであきらめずに貫き通すことをもっと学ばなくちゃいけないわ」

夫人が筆者に説教などしたのは、後にも先にもこの時一度限りであった。しかし、それを聞いている間にも、筆者はただぼんやりと力なく笑うだけであった。

実は、そのようなことになったのには原因があった。

この頃、筆者は、夫人からの再三に渡る忠告を無視して、仕事に打ち込み、毎日のように終電近くまで会社に残って残業していた。専門の仕事で実力を発揮し、自分で自分を支えなければならないというプレッシャーがあり、また、他の人々の負担を軽減することが期待されていたのである。

そのため、ようやく休日が来て、夫人に交わりに呼び出されても、疲労のあまり、指定された外出先に出て行くのがやっとで、美しい風景にも、心ここにあらずの状態で、ペットボトル一本の買い出しを頼まれても、果たせないほどに、疲れ切っていたのである。

残業だけではない、ほんのわずかな人数しかいない狭いオフィスで毎日のように変わる不安定な力関係、経営者からの無理筋の要求、愚かしい紛争にも、辟易するまでに心を疲弊させられていた。そして、それがまるで筆者の人生の中で重大事件のように心の座を占めていたのである。

夫人はそれまで常に率先して気前よく他者を助ける側に回っていたため、信仰の交わりにおいて、筆者は夫人から何かを要求されたことがなく、苦言を呈されるなどのこともそれまで一度もなかった。夫人はすべてにおいて満ち足りており、いかなる形でも、誰にも助けを求める必要がなく、筆者に買い出しを頼むどころか、いつも自分から交わりに必要なものを持ち寄っていたので、年少者に使いを頼むなどのこともなかったのである。

しかし、この時ばかりは、事情が違った。夫人は、筆者が主の道から逸れかけていることを知っており、筆者の陥りかけている悲惨な状況の危険性を指し示すために、あえて筆者に買い物を命じた(ものと考えられる)。そして、筆者はそのどうでも良いような些細な買い物をさえ、遂行する力がなくなっていたことを示されたのである。

その事件が示していた結論は、筆者が、このままこの世の価値観に没入し、神の国とその義ではないものを第一として生きる方向へ進めば、デリラに欺かれたサムソンに勇士としての力が失われたのと同じように、筆者の内なる力と尊厳は完全に消え失せ、筆者はわしのように翼をかって、天高く舞い上がるどころか、ペットボトル一本のお茶さえ買う力がないほど、弱々しい人間となり、地を這うように生きるしかなくなるということであった。そんなことでは、やがて夫人にも呆れられ、交わりからも脱落し、ついには自分の生活も失って、命さえなくなるであろう。

そういった方向性を、夫人は暗に指し示したのである。そして、どちらを選ぶのか、筆者に選択を迫ったのであった。 しかし、筆者は、その当時、そのような忠告は、働かなくて良い立場にある夫人の浮世離れした生活スタイルに過ぎないかのように思い、自分のような者に他にいかなる選択肢があるのかと、心の中で弁明するだけであった。

そんな考えが根本的に誤っていたことは、その後すぐに判明した。会社は残業代を支払わなくなり、残業代は定額制に移行し、それに同意しない社員は、愚痴や不満を経営者に告げ口されて、栄えある記念行事の前夜に、密室で契約打ち切りを言い渡されるという残酷な仕打ちに遭わされたのである。

そういう出来事を見て、筆者もようやく目が覚めたのだが、こうした結果を実際に見るまでは、夫人の忠告の正しさが分からなかった。自分で自分を支えなければならないというプレッシャーはそれほど大きく、筆者はこの世の仕組みがいかに御国の法則とかけ離れているか、まだ具体的にほとんど学んでいなかったのである。

夫人はそうしたことを見越した上で、筆者に様々な忠告をしてくれた。その当時、筆者はまだ多くのことを理解していなかったとはいえ、筆者は、故意に神の御心に反したわけではなく、ただ考えが甘く、経験が不足していただけであったので、神は筆者の正しい導き手として、その後も、忍耐強く、筆者に幾度も教訓を与え、筆者が天的な法則を学び、それを理解し、それに沿って生きられるよう手助けして下さった。

天的な法則と言っても、何もそれは神秘的な漠然としたものはない。それはただ神の国とその義、および、神を第一とする信徒の交わりを、この世のすべての関係や価値よりも優先して生きよというものである。筆者の内なる力、人としての尊厳、自由なゆとりある生活は、このように天の御国の権益を第一として生きる時、初めて保たれるのである。
 
命を保ち、自由と豊かさに至り着きたいならば、神の国とその義を第一として生きなさい。地上での生活や利益を最優先する態度では、囚人同然の生活が待っているだけであり、最後には、必死でつなごうとした命さえ、失われて終わるだけである。
 
そのように、それから今日まで何年間もかけて、筆者は御言葉の正しさを実地で試し、ことごとく証明して来たのである。
 
筆者の人間としての力は、地上にある限り、いつでもごく限られたものに過ぎないが、それでも、真に神を第一に尊んで生きるならば、筆者の限界の中でも、十分にすべてを行うことができるよう、神ご自身がすべてを整え、按配して下さる。

主ご自身が筆者の知恵と力となって下さり、決して筆者が行き詰まりに達して立ち止まることがないよう、守り、育て、養って下さる。

このように、天的な法則に従っている限り、人は雄々しく、強く、気高く、賢い、すべてに不足のない、自由な人として生きることができる。この世の問題に巻き込まれて疲弊し切ったり、行き詰まり、方々に助けを求めて人としての尊厳を失うことはない。

主イエスは、父なる神の御心を行うことが、ご自分の隠れた糧だとおっしゃられたが、それはこういうわけであり、私たちは天の雇用主にこそ喜ばれる生活を送らなければならず、そのことが私たちの地上生活において真のサラリーとなるのである。

この天的な道から逸れるや否や、私たちの力はすぐに失われる。地上では、この世の弱肉強食の原理が働くだけで、自力で自分を保つ力のない弱い人間は、真っ先に残酷で容赦のない結末へと追いやられるだけである。何らこの世における後ろ盾をも優位をも持たないキリスト者の存在などは、地の塩たる役目を失えば、まるで吹けば飛ぶ木の葉のように、この世の事件に翻弄された挙句、世人よりももっとひどい残酷な結末に追いやられるだけである。

そこで、私たちは、無駄な損失を避けるためにも、ただ神の力によって支えられ、守られて生きることこそ、この地上で人としての尊厳を保って生きる唯一の道であることを、できるだけ早期に学ぶ必要がある。天の父なる神に喜ばれる仕事をしてこそ、この世におけるすべての必要が満たされ、生存が保たれることを早期に知らなければならない。

いや、ただ生存が保たれるだけではない。もしも天的な法則に従って生きるならば、私たちは自分の肉体的限界、精神的限界、時間的な制約といったすべての物理的限界の中にありつつも、それを超えて、いかなる限界によっても脅かされることなく、何にも不足することのない、自由と豊かさの中を生きることができるのである。

それが天高く、わしのように翼をかって、自由に雄々しく舞い上がることの意味である。地上の限界に満ちた法則を、はるか足の下に踏みしだき、一人の有限な人間でありながら、一人ではとてもなし得ないような数多くの有益な仕事を果たすことができる。

そこに私たちの尊厳、高貴さがある。しかし、そういう人生が実現するためには、私たちが、まことの命であり、すべての供給源であるキリストに頼り、御父の喜ばれることが何であるかをわきまえて、私たちの真の雇用主を喜ばせるために生きねばならない。

キリストは、人間として地上に来られたとき、罪の他は、私たちと同じようにすべての人間的な弱さと限界を持っておられたが、それにも関わらず、彼はその限界によって、一切、神の御旨を実現するに当たり制約を受けられなかった。

キリストは、地上的な制約の中を生きられたにも関わらず、それによって全く損なわれず、不足することもない完全な人だったのである。キリストは万物を足の下に統べ治める方として、この世の物理法則もご自分に従えることのできる、真に完全な人である。そのキリストにある私たちは今日、自分も彼と同様に生きられることを知る必要がある。

実のところ、物理法則は、私たちを縛るためにあるものではなく、かえって生かすために存在している。
 
考えてもみれば良い、もしも私たちが見栄えの良い鳥かごを買い、そこに美しい鳥のヒナたちを買って入れるとすれば、それは一体、何のためであろうか? まさか様々な限界によって鳥たちを脅かし、苦しめるためではあるまい?

神が目に見える万物を人間のために創造され、その中に私たちを置かれたのも、本来は、同様の目的と配慮からである。それは決して幾多の限界によって私たちを脅かし、苦しめることが目的ではなかったのである。

この地球だけでなく、時空間を含め、すべての造られた被造物は、本来は、人間を生かし、人間に奉仕するためにこそある。しかし、アダムの堕落後、そのような創造の本来的な目的は失われたので、これを回復するには、私たちが真に完全な人であるキリストと霊的に一つに結び合わされ、この世を超えた新たな御国の法則の中を生きることが必要である。

この天的な法則は、この世の言葉で言い尽くすことはできないが、肝心なのは、何をするに当たっても、まずはただお一人の神に栄光を帰することを第一優先し、そのためにこの世的な利益や価値観を二義的なものとして扱う態度を貫くことである。

そうして御国の権益を第一とする姿勢を保つならば、その生き様に対しては、神が最終責任を負って下さる。しかも、それはこの世を超える永遠の保証である。

この世の経営者は、あなたがどんなにその意に従って奉仕してみたところで、あなたの生活を微塵も保障してくれず、むしろ、あなたから取れるものをすべて取り上げ、もう取るものがなくなったと判断した時点で、あなたを捨てて路頭に迷わすであろう。しかし、良き羊飼いである神は、あなたがその御声に忠実に聞き従うならば、あなたに命を与え、あなたを緑の牧場に、憩いの水際へ導いて下さる。あなたはそこで安らかに眠り、安らかに食べ、安心して好きなだけ駆け回ることができる。
  
人間に過ぎない者の栄光のために、自分自身をなげうてば、ただ破滅が待っているだけであるが、天の雇用主であり、まことの羊飼いなるお方の支配下を出なければ、自由が約束されている。

そこで、私たちは、神に栄光を帰するために、毎瞬、自分の力によって生きるのでなく、神の知恵と力に頼って、天的な法則に従って生きることを選び取るのである。

筆者は、この安らかな恵みをもっとよく知りたいと思っている。神の愛と憐れみの深さを、その恵みの大きさを、生きてもっとよく知りたいと思っている。何よりも、キリストにある新しい人の麗しい尊厳、高貴な生活をもっとよく知りたいと願っている。

以前の筆者は、困った時に神に助けを求め、神がもしも助けて下さるならば、その代わりに自分の人生を神に捧げても良いなどといった、まるで取引のような祈りをよくしていたものだが、今はそのような祈り方はもうしない。

むしろ、神は私たちの同労者であり、最も忠実な相談役であり、慰め主である。もちろん、神は私たちの主であり、私たちはその僕であるから、私たちが神と対等になることは決してなく、私たちが、御言葉に服従しなければならない立場にあることは変わらないとはいえ、神はへりくだっておられるので、私たちに必要な時に、いつでも喜んで助けを与え、私たちを支えて下さる。神は忠実な僕にとっては、決して僕を脅かす恐ろしい主人ではない。私たちが心の最も奥底まで信頼して打ち明けることのできる、最も親しい相談役、確かな助言者である。

筆者は夫人が世を去って後、様々な困難を突破して、決して望みを捨てずにあきらめることなく前進する方法を少しずつ学んだ。今はもう悪しき経営者のために、身を粉にして残業するなどの愚かな振る舞いはしない代わりに、御言葉の正しさを生きて証明するためならば、どんなにでも時間を費やし、困難を乗り越え、決してあきらめずに結果を勝ち取りたいと願っている。

こうして、だんだん「お茶」のストックにも、バリエーションが出て来たような気がする。今ならば、筆者は夫人から意志薄弱で弱々しい人間であるかのように叱責を受けることはないのではないか? 

もしも主がお要りようならば――。もしも主が本当に私をお要りようならば、そのためにこそ、喜んで自分の持てるすべてを捧げよう。スカルの井戸で、イエスのために水を汲んだサマリヤの女のように、あるいは、ダビデの渇きを癒すために、決死の覚悟で敵陣に乗り込んで飲み水を獲得した僕たちのように、私たちは神の御心の満足のためになら、地上で自分の限界ある存在をすべてなげうってでも勇敢に進んで行くべきである。その働きが私たちの地上での糧となって行くのである。

私たちの心も、体も、すべては神の栄光のために聖別されて捧げられた生きた供え物である。他の誰のものでもない。そこで、もしも誰かが働いて豊かな報酬を得たいと思うならば、まずは主のために、御国のために、神から栄誉を受けるために働きなさい。フルタイムで御国のために働きなさい。そうすれば、やがて思いもしない豊かさにあずかり、どんな困難に遭遇しても行き詰ることなく、常に幸福に満ち足りて生きることができるだろう。

こうして、私たちは、地上で天の権益のために身を費やす代わりに、それによって失われるものとは比べるべくもない、巨大で重い天の報酬にあずかる。その報酬とは、御父、御子、聖霊の交わりの中に入れられること、そして、私たちの主なる神からの誉め言葉である。

キリストが再び地上に来られる時までに、大いなる祝賀式典に備えて、彼のために栄光の花道を整え、豪勢な食卓を用意せねばならない。
 
だが、神が喜ばれる祝宴の食卓とは一体、何だろうか? それは神の御心を満足させるべく整えられた人の心である。かつてバプテスマのヨハネが人々を悔い改めに導き、主イエスの到来のために道を整えたのと同様、地上にあるすべてのものが、御前に膝をかがめ、すべての思いがとりことされてキリストに従う日のために、私たちが道を整えなければならないのである。

そのために、私たちは自分自身を叱咤激励し、忍耐しながら、奮闘を続け、幾多の戦いをくぐり抜けて、収穫を勝ち取っている。地上にける信徒の交わりのためにも、いくつかの物品を持ち寄るが、何よりも、主の満足を勝ち得るために、日々、働いているのである。
 
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものにあるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く(2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。
 
これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。
 
最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。
 
信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。
 
信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。
 
さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。
 
筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。
 
筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。
 
今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。
 
かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。
 
もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。


「私は貴人たちと争った」―ネヘミヤの例から―キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足である真理を回復する終末の運動

 さて、Dr.LukeのKFCの異端思想の分析がひとつの山を越えたので、少しほっとしている。

 むろん、これで終わりではないが、一つの山場を越えただろうと感じている。KFCの理念の異端化を明確に分析することにより、この悪しき団体と霊的な訣別宣をしたことが、今後、筆者の人生に必ずや有益な効果をもたらすであろうと確信している。

 ずっと以前に「牧師制度の危険〜偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望〜」という記事を書いたが、そこに記されている警告のほぼすべてがまさにKFCにぴったり当てはまっていると感じられるため、多少、追記しておいた。
 
 KFCは、キリスト教界に属さず、牧師制度を持たなくとも、教会に「御言葉を取り継ぐ」ための人間のリーダーを置けば、必ず、その人間が神格化され、どの団体でも最後には同じ腐敗に落ち込むということを証明する格好の生きた実例であると言える。
 
 キリスト教界の牧師制度を批判していたDr.Lukeが、牧師制度と同じ罠に落ちたことは、まさにカルトとアンチカルトが同一であることをよく示している。御言葉に立脚して生きないならば、他者への批判はむなしい。むしろ、御言葉に立脚せずに、人間的な観点から、政敵を批判することは、危険でさえある。Dr.Lukeもまた、村上密牧師と同じように、魔物を見つめているうちに、魔物と一体化したのである。

 神と人との仲保者はキリスト以外にはない。信者にはキリスト以外のどんな目に見える「霊的指導者」も要らない。にも関わらず、御霊以外に「みことばを取り継ぐ教師」を置き、それを介して神を理解しようとする制度を打ち立てると、必ず、それが人の心の偶像となり、神の御怒りを買う様々な呪われた事象を引き起こす源となることをKFCはよく証明している。

 確かに、Dr.Lukeの言った通り、エクレシアとは人間が造った組織ではないのである。しかしながら、Dr.Lukeはそのことを重々知りながら、自分自身が組織のリーダーとなる栄光にしがみつき、これを捨てられなかったのだから、キリスト教界よりももっと罪が深いと言えよう。
 
 ペンテコステ・カリスマ運動は、特定の霊的指導者に信徒を従わせるという共通したスタイルを持っており、KFCはこの運動と手を切らなかったのであるから、以上のような結果に至るのも偶然ではない。

 牧師制度を非難しながら、自分が牧師同然の存在となって、信徒の心を盗み(しかも現役のキリスト教界に身を置いて、他の指導者に従っている信者たちの心を盗み)、自らを「神」として、栄光を受けているDr.Lukeには、もはやニッポンキリスト教界を非難することのできる資格がない。

 にも関わらず、相変わらず同氏は、キリスト教界だけに非があるかのように非難して、自分自身をかえりみようともしないのだから、そんな同氏に降りかかる報いは、おそらくキリスト教界の牧師以上に厳しいものとなるであろう。

 Dr.Lukeは現在、自分の活動を批判する人間は、みな同氏に「嫉妬している」のだと公言している。筆者のように、あからさまにKFCの異端性を指摘している人間も、同氏から見れば、まさに「Dr.Lukeに嫉妬している筆頭格の人間」ということになるのであろう。

 だが、実際には、そんな馬鹿げた理屈は、同氏の頭の中だけで作り上げられた被害妄想に過ぎない。何しろ、筆者にはこの老境にあって自分を「神だ」と宣言しているおじさんに嫉妬しなければならない理由が何も存在しない。

 筆者は自分の人生に満足しており、主がこれから何をして下さるのか、将来どんなみわざを見せて下さるのかに霊的飢え渇きと期待を寄せている。

 普通に人間的な要素だけから考えても、筆者には、Dr.Lukeに嫉妬する理由がない。筆者はDr.Lukeよりも長生きするし、Dr.Lukeはピアノを弾けるのだろうか、楽譜を読めるのだろうか、白鍵と黒鍵の区別が分かるのであろうか、キリル文字が読めるのだろうか、それから、女性ならではのたくさんの特権を、全く味わうことができないではないか。

 一体、なぜ、筆者がそれらを全部脇に置いて、Dr.Lukeに嫉妬しなければならない理由があるのか、あるいは、Dr.Lukeを目当てに群がっている信者たちに筆者が嫉妬している、という理屈になるのであろうか。

 だが、KFCに集まっている全ての人々よりも、筆者は年少であり、さらに、KFCにいる女性たちの多くが、家庭的に不幸である。結婚していても、夫の愚痴を外で触れ回るような人たちがおり、あるいは、夫憎しという気持ちから、もしくは家庭内の孤独から、Dr.LukeとKFCに希望を託し、現実逃避しているように見えてならない。自分の抱える人生の諸問題から逃げるために、KFCを利用しているのである。

 しかも、彼らはKFCの中で、Dr.Lukeという偶像を巡って、絶えざる内紛を経験して、互いに妬み合い、押しのけ合っており、そして、いつも最も有能な人々から順番に排斥されて今日に至っている。

 そういう恐るべき様子を実際に見ていながら、誰がそんな集団を妬むのであろうか。
 すぐに考えれば分かることだが、すべてはさかさまであり、逆なのである。Dr.Lukeこそ、キリスト教界と、彼に理解できない真理を知っている信者たちに、嫉妬して来た人間である。

 まず、Dr.Lukeがとりわけ憎しみを向けているキリスト教界の牧師には、自分の教会と信徒の群れがおり、彼らはDr.Lukeよりもはるかに商売上手でしたたかであるから、礼拝堂さえ持たないKFCとDr.Lukeを妬まなければならない理由は存在しないであろう。

 さらに、キリスト教界には、真理がそれほど開けていなくとも、Dr.Lukeには逆立ちしてもできないような、神に対する貞潔な生き方をする信者たちが存在している。多くの富はなくとも、主だけを愛する人々が存在している。そのような人々は、たとえ組織の中にいたとしても、エクレシアの一員なのである。

 そして何よりも、我々には、御言葉なるお方への確かな信仰が存在している。我々はキリストのうちにあって「神の子」とされる特権にあずかっているので、Dr.Lukeのようにキリストを否定して、「私は神である」などと決して宣言する必要がない。そのように言うことによって、Dr.Lukeは自らまことの神、唯一の神を否定して、自らを救いの対象外としているのである。

 大体、ペットが飼い主になり代わろうとは願わないのと同じように、我々は神の地位を乗っ取ろうと願う必要がない。ペットは慈しまれ、可愛がられ、育てられてこそ、幸せなのであり、我々は、神になるためではなく、神を賛美するために造られたのである。

 ペットは飼い主と共に泣き、喜び、楽しんでこそ、幸せである。ペットがパソコンに向かって複雑な作業をする必要もないし、生活のことで思い煩い、月曜から金曜まで満員電車に乗って通勤して働かなくとも良い。学術論文も書かなくて良いし、偉業を成し遂げることも期待されていない。そんなことは彼らに最初から求められていない。ペットを養うのは飼い主の責任であり、飼い主がペットの命を支えるために偉業を成し遂げるのである。

 我々は動物以上の存在であり、ペット以上の存在であり、神に愛され、育まれ、訓練される神の子供である。しかし、子供であり、僕でありながら、同時に、キリストは我々を友と呼んで下さり、花婿の愛を持って接して下さり、もし私たちが切に願い求めるならば、ご自身を現し、御心を分かち合って下さる。果てしなく偉大である方が、我々人間に過ぎない者を心に留めて、愛し、慈しみ、ご自身を分かち合って下さるのである。

 そのように愛され、キリストを通して、父なる神の子供として受け入れられているのに、一体、何の不満があって、我々が、神の地位を乗っ取る必要があるのか。神の子らは、時が来れば相続者として、父の財産をすべて受け継ぐのである。主イエスの御名によって、彼のものはすでに私たちのものとされている。御霊が、約束のものを受け継ぐ保証として与えられている。なのに、一体、何のために、我々が神の子の特権を捨てて、「神」ご自身になり代わろうとする必要があるのか。

 神から疎外されていればこそ、彼らはそのように企てるのである。相続者でないからこそ、家長を押しのけて、家の財産を乗っ取り、盗もうとするのである。

 現在のDr.Lukeの姿は、まるで一杯のレンズ豆のあつもののために、長子の特権を売り払ったエサウのようである。己の肉欲のために、子としての特権を売り払ってしまったので、もう「神の子である」と言えなくなってしまったのであろう。だからこそ、家全体を乗っ取ることによって、不法に相続にあずかろうと、家長を否定してまで、「私が神である」と主張しているわけである。まだ時も来ていないのに、自分が家長になろうとしているのである。

 腐敗した富や特権が彼らをそこまで盲目にさせたのであろうか。救いは、神の恩寵であって、人間の覚醒によっては決して手に入らないことを彼らは忘れたのである。エサウは泣いて懇願したが、長子の特権はもう戻って来なかった。

 これまでにもそうであったが、自分がいかに愛されているかではなく、いかに妬まれているかということばかり強調するDr.Lukeは、自ら悪しき言葉を振りまくことによって、自分で自分を貶め、自分で自分を呪い、自ら全世界の信者の憎まれ者・嫌われ者となり、悪霊の攻撃を自ら呼び起こしているのである。

 日本には言霊信仰というものがあるが、ましてクリスチャンは御言葉なるお方を信じているわけであるから、自分の述べる言葉の大切さを理解しなければならない。我々は自分の言葉によって、自分の歩みを規定しているのである。

 悪い言葉を自分に対して吐けば、悪霊がそれに乗じてやって来る。Dr.Lukeのように、絶えず「私はキリスト教界から標的にされ、大勢の信者たちから憎まれ、嫉妬され、歯ぎしりされる対象となっているのだ」などと豪語する人間が、無傷で済まされるはずがない。

 そういう自虐的な言葉は、悪霊たちの大好物であり、そういう台詞を吐き続けて自分で自分を傷つけている人間を、悪霊どもが放っておくことはなく、喜んで人間関係のもつれと混乱の中に投げ込み、彼を自分で述べた通りの結末へと導くであろう。

 いい加減に気づかなければならない。日本キリスト教界がDr.Lukeを攻撃しているのではなく、彼が自分で自分を貶めているだけである。 Dr.Lukeのことばを聞けば分かるが、同氏は自分で悪しき汚れた言葉を連発しては、自ら暗闇の勢力の敵対感情を煽り、自分で破滅と呪いを招き続けているのである。

 Dr.Lukeはこれまでニッポンキリスト教界に破滅の宣告を下し続けたが、かえってその報いは、KFCに降りかかり、キリスト教界の手先が送り込まれてKFCは会堂を失うということも起きた。
 
 また、KFCでは、絶え間なく、信者たちの妬みによる足の引っ張り合いが起きて来たが、それもまたすべてDr.Lukeが自らを神格化したことによって引き起こした現象である。

 KFCにはこれまで絶え間なく不幸な事件が起きて来たが、そうした事件は、全てDr.Lukeのことばによって招かれたものであった。今や、同氏は、自分や自分たちの団体が、全世界から憎まれ、とりわけキリスト教界から激しい憎しみの対象とされ、絶えず攻撃されているかのように主張しているが、そのように主張することによって、自ら悪霊につけ入るすきを与え、霊的に敵を呼び込んでいることに全く気づいていないのである。

 そんな自作自演劇によって自ら滅んで行こうとしているのだから、全く取り合う価値もないほど馬鹿馬鹿しいことである。しかも、自分たちを「神だ」と言いながら滅びゆくのだから、何とも形容しがたいほどに愚かしいパラドックスである。

 だが、約70年ちょっと前に、そういう人々が我が国には大量に存在していた。その人たちは、全身全霊で「神になる」ことを求めながら、異常かつ悲劇的な死に方で、死んで行ったのである。いつの時代にも、恵みによって救われるのでなく、自分から神になろうとする人々の行き着く先は、同じなのである。

さて、今回の本題は、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ 今日への生けるメッセージ」を示すことにあった。これを読んで気づかされたことがある。

 筆者はこちらに来た当初、こちらには、エクレシアに属する民が大勢いるのだろうと想像していた。そこで、そのような信者たちと出会い、今までと違ったより充実した交わりを育めるだろうと期待していた。

 ところが、現実はまるで逆であった。筆者がここに来るまでは、高みに存在するかのように見えていた輝ける信者たちのほとんどが、筆者の仲間でないどころか、聖書の御言葉に反する憎むべきものを手放そうとしないアンシャン・レジームの代表者であることが判明したのである。

 彼らは、自分たちは組織を持たない、と言いながら、組織を作り、指導者を置かない、と言いながら、指導者を崇拝し、自分たちはキリスト教界の信者とは違う、と豪語しながら、キリスト教界よりももっと悪い霊的姦淫に落ちていた。そして、地上の富を誇り、肉欲を誇り、十字架を語りながら、自己を決して十字架の死に決して渡すことなく、神の御言葉を曲げて、高慢に、忌むべきものを宝として歩んでいたのである。

 筆者は当初、人間的な未熟さから、そのような人々を説得可能であるかのように思っていた。彼らを公然と辱めることがためらわれ、何より、彼らの存在が惜しまれたのである。だが、それが、不必要な同情であることに気づき、また、すべての説得は意味がなく、それはミイラ取りがミイラになる道でしかなく、この人々はもともと仲間ではなく、むしろ、公然と対峙せねばならない敵同然の裏切り者の相手だったのだ、という事実に気づき、彼らを説得しようという考えを捨てて、ただ主に向かって行ったのである。
  
 だが、しばらくの間、こうした事態は筆者の目に異常すぎるように映ったので、一体、これは何だろうと思いめぐらしていた。一体、筆者が期待していたエクレシアはどこへ行ってしまったのか。こんな有様が主の御心なのか? 何のために筆者はここに置かれたのであろうか? なぜにこれほど主に忠実な民がいないのか?

 だが、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ」を読むと、そんな疑問も氷解する。
 
「終末の状況」、これは主イエスが地上に来られた当時の様子と重なる。

・・・ネヘミヤ記は一貫して主の来臨と関係しているということです。ルカはただちに主イエスを示します。彼は宮の中で少数のレムナントに囲まれています。これらのレムナントは旧経綸から来た人々であり、新経綸の証しを担います(なぜなら、主イエスが来られた時、証しを担っている人はごく僅かしかいなかったからです。シメオン、アンナ、他の少数の人々だけが、イスラエルの慰め、主のキリストを求めていました)。

主イエスは確かにこう言われたのである、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)

これは主の来臨に向けて、エクレシアが地上で大規模に拡大して行くというある人々の予測とは全く逆である。彼らは、神の家を建設するという名目で、絶えず人間の方ばかりを向いて、普通に考えても、到底、満足できない水準にある人々、しばしば堕落した人々を助けようと、活動にいそしんでいる。その結果、ほとんどの場合は、ミイラ取りがミイラに、盲人による盲人の手引きになって終わるのである。

キリスト者は、弱さや問題によって連帯することはできない。十字架を経て、エクレシアの戸口で自己に死んで、キリストの復活の成分によって結びつかなければ、エクレシアとは呼べない。キリスト以外のものによって連帯する時、決して持ち込んではならないものが神の家に持ち込まれ、交わりが損なわれることになるのを私たちは理解しなければならない。

おそらく、エクレシアの発展とは、規模の増し加わりではなく、質の深まりなのであろう。キリストが増し加えられる度合いが、エクレシアの拡大であり、それは明らかに規模の問題ではなく質の問題なのである。

そこで、終末の時代に、主に忠実な民がほんの少ししか残っていないように見えたとしても、落胆すべきではないことが分かる。

さて、ここからは解説を省くことにする。筆者の言いたいことは、もはや解説しなくても明らかだからだ。ネヘミヤの物語のどれほど多くの部分が、実際に、筆者自身の経験して来たことと重なるであろうか。

ネヘミヤは神の家の腐敗に直面した。大祭司や、神の家にいて高い地位に着いている指導者や信者たちの堕落を見た。信者が自分の兄弟を貶め、踏みにじり、兄弟を搾取することによって利益を得ているのを見た。また、信者が分不相応な贅沢を享受した結果、負債から抜け出られなくなっている様子を見た。信者と呼ばれている人々の多くは、大会、指導者のメッセージ、先人たちの書物など、外からの教えの助けにすがり、自分自身の信仰によって立っていなかった。また、多くの信者が、神によらない汚れた教えを大目に見て、異端が公然と神の家に入りこんでいた。ネヘミヤはこうしたものを見逃さず、「貴人たちと争った」――、すなわち、主イエスが商人たちを宮から追い出したように、妥協することなく、混合を退け、十字架に敵対する人の自己からのものを神の家から断ち切ったのである。そして、神の満足は、ただキリストだけであることを示し、キリストだけを土台として据えるよう、神の民に促した。神の家の回復はただそのようにしてしかなされ得ない。



当時の状況

さて、この本に戻ってそれを読み通し、ネヘミヤの時代の状況を示すものに注目するなら、とても嘆かわしい状況が示されていることがわかります。第一に、神の家の明確な証しは崩れ去っています。エズラが反対した問題が舞い戻り、よみがえっています。エズラ記が示すあの麗しい運動、神の家に関するあの真理の回復、この証しや神の家に反する事柄の放棄は、すべて台無しになっています。そして、昔の悪がふたたび台頭しています。証しは弱く、効果のない状況にあります。

エズラ記を背景として、エズラ記とその内容をすべて生き生きと心に留めながらネヘミヤ記を読み通すなら、ネヘミヤの時代、誰もそれらに気づいていなかったこと、そして、ネヘミヤが登場して神の御心にかなうことを行った時、初めてそれらが白日の下にさらされたことに、私たちはびっくり仰天するでしょう。

これは常にそうです。心から神のために出て行かない限り、そこにいかなる邪悪なものや神に反するものがあるのか、あなたは決してわからないのです。しかし、そうする時、以前なら存在するとは信じられなかったものを、あなたは見いだします。それらはひっそりしており、隠されています。ひっそりと進行しつつあり、人々の生活をとらえ、主の証しを破壊しつつあります。神のための積極的な何かが到来する時、初めてそれらの生命や活動が明らかになるのです。



抑圧

そのいくつかを見て下さい。主の民の多く(歴史的に言ってユダヤ人のこと)は、自分の兄弟たちの間で奴隷として売り飛ばされていました。主の民はお互いを売買しあい、自分の兄弟を犠牲にして、自分の権益や利益を求めていました。自分の兄弟を辱め、貶めることで、自分の地位を維持していたのです。

「今日の霊的状況はこれとは異なる」と言う自信は、私には到底ありません。自分の支配下に置ける人々がいなかったなら、また神の民をも自分の食い物にすることができなかったなら、一部の人々はどうするのでしょう?私にはわかりません。これは単純な形から極端な形に至るまで、様々な形で現れます。これは、あの聖くない不快な批判という単純な形で、主の民の間に現れるかもしれません。そうした批判は結局のところ、「自分たちは彼らよりも優れている」と言っているにすぎず、相手を犠牲にして自分たちを正当化しているにすぎません。

私たちの相互批判のうち、これが隠れた動機ではないものがどれくらいあるでしょう。ああ、あの永遠の恒久的な「しかし」、留保が常にあるのです!「ご存じのように、彼らは主を愛しています。しかし……」「彼らは主のためにとても熱心です。しかし……」「彼らには長所がたくさんあります。しかし……」。この「しかし」が、長所全体よりも大きく浮かび上がって、長所をすべて傷つけるのです。

この「しかし」を用いる私たちの多くは、「自分はすぐれている」という思い込みや自分のプライドのために、そうするよう駆り立てられているにすぎません。つまり、他の人を貶めることによって優位に立つことが、私たちにはあまりにも多いのです。そして、神の子供たちを損なう高ぶりのこの形態により、私たちは自分の優位性、地位、影響力を得ますし、また得ようとしているのです。これはそれを霊的に示す単純な例なのかもしれません。

新約聖書の勧めはすべて、これとは別の方向を強調しています。それが強調しているのは、他の人を自分よりも上に置くこと、他の人を自分よりも優れていると常に思うことです。これは反対の方向です。これをするのは肉にとってとても辛いことです。天的なものの証しを神の家の中で十分明確に維持するには、十字架が最初に到来して、この高ぶり、この傲慢、この狡猾な自己充足、自己評価、この「謙遜な」(?)批判――これは結局のところ、高慢の本質そのものです――の根元に直ちに至らなければなりません。

この事実を強調しなければならない理由はおわかりでしょう。高慢は他の多くの方法で現れるかもしれませんし、実際に現れています。たとえば、神の民を支配すること、地位を得ること、奉仕の特権や機会を自分が地位を得るための機会とすることです。新約聖書風の別の言い方をすると、次のようになります。

弟子たちは聖霊でバプテスマされる前、自分の兄弟たちよりも上に立つ機会、互いに優位を競いあう機会、首位の座を占める機会ばかり求めていました。主イエスは彼らに強い言葉を述べなければなりませんでした、「私はあなたたちの間で仕える者のようです」「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためです」。これが十字架の精神です。

さて、ネヘミヤ記に記されている状況に相当する霊的状況がまぎれもなく存在していることを、あなたは理解できると思います。他の人々が私たちの利益の手段とされており、霊的な意味で私たちは自分の益のために自分の兄弟たちを奴隷として売り払っているのです。もしよければ、あなたはこれをもっと詳しく追うことができます。



破産

この本に出てくるもう一つの点は、主の民であるユダヤ人の多くが破産した生活を送っていたことです。その理由の一部は質入れによるものであり、自分の息子や娘を奴隷として売り飛ばしたことによるものでした。つまり、彼らは自分の権利にしたがって生活していなかったのです。彼らは困窮に陥り、資産もありませんでした。それゆえ、威厳も誉れもなく、負債を負った民だったのです。

この状況も今日霊的にあてはまります。愛する人たち、私たちや主の民の多くは、今日、自分の身分にふさわしく生きているとは到底言えません。残高を調べるなら、破産していることが明らかになるでしょう。もっと簡単な言い方をすると、私たちのうちどれくらいの人がキリストの富を自分で知っているのでしょう?また、私たちのうちどれくらいの人が、他の人々の富に頼って生きなければならない誤った立場にあるのでしょう?

つまり、霊的助けになる外側のものをすべて剥ぎ取られるなら、集会や交わりやそうしたものをすべて取り去られるなら、私たちのうちどれくらいの人が、「私は自分の身分にふさわしく生きています。徹底的分析によると、そうしたあらゆるものから私は完全に独立しています」と言えるでしょう?

私たちはそれらを享受し、それらから益を受け、それらのゆえに神に感謝します。しかし、私たちの命を構成するものは外側のものではなく、主の尊さを知る自分自身の知識なのです。たとえ外側のものをすべて剥ぎ取られたとしても、私たちには決済する能力があり、立ち上がって言うことができます、「あなたは私自身の嗣業を奪うことはできません。私はキリストの内に嗣業を持っています。

それは集会、大会、メッセージ、外側のいかなるものにもよりません。それは主と共にある私自身の内なるいのちです。私は彼を知っているのです」。主はご自分の民の多くを召して、このような状況に直面させられるでしょう。それは、彼らが自分で発見して、見い出すためです。

愛する人たち、終末はまさにこのような状況かもしれません。私は確信していますが、「神の子供たちはみな、個人的な内なる方法でキリストを知り、キリストにあって充足と満足に至らなければなりません」「外側のものが取り除かれ、崩壊し、失望を与えたとしても、自分のためにキリストの内に豊かさを見いださなければなりません」と、終末の時に主は要求されるでしょう。

あなたには決済する能力があるでしょうか?あなたは抵当に入れられているのではないでしょうか?あなたは他の人々がくれるものにすがって生きているのではないでしょうか?それがあなたの支えなのではないでしょうか?

それとも、あなたは自分が主から得るものによって生きておられるのでしょうか?もしそうなら、もしあなたが自分のものを持っているなら、あなたは与えるものを持っており、この人々が陥っていたような物乞いや困窮の状態にはありません。

喜ばしいことに、ネヘミヤは奴隷として売り飛ばされていた人々を贖い、買い戻して、正当な権利を得させました。喜ばしいことに、ネヘミヤは生計を維持するための質入れや子供の売買の仕事をやめさせて、すべての人が自分の足で神の御前に立って自分の道を歩めるようにしました。これは主の民にとって重要な霊的思想であり、終末における運動を示しています。なぜなら、私たちはあまりにも長いあいだ恵みの外的手段にすぎないものに基づいて生活してきたからであり、主ご自身が自分にとっていかなる御方であるかに基づいてあまりにも少ししか生活してこなかったからです。




汚された神の家

次に、宮が異教徒によって汚され、世俗的な用途に用いられました。これを適用する必要はほとんどないと思います。この二つは共に進みます。天から直接生まれた純血の者ではない人々、新生した神の子供ではない異教徒が神の家の中に入り込み、主の民の間に場所を得る時、主の家はただちに主の御心とは正反対の関心や用途の方向にそらされてしまいます。地に引きずり降ろされてしまいます。神の家は地的なものにされ、あるべき場所から引き出されてしまいます。

敵は常にこれをしようとしています。真に再生されているわけではない人々や、再生されたと思い込んでいる人々を、主の民の間にこっそり入り込ませることが、敵の常套手段です。彼らは主の民に属する者としてやって来ますが、主の民ではありません。彼らの存在によって、この世的判断、この世的方法、人の方法、人の考えが、神の家の中に入り込み、それを肉の水準の低い生活にまで引き下げてしまいます。これは悪魔の主要な働きの一つであり、悪魔は絶えずこれを試みています。そして、この試みは成功することがあまりにも多いのです。

確かに、私たちはこれを今日見ることができます。なぜなら、これは大いに広まっているからです。これについて教えてもらう必要はほとんどありません。私たちは至る所でこれに気づきます。しかし、ネヘミヤは終末の神の動きを代表する者として、それに終止符を打ちます。彼は神の家から異教徒を一掃し、神の家が神の御思いにしたがって維持されるように、そして人の考えや人の方法が排除されるようにしました。

もちろん、私が物質的な神の家のことや、人々の集まる諸教会や場所のことを述べていると思う人は誰もいないでしょう。それもこの一つの適用になりうるかもしれませんが、私の念頭にあるのは、神のために天的な民になるよう召された神の民です。

この民の中に肉的な原則、天然的な活動や力を持ち込もうと、敵は絶えず試みています。それは、この証しを天上から引きずり降ろして、人によって運営される地的なものをそれから造り出すためです。ネヘミヤはそれを許しません。彼はそれに抵抗します。こういうわけで、彼は終末に神がなさることを示しているのです。




破られた安息日

次にまた、安息日が無視されていました。安息日がそのあるべき地位から転落し、軽視され、脇にやられ、見過ごされ、無視されていたとは、エズラからこのかた、とんでもないことではないでしょうか。

ここでただちに言いますが、私たちが今考えているのは、これに相当する新約聖書的な霊的意味であり、日のことではありません。ここの時としての安息日のゆえに私たちは依然として神に感謝していますし、それに固執して容易に手放しはしません。しかし、安息日に関する私たちの理解は遙かに高い水準に引き上げられていて、私たちは次のことを見るに至っています。

すなわち、安息日は、神が主イエスによって安息に入られる時の、神の働きの完了の歴史的な型なのです。また、安息日は御子のパースンによって神の働きがすべて完全に成就されたことを物語っているのです。

キリストによる神の働きの完成を脇にやり、見過ごし、無視するなら、あなたには安息も平安もありません。あなたは依然として荒野の中をぐるぐるとさまよっています。あなたは依然として、成就されていない不完全な働きの領域の中にいます。「成就した」という言葉を宣言する立場の上に、あなたはいまだ落ち着くには至っていません。

完成されたキリストの御業を霊的に真に理解している魂は、安息している魂です。神の安息の中に入って、悪魔の圧制から解放されています。完成されたキリストの御業は「もはや罪定めはない」と言っているのに、この事実にもかかわらず、悪魔は常に訴えや罪定めをもたらそうとしています。このせわしなさ、熱っぽい内省、自己分析、ひきこもりはすべて、安息日を見過ごしているせいです。決して安息することも、落ち着くことも、確信を持つこともなく、確かなものが何もないのは、すべてそのせいです。


私たちにとって安息日とは一人の御方であって、日のことではありません。したがって、毎日が私たちにとって安息日でなければなりません。私たちはみな、聖書の一節、テキストとして、「主の喜びはあなたたちの力です」という御言葉を引用しますが、これがこの素晴らしい御言葉の最も深い意味に違いありません。主の喜びとは何でしょう?「神はすべてのわざを休まれた」「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それははなはだよかった」。

主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。これを見過ごしたり、見逃したりするなら、あなたは安息日の休みを失い、心の安息を失います。これがこの状況の原因でした。

しかし、ネヘミヤはそれを回復しました。終末時の運動は、キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足であることを回復するものであり、神の民をその中にもたらすものです。

ああ、愛する人たち、この重要性はどんなに評価してもしすぎることはありません。なぜなら、敵は必死になってこれに反対するからです。二つの運動が終末を特徴づけることになると私は見ています。一方において、敵は神の民の足下から確信の根拠を断ち切るために、彼らから安息、確証、平安、確かさ、確信を奪い去ろうとしており、彼らを疑い、恐れ、心配で取り囲んでいます――兄弟たちを訴える者は、終末にこのような方法で、強烈な姿でやって来ます。

神はそれに対抗して、キリストによるご自分の御業の十全性と完全性を回復されます。そして、ご自分の民を安息日の休みの中に置き、その民の心をキリストの方に向かわせて、「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」「あなたは彼にあって受け入れられており、私は満足しています」と仰せられます。これはみなキリストによります。

主イエスのこの証しを終末に回復すること、これは大いなる対抗要素です。「ネヘミヤ」は終末における回復のための一人の人かもしれませんし、あるいは一つの団体的な器かもしれません。いずれにせよ、「ネヘミヤ」は自分の務めの重要な一部分として、このような意味で安息日を確立しなければならないのです。




十分の一を納めることを怠る

状況の一部分として、もう一つのことがこの本の中に出てきます。それは、主の民が自分の持ち物の十分の一を納めるのを怠っていたということです。私たちが十分の一について述べる時、「十分の一だけが主に属しており、残りの十分の九は自分に属している」とは誰も思わないで下さい。これはまったく間違った聖書理解です。十分の一は全体を表すものであり、「一切を主のために所持する」という事実を示すものとして献げられたのです。

十分の一は「すべては主のものであること」の印であり、証しでした。十分の一が献げられた時、「この収穫全体の十分の一は、すべては主のものであることの印であり、あらゆるものを主からの賜物として主のために所持する印です」という精神で献げられました。

さて、生活がこの域に達する時、神の祝福があります。十分の一を献げることをあなたが始めておられるかどうか、私にはわかりません。それは始まりにすぎません。これが十分に確立される時、主はそれを遙かに超えることを可能にされることがわかるでしょう。そして、この道に沿って到来する主の祝福に、あなたは驚くでしょう。

主の民の多くは、収入や現世の所有物のことで苦しみ、心配し、悩んでいます。この領域での彼らの生活は苦しいものです。これは主に正当な地位を与えていないからです。「あなたの持ち物をもって、あなたの収穫の初なりをもって、主をあがめよ」「私を尊ぶ者を私は尊ぶ」。主のために所有するという主の法則を悟り、真っ先に十分の一をもって主をあがめるようにしさえするなら、現世の困窮から大いに解放されるでしょう。

この言葉を忍んで下さい。これをもう一度強調しても構わないでしょう。神はあらゆるものに対して権利を持っておられます。私たちの十分の一は、すべては主のものであること、そして、すべては主に属するものとして保たれ、用いられねばならないことの、初歩の証しにすぎないのです。

さて、ネヘミヤは民の所有や収入に関して主を正当な地位に置き、これを正常化しました。これは霊的繁栄と現世の安寧に寄与します。さしあたって、これはこれで良いことにします。




混合と区別の喪失

また次に、主の民の多くが外国の妻と結婚していたこと、そうして彼らの区別が失われていたことが、ここでわかります。ネヘミヤはそれらの婚姻関係を断ち、違反者たちに妻を郷里や祖国に送り返させて、そうして神聖な原則を確立しました。

さて、これに対応する霊的意味は、「回心していない夫や妻を持つ人は、彼らから離れ、彼らを無視しなさい」ということではありません。しかし、遺憾ながら多くの人がそうしています。回心していない夫や妻は、主のことも主の権益も心にかけません。そのため、彼らの伴侶たちは多くの集会に出かけて、彼らを独りぼっちにしてしまいます。この罠にかかってはいけません。

これに相当する霊的意味は、「旧約聖書の中のこれらの妻たちは、常に原則を表す」ということです。ご存じのように、女性は聖書全体を通して数々の原則の型です。ここで型として示されているのは、神に完全に属しているものとは異なる数々の原則との同盟、関係、関わりです。こうした原則のいずれかと自発的に関わるなら、主の民を常に特徴づけているべき、あの霊的区別は破られてしまいます。

これはとても広範な領域を網羅しており、数え切れないほど多くのことを含んでいます。しかし、これがその包括的適用です。ここに記されているのは、啓示された神の御旨に反する要素、特徴、原則、法則であり、主の御心、神の御言葉、御霊の道とは別の相容れないものです。ここに示されているのは、それと自発的に関わりを持つこと、それが自分と関係を持つのを許すことです。そのような道の結果、混合という子孫が生じます。これは、神に属するものと敵に属するものとの混合です。神の御言葉に啓示されているように、神が最も忌み嫌われるものは混合です。至る所で神は混合に反対されます。神は物事を全く完全かつ絶対的にはっきりと規定して、完全にご自分に属するものとされます。

ネヘミヤ記のこの城壁は、神に完全に属するものと神に属さないものとを分ける印です。神から出ていないものの割合や程度の問題ではなく、神からではないものが少しでもあってはならないのです。内側にあるものは隅々まで神に属していなければなりません。神に属していないもののための余地は、そこにはありません。ですから、これらの妻たちはその領域から追放されて、送り返されなければなりません。これが示されている霊的原則です。神は混合に反対されます。主の民の間には、恐ろしいほどたくさんの混合があります。




郊外のクリスチャンたち

述べるべきことが、おそらく他に二つあります。ここに見られる民の大部分は、エルサレムの外の郊外に住んでいました。そのため、エルサレムには手仕事に十分な人がおらず、ネヘミヤは彼らに、出て来て他の人々を中に連れてくるよう訴え、励まし、勧めなければなりませんでした。この霊的解釈はとても単純ですが重要です。

霊的郊外に住んでいる主の民が大勢います。彼らは主の証しの中にいません。ほんの少しだけ外にいるのかもしれませんし――ほんの少しとはいえ、外にいることに変わりはありません――あるいはかなり離れているのかもしれません。彼らはあらゆる種類の理由をあげることができるでしょう。「変人になりたくありません」「バランスを欠いていると思われたくありません」「バランスを取りたいのです」と言う人もいるでしょう。あらゆる種類の理由(?)が挙がるでしょう。偏見や疑いのためかもしれません。安全な道を進み続けたいからかもしれません。代価への恐れや、価を払いたくないからかもしれません。中に入ってネヘミヤに協力するなら、サヌバラテやトビヤが好意的でない目で自分たちのことを見るようになるためかもしれません。

これに関して全く確信がないからかもしれません。事がどう運ぶのか見ることを彼らは願っています。事がうまく運ぶなら、そして事が堅固な土台の上に据えられていることがわかるなら、彼らは危険を冒すでしょう!事が堅固なら何の危険もなく、したがって何の英雄的行為も栄誉もありません。

私が何を言っているのか、おわかりでしょう。主が新しいことをなさる時、また、全くご自分と天――そこには天然的な肉の人のための余地はまったくありません――に属するものに対する完全な証し、全く主に属するものに対する完全な証しを得ようとされる時、それは代価を払うこと、好意を失うこと、友人をなくすことを伴います。誤解や誤報を伴います。批判や、「あまりにも極端で変わっており、他のすべての人たちと異なっている」という非難を伴います。そのようなあらゆることを伴うのです!そうではないでしょうか?

さて、これはどうなのでしょう?問題は、神と共に完全に中に入るのか、それとも郊外にとどまり続けるのか、ということです。ネヘミヤは促し、勧め、嘆願し、励まし、手を差し伸べ、招き入れようとします。神はほむべきかな!必要を満たすのに十分な応答がありました。周辺にとどまるのか、それとも中に居てそのような立場の結果を受け入れるのか、私たちは決心しなければなりません。私たちは徹底的にこの問題に決着をつけなければなりません。私たちの中にはそうしなければならない人がいます。

これが何を伴うのか、どれだけ代価が必要なのか、私たちはわかっています。少なくとも、神と共にこの道を取ることによって実際に生じる必然的結果について、私たちはかなりよく見てきました。そうです、しかし、「これは主の道だったのでしょうか?もし主の道なら、長い目で見て、その外側にいても仕方がないのではないでしょうか。一時のあいだ何かを得たとしても、遅かれ早かれ、それは失われてしまうにちがいありません」ということこそ、まさに問題なのです。確かに、私たちは低い水準――損得――で物事を見るべきではありません。結局のところ、「私たちは何のためにここにいるのでしょうか――主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?」という問題なのです。

主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?肝心なのは、「主は何を欲しておられるのか?」ということです。それには代価が必要かもしれません。それは多くのことを意味するかもしれません。多くの方面で交わりを失い、好意を失うかもしれません。敵の恐ろしい悪意に巻き込まれるかもしれません。しかし、私たちに何ができるというのでしょう?私たちは神と共に進み続けなければならないのです。私たちはみな、この場所にいるでしょうか?この問題により、様々な思いが私たちの心に迫っているのではないでしょうか?




公の妨害

次に、締めくくるに当たって、これまで誤謬や悪について述べてきましたが、それらのものにネヘミヤはことごとく遭遇しました。それらの誤謬や悪が存在していたにもかかわらず、彼が登場するまで何の注意も払われていませんでした。有力な、影響力のある、公の階級、祭司たちや貴人たちが、それらの誤謬や悪を支持していました。大祭司ですらそれらにくみしていたのです。ネヘミヤはこれに反対しました。

主と共に進むことを決意する時、公的要素が妨害します。これはまさに真実です。私たちは影響力を持つ勢力に出会い、地位や身分のある人々から反対されます。大祭司のように神の最高の権益を公に代表し、人からもそのように受け入れられている人々ですら、神のご計画や神の御旨に対して好意的ではなく、神の完全な証しに全く反するものを大目に見ていることに、私たちは何度も気づきます。これはまさに真実です。

あなたたちの中にはこれを証明した人もいます。主と共に進むことを決意するなら、あなたにもこれがわかるでしょう。ネヘミヤはそれにことごとく出会いました。勇気をもって出会いました。「私は貴人たちと争った」と彼は言いました。影響力を持つ階級を前にして、彼は屈しませんでした。彼は公人たちに屈服しませんでした。彼は貴人たちと争いました。自分が神の委託を受けていることを彼は知っていました。これが人々の間で、天然的権威だけでなく霊的権威をも彼に与えたのです。なぜなら、神から与えられた立場に立って、神から与えられた務めを果たす時、神が自分の傍らに立って下さることを彼は知っていたからです。 彼をこのような人にした他の数々の要素が背景にあったことを、私たちは理解しなければなりません。しかし、これが彼の態度でした。

自分が神の御旨の中にあることがわかるのは素晴らしいことです。自分が神の働きの中にあることを知る時、あなたは大きな確信を持ちます。あなたがその中にあるものは、あなたが始めたものではなく、天から来たのです。そして、あなたはその中に天から霊的に入ったのです。それは神に属しています。これはあなたを道徳的にも霊的にも優った地位に置きます。そして、形式的なものにすぎない非霊的な威厳を上回る威厳をあなたに与えます。


<略>私たちは主の来臨にかかわる終末の時にいるのであり、終末における働きは際立った証しを起こすものなのです。その証しは復活のいのちと力によるものであり、まったく神から出ており、その中に人からのものは何もありません。この証しは、自らに反する多くのものを対処して取り除くことを要求します。」




最後にもう一度だけ繰り返しておこう、

「主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。」


キリストの至高性

「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。」(コロサイ2:3-4)

 主がご自分に忠実な民の生活と安全を必ず守って下さることを私は信じているが、それにしても、この先の時代は、まことのクリスチャンにとっては、困難な時代となるだろうことを思わずにいられない。特に、クリスチャンたちの間にあってキリストがこれほど否定されているのを見ながら、そう感じずにいられる人は少ないのではないだろうか。

 今日、どのような分野にも、人間の作り出した各種の方法論が溢れ返っている。非凡な知恵と知識を得るために、人間はいく通りもの方法を編み出した。人間の肉と魂が作り出したおびただしい種類の老廃物のようなプログラムは、教会の中にも入り込み、ず高く積まれている。何と多くのクリスチャンがそのような人為的方法論に魅了され、その流行こそが知識の源であると思ってそれを追いかけ、イエス以外の道に引き入れられて行ったことだろう…。

 人は、知恵を得て、真理の高みに到達するために、常に、キリスト以外のはしごを自分の力で作り出そうとする。キリストの中に、一切が満ちているということが、理解できず、そうして自ら一生懸命に作り出したはしごに必死になって栄光を帰そうとするのが人間なのだ。だが、聖書は言う、

 「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。」
(コロサイ2:9-11)

 この御言葉の絶大な意味を、誰も人知によっては理解することができないだろう。人知というものは、常に人間の作った遺産を擁護し、私たちの足りない部分を指摘し、幸せな人生を送るためには、それを補う必要があり、私たちにはもっともっと努力することが必要であり、そのために、段階的なはしごを進歩と訓練によって徐々に登っていくことが必要だと、訴えかけて来る。

 しかし、御言葉は、それと全く逆のことを教えている! キリストを得たことによって、私たちは全てを得ているのだと! キリストにあって、私たちはあらゆる束縛からすでに解放され、もうすべての闘いは終わっているのだと! つまり、キリストと共に御座についたことにより、私たちははしごの頂点にすでに登りつめているのであり、これから四苦八苦して、はしごを登っていく必要はないのだと!

 だが、それを理解することは、あまりに畏れ多く、一歩間違えば、はかりしれない傲慢のようにさえ疑われる。本当に、こんなにも、弱く、空しい器である私が、そんな大それた勝利を得て良いものだろうか? こんな私が、責められるところのない者とされて良いのだろうか? こんな私が、キリストと共に御座につくなど、そんなことがあって良いものだろうか? だが、少し考えてみると、それが傲慢でないことが分かってくる、なぜならば、そこでは一切の栄光が、私たち人間にではなく、ただキリストにのみ還元されているからだ。それは私たちが自力でなしたことではなく、ただイエス・キリストだけが成し遂げられたことなのだ。

 御言葉は言う、キリストをいただいている私たちは、神の満ち満ちている一切の徳を内にいただいているのであると。万物の支配と権威の頭であるキリストと共に、私たちは十字架上で死に、まことの命によってよみがえらされた。そうである以上、私たちはキリストの十字架によって、もろもろの支配と権威の武装からすでに解放され、凱旋の行進の中を進んでいるのだと。

 この「もろもろの支配と権威の武装」(コロ2:15)とは、コロサイ人への手紙第2章の他の表現では、「巧みな言葉」(コロ2:4)、「むなしいだましごとの哲学」(コロ2:8)、「世のもろもろの霊力に従う人間の言伝え」(コロ2:8)、「わざとらしい謙遜」、「天使礼拝」(コロ2:18)、「ひとりよがりの礼拝」(コロ2:23)などと表されている。

 この言葉の前に、あえて慎重に立ちどまってみたい。それは、この御言葉が、当時、コロサイ人の教会の中に、一見、謙遜で、神を心から礼拝しているようでありながら、その実、偽りの、邪悪な礼拝が紛れ込んでいた事実を示しているからである。

 今日にも同じことが言えるだろう。神に捧げられているように見える敬虔な礼拝の中の、すべてが本当に神の御心にかなっているわけではなく、中には敬虔を装った邪悪な礼拝というものが確かに存在する。オースチン-スパークスは、「主イエス・キリストの中心性と至高性」の第四章の中で、コロサイ人たちの一部の礼拝がなぜここで糾弾されているのかを明らかにしている。

 その礼拝を作り出した者たちは、御子イエスを礼拝しているようでありながら、その実、イエスの万物の頭としての権威を否定していた。彼らは上位から下位までの超自然的な存在者(天使等)の権威を探り出し、諸々の霊の階級を明らかにし、キリストを、その天使的ヒエラルキーの中の一員に引き下げてしまったのである。

「彼は天使の軍勢、天使の階級の単なる上官のひとりとされました。おそらく、上位に立つ唯一のかしらとされていたでしょう。そして、これらのものが礼拝の対象として示されました。使徒はそれを「わざとらしい謙遜や天使礼拝」とここで言っています。つまり、人々はとても謙遜なふりをして天使たちを礼拝し、霊の領域の上位者たちを崇拝していたのです。<…>ふたたび読むとわかるように、使徒はこれを地的なもの、人から出たもの、有害で邪悪なもの、徹底的に除かれるべきものとして、すべて拒んでいます。なぜなら、非常に真剣で熱心な宗教心の覆いの下で、それはこの一事を巧妙に攻撃していたからです。それは神である主イエスの絶対的至高性を攻撃していました。」

 これは私の想像に過ぎないが、恐らく、そのような天使的ヒエラルキーは、神秘のベールにくるまれて、末端の信者たちには隠されていたため、その偽りの礼拝に通っていたクリスチャンたちの多くが、自分が本当は何に向かって礼拝しているのか、よく知らなかったのではないだろうか。
 聖書は言う、このような礼拝に溺れていた人々は、「幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇」っていた(コロサイ2:18)と。彼らの教えは神秘性のあるもので、一見、イエスを心から崇拝しているように見え、超自然的な力も、伴っていただろう。しかし、彼らは「キリストなるかしらに、しっかり着くことをしな」かった(コロサイ2:19)。つまり、彼らは諸霊から力を得ており、自分たちの権威と力の源が、キリスト以外にはありえないことを認めなかったのである。

「それはキリストを高く上げ、キリストを礼拝するよう導き、受け入れた人の中に霊的に見える恭しい謙遜な態度を生み出しました。また、彼らに道徳的影響を及ぼして、彼らをとても恭しい民、とても謙遜で熱心な民にしました。彼らはキリストへの大いなる信心を持っており、霊的なものは何でも大いに敬っていました。しかしそのせいで、彼らはその深い所に潜んでいる狡猾な悪魔的要素に対して盲目にされたのです。

キリストへの一種の信心を生じさせることや、道徳的向上という要素を伴う神秘的な魂的『キリスト教』(?)を促進することに、サタンは何と成功していることでしょう。しかしサタンはその中に、自分から出たもの、自分の存在、天から投げ出された時より彼の中にある味わい、主イエスから神格における彼の地位の絶対性を差し引くものを隠しています。
 これがこの手紙の背景にあるものです。この手紙が書かれたのは、このグノーシス哲学、この偽りの霊性、この主イエスへの悪魔的信心を暴露するためです。」


 敬虔な日曜礼拝のように見えて、その実、邪悪な内容を持つ礼拝は、今日にも、きっと存在するだろう。その神秘に包まれた教えの実情は、一部の人々以外には知らされず、多くの人々は、自分がイエス以外のものをを礼拝していることにさえ、気づいていないかも知れない。

 オースチン-スパークスも述べている、「愛する人たち、いま述べたことから、終末の時代にいる私たちへの導きを得なければなりません。あなたは私が述べたことを取り上げて、まさにこのような性格を帯びているものに対して適用することができます。また、将来地上で大いに流行することになるけれども、この本質を欠いているものに対して適用することができます。」

 何によって、私たちはこの「本質を欠いた礼拝」を見分けることができるだろうか。それは、もちろん、その礼拝が、人となって地上に来られた神の御子イエス・キリストの中心性と至高性を認めているかどうか、という点によってである。

彼はすべての支配と権威のかしらです。キリストは絶対的に至高であり、唯一至高です。あの階級に属する者としてではありませんし、あの階級の頂点にある者としてでもありません。彼の階級は他のすべての階級を遙かに超越しています。彼の至高性は彼のような者が他にはいないことによります。彼は天使の階級には属しません。彼は被造物ではありません。彼は永遠に神と一つです。
もちろん、あなたにとってこれは新しいことではなく、あなたをあまり熱狂させることでもありません。なぜなら、私たちはみな真心からこれを信じているからです。」


 天使礼拝や、天使の階級表が作られていなくとも、今日、キリストの位置づけがあいまいな教会は多数存在する。あいまいだということは、キリストが至高の存在として認められていないということである。そこでは、天使が崇められているわけではないにせよ、人間がキリストよりも上位に置かれ、人間が礼拝において最も高く掲げられる存在となり、信徒から敬われる対象となっている。人間を見るために、信者が礼拝に通い、人間の能力によって満たされるために、信徒たちが決まった時間に、決まった場所に集うのである。

 神を礼拝しているようでありながら、その実、人を頭とし、人に栄光を帰し、人によって満たされるための形式としての日曜礼拝が作り上げられている。日曜礼拝そのものが、教会という単語と同じく、あまりにも人間の魂の手垢にまみれて、汚されてしまっている。それは、もはや後戻りできないほどに、キリストの至高性を否定し、キリストにある全てに勝る権威を人々の目から覆い隠し、キリストをただの物語に変えてしまい、かえって、何の力も持たない人間に注意を向けさせるためのブラック・ボックスになり果ててしまっているのではないだろうか…。

 だが、私たちの力の源は、誰のメッセージでもなく、誰の発言でもなく、どんな権威ある人々の最新の教えでもなく、ただキリストご自身である。だから、勇気を持って、信じよう、四隅を持った人工的な建物の囲いの中に通い続けることによって、私たちが生きられるようになるのではない、と。御霊ご自身が私たちに命の息吹を吹き入れてくれているのに、人の作った霊的な人工呼吸器に、もはやこれ以上、支配されるようであってはいけないと。

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:12-15)

 何という恐るべき解放と達成がキリストお一人のうちに成し遂げられていることだろう。私たちは、キリストの十字架を通して、自分たちの罪と不完全性に死んだ。自分を縛るあらゆるむなしい慣習と、自分が不完全であるがゆえに、あれやこれやの努力をして、段階的に階段を登っていかねばならないという、絶え間ない恐れと、それにつけこむ支配に対して、もはや死んだのである。
 私たちを罪に定めるサタン、そして私たちの恐れにつけこんでは、自由を奪い、組織や人間の奴隷にしようとする諸々の支配と権威は、キリストの十字架にあって、すでに私たちに対して何の効力も持たなくなっているのだ! かなり長いが、オースチン-スパークスの文章を再び引用したい。

私たちは十分な結果に至るまでキリストの御業を貫き通す必要があります。そしてその十分な結果は、支配と権威の領域の中に、暗闇の権威、暗闇の支配の領域の中にあります。これは単なる罪(複数)の赦しや罪(単数)からの救いの問題ではないことを、罪人が知ることが重要です。

罪人は知らなければなりません。救いにより、敵であるサタンの権威、支配と権威の権限は、すべて破壊され、打破されました。そして、サタンのあの権利、あの権威、あの合法的支配から、彼らは救い出されました――なぜなら、ここの御言葉がそう述べているからです――キリストにより、彼の十字架によって、救い出されたのです。これは、サタンはもはや何の権利も持っていないので何の権威もないことを意味します。

彼の権威は彼の権利にかかっており、彼の権利は私たちの心の状態に基づきます。十字架はこの状態を取り扱い、彼の権利の根拠を破壊除去し、彼の権威を打ち破ります。これを最後まで貫き通しなさい。

今や、キリストの中にあるものはすべて私たちのためです。キリストご自身が敵に対して彼の至高性を体現しておられます。なぜなら、彼の中には敵の足がかりとなる根拠――敵がその上で野営し、合法的権威を築き上げ、束縛するための土台――が何もないからです。キリストの中にはそのような根拠はまったくありません。私たちが信じる時、キリストは私たちの内におられます。

すでに指摘したように、信仰によってこれを理解するなら、サタンの権威は打ち破られます。なぜなら、私たちの内にはキリストがおられるからです。私たちの内にはキリストがおられ、彼の中にはサタンの権利の根拠はまったくありません。罪から解放されるだけでなく(ふたたび言わせて下さい)、サタンの権威からも解放されること、これは途方もないことです

『神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?』 『キリストは死んで、さらに復活させられました』。この意義は何でしょう?訴える者が来て、私たちを訴えようとします。私たちの返答の根拠は何でしょう?おお、私たちの返答の根拠はこれです、『キリストは死んで、さらに復活させられました』。罪に対して、またサタンの権威のあらゆる根拠に対して勝利したキリスト、これが敵の訴えに答える道です

あなたや私は決して自分で敵に当たることはできません。毎回、敵は最高の論陣を張るでしょう。しかし、私たちが彼にキリストを示すことができれば、彼に何ができるでしょう?
『……この世の君が来ます。彼は私の中に何も持っていません』。これは主イエスの御言葉です。彼に何の権威があるのでしょう?キリストの死と復活により、彼の権威はすべて破壊されました。『神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?』『あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み』。あなたはこれを理解しておられるでしょうか?これが神が設けて下さった備えです。」

 我がうちにおられるキリスト、栄光の望み! 私はこれを信仰によって理解する。そして神の備えを信じて歩き出す。しかし、カルバリの御業を人生に適用することは、この先もずっと続くだろう、そして、その度ごとに、私は自分が不十分な理解をしか持っていなかったことに気づくだろう。

「人々の背後にいる霊の軍勢に対して、キリストのカルバリの御業の衝撃力を打ち込んだ時、自分が完全な解放を成し遂げていなかったことにあなたは気がつくでしょう。敵は私たちをふたたび恐怖の虜にしようとしていますが、それがどういうことか私たち信者は知っています。暗闇の権威は私たちにとって非常に現実的です。私たちには経験があります。もし彼らに降伏するなら、私たちはおしまいです。敵は暗闇の権威で私たちを侵害しようとします。もしそれに屈服し、降参し、それを受け入れるなら、私たちは打ち負かされます。

私たちが主のものであるなら、キリストは内におられ、キリストは至高です。それをまったく感じていなくても、あるいはとてもひどい気分でも、私たちは前進しなければなりません。自分には到底言えそうになくても、私たちはそれを言います。なぜなら、それは神の事実だからです。そして、神の事実を証言し始める時、私たちは勝ち進みます。敵は信者たちに暗闇の権威を受け入れさせようとしますが、それがどういうことか信者たちは知っています。神の真理の上に立ちなさい。神は私たちの感覚と共に変わることはありません。

神は私たちの意識と共に変わることはありません。私たちのこの人生全体は移ろいゆくものであり、天候の変化より速く移り変わります。しかし神は、移ろうことなく、変わることなく、治めておられます。彼は『昨日も今日も永遠に同じ』です。もし彼が内におられるなら、彼はとどまるために来ておられます。そして、勝利は信仰の中にあります。これを信じ、この上に立ち、これをつかみなさい。彼は万物の主であり、『すべての支配と権威のかしら』です。この最後の完全な結果に至るまで、私たちはこれを貫き通さなければなりません。サタンは時々、『自分は卓越した地位にあり、至高の地位にある』と私たちに信じさせようとします。しかしカルバリ以降、彼はそうではありません。私たちはそこに立ちます。

 主は、すべての領域で至高である、愛する御子の中で、私たちに新たな喜びを与えて下さいます。」

 神の変わることのないご計画、そして、神のまことと誠実さに感謝しよう。何と大きな勝利の約束が予め私たちに与えられていることだろう。これがイエスと共に御座につくことの意味である。御座とはキリストの至高性を象徴している。私たちは万物の頭なるキリストの主権に服することによって、キリストと共に、万物のはるか上にある御座について安息し、敵をはるか足の下に踏みしだいているのである。サタンはすでに捕虜となって、私たちの凱旋の行列の中でさらしものにされている。

 キリストの至高性を認めることが、クリスチャンの勝利の秘訣である。それを認めなければ、私たちには、暗闇の支配と権威に対するどんな勝利もないだろう。あらゆる支配と権威に勝る、キリストの絶大な権威が、実際に諸々の問題を貫いて適用される時に、私たちの人生に、今まで知らなかった勝利がもたらされ、大いなる喜びが増し加わるだろう。