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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

二つの出来事 主が与え主がとりたもう(2)

私は関東に来てから、自分の職業を今後、どう定めるべきか、
ずっと祈り求めて来ましたが、その中で、
常に心に迫って来るように感じられたことが二つあります。

その一つは、ハドソン・テイラーが中国伝道に出発する前にしていたと同様に、
私は将来を拘束されるような契約に縛られて働いてはならないということ。
二つ目は、経済において、今後、ただ主にのみより頼む覚悟を決めなければならないということでした。

歴代のクリスチャンたちがそうしてきたように、
今、ただ信仰のみを頼りに生きる決意を固める誠実な働き人であるクリスチャンたちが、
主によって求められている、という感じがあるのです。
しかし、多くの人は、私がこのように言えば、仰天するだけでしょう。
テイラーが言われたのと同様に、そんな大冒険は、今の世には通用しないから、
やめた方がいいよと言われるでしょう。
にも関わらず、その考えは、日に日に強くなっていくのです。

それでも、つい最近まで、私の心には邪心とも言えるような一つの願いがありました。
それは、かつて私が自分の職業であると考えていた研究者に
何とかして戻ることはできないだろうかという願いでした。

研究者になるということは、24時間、研究のために心を捧げることを意味します。
霊によってわきまえるべき御言葉を糧として、主のためにのみ心を捧げて生きるということと、
人が魂によって描いた文学の研究者になることは、両立しません。
それでも、未だ日々の糧を得る手段が確保されていないという不安も手伝って、
せっかく新しい生活の展望が開けたのだから、それと同時に、
何か奇跡的なめぐり合わせによってでも、かつての道に復帰できないだろうかという願いが、
私の心の中に残っていたのです。

最近、私はある兄弟にこのように愚痴を言いました。
「私はこれまで一度たりとも、定職というものに就いたことがありません。
世間で認められるまともな仕事に就いて、満足できるお給料をもらったことがないのです。
それは、不幸なめぐり合わせによって、私が不況に直面してしまったせいです。
私が経験した仕事は、ことごとく、まともな俸給のもらえない仕事ばかりで、
さらに、私が持っている唯一の誇れる専門知識が生かされる仕事には、
まだ一度も就くチャンスが与えられていません。

主は、一度でいいから、私に専門知識を生かして生きる道を与えて下さらないでしょうか。
一度でいいから、私は故郷の人々に認めてもらえるようなまっとうな職業について、
安定した生活を送ってみたいのです。
一度でいいから、家族に安心してもらいたいし、自分も幸せを享受したいのです」

そんな話と前後して、つい最近、海外の本屋さんから、ある報せが届きました。
それは私がずっと前に注文していた資料が入荷したという報せです。
それは私が博士論文を書いていた頃に探していた資料の一つで、
当時には、事情があって、見ることのできなかった資料でした。

このテーマで論文を執筆するために必要な資料の全体のうち、
すでに90%以上を私は集めています。
その多くは苦労を伴って手に入れたものです。
ですから、できるならば、今後、すでに書いた論文をより発展させて、
もっと大きな論文を仕上げたい、という願いが私の心の中に残っていました。
まだその研究をやり終えていない、という心残りがあったのです。

そんなわけで、書籍の入荷の報せが届くや否や、私は早速、支払を済ませました。
ところが、待てど暮らせど、本が発送されたという通知がありません。

一体、どうしたのだろうか、といぶかっているうちに、どうやらこれは、
主の御心を問うてみるべき出来事だということが、次第に分かって来ました。

一冊の本くらい、御心をあえて問わずとも、簡単に購入できるだろう…
と高をくくっていましたが、実はそんな簡単な問題ではなかったのです。
その一冊の本を購入するかどうかに、実に、主の御心に対する
私の誠実さ全体がかかっていたのです。

資料は待てど暮らせどやって来ません。
日が経つに連れて、私は研究者に戻るべきではない、という感じが募りました。
見えない神の御国のために働くという仕事と、己の功績をこの世で打ち立てることを最終目的とし、人としのぎを削りながら、見える世界で、魂の領域に没頭して働くということが、両立しうるはずもありません。
主イエスに従い、御国のための働き人となると宣言した人が、どうやって御言葉を捨てて、人の言葉を研究する立場に戻れるのでしょうか。
その矛盾はますます明らかになっていくばかりでした。

そこで、私はついにこう祈らざるを得ませんでした。
「主よ、私の心の中に、研究者になることへの未練がありましたことをお許しください。
けれども、どうか分かって下さい、私の職業といえるものは、それだけだったのです。
私はこれまで膨大な時間と資金を費やしてその専門を学んできたのです。
にも関わらず、本領を発揮するチャンスさえ、一度も与えられませんでした。
そして、今、私には日々の糧を得る手段が明確に与えられていません。

今、ここで、改めて、私はあなたの御心を問います。
私はあなたのために生涯を捧げる決意を固めた者です。
あなたの御旨を第一として生きるべき者です。
もし、私が文学研究に二度と戻るべきではないと、あなたが思っていらっしゃるのであれば、
今、発送が遅れているこの本が、決して私の手元には届かないようにして下さい。
それによって、私はあなたの御心を知るでしょう。
そして、私はあなたの御心に従います。」

それ以後、どういうわけか、私の中での文学研究への熱意は薄れていくばかりでした。
いつしか、私はその資料が絶対に手元に届かなければ良いとさえ思うほどになっていたのです。

そして今日、素晴らしい兄弟たちとの交わりにおいて、私ははっきりとこう宣言しました。
私の職業は、御国のための働き人であって、御国に収穫をもたらさない仕事に従事することはもうできそうにもないし、したいとも思わないと。見えないもののために働くという絶大な価値ある人生を前にして、見えるものだけをゴールに働く人生に何の意味が見出せようかと。

そして家に帰ってみると、海外の本屋さんから、通知が届いていました。
私の注文していた資料は、品切れにより注文が取り消されたという報せでした。

まさに快哉を叫びたい心境でした。
ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ…、彼らが自分の仕事を捨てて主に従ったように、
主は今日、私に、まさに同じことを要求しておられるのです。
このような光栄にどうして応えないでいられましょうか。

ある人々はこのような話を聞いても、決して信じないだろうことは分かっています。
私の考えはおとぎ話のように非現実的かつ極端すぎて危険であるから、
早急に考え直した方が良いと説得されるのが落ちでしょう。
しかし、私には分かるのです、今日、主はこのような働き人を召しておられるのだと。
心底から、自分の栄光を捨てて主にお仕えする働き人が求められているのだと。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ9:37-38)

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。<…>働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:8-9)

「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイ10:31)

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)
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「私に従ってきなさい」

「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。」(マタイ4:18-22)

「イエスは彼に言われた、『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」(マタイ19:21-22)

「そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、『ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか』。イエスは彼らに言われた、『<…>おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。』」(マタイ19:27-29)
* * *


 ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネが、家や仕事、慣れ親しんだ故郷の土地を捨てて、イエスの招きに従った日のことを私は考える。
 彼らがすべてを捨ててイエスに従った日から、約2000年が過ぎた。だが、今日も、キリスト者が召し出される方法は基本的に変わらない。イエスに従うことを求められる時、私たちは、この世と完全に訣別することを求められる。それがこの道の特徴の一つでもあるだろうと思う。

 主イエスが私たちを呼ばれる時、そこには目に見え、耳に聞こえる形での具体的指示が伴うわけではない。誰か指導者が、私たちにどこへ行って何をなすべきか具体的に教えるということはない。この先あれこれの団体に所属して、このような仕事をせよという命令がどこかから下ることもない。(そのように人を介した形で伝えられる召しには要注意である。)個人預言があるわけでなし、未来の具体的ビジョンもない。

 だが、どこからも明確な指示がなくとも、それでも、不思議に、内なる御霊によって、私たちは自分がキリストのために今、すべてを捨てるように求められていること、この世と訣別するよう求められていること、家、父、母、兄弟、姉妹、妻、子、友人といった、肉なる人間関係を捨て置いて、また、田畑、家屋、財産といった地上的な富にもさよならを告げて、自分の命の心配をすることさえやめて、身一つで、御霊の導きだけに従って、新しい地へ旅立つよう求められていることを理解するのである。

 全てが曖昧で、不明瞭のようだが、明確に分かっていることが一つある。それは、私たちの行く先が、見えない教会としてのエクレシアであるということだ。
 そのエクレシアは、まだおぼろげで、生まれたばかりで、形も見えない。決して、それには団体名はついていない。しかし、私たちはとうの前から、自分がそこへ召し出されていることを知っており、そのおぼろげなエクレシアが、よりリアリティを持った現実としてこの地に実在するために、その見えない「一つ」の中に身を投じるために、キリストの御身体の小さな細胞として、すべてを捨てて旅立とうとしているのである。

 私はこの世を後にして、キリストの愛の一致の中に、身を投じようとしている。これから何が始まるのか、さっぱり分からない。ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネも、きっと何が何だかよく分からないままに、イエスについて旅立って行ったことだろう。しかし、そこには平安があった。喜びがあった。イエスへの愛があった。私たちは、キリストがせよと命じられることに、どうしても、逆らうことができない。たとえ理性では理解できないようなことであっても、どうしようもないほどのイエスの魅力に引きこまれ、また、彼の命令が与える絶対的な喜びと平安に満たされて、気づくとすべてを捨てて、すでに従っているのである。その日、キリストは私たちにとって、この世の何にもまして、現実となる。

 私は考える、当初、全財産を捨ててイエスに従うことができなかったあの金持ちの青年でさえ、きっと、後になって、御心を理解し、何らかの方法でこの世と訣別させられ、この道に入ったのではないだろうかと。なぜなら、イエスが発せられた御言葉は、御父の命令なのであり、それがむなしく散じるということはあり得ないからである。イエスご自身が青年を招かれたのに、彼が従わなかったということが、どうして考えられよう。人の魂には受け入れ難いことであっても、神にはできる、イエスはそう示唆された。だから、あの青年は、少し後になって、どうしようもなく御霊にとらえられて、この世を捨てて、身一つで、完成者なるイエスに従う道に、飛び込んで行ったのではあるまいか。

 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
  わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
  主は言われる。
  天が地よりも高いように、
  わが道は、あなたがたの道よりも高く、
  わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。<…>

  このように、わが口から出る言葉も、
  むなしくわたしに帰らない。
  わたしの喜ぶところのことをなし、
  わたしが命じ送った事を果す。
  あなたがたは喜びをもって出てきて、
  安らかに導かれて行く。」(イザヤ55:8-9,11)

 今私は、本当は、大きすぎる喜びのゆえに、エクレシアに連なる成員に、何もかもを語り告げたくて仕方がない。けれども、あえて静まって、主と二人きりで、一歩一歩、歩みを進めて行くことにしたい。そうすることによって、この道で私を導いておられるのが、本当に、ただ主であることを、よりはっきりと認識できるようになると思うからである。

 今までのような頻度でブログを更新することはできなくなるだろう。けれども、今は私にとって、とても厳粛に、秘めやかに、大切に取り扱われるべき、歴史的瞬間であると思うので、野暮ったい詳細な報告などは後回しにして、御霊にあって生きるということに、喜びをもって、専念することにしたい。
 そんなわけで、皆さんも、どうか主にあって、喜びと平安のうちに日々を送られますように。


神へのいけにえは砕かれた魂

あるキリスト者のお便りから。

「この道にいるだけで! 
主はあなたの状況に応じて 敢えて奇跡も行われます。
(主にとって不可能なことはありません)
しかし それは必ず 決して私に『これっぽちの栄光も与えない』やりかたで です。
 (私の全く予期出来ない方法で、100% 主がなさる方法で)
 
でも、主は奇跡を行われないで、
敢えてその中で、私に『ある学課』を学ばせたい時には
主は私に対して わざと無反応です。
(ゲッセマネの主の切実な祈りに対する父のように。
あの時間帯 『無言』だけが 父の唯一の反応でした)
 その時間帯は これからのあなたにとっても 更に貴重なものとなるでしょう。

あなたに対して 全能の神の明確なみこころがあり、
それに向かって これから主はあなたに働いて行かれます。

主にとって あなたほど貴重な宝はないのです。
何故なら 主にとって あなたにしか出来ない 
この地上における明確な使命があるからです。
(イエスにしか出来ない使命があった。
 原則的には それと何らの相違もありません)
 
これは神の誠実さ、真実さと あなたに対する愛によります。
ですから、私達もこの道の中で、
出来るだけ真実に主に向かうのみ
です。
私達にそれ以外に出来ることは何もないでしょう。
 
主が欲しいのは私達の『その心』です
能力なら 主には有り余るほどあるのです
(神には超能力の天使が無数にいるではありませんか)
 
これからの 歩み、そのようにして 
ただ主を信じ、
一歩一歩 歩を踏み出して 行って下さい。
 
具体的には それが何であるのか、その行き先に何があるのか 
人にはわかりません。
(アブラムのように、見えるのは 見えない神の手)
 
そうです、
『あなたではない、私がします』なのですから。」

 私にはこの先の道が見えない。どこへ行き、何をすべきかも、今はまだ具体的に分からない。御心を尋ね求めるだけである。改めて思う、私にできることは、何もないのだと。ただ真実な心を主に捧げる以外には!
 

 


Quo vadis, Domine?

昨日から今日にかけて、ウクライナで買った『クオ ヴァディス』のDVDを観た。ポーランドで製作されたこの映画(監督E.カヴァレローヴィチ)は、最初に観た当初は、あまり印象が残らなかったが、改めて、観ると、静かな感動に満たされる。

 今まで、皇帝ネロの時代に生まれ合わせたキリスト教徒はきっと不運だったに違いないと考えてきたが、もはやそれを他人事のように考えることは、私にはできなくなりつつある。
 なぜならば、はっきりした根拠はないものの、これからの私たちの時代こそが、新しいネロの時代となるような予感がしてならないからである。

 私が初めに『クオ・ヴァディス』の物語の存在を知ったのは、とあるホーリネスの教会で、女子パウロ会から出版された漫画を目にした時のことだった。それは子供向けのような漫画であったが、そこには、マルクス・ウィニキウスのリギアへの恋、彼の内面の変化が見事に描かれていた。

 ローマの神々を信じる当時の貴族の誰もがしていたように、数多くの奴隷たちにかしずかれ、何不自由ない暮しの中で、奔放で罪なる生活を送っていたウィニキウス。だが、彼の内面は、リギアとの出会いと、様々な紆余曲折と、使徒たちを含めたキリスト者たちとの出会いを通して、全く新しいものへと変わって行く。

 繁栄と飽食を極め、世界に比類ない大帝国として栄えたローマが没落と退廃に転じた時代だった。その時代の象徴として君臨するのは、皇帝ネロ。並み居る臣下におだてあげられて、分を見失ったネロは、元来は小心者であるにも関わらず、自分の愚にもつかない詩作のために、ローマの街へ放火する。
 さらには、ペトロニウスの忠告をも振り切って、その大火の罪を無実のキリスト教徒に着せるべく、キリスト教徒に対する大規模な迫害に乗り出した。それはネロの悪魔的魂が成したことであったが、同時に、帝国の中で職にあぶれ、火事で家を焼け出され、貧しさの中で行き場を失った民衆のフラストレーションを、パンと見せ物でなだめようとする策でもあった。

 観ているうちに、ローマの凋落に我が国の歴史が重なって見えてくる気がしてならない。(私にはネロとポッパエアの姿が、今日、政界に進出しつつある何某教祖夫妻を思い起こさせてならなかった。)

 特権的な生活にあぐらをかいた貴族たちは、もはや現実感覚を失い、合理的な知性に基づいて政治を動かすことができなくなっていた。愚かしい政治の中で引き回され、行き場を失って、怨念渦巻く民衆。異なる階級同士が衝突し、大衆の巨大な波と化した怨念の矛先を何とか逸らそうと、打ち出される政策は、その場しのぎにばらまかれる金と、見せ物としての裁判と処刑だけだった…。

 暗い時代にあっても、使徒ペテロやパウロとの出会いを経て、ウィニキウスの信仰は、リギアがクリスチャンとして捕らえられる頃には、確固たるものとなっていた。

 クリスチャンの道はいつも決まっている。キリストのために誤解され、非難され、迫害され、果ては命さえ取られる道である。キリストがそうされたように、自らが徹底的に低められていく道である。愛する者を失うかも知れない恐怖にさらされながら、いつの世も同じであるキリスト者のただ一つの道を、ウィニキウスはいつしか自分も歩く決意を固めていた…。

 ひとりの人間としてのマルクス・ウィニキウスの内面の変化の描写が見事に描かれているこの作品は、数ページを読んだだけでも、真にクリスチャンでなければ書けないものであることが感じられる。私は女子パウロ会の漫画を少し読んだ後で、早速、図書館で小説を借りて目を通した。

 今、この映画を観ると、当初は恋愛物語のように思われたマルクス・ウィニキウスとリギアとの愛が、花婿キリストと花嫁であるエクレシアの愛に重なって見える。暗い退廃の中で滅びゆくローマを背景にして、彼らの間に育まれる清い愛情が、闇を貫く閃光のように輝く。今日のキリストとエクレシアとの愛情も、きっとそのようになっていくのではないかと思う。

 クリスチャンとしての信仰をついに持つことなく、ローマ文化の世界から抜け出られなかったとはいえ、ペトロニウスとエウニケの最期も人間としては見事なものに思われる。地上的生だけに目を向けるならば、それは美の完成であるとさえ言えるだろう。だが、地上のものは全て滅び行く運命にある。ペトロニウスの破滅はローマの破滅を意味していた。そして、私の心は、彼らを離れて、幼いイエスを連れてエジプトに逃げたマリヤとヨセフのように、どこへ行くとも知れない旅路についたウィニキウスとリギアに寄り添う。

 さて、話が急に変わるが、今日、これまでずっと私が懸念してきた事件がついに我が家で起こった。争いがついに流血を伴うものへ発展したのだ。キリストを信じる者に、心底からの憎しみを抱いている人々が、キリスト者をいずれ肉体的に抹殺することを目的としていると、少し前に予感したことは、正しかったと思う。

 皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害のシーンと合わせて、サタンに操られている人々の目的が何であるかが、はっきりと私の心に迫って来た。主にあっての兄弟姉妹に祈りを求め、また、相談を乞いつつ、今はやはり、このソドムを脱出すべき時であると感じた。どこへ行って、何をすべきか分からないし、正直に言って、アクションを起こす余裕もあるとは言えないが、主がすべてを導かれるだろう。

 バビロン化したキリスト教界を出ることが必要だったように、ソドムと化した場所からはエクソダスすべきなのだ。彼らと争ってはいけない。

 Quo vadis, Domine? 主が導かれるところに私は着いて行きます。
 脱出先がこの世のどこであろうとも、私の避難所はただキリストの御許だけなのです。