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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

システムによって神の国を作ろうとすることの危険

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17:20-21)


1.『クロイツェル・ソナタ』こぼれ話

 『クロイツェル・ソナタ』に関するこぼれ話を最初にちょっと。
 トルストイは作品の中で、ベートーヴェンのこのソナタに驚くほど否定的な役割を担わせて登場させたのだが、演奏家自身はこの曲をどのようにとらえているのだろうか。その点で、ヴァイオリニスト五嶋みどり氏による詳細な解説が参考になる。興味深いのは、作曲時のエピソードだけでなく、表題音楽でない限り、演奏家は曲の内容について滅多に限定的なイメージを述べることはないのに、五嶋氏が、第一楽章の終わりに表現されている感情は「激しい怒り」であると明言していることだ。

 さらに、トルストイは極めて教訓的な作家であったことから、作品に登場する人物の名前にはどれも偶然でない意味が込められていたと見て良い。主人公ポズドヌィシェフ男爵(Позднышев)の名は、ポーズヌイ(поздный)「遅い」という形容詞を連想させる。トゥルハチェフスキー(Трухачевский)の名は、トゥルハー(труха)「クズ」を語源としている。従って、この作品は「後之祭之助(あとのまつりのすけ)男爵」と、へっぽこヴァイオリニスト「屑乃屑男(くずのくずお)」君との救いようのない破滅を描いた反面教師的な物語であったとも言えるだろう。

 さて、この作品とさよならする前に、もう一度、総括を述べておきたい。
 この作品には二つの問題提起がなされている。一つ目は、ポズドヌィシェフ男爵家の崩壊は、男爵があらゆる女性を自分の満足のための道具とみなし、自分の妻をも、一人の人格として尊重することができなかったことに原因があるという問題だ。男爵は結婚とは本来、何のためにあるのかを深く考えることなく、世間の風潮に影響を受けて、自分勝手な夢を抱いて、誤った結婚に足を踏み入れ、そして、自分への満足を引き出すことのみを目的としてパートナーに接し、それが失敗して、妻を憎むようになり、ついに家庭が崩壊した。

 男爵の妻は、男爵が彼女を思うがままに支配できる道具へとおとしめようとしたことへの、無言の抵抗、復讐として彼を裏切った。だが、彼女は、男爵を上回る方法で抵抗したのかと言えば、そうではなかった。彼女もまた、男爵と同程度にしか物事が見えておらず、他人を自分の満足の道具として見る視点から脱却できていなかった。そのため、自分に何の満足ももたらさず、自分の人権を蹂躙するばかりの夫に嫌気が差した後、ただもっと自分を満たしてくれそうな別の男性に飛びつくという愚かな手段を取ることしかできなかった。だが、その別人もまた夫以下の卑劣漢であり、またしても、彼女は他人の満足の道具として利用され、蹂躙されただけに終わった。

 男爵との結婚が一種の"身売り"であったことに気づかなかった妻は、何とかして自分の幸せを掴もうと思いながら、再び、何の幸せにも結びつかない愚かな"身売り"に協力してしまった。

 夫婦の性の問題という枠組みにとらわれずに作品を見るなら、これは、人間の「モノ化」という問題の残酷さ、不毛性を暴き出した作品であると言える。
 現代の物質文明社会では、物質だけでなく、人さえもモノと扱われる。社会の風潮は、人が主体的に生きることを妨げ、むしろ不特定多数の他人を喜ばすために、自分を商品として(モノとして)差し出すことを奨励し、それこそが人が幸せを得る近道なのだと思い込ませる。人は市場で自分が有利に買われていくために、自分に箔をつけてくれそうな様々なアイテムに先を争って手を伸ばす。履歴書を飾る様々な肩書きは、労働市場で有利に自分を売り飛ばすためのもの。外見的な美も、有利な結婚を手に入れたり、世間での評価を上げるためのもの。
 現代社会は、人が市場に自分を少しでも有利な取引道具として差し出すために、どこまで行っても終わらない、どんぐりの背比べのような競争の蟻地獄の中でもがかなければならないような社会だ。

 だが、自分をモノとして差し出すことは、絶えざる自己否定の中を生きることである。多くの人々は、自分が幸せになる目的で自分を磨き、努力しているように錯覚しているが、ほとんどの場合、ただ外面的な評価を失う恐怖に追い立てられているだけであることに気づかない。外からの評価に頼ってしか自己価値を確かめられない人々は、決して現在の自分に満足することができないので、今現在を生きている幸せを感じることができない。また、他人を道具として見るような人間は、道具となった人間から貪欲に無限の満足を引き出そうとするだけであり、他人をどんなに利用しても、決して満足して飽くことがない。
 そこで、人間をモノとして見る視点に立つと、どんな人間も幸せになることがなく、満足して自分自身に安住することができない。人をモノとして扱うような社会では、差し出す側にも、受ける側にも、ただ利用し合い、搾取し合い、傷つけ合うだけの不毛な関係あるのみだ。

 人が自他ともに、人間を道具とみなすことを促進するような世間の風潮、それこそが人間を不幸にしている元凶であるということ、それが、『クロイツェル・ソナタ』が何より告発している問題であると私は思う。
 

2.「神の国」はどこにある? システムによって作られる人工的な陶酔状態の危険

 だが第二に、すでに述べて来たように、作品の中ではもう一つ別の問題が提起されている。それは、音楽によるマインドコントロールの危険という形で提起された警告、つまり、自己を放棄した陶酔状態の中では、人はいかなる幸せをも獲得することができないという警告である。
 蟻地獄のような競争社会の中で、人はどうにかして自分がモノとして乱暴に扱われる苦しみから逃れ出て、ほっと一息つける場所を持てないだろうかと期待する。歪んだ関係から生まれる一切の負の感情、疑心暗鬼、警戒心、不安、嫉妬、憎しみ、恨みなどから、何とかして逃れ、安らかな心の境地に至る道はないだろうかと誰もが願う。

 だが、男爵夫妻の場合、何とかして心を軽くしたいという、なけなしの最後の願いまでが、他人に利用される弱点となってしまった。音楽が与えてくれた解放感やカタルシスは、男爵夫妻の心を一時的に軽くすることはあっても、彼らが現実の問題に真正面から向き合う何の助けにもなってくれなかった。それどころか、音楽は彼らに現実の問題を忘れてさせて心を軽くした代わりに、過度に心を無防備にし、警戒心を鈍らせ、善悪の判断を狂わせ、麻薬のような陶酔感をもたらし、短い夢のような解放感の後で、さらなる破滅の中へ夫妻を陥れたのである。

 このようなことを突き詰めて行くと、人間の幸せとはどこにあるのか、私達が普段、重荷に思っている感情は何なのだろうかと自然と考えざるを得なくなる。私達はいつも自分の心を大掃除しなければならないように感じている。様々な負の感情をゴミ箱に捨ててしまえればどんなに心が軽くなって良いだろうかと願う。だが、そのような心の清掃は、果たして必ずしも良い結果をその人にもたらすだろうか。猜疑心や警戒心、恨みや怒りなど、全ての重荷なる感情を捨て去って、あらゆる心配から逃れて、ただ赤子のような無垢な心境になることが、私達にとって望ましい変化なのだろうか。

 幸福という概念を思い浮かべる時、私たちはそれは争いのない世界のことであり、対立のない世界、憎しみと恨みのない世界、無駄な苦しみのない世界、愛と調和だけのある世界のことだと思いがちである。幸せという言葉を使うとき、私たちはそれが限りなく、自分の感覚を喜ばせてくれるような、心乱されることのない安らかな心境であると無意識のうちに思う。だが、それは果たして人間が先祖がえりして、いかなる免疫抵抗力をも持たなくても暮らしていけるような、安全な無菌室に入りたいと夢見る、非現実的で、身勝手な願望でないと言えるだろうか。はっきり言って、それは世界を自分のための安全な子宮に変えてしまい、子宮に逆戻ることで、この世の全ての苦しみから逃れたいと願う幼児的な逃避願望ではないだろうか。

 十字架と共に、「女のすえ」であるイエスはサタンのかしらを打ち砕いた。だが、サタンの全面的な敗北は終末を待たねばならず、クリスチャンは勝利の前触れを味わいながらも、今まだ善悪二元論の世界に生きている。世界は混乱と苦しみに満ちており、人間関係は汚染されたままで、世界は誰にとっても安全な子宮には成り得ない。
 「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(ルカ18:17)とイエスは言われたが、その「幼な子」とは決して、この世を生きる上で不可欠な善悪の判断すらも忘れ去った、赤ん坊のように、心理的に退行した人間を指してのことではないだろう。

(前後の文脈から判断するなら、ここで言われている「幼な子」の意味は、自分の功績を誇ったり、財産に執着したり、この世の様々なしがらみや人間関係にとらわれるあまり、そのようなものをキリストよりも高く評価しがちな大人たちへの警告であると思われる。)

 だが、昔から現在に至るまで、大勢のクリスチャンが、聖書の言う「神の国」とは、一切の悪が存在しない、何一つ警戒する必要のない至福の境地、人が無垢の心で安らかに眠ることができるような、苦しみのない調和社会のことであると考えてきた。苛立ちも、不安もなく、悪に対する警戒心という最低限の免疫抵抗力すらも持たなくても暮らしていけるような、無菌室のような浄土が、きっと「神の国」のことなのだろうと思い描いた。
 そして、何とかして「神の国」という理想的共同体を地上に実現させようと苦心した人々がいた。そうするのが神の御心だと信じて、エクレシア(教会)の名のもとに、一定の地域にクリスチャンのユートピア村を建設しようとした信徒が日本にも過去にいたし、現在もいるようである。だが、そのような試みが一つとして成功したという話は聞かない。

 今日になっても、そのような「神の国」をプログラムやシステムによって(人工的に)特定の地域や特定の集団全体に導入しようとしている自称クリスチャンたちの試みがある。彼らはそのような試みが、他のどんな支配関係よりも、もっと深く、残酷に、強烈に、人間を「モノ化」しようとする計画であることに気がついていない。
 システムによって人間社会を支配しようと企てることは、私の考えでは、地球上、最も恐ろしい支配の形態であり、個々人の間で結ばれるどんな歪んだ関係や、打算的な利害関係、搾取や、支配をも越える最も深刻な支配である。

 たとえば、「大宣教命令」を盾にとって、会衆を熱狂させて、陶酔状態へ陥れるような集会や、行事、訓練プログラムを盛んに開き、参加した会衆の心に人工的なカタルシスを引き起こし、会衆一人ひとりの自我の殻を打ち砕いて、「覚醒」させ、一人ひとりをプログラムの予定する「神の国」にふさわしい、赤子のように疑うことを知らない、権威者に従順な「弟子」へ変えてしまうことを目指して、今も信徒に熱心に働きかけている集団がある。そして彼らはあわよくば一つの地域、国の住民をまるごとそのような先祖がえりした「弟子」に変えてしまおうとしている。

 これから何度にも分けて、細かく見ていくことになるが、私が主張したいのは、そのような試みが大変危険なだけでなく、信仰的に見ても、根本的に誤っているということである。それは人間をモノ化して支配しようとするマインドコントロールの仕掛けであり、人を罠にかけるようにして、退行現象を引き起こす。非現実的な陶酔感に溺れさせることによって、人の善悪の判断を鈍らせ、上から容易に支配できる無防備な心理状態にしていき、その人を道具のように自在に支配し、破滅的な混乱をその人の人生にもたらすのである。

 たとえ「神の国」という名前が使われていたとしても、そのようにして人工的に人の心の状態を変えようとする計画は、極めて危険であり、人をシステムの中に拘束こそすれ、決して解放に導くものではない。
 予め緻密に計画されたシステムやプログラムを導入することで、人工的に作り出される集団的熱狂や陶酔状態、分かち合いなどの名のもとでの罪の自白の強要、長時間続く礼拝や、異言や個人預言などの霊的現象を伴う連続祈祷、特殊な賛美形態によって引き起こされるカタルシス、エクスタシー等々は、とどのつまりは、人々の心を操作しようとする悪しきマインドコントロールの仕掛けであって、そのようなものを含むプログラムの実行によって、聖書の言う「神の国」を人工的に到来させることは不可能である。

 聖書の言う「神の国」は特定の時空間や、特定の集団、特定の地域社会に限定されて及ぶものではないことは、聖書にはっきりと書かれている。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」
 さらにその続きにはこうある、
「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。」(ルカ17:22-23)
「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについていくな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」(ルカ21:8-9)

 聖書的に言えば、この世は未だ闇の支配下にあり、クリスチャンは闇の中に輝く小さな灯火である。神の国は人の心の中にあるのだから、固定的なものでなく、本来、移動性であるはずだ。神の国は成長して、他の人の心に影響を与えることができるが、決して地上の時空間にとらわれて制限を受けることがない。クリスチャンの勝利とは、時代に対する勝利ではなく、大事業を成し遂げたり、大規模教会を作ったり、奇跡を多数行なったり、より多くの人々を改宗させたりすることにあるのではない。
 聖霊は人の心を宮として住まわれる。教会では、聖書の神が、たとえば仏像や、お地蔵さんや、神社仏閣のような特定の縄張りを住家としてそこに限定して働くということはないと教えられる。従って、神の力がキリスト教会という建物内に限定されて働くこともあり得ないのだ。従って、「教会の外には救いがない」とまで言い切るような教会中心主義は誤りである。

 神の国をこの世のある国や地域(住民)に限定したり、ある時空間内に限定したり、ある建物内に限定したり、あたかも神の国が固定的な領土であるかのようにみなし、一定の国や地域の政策と、神の国を同一視する考えは根本的に誤りである。


3.教会中心主義の逆の極端としての無教会主義について

 だが、既存の教会の建物にとらわれて信仰を考える必要は全くないと思うものの、同時に、私個人は、次のような「無教会(主義)」の教えにも同意することができない。
 無教会派が「救いは教会の外にもあると唱え、見える教会自体に神の恩恵をほどこす力はない」として、目に見える教会の建物に依存しない信仰のあり方を重視する主張にはある程度、同意できる。だが、かといって、建物としての教会を一切否定し、廃止すべきであるという主義に至ることはそれとは全く別であると思う。

 さらに、洗礼、聖餐式を含めてあらゆる秘蹟(サクラメント)までを一切、呪術的な儀式として退ける主張は、非常に過激なものであり、それはイエスが最後の晩餐の際に聖餐について述べた事柄や、弟子たちの授けた洗礼などの聖書的記述に反する。

 上記の無教会主義はその説明の中で、「私は洗礼や聖さん式が全く無意味だと言っているのではありません。参加する人の心の持ち方次第ではそうした儀式は意味深い有意義なものとなります」と、一見、宗教儀式に譲歩を示すかのように述べながらも、同時に、「無教会は洗礼と聖さん式などの一切のサクラメント(秘蹟)を行いません」と、はっきりとあらゆるサクラメントに反対の立場を宣言し、しかも、儀式からの解放を、「呪術からの解放」とみなしている。これでは、事実上、洗礼や聖餐式を「無意味」としているだけでなく、信仰に悪影響をきたす迷信として退けているのと同じである。

 だが、上記の主張が、秘蹟の完全否定の根拠として挙げているアモス書5章21-24節の聖句は、その前後の文脈を読むならば、神が自分に捧げられる一切の宗教儀式を否定する文脈で述べた言葉とは受け取れない。
 むしろ、「あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける。」(アモス5:12)と、日頃から悪事ばかり働いている信者が、宗教の祭典の時にだけ信心深そうな様子で襟を正しても、そのような信心を神は喜ばないという意味であると解釈できる。
 さらに、25節には、信者が偶像礼拝に陥ったことを責める言葉があり、神が憎むと言われたその祭典は、偶像礼拝色が強いものであったと考えられる。
 よって、この聖句は正しい信仰から逸れた信者が捧げる儀式の無意味さを述べているだけであり、これを根拠にして一切のサクラメントを完全に否定するのは行き過ぎであると私は思う。

 さらに、無教会主義があらゆる秘蹟を呪術と同一視する根拠として挙げているマックス・ウェーバーは、社会学者、経済学者であり、信仰的観点から著書を書いたのではなかった。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、この著書が「純粋に歴史的な叙述」であり、「価値判断や信仰判断に入り込む」つもりがないことをはっきり述べている。同書、大塚久雄訳、岩波書店、2008年、p.368。
 そこで、信仰的な観点から、秘蹟を呪術や迷信の一部とみなす根拠として、神学的議論や、信仰的な観点からの議論を含まないウェーバーを挙げるのには無理があると言えよう。

 上記のような無教会の主張は、煎じ詰めれば、従来のカトリックやプロテスタントの教会において行なわれている洗礼、聖餐式は一切、神によらない悪魔的儀式だと宣言しているのに等しいことになる。これは従来のクリスチャンに対する真っ向からの挑戦状である。
 果たして、聖書は洗礼や聖餐式を呪術的儀式だと教えているのだろうか? そのようには私は全く考えない。
 今日の多くの教会が、私自身が再三述べてきたように、あまりにも大きな教会特有の問題を抱えていることは確かだが、かといって、教会反対という主張を軸にしてエクレシアを作ろうとするのでは、結局、既存の教会の弊害から少しも自由になったことにならないだろう。それは一種の政治的反対運動のようなものであり、純粋に信仰的な連帯であるとは言えまい。
 結局、教会中心主義、儀式中心主義が誤りであるとすれば、無教会主義は、その逆の極端ではないかと私は思う。

 「所属する主義」、「所属しない主義」、これは共に信仰的な主張ではない。重要なのは、限定された時空間・建物としての教会を廃止するか否かという限定された議論にとどまることではなく、エクレシアとは信徒一人ひとりの心に住まう聖霊が織り成す流動的なつながりであり、流動的に変化する、限定することのできない不思議な空間であるととらえることだろうと思う。

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『クロイツェル・ソナタ』に見る音楽によるマインドコントロールの危険

5.音楽がポズドヌィシェフ男爵夫妻にもたらした退行現象

 子育ての合間に暇が出来て、やっと静かなひと時を取り戻したポズドヌィシェフ男爵の妻は、見る間に若々しい女らしさを取り戻し、久しく忘れていたピアノに熱中していた。その男爵の妻のところに、渡りに船のように、トゥルハチェフスキーというヴァイオリニストが訪ねて来て、協奏曲の演奏を申し込む。
 夫に対しては憎しみしか心に持てなくなっていた妻は、音楽を建前にして、トゥルハチェフスキーとの交友関係を、夫への当てつけとして見せつけ、復讐を果たそうとする。男爵の方でも、妻がトゥルチェフスキーを使って自分に復讐を果たそうとしていることを十分に知りつつ、何やら意識できない不穏な心理のために、自分の妻を食い者にしようとしていることが明らかなトゥルハチェフスキーを、あえて退けることもなく、妻との協奏に反対しない。そして運命のサロン・コンサートが開かれた。

 ヴァイオリンという楽器は、楽器の中でもことさらに魅惑的な楽器である。聞くところによると、声楽家はヴァイオリンのように歌うことができれば理想だと考える一方で、ヴァイオリニストは声楽家のように演奏できれば理想だと考えているらしい。ヴァイオリンという楽器の出す音は、恐らく、他のどの楽器よりも、きわめて人間の音声に近く、それだけ聴衆に与える影響も大きいのではないだろうか。ピアノなどの幅広い鍵盤楽器に比べて、ヴァイオリン演奏には、限られたスペースの中での繊細で素早い指使いと、完成された弓使いが必要とされる。

 近年は、女性ヴァイオリニストが圧倒的に多くなったため、ヴァイオリンはまるで女性のための楽器であるかのようにみなされることもあるが、元来は、ヴァイオリン奏者は圧倒的に男性であった。楽器そのものが女性の身体に似たヴァイオリンに張られた弦の上に、ヴァイオリニストは細く長い指を目まぐるしく走らせ、魔法のように弓を駆使する。それによって、あの物悲しい、すすり泣きのようなかすれた音色から、心引き裂かれるような絶叫、そして豪快で天空に駆け上るような歓喜の旋律まで、実に様々な音色が醸し出される。オリエンタルでエキゾチックなこの楽器の音色は世界中の聴衆に愛されてやまない。

 だが、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』では、ヴァイオリニストのイメージも、ベートーヴェンの楽曲のイメージも、まるきり否定的に、不快を催すものとしてしか描かれない。ポズドヌィシェフ家を訪れたトゥルハチェフスキーはプロの演奏家ではなく、半ば社交界の人間であり、人格的にもかなり下劣な人間であったことから、演奏家としての資質はたかが知れたものであっただろうと察せられる。
 トゥルハチェフスキーという人物は、ヴァイオリンという楽器の悪い側面としての、麻薬のように人の心を溺れさせる、俗悪な魔力の体現者として現れる。ヴァイオリニストという職業人は、この作品においては、至高の芸術の担い手ではなく、女性たちの心に、俗っぽい憧れをかきたて、恋愛感情という魔法をかけて、トランス状態に陥れる、油断のならない、鼻持ちならない、催眠術師のような、不誠実な人間の象徴として登場する。

 確かに、20世紀になって特に、クラシックのヴィルトゥオーゾと呼ばれる世界的な名演奏家が、まるでカリスマ的偶像のように世間で異常なもてはやされ方をするようになり、大衆を酔わせる虚構としてのショービジネスが一攫千金を狙う人々によって次々と計画されている現実を見ると、大がかりな舞台演出には欠かせないスターとしての演奏家という種族を、一種の詐欺師や魔法使いのように、警戒する説には一理あると言えるだろう。

 しかし、この小説において演奏されるのが、なぜ他ならぬベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』でなければならないのか、未だに私には納得が行かない部分が残るのだ。トルストイはこの曲を、人間の情感に壊滅的な効果を及ぼす楽曲として挙げている。だが、古典的な枠にがっちりとはめられたベートーヴェンの曲に、そこまでの危険性を私たちが感じることは難しいように思う。
 本当にこれはクラシック音楽を深く理解する人の結論なのだろうか? 音楽の危険性を訴えるならば、むしろメンデルスゾーンや、チャイコフスキー、ラフマニノフなど、他の作曲家の中になら、いくらでも人間の情熱をかきたてる、官能的で、ドラマチックな楽曲がいくつも見出せるではないか(訂正:作曲家ラフマニノフはこの時まだ存在していません)。なのに、なぜここで他でもなく、官能的という言葉からはほど遠く、むしろ禁欲主義的で哲学的と言った方がいいようなベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが引き合いに出されなければならないのか。そのことを理解するためには、もう少し作品を深く見ていかなければならない。

 (ポズドヌィシェフ男爵は作中で、自分が音楽を深く理解する人間であると述べているが、トルストイ自身が楽器演奏に関心があったという話は聞かない。そこで、この小説はあくまで作家としてのトルストイ独自の見方であると考えることも可能だろう。)

 さて、ポズドヌィシェフ男爵は、妻とトゥルハチェフスキーとが演奏し始めたクロイツェル・ソナタを聴いて、次のように感じた。

「二人はベートーベンのクロイツェル・ソナタを演奏したのです。あの最初のプレストをご存じですか?<略>あのソナタは恐ろしい作品ですね。それもまさにあの導入部が。
概して音楽ってのは恐ろしいものですよ。あれは何なのでしょう? わたしにはわからないんです。音楽とはいったい何なのでしょう? 音楽がどんな作用をすると思いますか? <略>
音楽は魂を高める作用をするなんて言われてますが、あれはでたらめです、嘘ですよ! たしかに音楽は効果を発揮します、恐ろしい効果を発揮するものです。<略>しかし、魂を高めるなんてものじゃ全然ありませんよ。魂を高めも低めもせず、魂を苛立たせる作用があるだけです。<略>

音楽は自分自身を、自分の真の状態を忘れさせ、自分のではない何か別の状態へ運び去ってくれるのです。音楽の影響で、実際には感じていないことを感じ、理解できないことを理解し、できないこともできるような気がするんですよ。<略>
 この音楽ってやつは、それを作った人間のひたっていた心境に、じかにすぐわたしを運んでくれるんですよ。その人間と魂が融け合い、その人間といっしょに一つの心境から別の心境へ移ってゆくのですが、なぜそうしているのかは、自分でもわからないのです。たとえばこのクロイツェル・ソナタにしても、それを作ったベートーベンは、なぜ自分がそういう心境にあったかを知っていたわけですし、その心境が彼を一定の行為にかりたてたのですから、彼にとってはその心境が意味をもっていたわけですが、こっちにとっては何の意味もないんですよ。ですから音楽は人を苛立たせるだけで、決着はつけてくれないんです。」

 クロイツェル・ソナタの導入部は、確かに、考えようによっては、かなり聴く人の心を衝撃的にかき乱すものであると言えるだろう。第一楽章は、まるで避けようのない運命としての死神の登場を意味するかのような、劇的な和音展開から始まる。続いて、(あえて私の勝手なイメージを述べるなら)、扉をノックする音。読み上げられる宣告文。不安と恐怖に縮み上がった家の主人は、扉が開かれる前に、何とかして運命を逃れようと、家を出て馬車に駆け込む。鞭を振り上げ、走り出す馬車と共に、ピアノとヴァイオリンの疾走が始まる。
 このソナタでは、ピアノとヴァイオリンは互角の役割を果たしている。二つの楽器の間で交互して奏でられる旋律には、まるで、追いかける死神の怒りと、逃げ惑う人間の不安と恐怖が入り混じっているかのようである。窓の外を駆け抜ける景色、そして人の心の中をかすめる思い出の数々。過去に無自覚に行ってきた行為の数々。怒りにまかせて、強引に押し通した行動。時折、安らかな思い出が脳裏をよぎることもあるが、来るべき罰に対する不安はかき消すことができない。逃げても、逃げても、運命の追っ手から逃れることができない。疾走は第一楽章の終わりまで続いていき、雪崩を打ったように、終幕へ突入する。転倒。あきらめと絶望のため息。そして死神にとらえられた人間は、固い腕で容赦なく鞭打たれながら、引きずられて、冥界へと連れ去られる。

 この曲にどんなイメージを抱くかは人それぞれであるが、この曲が何を意味していようと、ポズドヌィシェフ男爵が言いたかったことは、楽曲に込められた劇的な心理展開や、胸苦しいまで張りつめた感情を、演奏者は自由自在に、何の用意もできていない無防備な聴衆の心に流し込み、あらゆる感情をいともたやすく聴衆に伝染させて、聴衆の心をさらに無防備にしてしまうことの危険性である。

 言い換えるならば、音楽というものが大衆のマインドコントロールのためにいかに有効な手段になりうるかということを、19世紀に生きていたトルストイは、いち早く発見し、後世に警告しようとしたのだと言える。音楽が人間の心理を巧みに操作する手段となりうることに、トルストイは大きな危険を見て、あえて私達が日頃から無害なものと考えて愛でている音楽を、危険なものとしてひっくり返して見せたのである。

 確かに、言葉による演説ならば、人々はそれを吟味し、批判し、自分に合うものだけを取捨選択しようとする。人々は言葉によって暗示にかけられることに対して、わずかながらも警戒心を持っている。しかし、音楽に対しては、人々は吟味する作業をやめて、素直に心を開いてしまう。高度に芸術的で完成された楽曲であればあるほど、人の心を思うがままに操り、怒りや、恐怖、不安、嘆き、情熱、歓喜、官能まで、およそどんな心理状態でも、簡単に呼び起こすことができる。人々が、音楽の与える情感にあえて逆らうということをしないために、なお一層、音楽は強い力で人の心を揺さぶり動かすのだ。

 今日のキリスト教界における集会などを見ても、そこには大抵、音楽の使い方にある種の型が、すなわちテクニックが見られる。礼拝でも、音楽の使い方に決まった型がある。そこにも、今日、音楽がいかにその場の雰囲気を荘厳なものにし、大衆の心理をその場にふさわしいものへと誘導する有効な手段として駆使されているかを見ることができよう。
 しかし、ポズドヌィシェフ男爵が危険視するのは、儀式化された場所で、秩序ある形で音楽が用いられることではない。むしろ、秩序のない、制限のないところで、音楽が濫用されることによって、行き場のない、用途不明な情熱が人々の心の中にかき立てられ、その結果、人々の情熱がどこへ結びつくやら分からない、一触即発の状態が生まれることだ。音楽が人々をトランス状態に陥れ、現実認識力を弱め、洗脳にかかりやすくなった人々は、物事に対する警戒心や、まともな判断力が鈍り、善悪の判断が効かなくなって、心理的な退行現象が起きてしまうことの危険性なのである。

 まさか、そこまで音楽は危険なものだろうか?と反論したくなる人もいるだろう。そこで、ポズドヌィシェフ男爵の言い分をもうちょっと聞いてみよう。彼は言う、
「音楽は時によると実に恐ろしい、実に不気味な作用を及ぼすのです。中国では音楽は国家的な事業とされていますね。これもまた当然ですよ。希望者はだれでもお互い同士、あるいは大勢の人間を催眠術にかけたあげく、それらの人間に好き勝手な振舞いをするなんてことが、はたして認められていいものでしょうか? しかもいちばん問題なのは、堕落しきった最低の背徳漢でも、その催眠術師になれるって点なのです。
 ところが、この恐ろしい手段が、相手かまわずだれの手にも入るんです。たとえば、あのクロイツェル・ソナタの導入部のプレストにしても、ですよ。いったい、肌もあらわなデコルテ・ドレスを着た婦人たちの間で、客間で、あんなプレストを演奏していいもんでしょうか?<略>
ああいう作品を演奏してよいのは、一定の、重要な、有意義な状況の下に限られるので、それも、その音楽にふさわしいような一定の重要な行為をなしとげることが要求される場合だけです。その音楽によってムードをかきたてられたことを演じ、実行するというわけですよ。さもないと、時と場所にも似合わずにかきたてられたエネルギーや情感が、なんらはけ口を見いだせぬまま、破滅的な作用を及ぼさずにはいませんからね。」(p.108-109)

 ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタという、全世界で芸術的最高峰の一つとして知られる作品、人の魂にきっと有益な効果を及ぼさずにおかないだろうと思われる崇高な音楽が、まるで麻薬のように魂に破滅的な作用をもたらしたのだとポズドヌィシェフ男爵は言う。

「少なくともわたしに対しては、あの作品は恐ろしく効き目がありました。気のせいか、まるでそれまで知らなかった、まったく新しい情感や、新しい可能性がひらけたかのようでした。ああ、こうでなければいけないんだ、これまで自分が考えたり生活してきたやり方とはまったく違って、まさにこうでなければいけないんだ、と心の中で告げる声があるかのようでした。わたしがつきとめたこの新しいものが、いったい何だったのか、はっきりさせることはできませんでしたけれど、この新しい状態の自覚はきわめて喜ばしいものでした。妻もあの男もふくめて、相も変らぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきたのです。<略>

わたしは夜会の間、終始、心が軽やかで快活でした。その晩のような妻の姿を、わたしはかつて見たことがなかったのです。演奏している間の、あの光りかがやく目や、端正さ、表情の厳粛さ、そして演奏し終ったあとの、何か身も心もすっかり溶けてしまったような風情や、かよわい、いじらしい、幸せそうな微笑。わたしはそれらすべてを目にしました。しかし、妻もわたしと同じ気持ちを味わっているのだ、わたしと同じものが啓示され、まるでついぞ味わったことのない新しい情感が思い起されたような気持ちになっているのだ、ということ以外、そこに何ら別の意味を付さなかったのです。<略>

わたしははじめて心からの喜びをこめてあの男と握手し、いい音楽をきかせてもらったことを感謝しました。あの男は妻とも最後の別れのあいさつを交わしました。二人の別れのあいさつはごく自然で、作法にかなったものに思われたのです。すべて結構ずくめでした。わたしと妻はどちらも夜会にとても満足していたのです」(p.109-110)

 ベートーヴェンの音楽は、まるで神からの啓示のように、ボズドヌィシェフ男爵の心に響いた。そして、男爵の心の中から、全ての悪い思いを洗い流してしまったかのようであった。男爵はこの演奏が始まるまでは、ヴァイオリニストと妻との協奏を心の中で嫌悪していた。彼の心に喜びはなく、憎しみや、皮肉や、嫌悪があるのみだった。にも関わらず、それまでの妻とのあらゆる不愉快な行きがかりや、妻への嫌悪、トゥルハチェフスキーに対する軽蔑などの、周囲に対する一切の不快で敵対的な感情が、音楽のもたらす効果のために、男爵の心からすっかり消えてしまったのである。そして、男爵はまるで生まれ変わったかのように、新しい、調和に満ちた平和な世界を発見した。まるで見るもの全てが浄化され、新しい、穢れない光の中で輝いているように見えた。

 それは、ベートーヴェンのような高い芸術性を持った音楽ならではの効果だったと言えよう。男爵の心は、この音楽のもたらす緊張と苦しみの中でカタルシスを味わい、彼は心の大掃除をされて、今までと違う次元へと運び去られたのである。それは男爵自身にとっては、全く喜ばしい変化のように感じられた。嫌な思いが全て去って、あるべき心の平穏な状態を取り戻し、人格が生まれ変わって、新しい崇高な境地に至ったように思われた。(だからこそ、トルストイはここで、俗的で官能的な楽曲ではなく、崇高なベートーヴェンをあえて引き合いに出しているのである。)

 しかし、男爵に起こったこの喜ばしい「生まれ変わり」の体験は、実はとても危険な退行現象であり、男爵をも彼の妻をも破滅的な状況に導き入れるものであった。
 音楽のもたらすカタルシスの作用のために、まるで赤子のように無垢な心になったポズドヌィシェフ男爵は、それまでずっと持ち続けてきたトゥルハチェフスキーへの敵意を忘れ、彼がどんなに危険な人間で、忌まわしい目的を持って、自分の妻に接近したかということを忘れ、警戒心を解いて、リラックスして、落ちついた、平和な気分で家を離れて、出張に旅立ってしまった。

 そして恐らく、小説には全く書いていないものの、ポズドヌィシェフ男爵の妻もまた、この時、夫と同じように無垢な心境に逆戻りしていたのであろう。彼女は最初は夫に対する当てつけのために利用してやろうと考えていたトゥルハチェフスキーに対して、今や、師匠に対するように、崇高な敬愛の念を抱いていたと思われる。彼女はその警戒心のなさから、夫の留守中に訪ねて来たトゥルハチェフスキーを気軽に家に入れてしまった。そしてその後に起こった悲劇…。
ポズドヌィシェフは出張先で妻からの手紙を読んで、魔法が解けたように我に返り、本来の嫉妬深く敵対的な心境を取り戻した。そして俗悪なヴァイオリニストの計画に気づいて、妻への嫉妬と疑惑に燃えて、真夜中に急いで家へ逆戻りした…。


6.大衆扇動の手段としての音楽が持つ危険性

 もちろん、この小説では、ポズドヌィシェフ家を破壊した犯人は『クロイツェル・ソナタ』ではない。トゥルハチェフスキーの登場がなくても、この夫婦が破局に至ったであろうことは確かであり、この破局は音楽によるマインドコントロールだけの所産ではなく、したがって、音楽に全ての汚名を着せることは不可能だ。しかし、私たちはここであえて立ち止まって、ポズドヌィシェフ男爵の口を借りて提起された、音楽によるマインドコントロールという問題を、もうちょっと真剣に考えてみたい。

 私ははからずもこの小説を読んだ時、昨今、世間を騒がせている牧師による信徒への性犯罪事件などを思い浮かべずにいられなかった。このような事件の被害者たちは一様に、事件発生時、牧師によってマインドコントロールされて、我を忘れさせられていたと証言する。つまり、そこで言われているのは、儀式や何らかの訓練の過程で、牧師がまるで魔術師のように信徒たちの心を操作し、支配し、信徒たちにそれまで持っていた常識や社会通念を忘れさせて、善悪の判断が効かなくなるように仕向けているということなのだ。

 私自身もまた、自分が全体主義教会で受けた体験を思い出すにつけても、異常な教会の中では、本当に、その時空間内に人が一歩足を踏み入れるや否や、常識や、従来の道徳観念をすっかり忘れてしまうような異常な支配力が働いているのだと思わずにいられない。カルト化教会は、マインドコントロールの力が強力に働く磁場のようなものである。あるいは、人を死に至らしめる無臭のガスが充満した部屋のようなものである。相当に訓練を積んだ人でなければ、その空気を嗅いだだけで、異常だと察知することはできないし、よくよく用心しなければ、気づいた時は手遅れの被害に遭って、無傷で生還することは極めて難しいのだ。

 トルストイはたかだか1時間にも満たない音楽の演奏を聴くだけでも、人の心には驚くべき効果がもたらされることを発見した。しかも、ここで重要なのは、その音楽が決して、人の心に、害悪と思われるような効果をもたらさず、むしろ、至高の存在の現われのように、喜ばしい真理の訪れのように、神からの新しい啓示のように、聴く人の心に鳴り響き、その人の心を浄化し、一切の不快な思いを忘れさせて、無垢な心に生まれ変わらせたということなのだ。その生まれ変わり体験は、人の心を軽くするものであって、快いものであり、その心地よさゆえに、聴衆は自分に起こった変化はきっととても良いことなのに違いないと思ってしまうのである。

 恐らく、カルト化教会で使われるテクニックもこれと同じであるに違いない。人の心を感動させた上で、無防備にしていくような様々な工夫が凝らされているのだ。感動や、歓喜や、過度な緊張の後でもたらされるカタルシスが、人に心を開かせるのだ。
 ただ優しい、美しい、叙情的な調べを聞かせるだけでは足りない。力強く、苦しみに満ちた、怒涛のような音楽、魂の叫びのような調べもまた、魂を高揚させる効果を持っている。長い緊張状態を越えて平和が訪れると、人の心には類例のない解放感がもたらされる。
 カルト化教会のような忌むべき場所では、様々な儀式、礼拝、デボーションの中で、音楽や、様々な演出効果をたくみに用いて、そのようなカタルシスを人工的に引き起こし、人の心を無防備にさせるために、様々な仕掛けが工夫されているに違いない。そしてそのどれもが、かかった人が危険だと感じるよりは、むしろ自分の魂が「聖められている」と感じて、喜びに浸れるような、そんな仕掛けなのだ。

 短い期間であったが、私は舞台演奏家の付き添いとして、何度か楽屋裏を回ったことがあった。その時に、プロの舞台演奏家という種族が、どんなに普通の人たちとはかけ離れた次元に生きているかを、わずかばかり感じさせられた。
 人と人とが知り合って、好感を抱くようになるまでには実際にかなりの時間がかかる。しかし、演奏という魔法を通せば、人々はいとも簡単に演奏家に対して心を開くようになる。聴衆は、自分の目の前にいる演奏家がまるで滅多にお目にかかれない特別な人間であるかのように思い込み、出会いそのものをありがたく喜ぶ。演奏家は、どこへ行っても歓待され、特別扱いされ、聴衆と共にいる限り、まるで治外法権でもあるかのように、悪口を言われることも、非難されることもほとんどない。私達庶民が日常生活でいつも味わわされているような、様々な人間的対立や、周囲の心ない行動から来る不快感を、少なくとも、舞台の近くにいる間、演奏家はほとんど味わわずに済む。
 作曲家の非凡な頭の中で作り出された楽曲の恐るべき効果によって、聴衆の目には、作曲家のみならず、演奏家までもが光り輝いて見える。優れた音楽に酔わされた聴衆は、自分たちにそのような魔法をかけてくれた演奏家に感謝し、彼こそは特別に優れた人間に違いないと思わされてしまう。

 確かに、音楽家の仕事は、日常の中に異次元空間を作り出すことである。その異次元空間の中で、聴衆は酔わされ、振り回され、理性を失い、最後まで冷静に立ちおおせる人は一人もいない。聴衆は楽曲の中には計算されつくした仕掛けがあって、その仕掛けを用いて、演奏家が自分たちをいともたやすく扇動し、自在に振り回していることに全く気がついていない。むしろそのように振り回されていることに喜び、もっと振り回されたいと望んでその流れに自主的に身を任せているくらいである。
 会場では、ただ仕掛け人である演奏家だけが、音楽に没入しつつも、最後まで超然と平静を保っている。演奏家だけが自分を保ち、客観的にその場を眺めている。演奏家は演奏の最中に、自分の作り出す音がどのように聴衆に響いているかを一瞬、一瞬、冷静に感知しなければならない。彼らは人の心を感知するプロである、少なくとも、音楽という分野においては。自分が出す音によって、めまぐるしく変っていく聴衆の心を手に取るように理解していなければ、演奏ということはおよそ不可能なのだ。

 私は趣味としての音楽に携わったことはあったが、プロの演奏家とはどのようなものかを、この時まで知ることはなかった。だが、舞台人の側に立って物事を見る機会にめぐまれたおかげで、音楽以外の様々な事柄についても、同様に、舞台人という特別な種族が存在し、彼らは舞台の仕掛けを巧みに用いることによって、観客の前に、実際にあるがまま以上に自分を崇高な存在に見せかけることができることが分かった。巧みな弁舌や演出効果によって、観客の心理を自在に操り、自分に有利な状況を作り出していくことが、いともたやすく可能なのだということが分かった。

 その種族の最たるものが牧師である。


聖書に見る生活苦と男女不平等の起源

「わたしは恨みをおく、
おまえと女とのあいだに、
おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう。」(創世記3:15)

「あなたは苦しんで子を産む。
それでもなお、あなたは夫を慕い、
彼はあなたを治めるであろう。」(創世記3:16)

「地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。<中略>
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」(創世記3:17-19)


1.聖書に見る生活苦と男女不平等の起源

 『聖書に見る夫と妻の人間関係』、リチャード・L・ストラウス著、唄野隆訳、いのちのことば社、1996年、という本が今、私の手元にある。
 男女の、あるいは夫婦の人間関係をテーマとしたクリスチャン向けの書物の中には、あまりにも理想主義的であったり、禁欲主義的であったり、あるいは男尊女卑的であったり、ハウ・ツー的な側面がありすぎたりと、なかなか現実にそぐわず、混迷を極めた現代において人間関係に悩んでいる人たちの心の琴線に確かに響くような、納得できる書物が少ない。しかしこの本は男女の関わりにおいて、悩めるクリスチャンの心を確かにとらえることができる内容ではないかと思う。

 聖書に登場する最も美しい男女の出会いの一場面として、創世記におけるイサクとリベカとの出会いが挙げられる。日曜学校や礼拝において、きっと、語られないことはないテーマだ。イサクの忠実な僕が、神の導きを求めながら、主君のために伴侶を探し、主人に最もふさわしい無垢な娘、リベカを探し出す劇的な場面。
 映画のような美しい情景が目の前に思い浮かぶ。若く美しいリベカは、親切心に溢れた謙虚な女性だ。彼女はまだ夫となるイサクの顔かたちを一目たりとも見ていないのに、ただ信仰だけに基づいて、イサクの妻となることに同意する。
 ルックスへのこだわりや、財産への執着や、家柄へのこだわり、情欲など、この世における結婚にはほとんどつきものと言っていいような、まがまがしい利己主義を一切、排除したところで、ただ神の導きにより、夫婦となるべく定められたこの美しいカップルの物語は、教会では理想的な男女の出会いの場面として、よく語られることだろう。

 しかし、このような理想的な男女のめぐり合いを現実に経験するクリスチャンはほとんどいない。恋人や、許婚や、伴侶のために、現実には毎日のように悩みが押し寄せてくるという人の方がむしろ多いのではないだろうか。中には、イサクとリベカの美しい物語を読むたびに、「ああ、私の人生とはあまりにも違う」と感じて、過去の挫折体験を思い出し、心が痛むという人もあるかも知れない。

 信仰に関する無知や、エゴイズムや、環境の貧しさや、軽薄なこの世的な価値観のために、男女の関わりにおいて苦い挫折を思い知らされた経験のない人の方が少ないのではないだろうか。そのような人から見れば、教会がさかんに勧める、汚れない男女の出会いの物語は、現代を生きる人々には決して手の届かない高みにある、非現実的かつ理想主義的な物語のように思われてならない。それは世俗の世界の汚れから守られて生きる特権を与えられたごく一部の人間だけにしか通用しない、現代を生きる人々にとって何の処方箋にならない、嫌味のように非現実的な物語に思われるかも知れない。

 夫婦間、パートナーとの問題で、悩みの最中にある人々は、理想主義的な話を聞きたいのではなく、自分達が置かれている現実の問題に答えを与えてくれるような話を探し求めている。だが、前述の『聖書に見る夫と妻の人間関係』は、そんな悩み多き人たちにとっても、魂の安らぎとなり得る本ではないかと私は思う。

 この本の中では、男女の理想的なあるべき姿をただお説教的に述べるという調子はない。むしろ、聖書に登場する男女のカップルを例に取り上げながら、この本は、彼らが陥った苦悩や、醜い争いのことをためらうことなく取り上げる。聖書に登場する夫婦は、ほとんど全て、男女の関わりにおける悩みと無縁ではなかった。前述のイサクとリベカさえも…。神の導きによって成し遂げられた美しい結婚であったはずのイサクとリベカとの生活は、どういうわけか途中で、初めの愛とは、全く別のものへと変質してしまう。

 ストラウスの著書はこう述べる、「どこかで、この結婚は腐り始めました。次に、彼らの関係の悲劇的な低落に目を留めましょう。問題が何であったのか、はっきりはわかりません。愛がなかったからでないことは確かです。」(p.43)

 リベカとイサクの相性は抜群だった。だから二人には見合い結婚にありがちな性格の不一致や、生まれ育った環境の違いから来る理解不能状態はなかったはずだ。にも関わらず、二人の結婚は「腐り始めた」のだ…。
 どういうわけか、この「理想的なカップル」は、毎日、子どもを巡って対立するようになった。イサクは長男エサウを味方につけ、リベカは次男ヤコブを味方につけて互いに争う毎日となった。一体、どうしてそんなことになったのか。山の頂上で、父アブラハムによって燔祭に捧げられそうになった時でさえ、神を信頼してゆるぎなかった幼い日のイサクの信仰はどこに消えたのだろうか。「らくだにも水を飲ませましょう」と優しく下僕に語りかけたリベカの謙虚さはどこへ消えたのだろう?

 とにかく、二人の家庭では、子どもを道具にすることで、夫婦どちらが偉いかを競いあう争い、暗黙の対立が日常となった。そしてリベカは次男ヤコブと共謀して、ついに夫イサクを欺いて出し抜き、家内クーデタを起こしてしまった。
 旧約聖書の時代には、現代よりはるかに強い家父長制があった。にも関わらず、リベカは夫を自分の下に置き、夫の名誉を貶めたのだ。リベカのこの行為の裏には、きっと日頃からの夫イサクへの何らかの恨みがあっただろうと想像できる。
 そして息子ヤコブもまた、母に倣って、父と兄を軽んじるようになり、兄を欺いて、彼から長子の権威を奪った。そして次には父を欺いて、兄が受けるはずだった、父からの祝福を不当に受けた。ヤコブがそうしたのは、母からの指示に従ったのであり、自分だけの考えではなかった。だが、ひょっとすると、ヤコブは父が兄をえこひいきしたことで、父に対する恨みが募っていたのかも知れない。

 この家内クーデタはリベカに束の間の勝利以外に何ももたらさなかった。エサウは恨みに燃えて弟を殺そうと思いつめ、ヤコブは兄の怒りを避けるため、家出しなければならなかった。しかも、それがリベカとお気に入りの息子との最期の別れとなった。
 さらに、ヤコブにもその後、この事件は手痛いツケとなってはね返ってきた。人を欺いたヤコブは、自分自身も人に欺かれ、信頼できない主人に仕えさせられ、家庭では二人の妻が絶えず争い合うようになり、ついぞ気が休まる時がなかったことだろう。

 イサクとリベカという、理想的だったカップルの理由不明な対立。この現象を何よりも説明できるのは、ただ創世記におけるみことばのみである。
 創世記においては、この地上における男女の関わりが堕落したものになった原因は、アダムの原罪にあることが示されている。

 エデンの園で創られた最初の人類、アダムとエバは、今日、誰もが知っているように、神の戒めを破ったことにより堕落した。すなわち、神と対等の存在になるために、知恵を手に入れようと、人は神に食べてはならないと命じられた木の実を食べることを選んだ。

 ある音楽家が語ってくれた言葉を思い出す。その人はある楽器の奏者であったが、伴奏者の中には、自分が単なる伴奏者として扱われることに我慢がならず、ソロを弾く楽器と「対等に」演奏したいと言い出す人があって困るという話であった。その人は言った、「もしも伴奏者が、『私はあなたと対等に演奏したいんです』なんて言い出すことがあったら、私はその人には決して伴奏をお願いしないことにしているよ。『あなたと対等になりたい』と言うような人は、心の中では必ず、相手以上の存在になって、相手を打ち負かしてやろうと考えているんだからね。それじゃあ、協奏曲が"競争曲"になって、音楽でなくなってしまう。」

 対等の、という言葉の中には、必ず、あわよくば相手以上の存在になろうとする隠れた意図がある。人が神と「対等の」存在になろうとしたその時、罪が人間に入り込んだ。

 これから何度も語ることになると思うので、この時、サタンが人間を誘惑するために使った文句をしっかり覚えておきたい。
 蛇に扮装したサタンはアダムとエバを誘惑するためにこのように言った、禁じられた木の実を食べても、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)。

 悪魔の言葉はいつも半面の真理である。アダムとエバはその実を食べたことにより、確かに「善悪を知る者」となった。だが、彼らがその実によって新しく知ったのは、善ではなく、悪だけだった。(なぜなら、二人はその実を食べる前から、すでに善のことはよく知っていたからである。)二人は神の戒めに背くことにより、神に従って調和の中に生きるという、以前から知っていた善に加えて、神に背くという悪を体験的に知ったのである。

 アダムとエバはその時が来るまで、ただ善のみの存在する一元論の世界に生きていた。だが、この堕落の時点から、二人の知識には悪が増し加わり、人類は善悪二元論の世界に生きることを運命づけられた存在となった。

 確かに、蛇の言うように、二人は木の実を食べてたちどころに死ぬことはなかった。だが、実際には、ただちに死ななかった代わりに、老いという緩慢な死が始まったのである。

 悪魔と共謀した人間の裏切り行為を神は厳しく罰せられた。神は蛇(サタン)を呪って言った。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。」
 「女のすえ(=末裔)」という言葉は、教会では、御子イエスを指すと解釈される。正統とされる教義を信じているクリスチャンなら誰しも認めるように、イエスは肉による父ヨセフによって生まれたのではなく、聖霊によって乙女マリヤより生まれたため、「女の末裔」なのである。そこで、この文章は、肉の父に属さない「女のすえ」である御子イエスが、いずれサタンのかしらを打ち砕き、アダムによってもたらされた原罪による呪いを終わらせるが、その時、サタンはただイエスの踵にかみつくことしかできず、イエスは悪魔を打ち負かされるだろうという意味で説明される。

 しかし、それに加えて、「おまえのすえ(蛇の末裔)」とは、ただサタンそのものだけを指すのでないものと思われる。なぜなら、サタンに強い影響を受けた人間たち、つまり、イエス時代に生きていた律法学者、パリサイ主義者たちを、イエス自身は「まむしの子らよ」と名指ししているからである(マタイによる福音書23:33)。そしてさらに、終末の時代に、地上に投げ落とされたサタンは龍というシンボルの形で黙示録に登場する(ヨハネの黙示録12:9)。蛇=まむし=龍、これらが同じ系統に属する悪魔的な存在として、象徴的に描かれているのである。

 アダムは神によって、一生、生きるために苦役せねばならないことが言い渡された。作物を実らせ、家族を養うための労苦は一生、男について回る。アダムが神に背いた原罪に対する呪いとして、人類に生活苦がもたらされ、人生は、苦しみに満ちたものに変わったのである。
 「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土だから、土に帰る。」
 わずかな自由のために、うんと苦役して働いた後で、望まない死がやって来る。人生の喜びは短く、身体は老いて、土に帰る。この生老病死の苦しみを、聖書は、原罪の招いた呪いとして人間に下されたものとしているのである。

 他方、神は女に対して言われた、「あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。子宝を授かるという、夫婦に与えられた恵みは、この時から、女にとって、恐ろしい苦痛を伴うものとなった。いや、これはただ女性の生理的苦痛や、産みの苦しみが増したことだけを指しているのではないと私は解釈する。
 男が額に汗して生きねばならなくなり、女が苦しんで子を産まねばならなくなったことは、要するに、子育てが夫婦両方にとって、非常な苦痛と不安の伴う、重い負担となったことを意味する。

 そして妻はどんなに夫を愛しても、夫と決して対等の存在になれず、夫は妻を思いやりを持って扱うどころか、むしろ妻を残酷に治めようと(支配しようと)してかかってくることが言い渡された。家庭内で、夫は妻に君臨しようとし、他方、妻はそのことで夫に不平を持ち、夫と妻との調和は失われ、この時から、たとえどんなに愛し合った夫婦でも、争いを免れられないことが運命づけられたのだ。

 クリスチャンの中には、エバがアダムの肋骨をもとに創られたという聖書の記述を根拠にして、男尊女卑、すなわち妻に対する夫の優位性が神の御心にかなった自然な関係であるかのように説く人々がいるが、きちんと聖書を読むなら、そのような見解が大きな誤りであることが分かるだろう。

 夫が妻に対して優位を誇るようになったのは、アダムとエバの原罪の結果としての呪いが原因であった。夫が妻を「治める」(支配する)という現象は、夫と妻の本来的な、自然な関係ではなく、むしろ人間の罪が招いた、不自然で、歪んだ関係なのである。

 このようにしてアダムとエバ以来、人類は老いや病に脅かされる、死すべき存在へと変わった。生きることは苦役となり、子育てはつらいものとなり、美しいものであったはずの夫婦関係、家庭までが歪んだものに変わってしまった。今日、家庭内暴力などの問題が、社会問題として盛んに取りざたされるようになって久しいが、もしも、読者の中に、家庭において一切の歪みを味わったことがない人がいるならば、それは本当に奇跡的な幸運であると言えよう。
 何しろ、聖書においては、なんと最初の人類、アダムとエバの家庭から、すでに家庭内暴力があり、殺人があり、家庭崩壊が起こっていたのだから…。

 こうして、原罪のために、人間関係には残酷な支配と対立がつきものとなった。今日、人間社会における支配関係は、余剰生産物の争奪戦を機に始まったとされる説がまことしやかに語られているが、聖書を基準に見るならば、あらゆる支配関係は原罪に起因すると考えることが可能だ。まず、男の女に対する支配が始まり、それがあらゆる支配の原型となっていったのではないかと私は考えている。
 アダム以来、人間関係には暴力や陰謀による支配と、謀反による対立がつきものとなった。アダム以来、全ての人間関係が呪われ、歪んだものへと変えられてしまったと言っても過言ではない。

 イサクとリベカという美しい夫婦の陥った腐敗は、このような文脈でとらえるならば、何ら特筆すべき出来事ではなく、驚くべき異変でもなく、人類の宿業としての悲劇であったと言えよう。