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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

御霊に導かれて生きる~悪魔のディスカウントの鏡を否み、神の新しい完全な人であるキリストを着る~

さて、いつの間にやら当ブログと筆者は「聖霊によって歩むクリスチャン」という極めて名誉ある称号を頂戴していたようである。
 
そのことは厳粛な喜びと感動のような感慨を筆者にもたらす。これは冗談や皮肉で言うのではない。なぜなら、この称号の意味は非常に重く、責任が伴い、それだけに、それが暗闇の軍勢から発せられたことは極めて予表的な出来事だと思うためである。

ちょうどイエスの十字架の上に「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていたことを彷彿とさせる。そういう意味で、この表現は筆者の予想を超えて、霊的に栄誉ある称号であり、改めて神に従うキリスト者が誰しも辿らねばならない十字架の道を思わせる。それを理解した上で、心を新たに、主の御前で、御霊に従って生きさせて下さい、あなたに従う道を教えて下さいと厳粛な決意を表明させられるのである。

筆者はかねてより、クリスチャンはみな殉教の覚悟を固めるべきと述べて来たが、「御霊によって歩む」ことには、大きな解放も伴うと同時に、十字架も伴う。それは決して人間にとって好ましい偉大な側面だけを意味しない。代償を払い続ける覚悟がなければ、神に従うことは誰にもできない相談であり、その告白をますます生きて実践的に問われる時代が来ていることを感じる。
 
折しも、ちょうどここしばらくの間、「善悪の路線ではなく、命の御霊の路線によって生きる」というテーマに戻らなければならないと考えていたところだ。

今は地上に「御霊によって歩むクリスチャン」がどのくらいいるのかさえも疑わしい危機的な時代だが、それでも、そのような状況には一切関係なく、もしも個人が心の中で主を見上げ、決して目に目るものによらずに神だけを頼りにして歩むなら、「御霊によって歩く」ことは十分に今日も可能であると確信する。

人には人生で時間をかけて取り組む価値のあることはたくさんあるように見えるかも知れないが、御霊によって、キリストと一つとされて彼の中を歩むことは、他のすべてにまさって価値あることである。そのようにして過ごす短い数日に知る事柄は、人が何十年間かかっても到達することができないほどの深い真理の知識を与える。

聖書の真理は聖霊によってのみ知ることができるものである。真理の啓示には客観的な証明手段が必要とならない。人間が正しい知識を得る際には、必ず、それが正しいものであることを論理的または物的証拠によって証明するための膨大な裏づけが必要となるが、真理に関しては、そのようにして客観的な証拠の積み上げによって、それが真理である(らしい)と証明されるのではなく、神ご自身がそれが正しいことを人の霊の内に直接、啓示して下さるのである。とはいえ、人は霊の内側で知ったことを、魂で再解釈する必要があるので、ただ啓示を受けたというだけでは、たとえそれが神から来たと疑いの余地なく分かっていたとしても、あえてそれを鵜呑みにするのではなく、受けた啓示が正しいものであることを、やはり魂によって吟味し、証明しなければならない。もしそれが真に神から来た啓示であれば、魂による検証作業の過程で、聖書の御言葉との齟齬が出て来ることはない。そうして霊的な事柄を御言葉に照らし合わせて再検証することはどんな場合にも有益である。

御霊の中を歩み続けるならば、絶えず真理を知らされることができるであろうが、残念ながら、クリスチャンは必ず様々な攻撃を受けてそこから逸らされたり、転落させられたりして、御霊によって歩むことの意味を、数々の失敗を通して学ばされるしかない。御霊によって歩むことの学びは一朝一夕では終わらず、まずは、何が自分のアダムの古き命に属するもので、何を十字架において否まなければならないのか、それを知るためだけにも、長い学びの年月がある。

否むべきものが何であるのかが分からなければ、御霊による歩みはほんの一瞬程度しか続かない。神の霊に属するものと、肉に属するものは決して両立しないからだ。人間が天然の魂に従って生きている間は、御霊による歩みは決して続かない。むろん、契約の箱に触れたウザが死んだように、御霊によって歩むことに失敗したからと言って、信者が罰を受けるようなことはないにせよ、信者の命が著しい損傷を受けることは確かである。そして、その損傷の度合いは、信者が御霊の導きを知らなかったときに犯した誤りとは比べものにもならないほどの深刻かつ広範な影響力を及ぼす。ひとたび、神の聖霊と悪魔と暗闇の軍勢との恐るべき戦いの世界に足を踏み入れたならば、霊の世界に生きることが、通常の天然の域をどれほど著しく超えているか、信者は理解しないわけにいかなくなる。それを学ぶためだけにでも、月日がかかるものと思う。
 
だが、今は、天的な領域における霊的戦いについて語るのではなく、一人の人間が自分の思いの中でどうやって天然の衝動を拒んで、御霊に従うことを選択して行くかという話に限りたい。御霊によって歩むとは、キリストの完全の中を歩むことであるが、信者は、キリストの霊によって新しく生まれることを理解して、御霊の導きを見極めようとした瞬間から、思いの中で、激しい戦いが始まる。自分自身の中にある旧創造の命と新創造の命との戦いである。

その戦いに打ち勝つためには、信者が「思いを新しくする」ことが不可欠となる。これは私たちが古いアイデンティティに立って生きるのか、それとも、新しいアイデンティティに立って生きるのか、心の中で起きる激しい戦いのことを示している。

悪魔は新生されたクリスチャンの「思い」に対して攻撃を仕かける。その攻撃の最たるものは「ディスカウント」である。悪魔は別名を「中傷する者(ディアボロス)」と呼ばれ、嘘や、ごまかしや、トリックや、あらゆる禁じ手を使って、何とかして人間の価値を貶めようとする。その方法は、人の思いの中で、その人のイメージを汚すことによる。
 
すでに書いたように、創世記において、悪魔は人類に、神の創造は間違っており、人類は神によって不当に貶められ、制限だらけの劣った存在として造られたかのように嘘を吹き込んだ。

ある意味では、悪魔はその時、自分の手鏡を持って人類の目の前に現れ、その鏡に人類の姿を映し出して見せたのだと言えよう。「ほら、これがあなたの姿ですよ」と、人類の前に、醜く、劣った、傷だらけの、不完全な人類の姿を映し出して見せた。そして、「神はあなたを信用していないから、あなたに対する優位を誇ろうと、わざとあなたを制限の下に置いて、あなたをこんなにも劣って、醜い、弱く、惨めな姿に創造されたのですよ。あなたは自分自身のこんな姿に本当に満足しているんですか。神の決定は不当だと思いませんか。」と問いかけたのである。

悪魔は、このようにして、人類の思いの中で、人類のイメージを汚し、人類が決して神の創造された自分自身の姿に満足できなくなって、その姿を自分で変えなければならいと思い込むように仕向けた。それによって、人類が神に不満を持ち、神を恨むようにそそのかしたのである。人類に神を憎ませ、自分自身を憎ませるためである。

だが、そうして悪魔が映し出して見せた人類のイメージは、悪魔の眼差しという歪んだ鏡に映った映像であったので、人類の真実な姿ではなかった。人間は、神の目に自分がどう映っているかを気にかけるべきであり、悪魔が思い描いた人類の虚偽のイメージに気を取られるべきではなかったのである。

悪魔はこうして人類が創造されたその瞬間から、すでに神と人類とをディスカウントしていたのであって、神を「信用ならない傲慢不遜な存在」とみなした上、人類をも「愚かな神による出来損ないの産物」と見ていた。そして、神と人類との間を引き裂いて、両者の間に不信のくさびを打ち込み、両者を戦わせて相撃ちにさせれば、自分が漁夫の利を得られると考えつつ、人類に近づいたのである。

人類はそのように不当にディスカウントされた像が虚偽であり、悪魔の語りかけは、自分を罠に陥れるための策略であることを理解し、悪魔が提示して来た人類の姿を、自分自身の本当の像として受け入れることを断固、拒否せねばならなかった。しかし、人類がそれを嘘と見抜けず、受け入れてしまった瞬間に、悪魔の嘘はリアリティとなって人類の上に結実し、実際に、アダムの命は限界と弱さの象徴、もっと言えば、死の象徴となってしまった。つまり、堕落が現実に起きる前に、人類は自分は神の御前で何者であるかという認識を、すでに悪魔に奪い取られてしまっていたのである。

ヨブ記では、悪魔はアダムとエバに対して使ったのと似た策略を用いて、義人ヨブをも堕落させようと試みた。悪魔はまずヨブから大事な子供たちを奪い去った上、ヨブにひどい腫れ物をもたらして、彼の外観を別人とみまごうほどに損い、不快な感覚で悩ました。ここでは、悪魔はヨブのイメージをただ彼の心の中だけで傷つけようとしたのではなく、実際に彼の外観を傷つけることで、ヨブが自分は不幸だと嘆いて自己憐憫に沈むよう仕向け、神に対する彼の「思い」を変えようとしたのである。
 
病は悪魔がヨブにもたらした災いのまだ最初の部分であったが、ヨブの妻は、ヨブがそれほど惨めな姿になっても、まだ神を恨んで死のうとしないのを見て、夫を侮蔑した。自分ならば、そんな試練をもたらされれば、とうに神を呪って死んでいただろう、その方が、これほどの屈辱を甘んじて耐え忍ぶよりも、よほど潔いと思ったのだ。

ここに天然の人間特有のものの考え方がある。ヨブの妻の目には、これほど苦しめられても、まだ神の誠実な御心を疑わずにすがっているヨブは、あまりにも愚直すぎ、侮蔑と嘲りの対象でしかなかった。信仰のない生まれながらの人類は、プライドを傷つけられることや、自分が脅かされることに耐えられない。神を信じることよりも、自分の美的イメージを保つことの方がはるかに重要であり、自分のイメージが傷つけ、人前に恥を晒すくらいならば、死を選ぶという人々も少なくない。災いが起これば、早速、「神の祟り」にかこつけ、神に対して自分を被害者とみなし、自らを哀れむばかりか、神を悪罵して死ぬのも当然の権利と考える。彼らの目には、どこまでも正しいのは、自分であって、神ではないのである。

だが、義人ヨブは、天然の人のものの考え方を拒否し、神に対して被害者意識を持つことを強く拒んだ。彼は自分の美的イメージが根こそぎ傷つけられても、神を恨むことはなく、信仰を捨てることもなかった。ある意味で、ヨブは、古き人の中にありながら、信仰によって、すでに「新しき人」であるキリストを見つめていたのである。本当の自分自身は、現実の目に見える古い自分にはなく、神がヨブのために新しい人を用意しておられ、それを上から着ることができると信じていたのである。
 
「 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった
。」(ヨブ記2:1-10)


その後、今度は、友人たちがやって来た。彼らは最初はヨブに同情していたが、ヨブが一向に神を恨まないのを見て、今度はヨブ自身を責め始めた。彼が罪を犯したから当然の罰として災いが降りかかったのではないかというわけだ。その言葉で、友人たちの同情が本物でなかったことが判明した。

ここにも天然の人特有のものの考え方がある。普通の人間は、何かとてつもない災いが、自分以外の誰かに降りかかるのを見ると、必ず「原因探し」をしようとする。まずは神を悪者にした上、人間は弱い者同士として、被害者意識で連帯し、災いに見舞われた人に自分も同じような経験に見舞われる可能性のある人間として同情しようとする。

しかし、彼らは災いの当事者に自分を被害者と考えて神を恨ませることができないと分かれば、今度は災いに舞われた人自身を「タブー」とみなして、その者に原因をなすりつけようとする。彼には何か隠れた問題があって、神に見捨てられたせいでそうなったに違いないと考えて、今度は人間を悪者にして済まそうとする。

結局は、そのどちらの行為も、人間に被害者意識を持たせるために行われていることだ。災いを「神の祟り」とみなして神を恨ませようとすることも、「もし神が原因でないというなら、あなた自身が原因だと認めるんですか」と返答を迫ることも、根本的には同じなのである。どちらを選んでも、しょせん理不尽な答えしか導き出せない、間違った問いの立て方である。実のところ、そこには「サタンが悪い」という選択肢だけが巧妙に抜け落ちているのである。

ヨブは神と人とのどちらの側にも原因を認めなかった。その姿勢の中には神の御思いが反映している。ヨブが見ていたのは、責められるところのない、傷のない、完全な人のイメージである。ヨブは自分の義に固執していたわけではなく、そのずっと先に、キリストを見ていた。神は人間を弱く、劣った、罪深い存在として、理不尽に罰して滅ぼすために創造されたのではない。神はご自分の目にかなう、傷のない被造物として、人間を造られた、そして、人間が罪によって神に離反しても、なお罪から贖うことで、ご自分から離れて行った被造物を取り戻そうとしておられる…、その神の御思いをヨブは一心に見つめてそこから目をそらさなかったのである。

ヨブは自分の姿がどうあるかに関係なく、信仰によって神の御心の中心を掴んでいたのである。むろん、ヨブは最後には神に向かって自分は塵と灰の中で悔い改めますと叫ぶが、それは、ヨブの友人たちが彼を責めたように、自分に非があるために一連の災いがもたらされたと認めるという意味ではない。人間は罪深く、弱く、劣った存在であるがゆえに、神に罰せられても仕方がないと認めるという意味では決してないのだ。

ヨブは義人であったから、責められる理由がなかった。それでも、彼は被造物として創造主の前に頭を下げ、自分の処遇のすべてを神に委ねたのである。それは、彼がたとえどのような目に遭わされ、何が自分に降りかかっても、決して神を加害者とはみなさず、自分を被害者とも思わないという信仰告白の総仕上げであった。むろん、ヨブのこの行為は、罪なくして罰せられた十字架上のイエスの父なる神への従順を予表する。

神の御前で(注意:人の前ではない!)自分の義を捨てるという、神への最後の明け渡しの段階を超えた後で、ヨブには失ったもののすべてが新しくされて取り戻される。それは彼が十字架の死を経て、復活のステージに入ったことを意味する。

今はまだ旧創造が贖われつつある時代なので、聖書では、この復活の領域についてあまり多くのことは明らかになっていない。十字架で死に、よみがえられた後のイエスは、復活の体を持って人々の前に現れられた。その体は、それまでの体とは異なっていた。巨大な墓石をどけてしまったり、大勢の人々の前に一度に現れたりすることのできる、天然の世界を超えたよみがえりの体であった。何よりその体にはすべての古い体を縛っている罪と死の法則が全く働いていなかった。

イエス自身は復活の前も後も変わらない同じ人格を持っておられたが、弟子たちはイエスの姿を見ても、それがイエスであることがすぐに分からないこともあった。イエスは十字架で死なれる前にも、数多くの奇跡を行われたが、死を経てよみがえられた時には、以前とは異なる意味で、この世を完全に超越していた。霊・魂・体のすべてが以前とは異なり、全く新しくされていたのである。
 
私たちは神を信じる者がいずれイエスが復活された時と同じように、新しい贖われた体でよみがえることを知っている。だが、それがどのように栄光ある体であったとしても、おそらく、それが私たちの中心的な関心事にはなるまい。この恵みの時代が通り過ぎた後も、聖書が一貫して中心に据えているのは、依然として「弱さのゆえに十字架につけられた」キリストのままである。すなわち、人としての弱さ、限界、痛み苦しみのすべてを背負いながら、最後まで神に従順であったキリストの偉大な達成の御業のままであろう。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられたましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

さて、悪魔は、すべての物事を「加害者と被害者」というフィルターを通して見つめさせようとする。特に、人間に自分は神の被害者だという思いを吹き込むことが、サタンの主要な仕事である。サタンが人を傷つける方法はたくさんある。その中には、ヨブにもたらされたような災いもあれば、その他の試練や、誘惑や、中傷や、裏切りもある。

だが、サタンの人を傷つける方法がどんなものであれ、それらの目的はただ一つ――人間を思いの中でディスカウントすること――人の思いを攻撃して、自尊心を傷つけ、自分自身を恥じさせ、神を憎ませ、自分を憎ませ、人生を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

私たちは、ペンテコステ・カリスマ運動の中から始まったカルト被害者救済活動の中に、この悪魔的な思考の罠を如実に見ることができよう。すなわち、被害者性と加害者性とはまさに一体であり、本質的に同質のものなのである。自分は被害者だと言っている人たちが、ひとたび状況が変われば、自分たちの心の傷やトラウマを、自分よりも弱そうな誰かをターゲットとして残酷に注ぎ込み、新たな被害者を延々と作り出していく。被害者が被害者で終わらず、その心の傷ある限り、彼らはいつでもどんなにでも恐ろしい加害者になりうることを、この運動ははっきりと物語っている。

つまり、自分を被害者だとみなすことは、悪魔のディスカウントを受け入れることと同じなのであり、さらに言えば、悪魔自身と一体化することをさえ意味する。その被害者意識を通して、神への不満と恨みが人間の思いの中に侵入し、それが傷つけられた自尊心を生み、自分を愛せない心を生み、他者を愛せない心を生んで行く。何よりも、自分と同じような境遇から脱して自由になろうとする人々に対する尽きせぬ妬みが生まれる。自分が被害者意識に縛られているのに、他人だけは自由になるなど許せないという妬みである。

だが、キリスト者は、そんな悪しき思いにとりつかれるよりも前に、まずは自分が見ている自分の像が本物なのかどうかを問わなければならない。自分を何者だとみなすかが、人の人生において決定的に重要な意味を帯びているのであって、何が理由であれ、ディスカウントされた像を自ら受け入れることは、その人の人生を決定的に損なう。

正義はれっきとして神にあり、悪人に対する神の裁きは確かに存在する。剣を取る者は剣で滅び、誰かに対する加害行為に及べば、その人は罰せられる。だが、罪人がふさわしい裁きを受けることと、誰かの不当な行為によって傷つけられた人が、値引きされた自分のイメージを自己の像として受け入れるかどうかは別問題である。ここに「思い」の中での戦いがある。

戦いは難しければ難しいほど面白いと当ブログでは以前に書いた。それは、人には立ち向かうことのできない弱さがあればあるほど、そこに信仰によって神の力が現れる余地が存在するからだ。

サタンは、常日頃から、病や、その他の弱さにひしがれて被害者意識に溺れ、ただ同情を乞うためだけに人々の間を巡り歩いているような信者たちは、とりたててターゲットにもしない。そういう人々は、サタンにとって何の脅威にもならないので、いつまでも弱さの中に閉じ込めておく以外にさしたる攻撃も行わない。

だが、真に束縛から抜け出て自由になって、完全な人間性を取り戻そうとする人々を、悪魔は本気で攻撃の対象とする。特に、人間の作った宗教組織の「和」によるディスカウントの束縛の中から抜け出て自由になることを、悪魔は何としても阻止しようとし、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、復活の領域を歩むようになったクリスチャンを、死にもの狂いでターゲットとする。

しかし、その攻撃の際に悪魔が用いる方法は、古来から同じである。その人の価値をディスカウントし、中傷を真実であるかのように思わせることによって、神に対する人間の思いを汚そうとするのである。問題は、人々が悪魔の中傷にどの程度影響されるかや、世間が何を真実だと思うかではない。重要なのは、人が自分自身について何を真実だと信じるかである。

ところで、かつて世界的に高名なチェリストのロストロポーヴィチがソビエト体制崩壊後に我が国の記者のインタビューに答えてテレビで語っていた内容を思い出す。そこで記者は、ソビエト体制は芸術家の育成に類を見ないほどの力を入れていたことを指摘し、ロストロポーヴィチに向かって、彼がソビエト体制に生まれ、この体制の中で教育を受けたことは、彼の音楽家としての形成に不可欠な要素となっており、彼にはこの体制から受けた恩恵があるのではないか、ソビエトの教育をどう振り返り、どう評価するか、といった趣旨の質問を向けていた。

チェリストはそれに答えて言った、確かに、ソビエト体制は芸術家の育成に心血を注いでいた、だが、その教育には明らかな限界があった。その限界とは、ちょうど庭の芝刈りと同じで、ひとたび芸術家が体制の望む以上に成長を見せ始めると、その芝はたちまち刈られてしまうのだと。要するに、それは管理された教育であって、ある程度までの成長は許されるが、体制が許した限度を超えて成長することは決して許されないのである。

ロストロポーヴィチ夫妻がソビエト体制から迫害を受け、事実上、国外に追放された明らかな原因の一つは、国外で『収容所群島』を発表するなどしてソビエト体制の暗部を告発したために、体制から抑圧されていた作家ソルジェニーツィンを彼ら夫妻が助けていたことであった。1969年頃からロストロポーヴィチ夫妻はソルジェニーツィンをモスクワ近郊の自分たちの別荘に住まわせて経済的に支援し、作家のためにブレジネフに嘆願書を書いたりもしている。そうした振る舞いが原因となって、すでに音楽家として高い名声を獲得していたロストロポーヴィチはソビエト国内でコンサート活動や録音の機会を奪われて行く。

ロストロポーヴィチ一家は1974年にソビエト文化省から公式の許可を受けて長期の海外滞在に赴いたが、彼らが海外に滞在中の1978年、ソビエト国内では『イズベスチヤ』紙に3月16日付で大々的にロストロポーヴィチの反ソ的活動を非難し、彼らのソビエト市民権が剥奪されたと報道する記事が掲載される。(以下の記事断片は Wikipediaから抜粋)

 

M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤ(*妻)は国外に出発した後、ソビエト連邦に帰国したいとの願いを表明せず、反愛国主義的活動を行い、ソビエト社会の秩序とソビエト市民としての名誉を傷つけた。彼らは反ソ的地下組織や、その他のソビエト連邦に敵対する外国の組織を組織的に支援した。1976-77年には、亡命した白系ロシア人(**ソビエト革命を避けて国外亡命したロシア人)の組織を支援するためにコンサートで募金を募るなどしていた。<略>
ロストロポーヴィチとヴィシネフスカヤが、ソヴィエト連邦の威信を損なう、ソビエト市民としてあるまじき活動を組織的に継続していることに鑑み、ソビエト連邦最高会議は1938年8月19日付のソビエト連邦市民権に関する連邦法第7条に基づき、M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤの市民権を剥奪することを決定した。
1978年3月16日付の『イズベスチヤ』紙(NO.63(18823),p.4


 ソビエト体制も、「和の精神」に基づく「大日本帝国」と同じように、神と人類が同一であるというフィクションに基づくグノーシス主義国であった。グノーシス主義とは、聖書の霊なる見えない神を創造主とせず、物質世界の被造物を神とする教えであるから、本質的に唯物論である。ソビエト体制は、グノーシス主義的唯物論に基づき、人類の欲望をあらゆる制約から取り払って、無限に解放することを人類にとっての幸福社会と考え、欲望が無制限に解放される社会の実現を目的に、革命を起こして旧体制を追放し、グノーシス主義理論に基づく国家を建立したのである。ここでは、ちょうどマルクス主義的唯物論が「グノーシス」の役割を果たしている。グノーシス主義思想の中に見られる終わりなき秩序転覆は、マルクス主義を含めたあらゆる弁証法の起源なのである。

グノーシス主義理論に基づいて成立する国家や社会はいずれも、人類を抑圧から解放して自由と幸福を実現するという名目とは裏腹に、必ず恐るべき抑圧を人間にもたらすことになるのだが、むろん、ソビエト体制もその点で全く例外ではない。

これらのグノーシス主義国という抑圧的な体制は、それ自体が、人間をディスカウントする悪魔の「鏡」にたとえられる。

ロストロポーヴィチは国外滞在中に突然、ソビエト体制から事実上の「破門・追放宣言」を受けて、自分たちはもはや人間として生きるに値しない人々になったという宣告を、祖国の新聞雑誌という「鏡」を通して突きつけられた。彼らには母国に帰国する道はもはや絶たれた。だが、国外に旅立つ前から、国内には居場所がなくなっていたことから、やがてはそうなるであろうことを、夫妻は心の中でうすうす予期していたであろう。ソビエト政権は、彼らがあまりにも有名すぎて、ソルジェニーツィン同様、国内で処罰することができないために、このような形で厄介払いしたのである。

ソビエト政権は、ロストロポーヴィチがこの体制の限界と誤りに気づくまでの間は、彼を育成していたかも知れないが、いざ夫妻がこの国の体制が、根本的に人間性に反していることを悟り、政権の許容範囲を超えて活動し始めると、たちまち迫害に転じた。ロストロポーヴィチは、人間とは箱庭に植えられた芝ではないので、自分に備わった自然な命に従って、他の一般的な芝の高さを超えてでも、どんどん成長していくのが当然と考えたが、労働者と農民の国という形を取ったグノーシス主義国は、人間とは箱庭に植えられた芝であって、許された限度以上には決して成長してはならないとみなしていたのである。

一体、どちらの主張する人間の姿が本当なのだろうか? むろん、答えは明らかであろう。刈られた芝草は、ちょうどグノーシス主義のディスカウントの鏡に映し出された人間の姿を示す。ソビエト社会の秩序だとか、市民としての名誉だとかいったものは、みな「和の精神」というフィクションによって生み出される幻想であり、いわば芝草の背丈を示す、草刈機が作動する口実である。「和」を乱す活動は、すべて「罪」であって許されない活動として、草刈機によって排除される。この排除は、グノーシス主義理論に基づく国家や社会であれば、どこでも同じように起きる。

だが、現実の人間は、鏡に映った歪んだ映像とは異なり、未知数の可能性を秘めており、誰かが勝手に定めた芝草の背丈などにおさまりきらない成長を見せる。人間が箱庭の芝草なのではなく、そもそも人間のために庭があるのだ。その人間をどうして芝草同然に扱うことなどできようか。限界ある普通の人間でさえこうなのだから、まして信仰者はなおさらである。こうした国家は現実に逆らい、現実の人間自身を否定して、虚構の上に成り立っているのである。
 
人間は、神に比べれば確かに劣った存在であり、多くの限界と制約を受ける弱い存在である。創造主と被造物との関係は、人間がどんなに偉大に成長したとしても覆せないものであり、人間はどんな方法を使っても神と等しくなることは決してない。しかしながら、そのことは、神の側からの被造物への侮蔑や軽視を示す事実では全くなく、むしろ、事実は正反対である。
 
聖書に話を戻せば、神が人をどれほど重んじておられるかは至る所で分かる。神は人を滅ぼそうと思われる時にも、その計画を決して人に知らせず、突如として実行されることはなかった。ソドムとゴモラの悪を確かめ、これらの町々を滅ぼそうと決められた時にも、神はアブラハムにその旨を告げられた。

「時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」(創世記18:17-19)

神はイスラエルの民が偶像崇拝に陥り、神に背を向けた時にも、幾人もの預言者を遣わし、民に警告された。また、イエスは弟子たちに言われた、わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:14-15)

これらの事実は、神がどれほど人類を重んじて、ご自分の御思いを打ち明け、その実現を人が手伝うことを望んでおられるかということをはっきりと物語っている。神はこの目に見える世界を正しく統治させるために人間を創造されたのである。創造主と被造物との関係は覆せないとはいえ、決して神はご自分の優位性を誇り、人間を自分よりもはるかに劣った存在として貶め、無知にとどめおくために、不当に人間を弱く創造されて、制限をもうけられたわけではない。

しかし、悪魔は、人間に自分の限界だけに目を向けさせ、これを恥じさせることによって、神の御心を見失わせようとした。悪魔は、神は人間を不当に弱く、醜く、劣った存在にとどめおいているのであり、神には人間を信頼するつもりがなく、人間を侮蔑しているからこそ、そうしだのだと人に思わせようとした。人間がそれを真に受ければ、人の内側で神への信頼が失われ、両者の絆が断ち切れることを悪魔は知っていたのである。

それを信じたことは、人間の側のたとえようのない愚かさであったが、それでも、神は人間の犯した罪を人間自身に負わせることを是としなかったがゆえに、キリストを地上に送って贖いの十字架を負わされた。それによって、人類にはキリストによって新しく生まれ、旧創造としての限界を打ち破る可能性が開かれた。悪魔の嘘によって汚されたり、ディスカウントされていない、全く新しい聖なる天と地へ至る道が開けたのである。神はこうして人類を新しい世界へ脱出させることにより、悪魔の嘘によって汚された世界から人類を守り、その本来的な使命を全うさせようと考えられたのである。

キリストの贖いの犠牲によって、悪魔の言い分がどれほど卑劣な嘘であったかが、完膚なきまでに証明された。

にも関わらず、悪魔は今日になってもまだ同じ嘘をつき続けている。悪魔はまずは人間をディスカウントして精神的に抹殺を試み、それでも効き目がない場合には、カインがアベルを殺したように、肉体的抹殺という手段に及ぶ。悪魔の願望が、ただ人間をディスカウントすることにはなく、最終的には殺人にあることは、ここで改めて説明する必要もなかろう。
 
ただし、ディスカウントはそれ自体が精神的殺人であると言える。もしも人が悪魔の吹き込む思いを心の中で受けれれば、必ず、その人は死ぬことになる。殺されずとも、死がその人間の思いの中で働き、その人自身を内側から壊し、いずれ死に赴かせるであろう。

それだからこそ、カルト被害者救済活動は、自殺を罪とみなしていないのである。このことは、彼らが初めから、最終的には、自分たちの陣営に閉じ込めたすべての「被害者」たちを、あからさまに死に至らしめようと積極的に望んでいることをはっきりと物語っている。被害者救済活動という羊頭狗肉の看板は、結局、彼らが被害者として名乗り出て来たすべての人間を永遠に被害者のままにとどめ、ディスカウントの中に隔離して閉じ込めた結果、功を奏することのないむなしい自己改良に延々と取り組ませた結果、絶望して死に至らしめることを目的としていることを物語っている。

神が人類を不当な制約の下に置いたのではなく、悪魔こそ、人類を不当な制約の中に隔離してディスカウントした挙句、死へ追い込むことを願っていた張本人なのである。

だが、大きく見れば、ペンテコステ・カリスマ運動であろうと、キリスト教界であろうと、もしくは以上に挙げた「和の精神」に基づくすべての組織や国家や企業であろうと、あるいはソビエト体制のようなグノーシス主義国であろうと、その悪魔的性質はほとんど変わらない。宗教組織は、人生で様々な悩みや、弱さや苦しみを抱え、人の同情を求めてやって来た人々を、組織の中に束縛し、いつかはその弱さから脱出できるというあらぬ望みと引き換えに、ひたすら献金や奉仕を吸い上げる道具として扱い、彼らが搾取から抜け出せないよう、永久に弱みがなくならないよう、弱さの中に閉じ込める。その構造は、いつかは共産主義ユートピアがやって来るという嘘と引き換えに、国民に赤貧の苦労を耐え忍ばせたソビエト体制と何ら変わらない。

人がその体制の虚偽性に気づいていないうちは、そのような組織の枠組みの中でも、人にはまだ平穏に生きられる道があるかも知れないが、ひとたび、人がその社会が、偽りの希望によって成り立っている死に至るまでの絶望的な隔離病棟も同然であって、その中にいる限り、決して自由は得られず、弱さの克服もなく、絶望と、死が待っているだけであることに気づくと、その瞬間から、「鏡」による残酷な迫害が始まる。激しいネガティブ・キャンペーンが繰り広げられ、中傷によっても抹殺できない人々については、肉体的な迫害も繰り広げられる。

カルト被害者救済活動についても同じである。一体、これまでどれだけの人々が、この活動によって精神的にまた肉体的に追い込まれて殺されて来たことであろう。その人数ははかり知れないことであろう。

現在は皇帝ネロが繰り広げたようなクリスチャンの大規模な抹殺がまかり通るような時代ではないが、戦いは巧妙化しており、今もこれからの時代も、一人一人のクリスチャンに、極めて個人的に厳しい戦いを強いることで、悪魔はクリスチャンへの迫害を強化するであろう。
 
そこで、私たちば常に選択を迫られている。ちょうど我が国で「和の精神」などというものが公に説かれていた時代に、多くの宗教家や思想家が、天皇の前に跪くのか、それとも自分の信仰を貫くのかを問われ、身に危険が及ぶことを恐れて転向するのか、それとも、「非国民」とみなされて迫害の上、獄死する覚悟を固めても信念を貫くのか選択を迫られたように、今日も様々な形でキリスト者は「踏み絵」を迫られているのである。

私たちは、一人一人、いずれ神の御前に出て申し開きをせねばならない。その時に、どれくらい悪魔の策略に対して勝利をおさめ、神の御心を実行して生きたか、成果を問われることであろう。悪魔の「鏡」が突きつける嘘を信じて、自分はディスカウントされていると思い込み、それゆえ、神を恨んで被害者意識の中を生きたのか、それとも、神が人間に与えようと思っておられる自由を固く信じてこれを手放さないで生きたのか――。必ずその信仰を御前で評価される時が来るゆえ、私たちは固く立って、二度と人の奴隷にされないように気をつけなければならない。

勝利を勝ち取るために有益な方法として提示できることの一つが、悪魔の嘘の理論としてのグノーシス主義の基本構造を明らかにすることである。悪魔はオレオレ詐欺のように、人類の不意を狙って、様々な方法で人間に語りかけては、ディスカウントされた像を突きつけて来るであろうが、そのすべての目的は、人間に神に対する被害者意識を持たせるという一点に集約される。

だから、その鏡が嘘であることを見抜いてこれを拒否せねばならないのである。そのために悪魔の嘘である偽りの理論の基本構造を明らかにすることは有益である。

それ同時に、心のすべてを傾けて、神を知ろうとすることであろう。本物を知らずして、偽物を暴くことは難しい。もし信者が一度でもキリストと霊的に一つとなって信仰の中を歩むことについて、生きて実際に知ることがなければ、人は御霊によって心が新しくされるとは何か、キリストの復活の命とは何か、その意味が全く分からず、悪魔によって心が汚されるとはどういう意味なのかも分からないままだろう。

旧創造の傷ついて病んだ状態、罪に縛られ、不完全な自分しか知らない人間が、それ以外のあり方が存在すると、想像することさえできないのは当然だ。だから、キリストの復活の命の中に、人としてのすべての完全さが備わっていることを、私たちは生きて実際に信仰によって知らなければならない。そのために、まずは神がキリストのうちにすべての備えをして下さっていることを信じなければならない。人としての完全さだけではない。物質的な完全さもそこには備わっている。

筆者ははっきりと言っておきたい。ノアが箱舟を建設していた時、ノアの家族以外の人々は、どういう態度を取ってこれを見ていたことであろか。エレミヤが神の宣告を受け、民に罪を告げて悔い改めるよう迫ったとき、民はどういう態度を取ったであろうか。

今日、御霊に従って生きるクリスチャンを、悪魔の手下どもがあらん限りの力を込めて中傷・迫害している風景など、今に始まったことではない。それは旧約聖書時代から果てしなく繰り返されて来た光景であり、我々の主であるイエス自身が、誰よりも経験されたことである。僕は主人にまさるものではなく、主人がこの世でどういう扱いを受けたかを考えれば、何もかも全く不思議ではない。

だが、神はそれらすべてに対して勝利して余りある備えを、私たち一人一人のために天に準備して下さっている。だから、この先起きることをよく見ておいてもらいたい。神はご自分を信じ、従う者を、決して失望で終わらせることのない方である。
 
そこで、筆者は悪魔がまき散らす嘘と、神がキリストにあって約束して下さっている事柄のどちらが真実であるかは、キリスト者自身が、公然と世に証明する責務を負っており、またその証明が可能であることを確信してやまない。そのために、あえて「鏡」をそのままにしておくことにも意味があるものと思う。(むろん、中傷する者は、罰を受けることになり、かつ、その中傷が述べた者自身に跳ね返ることは言うまでもないが。)

悪魔は有史以来、ずっと人類を中傷し続けている。だが、それにも関わらず、キリスト者は主の復活の証人であるから、すべての試練と苦難の中で、神がどんなにご自分の一人一人の子供たちを愛され、重んじ、はかりしれない栄光に満ちた約束を与えて下さっているか、どれほどご自分の子供たちを気にかけて、助けの手を差し伸べ、期待をかけて下さっているか、その愛と、御助けの大きさを証明し、主が十字架上ですでに世に打ち勝たれた勝利を、自分自身のものとして地に引き下ろし、主と共に栄光にあずかる権限と責務を与えられているのである。


T. オースチン・スパークス 「「御霊による生活」 第二章 内なるキリスト (1)

人の子の完成


 主イエスは数々の苦難により、人の子として完成されました。彼は完全であり、罪がありませんでしたが、それでも「彼は数々の苦難によって完成された」と私たちは告げられています。彼の場合、罪の問題はなく、この問題は人の子の完成とは無関係です。人の子の完成は次の事実と関係しています。すなわち、彼には罪がなく、彼は自発的に御自身をささげて、神に頼る生活を送られた、という事実です。彼は決して自分に頼らず、自分自身の人間的願望を行わず、自分自身の人間的判断にしたがって生きず、自分自身の人間的欲望や感覚に従いませんでした。生活・行動・言葉といったいかなる事柄においてもそうであり、彼は御父から離れようとはしませんでした。この基礎に基づいて彼は、あらゆる種類の試みや試練――それは誰もが受ける可能性のあるものです――を受ける束の間の時のあいだ、服従されました。

誘惑や試練に関して彼が何を耐え忍ばれたのか、どちらかというと私たちは何も知りません。彼の生涯の記録は幾つかの試練・誘惑・苦難を見せていますが、それでも、あなたも私も彼の苦しみの深さや厳しさは決して分かりません。レビ記の最初の六つの章の数々の供え物は真にキリストの型ですが、実際上、どの供え物も何らかの形で火にさらされます。こういうわけで、全焼の供え物である彼の十字架においてだけでなく、同じように穀物の供え物という意味においても、彼の純粋で、聖なる、罪のない人間生活は火によって試されたのです。これらの火によって、生きるときも死ぬときも、彼は試されました。御父への信頼、御父への従順、御父から離れて少しでも行動することを拒否すること、御父の時や御旨から出ているものは何でも受け入れること、という基礎について試されたのです。


 ゲッセマネの園と十字架における最後の恐るべき試練は、彼を打ちのめす――もし彼が打ちのめされえればの話ですが――のに十分なものでした。そしてこのような方法で彼は完成されました――完全だったのですが、完成されたのです。

 この人性、この命を彼は生きました。それは完全に神を満足させ、完全に地獄のすべての力と試みを打ち破りました。この人性とこの命は栄光へ、神の右手に上げられました。その神の右手で彼は完成された人として示されています。この人は罪がないだけでなく、試練を通して完全な度量・完全な能力にまで成長しました。これに関して、御霊は聖書を通して私たちに、「あなたたちは新生により、また信仰を通して御霊を持っていることにより、今やまさにこの命に与る者たちなのです」と告げておられます。

この人性は物質的なものにすぎない、と考えないようにしましょう。それは完全な人、完全な性質に属するものであり、完全に神を満足させました。そして聖霊によって私たちに与えられ、私たちの命の最も真実で、最も内奥にある現実となっています。それは私たちに与えられたキリストであり、私たちがそのパンを取る時、私たちは次の事実を証ししているのです。すなわち、今や私たちの天然的存在という基礎ではなく、栄光の中におられるイエス御自身という基礎に基づいて、私たちは自分の生活を営んでいるのであり、自分の生活を選択しているのである、という事実です。次に、今度は私たちが試みられ、試されます。それは、キリスト、神の完全な人という基礎に基づいて生きるのか、それとも、その立場を捨てて自分自身の立場に戻り、何らかの方法で自己の立場に基づいて生きるのか、ということに関してです。

これが、「私はキリストと共に十字架に付けられました……」というパウロの偉大な言葉の最も内奥にある真理です。これが意味するのは、「私」が象徴するものはみな取り除かれ、もはや私ではなくキリストである、ということです。

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わたしの栄光を他のものに与えはしない―キリストは信じる者のすべてのすべて

「わたし、は、
 義をもってあなたを召し、
 あなたの手を握り、
 あなたを見守り、
 あなたを民の契約とし、国々の光とする。
 こうして、盲人の芽を開き、
 囚人を牢獄から連れ出す。
 わたしは、これがわたしの名。
 わたしの栄光を他のものに、
 私の栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」
(イザヤ42:6-8)

三つ子の魂百まで、と言われるように、まだ二十歳になる前に夢や憧れとして思い描いていたイメージは、年齢を重ねても、人間からはなかなか抜けないものである。

筆者は幼い頃、ロシアという国に漠然とした憧れを託し、その国の言葉や文化を学びたいと思った。

専門家として行った研究は、決してロシア賛美の観点から行われたものではなく、むしろ、かの国の社会主義時代の残酷な歴史を掘り起こすものであったが、それにも関わらず、この国に対するほのかな憧れは、心の中に持ち続けられた。

だが、かの国に関しては、関われば関わるほど、幻滅が募って行くばかりであった。

もっとも、筆者の心に幻滅をもたらさなかった被造物など何一つない。そのことは、地上には何一つ確かな価値はなく、確かな方は、天におられる神お一人だけであることを物語っている。

我が国も含め、地上のどこかの国を理想のように美化して思い描いたとしても、返って来るものは、幻滅以外にはない。
 
だが、そういった一般論とはまた別のところで、ロシアという国は油断のならない国なのである。我が国でも、対米隷属から脱したい人たちは、今もってロシアに希望を託しがちであるが、どこの国であれ、一方的に美化するのはやめておいた方が良い。
 
今から何年か前に、ある職場で、上司たちがかの国についてこんな悪口を言っていたのが聞こえて来たことがあった。筆者はその頃、まだロシアに親近感を持っていたため、それを悲しく思った。

「あいつら、俺たちが苦労して積み上げたものを、最後の最後の段階になって、まるで自分の手柄のように全部持って行くんだからな。あのズルさは治らない国民病だよな・・・。」

しかし、当初は悪口や偏見に過ぎないように感じられたこの言葉が、案外、全く根拠がないとは言えないものであることを、筆者は知ることになった。

たとえば、極言するならば、ロシアの文化そのものが、西と東の両方からの借り物である、と言えるかも知れない。ロシアのキリスト教はビザンチンから継承されたものであるし、ヨーロッパを模倣した町並みは、ピョートル大帝時代の輸入だ。ロシアの文化そのものが、かなりの部分、他の文化からの借用で作り上げられたものと言えるかも知れない。

むろん、文化とは、そもそも借用から始まるのであって、その何がいけないのかという理屈もあろう。しかし、ロシアの場合は、借用がかなり得意である。そういうところから始まって、ロシアに関係すると、日本人であっても、借用の天才のようになってしまう様子を、何度か見せられて来た。

そもそも、ロシアと日本という国は、互いに悪いところがよく似ており、どちらも精神的には後進国と言って差し支えない未熟な部分を持っている。まずは、両国ともに、集団主義的な精神性が強く残っており、個人の概念が十分に確立されていない。日本も、ロシアも、国家主義的な精神風土の面影を今日に至るまで色濃く引きずっており、肥大化した政府や官僚を基礎とする「お上主導」の政治体制から歴史的に一度も脱したことがない。そういう国民がどれほど「自由」という言葉を口にしても、それはあたかも水槽から出たことのない魚が、鳥の生態を論じるようなものである。

これはルネサンスをも、宗教改革をも、下からの革命をも、本当の意味で経ていないことから来る文化的な未熟さではないかと思う。(1917年革命も、下からの革命とは言えないであろう。)

そのため、権威に従順で(権威に弱く)、序列を絶対的に肯定しながら、その中を巧みに泳ぎ渡って保身を図りながら生き伸びる官僚主義的な生き方を至上の価値とするような愚かな精神が、至るところではびこり、腐敗を生む根源となる。権威の前にはヒラメのように媚びへつらい、弱い者は徹底的に軽蔑し踏みしだく残酷な人々が現れるのもそのためである。こうした精神性の中からは、現存する体制を打ち破る発想は決して生まれて来ず、改革の芽はことごとく潰されてしまう・・・。
 
しかし、精神的に後進性を持ち続けている国が、同じように精神的に後進性を持ち続けている国を批判するのは、たやすいことではない。

そもそも日本のロシア専門家の大半は、隠れ共産主義者であるか、ロシア美化に走る非現実的夢想家であるか、あるいは、ロシア人との婚姻によって半ばロシア化してしまったような人たちから成っているので、こうした人々に、ロシアという国への歯に衣着せない容赦のない分析や批判を期待するのは無理というものであろう。

外国語や外国文化で飯を食っている人たちに、その国を批判せよということ自体が、無理な要求なのかも知れない。ロシアについては、さらに事情が複雑で、特に、ソビエト体制時代に、かの国に関わる研究者はことごとく、社会主義思想に理解がなければ、かの国に旅行することもできず、論文も発表できなくなり、研究者から排除される、などといった一連の制限を受けたので、そうした時代に、この国の研究者は、徹底的に骨抜きにされてしまった。

今日、日ロの外交・ビジネス・文化交流に関して、純粋に我が国の国益のために、かの国としたたかに向き合い、対等に張り合えるような人は、ほとんどいまいと危惧する。

対米隷属からも抜け出せない国に、ロシアと対等に向き合えというのも、相当に高いハードルであろう。ロシア人は日本人より一枚も二枚も上手で、ある意味、厚顔なところがあるため、島国ゆえに国土が占領されたこともなく、外面は良いが徹底的に人を疑うことのできないお人好しの我が国民には、彼らの策謀を見抜き、立ち向かうだけの力はないだろう。

特に、日本人の弱点は、絶えず仲間内で分裂しており、同士討ちに明け暮れ、弱い者を虐げ、団結できないところにある。ロシア人もよく国外では分裂していると言われるが、彼らは「よそ者」に立ち向かわねばならない時には、少なくとも、日本人以上には、団結する能力がある、と筆者は見ている。

我が国がこんな体たらくでは、かの国と対峙しても、したたかに丸め込まれ、利用されるだけで、外交的勝利など望めないであろう。もっとひどい場合には、かつてのシベリア抑留とほぼ同じように、日ロ両国が共同して(結託して)、日本国民をより一層、虐げる立場に立つであろう。この二つの国は、未だそういう精神性を克服できていない油断のならない国家なのである。だから、安倍政権がロシアに接近すればするほど、筆者にはロシアと組んで何をするつもりなのかと、期待ではなく、警戒心が生まれる。

だが、それでも、いつの日か、我が国の国民も、精神的に大人となって、どの国に対しても、したたかに図太く(しかし目先の利益のためだけでなく、真に自国に利益がもたらされるような)外交を繰り広げるだけの力を持たねばならないであろう。その日が一体、いつになれば来るのかは知らないが、ただこのまま時が過ぎるとは思えない。いつかは目を覚まし、大人にならなければならない時が来るはずである。

ところで、ロシア人には、身内のように仲良くなった人間との間では、困った時に、命がけで助け合うという情の強い結びつきがあって、筆者はこれを日本人のうわべだけの礼儀正しさの内側に隠された冷淡さ、無責任さと比べて、かつては高く評価していた。

だが、ロシア人に限らず、最近、筆者は、あらゆる同情というものが、決して見かけほど良いものではないどころか、現実には非常にマイナスの側面を持った、悪魔的と言っても差し支えないほどに、悪しき感情であることに気づいた。そして、人の弱みや問題を前提として、内なる恐怖によって作り上げられる連帯には、いかなる希望も見いだせなくなったのである。

もし筆者がキリストを生涯で個人的に知らなければ、同情と真の優しさの区別、人間的な頼りない支援にすがることと真の自立がどれほどかけ離れたものであるかという区別が、きっとつかなかったのではないかと思う。

同情というのは極めて厄介かつ危険な感情で、同情に基づく支援や連帯は、どこまで行っても、真の連帯とはならない。なぜなら、それは他者への尊敬に裏打ちされた連帯ではないからだ。

同情という感情は、基本的に、恐怖に基づく人間の本能的な自己防衛の願望から出てくるものであって、「もし自分もあの人と同じ目に遭ったら・・・」という思いを前提として、他者の不幸に共感して、手を差し伸べようとしているに過ぎない。そして、自分は同じような目に遭わずに済んだことに、内心、ほっとしながら、他者を哀れみ、それでも、「もし私があなたと同じ目に遭った時には、弱い人間同士、あなたも私を助けてくれるでしょうね?」という打算を心に秘めつつ、相手の窮状に手を差し伸べるという偽物の寄り添いなのである。

だから、そのような関係においては、もし誰かが真に自立して、一切の恐れと弱みがなくなると、それが縁の切れ目になって、今まであれほど強固に思われた連帯が、一瞬で終わってしまう、ということもあり得る。それはちょうど同じ病で長年、闘病生活を送り、励まし合っていた二人の病人のうち、一方が病気が治って完全に健康になって病院と縁がなくなると、依然として闘病生活を送り続けるもう一人の病人に、非常に声をかけづらくなるのにも似ている。

弱さによって作られた連帯は、真の連帯ではないのだ。励まし合えるのは、共に同じ自己憐憫の感情を持っているからであって、哀れむべき共通の弱さがなくなると、そのような関係は、一日と続かなくなるのである。

以前に書いた記事の中で、筆者は、ハンセン病者の絶対隔離政策を助長するために、天皇の慰めの言葉が利用されていた、という事実に触れた。

ハンセン病者の絶対隔離政策は、それ自体、あまりにもひどすぎる人権侵害で、直ちに終わらせられるべきものであった。一旦、病名の診断が下れば、病者は強制的に療養所に隔離され、病が治癒された後でさえ、生涯に渡り、そこから出る道を絶たれたのである。そして、療養所では、強制的に働かされ、非人間的な暮らしを強いられ、断種政策によって、子孫を残すこともできず、果ては人体実験の材料とさえされた。一旦、ハンセン病と診断された者は社会のお荷物として黙って隔離政策に甘んじ、やがて死に絶えることこそ、国や社会の益に貢献することだと教えられていたのである。

優生思想に基づくこうした卑劣で非人間的な政策が平成に至るまで長引いた背景には、この政策の忌まわしさを覆い隠すための様々なトリックが駆使されていたことが影響していた。そのうちの一つに(特に戦前戦中は)、隔離された者たちの怒りをなだめ、このひどい人権侵害に対して声を上げさせないために、天皇からの慰めの「お言葉」が利用されていたということがあった。

つまり、「やんごとなきお方(天皇)が、可哀想なあなた方(ハンセン病者)を気にかけて、同情して下さっているのだから、あなた方(ハンセン病者)は、この状況に憤りを感じて反乱を起こしたり、暴れたり、脱走しようなどという不届きな考えは捨てて、この制限(絶対隔離政策)は、抜け出せない運命なのだと諦めて、おとなしく療養所の秩序に従って、隔離の中で人間らしく生きる道を考えなさい・・・」というわけなのである。

隔離こそ、非人間性の源であって、隔離の中で人間らしく生きる道などあるはずはないのだが、そこで天皇からの「同情」の言葉が巧みに、隔離政策の非人間性を覆い隠すための心理効果として利用されたのである。実際には、全く人間らしく扱われていないのに、天皇の哀れみの言葉が、あたかも、ハンセン病者が人間らしく、尊厳を持って取り扱われているかのようなカモフラージュのために利用され、「自分たちは見捨てられているわけでもなく、粗末に扱われているわけでもないのだ」という錯覚を彼らに抱かせる材料になった。
 
天皇からの同情の「お言葉」が、絶対隔離政策に対する人々の憤りをやわらげ、自由になりたいという彼らの希求を打ち砕いて、体制に対する反乱を阻止するために利用されたのである。

こうして、天皇の「同情」に慰めを見いだした人々は、何が何でもこのような非人間的な政策には反対して、自由を勝ち取らねばならないという心の願いを打ち砕かれた。その「お言葉」があったがために、自分たちは隔離政策の犠牲者なのだという現実に覆いがかけられて、非人間的な政策が、あたかも憎むべきものでも、立ち向かうべきでもなく、それをおとなしく受け入れることこそ、彼らの「天命」であるかのような錯覚が生まれたのである。体制はそのような心理的効果があることを十分に見抜いた上で、隔離された者たちの憤りを静めるために、天皇の「お言葉」を利用したのである。

だが、問題は、ハンセン病の絶対隔離政策だけではない。たとえ天皇から発せられるものでなくとも、生まれながらの人間から出て来る同情には、ほぼ例外なく、以上のような悪しき効果がある。つまり、同情とは、世間で考えられているほど、美しい感情では決してないのである。それは心密かに「可哀想な人々」に対するディスカウントを正当化し、「可哀想な人々」が、永久に「可哀想な境遇」から抜け出せないようにするためのカモフラージュでしかないのである。

同情する人々は、あたかも不憫な人々に寄り添って、助けの手を差し伸べようとしているように見えるかも知れないが、その実、その優しい言葉は、自分は決して「不憫な人々」の仲間ではないし、そうなりたくない、という思いからこそ、述べられるものである。

同情の本質とは、結局、次のようなものでしかない。

「人間には誰しも同じような弱さがあって、もしかすると、場合によっては、私があなたの立場に立っていたかも知れません。あなた方は私の身代わりとして、そのような不憫な状況に置かれたのです。ですから、私はあなたに同情いたします。同じ弱さを持っている人間として、あなたのために涙を流します。でも、あなたは、決して自由にならないで下さい。私は、あなたに同情しますし、必要な支援もします。でも、決してあなたに自由になって欲しくないのです。私の身代わりに、あなたはずっとそこに閉じ込められて、苦しんでいて欲しいのです。あなたの苦しみを見ることによって、私は自分の自由の価値を確かめることができ、自分の幸福を確かめることができるのです。なおかつ、あなたの想像を絶する苦しみに、私が寄り添うことによって、私は自分が送っている利己的で卑俗な生活から浄化されて、あなたと共に、汚れなく慈愛に満ちた神々しい存在へと飛躍的に高められるのです。あなたの苦しみは、多くの人々の魂の浄化のために必要なのです。あなたの存在によって、我々は栄光を受け、高められるのです。ですから、どうかその苦しみから、抜け出そうなどとは思わないで下さい。あなたのその苦しみは、人類の浄化のために必要なのです・・・」というわけなのである。

断じて、そんな感情は、他者に対する真の尊敬に基づくものではない。それは寄り添いではなく、同情に見せかけた蔑みでしかない。犠牲の肯定でしかない。だが、この心理的なカラクリは、非常に見えにくく、また、巧妙で、気づきにくいものである。そして、そのカラクリは日常の至るところに存在しており、巧妙に人を弱さの中に閉じ込めようと待ち構えている。

かつて、ロシアにいるロシア人の知り合いが、日本に台風が接近して来ると、よく筆者に心配のメールをくれた。しかし、それを読むとき、いつも奇妙な実感に襲われたものである。ロシア人は心配することを当然だと考えて、大丈夫かと前もって聞いて来る。だが、筆者は、「神様が着いているから、何も心配は要らない」と答えながら、いつも心に思うのだった、仮にもし大丈夫でなかったとしても、あなたに何が出来るのかと。

遠くにいて、何も自分が手助けができないことについて、なぜあえて聞き手の不安を呼び起こす質問を尋ねて来るのだろうか? それに対しては予定調和的に「大丈夫だ」と答えるのが、筆者の役目なのだろうか? そのようなものが、本当の心配であり、本当の親切と言えるであろうか?  

いや、それはあたかも同情や心配を装いながら、その実、他人事だからこそ、尋ねられる質問であって、それは信者の心の不安を煽るために、神でない霊が言わせた言葉に他ならないのではないかと、筆者はよく思わずにいられなかった。 (その人は共産主義者であったので、もちろん、神の霊によって生かされている信者ではなかった。)

そんな時、身近にいる信者の答えの方が、はるかに筆者を満足させるのだった。信者はこう言うのである、「私は最近、日本直撃と予報されていた二つの台風を、主の御名によって、撃退したよ!  御名によって命じるんだよ。そうしたら、台風は弱体化して、進路も変わって、横浜は全く被害を受けなかったんだよ! あれほどニュースでは直撃と騒いでいたのにね・・・」

そうなのだ、信者には、主の御名の権威によって、台風のごときものは、当然ながら、撃退する権威が与えられている。台風ばかりでない。雨も止むし、風も止む。豪雨が、必要な瞬間にはぴたりと止まるのを、筆者は幾度も見せられて来た。

万事がこんな調子で、こういうわけだから、信者には人からの同情や心配など全く要らないのである。キリスト者には、人から「大変だね」とか、「可哀想だね」、とか、「助けが必要なんじゃないの?」などと、同情されるべき弱さや欠点などは、存在しないのである。

だが、それは、我々が強くて完全だからではない。神が信じる者の助けであり、神が完全だからである。

おそらく、ロシア人の同情好きは、長年、国家権力によって虐げられながら、国民同士、草の根的に助け合って生きてきた経験から生まれたものなのであろうと筆者は想像する。彼らは、筆者から見ると、日本人よりも感受性豊かで、世話好きで、他者の痛みに敏感で、人の心を読む術に長けているため、人の心に自然に寄り添う術を日本人以上に豊かに持ち合わせており、うっかりすると、その情け深さにほろりとされられる瞬間がある。

もし神を知らなければ、筆者はそういう巧みな寄り添いと、同情や共感を、真の優しさだと理解していたことであろう。

だが、ロシア人に限らず、人間の同情のごとき代物を真の優しさや共感だと勘違いして、これによりかかっていれば、いつまで経っても、人は真の自立には至らないのである。

同情が優しさを見せかけて巧みに人をディスカウントするカラクリは、結局、ハンセン病者の絶対隔離政策と同じである。自由になる権利は、誰しも持っているのだが、とりわけ、聖書の神を信じる者は、悪魔のすべての圧迫と脅しから解放される権利を持っている。

神が信者にとって完全な助けであり、キリストの十字架の御業のゆえに、信者は死の恐怖による悪魔の奴隷的拘束に甘んじねばならない理由はなく、キリストを内にいただいていることにより、真の自由と解放を内に持っているのである。

聖書のまことの神を呼び求めるならば、誰も失望に終わることはない、と聖書にある。神は信じる者の全てを知っておられ、信者のどんな必要にも間に合う方である。神には決して遅すぎるとか、策が足りないとか、間に合わないということがない。

ところが、このまことの神を呼び求めずに、神の助けを有限なる人間からの同情や支援に取り替えた途端に、信者は、天の高度に生きる術を失って、地に転落し、弱さという絶対隔離政策の檻の中に閉じ込められ、そこから自由になることができなくなってしまうのである。

そこで、筆者にとっては、人間に過ぎない者から注目され、寄り添ってもらったり、同情を受けることよりも、神にあって、真に解放されて、自由であって、自立していることの方がはるかに大切である。だから、キリスト者が、主にあって、真に自由であるためには、人からの同情を受けてはいけないし、その隙を作ってもいけない、ということが、年々、よりはっきりと理解できるようになったのである。

自分の世話好きな性格を「善意」だと勘違いして、自分の気前の良さを世間にアピールするために、人助けできそうな、自分よりも弱い対象を常に探し求めている人たちには気の毒な話であるが、筆者には、彼らが栄光を受ける材料とされるために、偽りの同情による連帯の中に取り込まれたい願いは皆無なのである。

神が味方として共におられるキリスト者を、哀れで不憫な人間とみなして、同情を注ぎ、神から栄光を奪おうなどという恐れ知らずな人間は、よくよくどうしようもない愚か者の詐欺師の類か、反キリストの仲間だと言って差し支えない。

聖書は、あなたがた(信者)は自由とされたのだから、再び、人の奴隷となってはいけません、と教えている。だから、そういう悪しき人間の策略にはまって、人間を再びがんじがらめにして弱さの中に拘束する檻の中に入れられるのは、ごめん被りたい。
 
日本人の多くも、同情を装った義理人情で、互いをがんじがらめに縛り合って、立ち上がれないように仕向けている。その癒着の中で、助けてやった人間が、助けられた側の人間から栄光を掠め取り、教師然と、弱い人間たちの心を支配して、共依存関係が出来上がっている。

それはちょうど「天皇のお言葉」が、隔離政策の犠牲にされていたハンセン病者の怒りをなだめるために利用されたのと同じカラクリである。本来、立ち上がって、反対しなければならない非人間的な制約があるのに、そこから解放されることを求めるべきなのに、さらには、解放される権利もあるはずなのに、誰か偉い宗教指導者や、信者の仲間を装った人間から同情の涙を注がれ、手厚い支援を受けたというだけで、もうその人は、束縛に甘んじる気になってしまい、これを憎むべきものとして退けて、自由になるために立ち上がる気力を半永久的に奪われるのである。

そのような悪しき関係にとどまっている限り、同情を受ける側の人間が、克服したいと思っている弱さから抜け出すことは絶対にない。同情は、彼を永久に弱さの中に閉じ込め、自由にさせず、彼をダシにして他の人間が栄光を受けて自己満足するための巧妙な罠なのである。だが、あまりにも多くの人間が、同情によるネットワークを美化し、それが真の人間的な交わりや連帯だと勘違いして、互いに束縛し合っている。その結果、たとえキリスト者であっても、多くが、罪や、病や、困難や、貧しさや、心の傷や、各種の弱さと手を切ることができなくなって、「罪の絶対隔離政策」に自ら同意して、永久に出られない療養所に自ら入院して行くのである。こうした人々には何を言っても無駄であろう。

筆者は、キリスト者が同情という美名の下で、弱さの中に人を閉じ込めるだけの支配関係のネットワークに拘束されるべきではないと考えている。キリスト者がキリスト以外の目に見える人間に「弟子化」されたり、支援者や助言者を名乗るうわべだけ親切そうな人間に自ら助けを乞うて、神以外の物に手柄や栄誉を与えてはいけないと考えている。

キリスト者は、神以外のどんな存在にも、「おまえを助けてやった」などと誇らせてはならないのである。人間を真に助けることのできるお方は神だけだけであり、それ以外のすべてのものには、人を救う力がない。

神だけが、信者によって栄光を帰されるべきお方であり、それ以外のものに栄光を帰する結果は、非常に忌まわしいものである。

それにも関わらず、人に同情されたり、助けられることに心地よさを見いだし、そこに安住を試みているような信者は、弱さの中に永久に閉じ込められ、抜け出せなくなるだけであろう。サムソンが愛するデリラにこっそりと裏切られて髪の毛を剃られたように、彼は自分の味方だと思っている人間たちに、神の助けをこっそり奪い取られ、甘く心地よい夢から目覚めた時には、奴隷の枷をはめられ、これを振るい落とす力が、自分にはもうなくなっていることに気づくだろう。

勇者だったサムソンが囚人とされ、無残に両目をえぐり取られて、重い臼を引かされていた光景を、キリスト者ならば誰しも聖書を読んで思い浮かべることができよう。これは、人間の情けを神の助けと取り替えた信者の霊的視力が失われたことを象徴しており、その結果、信者が一度は逃れたはずのサタンのくびきを再びはめられて、この世の人々が自分で自分を贖うために生涯に渡る負いきれない苦役に従事させられているのと同様に、死の恐怖の囚とされて、奴隷的な労働に従事させられることを象徴している。

もし信者がキリストを捨てて、人間の支配下に入るならば、必ず、サムソンと同じ光景がその信者を待ち受けているであろう。

だから、信者は、どんなことがあっても、神以外のものに、決して栄光を与えてはならないのである。信者を助けることができるのは、天にも地にも、ただ神のみである。


ただ神の恵みによって生きる――魂の贖いしろは高価で、人には払いきれない――

ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。
死を免れるのは、私の主、神による。
            (詩篇68:19)

どうして私は、わざわいの日に、
恐れなければならないのか。

私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
おのれの財産に信頼する者どもや、
豊かな富を誇る者どもを。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
            (詩編49:5-9)

一つ前の記事において、信者がアダム来の古き性質を自己のアイデンティティだと思わず、キリストにある「新しい人」を実際として信仰によって掴むべきだということを書いた。

キリストにある新しい人を単なる「道徳的な人間」ととらえているだけの人間には、筆者が書いているようなことは、トリックか、机上の空論のようにしか感じられないだろう。

「現実の私はこんなに罪深いままなのに、どうしてそれをキリストのご人格と同一視するようなことができるでしょう。そんなことは、あまりにも畏れ多いことです」

と言う人もあるかも知れない。

だが、聖餐式の時に差し出されるパンと葡萄酒を、信者は自分がそれに値するから手に取るわけではない、ということを思い出していただきたい。信者がこれを手に取ることができるのは、世人と違って、その信者には、キリストの十字架における死と復活を、自分自身のものとして受け取る信仰があるためである。キリストへの信仰こそ、信者が神の御業を受けとるに必要なものであって、信仰がない人が、それを受けとるにふさわしくないのである。

キリストの贖いの御業に値する人間は、そもそも、この地上に誰一人いない。誰も信仰によらなければ、神の贖いを自分自身のものとして受け取ることはできない。

だとすれば、キリストにある新しい人格に値すると言えるだけの人間は、地上には誰一人おらず、ただそれを信仰によって受けとる道が与えられているだけだということである。だから、信者の目にたとえ自分がどれほど罪深く、キリストからほど遠い人間に見えたとしても、キリストの御業は、信者がそれに値するから与えられたものではなく、ただ信じることによって信者に適用されることを思うべきなのである。

そもそも、人間の地上にいるすべての人間は例外なく罪人であって、神の御業には誰も値しない。だからこそ、人は自己の努力によって救われることはできず、神の御言葉を信じて受け入れる者だけが救われるのである。

そうである以上、いや、そうであればこそ、キリストにある「新しい人」は、ただ恵みによって、御言葉に基づき、信じる者に与えられる。その恵みを受けとることこそ、信者に必要とされる。

さて、神の恵みによって生きるとは、地上の事柄に責任を負わない人生を意味する。

聖書には、神が私たち信ずる者のために、日々、重荷を担われる、と書いてある。神が私たちのために心配して下さるのだから、神に重荷を預けて、生活のことなどであれやこれやと思い煩うことをやめなさい、とも書いてある。

神の国とその義をまず第一に求めなさい、そうすれば、必要のすべては添えて与えられます、と書いてある(マタイ6:33)。

だから、私たちは自分の背負っている地上的な重荷を一つ一つ、自分の手から放して行くのである。それは無責任になることや、罪に対して開き直ることとは異なる。そもそも自分に責任の取れないことに対して責任を負わない、という当然の姿勢である。

この地上には、自分の人格改善に対して責任が取れる人間は一人もおらず、自らの生存に対して責任を取れる人間も誰もいない。そのような自分の能力や責任範囲をはるかに超えた事柄に対して、あくまで自分の力で何とかしようと拘泥し、懸命に努力し、あるべき状態を作り出そうと試行錯誤を繰り返しながら、重荷を抱える人生と訣別することである。

たとえば、筆者は、つい先ごろまでは、世人と同じように、地上の職業に就いて働き、地上において何者かになることを目指して生きていたが、そのようにして自分で自分を養う生き方ではなく、自分の全てを神に明け渡し、神の国の働き人として生きるために、神によって直接、養われる生き方へ移行すべきだという結論に達した。

多くの人は、それを聞けば、「あなたは浮浪者にでもなるつもりですか? 何と無責任な」と言うかも知れない。だが、そのようなことにはならない。それどころか、キリストの命の豊かさ、健全さを筆者が生きて知ることができるようにと、実際、すべての局面において、神は、筆者が誰の助けにもよらずに生きられる健全な自立の方法を備えて下さったのである。

これまで、多くの信者たちが、筆者には色々な能力や知識や経験があるのだから、それを活かしてこの世で働くべきだと助言したし、筆者自身も、聖書に「手ずから働きなさい」と書いてあるのだから、働くことは良いことだと考えてそうして来たのであり、なおかつ、常に筆者自身が自らの望みに応じて、仕事を選ぶことができるように、神ご自身が助けて下さった。

こうして筆者は世の情勢にも関わらず、常に仕事に困るとか、生きるに困るということを経験しなかったが(ただし信仰による訓練はあった)、それにも関わらず、どうにも最近、筆者の目には、この世の仕事と呼ばれるすべてが異常となり、破壊され、歪んでおり、ただ人間を苦しめるだけの苦役と化しており、この国では、まるで社会主義国における労働のように、労働の意味が歪められており、それはただ人間が自分で自分の罪を贖うための終わりなき苦役のようにしか見えてなかった。

そもそも労働ということの意味がおかしいのである。年々、それはますます歪んで、人を生かすことも、救うこともできない、人間性を貶めるだけのむなしい苦役に近づいていることが感じられてならないのである。

たとえば、我が国には、新卒採用という異常かつ不合理なシステムがあって、その不合理なシステムのせいで、何かの理由で新卒採用の道を外れた人間には、一生涯に渡る不合理なディスカウントが待ち受けている。たとえより良い条件を求めて転職したとしても、その人の努力では、決してディスカウントの仕組みから抜け出すことはできない。

だが、それならば、新卒で採用された人は「勝ち組」なのかと言えば、決してそうではない。この労働システムの中に勝ち組なるものは存在しない。新卒採用というのは、要するに、不都合な事実を決して人に見せず、聞かせないために、学生が自分で物を考え、疑う能力が芽生える前に、企業に奴隷として取り込んでしまえというシステムに他ならない。

新卒採用という制度は、もしたとえるならば、18歳や19歳の世間を知らない未婚の娘が、いきなり60歳や70歳の離婚歴のおびただしい老人に嫁がされるようなものであって、今でも開発途上国などでは、女性に不平等を耐え忍ばせるために、若いうちに女性を結婚させる仕組みが残っているところがあるが、新卒採用というのは、まさにそれを企業と社員の関係に置き換えたものに過ぎない。

世の中の不条理に気づかせないために、また、無知の中に留め置いて徹底的に搾取するために、できるだけ人が若く、未熟なうちに、物事を深く考え、自主的に自分の人生を決めたりする力が生まれるよりも前に、さっさと企業との「結婚」の関係に追いやって、そこから逃げ出せないように拘束してしまおうというわけなのである。

そのような不平等を強いる存在に誠意があることは決してなく、その関係が両者にとって真に有益なものとなることもない。学生の方では、仮にやる気に溢れた初々しい「初婚」だとしても、企業の方は、それまで数知れない社員をリストラし、太り続けて続けて生き残った「老人」である。そういう意味で、企業(むろん、ここには民間企業だけでなく、官公庁などあらゆる組織や団体が含まれる)は、おびただしい数の「離婚歴」を抱えた老人同然であり、もっと言えば、結婚詐欺師のような存在と言える。

何しろ、「初婚」で企業と結婚した社員のほとんどは、何年か後に、ただ失望と幻滅だけを抱いて、悲しみのうちに「家を出される」ことになるかも知れないからだ。しかもその際、その社員には「子供が産めない(=思ったほどの業績が出ない)」などと言った理不尽かつ不面目な理由がつけられて・・・。

こうしたシステムは、いわば、確信犯的に慣習として行われているのであって、60歳、70歳、80歳、90歳の老人同然の組織や団体が、10代の後半、20代の初めの初々しい人間を思い通りに娶って己が欲を満たすために作られた、あまりにも不合理で不平等な差別のシステムである。

だから、仮にめでたくそこで「結婚」(=新卒採用)が成立した人がいたとしても、喜ぶのは早すぎる。少しでも人間としての心があれば、娶られた側の若者にも、その関係が実は騙されたも同然のものであり、自分の仕えている主人が、自分の若さにも誠意にも値しない存在であり、おびただしい数の「妻」を犠牲にしつつ、私腹を肥やすことしか眼中にない我利我利亡者だということがすぐに分かるであろうし、それでも、あえてその関係の中にとどまり続けようとするならば、自分もやがて良心を売って、彼らと同じような詐欺師の仲間入りをするしかないのである。

かつては、この国ではそういうやり方で、若者の特攻への選抜が行われ、有力な大人たち(老人たち)、国家の面子を保つために、青年が戦争で無益な死に追いやられていたが、そのような歪み切った精神性は、今になってもこの国に変わらず受け継がれているのである。

だからこそ、この国では未だ若者への搾取と収奪が終わらず、どちらを見ても、弱い者から収奪する以上の考えが生まれて来ないのである。そんな中で、新卒採用されれば幸福だと思うのは大きな間違いで、それはただ騙しと搾取のシステムを気取られないように美しくコーティングしたものに過ぎず、新卒採用された者も不幸であれば、新卒採用から「ドロップアウト」した者たちも不幸で、我が国の不合理な労働市場の競争システムは、結局、どこまで行っても、決して誰をも幸福にしないのである。

こうしたシステムは、我が国のグノーシス主義的世界観から発生している。戦後を経ても、このような価値観に終止符が打たれなかったのは、その背後に、独特の宗教的世界観が横たわっているためである。グノーシス主義思想は、終わりなきヒエラルキーを上昇して行くことを至高の価値とする世界であり、そこでは個人の普遍的な価値というものは、ヒエラルキーの序列の中で定義される相対的なものであって、実際はないに等しい。個人はヒエラルキーの階段を上ってこそ価値が認められるのであり、そのヒエラルキーを温存する場所が、組織や団体である。そこでは、組織や団体の価値観が個人の価値を定義するのであって、組織や団体の生き残りは、個人の生き残りよりも優先される。ヒエラルキーを上った個人は助かるかも知れないが、それ以外の個人は、全体のために犠牲になるのが使命だと考えられているのである。

これは一種の優生思想である。このように、個人の命よりも、組織の面子と生き残りを重視し、そのためならば個人は犠牲にされて構わないとする悪意ある歪んだシステムの中に居続けている限り、たとえ望んでいなくとも、誰もがこの不合理なシステムを助長する駒とされるのは避けられない。

だとすれば、残る道は、そこから脱出することだけである。聖書には、地上の経済がやがて反キリストの王国に集約されることが記されているが、このような悪しきグノーシス主義的世界観に支えられた地上の経済に仕えて生きる生き様そのものから、脱出せねばならない時が迫っているのである。

かくして、筆者は、労働によって人が己の生存を支え、自分で自分を贖うという終わらない苦役をやめて、ただ神の恵みによって生かされる単純な道へ移行することに決めた。

かつて社会主義国ソ連で、詩人ブロツキーが労働に従事しなかったために、当局に呼び出され、「徒食者だ」と非難された(詩人であることは、社会主義国では職業とはみなされなかった)。その国では数多くの人々が無実の罪で投獄され、奴隷的囚人労働に従事させられていた。

我が国の有様は、実のところ、これとほとんど変わらない。我が国が資本主義国であるというのはほんのうわべだけのことで、実質的には、社会主義国とほとんど変わらない現状が広がっている。すでに新卒採用について触れた通り、我が国における労働システムは、ただ単に人が働いて生きる糧を得るための場所ではなく、それ以上のより深い意味を帯びており、結局、それは組織や団体にとって都合の良い人材を育成・確保するための方法論に他ならない。

つまり、社会主義国において行われていた愚かしい「労働による再教育」と同じように、我が国における労働システムも、生涯、プロレタリアートとなって資本家にとって都合の良い労働力の提供者となる者を育成・確保するために、労働による絶え間ない人間性の変革(=再教育)が行われているのである。これはすでに一種の歪んだイデオロギーであり、労働を通じてこのシステムに参加することは、自ら再教育に志願することと同じなのである。

そんな「労働」に寸分たりとも人間性を変える力があると思うのは誤りである。そのような意味においての「労働」には、人間性を貶める以外に何の効果もありはしない。それは人間が自己の力によって自己を変革しようとする偽りの救済システムの一環である。

だから、筆者は「労働によって人が己の罪を贖い、人類が自己浄化をはかる」という、呪われたシステムの体系の外に出ることを決意したのである。

振り返れば、筆者だけでなく、信仰の先人たちはみなほぼ例外なく、この道を辿って来たようである。彼らは世の経済の繁栄のために働いて生きることをやめ、神の国の権益のためにのみ働いた。そして、どんな時にも、彼らは世に助けを求めず、自分たちの窮状や欠乏を信者に巧みにアピールして助けを乞うこともなく、すべての必要を、神が彼らのために信仰に応じて備えて下さるに任せたのである。

筆者の人生にも、そういうことが幾度も起きて来た。筆者自身が働いて自分を養っていると思っていた間も、幾度もそういう不思議が起きて、主が筆者のために必要を天に備えて下さっているのを見せられて来たのである。だから、地上の経済から、天の経済への移行は、筆者がはっきりとその道を自覚する前から、徐々に行われて来たのだという気がしてならない。

このようにして、筆者は、聖書が教えている健全な自立のために信者が手ずから働くことと、信者がこの世の歪んだ市場経済の犠牲となることは、全く意味が違うのだという結論に至りついた。

蒔くことも刈ることもしない野の花も、空の鳥も、神は養って下さっているのだから、人が自分の生活のことで思い煩って、明日の心配をするのをやめなさい、と聖書は言う。主イエスは、人間は鳥よりも優れた者なのだから、どうして神が養って下さらない理由があろうか、だから、人は自分の命の心配を第一として生きるのではなく、神の国とその義を第一として生きなさい、と語られたのである(マタイ6:25-34)。

これこそ、人の生存の基本であると、筆者は考えている。人の生存を保障して下さるのは、天におられる神である。神が心配しなくて良いと言っていることについて、なぜ信者がくよくよと考え、己の力で何とかしようと奮闘する必要があろうか? それよりももっと考えるべきこと、見るべき課題が他にあるではないか。それが神の国の権益である。

おそらく、企業や団体に雇われて働いている人たちには、「こんなにも自分は一生懸命にやっている」という自負があると思われる。彼らには、雇われていない人、働いていない人、働けない人たちに比べて、自分は社会に貢献しており、優位に立っているという自負もあるだろう。だが、それは裏を返せば、それだけ彼らが理不尽を耐え忍んで不満がたまっているということに他ならない。

しかしながら、たとえそのように理不尽を耐え忍んでも、悪事に加担し、己が労働を誇るその生き方からは、何も生まれて来るものはない。この世には、そんなにも一生懸命に「主人」に尽くしていながら、それに見合った対価を受け取っている人はほとんどおらず、多分、あと少しすれば、彼らの努力は本当に全く報われないものになろう。

私たちは、自己の努力によってではなく、神の恵みによって生かされている。世という悪い「主人」によって養われているのではなく、聖書のまことの神というただ一人の「主人」に養われているのである。信ずる者は、世の栄光のためではなく、神の栄光のために生きている。その基本を忘れ、この世を「主人」として栄光を帰する人間は、悪魔に騙され行くだけであろう。

この世の経済はますます追い詰められて滅びに向かっている。人が自分で自分を養っているという自負は、偽りであって、その仕組みは決して成り立たないことだけが間もなくはっきりするであろう。聖書にある通り、魂の贖いしろは高くて、人には払いきれない。

こうした自明の理が明らかになる前に、筆者は滅びゆくバビロンから逃れ、神の恵みによって生きるために、天の経済に移行し、野の花や、空の鳥のように、自由に、さりげなく、生き生きと、被造物としての美しさ、健全さを現して、神に栄光を帰して生きたいと考えている。神はその御言葉の確かさを様々な知恵を通して信じる者にこれからも証明して下さるであろう。


生きることはキリスト――私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:13-16)


ここで、パウロは「人」という言葉を、キリストにある新しい種族だけを指すものとして使っている。キリストにあって生まれておらず、キリストを信じてもいない滅びゆく古き人は、ここで言う「人」の概念には含まれていない。

そこでは、キリストにあって生まれておらず、信仰によってキリストの死と復活に同形化されてもいない、地上の出自しか持たない滅びゆく罪人は、あたかも「人」の範疇には全く含まれていないばかりか、存在すらもしていないも同然である。

それは、ここでパウロが使っている「人」とは、誰よりもキリストご自身を指すからである。つまり、真の人間、神がかくあれかしと造られた人間、神の御心を完全に満足させる、真に人間らしい人間は、キリストただお一人だけであり、そのキリストから生まれ、キリストに結びついている者だけが、「人」と呼ばれるに値する、というわけなのである。

「人間的な標準で人を知ろうとはしません」という表現は、信者のことを指しているのかと思いきや、すぐにキリストのことであると示される。

その後には、「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というあの有名な言葉が続く。

この文脈は、キリストのうちにある人は、誰もがキリストに属する新創造であり、真に人間らしい人間なのであるから、もはや誰も古き人の性質(人間的な標準)に従ってその人を知る必要はない、ということを意味する。

もっと言うならば、新創造とされた信者は、キリストに限りなく近しい人間であり、キリストご自身と全く同一ではないにせよ、キリストが内に住まわれ、キリストという「型」を内にいただいて生きているので、たとえキリストとは別個に、自分の人格を持っていても、キリストと分かちがたく一体となって、キリストの性質を帯びて生きているのである。

だから、その信者が地上の旧創造であるアダムの生まれとして、いかなる性質を持っているか、聖別は、国籍は、肌の色は、外見は、性格は、経歴は・・・などと言った事柄は、もはや知る必要もないほどまでに些末なことだ、というのである。信者が知る必要があるのは、その人の人間的な特徴ではなく、キリストに属する性質だけだ、と言うのである。

ところで、筆者は、罪と義認についてのあの長い説明をそろそろ離れたいと思っている。キリスト教は、いつまで経っても、悔い改めと、罪の赦しと、血潮の話を繰り返しており、その堂々巡りから先に、ほとんど歩みを進めていない。

今日キリスト教と思われている教えの中には、あまりにも多くの誤謬があるように思われてならない。そして、その誤謬は、人をいつまでも弱さと罪の中に閉じ込め、永久にその弱みから自由にさせない束縛の枷として機能している。

たとえば、キリスト教にはあまりにも多くの聖書と無縁の地上的な運動が入り込み、その結果、あたかも慈善事業の場のようになった。人の貧しさや病や弱さを美徳のように考え、虐げられた人々や、犠牲の死を美化する思想などがキリスト教に入りこんでいる。

しかし、このようなものはキリスト教ではなく、共産主義思想を含む、偽りの弱者救済の思想から来たものでしかない。そのように人間の弱さや、苦しみや、犠牲を美化する思想を信じている限り、信者はずっと「人間的な標準」の中に閉じ込められ、神がキリストの十字架を通して信者に約束して下さっている自由と解放には決して達することがない。

病や虐げや貧しさや死は、みなこの世における罪や、悪魔の働きの結果もたらされるものであり、これ美化し、これを後生大事に握りしめながら、同時に、キリストの復活の命を知って自由になろうとするのは、エンジンとアクセルを同時に踏んで前へ走ろうとするのと同じくらい不可能なことである。

そこで信者は、もし心から信仰生活において前進したいという願うならば、貧しさや病や虐げと手を切り、これらを憎むべきものとして退けて、御言葉によって否み、神が天に用意して下さった命の豊かさにあずかることを目指して、前へ向かって進む必要がある。

なのに、なぜ多くの人たちにはそれができず、前進をためらっているのか? それは、その人たちが自分の弱みを捨てることをためらう何かの理由があって、あるいは、弱者であることから来る特権に心奪われ、あるいは、自己憐憫に溺れ、あるいは、人からの同情を受ける心地よさに安住し、さらには、弱者が弱者を支配して虐げるという構図があって、その中で義理や人情によってがんじがらめにされており、あるいは、人が人の弱みにつけこんで、助けてやるふりを装いながら、他人を精神的に支配し、搾取するという偽りの「救済システム」に取り込まれ、あるいは、信者が信者を「弟子化する」という序列と支配のシステムの中でがんじがらめにされているために他ならない。地上には、あたかも弱者に優しく手を差し伸べてやるように装いながら、決して弱者を弱者であることから逃がさないようにする幾多のシステムが存在する。

だがもし信者が本当にキリストの命にある自由を知りたいと思うのであれば、そういった人が互いの弱さをかばい合うという名目で、その実、弱さを手がかりに他人を支配するために作られた、アダムの命に基づく腐敗した支配と搾取の自己防衛の共同体(「イチヂクの葉同盟」)を脱出しなければならない。

そのために、信者はまずは自分自身の人間的な弱さと手を切る必要がある。それはただキリストにあってのみ可能である。アダムの命にあってアダムの命の弱さを否むことは誰にもできないことであるが、神の強さにすがり、これに覆われることによって、人は、誰からも同情されたり、助けの手を差し伸べられたり、哀れまれたり、教えられたりする必要のない、真に自立した自由な人であることができる。神に贖われた信者は自由であり、彼を巡る「負債」はもはや存在しないのである。

このことは、信者のアイデンティティが、限界と不足ばかりの、罪に堕落したアダムの命にある自分自身から、キリストの満ち足りて不足のない永遠に聖なる命に移行することを意味する。キリストにある時にのみ、信者はどんな状況にあっても、自分には何の不足もなく、弱さもないと言うことができる。

だが、人間的な標準によって自分をとらえ、それによって自分の限界を自ら規定している限り、信者はキリストの満ち満ちた性質を真に知ることはできないだろう。なぜなら、アダムの命が主張することは、常に不足、不足、弱さ、弱さばかりであって、この命は信者に何も自由を与えないからだ。他方、キリストの命にあるのは、満ち足りた豊かさ、そして自由である。一体、どちらの命に立脚して生きるのか、それは、信者自身が実際に決めることである。

あまりにも多くの人たちが、誰からも同情される必要のない自立した自由な人間になることよりも、人に同情され、注目される心地よさを失わないために、弱さから抜け出られない人生を自ら選び取るのはまことに奇妙で愚かなことに思われてならない。

あまりにも多くの人たちが、人前にか弱い人間のように振るまった方が、自分が愛らしく映ると思い込み、世から憎まれたり攻撃されないために、積極的に弱いふりをさえ装う。しかし、そうこうしているうちに、その弱さが、演技ではなく事実となって、あっという間に、病や死や貧しさとなって信者の人生を飲み込み、食い尽くしてしまうのだ。

ある意味で、罪の告白もこれとほぼ同じ作用を信者にもたらす。一部の信者たちは、自分が救われる前にどんなに罪深い人間であったか、自分の古き自己がどんなに汚れた罪深い性質を持つものであるか、絶えず人前に告白して、神と人に赦しを求めることが、信仰生活に必要であるかのように思っている。

しかし、そのような告白は、あまりにも多くの場合、現実の信者を全く改善しないばかりか、より深く過去に目を向けさせ、過去の罪と手を切れないようにし、自責の念からいつまでも抜け出せないようにしてしまう。

信仰のない世の人々の場合であっても、同じ過ちを延々と繰り返し続けては、判で押したように同じ謝罪を続けるのは、進歩のない証拠であり、開き直りと思われるだけである。その謝罪の言葉が誠実さの表れと受け取られることはまずない。

神に対しても同じである。だから、信者はいつまでも同じ罪の告白ばかりを繰り返すのはやめて、自分自身の思いを変えるべきなのである。アダムの腐敗した命を自己のアイデンティティと思うことをやめ、それが十字架において死に渡されたことを宣告し、キリストにある新しい命、新しい人格を、自ら選び取るべきである。

「人間的な標準」で自分を推しはかり、いかに自分が罪深いかという性質にばかり目を留めて、懺悔に明け暮れるのでは、前に進んでいくことは決してできないし、自分で過去を引き戻しているのと同じである。

たとえば、贖われた信者の救われる前の罪深い過去なるものは、神の目の前に死んだも同然で、意味をなさない。にも関わらず、神にとって存在しないものを、なぜ信者がいつまでも引っ張り出して来ては、延々と繰り返す必要があるのか? こうして、いつまでも罪深い過去ばかり振り返って、懺悔を続けていれば、誰にも新たな出発など出来はしない。どちらかの自分と手を切って、一歩を踏み出さねばならないのだ。 キリストの復活の命によって生かされた新たな自己と、新たな生き様を、信者は自らの信仰によって選択せねばならないのである。
   
筆者は決して、ここで信者にとって罪の悔い改めや赦しが全く必要なくなると言っているわけではなく、また、救われたと同時に、信者が聖人君子になるわけでもないことは承知している。キリストの命にあっての信者の心や行動の変化は、一朝一夕に起きるものではなく、徐々に続行して行く。むろん、地上にいる限り、人間から単数形の罪の性質が消えることはなく、従って、信者が血潮による清めを必要としなくなることはない。

だが、たとえそうであっても、信者はこれ以上、アダムに属する人類の罪なる性質がいかに恐ろしく堕落しているか、いかにそれが信者にとって逃れ難い悪質な罠のようなものであって、自分はそれに苦しめられているか…といった敗北的な話ばかりを延々と続けるのはやめた方が良いと考えずにいられない。

そのようなことは、もはや言うまでもなく、信者であれば誰でも知っていることであるが、我々はそろそろ、アダムの地表を離れて、キリストの地表に立たなければならないのである。アダムの性質という希望のない地表からいい加減に目をそらし、神が喜ばれ、神の御心にかなうキリストのご性質とはいかなるものなのか、キリストの持っておられるすべての豊かさと美徳を、信者は自分自身にも確かに付与されたものとして理解し、その命の領域に生きることが必要だからである。

「生きることはキリスト」という確信が、信者に必要なのである。

信者には、これ以上、人間的な標準で自分自身を知ろうとしないことが必要である。なぜなら、贖われた者は、もはや自分自身のために生きているのでなく、神のために生きているのであって、信者自身、もはや信者のものではないからである。

にも関わらず、信者が自分をあたかも依然として自分のものであるかのように見つめ、これを握りしめ、自分勝手に評価したり、定義することは許されない。神が贖われた者をどのようにご自分の御心に従って造り替えられるかは、神が決められることであり、信者は、それにとやかく言わず、贖われた自分が、もはやかつての自分ではないことを認めて、自分が神の永遠のご計画の一部として、キリストの新しい命によって生かされていることを認め、受け入れるべきである。

こうして、大胆な確信に立って「生きることはキリスト」と言える信者が、ほんの100人ほど現れただけでも、我が国は、いや、世界は全く違った有様になることであろう。

そのためにも、信者には、パウロが「人間的な標準で知ろうとしない」と述べたように、もはや「余計なものを見ない」という姿勢が信者にとって重要である。これは信者が罪深い性質に開き直ることを意味しない。信者はその古き性質を憎むべきものとして理解し、全力でこれを否定しようとしている。だが、たとえ御言葉による古き人との訣別の方法がまだ具体的に分からず、信者の目には罪と失敗と無益な思考錯誤の繰り返ししかないように見える時でさえ、信者はそれらの古き性質を自分自身のアイデンティティとして受け止めるのではなく、キリストにあって贖われた自分自身の新たなアイデンティティを見つめ、これを信仰によって掴むのである。

地上にある限り、信者はこの地上の生まれから完全に解き放たれることはない。だが、それにも関わらず、もはやその古き性質に従って、キリストをも自分自身をも知ろうとしないのある。

イミテーションの宝石は、どんなに数が多くても、本物にはならない。十字架において死んだ古き人の性質に目を向けて、どんなにそれを批判してみても、そこから本物の性質が理解できるわけではない。本物を理解するためには、ただ本物だけをまっすぐに見つめなければならない。

そういう意味において、信者は自分自身を含めた「人」や「人類」という言葉を、アダムに属する罪深い絶望的な種族としてのみとらえるのをやめて、キリストにある「新しい人」こそ、本当の意味での「人」であり、それこそが、神の目にリアリティであることを見る必要がある。そして、自分はすでに古き人類の一員ではなく、この新しい「人」の中に加えられたことを見る必要がある。

すでに新しい世界が出現しているのに、ずっと古い世界にこだわり続けて、価値ある重要なものを見失うほど愚かなことはない。

神は贖われた信者を、もはやアダムの命にある古き人としては見ておられない。生まれたての未熟な信者であってさえ、神の目にはキリストと同じく完全なのである。それはキリストの贖いの御業のゆえであって、信者が霊的に進歩したからではない。だが、信者は、それでも、神がご覧になるように、自分を見、そして、神がキリストにあってその信者のために備えて下さった新しい完全なる人格という霊的事実を、実際として地に引き下ろすべきなのである。その時こそ、「生きることはキリスト」という事実が、自然と信者の中において実際に成就するであろう。


システムによって神の国を作ろうとすることの危険

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17:20-21)


1.『クロイツェル・ソナタ』こぼれ話

 『クロイツェル・ソナタ』に関するこぼれ話を最初にちょっと。
 トルストイは作品の中で、ベートーヴェンのこのソナタに驚くほど否定的な役割を担わせて登場させたのだが、演奏家自身はこの曲をどのようにとらえているのだろうか。その点で、ヴァイオリニスト五嶋みどり氏による詳細な解説が参考になる。興味深いのは、作曲時のエピソードだけでなく、表題音楽でない限り、演奏家は曲の内容について滅多に限定的なイメージを述べることはないのに、五嶋氏が、第一楽章の終わりに表現されている感情は「激しい怒り」であると明言していることだ。

 さらに、トルストイは極めて教訓的な作家であったことから、作品に登場する人物の名前にはどれも偶然でない意味が込められていたと見て良い。主人公ポズドヌィシェフ男爵(Позднышев)の名は、ポーズヌイ(поздный)「遅い」という形容詞を連想させる。トゥルハチェフスキー(Трухачевский)の名は、トゥルハー(труха)「クズ」を語源としている。従って、この作品は「後之祭之助(あとのまつりのすけ)男爵」と、へっぽこヴァイオリニスト「屑乃屑男(くずのくずお)」君との救いようのない破滅を描いた反面教師的な物語であったとも言えるだろう。

 さて、この作品とさよならする前に、もう一度、総括を述べておきたい。
 この作品には二つの問題提起がなされている。一つ目は、ポズドヌィシェフ男爵家の崩壊は、男爵があらゆる女性を自分の満足のための道具とみなし、自分の妻をも、一人の人格として尊重することができなかったことに原因があるという問題だ。男爵は結婚とは本来、何のためにあるのかを深く考えることなく、世間の風潮に影響を受けて、自分勝手な夢を抱いて、誤った結婚に足を踏み入れ、そして、自分への満足を引き出すことのみを目的としてパートナーに接し、それが失敗して、妻を憎むようになり、ついに家庭が崩壊した。

 男爵の妻は、男爵が彼女を思うがままに支配できる道具へとおとしめようとしたことへの、無言の抵抗、復讐として彼を裏切った。だが、彼女は、男爵を上回る方法で抵抗したのかと言えば、そうではなかった。彼女もまた、男爵と同程度にしか物事が見えておらず、他人を自分の満足の道具として見る視点から脱却できていなかった。そのため、自分に何の満足ももたらさず、自分の人権を蹂躙するばかりの夫に嫌気が差した後、ただもっと自分を満たしてくれそうな別の男性に飛びつくという愚かな手段を取ることしかできなかった。だが、その別人もまた夫以下の卑劣漢であり、またしても、彼女は他人の満足の道具として利用され、蹂躙されただけに終わった。

 男爵との結婚が一種の"身売り"であったことに気づかなかった妻は、何とかして自分の幸せを掴もうと思いながら、再び、何の幸せにも結びつかない愚かな"身売り"に協力してしまった。

 夫婦の性の問題という枠組みにとらわれずに作品を見るなら、これは、人間の「モノ化」という問題の残酷さ、不毛性を暴き出した作品であると言える。
 現代の物質文明社会では、物質だけでなく、人さえもモノと扱われる。社会の風潮は、人が主体的に生きることを妨げ、むしろ不特定多数の他人を喜ばすために、自分を商品として(モノとして)差し出すことを奨励し、それこそが人が幸せを得る近道なのだと思い込ませる。人は市場で自分が有利に買われていくために、自分に箔をつけてくれそうな様々なアイテムに先を争って手を伸ばす。履歴書を飾る様々な肩書きは、労働市場で有利に自分を売り飛ばすためのもの。外見的な美も、有利な結婚を手に入れたり、世間での評価を上げるためのもの。
 現代社会は、人が市場に自分を少しでも有利な取引道具として差し出すために、どこまで行っても終わらない、どんぐりの背比べのような競争の蟻地獄の中でもがかなければならないような社会だ。

 だが、自分をモノとして差し出すことは、絶えざる自己否定の中を生きることである。多くの人々は、自分が幸せになる目的で自分を磨き、努力しているように錯覚しているが、ほとんどの場合、ただ外面的な評価を失う恐怖に追い立てられているだけであることに気づかない。外からの評価に頼ってしか自己価値を確かめられない人々は、決して現在の自分に満足することができないので、今現在を生きている幸せを感じることができない。また、他人を道具として見るような人間は、道具となった人間から貪欲に無限の満足を引き出そうとするだけであり、他人をどんなに利用しても、決して満足して飽くことがない。
 そこで、人間をモノとして見る視点に立つと、どんな人間も幸せになることがなく、満足して自分自身に安住することができない。人をモノとして扱うような社会では、差し出す側にも、受ける側にも、ただ利用し合い、搾取し合い、傷つけ合うだけの不毛な関係あるのみだ。

 人が自他ともに、人間を道具とみなすことを促進するような世間の風潮、それこそが人間を不幸にしている元凶であるということ、それが、『クロイツェル・ソナタ』が何より告発している問題であると私は思う。
 

2.「神の国」はどこにある? システムによって作られる人工的な陶酔状態の危険

 だが第二に、すでに述べて来たように、作品の中ではもう一つ別の問題が提起されている。それは、音楽によるマインドコントロールの危険という形で提起された警告、つまり、自己を放棄した陶酔状態の中では、人はいかなる幸せをも獲得することができないという警告である。
 蟻地獄のような競争社会の中で、人はどうにかして自分がモノとして乱暴に扱われる苦しみから逃れ出て、ほっと一息つける場所を持てないだろうかと期待する。歪んだ関係から生まれる一切の負の感情、疑心暗鬼、警戒心、不安、嫉妬、憎しみ、恨みなどから、何とかして逃れ、安らかな心の境地に至る道はないだろうかと誰もが願う。

 だが、男爵夫妻の場合、何とかして心を軽くしたいという、なけなしの最後の願いまでが、他人に利用される弱点となってしまった。音楽が与えてくれた解放感やカタルシスは、男爵夫妻の心を一時的に軽くすることはあっても、彼らが現実の問題に真正面から向き合う何の助けにもなってくれなかった。それどころか、音楽は彼らに現実の問題を忘れてさせて心を軽くした代わりに、過度に心を無防備にし、警戒心を鈍らせ、善悪の判断を狂わせ、麻薬のような陶酔感をもたらし、短い夢のような解放感の後で、さらなる破滅の中へ夫妻を陥れたのである。

 このようなことを突き詰めて行くと、人間の幸せとはどこにあるのか、私達が普段、重荷に思っている感情は何なのだろうかと自然と考えざるを得なくなる。私達はいつも自分の心を大掃除しなければならないように感じている。様々な負の感情をゴミ箱に捨ててしまえればどんなに心が軽くなって良いだろうかと願う。だが、そのような心の清掃は、果たして必ずしも良い結果をその人にもたらすだろうか。猜疑心や警戒心、恨みや怒りなど、全ての重荷なる感情を捨て去って、あらゆる心配から逃れて、ただ赤子のような無垢な心境になることが、私達にとって望ましい変化なのだろうか。

 幸福という概念を思い浮かべる時、私たちはそれは争いのない世界のことであり、対立のない世界、憎しみと恨みのない世界、無駄な苦しみのない世界、愛と調和だけのある世界のことだと思いがちである。幸せという言葉を使うとき、私たちはそれが限りなく、自分の感覚を喜ばせてくれるような、心乱されることのない安らかな心境であると無意識のうちに思う。だが、それは果たして人間が先祖がえりして、いかなる免疫抵抗力をも持たなくても暮らしていけるような、安全な無菌室に入りたいと夢見る、非現実的で、身勝手な願望でないと言えるだろうか。はっきり言って、それは世界を自分のための安全な子宮に変えてしまい、子宮に逆戻ることで、この世の全ての苦しみから逃れたいと願う幼児的な逃避願望ではないだろうか。

 十字架と共に、「女のすえ」であるイエスはサタンのかしらを打ち砕いた。だが、サタンの全面的な敗北は終末を待たねばならず、クリスチャンは勝利の前触れを味わいながらも、今まだ善悪二元論の世界に生きている。世界は混乱と苦しみに満ちており、人間関係は汚染されたままで、世界は誰にとっても安全な子宮には成り得ない。
 「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(ルカ18:17)とイエスは言われたが、その「幼な子」とは決して、この世を生きる上で不可欠な善悪の判断すらも忘れ去った、赤ん坊のように、心理的に退行した人間を指してのことではないだろう。

(前後の文脈から判断するなら、ここで言われている「幼な子」の意味は、自分の功績を誇ったり、財産に執着したり、この世の様々なしがらみや人間関係にとらわれるあまり、そのようなものをキリストよりも高く評価しがちな大人たちへの警告であると思われる。)

 だが、昔から現在に至るまで、大勢のクリスチャンが、聖書の言う「神の国」とは、一切の悪が存在しない、何一つ警戒する必要のない至福の境地、人が無垢の心で安らかに眠ることができるような、苦しみのない調和社会のことであると考えてきた。苛立ちも、不安もなく、悪に対する警戒心という最低限の免疫抵抗力すらも持たなくても暮らしていけるような、無菌室のような浄土が、きっと「神の国」のことなのだろうと思い描いた。
 そして、何とかして「神の国」という理想的共同体を地上に実現させようと苦心した人々がいた。そうするのが神の御心だと信じて、エクレシア(教会)の名のもとに、一定の地域にクリスチャンのユートピア村を建設しようとした信徒が日本にも過去にいたし、現在もいるようである。だが、そのような試みが一つとして成功したという話は聞かない。

 今日になっても、そのような「神の国」をプログラムやシステムによって(人工的に)特定の地域や特定の集団全体に導入しようとしている自称クリスチャンたちの試みがある。彼らはそのような試みが、他のどんな支配関係よりも、もっと深く、残酷に、強烈に、人間を「モノ化」しようとする計画であることに気がついていない。
 システムによって人間社会を支配しようと企てることは、私の考えでは、地球上、最も恐ろしい支配の形態であり、個々人の間で結ばれるどんな歪んだ関係や、打算的な利害関係、搾取や、支配をも越える最も深刻な支配である。

 たとえば、「大宣教命令」を盾にとって、会衆を熱狂させて、陶酔状態へ陥れるような集会や、行事、訓練プログラムを盛んに開き、参加した会衆の心に人工的なカタルシスを引き起こし、会衆一人ひとりの自我の殻を打ち砕いて、「覚醒」させ、一人ひとりをプログラムの予定する「神の国」にふさわしい、赤子のように疑うことを知らない、権威者に従順な「弟子」へ変えてしまうことを目指して、今も信徒に熱心に働きかけている集団がある。そして彼らはあわよくば一つの地域、国の住民をまるごとそのような先祖がえりした「弟子」に変えてしまおうとしている。

 これから何度にも分けて、細かく見ていくことになるが、私が主張したいのは、そのような試みが大変危険なだけでなく、信仰的に見ても、根本的に誤っているということである。それは人間をモノ化して支配しようとするマインドコントロールの仕掛けであり、人を罠にかけるようにして、退行現象を引き起こす。非現実的な陶酔感に溺れさせることによって、人の善悪の判断を鈍らせ、上から容易に支配できる無防備な心理状態にしていき、その人を道具のように自在に支配し、破滅的な混乱をその人の人生にもたらすのである。

 たとえ「神の国」という名前が使われていたとしても、そのようにして人工的に人の心の状態を変えようとする計画は、極めて危険であり、人をシステムの中に拘束こそすれ、決して解放に導くものではない。
 予め緻密に計画されたシステムやプログラムを導入することで、人工的に作り出される集団的熱狂や陶酔状態、分かち合いなどの名のもとでの罪の自白の強要、長時間続く礼拝や、異言や個人預言などの霊的現象を伴う連続祈祷、特殊な賛美形態によって引き起こされるカタルシス、エクスタシー等々は、とどのつまりは、人々の心を操作しようとする悪しきマインドコントロールの仕掛けであって、そのようなものを含むプログラムの実行によって、聖書の言う「神の国」を人工的に到来させることは不可能である。

 聖書の言う「神の国」は特定の時空間や、特定の集団、特定の地域社会に限定されて及ぶものではないことは、聖書にはっきりと書かれている。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」
 さらにその続きにはこうある、
「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。」(ルカ17:22-23)
「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについていくな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」(ルカ21:8-9)

 聖書的に言えば、この世は未だ闇の支配下にあり、クリスチャンは闇の中に輝く小さな灯火である。神の国は人の心の中にあるのだから、固定的なものでなく、本来、移動性であるはずだ。神の国は成長して、他の人の心に影響を与えることができるが、決して地上の時空間にとらわれて制限を受けることがない。クリスチャンの勝利とは、時代に対する勝利ではなく、大事業を成し遂げたり、大規模教会を作ったり、奇跡を多数行なったり、より多くの人々を改宗させたりすることにあるのではない。
 聖霊は人の心を宮として住まわれる。教会では、聖書の神が、たとえば仏像や、お地蔵さんや、神社仏閣のような特定の縄張りを住家としてそこに限定して働くということはないと教えられる。従って、神の力がキリスト教会という建物内に限定されて働くこともあり得ないのだ。従って、「教会の外には救いがない」とまで言い切るような教会中心主義は誤りである。

 神の国をこの世のある国や地域(住民)に限定したり、ある時空間内に限定したり、ある建物内に限定したり、あたかも神の国が固定的な領土であるかのようにみなし、一定の国や地域の政策と、神の国を同一視する考えは根本的に誤りである。


3.教会中心主義の逆の極端としての無教会主義について

 だが、既存の教会の建物にとらわれて信仰を考える必要は全くないと思うものの、同時に、私個人は、次のような「無教会(主義)」の教えにも同意することができない。
 無教会派が「救いは教会の外にもあると唱え、見える教会自体に神の恩恵をほどこす力はない」として、目に見える教会の建物に依存しない信仰のあり方を重視する主張にはある程度、同意できる。だが、かといって、建物としての教会を一切否定し、廃止すべきであるという主義に至ることはそれとは全く別であると思う。

 さらに、洗礼、聖餐式を含めてあらゆる秘蹟(サクラメント)までを一切、呪術的な儀式として退ける主張は、非常に過激なものであり、それはイエスが最後の晩餐の際に聖餐について述べた事柄や、弟子たちの授けた洗礼などの聖書的記述に反する。

 上記の無教会主義はその説明の中で、「私は洗礼や聖さん式が全く無意味だと言っているのではありません。参加する人の心の持ち方次第ではそうした儀式は意味深い有意義なものとなります」と、一見、宗教儀式に譲歩を示すかのように述べながらも、同時に、「無教会は洗礼と聖さん式などの一切のサクラメント(秘蹟)を行いません」と、はっきりとあらゆるサクラメントに反対の立場を宣言し、しかも、儀式からの解放を、「呪術からの解放」とみなしている。これでは、事実上、洗礼や聖餐式を「無意味」としているだけでなく、信仰に悪影響をきたす迷信として退けているのと同じである。

 だが、上記の主張が、秘蹟の完全否定の根拠として挙げているアモス書5章21-24節の聖句は、その前後の文脈を読むならば、神が自分に捧げられる一切の宗教儀式を否定する文脈で述べた言葉とは受け取れない。
 むしろ、「あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける。」(アモス5:12)と、日頃から悪事ばかり働いている信者が、宗教の祭典の時にだけ信心深そうな様子で襟を正しても、そのような信心を神は喜ばないという意味であると解釈できる。
 さらに、25節には、信者が偶像礼拝に陥ったことを責める言葉があり、神が憎むと言われたその祭典は、偶像礼拝色が強いものであったと考えられる。
 よって、この聖句は正しい信仰から逸れた信者が捧げる儀式の無意味さを述べているだけであり、これを根拠にして一切のサクラメントを完全に否定するのは行き過ぎであると私は思う。

 さらに、無教会主義があらゆる秘蹟を呪術と同一視する根拠として挙げているマックス・ウェーバーは、社会学者、経済学者であり、信仰的観点から著書を書いたのではなかった。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、この著書が「純粋に歴史的な叙述」であり、「価値判断や信仰判断に入り込む」つもりがないことをはっきり述べている。同書、大塚久雄訳、岩波書店、2008年、p.368。
 そこで、信仰的な観点から、秘蹟を呪術や迷信の一部とみなす根拠として、神学的議論や、信仰的な観点からの議論を含まないウェーバーを挙げるのには無理があると言えよう。

 上記のような無教会の主張は、煎じ詰めれば、従来のカトリックやプロテスタントの教会において行なわれている洗礼、聖餐式は一切、神によらない悪魔的儀式だと宣言しているのに等しいことになる。これは従来のクリスチャンに対する真っ向からの挑戦状である。
 果たして、聖書は洗礼や聖餐式を呪術的儀式だと教えているのだろうか? そのようには私は全く考えない。
 今日の多くの教会が、私自身が再三述べてきたように、あまりにも大きな教会特有の問題を抱えていることは確かだが、かといって、教会反対という主張を軸にしてエクレシアを作ろうとするのでは、結局、既存の教会の弊害から少しも自由になったことにならないだろう。それは一種の政治的反対運動のようなものであり、純粋に信仰的な連帯であるとは言えまい。
 結局、教会中心主義、儀式中心主義が誤りであるとすれば、無教会主義は、その逆の極端ではないかと私は思う。

 「所属する主義」、「所属しない主義」、これは共に信仰的な主張ではない。重要なのは、限定された時空間・建物としての教会を廃止するか否かという限定された議論にとどまることではなく、エクレシアとは信徒一人ひとりの心に住まう聖霊が織り成す流動的なつながりであり、流動的に変化する、限定することのできない不思議な空間であるととらえることだろうと思う。