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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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わたしの栄光を他のものに与えはしない―キリストは信じる者のすべてのすべて

「わたし、は、
 義をもってあなたを召し、
 あなたの手を握り、
 あなたを見守り、
 あなたを民の契約とし、国々の光とする。
 こうして、盲人の芽を開き、
 囚人を牢獄から連れ出す。
 わたしは、これがわたしの名。
 わたしの栄光を他のものに、
 私の栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」
(イザヤ42:6-8)

三つ子の魂百まで、と言われるように、まだ二十歳になる前に夢や憧れとして思い描いていたイメージは、年齢を重ねても、人間からはなかなか抜けないものである。

筆者は幼い頃、ロシアという国に漠然とした憧れを託し、その国の言葉や文化を学びたいと思った。

専門家として行った研究は、決してロシア賛美の観点から行われたものではなく、むしろ、かの国の社会主義時代の残酷な歴史を掘り起こすものであったが、それにも関わらず、この国に対するほのかな憧れは、心の中に持ち続けられた。

だが、かの国に関しては、関われば関わるほど、幻滅が募って行くばかりであった。

もっとも、筆者の心に幻滅をもたらさなかった被造物など何一つない。そのことは、地上には何一つ確かな価値はなく、確かな方は、天におられる神お一人だけであることを物語っている。

我が国も含め、地上のどこかの国を理想のように美化して思い描いたとしても、返って来るものは、幻滅以外にはない。
 
だが、そういった一般論とはまた別のところで、ロシアという国は油断のならない国なのである。我が国でも、対米隷属から脱したい人たちは、今もってロシアに希望を託しがちであるが、どこの国であれ、一方的に美化するのはやめておいた方が良い。
 
今から何年か前に、ある職場で、上司たちがかの国についてこんな悪口を言っていたのが聞こえて来たことがあった。筆者はその頃、まだロシアに親近感を持っていたため、それを悲しく思った。

「あいつら、俺たちが苦労して積み上げたものを、最後の最後の段階になって、まるで自分の手柄のように全部持って行くんだからな。あのズルさは治らない国民病だよな・・・。」

しかし、当初は悪口や偏見に過ぎないように感じられたこの言葉が、案外、全く根拠がないとは言えないものであることを、筆者は知ることになった。

たとえば、極言するならば、ロシアの文化そのものが、西と東の両方からの借り物である、と言えるかも知れない。ロシアのキリスト教はビザンチンから継承されたものであるし、ヨーロッパを模倣した町並みは、ピョートル大帝時代の輸入だ。ロシアの文化そのものが、かなりの部分、他の文化からの借用で作り上げられたものと言えるかも知れない。

むろん、文化とは、そもそも借用から始まるのであって、その何がいけないのかという理屈もあろう。しかし、ロシアの場合は、借用がかなり得意である。そういうところから始まって、ロシアに関係すると、日本人であっても、借用の天才のようになってしまう様子を、何度か見せられて来た。

そもそも、ロシアと日本という国は、互いに悪いところがよく似ており、どちらも精神的には後進国と言って差し支えない未熟な部分を持っている。まずは、両国ともに、集団主義的な精神性が強く残っており、個人の概念が十分に確立されていない。日本も、ロシアも、国家主義的な精神風土の面影を今日に至るまで色濃く引きずっており、肥大化した政府や官僚を基礎とする「お上主導」の政治体制から歴史的に一度も脱したことがない。そういう国民がどれほど「自由」という言葉を口にしても、それはあたかも水槽から出たことのない魚が、鳥の生態を論じるようなものである。

これはルネサンスをも、宗教改革をも、下からの革命をも、本当の意味で経ていないことから来る文化的な未熟さではないかと思う。(1917年革命も、下からの革命とは言えないであろう。)

そのため、権威に従順で(権威に弱く)、序列を絶対的に肯定しながら、その中を巧みに泳ぎ渡って保身を図りながら生き伸びる官僚主義的な生き方を至上の価値とするような愚かな精神が、至るところではびこり、腐敗を生む根源となる。権威の前にはヒラメのように媚びへつらい、弱い者は徹底的に軽蔑し踏みしだく残酷な人々が現れるのもそのためである。こうした精神性の中からは、現存する体制を打ち破る発想は決して生まれて来ず、改革の芽はことごとく潰されてしまう・・・。
 
しかし、精神的に後進性を持ち続けている国が、同じように精神的に後進性を持ち続けている国を批判するのは、たやすいことではない。

そもそも日本のロシア専門家の大半は、隠れ共産主義者であるか、ロシア美化に走る非現実的夢想家であるか、あるいは、ロシア人との婚姻によって半ばロシア化してしまったような人たちから成っているので、こうした人々に、ロシアという国への歯に衣着せない容赦のない分析や批判を期待するのは無理というものであろう。

外国語や外国文化で飯を食っている人たちに、その国を批判せよということ自体が、無理な要求なのかも知れない。ロシアについては、さらに事情が複雑で、特に、ソビエト体制時代に、かの国に関わる研究者はことごとく、社会主義思想に理解がなければ、かの国に旅行することもできず、論文も発表できなくなり、研究者から排除される、などといった一連の制限を受けたので、そうした時代に、この国の研究者は、徹底的に骨抜きにされてしまった。

今日、日ロの外交・ビジネス・文化交流に関して、純粋に我が国の国益のために、かの国としたたかに向き合い、対等に張り合えるような人は、ほとんどいまいと危惧する。

対米隷属からも抜け出せない国に、ロシアと対等に向き合えというのも、相当に高いハードルであろう。ロシア人は日本人より一枚も二枚も上手で、ある意味、厚顔なところがあるため、島国ゆえに国土が占領されたこともなく、外面は良いが徹底的に人を疑うことのできないお人好しの我が国民には、彼らの策謀を見抜き、立ち向かうだけの力はないだろう。

特に、日本人の弱点は、絶えず仲間内で分裂しており、同士討ちに明け暮れ、弱い者を虐げ、団結できないところにある。ロシア人もよく国外では分裂していると言われるが、彼らは「よそ者」に立ち向かわねばならない時には、少なくとも、日本人以上には、団結する能力がある、と筆者は見ている。

我が国がこんな体たらくでは、かの国と対峙しても、したたかに丸め込まれ、利用されるだけで、外交的勝利など望めないであろう。もっとひどい場合には、かつてのシベリア抑留とほぼ同じように、日ロ両国が共同して(結託して)、日本国民をより一層、虐げる立場に立つであろう。この二つの国は、未だそういう精神性を克服できていない油断のならない国家なのである。だから、安倍政権がロシアに接近すればするほど、筆者にはロシアと組んで何をするつもりなのかと、期待ではなく、警戒心が生まれる。

だが、それでも、いつの日か、我が国の国民も、精神的に大人となって、どの国に対しても、したたかに図太く(しかし目先の利益のためだけでなく、真に自国に利益がもたらされるような)外交を繰り広げるだけの力を持たねばならないであろう。その日が一体、いつになれば来るのかは知らないが、ただこのまま時が過ぎるとは思えない。いつかは目を覚まし、大人にならなければならない時が来るはずである。

ところで、ロシア人には、身内のように仲良くなった人間との間では、困った時に、命がけで助け合うという情の強い結びつきがあって、筆者はこれを日本人のうわべだけの礼儀正しさの内側に隠された冷淡さ、無責任さと比べて、かつては高く評価していた。

だが、ロシア人に限らず、最近、筆者は、あらゆる同情というものが、決して見かけほど良いものではないどころか、現実には非常にマイナスの側面を持った、悪魔的と言っても差し支えないほどに、悪しき感情であることに気づいた。そして、人の弱みや問題を前提として、内なる恐怖によって作り上げられる連帯には、いかなる希望も見いだせなくなったのである。

もし筆者がキリストを生涯で個人的に知らなければ、同情と真の優しさの区別、人間的な頼りない支援にすがることと真の自立がどれほどかけ離れたものであるかという区別が、きっとつかなかったのではないかと思う。

同情というのは極めて厄介かつ危険な感情で、同情に基づく支援や連帯は、どこまで行っても、真の連帯とはならない。なぜなら、それは他者への尊敬に裏打ちされた連帯ではないからだ。

同情という感情は、基本的に、恐怖に基づく人間の本能的な自己防衛の願望から出てくるものであって、「もし自分もあの人と同じ目に遭ったら・・・」という思いを前提として、他者の不幸に共感して、手を差し伸べようとしているに過ぎない。そして、自分は同じような目に遭わずに済んだことに、内心、ほっとしながら、他者を哀れみ、それでも、「もし私があなたと同じ目に遭った時には、弱い人間同士、あなたも私を助けてくれるでしょうね?」という打算を心に秘めつつ、相手の窮状に手を差し伸べるという偽物の寄り添いなのである。

だから、そのような関係においては、もし誰かが真に自立して、一切の恐れと弱みがなくなると、それが縁の切れ目になって、今まであれほど強固に思われた連帯が、一瞬で終わってしまう、ということもあり得る。それはちょうど同じ病で長年、闘病生活を送り、励まし合っていた二人の病人のうち、一方が病気が治って完全に健康になって病院と縁がなくなると、依然として闘病生活を送り続けるもう一人の病人に、非常に声をかけづらくなるのにも似ている。

弱さによって作られた連帯は、真の連帯ではないのだ。励まし合えるのは、共に同じ自己憐憫の感情を持っているからであって、哀れむべき共通の弱さがなくなると、そのような関係は、一日と続かなくなるのである。

以前に書いた記事の中で、筆者は、ハンセン病者の絶対隔離政策を助長するために、天皇の慰めの言葉が利用されていた、という事実に触れた。

ハンセン病者の絶対隔離政策は、それ自体、あまりにもひどすぎる人権侵害で、直ちに終わらせられるべきものであった。一旦、病名の診断が下れば、病者は強制的に療養所に隔離され、病が治癒された後でさえ、生涯に渡り、そこから出る道を絶たれたのである。そして、療養所では、強制的に働かされ、非人間的な暮らしを強いられ、断種政策によって、子孫を残すこともできず、果ては人体実験の材料とさえされた。一旦、ハンセン病と診断された者は社会のお荷物として黙って隔離政策に甘んじ、やがて死に絶えることこそ、国や社会の益に貢献することだと教えられていたのである。

優生思想に基づくこうした卑劣で非人間的な政策が平成に至るまで長引いた背景には、この政策の忌まわしさを覆い隠すための様々なトリックが駆使されていたことが影響していた。そのうちの一つに(特に戦前戦中は)、隔離された者たちの怒りをなだめ、このひどい人権侵害に対して声を上げさせないために、天皇からの慰めの「お言葉」が利用されていたということがあった。

つまり、「やんごとなきお方(天皇)が、可哀想なあなた方(ハンセン病者)を気にかけて、同情して下さっているのだから、あなた方(ハンセン病者)は、この状況に憤りを感じて反乱を起こしたり、暴れたり、脱走しようなどという不届きな考えは捨てて、この制限(絶対隔離政策)は、抜け出せない運命なのだと諦めて、おとなしく療養所の秩序に従って、隔離の中で人間らしく生きる道を考えなさい・・・」というわけなのである。

隔離こそ、非人間性の源であって、隔離の中で人間らしく生きる道などあるはずはないのだが、そこで天皇からの「同情」の言葉が巧みに、隔離政策の非人間性を覆い隠すための心理効果として利用されたのである。実際には、全く人間らしく扱われていないのに、天皇の哀れみの言葉が、あたかも、ハンセン病者が人間らしく、尊厳を持って取り扱われているかのようなカモフラージュのために利用され、「自分たちは見捨てられているわけでもなく、粗末に扱われているわけでもないのだ」という錯覚を彼らに抱かせる材料になった。
 
天皇からの同情の「お言葉」が、絶対隔離政策に対する人々の憤りをやわらげ、自由になりたいという彼らの希求を打ち砕いて、体制に対する反乱を阻止するために利用されたのである。

こうして、天皇の「同情」に慰めを見いだした人々は、何が何でもこのような非人間的な政策には反対して、自由を勝ち取らねばならないという心の願いを打ち砕かれた。その「お言葉」があったがために、自分たちは隔離政策の犠牲者なのだという現実に覆いがかけられて、非人間的な政策が、あたかも憎むべきものでも、立ち向かうべきでもなく、それをおとなしく受け入れることこそ、彼らの「天命」であるかのような錯覚が生まれたのである。体制はそのような心理的効果があることを十分に見抜いた上で、隔離された者たちの憤りを静めるために、天皇の「お言葉」を利用したのである。

だが、問題は、ハンセン病の絶対隔離政策だけではない。たとえ天皇から発せられるものでなくとも、生まれながらの人間から出て来る同情には、ほぼ例外なく、以上のような悪しき効果がある。つまり、同情とは、世間で考えられているほど、美しい感情では決してないのである。それは心密かに「可哀想な人々」に対するディスカウントを正当化し、「可哀想な人々」が、永久に「可哀想な境遇」から抜け出せないようにするためのカモフラージュでしかないのである。

同情する人々は、あたかも不憫な人々に寄り添って、助けの手を差し伸べようとしているように見えるかも知れないが、その実、その優しい言葉は、自分は決して「不憫な人々」の仲間ではないし、そうなりたくない、という思いからこそ、述べられるものである。

同情の本質とは、結局、次のようなものでしかない。

「人間には誰しも同じような弱さがあって、もしかすると、場合によっては、私があなたの立場に立っていたかも知れません。あなた方は私の身代わりとして、そのような不憫な状況に置かれたのです。ですから、私はあなたに同情いたします。同じ弱さを持っている人間として、あなたのために涙を流します。でも、あなたは、決して自由にならないで下さい。私は、あなたに同情しますし、必要な支援もします。でも、決してあなたに自由になって欲しくないのです。私の身代わりに、あなたはずっとそこに閉じ込められて、苦しんでいて欲しいのです。あなたの苦しみを見ることによって、私は自分の自由の価値を確かめることができ、自分の幸福を確かめることができるのです。なおかつ、あなたの想像を絶する苦しみに、私が寄り添うことによって、私は自分が送っている利己的で卑俗な生活から浄化されて、あなたと共に、汚れなく慈愛に満ちた神々しい存在へと飛躍的に高められるのです。あなたの苦しみは、多くの人々の魂の浄化のために必要なのです。あなたの存在によって、我々は栄光を受け、高められるのです。ですから、どうかその苦しみから、抜け出そうなどとは思わないで下さい。あなたのその苦しみは、人類の浄化のために必要なのです・・・」というわけなのである。

断じて、そんな感情は、他者に対する真の尊敬に基づくものではない。それは寄り添いではなく、同情に見せかけた蔑みでしかない。犠牲の肯定でしかない。だが、この心理的なカラクリは、非常に見えにくく、また、巧妙で、気づきにくいものである。そして、そのカラクリは日常の至るところに存在しており、巧妙に人を弱さの中に閉じ込めようと待ち構えている。

かつて、ロシアにいるロシア人の知り合いが、日本に台風が接近して来ると、よく筆者に心配のメールをくれた。しかし、それを読むとき、いつも奇妙な実感に襲われたものである。ロシア人は心配することを当然だと考えて、大丈夫かと前もって聞いて来る。だが、筆者は、「神様が着いているから、何も心配は要らない」と答えながら、いつも心に思うのだった、仮にもし大丈夫でなかったとしても、あなたに何が出来るのかと。

遠くにいて、何も自分が手助けができないことについて、なぜあえて聞き手の不安を呼び起こす質問を尋ねて来るのだろうか? それに対しては予定調和的に「大丈夫だ」と答えるのが、筆者の役目なのだろうか? そのようなものが、本当の心配であり、本当の親切と言えるであろうか?  

いや、それはあたかも同情や心配を装いながら、その実、他人事だからこそ、尋ねられる質問であって、それは信者の心の不安を煽るために、神でない霊が言わせた言葉に他ならないのではないかと、筆者はよく思わずにいられなかった。 (その人は共産主義者であったので、もちろん、神の霊によって生かされている信者ではなかった。)

そんな時、身近にいる信者の答えの方が、はるかに筆者を満足させるのだった。信者はこう言うのである、「私は最近、日本直撃と予報されていた二つの台風を、主の御名によって、撃退したよ!  御名によって命じるんだよ。そうしたら、台風は弱体化して、進路も変わって、横浜は全く被害を受けなかったんだよ! あれほどニュースでは直撃と騒いでいたのにね・・・」

そうなのだ、信者には、主の御名の権威によって、台風のごときものは、当然ながら、撃退する権威が与えられている。台風ばかりでない。雨も止むし、風も止む。豪雨が、必要な瞬間にはぴたりと止まるのを、筆者は幾度も見せられて来た。

万事がこんな調子で、こういうわけだから、信者には人からの同情や心配など全く要らないのである。キリスト者には、人から「大変だね」とか、「可哀想だね」、とか、「助けが必要なんじゃないの?」などと、同情されるべき弱さや欠点などは、存在しないのである。

だが、それは、我々が強くて完全だからではない。神が信じる者の助けであり、神が完全だからである。

おそらく、ロシア人の同情好きは、長年、国家権力によって虐げられながら、国民同士、草の根的に助け合って生きてきた経験から生まれたものなのであろうと筆者は想像する。彼らは、筆者から見ると、日本人よりも感受性豊かで、世話好きで、他者の痛みに敏感で、人の心を読む術に長けているため、人の心に自然に寄り添う術を日本人以上に豊かに持ち合わせており、うっかりすると、その情け深さにほろりとされられる瞬間がある。

もし神を知らなければ、筆者はそういう巧みな寄り添いと、同情や共感を、真の優しさだと理解していたことであろう。

だが、ロシア人に限らず、人間の同情のごとき代物を真の優しさや共感だと勘違いして、これによりかかっていれば、いつまで経っても、人は真の自立には至らないのである。

同情が優しさを見せかけて巧みに人をディスカウントするカラクリは、結局、ハンセン病者の絶対隔離政策と同じである。自由になる権利は、誰しも持っているのだが、とりわけ、聖書の神を信じる者は、悪魔のすべての圧迫と脅しから解放される権利を持っている。

神が信者にとって完全な助けであり、キリストの十字架の御業のゆえに、信者は死の恐怖による悪魔の奴隷的拘束に甘んじねばならない理由はなく、キリストを内にいただいていることにより、真の自由と解放を内に持っているのである。

聖書のまことの神を呼び求めるならば、誰も失望に終わることはない、と聖書にある。神は信じる者の全てを知っておられ、信者のどんな必要にも間に合う方である。神には決して遅すぎるとか、策が足りないとか、間に合わないということがない。

ところが、このまことの神を呼び求めずに、神の助けを有限なる人間からの同情や支援に取り替えた途端に、信者は、天の高度に生きる術を失って、地に転落し、弱さという絶対隔離政策の檻の中に閉じ込められ、そこから自由になることができなくなってしまうのである。

そこで、筆者にとっては、人間に過ぎない者から注目され、寄り添ってもらったり、同情を受けることよりも、神にあって、真に解放されて、自由であって、自立していることの方がはるかに大切である。だから、キリスト者が、主にあって、真に自由であるためには、人からの同情を受けてはいけないし、その隙を作ってもいけない、ということが、年々、よりはっきりと理解できるようになったのである。

自分の世話好きな性格を「善意」だと勘違いして、自分の気前の良さを世間にアピールするために、人助けできそうな、自分よりも弱い対象を常に探し求めている人たちには気の毒な話であるが、筆者には、彼らが栄光を受ける材料とされるために、偽りの同情による連帯の中に取り込まれたい願いは皆無なのである。

神が味方として共におられるキリスト者を、哀れで不憫な人間とみなして、同情を注ぎ、神から栄光を奪おうなどという恐れ知らずな人間は、よくよくどうしようもない愚か者の詐欺師の類か、反キリストの仲間だと言って差し支えない。

聖書は、あなたがた(信者)は自由とされたのだから、再び、人の奴隷となってはいけません、と教えている。だから、そういう悪しき人間の策略にはまって、人間を再びがんじがらめにして弱さの中に拘束する檻の中に入れられるのは、ごめん被りたい。
 
日本人の多くも、同情を装った義理人情で、互いをがんじがらめに縛り合って、立ち上がれないように仕向けている。その癒着の中で、助けてやった人間が、助けられた側の人間から栄光を掠め取り、教師然と、弱い人間たちの心を支配して、共依存関係が出来上がっている。

それはちょうど「天皇のお言葉」が、隔離政策の犠牲にされていたハンセン病者の怒りをなだめるために利用されたのと同じカラクリである。本来、立ち上がって、反対しなければならない非人間的な制約があるのに、そこから解放されることを求めるべきなのに、さらには、解放される権利もあるはずなのに、誰か偉い宗教指導者や、信者の仲間を装った人間から同情の涙を注がれ、手厚い支援を受けたというだけで、もうその人は、束縛に甘んじる気になってしまい、これを憎むべきものとして退けて、自由になるために立ち上がる気力を半永久的に奪われるのである。

そのような悪しき関係にとどまっている限り、同情を受ける側の人間が、克服したいと思っている弱さから抜け出すことは絶対にない。同情は、彼を永久に弱さの中に閉じ込め、自由にさせず、彼をダシにして他の人間が栄光を受けて自己満足するための巧妙な罠なのである。だが、あまりにも多くの人間が、同情によるネットワークを美化し、それが真の人間的な交わりや連帯だと勘違いして、互いに束縛し合っている。その結果、たとえキリスト者であっても、多くが、罪や、病や、困難や、貧しさや、心の傷や、各種の弱さと手を切ることができなくなって、「罪の絶対隔離政策」に自ら同意して、永久に出られない療養所に自ら入院して行くのである。こうした人々には何を言っても無駄であろう。

筆者は、キリスト者が同情という美名の下で、弱さの中に人を閉じ込めるだけの支配関係のネットワークに拘束されるべきではないと考えている。キリスト者がキリスト以外の目に見える人間に「弟子化」されたり、支援者や助言者を名乗るうわべだけ親切そうな人間に自ら助けを乞うて、神以外の物に手柄や栄誉を与えてはいけないと考えている。

キリスト者は、神以外のどんな存在にも、「おまえを助けてやった」などと誇らせてはならないのである。人間を真に助けることのできるお方は神だけだけであり、それ以外のすべてのものには、人を救う力がない。

神だけが、信者によって栄光を帰されるべきお方であり、それ以外のものに栄光を帰する結果は、非常に忌まわしいものである。

それにも関わらず、人に同情されたり、助けられることに心地よさを見いだし、そこに安住を試みているような信者は、弱さの中に永久に閉じ込められ、抜け出せなくなるだけであろう。サムソンが愛するデリラにこっそりと裏切られて髪の毛を剃られたように、彼は自分の味方だと思っている人間たちに、神の助けをこっそり奪い取られ、甘く心地よい夢から目覚めた時には、奴隷の枷をはめられ、これを振るい落とす力が、自分にはもうなくなっていることに気づくだろう。

勇者だったサムソンが囚人とされ、無残に両目をえぐり取られて、重い臼を引かされていた光景を、キリスト者ならば誰しも聖書を読んで思い浮かべることができよう。これは、人間の情けを神の助けと取り替えた信者の霊的視力が失われたことを象徴しており、その結果、信者が一度は逃れたはずのサタンのくびきを再びはめられて、この世の人々が自分で自分を贖うために生涯に渡る負いきれない苦役に従事させられているのと同様に、死の恐怖の囚とされて、奴隷的な労働に従事させられることを象徴している。

もし信者がキリストを捨てて、人間の支配下に入るならば、必ず、サムソンと同じ光景がその信者を待ち受けているであろう。

だから、信者は、どんなことがあっても、神以外のものに、決して栄光を与えてはならないのである。信者を助けることができるのは、天にも地にも、ただ神のみである。

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ただ神の恵みによって生きる――魂の贖いしろは高価で、人には払いきれない――

ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。
死を免れるのは、私の主、神による。
            (詩篇68:19)

どうして私は、わざわいの日に、
恐れなければならないのか。

私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
おのれの財産に信頼する者どもや、
豊かな富を誇る者どもを。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
            (詩編49:5-9)

一つ前の記事において、信者がアダム来の古き性質を自己のアイデンティティだと思わず、キリストにある「新しい人」を実際として信仰によって掴むべきだということを書いた。

キリストにある新しい人を単なる「道徳的な人間」ととらえているだけの人間には、筆者が書いているようなことは、トリックか、机上の空論のようにしか感じられないだろう。

「現実の私はこんなに罪深いままなのに、どうしてそれをキリストのご人格と同一視するようなことができるでしょう。そんなことは、あまりにも畏れ多いことです」

と言う人もあるかも知れない。

だが、聖餐式の時に差し出されるパンと葡萄酒を、信者は自分がそれに値するから手に取るわけではない、ということを思い出していただきたい。信者がこれを手に取ることができるのは、世人と違って、その信者には、キリストの十字架における死と復活を、自分自身のものとして受け取る信仰があるためである。キリストへの信仰こそ、信者が神の御業を受けとるに必要なものであって、信仰がない人が、それを受けとるにふさわしくないのである。

キリストの贖いの御業に値する人間は、そもそも、この地上に誰一人いない。誰も信仰によらなければ、神の贖いを自分自身のものとして受け取ることはできない。

だとすれば、キリストにある新しい人格に値すると言えるだけの人間は、地上には誰一人おらず、ただそれを信仰によって受けとる道が与えられているだけだということである。だから、信者の目にたとえ自分がどれほど罪深く、キリストからほど遠い人間に見えたとしても、キリストの御業は、信者がそれに値するから与えられたものではなく、ただ信じることによって信者に適用されることを思うべきなのである。

そもそも、人間の地上にいるすべての人間は例外なく罪人であって、神の御業には誰も値しない。だからこそ、人は自己の努力によって救われることはできず、神の御言葉を信じて受け入れる者だけが救われるのである。

そうである以上、いや、そうであればこそ、キリストにある「新しい人」は、ただ恵みによって、御言葉に基づき、信じる者に与えられる。その恵みを受けとることこそ、信者に必要とされる。

さて、神の恵みによって生きるとは、地上の事柄に責任を負わない人生を意味する。

聖書には、神が私たち信ずる者のために、日々、重荷を担われる、と書いてある。神が私たちのために心配して下さるのだから、神に重荷を預けて、生活のことなどであれやこれやと思い煩うことをやめなさい、とも書いてある。

神の国とその義をまず第一に求めなさい、そうすれば、必要のすべては添えて与えられます、と書いてある(マタイ6:33)。

だから、私たちは自分の背負っている地上的な重荷を一つ一つ、自分の手から放して行くのである。それは無責任になることや、罪に対して開き直ることとは異なる。そもそも自分に責任の取れないことに対して責任を負わない、という当然の姿勢である。

この地上には、自分の人格改善に対して責任が取れる人間は一人もおらず、自らの生存に対して責任を取れる人間も誰もいない。そのような自分の能力や責任範囲をはるかに超えた事柄に対して、あくまで自分の力で何とかしようと拘泥し、懸命に努力し、あるべき状態を作り出そうと試行錯誤を繰り返しながら、重荷を抱える人生と訣別することである。

たとえば、筆者は、つい先ごろまでは、世人と同じように、地上の職業に就いて働き、地上において何者かになることを目指して生きていたが、そのようにして自分で自分を養う生き方ではなく、自分の全てを神に明け渡し、神の国の働き人として生きるために、神によって直接、養われる生き方へ移行すべきだという結論に達した。

多くの人は、それを聞けば、「あなたは浮浪者にでもなるつもりですか? 何と無責任な」と言うかも知れない。だが、そのようなことにはならない。それどころか、キリストの命の豊かさ、健全さを筆者が生きて知ることができるようにと、実際、すべての局面において、神は、筆者が誰の助けにもよらずに生きられる健全な自立の方法を備えて下さったのである。

これまで、多くの信者たちが、筆者には色々な能力や知識や経験があるのだから、それを活かしてこの世で働くべきだと助言したし、筆者自身も、聖書に「手ずから働きなさい」と書いてあるのだから、働くことは良いことだと考えてそうして来たのであり、なおかつ、常に筆者自身が自らの望みに応じて、仕事を選ぶことができるように、神ご自身が助けて下さった。

こうして筆者は世の情勢にも関わらず、常に仕事に困るとか、生きるに困るということを経験しなかったが(ただし信仰による訓練はあった)、それにも関わらず、どうにも最近、筆者の目には、この世の仕事と呼ばれるすべてが異常となり、破壊され、歪んでおり、ただ人間を苦しめるだけの苦役と化しており、この国では、まるで社会主義国における労働のように、労働の意味が歪められており、それはただ人間が自分で自分の罪を贖うための終わりなき苦役のようにしか見えてなかった。

そもそも労働ということの意味がおかしいのである。年々、それはますます歪んで、人を生かすことも、救うこともできない、人間性を貶めるだけのむなしい苦役に近づいていることが感じられてならないのである。

たとえば、我が国には、新卒採用という異常かつ不合理なシステムがあって、その不合理なシステムのせいで、何かの理由で新卒採用の道を外れた人間には、一生涯に渡る不合理なディスカウントが待ち受けている。たとえより良い条件を求めて転職したとしても、その人の努力では、決してディスカウントの仕組みから抜け出すことはできない。

だが、それならば、新卒で採用された人は「勝ち組」なのかと言えば、決してそうではない。この労働システムの中に勝ち組なるものは存在しない。新卒採用というのは、要するに、不都合な事実を決して人に見せず、聞かせないために、学生が自分で物を考え、疑う能力が芽生える前に、企業に奴隷として取り込んでしまえというシステムに他ならない。

新卒採用という制度は、もしたとえるならば、18歳や19歳の世間を知らない未婚の娘が、いきなり60歳や70歳の離婚歴のおびただしい老人に嫁がされるようなものであって、今でも開発途上国などでは、女性に不平等を耐え忍ばせるために、若いうちに女性を結婚させる仕組みが残っているところがあるが、新卒採用というのは、まさにそれを企業と社員の関係に置き換えたものに過ぎない。

世の中の不条理に気づかせないために、また、無知の中に留め置いて徹底的に搾取するために、できるだけ人が若く、未熟なうちに、物事を深く考え、自主的に自分の人生を決めたりする力が生まれるよりも前に、さっさと企業との「結婚」の関係に追いやって、そこから逃げ出せないように拘束してしまおうというわけなのである。

そのような不平等を強いる存在に誠意があることは決してなく、その関係が両者にとって真に有益なものとなることもない。学生の方では、仮にやる気に溢れた初々しい「初婚」だとしても、企業の方は、それまで数知れない社員をリストラし、太り続けて続けて生き残った「老人」である。そういう意味で、企業(むろん、ここには民間企業だけでなく、官公庁などあらゆる組織や団体が含まれる)は、おびただしい数の「離婚歴」を抱えた老人同然であり、もっと言えば、結婚詐欺師のような存在と言える。

何しろ、「初婚」で企業と結婚した社員のほとんどは、何年か後に、ただ失望と幻滅だけを抱いて、悲しみのうちに「家を出される」ことになるかも知れないからだ。しかもその際、その社員には「子供が産めない(=思ったほどの業績が出ない)」などと言った理不尽かつ不面目な理由がつけられて・・・。

こうしたシステムは、いわば、確信犯的に慣習として行われているのであって、60歳、70歳、80歳、90歳の老人同然の組織や団体が、10代の後半、20代の初めの初々しい人間を思い通りに娶って己が欲を満たすために作られた、あまりにも不合理で不平等な差別のシステムである。

だから、仮にめでたくそこで「結婚」(=新卒採用)が成立した人がいたとしても、喜ぶのは早すぎる。少しでも人間としての心があれば、娶られた側の若者にも、その関係が実は騙されたも同然のものであり、自分の仕えている主人が、自分の若さにも誠意にも値しない存在であり、おびただしい数の「妻」を犠牲にしつつ、私腹を肥やすことしか眼中にない我利我利亡者だということがすぐに分かるであろうし、それでも、あえてその関係の中にとどまり続けようとするならば、自分もやがて良心を売って、彼らと同じような詐欺師の仲間入りをするしかないのである。

かつては、この国ではそういうやり方で、若者の特攻への選抜が行われ、有力な大人たち(老人たち)、国家の面子を保つために、青年が戦争で無益な死に追いやられていたが、そのような歪み切った精神性は、今になってもこの国に変わらず受け継がれているのである。

だからこそ、この国では未だ若者への搾取と収奪が終わらず、どちらを見ても、弱い者から収奪する以上の考えが生まれて来ないのである。そんな中で、新卒採用されれば幸福だと思うのは大きな間違いで、それはただ騙しと搾取のシステムを気取られないように美しくコーティングしたものに過ぎず、新卒採用された者も不幸であれば、新卒採用から「ドロップアウト」した者たちも不幸で、我が国の不合理な労働市場の競争システムは、結局、どこまで行っても、決して誰をも幸福にしないのである。

こうしたシステムは、我が国のグノーシス主義的世界観から発生している。戦後を経ても、このような価値観に終止符が打たれなかったのは、その背後に、独特の宗教的世界観が横たわっているためである。グノーシス主義思想は、終わりなきヒエラルキーを上昇して行くことを至高の価値とする世界であり、そこでは個人の普遍的な価値というものは、ヒエラルキーの序列の中で定義される相対的なものであって、実際はないに等しい。個人はヒエラルキーの階段を上ってこそ価値が認められるのであり、そのヒエラルキーを温存する場所が、組織や団体である。そこでは、組織や団体の価値観が個人の価値を定義するのであって、組織や団体の生き残りは、個人の生き残りよりも優先される。ヒエラルキーを上った個人は助かるかも知れないが、それ以外の個人は、全体のために犠牲になるのが使命だと考えられているのである。

これは一種の優生思想である。このように、個人の命よりも、組織の面子と生き残りを重視し、そのためならば個人は犠牲にされて構わないとする悪意ある歪んだシステムの中に居続けている限り、たとえ望んでいなくとも、誰もがこの不合理なシステムを助長する駒とされるのは避けられない。

だとすれば、残る道は、そこから脱出することだけである。聖書には、地上の経済がやがて反キリストの王国に集約されることが記されているが、このような悪しきグノーシス主義的世界観に支えられた地上の経済に仕えて生きる生き様そのものから、脱出せねばならない時が迫っているのである。

かくして、筆者は、労働によって人が己の生存を支え、自分で自分を贖うという終わらない苦役をやめて、ただ神の恵みによって生かされる単純な道へ移行することに決めた。

かつて社会主義国ソ連で、詩人ブロツキーが労働に従事しなかったために、当局に呼び出され、「徒食者だ」と非難された(詩人であることは、社会主義国では職業とはみなされなかった)。その国では数多くの人々が無実の罪で投獄され、奴隷的囚人労働に従事させられていた。

我が国の有様は、実のところ、これとほとんど変わらない。我が国が資本主義国であるというのはほんのうわべだけのことで、実質的には、社会主義国とほとんど変わらない現状が広がっている。すでに新卒採用について触れた通り、我が国における労働システムは、ただ単に人が働いて生きる糧を得るための場所ではなく、それ以上のより深い意味を帯びており、結局、それは組織や団体にとって都合の良い人材を育成・確保するための方法論に他ならない。

つまり、社会主義国において行われていた愚かしい「労働による再教育」と同じように、我が国における労働システムも、生涯、プロレタリアートとなって資本家にとって都合の良い労働力の提供者となる者を育成・確保するために、労働による絶え間ない人間性の変革(=再教育)が行われているのである。これはすでに一種の歪んだイデオロギーであり、労働を通じてこのシステムに参加することは、自ら再教育に志願することと同じなのである。

そんな「労働」に寸分たりとも人間性を変える力があると思うのは誤りである。そのような意味においての「労働」には、人間性を貶める以外に何の効果もありはしない。それは人間が自己の力によって自己を変革しようとする偽りの救済システムの一環である。

だから、筆者は「労働によって人が己の罪を贖い、人類が自己浄化をはかる」という、呪われたシステムの体系の外に出ることを決意したのである。

振り返れば、筆者だけでなく、信仰の先人たちはみなほぼ例外なく、この道を辿って来たようである。彼らは世の経済の繁栄のために働いて生きることをやめ、神の国の権益のためにのみ働いた。そして、どんな時にも、彼らは世に助けを求めず、自分たちの窮状や欠乏を信者に巧みにアピールして助けを乞うこともなく、すべての必要を、神が彼らのために信仰に応じて備えて下さるに任せたのである。

筆者の人生にも、そういうことが幾度も起きて来た。筆者自身が働いて自分を養っていると思っていた間も、幾度もそういう不思議が起きて、主が筆者のために必要を天に備えて下さっているのを見せられて来たのである。だから、地上の経済から、天の経済への移行は、筆者がはっきりとその道を自覚する前から、徐々に行われて来たのだという気がしてならない。

このようにして、筆者は、聖書が教えている健全な自立のために信者が手ずから働くことと、信者がこの世の歪んだ市場経済の犠牲となることは、全く意味が違うのだという結論に至りついた。

蒔くことも刈ることもしない野の花も、空の鳥も、神は養って下さっているのだから、人が自分の生活のことで思い煩って、明日の心配をするのをやめなさい、と聖書は言う。主イエスは、人間は鳥よりも優れた者なのだから、どうして神が養って下さらない理由があろうか、だから、人は自分の命の心配を第一として生きるのではなく、神の国とその義を第一として生きなさい、と語られたのである(マタイ6:25-34)。

これこそ、人の生存の基本であると、筆者は考えている。人の生存を保障して下さるのは、天におられる神である。神が心配しなくて良いと言っていることについて、なぜ信者がくよくよと考え、己の力で何とかしようと奮闘する必要があろうか? それよりももっと考えるべきこと、見るべき課題が他にあるではないか。それが神の国の権益である。

おそらく、企業や団体に雇われて働いている人たちには、「こんなにも自分は一生懸命にやっている」という自負があると思われる。彼らには、雇われていない人、働いていない人、働けない人たちに比べて、自分は社会に貢献しており、優位に立っているという自負もあるだろう。だが、それは裏を返せば、それだけ彼らが理不尽を耐え忍んで不満がたまっているということに他ならない。

しかしながら、たとえそのように理不尽を耐え忍んでも、悪事に加担し、己が労働を誇るその生き方からは、何も生まれて来るものはない。この世には、そんなにも一生懸命に「主人」に尽くしていながら、それに見合った対価を受け取っている人はほとんどおらず、多分、あと少しすれば、彼らの努力は本当に全く報われないものになろう。

私たちは、自己の努力によってではなく、神の恵みによって生かされている。世という悪い「主人」によって養われているのではなく、聖書のまことの神というただ一人の「主人」に養われているのである。信ずる者は、世の栄光のためではなく、神の栄光のために生きている。その基本を忘れ、この世を「主人」として栄光を帰する人間は、悪魔に騙され行くだけであろう。

この世の経済はますます追い詰められて滅びに向かっている。人が自分で自分を養っているという自負は、偽りであって、その仕組みは決して成り立たないことだけが間もなくはっきりするであろう。聖書にある通り、魂の贖いしろは高くて、人には払いきれない。

こうした自明の理が明らかになる前に、筆者は滅びゆくバビロンから逃れ、神の恵みによって生きるために、天の経済に移行し、野の花や、空の鳥のように、自由に、さりげなく、生き生きと、被造物としての美しさ、健全さを現して、神に栄光を帰して生きたいと考えている。神はその御言葉の確かさを様々な知恵を通して信じる者にこれからも証明して下さるであろう。


生きることはキリスト――私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:13-16)


ここで、パウロは「人」という言葉を、キリストにある新しい種族だけを指すものとして使っている。キリストにあって生まれておらず、キリストを信じてもいない滅びゆく古き人は、ここで言う「人」の概念には含まれていない。

そこでは、キリストにあって生まれておらず、信仰によってキリストの死と復活に同形化されてもいない、地上の出自しか持たない滅びゆく罪人は、あたかも「人」の範疇には全く含まれていないばかりか、存在すらもしていないも同然である。

それは、ここでパウロが使っている「人」とは、誰よりもキリストご自身を指すからである。つまり、真の人間、神がかくあれかしと造られた人間、神の御心を完全に満足させる、真に人間らしい人間は、キリストただお一人だけであり、そのキリストから生まれ、キリストに結びついている者だけが、「人」と呼ばれるに値する、というわけなのである。

「人間的な標準で人を知ろうとはしません」という表現は、信者のことを指しているのかと思いきや、すぐにキリストのことであると示される。

その後には、「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というあの有名な言葉が続く。

この文脈は、キリストのうちにある人は、誰もがキリストに属する新創造であり、真に人間らしい人間なのであるから、もはや誰も古き人の性質(人間的な標準)に従ってその人を知る必要はない、ということを意味する。

もっと言うならば、新創造とされた信者は、キリストに限りなく近しい人間であり、キリストご自身と全く同一ではないにせよ、キリストが内に住まわれ、キリストという「型」を内にいただいて生きているので、たとえキリストとは別個に、自分の人格を持っていても、キリストと分かちがたく一体となって、キリストの性質を帯びて生きているのである。

だから、その信者が地上の旧創造であるアダムの生まれとして、いかなる性質を持っているか、聖別は、国籍は、肌の色は、外見は、性格は、経歴は・・・などと言った事柄は、もはや知る必要もないほどまでに些末なことだ、というのである。信者が知る必要があるのは、その人の人間的な特徴ではなく、キリストに属する性質だけだ、と言うのである。

ところで、筆者は、罪と義認についてのあの長い説明をそろそろ離れたいと思っている。キリスト教は、いつまで経っても、悔い改めと、罪の赦しと、血潮の話を繰り返しており、その堂々巡りから先に、ほとんど歩みを進めていない。

今日キリスト教と思われている教えの中には、あまりにも多くの誤謬があるように思われてならない。そして、その誤謬は、人をいつまでも弱さと罪の中に閉じ込め、永久にその弱みから自由にさせない束縛の枷として機能している。

たとえば、キリスト教にはあまりにも多くの聖書と無縁の地上的な運動が入り込み、その結果、あたかも慈善事業の場のようになった。人の貧しさや病や弱さを美徳のように考え、虐げられた人々や、犠牲の死を美化する思想などがキリスト教に入りこんでいる。

しかし、このようなものはキリスト教ではなく、共産主義思想を含む、偽りの弱者救済の思想から来たものでしかない。そのように人間の弱さや、苦しみや、犠牲を美化する思想を信じている限り、信者はずっと「人間的な標準」の中に閉じ込められ、神がキリストの十字架を通して信者に約束して下さっている自由と解放には決して達することがない。

病や虐げや貧しさや死は、みなこの世における罪や、悪魔の働きの結果もたらされるものであり、これ美化し、これを後生大事に握りしめながら、同時に、キリストの復活の命を知って自由になろうとするのは、エンジンとアクセルを同時に踏んで前へ走ろうとするのと同じくらい不可能なことである。

そこで信者は、もし心から信仰生活において前進したいという願うならば、貧しさや病や虐げと手を切り、これらを憎むべきものとして退けて、御言葉によって否み、神が天に用意して下さった命の豊かさにあずかることを目指して、前へ向かって進む必要がある。

なのに、なぜ多くの人たちにはそれができず、前進をためらっているのか? それは、その人たちが自分の弱みを捨てることをためらう何かの理由があって、あるいは、弱者であることから来る特権に心奪われ、あるいは、自己憐憫に溺れ、あるいは、人からの同情を受ける心地よさに安住し、さらには、弱者が弱者を支配して虐げるという構図があって、その中で義理や人情によってがんじがらめにされており、あるいは、人が人の弱みにつけこんで、助けてやるふりを装いながら、他人を精神的に支配し、搾取するという偽りの「救済システム」に取り込まれ、あるいは、信者が信者を「弟子化する」という序列と支配のシステムの中でがんじがらめにされているために他ならない。地上には、あたかも弱者に優しく手を差し伸べてやるように装いながら、決して弱者を弱者であることから逃がさないようにする幾多のシステムが存在する。

だがもし信者が本当にキリストの命にある自由を知りたいと思うのであれば、そういった人が互いの弱さをかばい合うという名目で、その実、弱さを手がかりに他人を支配するために作られた、アダムの命に基づく腐敗した支配と搾取の自己防衛の共同体(「イチヂクの葉同盟」)を脱出しなければならない。

そのために、信者はまずは自分自身の人間的な弱さと手を切る必要がある。それはただキリストにあってのみ可能である。アダムの命にあってアダムの命の弱さを否むことは誰にもできないことであるが、神の強さにすがり、これに覆われることによって、人は、誰からも同情されたり、助けの手を差し伸べられたり、哀れまれたり、教えられたりする必要のない、真に自立した自由な人であることができる。神に贖われた信者は自由であり、彼を巡る「負債」はもはや存在しないのである。

このことは、信者のアイデンティティが、限界と不足ばかりの、罪に堕落したアダムの命にある自分自身から、キリストの満ち足りて不足のない永遠に聖なる命に移行することを意味する。キリストにある時にのみ、信者はどんな状況にあっても、自分には何の不足もなく、弱さもないと言うことができる。

だが、人間的な標準によって自分をとらえ、それによって自分の限界を自ら規定している限り、信者はキリストの満ち満ちた性質を真に知ることはできないだろう。なぜなら、アダムの命が主張することは、常に不足、不足、弱さ、弱さばかりであって、この命は信者に何も自由を与えないからだ。他方、キリストの命にあるのは、満ち足りた豊かさ、そして自由である。一体、どちらの命に立脚して生きるのか、それは、信者自身が実際に決めることである。

あまりにも多くの人たちが、誰からも同情される必要のない自立した自由な人間になることよりも、人に同情され、注目される心地よさを失わないために、弱さから抜け出られない人生を自ら選び取るのはまことに奇妙で愚かなことに思われてならない。

あまりにも多くの人たちが、人前にか弱い人間のように振るまった方が、自分が愛らしく映ると思い込み、世から憎まれたり攻撃されないために、積極的に弱いふりをさえ装う。しかし、そうこうしているうちに、その弱さが、演技ではなく事実となって、あっという間に、病や死や貧しさとなって信者の人生を飲み込み、食い尽くしてしまうのだ。

ある意味で、罪の告白もこれとほぼ同じ作用を信者にもたらす。一部の信者たちは、自分が救われる前にどんなに罪深い人間であったか、自分の古き自己がどんなに汚れた罪深い性質を持つものであるか、絶えず人前に告白して、神と人に赦しを求めることが、信仰生活に必要であるかのように思っている。

しかし、そのような告白は、あまりにも多くの場合、現実の信者を全く改善しないばかりか、より深く過去に目を向けさせ、過去の罪と手を切れないようにし、自責の念からいつまでも抜け出せないようにしてしまう。

信仰のない世の人々の場合であっても、同じ過ちを延々と繰り返し続けては、判で押したように同じ謝罪を続けるのは、進歩のない証拠であり、開き直りと思われるだけである。その謝罪の言葉が誠実さの表れと受け取られることはまずない。

神に対しても同じである。だから、信者はいつまでも同じ罪の告白ばかりを繰り返すのはやめて、自分自身の思いを変えるべきなのである。アダムの腐敗した命を自己のアイデンティティと思うことをやめ、それが十字架において死に渡されたことを宣告し、キリストにある新しい命、新しい人格を、自ら選び取るべきである。

「人間的な標準」で自分を推しはかり、いかに自分が罪深いかという性質にばかり目を留めて、懺悔に明け暮れるのでは、前に進んでいくことは決してできないし、自分で過去を引き戻しているのと同じである。

たとえば、贖われた信者の救われる前の罪深い過去なるものは、神の目の前に死んだも同然で、意味をなさない。にも関わらず、神にとって存在しないものを、なぜ信者がいつまでも引っ張り出して来ては、延々と繰り返す必要があるのか? こうして、いつまでも罪深い過去ばかり振り返って、懺悔を続けていれば、誰にも新たな出発など出来はしない。どちらかの自分と手を切って、一歩を踏み出さねばならないのだ。 キリストの復活の命によって生かされた新たな自己と、新たな生き様を、信者は自らの信仰によって選択せねばならないのである。
   
筆者は決して、ここで信者にとって罪の悔い改めや赦しが全く必要なくなると言っているわけではなく、また、救われたと同時に、信者が聖人君子になるわけでもないことは承知している。キリストの命にあっての信者の心や行動の変化は、一朝一夕に起きるものではなく、徐々に続行して行く。むろん、地上にいる限り、人間から単数形の罪の性質が消えることはなく、従って、信者が血潮による清めを必要としなくなることはない。

だが、たとえそうであっても、信者はこれ以上、アダムに属する人類の罪なる性質がいかに恐ろしく堕落しているか、いかにそれが信者にとって逃れ難い悪質な罠のようなものであって、自分はそれに苦しめられているか…といった敗北的な話ばかりを延々と続けるのはやめた方が良いと考えずにいられない。

そのようなことは、もはや言うまでもなく、信者であれば誰でも知っていることであるが、我々はそろそろ、アダムの地表を離れて、キリストの地表に立たなければならないのである。アダムの性質という希望のない地表からいい加減に目をそらし、神が喜ばれ、神の御心にかなうキリストのご性質とはいかなるものなのか、キリストの持っておられるすべての豊かさと美徳を、信者は自分自身にも確かに付与されたものとして理解し、その命の領域に生きることが必要だからである。

「生きることはキリスト」という確信が、信者に必要なのである。

信者には、これ以上、人間的な標準で自分自身を知ろうとしないことが必要である。なぜなら、贖われた者は、もはや自分自身のために生きているのでなく、神のために生きているのであって、信者自身、もはや信者のものではないからである。

にも関わらず、信者が自分をあたかも依然として自分のものであるかのように見つめ、これを握りしめ、自分勝手に評価したり、定義することは許されない。神が贖われた者をどのようにご自分の御心に従って造り替えられるかは、神が決められることであり、信者は、それにとやかく言わず、贖われた自分が、もはやかつての自分ではないことを認めて、自分が神の永遠のご計画の一部として、キリストの新しい命によって生かされていることを認め、受け入れるべきである。

こうして、大胆な確信に立って「生きることはキリスト」と言える信者が、ほんの100人ほど現れただけでも、我が国は、いや、世界は全く違った有様になることであろう。

そのためにも、信者には、パウロが「人間的な標準で知ろうとしない」と述べたように、もはや「余計なものを見ない」という姿勢が信者にとって重要である。これは信者が罪深い性質に開き直ることを意味しない。信者はその古き性質を憎むべきものとして理解し、全力でこれを否定しようとしている。だが、たとえ御言葉による古き人との訣別の方法がまだ具体的に分からず、信者の目には罪と失敗と無益な思考錯誤の繰り返ししかないように見える時でさえ、信者はそれらの古き性質を自分自身のアイデンティティとして受け止めるのではなく、キリストにあって贖われた自分自身の新たなアイデンティティを見つめ、これを信仰によって掴むのである。

地上にある限り、信者はこの地上の生まれから完全に解き放たれることはない。だが、それにも関わらず、もはやその古き性質に従って、キリストをも自分自身をも知ろうとしないのある。

イミテーションの宝石は、どんなに数が多くても、本物にはならない。十字架において死んだ古き人の性質に目を向けて、どんなにそれを批判してみても、そこから本物の性質が理解できるわけではない。本物を理解するためには、ただ本物だけをまっすぐに見つめなければならない。

そういう意味において、信者は自分自身を含めた「人」や「人類」という言葉を、アダムに属する罪深い絶望的な種族としてのみとらえるのをやめて、キリストにある「新しい人」こそ、本当の意味での「人」であり、それこそが、神の目にリアリティであることを見る必要がある。そして、自分はすでに古き人類の一員ではなく、この新しい「人」の中に加えられたことを見る必要がある。

すでに新しい世界が出現しているのに、ずっと古い世界にこだわり続けて、価値ある重要なものを見失うほど愚かなことはない。

神は贖われた信者を、もはやアダムの命にある古き人としては見ておられない。生まれたての未熟な信者であってさえ、神の目にはキリストと同じく完全なのである。それはキリストの贖いの御業のゆえであって、信者が霊的に進歩したからではない。だが、信者は、それでも、神がご覧になるように、自分を見、そして、神がキリストにあってその信者のために備えて下さった新しい完全なる人格という霊的事実を、実際として地に引き下ろすべきなのである。その時こそ、「生きることはキリスト」という事実が、自然と信者の中において実際に成就するであろう。


システムによって神の国を作ろうとすることの危険

「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17:20-21)


1.『クロイツェル・ソナタ』こぼれ話

 『クロイツェル・ソナタ』に関するこぼれ話を最初にちょっと。
 トルストイは作品の中で、ベートーヴェンのこのソナタに驚くほど否定的な役割を担わせて登場させたのだが、演奏家自身はこの曲をどのようにとらえているのだろうか。その点で、ヴァイオリニスト五嶋みどり氏による詳細な解説が参考になる。興味深いのは、作曲時のエピソードだけでなく、表題音楽でない限り、演奏家は曲の内容について滅多に限定的なイメージを述べることはないのに、五嶋氏が、第一楽章の終わりに表現されている感情は「激しい怒り」であると明言していることだ。

 さらに、トルストイは極めて教訓的な作家であったことから、作品に登場する人物の名前にはどれも偶然でない意味が込められていたと見て良い。主人公ポズドヌィシェフ男爵(Позднышев)の名は、ポーズヌイ(поздный)「遅い」という形容詞を連想させる。トゥルハチェフスキー(Трухачевский)の名は、トゥルハー(труха)「クズ」を語源としている。従って、この作品は「後之祭之助(あとのまつりのすけ)男爵」と、へっぽこヴァイオリニスト「屑乃屑男(くずのくずお)」君との救いようのない破滅を描いた反面教師的な物語であったとも言えるだろう。

 さて、この作品とさよならする前に、もう一度、総括を述べておきたい。
 この作品には二つの問題提起がなされている。一つ目は、ポズドヌィシェフ男爵家の崩壊は、男爵があらゆる女性を自分の満足のための道具とみなし、自分の妻をも、一人の人格として尊重することができなかったことに原因があるという問題だ。男爵は結婚とは本来、何のためにあるのかを深く考えることなく、世間の風潮に影響を受けて、自分勝手な夢を抱いて、誤った結婚に足を踏み入れ、そして、自分への満足を引き出すことのみを目的としてパートナーに接し、それが失敗して、妻を憎むようになり、ついに家庭が崩壊した。

 男爵の妻は、男爵が彼女を思うがままに支配できる道具へとおとしめようとしたことへの、無言の抵抗、復讐として彼を裏切った。だが、彼女は、男爵を上回る方法で抵抗したのかと言えば、そうではなかった。彼女もまた、男爵と同程度にしか物事が見えておらず、他人を自分の満足の道具として見る視点から脱却できていなかった。そのため、自分に何の満足ももたらさず、自分の人権を蹂躙するばかりの夫に嫌気が差した後、ただもっと自分を満たしてくれそうな別の男性に飛びつくという愚かな手段を取ることしかできなかった。だが、その別人もまた夫以下の卑劣漢であり、またしても、彼女は他人の満足の道具として利用され、蹂躙されただけに終わった。

 男爵との結婚が一種の"身売り"であったことに気づかなかった妻は、何とかして自分の幸せを掴もうと思いながら、再び、何の幸せにも結びつかない愚かな"身売り"に協力してしまった。

 夫婦の性の問題という枠組みにとらわれずに作品を見るなら、これは、人間の「モノ化」という問題の残酷さ、不毛性を暴き出した作品であると言える。
 現代の物質文明社会では、物質だけでなく、人さえもモノと扱われる。社会の風潮は、人が主体的に生きることを妨げ、むしろ不特定多数の他人を喜ばすために、自分を商品として(モノとして)差し出すことを奨励し、それこそが人が幸せを得る近道なのだと思い込ませる。人は市場で自分が有利に買われていくために、自分に箔をつけてくれそうな様々なアイテムに先を争って手を伸ばす。履歴書を飾る様々な肩書きは、労働市場で有利に自分を売り飛ばすためのもの。外見的な美も、有利な結婚を手に入れたり、世間での評価を上げるためのもの。
 現代社会は、人が市場に自分を少しでも有利な取引道具として差し出すために、どこまで行っても終わらない、どんぐりの背比べのような競争の蟻地獄の中でもがかなければならないような社会だ。

 だが、自分をモノとして差し出すことは、絶えざる自己否定の中を生きることである。多くの人々は、自分が幸せになる目的で自分を磨き、努力しているように錯覚しているが、ほとんどの場合、ただ外面的な評価を失う恐怖に追い立てられているだけであることに気づかない。外からの評価に頼ってしか自己価値を確かめられない人々は、決して現在の自分に満足することができないので、今現在を生きている幸せを感じることができない。また、他人を道具として見るような人間は、道具となった人間から貪欲に無限の満足を引き出そうとするだけであり、他人をどんなに利用しても、決して満足して飽くことがない。
 そこで、人間をモノとして見る視点に立つと、どんな人間も幸せになることがなく、満足して自分自身に安住することができない。人をモノとして扱うような社会では、差し出す側にも、受ける側にも、ただ利用し合い、搾取し合い、傷つけ合うだけの不毛な関係あるのみだ。

 人が自他ともに、人間を道具とみなすことを促進するような世間の風潮、それこそが人間を不幸にしている元凶であるということ、それが、『クロイツェル・ソナタ』が何より告発している問題であると私は思う。
 

2.「神の国」はどこにある? システムによって作られる人工的な陶酔状態の危険

 だが第二に、すでに述べて来たように、作品の中ではもう一つ別の問題が提起されている。それは、音楽によるマインドコントロールの危険という形で提起された警告、つまり、自己を放棄した陶酔状態の中では、人はいかなる幸せをも獲得することができないという警告である。
 蟻地獄のような競争社会の中で、人はどうにかして自分がモノとして乱暴に扱われる苦しみから逃れ出て、ほっと一息つける場所を持てないだろうかと期待する。歪んだ関係から生まれる一切の負の感情、疑心暗鬼、警戒心、不安、嫉妬、憎しみ、恨みなどから、何とかして逃れ、安らかな心の境地に至る道はないだろうかと誰もが願う。

 だが、男爵夫妻の場合、何とかして心を軽くしたいという、なけなしの最後の願いまでが、他人に利用される弱点となってしまった。音楽が与えてくれた解放感やカタルシスは、男爵夫妻の心を一時的に軽くすることはあっても、彼らが現実の問題に真正面から向き合う何の助けにもなってくれなかった。それどころか、音楽は彼らに現実の問題を忘れてさせて心を軽くした代わりに、過度に心を無防備にし、警戒心を鈍らせ、善悪の判断を狂わせ、麻薬のような陶酔感をもたらし、短い夢のような解放感の後で、さらなる破滅の中へ夫妻を陥れたのである。

 このようなことを突き詰めて行くと、人間の幸せとはどこにあるのか、私達が普段、重荷に思っている感情は何なのだろうかと自然と考えざるを得なくなる。私達はいつも自分の心を大掃除しなければならないように感じている。様々な負の感情をゴミ箱に捨ててしまえればどんなに心が軽くなって良いだろうかと願う。だが、そのような心の清掃は、果たして必ずしも良い結果をその人にもたらすだろうか。猜疑心や警戒心、恨みや怒りなど、全ての重荷なる感情を捨て去って、あらゆる心配から逃れて、ただ赤子のような無垢な心境になることが、私達にとって望ましい変化なのだろうか。

 幸福という概念を思い浮かべる時、私たちはそれは争いのない世界のことであり、対立のない世界、憎しみと恨みのない世界、無駄な苦しみのない世界、愛と調和だけのある世界のことだと思いがちである。幸せという言葉を使うとき、私たちはそれが限りなく、自分の感覚を喜ばせてくれるような、心乱されることのない安らかな心境であると無意識のうちに思う。だが、それは果たして人間が先祖がえりして、いかなる免疫抵抗力をも持たなくても暮らしていけるような、安全な無菌室に入りたいと夢見る、非現実的で、身勝手な願望でないと言えるだろうか。はっきり言って、それは世界を自分のための安全な子宮に変えてしまい、子宮に逆戻ることで、この世の全ての苦しみから逃れたいと願う幼児的な逃避願望ではないだろうか。

 十字架と共に、「女のすえ」であるイエスはサタンのかしらを打ち砕いた。だが、サタンの全面的な敗北は終末を待たねばならず、クリスチャンは勝利の前触れを味わいながらも、今まだ善悪二元論の世界に生きている。世界は混乱と苦しみに満ちており、人間関係は汚染されたままで、世界は誰にとっても安全な子宮には成り得ない。
 「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(ルカ18:17)とイエスは言われたが、その「幼な子」とは決して、この世を生きる上で不可欠な善悪の判断すらも忘れ去った、赤ん坊のように、心理的に退行した人間を指してのことではないだろう。

(前後の文脈から判断するなら、ここで言われている「幼な子」の意味は、自分の功績を誇ったり、財産に執着したり、この世の様々なしがらみや人間関係にとらわれるあまり、そのようなものをキリストよりも高く評価しがちな大人たちへの警告であると思われる。)

 だが、昔から現在に至るまで、大勢のクリスチャンが、聖書の言う「神の国」とは、一切の悪が存在しない、何一つ警戒する必要のない至福の境地、人が無垢の心で安らかに眠ることができるような、苦しみのない調和社会のことであると考えてきた。苛立ちも、不安もなく、悪に対する警戒心という最低限の免疫抵抗力すらも持たなくても暮らしていけるような、無菌室のような浄土が、きっと「神の国」のことなのだろうと思い描いた。
 そして、何とかして「神の国」という理想的共同体を地上に実現させようと苦心した人々がいた。そうするのが神の御心だと信じて、エクレシア(教会)の名のもとに、一定の地域にクリスチャンのユートピア村を建設しようとした信徒が日本にも過去にいたし、現在もいるようである。だが、そのような試みが一つとして成功したという話は聞かない。

 今日になっても、そのような「神の国」をプログラムやシステムによって(人工的に)特定の地域や特定の集団全体に導入しようとしている自称クリスチャンたちの試みがある。彼らはそのような試みが、他のどんな支配関係よりも、もっと深く、残酷に、強烈に、人間を「モノ化」しようとする計画であることに気がついていない。
 システムによって人間社会を支配しようと企てることは、私の考えでは、地球上、最も恐ろしい支配の形態であり、個々人の間で結ばれるどんな歪んだ関係や、打算的な利害関係、搾取や、支配をも越える最も深刻な支配である。

 たとえば、「大宣教命令」を盾にとって、会衆を熱狂させて、陶酔状態へ陥れるような集会や、行事、訓練プログラムを盛んに開き、参加した会衆の心に人工的なカタルシスを引き起こし、会衆一人ひとりの自我の殻を打ち砕いて、「覚醒」させ、一人ひとりをプログラムの予定する「神の国」にふさわしい、赤子のように疑うことを知らない、権威者に従順な「弟子」へ変えてしまうことを目指して、今も信徒に熱心に働きかけている集団がある。そして彼らはあわよくば一つの地域、国の住民をまるごとそのような先祖がえりした「弟子」に変えてしまおうとしている。

 これから何度にも分けて、細かく見ていくことになるが、私が主張したいのは、そのような試みが大変危険なだけでなく、信仰的に見ても、根本的に誤っているということである。それは人間をモノ化して支配しようとするマインドコントロールの仕掛けであり、人を罠にかけるようにして、退行現象を引き起こす。非現実的な陶酔感に溺れさせることによって、人の善悪の判断を鈍らせ、上から容易に支配できる無防備な心理状態にしていき、その人を道具のように自在に支配し、破滅的な混乱をその人の人生にもたらすのである。

 たとえ「神の国」という名前が使われていたとしても、そのようにして人工的に人の心の状態を変えようとする計画は、極めて危険であり、人をシステムの中に拘束こそすれ、決して解放に導くものではない。
 予め緻密に計画されたシステムやプログラムを導入することで、人工的に作り出される集団的熱狂や陶酔状態、分かち合いなどの名のもとでの罪の自白の強要、長時間続く礼拝や、異言や個人預言などの霊的現象を伴う連続祈祷、特殊な賛美形態によって引き起こされるカタルシス、エクスタシー等々は、とどのつまりは、人々の心を操作しようとする悪しきマインドコントロールの仕掛けであって、そのようなものを含むプログラムの実行によって、聖書の言う「神の国」を人工的に到来させることは不可能である。

 聖書の言う「神の国」は特定の時空間や、特定の集団、特定の地域社会に限定されて及ぶものではないことは、聖書にはっきりと書かれている。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」
 さらにその続きにはこうある、
「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。人々はあなたがたに『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。」(ルカ17:22-23)
「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについていくな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」(ルカ21:8-9)

 聖書的に言えば、この世は未だ闇の支配下にあり、クリスチャンは闇の中に輝く小さな灯火である。神の国は人の心の中にあるのだから、固定的なものでなく、本来、移動性であるはずだ。神の国は成長して、他の人の心に影響を与えることができるが、決して地上の時空間にとらわれて制限を受けることがない。クリスチャンの勝利とは、時代に対する勝利ではなく、大事業を成し遂げたり、大規模教会を作ったり、奇跡を多数行なったり、より多くの人々を改宗させたりすることにあるのではない。
 聖霊は人の心を宮として住まわれる。教会では、聖書の神が、たとえば仏像や、お地蔵さんや、神社仏閣のような特定の縄張りを住家としてそこに限定して働くということはないと教えられる。従って、神の力がキリスト教会という建物内に限定されて働くこともあり得ないのだ。従って、「教会の外には救いがない」とまで言い切るような教会中心主義は誤りである。

 神の国をこの世のある国や地域(住民)に限定したり、ある時空間内に限定したり、ある建物内に限定したり、あたかも神の国が固定的な領土であるかのようにみなし、一定の国や地域の政策と、神の国を同一視する考えは根本的に誤りである。


3.教会中心主義の逆の極端としての無教会主義について

 だが、既存の教会の建物にとらわれて信仰を考える必要は全くないと思うものの、同時に、私個人は、次のような「無教会(主義)」の教えにも同意することができない。
 無教会派が「救いは教会の外にもあると唱え、見える教会自体に神の恩恵をほどこす力はない」として、目に見える教会の建物に依存しない信仰のあり方を重視する主張にはある程度、同意できる。だが、かといって、建物としての教会を一切否定し、廃止すべきであるという主義に至ることはそれとは全く別であると思う。

 さらに、洗礼、聖餐式を含めてあらゆる秘蹟(サクラメント)までを一切、呪術的な儀式として退ける主張は、非常に過激なものであり、それはイエスが最後の晩餐の際に聖餐について述べた事柄や、弟子たちの授けた洗礼などの聖書的記述に反する。

 上記の無教会主義はその説明の中で、「私は洗礼や聖さん式が全く無意味だと言っているのではありません。参加する人の心の持ち方次第ではそうした儀式は意味深い有意義なものとなります」と、一見、宗教儀式に譲歩を示すかのように述べながらも、同時に、「無教会は洗礼と聖さん式などの一切のサクラメント(秘蹟)を行いません」と、はっきりとあらゆるサクラメントに反対の立場を宣言し、しかも、儀式からの解放を、「呪術からの解放」とみなしている。これでは、事実上、洗礼や聖餐式を「無意味」としているだけでなく、信仰に悪影響をきたす迷信として退けているのと同じである。

 だが、上記の主張が、秘蹟の完全否定の根拠として挙げているアモス書5章21-24節の聖句は、その前後の文脈を読むならば、神が自分に捧げられる一切の宗教儀式を否定する文脈で述べた言葉とは受け取れない。
 むしろ、「あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける。」(アモス5:12)と、日頃から悪事ばかり働いている信者が、宗教の祭典の時にだけ信心深そうな様子で襟を正しても、そのような信心を神は喜ばないという意味であると解釈できる。
 さらに、25節には、信者が偶像礼拝に陥ったことを責める言葉があり、神が憎むと言われたその祭典は、偶像礼拝色が強いものであったと考えられる。
 よって、この聖句は正しい信仰から逸れた信者が捧げる儀式の無意味さを述べているだけであり、これを根拠にして一切のサクラメントを完全に否定するのは行き過ぎであると私は思う。

 さらに、無教会主義があらゆる秘蹟を呪術と同一視する根拠として挙げているマックス・ウェーバーは、社会学者、経済学者であり、信仰的観点から著書を書いたのではなかった。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、この著書が「純粋に歴史的な叙述」であり、「価値判断や信仰判断に入り込む」つもりがないことをはっきり述べている。同書、大塚久雄訳、岩波書店、2008年、p.368。
 そこで、信仰的な観点から、秘蹟を呪術や迷信の一部とみなす根拠として、神学的議論や、信仰的な観点からの議論を含まないウェーバーを挙げるのには無理があると言えよう。

 上記のような無教会の主張は、煎じ詰めれば、従来のカトリックやプロテスタントの教会において行なわれている洗礼、聖餐式は一切、神によらない悪魔的儀式だと宣言しているのに等しいことになる。これは従来のクリスチャンに対する真っ向からの挑戦状である。
 果たして、聖書は洗礼や聖餐式を呪術的儀式だと教えているのだろうか? そのようには私は全く考えない。
 今日の多くの教会が、私自身が再三述べてきたように、あまりにも大きな教会特有の問題を抱えていることは確かだが、かといって、教会反対という主張を軸にしてエクレシアを作ろうとするのでは、結局、既存の教会の弊害から少しも自由になったことにならないだろう。それは一種の政治的反対運動のようなものであり、純粋に信仰的な連帯であるとは言えまい。
 結局、教会中心主義、儀式中心主義が誤りであるとすれば、無教会主義は、その逆の極端ではないかと私は思う。

 「所属する主義」、「所属しない主義」、これは共に信仰的な主張ではない。重要なのは、限定された時空間・建物としての教会を廃止するか否かという限定された議論にとどまることではなく、エクレシアとは信徒一人ひとりの心に住まう聖霊が織り成す流動的なつながりであり、流動的に変化する、限定することのできない不思議な空間であるととらえることだろうと思う。


『クロイツェル・ソナタ』に見る音楽によるマインドコントロールの危険

5.音楽がポズドヌィシェフ男爵夫妻にもたらした退行現象

 子育ての合間に暇が出来て、やっと静かなひと時を取り戻したポズドヌィシェフ男爵の妻は、見る間に若々しい女らしさを取り戻し、久しく忘れていたピアノに熱中していた。その男爵の妻のところに、渡りに船のように、トゥルハチェフスキーというヴァイオリニストが訪ねて来て、協奏曲の演奏を申し込む。
 夫に対しては憎しみしか心に持てなくなっていた妻は、音楽を建前にして、トゥルハチェフスキーとの交友関係を、夫への当てつけとして見せつけ、復讐を果たそうとする。男爵の方でも、妻がトゥルチェフスキーを使って自分に復讐を果たそうとしていることを十分に知りつつ、何やら意識できない不穏な心理のために、自分の妻を食い者にしようとしていることが明らかなトゥルハチェフスキーを、あえて退けることもなく、妻との協奏に反対しない。そして運命のサロン・コンサートが開かれた。

 ヴァイオリンという楽器は、楽器の中でもことさらに魅惑的な楽器である。聞くところによると、声楽家はヴァイオリンのように歌うことができれば理想だと考える一方で、ヴァイオリニストは声楽家のように演奏できれば理想だと考えているらしい。ヴァイオリンという楽器の出す音は、恐らく、他のどの楽器よりも、きわめて人間の音声に近く、それだけ聴衆に与える影響も大きいのではないだろうか。ピアノなどの幅広い鍵盤楽器に比べて、ヴァイオリン演奏には、限られたスペースの中での繊細で素早い指使いと、完成された弓使いが必要とされる。

 近年は、女性ヴァイオリニストが圧倒的に多くなったため、ヴァイオリンはまるで女性のための楽器であるかのようにみなされることもあるが、元来は、ヴァイオリン奏者は圧倒的に男性であった。楽器そのものが女性の身体に似たヴァイオリンに張られた弦の上に、ヴァイオリニストは細く長い指を目まぐるしく走らせ、魔法のように弓を駆使する。それによって、あの物悲しい、すすり泣きのようなかすれた音色から、心引き裂かれるような絶叫、そして豪快で天空に駆け上るような歓喜の旋律まで、実に様々な音色が醸し出される。オリエンタルでエキゾチックなこの楽器の音色は世界中の聴衆に愛されてやまない。

 だが、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』では、ヴァイオリニストのイメージも、ベートーヴェンの楽曲のイメージも、まるきり否定的に、不快を催すものとしてしか描かれない。ポズドヌィシェフ家を訪れたトゥルハチェフスキーはプロの演奏家ではなく、半ば社交界の人間であり、人格的にもかなり下劣な人間であったことから、演奏家としての資質はたかが知れたものであっただろうと察せられる。
 トゥルハチェフスキーという人物は、ヴァイオリンという楽器の悪い側面としての、麻薬のように人の心を溺れさせる、俗悪な魔力の体現者として現れる。ヴァイオリニストという職業人は、この作品においては、至高の芸術の担い手ではなく、女性たちの心に、俗っぽい憧れをかきたて、恋愛感情という魔法をかけて、トランス状態に陥れる、油断のならない、鼻持ちならない、催眠術師のような、不誠実な人間の象徴として登場する。

 確かに、20世紀になって特に、クラシックのヴィルトゥオーゾと呼ばれる世界的な名演奏家が、まるでカリスマ的偶像のように世間で異常なもてはやされ方をするようになり、大衆を酔わせる虚構としてのショービジネスが一攫千金を狙う人々によって次々と計画されている現実を見ると、大がかりな舞台演出には欠かせないスターとしての演奏家という種族を、一種の詐欺師や魔法使いのように、警戒する説には一理あると言えるだろう。

 しかし、この小説において演奏されるのが、なぜ他ならぬベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』でなければならないのか、未だに私には納得が行かない部分が残るのだ。トルストイはこの曲を、人間の情感に壊滅的な効果を及ぼす楽曲として挙げている。だが、古典的な枠にがっちりとはめられたベートーヴェンの曲に、そこまでの危険性を私たちが感じることは難しいように思う。
 本当にこれはクラシック音楽を深く理解する人の結論なのだろうか? 音楽の危険性を訴えるならば、むしろメンデルスゾーンや、チャイコフスキー、ラフマニノフなど、他の作曲家の中になら、いくらでも人間の情熱をかきたてる、官能的で、ドラマチックな楽曲がいくつも見出せるではないか(訂正:作曲家ラフマニノフはこの時まだ存在していません)。なのに、なぜここで他でもなく、官能的という言葉からはほど遠く、むしろ禁欲主義的で哲学的と言った方がいいようなベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが引き合いに出されなければならないのか。そのことを理解するためには、もう少し作品を深く見ていかなければならない。

 (ポズドヌィシェフ男爵は作中で、自分が音楽を深く理解する人間であると述べているが、トルストイ自身が楽器演奏に関心があったという話は聞かない。そこで、この小説はあくまで作家としてのトルストイ独自の見方であると考えることも可能だろう。)

 さて、ポズドヌィシェフ男爵は、妻とトゥルハチェフスキーとが演奏し始めたクロイツェル・ソナタを聴いて、次のように感じた。

「二人はベートーベンのクロイツェル・ソナタを演奏したのです。あの最初のプレストをご存じですか?<略>あのソナタは恐ろしい作品ですね。それもまさにあの導入部が。
概して音楽ってのは恐ろしいものですよ。あれは何なのでしょう? わたしにはわからないんです。音楽とはいったい何なのでしょう? 音楽がどんな作用をすると思いますか? <略>
音楽は魂を高める作用をするなんて言われてますが、あれはでたらめです、嘘ですよ! たしかに音楽は効果を発揮します、恐ろしい効果を発揮するものです。<略>しかし、魂を高めるなんてものじゃ全然ありませんよ。魂を高めも低めもせず、魂を苛立たせる作用があるだけです。<略>

音楽は自分自身を、自分の真の状態を忘れさせ、自分のではない何か別の状態へ運び去ってくれるのです。音楽の影響で、実際には感じていないことを感じ、理解できないことを理解し、できないこともできるような気がするんですよ。<略>
 この音楽ってやつは、それを作った人間のひたっていた心境に、じかにすぐわたしを運んでくれるんですよ。その人間と魂が融け合い、その人間といっしょに一つの心境から別の心境へ移ってゆくのですが、なぜそうしているのかは、自分でもわからないのです。たとえばこのクロイツェル・ソナタにしても、それを作ったベートーベンは、なぜ自分がそういう心境にあったかを知っていたわけですし、その心境が彼を一定の行為にかりたてたのですから、彼にとってはその心境が意味をもっていたわけですが、こっちにとっては何の意味もないんですよ。ですから音楽は人を苛立たせるだけで、決着はつけてくれないんです。」

 クロイツェル・ソナタの導入部は、確かに、考えようによっては、かなり聴く人の心を衝撃的にかき乱すものであると言えるだろう。第一楽章は、まるで避けようのない運命としての死神の登場を意味するかのような、劇的な和音展開から始まる。続いて、(あえて私の勝手なイメージを述べるなら)、扉をノックする音。読み上げられる宣告文。不安と恐怖に縮み上がった家の主人は、扉が開かれる前に、何とかして運命を逃れようと、家を出て馬車に駆け込む。鞭を振り上げ、走り出す馬車と共に、ピアノとヴァイオリンの疾走が始まる。
 このソナタでは、ピアノとヴァイオリンは互角の役割を果たしている。二つの楽器の間で交互して奏でられる旋律には、まるで、追いかける死神の怒りと、逃げ惑う人間の不安と恐怖が入り混じっているかのようである。窓の外を駆け抜ける景色、そして人の心の中をかすめる思い出の数々。過去に無自覚に行ってきた行為の数々。怒りにまかせて、強引に押し通した行動。時折、安らかな思い出が脳裏をよぎることもあるが、来るべき罰に対する不安はかき消すことができない。逃げても、逃げても、運命の追っ手から逃れることができない。疾走は第一楽章の終わりまで続いていき、雪崩を打ったように、終幕へ突入する。転倒。あきらめと絶望のため息。そして死神にとらえられた人間は、固い腕で容赦なく鞭打たれながら、引きずられて、冥界へと連れ去られる。

 この曲にどんなイメージを抱くかは人それぞれであるが、この曲が何を意味していようと、ポズドヌィシェフ男爵が言いたかったことは、楽曲に込められた劇的な心理展開や、胸苦しいまで張りつめた感情を、演奏者は自由自在に、何の用意もできていない無防備な聴衆の心に流し込み、あらゆる感情をいともたやすく聴衆に伝染させて、聴衆の心をさらに無防備にしてしまうことの危険性である。

 言い換えるならば、音楽というものが大衆のマインドコントロールのためにいかに有効な手段になりうるかということを、19世紀に生きていたトルストイは、いち早く発見し、後世に警告しようとしたのだと言える。音楽が人間の心理を巧みに操作する手段となりうることに、トルストイは大きな危険を見て、あえて私達が日頃から無害なものと考えて愛でている音楽を、危険なものとしてひっくり返して見せたのである。

 確かに、言葉による演説ならば、人々はそれを吟味し、批判し、自分に合うものだけを取捨選択しようとする。人々は言葉によって暗示にかけられることに対して、わずかながらも警戒心を持っている。しかし、音楽に対しては、人々は吟味する作業をやめて、素直に心を開いてしまう。高度に芸術的で完成された楽曲であればあるほど、人の心を思うがままに操り、怒りや、恐怖、不安、嘆き、情熱、歓喜、官能まで、およそどんな心理状態でも、簡単に呼び起こすことができる。人々が、音楽の与える情感にあえて逆らうということをしないために、なお一層、音楽は強い力で人の心を揺さぶり動かすのだ。

 今日のキリスト教界における集会などを見ても、そこには大抵、音楽の使い方にある種の型が、すなわちテクニックが見られる。礼拝でも、音楽の使い方に決まった型がある。そこにも、今日、音楽がいかにその場の雰囲気を荘厳なものにし、大衆の心理をその場にふさわしいものへと誘導する有効な手段として駆使されているかを見ることができよう。
 しかし、ポズドヌィシェフ男爵が危険視するのは、儀式化された場所で、秩序ある形で音楽が用いられることではない。むしろ、秩序のない、制限のないところで、音楽が濫用されることによって、行き場のない、用途不明な情熱が人々の心の中にかき立てられ、その結果、人々の情熱がどこへ結びつくやら分からない、一触即発の状態が生まれることだ。音楽が人々をトランス状態に陥れ、現実認識力を弱め、洗脳にかかりやすくなった人々は、物事に対する警戒心や、まともな判断力が鈍り、善悪の判断が効かなくなって、心理的な退行現象が起きてしまうことの危険性なのである。

 まさか、そこまで音楽は危険なものだろうか?と反論したくなる人もいるだろう。そこで、ポズドヌィシェフ男爵の言い分をもうちょっと聞いてみよう。彼は言う、
「音楽は時によると実に恐ろしい、実に不気味な作用を及ぼすのです。中国では音楽は国家的な事業とされていますね。これもまた当然ですよ。希望者はだれでもお互い同士、あるいは大勢の人間を催眠術にかけたあげく、それらの人間に好き勝手な振舞いをするなんてことが、はたして認められていいものでしょうか? しかもいちばん問題なのは、堕落しきった最低の背徳漢でも、その催眠術師になれるって点なのです。
 ところが、この恐ろしい手段が、相手かまわずだれの手にも入るんです。たとえば、あのクロイツェル・ソナタの導入部のプレストにしても、ですよ。いったい、肌もあらわなデコルテ・ドレスを着た婦人たちの間で、客間で、あんなプレストを演奏していいもんでしょうか?<略>
ああいう作品を演奏してよいのは、一定の、重要な、有意義な状況の下に限られるので、それも、その音楽にふさわしいような一定の重要な行為をなしとげることが要求される場合だけです。その音楽によってムードをかきたてられたことを演じ、実行するというわけですよ。さもないと、時と場所にも似合わずにかきたてられたエネルギーや情感が、なんらはけ口を見いだせぬまま、破滅的な作用を及ぼさずにはいませんからね。」(p.108-109)

 ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタという、全世界で芸術的最高峰の一つとして知られる作品、人の魂にきっと有益な効果を及ぼさずにおかないだろうと思われる崇高な音楽が、まるで麻薬のように魂に破滅的な作用をもたらしたのだとポズドヌィシェフ男爵は言う。

「少なくともわたしに対しては、あの作品は恐ろしく効き目がありました。気のせいか、まるでそれまで知らなかった、まったく新しい情感や、新しい可能性がひらけたかのようでした。ああ、こうでなければいけないんだ、これまで自分が考えたり生活してきたやり方とはまったく違って、まさにこうでなければいけないんだ、と心の中で告げる声があるかのようでした。わたしがつきとめたこの新しいものが、いったい何だったのか、はっきりさせることはできませんでしたけれど、この新しい状態の自覚はきわめて喜ばしいものでした。妻もあの男もふくめて、相も変らぬ同じ人々が、まったく別の光に照らされて見えてきたのです。<略>

わたしは夜会の間、終始、心が軽やかで快活でした。その晩のような妻の姿を、わたしはかつて見たことがなかったのです。演奏している間の、あの光りかがやく目や、端正さ、表情の厳粛さ、そして演奏し終ったあとの、何か身も心もすっかり溶けてしまったような風情や、かよわい、いじらしい、幸せそうな微笑。わたしはそれらすべてを目にしました。しかし、妻もわたしと同じ気持ちを味わっているのだ、わたしと同じものが啓示され、まるでついぞ味わったことのない新しい情感が思い起されたような気持ちになっているのだ、ということ以外、そこに何ら別の意味を付さなかったのです。<略>

わたしははじめて心からの喜びをこめてあの男と握手し、いい音楽をきかせてもらったことを感謝しました。あの男は妻とも最後の別れのあいさつを交わしました。二人の別れのあいさつはごく自然で、作法にかなったものに思われたのです。すべて結構ずくめでした。わたしと妻はどちらも夜会にとても満足していたのです」(p.109-110)

 ベートーヴェンの音楽は、まるで神からの啓示のように、ボズドヌィシェフ男爵の心に響いた。そして、男爵の心の中から、全ての悪い思いを洗い流してしまったかのようであった。男爵はこの演奏が始まるまでは、ヴァイオリニストと妻との協奏を心の中で嫌悪していた。彼の心に喜びはなく、憎しみや、皮肉や、嫌悪があるのみだった。にも関わらず、それまでの妻とのあらゆる不愉快な行きがかりや、妻への嫌悪、トゥルハチェフスキーに対する軽蔑などの、周囲に対する一切の不快で敵対的な感情が、音楽のもたらす効果のために、男爵の心からすっかり消えてしまったのである。そして、男爵はまるで生まれ変わったかのように、新しい、調和に満ちた平和な世界を発見した。まるで見るもの全てが浄化され、新しい、穢れない光の中で輝いているように見えた。

 それは、ベートーヴェンのような高い芸術性を持った音楽ならではの効果だったと言えよう。男爵の心は、この音楽のもたらす緊張と苦しみの中でカタルシスを味わい、彼は心の大掃除をされて、今までと違う次元へと運び去られたのである。それは男爵自身にとっては、全く喜ばしい変化のように感じられた。嫌な思いが全て去って、あるべき心の平穏な状態を取り戻し、人格が生まれ変わって、新しい崇高な境地に至ったように思われた。(だからこそ、トルストイはここで、俗的で官能的な楽曲ではなく、崇高なベートーヴェンをあえて引き合いに出しているのである。)

 しかし、男爵に起こったこの喜ばしい「生まれ変わり」の体験は、実はとても危険な退行現象であり、男爵をも彼の妻をも破滅的な状況に導き入れるものであった。
 音楽のもたらすカタルシスの作用のために、まるで赤子のように無垢な心になったポズドヌィシェフ男爵は、それまでずっと持ち続けてきたトゥルハチェフスキーへの敵意を忘れ、彼がどんなに危険な人間で、忌まわしい目的を持って、自分の妻に接近したかということを忘れ、警戒心を解いて、リラックスして、落ちついた、平和な気分で家を離れて、出張に旅立ってしまった。

 そして恐らく、小説には全く書いていないものの、ポズドヌィシェフ男爵の妻もまた、この時、夫と同じように無垢な心境に逆戻りしていたのであろう。彼女は最初は夫に対する当てつけのために利用してやろうと考えていたトゥルハチェフスキーに対して、今や、師匠に対するように、崇高な敬愛の念を抱いていたと思われる。彼女はその警戒心のなさから、夫の留守中に訪ねて来たトゥルハチェフスキーを気軽に家に入れてしまった。そしてその後に起こった悲劇…。
ポズドヌィシェフは出張先で妻からの手紙を読んで、魔法が解けたように我に返り、本来の嫉妬深く敵対的な心境を取り戻した。そして俗悪なヴァイオリニストの計画に気づいて、妻への嫉妬と疑惑に燃えて、真夜中に急いで家へ逆戻りした…。


6.大衆扇動の手段としての音楽が持つ危険性

 もちろん、この小説では、ポズドヌィシェフ家を破壊した犯人は『クロイツェル・ソナタ』ではない。トゥルハチェフスキーの登場がなくても、この夫婦が破局に至ったであろうことは確かであり、この破局は音楽によるマインドコントロールだけの所産ではなく、したがって、音楽に全ての汚名を着せることは不可能だ。しかし、私たちはここであえて立ち止まって、ポズドヌィシェフ男爵の口を借りて提起された、音楽によるマインドコントロールという問題を、もうちょっと真剣に考えてみたい。

 私ははからずもこの小説を読んだ時、昨今、世間を騒がせている牧師による信徒への性犯罪事件などを思い浮かべずにいられなかった。このような事件の被害者たちは一様に、事件発生時、牧師によってマインドコントロールされて、我を忘れさせられていたと証言する。つまり、そこで言われているのは、儀式や何らかの訓練の過程で、牧師がまるで魔術師のように信徒たちの心を操作し、支配し、信徒たちにそれまで持っていた常識や社会通念を忘れさせて、善悪の判断が効かなくなるように仕向けているということなのだ。

 私自身もまた、自分が全体主義教会で受けた体験を思い出すにつけても、異常な教会の中では、本当に、その時空間内に人が一歩足を踏み入れるや否や、常識や、従来の道徳観念をすっかり忘れてしまうような異常な支配力が働いているのだと思わずにいられない。カルト化教会は、マインドコントロールの力が強力に働く磁場のようなものである。あるいは、人を死に至らしめる無臭のガスが充満した部屋のようなものである。相当に訓練を積んだ人でなければ、その空気を嗅いだだけで、異常だと察知することはできないし、よくよく用心しなければ、気づいた時は手遅れの被害に遭って、無傷で生還することは極めて難しいのだ。

 トルストイはたかだか1時間にも満たない音楽の演奏を聴くだけでも、人の心には驚くべき効果がもたらされることを発見した。しかも、ここで重要なのは、その音楽が決して、人の心に、害悪と思われるような効果をもたらさず、むしろ、至高の存在の現われのように、喜ばしい真理の訪れのように、神からの新しい啓示のように、聴く人の心に鳴り響き、その人の心を浄化し、一切の不快な思いを忘れさせて、無垢な心に生まれ変わらせたということなのだ。その生まれ変わり体験は、人の心を軽くするものであって、快いものであり、その心地よさゆえに、聴衆は自分に起こった変化はきっととても良いことなのに違いないと思ってしまうのである。

 恐らく、カルト化教会で使われるテクニックもこれと同じであるに違いない。人の心を感動させた上で、無防備にしていくような様々な工夫が凝らされているのだ。感動や、歓喜や、過度な緊張の後でもたらされるカタルシスが、人に心を開かせるのだ。
 ただ優しい、美しい、叙情的な調べを聞かせるだけでは足りない。力強く、苦しみに満ちた、怒涛のような音楽、魂の叫びのような調べもまた、魂を高揚させる効果を持っている。長い緊張状態を越えて平和が訪れると、人の心には類例のない解放感がもたらされる。
 カルト化教会のような忌むべき場所では、様々な儀式、礼拝、デボーションの中で、音楽や、様々な演出効果をたくみに用いて、そのようなカタルシスを人工的に引き起こし、人の心を無防備にさせるために、様々な仕掛けが工夫されているに違いない。そしてそのどれもが、かかった人が危険だと感じるよりは、むしろ自分の魂が「聖められている」と感じて、喜びに浸れるような、そんな仕掛けなのだ。

 短い期間であったが、私は舞台演奏家の付き添いとして、何度か楽屋裏を回ったことがあった。その時に、プロの舞台演奏家という種族が、どんなに普通の人たちとはかけ離れた次元に生きているかを、わずかばかり感じさせられた。
 人と人とが知り合って、好感を抱くようになるまでには実際にかなりの時間がかかる。しかし、演奏という魔法を通せば、人々はいとも簡単に演奏家に対して心を開くようになる。聴衆は、自分の目の前にいる演奏家がまるで滅多にお目にかかれない特別な人間であるかのように思い込み、出会いそのものをありがたく喜ぶ。演奏家は、どこへ行っても歓待され、特別扱いされ、聴衆と共にいる限り、まるで治外法権でもあるかのように、悪口を言われることも、非難されることもほとんどない。私達庶民が日常生活でいつも味わわされているような、様々な人間的対立や、周囲の心ない行動から来る不快感を、少なくとも、舞台の近くにいる間、演奏家はほとんど味わわずに済む。
 作曲家の非凡な頭の中で作り出された楽曲の恐るべき効果によって、聴衆の目には、作曲家のみならず、演奏家までもが光り輝いて見える。優れた音楽に酔わされた聴衆は、自分たちにそのような魔法をかけてくれた演奏家に感謝し、彼こそは特別に優れた人間に違いないと思わされてしまう。

 確かに、音楽家の仕事は、日常の中に異次元空間を作り出すことである。その異次元空間の中で、聴衆は酔わされ、振り回され、理性を失い、最後まで冷静に立ちおおせる人は一人もいない。聴衆は楽曲の中には計算されつくした仕掛けがあって、その仕掛けを用いて、演奏家が自分たちをいともたやすく扇動し、自在に振り回していることに全く気がついていない。むしろそのように振り回されていることに喜び、もっと振り回されたいと望んでその流れに自主的に身を任せているくらいである。
 会場では、ただ仕掛け人である演奏家だけが、音楽に没入しつつも、最後まで超然と平静を保っている。演奏家だけが自分を保ち、客観的にその場を眺めている。演奏家は演奏の最中に、自分の作り出す音がどのように聴衆に響いているかを一瞬、一瞬、冷静に感知しなければならない。彼らは人の心を感知するプロである、少なくとも、音楽という分野においては。自分が出す音によって、めまぐるしく変っていく聴衆の心を手に取るように理解していなければ、演奏ということはおよそ不可能なのだ。

 私は趣味としての音楽に携わったことはあったが、プロの演奏家とはどのようなものかを、この時まで知ることはなかった。だが、舞台人の側に立って物事を見る機会にめぐまれたおかげで、音楽以外の様々な事柄についても、同様に、舞台人という特別な種族が存在し、彼らは舞台の仕掛けを巧みに用いることによって、観客の前に、実際にあるがまま以上に自分を崇高な存在に見せかけることができることが分かった。巧みな弁舌や演出効果によって、観客の心理を自在に操り、自分に有利な状況を作り出していくことが、いともたやすく可能なのだということが分かった。

 その種族の最たるものが牧師である。