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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)

上記の御言葉において、「キリストと結ばれる(新創造とされること=キリストと教会との結婚)」ことと、神との和解が、同じ文脈で語られていることの深い意味を改めて思わされる。

前回、二つの対照的な手続きについて書いたが、先日、出された死の宣告と言って差し支えない宣言も、それから間もなく、新たな命に至る宣告によって上書きされた。

もちろん、これらは本当は何の関連性もない別個の手続きであるから、それぞれがお互いを打ち消すわけではないし、上書きされることもない。

とはいえ、手続きの受け手は、共に筆者という一人の人間であるから、受け止める者の感覚としては、一つの試練のあとに、豊かな慰めが与えられた、という感覚である。やはり、何事も思い悩んではならないという聖書の御言葉は正しく、キリストの御身体には、何か一つの苦しみが生じても、こんなにも早く、新たな回復の力が働く。

だから、筆者はディスカウントの宣言を信じず、それを打ち消すために、再び歩いて行くのみである。

その日、決して晴れがましい席ではないところに、筆者が呼んだのではない、たくさんの人たちが来ていた。結婚式にも似て、厳かな宣言がなされ、見知らぬすべての人たちが、筆者と共に命と安息を得たことを、共に喜び、祝福してくれているようであった。

こうして、初めて出会う人たちとの間でも、隔てなく喜びと悲しみを分け合う、そういう不思議な関係が地上にありうるのだと筆者は知って、何か厳かな感動が込み上げて来た。

聖書において、冒頭に引用した通り、人が完全に罪から贖われて、神と和解し、神と一つとされることは、キリストと教会の結婚の奥義である。

従って、神と和解すること、人がキリストに結ばれ、新しく造られた人になることは、同じ意味なのである。

だとすれば、神と人だけでなく、人と人とが和解し、人の間で、すべての敵意と隔てが取り除かれて、新しい関係性が打ち立てられることも、どこかしら、神と人との和解によって、一人の「新しい人」が造られる過程に似ている。

見ず知らずの人々であっても、全員が一つに和合し、まるで一人の新しい人のように、新たな関係性の中に入れられるのである。

結婚があれば、家ができる。新しい家族が生まれる。それと同じように、主にあって、和合した人々は、新しいコミュニティの一員となる。

そのようにして、筆者は、新たな関係性が誕生する瞬間に立ち会わされたような気がした。

その場面が、想像していた以上に、素敵で、そして、味わい深い、感動の伴うものであり、筆者を大いなる尊厳で覆ってくれたがゆえに、筆者はさまざまなことについて、考えを新たにせざるを得なかった。

おそらく、天の御座において、神の御前に立たされるときには、きっと、このような光景が見られるのではないかと感じた。そこには、見知らぬ「雲のような証人」たちがこうして立ち合い、神と共に、筆者の労をねぎらってくれるだろう。

「あなたはよくやりました。ここでは、誰も恥を受ける必要はありません。あなたもこれ以上、奮闘する必要はありません。これがあなたの報いであり、あなたの慰めであり、安息です。どうぞ、自分の報いを受け取りなさい」

そう言って、筆者の地上での労苦をねぎらい、祝福の言葉で包んでくれるのではないだろうか。
 
いつの間にやら、筆者はもはや一人ではなくなり、大勢の人たちに、助けられ、支えられながら、共に進んでいたことが分かった。

味方ではないと思っていた人たちまでが、味方となり、呪いは解除され、すべての人たちが生かされる正しい決断が下され、新たな命の力が、筆者に注ぎ込まれた。

そこには、誰も筆者を憎んでいる者もおらず、嘲る者も、見下す者もおらず、筆者自身も、もはやこれまでのように、怯えながら、自分よりも強い誰かにしがみつき、助けを求めるだけの存在ではなくなって、自分自身で、命に至る水を見つけ、これを汲み出し、それを人々と分かち合う方法を、学び始めたのである。

そうなったのも、多くの人たちが、正しい結論へ至りつけるように、根気強く筆者を導いてくれたおかげである。

その語りかけに気づき、これに耳を傾けたおかげで、筆者は、当ブログを巡る裁判の結審がそうであったように、心砕かれ、へりくだった人でなければ、決して立ち入ることができない、非常に神聖で、厳粛な場へと導かれたのである。

それは本当に、結婚式に似ていた。当ブログを巡る訴訟の時の結審の時にも、筆者は泣いておらず、むしろ、こうなるのが当然と言わんばかりに、単純に喜んでおり、落ち着いていたのに、今はその時に分からなかった多くのことが分かるようになったおかげで、さらに深い感動を味わうことになった。

それは、誰も罪に問われないことが持つ深い解放の意義を知ったからである。すべての人々が解放され、自由になることの意味を理解し、その再生の瞬間に立ち会ったことにより、筆者は自分が罪に問われているわけでもないのに、まるで自分を罪に問うた債務証書が、目の前で破り捨てられるのを見たのと同じくらいの感動を受けた。

人と人との関係性が修正され、生まれ変わって、新たなものにされることには、それくらいの衝撃がある。マイナスだったものが、プラスに変えられ、無益だった関係が、有益なものに生まれ変わり、憎み合い、責め合うだけであった関係が、慰めといたわりに満ちた、互いを生かし合う関係に変えられる。

断絶ではなく、敵意でもなく、和合と、新しい始まり――その劇的な変化が、目の前で進行しているのを見たとき、まるで自分が死地から救われたような感動を覚え、涙が込み上げて来た。

それは確かに、あの訴訟の結審の時に似ていた。筆者は、あの時、あれが本当の終わりになるのだと思っていたし、それにふさわしい見事な終わり方だったと、今になっても思う。

当ブログを巡る裁判は、未だ続いているとはいえ、正直に言って、これから始まる戦いが、一審以上のものになると、筆者は思っていないし、間違いなく、この訴訟の主役は、当事者3人と、一審を担当した裁判官だったように感じている。この訴訟は、本当は、あの結審の時に、実に調和のとれた形で、すでに終わっているのだ、という気さえしないわけではない。

これは、筆者が主張を放棄して争いをやめるとか、その後、書かれた判決が間違っていたなどと言うわけでは決してない。しかし、正直に言って、訴訟で下される法的な結論と、当事者や関係者すべての思いとの間には、大きなずれがあるのが普通なのである。

訴訟における法的な決着は、必ずしも、事実に沿ったものとはならないし、すべての人にとって望ましく、ふさわしい解決にもならない。これは当ブログに関わる裁判とは関係のない話だが、世には、まるで嫌がらせのような決定や判決を書く不正な裁判官も存在するため、必ずしも、正しい判決が下されない場合も、多々あるし、どんなに理不尽でも、法的には責任を追及できない事件なども膨大な数、存在する。

証拠がないゆえに、どんなにひどい仕打ちを受けても、立証できない被害もないわけではないし、法そのものにも、抜け穴や、欠陥があり、時代の進歩が遅れているがゆえに、整備されていない部分がある。

さらに、たとえ判決が100%正しいと言える場合であっても、これを動かせない結論として突きつけられた人が、それに従うとは限らない。

少しでも疑いがあれば、当然ながら、紛争は長引くこととなり、また、強制的な判決によって、力づくでそれに従わされた者がそれに納得せず、新たなリベンジを思いつくような場合さえ、ないわけではない。

だからこそ、判決以外にも、紛争そのものをおさめるための解決方法が存在するのであり、それは裁判官だけが作り上げるものではなく、当事者全員が作り上げて行く全員参加型のものなのである。

そのことが、時を遡って、あの結審の日に、おぼろげながら、見えたのではあるまいか、という気がした。もちろん、筆者は、あの時に提案された不公平な和解案なるものを、受け入れれば良かったと言うわけではない。あの時には、判決を得ることこそ最善策であり、それがあってこそ、今の筆者の解放が得られたのである。

だが、それにも関わらず、結審の時には、それ以上に非常に大切な何かが、今現在手にしている成果をはるかに超える何かが、見えていたような気がしている。

あの時、まだ筆者は、助けは他者から、筆者よりも賢明で、強い誰かからやって来るのだと考え、裁判官に助けを求め、裁判官の中に存在している筆者のための自由を引き出さなければならないと思っていた。

だが、その後、必ずしも、自由と解放は、常に他者の決断の中にあるわけでないことが、徐々に分かって来たのである。むろん、あの時、裁判官が判決を書いてくれたことの意義は非常に大きい。それは筆者が望んだことであり、完全でないとはいえ、多くものがそれによって達成された。

とはいえ、裁判官はもともと事件の当事者ではないから、起きた出来事を詳細に知り尽くしているわけでもなく、証拠があったからと言って、必ずしも、公平で正しく物事を判断できるわけでもない。だから、判決はどんなものであれ、100%完全にはならず、また、100%完全になる日は、どんなに待っても来ないかも知れないという気がする。

その代わり、裁判官には、事件の当事者を仲裁する優れた能力と経験がある。それをフルに活用しながら、当事者自らが、何が正しい解決なのかを、自分自身の力で絶え間なく考え、それを作り上げて行くために努力を払うことの方が、裁判官にすべてを任せるよりも、有益な場合があるのではないかと。
 
だが、それを生み出し、選び取るためには、相当な力と知恵がいる。何よりも、自分のイニシアティブで物事を進めるための強い決意と勇気と覚悟と自信が必要となる。あの頃、筆者にはまだそれがなかった。決めるのは自分ではないと考え、誰かに判断を委ねることで、安全が確保できると思っていた。

だが、あの時、すでに見えかけていたものが、時と共によりはっきりとした形になって、さらに優れたアイディアとなって、現れて来たのである。

それは、誰も罪に問われず、なおかつ、誰もが争いから手を引き、しかるべき償いがなされて、紛争が終結するという奇跡的方法である。

その可能性が、おぼろげであっても、見えていたからこそ、当ブログを巡る訴訟の一審において、最も神聖な瞬間は、今も筆者の目には、法廷で言い渡された結審の時のように見えているのではないかと思う。

争いの終結と、平和の到来、それが、あの時におぼろげに見えていたものの正体なのである。不法行為は、不法行為として確かに裁かれなければならないが、それにも関わらず、それを超えた領域にあるさらに正しい結論が存在する。その時に見えていたかすかな可能性、そこに込められている奇跡的な再生の力を、筆者は、全く関係のない別の出来事を通して、より具体的な形で、理解したような気がする。

だが、それに到達するためには、何よりも、へりくだりと、謝罪や償いといったすべてのプロセスがなくてはならず、さらに、それは、ふさわしくない人間には、立ち会うこともできない、神聖な瞬間、場所である。

私たちが命に至るためには、らくだが針の穴を通るようなへりくだりが必要で、それがなければ、人間関係が再生されることもなければ、紛争に終止符が打たれることもない。

だから、筆者は今回、二つの手続きが、正反対の結末へと導かれたことには、深い意味があると思っている。人々との関係を真に再生に至らせるためには、自分がそれにふさわしく身を清めねばならず、誰でもそういう場を作り出し、もうけることができるわけではない。

そこで、一方の手続きがきちんと終了に至らず、筆者にとっても、他の人々にとっても、非常にまずい不本意な結果に至り着いていることは、決して偶然ではないと筆者は考えている。

なぜなら、そこには、本当に意味での信頼関係が存在しなかったことが、後になって分かったためである。何よりも、そこでは、筆者に対する信頼というものが、土台から存在しなかった。

そのような状態で、関係する全員が喜びと悲しみを共有し、全会一致で同じ結論に至りつき、互いにへりくだって、互いを自分よりも尊い優れた存在として認め、互いに手を差し伸べ合い、和合することは、決して無理な相談であったろうと思う。

だから、信頼関係のないところでは、ふさわしい解決が与えられないことは、むしろ当然なのである。それゆえ、そうした手続きには、やがてふさわしい別な人々が現れて、解決へと導かれるのを待つことになろう。
  
だが、もう一方の場においては、それが成就するだけの素地が、初めから整っていた。そこでは、すべての人々が、筆者を殺してはならないと決意し、筆者を生かすために、立ち止まって、筆者の応答を真剣に根気強く待ってくれたのである。

それを見ても、やはり、他者のために苦しみを担い、人を生かす仕事を成し遂げることができる力は、女性よりも、男性の方にはるかに多く備わっていると思わずにいられない。

女性は苦しみを厭い、自分の美が人前で割かれ、栄光を失うことにほとんど耐えられず、手間を省き、楽をすることを願い、何が自分にとって得であり、損であるかという自分中心の考え方を離れることができないが、男性たちには、自分を離れて、大局的に物事を見、自分の損になってでも、他者を救うために深く苦悩を負う能力が備わっている。

危険な場所にでも飛び込んで行って、自分よりも弱い者たちを救い出し、辱められた人たちを尊厳の衣で覆い、彼らの痛み苦しみを我が事のように担い、自分よりも弱い者たちに命を与えるために、自分を犠牲にしてはばからず、忍耐することができる力がある。

前にも書いた通り、そういう力は、女性にはほとんどないものである。そして、そういう性質は、どんなに利己的な男性であっても、男性である限り、どこかしら存在の根本に流れているものであって、それは、筆者の目から見ると、神聖さは失って、非常にかすかなものとなっているとはいえ、キリストが花嫁なる教会のために恥をも厭わず、ご自分の命を投げ出して、十字架に赴き、罪に背いた人々を救おうとされた、神の救済者としての性質に由来するものなのである。

そうして、他者に命や解放を与える役割こそ、男性の栄光であり、存在意義そのものなのではないかと筆者は思っている。
 
だから、筆者の人生において、筆者に害を与えず、有益な決断を下してくれた人々の名を列挙しようとすると、そこにほとんど女性の名は残らない。全くいないわけではないが、女性は多くの場合、嫉妬や競争のためなのか、何のせいであるのかは知らないが、至る所で、助けを求めた筆者をかえって疑い、辱め、残酷に引き裂くような決断を平然と下し続けている。

女性が女性に対して極度に残酷になり、自ら女性を束縛の中に閉じ込め、それゆえ、他の女性を解放しないだけでなく、自分自身も、解放から遠のいて行く場面というのは、幾度となく見せられて来た。

それはやはり、女性はどんな女性であれ、常に自分が助けられる(救われる)側に立ちたいと願い、他者を助ける(救う)側に立つことが、極めて難しいからだと思わざるを得ない。自分自身が常に解放を求め、救われることを求め続けているがゆえに、他者を救う力がないし、場合によっては、それを喜ぶことさえできないのである。それが、筆者の目から見ると、女性が単独では完全になれない虚無性、女性が存在の根本に抱えている不完全性、理不尽性なのである。
  
とはいえ、筆者も、もはや強い指導者や権威者を探しては、彼らに一方的に支えられ、かばわれるだけの弱い立場ではなくなり、自分よりも強そうな他者に自己決定権を委ねるのではなく、自分自身の判断で、正しい結論に至り着くことができるよう学習を促されている。

こうして、結婚の儀式にも似た短い手続きが、平和に、静かに終わった後で、これまでになかった全く新しい関係性――和合――が生まれ、何かしら巨大な解放に満ちた変化が、筆者の中に生まれたような気がした。

それまでに起きたすべての事は、嘘のように過ぎ去り、洪水は去り、筆者は新しい大地に足を踏み出した。

そこには、新しい生き方、新し関係性、新しい領域があり、すべての争いや対立や敵意が終了した、新たな世界が始まっていたのである。

多分、それが、当ブログを巡る訴訟の結審の日に、おぼろげながら見えていた神聖な光景なのだろうと思う。

まだまだ多くの未解決の問題があって、筆者は奮闘を続けなければならないが、筆者にはようやく分かった。解決は、裁判官や、筆者よりも強そうに見える様々な指導者、権威者から来るのではなく、他でもない筆者自身の中にあるのだと。

誰一人、筆者以上に、筆者が辿って来た人生や、遭遇した出来事について、正しい認識と判断を打ち立てられる者はおらず、他者に判断を委ねるよりも、自分自身で、結論を導き出して行くことの方が、はるかに有益であり、確実な解決なのだと。
 
当ブログを巡る訴訟では、担当してくれた裁判官は、筆者の主張を疑わず、信じてくれて、可能な限りの解決を模索してくれたが、その解決の最高の形態は、全員が協力して紛争を終わらせるという同じ目的へ向かった、あの日に見えた何かなのかも知れないと思わされる。

それゆえ、筆者には、結審の日が、神聖な儀式のように尊いものに感じられるのであって、だとしたら、その時に得た教訓を、今度は、筆者自身が判断する側に立つことによって、活かさねばならない。
   
こうして、干潟は、いつの間にか、筆者自身の内側に移行し、筆者自身が、人々を生かすための判断を下すべき立場に立たされていた。
 
このように、立ち上がって、自ら判断することができるはずだという気づきを得たのも、それが起きるまで、忍耐強く筆者を待っていてくれた人々がいるためである。
  
筆者が黙っていると、筆者の意見などないも同然とばかりに、自分にとってのみ都合の良い結論を押しつけようと、筆者を無視して、筆者の取り分を勝手に分け合い、あるいは、筆者をさらに黙らせようと、脅しつけたりすることなく、あるいは、筆者を置き去りにして、さっさと先に進んで行こうとしない人たちがいてくれたおかげで、協力して互いを生かし合う関係を打ち立てるという最善の策へと至り着くことが可能となったのである。

何より、すべての人々にへりくだりがあればこそ、そうしたことが可能となったのであろう。
 
気づくと、ないないづくしの制約だらけの環境で、互いに責め合い、罵り合う関係は、はるか後ろに、逃げるように消え去り、筆者を喜んで迎え、尊厳によって包んでくれる、新たな社会、新たな関係性が出現していた。

そこには、貧しさもなく、侮辱もなく、傷つけ合いも、否定もなく、その代わりに、豊かさと、いたわりあいと、完全性があった。

筆者は、新たに踏み出した一歩が、巨大な祝宴へと続く道であり、その道は、天のエルサレムにおける「我が家」にまで、はるかにつながっていることを思う。人々は孤児のようであった筆者を着飾って、栄光に満ちた花嫁のように、新たな家に向かって送り出してくれた。

主イエスは弟子たちに向かって、こう言われた。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:1-4, 12-14)

主イエスは、私たちのために、まことの父なる神の御許に行って、天に住まいをもうけるために、十字架へ赴かれた。主は今も私たちのための住まいを天において準備中である。

だから、私たちも、地上において、神の住まいにふさわしく整えられるために、訓練を受け、神の家として建設されている最中である。
 
私たちの願うこと――それは、私たちのすべてが、孤児とされず、豊かな住まいを得、誰も貧しさや、悲しみや、死に脅かされることなく、十分な豊かさにあずかり、神がまことの主人となって、私たちの守り主となり、私たちを配偶あるものとして、美しく飾って、ご自身の身許に迎えられることである。

その日、その時、すべての戦いが止むだろう。私たちは恥を尊厳で覆われて、安息の中に導き入れられる。すべての罪の痕跡は取り除かれ、死の苦しみはなくなり、罪の債務証書はことごとく破り捨てられ、涙は拭われ、苦しんだ痕跡さえもなくなる。

失敗も、悲しみも、挫折もなく、嘆きも、叫びも聞かれない。もはや、いかなるディスカウントの言葉も発せられない、贖われた完全な新しい人、新しい天と地、新しい社会が出現する。

そこには、一切の罪の痕跡のない、聖なるキリストの花嫁なる教会だけが用意されていて、私たちは欠点のない者として、神に迎えられる。

私たちは、そういう日に向かっており、その日が近く、確かにそば近くまで、やって来ていることを感じる。そして、そのようにして贖われるのは、筆者だけではなく、数えきれない大群のような人々なのである。

それは、筆者の理解を超える出来事である。筆者はこれから起ころうとしていることのスケールを垣間見せられ、それに驚かされている。

暗闇の軍勢の手に渡り、決して解放されることはないであろうと思った人々、二度と取り戻されることなく、再生されることもなく、断絶し、廃棄する以外に方法がないであろうとあきらめた関係に、新たな命が注ぎ込まれる。負であった記憶が、正に塗り替えられ、断絶と離反ではなく、和合と新たな関係性の出発が生まれる。

これまで、筆者だけが自分の手に握りしめていた解放の宣言は、筆者の手からもぎ取られるようにして、他の人々に渡された。それを待っていた多くの人たちがおり、その人々が、筆者の前で、筆者と同じように、まるで神に贖われるように、人としての尊厳を回復されて、新たに造り変えられて、完全な者として筆者の目の前に立たされるのを見た。
 
そこには、敵はもういない。紛争もなければ、サタンとの終わりなき論争、嘘や詭弁、不当な死の宣言、騙しや、ディスカウントの言葉はない。

そこには、人をディスカウントするものは何もなく、ただ罪から贖われ、清められ、完全とされて、神と和合したただ一人の人がいるだけである。
 
筆者は、そのような世界が、手の届くほど近くに見えていること、筆者さえ了承すれば、それがすぐにやって来ること、しかし、そこへ至るためには、非常に多くの苦しみと、へりくだりを経なければならないこと、自分を低くした者だけが、そこへ至り着くことを知らされ、贖われて取り戻された人たちが、どれほど美しいものであるかを見て、言葉を失っている。

これがおそらく干潟の効果なのであろう。筆者だけが、自由になり、解放を得て、花嫁のように飾られるのではなく、人々も同じように、花嫁のように飾られて、新たにされる時がやって来た。告発や、罪のなすり付け合い、断罪、断絶、離反から一切解放されて、自由になった人々の美しさを見るとき、筆者はそこに働く解放のわざの大きさに心を打たれずにはいられない。

自分のためだけではなく、人々が解放されたことの喜びの前に、えも言われぬ感動を覚えたのである。

それが、新しい関係性の始まりであった。

神は最も無用で、役に立たない、廃棄するしかない材料を用いて、新たな尊い器を作られる。その砕けた破片とは、筆者自身のことでもある。

己が罪のために打たれて、粉々に砕け散り、互いに全く役に立たなくなった者同士が、互いを傷つけ合い、罵り合い、否定し合っているのが、いわば、人類社会だと言えよう。

だが、神は人が息に過ぎず、その人生が一瞬で過ぎ去るに過ぎないことを知っておられ、人間が自力では罪を贖うこともできず、命にもたどり着けないという、途方もない苦しみを負っていることも知っておられ、それゆえ、神は人の罪を人自身に負わせることをよしとされず、砕けた器の破片を丹念に綴り合せて、新たに命を吹き込み、尊い役に立つ器へと造り変えるために、その手に取られた。

筆者が造り変えられることができるなら、同じ恵みにあずからない存在があるはずもない。筆者が取り戻されることを信じて、根気強く待ち続けてくれた人々の存在があることを知ったとき、筆者自身も、人々が自分と同じように取り戻され、回復されるために労しなければならないことを知った。それこそが、筆者の下すべき正しい判断であり、筆者の仕事であり、そこに命の法則が働くことを知らされたのである。
 
「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」との宣告は、筆者に向けられた言葉であるばかりでなく、筆者自身も、他の人々に同じ解放の宣言を告げて、人を自由にする力を持っていることが分かったのである。
 
だから、間もなく、もはやこれまでのように、誰か強そうな人たちを探して来ては、彼らに物事を決めてもらわなくても良い時が来るだろう。そして、私たちは、手を携えて、同じ祝宴に向かう。いつしかそれはしゅろの葉を手に持ち、白い衣を着た大群衆となる。

人を罪から救い出し、死の力から解放し、すべての敵意の隔てを取り除く宣言の、いかに絶大なものであるか。その最高の形は、カルバリの十字架であるが、地上で行われるささやかな宣言であっても、そのひな型となるものは、神聖と言って良いものであり、筆者の小さな人生のスケールを打ち破って、圧倒的な解放の力を発揮する。
 
その宣告は、他でもない筆者自身が作り出すものなのである。地上では、取るに足りない、忘れられ、かえりみられもしない筆者のような人間が、何を赦し、何を赦さないでおくかが、それほどまでに重要な深い意味を持ち、人々の心を束縛から解放し、尊厳を回復するかどうかの鍵を握っている。

人が罪から解放され、告発から解放されて、自由とされ、尊厳に覆われる瞬間を見、また、その圧倒的な効果が、筆者自身にも波及して、筆者の尊厳をも回復するのが分かったとき、何か非常に新しい、とてつもないことが、これから筆者の人生で始まろうとしているのを、感じないわけにいかなかった。
 
以前から述べている第二の人生、第二のミッションが本格的に始まったのである。人を命に至らせるための法則性が分かった以上、これまでと同じような堂々巡りや、失敗は、もはや起きて来ることはないだろう。パイプラインは、確かに稼働し始め、解放の宣言は、筆者だけのものではなく、多くの人たちに共有され始めたのである。

「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(2)ー「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ21:1-14)


さて、このくだりについては様々な解説がすでに存在しているので、注釈を述べるつもりはない。今回、述べたいのは、筆者は「船の右側に網を降ろした」ということである。

日常で頻繁に使用していたある品が壊れ、買い替えのために、店に行ったが、専門店に行っても、長蛇の列。二軒回ったが、どちらも混雑していて、店員から2時間以上の待ちを宣告された。しかも、2時間から3時間待っても、手続きが終わる保証はなく、品ぞろえも悪いため、望みのものが見つかるかも分からない、などと初めから追い返そうとするような予告を受けた。
 
それら二軒の店は、どちらもが、いつ行っても、人件費を節約するためか、慢性的な人手不足の状態にあり、客は2~3時間待たされるのが通常で、混雑状況が改善される見通しもなかった。

そこで、外は炎天下であったが、筆者はためらいなくその店を後にして次の店に向かった。

一体、なぜ市井の人々は、あのように未来の展望のない死の雰囲気の漂う場所で、怒ることも、愛想を尽かすこともなく、まるでそれが当然であると言わんばかりの調子で、何時間も、辛抱強く行列に並んで待ち続けることができるのか、筆者にはまるで理解ができない。

筆者は一分一秒もそこにとどまりたくなかったし、そこで待っていれば何かが進展するとも思わなかったので、車を発車させて、三軒目へ向かった。そこは家電量販店である。そこならば、専門店と違い、その日は人々の興味が向かず、行列がなく、高圧的で不親切な店員もおらず、目的を遂げられるのではないかという、ちょっとした読みがあった。

幸いなことに、読みは的中した。その日、その店に、客は筆者の他に誰一人いなかったのである。そういうわけで、2時間も待ちぼうけをさせられていれば、何一つ完了できなかったはずの手続きを、2つも3つも終えて、店を出ることできた。

神は不思議なお方だと思った。どこへ行っても、待つのが当然と宣告されたが、筆者はそれを信じなかった。たかが2~3時間も待てないのか、何と短気なことか、などと言う人もあるかも知れないが、その2~3時間を使って、どれほどのことができるか、筆者は知らないわけではない。
 
「求めなさい、そうすれば与えられます。」「捜しなさい、そうすれば見つかります。」とある通り、あきらめずに探せば、心にかなうものは必ず見つかる。同じ手続きをするにしても、くたびれるまで待たされた挙句、ぞんざいな対応に情けなく惨めな思いをさせられながらではなく、心行くまできちんと説明を受けて、納得した上で、充実した時間を過ごすことが可能なのだ。やはり、自分の心にかなうものを探し出すまで、決して妥協したり、あきらめてはいけないと思った。

閉ざされている扉ではなく、開いている扉へ向かって進まねばならない。

だが、開いている扉を見つけるためには、世間の人々と、少し違った角度からものを考えなくてはならない。大勢の人たちが向かう「広き門」へ向かって、皆と同じ行列に並んでいたのでは駄目なのである。

知名度や、看板などに欺かれるのでなく、人の知らない道、踏み固められていない道、しかし、真実であって、偽りのない、誠実さの伴う道を探さなくてはいけない。

多分、その法則はおそらくあらゆることに当てはまるだろうという気がした。筆者は、控訴理由書を書きながら、本当に、プロテスタントという宗教とは(カトリックもそうだが)もはや、永久にさよならだと思わずにいられない。

筆者はキリスト教徒であるのに、キリスト教徒から見れば、異端に当たる宗教の信者が、プロテスタントの牧師から、カルト被害者救済活動(強制脱会活動)の対象とされて、著しい人権蹂躙を受けたなどということを、訴訟で主張せざるを得なくなっていることを極めて皮肉に思う。

筆者は他宗教の信者を改宗させることを目的に、プロテスタントの牧師らが信者らを拉致監禁してまで説得を行った行為を決して擁護することができない。このようなことは、プロテスタントは、キリスト教全体の名折れでしかない、大変、恥ずべき事柄である。

さらに、そうした牧師たちが、他宗教の信者ではなく、同じキリスト教徒を名乗っていた筆者までも、支持者と一緒になって集団的に攻撃したことは、もはや致命的としか言いようのないミスであり(というよりそれも牧師制度の悪がもたらした必然的な結果なのだが)、彼らの活動が末期状態にあることの証左である。

おそらく、カルト被害者救済活動が筆者に対してなした事柄は、世間に対して、プロテスタントの終焉をはっきりと告げるものとなるだろうと思う。世間はおそらく、これまで他宗教の信者に争いをしかけるだけでなく、ついには同士討ちのような状態に陥り、信者が信者を攻撃し、牧師が信者を徹底攻撃するという結末に至ったこの宗教(プロテスタント)に対して、この先、信用を持たなくなるだろうという気がする。

牧師制度の悪が、カルト被害者救済活動という形になって結実したのである。牧師制度そのものを撤廃せず、自分は信徒に対する搾取をやめないのに、ある牧師が、自分だけは正義の味方のような仮面をつけて、同じ牧師の職にある者を悪としてやっつけて、自分の搾取は正当化しながら、他のカルト化した教会の搾取だけを一方的に非難するというこの運動の自己矛盾が、ついに結局、牧師が信者を、そして信者が信者を滅多打ちに攻撃して排斥するという同士討ちに結びついたのである。

これは宗教を隠れ蓑にした単なる弱い者イジメの構図に他ならない。見る人が見れば、すぐに分かることで、カルトも反カルトも、自分たちの権力を守りたい人々が、自分たちよりも弱く貧しい者たちからの批判を徹底的に踏みにじって潰しているだけのことで、カルト被害者救済活動には、正義など全く存在しない。

カルト被害者救済活動は、異端を取り締まるだとか、カルト化した教会の問題を是正すると言いながら、結局は、牧師制度そのものを温存するための隠れ蓑に過ぎず、カルト以上に恐るべき腐敗を内に秘めた、プロテスタントのすべての害悪を結晶化したような運動である。このような運動が登場してきたこと自体が、プロテスタントの終焉を告げるものである。
   
筆者はこのように混迷を極める有様となったプロテスタントを後にして、組織や指導者に帰属する外側だけのキリスト教を完全に捨て去り、新たな信仰回復運動の只中を生きるために、キリストご自身だけを見上げて、前へ向かって歩いている。
 
いつまでも遅々として進まない行列しか目の前に見えず、数多くの苦労だけがあって、目的地がどこにあるか分からないと感じられる時には、いつも「船の右に網を降ろしなさい」という声が聞こえて来るようだ。
 
「視点を変えなさい。発想を変えなさい。多くの人たちがまだ気づいていないやり方、考えていない新しいアイディアを思い巡らしなさい。踏み固められた道に別れを告げて、新しい方法を採択しなさい。私があなたにそのヒントを与えます・・・」

冒頭の聖書箇所を挙げた出来事が起きたその日、弟子たちは、イエスが十字架で死なれた後、復活されたことは知っていたが、以前のように常に弟子たちと共にいて下さらないので、自分たちにはもはや師がいなくなって、何をすれば良いかも分からなくなったという思いで、もとの職業に戻ろうとしていたのかも知れない。

彼らがどんな気持ちで、漁に出たのかは、書かれてはいないため分からないが、彼らは十字架の死と復活の中に込められたことの意味が分からず、イエスが十字架にかかられる前の生活がなくなってしまったことに困惑し、復活された主イエスが、前のように絶えずそばにおられないことに、言いようのない寂しさを感じていたのかもしれない。

彼らはまだ御霊を受ける前だったので、まだ人間的な観点からしか、十字架の死と復活という出来事をとらえることができなかった。それは彼らの理解を完全に超えており、彼らはこれをどう受け入れるべきかが分からなかった。イエスが彼らを最初に召し出された時に言われた、人間をとる漁師になるとは、どういうことなのか、自分に与えられた召しが何なのかも、未だ理解することができなかったのである。

彼らが漁に出ても、何も取れなかった。弟子たちはもうずっと前に、漁師であることを捨てて、イエスに従っていたのであり、本当は、二度と漁師に戻れるはずがなかったのだが、イエスはどこへ行かれたのか分からず、することもなく、さらに、食べるものもなかった。ペテロたちが、何も見つからないので疲れ果てていた頃、イエスが岸に現れて、舟の右に網を降ろしなさいと言われた。

だが、それは復活のイエスであったので、彼の姿を見ても、弟子たちには、それが誰であるのかがすぐには分からなかった。弟子たちが引き上げられないほどの魚を取って戻って来ると、イエスはすでに火を焚いて魚を焼いておられた。弟子たちのために食事を作っておられたのである。

これは何かしら、私たちの人間的なあがきや、心の紆余曲折が終わるときを、神が辛抱強く、憐れみを持って見守って下さっているような、そんな感じのするエピソードである。

ペテロやトマスらがどういう気持ちで、何を考えながら漁をしていたのかは分からないし、彼らはもしかすると、未だ主イエスの十字架の死という壮絶な出来事のショックから抜け出られず、また、イエスの復活という出来事そのものを、理性ではどうとらえれば良いのかも分からず、困惑していたのかも知れない。

主イエスと弟子たちとの関係は、十字架の死と復活を経て、全くそれまでとは異なるものに変わろうとしていた。だが、新しい関係において、自分たちは何を求められているのか、弟子たちには分からなかったのである。

弟子たちが何を思っていたにせよ、イエスは、彼らの人間的な思いが吹っ切れて、彼らが自分たちの方法を捨て去り、神のご計画に再び目を向けるようになるまで、そばにいて待っておられた。

弟子たちは、主が何を自分たちに願っておられるのか分からず、戻ろうと思えば、漁師に戻れると考えていたのかも知れない。しかし、結果として、漁師に戻ることは不可能になっていたことが分かった。それどころか、弟子たちは、人間的な経験、知識、思いを捨てて、新しい世界観、価値観を受け入れるよう求められていた。復活の命と、それに属する新たな領域、復活の命に伴う新しい秩序である。

彼らがどんなに過去の熟練した経験に従って、自分たちの計画、自分たちの思いに基づき、何かをしようとしても、イエスのまことの命が介在されなければ、すべてが空振りに終わることは避けられない状況となっていたのである。かつては慣れ親しんだ自分たちの職業においても、主がおられなければ、一匹の魚もとれない状況となっていた。

だが、主はどこへ行かれたのか、何を命じておられるのか? 弟子たちは、依然として、イエスが十字架にかかられる前と同じように、自分たちのそばに姿を現して、何かを言って下さらなければ、その御思いを理解することもできず、途方に暮れていた。

しかし、主は姿を現さないだけで、常に彼らのそばにおられたのである。弟子たちのむなしい漁には、主が現れられると、たちまち収穫が豊かに与えられた。それは、弟子たちが昔のように漁師に戻るために与えられた収穫ではなく、信仰によって、新たな収穫を勝ち取ることができるという証であったものと筆者は思う。つまり、イエスが命じられた通り、彼らが人間を採る漁師として、抱えきれないほどの天の収穫を得ることの予表だったのである。

復活後のイエスは、十字架にかかられる前のように、弟子たちと一緒におられ、食事も共にされたが、それでも、イエスと弟子たちの間には、以前にはなかった何かの違い―距離のようなもの―が出来ていた。イエスが持っておられたのは、よみがえりの体で、弟子たちの贖われない体とは異なっていた。弟子たちが、イエスをすぐにそれと見分けられなかったことを見ても、様変わりされていたことが分かる。肉体を持って弟子たちの前に現れられたにも関わらず、何かがはっきりと以前とは違い、復活のイエスは、弟子たちとは異なる法則の中で生きておられたのである。

復活されてから、イエスはそう長い間を弟子たちと共には過ごされず、短い間、よみがえりの姿を現されてから、天に昇られ、父の身元に戻られた。その代わりに、弟子たちに聖霊が与えられた。

弟子たちは復活のイエスを見、それが自分たちが贖われた後の栄光の体であることを見せられたのだが、依然、多くのことが理解できないままであった。それを理解するためには、御霊が必要だった。

おそらく、私たちの思い、感情、計画、生き様のすべてに、御霊による新しい証印が押されねばならない。筆者はその点で、未だ、目の前に、新しいものをはっきりと見てはいない。これは筆者の個人的な人生のことを言うのではない。

キリスト教そのものが、新しい御霊の息吹を与えられなければ、進んで行けないところへ来ているのである。そのことを多くの信者たちは全く考えることなく、古いものにしがみ着いているが、私たちの計画、思い、感情、知識、経験などは、すべて行き詰まりを迎えており、主がそこに新しいアイディアを与えて下さらなくてはいけない時が来ている。そうなって初めて、私たちの死んだ働きに、電源のスイッチが入る。

「船の右に網を降ろしなさい。」と、主イエスが言われた通り、私たちの生活には、全く新しいヒントが与えられなくてはいけないのである。
 
右とは、ただ文字通りに船の右というだけではなく、神の右に座しておられるイエスを見上げなさいという意味にも取れないことはない。

いずれにしても、主を見上げるとき、私たちに新鮮な命の息吹が注ぎ込まれる。そのことは確かである。 そこで、筆者はふと顔を上げる。作らなければならない書面は、あらかた主張を出し尽くしたので、まだ完成してはいないとはいえ、筆者自身にとって、一番、書いていて面白い時期は過ぎた。この作業はある意味、もう終わりを迎えた。

そうなると、次なる新しい話題(話題作りのための話題ではなく、主が導いて下さる新しいテーマ)を見つけねばならない。だが、その新しい話題とは、もはや訴訟という枠組みとは関係のない、別な何かである、という気がしてならない。どう言えばいいのか分からないが、第一審も、第二審も、筆者にとっては極めて重要な戦いではあったのだが、そこを抜け出て、もっと大胆で、もっと革新的で、もっと自由で、飛躍的なアイディアへ至り着かねばならない気がしている。1軒目、2軒目の店を過ぎ去ったならば、3軒目のことを考えてみるべきである。

3軒目は、1軒目、2軒目とは全く異なる新しい発想に立つ場所である。つまり、カルト被害者救済活動やらプロテスタントやら牧師やらとは全く関係のない新しい信仰生活が始まろうとしているのである。そのことが、紛争が決着するよりも前から、筆者の目の前に見えるような気がする。
 
そうして、遠く、遠くへ目をやる。実は、一審が終わった後から、筆者は何かしら今までとは違った出来事が始まるだろうという予感がしてならなかった。今はまだ相変わらずの繰り返しのように見える状況もあれば、閉塞しているように見える事柄もある。紛争は終わったわけではないので、自由はいつになれば訪れるのかと感じられるかも知れない。

だが、それにも関わらず、筆者は、イエスを待ちながら漁をしていた弟子たちと同じように、既知の世界にいるようでありながら、自分が主にあって、未知の展開を待っていることを知っている。
 
もう少しすれば、まるで長蛇の列に並びなさいと言われているような、この不自由な手続き三昧の状況から抜け出せるだろう。そして、法的措置による戦いも終わりを告げて、次なるステージの出来事が始まるだろう。

それは筆者が「プロテスタントに別れを告げた」ことと密接な関係がある。もはやそれは、筆者にとって古き世界となったのであり、そこへは二度と戻れまいし、何かが断ち切れたのである。プロテスタントのみならず、組織、教団、教派、教説、指導者、教えなどに信者が帰属するすべての形式的なキリスト教が、筆者に対して死んだものとなり、終わりを告げるときに来ているのが今なのである。

弟子たちはその日、漁に出ていたが、主イエスと共に信仰によって十字架の死と復活を経由していた。彼らは依然、それまでと同様の考えに基づき、行動しているように見えたものの、深い所では、古き職業に対して死に、古き生き方に対して死に、古き自己に対して死んでいた。そして、彼らはまだ新しい生き方を掴んでいなかったが、それは彼らの心の内側にすでに到来しかかっていたのである。
 
こうして、古きものが過ぎ去り、新しいものが到来しようとしていること分かるに伴い、掲示板も、まるで過ぎ去った過去のように、筆者に手を触れられなくなった。それは、法的措置を取られると分かった人たちが、怯えているというだけが理由ではなく、何か目に見えない隔てが、彼らと筆者を隔てたのだ。追っ手が到達できないところまで振り切ったのである。

次に、筆者をあからさまに攻撃していた牧師やら信者やらが、筆者に到達できない時が来る。そして、彼らと筆者を隔てている隔てとは、結局、エクソダスの壁なのである。プロテスタントと筆者との間に打ち立てられた隔てなのである。

不思議なことに、この壁が、今まだ紛争当事者となって向き合っている人々と筆者との間をさえ、確固として隔てた事実が感じられるのである。そのために、まだ続いている戦いさえ、霊的な次元において決着が着き、筆者はそこから解放されている事実があることをはっきりと知るのである。それはつまり、この紛争が本当に終わりかけていること、筆者の手から離されようとしていることを意味する。

新しい世界は、まだはっきりとは姿を現していないが、復活の命に基づく新しい秩序が到来しつつある。筆者はそこへ向けてドライブをしている。本当は2009年にすでにここへ向かっていたのであるが、随分、長い間、荒野にとどめられた。その頃、戦い方が分かっていなかったので、どのように進路を切り開くべきかを知らず、遅延や停滞のように感じられるものが生じた。だが、目指している約束の土地がある以上、筆者はそこへ向かい続けなくてはならない。

他に誰も客のいない三軒目の店で手続きをしている時、貴重なチャンスが与えられたのだから、ここにある品でぜひとも最後まで手続きを終えねばと思った。あらゆる説明を聞きたいだけ聞いて、順調に手続きが進み、最後に、会員登録をせねば、決済が終わらないと言われた。その時、以前にも会員登録をしたような気がした。様々なことがあったような気がした。だが、情報を検索してもらったが、何も出て来なかった。過去が帳消しにされるがごとく、古い情報がまるごと消え去り、跡形もなくなっていたのである。

その時「すべてが新しい」とい言葉が脳裏をよぎった。神は不思議な方だという気がした。

そういう日が、この先、来るだろう。つまり、我々が本当に復活の領域に達する日が。古いものがすべて過ぎ去り、すべてが新しくなる日が。
 
今、筆者は過去10年間くらいの出来事の記録をカバーした書面を書いているが、おそらくこれを書き上げて、手から離すと同時に、この厭わしい煩わしいすべての事件の記録(記憶)が、まるごと筆者の履歴から消え失せる日が、遠からず来るだろうという予感がする。

第一審の終わりが、そのことを筆者に告げていた。一審判決は、まだ実現を見ていないとはいえ、それは明らかに、筆者とこの紛争との関わりを、一定程度、断ち切ることを告げる宣告であり、霊的な領域においては、筆者に自由を与えるものであった。この先、言い渡される判決は、もっと完全に筆者の存在をこの紛争から断ち切ることであろうと思う。

そうなると、過去が抹消されたに近いことが起きる。そうなる少し前から、筆者の心はおそらく紛争に興味がなくなり、全く別の出来事に熱中し始めることであろう。今はまだ過去の記憶の最後の残りを生きているところであるが、次の瞬間、その最後の残る記憶さえも断ち切られ、「見よ、すべてが新しくなった」と言われる時が来るだろう。

エクソダスが完全に完了し、断ち切れるべきものが最後まで経ち切れる時が近づいている。
 
その時、復活のイエスが弟子たちに収穫を指示し、パンと魚を弟子たちに自ら分け与えられたように、主ご自身が、自ら給仕して、空腹で疲れ切っている弟子たち(筆者を含め)の労苦をねぎらい、新しい命で満たして下さるであろう。そして、私たちが元気を回復した後で、さらなるミッションを与えて下さるものと思う。
 
三軒目の店にたどり着きさえすれば、あとはすべて神の側からなして下さるだろうと思わずにいられない。その「三軒目の店」が最高裁であって、そこまで行かねばならないというならば、筆者はそれに反対するつもりはないのだが(それだけの準備はすでに成し遂げられている)、そうなるまでのどこかの時点で、この紛争は、筆者の手から取り上げられて、筆者の心からも切り離されて、カルバリで信者を不利に陥れるすべての告発が廃棄され、自由と解放が訪れるだろうと思う。

筆者は紛争が長引くだろうという予測を述べているわけではなく、むしろ、その逆に、それだけの期間が過ぎ去る前から、すでにこの問題に決着が着いていること、筆者はただ約束の地へ向かうだけで良いことが感じられると述べているのである。
 
筆者に不当に負わされて来た重荷は、別人に返され、債務は、負うべき人間に返され、主ご自身が、弟子たちをねぎらい、心行くまで給仕して下さることであろう。筆者は、主イエスがパンと魚を取って分かち与えて下さる時を楽しみにしている。そして、それは未来でありながら、同時に今日であることも知っている。

その日、主はただ私たちの労苦をねぎらって下さり、すべての過去を帳消しにして下さるだけでなく、私たちを満ち満ちた命の豊かさに招き入れて下さり、さらに、私たちの姿をも、栄光の主と同じに変えて下さる。

筆者はこの贖いの完成を心に思い、そこにある自由、栄光をもっとよく知りたいと願っている。向かっているのは、贖いの完成、私たちが主の栄光と安息の中に招き入れられ、よみがえりの命の領域を、主と共に生きる約束の地なのである。荒野にいる時に、はるか先に目を凝らして、約束の地を見る。私たちが目指しているものは、今現在、目に見ているものではなく、まだ見ないもの、これから来るべき秩序である。ところが、まだ目に見ていない来るべき秩序が、私たちの只中に、すでに到来していることを知っている。そこに信仰があり、私たちの望みがある。

どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 
そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

* * *



しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

ただ一点、キリスト。

以前にあるキリスト者からよく聞かされた言葉だ。その当時は、標語のようにしかみなしていなかったこの言葉が、筆者にとって、今はもっと深い意味を持つ。

当ブログとブログ主に対するさまざまな人権侵害を理由として筆者が起こしていた裁判が、12月27日に結審した。判決言い渡しは3月末に予定されている。

すでに記して来た通り、この裁判はネット上で起きた紛争処理の一部であり、これに付随して続行しなければならない訴えが複数残されている。そこで、この審理終結をもって事件が完全に終結したわけではない。

だが、今、筆者が書きたいのは、この紛争のために筆者が支払った犠牲のことではなく、むしろ、この事件を通して、神がどれほど筆者を含めた関係者一同に大きな恵みと学びを与えて下さったかということである。
 
今、判決を準備している最中の裁判官の心の静寂を邪魔したくないため、多くのことは書かないが、予め断っておけば、筆者は、 今回の裁判は、教会史の中に刻まれておかしくないほど、深い意義を持つものであり、今回の裁判を担当してくれた裁判官や書記官の名は、私たちクリスチャンの名と並んで、初代教会の時代から現在まで続く目には見えない使徒行伝の記録の中に、永遠に刻みつけられ、神の目に留められるだろうと信じている。

それほど神はこの裁判を通して、我々にお与え下さった救いの確かさを、余すところなく証明して下さったものと筆者は信じている。結審の様子を思い起こすと、今でも心に深い感動が込み上げて来る。

通常、裁判などというものは、原告であれ被告であれ、誰も関わりたくないと願うものであるが、今回の紛争において、筆者は弁論の回を重ねるごとに、裁判官や書記官を近しい存在に感じるようになった。これは、自分の住所の所轄裁判所で訴えを起こすことができる原告の役得のようなものである。

この訴訟においては、弁論のほとんどが電話会議という形で行われた。電話会議は、被告らにとっては遠方の裁判所まで足を運ばなくて良い利点があり、原告にとっては、法廷のような段差や距離感を取り払い、裁判官や書記官と顔と顔を合わせて互いの表情がよく見える近い場所で、リアルに感情を分かち合いながら審理を進められるという利点がある。

そうして回を重ねるうちに、最初は裁判所をただ近寄りがたい場所とみなし、紛争解決の糸口を探していただけであった筆者が、最後には、この事件に関わってくれた全ての人々に対する厚い信頼を持つようになり、最後にはまるでチームワークのような固く緊密な結束・連携により、弁論を終結に至らせることができたのである。判決をまだ聞いていないうちから、筆者は、このような紛争のために労してくれた人々に心からの感謝や敬意を払わないわけにいかない。

今回は、当事者の誰も弁護士をつけなかったことにより、それぞれが本音で心を開いて語り合うことができた。そのおかげで、非常にリアルでドラマチックな展開が生まれたのだと言える。関わった一人一人の正直な心の本音が、裁判所の関係者に至るまで、明らかにされたことにより、事件にふさわしい結論が導き出されるために必要なすべての前提が整えられたのである。

以前にも書いたように、筆者は弁護士という職業を好かない。筆者の弁護者は、今もこれからも見えないキリストただお一人だけで十分であり、もしも今回もこの審理の輪の中に一人でも弁護士が入っていれば、率直な話し合いはたちまち不可能となっていたであろうと思う。

筆者は最後の弁論期日において、電話会議が終了した後、法廷へ移動する前に少しだけ与えられた時間の中で、ちょうど投獄されたパウロが獄吏に向かって福音を宣べ伝えたように、裁判所の人々に対し、筆者を贖って下さった神の福音のはかりしれない意義を伝えることができた。そして、そのことこそ、他のどんな結果にまさって、有益かつ貴い収穫だったのではないかとみなしている。

神はこの事件を通して、御子キリストを通して筆者に与えて下さった贖いがどんなに揺るぎないものであるかを見事に証明して下さった。だから、筆者はこの紛争を提起したことに、何一つ後悔はなく、神に栄光を帰することができたと心から喜んでいる。

しかし、今回の結審を勝ち取るためには、筆者自身にも、己を低くして通らなければならない狭き門があった。

この裁判が始まった時から、裁判官は年度末に異動を予定していることを明かしており、もしも彼に判決を書いてもらいたいならば、我々は年内にすべての弁論を終えて審理を終結させる必要があった。しかし、被告らは反訴を主張して、それを不可能にしようとしていたし、この裁判を結審させて判決を勝ち取るためには、筆者も自分の主張を脇に置いて、個人の利益をはるかに超えたところにある、神の利益のために、身を投げ出すことが必要だったのである。

およそほとんどの裁判は、人権を守る目的のために起こされるものであるが、筆者はクリスチャンとして、この裁判を通して自己の権利だけを主張しようとしているのではなく、私たちのために贖いを成し遂げて下さった聖書の神の正しさを生きて世に証明し、神の利益を擁護するために立たされた。

クリスチャンには、自分の命と引き換えにしてでも、信仰の証しを守り通さなければならない瞬間が存在する。そこで、この裁判を通して、筆者は求められた代価を払うことで、わずかながらも、福音のために命をかけた初代教会のクリスチャンらのような殉教の精神を学ぶことができたものと思う。

キリストこそ私たちの人生の真の主人であり、私たちの全ての全てであり、我々の人権も、幸福も、すべてこの方に由来している。このお方を否定して、私たちにはいかなる命もなければ、権利も幸福もない。当ブログの標題にも引用している以下の御言葉の通り、私たちは代価を払って買い取られたのであり、もはや自分自身のために生きているのではないのである。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(ガラテヤ2:19-21)


私たちはクリスチャンとして、何が聖書の御言葉にかなう真理であって、何がそうでないのかという事実については、決して主張を曲げることも、譲ることもできない。そうは言っても、私たちは自分の主義主張を掲げているのではなく、真理に立つ民として、福音の使徒とされているのであるから、ヨブのように、常に自分をむなしくして全焼のいけにえとして祭壇で焼き尽くされ、自分の主張を神の御前に投げ捨てる覚悟がなければならない。

そこで、裁判官の異動のためにもうけられた制約も、筆者の心を試す良い試金石となった。最後に行われた電話会議では、裁判官と書記官は、筆者をできるだけ早くこの紛争から解放するために、真心をこめて、この日に結審できるためのすべての手筈を予め整えてくれていた。

だが、弁論を終結するためには、あくまで筆者が自分自身を十字架に置くことが最後の決め手としてぜひとも必要だったのである。もしもこの日、筆者が自分の主張に固執し続けていたならば、年内終結というリミットは守れず、筆者は望んでいた判決を得ることもできず、裁判官の交替はやむを得ないものとなっていたであろうと思う。

この日、裁判官は、弁論が始まる前に、被告と口論にならないために、被告の主張を最後まで黙って聞くよう筆者に注意を促した。

さらに、裁判官は被告から締め切りを超えて出された書面があることを説明し、これを受けとるかどうかを筆者に尋ねた。筆者は、締め切りを守らず期日直前に出された書面を受けとりたくないという意向を前々から表明していたが、この日ばかりは、書面を受けとることに同意せざるを得なかった。

その後、書記官が被告らとの電話をつなぎ、裁判官がいつものように陳述扱いにする書面を読み上げ始めた。

筆者は当初、それをうつむいて聞いていた。裁判官が原告の提出した書面について尋ね始めた時も、まだうつむいて返事をしていた。ようやく目を上げようとすると、筆者の視界には、目の前で裁判官が読み上げた書面を手元の書類と照合してチェックをつけている書記官の様子が入りかけた。

筆者が何気なくその様子を見やろうとしたその瞬間、突如、どこからともなく、「いけない!目を上げて裁判官だけを真っすぐに見なさい!」という、まるで叱責のように鋭く厳しい制止の言葉が、筆者の心に飛び込んできたのである。

筆者ははっとして裁判官を見やったが、裁判官は事件のファイルと、陳述扱いにする書類を記載した書面をせわしなく見比べながら読み上げている最中で、以上の制止の言葉が、誰から(どこから)筆者に向けて発せられたのかは分からなかった。

しかし、筆者はこの警告を非常に重要なものと受け止め、それ以後は、しっかりと目を上げて、裁判官の言葉や態度から目を逸らすことなく注目し、ただ裁判官と連携して弁論を終結させることだけにすべての意識を集中した。

裁判官は、これが最後の弁論になることを断った上で、各自に最後の機会として自分の主張を言うよう、一人一人に発言を求めた。「まずは原告から」と、最初に発言を求められた筆者は、即座に、言うべきことは何もないと返答した。すると、被告らも、それに続いて、まるで調子を合わせるように、次々に言うことは何もないと発言し、原告に反訴もしないと答えたのである。
 
筆者の目の前で、書記官が心底、驚いている様子が伝わって来た。何しろ、その一つ前の弁論時には、議論は紛糾して非常に険悪な雰囲気となり、被告らは原告に必ず反訴すると宣言し、裁判官は我々の議論を遮って制止し、電話会議が終わった時、一同は絶望的な雰囲気に包まれ、裁判官は大きなため息をついて、これですべての希望が砕け散った、すべては原告のせいだ、と言わんばかりの表情をしていたのである。

だが、その時、筆者は信仰者として、被告らの反訴の脅しが決して実現しないことをただ一人確実に知っていたので、何とかして筆者のために労してくれている人々の心を取り戻し、絶望感を払拭して、勇気づけねばならないと思い、残された時間で、ほとんど捨て身と言っても良い態度で、すべてのことは想定内であり、どんな結果になろうとも、筆者はそれを身に負う覚悟ができており、反訴であろうと、控訴であろうと、その他の脅しであろうと、何一つ恐れているものはなく、誰の責任にするつもりもないと説明しなければならなかった。

しかも、筆者は、その時、まだすべての主張が言い尽くされたわけではなく、最後の総仕上げが残っているという印象を受けていたので、被告らの憤りを恐れず、最後まで主張を言わせてほしいと裁判官に頼んだのであった。
 
その後、筆者は自分の主張を書面で提出することができたので、最後の弁論では、いかなる主張もしないことを心に決めていた。そして、裁判官も、誰にも追加の主張がないことを確かめると、あっという間に口頭弁論の終結を言い渡した。その際、結審のために必要な最後の手筈までが予めすべて裁判所の側で整えられていたことが鮮やかに証明された。

こうして最後の電話会議は(双方の弁論の)開始からわずか1,2分程度で終了した。見事な連携プレーが成し遂げられて、議論の紛糾もなく、鮮やかに審理が終わった。

議論してはならないという裁判官の忠告がやはり正しかった。筆者は思わず満足の笑みを隠せず、裁判官もほっとして笑顔を見せ、一同、緊張が解けて解放感に包まれた。

しかし、このように息の合った連携は、もしも筆者が少しでも裁判官の判断に不服を感じていたならば、きっと成し遂げられなかったであろうことを疑わない。
 
人間が発したのではないかも知れないあの厳しい制止の言葉は、ほんの一瞬でも、その審理の場で最高の指揮官であり権威者である裁判官から筆者が目を離し、各自の思いがバラバラになったまま審理を進めることの危険性を筆者に告げたものだったように思う。

書記官も多くの配慮をなしてくれ、書類のやり取りはすべて書記官を通して行い、この審理の極めて重要な立会人となっていた書記官は、ついに筆者には親しみ深い、身近な存在になっていた。

とはいえ、この紛争の行く末を決める決定権を持っている存在は、裁判官を置いて他になかったのである。

そこで、権威に服するという点においては、決して覆せない序列がそこにあり、書記官は裁判官の権威に服し、それに従っていた。そこで、筆者も、この序列を壊さず、自分を解放する宣言を下すことのできる唯一の人間だけを真っすぐに見つめ、その発言に耳を澄まさなくてはならなかったのである。
 
筆者には、この事件を担当した担当してくれた裁判官が、この事件をとても深く理解してくれ、これを終結させるためにあらゆる努力を払ってくれていることが、前々からとてもよく分かっていた。だが、それでも、筆者がもしも最後まで自分の主張、自分のポリシーだけにこだわっていたとすれば、裁判官の深い配慮に気づけないまま、むしろ、裁判官に不服を覚えながら、各自の心がバラバラの状態で最後の弁論が行われた可能性がある。

たとえば、裁判官が弁論が始まる前に、筆者の発言に注意を促したことや、筆者が書面の当日受け取りをせざるを得なかったことなどの些細な事柄に、筆者が少しでも気を取られ、それに不満を覚えていれば、以上のような展開もなく、我々には着地点が見つからなくなって、弁論の終結もできなくなっていた可能性がないとは言えない。

つまり、この裁判官に判決を書いてもらいたいという筆者の願いが実現するかどうかは、筆者が彼を信頼してその采配に自分を委ね、その判断に全面的に従うことができるかどうかにかかっていたのである。(だからこそ、最後の弁論では、筆者はすべてを脇に置いて、裁判官を注視しなければならなかった。)

筆者から見て、地上に立てられた裁判官は、見えない裁き主としての神の権威を象徴する存在である。もちろん、すべての裁判官がみな同じような存在であるわけではない。しかし、私たちが地上の裁判官の判断にどのような態度を取るかは、私たちが神の裁きに対してどのような態度を取るかという問題ともどこかで密接につながっているように思う。
 
もしも私たちが、顔を上げて、まっすぐに自分の上に立てられた権威者を信頼して見つめないならば、その行為の中には、何かしら非常に恐ろしい危険が生じ得ることが分かったのである。

創世記において、カインは弟アベルを殺す前に、まず神に不満を抱き、神から目を逸らして、顔を伏せたとある。神の采配に対する不満が、カインの目を神から逸らさせ、顔を伏せさせるという行為につながり、そうして光であるお方から目をそらしたことで、カインの心に暗闇が生まれ、そこに罪が入り込む余地が発生し、彼は罪に誘われるまま、弟を殺したのである。

「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:3-12)

もしも私たちがただの一瞬でも、私たちの最も愛する方、私たちに命を与え、自由を与えることのできる方、私たちを祝福し、あらゆる悪から力強く救い出す権威を持ったお方から目を離し、神に向かって顔を上げることをせず、自分の顔を伏せて、自分自身の思いや、ほかのことに気を取られ始めるならば、その一瞬の気の緩みが原因となり、私たちは神との親しい交わり、神との同労を失い、あっという間に、御心から遠くへ引き離されて、神の御前から退けられてしまいかねない危険を思わないわけにいかない。

筆者はこれまで主に心の姿勢について語って来たのであり、私たちが肉眼で何を見つめるのかという目線の重要性を語ったことはなかった。しかし、私たちの目が何を見つめるのかという問題は、私たちの心の姿勢を如実に表すものであり、非常に重要な問題である。

この審理においては、ただ裁判官だけが、筆者を法的に保護する判決文を書くことができるのであって、他の誰にもその真似をすることはできない。その人物に向かって不服を表明することは、自分を解放する決定を自分で否定し、退けることと同じである。
 
裁判官の割り当ては、原告や被告の希望によって行なわれるものではない。しかし、審理の初めから、筆者にはこの人にはこの事件を理解して解決に導くことが可能であり、この人に判決を書いてもらいたいという願いがあった。そこで、一人の裁判官に判決を書いてもらうために、訴えを分割して他部署に委ねることをも断った。

そこで筆者は、弁論終結のためには、地上の裁判官の考えや判断を尊重してこれに同意し、彼が何を意図し、弁論をどのように導こうとしているのか、まっすぐに裁判官を見つめて、その言葉や表情に注意を払い、これに同意しなければ、次に起きることを予想できず、同じ目的に向かって同労して、自分を解放に至らせるための判決を得ることができなかったのである。

最初は偶然のように始まった人選であり、出会いであったが、弁論の終結が近づくに連れて、裁判官の交替という出来事は、筆者には何としても阻止せねばならない選択肢となって行った。それは筆者が自己の義に固執して正義の判決を失うこととほとんど同じほどの意味を持ち、そこで、裁判官は弁護士でないにも関わらず、筆者は待ち望んでいる判決を得るために、裁判官の判断に完全に同意してこれを受け入れ、彼と同労することが必要不可欠だったのである。

これと同様に、私たちはクリスチャンとして、地上において、絶えず神と同労する必要に迫られている。もしも私たちがその役目を放棄して、最高権威者である神ご自身に不満を抱き、一瞬でも神から目を逸らすならば、私たちは自分をあらゆる悪から救い出すことがおできになる方の力強い決定を見失い、生きる方向性を失って行くことになる。

最後の弁論では、そのような危険はすべて排除されて、鮮やかに審理が終結し、その後、信仰の証しをする時間までも与えられた。筆者は、裁判官や書記官の前で、改めてキリストの十字架の意義を伝え、この裁判が、筆者を贖い出して下さった神の御業を表すものであることを伝えることができたのではないかと思う。

その後、筆者は書記官に伴われて、予め準備が整えられていた法廷に導かれ、すでに法壇に着座して我々を待っていた裁判官に迎え入れられた。その時、ここは筆者が自分を捨てて十字架に服さなければ、決して到達することのできない場所であったことをしみじみと感じた。

この裁判を最後まで遂行するためには、筆者はクリスチャンの一人として、神の御言葉の正しさを公然と証するために、すべての虚偽の脅しに立ち向かって、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。また、自分の心の中で、己を低くして、狭い道を通り、狭き門としての十字架を通らなければならなかった。それができなかったならば、決して到達できなかった場所、得ることのできない決定に、筆者はたどり着いたと感じたのである。

主イエスは言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書 8:34-38)

法廷はしばしば人間のエゴとエゴとがぶつかり合うたけの闘争の場所のように見えるかも知れない。しかし、実際には、そこで人の痛み苦しみの記録にじかに触れ、また、人の魂が切にあえぎ求めている解決に達するためには、それぞれが己を低くして通過せねばならない見えない門が存在する。原告や被告だけが苦しみながら戦っているのではなく、そこに一堂に会するすべての関係者が心に持たなければならない謙遜さが存在する。

法廷では、裁判官は最も高い席に着席し、それよりも一段低い席に書記官が着き、原告や被告などの紛争当事者には、傍聴席と同じ目線の一番低い席が用意されている。裁判官が最も高い席に着くのは、その権威の高さに照らし合わせて当然のことと思われるかも知れないが、その裁判官といえども、決して傲然と上から人々の苦しみを見下ろしているわけではない。

裁判官は退廷するとき、決して傍聴席に背を向けず、法廷を目の前にしたまま退出する。しかも、退出する時に通る扉はかなり低く、背の高い裁判官は、ちょうど法廷に向かってお辞儀をするような恰好で身をかがめて退出せねばならない。

筆者はそれを見るにつけても、裁判官にさえ、法廷に出るためには、己を低くして通過せねばならない狭き門があるのだと感じた。そして、筆者には筆者なりに、この最後のステージに到達するために、身をかがめて通過せねばならない見えない狭い門があった。各自がそれをクリアしなければ、この三者のメンバーで、審理を終結させることはできなかったであろうことを思わされた。

法廷は神聖な儀式の場ではなく、そこにあるのはキリスト者の交わりでもない。しかし、筆者は今、キリスト者の交わりが成立するためには、それに参加する信者らの自己が、ことごとくエクレシアの戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないという、ある信仰者の言葉を思い出さずにいられない。

モーセは燃える芝の前で靴を脱ぐように言われたが、神聖な場所に入るためには、人は自己を焼き尽くされて死を通過していなければならない。今回、法廷においては、死に定められた者が、命を与えられ、贖い出されてゲヘナから連れ戻され、名誉を回復されるという、奇跡のようなことが起き、私たちが信じている神の救いの確かさが、それによって公然と世に証されたわけであるが、それが実現するためには、まず人の自己が低められ、十字架で死に渡されていることが必要だったのである。

こうして、今回の裁判では、その全過程において、神が随所で憐れみに満ちた采配を施して下さり、すべてがドラマチックな展開を辿った。おそらく、このような裁判は他に類例がないもので、一生、忘れることのない意義深い思い出として、関係者の脳裏に刻まれるのではないかと思う。

判決言い渡しの時に、もう一度、彼らと再会することが筆者には許されている。その時、筆者がどうなっているのか、どんな変化が身に起きているのか、それもまた楽しみである。

最後に、筆者はこの裁判を通して、クリスチャンがキリストにあって与えられている絶大な特権のことを思わずにいられない。筆者は教会やクリスチャンを罪に定めるカルト被害者救済活動がなぜ誤っているのかを説明するために、準備書面を作成する過程で、ビュン・ジェーチャン牧師が民事では賠償を命じられたものの、刑事事件では無罪判決を受けたことに触れたが、こうした事例を見るにつけても、ひょっとすると、クリスチャンに有罪を宣告することは、この世の人々には不可能なことなのかも知れないという気がしてならない。
 
信仰の道の途上で足を踏み外すクリスチャンは大勢いるであろうし、そうした信者や、過ちを犯した宗教指導者らが、神の御前で受ける裁きが格別厳しいものとなることも確かであろうが、それでも、私たちは、神が贖われたクリスチャンに罪を宣告できる者は、神ご自身と、福音の使徒以外には誰もいないという厳粛な事実を思わずにいられない。

誰かが福音の使徒とされたことには、それほど人間の理解を超えた神秘があり、神が義とされたクリスチャンに有罪を宣告し、手をかけることは、まさに悪魔(とその代弁者)にしか許されていない所業なのだと言えよう。

そういうわけで、神がキリストの貴い命と引き換えに贖って下さった筆者を告発できる人間は地上には誰もいない、という事実が、またしても公然と証明された。もちろん、筆者を刑事告訴したり、反訴したりできる人間も誰もいないことが。それは筆者が暗闇の勢力から脅される度に、幾度も述べて来た以下の御言葉の通りである。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:33-39)

 
教会とは、キリストの命によって新たに生まれたクリスチャンの総体であり、神が罪赦されて、キリストを通して義と聖と贖いを授けられた人々の集団である。神は地上の脆く弱い存在に過ぎない私たちをお選びになり、私たちをこの世から召し出されて、ご自分の栄光を表すための器とされた。神はこのように弱く脆い存在を通して、ご自分のはかりしれない知恵を、天上のもろもろの支配や権威に対して知らしめようとなさっておられるのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソの信徒への手紙3:10-13)

教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであって、キリストが満ちておられるところである。からだは、かしらであるキリストの思いを体現するためにこの世と接点を持ち、この世と接触する。私たちは、この闇の世において、キリストの栄光を証するための器官として、土の器の中に神のはかりしれない命をいただいて、星のように輝いている。
 
この先、どんなに教会が迫害されようとも、神はなお教会を通して、この世のすべての欺きを超越するご自分の多種多様な知恵を表されるだろう。だから、私たちは苦難を受けても落胆せず、あらゆる試練の中で、さらに一層、信仰を強くして、大胆に御座に進み出て、恵みを受けることができると疑わない。

敵がどんなに激しく活動して、クリスチャンの望みを絶やそうとしても、私たちは、どんな状況でも、神がご自分の栄光を力強く鮮やかに示して下さることを信じており、失望落胆する理由がない。

私たちが見るべきは、ただ一点、キリスト。詩編の中に記されている通り、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、私たちはただキリストだけを一心に見つめ、すべての名にまさる彼の御名を高く掲げ、最高の権威者である神から目を離さない。

私たちはまっすぐに目を上げて、天の御座におられる方に目を注ぎ、神が私たちに何を望んでおられるのかに注目し、その御声に一心に耳を澄ます。

そして、神が私たちがまだ罪人であった時に、私たちを愛して、その独り子を地上に送り、命を捨てて下さったその愛をより深く知り、私たちもそれに同じ愛で応え、身を捧げて生きるために、ルツのように、心の中で愛と真実をもって神への従順を言い表すのである。

もし私たちが己を低くして主と共なる十字架で自分を死に渡すならば、神は私たちが信仰を守り通す上で受けたすべての苦難や損失を、それとは比べものにならないほどに豊かな命によって回復して下さる。

神は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注ぎ、私たちの杯を満たして下さるだろう。

私たちの信じている神のどれほど不思議で偉大なことか。この方に賛美と感謝を捧げ、栄光を帰したい。
  
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。

わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」

* * *

「イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら

 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを超えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを超えて行ったであろう
 驕り高ぶる大水が。
 
 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
 わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。

* * *

「主に依り頼む人は、シオンの山。
 揺らぐことなく、とこしえに座る。
 山々はエルサレムを囲み
 主は御自分の民を囲んでいてくださる。
 今も、そしてとこしえに。

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
 幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

 イスラエルの上に平和がありますように。」

* * *

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 そのときには、国々も言うであろう 
 「主はこの人々に、大きな業をなしとげられた」と。

 主よ、わたしたちのために
 大きな業を成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう。
 主よ、ネゲブに川の流れを導くように
 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩編123-126編)


あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

今週一週間も、またしても、多くの学びある時を過ごした。

このところ毎日のように、暗闇の勢力の圧迫に立ち向かうことを学ばされている。毎日、何も起こらない日がないのである。電車に乗れば、人身事故で大幅な遅延が起きて予定が狂ったり、平穏な朝を迎え、駐輪場にバイクが止めたかと思えば、もう夕方には思いもかけない突風が来て車が倒れている。我が家の鳥たちにも、動物たちにも、日々、様々な変化が起き、油断して隙を作らないように、色々なところに心を配らなければならない。
 
このような種類の圧迫は未だかつてなかったものであり、時が縮まっていることを強く感じざるを得ない。時代が新たなフェーズに入っており、霊的な防衛の盾をはりめぐらさなければならないことを感じる。しかし、こうした圧迫に立ち向かうことは、決して困難ではない。
 
そのために必要なのは、何よりも、周囲でどのような出来事が起きようとも、決して、出来事の表面的な有様に心を奪われて、失望したり、落胆することなく、毅然と心の中で顔をあげて、これらの一つ一つの出来事の只中で、死を打ち破ったキリストの復活の命に立って、死の圧迫を打ち破るために立ち向かうことである。

その中で、「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」と以前に書いた通り、享楽的な生活を送るほどにまで有り余る資産はなくとも、貧しすぎて生きていけないほどの困窮を通らされることもなく、神の守りの中で、自分の資産を心配していちいち数えたりせずとも、必要なものがすべて天から供給されて与えられ、行きづまることがないのを知らされている。
 
多くの信仰の先人たちは、最後のなけなしの資産をもなげうって、主のための奉仕に邁進したが、その中で、彼らは、自分たちの生計を神が不思議な方法で維持して下さったことを証ししている。まさにその通りのことが、筆者の身にも起きており、信仰による明け渡しの度合いは、年々、深まっている。ただぼんやりと「神が守って下さる」と考えるのではなく、筆者の限られた知恵の中に、主が働いて下さり、何をどうすべきか、教えられているがゆえに、守られているのである。

もし上からの知恵がなければ、筆者のように平凡な人間の生活は、昨今の凶悪なご時世の中で、とうに破滅して終わっていたことであろう。それほど不思議な力が臨んで、筆者の生活は守られ、生かされ、支えられているのである。

そこで、筆者は、どんなことでも、神に率直に打ち明けて助けを乞うことをお勧めしたい。

かつて筆者に向かって「神には泣き言であろうと、怒りであろうと、不満であろうと、恨み言であろうと、愚痴であろうと、どんなことでも、正直に思いの丈を打ち明けて、まさに神の胸ぐらをつかむような勢いで直談判することも許されるのですよ。そういう正気さも神は重んじて下さるのですよ」と助言した信者がいた。

その頃から、筆者は、愚痴や弱音や泣きごとのようなことでも、神には恥じることなく率直に打ち明け、解決を得ることを続けて来た。神は真実なお方であるから、私たちが助けを乞うているのに、それを退けたりはなさらない。こうして相談する先があればこそ、筆者は行きづまることがないのである。

だからこそ、筆者は、すべての信者に、自分の主張を神に率直に打ち明けることをお勧めする。

この世でも、自分の権利をきちんと訴えなければ、それが認められることはない。たとえば、裁判は、ただ人が受けた被害を取り返す目的のためだけに起こされるものではない。そもそも、自分がどんな権利を持っているのか、どのような人間であって、どう扱われるのがふさわしいのか、自分自身の完全な権利を自覚することなくして、不当な主張に立ち向かうことは誰にもできない相談である。

筆者がこれまで常にカルト被害者救済活動を批判して来たのは、この活動を支援する人々(カルト被害者を名乗っている人々ではなく、被害者を支援すると表明している人々)が、常に自分には何の弱さも落ち度もなく、困っているのは自分以外の誰か他人であると主張して、いつも他人ばかりを助けようとする一方で、自分は神に助けを求めないためでもある。

一体、彼らはどういう動機から被害者を支援すると言っているのか、定かでない。おそらく、彼ら自身も、どこかの時点で、教会やキリスト教につまずいて、心の傷を負った被害者なのだろうと思われるが、彼らは決して自分の心が傷ついていることを認めず、自分が被害を受けたとは主張せず、自分の弱さ、自分の脆さ、自分の恥、自分の心の傷を、頑なに認めず、覆い隠しながら、傷ついて助けを求めているのは自分ではなく、他の誰かであると言って、常に自分以外の誰かに、自分の弱さを転嫁して、他人を助けることで、自分を救おうとするのである。

だが、それは彼らが自分の真の姿を否定して、自分を救うために行っている代償行為であるから、そのように他者を助けることによって、彼らの傷ついた自己が癒されることは永遠になく、彼らの弱さが取り除かれて、問題が解決することもない。マザー・テレサのように他人を助けていれば、社会からは、善良で思いやり深い人間であるかのように高く評価されるかも知れないが、その一方で、彼らの心の中では、他人を助ければ助けるほど、ますます自己の孤独が深まり、神が分からないという闇が深くなって行くのである。

それは彼ら自身が、常に他人の弱さだけに注目し、決して自分の弱さ、自分の行き詰まり、自分の問題を見ようとしないためである。そうして彼らが神の助けを乞わないので、神ご自身も、彼らから遠のいて行ってしまい、彼らの抱える問題にはいつまで経っても解決が与えられないのである。

それに引き換え、他人がどうあれ、自分の抱える問題を真正面から見据え、自分の問題の解決のために、なりふり構わず、率直に弱さを認めて天に助けを乞うことができる人は、問題から抜け出すスピードも速い。

裁判では、緻密な証拠の裏づけ、法的根拠の裏づけを確保した上で、自分の主張を明白に提示せねばならないが、そのようにして明白かつ合理的に自分の主張を行えば、多くの場合、その主張は認められる。しかし、主張しなければ、初めから願いが認められる見込みもない。

この法則は、霊的な世界においても適用されるのであって、神に対して(もしくはサタンに立ち向かって)、自分の権利がどのようなものであるかを強く主張せず、暗闇の勢力からいわれのない非難を受けても、黙っており、自分の権利を少しも取り戻そうとしない人間は、決して不完全な状態から脱する見込みがないばかりか、いずれその非難が現実になってその人の身に成就してしまうのである。

このことは、悪人に立ち向かって、彼らに自ら報復を加えよと言っているのでは決してない。裁判では主張できない多くの被害がこの世に存在することは確かであり、筆者がここで述べているのは、たとえに過ぎず、何よりも、信者が神に対して自分の弱さを認め、自分の問題を率直に認めて神に打ち明けて、真に完全な人となるために、御言葉が約束してくれている権利に基づき、上からの新たな力を乞い、神に解決を求めることの重要性である。そのように主張する根拠となるのが、真の意味での人権意識なのであり、その人権意識は、聖書の御言葉に立脚するものなのである。

この世の法廷闘争においては、憲法を最高法規として、法が規定する人権の概念に基づき、自己の権利を主張するが、霊的な世界において、我々が自分の権利を主張する根拠となるのは、キリストが獲得された完全な人としての権利である。

我々はキリストの贖いの完全性に立って、これを穢し、否定するすべての主張に立ち向かうのである。

もう一度言うと、筆者がカルト被害者救済活動を決して認めることができないと主張するのは、これまで幾度も述べて来た通り、この活動を支援する人々が、あたかも被害者を助けてやるように見せかけながら、被害者を永久に被害者の鎖につないだまま、栄光を搾取する道具とし、彼らが被害から立ち上がって、神の完全な救い、完全な贖い、完全な回復に到達して自由になることを決して許さないためである。

このような活動は、労働者が手っ取り早く仕事を見つける手助けをしてやるように見せかけながら、労働者の賃金を中間搾取する人材派遣業や、信者が神の御言葉を受けとるためには、牧師の手助けを受けなければならないとする牧師制度によく似ており、要するに、人間の弱みをダシにした霊的中間搾取の手法でしかないのである。

牧師制度は一人一人の信者を、まるで母親の乳房にすがりつく赤ん坊のように、牧師という存在から離れられない依存状態に押しとどめ、決して信者が自立して御言葉の糧を一人で得て咀嚼できる大人に成長することを許さない。そのように信者を霊的な赤ん坊のような弱さの中に閉じ込めることによって初めて、牧師は信徒の弱さに付け込んで、信徒の助け手として、手柄を得ることができる。

同様に、カルト被害者救済活動は、被害者を永久に被害者のままにしておくことによって、初めて被害者を支援する人々に栄光をもたらすのである。

しかし、私たちは、自分が霊的にいつまでも後見人や保護者を必要とする子供ではないことを知っており、不要な松葉杖を捨てて自力で立ち上がる必要がある。いつまでも自分を半人前に押しとどめようとする圧力に屈してはならないのである。

このことは、別なたとえで言えば、最近、自動車業界で起きた完成検査不備の大規模なリコールを思い出させる。そこでは、資格を持たない者が完成検査を行ったため、一度は完全であると宣言されて公道を自由に走っていたはずの車が、リコール対象とされ、再び不完全なものであるかのように検査を受けなくてはならなくなったのである。

私たちはキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることにより、一度限り永遠に罪赦されて、完全な贖いにあずかり、神の目にキリストと同じく完全な人として受け入れられる資格を得たはずである。

それにも関わらず、一体誰が、その贖いが成就した後で、神の贖いには不十分なところがあったかのように、私たちが不完全な人間であるかのように非難して、私たちを罪に定めることができるのであろうか。

もしそんな主張が成り立つならば、神が一度限り永遠に、私たちを完全な存在として受け入れられ、私たちを自由とされた宣言は、間違っていたことになる。そのように一旦、自由が宣言された後で、神の検査は、実は不完全なものであって、私たちは再び、何者かによって、自由を取り上げられ、罪ある不完全な存在であるかのように、再検査の対象とされなければならないのだとすれば、そんな救いに何の価値があるだろうか。

そんなことがあって良いはずがない。神の検査は、真の資格者による検査であるから、その検査に合格した者に、後になって不備が見つかることは絶対にあり得ないのである。それにも関わらず、その検査に不備があったと訴えている者がいるとすれば、それはまさに虚偽であって、「兄弟たちを訴える者」による不当な告発に他ならない。

筆者がこの世の裁判において証明しようとしているのは、まさに以上の事柄なのである。暗闇の勢力は、何とかして神が義とされた者たちを訴えて、再び有罪を宣告しようと願っているが、それは虚偽の訴えであるから、ことごとく打ち破られて、退けられることになる。

神は私たちの潔白を公然と立証して下さる。私たちはリコール対象ではなく、神の目に、いかなる不備も落ち度もない完全な存在として受け入れられている。現実の私たちは、土の器なので、あれやこれやの弱さや、未熟さや、不完全さが見受けられるように思われるかも知れないが、それにも関わらず、私たちに対して神の贖いが及んでおり、神の目には、私たちはキリストと同じ完全な人として受け入れられているのである。

そこで、私たち自身が、自分の表面的な有様にとらわれることなく、自分たちの真の人権(キリストが何者であるかという事実)に立脚して、自分の権利を主張して譲らず、私たちを訴えて再び有罪を宣告しようと願っている暗闇の勢力からのすべての圧迫に対して、毅然と立ち向かって、虚偽の主張を退けなければならないのである。

かつて筆者を刑事告訴すると予告して来た人間がいたが、その計画は、筆者が予想した通り、成就しなかったことを思い出してもらいたい。その者は筆者を罪に問うことができなかったのである。

それと同じように、この度も、裁判の過程で、筆者に対して中傷行為を行っていた一人の牧師が、その記事を自ら取り下げると宣言した。その牧師は、決して自己の過ちを認めたわけではないにせよ、筆者に有罪を宣告して謝罪を迫った自分の主張を押し通すことを断念せざるを得なくなったのである。

このように、筆者を無実にも関わらず罪ある者として訴えようとするすべての主張は、この先も、ことごとく打ち破られて行くであろう。

そして、それは筆者自身だけの力によるものではなく、筆者の弁舌の巧みさや、裁判の風向きによるものでもなく、ただ神の完全な贖いが筆者に臨んでいることの明白な証明なのである。要するに、神が筆者を贖われたのに、その後で、筆者を訴えることのできる人間は、地上には一人もいないという事実が立証されているだけなのである。

しかし、繰り返すが、筆者の外見および地上の人間として筆者が持っている能力は、平平凡凡なものに過ぎず、何の偉大さもきらびやかさもないため、この先も、そのように取り立てて偉大ではない筆者の外なる人の要素だけを見て、筆者を蔑んだり、軽んじようとする人間は現れるかも知れない。

だが、そのようなことも、ほんの表面的な有様に過ぎない。脆く儚い土の器としての信者の外なる人の中に、神のはかりしれない力が働いているのが現実なのであり、その力こそ、キリストの復活の命であり、その力が筆者の朽ちゆく不完全な外なる人を覆っている以上、信者の表面的な有様だけを見て、神が贖われた信徒に挑戦しようとする人間は、結果的にしたたかな敗北を見るだけである。

ところで、話題が変わるようだが、多くのキリスト教徒を名乗る人々が、異端の方向へ逸れて行ってしまうのは、彼らが神を自分が享楽を得て、偉大な存在になるための手段として利用しようとするためである。

聖霊派の集会では、絶え間なく、キャンプやら、聖霊待望集会のような、非日常的で享楽的な催し物が開かれている。筆者は聖霊派には属さないゴットホルト・ベック氏の集会においても、同じように、絶え間なく「喜びの集い」が開かれていることの異常性に、疑問を呈したことがある。

一体、これらのお祭り騒ぎ的イベントは、何を目的として開かれるものなのか? 吟味して行けば、これらのイベントは、みなそれに参加する信者らに、「神」を「体験して味わう」という一種の恍惚体験、享楽的感覚を与えるものであって、信者が「神」を口実にして、神秘体験を通して快感を得るための手段でしかないことが分かるだろう。

信者が神に従う過程で、不思議な出来事は幾度も起きて来るが、しかし、神はあくまで私たちが僕として服し、その命に従うべき主人であって、私たちが快感や満足を得るための手段ではないし、自分を偉大に見せかけるための手段でもない。

それにも関わらず、神を自分が楽しみを得るために、また、自分を偉大な存在とする目的で食する秘密の果実か何かのように扱うならば、たちまち、その信者は異端の方向へ逸れて行ってしまう。それは神と人の主従関係が逆転するためであり、そのような考えはすべて神秘主義から来ている。

そこで、筆者はこれらの恍惚体験をもたらす感覚的享楽をもたらすイベントは、すべて本質的に悪魔的なものであると断言して差し支えないものとみなしている。それが証拠に、こうしたイベントに参加した信者らは、異口同音に、自分たちが他の団体の信者らよりもすぐれて真理を知っており、高みに引き上げられているかのように述べて、他の信者を見下げ、優位を誇るようになる。そのような高慢さが公然と信者らの言動に現れることが、何よりも、これらのイベントが本質的に悪魔的なものであることの明白な証明であると筆者は感じている。

このようにとんでもない思い違いに至って、神を己を偉大とする手段として利用しないためにこそ、神は愛する子供たちに、あえて弱さや、圧迫や、苦難の中を通らせ、私たちが常に自己の限界の中で、率直に神の助けを呼び求めて、上からの力にすがらざるを得ない状況に置かれるのである。

そこで、もしもある信者の生活の中に、全く苦難もなく試練もないのだとすれば、その信仰生活は何かが根本的におかしいのだと断言して構わない。

私たちの外見も、神の助けを得たことにより、立派になったり、偉大になったりするわけではなく、私たちの生活が、神の助けを得たことにより、飛躍的に悩み苦しみの一切から解かれるわけでもない。

むしろ、一つの事件に劇的解決が与えられても、次にそれよりもさらに高度な試練が待ち構えている。神の助けは常に、私たちが頭を低くして、圧迫や蔑みや嘲笑や誤解をも甘んじて受けながら、それでも、それらの圧迫や苦難に信仰によって毅然と立ち向かう時にこそ、与えられる。

繰り返すが、神の御前に私たちが己を低くするとは、私たちが不当な蔑みや嘲笑にいつまでも翻弄されて、どんなに侮辱されても、それに受け身に甘んじることを意味しない。私たちは、不当な訴えには、毅然と立ち向かい、潔白を主張して虚偽を粉砕せねばならない。

しかしながら、それと同時に、私たちが不当な訴えを受けることによってこうむる痛み苦しみは、神の目には、私たちが御前に己を低くして、試練を耐え忍んだことの証として評価されているのであり、私たちがそうした圧迫の中でも、自分を確かに保って、虚偽の訴えに屈することなく、神の贖いの完全に立脚して、御言葉によって神の完全を主張し続けた努力は、天において高く評価されるのである。

こうして、神の偉大な力は、常に私たちの弱さとセットになって働くのであって、私たちの生来の気質として与えられた器用さや、能力、才覚などが、そのまま神の力として働くわけではない。だからこそ、周囲の人々は、私たちを守り、支えている力が、私たち自身に由来する力でないことを知って、これに瞠目し、驚嘆せざるを得ないのである。
  
霊的な法則性は、霊的な事実に従って、自己の権利を主張したものが勝つというものである。主張しなければ、どんな権利も認められない。だが、デタラメな主張でも、主張しさえすれば、認められるというものではなく、私たちは正当な根拠に基づいて、権利を主張しなければならないが、何よりその根拠となるものが、聖書の御言葉なのである。

そこで、筆者は決して自己の権利のためだけに、各種の訴えを出しているわけではない。筆者を贖われた神がどういう存在であるか、神が私たちに約束して下さった御言葉がどれほど確かなものであるかを公然と証明するために、一連の主張を行っているのである。
 
御言葉は、キリストが神の御心を完全に満足させたことにより、御子を信じる私たちも、キリストと同じように、神の目にかなう者とされたと述べている。だからこそ、私たちを訴えることのできる者は誰もいないのである。そして、この御言葉は、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)とある通り、私たちが目の前に見ている天地万物、神羅万象、私たちの朽ちゆく外なる人を含め、すべての滅びゆく目に見える被造物にまさる神の永遠かつ不変の事実なのである。

私たちはキリストのゆえに、律法の要求するすべての厳しい検査に合格して義とされ、自由とされた。それにも関わらず、私たちが再び律法の検査に不合格とされて、リコール対象とされることは決してない。つまり、私たちが公道を思いのまま自由に走る権利は、神に由来するものであるから、私たちに不完全を言い渡してこれを取り上げて、検査対象に引き戻すことのできる者はどこにもいないのである。

冒頭に挙げた御言葉は、前後の文脈を読むと、あたかも悪人に対する寛容さを求めるものであるかのように受け取れないことはないが、筆者は、この御言葉は、信者が、神を信じる人に対しても、そうでない人に対しても、自分に与えられた贖いがどれほど完全なものであるかを絶えず証し続けることの重要性を述べたものであると理解している。

神が完全であるように、私たちも完全な者になるとは、決して私たちが自力で弱さを克服して一切の未熟さや落度のない偉大な存在になろうと努力することを意味せず、ただ私たちが自分がどのような者であれ、どんな状況の只中であろうとも、御言葉の約束に立脚して、自分に与えられた救いの完全さを信じて、神の完全な力が自分を覆うよう、神を信じてより頼むことを意味するだけである。