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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

ただ一点、キリスト。

以前にあるキリスト者からよく聞かされた言葉だ。その当時は、標語のようにしかみなしていなかったこの言葉が、筆者にとって、今はもっと深い意味を持つ。

当ブログとブログ主に対するさまざまな人権侵害を理由として筆者が起こしていた裁判が、12月27日に結審した。判決言い渡しは3月末に予定されている。

すでに記して来た通り、この裁判はネット上で起きた紛争処理の一部であり、これに付随して続行しなければならない訴えが複数残されている。そこで、この審理終結をもって事件が完全に終結したわけではない。

だが、今、筆者が書きたいのは、この紛争のために筆者が支払った犠牲のことではなく、むしろ、この事件を通して、神がどれほど筆者を含めた関係者一同に大きな恵みと学びを与えて下さったかということである。
 
今、判決を準備している最中の裁判官の心の静寂を邪魔したくないため、多くのことは書かないが、予め断っておけば、筆者は、 今回の裁判は、教会史の中に刻まれておかしくないほど、深い意義を持つものであり、今回の裁判を担当してくれた裁判官や書記官の名は、私たちクリスチャンの名と並んで、初代教会の時代から現在まで続く目には見えない使徒行伝の記録の中に、永遠に刻みつけられ、神の目に留められるだろうと信じている。

それほど神はこの裁判を通して、我々にお与え下さった救いの確かさを、余すところなく証明して下さったものと筆者は信じている。結審の様子を思い起こすと、今でも心に深い感動が込み上げて来る。

通常、裁判などというものは、原告であれ被告であれ、誰も関わりたくないと願うものであるが、今回の紛争において、筆者は弁論の回を重ねるごとに、裁判官や書記官を近しい存在に感じるようになった。これは、自分の住所の所轄裁判所で訴えを起こすことができる原告の役得のようなものである。

この訴訟においては、弁論のほとんどが電話会議という形で行われた。電話会議は、被告らにとっては遠方の裁判所まで足を運ばなくて良い利点があり、原告にとっては、法廷のような段差や距離感を取り払い、裁判官や書記官と顔と顔を合わせて互いの表情がよく見える近い場所で、リアルに感情を分かち合いながら審理を進められるという利点がある。

そうして回を重ねるうちに、最初は裁判所をただ近寄りがたい場所とみなし、紛争解決の糸口を探していただけであった筆者が、最後には、この事件に関わってくれた全ての人々に対する厚い信頼を持つようになり、最後にはまるでチームワークのような固く緊密な結束・連携により、弁論を終結に至らせることができたのである。判決をまだ聞いていないうちから、筆者は、このような紛争のために労してくれた人々に心からの感謝や敬意を払わないわけにいかない。

今回は、当事者の誰も弁護士をつけなかったことにより、それぞれが本音で心を開いて語り合うことができた。そのおかげで、非常にリアルでドラマチックな展開が生まれたのだと言える。関わった一人一人の正直な心の本音が、裁判所の関係者に至るまで、明らかにされたことにより、事件にふさわしい結論が導き出されるために必要なすべての前提が整えられたのである。

以前にも書いたように、筆者は弁護士という職業を好かない。筆者の弁護者は、今もこれからも見えないキリストただお一人だけで十分であり、もしも今回もこの審理の輪の中に一人でも弁護士が入っていれば、率直な話し合いはたちまち不可能となっていたであろうと思う。

筆者は最後の弁論期日において、電話会議が終了した後、法廷へ移動する前に少しだけ与えられた時間の中で、ちょうど投獄されたパウロが獄吏に向かって福音を宣べ伝えたように、裁判所の人々に対し、筆者を贖って下さった神の福音のはかりしれない意義を伝えることができた。そして、そのことこそ、他のどんな結果にまさって、有益かつ貴い収穫だったのではないかとみなしている。

神はこの事件を通して、御子キリストを通して筆者に与えて下さった贖いがどんなに揺るぎないものであるかを見事に証明して下さった。だから、筆者はこの紛争を提起したことに、何一つ後悔はなく、神に栄光を帰することができたと心から喜んでいる。

しかし、今回の結審を勝ち取るためには、筆者自身にも、己を低くして通らなければならない狭き門があった。

この裁判が始まった時から、裁判官は年度末に異動を予定していることを明かしており、もしも彼に判決を書いてもらいたいならば、我々は年内にすべての弁論を終えて審理を終結させる必要があった。しかし、被告らは反訴を主張して、それを不可能にしようとしていたし、この裁判を結審させて判決を勝ち取るためには、筆者も自分の主張を脇に置いて、個人の利益をはるかに超えたところにある、神の利益のために、身を投げ出すことが必要だったのである。

およそほとんどの裁判は、人権を守る目的のために起こされるものであるが、筆者はクリスチャンとして、この裁判を通して自己の権利だけを主張しようとしているのではなく、私たちのために贖いを成し遂げて下さった聖書の神の正しさを生きて世に証明し、神の利益を擁護するために立たされた。

クリスチャンには、自分の命と引き換えにしてでも、信仰の証しを守り通さなければならない瞬間が存在する。そこで、この裁判を通して、筆者は求められた代価を払うことで、わずかながらも、福音のために命をかけた初代教会のクリスチャンらのような殉教の精神を学ぶことができたものと思う。

キリストこそ私たちの人生の真の主人であり、私たちの全ての全てであり、我々の人権も、幸福も、すべてこの方に由来している。このお方を否定して、私たちにはいかなる命もなければ、権利も幸福もない。当ブログの標題にも引用している以下の御言葉の通り、私たちは代価を払って買い取られたのであり、もはや自分自身のために生きているのではないのである。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(ガラテヤ2:19-21)


私たちはクリスチャンとして、何が聖書の御言葉にかなう真理であって、何がそうでないのかという事実については、決して主張を曲げることも、譲ることもできない。そうは言っても、私たちは自分の主義主張を掲げているのではなく、真理に立つ民として、福音の使徒とされているのであるから、ヨブのように、常に自分をむなしくして全焼のいけにえとして祭壇で焼き尽くされ、自分の主張を神の御前に投げ捨てる覚悟がなければならない。

そこで、裁判官の異動のためにもうけられた制約も、筆者の心を試す良い試金石となった。最後に行われた電話会議では、裁判官と書記官は、筆者をできるだけ早くこの紛争から解放するために、真心をこめて、この日に結審できるためのすべての手筈を予め整えてくれていた。

だが、弁論を終結するためには、あくまで筆者が自分自身を十字架に置くことが最後の決め手としてぜひとも必要だったのである。もしもこの日、筆者が自分の主張に固執し続けていたならば、年内終結というリミットは守れず、筆者は望んでいた判決を得ることもできず、裁判官の交替はやむを得ないものとなっていたであろうと思う。

この日、裁判官は、弁論が始まる前に、被告と口論にならないために、被告の主張を最後まで黙って聞くよう筆者に注意を促した。

さらに、裁判官は被告から締め切りを超えて出された書面があることを説明し、これを受けとるかどうかを筆者に尋ねた。筆者は、締め切りを守らず期日直前に出された書面を受けとりたくないという意向を前々から表明していたが、この日ばかりは、書面を受けとることに同意せざるを得なかった。

その後、書記官が被告らとの電話をつなぎ、裁判官がいつものように陳述扱いにする書面を読み上げ始めた。

筆者は当初、それをうつむいて聞いていた。裁判官が原告の提出した書面について尋ね始めた時も、まだうつむいて返事をしていた。ようやく目を上げようとすると、筆者の視界には、目の前で裁判官が読み上げた書面を手元の書類と照合してチェックをつけている書記官の様子が入りかけた。

筆者が何気なくその様子を見やろうとしたその瞬間、突如、どこからともなく、「いけない!目を上げて裁判官だけを真っすぐに見なさい!」という、まるで叱責のように鋭く厳しい制止の言葉が、筆者の心に飛び込んできたのである。

筆者ははっとして裁判官を見やったが、裁判官は事件のファイルと、陳述扱いにする書類を記載した書面をせわしなく見比べながら読み上げている最中で、以上の制止の言葉が、誰から(どこから)筆者に向けて発せられたのかは分からなかった。

しかし、筆者はこの警告を非常に重要なものと受け止め、それ以後は、しっかりと目を上げて、裁判官の言葉や態度から目を逸らすことなく注目し、ただ裁判官と連携して弁論を終結させることだけにすべての意識を集中した。

裁判官は、これが最後の弁論になることを断った上で、各自に最後の機会として自分の主張を言うよう、一人一人に発言を求めた。「まずは原告から」と、最初に発言を求められた筆者は、即座に、言うべきことは何もないと返答した。すると、被告らも、それに続いて、まるで調子を合わせるように、次々に言うことは何もないと発言し、原告に反訴もしないと答えたのである。
 
筆者の目の前で、書記官が心底、驚いている様子が伝わって来た。何しろ、その一つ前の弁論時には、議論は紛糾して非常に険悪な雰囲気となり、被告らは原告に必ず反訴すると宣言し、裁判官は我々の議論を遮って制止し、電話会議が終わった時、一同は絶望的な雰囲気に包まれ、裁判官は大きなため息をついて、これですべての希望が砕け散った、すべては原告のせいだ、と言わんばかりの表情をしていたのである。

だが、その時、筆者は信仰者として、被告らの反訴の脅しが決して実現しないことをただ一人確実に知っていたので、何とかして筆者のために労してくれている人々の心を取り戻し、絶望感を払拭して、勇気づけねばならないと思い、残された時間で、ほとんど捨て身と言っても良い態度で、すべてのことは想定内であり、どんな結果になろうとも、筆者はそれを身に負う覚悟ができており、反訴であろうと、控訴であろうと、その他の脅しであろうと、何一つ恐れているものはなく、誰の責任にするつもりもないと説明しなければならなかった。

しかも、筆者は、その時、まだすべての主張が言い尽くされたわけではなく、最後の総仕上げが残っているという印象を受けていたので、被告らの憤りを恐れず、最後まで主張を言わせてほしいと裁判官に頼んだのであった。
 
その後、筆者は自分の主張を書面で提出することができたので、最後の弁論では、いかなる主張もしないことを心に決めていた。そして、裁判官も、誰にも追加の主張がないことを確かめると、あっという間に口頭弁論の終結を言い渡した。その際、結審のために必要な最後の手筈までが予めすべて裁判所の側で整えられていたことが鮮やかに証明された。

こうして最後の電話会議は(双方の弁論の)開始からわずか1,2分程度で終了した。見事な連携プレーが成し遂げられて、議論の紛糾もなく、鮮やかに審理が終わった。

議論してはならないという裁判官の忠告がやはり正しかった。筆者は思わず満足の笑みを隠せず、裁判官もほっとして笑顔を見せ、一同、緊張が解けて解放感に包まれた。

しかし、このように息の合った連携は、もしも筆者が少しでも裁判官の判断に不服を感じていたならば、きっと成し遂げられなかったであろうことを疑わない。
 
人間が発したのではないかも知れないあの厳しい制止の言葉は、ほんの一瞬でも、その審理の場で最高の指揮官であり権威者である裁判官から筆者が目を離し、各自の思いがバラバラになったまま審理を進めることの危険性を筆者に告げたものだったように思う。

書記官も多くの配慮をなしてくれ、書類のやり取りはすべて書記官を通して行い、この審理の極めて重要な立会人となっていた書記官は、ついに筆者には親しみ深い、身近な存在になっていた。

とはいえ、この紛争の行く末を決める決定権を持っている存在は、裁判官を置いて他になかったのである。

そこで、権威に服するという点においては、決して覆せない序列がそこにあり、書記官は裁判官の権威に服し、それに従っていた。そこで、筆者も、この序列を壊さず、自分を解放する宣言を下すことのできる唯一の人間だけを真っすぐに見つめ、その発言に耳を澄まさなくてはならなかったのである。
 
筆者には、この事件を担当した担当してくれた裁判官が、この事件をとても深く理解してくれ、これを終結させるためにあらゆる努力を払ってくれていることが、前々からとてもよく分かっていた。だが、それでも、筆者がもしも最後まで自分の主張、自分のポリシーだけにこだわっていたとすれば、裁判官の深い配慮に気づけないまま、むしろ、裁判官に不服を覚えながら、各自の心がバラバラの状態で最後の弁論が行われた可能性がある。

たとえば、裁判官が弁論が始まる前に、筆者の発言に注意を促したことや、筆者が書面の当日受け取りをせざるを得なかったことなどの些細な事柄に、筆者が少しでも気を取られ、それに不満を覚えていれば、以上のような展開もなく、我々には着地点が見つからなくなって、弁論の終結もできなくなっていた可能性がないとは言えない。

つまり、この裁判官に判決を書いてもらいたいという筆者の願いが実現するかどうかは、筆者が彼を信頼してその采配に自分を委ね、その判断に全面的に従うことができるかどうかにかかっていたのである。(だからこそ、最後の弁論では、筆者はすべてを脇に置いて、裁判官を注視しなければならなかった。)

筆者から見て、地上に立てられた裁判官は、見えない裁き主としての神の権威を象徴する存在である。もちろん、すべての裁判官がみな同じような存在であるわけではない。しかし、私たちが地上の裁判官の判断にどのような態度を取るかは、私たちが神の裁きに対してどのような態度を取るかという問題ともどこかで密接につながっているように思う。
 
もしも私たちが、顔を上げて、まっすぐに自分の上に立てられた権威者を信頼して見つめないならば、その行為の中には、何かしら非常に恐ろしい危険が生じ得ることが分かったのである。

創世記において、カインは弟アベルを殺す前に、まず神に不満を抱き、神から目を逸らして、顔を伏せたとある。神の采配に対する不満が、カインの目を神から逸らさせ、顔を伏せさせるという行為につながり、そうして光であるお方から目をそらしたことで、カインの心に暗闇が生まれ、そこに罪が入り込む余地が発生し、彼は罪に誘われるまま、弟を殺したのである。

「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:3-12)

もしも私たちがただの一瞬でも、私たちの最も愛する方、私たちに命を与え、自由を与えることのできる方、私たちを祝福し、あらゆる悪から力強く救い出す権威を持ったお方から目を離し、神に向かって顔を上げることをせず、自分の顔を伏せて、自分自身の思いや、ほかのことに気を取られ始めるならば、その一瞬の気の緩みが原因となり、私たちは神との親しい交わり、神との同労を失い、あっという間に、御心から遠くへ引き離されて、神の御前から退けられてしまいかねない危険を思わないわけにいかない。

筆者はこれまで主に心の姿勢について語って来たのであり、私たちが肉眼で何を見つめるのかという目線の重要性を語ったことはなかった。しかし、私たちの目が何を見つめるのかという問題は、私たちの心の姿勢を如実に表すものであり、非常に重要な問題である。

この審理においては、ただ裁判官だけが、筆者を法的に保護する判決文を書くことができるのであって、他の誰にもその真似をすることはできない。その人物に向かって不服を表明することは、自分を解放する決定を自分で否定し、退けることと同じである。
 
裁判官の割り当ては、原告や被告の希望によって行なわれるものではない。しかし、審理の初めから、筆者にはこの人にはこの事件を理解して解決に導くことが可能であり、この人に判決を書いてもらいたいという願いがあった。そこで、一人の裁判官に判決を書いてもらうために、訴えを分割して他部署に委ねることをも断った。

そこで筆者は、弁論終結のためには、地上の裁判官の考えや判断を尊重してこれに同意し、彼が何を意図し、弁論をどのように導こうとしているのか、まっすぐに裁判官を見つめて、その言葉や表情に注意を払い、これに同意しなければ、次に起きることを予想できず、同じ目的に向かって同労して、自分を解放に至らせるための判決を得ることができなかったのである。

最初は偶然のように始まった人選であり、出会いであったが、弁論の終結が近づくに連れて、裁判官の交替という出来事は、筆者には何としても阻止せねばならない選択肢となって行った。それは筆者が自己の義に固執して正義の判決を失うこととほとんど同じほどの意味を持ち、そこで、裁判官は弁護士でないにも関わらず、筆者は待ち望んでいる判決を得るために、裁判官の判断に完全に同意してこれを受け入れ、彼と同労することが必要不可欠だったのである。

これと同様に、私たちはクリスチャンとして、地上において、絶えず神と同労する必要に迫られている。もしも私たちがその役目を放棄して、最高権威者である神ご自身に不満を抱き、一瞬でも神から目を逸らすならば、私たちは自分をあらゆる悪から救い出すことがおできになる方の力強い決定を見失い、生きる方向性を失って行くことになる。

最後の弁論では、そのような危険はすべて排除されて、鮮やかに審理が終結し、その後、信仰の証しをする時間までも与えられた。筆者は、裁判官や書記官の前で、改めてキリストの十字架の意義を伝え、この裁判が、筆者を贖い出して下さった神の御業を表すものであることを伝えることができたのではないかと思う。

その後、筆者は書記官に伴われて、予め準備が整えられていた法廷に導かれ、すでに法壇に着座して我々を待っていた裁判官に迎え入れられた。その時、ここは筆者が自分を捨てて十字架に服さなければ、決して到達することのできない場所であったことをしみじみと感じた。

この裁判を最後まで遂行するためには、筆者はクリスチャンの一人として、神の御言葉の正しさを公然と証するために、すべての虚偽の脅しに立ち向かって、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。また、自分の心の中で、己を低くして、狭い道を通り、狭き門としての十字架を通らなければならなかった。それができなかったならば、決して到達できなかった場所、得ることのできない決定に、筆者はたどり着いたと感じたのである。

主イエスは言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書 8:34-38)

法廷はしばしば人間のエゴとエゴとがぶつかり合うたけの闘争の場所のように見えるかも知れない。しかし、実際には、そこで人の痛み苦しみの記録にじかに触れ、また、人の魂が切にあえぎ求めている解決に達するためには、それぞれが己を低くして通過せねばならない見えない門が存在する。原告や被告だけが苦しみながら戦っているのではなく、そこに一堂に会するすべての関係者が心に持たなければならない謙遜さが存在する。

法廷では、裁判官は最も高い席に着席し、それよりも一段低い席に書記官が着き、原告や被告などの紛争当事者には、傍聴席と同じ目線の一番低い席が用意されている。裁判官が最も高い席に着くのは、その権威の高さに照らし合わせて当然のことと思われるかも知れないが、その裁判官といえども、決して傲然と上から人々の苦しみを見下ろしているわけではない。

裁判官は退廷するとき、決して傍聴席に背を向けず、法廷を目の前にしたまま退出する。しかも、退出する時に通る扉はかなり低く、背の高い裁判官は、ちょうど法廷に向かってお辞儀をするような恰好で身をかがめて退出せねばならない。

筆者はそれを見るにつけても、裁判官にさえ、法廷に出るためには、己を低くして通過せねばならない狭き門があるのだと感じた。そして、筆者には筆者なりに、この最後のステージに到達するために、身をかがめて通過せねばならない見えない狭い門があった。各自がそれをクリアしなければ、この三者のメンバーで、審理を終結させることはできなかったであろうことを思わされた。

法廷は神聖な儀式の場ではなく、そこにあるのはキリスト者の交わりでもない。しかし、筆者は今、キリスト者の交わりが成立するためには、それに参加する信者らの自己が、ことごとくエクレシアの戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないという、ある信仰者の言葉を思い出さずにいられない。

モーセは燃える芝の前で靴を脱ぐように言われたが、神聖な場所に入るためには、人は自己を焼き尽くされて死を通過していなければならない。今回、法廷においては、死に定められた者が、命を与えられ、贖い出されてゲヘナから連れ戻され、名誉を回復されるという、奇跡のようなことが起き、私たちが信じている神の救いの確かさが、それによって公然と世に証されたわけであるが、それが実現するためには、まず人の自己が低められ、十字架で死に渡されていることが必要だったのである。

こうして、今回の裁判では、その全過程において、神が随所で憐れみに満ちた采配を施して下さり、すべてがドラマチックな展開を辿った。おそらく、このような裁判は他に類例がないもので、一生、忘れることのない意義深い思い出として、関係者の脳裏に刻まれるのではないかと思う。

判決言い渡しの時に、もう一度、彼らと再会することが筆者には許されている。その時、筆者がどうなっているのか、どんな変化が身に起きているのか、それもまた楽しみである。

最後に、筆者はこの裁判を通して、クリスチャンがキリストにあって与えられている絶大な特権のことを思わずにいられない。筆者は教会やクリスチャンを罪に定めるカルト被害者救済活動がなぜ誤っているのかを説明するために、準備書面を作成する過程で、ビュン・ジェーチャン牧師が民事では賠償を命じられたものの、刑事事件では無罪判決を受けたことに触れたが、こうした事例を見るにつけても、ひょっとすると、クリスチャンに有罪を宣告することは、この世の人々には不可能なことなのかも知れないという気がしてならない。
 
信仰の道の途上で足を踏み外すクリスチャンは大勢いるであろうし、そうした信者や、過ちを犯した宗教指導者らが、神の御前で受ける裁きが格別厳しいものとなることも確かであろうが、それでも、私たちは、神が贖われたクリスチャンに罪を宣告できる者は、神ご自身と、福音の使徒以外には誰もいないという厳粛な事実を思わずにいられない。

誰かが福音の使徒とされたことには、それほど人間の理解を超えた神秘があり、神が義とされたクリスチャンに有罪を宣告し、手をかけることは、まさに悪魔(とその代弁者)にしか許されていない所業なのだと言えよう。

そういうわけで、神がキリストの貴い命と引き換えに贖って下さった筆者を告発できる人間は地上には誰もいない、という事実が、またしても公然と証明された。もちろん、筆者を刑事告訴したり、反訴したりできる人間も誰もいないことが。それは筆者が暗闇の勢力から脅される度に、幾度も述べて来た以下の御言葉の通りである。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:33-39)

 
教会とは、キリストの命によって新たに生まれたクリスチャンの総体であり、神が罪赦されて、キリストを通して義と聖と贖いを授けられた人々の集団である。神は地上の脆く弱い存在に過ぎない私たちをお選びになり、私たちをこの世から召し出されて、ご自分の栄光を表すための器とされた。神はこのように弱く脆い存在を通して、ご自分のはかりしれない知恵を、天上のもろもろの支配や権威に対して知らしめようとなさっておられるのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソの信徒への手紙3:10-13)

教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであって、キリストが満ちておられるところである。からだは、かしらであるキリストの思いを体現するためにこの世と接点を持ち、この世と接触する。私たちは、この闇の世において、キリストの栄光を証するための器官として、土の器の中に神のはかりしれない命をいただいて、星のように輝いている。
 
この先、どんなに教会が迫害されようとも、神はなお教会を通して、この世のすべての欺きを超越するご自分の多種多様な知恵を表されるだろう。だから、私たちは苦難を受けても落胆せず、あらゆる試練の中で、さらに一層、信仰を強くして、大胆に御座に進み出て、恵みを受けることができると疑わない。

敵がどんなに激しく活動して、クリスチャンの望みを絶やそうとしても、私たちは、どんな状況でも、神がご自分の栄光を力強く鮮やかに示して下さることを信じており、失望落胆する理由がない。

私たちが見るべきは、ただ一点、キリスト。詩編の中に記されている通り、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、私たちはただキリストだけを一心に見つめ、すべての名にまさる彼の御名を高く掲げ、最高の権威者である神から目を離さない。

私たちはまっすぐに目を上げて、天の御座におられる方に目を注ぎ、神が私たちに何を望んでおられるのかに注目し、その御声に一心に耳を澄ます。

そして、神が私たちがまだ罪人であった時に、私たちを愛して、その独り子を地上に送り、命を捨てて下さったその愛をより深く知り、私たちもそれに同じ愛で応え、身を捧げて生きるために、ルツのように、心の中で愛と真実をもって神への従順を言い表すのである。

もし私たちが己を低くして主と共なる十字架で自分を死に渡すならば、神は私たちが信仰を守り通す上で受けたすべての苦難や損失を、それとは比べものにならないほどに豊かな命によって回復して下さる。

神は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注ぎ、私たちの杯を満たして下さるだろう。

私たちの信じている神のどれほど不思議で偉大なことか。この方に賛美と感謝を捧げ、栄光を帰したい。
  
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。

わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」

* * *

「イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら

 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを超えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを超えて行ったであろう
 驕り高ぶる大水が。
 
 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
 わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。

* * *

「主に依り頼む人は、シオンの山。
 揺らぐことなく、とこしえに座る。
 山々はエルサレムを囲み
 主は御自分の民を囲んでいてくださる。
 今も、そしてとこしえに。

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
 幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

 イスラエルの上に平和がありますように。」

* * *

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 そのときには、国々も言うであろう 
 「主はこの人々に、大きな業をなしとげられた」と。

 主よ、わたしたちのために
 大きな業を成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう。
 主よ、ネゲブに川の流れを導くように
 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩編123-126編)

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あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

今週一週間も、またしても、多くの学びある時を過ごした。

このところ毎日のように、暗闇の勢力の圧迫に立ち向かうことを学ばされている。毎日、何も起こらない日がないのである。電車に乗れば、人身事故で大幅な遅延が起きて予定が狂ったり、平穏な朝を迎え、駐輪場にバイクが止めたかと思えば、もう夕方には思いもかけない突風が来て車が倒れている。我が家の鳥たちにも、動物たちにも、日々、様々な変化が起き、油断して隙を作らないように、色々なところに心を配らなければならない。
 
このような種類の圧迫は未だかつてなかったものであり、時が縮まっていることを強く感じざるを得ない。時代が新たなフェーズに入っており、霊的な防衛の盾をはりめぐらさなければならないことを感じる。しかし、こうした圧迫に立ち向かうことは、決して困難ではない。
 
そのために必要なのは、何よりも、周囲でどのような出来事が起きようとも、決して、出来事の表面的な有様に心を奪われて、失望したり、落胆することなく、毅然と心の中で顔をあげて、これらの一つ一つの出来事の只中で、死を打ち破ったキリストの復活の命に立って、死の圧迫を打ち破るために立ち向かうことである。

その中で、「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」と以前に書いた通り、享楽的な生活を送るほどにまで有り余る資産はなくとも、貧しすぎて生きていけないほどの困窮を通らされることもなく、神の守りの中で、自分の資産を心配していちいち数えたりせずとも、必要なものがすべて天から供給されて与えられ、行きづまることがないのを知らされている。
 
多くの信仰の先人たちは、最後のなけなしの資産をもなげうって、主のための奉仕に邁進したが、その中で、彼らは、自分たちの生計を神が不思議な方法で維持して下さったことを証ししている。まさにその通りのことが、筆者の身にも起きており、信仰による明け渡しの度合いは、年々、深まっている。ただぼんやりと「神が守って下さる」と考えるのではなく、筆者の限られた知恵の中に、主が働いて下さり、何をどうすべきか、教えられているがゆえに、守られているのである。

もし上からの知恵がなければ、筆者のように平凡な人間の生活は、昨今の凶悪なご時世の中で、とうに破滅して終わっていたことであろう。それほど不思議な力が臨んで、筆者の生活は守られ、生かされ、支えられているのである。

そこで、筆者は、どんなことでも、神に率直に打ち明けて助けを乞うことをお勧めしたい。

かつて筆者に向かって「神には泣き言であろうと、怒りであろうと、不満であろうと、恨み言であろうと、愚痴であろうと、どんなことでも、正直に思いの丈を打ち明けて、まさに神の胸ぐらをつかむような勢いで直談判することも許されるのですよ。そういう正気さも神は重んじて下さるのですよ」と助言した信者がいた。

その頃から、筆者は、愚痴や弱音や泣きごとのようなことでも、神には恥じることなく率直に打ち明け、解決を得ることを続けて来た。神は真実なお方であるから、私たちが助けを乞うているのに、それを退けたりはなさらない。こうして相談する先があればこそ、筆者は行きづまることがないのである。

だからこそ、筆者は、すべての信者に、自分の主張を神に率直に打ち明けることをお勧めする。

この世でも、自分の権利をきちんと訴えなければ、それが認められることはない。たとえば、裁判は、ただ人が受けた被害を取り返す目的のためだけに起こされるものではない。そもそも、自分がどんな権利を持っているのか、どのような人間であって、どう扱われるのがふさわしいのか、自分自身の完全な権利を自覚することなくして、不当な主張に立ち向かうことは誰にもできない相談である。

筆者がこれまで常にカルト被害者救済活動を批判して来たのは、この活動を支援する人々(カルト被害者を名乗っている人々ではなく、被害者を支援すると表明している人々)が、常に自分には何の弱さも落ち度もなく、困っているのは自分以外の誰か他人であると主張して、いつも他人ばかりを助けようとする一方で、自分は神に助けを求めないためでもある。

一体、彼らはどういう動機から被害者を支援すると言っているのか、定かでない。おそらく、彼ら自身も、どこかの時点で、教会やキリスト教につまずいて、心の傷を負った被害者なのだろうと思われるが、彼らは決して自分の心が傷ついていることを認めず、自分が被害を受けたとは主張せず、自分の弱さ、自分の脆さ、自分の恥、自分の心の傷を、頑なに認めず、覆い隠しながら、傷ついて助けを求めているのは自分ではなく、他の誰かであると言って、常に自分以外の誰かに、自分の弱さを転嫁して、他人を助けることで、自分を救おうとするのである。

だが、それは彼らが自分の真の姿を否定して、自分を救うために行っている代償行為であるから、そのように他者を助けることによって、彼らの傷ついた自己が癒されることは永遠になく、彼らの弱さが取り除かれて、問題が解決することもない。マザー・テレサのように他人を助けていれば、社会からは、善良で思いやり深い人間であるかのように高く評価されるかも知れないが、その一方で、彼らの心の中では、他人を助ければ助けるほど、ますます自己の孤独が深まり、神が分からないという闇が深くなって行くのである。

それは彼ら自身が、常に他人の弱さだけに注目し、決して自分の弱さ、自分の行き詰まり、自分の問題を見ようとしないためである。そうして彼らが神の助けを乞わないので、神ご自身も、彼らから遠のいて行ってしまい、彼らの抱える問題にはいつまで経っても解決が与えられないのである。

それに引き換え、他人がどうあれ、自分の抱える問題を真正面から見据え、自分の問題の解決のために、なりふり構わず、率直に弱さを認めて天に助けを乞うことができる人は、問題から抜け出すスピードも速い。

裁判では、緻密な証拠の裏づけ、法的根拠の裏づけを確保した上で、自分の主張を明白に提示せねばならないが、そのようにして明白かつ合理的に自分の主張を行えば、多くの場合、その主張は認められる。しかし、主張しなければ、初めから願いが認められる見込みもない。

この法則は、霊的な世界においても適用されるのであって、神に対して(もしくはサタンに立ち向かって)、自分の権利がどのようなものであるかを強く主張せず、暗闇の勢力からいわれのない非難を受けても、黙っており、自分の権利を少しも取り戻そうとしない人間は、決して不完全な状態から脱する見込みがないばかりか、いずれその非難が現実になってその人の身に成就してしまうのである。

このことは、悪人に立ち向かって、彼らに自ら報復を加えよと言っているのでは決してない。裁判では主張できない多くの被害がこの世に存在することは確かであり、筆者がここで述べているのは、たとえに過ぎず、何よりも、信者が神に対して自分の弱さを認め、自分の問題を率直に認めて神に打ち明けて、真に完全な人となるために、御言葉が約束してくれている権利に基づき、上からの新たな力を乞い、神に解決を求めることの重要性である。そのように主張する根拠となるのが、真の意味での人権意識なのであり、その人権意識は、聖書の御言葉に立脚するものなのである。

この世の法廷闘争においては、憲法を最高法規として、法が規定する人権の概念に基づき、自己の権利を主張するが、霊的な世界において、我々が自分の権利を主張する根拠となるのは、キリストが獲得された完全な人としての権利である。

我々はキリストの贖いの完全性に立って、これを穢し、否定するすべての主張に立ち向かうのである。

もう一度言うと、筆者がカルト被害者救済活動を決して認めることができないと主張するのは、これまで幾度も述べて来た通り、この活動を支援する人々が、あたかも被害者を助けてやるように見せかけながら、被害者を永久に被害者の鎖につないだまま、栄光を搾取する道具とし、彼らが被害から立ち上がって、神の完全な救い、完全な贖い、完全な回復に到達して自由になることを決して許さないためである。

このような活動は、労働者が手っ取り早く仕事を見つける手助けをしてやるように見せかけながら、労働者の賃金を中間搾取する人材派遣業や、信者が神の御言葉を受けとるためには、牧師の手助けを受けなければならないとする牧師制度によく似ており、要するに、人間の弱みをダシにした霊的中間搾取の手法でしかないのである。

牧師制度は一人一人の信者を、まるで母親の乳房にすがりつく赤ん坊のように、牧師という存在から離れられない依存状態に押しとどめ、決して信者が自立して御言葉の糧を一人で得て咀嚼できる大人に成長することを許さない。そのように信者を霊的な赤ん坊のような弱さの中に閉じ込めることによって初めて、牧師は信徒の弱さに付け込んで、信徒の助け手として、手柄を得ることができる。

同様に、カルト被害者救済活動は、被害者を永久に被害者のままにしておくことによって、初めて被害者を支援する人々に栄光をもたらすのである。

しかし、私たちは、自分が霊的にいつまでも後見人や保護者を必要とする子供ではないことを知っており、不要な松葉杖を捨てて自力で立ち上がる必要がある。いつまでも自分を半人前に押しとどめようとする圧力に屈してはならないのである。

このことは、別なたとえで言えば、最近、自動車業界で起きた完成検査不備の大規模なリコールを思い出させる。そこでは、資格を持たない者が完成検査を行ったため、一度は完全であると宣言されて公道を自由に走っていたはずの車が、リコール対象とされ、再び不完全なものであるかのように検査を受けなくてはならなくなったのである。

私たちはキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることにより、一度限り永遠に罪赦されて、完全な贖いにあずかり、神の目にキリストと同じく完全な人として受け入れられる資格を得たはずである。

それにも関わらず、一体誰が、その贖いが成就した後で、神の贖いには不十分なところがあったかのように、私たちが不完全な人間であるかのように非難して、私たちを罪に定めることができるのであろうか。

もしそんな主張が成り立つならば、神が一度限り永遠に、私たちを完全な存在として受け入れられ、私たちを自由とされた宣言は、間違っていたことになる。そのように一旦、自由が宣言された後で、神の検査は、実は不完全なものであって、私たちは再び、何者かによって、自由を取り上げられ、罪ある不完全な存在であるかのように、再検査の対象とされなければならないのだとすれば、そんな救いに何の価値があるだろうか。

そんなことがあって良いはずがない。神の検査は、真の資格者による検査であるから、その検査に合格した者に、後になって不備が見つかることは絶対にあり得ないのである。それにも関わらず、その検査に不備があったと訴えている者がいるとすれば、それはまさに虚偽であって、「兄弟たちを訴える者」による不当な告発に他ならない。

筆者がこの世の裁判において証明しようとしているのは、まさに以上の事柄なのである。暗闇の勢力は、何とかして神が義とされた者たちを訴えて、再び有罪を宣告しようと願っているが、それは虚偽の訴えであるから、ことごとく打ち破られて、退けられることになる。

神は私たちの潔白を公然と立証して下さる。私たちはリコール対象ではなく、神の目に、いかなる不備も落ち度もない完全な存在として受け入れられている。現実の私たちは、土の器なので、あれやこれやの弱さや、未熟さや、不完全さが見受けられるように思われるかも知れないが、それにも関わらず、私たちに対して神の贖いが及んでおり、神の目には、私たちはキリストと同じ完全な人として受け入れられているのである。

そこで、私たち自身が、自分の表面的な有様にとらわれることなく、自分たちの真の人権(キリストが何者であるかという事実)に立脚して、自分の権利を主張して譲らず、私たちを訴えて再び有罪を宣告しようと願っている暗闇の勢力からのすべての圧迫に対して、毅然と立ち向かって、虚偽の主張を退けなければならないのである。

かつて筆者を刑事告訴すると予告して来た人間がいたが、その計画は、筆者が予想した通り、成就しなかったことを思い出してもらいたい。その者は筆者を罪に問うことができなかったのである。

それと同じように、この度も、裁判の過程で、筆者に対して中傷行為を行っていた一人の牧師が、その記事を自ら取り下げると宣言した。その牧師は、決して自己の過ちを認めたわけではないにせよ、筆者に有罪を宣告して謝罪を迫った自分の主張を押し通すことを断念せざるを得なくなったのである。

このように、筆者を無実にも関わらず罪ある者として訴えようとするすべての主張は、この先も、ことごとく打ち破られて行くであろう。

そして、それは筆者自身だけの力によるものではなく、筆者の弁舌の巧みさや、裁判の風向きによるものでもなく、ただ神の完全な贖いが筆者に臨んでいることの明白な証明なのである。要するに、神が筆者を贖われたのに、その後で、筆者を訴えることのできる人間は、地上には一人もいないという事実が立証されているだけなのである。

しかし、繰り返すが、筆者の外見および地上の人間として筆者が持っている能力は、平平凡凡なものに過ぎず、何の偉大さもきらびやかさもないため、この先も、そのように取り立てて偉大ではない筆者の外なる人の要素だけを見て、筆者を蔑んだり、軽んじようとする人間は現れるかも知れない。

だが、そのようなことも、ほんの表面的な有様に過ぎない。脆く儚い土の器としての信者の外なる人の中に、神のはかりしれない力が働いているのが現実なのであり、その力こそ、キリストの復活の命であり、その力が筆者の朽ちゆく不完全な外なる人を覆っている以上、信者の表面的な有様だけを見て、神が贖われた信徒に挑戦しようとする人間は、結果的にしたたかな敗北を見るだけである。

ところで、話題が変わるようだが、多くのキリスト教徒を名乗る人々が、異端の方向へ逸れて行ってしまうのは、彼らが神を自分が享楽を得て、偉大な存在になるための手段として利用しようとするためである。

聖霊派の集会では、絶え間なく、キャンプやら、聖霊待望集会のような、非日常的で享楽的な催し物が開かれている。筆者は聖霊派には属さないゴットホルト・ベック氏の集会においても、同じように、絶え間なく「喜びの集い」が開かれていることの異常性に、疑問を呈したことがある。

一体、これらのお祭り騒ぎ的イベントは、何を目的として開かれるものなのか? 吟味して行けば、これらのイベントは、みなそれに参加する信者らに、「神」を「体験して味わう」という一種の恍惚体験、享楽的感覚を与えるものであって、信者が「神」を口実にして、神秘体験を通して快感を得るための手段でしかないことが分かるだろう。

信者が神に従う過程で、不思議な出来事は幾度も起きて来るが、しかし、神はあくまで私たちが僕として服し、その命に従うべき主人であって、私たちが快感や満足を得るための手段ではないし、自分を偉大に見せかけるための手段でもない。

それにも関わらず、神を自分が楽しみを得るために、また、自分を偉大な存在とする目的で食する秘密の果実か何かのように扱うならば、たちまち、その信者は異端の方向へ逸れて行ってしまう。それは神と人の主従関係が逆転するためであり、そのような考えはすべて神秘主義から来ている。

そこで、筆者はこれらの恍惚体験をもたらす感覚的享楽をもたらすイベントは、すべて本質的に悪魔的なものであると断言して差し支えないものとみなしている。それが証拠に、こうしたイベントに参加した信者らは、異口同音に、自分たちが他の団体の信者らよりもすぐれて真理を知っており、高みに引き上げられているかのように述べて、他の信者を見下げ、優位を誇るようになる。そのような高慢さが公然と信者らの言動に現れることが、何よりも、これらのイベントが本質的に悪魔的なものであることの明白な証明であると筆者は感じている。

このようにとんでもない思い違いに至って、神を己を偉大とする手段として利用しないためにこそ、神は愛する子供たちに、あえて弱さや、圧迫や、苦難の中を通らせ、私たちが常に自己の限界の中で、率直に神の助けを呼び求めて、上からの力にすがらざるを得ない状況に置かれるのである。

そこで、もしもある信者の生活の中に、全く苦難もなく試練もないのだとすれば、その信仰生活は何かが根本的におかしいのだと断言して構わない。

私たちの外見も、神の助けを得たことにより、立派になったり、偉大になったりするわけではなく、私たちの生活が、神の助けを得たことにより、飛躍的に悩み苦しみの一切から解かれるわけでもない。

むしろ、一つの事件に劇的解決が与えられても、次にそれよりもさらに高度な試練が待ち構えている。神の助けは常に、私たちが頭を低くして、圧迫や蔑みや嘲笑や誤解をも甘んじて受けながら、それでも、それらの圧迫や苦難に信仰によって毅然と立ち向かう時にこそ、与えられる。

繰り返すが、神の御前に私たちが己を低くするとは、私たちが不当な蔑みや嘲笑にいつまでも翻弄されて、どんなに侮辱されても、それに受け身に甘んじることを意味しない。私たちは、不当な訴えには、毅然と立ち向かい、潔白を主張して虚偽を粉砕せねばならない。

しかしながら、それと同時に、私たちが不当な訴えを受けることによってこうむる痛み苦しみは、神の目には、私たちが御前に己を低くして、試練を耐え忍んだことの証として評価されているのであり、私たちがそうした圧迫の中でも、自分を確かに保って、虚偽の訴えに屈することなく、神の贖いの完全に立脚して、御言葉によって神の完全を主張し続けた努力は、天において高く評価されるのである。

こうして、神の偉大な力は、常に私たちの弱さとセットになって働くのであって、私たちの生来の気質として与えられた器用さや、能力、才覚などが、そのまま神の力として働くわけではない。だからこそ、周囲の人々は、私たちを守り、支えている力が、私たち自身に由来する力でないことを知って、これに瞠目し、驚嘆せざるを得ないのである。
  
霊的な法則性は、霊的な事実に従って、自己の権利を主張したものが勝つというものである。主張しなければ、どんな権利も認められない。だが、デタラメな主張でも、主張しさえすれば、認められるというものではなく、私たちは正当な根拠に基づいて、権利を主張しなければならないが、何よりその根拠となるものが、聖書の御言葉なのである。

そこで、筆者は決して自己の権利のためだけに、各種の訴えを出しているわけではない。筆者を贖われた神がどういう存在であるか、神が私たちに約束して下さった御言葉がどれほど確かなものであるかを公然と証明するために、一連の主張を行っているのである。
 
御言葉は、キリストが神の御心を完全に満足させたことにより、御子を信じる私たちも、キリストと同じように、神の目にかなう者とされたと述べている。だからこそ、私たちを訴えることのできる者は誰もいないのである。そして、この御言葉は、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)とある通り、私たちが目の前に見ている天地万物、神羅万象、私たちの朽ちゆく外なる人を含め、すべての滅びゆく目に見える被造物にまさる神の永遠かつ不変の事実なのである。

私たちはキリストのゆえに、律法の要求するすべての厳しい検査に合格して義とされ、自由とされた。それにも関わらず、私たちが再び律法の検査に不合格とされて、リコール対象とされることは決してない。つまり、私たちが公道を思いのまま自由に走る権利は、神に由来するものであるから、私たちに不完全を言い渡してこれを取り上げて、検査対象に引き戻すことのできる者はどこにもいないのである。

冒頭に挙げた御言葉は、前後の文脈を読むと、あたかも悪人に対する寛容さを求めるものであるかのように受け取れないことはないが、筆者は、この御言葉は、信者が、神を信じる人に対しても、そうでない人に対しても、自分に与えられた贖いがどれほど完全なものであるかを絶えず証し続けることの重要性を述べたものであると理解している。

神が完全であるように、私たちも完全な者になるとは、決して私たちが自力で弱さを克服して一切の未熟さや落度のない偉大な存在になろうと努力することを意味せず、ただ私たちが自分がどのような者であれ、どんな状況の只中であろうとも、御言葉の約束に立脚して、自分に与えられた救いの完全さを信じて、神の完全な力が自分を覆うよう、神を信じてより頼むことを意味するだけである。

御霊に導かれて生きる~悪魔のディスカウントの鏡を否み、神の新しい完全な人であるキリストを着る~

さて、いつの間にやら当ブログと筆者は「聖霊によって歩むクリスチャン」という極めて名誉ある称号を頂戴していたようである。
 
そのことは厳粛な喜びと感動のような感慨を筆者にもたらす。これは冗談や皮肉で言うのではない。なぜなら、この称号の意味は非常に重く、責任が伴い、それだけに、それが暗闇の軍勢から発せられたことは極めて予表的な出来事だと思うためである。

ちょうどイエスの十字架の上に「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていたことを彷彿とさせる。そういう意味で、この表現は筆者の予想を超えて、霊的に栄誉ある称号であり、改めて神に従うキリスト者が誰しも辿らねばならない十字架の道を思わせる。それを理解した上で、心を新たに、主の御前で、御霊に従って生きさせて下さい、あなたに従う道を教えて下さいと厳粛な決意を表明させられるのである。

筆者はかねてより、クリスチャンはみな殉教の覚悟を固めるべきと述べて来たが、「御霊によって歩む」ことには、大きな解放も伴うと同時に、十字架も伴う。それは決して人間にとって好ましい偉大な側面だけを意味しない。代償を払い続ける覚悟がなければ、神に従うことは誰にもできない相談であり、その告白をますます生きて実践的に問われる時代が来ていることを感じる。
 
折しも、ちょうどここしばらくの間、「善悪の路線ではなく、命の御霊の路線によって生きる」というテーマに戻らなければならないと考えていたところだ。

今は地上に「御霊によって歩むクリスチャン」がどのくらいいるのかさえも疑わしい危機的な時代だが、それでも、そのような状況には一切関係なく、もしも個人が心の中で主を見上げ、決して目に目るものによらずに神だけを頼りにして歩むなら、「御霊によって歩く」ことは十分に今日も可能であると確信する。

人には人生で時間をかけて取り組む価値のあることはたくさんあるように見えるかも知れないが、御霊によって、キリストと一つとされて彼の中を歩むことは、他のすべてにまさって価値あることである。そのようにして過ごす短い数日に知る事柄は、人が何十年間かかっても到達することができないほどの深い真理の知識を与える。

聖書の真理は聖霊によってのみ知ることができるものである。真理の啓示には客観的な証明手段が必要とならない。人間が正しい知識を得る際には、必ず、それが正しいものであることを論理的または物的証拠によって証明するための膨大な裏づけが必要となるが、真理に関しては、そのようにして客観的な証拠の積み上げによって、それが真理である(らしい)と証明されるのではなく、神ご自身がそれが正しいことを人の霊の内に直接、啓示して下さるのである。とはいえ、人は霊の内側で知ったことを、魂で再解釈する必要があるので、ただ啓示を受けたというだけでは、たとえそれが神から来たと疑いの余地なく分かっていたとしても、あえてそれを鵜呑みにするのではなく、受けた啓示が正しいものであることを、やはり魂によって吟味し、証明しなければならない。もしそれが真に神から来た啓示であれば、魂による検証作業の過程で、聖書の御言葉との齟齬が出て来ることはない。そうして霊的な事柄を御言葉に照らし合わせて再検証することはどんな場合にも有益である。

御霊の中を歩み続けるならば、絶えず真理を知らされることができるであろうが、残念ながら、クリスチャンは必ず様々な攻撃を受けてそこから逸らされたり、転落させられたりして、御霊によって歩むことの意味を、数々の失敗を通して学ばされるしかない。御霊によって歩むことの学びは一朝一夕では終わらず、まずは、何が自分のアダムの古き命に属するもので、何を十字架において否まなければならないのか、それを知るためだけにも、長い学びの年月がある。

否むべきものが何であるのかが分からなければ、御霊による歩みはほんの一瞬程度しか続かない。神の霊に属するものと、肉に属するものは決して両立しないからだ。人間が天然の魂に従って生きている間は、御霊による歩みは決して続かない。むろん、契約の箱に触れたウザが死んだように、御霊によって歩むことに失敗したからと言って、信者が罰を受けるようなことはないにせよ、信者の命が著しい損傷を受けることは確かである。そして、その損傷の度合いは、信者が御霊の導きを知らなかったときに犯した誤りとは比べものにもならないほどの深刻かつ広範な影響力を及ぼす。ひとたび、神の聖霊と悪魔と暗闇の軍勢との恐るべき戦いの世界に足を踏み入れたならば、霊の世界に生きることが、通常の天然の域をどれほど著しく超えているか、信者は理解しないわけにいかなくなる。それを学ぶためだけにでも、月日がかかるものと思う。
 
だが、今は、天的な領域における霊的戦いについて語るのではなく、一人の人間が自分の思いの中でどうやって天然の衝動を拒んで、御霊に従うことを選択して行くかという話に限りたい。御霊によって歩むとは、キリストの完全の中を歩むことであるが、信者は、キリストの霊によって新しく生まれることを理解して、御霊の導きを見極めようとした瞬間から、思いの中で、激しい戦いが始まる。自分自身の中にある旧創造の命と新創造の命との戦いである。

その戦いに打ち勝つためには、信者が「思いを新しくする」ことが不可欠となる。これは私たちが古いアイデンティティに立って生きるのか、それとも、新しいアイデンティティに立って生きるのか、心の中で起きる激しい戦いのことを示している。

悪魔は新生されたクリスチャンの「思い」に対して攻撃を仕かける。その攻撃の最たるものは「ディスカウント」である。悪魔は別名を「中傷する者(ディアボロス)」と呼ばれ、嘘や、ごまかしや、トリックや、あらゆる禁じ手を使って、何とかして人間の価値を貶めようとする。その方法は、人の思いの中で、その人のイメージを汚すことによる。
 
すでに書いたように、創世記において、悪魔は人類に、神の創造は間違っており、人類は神によって不当に貶められ、制限だらけの劣った存在として造られたかのように嘘を吹き込んだ。

ある意味では、悪魔はその時、自分の手鏡を持って人類の目の前に現れ、その鏡に人類の姿を映し出して見せたのだと言えよう。「ほら、これがあなたの姿ですよ」と、人類の前に、醜く、劣った、傷だらけの、不完全な人類の姿を映し出して見せた。そして、「神はあなたを信用していないから、あなたに対する優位を誇ろうと、わざとあなたを制限の下に置いて、あなたをこんなにも劣って、醜い、弱く、惨めな姿に創造されたのですよ。あなたは自分自身のこんな姿に本当に満足しているんですか。神の決定は不当だと思いませんか。」と問いかけたのである。

悪魔は、このようにして、人類の思いの中で、人類のイメージを汚し、人類が決して神の創造された自分自身の姿に満足できなくなって、その姿を自分で変えなければならいと思い込むように仕向けた。それによって、人類が神に不満を持ち、神を恨むようにそそのかしたのである。人類に神を憎ませ、自分自身を憎ませるためである。

だが、そうして悪魔が映し出して見せた人類のイメージは、悪魔の眼差しという歪んだ鏡に映った映像であったので、人類の真実な姿ではなかった。人間は、神の目に自分がどう映っているかを気にかけるべきであり、悪魔が思い描いた人類の虚偽のイメージに気を取られるべきではなかったのである。

悪魔はこうして人類が創造されたその瞬間から、すでに神と人類とをディスカウントしていたのであって、神を「信用ならない傲慢不遜な存在」とみなした上、人類をも「愚かな神による出来損ないの産物」と見ていた。そして、神と人類との間を引き裂いて、両者の間に不信のくさびを打ち込み、両者を戦わせて相撃ちにさせれば、自分が漁夫の利を得られると考えつつ、人類に近づいたのである。

人類はそのように不当にディスカウントされた像が虚偽であり、悪魔の語りかけは、自分を罠に陥れるための策略であることを理解し、悪魔が提示して来た人類の姿を、自分自身の本当の像として受け入れることを断固、拒否せねばならなかった。しかし、人類がそれを嘘と見抜けず、受け入れてしまった瞬間に、悪魔の嘘はリアリティとなって人類の上に結実し、実際に、アダムの命は限界と弱さの象徴、もっと言えば、死の象徴となってしまった。つまり、堕落が現実に起きる前に、人類は自分は神の御前で何者であるかという認識を、すでに悪魔に奪い取られてしまっていたのである。

ヨブ記では、悪魔はアダムとエバに対して使ったのと似た策略を用いて、義人ヨブをも堕落させようと試みた。悪魔はまずヨブから大事な子供たちを奪い去った上、ヨブにひどい腫れ物をもたらして、彼の外観を別人とみまごうほどに損い、不快な感覚で悩ました。ここでは、悪魔はヨブのイメージをただ彼の心の中だけで傷つけようとしたのではなく、実際に彼の外観を傷つけることで、ヨブが自分は不幸だと嘆いて自己憐憫に沈むよう仕向け、神に対する彼の「思い」を変えようとしたのである。
 
病は悪魔がヨブにもたらした災いのまだ最初の部分であったが、ヨブの妻は、ヨブがそれほど惨めな姿になっても、まだ神を恨んで死のうとしないのを見て、夫を侮蔑した。自分ならば、そんな試練をもたらされれば、とうに神を呪って死んでいただろう、その方が、これほどの屈辱を甘んじて耐え忍ぶよりも、よほど潔いと思ったのだ。

ここに天然の人間特有のものの考え方がある。ヨブの妻の目には、これほど苦しめられても、まだ神の誠実な御心を疑わずにすがっているヨブは、あまりにも愚直すぎ、侮蔑と嘲りの対象でしかなかった。信仰のない生まれながらの人類は、プライドを傷つけられることや、自分が脅かされることに耐えられない。神を信じることよりも、自分の美的イメージを保つことの方がはるかに重要であり、自分のイメージが傷つけ、人前に恥を晒すくらいならば、死を選ぶという人々も少なくない。災いが起これば、早速、「神の祟り」にかこつけ、神に対して自分を被害者とみなし、自らを哀れむばかりか、神を悪罵して死ぬのも当然の権利と考える。彼らの目には、どこまでも正しいのは、自分であって、神ではないのである。

だが、義人ヨブは、天然の人のものの考え方を拒否し、神に対して被害者意識を持つことを強く拒んだ。彼は自分の美的イメージが根こそぎ傷つけられても、神を恨むことはなく、信仰を捨てることもなかった。ある意味で、ヨブは、古き人の中にありながら、信仰によって、すでに「新しき人」であるキリストを見つめていたのである。本当の自分自身は、現実の目に見える古い自分にはなく、神がヨブのために新しい人を用意しておられ、それを上から着ることができると信じていたのである。
 
「 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった
。」(ヨブ記2:1-10)


その後、今度は、友人たちがやって来た。彼らは最初はヨブに同情していたが、ヨブが一向に神を恨まないのを見て、今度はヨブ自身を責め始めた。彼が罪を犯したから当然の罰として災いが降りかかったのではないかというわけだ。その言葉で、友人たちの同情が本物でなかったことが判明した。

ここにも天然の人特有のものの考え方がある。普通の人間は、何かとてつもない災いが、自分以外の誰かに降りかかるのを見ると、必ず「原因探し」をしようとする。まずは神を悪者にした上、人間は弱い者同士として、被害者意識で連帯し、災いに見舞われた人に自分も同じような経験に見舞われる可能性のある人間として同情しようとする。

しかし、彼らは災いの当事者に自分を被害者と考えて神を恨ませることができないと分かれば、今度は災いに舞われた人自身を「タブー」とみなして、その者に原因をなすりつけようとする。彼には何か隠れた問題があって、神に見捨てられたせいでそうなったに違いないと考えて、今度は人間を悪者にして済まそうとする。

結局は、そのどちらの行為も、人間に被害者意識を持たせるために行われていることだ。災いを「神の祟り」とみなして神を恨ませようとすることも、「もし神が原因でないというなら、あなた自身が原因だと認めるんですか」と返答を迫ることも、根本的には同じなのである。どちらを選んでも、しょせん理不尽な答えしか導き出せない、間違った問いの立て方である。実のところ、そこには「サタンが悪い」という選択肢だけが巧妙に抜け落ちているのである。

ヨブは神と人とのどちらの側にも原因を認めなかった。その姿勢の中には神の御思いが反映している。ヨブが見ていたのは、責められるところのない、傷のない、完全な人のイメージである。ヨブは自分の義に固執していたわけではなく、そのずっと先に、キリストを見ていた。神は人間を弱く、劣った、罪深い存在として、理不尽に罰して滅ぼすために創造されたのではない。神はご自分の目にかなう、傷のない被造物として、人間を造られた、そして、人間が罪によって神に離反しても、なお罪から贖うことで、ご自分から離れて行った被造物を取り戻そうとしておられる…、その神の御思いをヨブは一心に見つめてそこから目をそらさなかったのである。

ヨブは自分の姿がどうあるかに関係なく、信仰によって神の御心の中心を掴んでいたのである。むろん、ヨブは最後には神に向かって自分は塵と灰の中で悔い改めますと叫ぶが、それは、ヨブの友人たちが彼を責めたように、自分に非があるために一連の災いがもたらされたと認めるという意味ではない。人間は罪深く、弱く、劣った存在であるがゆえに、神に罰せられても仕方がないと認めるという意味では決してないのだ。

ヨブは義人であったから、責められる理由がなかった。それでも、彼は被造物として創造主の前に頭を下げ、自分の処遇のすべてを神に委ねたのである。それは、彼がたとえどのような目に遭わされ、何が自分に降りかかっても、決して神を加害者とはみなさず、自分を被害者とも思わないという信仰告白の総仕上げであった。むろん、ヨブのこの行為は、罪なくして罰せられた十字架上のイエスの父なる神への従順を予表する。

神の御前で(注意:人の前ではない!)自分の義を捨てるという、神への最後の明け渡しの段階を超えた後で、ヨブには失ったもののすべてが新しくされて取り戻される。それは彼が十字架の死を経て、復活のステージに入ったことを意味する。

今はまだ旧創造が贖われつつある時代なので、聖書では、この復活の領域についてあまり多くのことは明らかになっていない。十字架で死に、よみがえられた後のイエスは、復活の体を持って人々の前に現れられた。その体は、それまでの体とは異なっていた。巨大な墓石をどけてしまったり、大勢の人々の前に一度に現れたりすることのできる、天然の世界を超えたよみがえりの体であった。何よりその体にはすべての古い体を縛っている罪と死の法則が全く働いていなかった。

イエス自身は復活の前も後も変わらない同じ人格を持っておられたが、弟子たちはイエスの姿を見ても、それがイエスであることがすぐに分からないこともあった。イエスは十字架で死なれる前にも、数多くの奇跡を行われたが、死を経てよみがえられた時には、以前とは異なる意味で、この世を完全に超越していた。霊・魂・体のすべてが以前とは異なり、全く新しくされていたのである。
 
私たちは神を信じる者がいずれイエスが復活された時と同じように、新しい贖われた体でよみがえることを知っている。だが、それがどのように栄光ある体であったとしても、おそらく、それが私たちの中心的な関心事にはなるまい。この恵みの時代が通り過ぎた後も、聖書が一貫して中心に据えているのは、依然として「弱さのゆえに十字架につけられた」キリストのままである。すなわち、人としての弱さ、限界、痛み苦しみのすべてを背負いながら、最後まで神に従順であったキリストの偉大な達成の御業のままであろう。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられたましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

さて、悪魔は、すべての物事を「加害者と被害者」というフィルターを通して見つめさせようとする。特に、人間に自分は神の被害者だという思いを吹き込むことが、サタンの主要な仕事である。サタンが人を傷つける方法はたくさんある。その中には、ヨブにもたらされたような災いもあれば、その他の試練や、誘惑や、中傷や、裏切りもある。

だが、サタンの人を傷つける方法がどんなものであれ、それらの目的はただ一つ――人間を思いの中でディスカウントすること――人の思いを攻撃して、自尊心を傷つけ、自分自身を恥じさせ、神を憎ませ、自分を憎ませ、人生を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

私たちは、ペンテコステ・カリスマ運動の中から始まったカルト被害者救済活動の中に、この悪魔的な思考の罠を如実に見ることができよう。すなわち、被害者性と加害者性とはまさに一体であり、本質的に同質のものなのである。自分は被害者だと言っている人たちが、ひとたび状況が変われば、自分たちの心の傷やトラウマを、自分よりも弱そうな誰かをターゲットとして残酷に注ぎ込み、新たな被害者を延々と作り出していく。被害者が被害者で終わらず、その心の傷ある限り、彼らはいつでもどんなにでも恐ろしい加害者になりうることを、この運動ははっきりと物語っている。

つまり、自分を被害者だとみなすことは、悪魔のディスカウントを受け入れることと同じなのであり、さらに言えば、悪魔自身と一体化することをさえ意味する。その被害者意識を通して、神への不満と恨みが人間の思いの中に侵入し、それが傷つけられた自尊心を生み、自分を愛せない心を生み、他者を愛せない心を生んで行く。何よりも、自分と同じような境遇から脱して自由になろうとする人々に対する尽きせぬ妬みが生まれる。自分が被害者意識に縛られているのに、他人だけは自由になるなど許せないという妬みである。

だが、キリスト者は、そんな悪しき思いにとりつかれるよりも前に、まずは自分が見ている自分の像が本物なのかどうかを問わなければならない。自分を何者だとみなすかが、人の人生において決定的に重要な意味を帯びているのであって、何が理由であれ、ディスカウントされた像を自ら受け入れることは、その人の人生を決定的に損なう。

正義はれっきとして神にあり、悪人に対する神の裁きは確かに存在する。剣を取る者は剣で滅び、誰かに対する加害行為に及べば、その人は罰せられる。だが、罪人がふさわしい裁きを受けることと、誰かの不当な行為によって傷つけられた人が、値引きされた自分のイメージを自己の像として受け入れるかどうかは別問題である。ここに「思い」の中での戦いがある。

戦いは難しければ難しいほど面白いと当ブログでは以前に書いた。それは、人には立ち向かうことのできない弱さがあればあるほど、そこに信仰によって神の力が現れる余地が存在するからだ。

サタンは、常日頃から、病や、その他の弱さにひしがれて被害者意識に溺れ、ただ同情を乞うためだけに人々の間を巡り歩いているような信者たちは、とりたててターゲットにもしない。そういう人々は、サタンにとって何の脅威にもならないので、いつまでも弱さの中に閉じ込めておく以外にさしたる攻撃も行わない。

だが、真に束縛から抜け出て自由になって、完全な人間性を取り戻そうとする人々を、悪魔は本気で攻撃の対象とする。特に、人間の作った宗教組織の「和」によるディスカウントの束縛の中から抜け出て自由になることを、悪魔は何としても阻止しようとし、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、復活の領域を歩むようになったクリスチャンを、死にもの狂いでターゲットとする。

しかし、その攻撃の際に悪魔が用いる方法は、古来から同じである。その人の価値をディスカウントし、中傷を真実であるかのように思わせることによって、神に対する人間の思いを汚そうとするのである。問題は、人々が悪魔の中傷にどの程度影響されるかや、世間が何を真実だと思うかではない。重要なのは、人が自分自身について何を真実だと信じるかである。

ところで、かつて世界的に高名なチェリストのロストロポーヴィチがソビエト体制崩壊後に我が国の記者のインタビューに答えてテレビで語っていた内容を思い出す。そこで記者は、ソビエト体制は芸術家の育成に類を見ないほどの力を入れていたことを指摘し、ロストロポーヴィチに向かって、彼がソビエト体制に生まれ、この体制の中で教育を受けたことは、彼の音楽家としての形成に不可欠な要素となっており、彼にはこの体制から受けた恩恵があるのではないか、ソビエトの教育をどう振り返り、どう評価するか、といった趣旨の質問を向けていた。

チェリストはそれに答えて言った、確かに、ソビエト体制は芸術家の育成に心血を注いでいた、だが、その教育には明らかな限界があった。その限界とは、ちょうど庭の芝刈りと同じで、ひとたび芸術家が体制の望む以上に成長を見せ始めると、その芝はたちまち刈られてしまうのだと。要するに、それは管理された教育であって、ある程度までの成長は許されるが、体制が許した限度を超えて成長することは決して許されないのである。

ロストロポーヴィチ夫妻がソビエト体制から迫害を受け、事実上、国外に追放された明らかな原因の一つは、国外で『収容所群島』を発表するなどしてソビエト体制の暗部を告発したために、体制から抑圧されていた作家ソルジェニーツィンを彼ら夫妻が助けていたことであった。1969年頃からロストロポーヴィチ夫妻はソルジェニーツィンをモスクワ近郊の自分たちの別荘に住まわせて経済的に支援し、作家のためにブレジネフに嘆願書を書いたりもしている。そうした振る舞いが原因となって、すでに音楽家として高い名声を獲得していたロストロポーヴィチはソビエト国内でコンサート活動や録音の機会を奪われて行く。

ロストロポーヴィチ一家は1974年にソビエト文化省から公式の許可を受けて長期の海外滞在に赴いたが、彼らが海外に滞在中の1978年、ソビエト国内では『イズベスチヤ』紙に3月16日付で大々的にロストロポーヴィチの反ソ的活動を非難し、彼らのソビエト市民権が剥奪されたと報道する記事が掲載される。(以下の記事断片は Wikipediaから抜粋)

 

M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤ(*妻)は国外に出発した後、ソビエト連邦に帰国したいとの願いを表明せず、反愛国主義的活動を行い、ソビエト社会の秩序とソビエト市民としての名誉を傷つけた。彼らは反ソ的地下組織や、その他のソビエト連邦に敵対する外国の組織を組織的に支援した。1976-77年には、亡命した白系ロシア人(**ソビエト革命を避けて国外亡命したロシア人)の組織を支援するためにコンサートで募金を募るなどしていた。<略>
ロストロポーヴィチとヴィシネフスカヤが、ソヴィエト連邦の威信を損なう、ソビエト市民としてあるまじき活動を組織的に継続していることに鑑み、ソビエト連邦最高会議は1938年8月19日付のソビエト連邦市民権に関する連邦法第7条に基づき、M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤの市民権を剥奪することを決定した。
1978年3月16日付の『イズベスチヤ』紙(NO.63(18823),p.4


 ソビエト体制も、「和の精神」に基づく「大日本帝国」と同じように、神と人類が同一であるというフィクションに基づくグノーシス主義国であった。グノーシス主義とは、聖書の霊なる見えない神を創造主とせず、物質世界の被造物を神とする教えであるから、本質的に唯物論である。ソビエト体制は、グノーシス主義的唯物論に基づき、人類の欲望をあらゆる制約から取り払って、無限に解放することを人類にとっての幸福社会と考え、欲望が無制限に解放される社会の実現を目的に、革命を起こして旧体制を追放し、グノーシス主義理論に基づく国家を建立したのである。ここでは、ちょうどマルクス主義的唯物論が「グノーシス」の役割を果たしている。グノーシス主義思想の中に見られる終わりなき秩序転覆は、マルクス主義を含めたあらゆる弁証法の起源なのである。

グノーシス主義理論に基づいて成立する国家や社会はいずれも、人類を抑圧から解放して自由と幸福を実現するという名目とは裏腹に、必ず恐るべき抑圧を人間にもたらすことになるのだが、むろん、ソビエト体制もその点で全く例外ではない。

これらのグノーシス主義国という抑圧的な体制は、それ自体が、人間をディスカウントする悪魔の「鏡」にたとえられる。

ロストロポーヴィチは国外滞在中に突然、ソビエト体制から事実上の「破門・追放宣言」を受けて、自分たちはもはや人間として生きるに値しない人々になったという宣告を、祖国の新聞雑誌という「鏡」を通して突きつけられた。彼らには母国に帰国する道はもはや絶たれた。だが、国外に旅立つ前から、国内には居場所がなくなっていたことから、やがてはそうなるであろうことを、夫妻は心の中でうすうす予期していたであろう。ソビエト政権は、彼らがあまりにも有名すぎて、ソルジェニーツィン同様、国内で処罰することができないために、このような形で厄介払いしたのである。

ソビエト政権は、ロストロポーヴィチがこの体制の限界と誤りに気づくまでの間は、彼を育成していたかも知れないが、いざ夫妻がこの国の体制が、根本的に人間性に反していることを悟り、政権の許容範囲を超えて活動し始めると、たちまち迫害に転じた。ロストロポーヴィチは、人間とは箱庭に植えられた芝ではないので、自分に備わった自然な命に従って、他の一般的な芝の高さを超えてでも、どんどん成長していくのが当然と考えたが、労働者と農民の国という形を取ったグノーシス主義国は、人間とは箱庭に植えられた芝であって、許された限度以上には決して成長してはならないとみなしていたのである。

一体、どちらの主張する人間の姿が本当なのだろうか? むろん、答えは明らかであろう。刈られた芝草は、ちょうどグノーシス主義のディスカウントの鏡に映し出された人間の姿を示す。ソビエト社会の秩序だとか、市民としての名誉だとかいったものは、みな「和の精神」というフィクションによって生み出される幻想であり、いわば芝草の背丈を示す、草刈機が作動する口実である。「和」を乱す活動は、すべて「罪」であって許されない活動として、草刈機によって排除される。この排除は、グノーシス主義理論に基づく国家や社会であれば、どこでも同じように起きる。

だが、現実の人間は、鏡に映った歪んだ映像とは異なり、未知数の可能性を秘めており、誰かが勝手に定めた芝草の背丈などにおさまりきらない成長を見せる。人間が箱庭の芝草なのではなく、そもそも人間のために庭があるのだ。その人間をどうして芝草同然に扱うことなどできようか。限界ある普通の人間でさえこうなのだから、まして信仰者はなおさらである。こうした国家は現実に逆らい、現実の人間自身を否定して、虚構の上に成り立っているのである。
 
人間は、神に比べれば確かに劣った存在であり、多くの限界と制約を受ける弱い存在である。創造主と被造物との関係は、人間がどんなに偉大に成長したとしても覆せないものであり、人間はどんな方法を使っても神と等しくなることは決してない。しかしながら、そのことは、神の側からの被造物への侮蔑や軽視を示す事実では全くなく、むしろ、事実は正反対である。
 
聖書に話を戻せば、神が人をどれほど重んじておられるかは至る所で分かる。神は人を滅ぼそうと思われる時にも、その計画を決して人に知らせず、突如として実行されることはなかった。ソドムとゴモラの悪を確かめ、これらの町々を滅ぼそうと決められた時にも、神はアブラハムにその旨を告げられた。

「時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」(創世記18:17-19)

神はイスラエルの民が偶像崇拝に陥り、神に背を向けた時にも、幾人もの預言者を遣わし、民に警告された。また、イエスは弟子たちに言われた、わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:14-15)

これらの事実は、神がどれほど人類を重んじて、ご自分の御思いを打ち明け、その実現を人が手伝うことを望んでおられるかということをはっきりと物語っている。神はこの目に見える世界を正しく統治させるために人間を創造されたのである。創造主と被造物との関係は覆せないとはいえ、決して神はご自分の優位性を誇り、人間を自分よりもはるかに劣った存在として貶め、無知にとどめおくために、不当に人間を弱く創造されて、制限をもうけられたわけではない。

しかし、悪魔は、人間に自分の限界だけに目を向けさせ、これを恥じさせることによって、神の御心を見失わせようとした。悪魔は、神は人間を不当に弱く、醜く、劣った存在にとどめおいているのであり、神には人間を信頼するつもりがなく、人間を侮蔑しているからこそ、そうしだのだと人に思わせようとした。人間がそれを真に受ければ、人の内側で神への信頼が失われ、両者の絆が断ち切れることを悪魔は知っていたのである。

それを信じたことは、人間の側のたとえようのない愚かさであったが、それでも、神は人間の犯した罪を人間自身に負わせることを是としなかったがゆえに、キリストを地上に送って贖いの十字架を負わされた。それによって、人類にはキリストによって新しく生まれ、旧創造としての限界を打ち破る可能性が開かれた。悪魔の嘘によって汚されたり、ディスカウントされていない、全く新しい聖なる天と地へ至る道が開けたのである。神はこうして人類を新しい世界へ脱出させることにより、悪魔の嘘によって汚された世界から人類を守り、その本来的な使命を全うさせようと考えられたのである。

キリストの贖いの犠牲によって、悪魔の言い分がどれほど卑劣な嘘であったかが、完膚なきまでに証明された。

にも関わらず、悪魔は今日になってもまだ同じ嘘をつき続けている。悪魔はまずは人間をディスカウントして精神的に抹殺を試み、それでも効き目がない場合には、カインがアベルを殺したように、肉体的抹殺という手段に及ぶ。悪魔の願望が、ただ人間をディスカウントすることにはなく、最終的には殺人にあることは、ここで改めて説明する必要もなかろう。
 
ただし、ディスカウントはそれ自体が精神的殺人であると言える。もしも人が悪魔の吹き込む思いを心の中で受けれれば、必ず、その人は死ぬことになる。殺されずとも、死がその人間の思いの中で働き、その人自身を内側から壊し、いずれ死に赴かせるであろう。

それだからこそ、カルト被害者救済活動は、自殺を罪とみなしていないのである。このことは、彼らが初めから、最終的には、自分たちの陣営に閉じ込めたすべての「被害者」たちを、あからさまに死に至らしめようと積極的に望んでいることをはっきりと物語っている。被害者救済活動という羊頭狗肉の看板は、結局、彼らが被害者として名乗り出て来たすべての人間を永遠に被害者のままにとどめ、ディスカウントの中に隔離して閉じ込めた結果、功を奏することのないむなしい自己改良に延々と取り組ませた結果、絶望して死に至らしめることを目的としていることを物語っている。

神が人類を不当な制約の下に置いたのではなく、悪魔こそ、人類を不当な制約の中に隔離してディスカウントした挙句、死へ追い込むことを願っていた張本人なのである。

だが、大きく見れば、ペンテコステ・カリスマ運動であろうと、キリスト教界であろうと、もしくは以上に挙げた「和の精神」に基づくすべての組織や国家や企業であろうと、あるいはソビエト体制のようなグノーシス主義国であろうと、その悪魔的性質はほとんど変わらない。宗教組織は、人生で様々な悩みや、弱さや苦しみを抱え、人の同情を求めてやって来た人々を、組織の中に束縛し、いつかはその弱さから脱出できるというあらぬ望みと引き換えに、ひたすら献金や奉仕を吸い上げる道具として扱い、彼らが搾取から抜け出せないよう、永久に弱みがなくならないよう、弱さの中に閉じ込める。その構造は、いつかは共産主義ユートピアがやって来るという嘘と引き換えに、国民に赤貧の苦労を耐え忍ばせたソビエト体制と何ら変わらない。

人がその体制の虚偽性に気づいていないうちは、そのような組織の枠組みの中でも、人にはまだ平穏に生きられる道があるかも知れないが、ひとたび、人がその社会が、偽りの希望によって成り立っている死に至るまでの絶望的な隔離病棟も同然であって、その中にいる限り、決して自由は得られず、弱さの克服もなく、絶望と、死が待っているだけであることに気づくと、その瞬間から、「鏡」による残酷な迫害が始まる。激しいネガティブ・キャンペーンが繰り広げられ、中傷によっても抹殺できない人々については、肉体的な迫害も繰り広げられる。

カルト被害者救済活動についても同じである。一体、これまでどれだけの人々が、この活動によって精神的にまた肉体的に追い込まれて殺されて来たことであろう。その人数ははかり知れないことであろう。

現在は皇帝ネロが繰り広げたようなクリスチャンの大規模な抹殺がまかり通るような時代ではないが、戦いは巧妙化しており、今もこれからの時代も、一人一人のクリスチャンに、極めて個人的に厳しい戦いを強いることで、悪魔はクリスチャンへの迫害を強化するであろう。
 
そこで、私たちば常に選択を迫られている。ちょうど我が国で「和の精神」などというものが公に説かれていた時代に、多くの宗教家や思想家が、天皇の前に跪くのか、それとも自分の信仰を貫くのかを問われ、身に危険が及ぶことを恐れて転向するのか、それとも、「非国民」とみなされて迫害の上、獄死する覚悟を固めても信念を貫くのか選択を迫られたように、今日も様々な形でキリスト者は「踏み絵」を迫られているのである。

私たちは、一人一人、いずれ神の御前に出て申し開きをせねばならない。その時に、どれくらい悪魔の策略に対して勝利をおさめ、神の御心を実行して生きたか、成果を問われることであろう。悪魔の「鏡」が突きつける嘘を信じて、自分はディスカウントされていると思い込み、それゆえ、神を恨んで被害者意識の中を生きたのか、それとも、神が人間に与えようと思っておられる自由を固く信じてこれを手放さないで生きたのか――。必ずその信仰を御前で評価される時が来るゆえ、私たちは固く立って、二度と人の奴隷にされないように気をつけなければならない。

勝利を勝ち取るために有益な方法として提示できることの一つが、悪魔の嘘の理論としてのグノーシス主義の基本構造を明らかにすることである。悪魔はオレオレ詐欺のように、人類の不意を狙って、様々な方法で人間に語りかけては、ディスカウントされた像を突きつけて来るであろうが、そのすべての目的は、人間に神に対する被害者意識を持たせるという一点に集約される。

だから、その鏡が嘘であることを見抜いてこれを拒否せねばならないのである。そのために悪魔の嘘である偽りの理論の基本構造を明らかにすることは有益である。

それ同時に、心のすべてを傾けて、神を知ろうとすることであろう。本物を知らずして、偽物を暴くことは難しい。もし信者が一度でもキリストと霊的に一つとなって信仰の中を歩むことについて、生きて実際に知ることがなければ、人は御霊によって心が新しくされるとは何か、キリストの復活の命とは何か、その意味が全く分からず、悪魔によって心が汚されるとはどういう意味なのかも分からないままだろう。

旧創造の傷ついて病んだ状態、罪に縛られ、不完全な自分しか知らない人間が、それ以外のあり方が存在すると、想像することさえできないのは当然だ。だから、キリストの復活の命の中に、人としてのすべての完全さが備わっていることを、私たちは生きて実際に信仰によって知らなければならない。そのために、まずは神がキリストのうちにすべての備えをして下さっていることを信じなければならない。人としての完全さだけではない。物質的な完全さもそこには備わっている。

筆者ははっきりと言っておきたい。ノアが箱舟を建設していた時、ノアの家族以外の人々は、どういう態度を取ってこれを見ていたことであろか。エレミヤが神の宣告を受け、民に罪を告げて悔い改めるよう迫ったとき、民はどういう態度を取ったであろうか。

今日、御霊に従って生きるクリスチャンを、悪魔の手下どもがあらん限りの力を込めて中傷・迫害している風景など、今に始まったことではない。それは旧約聖書時代から果てしなく繰り返されて来た光景であり、我々の主であるイエス自身が、誰よりも経験されたことである。僕は主人にまさるものではなく、主人がこの世でどういう扱いを受けたかを考えれば、何もかも全く不思議ではない。

だが、神はそれらすべてに対して勝利して余りある備えを、私たち一人一人のために天に準備して下さっている。だから、この先起きることをよく見ておいてもらいたい。神はご自分を信じ、従う者を、決して失望で終わらせることのない方である。
 
そこで、筆者は悪魔がまき散らす嘘と、神がキリストにあって約束して下さっている事柄のどちらが真実であるかは、キリスト者自身が、公然と世に証明する責務を負っており、またその証明が可能であることを確信してやまない。そのために、あえて「鏡」をそのままにしておくことにも意味があるものと思う。(むろん、中傷する者は、罰を受けることになり、かつ、その中傷が述べた者自身に跳ね返ることは言うまでもないが。)

悪魔は有史以来、ずっと人類を中傷し続けている。だが、それにも関わらず、キリスト者は主の復活の証人であるから、すべての試練と苦難の中で、神がどんなにご自分の一人一人の子供たちを愛され、重んじ、はかりしれない栄光に満ちた約束を与えて下さっているか、どれほどご自分の子供たちを気にかけて、助けの手を差し伸べ、期待をかけて下さっているか、その愛と、御助けの大きさを証明し、主が十字架上ですでに世に打ち勝たれた勝利を、自分自身のものとして地に引き下ろし、主と共に栄光にあずかる権限と責務を与えられているのである。


T. オースチン・スパークス 「「御霊による生活」 第二章 内なるキリスト (1)

人の子の完成


 主イエスは数々の苦難により、人の子として完成されました。彼は完全であり、罪がありませんでしたが、それでも「彼は数々の苦難によって完成された」と私たちは告げられています。彼の場合、罪の問題はなく、この問題は人の子の完成とは無関係です。人の子の完成は次の事実と関係しています。すなわち、彼には罪がなく、彼は自発的に御自身をささげて、神に頼る生活を送られた、という事実です。彼は決して自分に頼らず、自分自身の人間的願望を行わず、自分自身の人間的判断にしたがって生きず、自分自身の人間的欲望や感覚に従いませんでした。生活・行動・言葉といったいかなる事柄においてもそうであり、彼は御父から離れようとはしませんでした。この基礎に基づいて彼は、あらゆる種類の試みや試練――それは誰もが受ける可能性のあるものです――を受ける束の間の時のあいだ、服従されました。

誘惑や試練に関して彼が何を耐え忍ばれたのか、どちらかというと私たちは何も知りません。彼の生涯の記録は幾つかの試練・誘惑・苦難を見せていますが、それでも、あなたも私も彼の苦しみの深さや厳しさは決して分かりません。レビ記の最初の六つの章の数々の供え物は真にキリストの型ですが、実際上、どの供え物も何らかの形で火にさらされます。こういうわけで、全焼の供え物である彼の十字架においてだけでなく、同じように穀物の供え物という意味においても、彼の純粋で、聖なる、罪のない人間生活は火によって試されたのです。これらの火によって、生きるときも死ぬときも、彼は試されました。御父への信頼、御父への従順、御父から離れて少しでも行動することを拒否すること、御父の時や御旨から出ているものは何でも受け入れること、という基礎について試されたのです。


 ゲッセマネの園と十字架における最後の恐るべき試練は、彼を打ちのめす――もし彼が打ちのめされえればの話ですが――のに十分なものでした。そしてこのような方法で彼は完成されました――完全だったのですが、完成されたのです。

 この人性、この命を彼は生きました。それは完全に神を満足させ、完全に地獄のすべての力と試みを打ち破りました。この人性とこの命は栄光へ、神の右手に上げられました。その神の右手で彼は完成された人として示されています。この人は罪がないだけでなく、試練を通して完全な度量・完全な能力にまで成長しました。これに関して、御霊は聖書を通して私たちに、「あなたたちは新生により、また信仰を通して御霊を持っていることにより、今やまさにこの命に与る者たちなのです」と告げておられます。

この人性は物質的なものにすぎない、と考えないようにしましょう。それは完全な人、完全な性質に属するものであり、完全に神を満足させました。そして聖霊によって私たちに与えられ、私たちの命の最も真実で、最も内奥にある現実となっています。それは私たちに与えられたキリストであり、私たちがそのパンを取る時、私たちは次の事実を証ししているのです。すなわち、今や私たちの天然的存在という基礎ではなく、栄光の中におられるイエス御自身という基礎に基づいて、私たちは自分の生活を営んでいるのであり、自分の生活を選択しているのである、という事実です。次に、今度は私たちが試みられ、試されます。それは、キリスト、神の完全な人という基礎に基づいて生きるのか、それとも、その立場を捨てて自分自身の立場に戻り、何らかの方法で自己の立場に基づいて生きるのか、ということに関してです。

これが、「私はキリストと共に十字架に付けられました……」というパウロの偉大な言葉の最も内奥にある真理です。これが意味するのは、「私」が象徴するものはみな取り除かれ、もはや私ではなくキリストである、ということです。


わたしの栄光を他のものに与えはしない―キリストは信じる者のすべてのすべて

「わたし、は、
 義をもってあなたを召し、
 あなたの手を握り、
 あなたを見守り、
 あなたを民の契約とし、国々の光とする。
 こうして、盲人の芽を開き、
 囚人を牢獄から連れ出す。
 わたしは、これがわたしの名。
 わたしの栄光を他のものに、
 私の栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」
(イザヤ42:6-8)

三つ子の魂百まで、と言われるように、まだ二十歳になる前に夢や憧れとして思い描いていたイメージは、年齢を重ねても、人間からはなかなか抜けないものである。

筆者は幼い頃、ロシアという国に漠然とした憧れを託し、その国の言葉や文化を学びたいと思った。

専門家として行った研究は、決してロシア賛美の観点から行われたものではなく、むしろ、かの国の社会主義時代の残酷な歴史を掘り起こすものであったが、それにも関わらず、この国に対するほのかな憧れは、心の中に持ち続けられた。

だが、かの国に関しては、関われば関わるほど、幻滅が募って行くばかりであった。

もっとも、筆者の心に幻滅をもたらさなかった被造物など何一つない。そのことは、地上には何一つ確かな価値はなく、確かな方は、天におられる神お一人だけであることを物語っている。

我が国も含め、地上のどこかの国を理想のように美化して思い描いたとしても、返って来るものは、幻滅以外にはない。
 
だが、そういった一般論とはまた別のところで、ロシアという国は油断のならない国なのである。我が国でも、対米隷属から脱したい人たちは、今もってロシアに希望を託しがちであるが、どこの国であれ、一方的に美化するのはやめておいた方が良い。
 
今から何年か前に、ある職場で、上司たちがかの国についてこんな悪口を言っていたのが聞こえて来たことがあった。筆者はその頃、まだロシアに親近感を持っていたため、それを悲しく思った。

「あいつら、俺たちが苦労して積み上げたものを、最後の最後の段階になって、まるで自分の手柄のように全部持って行くんだからな。あのズルさは治らない国民病だよな・・・。」

しかし、当初は悪口や偏見に過ぎないように感じられたこの言葉が、案外、全く根拠がないとは言えないものであることを、筆者は知ることになった。

たとえば、極言するならば、ロシアの文化そのものが、西と東の両方からの借り物である、と言えるかも知れない。ロシアのキリスト教はビザンチンから継承されたものであるし、ヨーロッパを模倣した町並みは、ピョートル大帝時代の輸入だ。ロシアの文化そのものが、かなりの部分、他の文化からの借用で作り上げられたものと言えるかも知れない。

むろん、文化とは、そもそも借用から始まるのであって、その何がいけないのかという理屈もあろう。しかし、ロシアの場合は、借用がかなり得意である。そういうところから始まって、ロシアに関係すると、日本人であっても、借用の天才のようになってしまう様子を、何度か見せられて来た。

そもそも、ロシアと日本という国は、互いに悪いところがよく似ており、どちらも精神的には後進国と言って差し支えない未熟な部分を持っている。まずは、両国ともに、集団主義的な精神性が強く残っており、個人の概念が十分に確立されていない。日本も、ロシアも、国家主義的な精神風土の面影を今日に至るまで色濃く引きずっており、肥大化した政府や官僚を基礎とする「お上主導」の政治体制から歴史的に一度も脱したことがない。そういう国民がどれほど「自由」という言葉を口にしても、それはあたかも水槽から出たことのない魚が、鳥の生態を論じるようなものである。

これはルネサンスをも、宗教改革をも、下からの革命をも、本当の意味で経ていないことから来る文化的な未熟さではないかと思う。(1917年革命も、下からの革命とは言えないであろう。)

そのため、権威に従順で(権威に弱く)、序列を絶対的に肯定しながら、その中を巧みに泳ぎ渡って保身を図りながら生き伸びる官僚主義的な生き方を至上の価値とするような愚かな精神が、至るところではびこり、腐敗を生む根源となる。権威の前にはヒラメのように媚びへつらい、弱い者は徹底的に軽蔑し踏みしだく残酷な人々が現れるのもそのためである。こうした精神性の中からは、現存する体制を打ち破る発想は決して生まれて来ず、改革の芽はことごとく潰されてしまう・・・。
 
しかし、精神的に後進性を持ち続けている国が、同じように精神的に後進性を持ち続けている国を批判するのは、たやすいことではない。

そもそも日本のロシア専門家の大半は、隠れ共産主義者であるか、ロシア美化に走る非現実的夢想家であるか、あるいは、ロシア人との婚姻によって半ばロシア化してしまったような人たちから成っているので、こうした人々に、ロシアという国への歯に衣着せない容赦のない分析や批判を期待するのは無理というものであろう。

外国語や外国文化で飯を食っている人たちに、その国を批判せよということ自体が、無理な要求なのかも知れない。ロシアについては、さらに事情が複雑で、特に、ソビエト体制時代に、かの国に関わる研究者はことごとく、社会主義思想に理解がなければ、かの国に旅行することもできず、論文も発表できなくなり、研究者から排除される、などといった一連の制限を受けたので、そうした時代に、この国の研究者は、徹底的に骨抜きにされてしまった。

今日、日ロの外交・ビジネス・文化交流に関して、純粋に我が国の国益のために、かの国としたたかに向き合い、対等に張り合えるような人は、ほとんどいまいと危惧する。

対米隷属からも抜け出せない国に、ロシアと対等に向き合えというのも、相当に高いハードルであろう。ロシア人は日本人より一枚も二枚も上手で、ある意味、厚顔なところがあるため、島国ゆえに国土が占領されたこともなく、外面は良いが徹底的に人を疑うことのできないお人好しの我が国民には、彼らの策謀を見抜き、立ち向かうだけの力はないだろう。

特に、日本人の弱点は、絶えず仲間内で分裂しており、同士討ちに明け暮れ、弱い者を虐げ、団結できないところにある。ロシア人もよく国外では分裂していると言われるが、彼らは「よそ者」に立ち向かわねばならない時には、少なくとも、日本人以上には、団結する能力がある、と筆者は見ている。

我が国がこんな体たらくでは、かの国と対峙しても、したたかに丸め込まれ、利用されるだけで、外交的勝利など望めないであろう。もっとひどい場合には、かつてのシベリア抑留とほぼ同じように、日ロ両国が共同して(結託して)、日本国民をより一層、虐げる立場に立つであろう。この二つの国は、未だそういう精神性を克服できていない油断のならない国家なのである。だから、安倍政権がロシアに接近すればするほど、筆者にはロシアと組んで何をするつもりなのかと、期待ではなく、警戒心が生まれる。

だが、それでも、いつの日か、我が国の国民も、精神的に大人となって、どの国に対しても、したたかに図太く(しかし目先の利益のためだけでなく、真に自国に利益がもたらされるような)外交を繰り広げるだけの力を持たねばならないであろう。その日が一体、いつになれば来るのかは知らないが、ただこのまま時が過ぎるとは思えない。いつかは目を覚まし、大人にならなければならない時が来るはずである。

ところで、ロシア人には、身内のように仲良くなった人間との間では、困った時に、命がけで助け合うという情の強い結びつきがあって、筆者はこれを日本人のうわべだけの礼儀正しさの内側に隠された冷淡さ、無責任さと比べて、かつては高く評価していた。

だが、ロシア人に限らず、最近、筆者は、あらゆる同情というものが、決して見かけほど良いものではないどころか、現実には非常にマイナスの側面を持った、悪魔的と言っても差し支えないほどに、悪しき感情であることに気づいた。そして、人の弱みや問題を前提として、内なる恐怖によって作り上げられる連帯には、いかなる希望も見いだせなくなったのである。

もし筆者がキリストを生涯で個人的に知らなければ、同情と真の優しさの区別、人間的な頼りない支援にすがることと真の自立がどれほどかけ離れたものであるかという区別が、きっとつかなかったのではないかと思う。

同情というのは極めて厄介かつ危険な感情で、同情に基づく支援や連帯は、どこまで行っても、真の連帯とはならない。なぜなら、それは他者への尊敬に裏打ちされた連帯ではないからだ。

同情という感情は、基本的に、恐怖に基づく人間の本能的な自己防衛の願望から出てくるものであって、「もし自分もあの人と同じ目に遭ったら・・・」という思いを前提として、他者の不幸に共感して、手を差し伸べようとしているに過ぎない。そして、自分は同じような目に遭わずに済んだことに、内心、ほっとしながら、他者を哀れみ、それでも、「もし私があなたと同じ目に遭った時には、弱い人間同士、あなたも私を助けてくれるでしょうね?」という打算を心に秘めつつ、相手の窮状に手を差し伸べるという偽物の寄り添いなのである。

だから、そのような関係においては、もし誰かが真に自立して、一切の恐れと弱みがなくなると、それが縁の切れ目になって、今まであれほど強固に思われた連帯が、一瞬で終わってしまう、ということもあり得る。それはちょうど同じ病で長年、闘病生活を送り、励まし合っていた二人の病人のうち、一方が病気が治って完全に健康になって病院と縁がなくなると、依然として闘病生活を送り続けるもう一人の病人に、非常に声をかけづらくなるのにも似ている。

弱さによって作られた連帯は、真の連帯ではないのだ。励まし合えるのは、共に同じ自己憐憫の感情を持っているからであって、哀れむべき共通の弱さがなくなると、そのような関係は、一日と続かなくなるのである。

以前に書いた記事の中で、筆者は、ハンセン病者の絶対隔離政策を助長するために、天皇の慰めの言葉が利用されていた、という事実に触れた。

ハンセン病者の絶対隔離政策は、それ自体、あまりにもひどすぎる人権侵害で、直ちに終わらせられるべきものであった。一旦、病名の診断が下れば、病者は強制的に療養所に隔離され、病が治癒された後でさえ、生涯に渡り、そこから出る道を絶たれたのである。そして、療養所では、強制的に働かされ、非人間的な暮らしを強いられ、断種政策によって、子孫を残すこともできず、果ては人体実験の材料とさえされた。一旦、ハンセン病と診断された者は社会のお荷物として黙って隔離政策に甘んじ、やがて死に絶えることこそ、国や社会の益に貢献することだと教えられていたのである。

優生思想に基づくこうした卑劣で非人間的な政策が平成に至るまで長引いた背景には、この政策の忌まわしさを覆い隠すための様々なトリックが駆使されていたことが影響していた。そのうちの一つに(特に戦前戦中は)、隔離された者たちの怒りをなだめ、このひどい人権侵害に対して声を上げさせないために、天皇からの慰めの「お言葉」が利用されていたということがあった。

つまり、「やんごとなきお方(天皇)が、可哀想なあなた方(ハンセン病者)を気にかけて、同情して下さっているのだから、あなた方(ハンセン病者)は、この状況に憤りを感じて反乱を起こしたり、暴れたり、脱走しようなどという不届きな考えは捨てて、この制限(絶対隔離政策)は、抜け出せない運命なのだと諦めて、おとなしく療養所の秩序に従って、隔離の中で人間らしく生きる道を考えなさい・・・」というわけなのである。

隔離こそ、非人間性の源であって、隔離の中で人間らしく生きる道などあるはずはないのだが、そこで天皇からの「同情」の言葉が巧みに、隔離政策の非人間性を覆い隠すための心理効果として利用されたのである。実際には、全く人間らしく扱われていないのに、天皇の哀れみの言葉が、あたかも、ハンセン病者が人間らしく、尊厳を持って取り扱われているかのようなカモフラージュのために利用され、「自分たちは見捨てられているわけでもなく、粗末に扱われているわけでもないのだ」という錯覚を彼らに抱かせる材料になった。
 
天皇からの同情の「お言葉」が、絶対隔離政策に対する人々の憤りをやわらげ、自由になりたいという彼らの希求を打ち砕いて、体制に対する反乱を阻止するために利用されたのである。

こうして、天皇の「同情」に慰めを見いだした人々は、何が何でもこのような非人間的な政策には反対して、自由を勝ち取らねばならないという心の願いを打ち砕かれた。その「お言葉」があったがために、自分たちは隔離政策の犠牲者なのだという現実に覆いがかけられて、非人間的な政策が、あたかも憎むべきものでも、立ち向かうべきでもなく、それをおとなしく受け入れることこそ、彼らの「天命」であるかのような錯覚が生まれたのである。体制はそのような心理的効果があることを十分に見抜いた上で、隔離された者たちの憤りを静めるために、天皇の「お言葉」を利用したのである。

だが、問題は、ハンセン病の絶対隔離政策だけではない。たとえ天皇から発せられるものでなくとも、生まれながらの人間から出て来る同情には、ほぼ例外なく、以上のような悪しき効果がある。つまり、同情とは、世間で考えられているほど、美しい感情では決してないのである。それは心密かに「可哀想な人々」に対するディスカウントを正当化し、「可哀想な人々」が、永久に「可哀想な境遇」から抜け出せないようにするためのカモフラージュでしかないのである。

同情する人々は、あたかも不憫な人々に寄り添って、助けの手を差し伸べようとしているように見えるかも知れないが、その実、その優しい言葉は、自分は決して「不憫な人々」の仲間ではないし、そうなりたくない、という思いからこそ、述べられるものである。

同情の本質とは、結局、次のようなものでしかない。

「人間には誰しも同じような弱さがあって、もしかすると、場合によっては、私があなたの立場に立っていたかも知れません。あなた方は私の身代わりとして、そのような不憫な状況に置かれたのです。ですから、私はあなたに同情いたします。同じ弱さを持っている人間として、あなたのために涙を流します。でも、あなたは、決して自由にならないで下さい。私は、あなたに同情しますし、必要な支援もします。でも、決してあなたに自由になって欲しくないのです。私の身代わりに、あなたはずっとそこに閉じ込められて、苦しんでいて欲しいのです。あなたの苦しみを見ることによって、私は自分の自由の価値を確かめることができ、自分の幸福を確かめることができるのです。なおかつ、あなたの想像を絶する苦しみに、私が寄り添うことによって、私は自分が送っている利己的で卑俗な生活から浄化されて、あなたと共に、汚れなく慈愛に満ちた神々しい存在へと飛躍的に高められるのです。あなたの苦しみは、多くの人々の魂の浄化のために必要なのです。あなたの存在によって、我々は栄光を受け、高められるのです。ですから、どうかその苦しみから、抜け出そうなどとは思わないで下さい。あなたのその苦しみは、人類の浄化のために必要なのです・・・」というわけなのである。

断じて、そんな感情は、他者に対する真の尊敬に基づくものではない。それは寄り添いではなく、同情に見せかけた蔑みでしかない。犠牲の肯定でしかない。だが、この心理的なカラクリは、非常に見えにくく、また、巧妙で、気づきにくいものである。そして、そのカラクリは日常の至るところに存在しており、巧妙に人を弱さの中に閉じ込めようと待ち構えている。

かつて、ロシアにいるロシア人の知り合いが、日本に台風が接近して来ると、よく筆者に心配のメールをくれた。しかし、それを読むとき、いつも奇妙な実感に襲われたものである。ロシア人は心配することを当然だと考えて、大丈夫かと前もって聞いて来る。だが、筆者は、「神様が着いているから、何も心配は要らない」と答えながら、いつも心に思うのだった、仮にもし大丈夫でなかったとしても、あなたに何が出来るのかと。

遠くにいて、何も自分が手助けができないことについて、なぜあえて聞き手の不安を呼び起こす質問を尋ねて来るのだろうか? それに対しては予定調和的に「大丈夫だ」と答えるのが、筆者の役目なのだろうか? そのようなものが、本当の心配であり、本当の親切と言えるであろうか?  

いや、それはあたかも同情や心配を装いながら、その実、他人事だからこそ、尋ねられる質問であって、それは信者の心の不安を煽るために、神でない霊が言わせた言葉に他ならないのではないかと、筆者はよく思わずにいられなかった。 (その人は共産主義者であったので、もちろん、神の霊によって生かされている信者ではなかった。)

そんな時、身近にいる信者の答えの方が、はるかに筆者を満足させるのだった。信者はこう言うのである、「私は最近、日本直撃と予報されていた二つの台風を、主の御名によって、撃退したよ!  御名によって命じるんだよ。そうしたら、台風は弱体化して、進路も変わって、横浜は全く被害を受けなかったんだよ! あれほどニュースでは直撃と騒いでいたのにね・・・」

そうなのだ、信者には、主の御名の権威によって、台風のごときものは、当然ながら、撃退する権威が与えられている。台風ばかりでない。雨も止むし、風も止む。豪雨が、必要な瞬間にはぴたりと止まるのを、筆者は幾度も見せられて来た。

万事がこんな調子で、こういうわけだから、信者には人からの同情や心配など全く要らないのである。キリスト者には、人から「大変だね」とか、「可哀想だね」、とか、「助けが必要なんじゃないの?」などと、同情されるべき弱さや欠点などは、存在しないのである。

だが、それは、我々が強くて完全だからではない。神が信じる者の助けであり、神が完全だからである。

おそらく、ロシア人の同情好きは、長年、国家権力によって虐げられながら、国民同士、草の根的に助け合って生きてきた経験から生まれたものなのであろうと筆者は想像する。彼らは、筆者から見ると、日本人よりも感受性豊かで、世話好きで、他者の痛みに敏感で、人の心を読む術に長けているため、人の心に自然に寄り添う術を日本人以上に豊かに持ち合わせており、うっかりすると、その情け深さにほろりとされられる瞬間がある。

もし神を知らなければ、筆者はそういう巧みな寄り添いと、同情や共感を、真の優しさだと理解していたことであろう。

だが、ロシア人に限らず、人間の同情のごとき代物を真の優しさや共感だと勘違いして、これによりかかっていれば、いつまで経っても、人は真の自立には至らないのである。

同情が優しさを見せかけて巧みに人をディスカウントするカラクリは、結局、ハンセン病者の絶対隔離政策と同じである。自由になる権利は、誰しも持っているのだが、とりわけ、聖書の神を信じる者は、悪魔のすべての圧迫と脅しから解放される権利を持っている。

神が信者にとって完全な助けであり、キリストの十字架の御業のゆえに、信者は死の恐怖による悪魔の奴隷的拘束に甘んじねばならない理由はなく、キリストを内にいただいていることにより、真の自由と解放を内に持っているのである。

聖書のまことの神を呼び求めるならば、誰も失望に終わることはない、と聖書にある。神は信じる者の全てを知っておられ、信者のどんな必要にも間に合う方である。神には決して遅すぎるとか、策が足りないとか、間に合わないということがない。

ところが、このまことの神を呼び求めずに、神の助けを有限なる人間からの同情や支援に取り替えた途端に、信者は、天の高度に生きる術を失って、地に転落し、弱さという絶対隔離政策の檻の中に閉じ込められ、そこから自由になることができなくなってしまうのである。

そこで、筆者にとっては、人間に過ぎない者から注目され、寄り添ってもらったり、同情を受けることよりも、神にあって、真に解放されて、自由であって、自立していることの方がはるかに大切である。だから、キリスト者が、主にあって、真に自由であるためには、人からの同情を受けてはいけないし、その隙を作ってもいけない、ということが、年々、よりはっきりと理解できるようになったのである。

自分の世話好きな性格を「善意」だと勘違いして、自分の気前の良さを世間にアピールするために、人助けできそうな、自分よりも弱い対象を常に探し求めている人たちには気の毒な話であるが、筆者には、彼らが栄光を受ける材料とされるために、偽りの同情による連帯の中に取り込まれたい願いは皆無なのである。

神が味方として共におられるキリスト者を、哀れで不憫な人間とみなして、同情を注ぎ、神から栄光を奪おうなどという恐れ知らずな人間は、よくよくどうしようもない愚か者の詐欺師の類か、反キリストの仲間だと言って差し支えない。

聖書は、あなたがた(信者)は自由とされたのだから、再び、人の奴隷となってはいけません、と教えている。だから、そういう悪しき人間の策略にはまって、人間を再びがんじがらめにして弱さの中に拘束する檻の中に入れられるのは、ごめん被りたい。
 
日本人の多くも、同情を装った義理人情で、互いをがんじがらめに縛り合って、立ち上がれないように仕向けている。その癒着の中で、助けてやった人間が、助けられた側の人間から栄光を掠め取り、教師然と、弱い人間たちの心を支配して、共依存関係が出来上がっている。

それはちょうど「天皇のお言葉」が、隔離政策の犠牲にされていたハンセン病者の怒りをなだめるために利用されたのと同じカラクリである。本来、立ち上がって、反対しなければならない非人間的な制約があるのに、そこから解放されることを求めるべきなのに、さらには、解放される権利もあるはずなのに、誰か偉い宗教指導者や、信者の仲間を装った人間から同情の涙を注がれ、手厚い支援を受けたというだけで、もうその人は、束縛に甘んじる気になってしまい、これを憎むべきものとして退けて、自由になるために立ち上がる気力を半永久的に奪われるのである。

そのような悪しき関係にとどまっている限り、同情を受ける側の人間が、克服したいと思っている弱さから抜け出すことは絶対にない。同情は、彼を永久に弱さの中に閉じ込め、自由にさせず、彼をダシにして他の人間が栄光を受けて自己満足するための巧妙な罠なのである。だが、あまりにも多くの人間が、同情によるネットワークを美化し、それが真の人間的な交わりや連帯だと勘違いして、互いに束縛し合っている。その結果、たとえキリスト者であっても、多くが、罪や、病や、困難や、貧しさや、心の傷や、各種の弱さと手を切ることができなくなって、「罪の絶対隔離政策」に自ら同意して、永久に出られない療養所に自ら入院して行くのである。こうした人々には何を言っても無駄であろう。

筆者は、キリスト者が同情という美名の下で、弱さの中に人を閉じ込めるだけの支配関係のネットワークに拘束されるべきではないと考えている。キリスト者がキリスト以外の目に見える人間に「弟子化」されたり、支援者や助言者を名乗るうわべだけ親切そうな人間に自ら助けを乞うて、神以外の物に手柄や栄誉を与えてはいけないと考えている。

キリスト者は、神以外のどんな存在にも、「おまえを助けてやった」などと誇らせてはならないのである。人間を真に助けることのできるお方は神だけだけであり、それ以外のすべてのものには、人を救う力がない。

神だけが、信者によって栄光を帰されるべきお方であり、それ以外のものに栄光を帰する結果は、非常に忌まわしいものである。

それにも関わらず、人に同情されたり、助けられることに心地よさを見いだし、そこに安住を試みているような信者は、弱さの中に永久に閉じ込められ、抜け出せなくなるだけであろう。サムソンが愛するデリラにこっそりと裏切られて髪の毛を剃られたように、彼は自分の味方だと思っている人間たちに、神の助けをこっそり奪い取られ、甘く心地よい夢から目覚めた時には、奴隷の枷をはめられ、これを振るい落とす力が、自分にはもうなくなっていることに気づくだろう。

勇者だったサムソンが囚人とされ、無残に両目をえぐり取られて、重い臼を引かされていた光景を、キリスト者ならば誰しも聖書を読んで思い浮かべることができよう。これは、人間の情けを神の助けと取り替えた信者の霊的視力が失われたことを象徴しており、その結果、信者が一度は逃れたはずのサタンのくびきを再びはめられて、この世の人々が自分で自分を贖うために生涯に渡る負いきれない苦役に従事させられているのと同様に、死の恐怖の囚とされて、奴隷的な労働に従事させられることを象徴している。

もし信者がキリストを捨てて、人間の支配下に入るならば、必ず、サムソンと同じ光景がその信者を待ち受けているであろう。

だから、信者は、どんなことがあっても、神以外のものに、決して栄光を与えてはならないのである。信者を助けることができるのは、天にも地にも、ただ神のみである。


ただ神の恵みによって生きる――魂の贖いしろは高価で、人には払いきれない――

ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。
死を免れるのは、私の主、神による。
            (詩篇68:19)

どうして私は、わざわいの日に、
恐れなければならないのか。

私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
おのれの財産に信頼する者どもや、
豊かな富を誇る者どもを。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
            (詩編49:5-9)

一つ前の記事において、信者がアダム来の古き性質を自己のアイデンティティだと思わず、キリストにある「新しい人」を実際として信仰によって掴むべきだということを書いた。

キリストにある新しい人を単なる「道徳的な人間」ととらえているだけの人間には、筆者が書いているようなことは、トリックか、机上の空論のようにしか感じられないだろう。

「現実の私はこんなに罪深いままなのに、どうしてそれをキリストのご人格と同一視するようなことができるでしょう。そんなことは、あまりにも畏れ多いことです」

と言う人もあるかも知れない。

だが、聖餐式の時に差し出されるパンと葡萄酒を、信者は自分がそれに値するから手に取るわけではない、ということを思い出していただきたい。信者がこれを手に取ることができるのは、世人と違って、その信者には、キリストの十字架における死と復活を、自分自身のものとして受け取る信仰があるためである。キリストへの信仰こそ、信者が神の御業を受けとるに必要なものであって、信仰がない人が、それを受けとるにふさわしくないのである。

キリストの贖いの御業に値する人間は、そもそも、この地上に誰一人いない。誰も信仰によらなければ、神の贖いを自分自身のものとして受け取ることはできない。

だとすれば、キリストにある新しい人格に値すると言えるだけの人間は、地上には誰一人おらず、ただそれを信仰によって受けとる道が与えられているだけだということである。だから、信者の目にたとえ自分がどれほど罪深く、キリストからほど遠い人間に見えたとしても、キリストの御業は、信者がそれに値するから与えられたものではなく、ただ信じることによって信者に適用されることを思うべきなのである。

そもそも、人間の地上にいるすべての人間は例外なく罪人であって、神の御業には誰も値しない。だからこそ、人は自己の努力によって救われることはできず、神の御言葉を信じて受け入れる者だけが救われるのである。

そうである以上、いや、そうであればこそ、キリストにある「新しい人」は、ただ恵みによって、御言葉に基づき、信じる者に与えられる。その恵みを受けとることこそ、信者に必要とされる。

さて、神の恵みによって生きるとは、地上の事柄に責任を負わない人生を意味する。

聖書には、神が私たち信ずる者のために、日々、重荷を担われる、と書いてある。神が私たちのために心配して下さるのだから、神に重荷を預けて、生活のことなどであれやこれやと思い煩うことをやめなさい、とも書いてある。

神の国とその義をまず第一に求めなさい、そうすれば、必要のすべては添えて与えられます、と書いてある(マタイ6:33)。

だから、私たちは自分の背負っている地上的な重荷を一つ一つ、自分の手から放して行くのである。それは無責任になることや、罪に対して開き直ることとは異なる。そもそも自分に責任の取れないことに対して責任を負わない、という当然の姿勢である。

この地上には、自分の人格改善に対して責任が取れる人間は一人もおらず、自らの生存に対して責任を取れる人間も誰もいない。そのような自分の能力や責任範囲をはるかに超えた事柄に対して、あくまで自分の力で何とかしようと拘泥し、懸命に努力し、あるべき状態を作り出そうと試行錯誤を繰り返しながら、重荷を抱える人生と訣別することである。

たとえば、筆者は、つい先ごろまでは、世人と同じように、地上の職業に就いて働き、地上において何者かになることを目指して生きていたが、そのようにして自分で自分を養う生き方ではなく、自分の全てを神に明け渡し、神の国の働き人として生きるために、神によって直接、養われる生き方へ移行すべきだという結論に達した。

多くの人は、それを聞けば、「あなたは浮浪者にでもなるつもりですか? 何と無責任な」と言うかも知れない。だが、そのようなことにはならない。それどころか、キリストの命の豊かさ、健全さを筆者が生きて知ることができるようにと、実際、すべての局面において、神は、筆者が誰の助けにもよらずに生きられる健全な自立の方法を備えて下さったのである。

これまで、多くの信者たちが、筆者には色々な能力や知識や経験があるのだから、それを活かしてこの世で働くべきだと助言したし、筆者自身も、聖書に「手ずから働きなさい」と書いてあるのだから、働くことは良いことだと考えてそうして来たのであり、なおかつ、常に筆者自身が自らの望みに応じて、仕事を選ぶことができるように、神ご自身が助けて下さった。

こうして筆者は世の情勢にも関わらず、常に仕事に困るとか、生きるに困るということを経験しなかったが(ただし信仰による訓練はあった)、それにも関わらず、どうにも最近、筆者の目には、この世の仕事と呼ばれるすべてが異常となり、破壊され、歪んでおり、ただ人間を苦しめるだけの苦役と化しており、この国では、まるで社会主義国における労働のように、労働の意味が歪められており、それはただ人間が自分で自分の罪を贖うための終わりなき苦役のようにしか見えてなかった。

そもそも労働ということの意味がおかしいのである。年々、それはますます歪んで、人を生かすことも、救うこともできない、人間性を貶めるだけのむなしい苦役に近づいていることが感じられてならないのである。

たとえば、我が国には、新卒採用という異常かつ不合理なシステムがあって、その不合理なシステムのせいで、何かの理由で新卒採用の道を外れた人間には、一生涯に渡る不合理なディスカウントが待ち受けている。たとえより良い条件を求めて転職したとしても、その人の努力では、決してディスカウントの仕組みから抜け出すことはできない。

だが、それならば、新卒で採用された人は「勝ち組」なのかと言えば、決してそうではない。この労働システムの中に勝ち組なるものは存在しない。新卒採用というのは、要するに、不都合な事実を決して人に見せず、聞かせないために、学生が自分で物を考え、疑う能力が芽生える前に、企業に奴隷として取り込んでしまえというシステムに他ならない。

新卒採用という制度は、もしたとえるならば、18歳や19歳の世間を知らない未婚の娘が、いきなり60歳や70歳の離婚歴のおびただしい老人に嫁がされるようなものであって、今でも開発途上国などでは、女性に不平等を耐え忍ばせるために、若いうちに女性を結婚させる仕組みが残っているところがあるが、新卒採用というのは、まさにそれを企業と社員の関係に置き換えたものに過ぎない。

世の中の不条理に気づかせないために、また、無知の中に留め置いて徹底的に搾取するために、できるだけ人が若く、未熟なうちに、物事を深く考え、自主的に自分の人生を決めたりする力が生まれるよりも前に、さっさと企業との「結婚」の関係に追いやって、そこから逃げ出せないように拘束してしまおうというわけなのである。

そのような不平等を強いる存在に誠意があることは決してなく、その関係が両者にとって真に有益なものとなることもない。学生の方では、仮にやる気に溢れた初々しい「初婚」だとしても、企業の方は、それまで数知れない社員をリストラし、太り続けて続けて生き残った「老人」である。そういう意味で、企業(むろん、ここには民間企業だけでなく、官公庁などあらゆる組織や団体が含まれる)は、おびただしい数の「離婚歴」を抱えた老人同然であり、もっと言えば、結婚詐欺師のような存在と言える。

何しろ、「初婚」で企業と結婚した社員のほとんどは、何年か後に、ただ失望と幻滅だけを抱いて、悲しみのうちに「家を出される」ことになるかも知れないからだ。しかもその際、その社員には「子供が産めない(=思ったほどの業績が出ない)」などと言った理不尽かつ不面目な理由がつけられて・・・。

こうしたシステムは、いわば、確信犯的に慣習として行われているのであって、60歳、70歳、80歳、90歳の老人同然の組織や団体が、10代の後半、20代の初めの初々しい人間を思い通りに娶って己が欲を満たすために作られた、あまりにも不合理で不平等な差別のシステムである。

だから、仮にめでたくそこで「結婚」(=新卒採用)が成立した人がいたとしても、喜ぶのは早すぎる。少しでも人間としての心があれば、娶られた側の若者にも、その関係が実は騙されたも同然のものであり、自分の仕えている主人が、自分の若さにも誠意にも値しない存在であり、おびただしい数の「妻」を犠牲にしつつ、私腹を肥やすことしか眼中にない我利我利亡者だということがすぐに分かるであろうし、それでも、あえてその関係の中にとどまり続けようとするならば、自分もやがて良心を売って、彼らと同じような詐欺師の仲間入りをするしかないのである。

かつては、この国ではそういうやり方で、若者の特攻への選抜が行われ、有力な大人たち(老人たち)、国家の面子を保つために、青年が戦争で無益な死に追いやられていたが、そのような歪み切った精神性は、今になってもこの国に変わらず受け継がれているのである。

だからこそ、この国では未だ若者への搾取と収奪が終わらず、どちらを見ても、弱い者から収奪する以上の考えが生まれて来ないのである。そんな中で、新卒採用されれば幸福だと思うのは大きな間違いで、それはただ騙しと搾取のシステムを気取られないように美しくコーティングしたものに過ぎず、新卒採用された者も不幸であれば、新卒採用から「ドロップアウト」した者たちも不幸で、我が国の不合理な労働市場の競争システムは、結局、どこまで行っても、決して誰をも幸福にしないのである。

こうしたシステムは、我が国のグノーシス主義的世界観から発生している。戦後を経ても、このような価値観に終止符が打たれなかったのは、その背後に、独特の宗教的世界観が横たわっているためである。グノーシス主義思想は、終わりなきヒエラルキーを上昇して行くことを至高の価値とする世界であり、そこでは個人の普遍的な価値というものは、ヒエラルキーの序列の中で定義される相対的なものであって、実際はないに等しい。個人はヒエラルキーの階段を上ってこそ価値が認められるのであり、そのヒエラルキーを温存する場所が、組織や団体である。そこでは、組織や団体の価値観が個人の価値を定義するのであって、組織や団体の生き残りは、個人の生き残りよりも優先される。ヒエラルキーを上った個人は助かるかも知れないが、それ以外の個人は、全体のために犠牲になるのが使命だと考えられているのである。

これは一種の優生思想である。このように、個人の命よりも、組織の面子と生き残りを重視し、そのためならば個人は犠牲にされて構わないとする悪意ある歪んだシステムの中に居続けている限り、たとえ望んでいなくとも、誰もがこの不合理なシステムを助長する駒とされるのは避けられない。

だとすれば、残る道は、そこから脱出することだけである。聖書には、地上の経済がやがて反キリストの王国に集約されることが記されているが、このような悪しきグノーシス主義的世界観に支えられた地上の経済に仕えて生きる生き様そのものから、脱出せねばならない時が迫っているのである。

かくして、筆者は、労働によって人が己の生存を支え、自分で自分を贖うという終わらない苦役をやめて、ただ神の恵みによって生かされる単純な道へ移行することに決めた。

かつて社会主義国ソ連で、詩人ブロツキーが労働に従事しなかったために、当局に呼び出され、「徒食者だ」と非難された(詩人であることは、社会主義国では職業とはみなされなかった)。その国では数多くの人々が無実の罪で投獄され、奴隷的囚人労働に従事させられていた。

我が国の有様は、実のところ、これとほとんど変わらない。我が国が資本主義国であるというのはほんのうわべだけのことで、実質的には、社会主義国とほとんど変わらない現状が広がっている。すでに新卒採用について触れた通り、我が国における労働システムは、ただ単に人が働いて生きる糧を得るための場所ではなく、それ以上のより深い意味を帯びており、結局、それは組織や団体にとって都合の良い人材を育成・確保するための方法論に他ならない。

つまり、社会主義国において行われていた愚かしい「労働による再教育」と同じように、我が国における労働システムも、生涯、プロレタリアートとなって資本家にとって都合の良い労働力の提供者となる者を育成・確保するために、労働による絶え間ない人間性の変革(=再教育)が行われているのである。これはすでに一種の歪んだイデオロギーであり、労働を通じてこのシステムに参加することは、自ら再教育に志願することと同じなのである。

そんな「労働」に寸分たりとも人間性を変える力があると思うのは誤りである。そのような意味においての「労働」には、人間性を貶める以外に何の効果もありはしない。それは人間が自己の力によって自己を変革しようとする偽りの救済システムの一環である。

だから、筆者は「労働によって人が己の罪を贖い、人類が自己浄化をはかる」という、呪われたシステムの体系の外に出ることを決意したのである。

振り返れば、筆者だけでなく、信仰の先人たちはみなほぼ例外なく、この道を辿って来たようである。彼らは世の経済の繁栄のために働いて生きることをやめ、神の国の権益のためにのみ働いた。そして、どんな時にも、彼らは世に助けを求めず、自分たちの窮状や欠乏を信者に巧みにアピールして助けを乞うこともなく、すべての必要を、神が彼らのために信仰に応じて備えて下さるに任せたのである。

筆者の人生にも、そういうことが幾度も起きて来た。筆者自身が働いて自分を養っていると思っていた間も、幾度もそういう不思議が起きて、主が筆者のために必要を天に備えて下さっているのを見せられて来たのである。だから、地上の経済から、天の経済への移行は、筆者がはっきりとその道を自覚する前から、徐々に行われて来たのだという気がしてならない。

このようにして、筆者は、聖書が教えている健全な自立のために信者が手ずから働くことと、信者がこの世の歪んだ市場経済の犠牲となることは、全く意味が違うのだという結論に至りついた。

蒔くことも刈ることもしない野の花も、空の鳥も、神は養って下さっているのだから、人が自分の生活のことで思い煩って、明日の心配をするのをやめなさい、と聖書は言う。主イエスは、人間は鳥よりも優れた者なのだから、どうして神が養って下さらない理由があろうか、だから、人は自分の命の心配を第一として生きるのではなく、神の国とその義を第一として生きなさい、と語られたのである(マタイ6:25-34)。

これこそ、人の生存の基本であると、筆者は考えている。人の生存を保障して下さるのは、天におられる神である。神が心配しなくて良いと言っていることについて、なぜ信者がくよくよと考え、己の力で何とかしようと奮闘する必要があろうか? それよりももっと考えるべきこと、見るべき課題が他にあるではないか。それが神の国の権益である。

おそらく、企業や団体に雇われて働いている人たちには、「こんなにも自分は一生懸命にやっている」という自負があると思われる。彼らには、雇われていない人、働いていない人、働けない人たちに比べて、自分は社会に貢献しており、優位に立っているという自負もあるだろう。だが、それは裏を返せば、それだけ彼らが理不尽を耐え忍んで不満がたまっているということに他ならない。

しかしながら、たとえそのように理不尽を耐え忍んでも、悪事に加担し、己が労働を誇るその生き方からは、何も生まれて来るものはない。この世には、そんなにも一生懸命に「主人」に尽くしていながら、それに見合った対価を受け取っている人はほとんどおらず、多分、あと少しすれば、彼らの努力は本当に全く報われないものになろう。

私たちは、自己の努力によってではなく、神の恵みによって生かされている。世という悪い「主人」によって養われているのではなく、聖書のまことの神というただ一人の「主人」に養われているのである。信ずる者は、世の栄光のためではなく、神の栄光のために生きている。その基本を忘れ、この世を「主人」として栄光を帰する人間は、悪魔に騙され行くだけであろう。

この世の経済はますます追い詰められて滅びに向かっている。人が自分で自分を養っているという自負は、偽りであって、その仕組みは決して成り立たないことだけが間もなくはっきりするであろう。聖書にある通り、魂の贖いしろは高くて、人には払いきれない。

こうした自明の理が明らかになる前に、筆者は滅びゆくバビロンから逃れ、神の恵みによって生きるために、天の経済に移行し、野の花や、空の鳥のように、自由に、さりげなく、生き生きと、被造物としての美しさ、健全さを現して、神に栄光を帰して生きたいと考えている。神はその御言葉の確かさを様々な知恵を通して信じる者にこれからも証明して下さるであろう。