忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神のエコノミー(1) 自己犠牲による借金返済はむなしい

「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝えに基づくものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」(コロサイ2:8-10)

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。」(マタイ25:29)
 

 人間には基本的に二つの生き方しかない。一つ目は、人類の罪という負いきれない借金を自分で背負って、それを何とか自分で返済しようと努力し、もがき、苦しみながら生きていく方法。そこでは、どんなに努力しているつもりでも、借金はあまりにも重く、もがけばもがくほど、利子は増え、負債に負債が増し加わり、せっぱつまって失敗が重なり、やがて自己破産へと近づいていく。それはマイナスの上にマイナスが増し加わる生き方である。

 もう一つは、神によって巨額の借金を全額返済していただき、すっきりと身軽になって、人生の再スタートを切り、その後の人生の行程も、全て神にお任せし、ただ御霊の導きにだけ乗っかって進むという楽な生き方。時に窮乏するように見えることがあるかも知れないが、心にはいつも平安があるので、道に迷って堂々巡りしたり、重荷を負って、きりきり舞いして苦しむということがない(マタイ11:28-30)。
 さらに大きな喜びがある。それは、あなたが神の財産の良き管理人とされ、神の財産を的確に運用することで、それを豊かに増やす使命を帯びていることだ。こうして、あなたの豊かさは、神の財産の利息で暮らしていけるほどになり、あなたは豊かに与えるキリストの性質に自分もあずかり、人にもその豊かさを存分に届けて生きていく者となる。

 この二つの生き方には、決定的な違いがある。あなたはどちらの生き方を選びたいだろうか? マイナスの世界を一歩も出られない、借金まみれの人生か、神にあって、プラスを構築し、豊かな財産を成していく生き方か。負いきれない負債の自己返済という課題だけで一生を終えるのか、それとも、負債などというものから完全に解放されて、キリストの豊かさをさらに増し加え、神に喜ばれる人生を送るのか?

 前回、チェルノブイリ原発事故のリクヴィダートルの話を持ち出したのには意図がある。私たちキリスト者が、十分に気をつけなければならない、ある悪しきイデオロギーについて触れたいと思ったからだ。その悪しきイデオロギーとは、人間の肉による自己犠牲を賛美する思想のことである。私たちはそれを警戒し、退けなければならない。

 キリスト者は、生まれながらの人間による、生まれながらの人間のための自己犠牲を賛美したり、美化したり、それに感謝を捧げたりしてはいけない。そんなものに負い目を感じて、束縛されるようなことがあってはならない。

 神を知らない、生まれながらの人間には、自分のために各種の生贄を要求するわがままさが本能的に備わっている。人間は自分のためにどこまでも利益をもとめてやまず、そのために他人を踏み台にし、犠牲にしてはばからない。他人に犠牲を強いる人間の身勝手な要求は、「道徳」や「慣習」にすりかえられて、公然と幅を利かせているだけでなく、時には、他人に命を捨てることを堂々と求め、他人を生贄とすることを積極的に肯定し、奨励するような、悪しき宗教、思想、イデオロギーを生み出すことがある。

 生まれながらの人間は、元来、自分のために他人が苦しむことを損失と思わず、自分のために他人が死ぬことさえも追い求め、それを「貴い犠牲」として美化し、喜ぶような醜い心を持っている。これは人間の堕落した悪しき性質から出て来るものであり、それが宗教や思想にまで高められると、大変、恐ろしい。

 たとえば、線路に落ちた子供を助けるために、ある青年が線路に飛び降りて、子供の命を救ったが、自分は電車に轢かれて死んでしまった…という事件が起きたとしよう。すると、世間は早速、それを美談として報道する。青年の「隣人愛」や、「自己犠牲の精神」を誉めたたえ、彼が自分を身代わりにして、子供の命を「救った」ことを賞賛するのである。そこには、まるで青年が死んだのは良いことであり、彼の死は「私たちのためでもあった」とでも言いたげな雰囲気がある。青年の命が失われたという損失には注意を払わず、彼が他人の犠牲になって死んだことを美化し、喜ぶのである。

 このような、肉なる犠牲を喜ぶ精神に基づいて判断するならば、チェルノブイリのリクヴィダートルは、まさに「私たちのために自己犠牲を捧げてくれた貴い人たちだった」という結論になるだろう。彼らが悲惨な死を遂げてくれたおかげで、大規模な放射能汚染が食い止められ、残りの人類が、今、安全に暮らせるようになっているのだ…、だから、彼らの「貴い犠牲」によって、私たちは生かされていることを知るべきであり、その恩恵について、彼らに感謝を捧げるべきである、彼らはまさしく人民の英雄だったのだ…という話が出来上がるだろう。
 だが、このような考え方に、キリスト者は絶対に同意してはならない。私はそう信じている。一体、人による犠牲が、人を救い得ようか。そんなものは人間の身勝手によって作り出された考え方、要するに、人身御供の肯定でしかないのである。

 疑いを抱いている人のために、このことが誰にでも分かるように、さらに丁寧に説明しておきたい。かつて、私たちの歴史に、人柱というものが存在していたことがあった。どこまで事実であったのかは分からないが、伝承によれば、たとえば、ある地域で、氾濫を繰り返す河のせいで苦しめられた村人たちが、それが悪鬼の祟りによる仕業だと考えて、悪鬼の怒りをなだめるべく、生きた人間を川岸に埋めて、彼(彼女)を生贄に捧げることによって、氾濫を食い止めようとした…、といった話がある。

 このような話を聞くと、私たちは何という不毛で恐るべき考え方だろうかと、ぞっとするだろう。河の氾濫を防ぐためには、堤防を建設することが必要不可欠なのであり、自分たちの仲間の中から、誰か生きた人間を岸に埋めたところで、何の解決にもならない。そんなものは、損害に損害を増し加えることにしかならないではないかと。

 さらに、今、どこかの火山が大規模に噴火したとしても、その噴火を人柱によって埋められるなどと考える人は一人もいないだろう。たとえ何万人という数のリクヴィダートルを現地に派遣して、噴火口で人柱となって火山灰に生き埋めになってもらったとしても、そんな犠牲によって火山の噴火を食い止めることは不可能だと誰にでも分かる。

 ところが、こういう話を聞いて、何と愚かなことよと言ってせせら笑う人たちが、ほんの数十年前には、我が国で、同じことをやっていたのである。つまり、何らかの巨悪の進出を食い止めるために、人々が次々と己の命を生贄として差し出し、そうすることが美徳とされ、奨励され、強制され、制度化されるような時代がこの国にあったのである(今でも恐らくその精神は残っているだろう)。

 私たちはこのように、「人間の自己犠牲から何かが生まれるという考え、自己犠牲を美化する精神」、「人間の自己犠牲を宗教にまで祭り上げる精神」というものの恐ろしさをよくよく考えてみる必要がある。一体、人が他人のために人身御供となって命を捨てることを、美徳として奨励するような思想に、どんな気高さがあるのだろうか? 自分の身代わりの生贄として、身近な他人を堂々と死に赴かせておきながら、彼らが死んだ後になって、塚や記念碑を立てて、「私たちはあなたの貴い犠牲に感謝を捧げます、私たちはあなたのおかげで今生きられているのです、あなたたちのことは忘れません」などと言うことが、果たして、真実な感謝の名に値するだろうか? 断じて、それは人類の身勝手に身勝手を増し加えた行為でしかない。

 私たちは今、誰のおかげで生きているのだろうか。私たちのために、犠牲となって死んで下さった方はただお一人である。その方の死によって、私たちは生かされ、アダムの堕落以来、絶えることなく続いてきた人類のあらゆる罪の負の遺産から解放されたのである。

 アダムの堕落は、どんな原発事故もかなわないほどの史上最悪の汚染を全地にもたらした。アダムの堕落がなければ、大地は不毛とはならず、人類史には死そのものが持ちこまれていなかった。そのアダムのもたらした問題に、完全な解決をもたらしたイエスの十字架は、その貴い血潮によって、私たちの最悪の借金を棒引きにした。こうして、史上最悪の問題をすでに解決している十字架は、今日的な様々な問題にも、すでに解決を与えて余りあるものなのである。

 キリストの十字架は、あらゆる問題に対する永久不変の万能膏薬である。十字架こそが、私たちを全ての脅威から救いうる、ただ一つの解決である。それがどんな問題であろうと、関係ない。家庭問題であろうと、病であろうと、地震であろうと、戦争であろうと、放射能汚染であろうと…。世の人々はこれを聞いて、愚かな信仰だと笑うだろうが、十字架は救いにあずかる私たちにとっては、「神の力」である(Ⅰコリント1:18)。

 従って、貴い犠牲とは、何か。それは、十字架で血を流された小羊をおいて他にない。私たちのために生きた人柱としてご自分を捧げられたのは、イエス・キリストただお一人であり、その犠牲の御業はすでに完成したので、それ以上の犠牲は、誰にも必要とされていないのである。
 だから、人間の努力によって、十字架に何かを付け加えようとしたり、新たな贖いを作り出そうとする行為や思想を、私たちは、忌むべきものとして、きっぱり退けなければならない。人間によって作り出される様々な犠牲が、私たちを罪による堕落や、脅威から救い出すのではない。
 何度も繰り返すが、私たちを死をもって贖い、生かして下さっているのは、イエス・キリストただお一人である。だから、この方以外の誰かの死や、自己犠牲を、偉業として誉めたたえたり、それが贖いの犠牲であるかのように感謝を捧げることを、忌むべき偶像崇拝として、私たちは退けるべきである。

 人間の肉による自己犠牲を高らかにほめたたえようとする宗教は、神から出て来たのではない、人の肉から出て来た、悪しきイデオロギーである。それはサタンの作り上げた人命の使い捨て思想であり、人殺しの思想であるため、この先も、何らかの脅威を持ち出しては、人類を脅迫し、絶えることなく、その負債の返済のために、人柱を要求し続けることだろう。

 リクヴィダートルが、チェルノブイリから私たちを救ったのではない。チェルノブイリは今も、人類の火薬庫のような脅威として存在し続けているが、あの原発にとっての本番は、恐らく、これからになるのではないだろうか…。リクヴィダートルの犠牲が、痛ましい損失でしかなかったことは、今後、歴史によって、さらに明らかにされるだろうと思う。チェルノブイリのために要求される人柱は、これからも絶えないであろう。

 だが、私たちは感謝しよう、キリストの十字架を信じている私たちは、もはや各種の脅威が迫り来る時、存在もしない何らかの神々の怒りをなだめるために、あるいは、支払いきれない罪という借金を返済するために、自分の命を犠牲にして、人身御供として我が身を差し出すという誤りに陥らなくて良いのである。私たちはイエスの十字架によって、すでにあらゆる脅威から解放されているのである。

 私たちが警戒しなければならないのは、キリストの十字架によらずに、人間が自らの自己犠牲によって、人間を救おうとする様々なイデオロギー、価値観、宗教である。それら人間の努力や、血と汗と涙が結晶化して出来上がっている肉的価値観、肉なる宗教をこそ、警戒しなければならない。それはどんなに犠牲を高らかに謳いあげていようと、結局、負債に負債を増し加える結果にしかならず、生贄の上に生贄を要求するばかりで、貧困から貧困へと落ちていくのである。

 現在、ニッポンキリスト教は、そのような自己犠牲の精神で固められた宗教となっている。そこでは、イエスが完成された十字架の贖いが退けられて、逆に、人間の努力、人間の自己犠牲、人間の血と汗と涙によって作り上げられた計画や運動が、高らかに誉めたたえられている。だが、小羊の聖めの血潮によらないで、どうして人間が救いを得られよう? 「私は神のためにこれほど多くのものを捧げ、これほどの努力をし、これほどに自分を捧げました」と、どれほど自らの犠牲を誇っても、幸福は遠ざかり、苦しみは増し加わり、借金はますます大きくなり、負いきれない負債だけが残るだろう。それはマイナスからマイナスへの人生である。だからカルト化教会には貧困と悲惨と死しかないのである。

 では、そのような永遠に返しきれない借金返済の義務からすでに解放されて、神の財産の管理人となっている私たちは、どのようにしてキリストの豊かさを人々に届ける存在となるのだろうか? どうすれば、その豊かさはプラスからプラスへと増えていき、キリストの満ち満ちた豊かさにまで達するのだろうか。続けて、そのことを見てみよう。

(P.S.朝から3時間以上かけて書いたワード文書が、パソコンがフリーズし、全部、ぶっ飛んでしまった。いささか意気消沈したが、重要な内容だったと思うので、何とか復元に努めた…。ちなみに、ロシア語の聖書で黙示録の「苦よもぎ」にあたる単語はполыньでした。)

PR

乞食から家臣へ

 昨日もいつもと変わりなく日が過ぎた。
 家人と特に話すこともない。今までと何の違いがあるだろうと思うような一日の過ごし方だ。けれども、私の中では、これで大丈夫との確信がある。私がここを出るまで、私は安全である。家人のことはこれ以上、気にかけてはいけない、彼らとの関係について案じてはならない、ただ自分の人生をしっかり歩むことを考えればよい、との安らぎがある。

 主の前で静かに考える時間を持った。そこで得た内容を書き記そう。

「私はこれまで、自分の必要性(欠乏)のためだけに生きて来た。絶え間ない悲しみと痛みが私を苛んでいたので、私にとって、神は不足を訴え、憐れみを乞い、乞食のように必要なものを乞うためだけに存在していた。そこには、神と私との信頼はほとんどなかった。私が一方的に憐れみを乞うだけだったのである。
 だが今後、神と私との関係は、王と乞食のようではなくなり、王と臣下(僕)のようになるだろう。そしてやがてついには、王と王子(王女)のようになるだろう。

 家臣は、王の家来にふさわしく装う。乞食のようにぼろ切れをまとって城門に座っているということはない。家臣には仕事がある、王命を民に伝え、実行に移すという仕事が。乞食のように日がな門に座っていることはない。家臣は毎日、活動する。乞食に活動はない。家臣には威厳がある。乞食に威厳はない。家臣には同僚がいる。乞食に仲間はない。家臣には明日の計画がある。乞食に明日はない。

 私は、右や左の旦那様の気まぐれによって人生を左右される乞食の立場から、王の命令だけによって動かされる家臣へと変わるだろう。どうしてあるキリスト者がこれほど私の注意を引いたのか。それはその人が僕ではなく、息子としての権利を行使して自由に大胆に振舞っていたからではないか。
 私もいずれ、この地上にいながらにして、王の娘として自由に振舞う時がやって来るだろう。たとえキリスト者の使命が、最後には神のために命を捨てるところへと向かっているのだとしても、この世で一度たりとも自由と解放を味わっていない者が、どうして主のために命を捨てることができようか? 奴隷が主君のために命を投げ打つのは当然である。それはただ命令を実行しただけであり、捧げ物にはならない。だが、自由の子が友のために命を捨てるからこそ、それは捧げ物となるのである。

 私は自由の子とされるだろう…。私の態度に、王の威厳が反映され、その日暮らしでない安定感が生まれ、信頼感が生まれる日が来るだろう。世の中がどう悪くなろうと、私は恵みを享受するだろう。それはただ主によってなされるのだ。私の生来の誠実さをたとえありったけかきあつめたとしても、私には到達不可能な場所へ、主が私を連れて行かれるのである。それは神が神ご自身のためになされる回復である。神はご自分の栄光のために花嫁を創られた、だから、神が神のために私を回復されるのだ。私が自分で回復するのではない。

 今回の事件を通して、神はきっと不屈なまでに頑なな私の努力、私の誠実さ、優しさ、人情、そういうものをへし折られたのだろう。何度、努力しても、私の力で家庭の人間関係が少しも回復しなかったのは、そのためなのだ。主の娘として、私が真に回復されるために、何より取り除かれなければならなかったのは、私の人情、優しさ、正義感、善意、義憤、期待だったのだ…。私の『良かれ』と思う気持ち、その『良かれ』を自力で成し遂げようとする気持ちのすべてが、打ち砕かれ、取り除かれなければならなかった。私にとって、それは人としての最高の善意であったが、それは主の御心に反するものであり、私が乞食のぼろ服にしがみつくことを意味していたのである。

 人の善意や情けや正義感のもたらす欺きはまことに深く、それは地獄へと通じている。それは人間による自己栄化、自己救済の道であり、神が死を宣告された旧創造を救おうとする試みだからである。だから、人の目にどんなに麗しく見えても、人の生まれながらの情けや善意、平和を願う気持ちは、すべて堕落しており、紆余曲折を経て、結局、地獄へと通じているのである。

 19世紀のロシアで、60-70年代に、『人民の中へ』運動が盛んになった。教養ある貴族の青年たちが、虐げられている民衆の痛みを放置してはならないと思い、民衆を救い、民衆に負債を返すために、貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆の生活に分け入って行った。

 シオンの娘も、『人民の中へ』のスローガンに同調して、全能主の娘という貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆と一体となった。弱者へのいたわりと、人としての正義感ゆえに、民衆と苦難を共に忍ぼうとしたのだ。しかし、娘は、自らがあれほど憐れんだ民衆の中に、少しの正義も、善意も見なかった。民衆は彼女を嘲笑い、受け入れず、騙し、遊郭に売った。彼女が助けたいと思った民衆は、救済に値しなかったのだ。虐げられた弱者、美しい民衆とは、虚構の概念であった。そして、彼女は王の娘としての位を永久に失ってしまった。もし王が彼女を助けなければ、彼女は自分の正義感ゆえに永遠に滅んだだろう。

 人としての正義感。いたわり。情愛。それは人の目から見てどんなに貴い、麗しいものであろうと、全て救いようなく堕落しており、希望がない。主の目から見れば、それは陰険で、悪質で、曲がりきっており、ゴミ箱で焼却されるしかない、腐臭漂う乞食のぼろ服なのである。主はこのぼろ服を私から取り上げて、別の服を着せたいと思っておられる。王の娘、息子としてふさわしい衣装を。けれど私たちはぼろ服にしがみついて、それを放そうとしない。それが人間としての最高の善意だと思っているから。
 私のぼろ服は、主によって強制的に取り上げられた。そして気づくと、王の娘としての衣装が着せられていた…。」
 


聖なる都、新エルサレム

 先日、私は家人に言った、「今、ほとんどのクリスチャンたちは、まるで分厚い雲のような偽りにごまかされているように思う。私もずっとその下で暮らしてきた。未だにそれ以外の世界を知らない。でも、今から、この雲を突き抜けて、太陽が輝いている世界を見たいと思わずにいられない。どうしても雲の上の世界に行きたいと思わずにいられない…。」

 それはほとんど愚痴のような言葉だった。けれど、今から、思い出すと、その言葉は、私の魂から出たのではなく、主の導きによって与えられたものだったのかも知れない。主は不思議な方法で、今、私の人生に働いておられるが、それを通じて分かることは、いよいよ、私は本格的に地上を離れなければならないということだ。

 私は今までほとんど強制的に地上のものに対して死ぬことを求められて来た。それはいわゆる運命のいたずらによってだった。驚くような事件に遭遇し、地上の宝を失い、自分がどれほど弱く、不完全であるかを思い知らされた。肉なる愛情で私を愛してくれていたはずの人たちが、敵意をむき出しにし、それまでかろうじてあったはずの信頼さえなくなった。
 これら全ては人知を越えた驚くような事件だったが、そうなっても、まだ、私は人生を何とか元の軌道に乗せたいと、そればかりを願ってきた。けれど、その願いはどうやっても叶えられない。いや、叶えられるはずがなかった。それは、私の居場所は元々この地上にはなく、私の幸福は地上にあるのではないからだ。

 地上には、私を完全にするものは何一つとしてない。完全なるものは全てキリストの中にのみ存在する。自己流の方法で自分の不完全さを補おうとすることは、この世への妥協と、霊的な死を招くだけである。
 以下は、オースチン-スパークスの言葉の引用。

「さて、私はとても強い言葉を述べたいと思います。それを受け入れるのは、あなたにとって困難かもしれません。あなたは、この世が呪いの下にあることを、理解しておられるでしょうか?
神は今のこの世の上に呪いを宣告されました。呪いはどのように表れるでしょう?呪いのあるところには挫折の法則が働きます。あなたはそこそこ進めるだけで、それ以上進むことはできません。人間生活はそこそこ進んで、それでおしまいです。完全と完成に至るまで進み通すことはありません。すべてが不完全であり、死によって挫折させられます。
イエス・キリストが話されたある男は、一生の間に大量のたくわえを積み上げて、ほくそえんで自分に言いました、『魂よ、もう引退することができる。自分のために大量のたくわえを積み上げたのだから、食べて、飲んで、楽しめ』。しかし、神は言われました、『愚か者よ、今夜お前の魂は取り去られる。お前が用意したものは、誰のものになるのか?』(ルカによる福音書12章20節)

 呪いと死は、人のもくろみがすべて挫折することを意味します。人間生活に言えることは、この世にも言えます。ああ、何と多くの人が挫折という堅固な壁を打ち破ろうとしてきたことでしょう!今日、人は何と遠い道のりを進んできたことか!25年前に今日の様子を告げられていたら、あなたはそれを決して信じなかったでしょう。そうです、人はとても長い道のりを進んできました。月に到達しさえしたのです――そして、誰かの指がボタンを押すだけで原子爆弾の投下が始まり、人の業は一瞬のうちにすべて一掃されてしまいます。すべての人がこの可能性を知っていますし、まさにそうなるであろうことを神の言葉はとても明確に告げています。呪いがこの世の上に臨んでいるため、この世は決して完成に至ることはありません。

 私が言っているのはこういうことです。もしあなたと私が霊の中でこの世に束縛されるなら、私たちは霊的死の下に来ることになるでしょう。聖霊に敏感なクリスチャンは誰でも、この世に触れる時、何かが間違っていると感じるでしょう。そして、『私は下って来てしまいました。この呪われた世に触れて、私の霊の中に死が感知されました』と反応するでしょう。

 この地上の霧を超越しない限り、神に属する事柄は決して見えないでしょう。もしあなたが自己の生活に下るなら、それは挫折です。もしあなたがこの世の生活に触れるなら、それは挫折であり、霊の中でこの世を超越しない限り、神に属する事柄は見えないでしょう
『私は御霊の中にいた。また、私は大きな高い山の上にいた。そこで私はあるものを見た』。この言葉はとても単純であり、とても意義深いです。ご覧のように、これらがクリスチャン生活の霊的原則であり、とても現実的です。私たちがこれについて知ることを私は希望します。」

 私がすべきことは地上の事柄に完全に死んで、地上の偽りと欺きとごまかしの霧を抜け出し、霊的な目で、高みに立って、新エルサレムなるエクレシアを見ることだ。実は、そうしようと思うよりも前に、すでにそこに引き入れられている幸いがあるのだが、ただ現象としてのみ、それを感じるのではなく、しっかりと目を開いて、肉眼ではなく、霊的な目で、今目の前に起ころうとしていることが何であるか、理解する必要がある。

クリスチャン生活はキリストが増し加わることです。これが私たちに対する聖霊のすべての取り扱いの理由です。なぜなら彼の唯一の目的は、教会をキリストの豊満にもたらすことだからです。キリストの豊満とは何か知りたければ、聖なる都、新エルサレムというこの象徴的表現を見ればわかります。」

「あなたは自分の人生の中に主イエス・キリストを受け入れたでしょうか?受け入れた後、自分をさらに十分に占有することを彼に許してきたでしょうか?あなたの人生でキリストは絶えず増し加わってきたでしょうか?これが裁きの規準であり、中に入れるか外にとどまるかを決定するものです。」

 私はこの世に死するために、今の状況をくぐらされたのだった、そのことが今日ほどはっきり分かったことはなかった。ただ主だけに従うために、父母、きょうだい、友人…、肉なるもの全てを失った。そうである以上、ここで、失ったものに、未練を感じたり、引け目を感じ、元の生活に戻ろうとしてはいけない。この世ときっぱり訣別し、この世に死んだ以上、新しい目的地を目指すべきである。

 向かうべき先は、キリストが満ち満ちておられる栄光の都。嵐の日に船が積荷を海に投げ捨てるように、私は目的地へ向かうために、無用な荷をまず捨てた。目的地のことを思う時、畏怖の念に近い感動がこみ上げて来る。
 天路暦程の主人公と同様に、私は確かな目的へ向かって旅をしている。新エルサレムという都へ向かって。もちろん、すでに私自身が都の一部としての性質を持ってはいるのだが、同時に、キリストのさらなる豊満を求めて旅は続く。

「都は統治の座であり、命の水の川は御座から流れ出ていることがわかります。ですから、すべてを生み出すのは御座です。この意味はおわかりでしょう!それは神と小羊の御座です。一言で言うと、それはイエス・キリストの絶対的主権を意味します。万物のまさに中心に、イエス・キリストの統治があります。この統治は彼の十字架の効力によるものであり、小羊としてです。他のすべてのものは、イエス・キリストが占められる地位に全くかかっており、私たちがどれだけ彼に自分を委ねるかに全くかかっています。もし私たちが自分を全く主に委ねており、彼が全く主であるなら、命が流れるでしょう。そして、命に関して述べたことが、私たちの間で実現されるでしょう。それはイエス・キリストへの絶対的明け渡しの証しになるでしょう。」

 夕刻に庭を歩くと、涼しい風の中、それぞれに美しい色とりどりの各種の花が、皆一様に、太陽に向かって顔を上げていた。何という不思議だろう。全ての花が太陽に向かっている。それと同じように、永遠なるもの全てが、キリストの御座に向かって顔を上げている。キリストの御座から流れ出る川が、一切の命の源だからである。命なるキリストに向かうところに、一切の信仰の歩みがある。

 私の心は畏怖の念に包まれる。ああ、目指すべきはただキリスト、キリストだけ。他に何もない。今も将来も、向かうべきはただキリストだけ。

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがた満たされるように、と祈る。
 どうかわたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることのできるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世よ限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:16-20)