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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

主が地の面に雨を降らせる日まで 壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。

「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。

アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。

アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。

アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」

ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。

ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。

主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。


アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。」(創世記 13:1-18)


* * *

検察庁の人事介入法案の今国会での強行採決は見送られたが、廃案になるまで予断を許さない状況にある。政府与党はあくまで秋の臨時国会で成立を目指すとしているからだ。

そこには、今回は国民がコロナ禍でステイホームしていたからこそ、この法案に対する反発も起きたのであり、緊急事態宣言が全国で解除されて、再び、経済活動が盛り上がり、多くの人々が労働に時間を費やせば、ツイッターなど投稿している暇もなくなるだろうから、この法案への反発も、あっけなく忘れ去れるだろうとの思惑が見て取れる。

要するに、そこまで国民は侮られているということだ。緊急事態宣言が解除されれば、「休ませてやったんだから、働け!」とばかりに、締めつけが強化される事業もあろうし、もしくは、倒産や解雇によって明日をも知れない立場になった人々は、もはや法案どころではなくなる、という考えがあるに違いない。

しかしながら、今回、安倍政権に対して多くの人々が抱いた嫌悪感・悪印象は、そう簡単には変わらないだろう。また、この先、コロナ禍で弱者が切り捨てられれば切り捨てられるほど、ますます政権与党に対する反発は強まるだろうと思う。

ところで、検察庁OBの迫力ある意見書もさることながら、以下の記事の解説も面白かった。

検察OB意見書が引用したジョン・ロックの訳者は安倍首相の大学時代の教授! しかも「無知で無恥」と安倍首相を徹底批判 (LITERA 2020.5.18)

今回、国会で政権与党が強行採決に及ぼうとしていた法案は、首相に対する刑事告発の動きに先手を打ったものだとも言われる。
 
桜を見る会巡り首相を刑事告発へ 弁護士ら500人以上(朝日新聞 2020.5.16)

窮地に追い込まれた安倍首相…法曹界500人に告発される危機(朝鮮日報 2020.5.18)

弁護士や法曹界の500人もが、現職首相に対する告発状を提出するなど、前代未聞の事態だ。これまで解釈改憲など、禁じ手を使っては、法の趣旨を次々と捻じ曲げて来た安倍政権に対する危機感と反発が、これまでになく世論において高まったことそれ自体は歓迎すべきだ。

だが、次の記事を読む限り、首相が現職であり続ける限り、刑事裁判において起訴される見込みは薄いという。

ところで日本の首相は「弾劾」できるのか(Yahoo!ニュース板東太郎2019.12.19)

法曹界の人々は、当然ながらこういった事情は承知の上で、刑事告発に踏み切ったのであろうが、重要なのは、人数の多さではなく、どのくらいその訴えに勝算があるかだ。

感情論や、美的修辞だけでは、魑魅魍魎には勝てない。着実に退任までの道筋を思い描けるようでなければだめなのだ。しかも、今や行政と一体化したような首相をである。

首相は在職中でも、逮捕されること自体は有り得ると上記の記事は告げている。今回の告発は、世論の反発の高まりにより、首相を退任に追い込み、その後で、起訴へと持ち込みたい、という思惑に基づいてだろうか。

鍵を握っているのは、法曹界の人々ではなく、国民だ。首相を退任に追い込むほどの世論の動きがなければ、何事も始まらない。 喉元過ぎれば…では、この国は壊滅状態に陥る。国民は分断されないでいられるか。注目である。

* * *

コロナ禍が過ぎれば、労働市場においては、さらに厳しい淘汰が始まると筆者は見ている。奈落に向かって沈没している日本経済を立て直すことは、国民の総力を挙げたインパール作戦のようになるだろう。

第二次補正予算案に関連するニュースの中には、国民への再度の一律10万円の給付は含まれていない。かえって、企業への家賃補助、雇用調整助成金の引き上げと、企業に対する支援策だけが並ぶ。コロナ禍を生き残った企業だけを助けたい、という思惑が見て取れる。

さらに、二次補正予算案に組み込まれる予定というみなし失業の問題についても、あくまで雇用されている従業員だけが対象だという。

しかしながら、休業補償を給付金で支給するという形にすれば、あまりにも多くの問題が生じることが予想される。

1.政府から休業者への直接給付が行われる際、給与と給付金との二重取りの不正をどうやって防ぐのか対策がない(=不正の温床となる恐れ)。
2.雇用保険に加入していないアルバイトもオンライン申請可能という状況では、雇用もされてない架空の人物が請求することも可能となる(給付金目当ての詐欺的申請が殺到)。
3.そもそも雇用調整助成金を申請せず、雇用保険もなしに労働者を雇うような企業が、労働者から要望があったからと言って休業証明書をすんなり出してくれるのか(ブラック企業に雇用されている従業員は依然、対象外となる恐れ。)
4.企業から労働者に休業手当が払われた場合には税金と保険が控除されるが、給付として支給される場合には控除がないので、企業がまっとうに休業補償を行った場合よりも、給付金の方が多くもらえるという矛盾が生じかねない。
5.企業が助成金を申請したが、手続きが遅く、給付を受けるまでが長いので、その間に、労働者が先に休業給付金を受けとろうと申請し、事後になって清算が必要となるケース(これも二重取りのようなもの)に対策がない。
6.なぜ失業者には雇用保険や貸付制度しか用意せず、休業者だけには手厚い保護をするのか。緊急事態宣言が解除されるまでの期間については、失業者と休業者を同等に扱うべきであろう。 

すでに政府が用意している企業のコロナ対策としての雇用調整助成金においても、企業が助成金を懐に入れて従業員に渡さないなどの問題をどう解決するのかという対策がない。

その上、最も救済すべき弱者を見殺しにしたまま、またも新たに不正の温床となりかねない制度を創設するのか?

こうした施策を見ている限り、政府は、労働人口しか「生きた人間」と見ていないのではないかと見られる。倒産した企業は補償の対象外。失業した国民も補償の対象外。働けなくなった人々は、死者と同じで、国家のお荷物として見られ、ただ政府に税金をおさめるために働き続ける余力が残っている人々だけが、「生きた人間」として換算され、支援の対象とされる。

このような考えは、まさに強い企業と、強い労働者だけを勝ち残らせるためのインパール作戦としか見えない。

しかし、それも 日本型雇用における過酷な就職戦争が行き着くところまで行き着いた結果なのだ。

もちろん、その作戦では、強い者も含めて、誰一人生き残ることはできない。ムラ社会としての側面が会社から消え去る代わりに、過去な成果主義による競争が始まるだけだ。

コロナ禍が始まった頃、首相が第三次大戦を口にしたことを覚えているだろうか。過去の東京オリンピックも、日中戦争がきっかけとなり、幻に終わったが、今始まっているのは、誰が労働市場において最後まで淘汰されずに生き延びるかという過酷な見えない戦争であるように思われる。

政府は「お国のために働く者だけに価値がある」として、強い者だけを強め、弱い者を搾取して犠牲にしながら、誰も生き残れない戦争を展開しているようにしか見えない。そこにあるのは、強い者だけが生き延びるに値するという淘汰の思想である。

そんな中で、私たちが目指すべき目的は何か。

アウシュヴィッツのガス室行きの列車をできるだけ早いうちに降りることだろう。

収容所の前で、「右」「左」と言われねばならない立場を抜け出ることだ。

アウシュヴィッツでも、労働に値しないと見なされた人々は、ただちにガス室送りとなったが、労働に値すると言われた人々も、誰一人、「自由」など手にしなかったのである。

自由とは、囚人労働を終えること、アウシュヴィッツの外に釈放されることにこそあった。

労働すなわち「密室」なのである。

* * *

最近、筆者は自分よりも弱い者に対しては、自分の持っている武器を行使しないことに決めた。

武士は刀を使うためでなく、使わないために携帯している。

ある人が「裁判という伝家の宝刀を使えないのは苦しい。まるで債務者が神様になっている」と、愚痴をこぼした。

それを思い出し、筆者も、筆者にとっての「債権回収」を行うに当たり、自分にとって最も価値ある武器を封印することに決めた。手元に竹槍しかなくとも、そういう武器しか持っていない相手には、同じ武器しか使わないことに決めたのである。

だが、その竹槍も、ゴリアテを倒したダビデの石つぶてのように、神が信仰によって強めて下さる。

筆者はある時期まで、法律を尊重し、法律の守り手である裁判所にも、非常な敬意を持ち、そこにこそ、筆者のために行使されるべき最後のなけなしの正義が眠っているように考えていた。

もちろん、そういう側面は、裁判所には大いにあるだろう。裁判を受ける権利は誰でも持っているし、裁判所は追い詰められた市民のために正しい裁きをなすべきである。

だが、筆者は、自分のための最後の静かな一区画が法廷の中に保たれなくなり、法廷の外に立って扉を叩くという立ち位置に置かれたのを機に、地上のいかなる場所であろうと、そこが筆者のために残された最後の神聖な場所であるかのような考えを捨てた。

そして、地上の裁判所に対して持っていた思い入れを、天の法廷に取り変えるため、手放すこととしたのである。

それに伴い、地上のすべての場所は、そこを占めたいと考えている人々に譲ることにした。

そうこうしているうちに、コロナウィルスが従来の口頭弁論のあり方も変えてしまった。2025年には、紛争当事者は裁判所へ足を運ぶ必要さえなくなるという発表もある。

それを聞くと、ますます、この地上では、家であろうと、法廷であろうと、職場であろうと、教会であろうと、他のいかなる場所であろうと、大勢の人々が一か所に集まり合うことで、自己同一性を確認し、同じ思いを共有し、言葉を述べあって、互いを確認するというコミュニケーションが、終わりを迎えつつあると感じた。

あの衝立で囲まれた小さな一区画――それが筆者と地上の法廷との最後の接点のであり、そこで宣言された宣告――それが、おそらく地上における筆者と法廷との最後の出会いだったのではないか。

それ以後、目で見て、耳で聞き、感覚的に相手を確かめることにより、物事の真相を見極めようとする手法が、徐々に廃れて行っただけでなく、ついには中止(消滅)にまで追い込まれたのだ。

だが、それはとても良いことである。

裁判官はしょせん人間であって、神ではない。地上の裁きに100%の正しさは有り得ない。不完全と分かっているものの中にとどまっていれば、それはやがて「密室」化する。

あの時に一堂に会した人々が掴みかけた何かの完成、神聖で厳かな争いの終結宣言――本当は、その時、すべてが終わっていたのである。

そんなこともあって、終わっているはずのものを引き延ばそうとしても、無駄なのだ。それはつまり、人間と人間とが一堂に会し、互いに目で見えるところでコミュニケーションを取り合い、五感によって、真実を確かめ、それに至ろうという考えは、すべて終わったことを意味する。

筆者は、追い詰められていた時には、ほんのわずかでも、自分に助けの手を差し伸べてくれる人間には、多大なる感謝の言葉を述べて、恩義を感じたものだが、決して、その人自身や、その出来事が起きた場所に、正しさがあるわけではない。

見える帰属先によすがを見いだす生き方そのものを、放棄する頃合である。

アブラハムはロトと土地を分けたとき、肥沃なソドムの土地をロトに譲って、自分は残された土地を所有した。

アブラハムはロトに対して目上の立場にあったにも関わらず、自分が得をする選択をしなかった。

このことはキリスト者の生き方において、極めて重大なことであるように思われる。

自分が損をするように振る舞えば良いと言うのではない。

アブラハムは、神ご自身がそうであるように、他人の心の自由を尊重し、決してそれを妨げる行動をしなかった。また、他人の意思を曲げて、人を押しのけてまで、自分がこの世における富を得て、自分が有利になるよう行動することがなかった。

アブラハムは、ソドムの地を失った時点で、この世においては、敗北者に見えたかも知れない。

だが、神は、地上の富の代わりに、天の莫大な富をアブラハムのために約束しておられることを、ロトが去った後で、彼に告げられた。

神は、アブラハムが地上の富に目を留めなかったことを良しとされたに違いない。

(しかも、アブラハムはこの世において決して貧しい人ではなかったことを考えれば、神はアブラハムにこの世の富を与えなかったわけでなく、彼はこの世の不正によって得られた富に関心を払わなかったのである。)
 
だから、筆者は、この地上のいかなる場所をも占拠しないし、そこが自分の居場所だとも言わない。地上を占拠したいと思う人々がいれば、それを妨げるつもりはないし、押しのけられた時、戦って居場所を取り返そうともしない。

また、他人に対して優越を誇らない。たとえ自分が正しいと分かっているときでも、その結論を他人に押しつけることはしない。「どうぞあなたはあなたのやり方でやって下さい」と言って、そこを静かに退くだけだ。

肉においてならば、筆者にも、誇れるものはある。戦えば、武器になるものはあるだろう。だが、それを誇示せず、行使せず、むしろ、役に立ちそうな武器をことごとく捨てて、人間の目からは無防備に見える状態で、相手の意思に任せよう。

アブラハムは、ソドムがやがて滅びることを、その当時は、知らなかったであろうが、それは決定事項であったと筆者は思う。

他人を押しのけて、その人が本来、手に出来たものを奪い取っても、それが、末永く祝福をもたらすことは決してない。まして神の人から奪い取ったものが、役立つことはない。

ロトは聖書において「義人」と呼ばれてはいるが、アブラハムに対する態度、また、ソドムに天幕を移して住んだこと、ソドムからの脱出の仕方などを考えれば、アブラハムに匹敵する信仰があったとは思えない。

そういうわけで、筆者は、アウシュヴィッツの前で「あなたは労働に値しない」と宣告されれば、「そうですか」としか答えないことに決めた。

「あなたはひ弱だし、他にもいろいろと欠点があって、我々の求めている基準値に到底、達し得ません。あなたは我々の求めているノルマを果たせません。あなたが我々の仲間になろうとしても、無駄です。あなたは我々に合いません。考え方が全く違います。ここにいても、あなたが苦しいだけだ。去りなさい・・・」

筆者は心の中で静かに答える。

「そうですね、私はあなた方が求めている高すぎるノルマや基準に、到底、達しないことは確かです。あなた方の求めているような成功と豊かさに、私は値しないし、それを模索するための力にもなれないのでしょう。

でも、私は知っています、あなたがたが運営しているのは、収容所であって、自由な家ではないと。どんなにそこに長く暮らしても、あなたがたが吹聴している豊かさにも、自由にも至り着くことはないと。私にはそこに入るために必要な罪状も刑期ももともとありません。だから、私があなたたちと一緒にいられないのは当然なのです。私には天の家に入るための別の住民票があります。ですから、私にふさわしい場所へ行きましょう・・・」

人が自分で自分を贖うための終わりなき苦役に救いはなく、自由も、成功も、豊かさもない。人類の負債が負い切れないほど重いからこそ、そこでは、働けば働くほどますます負債は重くなっていくだけなのだ。

筆者には、そんな果てしない負債を担わなければならない義務がない。

筆者の仕事は天の債権の回収である。

だが、その「債権」は、あくまで天で発行された債権だから、それを行使するためには、この世で最も弱い武器を使うのが一番なのだ。最大の債務者すなわちサタンは、まるでこの世の神のように横柄に振る舞っている。彼はどんな禁じ手でも使えるし、どんなに卑劣な武器でも行使できる。

彼は圧倒的な権威を振りかざして、私たちを威圧し、私たちに一切の口答えを許さず、有無を言わさず、恐怖によって従わせようとする。

だが、筆者は、そういう手段を使うことなく、あくまで最も弱い武器で勝負することに決めた。それはその戦いが筆者のものではなく、天におられる神のものであることが分かるためにだ。

もしも私たちが地上にある何かに固執するならば、それが人であれ、物であれ、場所であれ、お金であれ、それらはすべて私たちを閉じ込める「密室」と化すだろう。

ロトは振り向いて言う、「本当ですか。本当にこの地を私に譲ってくれるんですか。あなたは私にチャンスを与えてくれるんですね、ありがとう。きっとここに豊かな城を築いてみせますよ」

そして、ソドムへ向かって意気揚々と歩き去る。

筆者は、残された場所で、天の星を見上げる。ロトの選んだ町は神の目に適わない。いつか、ソドムとゴモラへの裁きの時が来るのは分かっている。だが、重要なのはそれではない。

私たちが目指している天のふるさとだ。

この世が何度、滅びても、尽きることのない永遠の命。私たちが自己の労働によって稼ぎ出すのではなく、恵みによって与えられる命。

今、この手にしているものがどんなに小さく、みすぼらしく思えても、神はそれを祝福して用いることができる。

だから、地上から目を離して、天に目を上げなさい。上にあるものを見なさい。あなたのために
約束された豊かな土地が、数えきれなほどの収穫が見えて来るだろう。

「主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。
「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがを飽かせるであろう。」」(詩編81:16-17)

主が地の面に雨を降らせる日まで
 壺の粉は尽きることなく
 瓶の油はなくならない。」(列王記上17:14)

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わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるからである。

「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:5,9)

新年から取り組んでいた課題は無事に果たされ、提出が終わった。今また新たな書面作りの作業に取り組んでいる。ブログを書いている時間がないのはそのせいであるが、この上なく充実した時間である。この書面作りこそ、筆者の真の仕事だという気がしてならない。

しかし、これまでを振り返ってみると、毎年2月は筆者にとって一年の中でも最も困難で憂鬱な時期であった。越冬のための力が、1月後半頃からじわじわと尽きて来て、2月に入る頃には、もうすすっかり活動エネルギーがなくなってしまっている。

そこで、2月から3月の頭に差しかかる頃が、一年の中で最も困難な時期となる。この頃になると、身も心も冬眠状態に入り、毎年、3月にたどり着く頃には、まるで発芽を待っている種のごとく、春を待つのがやっとという状態になる。

だが、今年は冬に重要な仕事が山積しており、ここからが正念場である。寒さになどやられているわけには行かない。

そういうわけで、今年は2月を元気に無事に乗り越えることを、昨年末からの課題にしていた。が、あいにく、精神論だけでは乗り越えられない。1月末になる頃には、早くも大きな壁にぶつかった。寒さの中で、分厚い書類を作り続けていたために、体にしわよせが来て、ここ何年間も発症してなかった持病が現れて来たのである。

とはいえ、持病と言っても、筆者には特に病気があるわけでもなく、ただ寒さが身に堪えると、体に負担がかかるだけだ。だが、これが本格的に発症すると、二週間ほどは寝たきりになりかねず、そんなわけには絶対に行かない。

ここはもう物理法則を打ち破る復活の命の力による上からのエネルギーによって強められるしかないと、筆者は祈った。筆者自身の人間的な限界では、とてもではないが、これほど大きな課題を、このような困難な時期に果たすことはできない。

そこで筆者は、もう何年間も、経験していないような上からの力を、主に乞うたのである。はっきりと声に出して主に助けを求めた。

キリストの復活の命の中を生きるとき、人は自分の生来の命の力ではとても成し遂げられないような大作業を軽々とこなすことが出来るようになる。山のように恐ろしい課題が目の前に山積しているときでも、未だかつて取り組んだことのない困難な事業に取りかかろうとしているときにも、しかも、誰一人その負担を理解する者もなく、共に負う者もないような時でも、圧倒的な平安が心を包み、勝利の歌が心の中で聞こえるのである。

それはまるで恵みの御座のそば近くで、命の川からじかに水を汲んで飲んでいるような具合である。

親猫が子猫の背中をくわえ、ひょいと上に持ち上げるように、あるいは、大きな鷲が、自分のヒナを足でがっしりと掴んで、高く天まで舞い上がるように、まるで自分のものではない大きな力で、何もかもを下へ下へと引き下げようとするこの世の重力に逆らって、上へ上へと高く持ち上げられるような具合なのだ。

この世の全ての重荷、自分自身の重さが、感じられなくなり、自力ですべてを成し遂げようとしていた時の苦しみに比べ、すべてのことが、軽やかに、鮮やかに、そして、喜びと平安の中で成し遂げられるようになる。

とはいえ、それは人の霊の内、心の内で起きることがらであって、外見的には何の変化も見られない。気温が変わるわけでもなければ、自分の周囲の環境が見違えるように変化するわけでもない。目の前に広がっている光景は相も変わらず、凡庸に見え、そして自分自身の生来の弱さも変わらず、物理的な世界は何も変わらない。

変わっているのは、その人の内側だけなのである。ところが、その内側から、この世の目に見える世界を覆すような圧倒的な力が外にあふれ出して来る。凡庸で何一つ心を揺さぶることなく、むしろ、厳しい限界を突きつけるだけの現実の只中に、すべてが完全であり、美しく、調和の取れて、制限されることのない、もう一つの「現実」が、上からかぶせられるがごとくに、二重に重なるのである。

その結果、この滅びゆく世界を眺めていてさえ、そこにまぶしく、輝くような真新しい喜びに満ちた「現実」が、満ち溢れていることが見えて来るのである。

これは本当に不思議なことである。滅びゆくこの世の秩序体系の上に、永遠に滅びることのないもう一つの天的な法則性が「上から着せられる」のである。
 
たとえは悪いかも知れないが、それは事故を起こして放射能漏れを起こす原子力発電所に、これ以上、世界に害をまき散らさないようにと、石棺をかぶせる作業にも似ているかも知れない。石棺は必ず劣化して、いつしか修復が必要になるが、天的な秩序は、この世のすべてを覆い、劣化することなく、決してこの世の物理法則によって触れられることがない。

しかも、石棺は、何らその下に覆われているものを修復することができず、生かす力もなく、ただ滅びゆく物質の醜さ、恐ろしさ、有害性を束の間、覆い隠すだけであるが、キリストの復活の命に基づく天的秩序は、その中に覆われ、くるまれた滅びゆくものに、朽ちない新たなエネルギーを供給し、全く新たに完全に生かすことができる。滅びゆくものの醜さや害悪を覆い隠し、これを殺し、汚れのない新しい命により生かし、完成されて調和の取れた美へと変えて行くのである。

筆者は、キリストの復活の命を通して、そのような新たな力が、自分自身だけでなく、筆者を通して、周りの環境にまで及んでいることが分かった。二つの現実が筆者の前に見える。一つは、今まで通りの不完全な朽ちゆく世界の秩序であり、その上に、それと非常によく似ているが、贖われて完成された、喜びに満ちたもう一つの秩序が重なっている。まことに、被造物が贖われるときを待ち望んで呻いているというのは、こういうことかも知れない。
 
私たちは贖われた世界をまだ肉眼で見ていないにも関わらず、その秩序が「すでに到来している」ことを霊の内で知っている。

このように、キリストによって新たに生かされた人は、その内側に、はかりしれない神の永遠の命を持っており、そこから、この世のすべての物理法則の限界、人間自身の有限なる命の限界を打ち破って、この世の被造物の限界を軽やかに乗り越えながら、すべてを新たに生かし、生み出す力が、外へ流れ出て来る。

これは無から有を生み出すことのできるエネルギーである。だが、この新しい命のエネルギーは、決してその命を持っている人を超人にすることはないし、そのエネルギーによって周囲を圧倒することもない。

これはとても自然でさりげない隠された命で、主を喜ぶことと一つにつながっている。この命は、十字架上ですべてを成し遂げて下さったキリストへの賛美と一つにつながっている。パウロとシラスが投獄されていた時に、獄屋を震わせたあの力は、主がカルバリで取られた勝利の命に基づいている。

しかし、その力は、決して見る者を圧倒し、なぎ倒すような非人間的なエネルギーではない。その力は、私たちの弱く脆い天然の命や、限界ある自己存在を圧倒したり、脅かすことがなく、これと優しく同居し、これを包むことができる。

この新たな命は、御霊の油となって、私たちのひび割れて劣化して隙間だらけとなった自己存在の只中から、芳しい香油のように、外へ外へと溢れ流れ出て来るのである。

筆者はこの命のエネルギーを何にたとえるべきか分からないが、その力が行使されるには、私たちの心からの神への賛美が必要であることを知っている。この力が内側からあふれ出て来るためには、私たちの心が、神と争いがなく、透明で、真っすぐである必要がある。そのような心の状態をキープする時、まさに主は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注いで下さるという、あの詩編の御言葉が成就するのである。

また、その油は、私たちの心からの神への愛と賛美に基づいている。それはすべての逆らうものを包み込んで行くような愛である。洪水のような愛と言っても良いだろうか。洪水は常に恐ろしいものであるが、愛が洪水のように流れるならば、それは人間にとって決して恐ろしいものとはならないはずである。

私たちがキリストの復活の命の中を生き生きと歩むとき、目に見えない洪水が起きる。世の中は相も変わらず、私たちの限界も相も変わらないが、その限界の只中から、新しい生き生きとした命のエネルギーが、目に見えない洪水のように外に流れ、溢れ出し、すべてのものを新たに生かし、私たちの魂は喜びに満ちる。

私たちの心は、まるで雲間が晴れて、遮るものがなくなった青空のように、神との間に妨げがなく、「すべては終わった」という勝利に立つことができる。

その時、すべてのこの世の喧騒は、はるか足の下にある。問題はなくなっていない。未だ目の前に山積している。それにも関わらず、すべては終わった、勝利は取られた、という確信が心の中に揺るぎなくあり、私たちは大胆に勝利の歌を歌うことができるようになる。

これまで筆者は、様々な個人的問題に直面した際に、一つ一つ、信仰によって勝利をおさめる術を学んだ。だんだんその戦いのスケールが大きくなっているのを感じる。現在、筆者が直面する課題は、もはや筆者個人の利益を回復するためだけにあるものではなくなり、個人を超えたもっと大きなスケールで、この世に対する衝撃力をもたらすための戦いへと変わりつつあるのだ。

これまでに筆者は、自分個人のために、たくさん戦って来た。だが、その戦いが一定量に達したとき、これまで積み上げて来た経験を、もはや自分個人のためにではなく、筆者の知らない大勢の人々のために、社会のために、あるいは教会のために、あるいは神を知らない人々のために、筆者とは縁もゆかりもないように見える人々のために、用いなければならないと考えるようになった。

とはいえ、このことは決して筆者が何かしらの社会事業に乗り出すことを意味しない。新たに慈善団体を立ち上げたり、社会改革の旗を掲げて、組織を作ったり、人を集めることも意味しない。そのようなことではなく、筆者の生き様そのもの、存在そのものが、もはや個人のレベルを離れて、筆者が見たこともなく、知ってもいない大勢の人たちに、そして筆者の知らない未来にまで影響を及ぼすために、捧げられたと分かるのである。

もちろん、筆者は神に仕えて生きることを第一としているため、社会のために身を捧げるなどと言うつもりはないが、それにしても、神への愛の中に、すべての被造物への愛が内包されている。神を第一として生きることは、神が造られた被造物を愛することと決して矛盾しない。そこで、この道を行くならば、どこかの時点で、人は必ず、自分自身のために生きることを離れ、自分の存在を、神に捧げるのみならず、人々のためにも喜んで捧げられるようになるだろう。
 
繰り返すが、そのことは、決してその信者が、この世に迎合し、人間の欲望の奴隷として生きることを意味しない。人々に仕えると言っても、それはあくまで十字架の死を通してである。あくまでこの世に対してはりつけにされて死んでいる者の立場からである。

だから、筆者は多分、自分のしていることが、この世の誰にどのように利益をもたらすのか、きっと最後までわからずじまいであろうと思う。筆者が成し遂げたことが、筆者が生きているうちに、筆者自身の栄光となって帰って来ることは、まずないであろうと思う。それで全く構わないし、それで良いのだ。
 
この世の評価などとは全く関係なく、筆者には、神との間で争いがなく、愛を持って、互いに頷き合うことのできる関係があることの方が、はるかに重要である。神に受け入れられているという喜びに満ちた確信、そして、筆者自身も、自分を贖って下さった神に従いたいという願いを持って、互いに承認し合う関係があることが、何より重要である。

神との間に何一つ隔てとなるものがなく、筆者のために必要なことをすべて神がキリストの十字架の上ですでに成し遂げて下さっという、この喜びに満ちた勝利の確信を、常に心に保ち続けることこそ、信仰生活を最後まで勇敢に力強く歩み通すための最たる秘訣である。

私たちは、この限界ある世に、信仰によって、神の完全を引き下ろすために生きている。神の国は、私たちの存在を通して、すでにこの世に来ている。神はご自分が完全であられるように、ご自分の子供たちにも、完全であって欲しいと願っておられる。そのことを、私たちは改めて思い出す必要がある。

そこで、私たちは大胆に御名によって権威を行使して、神が我々のために用意して下さった完全を地に引き下ろすべきである。その時、すべての痛んだ箇所、ひび割れた箇所、すべての隙間、弱さに、御霊の油が染み透り、ひび割れを覆い尽くして流れるであろう。

神の完全が地に現されるために必要なすべてを、主は予め天に備えて下さっている。主の御名は誉むべきかな。 
 
「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの者は加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:28‐34)


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(7)

オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。


神の国の秩序

先日、母と買い物に行った際、以前のようなやり取りが再燃し、危うく口論になりかけた。だが、もつれかけた話の最後に、私がエクレシアの話を始めると、母はそれまでとは打って変わって、とても興味深そうな表情になって、真剣に耳を傾けてくれた。
 そして、今回の私の出発は、私の個人的な人生の再スタートなどではなく、主のご計画の中に、私がすでに組み込まれていることの確かな証拠なのだと私が言うと、そのことを信じてくれた。

 母は当初、こう言っていた、「この不況の中で生きていくんだから、あんたはこの先、わがまま言って仕事を選んだりせずに、どんなことでもやって、人にも取り入って、懸命に努力して、自分に力があることを世の中に証明していかなきゃいけないよね。頑張ってそれをやってね。」 私はそれを聞いて、笑いながら否定した、「いやー、私の努力なんて、もう必要ないんだよ。私の能力なんて、そんなのあるのかどうかも知れないけど、そんなものを世に証明する必要も、なくなったんだよ。要するに、『自己実現』ってものが、全く必要なくなったの。私が懸命に頑張って、この世の中で自分の力を証明するなんてことは、もう要らないんだよ。だって、すべては私の努力でなくて、主がなして下さることなんだから! 私はその導きに乗っていけばいいだけなの!」

 もしもこの会話を人が聞けば、「この人は普通じゃない」と思われるだろう。怪しげなカルト宗教にはまって、きっと思考がおかしくなっているに違いないと…。だが、私は母の前でさらに大見栄を切った、「ねえ、お母さん、この先、私に何が起こるかよく見ていてね。もし主が私と共におられるなら、私は絶対に以前のような貧困には落ちないから。もしもこの先、不況だからって、私が生きるか死ぬかの崖っぷちの人生を、必死に努力して、喘ぎ喘ぎ生きていくんだったら、そこには何の不思議もないよね。そこには、神様の導きも、栄光も、祝福もなくて、誰でも想像できる、ありふれた人生があるだけだよね。
 でも、神様の御心は、私が平安の中で安息することなの。だから、私は今、職もないし、この先の人生のあても、さっぱりあるわけじゃないけど、これだけは、はっきり確信できる、神様はこの先、私が窮乏生活を送るんじゃなくて、豊かに自由に生きられる道を必ず開いてくださる。これは私の努力で達成できることじゃないからこそ、そこに神様の栄光が現れるんだよ」

 これは、世間の耳には、とてつもない楽観か、狂信者のたわごと、大言壮語にしか聞こえない言葉だと思う。何しろ、識者たちは、不況はまだまだこれからが本番になると言っている。この先、雇用情勢がどれほど悪化するかも分からないし、どのような経済危機が発生するかも分からない。そんな中で、20代の若さもなく、空白のない履歴書も持たず、コネもなく、親戚の一人もいない見知らぬ土地に、手ぶら同然で出かける人間が、どうやって、惨めに人様の憐れみを乞わずに生きられるのだろうか。にも関わらず、私が出発前に、不安に悩むどころか、これほどの大見栄を切っているのを世間が聞けば、これはただの阿呆に違いないと、一笑にふされておしまいになるだろう。

 だが、私は今後の生活が守られることを不思議な確かさで信じている。イエスは、弟子たちを町に派遣する前に、手ぶらで行けと言われた(マタイ10:9-10)。主のための働き人が糧を得るのは当然であると。神によって生まれた者は皆、神のための働き人である。備えは私たちの側にあるのではなく、いつも主の側にある。
 そして、私は母に言った、「今回、お父さんお母さんが私のためにしてくれたことは、私にしてくれたんじゃなくて、私を助けることを通して、神様に捧げたんだよ。聖書に書いてあるでしょ、この小さき者にしたのは、わたしにしたのだって。水一杯恵んだだけでも、忘れられることはないって。

 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)。

 だからね、お母さんお父さんの捧げものが、何倍にも祝福されて返って来ることを、私は疑ってない。もしも、我が家が、私を援助したせいで、財政が傾いて、極貧の生活に落ちるんだったら、それこそ、神様の名折れだよね。そんなことは絶対に起こらない。だから、私たちは全員、この先、豊かに与える神様の性質を、これでもかというほど実感しながら生きることになると思うよ。祝福から祝福の中を生きるようになると思う。この先、私も守られるだろうけれど、我が家もきっと守られるでしょう、だから私は何も心配していないの」

 そのことを言うと、母も、すでにこれまでにも、神様の導きとしか思えない不思議な方法で、自分たちの生活が守られて来た実感があると教えてくれた。私と家人とは、まだ同じ信仰を共有しているとは言い難いが、そこにどうやって主が働かれるのか、信頼して、期待しながら、余計なことは何もせずに、御手にお任せしている。

 そんなわけで、主の導きに従って一歩を踏み出す時には、いつも水の上を歩くような感じがある。ある人は、これを人間のガンバリズムと勘違いし、私が危険を冒して、主のために大胆に勇気ある行動に出ようとしている自分の努力を世に誇り、自分のアクロバット的な歩みを見せびらかすために、このようなことを言っていると考えるかも知れない。
 だが、そうではないのだ。それは、自分で同じことをやってみれば、誰にでも、すぐに分かる。水の上に一歩を踏み出して、歩き出そうとしている時に、自分のアクロバット的な努力を世に見せびらかしたり、誇ったりできるような心理的余裕が、果たして、人にあるだろうか?

 そこには、人間の努力なんてものは存在する余地がない。あるとすれば、ただ信仰による応答があるだけだ。誇れるものがもしあるとしたら、自分の弱さにも関わらず、神の強さを信じているその信仰を誇ることができるだけだ。信じるということ以外に、何一つ頼れるものはない。だから、イエスの道に一歩を踏み出すその瞬間は、いつでも、自分の魂にとっては一つの死であるとさえ言える。この先、自分が水に飲まれて死んでしまわないという保証はどこにもないが、それでも、イエスを信じて、一歩を踏み出す。そこに日々の十字架がある。自分の努力によって一歩を踏み出すときには、必ずある程度、将来が予測でき、ある程度、達成が見えているものだが、主を信じて一歩を踏み出す時には、いつも、あてがなく、この先に何が起ころうとしているか不明であり、どんな達成があるのかすら、全く予想がつかない状況で、そこに身を投じることになる。

 にも関わらず、そこには恐れではなく、平安があるのだ。いや、人間の弱い魂には不安がよぎることもあるが、霊においては、絶対的な安心感が伴っており、喜びさえあり、すべてが成就しているということが予め分かるのだ。だから、一歩を踏み出すと言いながらも、休みつつ歩いている感じなのだ。

 それは、イエスの負いやすいくびきを担い、イエスが完成された道に歩んでいるからだ。

 さて、以前の記事の中で、私は神のエコノミーなどという使い慣れない用語を使って、御国の法則について説明しようとした(神のエコノミー(オイコノミヤ)とは、御国の秩序、御国の統治形態、御国の法則全体を指していると私は解釈している。)が、その言葉は私にはかなり不慣れな扱いにくいものなので、ひとまず、ここでは、御国の秩序という簡単な言葉を使うことにしたい。

 「…わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ12:28)とイエスは言われた。このことは、御国の秩序が、人となって地上に来られ、バプテスマと聖霊を受けられた御子イエスを通して、地上に実現したことを意味する。

 御国の秩序とはどのようなものか。次の通りである、

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
 彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである、
 彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
 彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
 彼らはあわれみを受けるであろう。
 心の清い人たちは、さいわいである、
 彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。」  (マタイ5:3-10)

 イエスは山の頂きに座して、ご自分も安息されながら、弱く打ちひしがれた人々を御元に集めて、彼らにも、安息の時が到来したことを告げられた。すなわち、イエスを通して、御国の秩序が、神を信じる人々のもとにやって来たことを告げられた。その御国の秩序とは、人に安らぎをもたらすものであり、人を罪と死とあらゆる汚れ、捕われから解放するものであり、人に神の無尽蔵の富を豊かに分かち与えるものであることを告げられた。御国の秩序のあるところには、自由があり、汚れたものの一切が追放され、まことの命の豊かさが惜しみなく現れ出る。

 御国の住人として(エクレシアとして)召し出されている人々は、神を抜きにして幸せ一杯に、満ち足りて、悠々自適に暮らしているこの世の人々とは一線を画している。召し出された者たちは、この世においては、絶えず心の飢え渇きを覚えている人たちだ。彼らは、この世においては、悩みが絶えない。病や貧しさや困難に絶え間なく見舞われ、人よりも不幸に見える人生を送っていることも多い。またイエスの名のゆえに迫害されていることも多い。彼らは戦闘的ではなく、心優しい、謙った人々であるがゆえに、この世では軽んじられ、見下され、侮られている。彼らはこの世に正義がないことを知っており、神の義だけを切に求めている。彼らは神に出会って、慰めを得て、解決を得られる時を切に待ち望んでいる。

 こうした人々が主に出会って、心から慰めを得、神の義を見て、満足し、平和を見て、満ち足りるようになることが、御国の秩序が到来することの結果である。その御国は、イエスと共にすでに神を信じる者たちのもとに到来している。聖霊が私たちの内に住まわれることによって、すでに私たちの只中に成就している。神の国とは、私たちが死後になってやっと手に入るようなものではない。

 だが、肉なる人間は、御国とは何であるかを理解できない。そこで、いつも経済的祝福や、病からの癒しなど、この世的な現象、奇跡的な祝福にばかり注目し、尋常でないいくつかの現象だけを取り上げては、それが神のご性質の全てであるかのように騒ぎ立てる。そこに大きな間違いがある。イエスの時代にも、群集の多くが、イエスが病を癒されると、その奇跡だけに注目し、パンと魚を増やされると、その奇跡だけに熱狂し、そして同じような奇跡が再び起こるのを見たいという衝動だけから、イエスに着いて行った。

 だが、神の国とは、そんな個々の現象にとどまらない、一連の秩序体系を指す。人知では理解できない、霊的な、見えない秩序が、御国の秩序なのであり、その秩序に従って、イエスは不思議な御業を行われた。その神の国が、神を信じる者たちのもとにすでにやってきていることをイエスは告げられたのだ。だが、このすでにやってきているということの意味が、またまた、人知では理解できない。そこで、神の国の意味を誤解した人々は、弟子訓練などの各種の方法論を通して、改めて神の国を地上に大規模に「建設」しようとなどと考え始める。そこにも大きな間違いがある。神の国とは、地理的領土のことではなく、この世的な、人間による支配体系のことでもなく、神の御心に沿って作り出される、御霊による、見えない秩序のことである。そして、その御国の秩序に従って、イエスはこの地上での業を成され、イエスが天に昇られた後、御霊によって生まれたクリスチャン一人ひとりが、イエスと基本的に同じ働きを任されているのである。クリスチャンたちの只中に、すでに御国はあるのだ。

 肉なる人は、しるしと不思議と奇跡という、現象や結果ばかりをいつも追い求めているが、私たちクリスチャンがいただいているのは、そのような一切の現象を引き起こす源であるイエスであり、まことの命である聖霊であり、見えない秩序である神の国である。

 神の国の法則に従って起こることが、世の人々には常に奇跡のように見えるのは、御国の秩序と、この世の秩序が決定的に異なっているためである。しかし、神の視点から見れば、転倒しているのはこの世の秩序なのであり、イエスが行われたことは全て、御心にかなったあるべき秩序なのである。

 だから、そのことを思う時、私は、この先、クリスチャンの間にまことのエクレシアが建て上げられていくに連れて、私たち一人ひとりのクリスチャンも、ますますイエスに似た者とされて行き、使徒のように大胆な働きをするようになり、各種の聖霊の賜物が、豊かに現れて来るだろうと思わずにいられない。

 神の国のはかりしれない秩序を、クリスチャンは内側にすでにいただいている。外見的には、みすぼらしく、取るに足りない、いつも危機に晒されて、追いつめられているようにしか見えない、弱く、脆い器である私たちの日々の営みを通して、神の国の圧倒的な秩序が、否応なしに、この世に流れ出て、現実化していくところを、私たちは今後、これでもかと言うほどに、目撃させられることになるだろう。こうして、初めは小さな種であった御国は、大きな木へと成長し、私たちの内側から、光が輝き出て、生ける水の川々が溢れ、流れ出すようになる。エクレシアが建て上げられていく時、神の国の秩序とは何なのか、まことの命の豊かさとは何なのか、神のご性質とは何なのか、その人知でははかり知れない不思議さ、豊かさを、私たちは隅々まで味わい知るだろう。そして、神の義の現れを見て、その中で歓喜し、主をほめたたえるだろう。
 

その道は聖なる道

「あなたがたは弱った手を強くし、
 よろめくひざを健やかにせよ。
 心おののく者に言え、
 『強くあれ、恐れてはならない。
 見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
 神の報いをもってこられる。
 神は来て、あなたがたを救われる』と。

 その時、見えない人の目は開かれ、
 聞こえない人の耳は聞こえるようになる。
 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
 口のきけない人の舌は喜び歌う。
 それは荒野に水がわきいで、
 さばくに川が流れるからである。
 焼けた砂は池となり、
 かわいた地は水の源となり、
 山犬の伏したすみかは、
 葦、よしの茂りあう所となる。

 そこに大路があり、
 その道は聖なる道ととなえられる。
 汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
 愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 そこには、ししはおらず、
 飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
 その所でこれに会うことはない。
 ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 主にあがなわれた者は帰ってきて、
 その頭に、とこしえの喜びをいただき、
 歌うたいつつ、シオンに来る。
 彼らは楽しみと喜びとを得、
 悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ35:3-10)


 イエス・キリストは、ご自分と共に、神の国がこの地上に来たことを告げられた。イエスは御霊の導きに従って、神の国の法則を地上に現され、さまざまな不思議な御業を成された。その時には、神の国は、御子イエスお一人の中に限定されて働いていた。だが、イエスは、弟子達にも、「聖霊を受けよ」と言われた。その言葉は、イエスが天に昇られた後で、現実となった。聖霊が信徒たちにも下った。それにより、神の国は、地上においてキリストの内でそうであったのと同じように、私たちクリスチャン一人ひとりの只中に、存在するようになった…。

 そういう話を、私は長い間、単なる教義として聞いて来た。その現実としての意味の大きさが分かっていなかったのだ。

 ところが、今、「神の国」が、私たちの只中に来ている。そのことを確かに私は実感して、喜ばずにいられない。今、私や愛する兄弟姉妹の只中に、神の御国が種蒔かれ、根づき、幹や枝を伸ばし、葉をいっぱいに生い茂らせている。しかも、イエスがそうであられたように、「家造りらが捨てた石」が、エクレシアの土台として集められている。所属する場もなく、無用なものとして打ち捨てられていた羊が、主によって、御国の成員として呼び集められ、エクレシアが着実に成長して行っていることを知る時の、何にもまさる大いなる喜び!

 エクレシアが建て上げられて行く、その奇跡のような主の御業を、今、私は現実に、こんなにも間近に見ている。その体験に自分もあずかっていることの光栄と、不思議さを思う。私は今、まさに使徒の時代の続きを生きていることを実感している…。

 あるキリスト者が、交わりの際に教えてくれた、「ヨハネの福音書の終わりにはどう書いてあるか覚えてますか? 『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』と書いてあるでしょう? つまり、ヨハネの福音書は完結していないんですよ。今もまだ、イエスの御業はずっと続いているんですよ。私たちはもしかしたら、ヨハネの福音書99巻目くらいの時を生きているのかも知れませんよ。」

 この会話を通して、私はその人と全く同じ実感を共有していることを知った。すなわち、私たちは、エクレシアが建て上げられていくまさにその歴史的時代を生きているのだ。福音書の続きを、使徒行伝の続きを生きているのだ。イエスが天に昇られるのを見送った後の弟子達と同じ心境で、その続きの時代を生きている。内にキリストをいただきながら、私たちは初代教会のクリスチャンたちとまさに同じ気持ちで、主に相見えることを待ち望みながら生きているのだ。

 目には見えず、文字にも記されていないが、私たちは今、聖書の名も知れない登場人物として、今の時代の使徒たちやクリスチャンと一緒になって、信徒の家々や名もない教会を行き来しているように思う。イエスの弟子達は、再臨のイエスに生きてお会いできるという希望を持ちながら、地上での生涯を全うしただろう。私たちも同じ希望を抱いており、イエスにお会いすることが、切なる望みである。だから、いつ主が来られても良いように、準備を整えて待ち望み、思いの一切を、キリストに捧げ、キリストに出会う時を、ひたすら喜びを持って待ち望む。主を待ち望むことがエクレシアの仕事であり、それが花嫁の花婿に対する愛の証であり、私たちの希望の全てである。

 パウロは言った、「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」(Ⅱコリント3:3)

 聖書の御言葉には限りがあり、ページ数にも限りがあるが、主の霊は、文字に限定されたり、時代に限定されることなく、今日も生きて働いている。御霊は、クリスチャンを通して働く。クリスチャンは一人ひとりがイエスの証人であり、生けるキリストの手紙である。私たちが伝道に携わるかどうか、メッセージを語るかどうか、あるいは毎日、聖書を何ページ読み、御言葉を人に語り聞かせるかどうか、そんな事に全く限定されず、パウロは、内にキリストをいただいている私たちの存在そのものが、(つまり、私たちの信仰、生き様、行動、言葉、交わり、日々の暮らしぶり、生きていることそれ自体!が)、キリストの手紙の内容なのだと教えている。つまり、新生したキリスト者そのものが、キリストの手紙なのであり、その内容は、私たちの心の板に、日々、御霊によって新たに書かれるのである。

 だから、私たちは御霊に導かれて、素朴な人生を生きるということを実践することにより、確かに、福音書の続きを、使徒の働きの続きを生きているのだと言えよう。それは決して、聖書に付加されることのない、目に見えない、人に知られない歴史であり、私たち一人ひとりは、自分がまるで取るに足らない人物のようにしか感じられないのだが、それでも、御心に従って歩むことにより、確かに、神のご計画の欠かせない一部となっているのである。私たち一人ひとりが、使徒時代のクリスチャンたちと何ら変わりない重要性を帯びて、地上に存在している。世に宣伝されることなく、人の目からも、隠されるだろうキリスト者の地道で素朴な歩みだが、私たちの一歩一歩から、初代教会にあったような愛の一致による交わりが、キリストの花嫁としてのエクレシアが確かに姿を現すのだ。

 この道に歩んでいると、毎日が、驚きと喜びの連続である。私が少し前に御国のために蒔いた種が、今日、早くも、正確に100倍に祝福されて帰ってくるのを目のあたりにした。主のために捧げたものは、何一つ、忘れられることはない、と信じてはいたが、こんなにも早く、そのようなことが起ころうとは、予想だにしていなかったので、私はただ主を畏れ、崇めることしかできなかった…。
 天に宝を積めと言われていることの意味を、今や理解しないわけにいかない。地上での相場は変動するが、御国の相場は決して変動しない。御国ほどに、私たちに豊かな利息を約束してくれている富の預け先は他にない。もしも有益な投資先を探している人がいるならば、その人は、虫もつかず錆びもつかない天の御国に、全能の父なる神の御旨に全財産を投資しておくのが最善である…。

 神はご自分に忠実な民に驚くほど気前良く恵んで下さり、また、多くの楽しみを授けて下さり、必ず、安全を確保して下さる。そのことを、私は日々、確かめている。そんなわけで、かつては自分をカインやエサウになぞらえていた私だが、その頃には、自分とは全く縁のない登場人物のように思っていたエノクや、ヨセフすらも、今では極めて身近に感じられるようになった。

 ヨセフには、主によって管理の賜物が豊かに与えられていた。神が常にヨセフと共におられたので、彼は何をしても栄えたし、権威者から絶大な信頼を得て、全ての管理を任され、周囲の人々に、惜しみなく恵みを流す管となった。また、エノクは何か偉業を成し遂げたわけではないが、人に知られざる人生を、素朴に、しかし、絶えず神と共に歩んだ。そして、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24) これは何と素晴らしい人生の終わり方だろう。

 神はご自分に従って歩む民に、平安と、安全と、豊かな恵みと、優れた賜物とを惜しみなく与えて下さる。だから、私たちが本当に主に従って歩むならば、豊かに与える神のご性質が、私たちを通して、必ずはっきりと周囲に表れずには置かないだろう。荒野のように荒れ果てた人生も、豊かに水の流れるオアシスに変えられ、過去の取り返しのつかない過ちも、拭い去られ、深い嘆きは、喜びへと変えられ、悲しみの涙は最後まで拭われる。どんな悪意をもった人間も、もはや、あなたを害することはできない。汚れた者はあなたに手を触れることができない。十字架によってあがなわれた者しか通ることのできない、聖なる道を、あなたは、キリスト者は進んでいるのだ。

 キリストと共に御座に着く、ということに、私は次第に近づいて行っているのではないかと思う。御座とは、全ての業を終えて休む安息の場であり、恵みの川の源である、と、教えられた。最近、私は主の恵みの中で、安息のうちに休んでおり、平和で素朴な(しかし驚きの絶えない)人生を送ることに専念している。今まで私のブログはまるでドタバタ劇の実況中継のようだったが、これから先は、主にあっての平安と喜びが中心に据えられるだろう。

 最後に、私たちに対する主のご計画は、まだまだ始まったばかりだということを思い出すために、次の測り知れない約束をも書き記しておこう。

 「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)