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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神の国の秩序

先日、母と買い物に行った際、以前のようなやり取りが再燃し、危うく口論になりかけた。だが、もつれかけた話の最後に、私がエクレシアの話を始めると、母はそれまでとは打って変わって、とても興味深そうな表情になって、真剣に耳を傾けてくれた。
 そして、今回の私の出発は、私の個人的な人生の再スタートなどではなく、主のご計画の中に、私がすでに組み込まれていることの確かな証拠なのだと私が言うと、そのことを信じてくれた。

 母は当初、こう言っていた、「この不況の中で生きていくんだから、あんたはこの先、わがまま言って仕事を選んだりせずに、どんなことでもやって、人にも取り入って、懸命に努力して、自分に力があることを世の中に証明していかなきゃいけないよね。頑張ってそれをやってね。」 私はそれを聞いて、笑いながら否定した、「いやー、私の努力なんて、もう必要ないんだよ。私の能力なんて、そんなのあるのかどうかも知れないけど、そんなものを世に証明する必要も、なくなったんだよ。要するに、『自己実現』ってものが、全く必要なくなったの。私が懸命に頑張って、この世の中で自分の力を証明するなんてことは、もう要らないんだよ。だって、すべては私の努力でなくて、主がなして下さることなんだから! 私はその導きに乗っていけばいいだけなの!」

 もしもこの会話を人が聞けば、「この人は普通じゃない」と思われるだろう。怪しげなカルト宗教にはまって、きっと思考がおかしくなっているに違いないと…。だが、私は母の前でさらに大見栄を切った、「ねえ、お母さん、この先、私に何が起こるかよく見ていてね。もし主が私と共におられるなら、私は絶対に以前のような貧困には落ちないから。もしもこの先、不況だからって、私が生きるか死ぬかの崖っぷちの人生を、必死に努力して、喘ぎ喘ぎ生きていくんだったら、そこには何の不思議もないよね。そこには、神様の導きも、栄光も、祝福もなくて、誰でも想像できる、ありふれた人生があるだけだよね。
 でも、神様の御心は、私が平安の中で安息することなの。だから、私は今、職もないし、この先の人生のあても、さっぱりあるわけじゃないけど、これだけは、はっきり確信できる、神様はこの先、私が窮乏生活を送るんじゃなくて、豊かに自由に生きられる道を必ず開いてくださる。これは私の努力で達成できることじゃないからこそ、そこに神様の栄光が現れるんだよ」

 これは、世間の耳には、とてつもない楽観か、狂信者のたわごと、大言壮語にしか聞こえない言葉だと思う。何しろ、識者たちは、不況はまだまだこれからが本番になると言っている。この先、雇用情勢がどれほど悪化するかも分からないし、どのような経済危機が発生するかも分からない。そんな中で、20代の若さもなく、空白のない履歴書も持たず、コネもなく、親戚の一人もいない見知らぬ土地に、手ぶら同然で出かける人間が、どうやって、惨めに人様の憐れみを乞わずに生きられるのだろうか。にも関わらず、私が出発前に、不安に悩むどころか、これほどの大見栄を切っているのを世間が聞けば、これはただの阿呆に違いないと、一笑にふされておしまいになるだろう。

 だが、私は今後の生活が守られることを不思議な確かさで信じている。イエスは、弟子たちを町に派遣する前に、手ぶらで行けと言われた(マタイ10:9-10)。主のための働き人が糧を得るのは当然であると。神によって生まれた者は皆、神のための働き人である。備えは私たちの側にあるのではなく、いつも主の側にある。
 そして、私は母に言った、「今回、お父さんお母さんが私のためにしてくれたことは、私にしてくれたんじゃなくて、私を助けることを通して、神様に捧げたんだよ。聖書に書いてあるでしょ、この小さき者にしたのは、わたしにしたのだって。水一杯恵んだだけでも、忘れられることはないって。

 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)。

 だからね、お母さんお父さんの捧げものが、何倍にも祝福されて返って来ることを、私は疑ってない。もしも、我が家が、私を援助したせいで、財政が傾いて、極貧の生活に落ちるんだったら、それこそ、神様の名折れだよね。そんなことは絶対に起こらない。だから、私たちは全員、この先、豊かに与える神様の性質を、これでもかというほど実感しながら生きることになると思うよ。祝福から祝福の中を生きるようになると思う。この先、私も守られるだろうけれど、我が家もきっと守られるでしょう、だから私は何も心配していないの」

 そのことを言うと、母も、すでにこれまでにも、神様の導きとしか思えない不思議な方法で、自分たちの生活が守られて来た実感があると教えてくれた。私と家人とは、まだ同じ信仰を共有しているとは言い難いが、そこにどうやって主が働かれるのか、信頼して、期待しながら、余計なことは何もせずに、御手にお任せしている。

 そんなわけで、主の導きに従って一歩を踏み出す時には、いつも水の上を歩くような感じがある。ある人は、これを人間のガンバリズムと勘違いし、私が危険を冒して、主のために大胆に勇気ある行動に出ようとしている自分の努力を世に誇り、自分のアクロバット的な歩みを見せびらかすために、このようなことを言っていると考えるかも知れない。
 だが、そうではないのだ。それは、自分で同じことをやってみれば、誰にでも、すぐに分かる。水の上に一歩を踏み出して、歩き出そうとしている時に、自分のアクロバット的な努力を世に見せびらかしたり、誇ったりできるような心理的余裕が、果たして、人にあるだろうか?

 そこには、人間の努力なんてものは存在する余地がない。あるとすれば、ただ信仰による応答があるだけだ。誇れるものがもしあるとしたら、自分の弱さにも関わらず、神の強さを信じているその信仰を誇ることができるだけだ。信じるということ以外に、何一つ頼れるものはない。だから、イエスの道に一歩を踏み出すその瞬間は、いつでも、自分の魂にとっては一つの死であるとさえ言える。この先、自分が水に飲まれて死んでしまわないという保証はどこにもないが、それでも、イエスを信じて、一歩を踏み出す。そこに日々の十字架がある。自分の努力によって一歩を踏み出すときには、必ずある程度、将来が予測でき、ある程度、達成が見えているものだが、主を信じて一歩を踏み出す時には、いつも、あてがなく、この先に何が起ころうとしているか不明であり、どんな達成があるのかすら、全く予想がつかない状況で、そこに身を投じることになる。

 にも関わらず、そこには恐れではなく、平安があるのだ。いや、人間の弱い魂には不安がよぎることもあるが、霊においては、絶対的な安心感が伴っており、喜びさえあり、すべてが成就しているということが予め分かるのだ。だから、一歩を踏み出すと言いながらも、休みつつ歩いている感じなのだ。

 それは、イエスの負いやすいくびきを担い、イエスが完成された道に歩んでいるからだ。

 さて、以前の記事の中で、私は神のエコノミーなどという使い慣れない用語を使って、御国の法則について説明しようとした(神のエコノミー(オイコノミヤ)とは、御国の秩序、御国の統治形態、御国の法則全体を指していると私は解釈している。)が、その言葉は私にはかなり不慣れな扱いにくいものなので、ひとまず、ここでは、御国の秩序という簡単な言葉を使うことにしたい。

 「…わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ12:28)とイエスは言われた。このことは、御国の秩序が、人となって地上に来られ、バプテスマと聖霊を受けられた御子イエスを通して、地上に実現したことを意味する。

 御国の秩序とはどのようなものか。次の通りである、

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
 彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである、
 彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
 彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
 彼らはあわれみを受けるであろう。
 心の清い人たちは、さいわいである、
 彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。」  (マタイ5:3-10)

 イエスは山の頂きに座して、ご自分も安息されながら、弱く打ちひしがれた人々を御元に集めて、彼らにも、安息の時が到来したことを告げられた。すなわち、イエスを通して、御国の秩序が、神を信じる人々のもとにやって来たことを告げられた。その御国の秩序とは、人に安らぎをもたらすものであり、人を罪と死とあらゆる汚れ、捕われから解放するものであり、人に神の無尽蔵の富を豊かに分かち与えるものであることを告げられた。御国の秩序のあるところには、自由があり、汚れたものの一切が追放され、まことの命の豊かさが惜しみなく現れ出る。

 御国の住人として(エクレシアとして)召し出されている人々は、神を抜きにして幸せ一杯に、満ち足りて、悠々自適に暮らしているこの世の人々とは一線を画している。召し出された者たちは、この世においては、絶えず心の飢え渇きを覚えている人たちだ。彼らは、この世においては、悩みが絶えない。病や貧しさや困難に絶え間なく見舞われ、人よりも不幸に見える人生を送っていることも多い。またイエスの名のゆえに迫害されていることも多い。彼らは戦闘的ではなく、心優しい、謙った人々であるがゆえに、この世では軽んじられ、見下され、侮られている。彼らはこの世に正義がないことを知っており、神の義だけを切に求めている。彼らは神に出会って、慰めを得て、解決を得られる時を切に待ち望んでいる。

 こうした人々が主に出会って、心から慰めを得、神の義を見て、満足し、平和を見て、満ち足りるようになることが、御国の秩序が到来することの結果である。その御国は、イエスと共にすでに神を信じる者たちのもとに到来している。聖霊が私たちの内に住まわれることによって、すでに私たちの只中に成就している。神の国とは、私たちが死後になってやっと手に入るようなものではない。

 だが、肉なる人間は、御国とは何であるかを理解できない。そこで、いつも経済的祝福や、病からの癒しなど、この世的な現象、奇跡的な祝福にばかり注目し、尋常でないいくつかの現象だけを取り上げては、それが神のご性質の全てであるかのように騒ぎ立てる。そこに大きな間違いがある。イエスの時代にも、群集の多くが、イエスが病を癒されると、その奇跡だけに注目し、パンと魚を増やされると、その奇跡だけに熱狂し、そして同じような奇跡が再び起こるのを見たいという衝動だけから、イエスに着いて行った。

 だが、神の国とは、そんな個々の現象にとどまらない、一連の秩序体系を指す。人知では理解できない、霊的な、見えない秩序が、御国の秩序なのであり、その秩序に従って、イエスは不思議な御業を行われた。その神の国が、神を信じる者たちのもとにすでにやってきていることをイエスは告げられたのだ。だが、このすでにやってきているということの意味が、またまた、人知では理解できない。そこで、神の国の意味を誤解した人々は、弟子訓練などの各種の方法論を通して、改めて神の国を地上に大規模に「建設」しようとなどと考え始める。そこにも大きな間違いがある。神の国とは、地理的領土のことではなく、この世的な、人間による支配体系のことでもなく、神の御心に沿って作り出される、御霊による、見えない秩序のことである。そして、その御国の秩序に従って、イエスはこの地上での業を成され、イエスが天に昇られた後、御霊によって生まれたクリスチャン一人ひとりが、イエスと基本的に同じ働きを任されているのである。クリスチャンたちの只中に、すでに御国はあるのだ。

 肉なる人は、しるしと不思議と奇跡という、現象や結果ばかりをいつも追い求めているが、私たちクリスチャンがいただいているのは、そのような一切の現象を引き起こす源であるイエスであり、まことの命である聖霊であり、見えない秩序である神の国である。

 神の国の法則に従って起こることが、世の人々には常に奇跡のように見えるのは、御国の秩序と、この世の秩序が決定的に異なっているためである。しかし、神の視点から見れば、転倒しているのはこの世の秩序なのであり、イエスが行われたことは全て、御心にかなったあるべき秩序なのである。

 だから、そのことを思う時、私は、この先、クリスチャンの間にまことのエクレシアが建て上げられていくに連れて、私たち一人ひとりのクリスチャンも、ますますイエスに似た者とされて行き、使徒のように大胆な働きをするようになり、各種の聖霊の賜物が、豊かに現れて来るだろうと思わずにいられない。

 神の国のはかりしれない秩序を、クリスチャンは内側にすでにいただいている。外見的には、みすぼらしく、取るに足りない、いつも危機に晒されて、追いつめられているようにしか見えない、弱く、脆い器である私たちの日々の営みを通して、神の国の圧倒的な秩序が、否応なしに、この世に流れ出て、現実化していくところを、私たちは今後、これでもかと言うほどに、目撃させられることになるだろう。こうして、初めは小さな種であった御国は、大きな木へと成長し、私たちの内側から、光が輝き出て、生ける水の川々が溢れ、流れ出すようになる。エクレシアが建て上げられていく時、神の国の秩序とは何なのか、まことの命の豊かさとは何なのか、神のご性質とは何なのか、その人知でははかり知れない不思議さ、豊かさを、私たちは隅々まで味わい知るだろう。そして、神の義の現れを見て、その中で歓喜し、主をほめたたえるだろう。
 
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その道は聖なる道

「あなたがたは弱った手を強くし、
 よろめくひざを健やかにせよ。
 心おののく者に言え、
 『強くあれ、恐れてはならない。
 見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
 神の報いをもってこられる。
 神は来て、あなたがたを救われる』と。

 その時、見えない人の目は開かれ、
 聞こえない人の耳は聞こえるようになる。
 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
 口のきけない人の舌は喜び歌う。
 それは荒野に水がわきいで、
 さばくに川が流れるからである。
 焼けた砂は池となり、
 かわいた地は水の源となり、
 山犬の伏したすみかは、
 葦、よしの茂りあう所となる。

 そこに大路があり、
 その道は聖なる道ととなえられる。
 汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
 愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 そこには、ししはおらず、
 飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
 その所でこれに会うことはない。
 ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 主にあがなわれた者は帰ってきて、
 その頭に、とこしえの喜びをいただき、
 歌うたいつつ、シオンに来る。
 彼らは楽しみと喜びとを得、
 悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ35:3-10)


 イエス・キリストは、ご自分と共に、神の国がこの地上に来たことを告げられた。イエスは御霊の導きに従って、神の国の法則を地上に現され、さまざまな不思議な御業を成された。その時には、神の国は、御子イエスお一人の中に限定されて働いていた。だが、イエスは、弟子達にも、「聖霊を受けよ」と言われた。その言葉は、イエスが天に昇られた後で、現実となった。聖霊が信徒たちにも下った。それにより、神の国は、地上においてキリストの内でそうであったのと同じように、私たちクリスチャン一人ひとりの只中に、存在するようになった…。

 そういう話を、私は長い間、単なる教義として聞いて来た。その現実としての意味の大きさが分かっていなかったのだ。

 ところが、今、「神の国」が、私たちの只中に来ている。そのことを確かに私は実感して、喜ばずにいられない。今、私や愛する兄弟姉妹の只中に、神の御国が種蒔かれ、根づき、幹や枝を伸ばし、葉をいっぱいに生い茂らせている。しかも、イエスがそうであられたように、「家造りらが捨てた石」が、エクレシアの土台として集められている。所属する場もなく、無用なものとして打ち捨てられていた羊が、主によって、御国の成員として呼び集められ、エクレシアが着実に成長して行っていることを知る時の、何にもまさる大いなる喜び!

 エクレシアが建て上げられて行く、その奇跡のような主の御業を、今、私は現実に、こんなにも間近に見ている。その体験に自分もあずかっていることの光栄と、不思議さを思う。私は今、まさに使徒の時代の続きを生きていることを実感している…。

 あるキリスト者が、交わりの際に教えてくれた、「ヨハネの福音書の終わりにはどう書いてあるか覚えてますか? 『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』と書いてあるでしょう? つまり、ヨハネの福音書は完結していないんですよ。今もまだ、イエスの御業はずっと続いているんですよ。私たちはもしかしたら、ヨハネの福音書99巻目くらいの時を生きているのかも知れませんよ。」

 この会話を通して、私はその人と全く同じ実感を共有していることを知った。すなわち、私たちは、エクレシアが建て上げられていくまさにその歴史的時代を生きているのだ。福音書の続きを、使徒行伝の続きを生きているのだ。イエスが天に昇られるのを見送った後の弟子達と同じ心境で、その続きの時代を生きている。内にキリストをいただきながら、私たちは初代教会のクリスチャンたちとまさに同じ気持ちで、主に相見えることを待ち望みながら生きているのだ。

 目には見えず、文字にも記されていないが、私たちは今、聖書の名も知れない登場人物として、今の時代の使徒たちやクリスチャンと一緒になって、信徒の家々や名もない教会を行き来しているように思う。イエスの弟子達は、再臨のイエスに生きてお会いできるという希望を持ちながら、地上での生涯を全うしただろう。私たちも同じ希望を抱いており、イエスにお会いすることが、切なる望みである。だから、いつ主が来られても良いように、準備を整えて待ち望み、思いの一切を、キリストに捧げ、キリストに出会う時を、ひたすら喜びを持って待ち望む。主を待ち望むことがエクレシアの仕事であり、それが花嫁の花婿に対する愛の証であり、私たちの希望の全てである。

 パウロは言った、「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」(Ⅱコリント3:3)

 聖書の御言葉には限りがあり、ページ数にも限りがあるが、主の霊は、文字に限定されたり、時代に限定されることなく、今日も生きて働いている。御霊は、クリスチャンを通して働く。クリスチャンは一人ひとりがイエスの証人であり、生けるキリストの手紙である。私たちが伝道に携わるかどうか、メッセージを語るかどうか、あるいは毎日、聖書を何ページ読み、御言葉を人に語り聞かせるかどうか、そんな事に全く限定されず、パウロは、内にキリストをいただいている私たちの存在そのものが、(つまり、私たちの信仰、生き様、行動、言葉、交わり、日々の暮らしぶり、生きていることそれ自体!が)、キリストの手紙の内容なのだと教えている。つまり、新生したキリスト者そのものが、キリストの手紙なのであり、その内容は、私たちの心の板に、日々、御霊によって新たに書かれるのである。

 だから、私たちは御霊に導かれて、素朴な人生を生きるということを実践することにより、確かに、福音書の続きを、使徒の働きの続きを生きているのだと言えよう。それは決して、聖書に付加されることのない、目に見えない、人に知られない歴史であり、私たち一人ひとりは、自分がまるで取るに足らない人物のようにしか感じられないのだが、それでも、御心に従って歩むことにより、確かに、神のご計画の欠かせない一部となっているのである。私たち一人ひとりが、使徒時代のクリスチャンたちと何ら変わりない重要性を帯びて、地上に存在している。世に宣伝されることなく、人の目からも、隠されるだろうキリスト者の地道で素朴な歩みだが、私たちの一歩一歩から、初代教会にあったような愛の一致による交わりが、キリストの花嫁としてのエクレシアが確かに姿を現すのだ。

 この道に歩んでいると、毎日が、驚きと喜びの連続である。私が少し前に御国のために蒔いた種が、今日、早くも、正確に100倍に祝福されて帰ってくるのを目のあたりにした。主のために捧げたものは、何一つ、忘れられることはない、と信じてはいたが、こんなにも早く、そのようなことが起ころうとは、予想だにしていなかったので、私はただ主を畏れ、崇めることしかできなかった…。
 天に宝を積めと言われていることの意味を、今や理解しないわけにいかない。地上での相場は変動するが、御国の相場は決して変動しない。御国ほどに、私たちに豊かな利息を約束してくれている富の預け先は他にない。もしも有益な投資先を探している人がいるならば、その人は、虫もつかず錆びもつかない天の御国に、全能の父なる神の御旨に全財産を投資しておくのが最善である…。

 神はご自分に忠実な民に驚くほど気前良く恵んで下さり、また、多くの楽しみを授けて下さり、必ず、安全を確保して下さる。そのことを、私は日々、確かめている。そんなわけで、かつては自分をカインやエサウになぞらえていた私だが、その頃には、自分とは全く縁のない登場人物のように思っていたエノクや、ヨセフすらも、今では極めて身近に感じられるようになった。

 ヨセフには、主によって管理の賜物が豊かに与えられていた。神が常にヨセフと共におられたので、彼は何をしても栄えたし、権威者から絶大な信頼を得て、全ての管理を任され、周囲の人々に、惜しみなく恵みを流す管となった。また、エノクは何か偉業を成し遂げたわけではないが、人に知られざる人生を、素朴に、しかし、絶えず神と共に歩んだ。そして、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24) これは何と素晴らしい人生の終わり方だろう。

 神はご自分に従って歩む民に、平安と、安全と、豊かな恵みと、優れた賜物とを惜しみなく与えて下さる。だから、私たちが本当に主に従って歩むならば、豊かに与える神のご性質が、私たちを通して、必ずはっきりと周囲に表れずには置かないだろう。荒野のように荒れ果てた人生も、豊かに水の流れるオアシスに変えられ、過去の取り返しのつかない過ちも、拭い去られ、深い嘆きは、喜びへと変えられ、悲しみの涙は最後まで拭われる。どんな悪意をもった人間も、もはや、あなたを害することはできない。汚れた者はあなたに手を触れることができない。十字架によってあがなわれた者しか通ることのできない、聖なる道を、あなたは、キリスト者は進んでいるのだ。

 キリストと共に御座に着く、ということに、私は次第に近づいて行っているのではないかと思う。御座とは、全ての業を終えて休む安息の場であり、恵みの川の源である、と、教えられた。最近、私は主の恵みの中で、安息のうちに休んでおり、平和で素朴な(しかし驚きの絶えない)人生を送ることに専念している。今まで私のブログはまるでドタバタ劇の実況中継のようだったが、これから先は、主にあっての平安と喜びが中心に据えられるだろう。

 最後に、私たちに対する主のご計画は、まだまだ始まったばかりだということを思い出すために、次の測り知れない約束をも書き記しておこう。

 「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

神のエコノミー(2) ―豊かに蒔く者が豊かに刈り取る―

「悪しき者のはかりごとに歩まず、
 罪びとの道に立たず、
 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
 このような人は主のおきてをよろこび、
 昼も夜もそのおきてを思う。
 このような人は流れのほとりに植えられた木の
 時が来ると実を結び、
 その葉もしぼまないように、
 そのなすところは皆栄える。」(詩篇1:1-5)

「『神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる』。」(マタイ4:30-32)

「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。」(Ⅱコリント9:10-12)

「涙をもって種まく者は、
 喜びの声をもって刈り取る。
 種を携え、涙を流して出て行く者は、
 束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5-6)


 私たちキリスト者は、それぞれが一粒のからし種としての信仰を持った神の宮なるエクレシアである。このエクレシアは、神の国にふさわしい耕された土壌(人の砕かれた心)に種蒔かれ、御国の法則に基づいてすくすくと成長し、やがて、キリストのご性質を豊かに表し、イエスにならって、何一つ欠けたところのない完全な者となることが求められている。ちょうど、目に見えないほどの大きさだったからし種が、大樹にまで成長し、数え切れない実を結ぶように、ここには著しい信仰の成長ぶりが必要とされている。

 また、これは個人としてのエクレシアを指しているだけでなく、集合体としてのエクレシアの成長をも表す。私たちは一人ひとりが信仰の種であるが、同時に、自らも、他の土壌に種を蒔き続けることによって、人々の信仰を養い、育て上げ、それによって、エクレシア全体に大きな収穫をもたらすのである。

 前回、述べたように、キリストに従う道とは、私たちが負いきれない借金を抱えて四苦八苦しながら、貧困からさらなる貧困へと向かうような道ではない。それは、神によって借金を全額返済していただいた後で、キリストのまことの命の豊かさを自分も楽しみ、他の人々にも分かち与え、キリストの命の豊かさを存分に表しながら生きていく道である。

 かつて、アダムにあって死んでいたが、キリストにあってよみがえった私たち(Ⅰコリント15:22)は、ただ自分だけがまことの命を得て終わるのではなく、エクレシア全体に豊かさを増し加えるために、神の財産を的確に運用することが求められている。つまり、神の羊たちがさらに増し加わり、彼らの信仰がさらに養われるように、主の栄光がさらに地に表されるように、絶えず種を蒔き続けること、それが神の財産を適切に管理するということの意味である。

 エクレシアの豊かな成長は、主の僕たちが、神の財産を適切に管理することなくしては成り立たない。マタイ25章でイエスが述べているたとえの中には、御国の財産を適切に運用して増加させた僕と、そうでない僕が登場する。御国の財産を全く運用しなかった僕は、役立たずとして叱責され、外の暗闇に追い出される。
 ここから分かるのは、神の御心は、御国の財産が増し加わること、エクレシアが成長することであり、そのためには、御霊であり、イエスのまことの命である生ける水の川々が、一人ひとりのエクレシア、全体としてのエクレシアから、溢れるほど豊かに、周囲に向かって流れ出すことが必要だということである。
 (これは組織としての教会の人員増加や繁栄とは全く関係ない話である)。キリストが地上の生涯において、ご自分を介して、神のまことの命を豊かに人々に届けられたように、キリストを内にいただく私たちも、宮である自分を介して、生ける水の川々を奔流のように流れさせ、周りを潤すことが使命なのである。

 だが、その豊かな収穫はいかにして達成可能なのだろうか? 第一の条件は、すでに書いた。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、実を結ぶことはない。すなわち、命の水の流れを押しとどめている自己という殻が、十字架によって打ち砕かれて死に、御霊によってその人が復活することを経なければ、私たちの内側から、御霊の命の水が溢れだすことはあり得ない。だが、それでは、自己に死ねば、早速、生ける水の川々が怒涛のように私たちの内から溢れ出すのかと言えば、きっと、そんなことはないだろうと私は思う。

 初めは、その川は小さなせせらぎのように始まるだろう。それがやがて奔流のような流れになるまでには、第二の条件として、私たちが神の財産を絶えず適切に管理、運用し続けること、すなわち、収穫をもたらすために、種を蒔き続けることが必要不可欠となると私は考えている。

 考えて見ると、神の御国の資産運用には、必ず、ある逆説的な法則が伴うようである。結論を言えば、それは、パウロが述べたように、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(Ⅱコリント9:6)という法則性である。そこでは、豊かに与える者だけが、神から豊かに報いられるのである。
 (このことを、神を介さずに、人が人に対して直接、施しをすることや、何らかの団体や組織の求めに応じて奉仕・献金をすることだと誤解しないように注意したい。私たちが捧げる対象は、人ではなく、神であり、何をするにしても、御霊の導きに従って、すなわち、神のご計画に従って、それをなさなければ、一切の奉仕が無意味となる)。

 私たちは神の御国の土壌に、これから、種を蒔こうとしている。そこでは、豊かに蒔く者だけが、神から豊かな報いを受けるという法則がある。自分が豊かに恵まれていないのに、神(または)人のために、豊かに与える者となることは誰にもできない相談だ。だから、キリストの命の豊かさに真にあずかろうと思うなら、私たちはまず自分が持っている小さな種を蒔くこと――今持っているものを主のために手放すこと――から始めなければならない。

 しかし、この御国の法則は、この世の法則には逆行しているので、世の人々には理解し難い。この世では、私たちが人に与えたものは、基本的に、返って来ない。人に施せば、自分の財産は減り、与えれば与えるほど、自分は貧しくなくなる。たまに感謝が返って来ることもあるが、それさえもあてにならず、過度な施しは自分の身を滅ぼす。地上の法則では、与えすぎることは、常に、貧しさを招くのである。
 特に、カルト化教会など、神から遠く離れた命のない教会においては、神のために、と言いながら、信徒が巨額の献金を払ったり、重い奉仕を担わされて、自分は恐ろしい窮乏生活を送っている例がある。それは、彼らが神のためと自分では思い込みながら、実際には、御霊の導きに従わず、御国にふさわしい土壌ではない、いばらとあざみしか生えていないこの世的な土壌に、聖書から逸れた誤った福音の種(偽りのパン種を含んだ福音)を蒔き続けているから、収穫がないのである。

 しかし、まことの神の国(エクレシア)に働く法則は、この世の法則とはまるで反対である。御国にふさわしい土壌に蒔かれた種は、収穫をもたらさないことは絶対にない。そして豊かに蒔いた者には、豊かな収穫が伴うのである。

 では、どこに何を蒔けば良いのか、それは御霊によって教えてもらわなければならない。ちょうど、復活されたイエスが、一晩中収穫のなかったペテロたちに「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(ヨハネ20:6)と言われたように、御霊の導きのある場所へ網を下ろすことが、収穫を得る秘訣であり、自分の判断で、闇雲に、見当外れな方向に網を下ろしても、収穫はないのである。

 私たちは神の御国に働く法則性を、真に御霊によって、理解する必要がある。これを理性や、人知によって実行しようとすれば、極度の貧困に落ち込むだけであろう。(「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」Ⅱコリント13:8)主イエスが地上において絶えず聖霊に従って歩まれたように、私たちも聖霊によってしか、真理をわきまえることはできない。

 いずれにせよ、蒔くということは、自分が持っているものを一旦、手放すことである。だから、外から見れば、そこには、一見、冒険や、貧しさや、弱さがあるように見えるだろう。
 地上におけるキリストは、弱い存在であった。キリストはまず、神としての栄光に満ちたご性質を手放して、弱く、貧しい人となって、この地上に来られた。地上の全生涯において、キリストは、御心に従って、貧しい人たちのために、持っているものを手放し、種を蒔き続けた(Ⅱコリント9:9)、そして、与えつくして、ついには命までも手放されたのである。そうした、地上におけるキリストの弱さ、貧しさが、今、天にあっての彼の栄光、「無尽蔵の富」(エペソ3:8)となっているのである。弱さが強さとなり、貧しさが豊かさとなり、死が復活となり、苦しみが全き人の完成となっているのである。ここに、人知では理解不可能なパラドックスがある。

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。」(ヘブル5:9)「キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。」(Ⅱコリント13:4)。

 宗教の中に現世利益だけを求め、イエスを信じることで、この世的な富や、名声や、強さを得たいと思っている人は、キリストが地上にあって弱かったことを知れば、失望するだろう。キリスト者の歩む道は、イエスにならう道であるから、今日、私たちも、強くされるどころか、むしろ、日々、弱くなっているのである。そして、その弱さの中にこそ、神の強さが表れ、神の栄光が表されるのである。

 使徒パウロも、書簡の中で、ためらうことなく、自分の弱さや、恐れ、迫害、危機、患難、窮乏などに触れている。パウロを取り巻く追い詰められた状況は、彼を英雄に見せかけるどころか、むしろ、彼を世間の前に、威厳なく、取るに足りない者のように見せた。コリントの教会も同様に、やはり弱かった。パウロはこのようにまで言っている、「実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。」(Ⅱコリント11:20-21)
 弱さや迫害のゆえに絶えず追い詰められていたパウロは、「わたしは日日死んでいる」(Ⅰコリント15:31)とさえ言い切っている。しかし、パウロはこの弱さを否定的に見ていたのではない、むしろ、極めて肯定的に評価していたのである、「もし誇らねばならないなのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント11:20-21,30)と。

 なぜ彼は弱さをそんなにまで誇れたのだろうか? これは通常人には理解できないことである。もし、御言葉の文字面だけに注目するならば、私たちは一体、どうやって、ここにキリストの命の豊かさを感じ取ることができるだろう? 豊かさよりも、欠乏があるではないか。自由よりも、束縛があるではないか。平安、喜びよりも、苦しみ、恐れ、絶体絶命があるではないか? 一体、どこに神の栄光があるというのだろうか?

 …信仰を持たない人にとっては、これは理解不可能だろう。しかし、世に言う弱さや欠乏と、主にあっての弱さや欠乏の間には、はっきりとした違いが存在する。主にあっての弱さや欠乏は、神の栄光が現れる前触れでしかない。すなわち、「…わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(Ⅱコリント4:7)。
 人の栄光ではなく、神の栄光が表されるために、徹底的に弱くされるのがキリスト者の道なのである。

 キリスト者は御霊に教えられて、自分の弱さが、ただの敗北に終わらないことを知っている。パウロが困難や迫害や病などを通して、神のために支払った犠牲は、この世の人々から見れば、ただ損失であっただろうが、御霊の法則にあっては、主の財産が増し加わるために必要な投資であった。パウロは御霊によって、そのことをはっきりと知っていたのである。だからこそ、彼は自分の弱さを嘆くどころか、大胆に、神の強さとして誇ったのである。
 御国の経済においては、常にこうである。主のために世の富を失うことは、主にあって豊かに得る第一歩なのである。それはちょうど、確かに上がることが分かっている株に、私たちが全財産を投げ打って、投資するようなものである(マタイ13:45 高価な真珠を買うために全財産を投げ打った商人の例がまさにそれ)。全額投資すると、一時的には無一文になるが、時が来れば、自分の財産が何倍にもなって返って来ることが予め分かっているので、私たちはこの投資が絶対に誤らないものであることを確信しながら、信仰によって、手にしているものを捧げ、後は何の不安もなく落ち着いて休んでいられるのである。

 全財産であるにせよ、そうでないにせよ、一時的に何かを失わないことには、投資はできない。持っているものを手放さなければ、種蒔きはできない。そこで時には、それが窮乏となって現れることがあるかも知れない。精神的・肉体的に追い詰められて、涙のうちに、種を蒔くことがあるかも知れない。だが、パウロは、収穫があるかどうかも分からないような、行き当たりばったりの投資(空を打つような拳闘)をしないと断言した(Ⅰコリント9:26)。つまり、パウロは神の御国のための株式投資のプロだったと言える。御霊によって知識を得ていたので、彼の読みは決して外れず、たとえ一時的窮乏の中を通るように見えることがあっても、彼はそれが確実な投資として豊かな収穫をもたらし、勝利に終わることを知っていた。

 こうして、今日のキリスト者も、御霊によって、どのように種蒔けば、そこにキリストの命が豊かに働いて、大きな収穫をもたらすことができるのかを教えられているので、霊のうちに喜びと平安を持って、持っているものを手放すことができる。この道に歩む時、キリスト者の直面する困難は、決して、人間側からのむなしい自己犠牲に終わらない。それは、神の財産に豊かな収穫をもたらす第一歩となるのである。

 しかし、注意しなければならないのは、今日、神のための投資、という名目で、その実、神ではないもの(偶像)への捧げ物が教会内に紛れ込み、至るところで、クリスチャンに強要されていることである。それはエクレシアに収穫をもたらすための投資ではなく、この世という不毛の土壌に種まく行為であり、その投資は実を結ぶことなく、人間に貧困をもたらす。私たちはこのような偽物の投資を見抜かなければならない。神のため、という名目で、人が勧めることに全て聞き従っているようではいけない、そんなことをしていれば、恐ろしい貧困や破滅に陥ってしまうだろう。

 何が本当に神のための投資であり、何が神の名を騙った偽物であるか、本当に知っているのは御霊だけである。だからこそ、私たちは自分の内にはっきりと聖霊の証印を持っていなければ、物事を正しく判断できない。うわべだけを見て、私たちが本物と偽物とを区別するのは無理だろう。御霊による証印とは、「墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたもの」であるから(Ⅱコリント3:3)、あれやこれやの物的証拠で、外面的に裏づけが取れるような種類のものではない。キリスト者は、自分の内に御霊の導きを確かにいただいていなければ、決して、何が真実であるか見極めることはできず、容易に人の言うことに騙されて、大切なものを無駄な投資に失ってしまいかねない。真に聖霊だけが、人に何が御心であるか教えるのである(「…神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」Ⅰコリント2:11)。

 さて、神の国に働く経済の法則は、以上のように逆説的なものである。地上での窮乏が、御国の豊かさとなり、地上での弱さが、神の強さとなり、地上での絶体絶命が、御国に勝利をもたらす、といったパラドックスが、キリスト者の人生には極めてよく起こるのである。
 この逆説的な法則性を、御霊によって理解しながら、進んで行くことが、私たちが神の財産の良き管理人となる秘訣であると私は思う。

 第二コリント人への手紙から、御国の法則の不思議な逆説の例を一つ見てみよう。

「兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは患難のために激しい試練を受けたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。」(Ⅱコリント8:1-5)

 これは大いなるパラドックスである。「極度の貧しさ」の中にあったマケドニヤの諸教会が、一体、どうやって、「あふれ出て惜しみなく施す富」を生み出すに至ったのだろうか。具体的な方法は何も書かれていないが、おおよそ想像できることは、エクレシアの成員たちが、まず、自分が持っているものをほとんど、惜しみなく主に捧げるところから、その豊かさは始まったのだろう、ということである。

 さて、ここから私の話に移りたい。私は御霊に感じるところがあって、これからある計画に出ようとしている。私には今、財産はまるでなく、主のために捧げられるものは無に等しい。だが、神の国の法則に従って、主の財産を豊かに増し加えるために、私はまず自分が持っている小さな財産を祭壇に差し出すことが求められていると思う。
 だが、このようなことを言えば、疑問を抱く人は多いだろう。人間的な観点から見るならば、今私がやろうとしていることは、大変、愚かで、危険な博打であり、綱渡り的人生以外の何物でもない。クリスチャンの中にさえ、こう言う人があるだろう、「あの人はカルトでさんざん騙された上に、性懲りもなく、今また、いかがわしい超自然的な『霊の導き』などというものを信じて、それに寄りすがって、さらに多くのものを失おうとしているのだ。馬鹿らしいことだ、いつになったら学習するのだろう」。
 だが、福音は滅び行く者には愚かなものであるから、そういう疑いを抱く人には存分に笑っていただければ結構である。

 今、次の聖句が私に迫ってくる。

「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。<…>
 わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、
『わたしは彼らの間に住み、
 かつ出入りするであろう。
 そして、わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となるであろう』。
だから、『彼らの間から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 そして、汚れたものに触れてはならない。
 触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
 そしてわたしは、あなたがたの父となり、
 あなたがたは、
 わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
 全能の主が、こう言われる』。」(Ⅱコリント6:17-18)

 ちょうどエデンの園で神と人とがそうであったように、これから、私が全能者の娘となり、主が私を豊かに恵んで下さるようになるためには、私には今、この地を出ることが求められている。

 今の私にとっては、これが主のために、すなわち、御国の収穫のために種まく行為である。種を蒔くとは、何も、他人に向かって福音を語ったり、献金をしたり、集会に出席することといった月並みな形式に縛られはしない。イエスは「御霊によって」荒野に導かれた(マタイ4:1)し、パウロらは、アジヤで御言葉を語ることを「聖霊に禁じられた」(使徒16:6)。何が種蒔く行為であるかは、その時、その時で、違いがあり、それは御霊だけが知っている。

 パウロは言った、「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」(ガラテヤ5:16)。もしも御霊の導きというものを全く信じないなら、その人には、クリスチャンとしての人生はないであろうし、さらに、その人はクリスチャンと呼ぶにも値しない、と言って過言ではないと私は信じている。

 小さな種しか持っていない人は、御霊が導かれる通りに、その種をまず地に蒔くことが求められる。それが、豊かな実りをもたらす第一歩である。世から見れば、持っている少ない財産を投げ出したり、保証のないところに一歩を踏み出すのは、あまりにも無謀な行為と映るだろうが、真に御霊の導きを受けてそうするならば、あなたの心にはいつも平安があり、落ち着いた喜びがあるはずである。御国の法則に従えば、そのような投資が無駄になることは決してない。いや、このような投資を根気強く、積み重ねて行かなければ、私たちはキリストの命の真の豊かさにあずかる者には決してなれないのである。

 主は誠実なお方なので、私たちが主のために捨てたものを、何一つ、忘れられることはない。「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」(マタイ13:23)「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

 御国においては、私たちが主に捧げたものが、私たちの財産として返って来る。しかも、何倍にも祝福されて…。だから、1年後、2年後に私の状況はどうなっているだろうか、我ながら楽しみである。これは理屈を越えているので、理解できない人には愚かな話にしか聞こえないだろうが、私にとっては、ある意味、極めてゲンキンな話である。この地上において、人々は見返りがあると分かっているものにしか投資しないが、キリスト者も、主からの見返りがあると分かっているものにしか投資しないのである。主から褒賞がもらえるように走るので、キリスト者の競争は楽しいのである。

 キリスト者にとっての見返りとは、神の御国における豊かな相続財産であり、それは地上において、主の羊たちが増し加わり、エクレシアの信仰が成長していくことである。それと同時に、神は個人としてのエクレシアなる者たちの人生に、豊かないつくしみと憐れみを注いで下さるので、主により頼む私たちは、地上において、決して、絶望に落ち込むことはない。
 私自身は極めて弱い者であり、窮乏の中を通らされることが、この先、何度かあるだろうが、主は決して、そんな時にも、私をお見捨てにはならない。弱い者の人生を通して、主は、ご自分の強さを表されたいと願っておられ、人の弱さや窮乏のうちにこそ、神は働いて、強さと豊かさを表して下さる、それが神の国のエコノミーの逆説的な法則である、だから、私たちは自分たちが直面している当面の弱さや欠乏を大いに喜び、誇って構わないのである。その弱さの中にありながら、主のために種を蒔き続けていれば、必ず、豊かな収穫がもたらされ、そこに神の無尽蔵の富が現れて来るからだ。
 そんなわけで、主のために大胆に一歩を踏み出そう。

「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ1:12)
 


神のエコノミー(1) 自己犠牲による借金返済はむなしい

「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝えに基づくものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」(コロサイ2:8-10)

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。」(マタイ25:29)
 

 人間には基本的に二つの生き方しかない。一つ目は、人類の罪という負いきれない借金を自分で背負って、それを何とか自分で返済しようと努力し、もがき、苦しみながら生きていく方法。そこでは、どんなに努力しているつもりでも、借金はあまりにも重く、もがけばもがくほど、利子は増え、負債に負債が増し加わり、せっぱつまって失敗が重なり、やがて自己破産へと近づいていく。それはマイナスの上にマイナスが増し加わる生き方である。

 もう一つは、神によって巨額の借金を全額返済していただき、すっきりと身軽になって、人生の再スタートを切り、その後の人生の行程も、全て神にお任せし、ただ御霊の導きにだけ乗っかって進むという楽な生き方。時に窮乏するように見えることがあるかも知れないが、心にはいつも平安があるので、道に迷って堂々巡りしたり、重荷を負って、きりきり舞いして苦しむということがない(マタイ11:28-30)。
 さらに大きな喜びがある。それは、あなたが神の財産の良き管理人とされ、神の財産を的確に運用することで、それを豊かに増やす使命を帯びていることだ。こうして、あなたの豊かさは、神の財産の利息で暮らしていけるほどになり、あなたは豊かに与えるキリストの性質に自分もあずかり、人にもその豊かさを存分に届けて生きていく者となる。

 この二つの生き方には、決定的な違いがある。あなたはどちらの生き方を選びたいだろうか? マイナスの世界を一歩も出られない、借金まみれの人生か、神にあって、プラスを構築し、豊かな財産を成していく生き方か。負いきれない負債の自己返済という課題だけで一生を終えるのか、それとも、負債などというものから完全に解放されて、キリストの豊かさをさらに増し加え、神に喜ばれる人生を送るのか?

 前回、チェルノブイリ原発事故のリクヴィダートルの話を持ち出したのには意図がある。私たちキリスト者が、十分に気をつけなければならない、ある悪しきイデオロギーについて触れたいと思ったからだ。その悪しきイデオロギーとは、人間の肉による自己犠牲を賛美する思想のことである。私たちはそれを警戒し、退けなければならない。

 キリスト者は、生まれながらの人間による、生まれながらの人間のための自己犠牲を賛美したり、美化したり、それに感謝を捧げたりしてはいけない。そんなものに負い目を感じて、束縛されるようなことがあってはならない。

 神を知らない、生まれながらの人間には、自分のために各種の生贄を要求するわがままさが本能的に備わっている。人間は自分のためにどこまでも利益をもとめてやまず、そのために他人を踏み台にし、犠牲にしてはばからない。他人に犠牲を強いる人間の身勝手な要求は、「道徳」や「慣習」にすりかえられて、公然と幅を利かせているだけでなく、時には、他人に命を捨てることを堂々と求め、他人を生贄とすることを積極的に肯定し、奨励するような、悪しき宗教、思想、イデオロギーを生み出すことがある。

 生まれながらの人間は、元来、自分のために他人が苦しむことを損失と思わず、自分のために他人が死ぬことさえも追い求め、それを「貴い犠牲」として美化し、喜ぶような醜い心を持っている。これは人間の堕落した悪しき性質から出て来るものであり、それが宗教や思想にまで高められると、大変、恐ろしい。

 たとえば、線路に落ちた子供を助けるために、ある青年が線路に飛び降りて、子供の命を救ったが、自分は電車に轢かれて死んでしまった…という事件が起きたとしよう。すると、世間は早速、それを美談として報道する。青年の「隣人愛」や、「自己犠牲の精神」を誉めたたえ、彼が自分を身代わりにして、子供の命を「救った」ことを賞賛するのである。そこには、まるで青年が死んだのは良いことであり、彼の死は「私たちのためでもあった」とでも言いたげな雰囲気がある。青年の命が失われたという損失には注意を払わず、彼が他人の犠牲になって死んだことを美化し、喜ぶのである。

 このような、肉なる犠牲を喜ぶ精神に基づいて判断するならば、チェルノブイリのリクヴィダートルは、まさに「私たちのために自己犠牲を捧げてくれた貴い人たちだった」という結論になるだろう。彼らが悲惨な死を遂げてくれたおかげで、大規模な放射能汚染が食い止められ、残りの人類が、今、安全に暮らせるようになっているのだ…、だから、彼らの「貴い犠牲」によって、私たちは生かされていることを知るべきであり、その恩恵について、彼らに感謝を捧げるべきである、彼らはまさしく人民の英雄だったのだ…という話が出来上がるだろう。
 だが、このような考え方に、キリスト者は絶対に同意してはならない。私はそう信じている。一体、人による犠牲が、人を救い得ようか。そんなものは人間の身勝手によって作り出された考え方、要するに、人身御供の肯定でしかないのである。

 疑いを抱いている人のために、このことが誰にでも分かるように、さらに丁寧に説明しておきたい。かつて、私たちの歴史に、人柱というものが存在していたことがあった。どこまで事実であったのかは分からないが、伝承によれば、たとえば、ある地域で、氾濫を繰り返す河のせいで苦しめられた村人たちが、それが悪鬼の祟りによる仕業だと考えて、悪鬼の怒りをなだめるべく、生きた人間を川岸に埋めて、彼(彼女)を生贄に捧げることによって、氾濫を食い止めようとした…、といった話がある。

 このような話を聞くと、私たちは何という不毛で恐るべき考え方だろうかと、ぞっとするだろう。河の氾濫を防ぐためには、堤防を建設することが必要不可欠なのであり、自分たちの仲間の中から、誰か生きた人間を岸に埋めたところで、何の解決にもならない。そんなものは、損害に損害を増し加えることにしかならないではないかと。

 さらに、今、どこかの火山が大規模に噴火したとしても、その噴火を人柱によって埋められるなどと考える人は一人もいないだろう。たとえ何万人という数のリクヴィダートルを現地に派遣して、噴火口で人柱となって火山灰に生き埋めになってもらったとしても、そんな犠牲によって火山の噴火を食い止めることは不可能だと誰にでも分かる。

 ところが、こういう話を聞いて、何と愚かなことよと言ってせせら笑う人たちが、ほんの数十年前には、我が国で、同じことをやっていたのである。つまり、何らかの巨悪の進出を食い止めるために、人々が次々と己の命を生贄として差し出し、そうすることが美徳とされ、奨励され、強制され、制度化されるような時代がこの国にあったのである(今でも恐らくその精神は残っているだろう)。

 私たちはこのように、「人間の自己犠牲から何かが生まれるという考え、自己犠牲を美化する精神」、「人間の自己犠牲を宗教にまで祭り上げる精神」というものの恐ろしさをよくよく考えてみる必要がある。一体、人が他人のために人身御供となって命を捨てることを、美徳として奨励するような思想に、どんな気高さがあるのだろうか? 自分の身代わりの生贄として、身近な他人を堂々と死に赴かせておきながら、彼らが死んだ後になって、塚や記念碑を立てて、「私たちはあなたの貴い犠牲に感謝を捧げます、私たちはあなたのおかげで今生きられているのです、あなたたちのことは忘れません」などと言うことが、果たして、真実な感謝の名に値するだろうか? 断じて、それは人類の身勝手に身勝手を増し加えた行為でしかない。

 私たちは今、誰のおかげで生きているのだろうか。私たちのために、犠牲となって死んで下さった方はただお一人である。その方の死によって、私たちは生かされ、アダムの堕落以来、絶えることなく続いてきた人類のあらゆる罪の負の遺産から解放されたのである。

 アダムの堕落は、どんな原発事故もかなわないほどの史上最悪の汚染を全地にもたらした。アダムの堕落がなければ、大地は不毛とはならず、人類史には死そのものが持ちこまれていなかった。そのアダムのもたらした問題に、完全な解決をもたらしたイエスの十字架は、その貴い血潮によって、私たちの最悪の借金を棒引きにした。こうして、史上最悪の問題をすでに解決している十字架は、今日的な様々な問題にも、すでに解決を与えて余りあるものなのである。

 キリストの十字架は、あらゆる問題に対する永久不変の万能膏薬である。十字架こそが、私たちを全ての脅威から救いうる、ただ一つの解決である。それがどんな問題であろうと、関係ない。家庭問題であろうと、病であろうと、地震であろうと、戦争であろうと、放射能汚染であろうと…。世の人々はこれを聞いて、愚かな信仰だと笑うだろうが、十字架は救いにあずかる私たちにとっては、「神の力」である(Ⅰコリント1:18)。

 従って、貴い犠牲とは、何か。それは、十字架で血を流された小羊をおいて他にない。私たちのために生きた人柱としてご自分を捧げられたのは、イエス・キリストただお一人であり、その犠牲の御業はすでに完成したので、それ以上の犠牲は、誰にも必要とされていないのである。
 だから、人間の努力によって、十字架に何かを付け加えようとしたり、新たな贖いを作り出そうとする行為や思想を、私たちは、忌むべきものとして、きっぱり退けなければならない。人間によって作り出される様々な犠牲が、私たちを罪による堕落や、脅威から救い出すのではない。
 何度も繰り返すが、私たちを死をもって贖い、生かして下さっているのは、イエス・キリストただお一人である。だから、この方以外の誰かの死や、自己犠牲を、偉業として誉めたたえたり、それが贖いの犠牲であるかのように感謝を捧げることを、忌むべき偶像崇拝として、私たちは退けるべきである。

 人間の肉による自己犠牲を高らかにほめたたえようとする宗教は、神から出て来たのではない、人の肉から出て来た、悪しきイデオロギーである。それはサタンの作り上げた人命の使い捨て思想であり、人殺しの思想であるため、この先も、何らかの脅威を持ち出しては、人類を脅迫し、絶えることなく、その負債の返済のために、人柱を要求し続けることだろう。

 リクヴィダートルが、チェルノブイリから私たちを救ったのではない。チェルノブイリは今も、人類の火薬庫のような脅威として存在し続けているが、あの原発にとっての本番は、恐らく、これからになるのではないだろうか…。リクヴィダートルの犠牲が、痛ましい損失でしかなかったことは、今後、歴史によって、さらに明らかにされるだろうと思う。チェルノブイリのために要求される人柱は、これからも絶えないであろう。

 だが、私たちは感謝しよう、キリストの十字架を信じている私たちは、もはや各種の脅威が迫り来る時、存在もしない何らかの神々の怒りをなだめるために、あるいは、支払いきれない罪という借金を返済するために、自分の命を犠牲にして、人身御供として我が身を差し出すという誤りに陥らなくて良いのである。私たちはイエスの十字架によって、すでにあらゆる脅威から解放されているのである。

 私たちが警戒しなければならないのは、キリストの十字架によらずに、人間が自らの自己犠牲によって、人間を救おうとする様々なイデオロギー、価値観、宗教である。それら人間の努力や、血と汗と涙が結晶化して出来上がっている肉的価値観、肉なる宗教をこそ、警戒しなければならない。それはどんなに犠牲を高らかに謳いあげていようと、結局、負債に負債を増し加える結果にしかならず、生贄の上に生贄を要求するばかりで、貧困から貧困へと落ちていくのである。

 現在、ニッポンキリスト教は、そのような自己犠牲の精神で固められた宗教となっている。そこでは、イエスが完成された十字架の贖いが退けられて、逆に、人間の努力、人間の自己犠牲、人間の血と汗と涙によって作り上げられた計画や運動が、高らかに誉めたたえられている。だが、小羊の聖めの血潮によらないで、どうして人間が救いを得られよう? 「私は神のためにこれほど多くのものを捧げ、これほどの努力をし、これほどに自分を捧げました」と、どれほど自らの犠牲を誇っても、幸福は遠ざかり、苦しみは増し加わり、借金はますます大きくなり、負いきれない負債だけが残るだろう。それはマイナスからマイナスへの人生である。だからカルト化教会には貧困と悲惨と死しかないのである。

 では、そのような永遠に返しきれない借金返済の義務からすでに解放されて、神の財産の管理人となっている私たちは、どのようにしてキリストの豊かさを人々に届ける存在となるのだろうか? どうすれば、その豊かさはプラスからプラスへと増えていき、キリストの満ち満ちた豊かさにまで達するのだろうか。続けて、そのことを見てみよう。

(P.S.朝から3時間以上かけて書いたワード文書が、パソコンがフリーズし、全部、ぶっ飛んでしまった。いささか意気消沈したが、重要な内容だったと思うので、何とか復元に努めた…。ちなみに、ロシア語の聖書で黙示録の「苦よもぎ」にあたる単語はполыньでした。)


乞食から家臣へ

 昨日もいつもと変わりなく日が過ぎた。
 家人と特に話すこともない。今までと何の違いがあるだろうと思うような一日の過ごし方だ。けれども、私の中では、これで大丈夫との確信がある。私がここを出るまで、私は安全である。家人のことはこれ以上、気にかけてはいけない、彼らとの関係について案じてはならない、ただ自分の人生をしっかり歩むことを考えればよい、との安らぎがある。

 主の前で静かに考える時間を持った。そこで得た内容を書き記そう。

「私はこれまで、自分の必要性(欠乏)のためだけに生きて来た。絶え間ない悲しみと痛みが私を苛んでいたので、私にとって、神は不足を訴え、憐れみを乞い、乞食のように必要なものを乞うためだけに存在していた。そこには、神と私との信頼はほとんどなかった。私が一方的に憐れみを乞うだけだったのである。
 だが今後、神と私との関係は、王と乞食のようではなくなり、王と臣下(僕)のようになるだろう。そしてやがてついには、王と王子(王女)のようになるだろう。

 家臣は、王の家来にふさわしく装う。乞食のようにぼろ切れをまとって城門に座っているということはない。家臣には仕事がある、王命を民に伝え、実行に移すという仕事が。乞食のように日がな門に座っていることはない。家臣は毎日、活動する。乞食に活動はない。家臣には威厳がある。乞食に威厳はない。家臣には同僚がいる。乞食に仲間はない。家臣には明日の計画がある。乞食に明日はない。

 私は、右や左の旦那様の気まぐれによって人生を左右される乞食の立場から、王の命令だけによって動かされる家臣へと変わるだろう。どうしてあるキリスト者がこれほど私の注意を引いたのか。それはその人が僕ではなく、息子としての権利を行使して自由に大胆に振舞っていたからではないか。
 私もいずれ、この地上にいながらにして、王の娘として自由に振舞う時がやって来るだろう。たとえキリスト者の使命が、最後には神のために命を捨てるところへと向かっているのだとしても、この世で一度たりとも自由と解放を味わっていない者が、どうして主のために命を捨てることができようか? 奴隷が主君のために命を投げ打つのは当然である。それはただ命令を実行しただけであり、捧げ物にはならない。だが、自由の子が友のために命を捨てるからこそ、それは捧げ物となるのである。

 私は自由の子とされるだろう…。私の態度に、王の威厳が反映され、その日暮らしでない安定感が生まれ、信頼感が生まれる日が来るだろう。世の中がどう悪くなろうと、私は恵みを享受するだろう。それはただ主によってなされるのだ。私の生来の誠実さをたとえありったけかきあつめたとしても、私には到達不可能な場所へ、主が私を連れて行かれるのである。それは神が神ご自身のためになされる回復である。神はご自分の栄光のために花嫁を創られた、だから、神が神のために私を回復されるのだ。私が自分で回復するのではない。

 今回の事件を通して、神はきっと不屈なまでに頑なな私の努力、私の誠実さ、優しさ、人情、そういうものをへし折られたのだろう。何度、努力しても、私の力で家庭の人間関係が少しも回復しなかったのは、そのためなのだ。主の娘として、私が真に回復されるために、何より取り除かれなければならなかったのは、私の人情、優しさ、正義感、善意、義憤、期待だったのだ…。私の『良かれ』と思う気持ち、その『良かれ』を自力で成し遂げようとする気持ちのすべてが、打ち砕かれ、取り除かれなければならなかった。私にとって、それは人としての最高の善意であったが、それは主の御心に反するものであり、私が乞食のぼろ服にしがみつくことを意味していたのである。

 人の善意や情けや正義感のもたらす欺きはまことに深く、それは地獄へと通じている。それは人間による自己栄化、自己救済の道であり、神が死を宣告された旧創造を救おうとする試みだからである。だから、人の目にどんなに麗しく見えても、人の生まれながらの情けや善意、平和を願う気持ちは、すべて堕落しており、紆余曲折を経て、結局、地獄へと通じているのである。

 19世紀のロシアで、60-70年代に、『人民の中へ』運動が盛んになった。教養ある貴族の青年たちが、虐げられている民衆の痛みを放置してはならないと思い、民衆を救い、民衆に負債を返すために、貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆の生活に分け入って行った。

 シオンの娘も、『人民の中へ』のスローガンに同調して、全能主の娘という貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆と一体となった。弱者へのいたわりと、人としての正義感ゆえに、民衆と苦難を共に忍ぼうとしたのだ。しかし、娘は、自らがあれほど憐れんだ民衆の中に、少しの正義も、善意も見なかった。民衆は彼女を嘲笑い、受け入れず、騙し、遊郭に売った。彼女が助けたいと思った民衆は、救済に値しなかったのだ。虐げられた弱者、美しい民衆とは、虚構の概念であった。そして、彼女は王の娘としての位を永久に失ってしまった。もし王が彼女を助けなければ、彼女は自分の正義感ゆえに永遠に滅んだだろう。

 人としての正義感。いたわり。情愛。それは人の目から見てどんなに貴い、麗しいものであろうと、全て救いようなく堕落しており、希望がない。主の目から見れば、それは陰険で、悪質で、曲がりきっており、ゴミ箱で焼却されるしかない、腐臭漂う乞食のぼろ服なのである。主はこのぼろ服を私から取り上げて、別の服を着せたいと思っておられる。王の娘、息子としてふさわしい衣装を。けれど私たちはぼろ服にしがみついて、それを放そうとしない。それが人間としての最高の善意だと思っているから。
 私のぼろ服は、主によって強制的に取り上げられた。そして気づくと、王の娘としての衣装が着せられていた…。」