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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着る

 今夜、Sugarさんの山小屋に向けて発つので、しばらくブログは更新できない。この旅はきっと、私が地上のものを後にし、キリストが満ちている高みへ向けて踏み出す確かな一歩となってくれることだろう。それは霊的滋養を私に与えてくれる旅となるだろう…。

 この出発と合わせるようにして、昨日、私の周りでひどい騒動が起こった。それはまるで、地上を離れると宣言した私への、地上からの陰険な引きとめ策とさえ受け取れるものであった。その事件を通して、主が明らかにされようとしたのは、多分、私の中に、まだ地上的なものに心惹かれる魂の欲求が強く残っており、それが触発された時に、自動的に反応を起こしているということであった。私の中で、肉なる人への愛情を求める欲求、未練、執着が死に切れていなかったこと、言い換えるならば、私の行動がそれによって無自覚に支配されていたことが明るみに出たのだ。

 しかし、人を愛し人から愛されているうちは、地上的な愛を求める欲求は、決して、御心に反する罪や、悪として浮き上がって来ることはない。このような魂の欲求の正体が暴かれるのは、「可愛さあまって憎さ百倍」と言われるように、相思相愛が成立せず、愛が得られなくなった時なのだ。その瞬間になって、初めて、魂からの愛は、その悪なる正体を目に見える形で現す。つまり、この世的な愛を求める人は、それが得られなくなると、それに対する激しい執着と未練に駆られ、まるで禁断症状に陥ったように、得られない愛を求めてどこまでもストーカーのように追いすがる。心乱れ、髪振り乱し、もはやキリストの平和のうちにとどまっていないのは一目瞭然だ。ついには、公然と、御心を捨てて、地上的な愛を追いかけるが、満足させられない欲求は、その人の中で、不満、憎しみ、怒り、恨みつらみに変わって荒れ狂う。その嵐のような衝動は、最後には、自己もしくは他人を死(殺人等)へと導くだろう。

 つまり、この世的な愛を得たいとの欲求は、そのものが、神の御心に反するのだと理解することが重要である。だが、そのような肉なる衝動にまだまだ私は知らずに突き動かされていたことが、今回の事件によって判明した。私は霊の衝動と魂の衝動を見分けることを今までやって来なかったのである。キリスト者の交わりを通して、私はこの事件に霊的な意味があったことに気づかされた。私は自己の内なる魂の衝動をきちんと見分け、それを管理し、御心に反する魂の衝動に死んで(私を慕い求める罪をきっぱりと退け)、霊に導かれて生きることが求められているのだ。

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22)

 私たちの心の中には、どれほど改められなければならないものが含まれているだろうか。 「情欲に迷って」、という言葉の中に、たとえば、肉親や兄弟や親戚や友人、知人たちの地上的な愛を求める欲求を含めることができるのではないだろうか?
 人として生まれてきた以上、皆から愛されたい、好意をもたれたい、と願わない人はいないだろう。だが、地上に住む人々の愛や好意や賞賛や注目を少しでも多く勝ち得たいという欲求も、情欲と同じく、滅び行く古き人から発する欲なのである。

 非常に厳しい言葉を使うならば、人は生まれて初めてお目にかかる他人、すなわち、両親からの愛を得たいという欲求にさえ、死ぬ必要があるのではないだろうか。赤ん坊にとっては、両親からの愛を受けられるかどうかは、生死を分けるほどの重大問題だ。きっと、良識ある人々であれば、それを諦めるべきだとか、その欲求に死ぬべきだなどとは言わないだろう。しかし、それほど重大な死活問題であるからこそ、親の愛を求める欲求は、人間の生まれながらの自己(古き人)に由来する、極めて抜き難い、本能的な、魂の奥底から出て来る欲求なのだと言えるのではないか。そして、主の視点から見るならば、親を代表とする地上的な人々の愛が、あなたの幸福決定権を握っているという感じ方は、完全な偽りなのだ。あなたを生かすのは、ただキリストの愛、キリストの命のみなのだから。

 従って、親兄弟、親戚、友人を含め、肉なる人から与えられる愛を求める願いに、私たちは十字架を通して死ぬべきなのであり、そのような諸々の魂の欲求に支配された古い人を完全に脱ぎ捨てて、聖霊によって歩む人へと変えられる必要がある(だが、それは決して、親兄弟との関係を一概に絶つとか、ニヒリズムに陥るとか、あるいは、人に対して薄情になれというような意味ではない)。
 キリスト者が関心を向けるべきは、地上の人々によって与えられる愛ではない。家人、親戚、友人、知人、そういう人々があなたを愛するか否か、それはあなたにとって死活問題でないどころか、何の問題にもならない。彼らには、あなたを唯一の命の源であるキリストから引き離す力が備わっていないのだから。

 地上的なつながりのある人たちの愛は、人間関係が上手く行っている間は、何の問題もなく、あなたを満たしてくれるだろう。それでも、それらに左右されて生きているレベルを、私たちは必ず、後にしなければならない時が来るだろう。それは地上的なものを理性や感情や意識の上で超越するという意味ではない。私たちが本当にキリストの愛のみによって生きるようになる時、おのずから、地上的な愛、魂から来る愛には自分を生かす力がないことが分かって来るのだ。

 以下は、ジェシー・ベン・ルイス、「魂の力」対「霊の力」、から抜粋。

「マーレーは、『『魂』は我々の『自己意識』の座である』と記しています。
『魂は我々の道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志を含む』
『人は霊によって神と彼の御旨に結合される。アダムの堕落において、『魂』(自己)は霊に従うか、それとも体と目に見えるものの誘惑に従うかを決定しなければならなかったのである』
『堕落において、魂は霊の支配を拒み、体の奴隷となった。・・・こうして、魂は肉の支配に服し、人は『肉になった』と言われている。それゆえ、魂のあらゆる属性は肉に属し、『肉の力の下』にある」

「マーレーの次の厳粛な言葉から、この事実の重要性がわかります。
『教会や個々の信者が恐れなければならない最大の危険は、精神や意志の力によって魂が過度に活動することである。多くの人の中で、魂は長い間支配してきた。そのため、キリストに服する時でさえ、『今こそ服従の働きを成し遂げなければならない』と魂は思い込むのである。この自己(魂)は非常に巧妙で力強いため、魂が神に仕えることを学ぶ時ですら、肉が依然として力をふるって、御霊だけに導かれることを拒むのである。宗教的であろうとする魂の努力もまた、大いなる敵であって、御霊を妨げ、消してしまう。・・・御霊によって始まったことが、非常に速やかに、肉に信頼する結果に終わってしまうのである」

 私は極めて魂的な人間であるから、これまで、魂の衝動のみで生きて来たと言い切っても過言ではないくらいだ。御言葉について語っている時でさえ、途中から、魂の興奮に突き動かされて喋っていることがある。しかし、私の中で魂の活動が活発化する時に、その危険性を見極め、聖霊という消化器でその衝動を吹き消し、御霊に聞くという訓練を行うことが今、求められているのが分かる。それをしないと、私は魂の衝動に無自覚に突き動かされて、結局、道から足を踏み外してしまう。だから、魂に対して勝利する方法を学ぶことは、キリスト者にとって、死活的重要性のある問題なのだ。

「それは、パウロがガラテヤ人への手紙5章17節で描写した昔ながらの戦いです。
『肉の欲は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らいます』。『肉の思いは神に対して反抗します』(ローマ人への手紙8章7節、参照コロサイ人への手紙1章21節)。
『肉』と『霊』は真っ向から対立しますし、今後も常にそうであり続けるでしょう。『肉』が『魂』の形を取って現される時、すなわち『肉』が生まれながらの人に固有の精神や意志などの力を通して現される時も、『肉』と『霊』は真っ向から対立します。これらは『肉の行い』として、次のように列挙されています。『偶像崇拝、魔術(魔法、Conybeare)、憎しみ、不和、騒乱、異端』(ガラテヤ人への手紙5章19~21節)。これらの活動はみな、肉の力の下にある魂の力によります。」

 肉の行い、すなわち魂の働きの結果もたらされるものの中に、「憎しみ、不和、騒乱」が含まれていることを、しっかりと覚えておきたい。家庭内騒動、家庭内不和というものがなぜ起こるのか。そこに魂の欲求が強く働いているからに他ならない。キリスト者はこのような魂の欲求の渦に巻き込まれることを拒否し、肉や魂の衝動に動かされる古き人を脱ぎ捨てて、「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。
 新しき人とは、聖霊によって導かれる人である。

 また、アンドリュー・マーレーによれば、私たちの「道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志」もまた魂の働きによる。ナントカ主義、ナントカ運動、そして宗教などはまさに魂の産物であると言えるし、科学、創作もそれに含まれるだろう。(今日、魂の影響に汚染されていないものを見つけることの方が極めて困難である。)
 今、キリスト教界に広がっている各種の誤った運動や、教えを見るならば、魂の働きがこれらの汚染や堕落の根源となっていることが分かるだろう。聖霊という言葉を巧みに使いながら、その実、肉体的感覚を煽る運動、魂の興奮を煽る運動などが展開されている。それらはまさに警戒すべき偽りである。

『魂の力』対『霊の力』。これが今日の戦場です。キリストのからだは、自らの内にある聖霊の力によって、天に向かって前進しつつあります。この世の雰囲気は、魂的な潮流(その背後には悪霊たちが集結しています)に覆われつつあります。神の子供にとって、危険を逃れる唯一の道は、キリストと結合したいのちを経験的に知ることです。キリストと結合したいのちの中で、神の子供はキリストと共に神の中に住み、有害な空気(その中で、空中の軍勢の君が彼の働きを進めています)を超越します。清めるキリストの血、キリストの死と一体化させる彼の十字架、復活・昇天された主の力―――これらを聖霊によって絶えず宣言し、握りしめ、行使することによってのみ、(キリストの)からだの肢体は勝利して、昇天されたかしらと結びつくでしょう。」

 心の深みまで新たにされて、新しい人を着る方法を、これからもさらに学んでいこう。

 前回と今回、ご紹介したオースチン-スパークス、ペン-ルイスなどの著作は、Olive Gardenをご参照下さい。
 

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荒野にあっても…

 解放の神学について調べながら、かつてキリスト教の中に非キリスト教としての解放の神学がどうやって入り込み、どのようにして全体を腐食して行ったのか、その歴史を学んでいる。そこには、ちょうど今、繁栄の神学が、キリスト教の内側に仕掛けられた爆薬として、この宗教を内部崩壊させるような活動をしているのと全く同様の構図が見られる。

 しかし、資料を読めば読むほど、このように既存の宗教の弱点を見事についた、既存の宗教の影の部分を訴えるべく登場してきている擬似宗教が、どれほど人間に強く働きかける力を持っているかを感じるため、慄然とする。

 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、という言葉を聞く時、私たちはそれが何か大それた贅沢を願う、途方もない、現実離れした欲求のように感じがちだが、しかし、実際はそうではない。
 それは、今、まさに、社会的・経済的に疎外された状態に暮らす私が、この疎外の状態を解消したいと願う欲求と一致するのだ。

 飢えた子供が、死にたくないので、せめて一切れのパンが欲しいと願うその欲求を、どうして私たちは罪深い肉の欲として退けたりできるだろうか。それは私たちの目に、まことに善良で、純粋な願いのように映るだろう。同様に、社会から疎外された弱者が、せめて生きていくための手段が欲しいと叫ぶその願いを、誰が却下できるだろうか。誰もが餓死せずに適度な労働をして自立して生きていける社会制度を作ることが、今後のわが国の政治課題であると誰もが言うだろう。人として最低限の生きる権利、私たちはこの言葉を聞きなれ、それを保障してくれる民主主義、ヒューマニズムになじんでいる。それらは、決して、人の肉から出て来る切なる哀れな欲求を退けたりしない。

 だが、人間が人間の生存を保障しようとするそのような考えや制度のまさに延長線上から出て来たのが、解放の神学であり、繁栄の神学なのである。それは私たちの肉から出て来る切なる願いであるがゆえに、私たちを惹きつける。それは全ての肉なる欲求の代弁であり、それを神によらずに保障するための保険のようなものである。(どこかの保険会社のために谷川俊太郎が書いた詩をまさに思い出す、「人間の未来への切ない望みがこめられています…」)

 苦しい状況に立たされた時、人が状況の改善を願うのは当然だろう。そんな時に、苦痛を感じるまいと思っても、無理な相談だ。
 イエスが荒野で断食されていた間、当然のことながら、空腹を覚えられたことだろう。石がパンに見えてくるほど、空腹に苦しんだかも知れない。あるいは、ひと思いに崖から身を投げて死んでしまえば楽になれると思うほどの苦痛があったのかも知れない。現実逃避的な夢が頭の中に押し寄せて来て、それに浸りこんでいれば楽になれる気がしたかも知れない。

 きっと、人としてのイエスは、私たちがもしそのような状況に置かれたならば、感じるであろう苦痛を極みまで覚えられたことだろう。だが、イエスは悪魔からの誘惑を退けることによって、現状への不満に根ざした各種の現状改革案をきっぱり退けられた。自殺願望も、虚無主義も、当然、退けられた。イエスは、惨めな状態で、空腹のまま、一人ぼっちで、人里離れた荒野で断食している自分を少しも否定せず、その状態で生きることに不満を訴えず、神の御心として与えられたの苦境を、定められている時までしっかり受け止め、耐え忍ぶことを選ばれた(その試練の最たるものが十字架であった)。

 私は今、ひょっとすると、荒野に導かれているのかも知れない。その間に、自分の内側に起こる全ての肉的欲求、衝動、願いに死ぬことを学ばされているのかも知れない。だとしたら、それはまだまだ終わらないだろう…。この状況への私の無駄な抵抗がまだ死に切れていないから。誘惑は全て目の前を通り過ぎていくだけで、それをつかむことはできない。人生の貴重な時間が、指の間から滑り落ちるように虚しく浪費されていっても、ただ黙って見ていることしかできない。何かを積み上げようと思っても、それが残らないことを目撃させられる。主の憐れみによって、私のために、毎日、目に見えない烏があまり美味とは言えないパンを運んで来てくれるのだが、ケーキをくれとねだることはできない。今という時から得られる収穫を貪欲に、最大限に追い求めるために、荒野を捨てて、下界に降りて行きたいが、それはできない。そこにはソドムの街しかないことは分かっている。

 退却を許されないところにやって来て、十字架の中に閉じ込められて、せめてこれだけはと思うような小さな欲求であっても、それが肉から出たものであるならば、それに従って行動することが、神に対する反逆にしかならないことを思い知らされ、それにさよならを告げるべきだということを学ばされている。

 それらの欲求は、結局、私にこう告げているからだ、「おまえの今の状態について、神に不服を申し立てよ。こんな扱いは不当だ。おまえは何も悪いことはしていない。なのに、神はなぜおまえを捨てたのか。なぜ神はこの状態を改善して下さらないのか。この追い詰められた状況について、神に不服を申し立てよ。そしてそれでも神が答えを下さらないなら、その時は、自分で決起せよ。私が(神に)虐げられた弱者としてのおまえを救済する運動の方法を教えてやる」と。

 現状への欲求不満から生じる願いの全ては、たとえどんなに善良そうな見せかけをしていたとしても、あるいは社会正義のような装いをしていたとしても、結局は、御心に対する反逆である。それは自分の今の状態を否定し、現実の中に働いている御旨を見いだすことを拒否し、自分のアイデンティティを卑しめ、神が成して下さっている全ての事柄を不完全なものとみなす考えである。

 アダムとエバに対して蛇が何と言っただろう、「それを食べるとあなたたちの目が開けて善悪を知るようになることを神は知っておられるのです」と言ったのだ。蛇の誘惑はいつもこれである。今、私たちにない何かを目の前にちらつかせる。今とは違うもっと良い現実があるのではないかとそそのかす。神は私の知らない何かを、不当にも、私から取り上げ、私から隠しておられるのではないか。それゆえに、神は私を今のような惨めで卑しい状態にあえてとどめておられるのではないか。神の愛はその程度のものでしかないのではないか…。だから、神のご計画が成就するのをただ待っていてもだめだ、むしろ神の裏をかいてでも、人知をめぐらし、この惨めさから脱出する方法をぜひとも探し出さなければならない…。そんな風にして、神が私を置かれた状況を不当だと感じさせる疑いがやって来る時、それに耳を貸してはいけない。そして神に禁じられた方法で、今、得られないものを早急に手に入れようと考えてはいけない。

 この荒野がどんなに厳しかろうとも、そこを通ることが御心であるなら、私には欠けているものは何一つないと言える。キリストがうちに住んでいてくださっているがゆえに、私は完全なのだ。私は弱くとも、キリストの強さが私を覆っている。だから、私は誰からも救済される必要がないし、同情されるべき立場にさえない。この世界も堕落していて不完全だが、それすらも主のご計画の内にある。今の世界がどう悲惨であろうと、自分を取り巻く状態がどう理想からかけ離れていようと、神のご計画は十字架を通してすでに成就しており、今また現実として成就しつつある。だから、私はすでにキリストの完全な勝利の中に入れられており、疑わないで、それに安んじることが求められているだけなのである。

 肉的な欲求は当然、生きている限り生じるだろう。それが最大限になって極度の苦痛をもたらすこともあるかも知れない。今、求めても得られない何か、をいつも欲しがろうとする死の法則性からは、肉体がなくならない限り、完全には解放されないだろうと思う。しかし、たとえ苦痛が極みまで達したとしても、そこから逃れたいという欲求は、ただ神にお返しすることにしよう。すると、主が各種の欲求をえり分けて、中から、正しいものを恵みとして返して下さる。だから、「われらにパンを与えよ、しかるのちに善行を求めよ」と叫んだりせずに、ただ全ての問題を御心に信頼して任せることにしよう。御言葉なるイエスこそが、私たちを生かして下さる命の根源なのだから。

 ところで、現状への不満から生じる肉的な欲求とは別に、神が与えて下さる願いがある。それは肉の欲とは異なり、決して、現状を不完全だと感じる感覚から生まれてくるものではない。主が与えて下さる願いは、常に現実から出発している+αである。いや、現実のもっと先に見えている、見えないものと見えるものとの再統合である(見えるものは全て一旦消滅しなければならない)。肉の欲が、目の前にある現実の否定、現実の打倒や、現実の破壊、あるいは現状改革を訴え、現実の影の部分に対して反旗を翻すのに対し、神が与えて下さる願いは、言葉では表しにくいが、現実という土台の上に立って、その向こうに何か見えない建物を建て上げるようなもので、しかも、それがすでに完成していることを霊によってあらかじめ感知することができる。

 神はサタンをさえ用いることができる。どんな逆境も全て主の御手の中にある。私を訴える者も全て御手の中で動かされているだけである。だから、神のご計画のうちではすべてが完全なのである。それを信じる時に、不合理な状況から生じる肉体的感覚、苦痛、そんなものがほとんど効力を失っていく。そして汝の敵を愛せよと言われた御言葉の意味が真に浮かび上がってくる。敵はすでにいないも同然だが、抜け殻のようにまだ存在しているその敵を動かしているのは、主の愛に基づいたご計画である。だから、一切の恐れを払拭する神の揺るぎない愛の確信の中に立って、敵に言葉をかけるならば、まるで子供が誕生日ケーキのろうそくを吹き消す時のように、敵の放つ火矢はことごとく吹き消されていくだろう。

 私の存在が不完全であり、私は完全を模索してまだ何事かを自力で成さねばならないという焦り、もしくは恐れは、悪魔のしかける罠である。キリストが共におられるから、何一つ、私には欠けているものはない。従って、現状改革など一切必要ない。繁栄の神学も、解放の神学も無用。そして今後、何が起こるかは、私は知らなくとも、主がちゃんとご存知だ。その計画が完全であることを知らされている。だから、時には、不意に嵐が来て驚くこともあるかも知れないが、できる限り、安心して信仰の船に乗っていよう。心騒がせず、落ち着いているならば、その旅は、きっとかなり楽しいものとなるはずだ…。