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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

肉の思いと御霊の思い

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 イエスの語られたこの御言葉が、どういうわけか、ここ数年、文字通りの形で、私の人生に成就している。「家の者が、その人の敵となるであろう」ということが、比喩でなく成就することを主がこの御言葉によって示されたのだとしたら、それは恐ろしいことだ。家庭に刺客が潜んでいるような状況で、一体、人は誰を信用し、どこに安息の場を求めれば良いのだろうか。
「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。」(マタイ10:21-22)との御言葉もあるが、このようなことが私の身の回りに現実として起こっていることに、どんな意味があるのだろうか。思い巡らさないわけにいかない。

 とにかく、血肉にあってのつながりや、血肉にあっての望みが、キリストを信じることのために、ことごとく断ち切られなければならない瞬間が私の人生にやって来た。それは魂の暗闇と呼んでも差し支えないほど、私の心に大きな問題をもたらした。この問題に、精神的に疲労困憊せずに、勝利するためには、地上のもの、肉的なものに惹かれる魂の衝動に対して死に、真に聖霊に導かれる人となることをもっと学ばなければならないことを感じる。

 現実の様々な問題に直面する時、私たちの肉体は苦しめられ、魂は思い煩う。それは生まれながらの人間の自然の心理である。しかし、その思い煩いは、肉と魂との連携から生じるのであり、御霊が人を導く方向とはまるで異なっている。思い煩いは、何とかして肉の身体を生かし、死から救おうとする試みだが、結局、人を死から救うことはできない。それどころか、聖書は肉の思いが結局、死そのものであるとまで言っている。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。」(ローマ7:6-7)
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。<…>あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6:25,27)

 どうすれば、現実の問題が私たちを苛む時にあっても、御霊の思いである「いのちと平安」の中に安らぐことができるのだろうか。自己超越とか、瞑想とか、覚醒とか、そういった異教徒が様々に駆使しているような、キリストの十字架も聖霊をも抜きにした、魂の偽りの方法を通してではなく、聖霊の思いであるいのちと平安に真に安んじることは、どのようにして可能なのだろうか。

 生きることが困難となり、行動が制限され、衣食住も満足に確保されないような状態になると、私たちは強い不快感を覚える。飢えや渇きや孤独や苦痛が身体を現実に苛むようになる。だが、この肉体的苦痛に対しては、十字架にあって、すでに死んでいることを何度でも思い出す必要がある。肉体に対して死んでいる以上、肉体を取り巻く状況に対しても死んでいるはずである。肉を生かそうと試行錯誤する責任から解放されているのである。
「わたしたちは、果たすべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:12-13)

 キリスト者の肉体は、罰を受けて一度死んでいる以上、サタンはいかなる肉体的苦痛を伴う方法を通しても、私たちをキリストから引き離すことはできない。私たちが目指すべきは、肉を生かそうとして焦ることではなく、霊によってからだの働きを殺すことである。

 だが、そうは言っても、肉体は現実に苦痛を覚え、魂は苦しみから逃れようと、あれやこれやと思い煩い、対策を講じようとする。その時に、私たちは、魂のこの天然の衝動に突き動かされて行動しないように気をつける必要がある。主イエスは、魂の衝動を一切、父なる神に委ねられて、聖霊の導きなしには、自分からは何事もなさなかった。

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)

 主イエスは自分の魂の願いに従って行動することは全くなされなかった。彼は御父の御心だけを行われたのである。しかし、多くのキリスト者は(私を含めてそうなのだが)、困難に見舞われると、御霊に聴くことを放棄して、御父を抜きにして、自己の内なる衝動に身を任せ、現実問題にあれやこれやの対策を講じようとする。人は苦痛を覚える状況の中で、片時もじっとしていることができない。だが、肉を救うために奔走すると、人は神との霊的合一からますます引き離されて、平安から遠ざかっていく。

 オースチン-スパークスは書いている、「サタンが常に力を注ぐ点は、(神と結ばれている)霊か(自己指向的な)魂かの問題です。サタンが聖書を引用する場合、それは神との内なる合一を破壊するためです。」
 
 荒野でサタンが御言葉を使ってイエスを誘惑したのは、イエスを御父の御旨から離れさせて、御霊の導きなしに、自己の内なる衝動に従わせるためであった。今日、私たちが試練に遭う時、同じように、御霊の思いとは反する魂の衝動が内に沸き起こり、私たちを御父のご計画に反する行動にひたすら駆り立てようとすることがあるだろうが、それを警戒しなければならない。

 その衝動に従うことは、一見、外から見れば、合理的な行動に見える。この競争社会では、私たちが自己の命を救おうとして取る行動は、世間からはどれも立派な行動として賞賛される。社会では、自分の命を救うためにどれくらい数多くの保障を得ることができたかということが、人としてのステータスにつながっているからだ。命を救うために、日々、行動し、立派な地位を得よ。命を救うために、自分の老い先について案じよ。命を救うために、着る物、食べる物にこだわれ。命を救うために、子を産み、出世し、趣味を持ち、老後の蓄えを築け。自分の命を危険から救うために行う全てのことは、社会では賞賛される。

「私たちの魂のいのちはなんと自己を守り、救おうとすることか!しかし、私たちの欺きに満ちた心から私たち自身が解放されるために、神に服従してこの罠の性質と暗示に対して敏感であることがどれほど必要でしょう。」

 キリスト者は、自分の命を救おうとする魂の各種の衝動に耳を傾けず、その衝動に対して死ぬ必要がある。そうでなければ、御霊に聴き従うということは不可能なままに終わるだろう。ではいかにして魂の各種の衝動に死ぬのか。

「二つのことが魂に起きなければなりません。第一に、魂は自己の力と支配に関して、キリストの死によって致命的な一撃を受けなければなりません。神がヤコブの腿、腱に触れてから、ヤコブがびっこのまま生涯の最後まで過ごしたように、『魂は何もできないし、何もすべきではない。神が魂の力を滅ぼされた』という事実が永遠に魂の中に刻印されなければなりません。

 次に、神のいっそう高い異なる道のために、魂は僕として『勝ち取られ』、支配され、治められなければなりません。聖書がしばしば述べているように、魂は私たちが獲得すべきものであり、それに対して権威を行使すべきものです。たとえば、
『あなたたちは忍耐することによって、自分の魂を勝ち取ります』(ルカによる福音書21章19節)
『あなたたちは真理に服従することによって自分の魂を清めました』(ペテロ第一の手紙1章22節)
『あなたたちの信仰の結果である魂の救い』(ペテロ第一の手紙1章9節)」

 ここで、魂を勝ち取るとは、魂を抑圧するとか、魂そのものを滅ぼし去ってしまうことでは決してないことに気をつけたい。私たちの魂は、肉にあって深く毒されているとはいえ、魂そのものを滅ぼしてしまえば、もはやまともな人間は成り立たなくなる。必要なのは、魂を肉の支配下から連れ出し、御霊の支配下へと新たに導き入れることである。魂に思い煩いではなく、いのちと平安を得させることである。
 魂の間違った衝動から逃れるために、禁欲主義的な生活を送り、魂のいかなる衝動をも滅却しようと努めることは無意味であり、それは逆に魂の反乱を招くだけに終わるだろう。私たちに必要なのは、魂を肉と連結したままで終わらせないこと、魂を霊の配下に置くことであり、それが魂を勝ち取るという御言葉の意味なのである。

「私たちの人間的本性は、すべて私たちの魂の中にあります。本性は一つの方向で抑圧されるなら、別の方向で逆襲します。これは多くの人が抱えている問題ですが、彼らはそれを知りません。抑圧の生活と奉仕の生活には違いがあります。御父に対するキリストの従順、服従、奉仕は、魂を滅ぼす生活ではなく、安息と喜びの生活でした。」

「霊性は抑圧の生活ではありません。これは消極的です。霊性は積極的です。霊性は新しい特別な生活であり、自分を治めようと奮闘する古い生活ではありません。魂は顧みを受ける必要がありますし、新しい高い知恵を学ぶようにされる必要があります。私たちが神と共に完全に歩もうとするなら、知識、理解、感覚、行いのための魂の力と能力はすべて終わらされ、私たちは――この面で――困惑し、茫然自失し、何もできずに立ちすくむでしょう。<…>
 次に、新しい別の神聖な理解力、拘束、力が私たちを前に進ませ、私たちを前進させ続けます。このような時、私たちは自分の魂に言わなければなりません、『私の魂よ、神の前に静まれ』(詩篇62篇1節)、『私の魂よ(中略)神に望みを置け』(詩篇62篇5節)、『私の魂よ、私と共に来て主に従え』。
 しかし、魂が霊に従うよう拘束され、その証しとして高い知恵と栄光を知覚する時、何という喜びと力があることでしょう。『私の魂は主をあがめます。私の霊は救い主なる神を喜びました』(ルカによる福音書1章46節)。霊に関しては完了形が使われており、魂に関しては現在形が使われています――時制に注意して下さい。

 ですから、満ち満ちた喜びに至るには魂が必要です。魂は暗闇と自分自身の能力の死を通されなければなりません。それは高くて深い現実――霊がそのための第一の器官であり機能です――を学ぶためです。

 あなたの魂を抑圧したり、さげすんだりする生活を送ってはなりません。そうではなく、霊の中で強くありなさい。それはあなたの魂が勝ち取られ、救われ、あなたの満ち満ちた喜びに役立つものとされるためです。主イエスが望んでおられるのは、私たちの魂に安息があることです。これは彼のくびき――合一と奉仕の象徴――によって実現されます。」

 魂の暗闇。恐らく、何年間もかけて私はそこを通過しつつあるように思う。ここでは逆境に対するいかなる抵抗も無意味となる。自分の無力さを思い知らされて、魂は思い煩い、悩み、苦しむが、暗闇から抜け出そうとするあらゆる試みが無駄に終わり、人間的な努力のすべてが打ち砕かれてしまう。平安はなくなり、安息は消え、不安、恐怖、苦痛、悲しみ、悩み、といったものだけが残る。
 文字通り、そこでは人間は虚無に服さなければならなくなる。この暗闇を無事に通過するためには、人知や努力やごまかしによらない、別の方法――従来の魂に導かれた生き方ではなく、御霊に導かれることを第一とする生活に転換すること――が必要である。

 聖書は、滅ぶべき肉のからだを持ちながら、霊に導かれるキリスト者として生きることが、矛盾に満ちた苦しみであり、決して単純な喜びだけに貫かれた生活ではないことを示している。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」(ローマ8:22-25)

 だが、このように矛盾に満ちた状況にあっても、キリスト者がなお望みを抱くことができる秘訣は、どこにあるのだろうか。肉はただ苦痛をもたらす目先の状況から逃れ、一瞬でも肉の命をつなぐことだけを希望としている。しかし、御霊にあっての望みは、具体的状況をはるかに越えて、逆境を忍耐強く忍びつつ、その先にあるまことの解放、まことのいのち、まことの平安、真の自由を思うことを意味する。それは、被造物同様に、人間が滅びのなわめから解放されて、栄光の自由に入る時を待ち望むことである。それは主の再臨を待ち望むことと同義である。

 さらに、驚くべきは、地上的なものに死んで、見えないものへの望みに堅く立つことが、逆説的に、今日に限定された具体的状況の中で、私たちの死ぬべき身体を生かすことにもつながるということだ。
「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:10-11)

 ここに、「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」と書いてあることに注意しよう。魂の思い煩いが、死ぬべき身体の寿命を一日たりとも延ばすことができない代わりに、神は御霊によってそれが可能となると示されている。これはどういうことだろうか?

 終わりの時代にあって、経済は不安定となり、保険会社も破綻し、地上の生を安楽に暮らすためのあらゆる保障が不確かなものとなり、家庭内暴力の話題が毎日のように新聞に載り、血肉にあってのつながりさえ、頼りがいのない、危険なものへと変わっていく時、聖霊に導かれて生きることこそが、人がその日、その日の人生をつなぐ保険となると言っても、過言ではない。なぜなら、聖書はこう言っているからだ、「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1:13-14)

 この御言葉を読む時、聖霊が、私たちがただ未来に神の国を継ぐことを漠然と保証してくれているだけで、今日という日については何も語っていないと考えるべきではないと思う。これは神がキリスト者に与えて下さった永遠の約束であり、今日という日から、未来へと絶え間なくつながる力強い保証である。これは人類が未来にかける「切ない望み」などではなく、私たちが神の国をつぐことの保証を受けることによって、あらゆる問題への解決をすでに得ていること、私たちの弱さにも関わらず、私たちがキリストにあってすでに全てを得ていること、今日を生き抜くために必要なものをすでに備えられていることの力強い約束である。

 

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古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着る

 今夜、Sugarさんの山小屋に向けて発つので、しばらくブログは更新できない。この旅はきっと、私が地上のものを後にし、キリストが満ちている高みへ向けて踏み出す確かな一歩となってくれることだろう。それは霊的滋養を私に与えてくれる旅となるだろう…。

 この出発と合わせるようにして、昨日、私の周りでひどい騒動が起こった。それはまるで、地上を離れると宣言した私への、地上からの陰険な引きとめ策とさえ受け取れるものであった。その事件を通して、主が明らかにされようとしたのは、多分、私の中に、まだ地上的なものに心惹かれる魂の欲求が強く残っており、それが触発された時に、自動的に反応を起こしているということであった。私の中で、肉なる人への愛情を求める欲求、未練、執着が死に切れていなかったこと、言い換えるならば、私の行動がそれによって無自覚に支配されていたことが明るみに出たのだ。

 しかし、人を愛し人から愛されているうちは、地上的な愛を求める欲求は、決して、御心に反する罪や、悪として浮き上がって来ることはない。このような魂の欲求の正体が暴かれるのは、「可愛さあまって憎さ百倍」と言われるように、相思相愛が成立せず、愛が得られなくなった時なのだ。その瞬間になって、初めて、魂からの愛は、その悪なる正体を目に見える形で現す。つまり、この世的な愛を求める人は、それが得られなくなると、それに対する激しい執着と未練に駆られ、まるで禁断症状に陥ったように、得られない愛を求めてどこまでもストーカーのように追いすがる。心乱れ、髪振り乱し、もはやキリストの平和のうちにとどまっていないのは一目瞭然だ。ついには、公然と、御心を捨てて、地上的な愛を追いかけるが、満足させられない欲求は、その人の中で、不満、憎しみ、怒り、恨みつらみに変わって荒れ狂う。その嵐のような衝動は、最後には、自己もしくは他人を死(殺人等)へと導くだろう。

 つまり、この世的な愛を得たいとの欲求は、そのものが、神の御心に反するのだと理解することが重要である。だが、そのような肉なる衝動にまだまだ私は知らずに突き動かされていたことが、今回の事件によって判明した。私は霊の衝動と魂の衝動を見分けることを今までやって来なかったのである。キリスト者の交わりを通して、私はこの事件に霊的な意味があったことに気づかされた。私は自己の内なる魂の衝動をきちんと見分け、それを管理し、御心に反する魂の衝動に死んで(私を慕い求める罪をきっぱりと退け)、霊に導かれて生きることが求められているのだ。

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22)

 私たちの心の中には、どれほど改められなければならないものが含まれているだろうか。 「情欲に迷って」、という言葉の中に、たとえば、肉親や兄弟や親戚や友人、知人たちの地上的な愛を求める欲求を含めることができるのではないだろうか?
 人として生まれてきた以上、皆から愛されたい、好意をもたれたい、と願わない人はいないだろう。だが、地上に住む人々の愛や好意や賞賛や注目を少しでも多く勝ち得たいという欲求も、情欲と同じく、滅び行く古き人から発する欲なのである。

 非常に厳しい言葉を使うならば、人は生まれて初めてお目にかかる他人、すなわち、両親からの愛を得たいという欲求にさえ、死ぬ必要があるのではないだろうか。赤ん坊にとっては、両親からの愛を受けられるかどうかは、生死を分けるほどの重大問題だ。きっと、良識ある人々であれば、それを諦めるべきだとか、その欲求に死ぬべきだなどとは言わないだろう。しかし、それほど重大な死活問題であるからこそ、親の愛を求める欲求は、人間の生まれながらの自己(古き人)に由来する、極めて抜き難い、本能的な、魂の奥底から出て来る欲求なのだと言えるのではないか。そして、主の視点から見るならば、親を代表とする地上的な人々の愛が、あなたの幸福決定権を握っているという感じ方は、完全な偽りなのだ。あなたを生かすのは、ただキリストの愛、キリストの命のみなのだから。

 従って、親兄弟、親戚、友人を含め、肉なる人から与えられる愛を求める願いに、私たちは十字架を通して死ぬべきなのであり、そのような諸々の魂の欲求に支配された古い人を完全に脱ぎ捨てて、聖霊によって歩む人へと変えられる必要がある(だが、それは決して、親兄弟との関係を一概に絶つとか、ニヒリズムに陥るとか、あるいは、人に対して薄情になれというような意味ではない)。
 キリスト者が関心を向けるべきは、地上の人々によって与えられる愛ではない。家人、親戚、友人、知人、そういう人々があなたを愛するか否か、それはあなたにとって死活問題でないどころか、何の問題にもならない。彼らには、あなたを唯一の命の源であるキリストから引き離す力が備わっていないのだから。

 地上的なつながりのある人たちの愛は、人間関係が上手く行っている間は、何の問題もなく、あなたを満たしてくれるだろう。それでも、それらに左右されて生きているレベルを、私たちは必ず、後にしなければならない時が来るだろう。それは地上的なものを理性や感情や意識の上で超越するという意味ではない。私たちが本当にキリストの愛のみによって生きるようになる時、おのずから、地上的な愛、魂から来る愛には自分を生かす力がないことが分かって来るのだ。

 以下は、ジェシー・ベン・ルイス、「魂の力」対「霊の力」、から抜粋。

「マーレーは、『『魂』は我々の『自己意識』の座である』と記しています。
『魂は我々の道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志を含む』
『人は霊によって神と彼の御旨に結合される。アダムの堕落において、『魂』(自己)は霊に従うか、それとも体と目に見えるものの誘惑に従うかを決定しなければならなかったのである』
『堕落において、魂は霊の支配を拒み、体の奴隷となった。・・・こうして、魂は肉の支配に服し、人は『肉になった』と言われている。それゆえ、魂のあらゆる属性は肉に属し、『肉の力の下』にある」

「マーレーの次の厳粛な言葉から、この事実の重要性がわかります。
『教会や個々の信者が恐れなければならない最大の危険は、精神や意志の力によって魂が過度に活動することである。多くの人の中で、魂は長い間支配してきた。そのため、キリストに服する時でさえ、『今こそ服従の働きを成し遂げなければならない』と魂は思い込むのである。この自己(魂)は非常に巧妙で力強いため、魂が神に仕えることを学ぶ時ですら、肉が依然として力をふるって、御霊だけに導かれることを拒むのである。宗教的であろうとする魂の努力もまた、大いなる敵であって、御霊を妨げ、消してしまう。・・・御霊によって始まったことが、非常に速やかに、肉に信頼する結果に終わってしまうのである」

 私は極めて魂的な人間であるから、これまで、魂の衝動のみで生きて来たと言い切っても過言ではないくらいだ。御言葉について語っている時でさえ、途中から、魂の興奮に突き動かされて喋っていることがある。しかし、私の中で魂の活動が活発化する時に、その危険性を見極め、聖霊という消化器でその衝動を吹き消し、御霊に聞くという訓練を行うことが今、求められているのが分かる。それをしないと、私は魂の衝動に無自覚に突き動かされて、結局、道から足を踏み外してしまう。だから、魂に対して勝利する方法を学ぶことは、キリスト者にとって、死活的重要性のある問題なのだ。

「それは、パウロがガラテヤ人への手紙5章17節で描写した昔ながらの戦いです。
『肉の欲は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らいます』。『肉の思いは神に対して反抗します』(ローマ人への手紙8章7節、参照コロサイ人への手紙1章21節)。
『肉』と『霊』は真っ向から対立しますし、今後も常にそうであり続けるでしょう。『肉』が『魂』の形を取って現される時、すなわち『肉』が生まれながらの人に固有の精神や意志などの力を通して現される時も、『肉』と『霊』は真っ向から対立します。これらは『肉の行い』として、次のように列挙されています。『偶像崇拝、魔術(魔法、Conybeare)、憎しみ、不和、騒乱、異端』(ガラテヤ人への手紙5章19~21節)。これらの活動はみな、肉の力の下にある魂の力によります。」

 肉の行い、すなわち魂の働きの結果もたらされるものの中に、「憎しみ、不和、騒乱」が含まれていることを、しっかりと覚えておきたい。家庭内騒動、家庭内不和というものがなぜ起こるのか。そこに魂の欲求が強く働いているからに他ならない。キリスト者はこのような魂の欲求の渦に巻き込まれることを拒否し、肉や魂の衝動に動かされる古き人を脱ぎ捨てて、「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。
 新しき人とは、聖霊によって導かれる人である。

 また、アンドリュー・マーレーによれば、私たちの「道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志」もまた魂の働きによる。ナントカ主義、ナントカ運動、そして宗教などはまさに魂の産物であると言えるし、科学、創作もそれに含まれるだろう。(今日、魂の影響に汚染されていないものを見つけることの方が極めて困難である。)
 今、キリスト教界に広がっている各種の誤った運動や、教えを見るならば、魂の働きがこれらの汚染や堕落の根源となっていることが分かるだろう。聖霊という言葉を巧みに使いながら、その実、肉体的感覚を煽る運動、魂の興奮を煽る運動などが展開されている。それらはまさに警戒すべき偽りである。

『魂の力』対『霊の力』。これが今日の戦場です。キリストのからだは、自らの内にある聖霊の力によって、天に向かって前進しつつあります。この世の雰囲気は、魂的な潮流(その背後には悪霊たちが集結しています)に覆われつつあります。神の子供にとって、危険を逃れる唯一の道は、キリストと結合したいのちを経験的に知ることです。キリストと結合したいのちの中で、神の子供はキリストと共に神の中に住み、有害な空気(その中で、空中の軍勢の君が彼の働きを進めています)を超越します。清めるキリストの血、キリストの死と一体化させる彼の十字架、復活・昇天された主の力―――これらを聖霊によって絶えず宣言し、握りしめ、行使することによってのみ、(キリストの)からだの肢体は勝利して、昇天されたかしらと結びつくでしょう。」

 心の深みまで新たにされて、新しい人を着る方法を、これからもさらに学んでいこう。

 前回と今回、ご紹介したオースチン-スパークス、ペン-ルイスなどの著作は、Olive Gardenをご参照下さい。
 


荒野にあっても…

 解放の神学について調べながら、かつてキリスト教の中に非キリスト教としての解放の神学がどうやって入り込み、どのようにして全体を腐食して行ったのか、その歴史を学んでいる。そこには、ちょうど今、繁栄の神学が、キリスト教の内側に仕掛けられた爆薬として、この宗教を内部崩壊させるような活動をしているのと全く同様の構図が見られる。

 しかし、資料を読めば読むほど、このように既存の宗教の弱点を見事についた、既存の宗教の影の部分を訴えるべく登場してきている擬似宗教が、どれほど人間に強く働きかける力を持っているかを感じるため、慄然とする。

 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、という言葉を聞く時、私たちはそれが何か大それた贅沢を願う、途方もない、現実離れした欲求のように感じがちだが、しかし、実際はそうではない。
 それは、今、まさに、社会的・経済的に疎外された状態に暮らす私が、この疎外の状態を解消したいと願う欲求と一致するのだ。

 飢えた子供が、死にたくないので、せめて一切れのパンが欲しいと願うその欲求を、どうして私たちは罪深い肉の欲として退けたりできるだろうか。それは私たちの目に、まことに善良で、純粋な願いのように映るだろう。同様に、社会から疎外された弱者が、せめて生きていくための手段が欲しいと叫ぶその願いを、誰が却下できるだろうか。誰もが餓死せずに適度な労働をして自立して生きていける社会制度を作ることが、今後のわが国の政治課題であると誰もが言うだろう。人として最低限の生きる権利、私たちはこの言葉を聞きなれ、それを保障してくれる民主主義、ヒューマニズムになじんでいる。それらは、決して、人の肉から出て来る切なる哀れな欲求を退けたりしない。

 だが、人間が人間の生存を保障しようとするそのような考えや制度のまさに延長線上から出て来たのが、解放の神学であり、繁栄の神学なのである。それは私たちの肉から出て来る切なる願いであるがゆえに、私たちを惹きつける。それは全ての肉なる欲求の代弁であり、それを神によらずに保障するための保険のようなものである。(どこかの保険会社のために谷川俊太郎が書いた詩をまさに思い出す、「人間の未来への切ない望みがこめられています…」)

 苦しい状況に立たされた時、人が状況の改善を願うのは当然だろう。そんな時に、苦痛を感じるまいと思っても、無理な相談だ。
 イエスが荒野で断食されていた間、当然のことながら、空腹を覚えられたことだろう。石がパンに見えてくるほど、空腹に苦しんだかも知れない。あるいは、ひと思いに崖から身を投げて死んでしまえば楽になれると思うほどの苦痛があったのかも知れない。現実逃避的な夢が頭の中に押し寄せて来て、それに浸りこんでいれば楽になれる気がしたかも知れない。

 きっと、人としてのイエスは、私たちがもしそのような状況に置かれたならば、感じるであろう苦痛を極みまで覚えられたことだろう。だが、イエスは悪魔からの誘惑を退けることによって、現状への不満に根ざした各種の現状改革案をきっぱり退けられた。自殺願望も、虚無主義も、当然、退けられた。イエスは、惨めな状態で、空腹のまま、一人ぼっちで、人里離れた荒野で断食している自分を少しも否定せず、その状態で生きることに不満を訴えず、神の御心として与えられたの苦境を、定められている時までしっかり受け止め、耐え忍ぶことを選ばれた(その試練の最たるものが十字架であった)。

 私は今、ひょっとすると、荒野に導かれているのかも知れない。その間に、自分の内側に起こる全ての肉的欲求、衝動、願いに死ぬことを学ばされているのかも知れない。だとしたら、それはまだまだ終わらないだろう…。この状況への私の無駄な抵抗がまだ死に切れていないから。誘惑は全て目の前を通り過ぎていくだけで、それをつかむことはできない。人生の貴重な時間が、指の間から滑り落ちるように虚しく浪費されていっても、ただ黙って見ていることしかできない。何かを積み上げようと思っても、それが残らないことを目撃させられる。主の憐れみによって、私のために、毎日、目に見えない烏があまり美味とは言えないパンを運んで来てくれるのだが、ケーキをくれとねだることはできない。今という時から得られる収穫を貪欲に、最大限に追い求めるために、荒野を捨てて、下界に降りて行きたいが、それはできない。そこにはソドムの街しかないことは分かっている。

 退却を許されないところにやって来て、十字架の中に閉じ込められて、せめてこれだけはと思うような小さな欲求であっても、それが肉から出たものであるならば、それに従って行動することが、神に対する反逆にしかならないことを思い知らされ、それにさよならを告げるべきだということを学ばされている。

 それらの欲求は、結局、私にこう告げているからだ、「おまえの今の状態について、神に不服を申し立てよ。こんな扱いは不当だ。おまえは何も悪いことはしていない。なのに、神はなぜおまえを捨てたのか。なぜ神はこの状態を改善して下さらないのか。この追い詰められた状況について、神に不服を申し立てよ。そしてそれでも神が答えを下さらないなら、その時は、自分で決起せよ。私が(神に)虐げられた弱者としてのおまえを救済する運動の方法を教えてやる」と。

 現状への欲求不満から生じる願いの全ては、たとえどんなに善良そうな見せかけをしていたとしても、あるいは社会正義のような装いをしていたとしても、結局は、御心に対する反逆である。それは自分の今の状態を否定し、現実の中に働いている御旨を見いだすことを拒否し、自分のアイデンティティを卑しめ、神が成して下さっている全ての事柄を不完全なものとみなす考えである。

 アダムとエバに対して蛇が何と言っただろう、「それを食べるとあなたたちの目が開けて善悪を知るようになることを神は知っておられるのです」と言ったのだ。蛇の誘惑はいつもこれである。今、私たちにない何かを目の前にちらつかせる。今とは違うもっと良い現実があるのではないかとそそのかす。神は私の知らない何かを、不当にも、私から取り上げ、私から隠しておられるのではないか。それゆえに、神は私を今のような惨めで卑しい状態にあえてとどめておられるのではないか。神の愛はその程度のものでしかないのではないか…。だから、神のご計画が成就するのをただ待っていてもだめだ、むしろ神の裏をかいてでも、人知をめぐらし、この惨めさから脱出する方法をぜひとも探し出さなければならない…。そんな風にして、神が私を置かれた状況を不当だと感じさせる疑いがやって来る時、それに耳を貸してはいけない。そして神に禁じられた方法で、今、得られないものを早急に手に入れようと考えてはいけない。

 この荒野がどんなに厳しかろうとも、そこを通ることが御心であるなら、私には欠けているものは何一つないと言える。キリストがうちに住んでいてくださっているがゆえに、私は完全なのだ。私は弱くとも、キリストの強さが私を覆っている。だから、私は誰からも救済される必要がないし、同情されるべき立場にさえない。この世界も堕落していて不完全だが、それすらも主のご計画の内にある。今の世界がどう悲惨であろうと、自分を取り巻く状態がどう理想からかけ離れていようと、神のご計画は十字架を通してすでに成就しており、今また現実として成就しつつある。だから、私はすでにキリストの完全な勝利の中に入れられており、疑わないで、それに安んじることが求められているだけなのである。

 肉的な欲求は当然、生きている限り生じるだろう。それが最大限になって極度の苦痛をもたらすこともあるかも知れない。今、求めても得られない何か、をいつも欲しがろうとする死の法則性からは、肉体がなくならない限り、完全には解放されないだろうと思う。しかし、たとえ苦痛が極みまで達したとしても、そこから逃れたいという欲求は、ただ神にお返しすることにしよう。すると、主が各種の欲求をえり分けて、中から、正しいものを恵みとして返して下さる。だから、「われらにパンを与えよ、しかるのちに善行を求めよ」と叫んだりせずに、ただ全ての問題を御心に信頼して任せることにしよう。御言葉なるイエスこそが、私たちを生かして下さる命の根源なのだから。

 ところで、現状への不満から生じる肉的な欲求とは別に、神が与えて下さる願いがある。それは肉の欲とは異なり、決して、現状を不完全だと感じる感覚から生まれてくるものではない。主が与えて下さる願いは、常に現実から出発している+αである。いや、現実のもっと先に見えている、見えないものと見えるものとの再統合である(見えるものは全て一旦消滅しなければならない)。肉の欲が、目の前にある現実の否定、現実の打倒や、現実の破壊、あるいは現状改革を訴え、現実の影の部分に対して反旗を翻すのに対し、神が与えて下さる願いは、言葉では表しにくいが、現実という土台の上に立って、その向こうに何か見えない建物を建て上げるようなもので、しかも、それがすでに完成していることを霊によってあらかじめ感知することができる。

 神はサタンをさえ用いることができる。どんな逆境も全て主の御手の中にある。私を訴える者も全て御手の中で動かされているだけである。だから、神のご計画のうちではすべてが完全なのである。それを信じる時に、不合理な状況から生じる肉体的感覚、苦痛、そんなものがほとんど効力を失っていく。そして汝の敵を愛せよと言われた御言葉の意味が真に浮かび上がってくる。敵はすでにいないも同然だが、抜け殻のようにまだ存在しているその敵を動かしているのは、主の愛に基づいたご計画である。だから、一切の恐れを払拭する神の揺るぎない愛の確信の中に立って、敵に言葉をかけるならば、まるで子供が誕生日ケーキのろうそくを吹き消す時のように、敵の放つ火矢はことごとく吹き消されていくだろう。

 私の存在が不完全であり、私は完全を模索してまだ何事かを自力で成さねばならないという焦り、もしくは恐れは、悪魔のしかける罠である。キリストが共におられるから、何一つ、私には欠けているものはない。従って、現状改革など一切必要ない。繁栄の神学も、解放の神学も無用。そして今後、何が起こるかは、私は知らなくとも、主がちゃんとご存知だ。その計画が完全であることを知らされている。だから、時には、不意に嵐が来て驚くこともあるかも知れないが、できる限り、安心して信仰の船に乗っていよう。心騒がせず、落ち着いているならば、その旅は、きっとかなり楽しいものとなるはずだ…。