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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

霊の人が直面する危険

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

 今までの流れから見ると、急に話が飛躍してしまうが、ある必要性から、この記事をぜひとも書かせていただきたい。

 すでに幾度も書いてきたように、多くのクリスチャンは、御子イエスを救い主として信じた時から、内側に聖霊をいただいているが、依然として、自己が強く働いているため、御霊の働きを妨げ、実を結ぶことができないでいる。そこで、私たちは御霊によって訓練を受け、また啓示を受けることにより、自己を否み、自己に死ぬということを経験し、外なる人の固い殻から解放され、外なる人と内なる人が真に一体化した霊的な人へと変わらなければならない。

 しかし、ここに第二、第三の重大な危険性が潜んでいることについて述べたい。私たちはどのようにして自己を否むのだろうか? どのようにして自己から脱却するのだろうか? 自分の努力で? 環境を変え、心機一転することによって? 催眠療法によって? カウンセリングによって? 旅行に出ることによって? …そんなことはまず不可能である。外的影響力によって、私たちは少しも自己から抜け出ることはできない。それどころか、私たちが外的影響力に自己を解放し、誤った方法で自己から脱却しようとする時、それはかえって、私たち自身を悪霊の影響下へと導き出すものとなるだろう。

 人の魂と霊を切り分け、何が人の自己であって、何が神の霊であるのかをはっきりと指し示すことができるのは、生きて働く神の御言葉だけである。
 私たちは、聖霊の照らしを抜きにしては、何が自分の自己の魂に由来する衝動であり、何が悪霊から来る影響であり、何が神の御霊から来るものであるか、決して識別することはできない。私たちにそれを教えてくれるのは御言葉だけである。他の方法によって、自己を否もうとすることは、私たちを破滅へと導く。

 私たちは御霊に導かれる「霊の人」となる必要があるが、同時に、御霊以外の霊から影響を受けてしまうことに警戒しなければならない。全ての霊が神から来たわけではなく、サタンに支配されるこの世には、諸霊と呼ばれる邪霊や悪鬼がおびただしく働いている。そのようなものに影響される危険性にさらされているのは、スピリチュアル・カウンセリングや、ニューエイジや、占いや、オカルトにのめりこんでいる人々だけではない。また、巨大集会や、クルセード、個人預言集会などに駆けつけて、やたらと超自然的な現象の現わればかりを追い求めている聖霊派の熱狂的な信者だけが、悪霊の攻撃対象となっていると思うのは間違いである。

 私たちは、自らを「霊的な人」であると自称し、「私は自己を否んでいる」と自称する、随分と経験を積んだ、高度な段階にいるように見えるクリスチャンでさえも、キリストを証する霊ではない霊によって欺かれてしまう危険性があることによくよく注意する必要がある。

 もしも私たちが、生きて働く御言葉を通して、霊を識別する力をいただかなければ、私たちは自称「霊的な」人々にすぐにも欺かれてしまうだろう。誰でもちょっと観察すれば、すぐにでも、御霊に導かれているのではないと見抜けるような、キリスト教界でスキャンダルを起こし続けている有名指導者たちは、さほど大きな問題ではない。それよりも、私たちが本当に注意し、警戒すべきなのは、外なる人が一旦、砕かれ、御霊に従って生きる人になったクリスチャンでさえも、その後で、警戒を怠るならば、知らず知らずのうちに、各種の欺きや誘惑にさらされて、神の霊を封じ込め、神から来たのではない霊の影響下に陥ってしまう危険性があるということである。いや、一旦、霊的な人になった信者であるからこそ、全く霊的な方面に関して閉ざされている信者よりも、より一層、偽りの霊からの攻撃を受けやすくなっているのだということを知らなければならない。

 以下は、ジェシー・ペン=ルイス夫人著「魂と霊」第五章「霊的なクリスチャン」の中から、「霊の人が直面する危険」の抜粋。
 
* * *

 真に「霊的」になった信者、すなわち霊によって魂と体を治めている信者は、その時、戦いの領域から出たわけではありません。むしろ、エペソ人への手紙6章10~18節に記されているように、いっそう微妙な戦いの段階に入ったのです。エペソ人への手紙2章6節では、その人は「キリストと共に天上に座らされて」いると言われています。しかし後の方では、彼が「高きところ」にいる悪霊の軍勢と「格闘」している様子が描かれています。彼は特に、悪魔の「策略」に立ち向かわなければなりません。

 これからわかるように、戦いの中にある霊的な信者は、おもに霊の敵の巧妙な霊的策略に対して警戒しなければならないのです。敵は彼を、ガラテヤ人への手紙5章17節で描写されている肉と霊の戦いよりも、霊の領域に関する事柄に巻き込もうとしています。

 戦いのこの局面における暗闇の軍勢の策略は、霊の人を霊にしたがってではなく、ある程度魂にしたがって歩ませること、すなわち、神の聖霊と協力している霊によってではなく、感覚領域の中にある事柄によって歩ませることに、おもに向けられています。

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。

過度の肉体感覚は、絶えず精神を集中する妨げでもあります。敵は、霊的な信者の「肉体感覚」を「攻撃」することによって、精神の集中を乱し、霊を覆おうとします。ですから、体は平静に保たれなければなりませんし、完全な統制の下に置かれなければなりません。この理由により、過度の笑いや、精神と霊を支配するまでに肉体のいのちを高揚させるすべての「衝動的行動」は、避けなければなりません。「霊的」になって、神のいのちの中で「成熟」することを願う信者は、万事について、行き過ぎ、無節制、極端を避けなければなりません。(コリント人への第一の手紙9章25~27節参照)

 人の肉体的部分が支配し、体に感じる超自然的経験を誤解することから、体は霊の働きをさせられ、真の霊の動きを抑圧する最高の地位に無理矢理着かせられます。このような状況の下、は圧迫を感じ、葛藤を感じます。こうして、精神と霊のかわりに、体が「感覚」になります。信者は、真の霊の感覚を識別することを学ばなければなりませんし、それを見分ける方法を知らなければなりません。霊の感覚は、感情的(魂的)な感覚や肉体的な感覚ではありません。(マルコによる福音書8章12節、ヨハネによる福音書13章21節、使徒の働き18章5節などを参照)*

(筆者コメント:
 敵は信者の中に、偽物の「霊的感覚」を作り出します。それは御霊から来たのでなく、信者自身の魂から来るさまよう思いと、感覚(五感)に頼った刺激なのですが、信者はそれが「偽物の霊的感覚」であることに気づかず、それらが神から来たものであると思ってしまう場合があります。
 また、敵は信者に、五感に頼った外的刺激を霊的感覚であると取り違えさせることがあります。あまりにも五感から来る刺激が素晴らしく、快楽的である場合、信者の魂は、それに病み付きになり、自分が外的刺激のとりこにされていることにも気づかずに、むしろ、それが神の恵みであり、自然な生き方であると取り違えさえするのです。このようにして、自分を楽しませる刺激に過度に(もしくはひっきりなしに)身を委ねることを、私たちは警戒しなければなりません。)

 無知のゆえに、信者の多くは、「霊にしたがって歩んでいる」と感じながら、「魂にしたがって」、すなわち思いや感情にしたがって歩んでいます。信者は活気に満ちた霊の力を奪われています。悪魔の軍勢は、あらゆる策略を用いて信者をおびき寄せ、魂や体によって生きさせようとします。悪魔の軍勢は、閃く幻を心に見せたり、祈りの間思いに出現したり、強烈な喜びや生命の躍動感を体に与えます

(筆者コメント:
キリスト教界で頻繁に、神の名を語って与えられる幻や、祈りの時に信者に与えられる思いや、個人預言などが偽りである危険性がまことに高いことについては、再三、このブログでも触れてきました。それらは全て直ちに信ずるに値するものではなく、御言葉を通して吟味、識別しなければならないものであることには何度も触れました。しかし、ここで注意が必要なのは、別のことです。たとえば、強烈な喜びや、生命の躍動感などといった、一見、宗教とは何の関係もないところで起こる、極めて自然に思われるような感覚でさえ、敵からの欺きの感覚として信者に与えられる場合があることに、改めて注意してください。敵の狙いは、物質界から来る刺激を、私たちに唯一のリアリティとして信じ込ませて、真のリアリティである神の霊の領域から目を逸らさせることです、物質に目を向けさせて、御霊を見失わせることなのです。)


 外から与えられる超自然的事柄や、感覚領域の経験に頼ることは、内側の霊のいのちを妨げます感覚による「経験」というエサによって、霊の真の領域に生きるかわりに、体の外側の領域に生きるよう、その信者はおびき寄せられますその時彼は、自分の中心から行動することをやめ、自分の周辺領域で外側の超自然的働きに捕らえられ、無意識のうちに内側で神と協力することをやめます。そして、霊の敵と戦う聖霊の器官である彼の霊は、機能停止に陥り、黙殺されてしまいます。なぜなら、その信者は感覚的な経験で満たされているからです。その結果、霊は事実上、導く働きをやめ、奉仕や戦いの力を与える働きをやめます。

 聖霊と協力せずに働く人の霊から、深刻な危険が生じます。霊が魂から「切り離され」、支配的になる時、それは全く違った方法で欺く霊どもの影響を受けるようになります。前に示したどれかの方法により、あるいは他の方法により、(無意識のうちに)聖霊と協力することをやめてしまった人を考えましょう。

彼はなおも自分の霊によって導かれています。彼は、「自分の力強い霊は神の力の証拠である」と考えます。なぜなら、他の方面で聖霊が自分を用いて魂を勝ち取られるのを、彼は見るからです。このような幻想の下、彼の霊の中に怒りが込み上げてくるかもしれません。彼は、その怒りはまったく神からのものであると考えて、怒りをぶちまけます。しかし、真の識別力を持つ他の人々は、明らかに神からではない荒々しい調子に気づきます。

(筆者のコメント:
 欺く霊からの影響が、怒りの爆発や、過度な落ち込み、悲嘆など、あからさまにネガティヴな感情となって現れる場合は、周囲にいる人々は、その人が神の霊でないものに影響され、異常事態に陥ったことに比較的簡単に気づくでしょう。しかし、それが、普段より少しばかり大目の陽気さ、かなりの活発さ、多大な喜び、子供のような無邪気さ、歓喜や興奮、楽観、有頂天、自己愛、御霊に基づかない予知能力や、各種の霊的な洞察力となって現れた場合、そのようなものが、悪魔的起源を持つものだと、すぐに人々が見抜くことは困難です。なぜなら、それはすぐにその人や周囲に破滅的影響を及ぼすわけではないからです。しかし、このような影響は必ず、その本人を徐々に、そして最終的に破滅へと導いていきます。)


祈る人が警戒していなければ、語る時だけでなく、戦いの時にも、このようなことがすぐに起きるでしょう。悪魔的な力は、直接的に、または魂的な感情を通して、霊に影響を及ぼします。

 悪霊は人自身の中の神の働きを真似します人が聖霊と協力していない時、彼の霊は悪霊の影響を受けます。神と共に歩むことを求める信者は、この影響を理解し、見抜く必要があります。彼は霊的だからこそ、彼の「霊」は霊の領域の二つの力に対して開かれているのです。彼はこのことを知る必要があります。

もし「聖霊だけが霊の領域の中で自分に影響を及ぼすことができる」と考えるなら、彼は確実に誤りに導かれるでしょう。もしそうだとしたら、彼は絶対に間違いを犯さなくなるはずです。しかし彼は、目をさまして祈り、神の真の働きを偽物から区別するために、理解力の照らしを求める必要があります

(筆者のコメント:
キリストはカルバリーで勝利を取られ、天に昇り、御座につかれましたが、私たちはまだこの時空間に残されて、神とこの世の両方の陣営から引っ張られ、両方の影響を受けながら、神のために戦うことを要求されています。私たちはおびただしい敵に包囲されています。そこで真に勝利するためには、私たちは霊的に目を覚ましていなければなりません。それがなければ、私たちは敗北するでしょう。目を覚ましているとは、敵の働きが深く強力であり、自分では太刀打ちできないことを知り、決して、自惚れや、増長や、霊的怠慢、平和ボケに陥ることなく、絶え間なく、イエスの十字架の死と復活と昇天の力を自分のものとして受け取り、神の武具によって武装し、敵の欺きを看破し、来るべき試みに対して警戒していなければならないということです。)

 「霊的」な信者は、エペソ人への手紙第6章に記されている天的戦いの啓示を、深く熟慮しなければなりません。そして、「神のすべての武具」の経験的な意味を完全に知るよう努めなければなりません。敵の猛攻の「邪悪な日」に際して、彼は神のすべての武具を「取り」、用いなければなりません。

 この現在の時における神の霊の負担は、キリストの体の肢体を完成させること、完全に成熟させることです。それは、彼の再来が速やかに起こり、キリストとその共同の相続人たちの千年間の統治がもたらされるためです。こうして、世界は平和になり、サタンは敗北します。サタンは穴に投げ込まれ、この世の王国は主とそのキリストの王国になります。

 「主イエスよ、速やかに来てください。アーメン」

(筆者のコメント:
 言葉を変えるならば、千年王国が来るまで、戦いは少しも終わってはいないのです。それにも関わらず、キリストの勝利だけを指して、戦いはすでに終わっているので、クリスチャンは警戒する必要もないと思ったり、敵を何らかの団体や組織だけに限定して、それに近づきさえしなければ、自分は守られていると浅はかに考えようとすることは、私たちを敗北へと導くでしょう。
 私たちはこの世の影響に絶えずさらされており、この世は私たちを絶えず魂と肉に従って歩ませようとします。この世から来る全ての影響が、私たちの注意を御霊から逸らせます。しかし、私たちはキリストの身体をさらなる完成、成熟へともたらすために、絶え間なくこの世を拒み、私たちを滅びゆくこの世の影響力、外的刺激、魂の衝動に服従させようとする、敵のあらゆる策略を打ち砕き、それに勝利し、暗闇を駆逐しながら、御霊の照らしを受けて、まことの命である復活のキリストだけを選択し、前進していかなければならないのです。すべての命と勝利は(サタンの敗北でさえ)キリストの中に含まれており、キリストは完全な勝利を取られたのですが、しかし、この時代にあって、この時空間の中で、私たちが真実、それを受け取るためには、私たち自身がキリストの勝利をこの地に現実にもたらし、暗闇に支配される世に光をもたらす必要があるのです。それには、私たちが目を覚まして、敵の策略に一つ一つ打ち勝つことが不可欠なのです。


 どうか御霊の光によって、私たちが、神の霊ではないものを識別し、それらを看破して退け、私たちを、魂と、肉へと引き戻し、感覚に従って歩ませようとする全ての偽りの影響から抜け出すことができますように!)

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荒野を生きる

命が測られるのは、得ることによるのではなく、失うことによる;
どれだけぶどう酒を飲んだかによるのではなく、どれだけぶどう酒を注ぎ出したかによる;
なぜなら愛の最大の力は、愛の中で犠牲にすることであり、
最も深く苦しみを受けた人が、最も多く与えるものを持っているからである。
           
自らを最も苛酷に取り扱う人が、最も神のために選択することが容易であり;
自らを最も傷つける者が、人の涙を最も拭うことができ;
損失と剥奪に慣れていない人は、鳴り響く鐘や騒がしいシンバルであるにすぎない;
自らを救うことのできる人は、すべてに勝る喜びを持つことがない。
                              ウォッチマン・ニー


 (上記の文章はウィットネス・リーに関する記述を含むサイト「今の時代における神聖な啓示の先見者ウォッチマン・ニー」からの引用です。著作権の関係上、このサイトを記述しましたが、私とこのサイトを記述した団体との間につながりはありません。)

 上記のニー兄弟の言葉は、クリスチャンに対する自虐の勧めではありません。今日、クリスチャンでなくとも、自分のために自分を傷つけ、自分のために自分を過酷に取り扱い、あるいは、誰か親しい人や、指導者や、特定の組織や団体のために自分を進んで苦しめ、進んで損失と剥奪に耐えようとする人たちは沢山います。

 ある人はトラウマのために、自傷行為にふけり、ある人は「正義」のためにカルト団体の圧制に耐えます。しかし、それらの苦しみと損失は、すべて、滅びゆく肉のために、朽ちゆく魂のために支払われた代償であり、朽ちゆく地上の富のために支払われた損失であるために、永遠の朽ちない宝に還元されることは決してありません。
 上記の文章は、そのようにして、肉なる者が、肉なる者のために進んで苦しみに耐えるという、人間の自虐的、または自己犠牲的な生き方を奨励するために書かれたものではありません。

 私たちが自分の命を失い、損失と剥奪に耐える価値があるとすれば、それはただ一つの場合だけです、つまり、それが自分や誰かという生まれながらの人間を救うために支払われる代価ではなく、ただ見えない世界に永遠に存在する神への愛のために支払われる代償である場合です。

 私たちは朽ちる世界に富を積み上げるのでなく、朽ちない世界に富を蓄えるために召し出されています。地上ではなく、天に宝を積むように召し出された者がクリスチャンです。しかし、私たちは何と多くの捨てられない宝を地上に持っていることでしょう。何と多くの地上的な富が私たちの視界をさえぎり、この地上とは別に永遠の世界があることを見えなくさせていることでしょう。

 人間の魂が朽ちゆくものであり、腐敗した旧創造、肉なるものに属していることを一度も知らされたことのないクリスチャンたちは、それとは別に、キリストの復活の命に属する霊的な世界があることを知らないがために、魂から発する愛情を賛美します。人間の魂の世界においては、肉親への愛情は、恐らく、最高の価値を持つ愛情としてたたえられていることでしょう。あらゆる詩が、文学が、人間の人間への愛や犠牲を誉めたたえます。しかし、聖書は、それよりもはるかに高い愛、いや、魂と肉の愛には対立する、それとは次元の異なる愛があることを教えています。それが、神の愛です。

 神の愛は、肉なるもののあらゆるつながりを越えて、上位(至高)に存在するものであり、魂から来る愛を完全に焼き尽くしてなお永遠に残る最高の価値です。神の愛の前には、人間の魂と肉から発する愛情、すなわち、この世的な愛情は、不純物にしかならず、忌まわしいものとして拒絶され、価値あるものとして残ることは決してありません。

 このことを言うと、きっと多くの反対があるでしょう。禁欲主義だと誤解する人々も現れるでしょう。私が世的な愛と楽しみを酷評する度に、どれほど多くの反対がやって来るでしょうか。確かに、神は大いなる憐れみを施して、クリスチャンのために、日々の糧を備えてくださいます。私たちは主にあって、この世に生きることを楽しんでいますし、恵みを享受しています。人間である私たちはこの世で命を存続させることなくして、地上で生きていけません。毎日与えられる食べ物は私たちにとって欠かせない満足であり、家族の愛は慰めであり、この世界の美は、あらゆる場面で私たちを楽しませます。

 しかし、クリスチャンは知っているのです、それらの地上的な愛と満足と楽しみが、根本的には、神の愛と対立するものであり、決して永久に続くことのない、一時的なものでしかなく、滅びゆく性質を帯びたものであることを。

 御霊によって生まれた者は、そのような満足をどこかで厭わしく思っています、決して、呪われた死の身体が毎日のように貪欲に要求する活動によって、本当に満足させられることはありません。クリスチャンは、朽ちることのない、揺るぎない価値によって生きることを真剣に追い求めています、目には見えないが、目に見えるもの以上のリアリティを持ったお方の中で生かされることを求めています、私はありてある、と言われる方の命につらなって生きることを求めています、そして、それはただ、人となって地上に来られたキリストの復活の命を受けることによって、私たちが永遠に導きいれられることを通してのみ、成り立つものであることを知っています。

 金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいと、イエスは言われました。キリストの復活の命に至る小さな狭い門を私たちがくぐりぬけようとする時、私たちの肥大した自己がつっかえ棒になります。私たちが両手に抱えきれないほどぶらさげている財産(世の楽しみへの執着)が邪魔になります。肉親への愛が障害になります。

 ここで、私たちが人知を振り絞って企画した各種の宗教活動さえも邪魔になると言えば、多くの人たちが首をかしげるでしょう。しかし、言わねばなりません、私たちが心から神を愛し、賛美していると自分で思っている時でさえ、私たちのほとんどは、ただ自分の魂の善意を働かせ、自分の肉と魂を喜ばせることをひたすら追い求めているだけであることをもっと知るべきであると。

 多くの人々は、自分が信仰心だと思っているものが、実は魂のエネルギーから出た活動であり、人間の所有欲、自己顕示欲など、各種の欲望と密接に結びついて生まれたものであることを知りません。
 神のため、という名目で、今日、あらゆる教会で終わりなく行われる興行的なイベントは、一体、誰のために催されているのでしょう。美しい賛美歌は、誰のために歌われているのでしょう。私たちは根本的に勘違いしているのです、霊的な礼拝の本質が、人間の魂の活動の中にはない、ということを知らないのです、そして、自分たちが、肉体に鞭打って、魂の力を極限まで働かせて、宗教的な名前を冠したイベント活動にひっきりなしにいそしみ、絶え間なく刺激を受けて、何らかの活動を成功に導き、自分と人々を喜ばせることが、同時に、神を喜ばせることにつながり、霊的な礼拝になりうると勘違いしているのです。

 私たちは「主のために」、知恵を振り絞って、善良な計画表を練ります、今まで以上の素晴らしいメッセージや賛美歌をもひねり出します、今日の成功で満足せず、明日は神のためにどんなに内容の充実した催しを企画しようかと、終わりのないスケジュールを思い巡らし、兄弟姉妹たちを集会に招いてどう助けるべきか考え、彼らに教えています。集会が大きくても小さくても、私たちは自分をとても信仰的だと思って満足し、自分の善良な計画表にうっとりしています。とんでもありません! そんなものはもう沢山です! 

 それは片時も鳴り止まない、迷惑でうるさい鐘、騒がしいシンバルと全く同じです。私たちは自分の出番を決して失いたくないがために、指揮者も、楽譜も、音楽全体を無視してまでも、自分のシンバルをひっきりなしに叩き続けている迷惑な奏者と同じなのです。
 
 今日、神が私たちに望んでおられるのは、そんなむなしい活動ではありません。むしろ、私たちが自分のシンバルをさっさと捨て去ることを、恐らく、神は望んでおられるのではないでしょうか。私たちが自分の血と汗と涙(または魂から来る衝動と喜びと満足)によって練り上げたその愚かしい自己満足的な計画表を捨て去って、自分自身の力で神を喜ばせようとすることに絶望して、肉と魂にとって、まさに無一文の状態に戻り、御霊だけがすべてを始められるように、ただ制止して待つことを、神は願っておられるのではないでしょうか。私たちが自分の出番を作りたいと願う心さえ放棄し、肉と魂によって捧げるカインの礼拝を捨て去り、霊によって捧げられるまことの礼拝とは何かを、真に見ることこそ、神は私たちに願っておられるのではないでしょうか。

 人間がひっきりなしに人知によって考え出す礼拝は、人間の善意と活動意欲を満たすことはあったとしても、神と喜ばせる礼拝にはなり得ません。霊とまこととによって捧げられる礼拝とは一体何なのかを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。

 朽ちない霊の世界には、霊なるものしか持っていくことはできません。それなのに、私たちはそこに至るまでに、当然のごとく焼き尽くされていなければならないあれやこれやの財産を、どうしても手放したくなくて、手を鋤にかけてから、後ろを振り向いているのです。そんな私たちにとっては、天国に至ることは、まさに針の穴をくぐるように困難であることでしょう!

 神は今日、御子イエスがそうされたのと同じように、見えない神の御心のために、見える世界を犠牲として喜んで捧げ、手放すことを知っているクリスチャンを求めておられるのではないかと私は思います。自分を喜ばせ、楽しませる手段に事欠かない、物質界のオアシスのような時代にあって、神が私たちに求めておられるのは、荒野を生きること、オアシスを荒野のように生きること、すなわち、肉と魂に果てしなく絶望し、その腐敗した活動を放棄して、自分を喜ばせるために生きることをやめて、自己に死んで、ただ朽ちないまことの命だけによって生かされることを学んだクリスチャン、キリストの十字架を通して、肉と魂に死に、日々それを拒否して、御霊によってのみ生かされることを学んだクリスチャンこそが求められているのではないでしょうか。

 人生が荒野のようにつらく厳しい時には、私たちは否応なしに神の懲らしめの学課を学びますが、人生がオアシスのように豊かな時に、その学課を自ら学べる人はほとんどいないのです。願わくば、神が私たちに知恵を与えて下さり、私たちが、物質世界の豊かさが、霊的世界の豊かさからどれほどかけ離れているかをはっきりと知ることができ、魂の活動に絶望して、ただ御霊だけによって、真のリアリティであるまことの命を生きるために、必要な学課を学び取ることができますように。

いつもただキリストを思う

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた…」(Ⅰテモテ2:5)

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(Ⅱテモテ2:8)

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(Ⅱテモテ3:12)

* * *

 今日、家族とのお別れ会を済ませた。誰もがくつろぐ、なごやかな席となった。主が我が家に与えられた平和。どんなに得がたい贈り物だったことだろう…。

 自己に死んで以来、主にあって、私は俄然、健康を取り戻した。毎日、1.5~2人前くらいの食事を摂っている。これまでになかったことだ。生きる意欲が、内側から回復しているのが分かる。
 本当に、主が共におられると、不思議極まりないことが、毎日、起こる。まるで何十年間も盲目だった人が、急に目が見えるようになったように、私は今までと違った世界を目のあたりにして、毎日、目をしばたたいている…。

 不思議の第一は、毎朝、目覚めた瞬間から、ただ主のことだけを考え続けていることだ。石の心が取り除かれ、肉の心が与えられた。私の思いがすっかり変えられてしまった。今やイエス・キリストに関わること以外は、何一つ、私の気を引かなくなってしまった…。

 ある人々は、それを宗教マニアだと笑うかも知れない。キリストを第一優先すると言いながら、マニアックな狂信に落ちているだけだと…。だが、第二の不思議は、私が人情にも義理にも価値を置かなくなったことだ。人からの外面的評価を意に介さないので、冷たい人間になったと思われるだろう。以前に大切にしていた諸々の人間的価値が、私に対して死んでしまった。

 特に、人知によって塗り固められた偽りの宗教、偽りの道徳、人間の作り上げた各種の倫理道徳的しがらみに対して、私は強い嫌悪を催すようになった。この世の価値観に嫌悪を催すことはあまりなく、何にもまして、耐えられない思いがするのは、宗教的偽善に対してである。神を崇めているように見せかけながら、その実、人間の努力を誇ろうとする心、人の血と汗と涙の結晶としての宗教的道徳や、宗教的遺産を誇ろうとする心、善を装いながら、その実、肉なる人間を立てようとする偽善、義理人情に縛られた遠慮と執着…、そういうものに、嫌悪を催すようになった。生まれながらの人間が、生まれながらの人間(死体)を延命させるために作り出す各種のきれいごと、括弧つきの善意こそ、何にもまして、耐えがたいものとなった…。

 生まれながらの人間の努力の結晶を弁護しようとの気持ちは、私にはもうない。たとえそれがどれほど敬虔な信仰心に見せかけられていたとしても、だ。生まれながらの人間の善意は、全て、死すべきものである。人間の努力によって作り上げられる宗教など、さっさと滅びた方が良い。それを擁護しようとの気持ちは、私には毛頭ない。だが、このように言えば、きっと、先人の努力を理解しない、人類の偉大なる宗教的遺産をないがしろにする、冷たい、独りよがりな人間だとの非難を免れられないだろう。だが、たとえそのような非難をこうむったとしても、構わない、イエスの復活の命以外のものを賞賛したいという気持ちは、私にはもうないからだ…。人間の努力による独りよがりの礼拝は、もうやめよう…。

 さて、話題を戻せば、今夜はただ美味しい食事にあずかれただけでなく、満足そうな家人の顔を見ているだけで、十分に満たされた食事会であった。血肉による家族に平和が戻ってきたことが嬉しいのではない。血肉による家族が、私の家族なのではないことは分かっている。私の家族は主によって生まれた兄弟姉妹だ。しかし、魂を失ったことによって、魂を得た。家族の魂を失ったことによって、私は彼らをもう一度、得たのだ…。

 自分の努力によっては、どうしてもつかめなかった平和が、そこにあった。ラバンがヤコブをさんざん苦しめたように、彼らは私の人格を燃え盛る炉の中に投げ入れ、そこで不純物である私の自己を死なせる役割を担った。それは主のご計画の中で許された出来事であったが、肉なる私にとっては、何と苦しい試練に感じられたことだろう。何十年間、その火に苦しめられて生きてきたことだろう。
 それが今や終わり、私たちは一切の隔ての中垣を取り除かれて、共に和解のテーブルに着いた。私が死んだことによって、和解が訪れた。自分の力では、自己に死ぬことさえもできなかった。すべてが上から、主によって与えられたことであり、私の努力による達成は何一つもなかった(何か誇れるものがあるとしたら、それはあまりにも不完全で不平だらけのみっともない忍耐だけだろう)。これは、どんなに神に感謝しても足りない恵みだ。

 新しい土地で、何が私を待っているのかさっぱり分からない。何のために主が私をそこへ持ち運ばれようとしているのか、今は全く不明だ。だが、主が私を祝福のうちにこの地から送り出そうとして下さっていることが、とても嬉しい。
 以前にも書いたことだが、神が召し出された者たちは、何らかの方法で世から隔離され、特別な忍耐の要求される苦境を通らされるように感じられてならない。私たちが自分から世を出て行くのではなく、不思議な方法で、自然と、世から遠ざけられ、患難が向こうからやって来るのだ。私のこの一年間の孤独と苦痛も、主が私に与えられた一種の隔離であった…。

 今は、主にあっての兄弟姉妹たちが与えられているので、私は一人ではない。初めは、このつながりが、この先、めまぐるしいほどの勢いで、強化され、増えていくのだろうと思っていた。しかし、そうではないことに気づいた。世からの隔離は、これからも終わらないだろう…。

 私は神の御前に、独り者として、これからも、歩み続ける必要がある。必要に応じて、交わりは与えられるだろうが、それにしても、荒野で、ただ一人きりで御前に立つこと、キリストにのみ捧げられた純潔の花嫁として、神の御前にただ一人で立ち続けること(これは生涯を独身で通すといった世的な意味ではない)が、私の神への真心の証としてこれからも求められるだろう。ただイエスお一人だけを見上げ、イエスだけに心を注ぎ出すために、私は荒野に導かれたのであり、ある意味で、荒野は終わったが、これからも荒野は続くのだ。

 御子の降誕を告げる天使の歌声を聞いた荒野の羊飼いたちのことを思う。一体、なぜ、天使たちの麗しい歌声を聞く特権を、他でもない貧しい羊飼いたちが得たのだろうか? 彼らに信仰心などというものがあったのだろうか? 分からない。どうして神が、彼らを選ばれたのか、分からない。東方の博士たちにしてもそうだ…。けれども、神はいつもそのような不思議な方法で働かれる。神は人の誉れの集中する場所には決して現れず、取るに足らない、打ち捨てられたような人々に眼差しを注いでおられる…。

 だから、私は今までと同じように、何の荘厳さもなく、きらびやかさもない荒野にいよう。そこで、静かに、差し向かいで神を礼拝することを続けよう。そこには、人知による信仰の手引き書は一切なく、いかなる方法論もない。目に見えるレールはどこにもない。御言葉なるイエスという見えない道を、御霊に従って、進んでいくだけだ。不安と言えば不安だ。レールがないのだから。けれど、真実と真心を主に捧げ、この先の道を示してくださいと主に願い求めながら、一歩、一歩を進んで行こう…。

 道は見えないが、霊には安息がある。今、分かっていることは、私は自由とされたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならないということ。そして、我が主が地上において、そしられたように、私も恐らく、この先、同じか、それ以上にそしりを受けるようになるだろうということ。そのそしりは、世から来るのではなく、何よりも、信心深い信者を自称する人々から最も激しくやって来るだろう。

 今はキリスト教においても、異端が花盛りだ。人々が健全な教えに耐えられなくなり、自分の好みに合わせて、よりどりみどりの教師や、カウンセラーを立てては、そこに殺到している、背教の時代である。そんな中で、偽教師たちを告発するような、まことの信仰者が現れれば、逆に、彼らこそが偽物であるかのように攻撃され、中傷されるのは当然だろう。

 (偽教師を人知によって見極めることは不可能な場合があることによくよく注意されたい。何が本物であるか見極めるためには、真実、御霊による証印を受けていることが不可欠である。クリスチャンには絶対に聖霊に導かれることが必要である。そのことを何度でも繰り返したい。)

 だが、厳しい迫害の中でも、しっかりとイエスに従う人々の道は、必ず守られるだろうことを信じて疑わない。このパラドックスを何と言い表せば良いだろうか。私は、手ぶら同然で出かけようとしているのに、豊かになることを信じており、何の保証もないところへ踏み出すのに、安全が守られると信じ、荒野へ導かれると思いながらも、ますます兄弟姉妹との愛の一致の中に入れられることを疑わず、落ち着き先がないのに、自由であると感じ、迫害を覚悟しながら、ますます栄光に満ちた姿へと変えられることを信じている。

 主は不思議な方であり、主が用意された矛盾の中を生きることは楽しい。私の魂と肉から出た計画には滅びあるのみ。私の思いをはるかに越えて、何にもまして優れた主の御旨がなりますように。

 さて、この先、しばらく、ブログはお休みです。皆様、良い秋をお過ごしください。


この世の臭気

十字架で自己が死んで、復活した日。それはもしかすると、バプテスマを受けたその日よりも、もっと記念すべき日になるかも知れない。何しろ、この日を境に、やっと人は、サタンの虜から本格的に解放されて、世から隠され、主にあってまことの命を生き始めるのだから。
 そして、復活の次なるステップは、キリストと共に御座につくことである。御座につくとは、一体、どういうことなのだろうか?

 今、私は自分が御座についているとは感じない。だとすれば、それはこれから経験することなのだろう。どうか主が、十字架における死と復活を私に明確に経験させてくださったのと同じように、御座につくとは何であるか、その本質を、私にはっきりと分からせて下さるようにと願う。そのことについて、知識の上でも、理解を深めていきたい。

 さて、今日は、十字架上で自己が死に、そして復活して以来、世界の意味が私にとってまるで変わってしまったことについて話をしたい。この事件を経て、自分でも驚いていることが一つある。それは、私がこの世の全てのものに対して、無関心、かつ、冷淡となり、いや、もっと言うならば、激しい嫌悪感さえ抱くようになったことである。

 初め、こんな冷淡さが、本当にキリスト者にふさわしいものなのだろうかと、私は自分を疑った。以前の私は時々、人から言われたものだ、「あなたは人の痛みが分かる人ですねえ。弱者に優しい、人の痛みに敏感な人ですねえ」と。私は当時、それを誉め言葉として受け取り、情け深い自分自身のありようを(愚かしくも)美徳と考えて喜んでいた。

 ところが、この「弱者に優しいワタシ、ニンゲンの弱さをよく理解するワタシ」というものが、十字架上で死んでしまったのだ。そして、その代わりに、生まれながらのニンゲンに対して、無関心かつ、それを厭わしく感じる私が生まれたのである。
 かつて、私が必死でかぼうとしてきたもの、生かそうとしてきたもの(それは総体としては「この世」なのだが、天然の、生まれながらのニンゲンに何より代表される)に、私は興味を失い、それらを唾棄すべきものとして嫌悪し、厭い、退けるようになった。生まれながらのニンゲンのために涙を流し、ニンゲンに同情し、ニンゲンを滅びから救おうと汗水流して活動する運動のすべてが、御心に反する虚偽だという結論に至ったのである。

 だが、しばらくの間、自分の中に生じた嫌悪感の意味が私には分からなかった。それは非人間的な、冷たい感情のように思われた。私がかつて持っていた弱者への共感、人へのいたわりと共感、人の痛みに対する同情心、人の欠点や、悪に対してすらの共感と理解…、そういうものはどうなったのだろうか? 

 私はこの世に対する嫌悪を、かなり激しい言葉を用いて語っている自分に気づいて驚いた。もしかして、私は悪く変わってしまったのではないか? このような気持ちが、本当に、主にあって与えられたものだと言えるのだろうか?との疑問が生じた。

 だが、主はこのことの意味を、私に理解させて下さった。

 すでに書いたことではあるが、神の御前に、サタンに支配されるこの世は、唾棄すべき、厭わしいもの、呪われたもの、滅ぼされるべきものなのである。そして、サタンによって堕落させられた人間もまた、神の御前には、忌むべきもの、死すべきものである。サタン的価値観と、それに汚染された全てのものは、神の御前に、忌むべきものであり、救われる見込みを持たない。だから、キリスト者が、旧創造を目の前にして、主が感じられるのと同じように、それを厭わしく感じるのは、むしろ当然なのである。

 このようにも表現できるだろう、罪の性質を帯びたものは、すべて堕落したものであり、堕落したものは全て朽ちゆくものであり、朽ちゆくものすべては、独特の臭気を発しているのだと。それは霊的な死臭である。そして主のものとされたキリスト者には、この臭気がかぎ分けられる。だから、彼は当然のごとく、それを厭わしく感じ、できる限り、避けようとする。

 たとえば、考えてみよう、この世の物質でさえ、腐るということがある。健康な人間は、生ゴミの臭気を嫌い、新鮮さを好む。新鮮な野菜を食べれば、元気が出るし、新品の服を着て歩けば、気分も良い。
 学者でもない限り、毎朝、百年前に発行された同じ新聞をテーブルに広げて、繰り返し読みたいと願う人がいるだろうか? 私たちは常に新しいものを求める。同じことの繰り返しは、人に何ももたらさない。

 健康な人間は、朽ちてゆくものを嫌い、退ける。腐った果実は、人の体を殺すことはできても、生かす力はなく、着古した服は、さっさと捨てるべきだと、私たちは知っている。
 だから、私たちは、古くなったものに執着することなく、それを容赦なく捨て去る。そして古いもののことは忘れて、新しいものに喜びを見出し、新鮮なもので自分の生活を満たそうとする。

 ところが、そのように新鮮さを好む人間が、自力ではどうしても理解できないことが一つある。それは、生まれながらの人間もまた、朽ちてゆくものの一部であり、容赦なく捨て去られるべきものであり、人間は例外なく死の臭気を発しているということである。
 これを一言で言い換えるなら、Sugarさんがかつて書いておられたように、人間は皆、神の御前に、腐乱死体だということになる。

どんな人であっても、その正体は神に呪われた墓の下の腐乱死体に過ぎないことを
 私達は決して忘れてはなりません。<…>

 いわゆる霊の切り分けは、魂側からの切り分け、即ち
 『自分の魂の正体への深刻な認識』からもたらされるものでもある、
 と私は思っております。」

 十字架の死と復活を経験した後に、この言葉の意味が、私にはっきりと分かった。
 朽ちてゆくもの全てが発する臭気を、御霊を通して、感じ取るようになったからである。そこで、腐乱死体という言葉が、決して、大袈裟な比喩でなく、真実であると理解できる。

 残念ながら、腐乱死体の死臭は、たとえば、私の肉の体からも発している。今、私の身体には青あざがある。ようやく腫れは引いたが、血液が紫色に変色して皮膚の内側で凝固しているのが不気味であり、もしそれを絆創膏で覆っていなければ、人は誰もその醜い傷跡を正視し得ないだろう。

 この傷は、あと2,3週間ほどもすれば、きれいさっぱり癒えて、元通りになる。そういう意味では、何の心配も要らない、他愛のない、一時的な怪我なのだが、深刻な事実が一つある。それは、この醜い怪我が、私の肉なる性質の本質を表しており、たとえ身体の傷は癒えても、霊的な意味では、私の身体は全身、醜い傷跡と腐敗に覆われているミイラも同然だということなのである。
 
 もしも今、私の全身が、内出血や、かさぶたや、みみず腫れに覆われていたとしたらどうだろう? 誰一人として、私の姿を二目と見られないだろうし、まともなおつきあいも成り立たなくなるだろう。だが、霊的な観点から見ると、それこそが、肉なる私の本質なのである。
 全身、生々しい傷とかさぶたとみみず腫れと内出血と腐敗に覆われたミイラ、それが肉なる私なのである。

 私の肉体は、罪なる性質を帯びた全てのものが発するのと同じ、独特の死の臭気を発している。それはこの先、どんどんひどくなっていき、やがて死に至るだろう(この死臭を薄め、かなりの割合で、かき消すことができるのは、キリストの香りだけである)。私の肉体は、不治の病にとりつかれている。それは私がどんなに流行の化粧をして、髪型を整えて、美しい着物を着て、颯爽と人々の前を歩いて、元気そうに見せてみたところで、絶対に変わらない、動かせない事実である。

 肉なる私の本質は、腐乱死体である。どんなに隠そうとしても、分かる人にはそれが分かる。だから、たとえ私の身体が何らかの事故で変形したとしても、あるいはもっと極端に、生きたまま焼かれようと、はっきりと言えるのは、それは(以前に考えていたほど大きな)損失だとは言えないということ、醜く歪み、朽ちてゆくこと、それはまさに堕落した肉の本質であり、避けて通れない道だということである。

 肉体がキリスト者にとって、仮の宿に過ぎないことは幸いである。何と不思議なことにか、永遠の存在である聖霊は、このように忌むべき容器としての、私の罪と死のからだの内に宿られ、今、それを通して働かれている。だから、その限りで、私たちは宮の外殻を成しているこの肉体をも、大切に扱う必要がある。そして、やがて、来るべき時に、私たちは、この死の体から解放されて、もっと良い、朽ちない体をいただくだろう。

 だが、いすれにせよ、死すべき存在として、私の肉は死臭を発しており、それは肉体にとどまらない。その臭気は魂からも発するのである。
 私は10代前半の頃から、ほとんど途切れることなく、日記をつけて来た。荷物の整理をしていると、書き溜めたノートが出て来る。以前は、そのような文章を、魂の軌跡として、大切に保管していた。ところが、今になってページをめくってみると、それらの文章に表れている私の天然の魂である「自己」が発する強烈な臭気に、耐えられない思いがして、読む気がうせてしまう。人の自己憐憫、自己義認、自己を立てようとする願い、そういった、神を介さないで生まれてきた天然の魂の衝動が全て、腐臭を発していることが分かるようになったのである。

 健康な人間は、生ゴミに顔を突っ込んで、その臭いを嗅ぎたいとは思わないだろう。同様に、私は人の生まれながらの魂が発する腐臭に、嫌悪を催す。それをあえて吸い込みたいとか、保存しておきたいとは、少しも思わなくなった。
 だが、文章の中に、神に誠実に向き合う姿勢が出て来たり、真摯な祈りが現れたりすると、私の心は喜び、共感を覚え、嬉しくなってくる。そういう、キリストの香りが表されている文章は、私の魂に喜びを与え、御心にかなったものだとすぐに分かるのである。

 こうして、神を経由しないもの、まことの命をいただかないもの全てに、私は何の共感も感じられなくなり、それら全てが忌まわしく感じられるようになったので、それを弁護しようという気持ちも、なくなってしまった。(こうして今書いている文章すらも、キリストの香りを放たない、ゴミ捨て場行きの文章だと非難されたとしても、何も言い返すまい、御心にかなわないものが、全て処分されることは、私にとって喜びだからである。)

 腐乱死体はもともと命を持たない、死すべきミイラであるからして、たとえ腐乱死体の上に最も残酷な実験や拷問が行われ、世界で最も残酷な見せしめ処刑が行われたとしても、それは誰にとっても、脅威とはならず、損失ともならず、「被害」は全く発生しないのである。

 つまり、堕落した罪深い人間(この世を含む)は全て、滅ぼされるべきものであり、幾重に処罰されたとしても、どれほど厳しく罰せられたとしても、誰もそこに文句をさしはさむ余地がなく、滅びるべきものが滅ぶのは当然であり、そうなることが、むしろ、より良い秩序へとつながるのだ、との結論に至るのである。だから、滅ぶべき運命にあるものの存続を願う気持ちは消えうせるのである。

 ところが、生まれながらの人間には、この事実が、決して理解できない(なぜなら彼も腐乱死体の一人だからである)。生まれながらの人間は、腐乱死体に対する(神からの)処罰を決して認めないし、それに徹底的に抗おうとする。腐乱死体という「弱者」を必死になってかばい、腐乱死体を何とかして延命させようと、腐乱死体の「痛み」をあるまじきこととして訴え、腐乱死体の「生きる権利」を主張し、それを脅かすものを「罪」として告発し、腐乱死体へも「隣人愛」を注ぐよう要求し、腐乱死体のために涙を流すよう要求し、腐乱死体が一日でも長く生きながらえられるように、救命運動をし、闘うのである。その愚かしさが理解できないのである。

 だが、着古した服は、廃品回収業者に任せるか、ゴミの日に出して、焼却されるのが最善であるのと全く同様に、腐乱死体にとっての最善は、処刑されて滅ぼされることであり、自分勝手な願いに基づいて、いつまでも、公衆に迷惑を巻き散らしながら、生きながらえることではないのである。
 もしも今日、どこかの病院の霊安室から、死後何週間も経た身元不明の腐乱死体が一人起き上がって活動し始め、自分にも生きる権利があると主張し始めたら、社会にはどんな混乱と騒ぎが持ち上がるだろう? 人々はどんな迷惑をこうむるだろう? そのようなことはあってはならないし、誰にとっての利益ともならない。

 これと同じことが、神の国の秩序についても言えるのである。神の御国は、死すべき罪人のための場所ではなく、まことの命をいただいて生きている人たちのための場所である。生きている人とは、イエスの十字架によって、復活の命にあずかった人たちのことである。その命を持たない死人が御国に闖入することは、あり得ないし、決して、許されることではない。

 ある人々は、それを聞くと、早速、怒り出し、反論するだろう、やっぱり、キリスト教徒は独善的で傲慢で、自分たちだけが救いに価すると思い込んでいる、視野の狭い人たちなのだと。クリスチャンは、自分だけが正しく、天国を独占できると思い込み、他宗教の信者を見下し、彼らの救いを否定し、救いの可能性を奪おうとしている、愛のない、心の狭い人たちなのだと。
 そのような反論こそ、腐乱死体の身勝手な言い分であり、腐乱死体の支離滅裂な「生きる権利の要求」である。

 腐乱死体のためには、この世という霊安室がちゃんと用意されており、それで十分である。この世は彼らのものであり、そこで彼らは住人としての権利を思うままに行使して、何でもやりたいことをできる。だが、その代わり、死体は霊安室を出て、御国の秩序に入ることはできない。死体は死体であるから、よみがえることはできず、死すべき世界を一歩も出ることができない。腐乱死体が、いつまでも生きながらえ、神と人との愛を一身に受け、永遠の命までも得たいと願うのは、わがままである。

 この世は霊的に見るならば、そのものが巨大な霊安室であり、巨大な火葬場であるとさえ言えるだろう。この世はどこまでも累々たる死体が連なる焼け野原と同じであり、そこに生きているように見える人たちも、全員が、焼却を待っている腐乱死体でしかない。この世は、滅びるべき定めをどうしても変えることはできない。

 神はしかし、この世がただ滅びるのを望まれなかった。神はこの世を愛されるがゆえに、この世を救おうとなさったのだ。だが、それは、霊安室を霊安室のまま保存し、火葬場を火葬場のまま存続させ、腐乱死体を腐乱死体のまま永久に生きながらえさせることではなかった。

 神はこの世を刷新することで、この世を滅びから救おうとなさったのだ。その刷新は、ただイエスの十字架によってしかもたらされない。それは自動的な刷新ではなく、信仰を働かせなければできない選択であり、霊的な切り分けである。人が十字架の死を経由して、イエスの命によって、もう一度生まれ変わるならば、御国の秩序の中に移されて、永遠に生きることができるが、それを経由しないならば、その人はこの世と共に滅びて終わる(その上、魂には永遠の刑罰が待っている)。神の救いの不思議さは、この世の忌まわしい終局としての滅びすら、新しいキリストの命に接木するプロセスとして、活用されていることである。
 再び、Sugarさんの記事から。

 「十字架は完全な死であり完璧な終結なのですが、
 しかし何と、その後、それに復活の要素を入れ込むことを可能とするお方が
 私達の神なのです。

 そこで神は、サタンの故に、サタンから出てきた終結(死)というものを、
 神の至高の知恵によって、時間の中においてそれを『活用された』のです!

 時間の中で死は完全終結です。
 従って時間の中に存在する旧創造・旧物質は死によって完全に終結されます。
 しかし、もしも ここに、キリスト・イエスにある神御自身が介入されるのであれば、
 イエスの復活において、死・終結は完全打破されるのです。
 それは、神に創造されたいかなるもの(時空と万物)も
 創造者御自身に勝ることなどあり得ないからです。
 敵によって汚染された万物を完全終結し、
 しかもその万物を生かして、それを『新物質』とする唯一の手段、
 それが死と復活であったのです。

 ここに初めて人は復活において『卓越した永遠』と
 一つに結合されることが可能となったと言えます。<…>

 信仰とは結合を意味します。従って信仰がなくては
 『復活と卓越した永遠』に対して人が結合されることはあり得ないのです。」

 こうして信仰によって、十字架を受け取り、それを自分に適用し(自分の力によってではなく)、自己に死んで、復活の命をいただくという過程を経ない限り、人はいつまでも、滅び行く死臭を発する腐乱死体のままであり、そこに永遠の命が宿ることはあり得ない。
 だから、たとえ腐乱死体が生きる権利を主張し、隣人愛を要求し、天国にまで入る権利を主張していたとしても、そのような主張は一切、耳を傾けるに価しない、滅茶苦茶なものである。人間が腐乱死体のまま、生きながらえることが、御心なのではない。死すべき人間が十字架を経て完全に死に、復活して、キリストの命によって生きることこそ、御心なのである。

 だから、十字架の死を経由しない人間にそのままで生きてもらおうと願うことは、聖書的な愛とは呼べない。堕落した人間をそのままの姿で何とか生かそうと延命をとりはからうことが、人への愛なのではなく、そのような生まれながらの自己に、十字架のもとできっぱり死んでもらい、その後で、永遠の命を受け取ってもらうように願うことこそが、御心にかなう愛なのである。
 人にとっては残酷なようであるが、それが神の、人に対するご計画であり、愛なのである。この点を間違って理解してしまうと、私たちの主張する「愛」は、容易に、人間の、人間による、人間のための、人間救済活動となってしまう。それは腐乱死体のみっともない延命活動であり、死体の生存を確保するための(ナンセンス極まりない)権利運動となってしまうのである。

 アブラハムはソドムの街のためにとりなしの祈りを捧げたが、それはソドムの街そのものの存続を願うがゆえではなかったし、ソドムにいて、やりたい放題している悪人達の延命を願うゆえでもなかった。アブラハムは、ソドムに住む義人のためにとりなしたのである。神を信じる正しい者たちが、悪人と一緒になって滅ぼされるようなことがないよう、神に祈ったのである。(従って、とりなしの祈りとは、神を冒涜する者たちの延命を願う祈りでは決してないことが分かる。)

 私たちは、神を喜ばせる、まことの命を生きる者たちをこそ、擁護し、彼らのために真剣にとりなすものでありたい。


肉の思いと御霊の思い

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 イエスの語られたこの御言葉が、どういうわけか、ここ数年、文字通りの形で、私の人生に成就している。「家の者が、その人の敵となるであろう」ということが、比喩でなく成就することを主がこの御言葉によって示されたのだとしたら、それは恐ろしいことだ。家庭に刺客が潜んでいるような状況で、一体、人は誰を信用し、どこに安息の場を求めれば良いのだろうか。
「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。」(マタイ10:21-22)との御言葉もあるが、このようなことが私の身の回りに現実として起こっていることに、どんな意味があるのだろうか。思い巡らさないわけにいかない。

 とにかく、血肉にあってのつながりや、血肉にあっての望みが、キリストを信じることのために、ことごとく断ち切られなければならない瞬間が私の人生にやって来た。それは魂の暗闇と呼んでも差し支えないほど、私の心に大きな問題をもたらした。この問題に、精神的に疲労困憊せずに、勝利するためには、地上のもの、肉的なものに惹かれる魂の衝動に対して死に、真に聖霊に導かれる人となることをもっと学ばなければならないことを感じる。

 現実の様々な問題に直面する時、私たちの肉体は苦しめられ、魂は思い煩う。それは生まれながらの人間の自然の心理である。しかし、その思い煩いは、肉と魂との連携から生じるのであり、御霊が人を導く方向とはまるで異なっている。思い煩いは、何とかして肉の身体を生かし、死から救おうとする試みだが、結局、人を死から救うことはできない。それどころか、聖書は肉の思いが結局、死そのものであるとまで言っている。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。」(ローマ7:6-7)
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。<…>あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6:25,27)

 どうすれば、現実の問題が私たちを苛む時にあっても、御霊の思いである「いのちと平安」の中に安らぐことができるのだろうか。自己超越とか、瞑想とか、覚醒とか、そういった異教徒が様々に駆使しているような、キリストの十字架も聖霊をも抜きにした、魂の偽りの方法を通してではなく、聖霊の思いであるいのちと平安に真に安んじることは、どのようにして可能なのだろうか。

 生きることが困難となり、行動が制限され、衣食住も満足に確保されないような状態になると、私たちは強い不快感を覚える。飢えや渇きや孤独や苦痛が身体を現実に苛むようになる。だが、この肉体的苦痛に対しては、十字架にあって、すでに死んでいることを何度でも思い出す必要がある。肉体に対して死んでいる以上、肉体を取り巻く状況に対しても死んでいるはずである。肉を生かそうと試行錯誤する責任から解放されているのである。
「わたしたちは、果たすべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:12-13)

 キリスト者の肉体は、罰を受けて一度死んでいる以上、サタンはいかなる肉体的苦痛を伴う方法を通しても、私たちをキリストから引き離すことはできない。私たちが目指すべきは、肉を生かそうとして焦ることではなく、霊によってからだの働きを殺すことである。

 だが、そうは言っても、肉体は現実に苦痛を覚え、魂は苦しみから逃れようと、あれやこれやと思い煩い、対策を講じようとする。その時に、私たちは、魂のこの天然の衝動に突き動かされて行動しないように気をつける必要がある。主イエスは、魂の衝動を一切、父なる神に委ねられて、聖霊の導きなしには、自分からは何事もなさなかった。

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)

 主イエスは自分の魂の願いに従って行動することは全くなされなかった。彼は御父の御心だけを行われたのである。しかし、多くのキリスト者は(私を含めてそうなのだが)、困難に見舞われると、御霊に聴くことを放棄して、御父を抜きにして、自己の内なる衝動に身を任せ、現実問題にあれやこれやの対策を講じようとする。人は苦痛を覚える状況の中で、片時もじっとしていることができない。だが、肉を救うために奔走すると、人は神との霊的合一からますます引き離されて、平安から遠ざかっていく。

 オースチン-スパークスは書いている、「サタンが常に力を注ぐ点は、(神と結ばれている)霊か(自己指向的な)魂かの問題です。サタンが聖書を引用する場合、それは神との内なる合一を破壊するためです。」
 
 荒野でサタンが御言葉を使ってイエスを誘惑したのは、イエスを御父の御旨から離れさせて、御霊の導きなしに、自己の内なる衝動に従わせるためであった。今日、私たちが試練に遭う時、同じように、御霊の思いとは反する魂の衝動が内に沸き起こり、私たちを御父のご計画に反する行動にひたすら駆り立てようとすることがあるだろうが、それを警戒しなければならない。

 その衝動に従うことは、一見、外から見れば、合理的な行動に見える。この競争社会では、私たちが自己の命を救おうとして取る行動は、世間からはどれも立派な行動として賞賛される。社会では、自分の命を救うためにどれくらい数多くの保障を得ることができたかということが、人としてのステータスにつながっているからだ。命を救うために、日々、行動し、立派な地位を得よ。命を救うために、自分の老い先について案じよ。命を救うために、着る物、食べる物にこだわれ。命を救うために、子を産み、出世し、趣味を持ち、老後の蓄えを築け。自分の命を危険から救うために行う全てのことは、社会では賞賛される。

「私たちの魂のいのちはなんと自己を守り、救おうとすることか!しかし、私たちの欺きに満ちた心から私たち自身が解放されるために、神に服従してこの罠の性質と暗示に対して敏感であることがどれほど必要でしょう。」

 キリスト者は、自分の命を救おうとする魂の各種の衝動に耳を傾けず、その衝動に対して死ぬ必要がある。そうでなければ、御霊に聴き従うということは不可能なままに終わるだろう。ではいかにして魂の各種の衝動に死ぬのか。

「二つのことが魂に起きなければなりません。第一に、魂は自己の力と支配に関して、キリストの死によって致命的な一撃を受けなければなりません。神がヤコブの腿、腱に触れてから、ヤコブがびっこのまま生涯の最後まで過ごしたように、『魂は何もできないし、何もすべきではない。神が魂の力を滅ぼされた』という事実が永遠に魂の中に刻印されなければなりません。

 次に、神のいっそう高い異なる道のために、魂は僕として『勝ち取られ』、支配され、治められなければなりません。聖書がしばしば述べているように、魂は私たちが獲得すべきものであり、それに対して権威を行使すべきものです。たとえば、
『あなたたちは忍耐することによって、自分の魂を勝ち取ります』(ルカによる福音書21章19節)
『あなたたちは真理に服従することによって自分の魂を清めました』(ペテロ第一の手紙1章22節)
『あなたたちの信仰の結果である魂の救い』(ペテロ第一の手紙1章9節)」

 ここで、魂を勝ち取るとは、魂を抑圧するとか、魂そのものを滅ぼし去ってしまうことでは決してないことに気をつけたい。私たちの魂は、肉にあって深く毒されているとはいえ、魂そのものを滅ぼしてしまえば、もはやまともな人間は成り立たなくなる。必要なのは、魂を肉の支配下から連れ出し、御霊の支配下へと新たに導き入れることである。魂に思い煩いではなく、いのちと平安を得させることである。
 魂の間違った衝動から逃れるために、禁欲主義的な生活を送り、魂のいかなる衝動をも滅却しようと努めることは無意味であり、それは逆に魂の反乱を招くだけに終わるだろう。私たちに必要なのは、魂を肉と連結したままで終わらせないこと、魂を霊の配下に置くことであり、それが魂を勝ち取るという御言葉の意味なのである。

「私たちの人間的本性は、すべて私たちの魂の中にあります。本性は一つの方向で抑圧されるなら、別の方向で逆襲します。これは多くの人が抱えている問題ですが、彼らはそれを知りません。抑圧の生活と奉仕の生活には違いがあります。御父に対するキリストの従順、服従、奉仕は、魂を滅ぼす生活ではなく、安息と喜びの生活でした。」

「霊性は抑圧の生活ではありません。これは消極的です。霊性は積極的です。霊性は新しい特別な生活であり、自分を治めようと奮闘する古い生活ではありません。魂は顧みを受ける必要がありますし、新しい高い知恵を学ぶようにされる必要があります。私たちが神と共に完全に歩もうとするなら、知識、理解、感覚、行いのための魂の力と能力はすべて終わらされ、私たちは――この面で――困惑し、茫然自失し、何もできずに立ちすくむでしょう。<…>
 次に、新しい別の神聖な理解力、拘束、力が私たちを前に進ませ、私たちを前進させ続けます。このような時、私たちは自分の魂に言わなければなりません、『私の魂よ、神の前に静まれ』(詩篇62篇1節)、『私の魂よ(中略)神に望みを置け』(詩篇62篇5節)、『私の魂よ、私と共に来て主に従え』。
 しかし、魂が霊に従うよう拘束され、その証しとして高い知恵と栄光を知覚する時、何という喜びと力があることでしょう。『私の魂は主をあがめます。私の霊は救い主なる神を喜びました』(ルカによる福音書1章46節)。霊に関しては完了形が使われており、魂に関しては現在形が使われています――時制に注意して下さい。

 ですから、満ち満ちた喜びに至るには魂が必要です。魂は暗闇と自分自身の能力の死を通されなければなりません。それは高くて深い現実――霊がそのための第一の器官であり機能です――を学ぶためです。

 あなたの魂を抑圧したり、さげすんだりする生活を送ってはなりません。そうではなく、霊の中で強くありなさい。それはあなたの魂が勝ち取られ、救われ、あなたの満ち満ちた喜びに役立つものとされるためです。主イエスが望んでおられるのは、私たちの魂に安息があることです。これは彼のくびき――合一と奉仕の象徴――によって実現されます。」

 魂の暗闇。恐らく、何年間もかけて私はそこを通過しつつあるように思う。ここでは逆境に対するいかなる抵抗も無意味となる。自分の無力さを思い知らされて、魂は思い煩い、悩み、苦しむが、暗闇から抜け出そうとするあらゆる試みが無駄に終わり、人間的な努力のすべてが打ち砕かれてしまう。平安はなくなり、安息は消え、不安、恐怖、苦痛、悲しみ、悩み、といったものだけが残る。
 文字通り、そこでは人間は虚無に服さなければならなくなる。この暗闇を無事に通過するためには、人知や努力やごまかしによらない、別の方法――従来の魂に導かれた生き方ではなく、御霊に導かれることを第一とする生活に転換すること――が必要である。

 聖書は、滅ぶべき肉のからだを持ちながら、霊に導かれるキリスト者として生きることが、矛盾に満ちた苦しみであり、決して単純な喜びだけに貫かれた生活ではないことを示している。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」(ローマ8:22-25)

 だが、このように矛盾に満ちた状況にあっても、キリスト者がなお望みを抱くことができる秘訣は、どこにあるのだろうか。肉はただ苦痛をもたらす目先の状況から逃れ、一瞬でも肉の命をつなぐことだけを希望としている。しかし、御霊にあっての望みは、具体的状況をはるかに越えて、逆境を忍耐強く忍びつつ、その先にあるまことの解放、まことのいのち、まことの平安、真の自由を思うことを意味する。それは、被造物同様に、人間が滅びのなわめから解放されて、栄光の自由に入る時を待ち望むことである。それは主の再臨を待ち望むことと同義である。

 さらに、驚くべきは、地上的なものに死んで、見えないものへの望みに堅く立つことが、逆説的に、今日に限定された具体的状況の中で、私たちの死ぬべき身体を生かすことにもつながるということだ。
「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:10-11)

 ここに、「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」と書いてあることに注意しよう。魂の思い煩いが、死ぬべき身体の寿命を一日たりとも延ばすことができない代わりに、神は御霊によってそれが可能となると示されている。これはどういうことだろうか?

 終わりの時代にあって、経済は不安定となり、保険会社も破綻し、地上の生を安楽に暮らすためのあらゆる保障が不確かなものとなり、家庭内暴力の話題が毎日のように新聞に載り、血肉にあってのつながりさえ、頼りがいのない、危険なものへと変わっていく時、聖霊に導かれて生きることこそが、人がその日、その日の人生をつなぐ保険となると言っても、過言ではない。なぜなら、聖書はこう言っているからだ、「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1:13-14)

 この御言葉を読む時、聖霊が、私たちがただ未来に神の国を継ぐことを漠然と保証してくれているだけで、今日という日については何も語っていないと考えるべきではないと思う。これは神がキリスト者に与えて下さった永遠の約束であり、今日という日から、未来へと絶え間なくつながる力強い保証である。これは人類が未来にかける「切ない望み」などではなく、私たちが神の国をつぐことの保証を受けることによって、あらゆる問題への解決をすでに得ていること、私たちの弱さにも関わらず、私たちがキリストにあってすでに全てを得ていること、今日を生き抜くために必要なものをすでに備えられていることの力強い約束である。