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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない。

このところのオリーブ園の連載は、クリスチャンにとって相当に厳しい教訓を示したものである。オースチンスパークスはすべてを比喩で語っているが、筆者にはこのことが非常によく分かる。

たとえば、最新の記事を見てみよう、なぜ、主の民には、「主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗した」ということが度々起きるのか。

クリスチャンはキリストの復活の命の満ち満ちた豊かさに入れられるよう定められている。それがクリスチャンの使命である。にも関わらず、なぜ主の民の多くには、神の御心ではない弱々しさ、時ならぬ死、主のためではない困難や、貧しさ、苦しみが満ち溢れているのか。

それは結局、主の民が神以下のもので妥協する(神が望んでおられる水準以下のもので妥協する)ことを繰り返したためである。肉的なもの、地的なものと妥協した結果、神の命ではない、朽ちゆく堕落した命の束縛が主の民にもたらされたのである。

別の言葉で言えば、それはどこかの時点で主の民が、十字架の死と復活の地点にとどまることに失敗し、自分の肉を優先し、自己の利益を得ようと、十字架の装甲の中から外に出てしまったことによる。

筆者自身の経験と確信に立って言えば、それはほとんどの場合、人情を優先すること、そして自分の地上の生活を守ろうとする態度から来る。

キリスト者の人間関係はすべて十字架の死に渡されていなければならないが、そこへ信者が肉的な思い、地的な思いを混ぜ込み、肉親の情愛、年功序列、親しい友人間での優遇や配慮などを公然と持ち込み、それをあたかも信仰によるクリスチャンの交わりであるかのように置き換えて行くと、交わりそのものが腐敗するということが起きる。

また、教会が脅かされ、クリスチャンが義のために立ち上がって戦わなければならない時に、自分の生活の心配を優先させて、立ち上がることを怠る。すると、悪が公認されたも同然に解禁され、教会は自由を取り上げられて、迫害され、証の言葉は取り去られ、主の民はますます貧困になり、苦しめられるようになって行く。

私たちがもし神でない何者かに承認を与えるならば、その者が私たちに対して神のように振る舞い始めるであろう。宗教指導者に権威を与えるならば、その者があなたに対して神のように振る舞うであろうし、この世の仕事を最優先にするならば、その仕事や上司や会社の規則があなたの心を支配するであろう。暴君のように凶暴な人間の脅しの言葉に屈するならば、あなたはその者の意向に従ってしか生きられなくなる。肉的な情愛を交わりの中に持ち込むならば、その肉的関係が許した範囲でしか前に進めなくなる。

クリスチャンが最優先の目的として目を注いだその対象が、その信者にとっての「神」となるのであり、もし私たちがキリストから一瞬でも目を離すならば、あなたの目を逸らさせた何かがあなたの心を支配するようになり、やがて神でないものを神としたことの厳しい報いがあなたの人生に訪れることになる。

多くの信者らが、そのように地的な思いで心を占領された結果、神の教会の中には、いばらや雑草が公然とはびこるようになり、それに対して私たちは非常に厳しい態度を取って、ちょうどレビ人が同胞を剣にかけて殺した時のように、聖絶のものを断ち切り、自分の魂の愛の対象となるものを十字架の死に渡さねばならない瞬間が訪れる。

だが、そのようにして是正が間に合うこともあまり多くはない。多くの団体は、主が望んでおられるのとは違った方向へ一旦、歩き始めると、その後、当初、目指していたものからはますます遠ざかるばかりで、その歩みを止めることも、是正することもできない。

そうなると、その腐敗に気づいた個人が、自らの意志で、神の命の息吹をほぼ完全に失った団体を出て、御言葉に従って、信じる方向へ向かうこと(エクソダス)しか選択肢はなくなる。その方向づけとなるのは、やはり、信者が聖書の御言葉への信仰に深く立ち戻り、どこまでも目に見えないただお一人の神を優先し、地的なすべての利益を後回しにしても、ただ神の御心を満足させることだけを第一に追い求めて生きる強く熱心な心の願い求めしかない。

回復されなければならないのは、信者が自分の生まれながらの命のすべてと引き換えにしてでも、神を知りたいと願う純粋で熱心な信仰の希求であり、代価を払って神の国とその義を第一優先して生きる姿勢である。

そのための道は、多くの場合、一人で歩かねばならない。あなたはちょうど人目を避けてスカルの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女のように、人の目からは隠されている細く狭い道を一人で辿ることになろう。それでも、道から迷い出てしまったと気づいたならば、一人で細い道を歩き続けてでも、目的へ戻るべきである。

大勢の人々と連れ立って広い門を通って行ってはいけない。今日、あまりにも多くの信者らは、代価を払うことを厭い、地的な思いで心を占領され、公然と別の道へ逸れてしまい、神の御心に反するものに対して、かつては公然と異議を唱えていた人々でさえ、沈黙へ入りつつあるが、その真似をしてはいけない。なぜなら、その結果として、彼らには思いがけない貧しさと孤独と災いや悲しみが降りかかることになるからである。

クリスチャン生活における豊かさは、私たちがどれだけのものを主のために投資したかによって保証される。そのためにこそ、我々には神の武具が与えられており、これを行使して、敵を駆逐し、新たな領土を獲得することが要求されている。

その法則を知っているのに沈黙し続けている今日の信者らの状態を、筆者は非常に御心に反するものと思って憂慮しており、その沈黙の後に、彼らに訪れる時代がどんなに不自由で暗黒のものとなるのかに思いを馳せずにいられない。

私たちは、小羊の血潮と証の言葉によって、敵の虚偽の圧迫を打ち破る力が与えられているわけだから、神の武具を公然と使用して敵を打ち破り、圧迫を跳ね返し、新たな領土を獲得することをやめてはいけないのである。

だが、代価を払ってその戦いを貫徹する人々があまりにも少ないこと、そして、その道が、人の目には安全に見えても、その実、無用な貧しさと苦しみと死に至る道であることを人々が自覚していないことを憂慮する。一旦、証の言葉を宣べるのをやめて、沈黙に入ると、再び沈黙を破ることがいかに難しくなるかが分かるであろう。

そこで、よくよく心に留めていただきたい、もしあなたが霊的な敵を追い出さないならば、あなたは敵を追い出せなくなるのだと。敵を追い出さないことは、敵と協力しているのと同じなのだと。あなたに課せられた使命は、あなたの信仰が十分に強くなって、あなたが敵としている者たちを力強く追い出す権限を持っていることを十分に自覚し、その権限を実際に行使することである。ところが、それを行使せず、神の御心に反するものと妥協するならば、あなたは御国の後継者としての資格を失いかねない。

なぜなら、私たちが敵としている者は、正統な資格がないのに、神の御国の後継者を詐称して、正統な後継者を追い出そうとしている者たちだからである。彼らの目的は、あなたに御国を継がせないこと、その後継者たる資格を行使させないこと、あなたを神の命の豊かさに入らせないことである。

そのような者を、固く信仰に立って追い出す権限が、クリスチャンに与えられていることを私たちは自覚すべきであって、パウロの言葉を思い出さなければならない。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)

御国の後継者を詐称している者たちについては、彼らの本質を見抜き、彼らが犯している悪事を公然と主張し、これを明るみに出さなければならない。そうすれば、おそらく、それ以上に何もせずとも、これらの者は恥をこうむり、クリスチャンから手を引いて逃げ去るであろう。私たちの戦いは血肉のものではないので、私たちの武器も、この世のものではないからである。

(毒麦を引き抜く仕事は私たちの仕事ではなく、それは神がなさる仕事である。しかし、毒麦は毒麦たる本質をきちんと露わにするため、これを見抜いて指摘することは十分に可能かつ非常に有益な仕事である。主の民が無用な攻撃を受けている時に、それを見て見ぬふりをすることは、敵の悪事に加担するのと同じである。)

重要なのは、どれほど敵が優勢で勝ち誇っているように見えたとしても、キリストの十字架の勝利に立って、その事実を信仰によって地に引き下ろすまで、決して諦めることなく敵の圧迫に立ち向かうことである。
  
そのようにして敵の虚偽の圧迫に立ち向かわねばならない時に、御言葉を高く掲げて立ち向かうことをせず、人情を優先して妥協するならば、神の教会がますます弱体化することとなり、場合によっては、あなた自身が彼らによって追い出され、御国の後継者たる資格を失うことになるであろう。あなたは神と富とに兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい教訓を思わなければならない。

しかし、主の方を向くならば、すべての覆いは取り除かれて、失われた視力、力も回復される。私たちはどちらへ顔を向けるのか、常に思い起こして、毎日、心を奮い立たせて、勝ち取るべき成果を求めて前進を続けねばならない。前進しないことそれ自体が、後退を意味するのである。
   
オースチンスパークス著、「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (2)
 
最初に述べたように、これは主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗したことによります。どこかにためらい、留保、議論、疑問があったのです。どこかで差し控えていたのです。どこかの時点で結果に伴う代価を計算して、抵抗が少ない道を取ってしまったのです。どこかで何らかのささやかな個人的利益を考慮してしまったのです。どこかで完全に滅ぼすことを主が要求されているものを容赦してしまったのです。

主が指さして「これを放棄しなければなりません」と言われたのに、それを放棄しなかったのです。主は一歩踏み出すことを要求されたのに、踏み出さなかったのです。完全に十字架に渡されるべき肉を少しばかり容赦してしまったのです。

そしてこのようなことが起きる時は常に、このように保留し、容赦し、個人的な考慮をするときは常に、失敗が続きます……これが起きる時は常に、ただちに妥協することになります。敵が有利になります。そして神の民の力は弱まって、自分たちが悪の力を解放してしまったことに気づきます。この悪の力は徐々にゆっくりと働いて優勢になり、遂には彼らは自分たちに対する神の御旨よりも劣るものの中に自分たちがいることに気づきます。


 神が意図されたのは豊かさ、絶対的状態、最終的状態、至高性、主権でした。しかし、これらの様々な理由のどれか一つか二つ以上により、彼らは御霊が導かれるように神と共に進み続けることに失敗しました。そしてこの失敗により、彼らは行き詰まっただけでなく、何らかの明確な悪に対して扉を開けてしまいました。そしてその悪が中に入って来て、彼ら自身が主の御名の中で占領すべきだった土地を占領してしまいました。

ですから、彼らはこの標準に達することなく、束縛の中に陥って、最終的に敵を追い出さなかったので最終的に敵を追い出せなくなったことに気づきました。それはこのように作用します。すなわち、それをしないなら、それができなくなるのです。主と共に進み続けないなら常にこうなります。ああ、これらの霊的事実をこのように力強く示すことにより、どうか主がこれを私たちの心にはっきりと分からせて下さいますように……

主と共に進み続けることに関して疑問を持つこと、主が「進め」と言っているのに一瞬でも立ち止まること、私たちのなすべきことを主が私たちに教えて下さっているのに、それ以外の考えが侵入して私たちに影響を及ぼすのを許すことは、極めて危険なことであることを、主が私たちに徹底的に分からせて下さいますように。
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神の言葉は生きて活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、心の思いと意図を識別します。

神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
 心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙四章一二節、改訂訳)

ヘブル人への手紙四章一二節のこの注目すべき節は、魂と霊の区別、両者を互いに「切り離す」必要性、それがなされる手段をはっきりと示しています。これは、信者が真に「霊の中で神にしたがって」生きる「霊の」人となるためです(ペテロ第一の手紙四章六節)

ペンバーはこの節に関して、次のように指摘しています、「使徒がここで言っているのは、神の御言葉の切り離す力である。祭司が全焼のいけにえの皮をはいで、四肢をばらばらに切り離したように、神の御言葉は人の存在全体を霊、魂、体に切り離す」

フォウセットは次のように記しています、「神の言葉は『生きていて』、『力があり』(活動的・効果的で、ギリシャ語)、『人のより高度な部分である霊から、動物的魂を分けるにまで至る』」「神の言葉は、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し、肉的・動物的なものから霊的なものを分離し、魂から霊を分離する」「神の言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在、魂と霊を分ける」「この描写は、祭司の剣によって、文字通り関節を切り離し、骨髄を刺し通してさらけだす所から取られている」。

神の霊が信者の霊の宮から自由に活動するかわりに、信者は魂の命によって支配されるおそれがあります。この危険性に対して目を開かれている信者にとって、ヘブル人への手紙四章一二節はとても示唆的であり、教訓的です。フォウセットの言葉はこれを示しています。

霊の人になることを願う信者のうちに、ただち次のような疑問が生じるでしょう、「私はどうすればいいのでしょう?どうすれば、私の歩みや奉仕の中にある魂的なものを識別できるのでしょう?」。

いま考察しているテキストによると、私たちは私たちの大祭司に自分を明け渡さなければなりません。この方は「もろもろの天を通って行った」方であり、この方の目に「すべてのものは裸であり、あらわにされています」(ヘブル人への手紙四章一三節)この方が祭司の務めを果たされます。彼は、鋭い両刃の剣である御言葉を用いて、私たちの内にある魂と霊を切り離すまでに刺し通し、「心の思いと意図」さえも識別されます。フォウセットは注解の中で、「『思い』と訳されているギリシャ語は心や感情に言及しており、『意図』または『知的観念』と訳されている言葉は知性に言及している」と記しています。

主は、私たちの肉体的・道徳的弱さに同情することのできる、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブル人への手紙二章一七節、改訂訳)となるために、人となられました。この方だけが、祭儀用の剣*を用いて、思い、感情、知性、知的観念さえも刺し通し、魂の命を忍耐強く「切り離す」ことができます。なんという働きがなされなければならないのでしょう!

聖霊が内住している霊が支配し、あらゆる思いを虜としてキリストに従わせるには、動物的な魂の命が取り除かれなければなりません。ではどうやって、動物的な魂の命は、その「関節と骨髄」さえも貫いて探知され、取り除かれることができるのでしょう?私たちの大祭司は、決してしくじったり、諦めたりされません。主は裁きの中から勝利をもたらされます。ただしそれは、人が自分を主の御手に委ね、主に信頼する場合です。主は神の霊により、生ける御言葉の剣を振るって下さいます。

魂と霊(Soul and Spirit)ジェシー・ペン-ルイス著  第4章 いかにして「魂」と「霊」は切り離されるのか



裁判官に会う日程も決まり、着々と物事が進行している。
 
さて、このところ、悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去るだろうという御言葉の意味を知らされている。今回は、御霊によって歩む生活を考える上で、邪悪な思念を退けるというテーマについて語りたい。

かつて当ブログでは、主と共なる十字架における自己の死について、幾度か語ったことがある。信者の生まれながらの体の邪悪な働きに対しては、主と共なる十字架における霊的な死が信者に適用されることが実際に可能であると。

多くのクリスチャンが、信仰生活の最初に、罪との格闘において、この段階を通る。そして、罪に対する勝利は、人自身の力によるのではなく、御言葉を通して、人間の堕落した肉体に働く主と共なる十字架の死が適用されることによって初めて可能になるのだと知る。

だが、十字架の働きはそこで終わらない。体に対する十字架の霊的死が適用されれば、次なる段階として、魂の命全体に対する十字架の死が適用されるという段階がある。それは、人の天然の肉体と魂に働くアダム来の命の邪悪な働きに対する死である。
 
罪との格闘が、最初は失敗からしか始まらないように、信者が魂の命の邪悪な力に気づいて、これを御言葉によって克服する方法を知るにも、それぞれの段階がある。まずは気づき、抵抗、格闘、勝利といった段階がある。

悪魔は、クリスチャンに対して、あたかもクリスチャン自身が思い描いていることであるかのように見せかけながら、邪悪な思念を外から吹き込むことができる。悪魔は、信者に恐れや、不安や、神に対する疑いや、罪悪感や、その他、信仰を曇らせるあらゆる邪悪で不潔な思念を心の中に混ぜ込もうとする。

それだけではない。悪魔は光の天使に偽装して、信心に見せかけた誤った思想や、常識に偽装した御言葉にさからう悪しき思念を、もっともらしい理屈のように見せかけて、信者に信じ込ませることもできる。

とにかく悪魔は神の栄光を曇らせる様々な虚偽の思いをクリスチャンの思念の中に絶えず注入しようとしており、それによってクリスチャンの自由を奪い、信者が自分で自分を縛り、信仰が働く余地がなくなるように仕向けているのである。

このことを知らないうちは、クリスチャンはそうした悪しき思念が自分自身の思いなのだと勘違いし、それにとらわれたまま生き続けてしまうだろう。

だが、もしもクリスチャンが、悪魔から来た思いを自分の思いであると信じ込み、また、それが抵抗することも、変えることもできない運命的な結論であるかのように信じて受け入れれば、その思念が実際にクリスチャンの霊の内に働いて現実になってしまう。

悪魔が狙っているのはまさにこのことであり、本来は、神の恵みに満ちた御言葉を地上で生きて実践し、御国の秩序を地に引き下ろすために存在しているはずのクリスチャンを、悪魔の思念を実現させるための道具に変えてしまうことなのである。

そこで、信者の心が戦場となる。信者の心には様々な敵矢が撃ち込まれ、神から来たのではない様々な種がまかれるのである。信者がそれに気づいてこれを取り除かない限り、その種は発芽し、雑草のようにはびこり、信者の心全体がやがて神から来たのではない思想に専有されて行くことさえ起きかねない。
 
だが、信者は誰しも天然の魂の命の邪悪な働きについ初めからて熟知しているわけではないので、この戦いは、完全な勝利から始まるというわけにはいかない。まずは信者が様々なきっかけを通して、霊的な敵が、自分の思いの中に、悪魔から来る要素を注入しようとしているということに気づくところから始めねばならない。

幾度かの失敗と、悪しき思念との格闘の末、ようやくクリスチャンは、自分の天然の魂に働く邪悪な衝動を見分けてこれを撃退する必要に気づき、やがて御言葉による実力行使によって、毅然と自分の思いの中に混ぜ込まれようとする様々な誤った考えに抵抗して打ち勝つことができるようになる。
 
信者は、御言葉に合致しない、神に栄光を帰さない、御言葉に敵対する、悪魔に由来する邪悪な考えや、さらに、自分自身に害を及ぼすような考えを、即座にきっぱり拒否する必要があると分かる。

もしもそれが分からないままでは、その信者は自分が一体、何に攻撃されているのかも分からないまま、ただやられっぱなしの状態が続くであろう。こうした無知な状態をすべてのクリスチャンが脱しなければならないのである。
 
たとえば、クリスチャンが稀に誰かからあからさまに呪いの言葉を浴びせられるということも、現実には全く起きないわけではない。しかし、クリスチャンは、そうした悪意ある言葉を聞いたときには、即座にこれを心の中で断ち切らなければならない。なぜなら、御言葉を参照すれば、私たちのためには、すでに木にかかられて呪いとなられた方がおられるので、そうした邪悪な言葉を私たちが身に背負う必要もなければ、そんな責任も全くない。そのことにちゃんと気づかねばならない。

それができなければ、信仰あるクリスチャンでも、呪いの言葉を受け入れてそれを身に引き受けるなどという馬鹿げた事態に至りかねないのである。

だが、悪意を持って第三者から発せられた言葉であれば、それが悪であることは、比較的誰にでも分かりやすい。誰もそれが神から来たものであるとは思わないであろうし、そんな言葉を真に受ける人も少数であろう。

だが、ふと人の心に何気なく思い浮かぶ様々な思念の中にも、そうした邪悪な起源を持つものが含まれていることがあると、気づいているクリスチャンたちはどれくらいいるであろうか。文字通り、自分の心に去来するすべての思いを、御言葉に照らし合わせて吟味し、まことの大祭司なる神の御手に委ねなければならないことを真に知っている人々はどのくらいいるであろうか?
  
邪悪な起源を持つ思いが、まるでその人自身の思いつきであるかのように装って、人の心に外から注入されるということが実際に起きうるのである。いや、四六時中起きていると言って過言でないかも知れない。そこで、信者は自分の魂に対しても、十字架の霊的死の働きが不可欠であることを知らねばならないのである。

たとえば、どんなに敬虔なクリスチャンであっても、何かよく分からない倦怠感、諦念、恐れや不安に駆られたりすることが全くないわけではないだろう。それは一時的な体調不良や、疲れに伴ってやって来るもののように思われるかも知れないが、それだけではない。
 
大概、暗闇の勢力は、信者の体の弱体化に伴って、邪悪な思いを注入するということに注意が必要である。以前にも書いたように記憶しているが、主イエスは十字架上で、痛みを和らげる効果のある酸い葡萄酒を拒まれた。(ただし息を引き取る直前には、それとは違った文脈でこれを受けられたが)。

このことは、イエスが罪なくして罪人の代表として、十字架刑の苦しみを、人工的な緩和なしに余すところなくその身に背負われたことを意味するが、同時に、主イエスが、体の働きを少しでも麻痺させるような薬の服用によって、霊的な命の支配力が弱まることを拒否されたことをも意味する。

つまり、痛みを和らげるためのアルコールを含めた様々な薬の服用は、ただ人間の苦痛を緩和するだけでなく、人間の判断力を鈍らせ、人が自分自身を治める力自体をも鈍らせ、失わせてしまう効果を持つのである。

霊は信者のうちで支配力を持つ司令塔であるが、体の働きと一切無関係にその支配力を実行に移せるわけではない。従って、体の力が弱まり、バランスが崩れれば、それに伴い、人間の思考力、判断力といったもののすべても低下する。霊的な識別力、判断力も、当然ながら、弱まって来る。
 
そこで、サタンは大概、信者の体のバランスが崩れた時に、信者の魂や霊に対する攻撃をしかける。体の弱体化には、過労や、病気やあからさまな災害によって引き起こされる変調もあれば、投薬による感覚の鈍麻もある。そこで、クリスチャンはそうした体の変調・弱体化を可能な限り、避けるべきである。不必要な薬の服用によって、霊的な命の統治の力までが弱まることに無知でいてはならない。
  
サタンが、こうして信者の体の弱体化に乗じて、正体不明の恐れや不安や疑いを注入して来るとき、信者はこれに毅然と立ち向かって、その思念を撃退することが必要となる。どんなに疲れていても、その思念がどこから来るものであるのかをきちんと見分け、受け入れてはならないものを拒否する姿勢を失わないようにせねばならない。

特に、自分や、家族や、自分に属するすべての大切な人々の命に危害を加えようとするような思念、人生で目指していた目標を諦めさせようとしたり、理由もなく失望落胆させる思念といったものには、徹底的に立ち向かって、これを受け入れることを拒否し、気力を奮い起こして立ち上がって抵抗・撃退しなければならない。

こうした格闘により、信者には、生まれながらの魂の命に働く邪悪な思いを否むことの秘訣がだんだん分かって来る。

だが、このことは決して信者が、主に従う上での苦難を一切、背負わなくなることを意味しない。悪しき思いを退けることと、試練と一切無縁の人生を送ることは別である。依然として、信者の人生には、様々な試練は起きて来るのだが、それでも、信者はこれに極めて積極的に立ち向かって、御言葉により大胆に武装して、これを克服し、勝利する秘訣を学ぶようになる。御名のゆえの苦しみを負いつつも、それに対する勝利があることを確信し、その試練の一つ一つを信仰によって乗り越えて行く秘訣を知るのである。
 
理由もなく苦しみにもてあそばれ、サタンのなすがままになることが、日々十字架を取って主に従うことではない、ということを、信者は心して理解しておかねばならない。霊的な戦いは、まさに信者の心の内側で始まるのであって、信者の魂が戦場となり、神の御言葉と悪魔の虚偽との間で、争奪戦の対象となるのだということを覚えておかねばならない。

私たちはすべてのことについて、神の限りなく豊かな命を選ぶのか、それとも、悪魔の押しつけて来る束縛や限界や死を選ぶのか、問われている。文字通り、すべての選択において問われている。私たち自身が、どちらを真実だとみなして受け入れるかによって、その後の人生が変わる。御言葉に根差して、自らの思いをコントロールすること、御言葉に合致しない思いを退けることは、私たちが神の恵みと祝福に満ちた人生を失わないでいるために、必要不可欠な日々の戦いである。

霊の人が直面する危険

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

 今までの流れから見ると、急に話が飛躍してしまうが、ある必要性から、この記事をぜひとも書かせていただきたい。

 すでに幾度も書いてきたように、多くのクリスチャンは、御子イエスを救い主として信じた時から、内側に聖霊をいただいているが、依然として、自己が強く働いているため、御霊の働きを妨げ、実を結ぶことができないでいる。そこで、私たちは御霊によって訓練を受け、また啓示を受けることにより、自己を否み、自己に死ぬということを経験し、外なる人の固い殻から解放され、外なる人と内なる人が真に一体化した霊的な人へと変わらなければならない。

 しかし、ここに第二、第三の重大な危険性が潜んでいることについて述べたい。私たちはどのようにして自己を否むのだろうか? どのようにして自己から脱却するのだろうか? 自分の努力で? 環境を変え、心機一転することによって? 催眠療法によって? カウンセリングによって? 旅行に出ることによって? …そんなことはまず不可能である。外的影響力によって、私たちは少しも自己から抜け出ることはできない。それどころか、私たちが外的影響力に自己を解放し、誤った方法で自己から脱却しようとする時、それはかえって、私たち自身を悪霊の影響下へと導き出すものとなるだろう。

 人の魂と霊を切り分け、何が人の自己であって、何が神の霊であるのかをはっきりと指し示すことができるのは、生きて働く神の御言葉だけである。
 私たちは、聖霊の照らしを抜きにしては、何が自分の自己の魂に由来する衝動であり、何が悪霊から来る影響であり、何が神の御霊から来るものであるか、決して識別することはできない。私たちにそれを教えてくれるのは御言葉だけである。他の方法によって、自己を否もうとすることは、私たちを破滅へと導く。

 私たちは御霊に導かれる「霊の人」となる必要があるが、同時に、御霊以外の霊から影響を受けてしまうことに警戒しなければならない。全ての霊が神から来たわけではなく、サタンに支配されるこの世には、諸霊と呼ばれる邪霊や悪鬼がおびただしく働いている。そのようなものに影響される危険性にさらされているのは、スピリチュアル・カウンセリングや、ニューエイジや、占いや、オカルトにのめりこんでいる人々だけではない。また、巨大集会や、クルセード、個人預言集会などに駆けつけて、やたらと超自然的な現象の現わればかりを追い求めている聖霊派の熱狂的な信者だけが、悪霊の攻撃対象となっていると思うのは間違いである。

 私たちは、自らを「霊的な人」であると自称し、「私は自己を否んでいる」と自称する、随分と経験を積んだ、高度な段階にいるように見えるクリスチャンでさえも、キリストを証する霊ではない霊によって欺かれてしまう危険性があることによくよく注意する必要がある。

 もしも私たちが、生きて働く御言葉を通して、霊を識別する力をいただかなければ、私たちは自称「霊的な」人々にすぐにも欺かれてしまうだろう。誰でもちょっと観察すれば、すぐにでも、御霊に導かれているのではないと見抜けるような、キリスト教界でスキャンダルを起こし続けている有名指導者たちは、さほど大きな問題ではない。それよりも、私たちが本当に注意し、警戒すべきなのは、外なる人が一旦、砕かれ、御霊に従って生きる人になったクリスチャンでさえも、その後で、警戒を怠るならば、知らず知らずのうちに、各種の欺きや誘惑にさらされて、神の霊を封じ込め、神から来たのではない霊の影響下に陥ってしまう危険性があるということである。いや、一旦、霊的な人になった信者であるからこそ、全く霊的な方面に関して閉ざされている信者よりも、より一層、偽りの霊からの攻撃を受けやすくなっているのだということを知らなければならない。

 以下は、ジェシー・ペン=ルイス夫人著「魂と霊」第五章「霊的なクリスチャン」の中から、「霊の人が直面する危険」の抜粋。
 
* * *

 真に「霊的」になった信者、すなわち霊によって魂と体を治めている信者は、その時、戦いの領域から出たわけではありません。むしろ、エペソ人への手紙6章10~18節に記されているように、いっそう微妙な戦いの段階に入ったのです。エペソ人への手紙2章6節では、その人は「キリストと共に天上に座らされて」いると言われています。しかし後の方では、彼が「高きところ」にいる悪霊の軍勢と「格闘」している様子が描かれています。彼は特に、悪魔の「策略」に立ち向かわなければなりません。

 これからわかるように、戦いの中にある霊的な信者は、おもに霊の敵の巧妙な霊的策略に対して警戒しなければならないのです。敵は彼を、ガラテヤ人への手紙5章17節で描写されている肉と霊の戦いよりも、霊の領域に関する事柄に巻き込もうとしています。

 戦いのこの局面における暗闇の軍勢の策略は、霊の人を霊にしたがってではなく、ある程度魂にしたがって歩ませること、すなわち、神の聖霊と協力している霊によってではなく、感覚領域の中にある事柄によって歩ませることに、おもに向けられています。

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。

過度の肉体感覚は、絶えず精神を集中する妨げでもあります。敵は、霊的な信者の「肉体感覚」を「攻撃」することによって、精神の集中を乱し、霊を覆おうとします。ですから、体は平静に保たれなければなりませんし、完全な統制の下に置かれなければなりません。この理由により、過度の笑いや、精神と霊を支配するまでに肉体のいのちを高揚させるすべての「衝動的行動」は、避けなければなりません。「霊的」になって、神のいのちの中で「成熟」することを願う信者は、万事について、行き過ぎ、無節制、極端を避けなければなりません。(コリント人への第一の手紙9章25~27節参照)

 人の肉体的部分が支配し、体に感じる超自然的経験を誤解することから、体は霊の働きをさせられ、真の霊の動きを抑圧する最高の地位に無理矢理着かせられます。このような状況の下、は圧迫を感じ、葛藤を感じます。こうして、精神と霊のかわりに、体が「感覚」になります。信者は、真の霊の感覚を識別することを学ばなければなりませんし、それを見分ける方法を知らなければなりません。霊の感覚は、感情的(魂的)な感覚や肉体的な感覚ではありません。(マルコによる福音書8章12節、ヨハネによる福音書13章21節、使徒の働き18章5節などを参照)*

(筆者コメント:
 敵は信者の中に、偽物の「霊的感覚」を作り出します。それは御霊から来たのでなく、信者自身の魂から来るさまよう思いと、感覚(五感)に頼った刺激なのですが、信者はそれが「偽物の霊的感覚」であることに気づかず、それらが神から来たものであると思ってしまう場合があります。
 また、敵は信者に、五感に頼った外的刺激を霊的感覚であると取り違えさせることがあります。あまりにも五感から来る刺激が素晴らしく、快楽的である場合、信者の魂は、それに病み付きになり、自分が外的刺激のとりこにされていることにも気づかずに、むしろ、それが神の恵みであり、自然な生き方であると取り違えさえするのです。このようにして、自分を楽しませる刺激に過度に(もしくはひっきりなしに)身を委ねることを、私たちは警戒しなければなりません。)

 無知のゆえに、信者の多くは、「霊にしたがって歩んでいる」と感じながら、「魂にしたがって」、すなわち思いや感情にしたがって歩んでいます。信者は活気に満ちた霊の力を奪われています。悪魔の軍勢は、あらゆる策略を用いて信者をおびき寄せ、魂や体によって生きさせようとします。悪魔の軍勢は、閃く幻を心に見せたり、祈りの間思いに出現したり、強烈な喜びや生命の躍動感を体に与えます

(筆者コメント:
キリスト教界で頻繁に、神の名を語って与えられる幻や、祈りの時に信者に与えられる思いや、個人預言などが偽りである危険性がまことに高いことについては、再三、このブログでも触れてきました。それらは全て直ちに信ずるに値するものではなく、御言葉を通して吟味、識別しなければならないものであることには何度も触れました。しかし、ここで注意が必要なのは、別のことです。たとえば、強烈な喜びや、生命の躍動感などといった、一見、宗教とは何の関係もないところで起こる、極めて自然に思われるような感覚でさえ、敵からの欺きの感覚として信者に与えられる場合があることに、改めて注意してください。敵の狙いは、物質界から来る刺激を、私たちに唯一のリアリティとして信じ込ませて、真のリアリティである神の霊の領域から目を逸らさせることです、物質に目を向けさせて、御霊を見失わせることなのです。)


 外から与えられる超自然的事柄や、感覚領域の経験に頼ることは、内側の霊のいのちを妨げます感覚による「経験」というエサによって、霊の真の領域に生きるかわりに、体の外側の領域に生きるよう、その信者はおびき寄せられますその時彼は、自分の中心から行動することをやめ、自分の周辺領域で外側の超自然的働きに捕らえられ、無意識のうちに内側で神と協力することをやめます。そして、霊の敵と戦う聖霊の器官である彼の霊は、機能停止に陥り、黙殺されてしまいます。なぜなら、その信者は感覚的な経験で満たされているからです。その結果、霊は事実上、導く働きをやめ、奉仕や戦いの力を与える働きをやめます。

 聖霊と協力せずに働く人の霊から、深刻な危険が生じます。霊が魂から「切り離され」、支配的になる時、それは全く違った方法で欺く霊どもの影響を受けるようになります。前に示したどれかの方法により、あるいは他の方法により、(無意識のうちに)聖霊と協力することをやめてしまった人を考えましょう。

彼はなおも自分の霊によって導かれています。彼は、「自分の力強い霊は神の力の証拠である」と考えます。なぜなら、他の方面で聖霊が自分を用いて魂を勝ち取られるのを、彼は見るからです。このような幻想の下、彼の霊の中に怒りが込み上げてくるかもしれません。彼は、その怒りはまったく神からのものであると考えて、怒りをぶちまけます。しかし、真の識別力を持つ他の人々は、明らかに神からではない荒々しい調子に気づきます。

(筆者のコメント:
 欺く霊からの影響が、怒りの爆発や、過度な落ち込み、悲嘆など、あからさまにネガティヴな感情となって現れる場合は、周囲にいる人々は、その人が神の霊でないものに影響され、異常事態に陥ったことに比較的簡単に気づくでしょう。しかし、それが、普段より少しばかり大目の陽気さ、かなりの活発さ、多大な喜び、子供のような無邪気さ、歓喜や興奮、楽観、有頂天、自己愛、御霊に基づかない予知能力や、各種の霊的な洞察力となって現れた場合、そのようなものが、悪魔的起源を持つものだと、すぐに人々が見抜くことは困難です。なぜなら、それはすぐにその人や周囲に破滅的影響を及ぼすわけではないからです。しかし、このような影響は必ず、その本人を徐々に、そして最終的に破滅へと導いていきます。)


祈る人が警戒していなければ、語る時だけでなく、戦いの時にも、このようなことがすぐに起きるでしょう。悪魔的な力は、直接的に、または魂的な感情を通して、霊に影響を及ぼします。

 悪霊は人自身の中の神の働きを真似します人が聖霊と協力していない時、彼の霊は悪霊の影響を受けます。神と共に歩むことを求める信者は、この影響を理解し、見抜く必要があります。彼は霊的だからこそ、彼の「霊」は霊の領域の二つの力に対して開かれているのです。彼はこのことを知る必要があります。

もし「聖霊だけが霊の領域の中で自分に影響を及ぼすことができる」と考えるなら、彼は確実に誤りに導かれるでしょう。もしそうだとしたら、彼は絶対に間違いを犯さなくなるはずです。しかし彼は、目をさまして祈り、神の真の働きを偽物から区別するために、理解力の照らしを求める必要があります

(筆者のコメント:
キリストはカルバリーで勝利を取られ、天に昇り、御座につかれましたが、私たちはまだこの時空間に残されて、神とこの世の両方の陣営から引っ張られ、両方の影響を受けながら、神のために戦うことを要求されています。私たちはおびただしい敵に包囲されています。そこで真に勝利するためには、私たちは霊的に目を覚ましていなければなりません。それがなければ、私たちは敗北するでしょう。目を覚ましているとは、敵の働きが深く強力であり、自分では太刀打ちできないことを知り、決して、自惚れや、増長や、霊的怠慢、平和ボケに陥ることなく、絶え間なく、イエスの十字架の死と復活と昇天の力を自分のものとして受け取り、神の武具によって武装し、敵の欺きを看破し、来るべき試みに対して警戒していなければならないということです。)

 「霊的」な信者は、エペソ人への手紙第6章に記されている天的戦いの啓示を、深く熟慮しなければなりません。そして、「神のすべての武具」の経験的な意味を完全に知るよう努めなければなりません。敵の猛攻の「邪悪な日」に際して、彼は神のすべての武具を「取り」、用いなければなりません。

 この現在の時における神の霊の負担は、キリストの体の肢体を完成させること、完全に成熟させることです。それは、彼の再来が速やかに起こり、キリストとその共同の相続人たちの千年間の統治がもたらされるためです。こうして、世界は平和になり、サタンは敗北します。サタンは穴に投げ込まれ、この世の王国は主とそのキリストの王国になります。

 「主イエスよ、速やかに来てください。アーメン」

(筆者のコメント:
 言葉を変えるならば、千年王国が来るまで、戦いは少しも終わってはいないのです。それにも関わらず、キリストの勝利だけを指して、戦いはすでに終わっているので、クリスチャンは警戒する必要もないと思ったり、敵を何らかの団体や組織だけに限定して、それに近づきさえしなければ、自分は守られていると浅はかに考えようとすることは、私たちを敗北へと導くでしょう。
 私たちはこの世の影響に絶えずさらされており、この世は私たちを絶えず魂と肉に従って歩ませようとします。この世から来る全ての影響が、私たちの注意を御霊から逸らせます。しかし、私たちはキリストの身体をさらなる完成、成熟へともたらすために、絶え間なくこの世を拒み、私たちを滅びゆくこの世の影響力、外的刺激、魂の衝動に服従させようとする、敵のあらゆる策略を打ち砕き、それに勝利し、暗闇を駆逐しながら、御霊の照らしを受けて、まことの命である復活のキリストだけを選択し、前進していかなければならないのです。すべての命と勝利は(サタンの敗北でさえ)キリストの中に含まれており、キリストは完全な勝利を取られたのですが、しかし、この時代にあって、この時空間の中で、私たちが真実、それを受け取るためには、私たち自身がキリストの勝利をこの地に現実にもたらし、暗闇に支配される世に光をもたらす必要があるのです。それには、私たちが目を覚まして、敵の策略に一つ一つ打ち勝つことが不可欠なのです。


 どうか御霊の光によって、私たちが、神の霊ではないものを識別し、それらを看破して退け、私たちを、魂と、肉へと引き戻し、感覚に従って歩ませようとする全ての偽りの影響から抜け出すことができますように!)


荒野を生きる

命が測られるのは、得ることによるのではなく、失うことによる;
どれだけぶどう酒を飲んだかによるのではなく、どれだけぶどう酒を注ぎ出したかによる;
なぜなら愛の最大の力は、愛の中で犠牲にすることであり、
最も深く苦しみを受けた人が、最も多く与えるものを持っているからである。
           
自らを最も苛酷に取り扱う人が、最も神のために選択することが容易であり;
自らを最も傷つける者が、人の涙を最も拭うことができ;
損失と剥奪に慣れていない人は、鳴り響く鐘や騒がしいシンバルであるにすぎない;
自らを救うことのできる人は、すべてに勝る喜びを持つことがない。
                              ウォッチマン・ニー


 (上記の文章はウィットネス・リーに関する記述を含むサイト「今の時代における神聖な啓示の先見者ウォッチマン・ニー」からの引用です。著作権の関係上、このサイトを記述しましたが、私とこのサイトを記述した団体との間につながりはありません。)

 上記のニー兄弟の言葉は、クリスチャンに対する自虐の勧めではありません。今日、クリスチャンでなくとも、自分のために自分を傷つけ、自分のために自分を過酷に取り扱い、あるいは、誰か親しい人や、指導者や、特定の組織や団体のために自分を進んで苦しめ、進んで損失と剥奪に耐えようとする人たちは沢山います。

 ある人はトラウマのために、自傷行為にふけり、ある人は「正義」のためにカルト団体の圧制に耐えます。しかし、それらの苦しみと損失は、すべて、滅びゆく肉のために、朽ちゆく魂のために支払われた代償であり、朽ちゆく地上の富のために支払われた損失であるために、永遠の朽ちない宝に還元されることは決してありません。
 上記の文章は、そのようにして、肉なる者が、肉なる者のために進んで苦しみに耐えるという、人間の自虐的、または自己犠牲的な生き方を奨励するために書かれたものではありません。

 私たちが自分の命を失い、損失と剥奪に耐える価値があるとすれば、それはただ一つの場合だけです、つまり、それが自分や誰かという生まれながらの人間を救うために支払われる代価ではなく、ただ見えない世界に永遠に存在する神への愛のために支払われる代償である場合です。

 私たちは朽ちる世界に富を積み上げるのでなく、朽ちない世界に富を蓄えるために召し出されています。地上ではなく、天に宝を積むように召し出された者がクリスチャンです。しかし、私たちは何と多くの捨てられない宝を地上に持っていることでしょう。何と多くの地上的な富が私たちの視界をさえぎり、この地上とは別に永遠の世界があることを見えなくさせていることでしょう。

 人間の魂が朽ちゆくものであり、腐敗した旧創造、肉なるものに属していることを一度も知らされたことのないクリスチャンたちは、それとは別に、キリストの復活の命に属する霊的な世界があることを知らないがために、魂から発する愛情を賛美します。人間の魂の世界においては、肉親への愛情は、恐らく、最高の価値を持つ愛情としてたたえられていることでしょう。あらゆる詩が、文学が、人間の人間への愛や犠牲を誉めたたえます。しかし、聖書は、それよりもはるかに高い愛、いや、魂と肉の愛には対立する、それとは次元の異なる愛があることを教えています。それが、神の愛です。

 神の愛は、肉なるもののあらゆるつながりを越えて、上位(至高)に存在するものであり、魂から来る愛を完全に焼き尽くしてなお永遠に残る最高の価値です。神の愛の前には、人間の魂と肉から発する愛情、すなわち、この世的な愛情は、不純物にしかならず、忌まわしいものとして拒絶され、価値あるものとして残ることは決してありません。

 このことを言うと、きっと多くの反対があるでしょう。禁欲主義だと誤解する人々も現れるでしょう。私が世的な愛と楽しみを酷評する度に、どれほど多くの反対がやって来るでしょうか。確かに、神は大いなる憐れみを施して、クリスチャンのために、日々の糧を備えてくださいます。私たちは主にあって、この世に生きることを楽しんでいますし、恵みを享受しています。人間である私たちはこの世で命を存続させることなくして、地上で生きていけません。毎日与えられる食べ物は私たちにとって欠かせない満足であり、家族の愛は慰めであり、この世界の美は、あらゆる場面で私たちを楽しませます。

 しかし、クリスチャンは知っているのです、それらの地上的な愛と満足と楽しみが、根本的には、神の愛と対立するものであり、決して永久に続くことのない、一時的なものでしかなく、滅びゆく性質を帯びたものであることを。

 御霊によって生まれた者は、そのような満足をどこかで厭わしく思っています、決して、呪われた死の身体が毎日のように貪欲に要求する活動によって、本当に満足させられることはありません。クリスチャンは、朽ちることのない、揺るぎない価値によって生きることを真剣に追い求めています、目には見えないが、目に見えるもの以上のリアリティを持ったお方の中で生かされることを求めています、私はありてある、と言われる方の命につらなって生きることを求めています、そして、それはただ、人となって地上に来られたキリストの復活の命を受けることによって、私たちが永遠に導きいれられることを通してのみ、成り立つものであることを知っています。

 金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいと、イエスは言われました。キリストの復活の命に至る小さな狭い門を私たちがくぐりぬけようとする時、私たちの肥大した自己がつっかえ棒になります。私たちが両手に抱えきれないほどぶらさげている財産(世の楽しみへの執着)が邪魔になります。肉親への愛が障害になります。

 ここで、私たちが人知を振り絞って企画した各種の宗教活動さえも邪魔になると言えば、多くの人たちが首をかしげるでしょう。しかし、言わねばなりません、私たちが心から神を愛し、賛美していると自分で思っている時でさえ、私たちのほとんどは、ただ自分の魂の善意を働かせ、自分の肉と魂を喜ばせることをひたすら追い求めているだけであることをもっと知るべきであると。

 多くの人々は、自分が信仰心だと思っているものが、実は魂のエネルギーから出た活動であり、人間の所有欲、自己顕示欲など、各種の欲望と密接に結びついて生まれたものであることを知りません。
 神のため、という名目で、今日、あらゆる教会で終わりなく行われる興行的なイベントは、一体、誰のために催されているのでしょう。美しい賛美歌は、誰のために歌われているのでしょう。私たちは根本的に勘違いしているのです、霊的な礼拝の本質が、人間の魂の活動の中にはない、ということを知らないのです、そして、自分たちが、肉体に鞭打って、魂の力を極限まで働かせて、宗教的な名前を冠したイベント活動にひっきりなしにいそしみ、絶え間なく刺激を受けて、何らかの活動を成功に導き、自分と人々を喜ばせることが、同時に、神を喜ばせることにつながり、霊的な礼拝になりうると勘違いしているのです。

 私たちは「主のために」、知恵を振り絞って、善良な計画表を練ります、今まで以上の素晴らしいメッセージや賛美歌をもひねり出します、今日の成功で満足せず、明日は神のためにどんなに内容の充実した催しを企画しようかと、終わりのないスケジュールを思い巡らし、兄弟姉妹たちを集会に招いてどう助けるべきか考え、彼らに教えています。集会が大きくても小さくても、私たちは自分をとても信仰的だと思って満足し、自分の善良な計画表にうっとりしています。とんでもありません! そんなものはもう沢山です! 

 それは片時も鳴り止まない、迷惑でうるさい鐘、騒がしいシンバルと全く同じです。私たちは自分の出番を決して失いたくないがために、指揮者も、楽譜も、音楽全体を無視してまでも、自分のシンバルをひっきりなしに叩き続けている迷惑な奏者と同じなのです。
 
 今日、神が私たちに望んでおられるのは、そんなむなしい活動ではありません。むしろ、私たちが自分のシンバルをさっさと捨て去ることを、恐らく、神は望んでおられるのではないでしょうか。私たちが自分の血と汗と涙(または魂から来る衝動と喜びと満足)によって練り上げたその愚かしい自己満足的な計画表を捨て去って、自分自身の力で神を喜ばせようとすることに絶望して、肉と魂にとって、まさに無一文の状態に戻り、御霊だけがすべてを始められるように、ただ制止して待つことを、神は願っておられるのではないでしょうか。私たちが自分の出番を作りたいと願う心さえ放棄し、肉と魂によって捧げるカインの礼拝を捨て去り、霊によって捧げられるまことの礼拝とは何かを、真に見ることこそ、神は私たちに願っておられるのではないでしょうか。

 人間がひっきりなしに人知によって考え出す礼拝は、人間の善意と活動意欲を満たすことはあったとしても、神と喜ばせる礼拝にはなり得ません。霊とまこととによって捧げられる礼拝とは一体何なのかを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。

 朽ちない霊の世界には、霊なるものしか持っていくことはできません。それなのに、私たちはそこに至るまでに、当然のごとく焼き尽くされていなければならないあれやこれやの財産を、どうしても手放したくなくて、手を鋤にかけてから、後ろを振り向いているのです。そんな私たちにとっては、天国に至ることは、まさに針の穴をくぐるように困難であることでしょう!

 神は今日、御子イエスがそうされたのと同じように、見えない神の御心のために、見える世界を犠牲として喜んで捧げ、手放すことを知っているクリスチャンを求めておられるのではないかと私は思います。自分を喜ばせ、楽しませる手段に事欠かない、物質界のオアシスのような時代にあって、神が私たちに求めておられるのは、荒野を生きること、オアシスを荒野のように生きること、すなわち、肉と魂に果てしなく絶望し、その腐敗した活動を放棄して、自分を喜ばせるために生きることをやめて、自己に死んで、ただ朽ちないまことの命だけによって生かされることを学んだクリスチャン、キリストの十字架を通して、肉と魂に死に、日々それを拒否して、御霊によってのみ生かされることを学んだクリスチャンこそが求められているのではないでしょうか。

 人生が荒野のようにつらく厳しい時には、私たちは否応なしに神の懲らしめの学課を学びますが、人生がオアシスのように豊かな時に、その学課を自ら学べる人はほとんどいないのです。願わくば、神が私たちに知恵を与えて下さり、私たちが、物質世界の豊かさが、霊的世界の豊かさからどれほどかけ離れているかをはっきりと知ることができ、魂の活動に絶望して、ただ御霊だけによって、真のリアリティであるまことの命を生きるために、必要な学課を学び取ることができますように。

いつもただキリストを思う

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた…」(Ⅰテモテ2:5)

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(Ⅱテモテ2:8)

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(Ⅱテモテ3:12)

* * *

 今日、家族とのお別れ会を済ませた。誰もがくつろぐ、なごやかな席となった。主が我が家に与えられた平和。どんなに得がたい贈り物だったことだろう…。

 自己に死んで以来、主にあって、私は俄然、健康を取り戻した。毎日、1.5~2人前くらいの食事を摂っている。これまでになかったことだ。生きる意欲が、内側から回復しているのが分かる。
 本当に、主が共におられると、不思議極まりないことが、毎日、起こる。まるで何十年間も盲目だった人が、急に目が見えるようになったように、私は今までと違った世界を目のあたりにして、毎日、目をしばたたいている…。

 不思議の第一は、毎朝、目覚めた瞬間から、ただ主のことだけを考え続けていることだ。石の心が取り除かれ、肉の心が与えられた。私の思いがすっかり変えられてしまった。今やイエス・キリストに関わること以外は、何一つ、私の気を引かなくなってしまった…。

 ある人々は、それを宗教マニアだと笑うかも知れない。キリストを第一優先すると言いながら、マニアックな狂信に落ちているだけだと…。だが、第二の不思議は、私が人情にも義理にも価値を置かなくなったことだ。人からの外面的評価を意に介さないので、冷たい人間になったと思われるだろう。以前に大切にしていた諸々の人間的価値が、私に対して死んでしまった。

 特に、人知によって塗り固められた偽りの宗教、偽りの道徳、人間の作り上げた各種の倫理道徳的しがらみに対して、私は強い嫌悪を催すようになった。この世の価値観に嫌悪を催すことはあまりなく、何にもまして、耐えられない思いがするのは、宗教的偽善に対してである。神を崇めているように見せかけながら、その実、人間の努力を誇ろうとする心、人の血と汗と涙の結晶としての宗教的道徳や、宗教的遺産を誇ろうとする心、善を装いながら、その実、肉なる人間を立てようとする偽善、義理人情に縛られた遠慮と執着…、そういうものに、嫌悪を催すようになった。生まれながらの人間が、生まれながらの人間(死体)を延命させるために作り出す各種のきれいごと、括弧つきの善意こそ、何にもまして、耐えがたいものとなった…。

 生まれながらの人間の努力の結晶を弁護しようとの気持ちは、私にはもうない。たとえそれがどれほど敬虔な信仰心に見せかけられていたとしても、だ。生まれながらの人間の善意は、全て、死すべきものである。人間の努力によって作り上げられる宗教など、さっさと滅びた方が良い。それを擁護しようとの気持ちは、私には毛頭ない。だが、このように言えば、きっと、先人の努力を理解しない、人類の偉大なる宗教的遺産をないがしろにする、冷たい、独りよがりな人間だとの非難を免れられないだろう。だが、たとえそのような非難をこうむったとしても、構わない、イエスの復活の命以外のものを賞賛したいという気持ちは、私にはもうないからだ…。人間の努力による独りよがりの礼拝は、もうやめよう…。

 さて、話題を戻せば、今夜はただ美味しい食事にあずかれただけでなく、満足そうな家人の顔を見ているだけで、十分に満たされた食事会であった。血肉による家族に平和が戻ってきたことが嬉しいのではない。血肉による家族が、私の家族なのではないことは分かっている。私の家族は主によって生まれた兄弟姉妹だ。しかし、魂を失ったことによって、魂を得た。家族の魂を失ったことによって、私は彼らをもう一度、得たのだ…。

 自分の努力によっては、どうしてもつかめなかった平和が、そこにあった。ラバンがヤコブをさんざん苦しめたように、彼らは私の人格を燃え盛る炉の中に投げ入れ、そこで不純物である私の自己を死なせる役割を担った。それは主のご計画の中で許された出来事であったが、肉なる私にとっては、何と苦しい試練に感じられたことだろう。何十年間、その火に苦しめられて生きてきたことだろう。
 それが今や終わり、私たちは一切の隔ての中垣を取り除かれて、共に和解のテーブルに着いた。私が死んだことによって、和解が訪れた。自分の力では、自己に死ぬことさえもできなかった。すべてが上から、主によって与えられたことであり、私の努力による達成は何一つもなかった(何か誇れるものがあるとしたら、それはあまりにも不完全で不平だらけのみっともない忍耐だけだろう)。これは、どんなに神に感謝しても足りない恵みだ。

 新しい土地で、何が私を待っているのかさっぱり分からない。何のために主が私をそこへ持ち運ばれようとしているのか、今は全く不明だ。だが、主が私を祝福のうちにこの地から送り出そうとして下さっていることが、とても嬉しい。
 以前にも書いたことだが、神が召し出された者たちは、何らかの方法で世から隔離され、特別な忍耐の要求される苦境を通らされるように感じられてならない。私たちが自分から世を出て行くのではなく、不思議な方法で、自然と、世から遠ざけられ、患難が向こうからやって来るのだ。私のこの一年間の孤独と苦痛も、主が私に与えられた一種の隔離であった…。

 今は、主にあっての兄弟姉妹たちが与えられているので、私は一人ではない。初めは、このつながりが、この先、めまぐるしいほどの勢いで、強化され、増えていくのだろうと思っていた。しかし、そうではないことに気づいた。世からの隔離は、これからも終わらないだろう…。

 私は神の御前に、独り者として、これからも、歩み続ける必要がある。必要に応じて、交わりは与えられるだろうが、それにしても、荒野で、ただ一人きりで御前に立つこと、キリストにのみ捧げられた純潔の花嫁として、神の御前にただ一人で立ち続けること(これは生涯を独身で通すといった世的な意味ではない)が、私の神への真心の証としてこれからも求められるだろう。ただイエスお一人だけを見上げ、イエスだけに心を注ぎ出すために、私は荒野に導かれたのであり、ある意味で、荒野は終わったが、これからも荒野は続くのだ。

 御子の降誕を告げる天使の歌声を聞いた荒野の羊飼いたちのことを思う。一体、なぜ、天使たちの麗しい歌声を聞く特権を、他でもない貧しい羊飼いたちが得たのだろうか? 彼らに信仰心などというものがあったのだろうか? 分からない。どうして神が、彼らを選ばれたのか、分からない。東方の博士たちにしてもそうだ…。けれども、神はいつもそのような不思議な方法で働かれる。神は人の誉れの集中する場所には決して現れず、取るに足らない、打ち捨てられたような人々に眼差しを注いでおられる…。

 だから、私は今までと同じように、何の荘厳さもなく、きらびやかさもない荒野にいよう。そこで、静かに、差し向かいで神を礼拝することを続けよう。そこには、人知による信仰の手引き書は一切なく、いかなる方法論もない。目に見えるレールはどこにもない。御言葉なるイエスという見えない道を、御霊に従って、進んでいくだけだ。不安と言えば不安だ。レールがないのだから。けれど、真実と真心を主に捧げ、この先の道を示してくださいと主に願い求めながら、一歩、一歩を進んで行こう…。

 道は見えないが、霊には安息がある。今、分かっていることは、私は自由とされたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならないということ。そして、我が主が地上において、そしられたように、私も恐らく、この先、同じか、それ以上にそしりを受けるようになるだろうということ。そのそしりは、世から来るのではなく、何よりも、信心深い信者を自称する人々から最も激しくやって来るだろう。

 今はキリスト教においても、異端が花盛りだ。人々が健全な教えに耐えられなくなり、自分の好みに合わせて、よりどりみどりの教師や、カウンセラーを立てては、そこに殺到している、背教の時代である。そんな中で、偽教師たちを告発するような、まことの信仰者が現れれば、逆に、彼らこそが偽物であるかのように攻撃され、中傷されるのは当然だろう。

 (偽教師を人知によって見極めることは不可能な場合があることによくよく注意されたい。何が本物であるか見極めるためには、真実、御霊による証印を受けていることが不可欠である。クリスチャンには絶対に聖霊に導かれることが必要である。そのことを何度でも繰り返したい。)

 だが、厳しい迫害の中でも、しっかりとイエスに従う人々の道は、必ず守られるだろうことを信じて疑わない。このパラドックスを何と言い表せば良いだろうか。私は、手ぶら同然で出かけようとしているのに、豊かになることを信じており、何の保証もないところへ踏み出すのに、安全が守られると信じ、荒野へ導かれると思いながらも、ますます兄弟姉妹との愛の一致の中に入れられることを疑わず、落ち着き先がないのに、自由であると感じ、迫害を覚悟しながら、ますます栄光に満ちた姿へと変えられることを信じている。

 主は不思議な方であり、主が用意された矛盾の中を生きることは楽しい。私の魂と肉から出た計画には滅びあるのみ。私の思いをはるかに越えて、何にもまして優れた主の御旨がなりますように。

 さて、この先、しばらく、ブログはお休みです。皆様、良い秋をお過ごしください。