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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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主の山に備えあり

ある人が私に言った、「クリスチャンはね、時には神に不平不満を訴えることがあってもいいのですよ。『何故ですか、主よ?』と、神の胸ぐらをつかんで抗議し、主と直談判するような瞬間があってもいいのですよ。それは主とあなただけの時間です。主があなたに求められるのは、あなたが純粋で、正直であること、神の御前に自分の心を包み隠さず、弱さも、不満も、何もかもをさらけ出し、自分をまるごと御手に委ねることなのです。」

 神と二人きりの直談判の時間を、私は今日、ある場所で持った。そういう時、私はノートを携えてとある店へ行く。黙って机に向かい、心の丈を祈りとして文章に書き出す。
 書いているうちに、文章が次第に主への苦情になってきた。一体、何度、主は私の生活の平穏を奪われたら気が済まれるのか。いくら地上には人の居場所はないと言っても、生まれたその日から、落ち着き先がなく、望みを持ってどこかに移住しても、その移住先が次々と奪われるのでは、あまりにも不当ではないか。今度はどこへ行けと主はおっしゃるのか。そこでも、再び平安を奪われないという保証がどこにあるのか。主はあまりにも私の信仰を買いかぶっておられる、この波乱万丈な人生という贈り物は、私にはあまりにも荷が重すぎて負いきれない…。

 私は元々逆境に強い人間ではない。試練にある時、力強く立ち向かい、主の備えを堅く信じられるだけの信仰心が、ない。一言で言えば、私はきわめて臆病で、信仰の薄い、弱腰な人間の一人なのだ。だから、今までにも、何か大きな苦しみや混乱がやって来ると、いつも心に思ったものだ、そろそろ、このあたりで人生が終わっても、別にどうということはないのではないか。悪魔に太刀打ちできずに、志半ばで人生を終えたとしても、それが何だろう、私の弱さを考慮すれば、全ては仕方がないこと、誰が私を責められるだろう。それに、主の御許で安息できるなら、地上の生がどんな形で終わりを告げようと、別に問題はないどころか、むしろ、それこそが、私の望みなのだ。たとえ敗北としか見えない形であっても、この人生に終止符が打たれるならば、どんなに楽になれるだろう…。

 伝道の書にあるとおり、人の地上での生活とは、積み上げても、積み上げても、壊れるばかりで、残るものは何もない。人は塵に過ぎず、悪魔の攻撃に耐える力をしょせん持たない。人の罪はあまりに深く、その思いは曲がりきっていて、救いようがない。人は神の怒りの前に誰一人、立ち果せる資格がない。義人ヨブでさえ懲らしめられたのだから、まして悪人はどんなに罰せられても、文句を言う資格がない。人は皆、死すべき存在なのだ。死すべき存在なのだ! 
 だが、そんな自明の理を、私を通して証明するためだけに、主は私を造られたのだろうか?

 それで終わったのでは、キリストの御救いの意味はどこにあるだろう。主の十字架があるのに、なぜ人はなお呪いと、罪の報いをいつまでも背負って生きなければならないのか。生涯に一日たりとも安心して枕することのできない人生を人間にお与えになることが、神の御心なのだろうか。そんなはずはない。神のいつくしみとまこととは、絶えることがないと聖書に書いてあるではないか。神は憐れみ深い方であるはずではないか…。

 主よ、あなたの憐れみはどこにあるのですか?

 こうして、主と問答しながら、どうやって生きるべきなのかを思い巡らした。私は疲れ切っていた。どこに生きていく力と、希望を求めればよいのか? 私が最も望む居場所は、天であり、御国である。主イエスの御許で安らぐことこそ、全てに増す私の願いである。(それを望まないクリスチャンが一人でもいるだろうか?)
 けれども、もしも、今すぐ主イエスと共にパラダイスにおりたいという願いかなわないならば、この地上のどこかで命をつながねばならない。だが、ただ生きるだけの人生はもう御免だ。そこに主の導きがあり、守りがあると分からない限り、私はどこにも動くつもりはない。闇雲に彷徨うのでは何の希望もない。「私を祝福して下さるまではあなたを去らせません」と言ったヤコブのように、私は強情にその場に立ち尽くした。主よ、導きを下さい、それがあるまで私は動きません、と。どこに主の御心にかなう、平安に暮らせる場所があるだろうか?

 そうして思い巡らしているうちに、ふと窓の外に目をやると、この土地ではまず滅多に見かけることのないナンバーの車が駐車場に止まっていた。人はどう思うか知らないが、私にはそれが全く偶然の出来事であるようには思えなかった。
 普段ならば、こういう現象を通して、主の御心を探ろうとすることは私にはない。どんなに珍しい現象であっても、それを安易に信じるのは危険だからだ。カルト化教会でも何度もこの手の符号の一致には騙されてきたのだ。何らかの符号の一致があったからと言って、どうしてそれが御心だとすぐに言えよう。そういうもので自分を喜ばせるのは、危険だ。だが、その時ばかりは、事情が違っていたように思う。(そのナンバーは、エクレシアを想定させるものだったのだ。)

 私にはこう感じられた、主は私の心に残っている希望を最後までご存知であると。
 私の心、私の宝がどこにあるか、ご存知であると。
 私の宝とは、地上の財産ではなく、キリストの御身体なるエクレシアのことであり、主にある兄弟姉妹のことである。
 私の願いは、この地上にあっても、やがて天にあっても、ただキリストのおられるところに、キリストの平安の中に、私もおりたいということだけである。
 その願いが、主の御心に反するだろうか。
 その願いを与えて下さったのは主であり、主は必ず道を開いてくださると言えないだろうか。
 だから、それを信じて、一歩を踏み出せばよいのではないか。

 この状況は主が導いておられるのだ、初めてそう思えて、希望がわいてきた。今いるソドムから脱出する道を、主は必ず備えて下さるだろう。ある事件が起こることを神が許される背景には、いつも、それなりの理由がある。私には分からなくとも、そこにはご計画があり、今よりも良い状況が用意されているはずなのだ。だから、愚痴と泣き言を捨てて、主を信じて、歩き出そう。主の山に備えがあることを信じ、主の完成された御業を誉めたたえよう。

 神にむかって歌え、そのみ名をほめうたえ。
 雲に乗られる者にむかって歌声をあげよ。
 その名は主、そのみ前に喜び踊れ。
 その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。<…>
 神よ、あなたは恵みをもって
 貧しい者のために備えられました。<…>
 日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。
 神はわれらの救である。
 死からのがれ得るのは主なる神による。 (詩篇68篇4-6,10,19-20)

 私の願いではなく、御心がなりますように。
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見ゆるところによらず

山谷少佐の今回の説教「霊と心と身体の健康」では、「御霊に導かれて生きるとはどのようなことか」について分かりやすく解説してくれている。日常生活に起こって来る様々な問題に心が思い乱れる時、また、身体が苦しめられる時、私たちはどのようにして御霊に従って生きて、主を待ち望めばよいのか、その指針を与えてくれている。

 詳細はどうぞ記事をお読みください。私の感じたことを述べます。
 心と身体の苦しみは、私たちが常に不完全な存在であること、堕落した存在であることを示している。時には、自分の過失ゆえに、病気になったりすることもあるだろうし、自業自得の悩み苦しみも生じるだろう。そうした痛みは、私たちの目を常に自分の不完全さに留めさせようとする。自分の失敗に心を向けさせようとする。そして、現状に対する不満を心に生じさせ、いかに自分が駄目な存在であり、生きるのに不器用な人間であるか、また、将来に希望を持たない卑小な人間であるかという思いを抱かせる。

 しかしながら、自分のそうした失敗、または成功、自分側からなされるあらゆる行動とその結果を全て超えて、聖書は、ただ一方的な神の御約束として、神が私たち信じる者を、霊にあっても、心身にあっても、何一つ欠けるところのない完全な者として下さることを保証してくれている。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」(テサロニケ一5:23-24)

 非のうちどころのない人間になるために、自分側からの努力はもう必要ないのだ。そのことをこの聖句がはっきりと告げている。神がそのようになして下さる、そのことをただ信じて、神の真実に身を委ねるだけである。
 私は自分の非ゆえに責められることが多い者である。周囲にいる人々は鵜の目鷹の目のようにして、私の落ち度を探し出してはあげつらう。それを聞いていると、確かに私の落ち度に該当するものは沢山あり、それを考えるならば、私はどのような罰を受けても仕方がなく、どのように扱われても仕方がなく、生存の場を失ったとて、文句を言えないという思いが去来する。だが、私は自分自身をも、見ゆるところによって判断するのをやめなければならない。私がどれほど不完全な人間のように見えようとも、未だに落ち度が多く、失敗に悩むことがあったとしても、「神の思い(御心)」は、それでも、私を完全な者とするところにあるのである。そうすることが、神の御心なのである。そしてそれは単に死後に実現されるだけで現在とは関わりのない望みではなく、今、この瞬間から、永遠の未来へと途切れることなく続いていく約束であると私は思う。

 だから、疑わないでいよう、現状の不完全さに心を留めないでいよう、人の言葉に流されるのをやめ、また状況に流されるのをやめて、御心が何であるかにひたすら思いのピントを合わせよう。そして、御霊によって祈り続けることによって、日常の浮き沈みや、身体の調子、魂の思い煩いを越えたところにある、私たちに平安を与えようとする神のご計画に思いを馳せ、やがてキリストと共に栄光に入れられる時を忍耐強く待ち望み、神が与えようとなさっておられる安息をできるだけ我が内にもいただくことができるようになろう。少佐の祈りを、心を合わせながら、引用させていただきたい。

祈り

聖なる御父。あなたは、わたしたちを十字架の道へと、お招きになりました。
わたしたちは、わたしたちの体という、小さな十字架を負って、歩んでおります。わたしたちは、わたしたちの心という、小さな十字架を負って、歩んでおります。
そのようなわたしたちに対して、あなたが今日、霊による導きを与えていてくださることを、心から感謝いたします。
わたしたちが主イエスキリストの十字架による救いを信じて、祈ったとき、御父よ、あなたとわたしたちとの間にあった隔ての中垣が取り除かれ、神の御霊であるところの聖霊が、わたしたちのうちにおいでくださり、わたしたちのうちに親しく臨んでくださり、わたしたちの霊のうちに、聖霊がお宿りくださったことを、心から感謝いたします。
どうか、わたしたちが、「自分の思い」を置いて、聖霊が示したもうところの「神からの思い」に従って、生きることができるようにしてください。
どうか、わたしたちが、見るところによらずして、信仰によって、生きることができますように。
どうか、わたしたちが、自分を見るのでなくして、ひたすら主イエスキリストを見つめることができますように。
どうか、わたしたちが、自分に望みを置くのでなくして、主イエスキリストに望みを置くことができますように。
わたしたちの心と体は、今は不完全な状態に置かれております。しかし、主イエスキリストが再び来たり給うとき、わたしたちは、まったく贖なわれ、復活させられ、まったき心と、まったき体とが授けられることを、信じて、待ち望みます。
どうか、その栄光の日に向かって、わたしたちが、おのれの小さな十字架の道を、ひた走ることができるようにしてください。
わたしたちの主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

悪しき支配者は滅びる

 カルト化教会で被害を受けた人々に接触するようになってから、一年半以上が過ぎた。
 こうした人々と関わるようになって、人生が本当に豊かになってきたと思う。

 もちろん、ここで言う被害者とは、被害者運動を組織したり、被害者というレッテルに寄りすがって、いつまでも人の同情と支援ばかりを乞い求めて生きるような人々のことではない。むしろ、被害者を自称せず、信仰によって勇敢につらい体験を乗り越え、今は淡々と、普通の生活を送っている人たちだ。

 私自身が教会で深刻な事件に遭遇して以来、私と同様に、既存の教会で想像を絶するような体験を味わった人たちと関わる機会が格段に増えたのは感謝なことであった。自分がそのような体験をする以前ならば、彼らの存在に、私は注意も払わずに通り過ぎたかも知れない。けれども、今は、こうした人々の存在と励ましが、私の心の大きな支えになっている。
 何しろ、私が遭遇したような事件のスケールを、ありのままで理解できるのは、私と同様の体験、もしくはもっと深刻な体験を味わってきた人々の存在を置いて他にないからだ。一時、職も、家も、将来も、何もかもを失い、生存の恐怖の中を、信仰だけを頼りにくぐり抜けた人々が存在する。その人々は、普通の人々に理解できない問題を理解することができ、今、私が直面している問題についても、将来に有益なアドバイスをすることができる。
 これは、不幸な体験抜きにはありえなかった共感だとは言え、このような素晴らしい理解者、助言者、何よりも神にあっての家族を与えて下さったことをただ主に感謝したい。

 先日、ある教会に献身したために、人生の半ばを棒に振らされ、あまりにもひどい被害を受けられた方が、来客中であったにも関わらず、我が家での揉め事について、電話で親身に相談に乗って下さった。その方は言われた、
「あの時は、自分が身を捧げていた教会が間違っていると判断することは、私にはできなかったのです。けれども、主は、事の是非、善悪を超えて、ただ私の神に対する熱心さ、純粋さだけをご覧になったのだと思いますよ。ですから、結果的には、その当時は、間違った献身をしていたのですが、そのために何もかも失った私の人生を、主は後になって、ちゃんと保障してくださいました。
 もちろん、生活の苦労を思い切り味わわされたこともありましたよ。肉体労働に従事していたこともありました。でもね、主は色々な奇跡を起こしてくださり、私が人生を確実に生きられるようにして下さり、今はこうして、やりたいことができているし、夢もかなったし、あなたたちのような、主にあっての家族も与えられ、望む生活を送れるようになったのですよ…。
 主を信頼して自分を主に捧げた者に対しては、主が最後まで全ての責任を取って下さるんです、キリスト者の道とは、そういう道ですよ。だから、あなたも今は、ただキリストだけを信じて、他の全てのものへの信頼を捨てて、新しい一歩を踏み出すべき時ではないでしょうか…。」

 主に対する純粋さ。そうだ。それを忘れないでいたい。どんなに深刻な問題が目前に迫っていようとも、ただキリストと私との関係がいかにあるか、それだけが私の人生を決定する要因なのだ。主の御前で誠実であり、真実であり、神の戒めを守り、主に信頼することだけを考えていれば、後のことは全て主が備えて下さるだろう。

 全く恐ろしい話ではあるが、私は今、全治数週間の怪我を負わされている。外から見て誰にでも分かる怪我だ。先日の旅行前のいさかいもひどかったが、今回の暴力的な事件を通して、家人の私への一方的な憎しみがより深刻化したことを感じさせられた(私は誰にも指一本触れていない)。さらに、昨日、何の断りもなく、私の持ち物の中から、あるものが抜き取られていたが、これも、間違いなく、家人の仕業である。このようなことは今日に始まったのではない。彼らの迫害がより陰湿なものになってきていることを示している。

 一時は、友人を家に招待できるほどに我が家の状態が改善したように見えたこともあったし、家人が随分、態度を和らげてくれたこともあった。だが、本質的に、この人たちとは相互理解が成り立たないことをいつもいつも感じさせられる。事態がここまで悪化した以上、早急なエクソダスが必要であることは明白だ。悪しき人々からは離れ、健全な人々と関わろう。そして家人が救われるかどうか、それは全て主の御手に委ね、一旦、靴の塵まで払い落として、この地を後にすることにしたい。ブログは私がまだ無事に生きていることを世に示す証拠である。

 残念だが、すべては己を義とし、自分の罪から顔を背けるところから始まるのだ。自己の絶対性を確信し、自分は決して間違うはずのない人間であると確信し、己を義としてやまない人々は、自分の罪を認めようとせず、自己の責任を問われるようなことが起こると、必ず、他人に罪を転嫁し、他人を自分の身代わりに罰する。それだけでなく、自分を間近に見て知っている人々に対して、病的なまでの猜疑心を抱く。それは、彼を身近に見ている人々は、必ずや、彼の弱さ、至らなさを知っているだけでなく、その病的で悪魔的な正体に気づかないはずがないからである。だから、彼は人を全く信頼できない。あらゆる友人や知人、家族のメンバーを絶えず疑い続け、その猜疑心ゆえに、必ず、身近な人々の存在そのものを、最後には、都合の悪い生き証人として、排除、粛清することになる。こうした人々は、誰をも信じることができない、誰をも愛することができない、誰をも残酷に支配することしかできない人間であり、彼らの思いは、結局、殺人である。それは、ネロしかり、スターリンしかり、ヒトラーしかり、毛沢東しかり、ポル=ポトしかり…。歴史上、そういう人格破綻者たちが権力を握って、どれほど恐ろしい世の中が築かれたか、その例は枚挙に暇がない。

 自分の罪から目を背けることがいかに恐ろしい結果をもたらすか。その実例はもう十分に証明されてきたと言える。己が罪を否認すること――それは自分を神とすることと同じであり、人格破綻への最短コースだ。主を畏れることこそ、知識の始めである。私たちは神の御前に誠実にへりくだり、自分がただの弱い一人の人間であることを忘れないようにしたい。
 最後に、詩篇94編を私の祈りとして捧げたい。

 あだを報いられる神よ、主よ、
 あだを報いられる神よ、光を放ってください。
 地をさばかれる者よ、立って
 高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
 主よ、悪しき者はいつまで、
 悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、
 すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、
 あなたの嗣業を苦しめます。
 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、
 みなしごを殺します。
 彼らは言います、「主は見ない、
 ヤコブの神は悟らない」と。
 民のうちの鈍き者よ、悟れ。
 愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、
 目を造った者は見ることをしないだろうか。
 もろもろの国民を懲らす者は
 罰することをしないだろうか、
 人を教える者は知識をもたないだろうか。
 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
 主よ、あなたによって懲らされる人、
 あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
 あなたはその人を災いの日からのがれさせ、
 悪しき者のために穴が掘られるまで
 その人に平安を与えられます。
 主はその民を捨てず、
 その嗣業を見捨てられないからです。
 さばきは正義に帰り、
 すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
 だれがわたしのために立ちあがって、
 悪しき者を責めるだろうか。
 もしも主がわたしを助けられなかったならば、
 わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、
 主よ、あなたのいつくしみは
 わたしをささえられました。
 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、
 あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は
 あなたと親しむことができるでしょうか。
 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、
 罪のない者に死を宣告します。
 しかし主はわが高きやぐらとなり、
 わが神はわが避け所の岩となられました。
 主は彼らの不義を彼らに報い、
 彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。
 われわの神、主は彼らを滅ぼされます。


キリストという避難所

 クリスチャンのブログを読む人々は、もしかすると、書き手の文章を通して平安を得ることを期待しているかも知れない。だから、平安が感じられない文章を読むと、怒り出す人さえ、ひょっとすると、いるかも知れない。そのような人たちには残念な知らせかも知れないが、キリストにあっての平安を真に獲得するまでには、きっと、私はこの先、かなり困難な時期を経なければならないだろう。正直に書けば、私には未だ平安に安んじることが時折、困難なことがある。私の魂が、波乱に満ちた現実の問題のためにしょっちゅう思い乱れるからである。

 どうか弁解を許していただきたい。もしもキリスト者として信仰の強められた人が、強制収容所に投獄されるならば、彼はそれを信仰のための試練として受け止めることができるだろう。しかし、もし人が生まれて間もなく、はっきりした信仰も持っていないのに、何のためかも分からないままで、強制収容所に投獄されたとしたら、その人の魂は混乱し、人生の意味は失われ、絶望のあまり、死を願うことが度々起きるようにならないだろうか。

 私の人生は後者に似ていた。何のためなのか、それが何を意味するのか、理解できないうちから、試練が始まっていた。そのため、長い間、ただそれにきりきり舞いさせられ、肉的な反応を返すことしかできないうちに時間が過ぎて行った。当時、キリスト者が平安と呼んでいるものの意味は、私には全く分からなかった。通っていた教会の中にも、平安らしきものは見受けられなかった。そこで、私は平安とは、結局、私には手の届かないものであり、永遠に人が手に入れられないもののように思った。また、それは、人々が見たくない他人の現実問題に蓋をし、懇切丁寧に話を聞いてやったり、涙を流す手間を省くために、手っ取り早く持って来て、あるがごとくに見せかけている嘘に過ぎないもののようにも思った。

 だが、神と差し向かいで向き合うようになると、人生が嵐のように荒れ狂う時に、主にあっての平安にどうやって到達するかということが、抜き差しならない問題となって私に迫ってくるようになった。主はこの問題に関して、私が決して生半可な、言葉だけの上っ面の知識で終わることができないように、私を取り巻く現実が、極度に私を苦しめるものとなることをお許しになった。

 すなわち、肉体的・精神的に死が間近に迫っているような環境にあって、人は決して口先だけの平安によりすがることはできないのだ。それがその人を救うことができないのは明白だからである。文字通り、死に打ち勝つほどの力ある答えを持たなければ、決して、切り抜けることができない苦境がある。キリストの十字架と死と復活と、御座につくこと、それらが文字通り現実の力を持って私の前に現れて来なければ、解決できない問題が、目の前に用意された。だから、今、主が私のために用意された環境は、私が完全な答えを見つけるための学課であると考えて良いと思う。

 そこで、今、私は、魂ではなく、霊に従って歩むことによって、理屈を越えた平安、現実を越えた、キリストに源を発する平安に安んじることを学ばされている。だが、その勉強はまだ初歩の初歩の段階だ。だから、その学課を、あたかも悟ったように、獲得済みのもののように言うことは私にはできない。私の歩みはかなり遅々として見えるだろう。かなりぐらついて見えるだろう。私の歩みには思い煩いだけがあって、平安がない、と感じる人もいるかも知れない。いまだにこんな現実問題で思い乱れているのか、何と信仰が足りないことよ、と言う人もあるだろう。けれども、そう見える時があっても、どうか私の乏しい信仰を馬鹿にしないでいただきたい。そして主にあっての兄弟姉妹にお願いしたい、どうぞ私のために祈り続けて欲しい。

「しかし、見えないもののために見えるものを、永遠のもののために現在のものを、天のもののために地のものを、実際のもののために『成功』を手放すには、なんという価値観の変化が必要でしょう!」

 オースチン-スパークスは「人とは何者なのでしょう?」の中で上記のように述べている。私たちが絶望的に見える現実の状況ばかりを見るのをやめて、見えないもの(神の霊によって構築されている世界)に視点を移すことは、口で言うほど易しいことではないことが分かる。なぜなら、そうするためには、見えるものだけに主眼を置いて暮らしてきた私たちの価値観、習慣そのものが転換せねばならないからである。

 従って、見えるものから見えないものへの視点の変化は、私にも、ゆっくり起こるだろう。さんざん現実問題で思い煩っていた人が、ある日、突然、何かを悟って、完全な平安に安息する霊の人に変身するなどということは決して起きないだろう。

 オースチン-スパークスは、エデンでの人の堕落の本質は、人が「霊における神との合一」から切り離されたことにあると分析している。それこそが、人が平安を失ってしまった理由であるだろうと私は思う。
「人の知識と力は本質的に霊的でなければならず、人生の絶対的な主権と頭首権は神のものであり続けなければなりませんでした。霊の関係、霊の器官と機能がこれを可能にしました。」

 しかし、蛇からの誘惑は「人は自分で決定し、自分で所有する、自分ひとりで十分な独立した者になれる」という提案の形を取ってやって来て、それは人の「理性、願望、意志――魂の諸機能――」に働きかけた。人は神に主権を委ねることをやめて、自分の独立した自己決定権を行使し、その結果、神と人との霊的合一は壊れてしまった。

「人に関する神の絶対的な頭首権と主権が排除されました。そして、耳を傾けるべき相手として、サタンに神の地位が与えられました。このこと、すなわち、『この世の神』となることが、なにものにもましてサタンが欲していたことでした。」

 話が脱線するのを許して欲しい。私自身は大の音楽好きにも関わらず、音楽にさえキリスト者にとっての危険が含まれていると再三に渡り、警告してきたのは、この世のものに「耳を傾ける」ことの危険が、今、音楽を通して世間に広まっていると感じるからである。時を追うごとに、この地上のものは全てサタンによって、よりひどく汚染されつつあるように見受けられる。文化そのものが汚染されつつある。150年以上前のヨーロッパの婦人たちの服装と、今の娘たちの流行の服装を比べてみればよい。TV番組も数十年間のうちにどれほど著しく変質しただろうか。20世紀初頭には、人類を幸福に導くと多くの人によって信じられていた科学技術が、人類を何度も死滅させるほどの威力を持ったのはなぜだろうか。地上的なすべてのものと同様に、音楽も時代と共に変質しつつある。

 私たちは今、バッハやモーツァルトを聞かなくなり、どのような思いで作られたのかも分からない、場合によっては、演奏者も不明、作者すら不明の音楽を、まるでヘビースモーカーが煙草を手放せないように、ひっきりなしに吸収し続けることに慣らされている。一人きりの世界に閉じこもって、音楽を聴くことに対する全社会的な中毒症状、快楽としての音楽に対する中毒症状、これに私はどうしてもまがまがしいものを感じずにいられないのである。
 それは、何かしら自然でない音楽の楽しみ方である。手ずから楽器に向かって根気強く練習し、日が傾くのを感じながら、人と楽しく連弾したり、協奏したりして、平和に毎日を人と共に過ごして楽しむのではなく、一人でイヤホンをかけて、出所不明の音楽の刺激に手っ取り早く、次々と身を任せることによって、ひっきりなしに刺激を得、五感の興奮を煽り、それがなければ、もはや居ても立ってもいられなくなる…、そんな中毒症状が、当世風の時間の過ごし方として、全社会的に奨励されているのである。これは明らかに何かがおかしいのではないだろうか。

 だが、このようなことを言うと、極端な保守主義者、禁欲主義者のレッテルを貼られ、きっとひどい反発を食らうであろうから、今は音楽の問題はこれで終わりにしておこう。そして、先に述べた家庭の問題に戻ろう。このことについて、私はこれまで様々なキリスト者に相談を持ちかけてきたが、役に立つ助言はあまり得られなかった。大概の助言は、赦しなさいとか、平安の中にいなさいとか、問題から離れなさいとかいった漠然としたもので終わっており、具体的に役に立つものではなかった。

 今、改めてこの問題について考えてみよう。たとえば、もしも家庭が恒常的に暴力にさらされる危険な場所となってしまった場合、キリスト者はどこに避難して安らぐ場所を求めるべきなのだろうか。緊急に、現実的な答えがこれに必要となるだろう。DVに対する社会的取り組みについて、ここで議論するつもりはない。キリスト者として、この問題にどう答えるべきかを考えてみよう。
 家庭に問題を抱えた多くの人たちが真っ先に取る反応は、その悩みから逃れるために、世の中に逃げて行こうとすることである。どこかに居場所がないか探しながら外に出て行き、できるだけ、問題のある家へは戻らないようにする。一見、それは合理的な策に見えるだろう。家庭から独立したように見せかけて「静かな家出」を決行する大人たちもあるし、10代や20代の青年達の中には、もっと性急に家出をして、夜の街にたむろし、闇の世界の食い物にされていく者もある。

 だが、私はこの問題に対して、主にあって、きっぱりした答えを得なければならないと思う。その答えとは、地上にはキリスト者の居場所は無いという自覚を心底から得るというものである。そんな残酷な返事が人に希望を与えないのは分かっている。いたいけな子供達に家庭の暴力の犠牲となって人生を終われというのか、居場所はないという答えに甘んじて、どこにも逃げるなと言うつもりかという返事が返って来るだろう。そうではない。 

 私たちが逃げる場所は、この世のどこそこにはなく、ただキリストの御許にのみある。この世の問題から逃れるために、神の御心が何であるのかを探ることなくして、あれやこれやの人知による策を駆使して、あちこちへ逃げ、ひたすら自己決定権を行使するのをやめること、そして、ただキリストの御許に居場所を求めて身を投げることが何より先決である。

 世の中の人々は、私たちが何か深刻な問題を抱えていることが分かると、お節介な助言を始めようとするかも知れない、「あなたはどうしてこの策、あの策を講じないのですか。」「あの方法はもう試してみましたか。これをしないのはなぜですか。」
 これらの助言は、私たちが問題から逃れるために、キリストの頭首権に服し、自らの主権を神の足元に投げ出すのでなく、むしろ、私たちが自分の頭で早急に色々と対策を講じ、自己責任の下で、良質と思われる策を次々、行使することを求める。それらはまことにもっともらしい助言なので、聞いているうちに、問題がいつまでも解決しないのは、私の努力が足りないせいなのだと感じさせられ、何やかやの策を実行すべきだとの焦燥感に駆り立てられ、また、それを実行しないで来たことへの罪悪感さえ感じさせられるだろう。

 これらの助言の中で最も数多く聞かれるのは、「問題ある現場からは逃げなさい。なぜあなたはその場所から離れるために具体的な策を講じないのですか」というものだった。しかし、それらはただ「離れなさい」というばかりで、どこに逃げれば、確実に安全になるのかという問題にはついぞ答えてくれなかった。従って、このような無責任な助言を実行に移しても、その最終的な結果は全て自分の身に負わなくてはならなくなるのは明白だ。安全な逃げ道が分かっていないのに、闇雲に逃亡するのは、さらなる危険である。もしも誤った場所へ逃げていけば、そこで起こる悲劇をさらに背負わなくてはならなくなるからだ。

 このような助言を数多く受けているうちに、私はそれが(少なくとも私の人生にとっては)何の解決にもならない偽りであると分かった。どこへ逃げても、時間稼ぎにしかならない。逃げても、問題は解決しない。逃げれば、問題はただ追って来るだけである。私たちは、自分を神の主権から離れさせ、自己責任という重いくびき(地上的、サタン的くびき)を負わせて、あちらこちらへと彷徨わせるような助言に、耳を傾ける必要はない。「自己決定権を行使して、自分が正しいと思う策を早急に実行に移しなさい。もし対策を講じないならば、あなたが破滅するのは自己責任である」という考え。それは人を神から引き離そうとしてきた悪魔の常套手段である。

 大体、自己責任という言葉はどこから生まれて来たのか。自己決定権を大胆に行使して、その結果起こることすべてを自己責任として従容と受け入れるようにという考え、「欲するものを大胆に何でも取りなさい。その代わり、結果を自己責任として身に負いなさい。あなたが何も対策を講じないから、問題は良くならないのだ」という考え。それこそサタンの誘惑ではないのか。

 キリストは、人に自己責任を問われなかった。神が人に求められたのはただ御心に従うことだけであったが、それすらできなかった人間が負うべき責任も、キリストはご自分が率先して十字架上で負われたのである。その時、人の自己責任という概念、つまり、人が自分の人生に対して最終的な責任を負わなければならないという考えは、キリストと共に死んだ。キリストは、ご自分こそが人にとっての最終的な解決であり、避難所であることを示されたのである。問題に遭う時、あちらこちらへ逃げていくのではなく、あの手この手を講じようとするのでもなく、自分のもとへ来なさい、そこに最終的な解決があるから、と主は言われたのである。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30) 

 これは、苦労している人たちが、教会の門をくぐって、毎週の日曜礼拝に集って涙ながらに祈るべきだとか、牧師や神父のカウンセリングに早急に予約すべきだという意味ではない。文字通り、重荷を背負っている人たちは、キリストのおられる場所へただ行きなさいということを意味している。それは見える教会のことではなく、あれやこれやの地上的な場所のことでもなく、キリストという目に見えない場のことである。目に見える教会に所属していながら、キリストのもとにいない人々も存在するが、それでは本末転倒である。
 家庭内問題で苦しんでいる人たちにも、逃れ場はただ一つしかない。家庭の外に行けば、私たちの逃れ場があると安易に考えるべきではない。(もちろん、私たちが御心によって危険な場所から連れ出される場合はあるのだが。)忘れてはならないのは、対策が私たちを救うのではないということ、私たちにとってのまことの避難所は、ただキリストだけだということである。

 続きは次回にしよう。


 


血肉に対する戦いではなく…

音楽について少し付け足そう。ある時期、音楽は確かに私にとって偶像だった。そして主は驚くべき方法で私の偶像を処分された。
 だから、今、私が持っている音楽は、かつての偶像としての音楽ではない。主によって取り上げられて、そして聖別され、以前とは違う形に変えられて、私の手に返されたものである。

 私の人生でいくつか偶像だったものがある。第一は友人、第二は音楽だ。第一について言うならば、大学時代に出会った友人が、かなり長い間、私の心の偶像となっていた。それは私が家庭内の問題で悩んでいた時期であり、人に頼りたいという甘えが随分、心を支配していた時期だった。その頃、私は孤独と真正面から向き合う術を知らなかったし、そうなることを恐れていた。ちょうど教会に幻滅していた時期であり、苦しみから逃れるために、神ではなく人に頼った。
 だが、その友人はある条件を見れば、主が私に遣わしたのでないことは明らかであった。にも関わらず、この世に対する未練ゆえに、私はその友人を手放さなかった。そして、ついに、友人は劇的な形で私との信頼関係を裏切って去って行った。結果的には、主が彼を私から取り上げられ、私の偶像を打ち砕いて、偶像に信頼していた私に恥をかかせたのである。もし私がもっと早く、御心に従っていれば、すべては違った結果となっていただろう。

 その間にも、第二の偶像として、音楽が私の心を支配していた。私は音楽家ではないが、子供の頃から、音楽に携わり、並大抵でないくらい、音楽に憧れていた。だが、ちょうど第一の偶像が粉砕された直後、第二の偶像も粉砕されることになった。私は教会である音楽家に出会ったが、その出会いは私に何一つ有益なものをもたらさなかった。私が音楽というものに対して持っていた自分勝手な憧れと夢、野望と呼んだ方が良いヴィジョンは、その出来事を通して粉みじんにされた。

 今、私の手に再び戻って来ている音楽は、神によって取り上げられ、聖別されて返されたものである。それは以前と同じように見えるが、もはや以前のものではない。私を喜ばせるためではなく、もっと別のことのために存在している音楽だ。もちろん、私自身もそれによって恵まれているし、大きな喜びを得てはいるのだが、それは以前のような形ではない。以前は自分を感覚的に楽しませてくれる曲だけをひたすら追い求め、自分のために演奏の機会を求めていた。自分を喜ばせるために曲を書き、自分のために音楽が存在しているのだと思っていた。

 しかし、今は、音楽の中にも、主の御心、清さ、そういうものを追い求めるようになった。音楽の中にも、良いものとそうでないものがあり、また演奏の中にも、良いものと、そうでないものがあることが分かる。そして何より、装置としての音楽の危険性を感じるようになった。だから、時々、私の演奏を主に捧げますと、弾く前に祈ることがある。また、私がどれほど練習を積もうと、何を夢見ようと、主が許されない限り、私には今もこれからも、人前で弾くことは絶対にできないということが分かった。

 かつて小さな演奏会程度でよいから、自分の演奏を人前で披露する機会が欲しいと随分、願ったものだった。協奏という形でそれができないかと何度も願った。しかし、明らかに、主は私の野心を押しとどめられた。主は私がそういう場に立つことを一切、お許しにならなかった。これからもお許しにはならないかも知れない。ここには何か隠された意味があるように思う。

 舞台というものは、牧師の講壇もそうだが、そこに立って脚光を浴びる人の心理を狂わせるような魔力を持っている。舞台演奏家や、ショービジネスの世界に生きる人々がどのような私生活を送っているか想像してみればよい。それは舞台人の世界には必ず働く誘惑を示している。ある種の人間は、舞台というものが持つ誘惑に決して打ち勝てないがゆえに、そこには絶対に立つべきではないのかも知れない。

 だから、もし人前で弾かないことが御心ならば、それで良いと思う。私の音楽は、もはや私自身の満足のために存在しているのではないので、脚光を浴びようと浴びなかろうと、評価されようとされなかろうと、評価の水準に達しようと達しまいと、それはもうどうでも良い。何のために弾き続けているのかよく分からないが、日々の練習には平安があるのだから、地道に進んで行けばよいことである。日々の練習の中で出会う様々な楽曲は、私の内面を豊かにしてくれ、私の生活に喜びをもたらしてくれる。ただそれだけである。

 こうして私の生活の中からあらゆる偶像が取り除かれ、粉みじんに粉砕された後、それまでになかった展開が人生に起こるようになった。ああ、明らかに、主は私の音楽を違うものへと変えられようとしているのだな、これはもう私のものではなくなりつつあるのだな、と感じさせられる瞬間があった。

 同様に、このブログもそうだが、今、次第に私の人生が私のものでなくなりつつあるような実感がある。ある人は、私がこのブログを書き続けているのを、実生活を放棄しているがゆえの逃避行動だと嘲笑うかも知れない。ネット上の生活がメインになっており、現実を生きていないのだと。しかし、その非難はあたらないだろう。

 ある時、私がこのブログを信仰告白だと言ったのを読者は覚えておられるだろうか。それ以来、恐ろしいくらいに、私は四方八方から観察されているように感じている。人から、というよりも、主から観察されているのだ。私は本来、創作が大好きで、皮肉や悪ふざけに満ちた文章や、フィクションを書くのが好きなのだが、ここに創作を書いて人の注目を集めることはできない。私はここで真実を語らなければならない。誠実でなければならない。私はここでは創作家になってはならず、どこまでも信徒でなければならない。
 従って、たとえ実生活でどんなに滑稽で惨めな日々を送っていたとしても、見せ物になるのは嫌だと言って、本心を偽ることはできない。どんな時にも、あるがままで主を見上げるようにしなければならない。私はキリストのための愚者とならなければならなかった。

「神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かなものとなり<…>わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(Ⅰコリント4:13)

 正直なところ、私も自分を「この世のちり」、「人間のくず」と感じる瞬間が多々あった。そんな時、これ以上、自分を愚者として、見せ物として心傷つけられたくないと心から思った。私は自分の心の痛みをほんの少しだけ打ち明けるといった芸当がもともとできない性質なので、書くときはすべてを書いてしまう。だが、みっともなく、惨めな思いをして、悲しんだり、打ちひしがれているとき、そのことを赤裸々に書くのは嫌なことであった。

 しかし、主は、私が正直に誠実にあるがままのことを書きながら、悩みと苦しみの中にあっても、主を証していくことを選び取る時に、思いもかけない恵みを常に与えて下さった。主は信じる者に惨めな思いをさせて恥をかかせるだけでは絶対に終わらせないということが分かった。そこで、私は自分の心を守ろうとすることよりも、真理を証することの方が大切であることを知った。
「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネ12:25)

 ところで、今、私の最大の懸念事項となっていることが何であるかを、そろそろ書きたいと思う。そのことについて兄弟姉妹たちの祈りが必要だからでもあるし、このことをこれ以上、一般に語らずに、特定の人々だけに助言を求めるのが良くないと感じるからである。どうして私はハンナのような涙に満ちた祈りを捧げねばならないのか。それは、私の信仰が薄いせいだとはどうか思わないで欲しい。私が家人からいわれなく憎まれて、存在の場を奪われているためである。
 家人の名誉のためと思って、このことを告白するのは今まで控えて来た。また、被害者意識から抜け出せないでいるなどと人から責められるのもこりごりだったので、語りたいと思う話題でもなかった。しかし、そろそろ語っても良い時が訪れたように思う。

 キリストがいわれなく憎まれたのと同じく、キリスト者もいわれなく世から憎まれても何の不思議もないことは、聖書に書かれている。我が家で起こったのはまさに聖書が予告している出来事であった。
「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。」(ヨハネ15:18)
「しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。<…>あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」(ルカ21:16-19)
「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29) 

 私は幼い日にキリストを信じた瞬間に、父母双方からの愛をほぼ完全に失った。以来、彼ら双方から憎まれ、人生のあらゆる成功を妨害され、蔑まれ、嫌われる存在となってしまった。洗礼を受けることを父に告白したその日は、生涯で忘れられない悲惨な一日となったが、それは同時に、キリスト者を名乗っていた母からも見放された日となった。
 こういうことは、カルト的な宗教にのめりこんでいる家庭では決して珍しい現象ではないことを断っておきたい。宗教は我が家の成員をバラバラに引き裂き、さんざん悲劇を生み出す根源となった。我が家では、私が幼い時分から、まことのキリスト者に対する迫害がずっと続いていた。本当のことを言うならば、はっきりとキリストを信じるより以前から、その迫害は始まっていたのだが…。
 同じ信仰を持っているはずなのに、憎み合うことしかできない。信仰を我が家に持ち込んだ者が、まことの信仰者を迫害するのである。この支離滅裂は説明のしようがない。私の年下のきょうだいたちも教会で信仰を持ったが、今はそこから離れている。あまりにも悲しい出来事がありすぎたから、仕方がないとも言える。だが、それこそが迫害の真の目的だったのだ。つまり、私たちをキリストの愛から引き離して、人生をむなしく失わせることが敵の狙いだったのである。

 両親はそれぞれ異なる宗教観を持ち、観念的には対立しているにも関わらず、どういうわけか、霊的には一致してキリスト者となった子供たちを迫害してきた。今、私が両親、特に父から受けている憎しみにはすさまじいものがある。先日、一触即発の危機的な事態が展開されたが、もう2,3回そのようなことが起これば、誰かが大怪我を負わずには済まないだろうと感じた。本当にこれが私の父だろうかと、表情を見て疑う。それほど、彼には情けというものが感じられなくなってきている。年々、それはひどくなっている。彼が我が子をそれほどまでに憎んでいるとは信じがたいが、それは事実である。今はかろうじて、まだ私であることを認識してくれて手加減しているとはいえ、この感情がそのまま進んで行くと、殺人に至る危険さえある(すでに精神的には数え切れない回数、殺されているのだ)。

 父がこれまで私のピアノはおろか、私の手がけた一切の仕事をずっと快く思っていなかったのはよく知っている。だが、これほど憎まれるに至っては、もはや我が家ではピアノどころではない。父のいるところで食事をすることもできない。そこで、彼を避けて、隠れ、存在していないかのようにして生きていくことしかできない。きょうだいもそうして暮らし、ついに耐え難い気持ちのまま家を去って行った。父は私の存在を今からすでに無いものとして扱っており、そもそも私の生存を願う温かい気持ちが一切、彼の中に存在していないことは明白である。

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。」(ヨハネ8:44)

 こんな御言葉を自分の親に重ねて見なければならないとは、何ともやりきれないことだが、これが偽りのない事実である。人の同情を乞いたいがゆえにこんなことを言っているのではない。両親の罪を告発するためでもない。私の両親はかの者に恐るべき影響を受けて操られているだけである。今まで、理解できない親の仕打ちにどう対処すべきか分からなかったがゆえに、ただ悲しんだり、苦しんだりしながら、抵抗し、愛されなかったことに深く傷つき、自分の落ち度ゆえにそうなったのではないかと恐れ、悩み、関係を修復するためにあらん限りの知恵を振り絞って努力してきた。そして、安心して生きられる場所をどこにも持たないことに苦しんできた。

 だが、今、これは気持ちの問題ではないということを確かに感じる。あらゆる感傷を越えて、敵に対してきっちり向き合う必要があると感じる。敵は個々の誰それではなく、サタンである。退却するとか、逃げるとか、そういう選択肢をいつまでも取るだけで、対決を避け、敵に打ち勝つということをしなければ、その戦いはいつまでも続くのだ。そのことが徐々にはっきりと分かって来た。
 私は両親を憎んではいないし、両親の変容のことでそれほどまでに悲しんでもいない。憎むべきは人ではなく、その背後にいて人を操っているサタンだ。

 恐らく、サタンの玉座のようなものが、我が家の中に気づかない昔からもうけられていたのだろう。だが、悪鬼に対して、毅然と立ち上がるべき時が来た。彼が私についてあることないことさんざん告発して私を苦しめ続け、私をみなし子にまでおとしめてきたように、私も彼の罪とがをあらん限り、主の御前で告発し、早急に彼が成敗され、敗北し、何重にも呪われて、打ち捨てられることを求めよう。もちろん、どんなことがあっても、最後まで耐え忍ぶことは必要であるが。カルトとの戦いよりも、こちらの戦いの方が、本当は、私にとっては最初からより重要かつ深刻であった。

「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 恐らく、戦いはこれから本番を迎えるのだろう。今後、何が起こるのだろうか。
 戦いに臨む上で、次の御言葉も助けになる。主は言われた、「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」(ヨハネ12:26)
 「わたしのおる所」とはどこか。神がキリストに与えられた絶大な権威を見てみよう。

「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:20-23)

 心から主に従って行こうとする者たちの命は、ただ神のうちに隠されているだけではない。キリストのおられる御座の高みに引き上げられ、キリストの権威と共にあるのである。それは万物を足の下に従わせる権威である。生きた人間が、その前で何の力を持つだろうか。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25-26)

 悪しき日にあって、これ以上、敗北し続けるわけにはいかない。心を新たにして、御霊によって祈り、二度と敵の策略に陥ることがないように、目を覚まして祈っていよう。もし心ある兄弟姉妹がおられるなら、この問題について、私が二度と敗北せずに済むよう、心を合わせて祈って欲しい。