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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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十字架における自己の死と復活

なぜ今まで気づかなかったのだろう。十字架経由で自己の死を経たということは、復活したということでもあったのだ。この素晴らしい恵みを直接体験していたにも関わらず、今まで気づいていなかったとは!

 8月の初めに、記事の中で、私はあるキリスト者との語らいについてこう書いた。

「いかにイエスの十字架が軽いといえども、この状況では、苦しくて音をあげたくなる時があります。永久に私はこのままなのだろうか、そんなことには耐えられない、何とかして名誉挽回したいし、人並みに楽しんで幸福な人生を生きていきたい<…>と思わずにいられないのです…。人からどんなに蔑まれ、どんなに貧しく、どんなに惨めな境遇にあったとしても、ただ黙って耐え続けるのが十字架なのでしょうか?」と私。

「気持ちは分かりますよ、でも、そこで自分をごまかして、つまり、自己弁護しようとしてはいけません。サタンは私たちが肉なる自己にしがみつき、肉を立てようとするのを待っているのです。けれども、キリストにならう道とは、馬鹿にされ、誤解され、あざけられ、軽蔑される道なのです。私たちは肉体を持っているとはいえ、すでに肉に死んでいます。私たちの命はすでに死んで、キリストと共に神のうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。神のうちに隠されている、これはいわば、墓の向こうで生きるようなものなのですよ。」

「それじゃあ、私はすでにこの世とは別次元で生きているようなものだということですね。だから、この世からはたとえ死人のようにみなされていても仕方がないし、むしろそうあって普通なのだと」
「そうです、この世に対しては死んで、隠された命を生きているのです。自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」

 会話は、キリスト者はイエスにならって、十字架、死、復活、キリストと共に御座につくこと、それらを経験しなければならないという運びになった。私は自分の名誉回復をいまだに願ったりしている時点で、本当の意味では自己の死さえ完了していないのかも知れない。<…>

 また、私たちの戦いは血肉に対するものではない、だから、真の敵は人間ではないということが、歩みを進めるに従って、もっとはっきりと分かって来るだろう、との話であった。そうなれば、もはや肉なる人間に対する憎しみや恨み、怒りなども、持ちようがなくなってくるのだと。


 この記事を書いた当初、交わりで交わされていた言葉が、今、成就したのだということが分かる。私は今初めて、自己の死と復活を身を持って体験したのである。
 「自己の死」について、Dr.Lukeの説明を改めて引用することによって、この出来事を振り返りたい。

「…人は自分の意志を完全に放棄することはできません。なぜなら、元々人は悪魔によって『神のようになれる』という誘惑を受け、それに従った結果、堕落に陥ったからです<…>

そこで人は外界と適当な折り合いをつけながらも、手練手管を用いて、最後には自己の意志を通すことを学びます。このために教育や自己啓発によって魂(特に知性)を発達させるのです。これが社会に適応する形で表現されれば、例えば有能な経営者として手腕を発揮し、これが社会に適応し得ない屈折した形で表現されるとカルトの教祖ともなり得るわけです。<…>

それに対して、イエスは自己の意志を通し、それを自ら実現させることを一切排除されました:『わたしは父が行うことを見て、その通りをおこなうのである』、『わたしの言葉は父の言葉である』と。彼はあらゆる状況を自らの有利になるようにコントロールされませんでした。イエスの生き方の特徴は、御父に対する愛と信仰によって、完全に御父に頼り、御父の意志を行ったことです。すなわち、『自己における死』とは、主に私たち自身の意志の取り扱い方において、具体的に表現されます。

このことを学ぶ機会を得させるために、神は時に私たちを私たちから見ると過酷とも見える環境・状況に導かれることがあります。その中にあっては、それまで自己の思いのままにコントロールできていた対象が一つ一つ奪い取られ、すべての事柄が自分の手中から落ちて行ってしまうように感じられます。まったく自分の意志を通すことのできない、自らの方法や策略によって事態を収拾できない、そういう状況を私たちに対して、神は必ずある明確な時期において備えられます。イエスですら、十字架の死という自分ではどうしようもない状況に置かれたのです。

このような期間において私たちに残されるのは、ただ私と主との祈りによる交わりだけです。他の対象において自分自身の存在の保証、自分のアイデンティティーを担保を期待することは100%不可能です。私の存在の保証とアイデンティティーを担保して下さるのは、ただ天地を造られた神のみです!『わが救いはどこから来るのか、天地を造られた主から来る』(詩篇)とある通りです。<…>

多分、私は感覚としてそれを感じることはできません。しかし信仰は知っています。私に残されているのは、ただ御霊による復活なのです!イエスは死に入られ、3日目に復活させられました。そのイエスを甦らせた神の力が私たち信じる者のうちにも働いているのです。その時こそ、私の意志ではなく、神の意志が実現され、神へと感謝と賛美、そして栄光が帰されるのです!神の御業が最も顕著に、かつ明確になされるのは、私たちが自己努力でもがくことなく、自己にあって死ぬ瞬間、すなわち自己の意志が無とされる時です。自己の死は、誰の意志が優先されるか、という点において明確に識別し得ます。それは私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか・・・」

 今から振り返ると、不思議なほどその通りなのである。私は十字架で自己の死を経るまでには、自分がガス室に向かっているような感覚を絶えず持っていた。その時、私に見えていた十字架とは、反人間的なものであり、私を殺そうとする脅威のように思われた。そして、私の自己は、この暗い予感の通りに、まるで車の衝突実験に見られるように、時速何百キロというスピードで、十字架という壁に向かって突っこんで行った、そして、見事にクラッシュして、私は帰らぬ人となった。
 一つの事件を通して、私の自己は砕け散り、私は自分が死んだと思った…。私の生きる意欲、生きたいという願い、幸せになりたいという願いの全てが、微塵に砕け散った瞬間だった。

 だが、死んだと思った私は、十字架を経由して、まだ生きていることを知った。初めは、自分の命が奇跡によって救われたのだと思った。しかし徐々に、そうではないことが分かって来た。いや、奇跡は私が思ったよりなお素晴らしいものだったのである。私は確かに死んで、自己に死んで、復活したのだということ、この世に復活したのではなく、この世に対して死に、御霊によって、キリストの命を得て復活にあずかったということが分かってきたのである。

 なぜそれが分かるかと言えば、今、私を生かしているのが「私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか」という違いがはっきりしているからである。すなわち、十字架の死を経るまでは、私は自己保存の法則に従って生きていた。この世で何とかして自分を生かそうという思い、他人を生かしたいとの思いが、私の人生目的の全てであった。神は私たちの生存を手助けした上で、永遠の命へと導いてくれる存在としか見えていなかった。たとえ御言葉を語り、神の栄光について語っている時でさえも、私は自分を起点にして話していた。

 ところが、今や、私は「神の意志が何であるか」ということを起点にしか、物事を考えることができなくなりつつあるのだ(まだこの学習は完全ではないとはいえ)。

 ここ数日、私は、世界が幾度、滅んだとしても、主のご計画は絶対に変わらないという安心感の中に生きていた。こうした表現は、一見、世界の価値、人の生命の価値を何とも思っていないかの発言に聞こえるだろう。

 しかし、それを通して、私が真に言いたかったことはただ一つ、すなわち、私はもはや古き人の情の世界に生きていないということである。私はこの世に対して死んで、この世も私に対して死んだので、私は、肉なる人を救おうとする人情が最高の価値を持っているこの世の価値観に対して死んでしまったのである。

 人情から解放されると、一見、この世に無関心で、人に対して冷たくなったように見られることがあるかも知れない。しかし、そうではないのだ。自分自身で直接、人を救おうと焦ることがなくなった代わりに、神の御心が人を救うものであることを知っているので、神を経由することによって、人を愛し、神のご計画の中で、人の救いを手助けしていくことができるようになるのである。それは情の上で人を愛するということではなく、むしろ、神のご計画の一端を担いながら、それによって、人を愛するということなのである。

 十字架上で自分が崩壊してからというもの、自分の考えで人を救い、人の苦痛を少しでも減らすことを最善と考える「人に優しい生き方」が、私にとって、一切の価値を失った。そして、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19-20)という御言葉が、本当に私の中で、はっきりした形で理解できるようになったのである。

 これを上手く説明するのは難しいだろう。「千と千尋の神隠し」という映画の中で、主人公の千尋が廃墟と化したテーマパーク(?)にいるうちに、夜を迎えてしまい、元の現実世界に戻ろうと思っても、河に隔てられて帰れなくなってしまう場面があるが、それに似ているかも知れない。

 あの場面に登場する河は、此岸と彼岸とを隔てる、三途の河のようなものを象徴している。それにもよく似て、自己に死んだキリスト者と、この世との間には、十字架なしには渡れない何らかの深い隔てがあり、十字架の死と復活を経由して、御霊の法則の支配する世界に移されたキリスト者は、この世をまるで対岸にあるもののように眺めており、そこに帰ることがもはやできないのである。私たちは、深い淵の中を、信仰の小船に乗って進んでいる。向こう岸にあるこの世の明かりはますます遠ざかるばかりで、二度と私たちはそこへ戻ることはない。新しい旅路が始まっており、向かう先はまだよく分からないが、栄光に満ちた御国が行く手にあることがはっきりしており、この小船の船頭はイエス・キリストである。この世の絶えざる苦労の中に生きていた頃の自分が、すでに死んで昔のものとなってしまったことが分かる。

 今生きている世界で、私を生かしている法則は、「主は何を望まれるのか」ということに尽きる。実際には、私はまだこの世に生きているのだが、それにも関わらず、もはやこの世と隔絶したところに生きており、自己保存の法則ではなく、御心を第一とする法則に支配されて、この世から隠されて生きている。
 「自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」との言葉通り、肉なる私は死んで十字架につけられたままこの世での生命を終え、今生きているのは、キリストによって復活させられた私、キリストの命を生きている私なのである。
 多分、どう説明したところで、分からない人には分かってもらえそうにない気がするが、これが、私が十字架において自己の死と復活とを経由したということの拙い説明である。

 もちろん、このような自己の死というものは、恐らく一度限りでは終わらないだろう。私にはさらに砕かれる必要があるだろうと思う。だが、これほど大がかりで、しかも、はっきりした形でそれを理解させられたのは、私にとっては初めてのことであった。大昔にバプテスマを受けながらも、私は自己に死ぬことを(経験的に)知らなかったのだ。今、これほど明確に、自己に死に、復活するとは何かを主が私に教えて下さったことを嬉しく思う。さて、「死と復活の原則について」から引用。

 「私たちのうちには聖霊によって神の命が種の形で蒔かれています。神の命の遺伝子が組み込まれているのです。これは自分が感じようと感じまいと事実です。なぜなら聖書が信じる者は永遠の命を持つと言っているからです。問題はその命が私たちの自我という固い殻に覆われていて、その命の現れが見えて来ないことです。私たちの生まれつきの魂は、自らの意志を通し、自らの思いを守り、自らの感情に傷を受けまいとします。すなわち、私たちは魂の本質的性向として『自己保存』という強い欲求を持っています。<…>自我(魂)は自己の保存を意識的にせよ、無意識的にせよ、第一に求めるのです。

一方、神が求めておられるのは、私たちの内の神の命が、私たちを通して表現されることです(注)。そのためにはどうしても私たちの自我(魂)という硬い殻が一旦破られる必要があるのです。内に閉じ込められた命を解放するためにどうしても必要な過程です。これが私たちの『自己における死』です。」

 何のために自己の死を経る必要があるのか。それは一粒の麦が地に落ちて多くの実を結ぶためである。命の川、生ける水の川々が私たちの自我の殻を打ち破って、隔てなく、よどみなく外へ向かって流れ出るためである。そうやって、神の栄光が私たちを通して、よどみなく現されるためである。
 さらに、自己に死ぬとは、私たち自身のためでもあると、私は思う。自己に死ぬまでの過程は、肉の存在である私たちにとっては、かなり苦しいものであるかも知れないが、一旦、自己の死を経ると、私たち自身が、罪と死の法則性から解放されて、圧倒的な自由を得るのである。

 人間は、神を誉めたたえるために創造された。自分自身を生かすために生存するのでなく、神の栄光のために生きることこそが、人間にとって本来の最も自然なあるべき姿である。従って、自己に死んで、キリストの命を生きるようになる時、私たち人間は、最もあるべき姿、自然な姿、神が本来私たちをかくあれかしと創造された姿へと回復されていくのである。

「見よ、わたしは新しい事をなす。
 やがてそれは起る、
 あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、
 さばくに川を流れさせる。<…>
 この民は、わが誉を述べさせるために
 わたしが自分のために造ったものである。」(イザヤ43:19,21)
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キリスト経由でいただく命

キリスト者は、主の御霊によって導かれて生きているのであって、その命はキリストと共に神のうちに隠されている、私たちは、この世に対しては死んでおり、もはや自分の肉に対して生きる責任を負ってはいない、ということを、たとえば私はどんな瞬間に感じるだろうか?

 答え: ご飯をちゃんと食べられている時に感じる。

 そのご飯が、主が備えて下さっているものであることが分かるからである。私は蒔かなかった、だから、本来、刈り取る資格のないものをいただいている。主は一羽の雀を生かすように、わたしを生かしていて下さる。さらには、これまで私の生存に無関心だった人が、私のために食事を備えてくれていたりするの目にするのは、本当に奇跡を見るようである。
 エリヤを養われたように、神は、今、私をも養ってくださるのだなあと実感して、感無量だ。これまで食事は大きな問題であった。だが、今は、私の命が尽きることがないように、神ご自身が心配して下さっているのだと考えることは、本当に喜びである。

 答え: 絆創膏が用意されている時に感じる。

 傷を覆う絆創膏が尽きた。さて、ではどうしよう、と思う時に、まず祈る。すると、誰かが頼みもしないのに、すでに何かを用意してくれているのである。やはり感動である。

 こんな風にして、日常生活の具体的必要の全てを、何もかも、祈りによって主に願い求める。すると、本当に、私の命を支えているのが主であるという事実が、生活を通して、分かって来るのだ。今まで、肉にあって自分を支えようとひたすらあくせくし、失敗したり、不足してきた様々なことが、こんなにしてもらって良いのだろうかと思うほどに、主によって備えられていることを知る。

 この一歩、一歩を通して信頼を学んでいくのが大切だろう。よちよち歩きの子供が、親の手にすがって歩くようなものだ。神が本当に根気強く、また気前よく、人の面倒を見て下さる方であることを学ばせてもらっている。今は、見えない主の御手に思い切りよりすがろう。

 世界がたとえどんな混乱に見舞われようとも、キリスト者にだけは関係がないと信じられるほどの安心。こんな安心は、これまで味わったことはなかった。
 キリストの十字架を信じ、御霊に導かれて生きることができれば、人生はこんなにも楽になるのだ。世に対して死ぬまでは、かなり厳しい道のりだったが、世に対して死んでしまってからは、楽になった。不思議なことである。

 主がよくして下さったことを何一つ忘れるな!


この世は私に対して十字架につけられ…

私は岡山の地がとても好きだ。長く関西に住んでいると、瀬戸内海沿岸の穏やかな気候に、心も身体もなじんでくる。この静かな田舎町にいると、いつまでも心穏やかに、健康に生きられそうな気がする。
 季節ごとに花々が咲き乱れ、米も野菜も豊富に収穫され、台風も冷害も地震もない穏やかな土地。もしも、何の問題もなかったならば、年老いるまで、ずっとここに住み続けるのも悪くない。

 けれども、それはいかにも人間的な考えである。もしも主が私について違ったご計画をお持ちならば、私は移動すべきである。失業率もますます高まっているようで、先行きが明るいとはお世辞にも言えないが、このような時だからこそ、今以上にさらに良いものが行く手に準備されていることを信じたい。神は憐れみ深い方であり、神のご計画の素晴らしさを、私たちは生きるごとにさらに深く味わうことができる。
 主とは、そのようなお方である。

 神のご計画には、後退するということは決してない。従って、神を信じて従う者たちには、生きるごとに、主のご計画の完全さ、素晴らしさ、醍醐味をリアル・タイムで味わうことができる幸せが与えられている。私もその幸いな一人である。

 さて、以下の記事で、私が反戦運動に関心がなくなったことについて書いたが、その意味について誤解が生じることのないよう、説明を補足しておきたい。

 最近、特に分かったことがある。それは、人間の道徳や、宗教、思いやり、愛、義理人情…などを含めて、人間から出て来るあらゆる「良かれ」という気持ちほど、神の御心に最も悪質に敵対する曲者はない、ということである。
 言い換えるならば、神なき世界(=サタンに支配されるこの世)を救おうとして、人間の中に生まれる各種の考えは、人間から見ればまことに道徳的で、立派な考えに思われるのだが、そのほとんどは、御心に悪質に反するものだということである。

 私たちはいつでも、自分の命を死から救うことを何よりも第一に考える。それは人間に染み付いた習性であり、本能である。その本能に基づいて、私たちは自分と同様に、大切な身近な人の命をも、死から救い出したいと考える。それこそが善であり、思いやりであり、愛だと、私たちは思い込んで生きている。

 人間の狭い考えの中では、我と他者がこの地球上で平和に生き延びられるようにすることこそが、最高の善である。愛とは、私たち人類が皆、できるだけ苦痛を減らして、平和に、生き延びられる可能性を、互いが作り出そうとする願いや努力とされている。従って、人間の考える罪とは、人間の生存を脅かす諸行為のことである。

 しかし、神の御心は、そのような人間の生命だけを中心にする狭い考えとは決定的に異なっている。聖書の定める罪とは、人間の生存を脅かす諸々の行為のことではなく、何よりもまず、神に背く行為を指す。人間にとっての最善が、究極的には、人間のこの世での命を守ろうとするものであるならば、神の最善とは、たとえ人間のこの世での命が脅威にさらされたとしても(あるいは死ぬとしても)、ただキリストとの一致の中で、人に永遠の命を与えようとするご計画である。

 従って、人間の考える罪や愛の概念と、聖書の想定する罪、愛の概念が決定的に異なっていることをまず私たちは知らねばならない。その区別ができていなければ、クリスチャンは、恐ろしい誤謬に落ち込んでしまいかねない。
 今日、カルト化教会などでは、聖書の説く「隣人愛」とは何かを知らないがための悲劇が絶えない。「隣人愛」の概念を悪用して、指導者が「日本のリバイバルのために」、弟子を過剰なまでの奉仕に駆り立て、極貧の生活を送らせたりする例がある。「隣人愛」を口実に、教会の中で過剰な奉仕や献金を要求され、人生を不当に奪われている信徒たちはかなりの数、存在するだろう。

 このような罠にはまってしまうのは、私たちが、聖書の説く愛が、人の考える愛とどう異なっているかを知らないためである。一言で言うならば、神の愛を、人間に都合の良い愛や、義理人情とすりかえ、神の御心の代わりに、この世を救おうとする人間の「良かれ」という計画や理論を、最高の善としてしまうためである。そして、そのように人間の考え出した教えや計画に背くことを「罪」だと教えるためである。

 人間にとっての最高の善とは、自分の肉体や世界を滅びから救い、できるだけ人類が平和に調和して長く生き永らえることであろう。しかしそのようにして、人間が十字架によらず、自分自身の肉体をも含めて、この世全体を救おうとする思いは、神のご計画とは根本的に異なっている。
 Dr.Lukeの記事「この世」から抜粋しよう。

「『この世』とは、神に対立してサタンによって確立された一種の霊的体系を指します。例えば、宗教・哲学・科学などは一見人の目にとっては高貴なものであって、問題はないかのように見えますが、真の神であるの御言葉や価値観に対立しているとすれば、神の目から見れば良しとされません(例えば進化論を考えて下さい)。むしろそれらはもっともらしい装いによって真の神を見えなくすることにおいては、単なる罪の享楽よりも、狡猾なサタンの欺きと言えます。

すなわち、『この世』とは、真の神であると私たちの間に立ちふさがり、私たちの信仰を破壊し、神との交わりを絶ってしまうあらゆる要素を含んだサタンによって組織された一つの霊的体系と定義されます。したがって人間的価値判断による善か悪かということから切り離して考えないと、『この世』を霊的文脈において正しく評価し、それに適切に対処する際に、混乱や誤りを生じることになります。あくまでも神の目から神の御言葉に基準を置いて判断する必要があります。」

 私たちが自分の生命だけを基準にして、何が正義であるかを考え、自分や他人を肉体的滅びから救うことをこそ善であり、愛だと考えているうちは、私たちは、聖書の御言葉を基準にして、何が罪であり、何が愛であるかを正確に理解することは決してできないままに終わるだろう。聖書の説く愛とは、この世や、この世における人の命を可能な限り、苦痛なしに生きながらえさせようとするあれやこれやの対策ではないのである。

 話を進めよう。聖書の説く隣人愛を考える上で、何よりも、クリスチャンの出発点となるべきは、人類はそのままでは神の御前に皆、立ち果せず、死に絶えるべき存在である、という事実である。これはショッキングな事実であるが、真実である。

 「それを食べれば必ず死ぬ」と言われた実を取って食べたアダムは、自ら、死すべき運命を選んだ。そのアダムとエバの堕落以降、肉なるもの、目に見えるものは(被造物の全てがそこに含まれるのだが)、全て人類の罪のために呪われてしまった。
 そのため、やがて来る神の永遠の御国は、今の堕落した世界の上には建設できない。御国が到来する前に、見える世界は全て滅びなければならない。今、私たちの住む世界全体は、人類の罪のために、まさに滅びへと向かっているのであり、その運命は私たちが変えられるものではない、いや、私たちこそが父祖アダムと共にそれを自ら選んだのだと言えよう。

 人間は神に背いた時点で、死すべき存在となり、この地上で平和に生きる生存権を失った。(サタンは最後まで人間の生命を取ろうとして、執拗に人間を脅かし続ける。それでも、人が生きているのは、ひとえに神の憐れみによる。)

 だから、たとえ私たちが今、声を大にして平和運動を展開したとしても、世界を救うにはもう遅いのである。どれほど医学が進歩し、科学技術が進歩したとしても、どれほど政治情勢が良くなったとしても、束の間、平和が訪れることはあるかも知れないが、肉なるものとしての人類と、旧創造に属する被造物全体の滅びを阻止することは私たちにはできない。

 黙示録の記述は、私たちの住んでいる地球そのものが、いずれ荒廃した場所へと変わるだろうことを示している。イエスご自身が、戦争、飢饉、地震の噂を聞くであろうと警告されたことを思い出したい。その噂を通して、私たちは、今、終末がそこまで近づいていることをすでに感じ取っている。
 聖書を素直に読むならば、この先、人類を待っている未来が暗黒であり、絶望だけがそこにあるということが分かるだろう。

 では、そんな中で、私たちクリスチャンがなすべきことは何であろうか? 核廃絶を訴えること? 反戦運動を繰り広げること? 地雷撤廃運動に参加すること? 温暖化防止に努めること? 平和運動を進めること?
 いや、これらの「良かれ」と思われる全ての運動には、キリストの命がないことを私たちは知っている。

 幾度も繰り返してきたように、戦争も、争いも、搾取も、対立も、人類の罪から出て来るのであり、人類の罪を浄化する力は人間にはない。従って、人類救済のために打ち出される全ての運動、計画が、それらを阻止することができないままに、無効に終わってきたのである。

 イエスの十字架による罪の贖いを受け取らないままで、人類が、自らの力によって、人類を救おうとする試みは、キリストを抜きにした人類の自己救済の道であり、それは御心から出たものではない。ここには人間が善意によって作り出すあらゆる運動や活動も含まれている。クリスチャンは、罪と死の法則に支配されている人類を救済しようとする一切の組織的な運動や活動が、全て虚しく終わることを知っている。
 だが、それでは、クリスチャンは何をすれば良いのか。絶望のうちに手をこまねいて、人類の破滅を待つべきなのか? まさかそうではない。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」(ローマ8:1-2)

 滅びへと向かうこの地上世界にあって、唯一滅びないもの、永遠へ続くものがある。それは地上でキリストの十字架を信じ、水と霊によって生まれ変わったクリスチャンである。私たちの肉体は、まだ「罪の法則の中」(ローマ7:23)に閉じ込められており、肉体の完全な贖いはまだ再臨の時を待たねばならないとはいえ、御霊によって生きることによって、キリスト者はすでにこの罪と死の法則から解放されている。

 従って、滅び行く世界のためにキリスト者が出来ることは何か。それは世界全体を滅びから救うために活動することではない。地上における存在に目を留めて、それらを危機から救うためにナントカ運動に生涯をささげることでもない。目に見えるものを救おうとして奔走することは無駄である。そこで、見えないものに目を留めることこそ、重要である。
 ちょうど、ノアが神のご計画に従って、愛する者たちを箱舟の中に避難させたように、私たちは見える世界に住んでいる人たちを、滅びから救うために、キリストの十字架という箱舟に案内し、見えない世界(朽ちない永遠の世界)へと誘導することができる。

 ここで、個人の体験に話を移すことをお許しいただきたい。私は先日、神のはからいによって、肉体的な死を免れたと信じているが、それでも、同時に、自分が死んだのをはっきりと感じる。
 何を矛盾したことを言っているのかと笑われるかも知れない。これを上手く説明することはできそうにないが、それでも、あえて説明を試みよう。

 以前、カルト化教会で事件に遭遇した時、私は何ヶ月間も、悲しみに暮れて泣き暮らした。そのせいで白髪は増え、表情は人も驚くほどやつれ果て、それが分かった時には、そのせいでさらに悲しんだものだ。
 だが、今、私は、自分が今、負っている怪我についても、何の心配もしていないし、衣食住についても、心配していない。私は自分の肉体に対して死んだ、ということをはっきり感じるからである。主は私に本当の意味では死をくぐらせなかったとはいえ、この事件を通して、私に、肉体に対して死ぬことの意味を学ばせたのである。つまり、この滅び行く肉体が私を生かしているのではなく、御霊が私を生かしているのだという事実を、はっきりと思い知らせたのである。

 さらに、私はこの世に対して死ぬことを学ばせられた。この世にあって、何とか人々と折り合いをつけて、知恵をめぐらして、摩擦を減らして生きて行かなければならないという、あの生存の恐怖と、絶え間ない人間関係の苦労に対して、私は死んだのである。私はぎりぎり限界まで力を振り絞って、自分の生存を確保しようとしてみたが、そこに下されたのは、死刑判決のみであった。そのことを通して、もはやこの世が私を生かしているのではなく、主の霊が私を生かしておられるのだという事実を、神は私にはっきりと伝えられたのである。
 再び、Dr.Lukeの記事からの引用。
 
「そして『この世』からの圧迫と圧力に対して神が用意された策は、『この十字架によって、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられた』(ガラテヤ6:14)とある通り、やはり『この世』に対する死です。十字架は私と『この世』の関係を絶ち切るのです。したがって、私たちはもはや『この世』の価値観によって、あるいは『この世』からの評価を気にして生きる必要はありません(ローマ12:2)。」

 これに加えて、次の御言葉をも引用しよう。
「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」(ローマ8:12-14)

 私はこの御言葉の意味を、今回の事件を通して、理性ではなく、御霊によって、初めて明確に理解させられた。私はこの世に対して死んだのであるから、もはやこの世がどうあろうとも、それと取っ組み合って生きる責任を負わなくてよくなったのである。世界情勢、家族関係、近所づきあい、日本の政治、就職率、不況、…今まではそういった要因を絶えず気にしながら、何とかして、それらと折り合いをつけて、刻一刻と変わる情勢を読みながら生きていくことが、私の自己責任として求められていた。自分の生存に対して自分で責任を負わねばならなかった。しかし、私はそれを全うすることができないまま(元々私は世を生きるにはかなり不器用な人間だったが)、十字架を通して、この世に対して死ぬことによって、ついにそこから免責された。そして、気づくと、自分がこの世とは違った世界に生きていることが分かった。

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちはキリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:1-3)

 確かに、肉体を持っている限り、この世との接点はなくならない。我が国の政治とも、地域社会とも、家族とも、何らかの関わりは続くだろう。しかし、それは薄い膜を一枚、隔てたような関わりであって、真の関わりではない。キリスト者の命は、キリストと共に神のうちに隠されている。従って、この世に対して、私たちは亡き者も同然であり、私たちが生きているのはすでにこの世とは違った永遠に続く世界なのである。だが、私たちがこの世に死んで、御霊によって生きるようになる時、逆説的に、主は私たちがこの世でも生きられるように必要を整えて下さる。だが、そのことは決して、私たちが再びこの世の支配下に置かれるようになったことを意味しない。
 今となっては、私たちが自分の努力によって生存を保っているのではなく、あるいはこの世との良好な関係によって生存を保っているのでもなく、主ご自身が御霊によって私たちを導かれ、私たちの死ぬべき身体があえてこの世で生きながらえることができるようにして下さっているのである。それは私たちがこの地上で神のために果たすべき仕事を全うすことができるためである。

 だから、私は反戦運動を含めて、この世を存続させようとするあらゆる運動や試みに、関心が持てなくなった。それらは全て、地上にあるものを何とかしてそのままで(十字架を経由することなく)存続させたいという人間の願いから出て来るものだからである。

 キリスト者は知っている。水と霊によって生まれなければ、誰一人、滅びから救われることはないのだと。たとえ全世界をもうけても、まことの命を損じたら、無意味であると。私たちがどんなに努力したところで、一人の隣人も死から救うことはできない。いや、一人、二人の命くらいならば、もしかしたら、救うことはできるのかも知れない。だが、その人の魂を滅びから救う力は私たちにはないのだ。

 人を滅びから救いうる力はキリストの十字架にしかない。
 従って、もしも誰かを心から愛するならば、私たちが彼のためになすべきことはただ一つ、キリストの十字架を伝えることである。それが、何より最高の愛であり、御心にかなった愛の形である。
 私たちはそうして、たとえ何が周囲で起ころうとも、ひたすら上を、上にあるものを、すなわち神の右に座しておられるキリストを見上げながら生きていくのである。

平和と繁栄の回復――捕囚の終わり――

今日も元気だご飯がうまい。
 今までの疲労を一挙に取り返すように、沢山眠って、沢山食べて、健康な生活へ戻ろうとしている。荷物を整理しようと思って、この地に来てから、一度も紐解かれなかったダンボールの山を見て、ため息ついた。どうして私の荷物はこんなに増えてしまったのだろう? どうやってこれを整理して身軽になろう?

 研究生活を送っている間にかき集めた書籍の山。師匠から譲り受けた書籍の山。10分の1もまだ目を通していない。本など、図書館で借りて必要部分だけコピーすれば済むのに、随分、無駄な買い物をしてしまったものだ…。これからはもっと計画的に自分の荷物を管理することを心がけたい。

 地上のものの良き管理者になれなくて、どうして主の見えない財産を管理することができようか? 私にはまだ主のためにどんな小さな仕事も引き受ける資格がなさそうだ。浮世の生活を通して、学ばなければならないことがこんなに沢山ある。今、御許に召されたら、破産者として神の御前に立つことになってしまう。これでは駄目だ。まだ、御国へ行くべき時ではない。とにかく、毎日の生活をしっかり送ろう。
 
 さて、選挙が近づいているが、平穏な田舎町では、特に未来を憂える人もいない。植えて、収穫して、いつも通りの生活があるだけだ。だが、識者たちは一様に、我が国の未来について暗い言葉を投げかけている。
 ブログを書き始めた頃、私もずっとそのような言葉を並べてきた。この国は一旦、燃え盛る炉の中に投げ込まれなければならないだろう、政治が弱体化すればするほど、虐げられた弱者の怨念を起爆剤にして、何かしらの革命的な事件が起こらずには済まされないだろう…、信徒を躓かせたキリスト教界にも粛清が行われるだろう…etc.

 もしいずれ政変のような事態が起これば、それが私の生活にも無関係には終わらないことは分かっている。だが、私の心にはとても大きな安心感があって、政情の移り変わりがどうあろうとも、主は私を守って下さるだろうと信じられるようになった。

 私たちの目に見える世界が焼け野原になる時、人々は阿鼻叫喚の中を逃げ惑うかも知れないが、神は必ず、焼け野原の中から、小さな可愛らしい芽を生じさせる。どんなものによっても、一度も汚されたことのない、主ご自身が植えられた聖なる芽を。

 人の目には破滅としか思えないことが、神の御前では始まりとなる。神はいつでもどこででもどんな状況の中からでも、ご自分の栄光を現すことがおできになるのだ。そして聖徒たちの思いは、地上の栄えではなく、ただ神の栄光が地に現されることだけである――それがどんな形なのかは私たちには予測できないが――私たちの思いは、神の栄光が全地に現されること、ただそれだけ!

 だから、私はとても喜んでおり、日本の行く末を思って憂う気持ちが吹き飛んでしまう(ある人々は私の無関心と楽観ぶりを見て気分を害するかも知れない)、滅ぶべきものが滅ぶ時、神の栄光がますます地に現されることを信じているから、喜ばずにいられないのだ!

 主の懲らしめの中を通された時、私は自分の肉なるものが、全て滅びねばならないものであることを知った、この身体も、髪も、皮膚も、私の魂も…(まだその学習は完全には終わっていない)。私は自分を苦しめるものすべてに怒りと涙を持って立ち向かおうとしたが、結局、分かったのは、人間の善意の全てが、人の死すべき運命を変える力を持たない、忌まわしいものであるということ、自分の力で自分を救おうとする一切の試みが、無意味であることだった。 

 生活の土台が根底から揺らぎ、健康が揺らぎ、生存そのものが危うくなる時、私たちは何に頼って、一日、一日、希望をつなぐのか、試される。その時、頼れるお方が、ただ一人しかいないことを学ばされる。政治などが、この世のものが、何の助けになろう(もちろん、それも私たちを生かすのに完全に無関係な要素とは言えないのだが)。しかし、全ての条件を、私たちの人生にタペストリーのように絶妙に織り込まれるのは主なのだ。

 信仰という、かぼそい糸以外に何も頼るべきものがない、真っ暗闇の中を通される時、それまで状況に頼って生きて来た私たちの心は変えられる。徹底的に低められ、弱くなる体験を通して、逆説的に、キリスト者はこの世に対して死に、内側から、ただ霊によって、強くされるのだ。そして、たとえ全世界が焼け野原と化したとしても、私たちはこのお方に頼っていさえすれば、安心だという確信が与えられる。

 だから、この先、世界がどう変わって行こうとも、恐れはない。今後、この過越しの印としてのキリストを内にいただいていない者、サタンとの馴れ合いの中で生きて来た全ての人たちは、その報いとして、混乱に投げ込まれ、朽ちない火で焼かれることになろう。キリスト者を捕囚として来た者が、捕囚にされる時がやって来たのだという気がする。

 だが、私について言えば、捕囚の時代は終わったのだと確信している。ついにシオンの娘が解放されて、バビロンが成敗されるべき時が来たのではないだろうか。いよいよ神は、これまで敵の手の中でもてあそばれたキリスト者のために妬みを起こされ、彼らの悲しみをかえりみて、彼らを奪還し、真に成敗されるべき者たちに怒りを移されるのではないだろうか。神に背いたために荒地となったエルサレムは、美しい都、新エルサレムとして建て直され、姿を現し、バビロンは混乱と破滅に向かうだろう。神の花嫁の回復、それは今すでに始まっているのだ。

 不謹慎な表現としてひんしゅくを買うとしたら申し訳ないが、私には今、反戦を呼びかけようとの気持ちがまるでなくなってしまった。たとえバビロンに幾度、最新の核爆弾が投下されたとしても、私は、それを人道に対する罪として訴えることも、それゆえに嘆くこともしないだろう。むしろ、廃墟の中から、神が新エルサレムを建設されることを信じて、その誕生を喜び、神を誉めたたえるだろう! (主はそのようなことがおできになる方である。)

 私にはやっと分かって来た。私たちが真に訴えるべき相手は、人間を脅かすあれやこれやの脅威ではなく、主に敵対する者なのだと。人間は元来、滅ぶべきものであり、人道に対する罪など初めから問題ではない、むしろ、神に背く罪こそ告発されるべきものなのだ。そして平和は、死すべき人類を救おうとする反戦、核軍縮、政治改革、政権交代その他によってもたらされるのではなく、ただ、人を水と霊によって生まれ変わらせ、死すべき命を生かすことのできる神によってのみ、もたらされるのだ。

 ゼカリヤ書8章1-13節から。
「万軍の主はこう仰せられる、『わたしはシオンのために、大いなるねたみを起し、またこれがために、大いなる憤りをもってねたむ』。主はこう仰せられる、『わたしはシオンに帰って、エルサレムの中に住む。エルサレムは忠信な町ととなえられ、万軍の主の山は聖なる山と、となえられる』。
万軍の主は、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』。
万軍の主は、こう仰せられる、『その日には、たとい、この民の残れる者の目に、不思議な事であっても、それはわたしの目にも、不思議な事であろうか』と万軍の主は言われる。
万軍の主は、こう仰せられる、『見よ、わが民を東の国から、また西の国から救い出し、彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせ、彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となって、共に真実と正義とをもって立つ』」。

 万軍の主は、こう仰せられる、『万軍の主の家である宮を建てるために、その礎をすえた日からこのかた、預言者たちの口から出たこれらの言葉を、きょう聞く者よ、あなたがたの手を強くせよ。この日の以前には、人も働きの価を得ず、獣も働きの価を得ず、また出る者もはいる者も、あだのために安全ではなかった。わたしはまた人々を相たがいにそむかせた。
しかし今は、わたしのこの民の残れる者に対することは、さきの日のようではないと、万軍の主は言われる。そこには、平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える。わたしはこの民の残れる者に、これをことごとく与える。
ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ。
 

主は我が家に奇跡を起こされた!!

 あまりに信じがたいことゆえ、私自身がしばらく呆然としていたため、読者への報告が遅れてしまったことをお詫びしたい。
 本日午後、主は私のために奇跡を起こされた。そのことについて説明したい。

 数日前、私は、この岡山の土地をエクソダスすべきかどうかについて、あるキリスト者に相談を持ちかけた。その際、その方は言われた、「これ以上、あなたはそこにいるべきではないと思いますよ。二度と実家へは戻らず、二度と肉親には頼らない覚悟を決めて、ただ自分一人だけの力で、そこを出られた方がいいんじゃないですか。」
 その会話は、この地をエクソダスすることが、事実上、肉親と生き別れになることであると私に感じさせた。

 ソドム化した場所にこれ以上いるべきでないという実感を、私もその時、持っていたとはいえ、正直、その言葉を聞いて、私はひるんだ。私はこれまでにも何度か、家を出たことがあるが、いずれの回にも、完全な自立を果たすことはできなかった。その経験に立つと、家族に対する不満や恨みなど、各種の不健全な心理を引きずったまま家を出ても、それはかえって人生を害するだけではないかとの懸念があった。それに、祖父母はもう80代になっている。もし今、こじれた形で彼らと別れれば、それがきっと最後になってしまうだろう。
 さらに、またもや、私は天涯孤独の身にならねばならないのかと思うと気が重かった。どこにも頼るべき人がいない、みなし子のような生活がどんなものかは経験済みである。不慮の事故が起こっても、助けを求める人がおらず、どんな非常事態にも対応する余裕を持たない、常に崖っぷちを歩くような人生を送ることが、どれほどの疲労をもたらすか私は知っている。疲れても、骨休めできる場所はなく、経済的に困っても、助けを求められる場所はなく、年末年始になっても、帰る場所がなく、病気になっても、看病してくれる人はいない。どんな時にも、頼るべきはいつもただ自分一人しかいないという生活に、再び、耐えなけなければならないのか…。

 カルト化教会での事件を通して、孤立無援の状況が、どれほど人にとって危険となり、人の判断を狂わせるものであるか、私は身を持って思い知らされた。何よりも怖いのは、心細さのあまり、物事の判断が狂ってしまうことだ。頼るべきでない人を頼り、信用してはならない人を信用し、騙されてしまうことなのだ…。一度そのようなことを経験しているだけに、二度と孤立無援の状態に身を置きたくなかった。とはいえ、現状も、孤立無援とそう大差なく、このまま暮らし続けることが不可能であることは目に見えていた…。

 先日の流血事件があった際、家人は敵意に満ちて私に言った、「今度の定休日にこの話の決着をつけようじゃないか」と。その話とは、私がいつ家を出て行くのかということであった。不和と憎しみが高じ、いよいよ追い出される時が近づいているのだ…。

 その定休日が今日であった。
 きちんとエクソダスするためには、家人との話し合いを避けて通れないとはいえ、それを望む気持ちは私にはなかった。我が家で穏やかな話し合いが成立したことは、これまで歴史上、一度もない。しかも、流血事件以来、家人の誰も、私と口を利こうとせず、彼らが私に対して理不尽な憤りを抱いているのは明白であった。私に怪我を負わせたにも関わらず、彼らには何の罪の意識もないどころか、そのことでさらに私を恨んでいるようにしか見えない。私は家の中で、隠れるようにして暮らし、食事も家の外で取っていた。
 こんな状態で、家人と話し合って、どんな良い成果が生まれよう? これ以上、流血沙汰も、裁き合いも、泥仕合もこりごりだ。頭蓋を幾度も地面に打ちつけられた時の記憶は忘れられない。それはまだかなり手加減の入った弱い攻撃であったとはいえ、そのような行為が、殺意から来るものであることは明らかであった。これはエスカレートして、必ずや、殺人へと結びつくだろうというはっきりとした予感があった。私は殺されるだろう。いや、私でなくとも、きっと誰かが殺されるだろう。だから、私はその決定的瞬間が延ばされるために、家人が話し合いのことを忘れてくれるように願った。

 昼が来るまで、私は壊れた電子ピアノをパイプオルガンの音に設定して、聖歌を立て続けに弾いていた。家では食事ができないので、朝から何も食べていない。空腹だ。しかし、話し合いのことが気になって、食べるどころではない。私自身の心を鎮めるために、また、賛美歌の懐かしいメロディを聞いて、せめて家人が少しは心を和らげてくれないかとのむなしい期待をこめて、ありったけの聖歌を弾いてみる。だが、私が悠長に音楽に携わっていることが、余計に両親を苛立たせたらしい。

 私が手を止めた時、階下から呼ぶ声があった。話し合いに出て来いという、憤りに満ちた両親の声。聞けば、隣家の祖父母も加わって、5人で話の決着を着けようとの結論に彼らは勝手に至り着いていた。一体なぜ、祖父母が呼ばれる必要があるのか? 私には何の断りもなく、両親によって、勝手に決められた不可解な話の展開に、私は半ば恐れを感じた。

 幼い日から、我が家での「話し合い」とは、吊るし上げの別称でしかなかった。それは家族の成員それぞれの意見を尊重した穏やかな話し合いのことではなく、要するに公開裁判のようなものであり、特定の誰かが悪者とされ、残り全員から非難されるためだけに設けられる見せしめの場であった。だから、今回、5人で話し合いをしようとの強硬な提案がなされた裏には、4人がかりで、私を標的に吊るし上げようとする狙いが隠されていることは明らかだった。

「どうして話し合いに5人も必要なの? 皆で寄ってたかって、弱い一人を非難するつもりなら、そんなものに参加するつもりはないよ」と私。
「今後のあんたの身の振り方を皆に考えてもらうために、全員が必要なんだよ。それに、誰が正しいことを言っているのか、冷静に判断するために、第三者の立会いがどうしても必要だって、以前、あんたが言ったんじゃないか。自分であれほど言っておきながら、都合が悪くなったら、今更、逃げるつもりなのか」と父。 
 一体、どう考えれば、祖父母が冷静な第三者に該当するのだろうか。それに、私が話し合いから「逃げる」とは、どこからそんな発想が生まれて来るのか。これまでにも、祖父母は話に加わったことはあったが、中立的な立場ではなく、いつも事なかれ主義によって、両親の横暴を見逃し、事実を隠蔽する側に回っていた。祖父母は私の味方には決してならなかった。そこで彼らは、今回も、私の味方にはならないだろうし、たとえ私が怪我の理由を正直に述べたところで、きっと信じないだろう。だから、今回、祖父母が話に加われば、私の立場はより不利になり、4人の敵によって、私はかわるがわる攻撃され、ざんげを要求されることになるのは目に見えていた。

 さらに、もしも再度、暴力的な事件が勃発したと仮定して、祖父母は私を助ける側に回ってくれるだろうか? 否。彼らは両親を止める力を持っていない。そして、そのようなことがもしあれば、彼らはほとんど何もせずにおいて、事が終わった後で、4人全員で、被害者の口を塞ぎ、都合の悪い事件は、全てなかったことにして闇に葬り去ろうとするだろう。4人の中に、誰も私の味方はいないのだ。私は当然のごとく、祖父母の話し合いへの参加に反対したが、両親は私の反対を一切受け付けなかった。

 そこで、私は絶望的な気持ちで提案した。
「あなたたちがどうしてもそんなに大勢で話し合いたいと言うなら、それは承知するから、代わりに、私の希望も聞いて。私は外で話したい、世間の人々のいる前で話したいの。とにかく家ではないところでなければ、話し合いに応じられない。ファミレスとか、人のいるところなら、行っても構わないよ」と私。
「どうしてそんな遠くまでわざわざ行かなくくちゃならないんだ、どうして家では駄目なんだ、おばあちゃんも具合が良くないっていうのに、出かけろというのか」と、父が苛立たしげに難癖をつける。
「私がこんな怪我を負わされた以上、世間の見ていないところで話をすることに、私が身の危険を感じるのは当然でしょう?」と、私は言い返す。
 私の顔面の怪我は、見知らぬ人が見ても、不審に思うようなものだ。ものを食べるにも痛みが伴う。
「何を馬鹿馬鹿しいことを言ってるんだ、すべては自分が悪いからそうなったんだろう、あんたさえまともな態度を取っていたら、話し合いがこじれるなんてことはないんだ、何が身の危険だ、馬鹿らしい。自分が穏やかな態度を取らなかったせいで起こったことに何の反省もなく、未だにそんな大仰なことを言い立ててるのか」
「ちょっと、自分が何をしたか分かってるの? 警察へ行けば、私の怪我は立派に人身傷害になると思うよ?」

 両親は私の台詞を聞いて芝居じみた声で高らかに笑った。
「なーにが人身傷害? あほらしい。その怪我はあんたが勝手に転んで、勝手に自分で負ったんじゃないか!」
「そうよ、あんたが自分で勝手に飛び出してきて、自分でそうなったんじゃない」
 父母が二人とも口をそろえてそう言ったので、私は心底、ぞっとした。

 つい先日、あれほどまでに明確な形で三人の前で起こった事件を、もうすでに、両親は自分に都合よく歪曲しているのだ。ここから推して知るべしだ、たとえ今日、家人の暴力によって私が殺されようとも、彼らはそれを自分の罪だとは決して認めないだろう。そして、全ては私の罪に転嫁されてしまうのだ。こんな危険な人たちと、どうして密室の中で、何時間も向き合って話し合ったりできるだろうか。いや、絶対に、彼らと密室に閉じこもってはいけない。私の身の安全が確保される場所でなければ、彼らとの話し合いに応じてはならない。絶対に、公の場所でなければ駄目だ。私の脳裏には、誰も見ていないところで、両親と祖父母と4人がかりで、私の死体がどこかへ片付けられる場面が思い浮かんだ。

 両親は話し合いを主張して譲らなかったし、エクソダスを成し遂げるために、私はそれに応じないわけにいかなかった。そこで私は、祖父母の参加を承諾することと引き換えに、話し合いの場をファミレスとすることを交換条件として強硬に主張した。両親はついに折れた。そして不機嫌極まりない口調でそれに同意し、ぐずぐずせずにさっさと家を出るようにと私を促した。

 私は両親と祖父母の車には乗らず、彼らより一足先にバイクでファミレスへと走った。ファミレスの中であれば、誰も私に暴力を振るうことはできない。それに、バイクがあれば、いつでも危険な話し合いから自分の判断で逃げ出すことができる。そう自分に言い聞かせて、何とか心を落ち着けようとしたが、涙が勝手に流れて来る。一体、敵対的な4人を相手に、どうやって、私一人だけで自分の身をかばうことができるのか。こんなのはあんまりだ。一体、これから、どんな非難の言葉を投げつけられることになるのか、考えただけでも恐ろしかった。先日の流血事件も、私に全責任があるとして、謝罪を求められることになるだろうし(私の側に挑発的な言動がなかったとは言えない)、そして、私がこの地に帰って来たこと自体が、皆にとっての迷惑であったと言われるだろうし、家に滞在を許してやったことでも、さんざん恩に着せられ、挙句の果ては、皆の迷惑だから、明日にでも出て行って欲しいと言われるのが落ちだろう、その後で、延々と、私の過去の言動についての断罪が続き、ここ一年間に起こった思いつく限りの事件について、私の落ち度があげつらわれ、一方的に謝罪を求められることになるだろう…。その儀式が一通り済んでからでなければ、私には自分の事情や弁解を持ち出すことも許されないだろう…。

 これから何が起こるのか、あまりに恐ろしかったので、私は思いつく限りのキリスト者の名を呼んで、祈りの支援を求めながら、主イエス・キリストに祈った、主よ、この話し合いにあなたが臨在して下さい、あなたの明確な介在と、明確な奇跡を私は求めます…。

 ファミレスはランチタイムで大混雑であった。もしかすると、駐車場も、客席も空いていないかも知れない。そうなると、両親は待ち時間を惜しんで、やっぱりここで話し合うのはやめて、家で話そうと言い出すかも知れない。そんなことになると困る。私は主に祈った、どうか私たちの席を空けて下さい。そして、待ちきれない思いで席が空くのを待った。どんなことがあっても、私はここで話し合いを完了しないうちに家に戻ったりしない、そう決意を新たにした。

 両親と祖父母が店に到着した。思ったよりも、彼らの間での意思疎通ができていない様子を見て、私はほっとする。祖父母は何のために自分たちが呼ばれて来たのか、あまりよく分かっていないようだった。祖父母は普段通りの態度で、私に対する敵意は表立っては見られない。両親は祖父母の手前、よそいきの笑顔を作っている。これは良い前兆だと私は思う。機嫌の良い祖父母の前で、私に悪口雑言を思い切り投げつけることは、さすがに両親にはできないだろう。そこで、私も可能な限り、さりげなく自然に笑顔でふるまう。そうすることで、険悪な雰囲気を少しでも遠ざけることができるようにと願いながら…。

 さらに、到着する前から考えていた苦肉の策として、私は席に着くなり、昼ごはんを注文すると宣言した。朝ごはんも食べていないのだから、そのくらいのわがままは許されるだろうが、とにかく、時間をかけて食事を取ることに専念することにした。食べることに集中しているように見せかけることによって、会話の濃度を薄め、両親の攻撃意欲をそぎ、その場の雰囲気が険悪化することを防ぐのだ。場合によっては、食べられようと、食べられるまいと、無限にメニューを注文し続け、話に身が入らないふりをしよう、そんなことさえ考えた。
 
 全員がメニューを注文し終わった。誰も何も言わないが、明らかに、両親が極めて不機嫌であることが私に伝わって来る。母はこわばった表情であり、父も言葉少なげだ。いつ本題を切り出して、私を非難しようかと待ちかねているのが手に取るように分かる。だが、彼らはまだきっかけをつかめないでおり、祖父母の雑談に気前よく応じているようなふりをしている。ああ、このまま、話の糸口がつかめないまま、雑談のうちに話し合いが終わってくれれば…。

 私は祖父と二、三言、何気ない会話を交わし、それから、一体、この先、会話をどう運ぶべきか、どうやって本題が切り出されるのを阻止すべかを思い巡らそうとした。その時だった。明確に主が私の内で語られたのだ。
あなたがやってはいけない。私がやるのだ」と。

 私は心の中で応じた、はい、分かりました、私は何もしません、主よ、あなたが語って下さい、と。
 それから、奇跡が起こった。

 私たち5人のうち、2人は無宗教、1人は生長の家の信者、1人は似非キリスト者(エージェント・クリスチャン)、私と信仰を共有している人はその場に一人もいなかった。つまり、私を除いて、真のキリスト者は一人もおらず、価値観を共有できるはずもない人々が共に集まっていた。そして程度の差こそあれ、全員が、心の中では、私に対する積年のわだかまりや、憎しみ、不満を抱えていたのである。

 ところが、それにも関わらず、5人全員の口を借りて、主は語られたのである。

 そんなことがどうして起こり得たのか、不思議に思われる方もいるだろう。私にも分からない。だが、神にはできるのだ、神を未だ信じてもいない人たちに働きかけて、御霊によって、真実を語らせることが。

 私は自ら話し出した。まず、この一年間に、外から見れば、全く何も変化がないように見える私の生活に、実際には、どんなに大きな新しい展望が開けたかを。どれほど多くの貴重な友人が、それも私にはもったいないような優れた友人(本当は主にあっての兄弟姉妹なのだが、家人の前では友人と言わざるを得ない)が与えられたことだろう。彼らの存在がどれほど私にとって励ましとなり、勇気を与えてくれただろうか。彼らの生き様が、どれほど私にとって人生の指針となっただろうか。
 私は彼らのおかげで、もうほとんど立ち直ったと言える、だから、私はできるならば、近いうちに、知り合いの多く住んでいる関東に移住したいと思っているのだ、私はそう打ち明けた。関西のことは、これまでに住んでみた経験から、ある程度分かっているが、関東のことはまだ何も知らない。できるならば、私の見知った人々がいる関東に、私も行ってみたいのだ…。

 それを聞いているうちに、父がついに本題を切り出した。しかしその話し口調は、私には驚くべきものだった。
 話の最初から、父は私の傷ついた感情への配慮を示していた。父は語った、私が岡山に戻ってきた当初、祖父母が快く私を受け入れず、私をたらいまわしにしたこと、その結果として、私は望んでいなかった父の元に滞在するはめになったこと、初めから、この滞在が私にとって印象悪い始まり方をしたこと、それから一年間、意志の不疎通が重なりに重なったこと、父自身も、仕事に追われるだけで、私にとどまらず、他の人々の感情に、全く配慮せず、それを後回しにしてきたこと、それゆえ、私にとっては、人間関係が常に不本意な形で進んできたこと、それは決して、誰もが願うような形ではなかったこと…、

 そうして、父はここ約一年間の人間関係についての総反省を述べた上で、それでも、一年間の休養期間を終えて、私は人生の次なるステージに移った方が良い、岡山を離れた方が良いと思うということを言った、そして次に、驚くべきことを提案したのである。

「ヴィオロンが新しい人生を始めるに当たって、過去の負債があるのは良くない。何一つ負債のない状態で、新しい人生のスタートを切って欲しいと私は思う。そこで、今、毎月少しずつ返済している奨学金を、私たちが一括で返済してあげたいと思うが、どうだろう?」

 私は耳を疑った。そんな深い思いやりに満ちた提案が父からなされたこと自体が、全く意外だっただけではない。私の奨学金の返済額の総額を、彼はあまりにも軽く見積もっているのではないか。それがどんな金額か、本当に知っているのだろうか? 一括返済など無茶なことを…。そんな金額が我が家にあろうはずがないではないか。
 しかし、父はあくまで一括返済ということを提案した。私は冗談のように笑いながら言った。

「それはほんとにありがたい提案ではあるけど、まさか親にそこまでやってもらうわけにはいかないでしょう。それに、知ってる? 私の奨学金は、私が死んだら、返済義務もなくなるものなの。生きているうちだけ返済すればいいんだよ。私だってこの先、いつまで生きているか分からないでしょう。それなのに、初めから一括返済なんてもったいないことはしなくていいよ、生きている間、自分で地道に少しずつ返して行けばいいと私は思っているから」
 するとそれを祖母がさえぎってぴしゃりと言った、
「そんなずるい考えは駄目!」

 正直、この祖母の言葉に私はとても驚かされた。一体、祖母が今まで、私の奨学金返済の話題に真面目に関心を寄せたことなど、一度でもあっただろうか。これはどういう風の吹き回しなのか。だが、祖母は、借りたものは全部返さなければならない、今がそのチャンスだから、父の提案を快く受けなさいと、その言葉を通して、私に示したのだ。

 それから、話題はいかにして私が人生の再スタートを快調に切るか、ということになり、両親と祖父母はそれなりの支援をするつもりであるから、私は素直にそれを受けて、彼らと縁を切ることなく、穏やかにこの土地を離れ、過去ではなく、今後のことだけに目を向けて、自分の幸せを模索して生きなさいという結論になった。彼らは、私が幸せになることを願っているのであり、これ以上、彼らの事情にとらわれて、余計なことに気を遣って人生を無駄にしてほしくないと幾度も強調した。いくつかのお説教めいた発言もあったが、それは決して、私の意志を踏みにじって、一方的に私を断罪するようなものではなかった。

 すべては信じられない展開であった。そこには全く期待もしていなかった誠意が感じられた。私もいくつか発言したが、それも極めて良好な文脈であった。そして、父は円満に話をしめくくり、極めつけとして、ファミレスを去り際に、私の怪我について配慮を示し、謝罪さえしたのだ。

 ファミレスの外で、私は父に丁重にお礼を言って、いくつかの話を穏やかに交わした。父は微笑んでそれを聞いていた。私は、この一年間を岡山で過ごしたことが、私にとって無駄ではなかったこと、私が今はここを去って新しい仕事を始めた方が良いという父の判断は間違っていないと思うこと、私たちは互いにコミュニケーションを取るのが不器用だけれども、言葉の壁を越えて、これからは私も父の誠意を信じたいと言って、私たちは別れた。そこには特に興奮もなく、極めて冷静で穏やかな話があった。

 この会話が終わった後、私はこれは全て主によって起こされたものであることを静かに確信していた。つい数時間前、我が家を後にする前に、誰がこんな展開を予想しただろうか? そこには絶望的な予測しかなかった。両親があれほどあからさまについていた嘘はどこへ消えたのか? 積年の対立は、憎しみはどうなったのか? 今までにも、表面的な和解、その場しのぎの和解、取り繕った平和ならば、何度か、我が家に起こったことがあった。だが、それはすぐにそれと分かるうわべだけの平和であり、数日も経たないうちに、すぐに消えて、憎しみに満ちた関係が再び現れるのであった。ところが、今回、起こったことは、そのような偽りの平和とは根本的に異なるものであることを私ははっきりと認識していた。

 これは主が我が家に起こされた奇跡である。そうとしか言いようがなかった。私は今でも自分の直観を疑っていない、もしも主が介入されなかったならば、我が家には、殺人以外の末路はあり得なかっただろう。私たちはまっしぐらに破滅へ向かっていたのだ。ところが、主がそれを押しとどめられ、人知を越えた方法で私たちのうちに働かれて、我が家に平和をもたらし、私たちを滅亡から救われたのである。これは主が家人全員の心に奇跡的な刷新をもたらしたのであり、一時的な気の迷いによる出来事ではなく、二度と覆ることがない奇跡であり、主によって信頼の種がそれぞれの心に植えられたのである。あれほど長年に渡って続いてきた、私たちの間の取り除くことの出来ない不和、憎しみ、対立は、永久に我が家から消え去った、そのことを私は霊のうちに確信していた。

 理屈では、このようなことは誰にも理解できない。はっきりしているのは、心理学的見地から判断しても、きっと、30年以上に渡って、精神的にみなし子のように扱われ、両親から愛を受けることなく、憎しみを注がれて育ってきた人間が、その痛みと苦しみの記憶から瞬時に抜け出すことは不可能だということである。ところが、それにも関わらず、今日の話し合いを終えた時点で、私の心の中からは、家庭に関する被害者意識というものが、全く消え去っていたのである。

 私は愛されて育った普通の子供たちと同じように、自分の両親に満足していた。彼らの約束を疑わずに信じることができた(この簡単な信頼というものがどれほど手の届かないものであっただろう)。確かに、両親には不器用なところがあり、まだまだ改善すべき点も残っているのかも知れないが、それは私も同様であり、そんなものは取るに足りない事柄であり、彼らは基本的に愛すべき人々である。私と両親との間には、もはや以前にあったような恐ろしい不和、断絶、憎しみ、絶え間ない裏切り、疑心暗鬼、永久に乗り越えられない溝、不信感、意志不疎通はなくなっていた。そして両親の方でも、特に父は、私に対してこれまで抱き続けてきた恐ろしいまでの疑いや、不信感をもはや持っていないようである。私たちの間に、今までただの一度もありえなかった信頼が自然に生まれ、互いの本心を疑うことなく、穏やかに話しができるようになった。祖父母もこの結果に基本的に満足しているようだった。

 何よりも不思議なことは、私の心の中から、物心ついてこの方、ついぞ消えることのなかった鈍い心の痛みが、消え去ったことである。私は欠陥のある家庭の出身者であり、このつらい生い立ちのために、生きている限り、決して、自分が普通の人々と同じにはなれないということを、どんな瞬間にも感じさせられてきた。壊れた家庭の出身者であるというコンプレックス、家庭的幸せを求めても得られなかったことから来る心の痛みは、いかなる瞬間にも、私の心を去ることはなかった。が、どういうわけか、今日、それは私の心から消え去ったのだ。我が家は、普通の場所となった。家はもはや私にとって世界で最も危険に満ちた場所ではなくなり、安全な場所となった。私は我が家で安心してくつろいでも良くなったということを、経験によらず、御霊によって、確信させられたのである。

 何も言わずとも、私にははっきりと分かっていた、今日、あの席にいた全ての人々が憎しみを捨てたのだと! 敵意は磔にされ、初めて私たちは和解し、真実に立ったのだと!
 私たちの会話には、決して、涙ぐましい和解のシーンや、仰々しい弁解、長々しい謝罪の言葉はなかった。誰も昔の事件には触れなかったし、それに対する責任も問われなかった。にも関わらず、そこでは一切の対立と不和に関する謝罪と和解が成就していたのである。

 すべてが私の理解を超えて、あまりにも素晴らしすぎたため、私は家人と別れて後も、呆然としたままであった。ショッピング・モールへ走り、しばらくベンチに腰かけて、何とか心を落ち着けようとしながら、起こったことは何だったのかと思い巡らした。そして分かったことがある。

 そこにあったのは十字架だったのである。神が主イエス・キリストの十字架を通して、私たち一家のうちに働いていた根深い憎しみと、裁きと、隔ての中垣を全て取り除かれたのである。

 今日、語られた話題には、表面的な言葉の意味を越えた、深い奥義があることに私は気づいた。
 私たちの会話の中には、イエス・キリストという言葉も、十字架という言葉も、罪の赦しや、和解という言葉も、一度も登場しなかった。そこでは救いの教義はまるで説明されなかった。家人はクリスチャンではない。どうして彼らがそういうものをあらかじめ理解できるだろうか。

 にも関わらず、今日、そこにいた全員が、主の霊に触れられて、理屈を越えて、十字架についてそれぞれ語っていたのである。私たちは理性で語りながら、御霊によって語らされていたのである。

 父が持ち出した奨学金の話は、現実の世界では金銭に関する話題に過ぎないが、霊的な意味においては、十字架そのものを指していたのである。
 父の言葉を借りて、主が私に語られたのだ。私がどうしても逃れることのできなかった一切の過去の負い目という、負っても負いきれない巨大な負債に対して、神は今日、一方的な全額返済を完了されたのだと。私の痛み苦しみに満ちた過去、自力ではどうすることもできなかった体験から生じた私の心の破れ目を、神は全額返済することによって償われた。だから、私はこれ以後、過去に対する負い目を何一つ持たずに、心を白紙にして、ごく普通に、新しい人生のスタートを切りなさいと、主は私に語られたのである。

 私は初め、その途方もない申し出にたじろぎ、それを辞退しようとした。負債があっても、それは生きている間だけしか効力を発しないのだから、自分の力で、毎月返済しようと努力すればそれでよいことだと思った。しかし、祖母はそれは「ずるいやり方」だと私を戒めた。仮に生きている間、こつこつ自力で返済したとしても、結果として、それが全額に満たないのであれば、借金の責任は道義的に残り、それは誠実さの証とはならないと私を戒めたのである。だから、私は両親からの奨学金の返済の申し出を受け入れた。だが、そうすることによって、私は別の面では、同時に、私が人生でこれまでに遭遇してきた無数の負の出来事に対する、神による全額返済を受け入れていたのである。

 十字架による罪の贖い、それは常に一括返済であり、全額返済の道である。私たちは、十字架によって自分の罪を赦していただかなくては、誰一人、自力で自分の罪という借金を返すことができない存在なのだ。自力で負債を返済しようとすることは、不誠実であり、謙遜の名を借りた傲慢である。私たちは、全額返済してあげようとの主の申し出を、ただ感謝して素直に受けるべきであり、主が十字架を適用されるのに任せなければならない。十字架を主から奪い取り、我が物として手中におさめ、分割して適用したりすることは許されない。十字架を適用されるのは、主ご自身であって、私たちではない。だから、私たちは、自分で自分の負債をどう返済しようかと首をひねるのをやめて、ただ自分の負債を神の御前に差し出し、主が十字架によってその負いきれない巨大な借金を一方的に返して下さるのに任せれば良いのだ。そして一旦、主の御手に渡った負債の証書は、主が確実に返済されるのだから、私たちは二度と思い出す必要がない。

 奨学金に関する私たちの会話は、未来の返済の約束であったが、霊においては、この会話がなされているまさにその時、私自身が自覚することもできない昔から始まっていた私の罪という負債が、全額返済されたことが確かに分かる。そのため、この会話を終えて後、私は言葉に言い表せない重荷が肩から転げ落ちたような気がする。家庭に関する深刻な傷が癒やされた。それによって、私の人生は格段に軽くなり、苦しみの日々はもう思い出せないほどに昔のものとなった。この負債の返済は、ただ私の罪の返済であっただけでなく、そこに居合わせた全ての人々の罪の返済でもあった。
 
 今日、私たちは自分が何を喋っていたのか知らないままで、主によって、御霊によって語らされていたのだと思う。理性では、まだキリストを受け入れていないはずの人々が、聖霊によって、存在の奥深いところで、自らの罪をはっきりと十字架上に置くよう、主によって求められたのである。私たちはそれに応じた。すると、私たちがこれまで長年に渡り、争い合い、傷つけ合い、憎み合い、恨み合い、互いを非難し合ってきた、その告発が延々と書き連ねられた目に見えない証書を、主は、テーブルの真ん中で、粉々に引き裂かれ、無効にされた。私たちの力では、永久に乗り越えることのできなかった隔ての中垣、憎しみ、我が家の成員全員に対するサタンの終わりなき告発状を、主は席上で破り捨て、全く無効にされたのである。

 だから、私たちはその会話を終えた時には、理性をも経験をも超えた不思議な神の力によって、一切の敵意を取り除かれて、全員、和解させられていた。私たちは言葉の上で、赤裸々に罪を告白しはしなかったし、ざんげもなかったし、涙ながらの和解もしなかった。主イエスを証することもなかったが、それでも、確かに、その席上に、主は臨在して下さり、全ての成員が、主によって触れられ、自分の罪を十字架につけさせられたのだと、私は信じている。そして、これまでにそれぞれが自己弁護のために駆使し、作り上げてきた嘘偽りの城壁が取り除かれて、それぞれが真実な心に立ち戻らされたのである。

 そこに確かに主がおられた。そのことの何よりの証拠となるのは、私が今まで、どうやっても自力では乗り越えることのできなかった、つらい過去から来る絶え間ない心の痛みが、私の心から取り去られたことである。長年に渡って、身体に染み込んだ家族のメンバーに対する恐れや、不信感、家族から愛されなかったことから来る悲しみ、悔しさ、孤独を、主は私から一挙に取り除かれた。そして和解の十字架の中で、私たち家族は一つにされたのである。肉にあっては、決して生まれることのできなかった信頼、一致の芽が生まれた。どんなに努力しても手の届かなかったものが、上から与えられたのである。これは聖徒たちの切なる祈りに応えて、主がなさった奇跡であるとしか言いようがない。

 だから、我が家にはもう虐待者はいない。殺人鬼もいないし、犯人もいない。悪人もいないし、善人もいない。加害者もなく、被害者もなく、ただ主によって罪赦され、聖められた罪人がいるだけである。きっと、我が家の成員が主イエス・キリストの御名をはっきりと口にするようになるのは、もう時間の問題だろう。主は今日、それぞれの心に確かに触れられたのである。

 神は何と誠実に私たちの願いに応えて下さることだろう。神のなさることは何と不思議ではかり難いことだろう。主は黄泉に下るべき者さえ、救い、生かすことができる。粉々に砕け散った宝を回復できるただ一人のお方なのだ。主はとこしえに我らと共にいます、主の御名は誉むべきかな!!