忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

真の謙遜とは何か(3)

謙遜と信仰は、聖書においては、多くの人々が知っている以上に、密接な関係を持つものとされています。このことを、キリストのご生涯においてながめてみましょう。主がりっぱな信仰について語られた場合が二つあります。

主は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長の信仰に驚嘆されました。それに対して彼は「先生を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言ってはいないでしょうか。また、主から「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われた母親は、小犬と呼ばれることに甘んじ、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」と言わなかったでしょうか。

たましいをして神の御前になきに等しい者とするのは謙遜です。それはまた、信仰のすべての障害を取り除き、神に全面的によりたのまないことにより神に不名誉をもたらすことだけを恐れさせるのです。

主にある友よ。私たちが聖潔の探求において失敗する原因は、ここにあるのではないでしょうか。私たちの献身、私たちの信仰をこの上なく皮相的なものとし、この上なく短命なものとしていた理由はこれではないでしょうか。たとい私たちが知らなかったとしても。

高ぶりと自我が今なおひそかに私たちのうちに働いていること、神のみが私たちのうちにおはいりになり、その強い御力をお用いになることによってそれを追放することがおできになること――私たちは、これらのことを全く知りませんでした。私たちは、古い自我と全面的に取って代わる新しい神の性質のみが、私たちをほんとうに謙遜にすることを理解していませんでした。

絶対的な、不断の、普遍的な謙遜が、他の人に対するすべての取り扱いの基礎でなければならないとともに、またすべての祈り、すべての神への接近の基礎でもなければならないということ、そして全面的な謙遜、心のへりくだりなしに神を信じ、神に近づき、神の愛のうちに生きようとするのは、あたかも目なしに見、呼吸なしに生きようとするようなものであること――私たちは、これらのことを知らなかったのです。

主にある友よ。私たちは次のような失敗をしてはいなかったでしょうか。すなわち、信じようとして非常な努力をしながら、他方においては、高ぶった古い自我があって、それが神の祝福と富を所有しようとしているといった失敗をしていなかったでしょうか。私たちが信ずることができなかったのも無理もないことです。私たちの方針を変えましょう。

まず何よりも先に、神の力強い御手の下に、私たち自身が謙遜になりましょう。神は私たちを高くしてくださるでしょう。イエスがご自身を低くされた十字架、死、そして墓は、神の栄光への道であったのです。私たちの唯一の願い、私たちの熱烈な祈りの題目を、彼とともに、そして彼のようにへりくだることとしましょう。神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。

アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.65-67.


これまで、真の謙遜とは何かというテーマで連続して記事を書いてきた。各記事の冒頭に挙げているアンドリュー・マーレーの言葉は、記事本文とだいぶ調子が異なるため、ともすればどんな脈絡があるのかと問われそうにも感じられるが、それでも、謙遜というテーマについてのこの引用文はあえて残しておきたい。

上記のマーレーの文章の中から、今回は「神の祝福と富を所有する」という、クリスチャンが犯しうる大罪について注目したい。そして、多くのクリスチャンが謙遜への道だと誤解しながら、知らずに陥りがちな誤謬について、この場で考察しておきたいと思うのだ。

これまでの一連の記事において、筆者は、真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、ということを信者が余すことなく認識し、神がキリストにあって自分にお与え下さった自由や権利を十全に行使できる状態にあることを指すと書いた。それは信じる者が、自分の不完全さにより頼まずに、神の完全さにより頼んで生きることである。

しかしながら、この世における謙遜は、これとは全く逆に、人が自分の不完全さを強く認識し、自己の欠点を己が努力によって克服しようと努めることによって、自己を抑圧するか、もしくは自分の正当な権利までも自主的に放棄して、自分を弱く、低く、無力に見せかけることを指す場合が多い、ということについて触れた。

ともすれば、以上に挙げたアンドリュー・マーレーの言葉も、そうした文脈で誤解されたり、悪用されたりする危険性があると言えるであろう。マーレーは書いている、「神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。」

このような言葉を使って、「神と人の前にへりくだりましょう」ということを口実として、教会の権威者や信者が、他の信者を組織の序列の中に組み込み、権威者の言い分に従うことを「へりくだり」であると思わせ、人の思惑の中に信者を拘束し、あるいは無権利状態に甘んじるよう誘導することはたやすい、と筆者は思う。しかし、マーレーはもちろん、そのようなことを意図して上記の文章を書いたわけではなく、人の目に謙遜だと評価されたいがために世の思惑や、人の思惑を気にして、それにがんじがらめに支配され、て生きることと、神の御前での謙遜は全く異なる事柄である。

神の目には、そもそも人間が自分の力で自分の欠点を克服しようとすること自体が、謙遜ではなく、むしろ、高慢である。神の御前の謙遜とは、人が自分の弱点や問題を自分の力でどうにかしようという希望を一切捨てて、自分そのものを全く処置不可能な堕落した存在として神に委ね、御言葉に基づいて、神がこれに霊的死を適用して下さった上で、十字架を通して新たな命によって生かして下さることに完全に期待することを意味する。

しかし、世間では、幾度も指摘してきた通り、それが全く逆にとらえられている。そして、その誤った考え方は、クリスチャンの間にも、根強く広まっている。今回は、そのようなことが起きる背後に、誤った世界観が横たわっていることを理解し、クリスチャンが以上のような誤謬に陥って人や世の思惑にがんじがらめにされることなく、キリストにある完全さ、自由を手にして、人としてあるべき姿に生きるヒントを見つけることができればと考えている。

信仰をもたない世間、特に我が国の一般社会では、もし人が世間から「謙虚な人間」とみなされたいならば、決してその人は自己の諸権利などについて主張せず、むしろ、自分に与えられている当然の権利を行使するにあたっても、自分はどれほどそうした権利に値しない未熟者であるかということをしきりにアピールする必要があるかのように思われている。自分の権利ばかりを当然のものとして主張する人間は、「わがままだ」とみなされてバッシングされる風潮が強いからである。

そこで、人は自分が権利ばかりを当然のように求めているわけではない、と見せかけるために、自己卑下を繰り返し、自分がいかに諸権利に値しない人間であるかを人前で強調するだけでなく、自分の未熟さや欠点にも積極的に言及し、己が欠点をどれほど切実に自覚しており、自分を未熟者と考えているか、自己の欠点を克服しようとどれほど真面目に努めているか、それにも関わらず、その痛ましいまでの努力が、今に至るまで、どれほど実を結んでいないか、ということをも、ワンセットで強調することが一種のお約束事となっている。

もし誰かが「これだけ努力したので、私はもう自己の欠点をすでに克服し、ひとかどの人間になりました。そこで、私は自分に与えられている諸権利に十全に値する人間となったと思いますので、この権利を当然のものとして要求します」などと言おうものならば、その人は世から「若造に過ぎないくせに、何と高慢なことを言うのか。厚かましく自分の権利を要求する前に、自分の果たすべき義務について考えろ。もっと果たすべき努力が残っているのではないか」などと言われ、バッシングされかねない風潮がある。そこで、人々はそういったことが起きないための自己防衛策として、「私は自分の欠点をよく自覚しており、自分が様々な権利に値しない未熟者であることをよく分かっています。そして、目下、欠点を克服する努力はしているのですが、残念ながら、未だ道半ばで、思ったほどの成果が出ていません。きっとそれも、私の努力が足りないせいか、あるいは私が愚かで知恵が足りないせいなのでしょう・・・」などと、どこまでも自己卑下を繰り返しながら、いかに自分が一人前の人間からほど遠いかを強調することが普通に行われている。そのような自己卑下を繰り返す人間が、世間では「謙虚だ。自分の分をわきまえている」とみなされるのである。

言い換えれば、この世においては、何事についても、「達成した」と言うこと自体をタブー視するような暗黙の風潮が存在するのである。何かを「達成した」と主張することは、「自分はひとかどの(一人前の)人間になった」と主張することに等しいが、生きた人間が「一人前の人間」になること自体、社会では、一種のタブーとみなされていると言っても良い。そこで、誰かが何かを「達成した!」と述べと、それ自体が、「とんでもない高慢だ」とみなされる危険性があるのだ。

むろん、キリスト者ならば、なすべきことを「達成」された方は、キリストお一人であることをよく知っている。私たち信仰者は、キリストの十字架における死と復活に同形化されることによって、彼の達成された御業を自分のものとして受け取る。彼の御業にこそ、キリストにあって、信者が受けとることのできる完全さ、安息、自由、達成が存在する。ただキリストにあってのみ、彼の死と復活と一体となることによってのみ、信者は自己の努力による一切のもがきをやめて、自分自身を神に受け入れられる清く、貴く、完全な人間とみなして、安息することができる。それはただ御子の達成された御業によるのであって、信者の自己の努力の結果ではない。

キリストの中にこそ、「完全な(成熟した一人前の)人間」が存在する。信者は地上においては霊的に幼子のようで未熟であったとしても、キリストを信じて受け入れた時から、神の目には、彼の完全さをデポジットのように受けとっているのである。

だからこそ、信者はキリストにあって安息し、自分の未熟さを自分で克服するための努力をやめて、御子との達成の中で安らぐことができる。キリストにあって、自分を不完全で罪深く未熟な存在とみなして、責め続けたり、卑下することをやめて、キリストを通して、彼の持っておられる権威、自由、祝福を受け取り、これを行使することができる。ところが、そのようにキリストにあって信者が新しい自己の完全を受け取って生きることをも、世の風潮は「高慢だ」とみなして、激しくバッシングする。そして、あろうことか、この世的な偽りの「謙遜」の概念に欺かれた信者が、自分ばかりか、他の信者からも、神がキリストを通してその信者にお与え下さった権利を奪い取り、自由を妨げようとすることも、しばしば起きている。だが、そのようなことは神の御心ではない。神は人を自由にするために、御子を送って御業を成し遂げられたのであって、「謙遜」の名の下に、人間の思惑に信者をがんじがらめにするために十字架が存在するのではないからである。

そのような歪んだ捉え方が生まれる背後には、(グノーシス主義的)世界観がある。(ここで言うグノーシス主義的価値観とは、聖書のまことの神の御言葉に基づかない異教的価値観の総称として、筆者が広義で用いているものである。)

長い説明はさて置き、ここでは結論のみ述べたいのだが、たとえば、仏教では、仏陀は死後も現在に至るまで修業中ということになっているが、こうしたところに、グノーシス主義的世界観が顕著に表れていると言えるのではないかと思う。グノーシス主義とは、一言で言えば、人類が自らの努力によって神の叡智に達するための、果てしない探索の過程だと言えるかも知れない。しかしながら、クリスチャンであれば、誰しも分かっている通り、人類が自己の努力によって「叡智」に達し、それによって安息を得る日は決して来ない。だから、そこで言われている「悟り」というものは、事実上、あってないようなものだと考えて良い。死後、何百年間と終わらない修行によって得られる「悟り」などというものは、一種の言葉遊びのようなもので、無に等しいと言って差し支えない。さらに、すでに悟りを得た人間が、死後に至るまでも、さらなる悟りに達するために修行を積まねばならないのだとすれば、そのような人間の弟子となった人間の誰も師匠を超える悟りに達し得ないのは当然である。つまり、こうした世界観においては、人は死後に至るまでも、終わりなき永遠の努力を続けるしか道がないのである。

グノーシス主義的な世界観には、必ず、終わりなき無限のヒエラルキーがつきものであり、こうした世界観が反映する社会でも、無限のヒエラルキーが肯定される。そこでは、この世だけでなく、死後の世界においても、霊界のヒエラルキーなどというものがあることにされて、人の霊魂は、生前のみならず、死後においても、さらなる高みに上昇するために、絶えざる努力(修行)を積まねばならない決まりになっている。

つまり、グノーシス主義的世界観とは、人間の霊魂が(神のような高みに)上昇することを至上の価値とする考え方だと言うこともできるものと思う。ところが、その世界観においては、上昇するための梯子は無限であるため、どれだけ人が修行を積んでも、達成したという時が来ないのである。仏陀が未だ修行中なのも、霊界におけるヒエラルキーをさらに上に昇って行くための修行が続いているためであり、それは言い換えれば、人の魂が修行という「自己の努力」によって、「神」の高みに達しようという試行錯誤は、永遠に終わらないことを象徴的に指している。

言い換えるならば、その霊魂上昇のための終わりなき努力は、ルターが自力で登ろうとしてあきらめたピラトの階段にもたとえられよう。よく知られているように、ルターは贖罪のためにピラトの階段をひざで這い上っているうちに、人間が自力で神に到達することは不可能であるという聖書の真理に気づいて、「義人は信仰によって生きる(=人はキリストによらず、自己の努力によって神に贖われて義とされることはできない)」という結論に達し、果てしない階段を自力で上り続けることによって、自分で自分を贖い、神の聖に達しようとの努力を放棄した。

だが、信仰によって生きない不信者は、今でもこの階段を膝で登り続けている。場合によっては、死後に至るまでも、その努力はやまないのである。

多少、話は脱線するようだが、筆者はこれまで、日本の官僚制度や牧師制度などを強く批判して来たが、それはこうした制度の背後に、グノーシス主義的な無限のヒエラルキーの階段が潜んでいると考えているためである。つまり、こうした制度は単なる制度ではなく、ある種の世界観の反映として出来上がっているものなのである。

現存する社会の制度や仕組みの背後には、必ず、それに相応する目に見えない価値観・世界観が存在する。一つの制度が生まれて来る背景には、それを肯定し、生み出す原動力となった何らかの宗教・哲学的イデオロギーが必ず存在しているのである。この点に注目しなければ、ただ人の目に時代錯誤で歪んだものと見える社会制度だけをどれほど糾弾したところで、その制度の本質にまで迫って、制度自体が根本的に悪であるということを訴えることはできない。そして、歪んだ制度を支える世界観とは何かという問題を追求して行くと、ほとんどの場合、結局、グノーシス主義の終わりなきヒエラルキーに行き着くのである。

たとえば、官僚制の背後には、人に抜きんでて優秀な人間とみなされるための努力を積んで、学校で良い成績をおさめ、受験競争を勝ち抜いて、より良い就職口を得て、組織内で出世し、高給と安定的な暮らしを経て、国を動かすような組織の頂点に立つことを至高の価値とするような価値観がある。それは、人の人生とは、他者に抜きんでてエリートの階段を上って行くための絶え間ない努力の過程である、という価値観を象徴している。

牧師制度もそれによく似て、献身して神学校に入り、特別な教えを受ければ、その信者は、他の信徒とは別格の霊的な祝福を得て、信徒の模範的存在になれるかのような考えに基づいている。こうした考えには、学習を積み、知恵を手に入れた人間は、他の人間よりも優れた価値ある別格の存在として、他の人間の及ばない有利な待遇を手に入れるに値する人間となる、という前提がある。教会においては、学習を積んで、エリート的な指導者になったからこそ、牧師はその奉仕に報酬をもらうことが教会内で認められるが、信徒の奉仕は無償なのである。

このようなものは、人間の平等、信徒の平等の原則に反するエリート制度であり、聖書に合致する概念でもない。そこにあるのは、偽りの霊界のヒエラルキーの階段を上り続けた人間だけが、優れた価値ある人間になる、グノーシス主義的世界観である。

なぜキリスト教界からのエクソダスなどを筆者が唱え続けているのか、その理由もここにある。それは、既存の教会組織においては当然のものとみなされている牧師制度や(もしくはカトリックのような聖職者のヒエラルキーは)、根本的に聖書の御言葉に反しており、信徒の平等を否定するものだからである。

そのような階級制度、ヒエラルキーは、官僚制度が憲法に違反しているのと同じくらい、聖書の御言葉に反している。これは聖書的な制度ではなく、むしろ、グノーシス主義的・異教的価値観を取り込んで成立したものであり、教会の堕落やこの世との妥協を示す一例である。この問題については以下でもう少し詳しく触れる。

我が国を含め、非聖書的なグノーシス主義的世界観の支配する社会では、序列というものがほとんど絶対化され、人間存在は、無限のヒエラルキーの階段を上昇し続けるためだけに生きているかのようにとらえる。

たとえば、現在の我が国の至るところに蔓延する長時間残業の習慣化といった現象などにも見られるのは、合理性よりも、情緒的かつ無意味な、うわべだけの「頑張り」や「自己犠牲」を評価し、奨励する風潮である。効率的に仕事を終えて、定時にすべての課題を「達成して」帰宅する社員よりも、非効率的に仕事をして遅くまで会社に残って残業し、いつまでも課題が達成できないと嘆きながら奮闘している社員の方が、上司から高く評価されるといったナンセンスな評価が起きて来るのも、その背後に、以上のような考え方が存在するためである。

グノーシス主義的世界観においては、人間存在はどこまで行っても「道半ば」であって、終わりなき霊魂上昇の梯子を上り続けるための道具でしかない。この世界観において、絶対的な価値を誇っているのは、霊魂上昇のための永遠の梯子だけであって、人間はその梯子によって値踏みされる存在でしかない。だからこそ、人の人生は終わりなき苦行の連続であって、そこに完全さや、達成は存在せず、人が安息することは、死後になっても、永遠に許されないのである。

そこでは、どんなに努力しても、人は「ひとかどの人間」には到達しない。どんなに懸命に階段を上っても、その階段には終わりがなく、一つ課題を終えても、次から次へとさらなる課題がやって来るだけで、いつまでも「努力中」という看板を下ろすことが許されない。たとえ何か一つの事を達成してみたところで、それは果てしないヒエラルキーの梯子全体から見れば、無にも等しい。だから、このような価値観においては、人間の努力は全く報われず、人は何事も「達成した」と言ってはいけないという暗黙の前提が存在するのである。

ある意味では、早くそのカラクリを見抜いて、「努力中」という看板を表向きにだけ掲げておいて、その実、サボタージュに及んだ人間の方が、必死で努力し続けて報われない人生を送る人間よりもまだ賢いということになる。

だからこそ、そのような世界観の中で、己が霊魂を上昇させるための絶えざる努力をずっと続けている人々には、どういうわけか、お決まりのように、悲劇的かつ逆説的な現象が起きて来て、いつの間にか、彼らが口で唱えているご大層な理想と、彼ら自身の現実のありようが正反対のものとなり、その乖離状態・偽善性が誰しも否定できないまでになって、その矛盾を他者から指摘されてさえ、「どうせ私は努力中の身で道半ばですから」ということを口実に、自らの未熟さ・不完全さに居直るまでに至る人々が出現するのである。こうした人々にあっては、自己の努力などといったものは、単なるアリバイ工作でしかない。

このようなものは、人の努力や願いそのものをあざ笑うかのような、実に絶望的かつ悪意ある世界観である、と思わざるを得ない。このような世界観に基づいて成立していればこそ、この社会においては、人は自分がいかに未熟者であるかを強調することによって、自己卑下を繰り返さざるを得ず、自分がいかに何かを「達成した」と言える「ひとかどの人間」からかけ離れているかを、絶えず口にしないわけにいかないのである。

出る杭は打たれる」などという風潮も、その意味において単なる風潮ではなく、その背後にあるのは、グノーシス主義的世界観である。そこでは必死の努力を積んで何かを「達成した」と述べた人間が「高慢だ」とバッシングされ、「未半ばで努力中です」という看板だけを掲げて自己の欠点に居直っている人間の方が、「謙虚だ」とみなされるのである。

この世界観は人間にとって大変不幸なものである。このような世界観においては、いつまで経っても、人の努力が認められ、何かを達成したと、堂々と胸を張って安息できる日は来ない。仏陀ですら今も修行中なのだから、人間が修行から解放される時は死後も永遠に来ない。このような世界観は、非常に歪んだ、悪意ある、人を不幸にするだけのものである。それは常に言う、「人間存在とは、自己の努力によって、(いつかは神に達するために)、ピラトの階段を上り続ける宿命を負った存在だ。その苦役から永久に解放されることはできない。それをまだ始めたばかりの人間が、自分は何かを達成し、特別にこの苦役から解放されので、もう努力する必要はなくなった、などと思うのはとんでもない思い上がりだ」と。

ただし、この世界観においては、永久に達成も安息もやって来ないかも知れないが、人は自分の必死の努力のおかげで、梯子をいくらか上に昇り、下界にうごめいている無知蒙昧な衆生に比べれば、いくらかましな存在になったと自己満足する程度のことは許されるかも知れない。そのような優越感・特権意識だけが、この終わりなき梯子を自力で昇って行くというむなしい報われない努力に生きる人々を支える原動力となっているのである。

だから、こうした考えが根底に横たわっている社会においては、個人の絶対的な価値というものは否定されるのは仕方がないであろう。なぜなら、そこでは個人の価値とは、ヒエラルキーをどれだけ昇ったかによって変わって来るものだとみなされているからである。結局、そこでは、個人というものは、端的に言えば、人類が自己の努力によって神に到達するための道具でしかないのである。「神に到達する」と言えばまだ聞こえは良いかも知れないが、現実は、特攻と同じくらい、達成不可能かつ無謀な目的のために、永遠に奉仕させられる道具なのである。ただ各種の偽りの美徳でおだてられて、自分の進歩に鼻高々になっているために、この偽りの梯子の操り人形となっている個人は、自分が何をさせられているのか分からないだけである。

さて、話を戻すと、クリスチャンでさえ、以上のようなこの世的な偽りの世界観に立って、信仰生活における自らの進歩のなさを克服するために、熱心な勉強会を開いたり、祈祷会を開いたり、あるいは懸命に霊的なハウツー本のようなものを探し出して来て、クリスチャン同士教え合ったり、優れたクリスチャンの功績に習おうと頑張っているという現状がある。

この世的な観点から見れば、そのように自己の不完全さを自覚して、足りないものを補うために、熱心に勉強している信者の姿は、謙虚に見えるかも知れない。だが、一つまかり間違えば、このような勉強熱心さは、神の御前では、謙遜とは無関係であるばかりか、「神の祝福、富を、(人間が自己の力で)所有しようとする」大いなる高慢、大罪に相当する恐れが十分にある。

前回の記事において、エクレシアという語に「教会」という訳語を割り当てること自体が、不適切である、と筆者は書いた。

今日、当然のごとく使われているキリスト「教」、「教会」という呼び名は、他に相当する語がないため、一般に使用を控えることが難しい状況があるが、本当のことを言えば、これは聖書の御言葉の本質を適切に表すにふさわしい訳語とは呼べない。

そもそもキリスト教は、人間の作った「教え」ではなく、イエス・キリストを開祖としてできた宗教哲学でもなく、エクレシアとは「教える会」ではなく、「クリスチャン」のという語のもともとの由来は「キリストに属する者」という意味であり、英語の"christianity"という単語にしても、「教え」という意味は含まれていない。にも関わらず、この訳語に「教」という語が入っていること自体、不適切かつ誤解を呼ぶものだと言える。

このように不適切な訳語が割り当てられているために、キリスト教には「教え」の要素が色濃く強調されているのだが、 筆者の考えでは、これは決して偶然に起きたことではなく、ここにも、牧師制度と同じほどにグノーシス主義的価値観の反映が見られるように感じられてならない。

つまり、この訳語のために、信者の間でさえ、教会というところは、あたかも「霊的偏差値を上げるための熱心な勉強会」のようにとらえられているのである。だが、それは御言葉の正しい解釈ではなく、人間の驕りに基づくとんでもない勘違いでしかない。

前回の記事において、信者は聖書が教えている通りに、キリストご自身から、御霊を通して、御言葉を直接、教わるべきであって、人間の指導者から教えを受ける必要はないことを書いた。たとえ信徒同士で励まし合ったり、戒め合ったりすることが有益であるにせよ、信徒がキリストご自身の役割を奪ってまで、他の信徒を教える立場に立ち、他の信者を自らの精神的指導下に「弟子化」して行くことは誤っているという考えを述べた。特に、ネズミ講のような目に見えないピラミッド体系を作り、上に立つ信者が配下にいる信者から様々な諸権利を奪い取り、不当な自己犠牲を強いることによって、奉仕を受けたり、栄光を受けたりして、霊的搾取に及ぶなど言語道断である。

それにも関わらず、霊的先人たちの教えを「教本」のように用いながら、他の信者に対して、教師然と君臨し、教える立場に立とうとする信徒は枚挙に暇がなく、またそのような教師や指導者になりたがる信者に、自ら教わろうとして弟子化されていく信徒も終わりがない。このようなものこそ、まさに人間による「教え」によって作り出された霊的搾取と支配のためのヒエラルキーの体系なのである。

しかも、すでに述べたことであるが、今日、たとえば、ウォッチマン・ニーであれ、オズワルド・チェンバースであれ、誰であっても構わないが、霊的先人たちの教えをしきりに引用しては、他者を教える立場に立ち、熱心な学びをアピールしている信徒のうち、どれほどの人々が、自ら教えていることに忠実に生きているかを見てみれば良い。残念ながら、その圧倒的大多数は、心からその教えに従いたいと願っているというよりも、むしろ、自らの本質を覆い隠すための二枚舌、アリバイ工作として、霊的先人の教えを表向きに掲げているに過ぎない、という現状が見えて来る。先人たちの教えを数多くストックしつつ、他者を教え、自分も学んでいることをしきりにアピールしている実に数多くの信者が、口先で唱えている教えとは正反対の生活を恥ずかしげもなく送り、自らの信念を裏切っているのである。一体、そのような偽善的な人々の「説教好き」や「勉強熱心さ」は、どこから来たものなのかを、我々は今一度、吟味してみなければならない。

アダムとエバが、神に対して最初に罪を犯し、堕落したきっかけは、彼らが、神が許された限度を超えて、自分たちの力で霊的な高みに上り、「神のようになろう」としたことであった、という事実を思うとき、信徒が霊的な進歩を追い求めて、自ら熱心な学びを進めようとすることに潜む大いなる落とし穴の存在を思わずにいられない。

信者がカルバリの十字架において、この世的な栄光を一切奪われたところで、キリストご自身の死に同形化されて、ただ神からの栄誉のみを求めて、御霊によって教わるのではなく、信者がキリストの十字架の死という土台を離れたところで、この世や、周りにいる信者たちから、「熱心に努力している優秀な信徒」とみなされて好評を博し、拍手を受け、自己満足・自己肯定することを目的に、御霊が教えてくれるのを待たずに、自ら様々な教本に手を伸ばし、その学びを通して神に近づこうとすることは、大変危険な行為である。それは人類が自らの力で霊的に進歩し、神に到達しようという欲望そのものを表す行為であると言って差し支えないからだ。

たとえば、ローカルチャーチを批判しながらも、ウォッチマン・ニーの教本を長い間使用し、ついに自分たちを神だと宣言したKFCとDr.Lukeの例を考えてみる意義は大きいであろう。彼らが引用していた「教本」は、ウォッチマン・ニーに限らず、様々な聖霊派の教えや、心理学や、脳についての非科学的な発表など、多岐に渡る知識の寄せ集めであったが、それらすべての人工呼吸器や点滴のような知識の「栄養補給」が彼らにもたらした結論は、そうした学びによって、彼らが「神に到達した」という結論だけだったのである。

このような宣言は、決して御霊に導かれる信者から出て来ることはないものである。彼らの学びの意欲は、彼らを謙遜に導くことは決してなく、彼らをますます高慢にして行き、ついに神の高みに自力で達し得たと豪語するまでのところまで、彼らを導いたのである。キリスト教界とローカルチャーチの欺瞞を批判していた人々が、批判していた対象と全く同じ偽りに陥ったことに注意したい。

こうした事実から察するに、この人々が手に取った「知識」とは、御霊から来るものではなく、サタンから来る「人が神になるためのノウハウ」であった、と考えるのが妥当である。

筆者は、すべての霊的先人が間違った記述を残していると言うつもりはなく、中には御霊に導かれて書き残された記述もあることだろうと思う。これまで筆者自身が、そうした記述から有益な霊的な糧を受け取ったこともあれば、そうしたものを紹介してくれた信者から、必要な御言葉を聞いたこともある。だから、こうした「教本」のすべてが無益でむなしいものだと主張しているわけではなく、また、信者がそれらから学ぶことが皆無で、全く有害でしかないと言うわけでもない。

だが、よくよく覚えておかなくてはならないことは、どんなに霊的先人たちの残した記述が優れているとしても、信者がそのような記述を可能な限り身の回りにかき集めて来て、自分の知識の本棚にストックし、クジャクの羽をつけたカラスのように見せびらかしたからと言って、それによって、カラスがクジャクになることは決してない、という事実である。キリストとの直接の交わりがなければ、どんなに優れた先人の残したどんなに優れた知識をどれほど大量に蓄積したところで、それによって、その信者の堕落した自己の本質は決して寸分たりとも変わりはしないのである。その信者は、そのような学習によっては、一歩もキリストに近づくことはなく、むしろ、そのような方法でこうした「教本」を利用すると、どんなに優れた学習教材も、その信者が自己の本質を偽り、自分を飾るためのイチヂクの葉以上の効果を全く持たないものとなってしまう。

しかし、こうした問題について、KFCだけを断罪するのは当たらないであろうと思う。というのは、類似した問題が、キリスト教界全体に起きているからである。筆者が何を言いたいか、もうお分かりの読者もいるかも知れない。

キリスト教は人間の作り出した言い伝えや教えではなく、エクレシアは「教える会」(勉強会)ではないにも関わらず、それが意図的に「教会」と訳され、その訳語のために、エクレシアが霊的偏差値をさらに高めるための勉強会のようにみなされている背景には、エクレシアの本質を何かしら別物にすり替えようとする暗闇の勢力の意図が働いているのではないかと思わざるを得ない。

一体、何のための「勉強会」なのであろうか? そこで教えられているものとは何なのか? 

端的に言えば、そこで教えられているのは、「人が神になるためのノウハウ」なのである。その点で、今日、キリスト教界で広がっている光景は、主イエスが地上に来られた時の宗教家たちの姿とさほど変わらないものだと言えよう。当時の律法学者やパリサイ人たちは人一倍、神に近づくことに熱心な人々であった。彼らは律法を守り、落ち度なく行動し、聖書にも精通しており、人からも尊敬を受けていた。そして、彼らは自分たちの宗教熱心さのゆえに、自分自身を神にも等しい聖なる存在のようにみなしていた。それにも関わらず、実際は、彼らの熱心な努力は、彼らを神に近づけることは全くなかったのである。主イエスは彼らの偽善性を指摘してこれを罪として非難された。

今日の状況もそれとよく似ている。人前に何の栄光ももたらさない十字架の死という土台にとどまって、信者がただキリストご自身が、御霊によって、直接、信者の霊に啓示を与えて下さるのを待つかわりに、手っ取り早く人間が自ら作り出した学習教材に手を伸ばし、そこから疑似的な啓示を受け、そこで受けた刺激や感化を通して、自分を飾り、あたかも自分がそれによってキリストに近づき、人間性が改善・進歩したかのような錯覚に陥っている。それはどこまで行っても、神を抜きにした人類の独りよがりな自己改造の努力に過ぎないのだが、それが分からなくなった信者は、そのようなヴァーチャルな変化を積み重ねて行くことにより、神との合一に達しうるかのように考え、ついには神に達したと宣言するまでに至っている。このヴァーチャルかつ偽りの自己改造の努力を、会員全体で積み上げることによって、皆で霊的偏差値を上げてキリストに近づき、到達しましょうというのが、「教会」という訳語が本来的に意図する目的なのではあるまいかと筆者は考えずにいられない。

そのように考えると、今まで教会について疑問に思われたすべてが腑に落ち、納得できるのである。今日のキリスト教界がなぜ現状のような有様になっているのか、なぜとりわけ熱心そうに見える教師然とした信徒たちが、恐るべき偽善的な生活を恥ずかしげもなく送ることができるのか、なぜ信者間に競争があり、差別があり、排除があり、同胞を貶め、排除しながら、特定の集会に居残った人たちが、まるで神に選ばれたエリートであるかのように勝ち誇るといった現象が起きているのか、すべてがよく理解できるのである。

それは、彼らが信仰の名のもとに目指しているものが、キリストご自身によらずに、自分たち人間の力で神に到達し、神の聖なる性質を我が物とすることだからである。一言で言えば、彼らは霊的な淘汰の競争を勝ち抜いて、霊的なヒエラルキーの階段を高みに駆け上って、自ら神の選民となり、神と合一することを目指しているのだと言える。

だが、そのような願いは御霊から出て来た思いではない。だからこそ、そのようなこの世的な歪んだ競争原理、淘汰の原則の働くところ、もっと言えば、霊的な優生思想とで呼んでも差し支えない悪しき歪んだイデオロギーの支配する場所では、様々な不幸な現象が起きて来ることは避けられず、それはもはや一部の教会だけがカルト化しているなどといった次元の問題ではないのである。にも関わらず、キリスト教界組織そのものに根本原因があることを見ずして、キリスト教界がキリスト教界を取り締まるために、自らが繰り広げるカルト被害者救済活動など、全く根本的な対策とはならないのは当然である。

信徒間にヒエラルキーを作り出し、霊的支配と搾取を肯定し、ただ神からの栄誉を求めるのではなく、世と人前でに栄誉を受けることを求め、神の働きを静かに待ち望むのでなく、人間の側からの熱心な努力により頼んで、神に近づき、神の聖に至りつこうとしている今日のキリスト教界そのものが、「ピラトの階段」と化しているのである。

霊的な進歩を求めて熱心に学習を積むことは、人の目には善良なことのように映るであろう。しかし、神の目には、神ご自身から生まれたものでなければ、決して価値あるものと評価されることはない。そして、神からの栄誉と人からの栄誉を同時に受けることは決してできない。神の祝福や富が人間に注がれるためには、カルバリの十字架における霊的死がどうしても必要なのであり、人の古き自己が完全に焼き尽くされ、灰にされた地点でのみ、神からの祝福がその人に注がれるのである。

にも関わらず、人前での栄誉、世からの栄誉を追い求め、これを完全に失う十字架の死の地点を経由していないのに、信者が自己の努力で様々な学習を積んで、神の聖に近づこうとすることは、神を抜きにして、人が神に到達しようとする驕りである。そのような学習を通じて得られる知識は、信者を高ぶりに陥らせるだけで、決して神に近づけることはない。

繰り返すが、人が神に到達する道は、十字架以外には存在しない。その十字架は、人前に何の栄光もなく、その道は、人前に「熱心で模範的な優秀な信徒」や、「優れた霊的賜物を持つ教師」などとみなされて評価され、誉めそやされて脚光を浴び、感謝と拍手を受けて、栄光化されることとは全く相容れない道である。

PR

ある姉妹と共に

ここ数日は、暖かい日だったので、市内を散策した。
 一昨日は、ある姉妹が私に街の案内をしてくださった。若い頃、ご主人とのデートコースだったというこの街は、年月が経って、すっかり変わってしまったらしく、かすかな記憶をたぐり寄せながら、あちこち連れて行ってくださった。エネルギッシュなこの街は、私には大阪と神戸をごちゃまぜにしたように見える。彼女は私よりだいぶ年上なのに、疲れることもなく、むしろ、恥ずかしいことに、スタミナのない私の方が着いていくのがやっとだった。

 姉妹とは、まだ知り合って間もないので、お互いのことはよくわからない。私のブログの長すぎ、かつ、殺伐とした文章が、よほど、あまりいい印象を与えていなかったらしく、初め、
 「あなたは何でも理詰めで考える方なんですか?」
 なんて質問されたりもして、ちょっと面食らった。

 そう言えば、他の兄弟からも、「あなたの日常的なところを見せてあげたら、きっと喜ぶと思いますよ」なんて、妙なアドバイスを事前にもらっていた。一体、私という人は、兄弟姉妹からどのような印象を持たれているのだろう、よほどの変人と思われているに違いないと、首をかしげることしきりだった。

 もちろん、そんなのは最初だけのこと、話を深めるとすぐに、第一印象は吹き飛び、年齢差も、好みも消え去って、とても仲良くなってしまうのが、エクレシアの不思議なところだ。主についての話題を語りだすと、きりがない上に、あたかも、個人差が消え去ったかのように、皆が一つにされる。

 昼食を終える頃には、互いの人生にどのように神が働かれたかを聞いて、「ああ、この人も、やっぱり、主が召し出された人なんだなあ…」という確信と、親しさをお互いに感じていたのではないか、と思う。キリスト者は、外見がどれほど違っていようと、根底では、とても共通した部分を持っているはずだ。そうであるのが当然、そうならない方がおかしい。何しろ、キリストの性質が人格に織り込まれているのだから。

 私には、これまで、主にあっての「お父さん」が一人登場したが、今度は、「伯母さん」が与えられた。この家族は、一体、どこまで広がりを見せていくのだろう? 楽しみこの上ない。

 キリスト者の人生には、大変なことも随分あるが、適時に、主は楽しみを与えて下さる。とても平凡で、人には知られていないようでありながら、驚きと楽しみが尽きない人生を私たちは送ることができる。
 その姉妹も、これからの世の中は、ますます混乱に満ちたものになるだろうと予想されていた。しかし、キリスト者には、たとえ迫害の中にあっても、人知を越えた平安が与えられる。

 「神の言葉はみな真実である、
 神は彼に寄り頼む者の盾である。<…>

 わたしは二つのことをあなたに求めます、
 わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
 うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
 貧しくもなく、また富みもせず、
 ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
 
 飽き足りて、あなたを知らないといい、
 『主とはだれか』と言うことのないため、
 また貧しくて盗みをし、
 わたしの神の名を汚すことのないためです。」(箴言30:5-9)


 共にこの道をしっかり歩んで行きましょうね。

--------------

2016年追記。この姉妹も残念なことに、当時、書いていたブログを早々に閉鎖して、震災の後には、海の見える素敵な一軒家を手放して、最後には関東をも去った。筆者が出会った頃には、かなり年配の独身者でありながら、エネルギッシュで活動的な人であり、活発に仕事もしていた。しかし、その後、自分で見つけて入ったホームをも放棄して、ついには関東を去って、それほど親しかったわけでもない家族のもとに身を寄せたという話を聞いた。

結局、この人もまたルーク氏の取り巻きを離れられなかった一人なのだろうと筆者は考えている。筆者が出会った頃、すでにKFCから距離を置いていたが、精神的には離れられなかった一人である。そうした人々は結構な人数、存在していた。彼らは陰では去って来た団体のことをあれやこれやと批評し、新たな出発を遂げたように主張していたのであるが、決して公に訣別宣言をしようとしなかった。だから、精神的・霊的なつながりが、結局、最後まで絶たれないのである。

はっきり言ってしまえば、彼らが重視したのは、人情による絆、また社交クラブのような仲間内の親しい関係が断たれないことであり、神の御前で受ける便宜よりも、人間から来る便宜の方を優先したのである。だからこそ、関東を去った後までも、その交友関係のつてを辿って行ったのだろうと推測される。

2009年当時、この信者に出会って開口一番に筆者が聞かれたことは、「あなたはKFCを目当てに関東に来たのだと私は思っていた」という言葉であった。その「目当て」というクリスチャンにふさわしからぬ意地悪な意図を含んだ言葉が、筆者にとって最も心外であったことをよく記憶している(なぜなら、その頃、筆者はKFCには一度たりとも足を踏み入れていなかったにも関わらず、この姉妹はあえてそのような表現を用いたからである。)ある意味、上記に書いた交わりも、自分たちのサークルに足を踏み入れてきた新人への一種の行状偵察のような意味合いを帯びていただろうという気がする。

だが、この姉妹は、そういう挑発的な発言を相手構わず発する性癖があることを自他共に認めていた。横浜の有名な公園が改装された時には、公園の設計者に向かって自ら「前の方が良かった」と発言したと自ら語っていたほどであった。

あっけらかんとして常に開放的ではあるが、色々なことについて何度も語り合うと、常にどうにも釈然としない印象だけが残った。筆者はKFCからの追放という事件についても語ったが、この「姉妹」が筆者に勧めたのは、仲直りによってその団体に戻ったら、ということだけだったのである。2009年当時、自分自身がKFCを批判し、そこからエクソダスしたと主張していたことさえすっかり記憶から消し去っている様子であった。結局、この「姉妹」は自分は批判されないために、もうとうに離れたはずのKFC関係の人間関係を再び引っ越し先でも頼っているとのことであった。

この姉妹については、比較的最近、「あの人は家を手放したりしなければ良かったんですよ…」という評価を耳に挟んだこともあった。決して、そのような言い分を述べた人間に全面的に賛同するわけではないが、ある意味では、この評価に筆者も同意している。

上記の記事で、筆者はスタミナがなかった自分を振り返っているが、若いころにはエネルギッシュでも、我々は、老年になってどういう生活を送るのか、神と人との前で試されることであろう。生まれながらの力が衰えるままに、常識の通り、それまで獲得したものをただ手放し、生活を縮小し、衰退の一途をたどるだけに終わるのか、それとも、この地上の法則に逆らって、アブラハムのように、老年になってなお衰えず、栄光から栄光へと主の似姿に変えられるのか。

これは筆者が姉妹より若いから言うのではない。この姉妹ほどエネルギッシュでも陽気でもなく、この姉妹より年上であっても、未だ単身で活発に活動しているしている人たちも存在していることを筆者は知っている。

だから、外側から判断したときの人の生来の輝きと、内なる人の輝きは全く別物であるのだということを、今だからこそ、はっきりと確信できる。この姉妹を含め、当時、筆者が出会った人々は、ほとんどが筆者より10~20歳は年上で、人生経験も豊富で、まだまだ元気で、関東のことも、クリスチャンの交わりのことも、勝手知ったる様子で、活発に活動していた。ある意味、豊かな時代に思う存分、甘やかされたのか、尊大で、我が物顔に振る舞い、思いのままに放言していた人々も多く、そこから見ると、筆者は青二才であったのだろうと思うが、その後の数年間で、彼らは人間関係の対立が起きないことだけを第一として、自らの信仰告白や意見発表もやめ、第一線から退いてしまった。そして、それをきっかけに、彼らはそれまで歩んで来た霊的上昇の人生そのものを放棄してしまったようにしか見えないのである。ついには彼らの交わりも散り散りになって行った。彼らの信じていたものの本質が、露呈したのだと筆者は考えている。

第一印象で受けた一種の違和感は、錯覚ではなかったと今は思う。当時、姉妹が書いていたブログは「この道」という題名だったのだが、そのブログさえ、姉妹はあまりに早く辞めてしまい、書きとおすことをしなかった。実のところ、ブログは単なる趣味ではない。これは全世界と暗闇の軍勢の前での、神の正しさと勝利を証するための激しい戦いを意味する。自分はこの道を確かに貫徹しており、決して諦める意図はないという態度の表明でもある。

だが、残念なことに、ほとんどの信者にとっては、ブログは単なる貴族的趣味に過ぎなかった。だから、戦いのほんの最初のとっかかりに触れただけで、そんなものは絶対に御免だとばかりに一目散に逃げ去って行ったのである。その上で、彼らは戦場に残った信者たちの無様な戦いぶりを嘲笑する側に回った。そして、ネットで信仰告白を続けることは、無意味でむなしい所業であるかのように聖徒らの苦労をあざ笑ったのである。その罪は重いと筆者は考えている。

だから、筆者のブログに長いとか、難しいとか、ケチをつけるのは人の勝手であるが、それだけの批判が出来るのであれば、なおさらのこと、自らは初心を貫徹し、より優れた作品を残し、信念を貫き通して表明して欲しかったものである。信仰に限らず、自分ができもしないことで、人をいたずらに批判するのは高慢さの証でしかないので、やめた方が良かろう。

「KFCに一度でも関わったことのある人は、難しい」ということを述べた信者がいた。筆者はその意味が今だからよく分かるのである。KFCに関わったことのある信者たちの内側にいつまでも拭い去れない悪影響として残り続けるのは、「私は人前でみっともない失敗をしたくない。私はスマートでカッコいい生き方をして、決して誰からも嘲笑されないように、高みに座して賞賛を受け、無傷でいたい」という願望、つまりは見栄である。そして、そのような成功者としての外見をきどるために、彼らは戦いを忌避し、泥にまみれることを厭い、リスクを払わず、キリストの通られた十字架の痛み苦しみを決して負わない。そして、主の御名のために真に苦難を受けている人々を蔑む。だから、そこにとどまっている限り、彼等にはそれ以上の前進もないのである。

人が生まれ持った力や、肉的な願望に基づいて、信仰をアクセサリーのようにひけらかし、それによって自分がいかに優れて幸福な人間であって、神に愛されている信者であるかを人前に誇示するのは簡単なことである。だが、信仰も、試されない限り、決して本物にならない。この世の法則と肉の力によって手に入れただけのものは、この世の情勢が変わり、肉の力が衰えると同時に、全て消え去って行く。そのことにより、彼らが誇っていた信仰の本物度が試されるであろう。

我々はただ環境によって手に入れた幸福や、自分の外なる人の強さから来る長所により頼んで生きるのではなく、それらの肉の強さが全て尽きた後でもなお残る信仰による内なる人の強さを握って生きたいと願う。ある意味、ここに書いたことはとても厳しい言葉であるが、筆者自身も、必ず、同じように試されるのである。

2009年当時に知り合ったあまりにも多くの信者たちが、KFCなる実態もないような団体の中における自分の見栄や地位を失いたくないという願望のために、信仰の証を曲げ、戦いを退き、当初、目指していたはずの目的を放棄して、去って行った。だが、その選択が、決して本当に神に喜ばれるものではなかったことをその後の顛末から筆者は確認しているように思う。

震災以降、この関東に残り続けることには、色々な人々に安全面での心の不安もあろう。正直なところ、どうして主がこの地での筆者の生活をずっと守って下さっているのか、筆者にも分からなくなる時がある。ここにいなければ、もっと安穏とした生活が送れるだろうという気がすることもあるからだ。しかし、そうした怖れに駆られて敗退すべきではない、ということを常に思わされる。我々は自分の地歩を固め、拡大しこそすれ、それを決して縮小してはならないのだ。我々は、キリストの復活の命によって、死に逆らって立つ者である。神が信じる者に要求しておられるのは、信者を取り巻くあらゆる死の圧迫を打ち破って、力強く復活の命に立って、その勝利を生きて証明することであるのではないか。たとえ生活のあらゆる安寧を即座に手に入れたとしても、もし永遠に変わることのない価値を追い求めて生きるのでなければ、信者になった意味そのものがないと言って差し支えないと筆者は確信している。




 

エクレシアと一つ

 私が勧められてウォッチマン・ニーの著書を真剣に読むようになったのはごく最近のことだが、不思議なことに、それと時期を同じくして、今まで誰にも知られていなかった獄中でのW.ニーについての証がSugarさんのブログ獄中のW.ニー(1)から発表された。
 W.ニーの優れた著書や、メッセージの記録を、自分たちの権威として巧みに利用しようとする団体がある一方で、この素朴な証は、何と誠実に、飾らず、W.ニーの人となりを正直に証し、彼の内におられたキリストを率直に証していることだろう。この証を知ってから、私はニー兄弟を含め、先人たちの存在を、どれほど身近に感じるようになっただろうか。

 当初は、亡くなった人を身近に感じるなんて、私は変なのでは?とも思った。けれど、兄弟姉妹に尋ねてみると、それは少しも不思議なことではない、との返事。私たちは永遠に一つのエクレシアに連なっているのであり、霊において、先人たちとも交わっているのですよ、と教えられた。ほら、イエスが山に登られた時、モーセとエリヤが彼の前に現れたのを覚えているでしょう?

 それから間もなく、私は先人を身近に感じるだけにとどまらず、自分が本当にエクレシアの只中にいることを発見した。これまで、私は真実なエクレシアを常に尋ね求めてきた。教会と名のつくところでは、ただ虚偽の交わりしか見つけられなかった。もちろん、私一人でもエクレシアの一員であるということを疑ったわけではない。だが、どうにかして、真実なエクレシアをどこかに見いだせないだろうか、真実な兄弟姉妹との交わりを見つけられないだろうか、と願って来た。

 そうして、あちこち尋ね求めているうちに、ふと、気づくと、私は自分がすでにエクレシアの只中にいることを発見した。しかも、太い鎖ががっちりと組み合わされるようにして、二度と切り離されることのない確かな形で、私はエクレシアに組み込まれていたのだった。しかも、そのエクレシアとは、イエスが天に昇られ、聖霊が信徒の上に下って以後、時を超えて、今日まで脈々と続いて来たものであり、先人たちを含めて、無数の兄弟姉妹が連なっている見えない共同体である…。

 以下は、私と、あるキリスト者の兄弟姉妹(計3人)のメールから抜粋(一部改訂)。

 「今まで、私は一生懸命に『神の御前での単独者』を生きようと苦心して来ました。環境面でも、私は長らく兄弟姉妹との交わりから遠く引き離されたところに住んでいましたから、いつも、信仰上の困難に、たった一人で立ち向かわなければならないというプレッシャーがあったのです。その上、教会という教会の中で、真実な交わりを見つけられなかったため、本当のエクレシアとは何なのか、どこに真実のエクレシアが見つけられるのか、ずっと探していました。一言で言えば、あれも、これも違うという違和感だけが重なり、確かなものを自分が掴んだという実感がなかなか沸かなかったのです。

 けれども、なぜか今日、不思議なことに、突然、亡くなった先人たちを含めて、あらゆる兄弟姉妹と共に、私は今、確かに、キリストの御身体の一部を生きているのであり、もはや私一人の人生は終わった、と分かったのです。今後、私がどこへ行って何をしようとも、あるいは、兄弟姉妹と接触していない時でさえも、私の一挙手一投足の全てが、エクレシアと共にあり、それはエクレシアのためなのであり、エクレシアと私とは二度と切り離すことができないものである、という確信がやって来たのです。

 ちょうど、あの手記の著者が獄中でニー兄弟と出会って、彼らの縁がそれ以後、二度と解かれることがなかったのと同じです! 私たちはとかく、ニー兄弟という一人の有名人にばかり注目しがちですが、獄中で神は彼をエクレシアの只中に置いたのですね。そこで与えられた素朴な交わりは、試練の最中にあって、彼にとって至福となったことでしょう。そうやって、彼の苦しみは分かち合われ、十字架は分担して背負われたのです。W.ニーは獄中でも、キリストの身体の一部としての役割の中を生きたのであって、決して一人、壮絶なまでに孤独に十字架を負ったわけではなかったのですね。
 
 これは決して、W.ニーの受けた試練を、安易な気休めで薄めようとして言うのではありません。あるいは、仲間意識とか、友情、連帯、助け合いを賞賛するという話でもありません。この時代にあって、私たちはみすぼらしい、苦痛に満ちた十字架を背負うことでしか、神の栄光をあらわすことが出来ません。私たちのために用意されているのは、キリストが飲まれたのと同じ、苦しみに満ちた杯であり、この道は、隠された、地味な、さえない、苦しみの道です。けれども、神は私たちに、決してそれを一人ぼっちで最期まで耐えぬくようにとは願っておられない。それは最大の苦痛をすでにキリストが負って下さり、それを私たちがもはや負う必要がなくなった、あるいは、神が私たちの苦痛を軽減するために兄弟姉妹を与えて下さったので、私たちはもはや一人でなくなった、というだけの意味だけにとどまらず、それは、一人の打ち傷が、全員の打ち傷となり、エクレシアが一つとして機能するためなのです。

 言い換えるなら、私たちはこの時代にあって、決して、ただ個人であることを許されていない、私たちのやることなすこと全ては、この時代、そして、それに続く時代のエクレシアとつながっており、そこから切り離されることはあり得ないのです。このエクレシアは なくなるどころか、今後、さらなる広がりを見せながら、キリストの身体としてのリアリティを増していくことでしょう。私はもう一人ではあり得ないのですね!」

「あなたにそのような光を送られた主を賛美するのみです。 『あなた一人が 単独なキリストと一つ』と言う光を基軸として その光が 『単独のキリストの無限への拡大、無限への延長としての 今日の奥義的な天地のキリストと 時空を超えて あなたは総てのキリスト者達と共に 少なくとも今 霊の中では一つである』と言う光へと あなたの中で発展したのでしょう。それを 真理があなたの中でそのツルを伸ばした、『御言葉があなたの中で成長した』とも言えるかも知れません。
 
 もともと その命は一つ 光も一つであり、それが総て今日においては 『あの大きな人』 の中にしか存在していないのですから、私達が分けられることはもう不可能です。それが可能な時があると仮定すれば、それは キリストの体が分解(or解体)される時に限られます。(分解とは死ですが、彼はもう二度と死ぬことは不可能であり、従って 御からだに解体はもはやあり得ません。)
 
 メールの後半で言われていることは 多分パウロの言う『私は あなた方のために、受ける苦しみを喜びとします。そしてキリストの体のために 私の身をもって、キリストの苦しみの欠けた所を満たしているのです。』(コロサイ1の24)と言うことでしょう。 
 パウロはここで 突然 異端者になったのではなく、永遠の中における『原型としての』キリストの苦しみは、更に彼の体の中、時空の中においても、(私達やパウロやW.ニーの肉体においても)あの二千年前にあったのと全く同じ死が 時空を超えて再現されなければならないことを言っているのでしょう。

 もしそれが今、時空の中で私達において再現されないならば、やはり『キリストの苦しみはまだ欠けている』ことになります。総ての永遠の真理は 『聖書に書いてある』だけでなく、時空の中で再現されなければなりません。それこそが、今日のキリスト者において欠落している最大のことです。」

「エクレシアと一つ。これは実に不思議な力のようですね。W.ニーでさえ過去の人ではなく 今もエクレシアの一員。こうなると パウロも ペテロも すでに天に上げられた人々さえ エクレシアの一員。そして見えないそれらの人々に 雲のように囲まれている。う~~ん 素晴らしい・・・」

 本当に、これは素晴らしいことです。いや、想像を絶するほどのことです。私が生きて出会ったことのない信徒とさえ、時空を越えて、主にあって、永遠に私たちは一つに結びつけられているのですから!

「時空を超えて 『あの監房の三人』と私達がつながっているとさえ 感じます。それが、またパウロの監房とも!」

 
アーメン! ぜひそうあって欲しいものです。キリストの苦しみを満たすという光栄な仕事を、どうか主が私たちに最後まで勇気を持って貫徹させて下さいますように。


ーーーー

2016年。この記事にも追記しておく。キリスト者は、エクレシアに入る前、その敷居のところで、自己を焼き尽くされて死んでいなければならない、というのはMr.Sugarの言葉であった。

筆者はこのことに今も完全に同意しているし、その他にも、多くのことを同氏から学んだ。しかし、関東に来て分かったのは、戸口で自己を焼き尽くされていないのに、エクレシアの一員を名乗っている人々があまりに多いことであり、そうした人々が入りこんでくると、エクレシアはエクレシアでなくなり、悪魔の思うままに翻弄される肉の集まりにしかならないということであった。

今現在、筆者は、KFCのDr.LukeからもMr.Sugarからも距離を置いている。そして、ウォッチマン・ニーの著書についても、部分的に徹底的な精査が必要であると感じている。(むろん、だからと言って、キリスト教界に逆戻りする、という意味でもないのである。筆者の交わりは、その時、その時で、主がふさわしい人々を送って下さった。今もそうである。)
 
Dr.Lukeの言説が異端化したことについては、最近の記事で触れているので繰り返さないが、Mr.Sugarについても、触れておかねばならないことがある。

ウォッチマン・ニーの著書に書かれている事がらは、確かに非常に深く、キリスト教界ではお目にかかることもできないような深さがあり、その中に、極めて重要な真理が含まれていることは確かだと思う。そして、筆者自身も、キリストと共なる十字架の死、復活、などの言葉を、Mr.Sugarを介して聞いたことにより、初めて、それまでキリスト教界では知ることもできなかったキリストとの一体性を実際に知るきっかけを得たのである。そこで、この経験は、主が備えて下さったものであり、その意味では、彼らとの出会いも、なくてはならないものであったと言える。

その意味では、筆者に限らず、ローカルチャーチ出身の二人の兄弟が果たした功績というものは、確かに存在するものと今でも考えている。キリスト教界では、聖書の真理についてあまりに多くの事柄が失われてしまったので、ローカルチャーチを介してしか、伝達できないような事柄が存在したのである。しかしながら、同時にここに大きな危険性、もしくは落とし穴があるのは、ウォッチマン・ニーの著書の影響を受けた人々には、多くの場合、「神と人とが混ざり合う」というローカルチャーチの教えの悪影響が残り続けており、ローカルチャーチに関わっていなかったとしても、『権威と服従』という年功序列の絶対化の教えの悪影響が残っているということである。

まず、Dr.Lukeは2016年現在、自分は神であると宣言するに至り、ローカルチャーチとほとんど変わらない異端的確信に至っている。他方、Mr.Sugarがとうに書き辞めたが、ネットには残っているブログも「山暮らしのキリスト」という、自分自身とキリストをあたかも同一視するような標題となっていたことが気がかりである。

Mr.Sugarとはローカルチャーチの異端性について幾度か口論めいたやりとりをしたことがあるが、Sugar氏の家庭では、長いローカルチャーチでの集団生活の影響を受けて、息子のうち二人は心の病に陥り、うち一人は自殺に至っている。一時は、家庭内のすべてが危機に瀕していたと言われる。しかしながら、Sugar氏は子供の死がローカルチャーチの異端の教えに由来するものだとは、決して筆者の前で認めようとはしなかった。

その心の病は、要するに、ストレスや宗教が原因で生じるようなものでは決してあり得ないと言うのである。しかしながら、当時から、ローカルチャーチとSugar氏をよく知るDr.Lukeは、同氏とは全く異なる見解を持っており、ローカルチャーチで子供を育てれば、子供は絶対に気が狂うだろうと予め確信していたので、自分は「あえて宗教団体には子供を入れず、エジプト(この世)で育てたのだ」と公言していた。

筆者もまた、Sugar氏の見解とは全く相容れないながらも、異端の教えを奉ずる宗教団体で子供を育てれば、子供の心にははかりしれない悪影響が残ると確信するのにはわけがある。

筆者はゴットホルト・ベック氏の集会をも観察した。そこでも、KFCと同じように、ウォッチマン・ニーの著書が熱心に愛読されていたのだが、その団体にも、子供を自殺や不幸な形で失った親たちがたくさん詰めかけていたのであった。そして、この団体を観察しているうちに、筆者に分かったことは、この親たちは、子供を不幸に追いやってしまった自分自身の過失から目を背けるために、ウォッチマン・ニーの著書を利用しているのではないかという可能性であった。

なぜなら、ウォッチマン・ニーの『権威と服従』のような教えは、年功序列を絶対化する教えのため、年長者にとっては極めて都合が良いのである。そのような教えを振りかざして自己を絶対化・美化すれば、年長者は、自分は何をしても、従わない年少者が悪い、という理屈に逃げ込めるので、親たちはただ子供に絶対服従を求めるだけで、いかなることについても、自己反省をしなくて済むようになる。そのような浅はかな思考は、特に、子供を痛ましい形で失ってしまった親たちにとっては一種の現実逃避的な慰めをもたらすので、特にそのような人々を惹きつけるのだと考えられる。また同時に、そのような教えを奉じたがために、今も痛ましい抑圧が起き続けているのだと言える。

筆者が最初にSugar氏と決裂に至ったのは、別の記事でも記したように、2009年秋のデッドライン君の登場がきっかけであった。このデッドライン君(仮称)は、筆者のブログを読んで筆者にコンタクトを取り、エクレシアの一員になりたいと告白して来たのだが、この信者をSugar氏に紹介するや否や、あっという間に、彼はSugar氏に「弟子化」されてしまった。そして、以後、何年間も、彼はあたかもSugar氏の徒弟のように行動を共にすることになる。

筆者は当時、家庭にリビングルームも持っておらず、救いのために熱心に祈るべき家族の成員も身近にいなかったことから、Sugar氏とデッドライン君の交わりから、あっという間に、半ば弾き出されたような恰好となった。それをきっかけにSugar氏に疑問を呈したところ、あっさりと交わりから放逐されてしまったのである。

その後、KFCを出たことをきっかけに、Sugar氏と再開し、再び交わりを持ったりしたのだが、そこから得られるものも、むろんあったが、常に、そこには何かしらの望ましくない陰(いうなれば『権威と服従』の悪影響)のようなものがつきまとっていることが感じられた。つまり、何よりも、交わりそのものに、結局は、年少者が年長者に弟子化されて行くという、筆者が最も願っていない序列が出来上がってしまうのであった。筆者は、牧師や教師のような指導者が固定的に交わりに存在することを願っていなかったし、当時、Sugar氏もそのような交わりこそ理想だと公言していた。にも関わらず、誰かをSugar氏に紹介すると、たちまちその人が同氏の信奉者(要するに弟子)となってしまい、以前のようなあけっぴろげで対等な交わりがもはや成立しなくなるということの連続なのである。

Sugar氏は、Luke氏のように野蛮な形で反対者を批判したり追放したりということはしなかった。物静かで上品な外見であり、人との対立を極度に嫌っていたが、そうであるがゆえに、早々に好ましくない事件に巻き込まれることを避けてブログも公開しなくなり、また、Luke氏に対しても、陰では相当な批判を浴びせながら、一度も、公然と決別宣言をすることがなかった。

このように、自分が人間関係を傷つけたり、憎まれ役になりたくないばかりに、人と公然と対立することを避け、公に議論せず、激しい戦いを戦いぬいて自分の信仰告白を守り通したり、忌むべきものに対して断固とした決別宣言を公に出せない、という臆病さは、ある意味、大変、恐ろしい危険でもあるのだと筆者は考えている。一見、それは人間に対する思いやりや、優しさに見えるかも知れないし、対立ばかりしている不器用な生き方とは異なる「スマートな生き方」に見えるかも知れないが、要するに、それは保身の思いから出たもの、もしくは見栄から出た行動であり、どっちつかずの不忠実さをもたらすものであって、決して、真の優しさではあり得ないのだ。もし信者が世間体を重視するなら、それと同時に、全ての人を偽りとしてでも、神を真実な方として、キリストだけにつき従うことはできない相談である。人間の理解や同情や賛同をすべて失ってでも、神にのみつき従い、ただ神だけの顔色を伺うという純粋さが、信者にはどうしても必要だと筆者は思う。
 
だから、同氏の家庭で起きた痛ましい事件を振り返るにつけても、どうにも人間とは見かけではないという気がしてならない。

Sugar氏が息子を失った時に、それを信仰の勝利であるかのようにKFCで証したことは、関係者の間でではよく知られている。その時のメッセージは、KFCのメッセージ集に収められているという。筆者はそれを聴いたことがないが、これを耳にして深刻な違和感を覚え、抗議した信者も当時から存在していた。しかし、KFC関係者はすべてDr.LukeとSugar氏の面目を傷つけないために、その疑念を黙殺したのである。

筆者が最初にSugar氏に疑念を覚えたのは、同氏の山小屋で最初に交わりを持った時のことであった。その時、幼い子供たちを連れて山小屋に来ていた家族があったが、子供たちが遊んでいるうちに、勢い余って、山小屋の備品であったランプを壊してしまった。当然、親は子供をSugar氏の前に立たせて厳しく叱責し、謝らせた。子供たちは泣いて謝っていた。その時、Sugar氏は子供たちに向かって幾度か尋ねた、「わざと壊したんじゃないですよね?」と。

その質問が、筆者に強烈な違和感を生じさせた。なぜなら、元気いっぱいで遊びたい盛りの男の子たちが何人も集まって部屋の中で過ごしていた様子を、筆者は目の前で見ていたからであり、そこにはいかなる故意も悪意も存在しないことを確かに知っていたからである。

このことから筆者が何を言いたいかを察することのできる人はよほど勘の鋭い人であろう。

世の中には、子供たちに存在しない悪意を読み込んででも、自分は正義の担い手であるかのように、彼らを上から目線で指導し、矯正し、罰し、抑圧することに、一種の悦楽を覚える思想の持ち主が存在するのである。そして、そのような考えの持ち主は、とにかくあれやこれやの正論をふりかざして、人の上に立ちたがり、自分のサディスティックな願望や、上に立ちたいという欲望を正当化するために、教師や、牧師や、指導者となって、人々の上に君臨し、人間を弟子化することにより、序列を作り出し、自分の配下にいる人間を、自分が「正しい」と考える鋳型に半強制的に押し込んで、懲罰を繰り返すことによって、自分の意のままに服従させようとするのである。多くの場合、それは信仰を口実になされるが、そうした人格矯正の結果、人間性を否定された「弟子」は人格破綻に至る。そのような例は、カルト団体ではいくらでも見られることであるし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密のような牧師の提唱する「カルト監視機構」という発想なども、結局は、「正義」を口実にして、人間の内面を人間が強制的に取り締まろうとしている点で、上記と全く同じ残酷な発想なのである。

筆者はSugar氏の内面についてあまり多くのことは知らないので、同氏が上に述べたような人格の持ち主なのだと主張しているわけではないが、ただ同氏に起きた以上のような出来事だけを通しても、見えて来るものは確実にあると言える。Dr.Lukeも、Sugar氏も、教師という職業に就いていた。そして、聖書は「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と教えている。もしかすると、これは牧師を指しているだけでなく、教師をも含んでいるのかも知れないと、筆者には感じられることがある。教師でありながら、自分が栄光を受けず、他人の内面の自由を完全に尊重するというのは、極めて難しいことだからである。
 
いずれにせよ、『権威と服従』の悪影響が信者たちの内面に相当深刻に残っていることは断言できるだろう。筆者は、今の曲がった世の中を「子殺しの時代」と表現している。旧約聖書で背教のはびこった時代、神を捨てた背信の民は、自分の娘息子を偶像の生贄として捧げたのである。なのに、どうして今日にだけは、異端の教えを奉じても、信者の家庭にはそのような結果は決して起きないと断言できようか。

筆者は、背教から来る殺人に加担したい願いは毛頭ないので、信者の家庭にそのような痛ましい害悪をもたらす悪しき異端の教えとはことごとく早期に手を切りたいと考えている。その上で、どんなに危険だと忠告しても、過去を反省することなく、その教えと公然と手を切ることもしない信者とは、残念だが、筆者の方からどこかの時点で訣別しなければならないと考えている。人間的には、常に相手の存在が惜しまれるし、エクレシアに抱いていた憧れが消え去ることへの無念もある。だが、異端の教えが入って来ると、もはやそのようなものはエクレシアではあり得ないのだ。

主に従う道は、この意味で、決して安易とは言えない。信仰生活は義理でも人情でもなく、
「汚れたものとは分離せよ」という聖書の原則に基づいていなくてはならず、神に忌み嫌われるものにあえて接触し続けると、信者は必ず痛手を負うことになる。Dr.Lukeの危険性について筆者に最初に忠告したのはSugar氏であったが、Sugar氏は自ら知っていたことについて、様々な責任を負っていたはずである。

ベック氏の集会には、立派な家と立派なリビングルームと立派な家族を持つ多くの信者たちが集まっていたが、にも関わらず、多くの家庭に癒されない不幸があり、その繁栄がすなわち幸福ではないということを筆者は確認したので、今となっては、そのような地上の富を持たないことに対する引け目もなければ、それに対する憧れもない。

筆者の全ての望みと目的は、信仰を口実にして、地上で優れた人間関係を築き上げて壮大なネットワークを拡大することにはなく、あくまで見えない神お一人だけに従い抜くことである。「まず神の国とその義を第一とせよ」、その条件が満たされて初めて、信者の諸々の地上的幸福などなども付随して与えられるのである。


はかりしれないコントラスト

引っ越して来てから、幾人かの兄弟姉妹にお会いした。
その中のある方が、先日、私に尋ねた。
「それであなたは 毎週、そこの日曜礼拝に通ってるんですか?」

それは私の住処から最も近いところにある、とある素敵な集会を指す。
私は いいえ、と答えた。
引っ越してから一度も、私は日曜礼拝に出たことはありませんし、
出たいと思ったこともありません。

その方はちょっと驚いておられるようだった。
エクレシアのために、関西から関東まで大がかりな引っ越しを決行したと言っておきながら、
引越し後も、どこの日曜礼拝にも通っていないなんて!?
どこの集まりにも正式に属していないなんて!?
じゃあ、この人は何のために一体、この土地まで来る必要があったのだろう!?

もの問いたげな兄弟の眼差しを見つめながら、私は思った、
そうだろうなあ、これが普通の反応なんだろうなあ、
世間はきっと、そういう風に受け止めるんだろうなあ。

でもね、どう説明したらいいか分からないけれど、
私にとってのエクレシアって、全く、そんなんじゃないんです。
私が日々、神の御前で主イエスのまことの命を生きる、
それだけがエクレシアの始まりなんです。

* * *

最近、主にあって、些細だがとても重要な仕事の一端を任された。
その大任を 喜びのうちに 全力で果たそうと思って、
ちょっとだけ 以前の学究生活を思い起こさせるような不眠不休の時間を送った。

ところが せっかちな私がどんなに努力しても
いつも 判明するのは 過ちの連続ばかり。
私の常識が 真実には届かないことを思い知らされるばかり。

なのに、自分の限界を知らされることがとても嬉しい。
主は決して栄光を人にはお与えにならないと、
神の知恵はいつでも人の知恵にまさって高いのだと、
それを知らされることが なぜこんなにも嬉しいのだろう。

さらに嬉しいことがある。
三人集まれば文殊の知恵 ということわざがあるが
主にあっての二、三人は 軍隊にも勝るのだ。

一人では全力を尽くしても越えられないはずの限界を、
主にあっての二、三人が集まるときに、
私たちは 軽々と飛び越えていく。

まるで宇宙を足の下に踏みしだいているかのように
一人分の知恵と力ではどうにもならなかった限界をはるかに高く飛び超え
世からは半ば見捨てられたような ちっぽけな存在に過ぎない二、三人が、
誰も思いもつかなかった ありえないような事柄を達成している。

主にあって生きるとは 何と面白いことだろう。
この興味のつきない 終わりのないコントラスト!
固い殻に覆われて 自力では芽吹くことさえできない
一粒のからし種に過ぎない私と
永遠に豊かな実を結ばせる はかりしれない イエスの力ある命!

たとえ自己を焼き尽くされ、何も残らないのだとしても、
それでも燃え盛る炎のような光の中に 私たちは飛び込んで行く。
焼き尽くされるべきものすべてが焼き尽くされて
ただイエスの復活の命だけが 御前に残りますように!

主と二人きり

たった一日だけを目処に、遠い町から家探しに来たとき、
このアパートのベランダから外をのぞいて、
こんなところに住めればいいなあ、と思った。

昭和何十年代に建てられた、ガタのきそうな団地(失礼!)の中で、
参考までにのぞいてみたらどうですかと勧められた、
かなり今風にリフォームされた珍しい一室だった。

窓の外には、一面、山の緑。珍しい鳥々のさえずりが聞こえ、
高みから、地の家々と青々とした庭を見下ろせる。

左手には、夕暮れになると、きらめく街の灯りが広がり、
右手には、見上げると、丘の上にまばらに立っている木々の向こうに、
どこまでも空が広がっている。

この高度では、虫たちは、ほとんど寄って来ない。
ただ翼ある鳥だけが棲む領域。
だから、まだ寒くない今は、
一日中、網戸のない窓を開けっぱなしにして、
さわやかな空気を吸い込もう。

本当に、主は私をこの地に住まわせて下さった。
地だけれど、地ではない。
限りなく天に近く
御前にただ一人の祭司として 主に仕える
その何と甘い、麗しいひと時。
何という 秘めやかなぜいたくだろう。

けれど、明らかに、私だけのため、ではない。
何よりも、それは主との蜜月のため。
そして、今から生まれようとしている エクレシアのため。