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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(8)

8.見えるものを神とする――汎神論化された偽りのキリスト教

①死の否定

サンダー・シングの教えは、ただ裁き主としての神を否定し、万物に定められている滅びを否定するだけにはとどまりません。彼は何よりも、「死」という概念そのものを骨抜きにすることによって、旧創造と新創造の切り分けを否定し、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、神に属するものと、そうでないもの、一時的なものと永遠に至るものの切り分けを否定しようとします。

一言で言うならば、十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないものとを混同するこのような教えは、結局、目に見えるものこそ神であるという主張へとたどりつくのですが、まず最初に、サンダー・シングが、朽ちるすべてのものが経なければならない死という概念を、どれほど歪めて解釈しているかを見てみましょう。まず、彼の書物の冒頭の文章を引用します。

「ただ一つの生命の源――無限かつ全能の生命――がある。その創造の力が、生きとし生けるものすべてに生命を与えたのである。全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中に留まり続ける。この生命の源は、違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命を創造した。人間はその一つであり、神ご自身の姿に似せて造られた。それは、人が神の聖なる臨在の中で、永遠に幸福であり続けるためである。」(p.34)

まず、この文章を通して、サンダー・シングが事実上、目に見えるものの永遠性を主張していることがお分かりになるでしょうか? 彼は言います、神こそが全ての生命の源であり、神が全ての被造物を創造し、「全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中(筆者――神の命の内)に留まり続ける」と。これは、創造の初めから今に至るまで、罪によって神と断絶した被造物は一つもなく、従って、被造物は創造からこの方ずっと神の命の中にあり、滅びを経ることなく、これからも未来永劫に、神の内にとどまり続けると言っているに等しいのです。

しかし、このような主張は「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という御言葉に反しています。人の罪のゆえに全ての「被造物が虚無に服し」、「滅びの束縛」の中に置かれたこと、神の子供たちがこの朽ちゆく肉体の中にあって、からだの贖われるときを待ち望んでいること、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:20-23)ことを否定しています。

サンダー・シングは全被造物には
罪のために死が入り込み、被造物が神と断絶したという事実を認めません。そして彼は「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリント16:50)という御言葉を無視して、被造物が持っている朽ちる命が、そのままで神の命に等しく、永遠に続くかのように主張しているのです。これは見えるものと見えないものの切り分けの否定であり、朽ちるものと朽ちないものとの混同、一時的な滅び行くものと、神の永遠の命に属するものを混同する教えです。

このような異常な考え方に立つと、新創造とは何かを理解する根拠が全く失われてしまいます。ここには旧創造と新創造を切り分ける十字架が全くありません。

さらに、サンダー・シングの使っている「発展段階」という言葉は、彼の教えが進化論の影響を受けていることを物語っています。サンダー・シングは、人は「神ご自身の姿に似せて造られた」けれども、「違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命…の一つ」に過ぎないと言っています。つまり、それぞれの生命には種類を超えた「発展段階」があると示唆しているのです。

しかし、聖書は、神がそれぞれの生命をその「種類にしたがって」(創世記第一章)造られたことは記述していますが、それぞれの生命に種類を超えた
「発展段階」があるとは全く述べていません。ですから、この言葉からも、私たちはサンダー・シングの教えが聖書に基づかず、決して神から来たのでない別の起源を持っていることをさらに明確に理解するのです。

さらに、朽ちゆく命が決して滅びを経ることなく永遠に神の内にとどまりつづけるという、絶対にあり得ない事柄を主張するために、サンダー・シングが「死」という概念をどのように骨抜きにしているかを見て下さい。


「生命は変化することはあっても、決して滅ぼすことはできない。死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するのでも、生命を加えることを意味するのでも、ましてやそこから何かを取り去ることを意味するものでもない一つの存在形態から別の存在形態へと生命を移すことにすぎないのだ。あるものが目にみえなくなっても、それは存在しなくなったのではなく、別な形と状態の中でまた現われるのである。

この宇宙の中でかつて滅ぼされたものは何一つなく、今後もそうである。それは、創造主が破滅のためにものをお造りにならなかったからである。滅ぼす意志があれば、初めから創造することはなかったであろう。被造物が何一つ滅ぼされないとすれば、被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう。神は神ご自身の形を滅ぼすことができようか。あるいは、それ以外のどのような被造物にも人間を滅ぼすことができるだろうか。決してできないのである。人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」(p.34-35)


ここでも、サンダー・シングは再三に渡り、神は絶対に人間を滅ぼしたりなさらないと、万物に定められた神の滅びの刑罰を否定せずにおれないわけですが、それはさて置き、ここで「死」という概念そのものが事実上、骨抜きにされ、否定されていることに注目して下さい。「死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するので…もない」と彼は言います。

このような詭弁を許すならば、死はもはや死ではなくなってしまいます。オースチンスパークスは『人とは何者か?』の中で、死についてこう述べています。「アダムのときにこれが起きた時、死が入り込みました。死の性質は、この語の聖書的意味によると、神との霊的結合からの分離です。」

人が罪を犯した時、人の霊は堕落し、神に対して死んでしまいました。全被造物も人の罪のゆえに神と断絶し、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されました。これが死の意味です。死の真の意味は、霊的な死を指しており、神に対して死んでいるということです。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) 肉体の死は罪が最終的に結ぶ実に過ぎません。一人の人の罪のゆえに全被造物に死が入り込んだのです。

生まれながらの人は、アダムの命にあって、人の目にはあたかも生きているかのように思われますが、それは、肉と罪とこの世(サタンと暗闇の世)に対して生きているのであって、神に対して彼は死んでいます(「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1))。「ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった」(ローマ5:17)。生まれながらの人は「一生涯死の恐怖につながれて奴隷」(ヘブル3:15)となって、死の支配下にあります。

もろもろの罪に対する解決策は赦しであり、それは神の子羊なるキリストの尊い血潮によって得られますが、死に対する解決法はただ一つ、復活しかありません。それはキリストのよみがえりの命によります。それは人が今まで生かされていたアダムの命に対して死んで、神の霊によって新しく生かされることです。復活は神の側からの奇跡以外の何ものでもなく、それはただキリストの達成された御業です。アダムの命からはどんなに努力しても、死以外のものを生み出すことはできません。ですから、人が神に対して生きるとは、ただキリストの十字架の死とよみがえりによる以外にはないのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4-6)

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル3:14-15)

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)


このように信仰により、キリストの十字架の贖いを受け入れ、神の霊によって新しく生まれなければ、誰も神の国に入ることはできず、死の支配から解放される手立てはないのです。

しかし、サンダー・シングは生まれながらの人が一人の例外もなく、罪のゆえに神に対して死んでいることを認めず、信仰によらずとも、被造物の朽ちる命の永遠性を主張します。そして、人が罪のゆえに刈り取らなければならない最後の報酬である死さえも事実上、否定して、死とは「別の存在形態へと生命を移すことにすぎない」と、魔法のように言い換えるのです。こうして、アダムの朽ちる命のままで、人が永遠に至る道があるかのような偽りを教えるのです。


②肉の思いは死である

しかし、驚くべき結果に注目しましょう。このような詭弁を用いて、人の命は決して滅ぼされないと主張しているサンダー・シングの関心は、結局、どこへ誘われていくのでしょうか?

「人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」


この問いの後、サンダー・シングの物語は、彼が瞑想中に出会ったとする様々な「死者との交流」、「死後の世界」に没入していきます。

なんと不健康極まりない発想だろうかと呆れ果てるのです。まさに「肉の思いは死であり」(ローマ8:6)というパラドックスが見事に表れているのではありませんか? これは彼の自己矛盾です。一方では、「被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう」と、旧創造の死を否定しながら、他方では、彼は生きている者についてではなく、死者について語らずにいられないのです。

この矛盾はまさに、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)という御言葉の成就ではないか思います。朽ちるアダムの命に定められている滅びを否定して、アダムの命を惜しみ、主と共なる十字架の死を拒んで、自らの力で復活の領域に達し、永遠に至ろうとすると、人はこうなるのではないでしょうか。思いは死にとらわれ、ずっと死の周辺をめぐり続け、生きているうちからまるで死者のように、死の支配にとらわれて、黄泉の国に誘われていくのです…。

補記:「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。」(箴言21:16)

断じて、クリスチャンはこんな問いに誘われて、死者との交流というテーマに立ち入るべきではありません。義人であろうと罪人であろうと、生きている者が死人にお伺いを立てることを、聖書がどれほど禁じているか振り返ってください。

「あなたがたのうちに…占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならないこれらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」(申命記18:10-13)


③見えるものを神とする

さて、このように十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、旧創造と新創造との切り分けを否定すると、最後には、全てのグノーシス主義の教えがそうであるように、目に見えるこの物質世界こそが真のリアリティであり、見えるものこそ神であるという主張に至りつきます。サンダー・シングは次のように述べます。

「真の、全能かつ永遠の唯一神がいること、現世はその被造物であるというのが真実なのである。この物質世界は、ヴェーダーンタ学者やソフィストのいうがごときマーヤー(筆者注――幻影)ではなく、現に存在するものである。被造物は神そのものではなく、神から離れてもいない。神は全被造物の中に現臨するのである。『人は神の中に生き、動き、存在を得る」(p.393)

ここまで来ると、完全にキリスト教とは別の宗教が成り立っているとしか言えませんが、ここでサンダー・シングが言おうとしていることは、「神はすべての見えるもの(被造物)の中にいます」という結論なのです。これはほとんど汎神論と呼んで差し支えないと私は思います。

ここにもサンダー・シングの自己矛盾があります。一方では、彼はまことしやかに、彼一人だけが「霊眼」によって見たとする、(聖書にも反し)誰一人として存在を証明できない目に見えない死後の霊界について語りながら、他方では、目に見えるこの全宇宙こそ、まことのリアリティであり、「神は全被造物の中に現臨する」と宣言しているのです。

聖書によれば、悪魔は「偽りの父」であって「彼が偽りを言うとき、いつも本音を吐いている」(ヨハネ8:44)のですから、偽りの父を起源とする異端に、自己矛盾、支離滅裂がつきものなのは当然のことです。今しがたあれほど確信を持って述べたことを、次の瞬間には、平然と自分で否定していたとしても不思議ではないのです。

「実際、神は万物に在り、万物は神に在る。だからといって、神イコール万物でも、万物イコール神でもない、創造者と創造物を混同する人間が無明に沈み込むのである。」(p.175)

サンダー・シングは、被造物イコール神なのではない、とあくまで注釈をつけていますが、そうであるからといって、サンダー・シングが「神は万物に在り、万物は神に在る」と言って、信仰によらずとも、全ての被造物が神の命の内にとどまっているかのように主張し、キリストの体を、見えない霊の体としてとらえず、むしろ、目に見える宇宙(物質世界)と同一視し、目に見えるこの世の被造物に神の現われを見出そうとしている事実は否めません。

朽ちる命と、朽ちない命の切り分けを否定し、見える一時的な世界と見えない永遠の来るべき世とを混同する結果は、結局、見えるものを神として祭り上げる結論の他にないのです。このようなサンダー・シングの言説が、キリストは宇宙の全ての被造物の中に満ちており、人格を持たない木や石の中にさえおられるとしたグノーシス主義の一部の教えと非常に共通していることにも、注意を払いたいと思います。

以下は、『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.302から、

「イエスが言った、『私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(七七)

 イエスは「光」として、覚知(グノーシス)者にとっては、そこから出てそこに帰る「すべて」のもの――人間のみならず、木にも石にも内在する。――こうして、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」にあってその本質を一つにする。そしてこの「光」は、語録六一において「一人」あるいは「同じ者」と言い換えられるのである。」

このような主張は、神が唯一の神であって、キリストが人格を持っておられることさえも否定している点で、その荒唐無稽さに呆れる他ないのですが、しかし、サンダー・シングの主張もほとんどそれと変わりません、彼もまた目に見える物質世界に神の現われを見出そうとしているからです。

しかし、聖書は、サンダー・シングが万物を神の位置にまで押し上げているのとは逆に、万物こそ、キリストの足の下に従わねばならないことを述べています。聖書はキリストは万物の上に立つかしらであると述べています。(エペソ1:20-23 参照)

「…それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。…万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

このような文脈で、次の御言葉も述べられています。

「…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)

聖書は、万物を支配する一切の権限が御子に委ねられていることを示しています。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(ヨハネ3:35)「…万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16-17)

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

聖書ははっきりと、見えるものは、見えない神の言葉によって成ったのであり、見えるものは目に見えるものから出来たのではないことを示しています。

しかし、サンダー・シングは、万物が御子の支配に服従せねばならないことを否定して、むしろ、万物を神の地位にまで引き上げようとするだけでなく、聖書によれば、見えないものこそが真のリアリティであって、見えるものはすべて、真のリアリティによって作り出された影のようなものに過ぎないという事実を決して認めようとしません。彼の書物の中には、「神(ブラフマン=絶対者)」を除いてはすべてが「マーヤー(幻影)」であるとするインドのヴェーダーンタ学派を彼が非難しているくだりがありますが、なぜ彼がヴェーダーンタ学派の「マーヤー」という考え方に激しく反対したのかも、これまでの文脈からほぼ明らかとなります。

聖書によれば、”I AM”と言われるお方だけが真のリアリティであり、全ての造られたものは、まことの神のリアリティに比べるならば、影のようなものであって、真のリアリティとは言えません。天に属するもの、すなわち、御子の十字架を経て、神の永遠の命に属し、永遠に至るものだけがまことのリアリティであり、それ以外は一時的な、滅びゆくものに過ぎないのです。そして、見えるものも見えないものも、すべての造られたものが、見えない御子によって、御子のために造られ、御子の支配に――神の霊なる支配に――服さなければなりません。サンダー・シングにはそのこと――見えるものが目に見えるものから出来たのではなく、万物が見えない御子によって成り、御子の支配に服さねばならないこと――が認められないのです。

聖書は言います、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方」であり、「万物は、御子にあって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1:15-16)、律法の定めや色々な決まりごとだけでなく、造られたすべてのものは――被造物も含め――次に来るもののであって、本体はキリストにある」(コロサイ2:17)のです。

ところが、サンダー・シングは「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という事実、目に見えるものは、「次に来るもの影」であるという事実を思わせるような主張には、(たとえそれがヴェーダンタ哲学であっても)、異議を唱えずにいられないのです。彼は言います、「目に見える被造物は夢でもマーヤーでもなく、現実のものなのである」(p.395)と。つまり、見えるものこそが、真のリアリティであると彼は言いたいのです。

これが見えるものと見えないものの秩序をさかさまにした偽りのキリスト教であることはすでに述べましたが、このような主張は結局、見えるものを神としている点で、(まことの神を否定して物質を神とする)唯物論、また、物質に神性を見出そうとする汎神論となり、聖書からは全くかけ離れた別の教えになるのです。


④ 神の国をこの世と同一視する

こうして、見えるものと見えないものの順序をさかさまにし、朽ちるものと朽ちないものを混同し、霊によって把握すべきことを魂によってこの世の領域に還元し、地に属するものと天に属するものを混ぜ合わせようとした結果、サンダー・シングはキリストのからだを見えない霊のからだとして理解せず、むしろ、キリストを見える世界そのものに見出そうとして、ほとんど汎神論と言っても良い主張に陥るだけでなく、彼は神の国というものも、目に見える世界に還元し、神の国をこの世と同一視しようとするのです。

「全宇宙は体である。四肢はどれも全身につながっているので、一部にでも痛みが生じれば、全身にそれが響く。血清が体の一部に使われれば、全身がその作用を感じる。それと同じく、キリストはこのみえる、そしてみえざる宇宙の一部たる地球で十字架に付けられたにもかかわらず、全宇宙がキリストの死から影響を被った。また、キリストは世の救いのためにただ一つの場所(エルサレム)で十字架にかけられたにもかかわらず、今も全世界はキリストの犠牲を共にしている。霊が全身に満ちているように、神は全宇宙に存在している。」(p.291)

ここでも、「神は全宇宙に存在している」という汎神論的主張が繰り返されています。その上、サンダー・シングがここでもやはり、信仰の必要性を否定していることが分かるでしょうか。ここで彼は、まるで全世界の被造物が、歴史を通じて、キリストの十字架と自動的に一体であり、キリストと絶え間なく苦しみを共にして来たかのように述べています。しかし、きちんと聖書に戻るならば、この言説がまるで嘘であることがよく分かるのです。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:9-12)

ここにははっきりと書いてあります。「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」と。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。世は自分を救うために遣わされたキリストを受け入れることを拒み、彼を十字架につけて殺したのです。

にも関わらず、サンダー・シングは世が御子を拒んで十字架につけた罪には一切触れずに(上記の文章の続きのくだりでも、キリストの十字架は罪人に対する神の一方的な愛のボランティアに過ぎなかったことにされ、世が彼を十字架につけて殺したその罪については一言の言及もありません)、まるで全世界が初めから彼の犠牲に哀悼の意を表し、全宇宙がキリストと自動的に一体であるかのように述べているのです。これでは、世の犯した罪も、信仰の必要性も否定されてしまいます。

聖書ははっきりと述べています、「…この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と。

このように、個人的な信仰によらなければ、誰もキリストの十字架の贖いを受け取ることはできず、神に受け入れられることもないにも関わらず、サンダー・シングは、あたかも信仰によらなくとも全世界がキリストの十字架により自動的に贖われているかのように主張し、信仰による救いを否定し、そのようにして、御子を拒んだ世の罪を覆い隠し、帳消しにして、この世をむしろ名誉回復させようとしているのです。

ですから、このようなことを考え合わせるならば、サンダー・シングが述べている全宇宙に存在している神とは、とどのつまり、この世の神を指していると言って良いのではないかと思います。
「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19)。人の堕落とともに、この世、旧創造はサタンに引き渡されました。ですから、「この世の君」(ヨハネ12:31)とはサタンのことに他なりません。それらの文脈を一切を無視して、サンダー・シングは目に見えるこの世があたかも創世の初めから神に背いたことなど一度もなく、キリストの十字架以来、絶えず彼と苦しみをともにして来たかのように主張し、世の罪というものを認めないのです。これでは結局、彼はこの世の神をまことの神として逆転させようとしていると言っても過言ではありません。

「…この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

サンダー・シングの次のような言説も、すべてをさかさまにしているため、決して惑わされないように注意しなければなりません。

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある。このことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態にあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(p.304)

注意して下さい、このような主張は東洋人の好みに非常に合致しているがゆえに、日本人の耳にとても良さそうに響くのです。日本人の文化的・精神風土には、「知られない神に」(使徒17:23)と刻んだ祭壇を拝んだアテネの人々のように、「神(々)はどこにでも存在する」という考え方が脈々と流れています(聖書の神は遍在されますが、この時空間の中に住まわれるのではなく、また、被造物の中に神性として宿っているのでもありません)。私たちは幼少期から、八百万の神や、石で作った道ばたの地蔵にも神が宿っているといったような考え方に慣らされて、神を人格としてとらえないことや、あたかも目に見えるどんな被造物の中にも神が宿っているかのような考えを受け入れやすい精神的土壌が作られてしまっているのです。

しかし、きちんと聖書に戻りましょう。神の国はどこにあると聖書は言っていますか?

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)


この記述に照らし合わせるならば、「神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある」というサンダー・シングの主張が完全に偽りであることがよく分かります。彼の主張とは逆に、聖書は、神の国の所在をきわめて限定しています。神の国はこの世の時空間に存在するあれやこれやの場所や、あれやこれやの被造物の中にはなく、ただ御子を信じる者のただ中に存在すると聖書は言っています。ですから、サンダー・シングの述べている地上天国の夢がどんなに良さそうに響いたとしても、聖書に反して、神の国をこの地上の時空間内(全ての被造物の内)に見出そうとしている点で、それがむなしい偽りの夢に過ぎないことが分かるのです。それは地上に作り出された神の国の幻(模造品)に過ぎず、その偽りの夢を作り出したのは、ただこの世においてのみ活動を限定的に許されている者たち(暗闇の勢力)なのです。

最後に、もう一度、確認しましょう、キリストはどこにおられるのでしょうか? 「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」と、果たして主は言われたのでしょうか? 「神は万物に在り、万物は神に在る」「神は全被造物の中に現臨する」、それが聖書の教えなのでしょうか? 

いいえ、まず、神については聖書はこう述べています、

「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(Ⅰテモテ6:15-16)


(そうです、この御言葉にも、死のない方はただ神お一人しかおられないということが示されているではありませんか。) そして、キリストのおられる場所は、次の御言葉が示している通りです。


「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)


 

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命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(7)

7.裁き主としての神の否定

聖書は、神は愛であられると同時に、大いなる「さばきの主」(イザヤ33:22)(ヤコブ5:9)であることを教えています。ところが、サンダー・シングは言います、「愛なる神」と、「裁き主である神」とは、決して両立し得ない相矛盾する側面であると。彼は聖書を歪曲してでも、人間にとって都合の良い「愛なる神」だけを残し、「裁き主である神」を否定しようとします。彼は言います、「『神は誰をも罰したりはなさらない。誰をも地獄に落とされたりはなさらない。そのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。」(p.21)と。

このような考え方がどの点で聖書に反し、誤っているかを理解するために、まず、「神の愛」とは何なのか、もう一度、聖書を振り返ってみましょう。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ56:8-9) 

まず、聖書は言います、神の思いは人の思いとは異なっており、人の思いよりも高いと。私は神の愛とは、神の御思い、神のご計画、神の御旨そのものを指すと言って良いと考えていますが、そもそも、神の思いは、人の思いによってはかり知ることのできないものです。従って、神の愛に、人間に理解可能な、人間に都合のよい解釈を施そうとすることに非常な無理があることは明らかです。

さらに、私たちは神が愛であることと、神が公正な裁きを行なわれるという二つのことが、何ら矛盾しないことを知っています。これを卑近な例で考えてみましょう。子供を愛する父親は、子供が従順である間は愛に溢れている親しみやすいパパですが、もしも子供が父の戒めを破り、悪戯をするならば、「鬼のように」恐るべき存在へと変わるでしょう。父親は子供を叱り、子供は恐ろしさのあまり、二度と父に近寄りたくないと感じるかもしれません。しかし、その時、たとえ子供には理解できなくとも、父の怒りは、愛ゆえの訓戒なのです。

子供が悪いことをした時に、本心から叱ることのできないような父親は、良い父親とは言えません。何でも赦して大目に見るのが愛なのではありません。父親は審判者でなくてはならず、何が正しいのかを子供に教える手本となる義務を負っています。

また、ならず者が家に侵入しようとすれば、父は一家を守るために立ち上がり、彼を撃退するでしょう。父は権威を帯び、力を持って、一家の中で自分の支配を確立せねばなりません。彼の秩序にそぐわないものは警告を受け、叱責され、それでも従わないなら排斥されます。排斥される側にとって、彼は恐れの的でしょう。しかし、それは父が家族を愛しているということに反しません。彼は自分の保護下にある者を守るために権威を帯びなければなりません。その権威を正しく行使することが彼の義務です。愛によって、彼は家族を守るために権威を行使するのです。

詩篇の作者は次のように述べています、神は正しい審判者、日々、怒る神。悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。」(詩篇7:11-13)、「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。」(詩篇9:8)、「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」(詩篇19:9)

以前にヨナの話をしたのを覚えておられるでしょうか。ヨナが主の御顔を避けて逃げ出した一つ目の理由は、ニネベの人々に厳しい託宣を告げたくなかったことにあるだろうと述べました。しかし、ヨナが主の御顔を避けたもっと重要かつ直接的な理由があると考えられます。それは、ヨナが裁き主としての主の御顔を恐れたということです。

「主の御顔を避けて」(ヨナ1:3)、この言葉に注目するならば、ヨナは他のどんなものよりも、主の御顔そのものから身を隠したかったことが分かるのです。一体、なぜでしょう? もしもヨナが主の憐みに満ちた御顔を仰いだのであれば、彼は御顔を慕い求めこそすれ、それを避けて逃げ出す理由はなかったでしょう。しかし、ニネベに滅びの宣告を伝えることの恐ろしさもさることながら、何よりも、主の御顔こそ、ヨナの心に最も大きな恐れを呼び起こしたのではないかと考えられるのです。

それは、彼が裁き主としての主の御顔を見、それを恐れたためではないかと思います。黙示録の中にそう考える一つの根拠を見ます。黙示録において、ヨハネは裁き主としての主イエスを見ますが、その容貌は非常な恐れを彼に起こさせるものでした。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示1:12-16)

ヨハネの見た正確なイメージをこの言葉から思い浮かべることは難しいです。しかし、私たちは少なくとも、主の御顔を見たとき、ヨハネがどのような反応をしたのかを知っています。「…私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」(黙示1:17)

預言者イザヤはウジヤ王の死んだ年に、高くあげられた王座に座す聖なる万軍の主を見ました。その時、イザヤが何と言ったか、私たちは知っています、「ああ。私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

ホレブの山で主が火の中から語られたとき、イスラエルの民は神にこう願い求めずにいられませんでした、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」(申命記18:16)

シモン・ペテロは主が御業をなされたとき、主の足もとにひれ伏して、こう言わずにおれませんでした、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8) 

そうです、聖なる方、いと高き方、大いなる裁き主、正しい審判者、この方の前で、肉なる者は誰一人立ちおおせません。神の聖に近づくとき、私たちはもはや自己肯定できなくなり、自分が死にしか値しない罪人であることを思い知らされ、深く恐れ、おののきながら、御前にひれ伏すしかないのです。

神の光は何よりも、私たちがいかに神の聖から遠く隔たった罪ある者であるかという事実を容赦なく見せます。神の光は、私たちがそれまで見ることを拒んでいた自分自身の真の姿を明るみに出し、私たちに旧創造の忌まわしさを見せて、それまでの自己安堵、自己肯定を打ち砕きます。御光の下で、私たちは自分の裸の恥を露にされ、自分が神の御前でどれほどまでに腐敗し切って、ただ死にしか値しない、惨めな肉に過ぎない者であるかという事実を思い知らされます。私たちは深く恥じ入り、死人のように恐れおののいて、塵と灰の中で悔い改める他ないのです。

ダビデも神の裁きを恐れてこう言わずにいられませんでした、「まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。」(詩篇90:7-9)

「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。…あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」(詩篇143:1-2)

行いにおいては何一つ落ち度がなかった義人ヨブも、主に試みられて、こう言う他ありませんでした、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42:5-6)

神は恐れおののいて崇められるべき方です! 本当に神の光に照らされて御前に立つ時、神に心を探られ、試みられる時、私たちは自己弁明の全てを捨てて、御前にひれ伏し、沈黙するしかないのです。「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。」(ゼカリヤ2:13)

これらは、旧創造そのものが神の御前に罪に定められていることをはっきりと表わしています。ただ私たちのあれやこれやの罪が忌まわしいものであるというだけではなく、旧創造の全てが十字架の死に服さなければならないのです。私たちの生まれながらの命は何の役にも立たず、ただ死にしか値しません。私たち自身には改良の余地がありません! 私たちはただキリストの十字架の死に服すしかなく、彼とともに死を経て、彼の命によってよみがえらされたものだけが、神の御前に貴く、受け入れられるのです。そのことを、信仰によって進んで行くごとに、私たちはますます深く知らなければならないのです。

そして、神の愛とは、私たちを滅びから救うために、御子を遣わして、私たちの負うべき刑罰を御子に身代わりに負わせ、十字架上で御子がご自分の肉体を裂いて、私たちのために新創造へ至る道を開いてくださった、その御業にこそ現れています。従って、旧創造に対する神の刑罰を否定するならば、私たちは神の愛の最高の表現を否定していることになり、もはや神の愛を理解する手がかりは全く失われてしまうのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがた行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13-15)


恵みとは、それに全く値しない者に与えられるからこそ、恵みなのです。私たち自身のうちにわずかでも、それを受け取るべき資格があったのでは、それは恵みにはなりません。私たちは永遠に廃棄されてしかるべき厭うべき堕落した罪人に過ぎませんでした。神は私たちを大目に見て、無罪放免するために、私たちに対する刑罰を思い直され、撤回されたのでは決してありません。神は私たちに対する刑罰を、十字架で御子に余すところなく負わせ、ご自分の義を証明され、罰せられるべきものを罰せられたのです。すべては御子が成就されたのです。御子は私たちの受けるべき苦痛のすべてを十字架で受けられ、肉において罰せられ、霊において神に捨てられ、そして言われました、「完了した。」(ヨハネ15:30)と。

死に至るまで従順であった御子の名のゆえに、私たちは御父に何でも願い求めることが許されており、御子の従順のゆえに、私たちは御父に子供として受け入れられるのです。私たちは、自分が決して自力では神に受け入れられることのできない者であり、すべては神の恵みによったのであることを片時も忘れるわけにはいきません。私たちは信仰によって、御子の刑罰を自分への刑罰として受け取り、私たち自身が主とともに十字架で死に渡されたことに同意することによって、このアダムの命、旧創造に死んで、彼の復活の命へと入れられ、御子のゆえに、神に喜ばれ、受け入れられる者とされるのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

地上にある間、私たちは御父によって、僕として、子として訓練を受けます。私たちは御子の贖いを信じて受け取っているので、私たちを永遠の滅びに定める神の裁きからは解放されていますが、しかし、地上にあって主の訓練を避けることはできません。ある意味で、私たちは義なる裁き主によって、罰せられたり、懲らしめられる存在です。その度ごとに、主の正しさを知り、恐れを持って裁き主の御顔を仰ぐのです。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:19) 

私たちは、主なる神が「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)と言われたアブラハムや、顔と顔を合わせて主と見えたモーセのように、主に信頼される僕、いや、友のようにまでなれるか分かりません。

それは私たちの歩み次第でしょう。それでも、恵みの中で、僕から子供へ、子供から息子へ、息子から友へと、恵みにふさわしく、主が私たちを訓戒し、生長させて下さることを疑いません。もしも私たちが主の小さな信頼に応えることができ、任されたわずかなものに忠実であるならば、より多くの信頼を受け、より多くを任されることになるでしょう。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実」(ルカ16:10)だからです。それについてはまたいつか述べることができればと思います。

とにかく、神は愛であられますが、私たちを叱ったり、懲らしめられる方なのです。そして神が愛であることと、神が裁きを行なわれ、人を罰したり、訓戒される方であるということは何ら矛盾しないのです。神は秩序の神であり、彼の秩序の中に、彼の権威と支配の中に、全ての調和が保たれているのです。

「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』 

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめられたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら…、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものでなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。…聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:5-14)




命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(6)

6.復活の否定

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:23)

生まれながらの人の思いの奥底には、人のアダムの命、すなわち、旧創造が神によって滅びに定められているという事実をどうしても認めたくない思いがあります。それは、生まれながらの人が神の御前に腐敗し切っており、ただ滅びの刑罰にしか値しないという事実を否定して、生まれながらの人(肉)をできる限り弁護したいという自己義認の思いに基づいています。また、それは神によって罰せられることへの生まれながらの人の根強い反発と恐れでもあります。

クリスチャンになって十字架の意味を知った後でも、私たちの心の中には、依然として、十字架の死を厭う気持ちがあります。肉が死の刑罰にしか値しないとは認めず、むしろ、肉の腐敗から目を背け、肉による善行を積み上げることによって、神に受け入れられ、天にまで達したいという願いがあります。人の生まれながらの心は、自分自身に対する神の刑罰を真正面から受け止めることができません。

偽りの福音は、人の生まれながらの自己の内にあるそのような自己保存の願望、すなわち、肉を弁護し、旧創造を惜しむ気持ちに巧妙に働きかけて、また、神の愛を悪用することによって、人が十字架の死を避けて、自分の生まれながらの命を保つようささやきかけます。主イエスが、エルサレムで受けねばならない苦難や、十字架の死と三日目のよみがえりについて弟子たちに語られたとき、ペテロの口を借りてサタンが語ったのが、そのような偽りの教義でした。

サタンの偽りの教義は、旧創造が全て十字架の死を受けなければならないことを否定します。サタンは「神の愛」を拡大解釈することによって、神は憐み深い方なので、罪人を寛容に赦して下さるはずであり、人が十字架の死という重すぎる神の刑罰を耐え忍ぶ必要はない、それは人にとっては残酷すぎると説明します。そうして、サタンは主イエスに向かって、生まれながらの人(アダム)を弁護して、アダムの命を惜しむよう提案したのでした。

サタンは今日、神の子供たちにも同じ提案をささやきかけます。すなわち、クリスチャンが旧創造は十字架で死に渡されねばならないという事実を否定して、アダムの命を惜しみ、弁護するよう仕向けるのです。それは、十字架の死がなければ、復活はあり得ないことをサタンは知っているからです。

サタンは復活の命を激しく憎んでいます。なぜなら、復活の命の現われほど、悪魔とその暗闇の王国に対して、決定的な敗北を突きつける事実はないからです。復活の命が地上に現われることは、その領域に御子の揺るぎない統治が確立され、神の国が到来し、サタンの支配が追放されることを意味します。復活の命のあるところには、汚れたもの、旧創造はもはや存在する余地がありません。復活の命が現われるための前提として、旧創造は全て死んでいなければならないからです。

アダムの堕落とともに、目に見えるもの、万物、旧創造は全てサタンの支配下に引き渡されました(「私たちは…全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19))。旧創造はサタンの作業場です。ですから、旧創造が真に主と共なる十字架の死によってはりつけにされ、キリストの復活の命が生じることは、悪魔にとっては自分の作業場である旧創造に対する支配権を失うという大打撃をもたらします。

それだけではありません。キリストの復活の命の現われそのものが、サタンにとっては永遠の恥辱に満ちた敗北であり、致命的な脅威でもあるのです。それは、復活の命の現われは、御子が十字架で取られた勝利――「死は勝利に飲まれた」(Ⅰコリント15:54)――を完膚なきまでに証明するからです。御子の来臨に先立って、キリストの復活の命が現われるところではどこでも、御子が悪魔の最大の武器である死をすでに打ち破って、もろもろの支配と権威の武装を解除され、彼らをさらしものにして、揺るぎない統治を確立されたことが証明され、神の国の(御子の霊なる)支配が打ち立てられることにより、悪魔の支配はすでに打ち破られ、彼にはもはや何の権利も力もなく、悪魔は御子によってすでに滅ぼされたことが、事実として証明されるからです。

ですから、サタンはクリスチャンの目から何としても復活の命を隠したいのです。何としても復活の命の現われを阻止し、復活を地上から消し去りたいのです。悪魔はあらゆる方法を尽くして、クリスチャンが復活の命に達しないように仕向けます。そのために、悪魔は復活という概念そのものを作り話であると思い込ませて嘲笑するか、もしくは、罪人に対する神の愛や憐みを拡大解釈することにより、十字架の教義を歪め、クリスチャンが十字架を厭い、自分の命を愛し、それを惜しんで十字架の死を拒むように仕向け、どんなことがあっても、決して御子の復活の命へ達することがないよう妨げるのです。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それでも、もしも私たちが主と共なる十字架の死を経由して、復活の領域を実際に生き始めたならば、地獄の全軍勢が私たちに敵対して立ちはだかるのが分かるでしょう。私たちは復活の命に生きるようになって初めて、神の子供が、血肉によっては到底、立ち向かうことのできない、暗闇の全軍勢からのどれほどはかりしれない憎悪の前にさらされているかを、実際に理解し始めるのです。復活の命の現われを地上から消し去るために、サタンが人知を超えた方法で総力を尽くして神の子供たちを日夜攻撃することをも実際に分かるでしょう。その攻撃と対峙する時、復活がどれほどサタンの憎むべきものであるかを私たちは知るのです。そこには私たち個人に向けられるべき憎しみをはるかに上回る、まさに想像を絶するものがあります。それと同時に私たちは、キリストの復活の命の現われが、闇の王国に対してどれほど圧倒的な脅威となり、そして、彼らにとって大いなる敗北を意味するかも理解し始め、復活の命の中にある勝利を敵に対して実際に行使することを学び始めるのです。

「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

ですから、「愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである」(p.210)というサンダー・シングの主張は、旧創造が神によって罰せられることへの否定、神の正しい裁きへの異議申し立てに貫かれていることが分かるでしょう。

いかに「愛」という罪人の耳にとって心地よい言葉を使っていたとしても、このように旧創造に対する十字架の死の刑罰を否定する教えは、神から来たものではありません。そこにあるのは、旧創造に対する滅びはないと主張することで、新創造(復活)が現われることを何としても阻止したいサタンの思惑であり、それが独特の美意識をまとって教義化されたものであると言って差し支えないのです。

このような主張は、表面的には神の愛を語ってはいますが、神の愛を本当に知りたいという動機から出て来たのではありません。むしろ、神が全ての旧創造を滅ぼされることに対する根強い不満がそのような教えを作り出すのです。ペテロが主を脇に呼んでいさめ始めたとき、彼の言葉には、あたかも、主に対する美しい愛があったかのように聞こえたことでしょう。それでも、人間的には美しい同情で飾られていたペテロの主張は、神の御前に悪しき動機から出て来たものとして罪定めされたのです。それは彼の述べた思想が、人間にとって都合が良くとも、神のご計画を否定し、妨げようとするものだったからです。

ですから、神の愛を口実にして、旧創造に定められた滅びを否定してはいけないのです。そのような教えの背後には必ず、目に見える全てのものに対する神の滅びの宣告を否定して、自分自身が滅びに定められていることを決して認めたくない暗闇の世の主権者の思惑があります。

聖書の記述から、私たちは邪霊や悪鬼たちが人知を超える知性を持っており、キリストが来られる時に、自分たちがどうなるかを知っていたことを見ます。(たとえば、ルカ4:34参照。)

汚れた霊でさえ、御子の権威を前にして、自分たちの支配がもはや成り立たず、自分たちが滅ぼされる他ないことを知っていたのです。まして、御言葉を曲げる偽預言者たちが、自分たちに対する聖書の永遠の滅びの宣告を知らないはずがあるでしょうか。偽りの教えを語る者たちが必死になって、神は愛だから人を滅ぼしたりなさらないと、神の刑罰を再三に渡り、否定せずにおれないその理由はそこから明らかなのです。それは彼らが神が自分たちに下された判決を知っており、自分たちがどこへ行かなければならないかを知って、それが成就するときが来るのを、心底、恐れているからなのです。

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することができるのです。」(マタイ12:29)

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神の全ての武具をとりなさい。」(エペソ6:12-13)


「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)



命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(5)

4.原罪の否定

サンダー・シングがサタンの悪は永久不変ではないと主張することにより、サタンを名誉回復させようとしていることはすでに述べましたが、これと同じ論理を彼は人間にもあてはめ、サタンの罪ばかりか、人間の原罪も否定します。「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」という彼の主張を読めば、彼が人間も生まれながらにして悪であるはずがないと考えていることは明白です。サンダー・シングが人の原罪を認めていないことは、次の文章にはっきりと表われています。

「火打ち石の中に火があるように、人の心の中にも神と交わることへの憧れがある。このような願いは罪と無知という硬い火打石の下に隠れているかもしれないが、神の人と近づきになり、あるいは神の聖霊に触れられるときに、ちょうど火打ち石が鉄で打たれたときのように、即座に火を放つ。<…>

人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する良心と霊的感覚が曇り働かなくなったとしても、この聖なる火花は決して消えることはない。どんな極悪人にも多少の善がみられるのはこのためである。残虐極まりないやり方で殺人を重ねた人間でさえ、貧乏人や虐げられている者たちに援助の手をさしのべるといったことが、よく起こる。

この聖なる火花が不滅のものであれば、どんな罪人にも絶望することはない。それが滅ぼしうるものであるとすれば、罪によって神から離れたときの悲しみ、地獄の苦しみといったものは決して感じられることはないだろう。悲しみや後悔の念を感じるというのは、ほかならぬこの火花が人間の中にあるからである。この感覚がなければ、地獄は地獄足り得ない。人がそのような痛みを感じるのであれば、その苦しみがいずれは人を神の御元へ回復させることになる。」(p.295-297)


これは事実上の原罪の否定です。サンダー・シングはどんなにひどく堕落した罪人の中にも、「決して罪に傾かない聖なる火花」があって、それが必ずや罪人を神の御元に回帰させるはずだと主張します。彼はここでキリストの十字架だけが神と人とを和解させる唯一の道だとは言っていません。彼はむしろ十字架を介さねば生まれながらの人は誰一人として神と和解できないという事実を否定して、人間が自力で神に立ち戻る道があると提唱しているのです。つまり、人の行いがどんなに悪くとも、人間の中に残っている「聖なる火花」が、必ず、彼を神に回帰させると彼は言うのです。

私は以前の記事の中で、サンダー・シングの言う「聖なる火花」が、グノーシス主義における「神的自己」、「本来的自己」に相当することを説明しました。これは神秘主義です。生まれながらの人間が、御子キリストの十字架を信仰によって受け入れなくとも、本来生まれながらにして持っている自己の何らかの性質や力に目覚め、それを利用することによって、自力で神と結合できるとする教えです。サンダー・シングの教えもこの点で神秘主義に属しており、これが正統なキリスト教でありえないことは言うまでもありません。

さて、サンダー・シングの言う「聖なる火花」とは具体的に何を指すのでしょうか。あまりはっきりと書かれていないので、文脈から判断するしかありませんが、彼は人間に生来備わっている良心(のとがめ、すなわち罪悪感)のことを指しているのではないかと思われます。

つまり、サンダー・シングは生まれながらの人の内に宿っている良心こそ、罪人を神に引き戻す「聖なる火花」に当たると主張しているのです。この聖なる不滅の火花がある限り、人は行いの如何に関わらず、本来的には罪のない聖なる性質を内に保存しているのであって、この聖なる要素を利用することによって、人は神に回帰できるはずだと主張しているのです。

しかし、たとえ罪人に多少なりとも良心の呵責が存在したとしても、だからといって、それは人を神に引き戻す力を持ちません。人の堕落とともに、人の良心さえも深く麻痺し、堕落し、神に対して死んだ状態で、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されたのです。その良心は、人に罪悪感を感じさせ、苦しめることはできるかも知れませんが、人を神に引き戻す橋渡しにはならないのです。もしも生まれながらの良心によって、人が義とされ、神に受け入れられるのだとすれば、人は自分自身の良心だけによって救われることができ、パウロが次のように叫ぶ必要はなかったでしょう。

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。…私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっていますもし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住むです。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです

すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:18-24)


パウロは律法の上では落ち度のない人でしたので、彼は自分の正しさを誰より誇って良いはずであり、彼の良心が彼を潔白とみなしたとしても不思議ではありませんでした。にも関わらず、そのパウロの良心が彼を罪に定め、彼の内には「善が住んでいない」と叫ばざるを得なかったのです。彼は自分の中には「決して罪に傾かない聖なる火花がある」などとは言いませんでした。彼はどんな人よりも罪から遠ざかっていると胸を張って言えたにも関わらず、彼が自分の中に見出したのは、「聖なる火花」とは正反対の「悪」、すなわち、「私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこに」する、私に悪が宿っているという原理だけだったのです。

聖書は言います、「肉によって生まれた者は肉です。」(ヨハネ3:6)「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)と。人は堕落して罪深い「肉」となりました。すなわち、生まれながらの人は誰一人として、肉に働く罪と死の法則から自力で逃れられる人はいません。どんなに努力しても、肉には一切の改善の余地がないからこそ、主イエスは言われたのです、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)と。

人が神に受け入れられる者となるには、信仰によって、主イエス・キリストの十字架の死を自分自身の死として受け入れ、彼の肉の死を自分自身の肉の死として受け取り、肉に働く罪と死の法則に死んで、御霊によって神に対して生きる者とされる以外にはありません。キリストは「肉において罪を処罰」するために「罪深い肉と同じような形で」「罪のために」遣わされたのです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

私たちの生まれながらの自己、アダムの古き命には何ひとつとして神に受け入れられる聖なる要素はありませんし、また、肉にはいかなる改善の余地もありません。どんなに月日が経っても、どんなに改善の努力を重ねても、肉から生まれるものは肉でしかありません。信仰によって、御子の十字架の死を自分自身の死として受け入れ、古きアダムの命に死に、キリストのよみがえりの命によって新しく生かされなければ、誰一人として神に受け入れられ、神に対して生きることはできないのです。そのために、御子はすべてのアダムを着て十字架に向かわれました。私たちは信仰によって彼の死を自分自身の死として受け取ることを通してのみ、罪と死の法則から解放されます。人の生まれながらのアダムの命、そして生まれながらの自己はサタンの座でありこすれ、そこには何ら神を喜ばせる聖なる要素はないのです。

にも関わらず、サンダー・シングは人の生まれながらの自己の中に「聖なる火花」を見出し、それゆえに御子の十字架の死を信仰によって経ずとも、その「聖なる要素」によって人は自力で神に回帰できるとしているのです。これは恐るべき教えであり、完全に聖書に反しています。これは肉を栄化し、アダムの命を栄化し、生まれながらの人間を神化し、生まれながらの人を神とすることに等しいのです。

次の文章の中で、自らの教えの究極的な目的は何であるか、サンダー・シングはまたとないほどにはっきりと明言しています。

「人は自由な行為者であり、自由の誤用によって自分をも人をも大きく傷つける。だが自分という存在や内なる神の火花を滅ぼしてしまえるほど自分を傷つけられる人はいない。そのような力は、創造主以外、誰ももってはいないのである。また、創造主さえ、滅ぼしたりはなさらないだろう。そのようなことをお望みなら、初めから創造などされなかったはずである。滅ぼすということになれば、神は結果もわきまえずに行動したことになる。このようなことは神にあってはありえないことである。

人は自分の魂を造りえなかったし、それを滅ぼすこともできない。創造主は、どのような生き物もある特殊な目的のためにお造りになった。自分の魂、内在の聖なる火花を滅ぼすことが人間にもできず、神もなさらないというのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである迷いに導かれる者は多くとも、いつかは自分が、似せて造られた神に戻るのである。それが人間の究極の目標なのだ。」(p.297)

ここでサンダー・シングは、神の刑罰は存在しないという独自の主張を何度も、何度も、まるで自分に言い聞かせるがごとく念押ししています。彼は罪人に対する神の刑罰の存在を何としても否定せずにいられません。そのことだけを取っても、どれほど彼が内心では神の刑罰を恐れているか分かろうというものですが、しかし、そのことは今は置いておきましょう。

サンダー・シングにとっては、神が昔も今も、ご自分に不従順な者たちを滞りなく罰しておられるという聖書の記述もまるで意味をなさないようです。ノアの時代に、地に満ちている暴虐をご覧になって、神はノアにこう仰せられました、「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。…それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6:13)

また、「…主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められ」、「…ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も…好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされてました(ユダ6-7)

さらに、再臨の日には、「…主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われ」、「…神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復され」るのです。彼らは「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けることが定められています(Ⅱテサロニケ1:7-9)


「…天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです。」(Ⅱペテロ3:5-7)

しかし、サンダー・シングはこれら全ての記述を無視してでも、罪人に対する神の裁きや、滅びの刑罰はないと主張します。彼は言います、人は断じて滅びにしか値しない罪人などではなく、神は人を絶対に滅ぼしたりなさらないと。人の生まれながらの魂は不滅であり、「内在の聖なる火花」を滅ぼすことは誰にもできないと。もし自ら創造したものを滅ぼすとすれば、それは神が後先考えずに行動したことになり、それでは神の名折れになるではないかとさえ彼は言います。(それでは神が御子の十字架を通して、信じる者たちを滅びから救い出してくださったこの永遠の計画の意味はどうなるのでしょう? 御子の贖いがなくとも人は救われ得ると言うのでしょうか? それこそ、神の御心を最もないがしろにし、傷つけることではありませんか!) 

彼は言います、「というのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである」と。

ここで彼は、自分の偽りの教えの究極目的が何であるのかはっきりと明言しています。「いつか自分が、似せて造られた神に戻る。それが人間の究極の目標なのだ」と。

やれやれと私たちは大きな溜息をつくしかありません。原初回帰、全てのグノーシス主義者の主張は必ずここに帰着するのです。「いつか自分が似せて造られた神に戻る」、すなわち、人類が自力で創造された当初の罪のない存在に立ち戻り、神の似姿としての自分を取り戻すと、自力で「神のようになる」と! 人が神になるのだと! アダムの古き命のままで、肉のままで、人は神になれるのだと! これがすべての福音を歪める者たちの究極目標なのです。彼らはどうしてもこの目的を告白せずにいられないようです。

彼らは言います、今は人類は自由意志を乱用したがために自分を傷つけ、互いを傷つけ、無知の中、地を這いずるように生きているかも知れないが、本来、神に似せて造られた者である以上、人の内には誰にも滅ぼすことのできない「聖なる神的火花」が宿っているのだと。そうである以上、いつかきっと人類は自分の力で、似せて造られた神に戻ってみせると。いつか自力で神のようになってみせると。いつかきっと「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」(イザヤ14:13-14) それが人間の究極的目標だと!

このような教えがどこからやって来たものか、それでもまだ分からないという人がおられるでしょうか?

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(3)

3.善と悪の弁証法と、サタンの受けるべき刑罰の否定

前回では、サンダー・シングが福音を唯物論化して、「地獄」や「天界」を神の定められた絶対的なものとしてとらえず、むしろ、この世や人の心の状態に応じて作り出される相対的なものであるとみなしていることを説明しました。さらに、サンダー・シングはそれにとどまらず、善悪の概念をも同じように相対化し、悪は永久不変のものではなく、神の御前で動かせない絶対的なものではないと主張するのです。

悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるものであって、悪を悪として行なう者は誰もいない。どんな悪者も邪な者も、判断力というものがあれば、自分を傷つけたりはしないものだ。悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではないのである。人を殺し他を滅ぼす悪の有毒な作用が、自らをも永遠に滅ぼす。

永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。

このように、悪は永遠ではない――始まりあるところ終わりがある――のであるから、悪は終わりを迎えると結論しなければならない。悪は自らを滅ぼすという点で、特にそれがいえるのである。」(p.285)


この文章は決して注意せずに通りすぎてはならないものです。まず、サンダー・シングが善悪の概念を相対化することにより、善悪の概念そのものを骨抜きにしていることに注意を払いましょう。彼は言います、永遠の神の属性である善だけが永久不変なのであり、「悪は永遠ではない」と。つまり、動かせない絶対的な悪というものはこの世に何ひとつ存在せず、どんな悪にも必ず終わりが来るのだと、あるものが今、悪であるように見えたとしても、その悪はやがて必ず悪であることを終えて、善に還元されるときが来るのだと、そう言っているのです。そして、すべての悪は最終的には善に還元され、善だけが永遠に残ると言っているのです。

これは善悪の切り分けそのものの否定です。このような考えに立つと、神の御前で、永遠に動かせない絶対的な悪というものは何ひとつ存在しないことになります。

さらに注目すべきは、サンダー・シングが「悪には用途(目的)がある」と主張している点です。彼は言います、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるもの」であると。つまり、彼は言うのです、全ての悪は何らかの合理的な目的があって生まれて来るものであり、必要に迫られて生まれて来るもの(=必要悪)だと。そうである限り、その用途、つまり、悪の悪たる役割を終えるならば、悪はもはや悪ではなくなって、善に還元されるのだと。

だからこそ、サンダー・シングは言うのです、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」と。彼は神の創造した全てのものは、本来的に善であるはずであり(=性善説)、それが悪のように見えるのは一時的に何らかの役割を果たすためにそうなっているに過ぎず、役割を終えれば、すべての悪がいずれ善となる、そこですべてのものは本来的に善であって、永久不変の悪などというものは何ひとつとして存在しないと主張しているのです。

このような性善説が聖書に反していることは明らかです。アダムの堕落により、生まれながらの人類は神と断絶し、キリストの十字架の死を経ずには、人は神に受け入れられない存在となりました。聖書は言います、人類は生まれながらにして一人の例外もなく「自分の罪過と罪との中に死んで」おり、「不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であると(エペソ2:1-3)。ところが、サンダー・シングは善悪の概念を相対化することにより、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」として、事実上、原罪を否定し、生まれながらの人類をそのままで罪なき者、善なる存在とみなそうとしているのです。

ところで、私は以前に記事の中で、キリスト教を政治的弱者の社会的救済のために利用しようとする解放神学の偽りに触れました。学者たちは、この解放神学が、神学を装っただけの偽りのイデオロギー宗教であると述べています。大石昭夫氏は「解放神学の基本構造」の中で次のように言います、「解放神学の基本的主張を調べれば蚕の中のさなぎのようにイデオロギーが内部にあることを否定することはできない。」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、荒竹出版、p.32)

これと全く同じことがサンダー・シングの教え、そして、全てのグノーシス主義に影響を受けた擬似キリスト教にもあてはまるのです。サンダー・シングの教えを調べていくと、これがキリスト教に寄生しただけのイデオロギーであることが分かります。本来、キリスト教では決してありえない異質な思想が、キリスト教を宿主としてその内側に寄生し、巣食っていることが分かるのです。

たとえば、善悪に関するサンダー・シングの主張がマルクス主義者のものとほぼ完全に一致していることにご注意下さい。マルクス主義者は言います、ある時代に悪(不合理)とされた概念でも、時代が交替し、その用途を果たし終えれば、悪(不合理)であることを終えて、むしろ善(合理的なもの)に転換すると。そして、歴史の中で、合理的なものも全て時とともに不合理となり、不合理なものも合理的となるというのです。

「…さきには現実的であったものが、すべて発展の過程のなかで非現実的になり、その必然性、その存在権、その合理性をうしなっていく。死んでいく現実的なものに代わって、新しい、生活力のある現実性が現れてくる、――古いものが反抗せずに死んでいくほど賢明な場合には平和的に、古いものがこの必然性にさからう場合には暴力的に<…>。すなわち、人類の歴史の領域で現実的であるものは、すべて時とともに不合理になるのであり、<…>人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなに現存する見せかけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられているのである。」(『フォイエルバッハ論』、p.11より)

このような主張は、善悪というものが本来、神の御前に絶対に動かせないものであることを否定し、善悪の区別を消し去ってうやむやにしてしまいます。

「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」というサンダー・シングの考え方に立つならば、創造の初めから、神の善と全く相容れないものは何ひとつこの地上に存在せず、今、仮に神と人との断絶があるとしても、それも一時的状態に過ぎないので、すべての被造物が究極的には神に回帰し、神の善の中にいずれ吸収されていくということになってしまいます。つまり、このような主張に立てば、御子の十字架の死によらなければ絶対に解消され得ない神と人との断絶というものは存在せず、神の御前に永久に罪定めされる悪は存在しないことになります。

覚えていらっしゃる方もおられると思いますが、以前、私はグノーシス主義文献の『ユダの福音書』においては、イスカリオテのユダの裏切りが「善」とみなされて正当化されていることに触れました。そこでは、ユダこそが主イエスの最高の弟子であったとみなされています。グノーシス主義者がそう考える根拠として挙げているのは、ユダの裏切りが、神のご計画の成就のために必要不可欠な一部をなしていること、その点で彼の行為は必要悪として役目を果たしたということです。つまり、サンダー・シングと同じように、グノーシス主義者も、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行なわれる」と考え、その文脈で、ユダの悪は、神のご計画の成就(グノーシス主義者は神のご計画というものもきわめて独自に歪めて解釈するわけですが)を助けるという特別な「目的」を果たしたのだから、ユダの行為はもはや悪ではありえず、最高の「善」と言って差し支えないと主張するわけです。

(「…不条理な物質世界から退場できるのだから、死を恐れたり怖がったりすることはないのだ。死は悲しいものではない。イエスが肉体から解放され、天上の家に戻る手段である。そしてユダは、敬愛するイエスを裏切ることで、彼が肉体を捨て去り、内なる神聖な本質を自由にすることを手助けしている。」 『原典 ユダの福音書』、日経ナショナルジオグラフィック社、p.8、マービン・マイヤー氏による解説)

このような詭弁は、目的が手段を正当化するという恐ろしい考えを生みます。このような考えに立つと、地上における全ての善悪の概念はうやむやにされ、何らかの崇高な目的さえあれば、それを達成する手段として人はどのような悪事を犯しても構わないという結論になります。むしろ、全ての悪は善に通じるので、合理的な目的のためならば人類はためらいなく悪事を犯せばよいという話になるのです。

作家ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフという人物に、「目的は手段を正当化する」というこの思想を体現させたわけですが、このような思想は、すべてのテロリズムに共通する思想であり、どんな倫理・道徳をも骨抜きにしてしまう非常に恐ろしい考えです。たとえば、共産主義建設のため、人類のユートピア建設のためという口実で、歴史を通じてどれほど血塗られた方法が用いられてきたことでしょうか。そのようなものを正当化するのがこの思想なのです。人類の幸福社会の建設という「合理的な目的」を口実にすれば、どんな悪事を犯しても、それは「善」として正当化され、容認されうるというのがこの思想なのです。

私たちが人間の弱さを弁護するために、悪を悪とせず、罪を罪として見なくなる時、神の御前に善悪が動かせない絶対的なものであることを認めず、むしろ、人間に都合の良い観点から善悪を判断しようとして、善悪の線引きを巧妙にずらしていくとき、すなわち、聖書に沿って、神がご覧になるように善悪を判断することをやめてしまうとき、それは一種の「悪の解禁」のような状態を招くのです。そこでは、最も恐ろしい悪でさえ、最も麗しい善のように咲き誇り、古くからあった善良なものが、かえって時代遅れな無用の長物として批判され、退けられるのです。目的の見せかけだけの崇高さがあらゆる悪事の忌まわしさを覆い隠し、どんなに多くの人間が苦しみに遭っても、その犠牲はかえりみられません。私たちは断じて、このような価値観の到来を許してはいけないのです。

さて、話を戻せば、サンダー・シングは、先に引用した文章の中で、サタンの悪でさえ永遠ではないと、さらに恐るべきことを述べています。もう一度引用しましょう、「永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。」

これも決して注意せずに通りすぎてはならない文章です、彼は「悪はサタンの永久不変の属性ではない」と述べているのです。彼は言います、サタンも本来は無垢な存在に造られたのであり、彼はただ自由意志を乱用したという点で間違っただけであって、全ての「悪は永遠ではない」以上、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではな」く、従って、神に創造されたものとして、サタンの「悪」でさえ永久不変の属性ではあり得ないのだと。

サンダー・シングはここでクリスチャンをはばかってか、あえて言葉を濁して最後まで言い切っていませんが、このことは結局、サタンの悪にもいずれ終わりが来て、サタンは善なる存在に転換すると言っているのと同じなのです。

サンダー・シングはサタンの「悪」を、「行動面」にのみ絞り込むことによって、サタンの「行動面」の悪と、彼の「性質」とを分離しようとします。すなわち、サタンは「自由意志の乱用」という行いによって、「今のような邪悪な状態(注意して下さい、彼はここで悪を「状態」とみなしているのです)に陥ったが、それによって、本来は「無垢な状態に造られた」はずのサタンの性質そのものまでが変わってしまったわけではないと言うのです。なぜなら――彼の主張からは必然的にこのような結論が出ざるを得ないのですが――、サタンが邪悪であるように見えるのは、彼の悪が悪たる役目を終えるまでの間(サタンが神のご計画を助けて一定の目的を成就させるまでの間)の一時的な状態に過ぎず、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」以上、必ず、サタンの「悪は終わりを迎える」時が来ると。その後、サタンは神に創造された当初からの生得の性質であった善に戻るのだと。もっと極言すれば、サンダー・シングはサタンの性質は今も造られた当初と変わらず、無垢なままであると言っているのです(サタンが邪悪であるかのように見えるのは一時的な状態に過ぎないのであって、悪はサタンの永久不変の属性ではないというのですから)。

こんな詭弁にごまかされることなく、きちんと聖書に戻りましょう。聖書はサタンの最終的な末路についてどう告げているでしょうか。「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)

このように、聖書はサタンには一切の名誉回復の余地が残されていないことをはっきりと告げています。確かにサタンは造られた当初は無垢な存在であったのです。それどころか、最も美しい完全な被造物でありさえしたのです。エゼキエル書は言います、「神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。…あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」(エゼキエル28:12,15)。 

しかし、サタンは自分の美と栄光に心高ぶり、「神のようになろう」として神に反逆し、失敗して堕落したのです。「あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。…あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。」(エゼキエル28:16,17) 「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12-15)

そうです、サタンには「よみに落とされ、穴の底に落とされる」ことが確定しているのです。サタンは人類を堕落させた罪のために神によって呪われ(創世記3:14)「女の子孫」である御子キリストが十字架で彼の頭を打ち砕きました。キリストはご自分の「死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださ」ったのです(ヘブル2:14-15)。そして、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

サタンは永久に打ち破られました! 彼には永遠の敗北が決定しています! 同じように堕落した被造物であっても、悔い改めの機会が残されている人間とは異なり、サタンにはいかなる悔い改めの余地も残されていません。サタンには神の善に立ち帰る道が永久に閉ざされているのです。そればかりか、燃える火と硫黄の池での永遠の刑罰が確定しているのです。ですから、サタンには永遠の罪定めと滅びがあるのみで、名誉回復など永久にあるはずがないことは明らかです。

にも関わらず、聖書が永遠の刑罰を宣告しているサタンでさえいずれ善なる存在に立ち戻るかのように語るサンダー・シングの教えが、どんなに危険なものであるかは、これでお分かりいただけると思います。サンダー・シングに限らず、全てのグノーシス主義の教えに共通することですが、どんなに神の御名を利用して、敬虔なキリスト教のように装っていたとしても、神の御前での善悪の絶対性を否定し、サタンの悪を相対化し、サタンでさえ神に立ち帰る可能性があるかのように見せかけ、サタンに定められている永遠の刑罰を否定するような教えは、全てまことの神から来た思想でなく、むしろサタンに由来する思想であることが明らかなのです。