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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

傷ついたアイデンティティと被害者意識を原動力として生まれる偽りの世界救済の思想の危険

・「自己を脅かされている」という被害者意識が生む危険な人格障害

ひとつ前の記事では、文学上の主人公であるエフゲニー・オネーギンの人格を例に、ロシアという国家の歴史的に傷ついたアイデンティティという問題について見て来た。

筆者の見解では、オネーギンという人物像には、ただ単に帝政ロシアの時代のロシア知識人の内心の問題が反映されているだけでなく、そこには、今日までロシアという国家、また、ロシア人が自己のアイデンティティにおいて抱えて来た傷、さらに、その傷のために生じる病理現象が、端的かつ象徴的に凝縮してこめられている。

ところで、オネーギンに代表されるような「傷ついた人格」は、現代の日本人とも決して無縁ではない。かつて我が国の文学においては、ロシア文学の「余計者」とよく似た「高等遊民」などと呼ばれる憂愁を抱える知識人のタイプが登場したが、現代社会においても、オネーギン的な人格は、知的エリートのみならず、幅広い社会層に広がっている。

我が国には、敗戦、占領、属国化政策などの歴史的な負の過去があることに加えて、戦後の偏差値を重んじる受験競争や、高度経済成長期の就職戦線、その後も現在にまで受け継がれる企業への絶対服従の風土などが、国民の間に健全な自尊心が育つことを妨げている。

こうした状況の中で、健全な自尊心を養うことのできなかった人間は、傷ついて、病んだ、オネーギン的な(あるいはそれをさらに上回るもっと深刻な)歪んだ人格障害の特徴を抱えながら、良心を失った知的エリートとして生活しており、官僚や、聖職者などの中にも、こうしたタイプの人間が見受けられる。

その他にも、たとえば、ネトウヨや、植松容疑者といった知的エリートと呼べない、比較的社会の下層に位置する人々の中にも、同様の人格障害の持ち主は広がっている。彼らはオネーギンのような高い教養、巧みなパフォーマンスを持たないが、自己の内面に抱える鬱屈した被害者意識、社会で適切な居場所を見いだせないための絶望感、絶えず自分の心の空洞を転嫁できそうな相手を獲物のように探し求めているなどの点で、上記の人々と共通していると言えよう。

現代という時代は、被害者意識が急激に社会に蔓延した結果、人々のアイデンティティが侵食されており、傷ついて病んだ人格の特徴を持たない人間を探す方が極めて困難な時代であると言える。

そして、ロシアと同様に、我が国においても、健全なアイデンティティを養うことのできなかった人々の被害者意識は、個人のレベルで人格障害を生んでいるだけでなく、国家のレベルでも、集団的に危険なナショナリズムを生んでいる。

先の記事で述べた通り、ナショナリズムとは、「自分(自国)が脅かされている」という恐怖感、被害者意識、劣等感などからこそ生まれて来るものである。

被害者意識というものの厄介な点は、個人には(あるいは、国家にも)プライドがあるため、自己を脅かされているという恐怖感や、被害者意識を感じていればいるほど、人はかえって自己の弱さや恐怖を必死になって覆い隠し、否定しようとすることである。

そして、自分の弱さ、内心の恐怖から目を背けるために、自分を鍛えたり、優れた思想を学んでそれを取り入れようとしたり、熱心な宗教家を装ったりして、むしろ、自分をあるがまま以上に強く、美しく、優秀で、完全無欠な正義の味方のように見せかけようとするのである。

そうした自己欺瞞の行き着く最高の形態がメシアニズムの思想である。

「自分を脅かされている」と感じている存在が、プライドのゆえに、自分の抱える弱さや恐怖心から目を背け、その弱さを他者に転嫁し、助けを必要としているのは、自分ではなくむしろ他者なのだと考えて、他者の救済者を名乗り出て他者よりも優位に立つことによって、自尊心を満たし、そのような方法で、自分に劣等感を味わわせた存在を見返すと同時に、他者の救済に便乗して自己救済を成し遂げようとするのがこのメシアニズムの思想の特徴である。

メシアニズムの思想とは、いわば、被害者意識を覆い隠すためのトリックとしての自己救済の思想なのである。


・怨念や、劣等感や、被害者意識を原動力として発生するメシアニズムの思想の危険

ロシアにおけるメシアニズムの思想の中には、たとえば、すでに述べたように、「モスクワは第三の(最後の)ローマである(第四のローマはない)」などとする、「ロシア正教こそが唯一正しいキリスト教の担い手であり、ロシアには世界を救う資格がある」といった救済思想がある。

この「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア(16世紀頃のモスクワ公国)がモンゴルの支配を跳ね返し、ロシアのキリスト教の本家であったビザンチン帝国が滅亡し、ヨーロッパのカトリックの腐敗が明らかになった頃に生まれた概念であり、ようやく滅亡の危機を脱して国力を回復したばかりのロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教の危機的な状況を利用して、あたかも「ロシア正教こそが世界で唯一正しいキリスト教であり、ロシアはその担い手であるから、世界を救済する資格がある」かのように提唱する思想であった。

これは修道僧によって提示された思想であり、国家権力の側から公式に流布されたものではなく、実際に、当時のロシア正教全体の中にこのような思想がどの程度、広まっていたのか、それがロシア民衆の間にどの程度、定着して、国の団結に役立ったのかも不明であるが、いわば、これはロシアのメシアニズムの思想の先駆けであり、宗教に名を借りて、国の団結や威信を強化し、国家を神聖視する思想の土台を形作る思想の早い段階での明確な現れの一つであったと見ることができるだろう。

このようなロシアのメシアニズムの思想の基本構造は、その後も、宗教とは異なる形態において現れる。20世紀に、世界初の社会主義国であるソ連が、全世界を資本主義の弊害から救い、世界をプロレタリアートの天国である共産主義社会へと塗り変える拠点となるなどといった思想の中にも、以上に挙げた宗教メシアニズムとそれほど変わらない、メシアニズムの思想の基本構造が継承されていると見ることができる。

以下でも説明するように、「(母なる)ロシアを世界の諸国の脅威から守る」という被害者意識から生まれて来たプーチン政権が、「強いロシア」を提唱していることの中にも、以上のような「ロシアによる世界救済」の思想が受け継がれているという見方も可能である。

さて、メシアニズムの思想は、戦前の日本においても、「八紘一宇」などというスローガンの下、「天皇を「神」として頂く「神の国」である日本こそ、キリスト教の弊害・ヨーロッパ的な植民地主義の弊害から、アジアを含めた世界の諸国を解放する資格があるのだ」などとする国家神道の形で登場して来た。

一体、国境を超えて、宗教や、政治を問わず、様々な形態で現れ出て来るこれらの世界救済の思想の共通点は何であろうか? 端的に、二つの共通点が挙げられる。一つ目は、こうした思想が、真に世界をリードするにふさわしい先進国から出て来ることは決してなく、どちらかと言えば、歴史的な進歩から大きく後れを取っている後進的な国々から登場して来ること、第二に、こうした思想は、国が存亡の危機にあって「自己を脅かされている」という集団的な危機意識・被害者意識を持つ国々から、そうした弱さから目を背けるためのトリックとして生まれて来るという点である。

結論から言えば、メシアニズムの思想とは、被害者意識を抱える弱者救済の思想であり、それは自己を脅かす敵を根絶して、自己を世界一とすることで、自己救済を成し遂げようとする思想である。こうした思想は、健全なアイデンティティを持つ者から生まれることはなく、必ず、傷ついたアイデンティティを持つ存在からのみ生まれて来る。すなわち、こうした思想の根本にあるのは、被害者意識を持つ者が、脅かされ、傷ついた自分を「神聖な存在」とみなし、その「神聖な核(=被害者意識)」を全世界に押し広げ、全世界を自己に同化することによって、自分を脅かす存在を駆逐して、世界征服を成し遂げ、偽りの平和を築こうとする願望である。

こうした考えの根本には、「脅かされ、虐げられている弱者にこそ、世界を理想的に変革し、救済する資格がある」とみなす考え方がある。だから、こうした思想は、人々の内にある被害者意識、脅かされているという恐怖を「神聖なもの」にまで美化し、それを世界救済のための「神聖な核」にまで高めて行くのである。

ロシアの初期の社会主義の思想においても、虐げられているがゆえにロシア民衆を「神聖な存在」として美化する思想が至るところに見られた。虐げられているゆえに、民衆には、ロシアばかりか、世界の救済の担い手となるような優れた要素が宿っているというわけである。そうした考え(民衆の美化)は、当時のロシア文学には至る所に見られ、ゲルツェンなどの初期の社会主義者も、同じ路線に立って、ロシアの農村における農村共同体に、世界を理想的に変革する核となる要素があるとみなしていた。

「虐げられた者」を美化し、被害者意識によって団結を迫る思想は、社会主義時代においてはプロレタリアートの美化、「万国の労働者よ団結せよ」などのスローガンとなり、虐げられているがゆえに、プロレタリアートを世界を理想的な変革の担い手とする思想へと結びついた。

このように、メシアニズムの思想において、中核的な役割を果たすのは、決まって何らかの脅かされている社会的弱者の存在である。さらにもっと言えば、そうした弱者の内に見出される「被害者意識」こそ、「神聖な核」とみなされるのだと言える。被害者意識を軸に、自国ばかりか、全世界の人々が団結・連帯することによって、それまでの支配関係を覆し、理想的な世界を打ち立てることができるというのが、そうした思想の基本構造である。

このような思想は、むろん、偽りである。そこで被害者意識が「神聖」な要素にまで高められているのは、恐るべきことである。被害者意識に脅かされる者たちが、怨念と復讐心によって団結・連帯したからと言って、それが世界救済になどつながるはずもないのは明らかであるが、いずれにしても、その思想は「自己存在を脅かされている」と感じる者たちが、その被害者意識を軸に集結・決起することによって、自己救済を成し遂げようという思想であるから、そうした思想の担い手にとっては、その被害者意識に加わらない者たちは、「神聖」ではなく、世界の変革にふさわしくもなく、そのような存在がどうなろうとも全く構わないのである。

少し先走って言えば、これまでにも再三、述べて来たように、ペンテコステ運動も、基本的に上記のような思想と同種のメシアニズムの思想であると言える。

これまで述べて来たように、ペンテコステ運動の拠点となった教会は、ほぼ例外なく、全世界を自分たちと同じ信仰に塗り変え、同じ「霊の家」に帰依させることを目的に掲げる「リバイバル」を提唱している。だが、貧しく、無学なゆえに、既存のキリスト教からは伝道の対象ともみなされずに、打ち捨てられて来た社会的弱者を主な伝道対象として始まったこの運動が今も盛んに提唱している「リバイバル」とは、その概念をつぶさに見て行けば、「八紘一宇」(国家神道)、「全人類一家族理想」(統一教会)、プロレタリアートの天国としての共産主義などと全く変わらない、弱者のユートピアに他ならず、これもまた虐げられた弱者による被害者意識に基づく偽りの世界救済の思想であることが見えて来る。

次回以降の記事でも詳述するように、ペンテコステ運動はキリスト教ではなく、疑似キリスト教的な異端であり、ペンテコステ運動の原動力となっているものは、(既存の)キリスト教に対する被害者意識である。

この事実さえ見れば、なぜキリスト教を名乗っているはずのペンテコステ運動の只中から、既存のキリスト教界の「カルト化」を糾弾しつつ、キリスト教会に次々と裁判をしかけて、教会を取り潰すようなカルト被害者救済活動といった異常な運動が生まれて来るのか、なぜそれにも関わらず、カルトとみなされる教会の数多くがまさにペンテコステ運動に属しているといった矛盾が存在するのか、といったことの謎が解けるであろう。このようなことが起きるのは、ペンテコステ運動が本質的にキリスト教を仮想敵とする疑似キリスト教であるために他ならない。

ちなみに、聖書によれば、終わりの時代になればなるほど、公の会堂(教会)は偽の信者たちで占拠され、信者たちは迫害を受け、散らされることが記されており、古代ローマ帝国時代のように、クリスチャンの爆発的増加によって全世界がキリスト教に塗り替えられるといったことは、聖書には記述されていない。それにも関わらず、ペンテコステ運動の支持者たちが、自分たちと同じ信仰を持つ教会を全世界に押し広げるための「リバイバル」を唱え続けるのは、この思想が本質的に自己増殖を目的とする異端であり、最終的には、キリスト教の駆逐を真の目的としているためである。

興味深いのは、「モスクワ=第三ローマ説」も、社会主義思想も、国家神道も、統一教会も、ペンテコステ運動も、みなその本質においては、キリスト教を仮想敵としていると見られることである。

「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア正教から生まれたのだから、キリスト教を仮想敵としているとは言えないのではないか、といった反論もあるだろう。しかし、以下に見るように、ペンテコステ運動がその本質においては疑似キリスト教であると筆者が指摘するのと同様に、ロシアのキリスト教も、ヨーロッパのキリスト教とは根本的に受容の過程が異なっており、その意味で、大きな弱点を抱えており、そのために、ロシアという国には、その本質において真にキリスト教信仰が浸透することなく、むしろ、文化的な土壌においては、常に異教的な世界観に立ったままであったと筆者は見ている。

それだからこそ、ヨーロッパにおけるキリスト教全体に対する敵視に基づく「モスクワ=第三ローマ説」が登場したり、あるいは、長年のキリスト教国でありながら、ロシアが20世紀にはあっさりとキリスト教を捨てて、社会主義化の道を辿るなどの出来事が起きたのである。

次の記事でも詳述するが、こうしたすべてのメシアニズムの思想の背後にあるのは、キリスト教に敵対するグノーシス主義的・東洋思想的・異教的世界観である。これまでに見て来たように、グノーシス主義とは、基本的に、「神秘なる母性」を崇める母性崇拝の思想である。

なお、ロシアにおいては、今日でも、「母なるロシア」(Матушка Россия, Россия-матушка, Мать-Россия, Матушка Русь)といった表現が、愛国心を込めた表現として広く使われている。ソ連時代には「母なる祖国」(Родина-мать)と言った呼び名も頻繁に使われ、このように国そのものを母なる女性人格として誉め讃える思想が今も伝統として受け継がれているのである。

だが、このような用語は、決してキリスト教的なものではなく、明らかに、異教的な発想を土台として成立したものである。それは単なる愛国心の表れではなく、グノーシス主義における「神秘なる母性」崇拝を国家に当てはめ、国家そのものを「神聖なる母性」として崇拝する一種の信仰であると言った方が良いと筆者は考えている。

Wikipediaの説明によると、「母なるロシア」というシンボルは、政治的にも利用されて来た。つまり、ロシアの統治者は、自分は「母なるロシア(が内外の敵に脅かされないための)守り手である」と名乗り出て、「母なるロシア」と「神聖な結婚の関係にある」という概念を用いて、自らの政治権力を正当化する根拠として来たのだという。

こうして、国そのものを「聖なる母」として神格化し、至高の価値として崇め奉り、「ロシアとの結婚」を何より重んじていればこそ、プーチン氏のような為政者は、自らの夫人との生活にも訣別し、ただ国の統治者としての公の人生だけに全存在を投じようとしているのだと見ることもできよう。そうした観点から見るならば、「母なるロシア」とは、ただ単に愛国的な表現であるのではなく、文字通り、全身全霊を母国のために捧げて祖国防衛に努めよという、一種のカルト的とも言えるほどの信仰を土台としている用語であると言うこともできよう。

このように、ロシアの政治的な統治の背景には、常に「母なるロシアを様々な脅威から守らねばならない」という発想があったが、この「母を守る」という発想は、明らかに、当ブログで指摘して来た、グノーシス主義的・東洋的な世界観の根本に横たわる「母を守る」という発想に通じる。

そこにあるのは、「神聖な母が脅かされている」もしくは「脅かされる危険がある」から、「子らが立ち上がって、家全体で、母を防衛しなければならない」という危機意識、もっと言えば、母子ともに、家が脅かされているという被害者意識である。

現代のような時代では、確かに、ロシアという国は様々な危機に囲まれていると言えようが、このような被害者意識は、必ずしも、現実的な根拠があって生まれるものではない。「母なるロシアが脅かされている」という被害者意識は、表面的な政治的対立よりももっと深いところから生まれて来る世界観である。先の記事でも述べたように、「ロシアを脅かす脅威」とは、文字通り、ロシア以外のすべての国々を指すのであるが、中でもとりわけ、真の脅威となっているものが、実はキリスト教であることを、以下で詳しく見て行きたい。


・メシアニズムの思想は、怨念と復讐心から生まれるものであって、真に優れて先駆的な文化の只中から出て来ることは決してない

ところで、メシアニズムの思想は、決して真に優れた国や、優れた文化の只中から登場して来ることはない。このような思想は、早い話が、劣等感と、遅れの意識、屈辱感の裏返しとして生まれるものであって、決まって、どちらかと言えば、文化的に後進的な国々の中から発生して来る。

先に述べたように、ロシアのキリスト教には、世界を救済できるような要素は全くなかった。それどころか、ロシアのキリスト教は、その受容の過程からして、ヨーロッパのキリスト教とは大きく異なっており、最初から大きな弱点を抱えていたのである。ロシアには、ローマ帝国時代のキリスト教のように、迫害の只中で、信徒の信仰の自発的な増加によって、やむにやまれず国教にまで拡大したといった歴史はなかった。ロシアのキリスト教は、民衆の只中から自発的に広まった信仰ではなく、ただ単に国家の威信強化のために、外側から移植され、半強制的に民衆に押しつけられたものに過ぎず、そのため、内心の伴わない、うわべだけの偽装のような改宗であった。

このような半強制的な改宗によって、キリスト教の精神の本髄が、国民の間に浸透・定着するはずもなく、それだからこそ、うわべだけの改宗後も、ロシアには依然として、異教的な民間信仰の要素が色濃く残り続けたのである。そのような意味で、ロシアという国の本質は、その深部においては、たとえ表面的にはキリスト教国となった歴史があったとはいえ、ずっと変わらず異教的な信仰にとどまっていたのだと言って過言ではない。

帝政時代、ロシアはキリスト教国であったが、その間の歩みも、ロシアを本質的に変えることがなかった。だからこそ、20世紀になると、ロシアはキリスト教の仮面を投げ捨てて、社会主義的無神論に転身し、共産主義思想によってキリスト教国に敵対する道を選んだのである。そして、ソ連崩壊後の現在に至るまでも、ロシアでは未だオウム真理教が圧倒的な増加を誇って政府の規制の対象となっているなどの事実からも分かるように、異教的な土壌が大きくものを言っている。新興宗教はロシアに積極的な活動の場を見いだしているが、それは非キリスト教的な異教的世界観が、この国の土壌に今も深く根差しているためであり、共産主義思想も、まさにこの異教的な土壌の中でこそ培養されたのである。

このように、ロシアという国は、歴史上、決して表層のみでしか、キリスト教を受容したことはなく、ロシアにおけるキリスト教は決して真の自発的な信仰として、国民の間に深く浸透して行くことがなかった。だから、その意味で、ロシアのキリスト教には、決してヨーロッパと比べて、これを優れたものとして誇れる要素はなかったのである。

ヨーロッパのキリスト教は、確かに、国教化されて以後、著しい世俗化の道を歩み、その意味において、この世と妥協して堕落したと言えるかも知れないが、それゆえ、宗教改革が起こりもし、絶えず、聖書の本質に立ち戻ろうとの試みが生まれて来た。それに引き換え、ロシアにおけるキリスト教には、ヨーロッパのキリスト教に匹敵する意味での宗教改革がなかった。ロシアにはルネサンスがなく、ニーコンの改革とそれに反対する古儀式派との対立も、儀式のあり方を巡って生じた争いに過ぎず、教義面における深い討論には全く結びつかなかった。

ロシア正教は、もともと荘厳な宗教絵画などの装飾や儀式などの印象を感覚的に受容することや、瞑想に近い祈りなどに重きを置いており、プロテスタントのように信徒自身が主体的に聖書を理解する過程を重んじない。もともと一人一人の信者が聖書を知的・論理的に解釈し、理解するという主体的な側面が薄いことから、教義面における討論が高まって、聖書に立ち戻るべきとの訴えがなされて、大々的な宗教改革に結びつくといった現象が起きなかったのも不思議ではない。

このように、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教と比較して、当初から抱えていた大きな「弱点」を全て無視して、ただカトリックの腐敗や、ビザンチン帝国の崩壊などを口実に、「ロシアこそが正しいキリスト教の最後の担い手であり、世界に正しい信仰のあり方を教え、世界を救済することのできる国である」と自負するという思想は、まさに現実を無視した幻想であり、根拠なき自惚れであるとしか言えない。

こうした発想は、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教に比べて、もともと大きく遅れを取っており、また、ロシアという国そのものが、モンゴルの占領によって存亡の危機に脅かされ、長く発展を阻害されたという悲劇的な歴史があればこそ、その反発として生まれて来たものであったと言えよう。つまり、ヨーロッパに対する遅れの自覚がそれほど深く、無意識のうちにも、ヨーロッパのキリスト教に対する激しい敵愾心・復讐心を生んでいたからこそ、いつかこれを見返し、凌駕することで、その遅れを取り戻し、世界一に名乗り出て雪辱を果たしてやろうとの復讐心が、以上のような思想の形となって現れたのだと考えられる。

もっと言うならば、ロシアのキリスト教は、決して土着の信仰として根づかない「借り物」のようなものであればこそ、ヨーロッパのキリスト教からは遅れた信仰、あるいは「フェイク」のようなものとみなされ、断罪されたり、侮蔑される危険があった。あるいは、ロシアの文化が、本質的には、キリスト教に染まらず、異教的な世界観のままであればこそ、そうした異教的世界観が、キリスト教の側から暴かれ、断罪され、駆逐される危険があった。「モスクワ=第三ローマ説」は、こうした意味で、ロシアがその本質において持ち続けて来た異教的世界観の側からの、自己防衛を目的としたキリスト教に対する敵対宣言であった可能性も考えられる。

こうした思想的傾向は、ロシアにその後も変わらず持ち続けられる。帝政時代には、封建的な権力による民衆への抑圧のために、ロシア社会の進歩がヨーロッパに比べて著しく停滞し、そのために、ヨーロッパにおける資本主義の目覚ましい発展からロシアは遅れを取っているという危機意識がロシア知識人に広まった。こうした遅れを取り戻して、世界に先駆ける存在とならねばならないという危機意識が、その後、社会主義化によってロシアが世界をリードするといった発想へと結びついたものと見られる。ソ連崩壊後は、資本主義国の見舞われなかった経済的混乱の只中から、「強いロシアを取り戻す」ことをスローガンに掲げるプーチン政権が登場して来た。これらのことはすべて、ロシアという国が内面で抱えていた「国が脅かされて滅亡の危機にあり、このままでは世界から取り残されてしまう」という強い危機感と、遅れの意識や、劣等感を克服して、自国よりも進歩的な全ての国々を凌駕したいという無意識の敵愾心・競争意識・復讐心が生み出した現象であったと言えるのではないかと思う。


・ヨーロッパ文化の急激な受容により東洋的な世界観が圧迫されたことへの反発として生まれた日本の国家神道というメシアニズム

翻って、戦前・戦中の日本の国家神道を見てみると、以上に挙げたような、ロシアとさほど変わらない現象が起きていたように見受けられる。日本は、歴史上、一度もキリスト教国になったことはないが、それでも、開国以降、ヨーロッパ産業文明の目覚ましい進歩に圧倒され、急激にヨーロッパを模倣して近代化をはからねばならなくなった過程で、自国はヨーロッパに著しく遅れを取っているという危機感やコンプレックスが生まれたものと見られる。

我が国の場合は、ロシアの場合とは多少、事情が異なるとはいえ、宗教的にも、キリスト教を土台として成立したヨーロッパ文化と、日本がもともと伝統的に継承していた東洋的・異教的な世界観との間にはあまりにも大きなずれがあり、それらは互いに異質であり、なじまないものであったため、外側でヨーロッパ文化を模倣すればするほど、日本が内側で持ち続けて来た東洋的な世界観との乖離状態が無視できないギャップとなって表れ、このギャップを克服するために、何かの心理的トリックが必要となったものと見られる。

そこで、表面的には西洋文化を受け入れた風を装いながらも、内側では、東洋思想を保存して、西洋的な思想(特にキリスト教)の侵食を決して許さないために、人工的に作り出されたものが、国家神道を土台とするメシアニズムの思想であったと考えることができる。

日本は事実上のメシアニズムの思想である国家神道の理念を打ち出すことにより、日本こそ、西洋文明の二元論的行き詰まりから全世界を救うことのできる特別な使命を持つ国であると自認した。

日本は、キリストに代わり、「天皇」を神聖な存在として掲げ、かつ、日本という国家自体を、「天皇を中心とする神聖な一大家族国家」とみなすことによって、国全体をキリスト教に対する防波堤としようとしたが、その理念の最大の目的は、全世界をキリスト教の侵食から「保護し」、異教的(東洋思想的な)世界観を保存することにあったと見られる。

このような「全世界をキリスト教の弊害から救う」という理念を正当化するために、国家神道は、西洋文化と東洋文化の合体によって、新たな文化を創造できるという折衷案的な解決方法を編み出した。キリスト教の神の概念はあくまで受け入れられないものとして、それに代わるものとして天皇崇拝を提唱しながらも、西洋文明の長所だけは取り入れ、これを日本がそれまで伝統的に持ち続けて来た東洋思想、東洋文化と合体させて、新たな混合文化を創り出し、それによって、「キリスト教と西洋文明の欠点から来る世界の行き詰まりを打破・是正できる」と主張したのである。

だが、むろん、こうした思想も甚だしい偽りであって、天皇崇拝や、東洋文化や、国家神道が、キリスト教に優る、世界に先駆けて優れたものだから、世界を行き詰まりから救うなどといった思想には、お世辞にも肯定することはできないし、それが根拠なき自惚れに過ぎなかったことは、歴史が証明済みである。むろん、それぞれの文化には、独自の長所が存在し、東洋文化にも、文化的な長所というものは存在するであろうが、だからと言って、その長所を持って「世界の救済者」を自認するといった厚かましい思想は、文化的な長所とは全く関係ない話である。

そのような思想は、日本が開国以降、ヨーロッパ産業文明に対して感じていた著しい遅れの意識と、劣等感、何よりもヨーロッパにおけるキリスト教に対する無意識の敵愾心が生み出したものであるとしか言えない。


・異教的・東洋的世界観の持つ被害者意識はキリスト教への敵意から来る

幾度も述べて来たことだが、東洋思想の根底には、キリスト教に対する根強い恐怖感と被害者意識が存在する。東洋思想の根底に流れる「母を守らなければならない」という発想は、要するに、「西洋的なキリスト教の父性原理の脅威から、東洋的・異教的な母性崇拝を守らなければならない」ということに尽きる。

だから、そこで言う「母」とは、異教的世界観の総体なのである。戦前の日本や、ロシアにおいて、国そのものを神聖な存在のようにみなし、国民全体が団結して立ち上がって、この「母なる国」を内外の脅威から防衛することにより、自国のみならず、世界を行き詰まりから救済できるかのような思想が度々、生まれて来たのは、こうした思想の背景に、まさに異教的・グノーシス主義的な世界観が存在しているからに他ならない。

つまり、ここで言う「国」とは、単なる国家ではなく、異教的な世界観、とりわけ、グノーシス主義的な「神秘なる母性」崇拝を保存するための「神聖な母体」としての入れ物(宮)なのである。だから、その「母」を脅かす存在とは、ただ国を脅かす内外のあれやこれやの政治勢力を指すだけでなく、本質的には、キリスト教(の父性原理)の脅威を意味するのである。

結局、こうした思想が最終目的に掲げているのは、異教的世界観(異教的な母性崇拝)をナンバーワンに据えることによって、全世界をキリスト教の(父性原理の)「脅威」から守り、聖書とは異なる異教的な「神」を世界の中心に据えようという思惑である。

「モスクワ=第三ローマ説」も、ロシアのキリスト教こそが世界で唯一正統であるという、一見、あたかもキリスト教という宗教の中での対立のように見受けられる主張の陰で、その実、真の目的は、ロシアという国家そのものを「神聖なる母」として、全世界の上に掲げることにあるものと考えられる。こうした思想の根底に流れるものは、決してキリスト教的な理念ではなく、単に政治的な争いを宗教的な装いのもとに表現しているに過ぎない。ロシア正教がビザンチンから伝来したと言っても、ローマはもともとキリスト教の聖地ではないので、ローマを継承したからと言って、本来、それは正統なキリスト教のシンボルにはならないはずである。それでも、あえてそのような表現が用いられたのは、明らかに、そこにカトリックに対する敵意が込められているからであり、モスクワ(公国)が、ビザンチンを継承して、バチカンに代わる新たなローマを名乗ることによって、ロシアにカトリックに優る宗教権力を打ち立てようとの願望が表れていたに過ぎない。

ただし、その後、ロシア正教はソ連時代に受けた弾圧などによって、かつての勢力を失い、今日のロシア正教に以上のような宗教的なメシアニズムの思想が残っているかと言えば、その可能性はかなり薄いであろう。むしろ、そうした思惑は宗教の舞台を離れて、政治の世界にこそ色濃く受け継がれている。

筆者は、それぞれの国の抱える文化的な土壌というものは、地層のようなもので、よほどのことがない限り、覆されることも、変化することもないと考えている。だから、ロシアも我が国も、文化の深層において抱える異教的な土壌というものがある限り、おそらく、以上に挙げたような忌むべき世界救済の思想は、今後も、繰り返し、繰り返し、何度でも形を変えながら、これらの国々から現れて来るであろうと思う。それらの思想は、現れる度ごとに、キリスト教への敵意をより一層、明白にしながら、最終的には、キリスト教を完全に乗っ取って、「我こそは正しい宗教である」と宣言することを目的にして行くのであろう。

結論として言えるのは、以上のようなメシアニズムの思想は、すべて怨念と被害者意識を基に生まれる復讐の思想である、ということである。こうした思想を育む土壌となる被害者意識は、ただ単に歴史的な負の事件だけをきっかけに生まれるものではなく、その根本には、キリスト教(の神)に対する、異教的・グノーシス主義的世界観の側からの怨念と被害者意識が存在する。だから、こうした被害者意識に満ちた思想が、真の復讐のターゲットとして定めているのは、内外のあれやこれやの脅威ではなく、まさにキリスト教そのものであり、聖書における唯一の神であることを知らなければならない。

次回以降の記事では、グノーシス主義的・異教的世界観がいかに被害者意識と切り離せないものであるか、また、グノーシス主義的・東洋的な母性崇拝の総称としての「イゼベルの霊」がいかに被害者意識に満ちているか、また、「イゼベルの霊」の支配に導かれる疑似キリスト教としてのペンテコステ運動に関わることが人にとってどれほど危険であるか、具体例を挙げながら考察して行く。

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・日ロ両国の接近が我が国に将来的にもたらすであろう悲劇について

・ロシアビジネスの不幸な現場から


かつてロシア人の友人が、筆者に面と向かって言った。

「プーチン政権に逆らうと社会的に抹殺される」

比較的リベラルで、特に体制反対派とも言えないロシアの知識人が口にしたその言葉は、筆者にとってもそれなりに重く響いた。その言葉の重さは、徐々に増し加わり、様々な実体験と共に、筆者のロシアという国への淡い期待を打ち砕き、我が国とロシアとの平和条約締結を無意味なものととらえさせるに十分なきっかけへと発展した。
 
母国をいたく愛するそのロシアの友人には残念なことかも知れないが、ロシア人が一般にどんなに信用ならない、したたかで、ずるい国民性を持っているか、ロシアと我が国との誠実な取引がいかに成立困難であり、またこのような国と取引すること自体が危険な行為であるか、これから具体的に記して行く予定である。

一言だけ先に書いておくと、ロシアビジネスを営む多くの企業を知っている者として筆者が言えることは、この業界は根本的に不幸である、ということだけだ。レールモントフの詩に表現された「奴隷の国(ロシア)」という響きは、当時だけに限ったことではない。ロシアビジネスに携わるほぼすべての企業で敷かれているのは、レールモントフが詩に書いた通りの、細部に渡るまでの行き過ぎた管理と統制、相互監視・密告体制である。そして人命の軽視、人権の軽視、不法と虐げの恒常化…。

むろん、日本にもブラック企業と呼ばれるビジネスが溢れ、テレマーケティングなど業界そのものがブラックと言われている分野もある。状況は似たり寄ったりだと言われるかも知れない。確かにそうとも言えるだろう。今や我々はビジネスそのもの意味が全く異なり、労働そのものが非人間的な苦役と化そうとしている時代にさしかかっているからだ。

だが、ロシアビジネスの場合は、さらにそれに輪をかけて別種の危険が増し加わることになる。まず第一に、ロシア人は一般的に約束を守らないことで有名である。たとえば、仮に日ロ政府間で正式に合意が交わされ、シベリアに何かのモニュメントの建立が決められたとしよう。それでも、ロシア企業は、必要な資材の納期を一年間先延ばしにしても平気である。契約違反と言われようが、全く意に介さず、どうせ自分たちの他に頼る相手などいないだろうと言わんばかりに、追及されてもダラダラと言い訳を並べ、あるいは情に訴えて真相をごまかそうとする。そのくせ、自分に有利な条件を引き出すための交渉には余念がなく、平気で取引相手を出し抜き、利用する。

したたかで、狡猾で、平気で約束を反故にし、常に勝ち馬に乗ろうと、それまでの仲間を捨ててでも強い者に寝返る。こうした手法について、ロシア人に恥を知れと言っても無駄なことである。ロシア人にはこうした方法が、モラルに反しているという認識はない。取引や交渉の進め方について、同じ土台に立てないのであるから、お人好しの日本人には、彼らのしたたかさに太刀打ちする術はないと言って差し支えない。もしどうしても太刀打ちしたいならば、相手にまさるヤクザ的手法を身につけて恫喝するしかない。

だから、こうしたことの自然の成り行きとして、ロシアビジネスに長年、関わっている日本人は、次第に性格がロシア化して行く。見栄と出世だけが全てだとでも言うかのように、とてつもなく厚かましく、尊大で、利己的で、傲慢になり、かつて持っていたはずの礼儀正しさやつつましやかな謙虚さや誠実さを失って、態度からもはっきりと分かるヤクザ者となり、他者の功績を平然と盗んだり、横取りし、あるいは嘘をついて、ルールを破り、同僚を出し抜き、貶めても平気な人間と化してしまう。そして、たとえ自分の非を突かれ、失敗を突きつけられても、頑なに認めず、謝ろうとしない。どこまでも言い訳を並べて居直るか、同情を引き出して言いぬけようとする。

むろん、以上のようなロシアの実情に心を痛めているロシア人もいないわけではないであろうが、それはあくまで例外に過ぎないことが問題だ。ドストエフスキーも、レフ・トルストイも、すべて例外的なロシア人であり、彼らの文学は当時のロシアの現状に対する深い絶望感から生まれて来たものと言っても過言ではない。我々は、ロシア文化のうわずみのような良いところだけを見て、これがロシアだと断定し、国全体を美化することはすべきではない。

筆者は以上のような現状を見つつ、ロシアとのビジネスを発展させても、我が国にさして利益があるわけではない、と結論づけている。これほど長い間、この分野に発展がなかったこと自体、理由のないことではなく、誠実に約束を履行できない相手と取引することは無謀な行為でしかない。これまで我が国にかの国と平和条約の締結がなかったのはむしろ当然で、幸運なことだったのではないか。ロシア人が誠実に物事に対処することを学ぶまで、ロシアとの友好など我が国には要らないのである。


・ロシアの抱える「被害者意識」と歪んだメシアニズム――他文化の絶え間ない「借用」と侵略によって、国力を強化し、傷ついた自己イメージを救おうと試みて来たロシア

ロシアという国は飽くことのない権力闘争に生きる不幸な国である。すでに書いたことであるが、ロシアにアルコール中毒患者が多いのも、あまりにも過酷な権力闘争の中で打ち負かされて、心破れたロシア人男性が多いためであり、ロシア人女性は美しく心優しいと言われるが、その優しさとて、以上のような自国の厳しい現状の只中から生まれて来た一種の諦念と結びついた同情でしかなく、自分よりも弱い者に対しては同情的かも知れないが、決して真の独立や自立を目指す心意気を生まない。

これまでの記事の中で、筆者は、ロシアという国は、文化も借り物ならば、宗教も借り物、およそすべてが借り物で成り立っている、存在そのものがフェイクに近いような幻の国だという、ある種の極論めいた結論を述べた。そのフェイクに近い国が歴史上、ずっと絶え間なく拡大・膨張政策を取り続けて来たことに、ある種の不気味さがある。今回、なぜそのようなことが起きているのか、ロシアという国が自己意識の深層で抱える問題について詳しく考えてみたい。

まず、ロシアという国は、自国にとって有利で、国家の威信を強めてくれそうなものであれば、どんなものでも、他から平然と「借用」する国である。その例は枚挙に暇がない。ロシアの大都市圏で誉め讃えられるヨーロッパ的町並みは、ロシアの近代化のためにピョートル大帝時代に輸入されたものであり、キリスト教も、ロシアを周辺国に一流の国と認めさせるために、国家の威信強化を目的にビザンチンから借用されたものである。ウラジーミル大公の命令によって、それまで民間の異教信仰に頼って生きていた多くの農村の民衆までもが、教義さえ分からないまま、無理やり洗礼を受けさせられ、キリスト教徒に改宗させられた。こんな強制的な集団改宗の有様を見るだけで、それがロシアがうわべだけ「キリスト教国」を偽装するための儀式に過ぎなかったことは明らかである。さらに、ソ連時代にロシアが取り入れた共産主義思想も、ヨーロッパからの輸入である。マルクスは、社会主義は資本主義の発展の結果として起きるものだと考えていたので、自らの思想の最初の実験場が、当時、ヨーロッパには経済的にも文化的にもかなり遅れを取っていたロシアに定められようとは、想像してもいなかった。

マルクス主義思想も含め、このようにロシアが、自国を飛躍的に「世界一」へと高めてくれそうなアイテムであれば、他国に先駆けてでも、それを導入した理由は、ロシアがそれまでずっと自己意識の深層で持ち続けて来た傷ついた国家のイメージ被害者意識の裏返しであったと言える。自国のアイデンティティの根幹で、傷ついた自己意識、被害者意識を持ち続けていたがゆえに、他を凌駕して世界一の存在に躍り出ることで、世界を救済し、劣等感を払拭し、雪辱を果たそうとする歪んだメシアニズムの思想が生まれたのである。

マルクス主義などは、ロシアという国がこのようにもともと深層で持っていたメシアニズムの思想が表面化するときに取った形態の一つに過ぎない。プーチン氏の目指す「強いロシア(の復興)」にも同じ思想が表れており、おそらくは、こうした思想は今後も二度、三度と、現れて来るものと思われる。

さて、以上で見た通り、ロシアが他国の優れた文化や思想や宗教を、自国に「借用」しようとするのは、それらの優れた価値に本気で学ぶためではなく、むしろ、それらの価値を表面的に取り入れることで、一流国の仲間入りを果たしたかのように見せかけ、自国の威信を強化する目的でしかなかった。だから、こうして行われる改革や変化はいずれも、対外的に見栄を張る必要のためだけに行われるものであって、ロシアという国の歴史や文化の只中から必要に迫られて生まれて来たものでない以上、ロシアという国に本質的に根差すことなく、根本的な変化をもたらすものとはならなかった。それでも、一流国であるために、昨日までの民衆の生き様を根底から覆し、自国のそれまでの歴史や文化の価値を根こそぎ否定してでも、急激で極端な改革を実行しようとすることが、ロシアの歴史には度々あった。このように、ロシアにとって、自国が他国に比べて引けを取らず、周辺国と対等に肩を並べ、これらを凌駕する存在となることこそ、いつでも第一義的な課題であり、その目的の達成のためならば、他国の持っている優れた価値を強引に剽窃したり、自国の歴史や文化の連続性を無視してまでも、他文化の物真似に走ることも辞さないのである。すべての価値が、民衆には還元されることなく、ただただ国力の強化、国家の威信の増強へと吸い尽くされて行くところに、この国の不幸が存在する。

このような現象は、国家的なアイデンティティをいたく傷つけられ、ひどいコンプレックスを抱えている国にしか起き得ない事柄である。自尊心を失い、心傷つけられ、本当は自分は一流国でないという劣等感に苛まれていればこそ、借り物の衣装を身にまとってでも、自分を一流国であると認めさせたいのである。軍備の増強と、国家の拡大・膨張政策(マッチョイズム)に走ることで、真の自分自身から目をそらさざるを得ないのである。

うわべだけ他者の真似事に走っても、決して本質では一致することはできないが、かりそめにも自分はエリートの一員となったと思うことで、傷ついた自己を慰めることはできる。こうして、他者のやり方を真似ることで、他者にあたかも自分が仲間であるかのように見せかけて油断させておいて、本心では、自分にひどい惨めさとコンプレックスを味わわせた他者を打ち倒そうと考えながら、その内心を隠して、友好を装ってその相手に近づき、やがて相手をぱっくりと飲み込んでしまう。何しろ、本家本元が消滅していなくなってくれれば、自分をフェイクだと主張する者もなくなる。それが他国とのロシアの絶え間ない争いの歴史であると言えるのではないか。キリスト教の中においてさえ、ロシアには、カトリシズムを堕落したものとみなすあまり、ヨーロッパのキリスト教全体を侮蔑し、自国のキリスト教こそが世界で唯一正しいと自負する思想が存在した。このような優越意識は、劣等感の裏返しとしてしか決して生まれて来ないものである。

筆者は歴史家ではないので、モンゴルによる統治時代に、ロシアに対してひどく残酷な所業が行われたという言い伝えの中に、果たして誇張はないのかといった点についてここで争う気はない。だが、重要に思われるのは、仮にロシアの傷ついた自己意識が、それ以前から持ち続けられたものであったとしても、異民族の占領・統治下に置かれ、国が消滅に近い状態となったタタールのくびき時代の歴史的な記憶が、今日までも、ロシア人の心に大きな屈辱感・劣等感、被害者意識を生む一因となっているのではないかという疑いである。さらにもっと重要なのは、このタタールのくびきを跳ね返すために、ロシアは精神的に敵(モンゴル)と同化し、モンゴル的統治方法を己が内に取り込んだのではないかということである。

ロシア人の多くは、屈辱的なこととして決して認めたがらないであろうが、以上のような指摘はすでになされているものであり、モンゴルによる制圧時代に、事実上、モンゴル人とロシア人との混血が進んだだけでなく、両者の文化が混合し、異質なものが混ざり合い、ロシアにとって、モンゴルとの一体化という後戻りできない変化が起きたのである。

何よりも、ロシアという国を今日まで特徴づける、強大な中央集権的な国家権力による圧倒的な民衆支配の原型は、まさにこのモンゴル統治時代にこそ生まれたのではないかと想像せざるを得ない。なぜなら、このような統一的な政権は、絶えず諸公が分裂していたキエフ・ルーシ時代にはまだ見られなかったものであり、こうした中央集権的な政権そのものが、モンゴルの統治方法の借用であると見受けられるためである。ロシアはモンゴルの抑圧から脱するために、モンゴル以上の強力な国家権力を打ち立てねばならない必要に迫られており、そのために、モンゴルの統治手法を己が内に取り込むことで、これを跳ね返す必要があった。ロシアはモンゴル貴族との婚姻によってモンゴル支配に微笑みながら友好的に協力の手を差し伸べ、これと協力し同化する風を装いながら、これを飲み込んで、相手を打倒して立ち上がった。以後、ロシアの歴史は、モンゴル的な占領・拡大政策と、それ以前からずっと続けて来た絶え間ない「借用」の連続である。

こうして、タタールのくびきは終了し、敵は弱体化し、駆逐されたが、それでも自分たちは踏みにじられ、痛めつけられ、今も絶えず脅かされている弱者だという被害者意識はなくならなかった。その弱者性と屈辱感と恥の意識を覆い隠すために、より一層、国家権力の強化に励み、他国を凌駕しようとの強迫観念から抜け出せなくなったのが、それ以後のロシアなのではあるまいかという気がしてならない。

とにかく、ロシアという国の国家観の根底には、自国の発展と威信強化のためならば、自国民や他国や果ては世界全体がどうなろうとも構わないといった発想があるように思われてならない。なぜ彼らはそこまで「国」というものの強化にこだわるのか? 強迫観念のようなこの思想は、タタールのくびきをきっかけに生まれたものではないとしても、かつて異民族の統治下に置かれて、自国が占領され、抑圧され、消滅同然となった時代に、より強化され、こうして傷つけられて失われた国家の自己イメージを今も引きずり、絶え間ない恐怖と屈辱感に脅かされているために、その傷ついた自己を救うために、永遠に自分を脅かす敵がいなくなるまで、世界征服を模索し続けねばらないという思い込みが生まれているのではないだろうか。

このような批評を「あまりにもひどい一方的で根拠なき感情的な決めつけだ」と考える人がいるならば、ロシア人がかつてシベリアの強制収容所でどのような生活を送ったのか、その記録を読んでみれば良い。同胞同士がどれほど憎み合い、殺し合い、貶め合ったかが分かるであろう。何よりも国力強化のために、このように憎悪すべき強制収容所群島を国中に作り上げ、自国民を徹底的に虐げ、収奪するシステムを完成させたこと自体、ロシアにおける「国」の概念が、どれほど恐ろしく歪んでいるかをよく物語っていると言えよう。

そして、大変、残念なことに、ロシアという国の持っているこのように傷ついた自己イメージ、被害者意識、それを跳ね返すために生まれて来る歪んだ世界征服の夢(メシアニズムの思想)は、かなりの部分がほとんどそっくり、今日の我が国の国家像にも当てはまるのである。

* * *

・安倍氏とプーチン氏に共通する「被害者意識」と、これを跳ね返すためのマッチョイズムとしてのナショナリズム

ソ連が行ったシベリア抑留や、北方領土の占領、またロシアの社会主義化などの出来事のために、我が国では、相当長い間、ロシアに対する不信感が国民に根付いていた。また、プーチン政権に対する我が国世論の批判や不信感も、つい最近まで相当に根強いものがあった。それが激変するのは、明らかに、安倍政権になってからのことである。安倍氏がプーチン氏との個人的な親密さを積極的にアピールしながら、領土問題の解決を自分の手柄にしようと動き出してから、それまで暗黙の了解となっていたロシアへの不信感が、世間で語られなくなって行ったのである。

何度か書いて来たことであるが、安倍政権の思想的特徴は、プーチン政権と本質的に同じである。また、人間としての両者の人格的な欠点も非常に酷似している。彼らには、一部では、サイコパスや、自己愛性人格障害といった評価も向けられているが、それも当然であろう。飽くことのない権力欲、人前で栄光を受けることを愛してやまない名誉欲、困っている人間には同情的なそぶりを見せながらも、人の弱みをとことん利用して出世の手段として行き、その陰で反対者は容赦なく力で抑圧し、駆逐して行く。非情さ、冷酷さ、猜疑心、復讐心の強さ、などは互いに似通っている。
   

安倍政権によるメディア懐柔・統制はすでに批判を浴びて久しいが、プーチン政権に逆らって殺害されたり、不明な死を遂げたジャーナリストの噂も絶えない。

日曜未明、あるジャーナリストの不審死と、先を行く205人のジャーナリストの死 (2016年8月29日)(HKennedyの見た世界から)

「ヴラジミール・プーチンが大統領に就任してからのロシア、及びロシア連邦で暗殺されたり、不審死を遂げたジャーナリストの数は205人に上ります。」

プーチン政権下、暗殺されるジャーナリスト達 
 

  
安倍氏がしきりにプーチン氏を評価するのは、ただ単に同氏が領土問題をきっかけに脚光を浴びたいだけではない。その接近には、何よりも、両者の持つ思想的な親和性が影響しており、安倍氏の目指す理想的な統治像が、プーチン政権にこそあることが影響している。

安倍氏の目指す「美しい日本」像は、プーチンの掲げる「強いロシア」と本質的に同じなのであり、それは我が国においてかつて否定され、退けられた軍国主義・国家主義の再来を意味する。

両者の思想的な親和性がどこから生まれているのか、その理由は、安倍氏と密接な関わりのある統一教会の思想を考慮しても、理解できることである。すでに述べたように、統一教会はかつて「共産主義の脅威」に対抗することを目的に掲げながら、共産主義との闘いの過程で、政敵からすべての忌むべき手法を自分自身の内に取り込んで行った。統一教会が共産主義と一体化した過程は、統一教会の組織である国際勝共連合の掲げる「核武装」や「憲法改正」、「スパイ防止法」などのスローガンが、すべてもとを辿れば共産主義国が実施した人民統制の手段と重なることからも理解できる。これはモンゴル統治を廃するために、ロシアがモンゴル統治と一体化して行った過程とよく似ている。統一教会は、表向きには共産主義と闘っているように喧伝しながらも、実際には、共産主義を手本として、その手段を己が内に取り込むことで、自己の権力拡大の手段としたのである。

そこで、このような全体主義・宗教カルトに関わる全ての人に、今日も、親ロ的な思想が伝統のように受け継がれているのは不思議ではない。KGB出身のプーチン氏の統治方法がソ連時代に極めて酷似していることが示すように、また、日本にいるロシア研究者の数多くが今日も思想的には共産主義に親近感を抱き続けているように、たとえ時代が変わっても、彼らは本質的には今も変わらず共産主義者のままなのだと言って差し支えない。筆者は、共産主義思想ももとを辿ればグノーシス主義思想に行き着くものと考えているが、グノーシス主義とは、元来、被害者意識から生まれるものであって、何よりも「神に対する人類の被害者意識」から発生する思想である。聖書の神によって罪に定められた人類が、被害者意識によって神に敵対して団結し、神の下した判決を覆して自力で自分を無罪とし、名誉回復を遂げようとする思想がグノーシス主義である。

安倍氏には同氏が国家観として持ち続けている「被害者意識」に加えて、個人的なルーツとして持ち続けている「被害者意識」もあり、この二つは安倍氏という個人の人格の中で密接に結びつき、同氏は双方の「名誉回復」を目指している。安倍氏の政策がどれほど対米隷属的だと批判されようとも、同氏のルーツを辿れば、安倍氏が心からの親米派であるとはおよそ考えられないのもそのためである。同氏が望んでいるのは、一時はA級戦犯とされ死刑に処されるかという恐怖を味わった祖父の「名誉回復」であり、それによって自分自身のルーツを「浄化する」ことであろう。だが、そのようにして祖父を名誉回復するためには、どこかで「米国のくびき」を跳ね返すことがぜひとも必要であり、戦勝国によって下された審判を覆して汚名を返上せねばならない。その意味も込めて、ロシアへの接近をはかっているのではないかと考えられる。(だが、以下に書く通り、こうした行為はすべて祖国への裏切りとして、したたかに報いられるであろう。ロシアに接近しても、北方領土の返還にはつながらないどころか、安倍のこうもりのような振る舞いの陰で、同氏は最終的には米ロの両国に裏切られ、敗戦時と同じように、米ロによる新たな日本の領土の占領・分割という悲劇を招くことにもつながりかねないと懸念する。)

さらに、上記したようなロシアが国家像として抱えている「傷ついた自国のイメージ」と、それを跳ね返すために「強い国を取り戻そう」とするスローガンは、敗戦によって「屈辱を受けた」ゆえに、これを「跳ね返さなければならない」と考える、安倍氏を含む日本会議メンバーのような人々の心境にも重なる部分が大きい。

内心では、自国の占領、抑圧、消滅の恐怖を今も持ち続け、歴史的事実のために屈辱感、劣等感に苛まれているという共通点があればこそ、彼らは一人のリーダーのもとで団結する「強いロシア」の国家主義にも親近感と憧れを抱くのである。

ロシア国家が国民性として抱える「傷ついた自己」の本質については、次のような指摘もある。
  

ロシア、アメリカ、日本のナショナリストの抱える危険(HKennedyの見た世界 2016年8月30日、太字、赤字は筆者による)

現在のロシアにあるのは、共産主義というイデオロギーではなく、プーチン大統領を筆頭にしたマフィア集団に政権を牛耳られたロシア・ナショナリズムです。これを要約すれば「すべて周りの国々は我々に対抗している。我々は敵によって周りを囲まれている。我々は強く在らなければならず、プーチンを必要としている。プーチンのみが我々を救う事が出来る」という考えです。

但し、言ってみればこのような主張は、ロシアのナショナリストだけではなく、日本のナショナリストやアメリカのナショナリスト(多くのナショナリストはトランプ支持者です)の間にも広まる『被害者意識』に繋がります。

外国や周辺国が危害を与えようと自分たちの国に敵対しているという『陰謀説』から来る『被害者意識』の蔓延るナショナリズムには、他者(他国)との共存や協力は全て『売国奴』『国の敵』と映ります。ここから考えても、国中にプロパガンダを流してナショナリズムを鼓舞しているプーチン大統領が、外国との連携や協調路線や柔軟路線をとることは無く、又対日外交で言えば、北方領土を返還する意思が微塵も無い事はあまりにも明らかであり、強権を振るうプーチン大統領なら「解決するかもしれない」のではなく、プーチンだからこそ「解決にならない」ことを見極めるべきです。

  
以上の記事では、ロシアの国家の本質は、「すべての国がロシアに敵対している」という「被害者意識」にあるとされる。今日、状況はまさにそれに近いものとなっているので、こうした思い込みは全く根拠がない単なる被害妄想とも言い切れない有様だが、しかし、こうした敵対状況すらも、場合によっては、より深い次元では、ロシアが抱える「被害者意識」が現実に投影されて起きて来たものと見ることもできる。(あるいは、ロシアが己が利益のために、「米国という世界的巨悪に対し、孤立状態に陥ってでも、決然と立ち向かう勇敢な一国」の姿を好んで演出しているという見方もできる。)

だが、このように「周辺国から敵対されている」という被害者意識・危機意識は、「中国の脅威」などをしきりに煽る安倍晋三の「被害者意識」とも共通するものがある。両者ともに、「自分は脅かされている」という危機感から抜け出すことができず、他国に対する不信感・敵意・不安を煽ることによって、それを自己の政治権力強化の手段として行く点は同じである。仮想敵を作り、対立や被害者意識を煽ることによって、「強い統一的なリーダーのもとに国民が一致団結し、国家を強力な防衛の砦としていくこと以外に、我が国民が身を守る術はない」などと訴え、国と自分自身を同一視し、自分という政治的なリーダーの下に国民を集結させようとする政治手法は極めてよく似ている。

こうした人々にとっては、平和が訪れるよりも、敵が存在し、国が危機に晒されているという恐怖感が絶えず国民の間に存在する方が好都合なのである。

かなり古い記事ではあるが、以下のような記事も、プーチン氏個人の世界観をも読み解く鍵となるであろうと思う。「荒海でクジラ撃ちのプーチン首相、「人生は危険なもの」とうそぶく」(2010年8月27日)AFPBB News

全世界が自分に敵対しているという被害者意識を持ち続けていればこそ、こうした人間たちは、人生を絶え間ない権力闘争に置き換え、周囲の人間を「敵か味方か」に二分し、飽くことなく闘争や、スリルに生きることが人生であると捉える。彼らにとっての人生とは、最初から安息の場ではなく、絶え間ない闘争でしかない。このような人間には、他者を信頼するとか、愛することはできない。だからこそ、その証拠に、長年連れ添った伴侶をも離縁してしまうか、家庭内離婚状態となり、家庭に決して平和が訪れないのである。それは彼らが人生の目的としているものが、最初から、家庭の安らぎとは程遠いものだからである。

だが、そのようにして対外的な危機ばかりを煽り、疑心暗鬼から武装を強化し続けていれば、いずれ叫んでいた対立が本当になる日が来ないとも限らない。だから、このような心理的傾向を持つ二つの国の接近は、大変、危険なものであると言える。何よりも、共に被害者意識と疑心暗鬼に苛まれるだけの二つの国の間に、決して真の友情と連帯などあり得ない。あるのは、どちらが先に食うか、食われるか、という問題だけである。


・ロシアはソ連時代と本質的に変わらない――決して北方領土を返還しないばかりか、さらなる領土侵略に及ぶ危険性を考えなければならない
  

侵略国家ロシアは「北方領土」を返さないばかりか北海道の侵略占領を狙う

 「平和条約の締結」は、ロシアが違法に侵略して占領し続けている日本の北方領土を日本に返還し、謝罪と賠償をして、結ばれるものだ。つまり、ロシアが国際法を守り、侵略を否定する「平和愛好国家」に転換したときに結ばれるものだ。だが、そんなことはありえない。ロシアは2008年8月にはグルジアを軍事侵略したのだ。これを、安倍首相のブレーンであり、反米の思想工作を巧みに展開する中西輝政京大名誉教授は強く支持した(私の2013年11月21日脱の文の2節参照)。中西氏は安倍首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(2013年9月10日)の委員である。ロシアは、シリアのアサド独裁政権を支援し、化学兵器の原料を提供してきた国だ。

 つまり、 2月8日の日露首脳会談での、<戦後68年間にわたって平和条約がないという異常な状態を終わらせなければいけない>というプーチンの「認識」は、日本国民を騙すための嘘である。同じく安倍首相の「同認識」も、国民を騙すための嘘である。

<略>

 新ロシア帝国は、マルクス・レーニン主義は棄てたが(共産主義では経済を発展させることができないこと、西側自由主義国を騙すため)、ソ連時代のKGBによる国内弾圧体制と、ソ連時代の対外政策=侵略主義を断固として継承したから、国家の本質はソ連時代と同じである。

 ソ連時代の対外政策の侵略主義は、帝政ロシアの対外政策の継承であった。沿海州のウラジオストクは、「東方(日本)征服」の意味である。新ロシアの国章は、帝政ロシアの「双頭の鷲」である。新ロシアの国歌のメロディーは、スターリン作のソ連のものであるし、レーニン廟もソ連時代のままである(中川八洋氏『地政学の論理』17,18頁参照。2009年5月刊)。このように「新ロシア」と称しているが、本質はソ連時代の継承であり、悪の帝国なのだ。

 なによりも、新ロシアの支配者はソ連時代と同じだ。 旧東欧諸国のように、弾圧されていた側が政権を取ったのではない。ソ連共産党の代わりをKGBが担うようになっただけであり、「ソ連崩壊」は、「国家の偽装倒壊」なのである。西側は騙されたのである。

  
「悪の帝国」などという半ば陳腐化してしまった台詞にも見られるように、以上のような記事に、学術的な検証としての価値を見いだすのは困難かも知れないが、しかし、言わんとしていることの趣旨はそれなりに理解はできる。

プーチン氏が、いかに表向きはソ連時代への反省と共産主義と訣別したと宣言し、ロシアが新しい国家として出発したように見えたとしても、実際には、それは見せかけに過ぎず、国家の本質は変わっていないというのである。そのことが、現在のロシア国歌にも表れており、KGB出身のプーチン氏が長期政権を維持している事実にも表れており、レーニン廟が一度も取り払われたことがない事実にも表れているのだという。

そして、ソ連の本質とは、絶え間ない拡大・膨張(侵略)政策であった。それは今も変わらないロシアの国家政策である。別の指摘では、ソ連時代、東欧も含め、ロシアと「平和・友好条約」などといった美しい名前の条約を結んだ国は、ほとんど約束を裏切られて侵略の対象となった。たとえば、アフガニスタンは、1978年にソ連と結んだ善隣友好条約が口実となって、翌年、ソ連に侵攻された。日本はかつて日ソ中立条約に違反して、ソ連からの対日参戦を受けた。こうしたことからも、ロシアにとっては、「中立」や「平和」や「友好」といった名のつく約束は、ただ相手方の行動の自由だけを縛っておいて、自分は約束など無いがごとくに好き勝手に振る舞い、自分にとってのみ有利に事を進めるための裏切りと侵略の第一歩でしかないと見る向きもある。

いずれにしても、ソ連に形式的な終止符が打たれたからと言って、それだけを持って、ロシアという国の、こうした信頼のできない不誠実で裏切りに満ちた歴史的な習慣、ずるくて抜け目のない国民性がなくなったと考えるのは早すぎるであろう。まだソ連時代に学校教育を受けた人々がこの国では若者層を支えている。そうしたことだけを取っても、共産主義のイデオロギーが、体制の変革と共にただちに消え失せたと考えることはできない。

だが、共産主義にこだわらずとも、ロシアという国は、歴史上、強大な国家権力が絶え間なく拡大を続けながら、自国の民衆を容赦なく抑圧するという道を外れたことが一度もない国である。赤の広場はかつてイヴァン雷帝によって人民の公開処刑が行われた場所でもあった。このような悲劇的な過去を持つ国家としてのロシアの本質は、今後も決して変わらないであろうと筆者は考えている。

何よりも、歴史的事実によって傷つけられた自己イメージを、軍備の増強や、国家の威信強化といった表面的な手段(マッチョイズム)で補うとすること自体に無理があるのだ。そのようにして、自己の内面と向き合って、真の健全さ、高貴さを身に着けるために、何が必要なのかを考える代わりに、ただ手っ取り早く他者の持っている優れた価値を強奪したり、仮想敵を作り出すことによって、諸悪の根源が自分以外の何者かにあるように見せかけ、これを口実に軍備を増強し、周囲を屈従させることによって、仮に世界一の座を手に入れたとしても、そんなことで一流国としての気品が身に着くことはない。そうしたことによっては、より一層深い疑心暗鬼と対立関係が生まれるだけで、傷ついた自己イメージが回復されることもなければ、決して本当の安らぎと満足もやって来ない。真の尊厳は、人間の場合も、国家の場合も、等しく内側から始まるのであって、外側から身に着けることはできないのである。

そして、我が国は、敗戦を経て、軍国主義や国家主義とは訣別したはずであるが、「お上」を至高の価値とする以上の価値観を未だ持てず、何事も個人から出発せず、「お上」から出発してしか考えられないない点で、ロシアと同じような精神的遅れを抱えて今日に至っている。そして、かつて大国になろうとして失敗したという汚名を返上するために、より一層、強い国作りに励まなければならないという強迫観念に駆られている点でも、ロシアと似ている。国家としての自信、品格、プライド、尊厳などを、内側から支えるための真の心の支柱を未だに持てず、それを外側からの「借り物」によって補強しながら、「国家」だけをハリボテのように増強し、今またいつかきた道を逆戻って行こうとしている点で、我が国はロシアと非常によく似た病理現象に陥っているのだと言えよう。

このように欠点を同じくする者同士が、己が欠点には目をつぶりながら、互いを誉めそやし、美化し合って、手を結んだ日には、今まで以上の悲劇が起きるであろうと予測するのは当然である。このような光景に対して、筆者がかけられる言葉は次の一言だけである。

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(テモテ3:13)

だから、筆者は、我が国がロシアに接近することは、我が国にとって何のメリットもなく、それどころか、有害な結果をもたらすだけに終わるだろうと確信している。安倍政権がこれまで推進した政策のうち、どれ一つとして、我が国の国益にかなったものはなかったが、とりわけ、ロシアには北方領土を返すつもりなど微塵もない。北方領土を餌にして、我が国はロシアの国益のために仕えさせられ、シベリア・極東開発に存分に利用されるだけで、したたかに欺かれて終わるであろう。それくらいであればまだ良いが、米ロの間に本当の対立が起きた日には、我が国はどちらからも裏切られ、国土が真っ二つに分割されるなどという悲劇にも巻き込まれかねない。そうなった日には、シベリア・極東開発という名目で現地に送り出された我が国民は、シベリアに取り残され、帰国もかなわなくなって、またも第二のシベリア抑留のようなことが起きるだけである。

* * *

・文学的主人公に擬人化されるロシアの傷ついた自己イメージ

エフゲニー・オネーギンの人物像には、ロシアという国の一般的な国民性、また国家観が象徴的に込められていると筆者は見ている。むろん、これは文学的な創作の主人公であり、同種のアンチヒーローとしての「余計者」の系譜は、オネーギン一人では終わらないのだが、オネーギンの人物像は、「傷ついたロシア」の自己イメージを非常に簡潔に象徴的に体現していると言えるのではないかと思う。

オネーギンは、上流階級の出身であるから、うわべは立派で、紳士的で、教養や知識もある前途有望な青年である。ヨーロッパの水準に比べても劣らない立派な教養人であり知識人の紳士であるように、人目には映ることであろう。何よりも、彼は世渡り上手で、空気を読むことに長けており、社交の場では自分を上品に、賢く、魅力的な人間と見せかける術を持っている。彼は人の心を上手に掴むことができる。だが、それは計算づくの行動で、当世風の流儀の上手な模倣に過ぎず、彼の内心は深く心傷ついており、病んで、自信を喪失している。そのため、彼には社会において決して自分のあるべき居場所を見いだすことができず、他者を本気で愛したり、信頼することもできず、人間関係においては、ただ自己の利益のために、相手を期待させて利用しておきながら、したたかに裏切り、傷つけることしかできない。外見は知識人だが、知識人として当然、持っていなければならない倫理や道徳が、彼には決定的に欠けているのだ。

オネーギンにはまだサイコパスとまでは言い切れない、良心の呵責や、ためらいや、後悔も含めた人間らしい感情が備わっているが、それでも、彼の人格は、深い所ですでに致命的な根腐れを引き起こしており、どんな反省も後悔も彼を変えることはできない。彼の傷ついた人格は、決して彼の人生において、あるべき決断をさせず、軽薄でうわべだけの利益になびいて、本質的に重要なものを常に見誤らせ、他者との長続きしない不誠実な関係を結ぶよう仕向けるだけで、彼をどんどん不幸においやってしまう。そのため、オネーギンの人生に巻き込まれた人々は、みな結果的に不幸になる。タチヤーナは一見、優しく誠実な女性のようであるが、彼女の生涯を通じての振る舞いも、オネーギンには何の薬ともならず、彼女はただオネーギンの犠牲者としての立場を抜け出ることはできない・・・。オネーギンに対する処方箋はロシアにはないのである。

オネーギンというのは、単なる創作上の主人公ではなく、「傷ついたロシア」そのものを擬人化した人格だと言えるのではないかと筆者は考えている。同種の人格は、他の文学的創作にもおおむね受け継がれているが、こうしたアンチヒーローは、ただ単に創作上の存在であるだけでなく、ロシア人が国民性として歴史的に常に抱えて来た根深い心理的なコンプレックスと、歪んだ被害者意識と自己憐憫、その心の傷ゆえに、彼らが正しくあるべき関係をどんな他者ともきちんと構築できず、常に嘘や騙しや利用や裏切りといった、他者ばかりか、自分自身にとってもいずれ手痛いツケとなって跳ね返って来るような有害な関係しか結べないという重大な精神的・人格的な欠点を象徴的に示しているように思われてならない。

むろん、すべてのロシア人が同じ人格的欠点を持っていると言うつもりはないが、それでも、こうした人格には、創作の域を超えて、何かしらこの国全体に共通するような深い意味が込められており、ロシアという国の未来が抱える絶望が象徴的に暗示・投影されているように感じられてならない。どんなに個々のロシア人が誠実であっても、国家としての運命全体が不幸であるならば、個人がそれに巻き込まれることを避けるのは難しいであろう。

歴史的に、ロシアの良心的な知識人は、国全体が抱えるこの心理的な傷をどのように克服するかという課題を常に切実なものとして受け止め、ロシアという国から何とかこの不幸の源を切り離して、誠実で温かな心を取り戻して、平和と安息に満ちた国を作ろうと模索した。だが、彼らはその解決方法を見いださなかった。そして、ロシアは国全体として、常に誤った道を選び取ることによって、この問題と向き合うことから目を背けて来たのである。

すなわち、国力のさらなる強化というマッチョイムズへの傾倒によって、己が内面の空虚さ、傷、腐敗を覆い隠し、自己の抱える恐れや劣等感や屈辱感を、うわべだけの模倣や、力によって補強し、他国を制圧することで憂さを晴らそうとする間違った方法を取った。武装することによってしか、人格的欠点を覆い隠せないほどに危険なことはない。傷ついた人格に強力な武器をもたせるのは、周囲にとっては重大な脅威以外の何物でもない。

オネーギンは傷ついた国家、傷ついた国民性の象徴であり、我が国の国民性とも決して無縁とは言えない欠点を持っているのだが、オネーギンと我が国の国民性の違いがあるとすれば、それは我が国にはオネーギンほどの狡猾さ、したたかさがないという点であろうか。もしそうだとすれば、なおさらのこと、我が国は、到底、ロシアのような国を相手にしてはならないと言えよう。もし人生を幸福に送りたいならば、これは決して出会わない方が良く、決して関わるべきでない危険なタイプの人格である。

現在は、米国のやりたい放題の陰で、ロシアが多くのことでいわれなく非難され、国際的に追い詰められているがゆえに、ロシアを被害者のように見て、「可哀想」と考えたり、逆に反米感情からロシアに拍手を送るむきも世間には存在するものと思う。筆者は米国を擁護したいたがために、ロシアのイメージを貶めようとしてこう述べているわけでは決してない。だが、ロシアについては、決してこの国の言い分をいかなる点についても信用しないことが得策であるというのは、歴史があらゆる場面で物語っていることではないかと思う。だから、現状の政治的孤立状態を利用して、この国が自分をあたかも「可哀想な存在」であるかのように見せかけて、被害者のように同情票を得ることもまた彼らの戦略の一環であるから、それに加担しない方が良いと言えるだけである。ロシアはそもそも他国から同情を受けなければならないようなか弱い存在ではない。国家の沽券にかかわる問題については、恐るべき強固なプライドを持って、どれほどのすさまじい犠牲を肯定してでも、面子を守り通そうとする。まさにその途方もないプライドと力こそが、被害者意識と表裏一体をなしているのであって、そのような強さは、本質的には悪であって、決して同情に値するものではない。そのことを見抜けなければ、他国に同情しているつもりが、したたかに利用され、気づいた時には犠牲者にされるだけに終わるであろう。


伊勢志摩サミットにおける米国と日本の首脳による戦争犯罪の正当化―「皇軍」と「米軍」の一体化―

さて、伊勢志摩サミットは、落ちぶれた政治家たちが、名誉挽回のために思う存分、この会合を利用した他、誰にも成果などないままに終わった。

安倍首相の最大の「成果」は、皇国史観・軍国主義の復活への願いを巧みに隠しながら、G7首脳のキリスト教徒を伊勢神宮に招くことで背教へ導き堕落させる計画に成功したことであろう(G7諸国の先行きは暗いと、もっぱらの評判だ。)

安倍氏とその背後に控える国家主義者らの真の意図については、エコノミスト誌がサミット前にすでに指摘している。(訳全文は、星の金貨プロジェクト、記事「宗教も政治も、そして原爆の投下すら、安倍首相の国家主義政策実現のための演出に利用される 憲法9条の廃止、歴史の書き換え、国家神道の復活 - 伊勢志摩サミットの演出に隠された国家主義的野望  安倍首相は戦前の宗教的、社会的、政治的秩序を甦らせようとして活動を続ける組織の一員」参照。以下は一部のみ抜粋する。)
 

星の金貨プロジェクト
に掲載された「エコノミスト」誌(
5月21日)の訳文から抜粋

広島と長崎に原爆が投下され、第二次世界大戦に日本が降伏してからそれほど日数も過ぎていないある日、アメリカ軍兵士の一団が日本の本州にある三重県の伊勢市にある、この国で最も神聖視されている神社の一つにやってきました。

彼らは貴重なイトスギ材で造られた長さ100メートルの宇治橋をジープで渡り、そのまま神社の境内に入ろうとしたため、一人の警備員が押しとどめようとしました。
しかし彼はピストルを突きつけられ、退くように脅されました。
この1,300年の歴史を持つ伊勢神宮の本殿は遷宮と言って20年ごとに作り直されますが、宇治橋も同様に20年ごとに作り直されるため、損害を被ってもいずれ修復されることにはなっていました。
日本は敗戦国として戦後様々な屈辱的な目にあいましたが、これなどは些細な出来事であり、いつのほどか忘れられてしまいました。
世界の中でも富裕な国々のクラブである主要先進7カ国の年次サミットが伊勢神宮近くの島で開催され、5月26日に安倍晋三首相がその仲間のリーダーたちを歓迎するために宇治橋を使うことになっており、その時こそかつての屈辱が拭いさられることになるでしょう。


この施設は人里離れた目立たない場所にあり、海外ではほとんど知られておらず、戦後その神聖特権が廃止された神道により守られてきました。
1947年に施行された日本国憲法はいかなる宗教的特権も認めていません。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
憲法第20条にはこう明記されています。

伊勢市、志摩市を中心に三重県はほぼ無競争でサミットの会場に選ばれましたが、その背景には安倍氏が率いる首相官邸の強い意向がありました。
安倍首相は自らの政治的使命について「戦後体制からの脱却」と規定し、日本を再び誇り高い強力な国家として蘇らせることを主張しており、今回の選択については隠された意図がほの見えます。

いずれにせよ今回のサミット開催は、特にバラク・オバマが広島を訪問する初のアメリカの大統領になることにより、安倍首相にさらなる政治的恩恵をもたらすことになるでしょう。


ホワイトハウスは、オバマ大統領は1945年8月6日に広島に、そしてその3日後に長崎に課された大量虐殺と大量破壊について謝罪はしないという方針を明確に示しました。
しかし世論調査の結果は、日本人の90パーセントがオバマ大統領の広島訪問を歓迎する意思があることを明らかにしました。



 オバマ大統領の広島訪問の「成果」は、原爆を投下しても被害者はただで許してくれて謝罪は求められることなく、その上、被害者に寄り添う心優しき同情者にもなれて脚光を浴び、なおかつ「核なき世界」を提唱するリーダーにもなれるという、魂の安い買い物が可能だと世界に示したことである。何しろ、ノーベル賞の返却まで求められたというオバマ氏である(「ロシアの声」参照)から、この不名誉を払拭するために広島訪問は政治的に利用したかったことであろう。

だが、実際にはどこにも「成果」などない。このサミットは、 まさに我が国が被害者をダシにして魂を売ったことの証明にしかならず、しかも、他国までもその罠に引きずりこんだのである。
 
沖縄で米軍属により事件が起こされたとされる4月28日は、日本にとっては主権回復の日であり、子の日に起きた沖縄の事件が伊勢志摩サミットに永久に暗い影を投げかけることは間違いがない。沖縄だけではない。広島も、徹底的に被害者を利用して手柄を立てることしか考えない政治家の野心と冷酷無慈悲に利用されたのである。

ともあれ、沖縄の事件は、我が国の真の「主権回復」を決して真に実現したくない勢力の思惑をよく示しているように思われる。本当にこの事件は偶発的に起きたものだろうかという疑問を起こさせる。この事件は、この日をいつまでも沖縄及び日本全体にとっての「屈辱の日」とし、度重なる凶悪事件を起こすことによって、日本国民全体の心に恐怖と無力感を植えつけ、間違っても、日本の国民が属国を脱し主権を求めて立ち上がらないように仕向けることが目的なのだと思わずにいられない。 
 
「ジャーナリスト通信」(執筆者は創価学会員のようである)が、この主権回復の日に起きた二つの凶悪事件について書いていることは興味深い。さらに同ブログの著者は、米軍属による事件が、かつての皇軍の仕業と同じだと指摘する。折しもネットアイドルの巻き込まれたこれまた凶悪事件等が盛んに報道されているのもスピンとは言え単なる偶然とは思えないのである。すべては属国民に無力感を植えつけるためとしか思われない。
  
そして、主語を省くことによって、原爆投下という恐るべき殺戮を誰が行ったかにさえ言及せず、米国の罪を巧妙に隠すオバマ演説の虚偽性については、「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」でよく解説されている。

上記の記事は次のように締めくくられている。

 

「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」から抜粋

これで日米はお互いの非人道的な行為をとやかく言わないことになる。法の支配からいよいよ離れたズブズブの関係になって行く。それは例えばすでに沖縄の米兵や米軍関係者の容疑者の身柄をアメリカ側の「特別の配慮」で日本側に引き渡したり、日本からの「思いやり」で米軍駐留費の一部を肩代わりするようなところに現われているが、今後は日本自衛隊がアメリカの戦争に付き合わされる中で発揮されよう。日米の共犯関係が深まるわけだ。

悲しいかな被爆者までがオバマ演説を好意的にとらえている。この国の人々はいったい何度アメリカに騙されれば気が済むのだろうか。思えば「平和のための原子力」を押し付けられたときもそうだった。おー!原子力を平和のために!原発、すばらしい!と。

いずれにせよ安倍政権にとっては思惑通りの展開ではないだろうか。G7やオバマの広島訪問で世論の支持を得た。次は消費税増税延期の表明、株が急伸して、衆参同時選挙、自民圧勝、改憲、とまあこーゆーシナリオでしょう。



最後の自民圧勝の下りについては筆者には異論がある。植草氏もこの先には「まさか」という坂が控えていると指摘しているように、そこまで浅はかな展開にはならないであろうと思う。
 

 植草一秀氏のブログ
安倍首相のこじつけリーマン級危機説に異論噴出 から抜粋
2016年5月26日 (木) 

サミット後、安倍首相は消費税再増税再延期を打ち出し、参院選に臨むものと見られる。
衆院選については、先送りして2016年から2018年までの好機を見定める方向に傾いていると思われるが、安倍政権の政局時計の歯車は明らかに狂い始めている。
サミットでは日米同盟の強化をアピールする予定であったが、沖縄での米軍関係者による卑劣で凶悪な事件が表面化して、同盟そのものの矛盾が表面化することになった。
オバマ大統領が広島を訪問することが目玉となったが、
「謝罪なき広島訪問」
は広島を侮辱するものである。
広島は物見遊山の観光地ではないのだ。
沖縄の事件についてもオバマ大統領は謝罪すらしていない。
米軍のトップに大統領が位置し、その配下の米軍関係者による凶悪犯罪について、トップが謝罪するのは当然のことだ。
植民地での凶悪犯罪については謝罪する必要がないと判断しているのだろう。

参院選で安倍政権与党が敗北すれば、衆院選に向けて野党共闘が加速する。
株価は安倍政権発足後から2015年6月までが上り坂。
2015年6月からは下り坂に転じているが、この下り坂の先には
「まさか」
が控えているようだ。


  
安倍政権の先行きが明るいとは筆者はお世辞にも思わないが、いずれにしても、安倍とオバマの今回の会見は、「お互いに過去のことをとやかく言わない(=過去の戦争犯罪については責任を問わない)」という暗黙の同意が日米のもとでなされたことを意味する。

つまり、米国がお手本として「過去の戦争犯罪について謝罪は不要」と示したので、日本もそれにならって、従軍慰安婦問題から人体実験その他その他の数々の忌まわしい戦争犯罪について謝罪が必要なくなったということである。(誰に?むろん、被害者となった人々に対してである。)
 
その目論見は、「のんきに介護」の記事「橋下徹さん 小物ぶりを発揮 相変わらず、かっこわるいおっさんですな」で指摘されている通り、橋下透氏の以下のツイートにもよく表現されていると言えよう。(橋下氏が故意に「戦争犯罪」と書かずに「戦争」としか書いていないことにも注意が必要。)
 
 

橋下徹‏@t_ishin さんのツイート。

――今回のオバマ大統領の広島訪問の最大の効果は、今後日本が中国・韓国に対して謝罪をしなくてもよくなること。過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。安倍首相の大勝利だね【橋下ゼミ】⇒11:29 - 2016年5月12日11:29 - 2016年5月12日 〕――


 

 
このように、敗戦という歴史的事実と、過去の戦争犯罪を帳消しにしようという流れは、昨年の安倍談話によってあからさまに形成されて来た流れである。筆者は「一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~」において、日本政府は東京裁判で下された日本の戦争犯罪に対する有罪判決を公式に受け入れていたことに言及した。

ところが、その後まもなく、上の記事でも示した外務省のホームページは安倍談話の発表とほぼ同時期に削除されたのである。(記事「引き分け」から「敗北」へ~グノーシス主義的な原初回帰が招く政治的悲劇~安倍談話がもたらす日本の世界的孤立~」参照。)これも現政府による歴史の書き変えの試みの一環としてとらえることは可能である。
 
このように、すでに安倍政権による歴史の書き換えが進行して来た。すなわち、日本の過去の戦争犯罪に対して歴史的裁きが下されたという事実そのものを否定し、裁きはなかったとした上で、やがてそれらの戦争犯罪は犯罪ではなかったということにして、善悪の区別を排除して、罪人を名誉回復し、すべてをうやむやにしたいという意図が見えるのである。

筆者はここにグノーシス主義的原初回帰の野望があり、歴史を逆転させて東京裁判を否定して日本の敗戦と戦争犯罪の罪を帳消しにしようとすることは、戦争犯罪人を名誉回復させて、人殺しを無罪放免しようという悪魔的願望であり、これはキリストの十字架における裁きを否定して、罪人を名誉回復させたいという悪魔的願望に重なることを幾度も指摘して来た。

しかし、このようなことを敗戦国である日本が主張するだけならば、まだ理解もできようが、それを米国が追認したのが今回のサミットの驚くべき悪しき「成果」である。

それによって、旧日本軍による従軍慰安婦等の女性の徴用の問題と、米軍属による女性殺害という、国境を超えた軍隊がらみの忌むべき犯罪行為がともにうやむやにされようとしているのである。過去だけではない、サミット前の沖縄の事件に対する両政府の対応は、現在起きている事件までも同じ影響下にあることを示している。その意味で、安倍とオバマの会見は、かつての皇軍と米軍が一体化したこと(及びこれがまさに現代に復活しようとしていること)を暗に示していると言えるのではないか。

そこには、ただ女性に対する軍隊による犯罪を容認する思想が根底にあるだけでなく、強い者が弱い者に対して力によって何をしても許される世界を作ろうという意図が隠されている。
  
もし強い者がその力によって弱い者に何をしても、謝罪も必要なく、形ばかりの同情や、むなしい再発防止の決意や、空涙でことが終わるならば、米国が今後、力によって日本に何をしようとも、属国民である日本は異議を申し立てられないということになる。そのことは、日本国民には圧倒的な無力感をもたらすであろう。さらに、日本においても、もし自衛隊が軍隊に昇格することがあれば、その軍隊が無辜の民に何をしても罪に問われないという全く同じ理屈が出来上がるのである。

 従って、これは、もはやかつての戦争犯罪や、沖縄の基地問題だけに限定されることではないのである。そこで軍隊の犠牲となって殺害されようとしているのは、「女性」や「市民」といった非武装の個人であるばかりか、象徴的に、日本国民全体でもあるとも言えよう。
 
本来、市民一人一人が、武装せずとも殺されず、脅かされず、平和のうちに生活するための、誰にも侵害されることのない確固たる主権が回復されなければならないのに、その「主権」こそが、弱肉強食の力の論理の前に蹂躙され、否定されているのが現実なのである。そして、その考えは、政権与党においては、あろうことか、憲法改正と緊急事態条項案における人権停止のような極端な発想にまで結びつけられようとしている。

こうして、弱い国民には無力感と失意を植えつけて、人権を奪い取り、抵抗できないようにしておいてから、最上層部の詐欺師連中が自分たちの人気取りと汚名挽回のためのパフォーマンスを上から目線で見せつけているのである。

だが、日本政府が己の戦争犯罪を無罪放免しようという野望を抱いているとしても、それはまだ理解できるとしても、本来、日本と米国との間には、戦勝国と敗戦国としての圧倒的な差がある。原爆投下について、米国はこれまで「日本のファシズム・軍国主義政権を無条件降伏に至らせるために不可欠な措置であった」と主張して、大きな顔をして来た。それを戦後70年以上が経過した今更になって、原爆投下の「罪悪感」を帳消しにするために、米国が日本と取引しなければならなかったとはおよそ考えられない。

なのに、なぜ戦勝国である米国までが、日本政府が過去の汚名を払拭したいという野望を認め、それに便乗する形で、己の罪を払拭しようとして日本政府と取引するに至ったのか。

それには二つの理由が考えられる。一つ目には、そこから、米国支配層も相当に追い詰められて自己正当化をはからずにいられない様子が見えて来ることである。

つまり、そこにはパナマ文書の公開によって高まった世界の人口の1%に過ぎない富裕層の支配に対する99%の非難と憎悪にも見られるように、米国の支配層もまた追い詰められて、かりそめにも、「弱者への配慮」や「同情」があるかのように見せかけねばならない状況となっている様子が伺える。そのようにして形ばかりのパフォーマンスで欺かなければ、あからさまな偽善と、力の論理だけではもはや進んでいけなくなっているのである。

ここでは、戦勝国も敗戦国もなく、ただ弱者を徹底的に踏み台とし、どこまでも欺きながら、自分だけが栄光を受け、うまい汁を吸い、助かりたいという一念によって団結する世界の支配層の姿が見えて来る。

第二に、彼らは手を組んで過去の罪を無罪放免しようとしているのみならず、これから犯そうとしている罪を無罪放免しようとしているのだと見られる。過去の戦争犯罪について、「とやかく言わない」空気を作り出そうとしているのは、日米両政府に過去を無罪放免したいという思惑があるためだけではない。何よりも、これから過去と同様か、あるいは過去を凌ぐような「戦争犯罪」を作り出したい勢力が、その欲望を予め正当化するために先手を打っているのだと見ることができる。

その悪しき野望を気取られ、非難させないために、かつての戦争犯罪については、被害者を形ばかりの「同情」でなだめ、沈黙させておきながら、それ以外の人々は、予め共犯とすることで、ものを言わせないようにしようとしているのである。

そのために、我が政府が行おうとしているのは、学術界を堕落させることである。まず、日本のマスコミはすでにほぼ完全に御用機関に堕しており、抵抗・非難する力を奪われている。次なる標的は学術界である。「軍事研究」の復活により、インテリ層を完全に攻略して、共犯とすることが必要となる。

東京新聞 2016年5月26日 朝刊
学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性

 国内の科学者を代表する機関である日本学術会議(東京都港区)の大西隆会長が、「大学などの研究者が、自衛の目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきだ」とする考えを、四月の総会で示していたことが分かった。学術会議は今後、委員会で軍事研究の許容範囲などについて議論し、一定の見解をまとめる見通し。これまで軍事目的のための研究を否定する声明を発表してきたが、その基本姿勢を転換する可能性も出てきた。 (望月衣塑子)

 学術会議は一九四九年の発足時の決意表明で、科学者の戦争協力を反省し平和的復興への貢献を誓った。五〇年と六七年には、「戦争目的」や「軍事目的」の科学研究を行わないとする声明を決議した。五〇年の声明に会員として関わったノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏は戦時中に原爆研究した反省から、戦後は核廃絶運動に取り組み「科学者の社会的責任」を唱えた。軍事目的の研究に関わることを否定する考え方は科学者の間に定着していった。

 大西会長は、学術会議の全会員が参加した四月の総会の会長報告で、過去の声明を「堅持する」とする一方で「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」と述べ、学術会議としての見解が必要と主張した。

 こうした発言に対し、自由討議で「従来の立場と異なる考えだ」との反対意見も相次ぎ紛糾。京都大の山極寿一(やまぎわじゅいち)総長は「自衛隊の活動全般にわたって国民の総意は得られていない」と指摘し、見解をまとめる際は「これまでの声明を変えることのない文言を考えてほしい」と求めた。別の会員からは「会長の私見には疑問がある。科学には倫理や規範が必要な時がある」という意見もあった。

 大西会長は二〇一一年十月に会長就任。都市工学が専門で、豊橋技術科学大学長を務める。



こうして巧妙に線引きをずらしながら、日本の学術界には、良心を葬って、かつては全面「禁止」されていた軍事研究を少しずつ「許容」して行く方向に方針転換しようという動きが生まれている。いよいよ科学者がかつて訣別したはずの殺人や人体実験を主たる目的とする「悪魔的研究」に取り込まれ、軍事研究を容認する空気作りが行われようとしている。軍事研究の中心は、もちろん、核兵器である。かつて湯川秀樹博士が原爆開発の反省に立って禁止したものを、全面的に容認したいというのが本音であろう。

この国で、すでに文官統制が廃止され、制服組の優位が確立しようとしていることは、「科学者の社会的・道義的責任」が事実上、退けられたこと、つまり、人の良心によって、人間の欲望の暴走や権力の暴走に歯止めをかけ、枷をはめようとする試みそのものが否定されようとしており、知性を排除したところでの力と実利優先の唯物論的な考え方にこの国が傾きつつあることを意味する。このまま、この政府が存続し続けたなら、いずれ、政府の補助金を断たれたくなければ、大学関係者は進んで軍事研究に協力しなければならないような状況が作られるものと見られる。

安倍氏と並んで反知性主義者の代表のような橋下徹氏が愚かにも賞賛しているように、これはインテリの良心に対する殺人、インテリの抹殺である。マスコミのみならず、学術界のインテリも抹殺されようとしているのである。「過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。」

こうして、米国が率先してお手本として広島の核による犠牲に対して善悪を問わない姿勢を見せることで、米国がかつての日本のファシズム・軍国主義政権の戦争犯罪をうやむやにする手助けをし、なおかつ、日本政府による核開発の野望を根底に秘めた軍事研究が(米国の暗黙の認可の下)解禁に向かっているらしい様子は、やがて米国と日本とが共に絶望的な戦争に突入しようという計画があることを伺わせる。

さらに巧妙に文官や一般市民をもこうした犯罪的な企てに加担させていこうとする動きが見られる。たとえば、以下の記事である。すでに削除されているようなのでキャッシュから拾った。

「ゆとり」市職員、空自で鍛え直し…3年目研修
 YOMIURI ONLINE  2016年05月26日 15時00分
 
 東京都府中市は今年度から、入庁3年目の市職員全50人を自衛隊に2泊3日で体験入隊させる。
 研修の一環で、同市は「厳しい規律の中で『ゆとり世代』の若手職員を鍛え直したい」とその意義を強調。ただ、識者からは否定的な意見も出ている。

 研修は同市内にある航空自衛隊府中基地で実施。事務職、技術職、保育士職の全員が6月の平日3日間を使い、災害時の救助活動やあいさつ、行進などの基本動作の訓練を行う。宿泊を伴う集団生活では時間厳守や整理整頓も重視される。

 同市の入庁3年目は、初めて配置された部署から異動する時期。一部の職員には自分が何をすべきかを見失ったり、積極性に欠けたりする傾向が見られるという。

 このため、市職員課は「規律に厳しい自衛隊の訓練を通じて、ゆとり世代があまり経験していない上下関係を学び、チームワークや積極性などの向上につなげたい」としている。



 おそらくこの記事にはあまりにも大きな反発があったものと見られる。ネット上ではどこを見ても、不気味だ、ぞっとするという人々の反感が溢れている。そこで、このような世論の下では、上記の構想の実現は無理だろうと筆者は考えるが、おそらくそれでも、この手の話は、今後も、繰り返し繰り返し出て来るであろうと思う。マイナンバーカードの携帯が国家公務員に義務付けられているように、若年層の自衛隊での「研修」も、まずは国家公務員、地方自治体職員から始まり、やがて民間企業に及ぶということが考えられる。すでに幾年も前に民間企業の新入社員を自衛隊で研修させるという提案が出ていたのだ。
 
 こうして、裁判員制度と同じように、人間が人間を殺すという行為に全国民を加担させるような試みが行われようとしている。上の記事でも強調されている通り、軍隊での序列は絶対的なものであり、個人は命令に従うロボット同然に、上部の命令に逆らうことは許されない。軍隊は個人の良心に基づく意志決定よりも序列と上官の命令がものを言う世界である。殺せと言われれば殺すしかない世界である。

  このような厳しい軍隊の規律と上下関係の中で、一兵卒のような末端の末端にいる人間は心を破壊される。その結果が、自分よりもさらに弱い者(女子供)を痛めつけることによる鬱憤晴らしとなる。そうして行なわれる「女性殺し(エクレシア殺し)」の問題については、今は触れないが、東洋思想と絡めて今後、書いて行く予定である。

 ちなみに、G8から早々に除外されたために、ロシア首脳が今回、伊勢神宮に足を踏み入れることなく、キリスト教徒として、G7諸国ほどのあからさまな堕落に至らなかった点は、幸運だったと言えるだろう。原爆投下に拍手を送ったオバマと十字を切ったプーチンではどちらが本当に被曝者に「同情的」か、たとえパフォーマンスだけであったとしても明白である。

 G7諸国のメディアは、消費税増税の先送りを正当化するために発せられた安倍の「リーマンショック前の状況に似ている」という発言に皮肉と失笑と懐疑の混じった反発を投げかけているが、それでも、これらの国々が、サミットの場に居合わせたことによって、安倍の共犯として利用されてしまった事実は変わらない。

 聖書の神はご自分に忠実な信仰者を覚えておられ、すべての危機から必ず救い出して下さることを筆者は確信しているので、悪しき政権と命運を共にするつもりなど全くないが、安倍氏の策略を十分に知りながら、あえて利用された諸国にも暗い将来が待ち受けているであろうことを疑わない。


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(9)

9.キリストの十字架の意味の歪曲

偽りのキリスト教であるグノーシス主義においても、キリストの受肉、そして十字架は特別な意味を持っています。グノーシス主義者は必ずと言って良いほど強調します、「神が人となられた」がゆえに、と…。

しかし、グノーシス主義者の教えにおけるキリストの受肉と十字架の意味は、聖書の正統な解釈からはおよそかけ離れていることに注意が必要です。結論から述べるならば、彼らはキリストの受肉と十字架の意味を歪曲し、それを罪人が罪あるままで神に受け入れられ、生まれながらの人が神に等しい者として栄光化されるための手段として悪用するのです。

今日のキリスト教界においても、「キリストが私たち罪人を愛し、私たちのために十字架で死んで下さった」と言って、神の愛と憐みの深さに滂沱の涙を流すクリスチャンは大勢います。しかし、その中には、罪人に対する神の愛と憐みの深さを強調するばかりで、ますます悔い改めから遠ざかり、決して罪を離れようともせず、かえって罪深い自分自身に自己安堵してしまう人々がいます。
 
これまでの色々な分析を通して、そのような人々の十字架の解釈には大いなる偽りの可能性があることを、多少なりとも、明確にできたのではないかと思います。

さて、この分析においても、サンダー・シングが神の独り子なるキリストの十字架の意味をどのように歪曲してとらえているか、それがどのような点でグノーシス主義に通じているかを説明します。

ただし、サンダー・シングの文章を引用する前に、改めて、彼の文章を読む際の危険性について前もって警告しておきたいと思います。なぜなら、彼の文章は、生まれながらの人の耳には、とても道徳的で、もっともらしく聞こえるため、人々を真理から引き離す大きな危険性を持っているからです。感化力の強い、確信に満ちた独特の文体で書かれているため、本来、引用することも望ましくありませんし、クリスチャンが彼の書物に目を通すことは全くお勧めできません。

それにも関わらず、この分析においてサンダー・シングの文章を引用するのは、彼の偽りに満ちた話が、いかに生まれながらの人の耳に道徳的で、心地よく、もっともらしく響くかをあえて知ってもらうためでもあります。私たちは、偽りというものがいつも不道徳の仮面をかぶってやって来るなどと思うべきではありません。むしろ逆なのです。サタンの偽りはいつも非常にもっともらしく、正しそうに聞こえ、道徳的で、(世の)道理にかなっており、ヒューマニズムにも合致しているのです。

ですから、私たちは、ある話の内容が道徳的に聞こえるというだけの理由で、それを信用すべきではありません。肉による善行というものが存在するように、御霊を離れた人間の道徳性というものも、アダムの命から出て来るものとして、神の御前には徹底的に腐敗しているのです。ですから、欺かれないようにするためには、私たちは世の道徳基準や、ヒューマニズムの観点から物事を判断するのではなく、語られている内容が本当に聖書に合致しているのかどうかをよくよく自分で吟味する必要があります。

以下、かなり説明が長くなりましたが、一貫したテーマのため、記事を分割せずに掲載します。「続きを読む」からお読み下さい。

 



①キリストを罪人と同一視する
②御子を十字架につけた世の罪を覆い隠す
③十字架の受難を軽視する
④十字架を罪人に都合の良いグノーシスの実とみなす
⑤ こんなに尊い救いをないがしろにしてはならない!


①キリストを罪人と同一視する

さて、以下のサンダー・シングのたとえ話を吟味していただきたいと思います。

「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。悪者をその邪悪な状態から救わんと、自ら悪党の巣の中に入っていった善人の話がある。多くの人は、この神の人も仲間の一人に違いないと考え、ある重大事件が起こったときに、この事件に関わっているとの嫌疑を彼にかけた。こうして彼は逮捕され、死刑の宣告を受けたが、彼は喜んでこの判決を受けた。

悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、神の人が自分たちのために死んだのだという思いに駆られて、ついに多くの者が悪事から身を引くに至った。イエス・キリストも、そのようにして死なれたのである。キリストの力は今も生きている。罪人が主の奇しき愛の力に感化され、悔悟し、主に心を向けるとき、主は彼らの霊魂から悪を根こそぎにし、彼らに新しい命を与えてくださる。こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく。」(p.292)

これは生まれながらの人の耳には、大変、良さそうに聞こえる、東洋人好みの美しい教訓話のため、うっかりすると、そのまま通りすぎてしまうでしょう。どこに誤りがあるかお気づきになられたでしょうか? サンダー・シングがこのような美化されたたとえ話を用いて、巧みに神を人間(罪人)の側に引き寄せ、神を人間(罪人)に等しい者とみなそうとしているのがお分かりになるでしょうか? 

結論から述べるなら、これは神の聖を否定して、神を罪人に同形化し、神と生まれながらの罪人を同一視する偽りの教えです。そのことを順を追って説明していきましょう。

まず、冒頭の文章に、サンダー・シングのたとえ話が偽りであるとすぐに分かる決定的な言葉があるのに気づかれたでしょうか。「キリストは、われわれのために罪人となり罪人の死をお通りになった。」

真のクリスチャンは決してこのような表現を用いません。なぜなら、聖書のあらゆる箇所が、キリストには罪がなかったことを証しており、「キリストは、われわれのために罪人とな」られたというサンダー・シングの言説を否定しているからです。

「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなた方は知っています。キリストには何の罪もありません。」(Ⅰヨハネ3:5) 

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(Ⅰペテロ2:22) 

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロ3:18)

「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとって必要な方です。」(ヘブル7:26)


キリストは罪なくして十字架にかかられたのですから、彼は断じて罪人ではありません。注意して下さい、もしもサンダー・シングの言うことを受け入れて、キリストが「われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった」と考えるならば、私たちは救いを失います。聖く、一切の罪の汚れのない方が私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたからこそ、キリストは完全な贖いの供え物となられたのです。もしもキリストに罪を見いだすなら、贖いの完全性は失われ、私たちを神の御怒りから救ってくれる手段は何一つとしてありません。

「…あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖いだされたのは…、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18)

私たちが主イエス・キリストを何者であるととらえるかにより、私たちの救いそのものが決定されます。サンダー・シングの言説は、罪人にとってはまことに結構な美談に聞こえるかも知れませんが、神の独り子である主イエス・キリストの聖を否定して、御子を罪人の一人にまで貶めている点で、神に対する冒涜であり、信じた者に永遠の命を失わせる偽りの教えなのです。


②御子を十字架につけた世の罪を覆い隠す

さらに、サンダー・シングが上記のたとえ話の中で、御子を十字架につけた世の罪に全く触れていないことにお気づきになられたでしょうか? このたとえ話の中では、キリストを十字架につけたのは当の悪人たち自身であったという事実がすっかり覆い隠されています。サンダー・シングのたとえ話によれば、主イエスは、まるで偶然に悪党の巣窟のそばを通りかかっただけの第三者のようです。そして、キリストは、罪人を憐れむがゆえに、誰も強制しなかったのに、自ら愛のボランティアとして、すすんで有罪判決を受けたのだと言わんばかりです。

このようなたとえ話がどれほど聖書に違反しているかを理解するために、まず福音書において主イエスご自身の語られたたとえ話を確認することにしましょう。
 
ヨハネの福音書の冒頭の記述を見れば、キリストは決してサンダー・シングが述べているような「通りすがりの第三者」ではなかったことがすぐに分かります。御子は万物の創造者であり、万物に対する正当な支配権を持っておられる方です。「すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1:3)のです。サタンがこの世の君として君臨しているのは、不当な強奪(=神に対する反逆)によってその地位を奪ったに過ぎません。ですから、この世の正当な支配権はサタンにはなく、御子にあります。御子は万物の支配者として、来るべき世だけでなく、この世をも統べ治めるべき方です。

御子は地上に来られた時、本来、ご自分の王国であるはずの場所に来られました。主は「ご自分のくにに来られた」(ヨハネ1:11)のです。ですから、罪人たちはまことの王として彼をお迎えせねばなりませんでした。

ところが、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)のです。罪人たちは御子こそ、王の王であることを認めず、彼を王として迎えることを拒み、辱め、十字架にかけて殺しました。ここに世の決定的な罪があります。

このような前提を理解した上で、主イエスがご自分で語られたたとえ話を振り返りましょう。

「…イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。『ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。

ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。』 これを聞いた民衆は、『そんなことがあってはなりません。』と言った。

イエスは、彼らを見つめて言われた。『では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:9-18)


ぶどう園はこの世を指し、ぶどう園の主人とは天におられる御父です。ぶどう園の主人の一人息子とは、神の独り子なる主イエス・キリストです。悪い農夫らによって袋叩きにされ、辱められ、追い払われた僕たちとは、神が農夫らの罪を警告するために聖別して世に遣わした預言者たちのことです。農夫たちは、神に仕えるはずの民でありながら、神に背いたこの世の罪人らを指します。

農夫たちは、神に雇われてぶどう園の仕事を任されていた以上、当然のことながら、主人である神の命令に従い、その僕である預言者を敬い、息子である主イエス・キリストを丁重にお迎えし、その命令に従って、神にきちんと収穫を納めなければなりませんでした。ところが、農夫たちは主人に収穫を納めるどころか、自分たちのもうけのために、ぶどう園を横領しようと考えたのです。それは、罪人らがサタンに従って、神に背き、御子の正統な所有権・支配権を否定して、ぶどう園を強奪するために、御子を殺したことを指します。

聖書のこのたとえから、私たちは主イエス・キリストが決して、サンダー・シングの言うような、たまたま悪事のそばを通りすがった第三者ではなかったことをはっきりと理解するのです。罪人たちは、ぶどう園の正統な後継者である主イエスを殺すことで、彼の正当な権利を否定し、それを強奪したのですから、主イエスは直接、罪人たちによって被害を受けられた被害者であり、罪人たちは御子に対して直接、加害者の立場にあります。

ですから、断じて、主イエス・キリストの十字架は、サンダー・シングが述べているような、罪人に寄り添うための神の自主的な愛のボランティアではなかったことが分かります。御子は罪人らの起こしたあるまじき反逆によって不当に殺された被害者なのです。

罪人たちが、王の王であられる方を迎えた態度はどのようなものだったでしょうか? 主イエスの十字架上に書かれた「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という罪状書き(ヨハネ19:19)、それが主イエスが王の王であられることに対する、サタンと罪人たちの悪意に満ちた応答でした。何と皮肉なことでしょうか、罪人たちは、御子が自分たちの真の王であられることをさえ、彼の「罪状」として嘲笑ったのです。雇い人の身分に過ぎない者が、正統な後継者を罪に定め、殺したのです。これが反逆です。これが真理に対する世の応答でした。ですから、世が御子に対して直接犯した罪には、はかりしれない重さがあるのです。

ところが、サンダー・シングは罪人らがキリストに対して直接的な加害を行ない、それによって神に反逆したという事実には一切触れずに、キリストが自ら罪人たちを憐れむがゆえに、喜んで十字架に赴いたかのように述べるのです。こうして、サンダー・シングは十字架を神の自主的な愛のボランティアに変えてしまうことによって、世が彼を十字架につけた罪を帳消しにしようとし、もっと言うならば、十字架は神の自己責任であって罪人とは本来、無関係だと主張しようとしているのです。彼は御子の十字架が、罪人らによって引き起こされた殺人であるという事実を認めていません。

こうして、サンダー・シングは世が御子に対して直接行なった悪事を否定するだけでなく、さらに罪人らを弁護して、次のように書きます、「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、神の人が自分たちのために死んだのだという思いに駆られて、ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」と。

ここで、サンダー・シングがキリストを呼ぶに当たり、「神の人」という呼称を用いており、恐らくは意図的に、「御子」、「神の独り子」という呼び名を避けていることにも注意する必要があります。

確かに、罪人たちの多く、特に、主イエスを十字架につけるべく骨折った事件の首謀者たちは、御子が「潔白であること」を知っていたと言えるでしょう。しかし、それにも関わらず、彼らは主イエスを十字架につけたのです。

律法学者、パリサイ人たちは主イエスを幾度も罪に定めようとしましたが、その度ごとに失敗し、言質を取ることができなかったので、彼を殺すために意図的に陥れました。イスカリオテのユダも、御子に罪がないことを知っていながら、彼を売り渡しました。ピラトは主イエスの内に何の罪も見出せなかったにも関わらず、彼に十字架刑を宣告しました。ピラトが主を釈放しようとして民衆に呼びかけたとき、「彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」(ヨハネ19:15) 

これが世の反応でした。「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていた」、にも関わらず、主イエスを十字架につけて殺したのです。ですから、サンダー・シングの言説に反して、御子の潔白を知っていたがゆえに、世人の罪は、より一層、重いものとなったのだと言えましょう。

「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(ヨハネ15:25)

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)


ところが、サンダー・シングはこのような罪人らの罪の重さを全く覆い隠したままで、かえって罪人を弁護してこう述べています、「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、…ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」
と。

これは本当なのでしょうか? 聖書に照らし合わせるならば、これもまた甚だしい嘘であることが分かります。私たちは知っています、主の民のほとんどは、自分たちの手で十字架につけた方の死とよみがえりを目撃し、御子の死とよみがえりの事実を間近に告げ知らされたにも関わらず、御子が「自分たちのために死んだのだ」という事実を認めようとせず、悔い改めもせず、信じようともしなかったのです。そこで、福音は選ばれた主の民から取り上げられて、異邦人に宣べ伝えられました。

聖書は、主イエスを十字架につけることに関わっていた悪人たちが、「彼の死後、…ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」とは述べていません。むしろ、この民に対する神の宣告は次の通りです。

「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

『あなたがたは確かに聞きはするが、
決して悟らない。
確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は遠く、
目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟って立ち返り、
わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ13:14-15)



③キリストの十字架の受難を軽視する

さらに、サンダー・シングが主イエスが十字架で受けた苦しみを軽く見積もることによって、世の罪を大いに軽減し、御子の十字架をできるならば、神の自己責任に還元しようとしていることに気づかれたでしょうか? 彼は言います、「こうして彼は逮捕され、死刑の宣告を受けたが、彼は喜んでこの判決を受けた。」と。

聖書によれば、「彼は喜んでこの判決を受けた」などという事実は全くありませんでした。確かに、へブル書には次のような下りがあるにはあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

しかし、このような記述が聖書にあるからと言って、主イエスが喜んで十字架の死の判決を受け、そこには苦しみが伴わなかったと考えるのは間違っています。主イエスにとって十字架は最大の試練であり、受難でした。主イエスはゲッセマネの園で弟子たちに言われました、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:38)。さらに、御父にこう祈られたのです、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と。

これは十字架が御子の本意ではなかったことをはっきりと示しています。主は断じて、サンダー・シングの言うように、「喜んで(筆者注:つまり、自らすすんで)この判決を受けた」のではありません。主イエスは霊においては、それが神の御旨であることを知り、喜んでそれに従いたいと願っていましたが、人としてはその従順には大いなる苦しみが伴いました。もしも御子がいかなる苦しみや抵抗もなく喜んで自ら十字架の死に赴いたと主張するならば、私たちは、主イエスの完全な人性を過小評価していることになり、また、無実にも関わらず御子を十字架にかけた世の殺人の罪を弁護していることになります。

十字架はその当時、主人に背いた奴隷が受けるべき最も恥辱に満ちた刑罰でした。十字架において、主イエスの人としての尊厳のすべては剥ぎ取られ、彼は肉体的に最大限の苦痛を味わい、霊的にも、神との断絶という苦しみを味わわなければなりませんでした。一体、肉体のうちにあるどのような人が、無実にも関わらず、このような刑罰を自ら背負いたいと願うでしょうか? さらに、救われたクリスチャンの内の、誰が霊において神に捨てられることを願うでしょうか? 十字架は主イエスが受けなければならなかった苦しみの中でも、最大の杯だったのです。それは私たちの罪の贖いのためでした。繰り返しますが、それは罪人らが信仰によって罪なき御子に同形化することで、罪人らの罪が贖われるためであって、断じて、神が罪人らに同形化することで、自ら罪人となられるためではありませんでした。
 
御子は、ご自分の願いに反してでも、意志によって御父に従われ、十字架へ向かわれました。それは死に至るまで御父に従順であるためであり、ご自分を無にして、神のご計画に従うためでした。十字架を耐え忍ぶためには、御子はご自分を完全に否まねばなりませんでした。もしも私たちが御子が喜んで十字架につけられたのだと解釈するならば、私たちは、十字架において主イエスは完全にご自分を否まれたのではないと主張し、御子の死に至るまでの従順を軽視していることになります。十字架は主イエスにとって完全にご自分を無にすることが必要な場所でした。十字架において、御子はご自分の望みのすべてを放棄して、ご自分の願いによってではなく、意志によって、御父に従われたのです。

しかし、グノーシス主義の教えは、御子の十字架における苦しみを軽視し、十字架を罪人に対する神の刑罰としてとらえず、むしろ、十字架を罪人にとって喜ばしい、祝福に満ちた、甘い物語へと変えてしまいます。以前の記事でも触れましたが、グノーシス主義のある文献、『ペテロ黙示録』においては、キリストの十字架における苦しみは完全に否定されています。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ちつけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。<…>」(『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献他訳、白水社、p.168)

この教えは、主イエスは初めから肉体を霊的に超越していたために、喜び笑いながら十字架につけられたのだと主張します。このような荒唐無稽な教えは、キリストの神性だけを重んじて人性を軽んじている点で、キリストの完全な神性と人性を認めるカルケドン信条に反し、もちろんのこと、聖書の記述にも著しく違反していますが、このように十字架の苦しみを軽視する教えが、「…彼は喜んでこの判決を受けた」として、キリストの十字架における苦しみに一切触れようとしないサンダー・シングの主張に非常に通じるものがあるのはお分かりいただけるでしょうか?

聖書は言います、「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロ3:18)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」(エペソ2:14-16)


キリストが十字架で受けられた苦しみと死は、私たちの罪なる肉、旧創造が受けなければならない当然の刑罰でした。キリストの十字架は、全ての旧創造が神の御前に滅びに定められていることをはっきりと示しています。もしも私たちがグノーシス主義者のように、キリストが十字架において受けられた苦しみを割り引いて考えるならば、それは、罪人である私たち自身が神の御前に受けるべき刑罰をも、軽く見積もっていることになります。それは私たちが自分の罪を否定し、旧創造が受けなければならない刑罰を神の御前で軽く見積もろうとすることを意味します。

このように、キリストの十字架における苦しみを否定したり、軽く考えようとすることは、旧創造が神の御前に受けるべき滅びの刑罰そのものを軽減しようとすることにつながります。最終的には、それは十字架が全ての旧創造に対する神の刑罰であるという事実そのものを否定することを意味します。そうなれば、私たちを永遠の滅びから救う手立てはもう何も残されていません。

私たちは主イエスが十字架で受けられた苦しみを、自らの経験を通じて理解することはできませんが、信仰によってそれを信じます。すなわち、主イエスが身代わりに受けて下さった十字架を、生まれながらの自分自身に対する宣告・刑罰として受け取り、信仰によって、彼の死を自分自身の死とみなし、彼のよみがえりを自分自身のよみがえりとみなすことにより、キリストの死と復活に接木されて、御子の贖いによって、神の御怒りから救われて、神に受け入れられ、御霊に導かれる神の子供とされるのです。


④十字架を罪人に都合の良いグノーシスの実とみなす

グノーシス主義の全ての教えは、キリストの十字架を生まれながらの罪人に対する神の刑罰であるとはとらえません。それどころか、キリストの十字架を、罪人にとって何の脅威にもならない、恵みと祝福に満ちた、甘い砂糖菓子のような物語へと変えてしまいます。

エレーヌ・ペイゲルスはグノーシス主義の教えにおけるキリストの十字架の解釈が、正統な解釈からはおよそかけ離れたものであることを説明してこう述べます、「キリストの死は人間を過ちと罪から贖うための犠牲と解釈する正統派の諸資料とは反対に、このグノーシス派の福音は、内なる神的自己を発見する機会として十字架刑をとらえている」(同上、p.170)と。

グノーシス主義の教えとは、幾度も述べて来たように、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという神秘主義の教えです。その偽りの教えは、人の生まれながらの自己のうちに、何らかの聖なる要素(神的自己、神的火花)が宿っており、(サンダー・シングの表現によれば、それは「決して罪に傾かない聖なる火花」であるとされる)、人が自らの内に宿る神性に目覚め、本来的自己に回帰することによって(=自己の義によって)、神と同一になれる、と主張します。この転倒した教えにおいては、神の義によらなければ、人は誰も神に受け入れられないという事実は否定され、人が本来的自己に目覚めて、自己の内に宿っている神性(=自己の義)によって神に回帰することが救いであると唱えられます。そのために必要となる啓示が、「グノーシス」(知識)であるとされ、彼らは、「グノーシス」を得た者だけが永遠の命を得ると主張するのです。

ですから、グノーシス主義の多くの教えが、たとえキリストの十字架の事実を否定していなかったとしても、キリストの十字架の意味を歪曲し、すり変えることによって、キリストの十字架もまた、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという彼らの主張を裏付ける根拠にしてしまっているのは不思議ではありません。

グノーシス主義の多くの教えにおいて、十字架は、イエスの霊が肉体から解放されるために必要不可欠な手段であったとみなされています。すなわち、グノーシス主義の教えにおいては、十字架によって、キリストの霊は「肉体の牢獄」から解放されて、完全に本来的自己に回帰して(神と同一になり)、天界に戻ったと解釈されているため、キリストの十字架は罪人に対する神の刑罰であるどころか、肉体からの喜ばしい解放の手段とみなされるのです。

ヴァレンティノス派に属するグノーシス主義文献、『真理の福音書』は次のように述べています。

「……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ。……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は 自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」(同上)

ここでは、キリストは十字架の死を経て初めて、肉体から解放されて、永遠の命を身につけ、不滅をまとった、と主張されています。このような教えは、永遠の命が信仰によらなければ得ることができないという事実を否定して、肉体からの解放を永遠の命とみなすことにより、十字架を、永遠の命を得るための手段にすり変えてしまっています。さらには、キリストの神性と人性が分割できないとするカルケドン信条にも違反して、キリストの霊・魂・肉体を分割して、キリストの霊のみが神に結合したと主張して、キリストの完全な人性を否定しています。また、御子自身が「よみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)事実を否定して、御子の復活は、肉体の復活を伴う完全な復活であるという事実を否定しています。

さて、十字架が罪人に対する神の刑罰であったという事実を否定し、御子の贖いも否定しているこのグノーシス主義文献が、なぜ「彼のこの死が、多くの人々にとって命である」と主張するのでしょうか? グノーシス主義者の言う、キリストの死から得られる命とは何なのでしょうか? 同じく『真理の福音書』の次の文章の中に、私たちはその手がかりを得ます。

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」(同上、p.169)

この記述は、十字架を通してキリストご自身がグノーシス(知識)を与える甘美な実になったと述べています。ですから私たちは、この文献の主張したい結論は、このグノーシスの実を食べた者だけが、命を見いだすということであると分かります。「それは食べられることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。」

つまり、そのグノーシスの実とは、それを食べたからと言って、人が「決して死」んだりせず(創世記3:4)(=「それは食べられることによって破滅を与える…のではない」)、むしろ、その実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」には「いかにも好まし」い(創世記3:6)ものであり(=「それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えた」)、そのグノーシスを見いだした人間は、「目が開け、…神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)(=「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」)、決して破滅しないどころか、「永遠の命を身につけ」、「滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとう」すなわち、神と自己とが同一になるというのです。

全てのグノーシス主義の教えは、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという結論に帰着します。ですから、「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」という上記の文献の言葉も、当然のことながら、神と人とが同一であるということを意味しています。それを分かりやすく言いかえるならば、「(十字架において)キリストは罪人を自らのなかに見いだし、罪人はキリストを自らの内に見いだした」となるでしょう。

つまり、このグノーシス主義文献が言おうとしているのは、十字架においてキリストは自らを罪人に同形化し、神と罪人とが一体となった、そこで今やキリストは自らの内に罪人を見いだし、罪人は自らの内にキリストを見いだし、罪人は自己の内に神を発見するので、彼はもはや罪人ではなく、神に似た聖なる者とされる、ということなのです。

このようなものは断じて悔い改めではありませんし、新生とも関係ありません。生まれながらの人間(=罪人)が、御子の完全な贖いを認めず、自らの罪を認めて悔い改めることもせず、信仰にもよらずして、ただ生まれながらの自己の内に神性を見いだし、自己の義により頼むことによって、自らをキリストに同形化し、ありのままの罪ある姿で、自分を神に等しい聖なる者とみなすという、このような聖書に反する言語道断な主張が偽りであることは、火を見るよりも明らかです。しかし、このようなグノーシス主義におけるキリストの十字架の歪められた解釈が、サンダー・シングの記述とそっくりであることに私たちは気づかないではいられないのです。

上記の文脈をすべて踏まえた上で、もう一度、サンダー・シングの言葉を確認しましょう、「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった」

サンダー・シングが、グノーシス主義者と同じように、十字架においてキリストがご自分を罪人に同形化された(キリストが罪人となられた)と主張しようとしていることがお分かりになるでしょうか? 

このことは、サンダー・シングが事実上のグノーシス主義者であることをはっきりと物語っています。彼はキリストの十字架を、神と罪人とが本来的に同一であると主張するための根拠にしようとしているのです。

ですから、私たちはこのような文脈の中で、サンダー・シングのたとえ話の最後の主張、「こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく」というフレーズを理解せねばなりません。

「罪人が主の奇しき愛の力に感化され、悔悟し、主に心を向けるとき、主は彼らの霊魂から悪を根こそぎにし、彼らに新しい命を与えてくださる。こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく。」と彼は書いていますが、人が御子を十字架につけた罪を認めず、自分自身が罪人である事実を認めもしないのに、そこに真実な悔い改めがあるはずもなく、そのような偽りの「悔悟」は、「彼らの霊魂から悪を根こそぎに」する力を持ちません。彼の言う「主の奇しき愛の力の感化」とは、キリストが十字架において罪人に等しくなられたという偽りを指しており、このような感化は罪人をより慢心させ、生まれながらの自己を肥大化させることはあっても、決して、罪人を罪から分離し、キリストの聖いまことの永遠の命によって新たに生かすことはありません。

サンダー・シングの主張を分かりやすい言葉で言い換えるならば、大体、次のようになるでしょう。「罪人は、自らの内に生まれながらにして宿っている『決して罪に傾かない聖なる火花』を発見することにより、自己の内に神性を見いだす。人が神との断絶を克服するために必要なのは、己が罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じることではなく、むしろ、自らの内に生まれながらに宿っている神性に目覚めることである。罪の悔い改めや、キリストの十字架の死に自分を同形化することではなく、人が本来的に神に等しい者であると見いだすことこそ、人が神に回帰するために必要な手段である。キリストの十字架もまた、人が自らの内に神を見いだすための知識(グノーシス)である。すなわち、キリストは人となられることにより、罪人と同じさまで生まれ、さらにキリストは十字架において罪人にご自分を同形化され、神が罪人に等しくなられたのだ。それゆえ、神と罪人とは今や一体となった。この虚偽を発見し、この偽りを信じ、神の義を捨てて、存在するはずもない自己の義を選び取ることにより、罪人は自らの内に神を見いだし、ありのまま罪人のままで聖化され、神に似た新しい人類となっていく…。」

こんなものは、考えるだに恐ろしい偽りの「新人類」の誕生です。サンダー・シングを含め、全てのグノーシス主義者が主張しようとしているのは、罪人がありのままで神になれるという教えなのです。このようなものが、サタンから来た偽りに他ならず、彼らの主張する永遠の命とは、キリストのまことのよみがえりの命のむなしい模造品に過ぎず、彼らの言う「新しい人類」が、決して、聖書の言う新創造でありえないことは明白なのです。


⑤ こんなに尊い救いをないがしろにしてはならない!

以上のことから、サンダー・シングの文章がいかに美しく、もっともらしく、道徳的に聞こえたとしても、それを信じたクリスチャンに完全に救いを失わせてしまうものであるということは明確にお分かりいただけたのではないかと思います。また、十字架において神が罪人に示された愛や憐みの深さをしきりに強調しながら、ますます心頑なになって罪深い自分に自己安堵し、堂々と開き直って罪の内を歩むようになる「クリスチャン」(?)が出現する理由もお分かりいただけたものと思います。

そのようなことが起きる背景には必ず、十字架の歪められた解釈があります。これらの偽りの教えの主要目的は、御子の贖いの完全性を否定して、永遠の命に至る道を閉ざし、聖なる神の御子を罪人の一人に数えて世の判決に同調し、世の罪を帳消しにして神を罪に定めて冒涜し、あろうことか、罪ある人間を罪あるままで神に等しい存在にまで祭り上げ、生まれながらの人間を神として栄光化し、神と人との地位を逆転させることにあります。

これは反逆の教えです。このような教えを信じた人々は、永遠の命を失い、来るべき世での栄光を失うだけでなく、今生の人生においても、死の道を歩むことになります。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。」(ローマ8:13)

神はエデンの園で、善悪の知識の木の実を取って食べれば、人は死ぬと警告されました。にも関わらず、蛇は人を巧みに騙して、その実を食べても、人は「決して死」なず、むしろ、「神のようにな」れると誘惑したのです。しかし、サタンの提案はことごとく偽りでした。同様に、罪人の耳に心地よく響くサンダー・シングの美しいたとえ話も、同じように、初めから終わりまで偽りであることを私たちは見て来ました。

今日に至るまで、私たちは常に二者択一を迫られています。セルフを拒んで、まことの命の木であるキリストを選ぶのか、それともセルフを肥大化させて人を死に至らしめる善悪知識の木を選ぶのか。神の義により頼むのか、自己の義により頼むのか。見えるものにより頼み、目に見える地上に神の国を築き上げようとして、この世に座を占めるのか、それとも、見えるものによらず、信仰によって見えない天のふるさとを目指し、この世においては寄留者として歩むのか。十字架においてアダムの命に死に、キリストのよみがえりの命によって生かされるのか、それとも生まれながらの自分を惜しんで十字架の死を拒み、アダムの命のままで、自分を栄光化し、神にまで至ろうとするのか。

「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(エレミヤ21:8)

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)

聖書には、異端というものの本質が何であるか、はっきりと書かれています。それは私たちを買い取ってくださった主イエス・キリストの完全な贖いを否定して、私たちが永遠の命に至る道を閉ざし、人を滅亡に至らせることがその目的なのです。どんなに美しい物語で覆われていたとしても、そこにあるのはすべて作り事に過ぎません。この偽りを教える教師たちの目的は、それを信じた人々を自分の栄光の手段として食い物にし、破滅の道連れにすることにあります。

「…あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

ですから、私たちは、神を人間にとって理解しやすい存在へと変えるために、神の聖を否定し、神を罪に定めて罪人の一人にまで引き下ろし、その一方で、生まれながらの罪人を神として高く掲げるような偽りの教えをきっぱり拒否すべきです。そのような教えを信じるならば、私たちの行く手にはただ死があるのみ、焼き尽くす火である神の燃え盛る滅びの刑罰が待っているのみです。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」(ヘブル12:25)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができるでしょう。」(ヘブル2:1-3)

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでも、モーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:26-29)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(8)

8.見えるものを神とする――汎神論化された偽りのキリスト教

①死の否定

サンダー・シングの教えは、ただ裁き主としての神を否定し、万物に定められている滅びを否定するだけにはとどまりません。彼は何よりも、「死」という概念そのものを骨抜きにすることによって、旧創造と新創造の切り分けを否定し、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、神に属するものと、そうでないもの、一時的なものと永遠に至るものの切り分けを否定しようとします。

一言で言うならば、十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないものとを混同するこのような教えは、結局、目に見えるものこそ神であるという主張へとたどりつくのですが、まず最初に、サンダー・シングが、朽ちるすべてのものが経なければならない死という概念を、どれほど歪めて解釈しているかを見てみましょう。まず、彼の書物の冒頭の文章を引用します。

「ただ一つの生命の源――無限かつ全能の生命――がある。その創造の力が、生きとし生けるものすべてに生命を与えたのである。全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中に留まり続ける。この生命の源は、違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命を創造した。人間はその一つであり、神ご自身の姿に似せて造られた。それは、人が神の聖なる臨在の中で、永遠に幸福であり続けるためである。」(p.34)

まず、この文章を通して、サンダー・シングが事実上、目に見えるものの永遠性を主張していることがお分かりになるでしょうか? 彼は言います、神こそが全ての生命の源であり、神が全ての被造物を創造し、「全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中(筆者――神の命の内)に留まり続ける」と。これは、創造の初めから今に至るまで、罪によって神と断絶した被造物は一つもなく、従って、被造物は創造からこの方ずっと神の命の中にあり、滅びを経ることなく、これからも未来永劫に、神の内にとどまり続けると言っているに等しいのです。

しかし、このような主張は「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という御言葉に反しています。人の罪のゆえに全ての「被造物が虚無に服し」、「滅びの束縛」の中に置かれたこと、神の子供たちがこの朽ちゆく肉体の中にあって、からだの贖われるときを待ち望んでいること、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:20-23)ことを否定しています。

サンダー・シングは全被造物には
罪のために死が入り込み、被造物が神と断絶したという事実を認めません。そして彼は「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリント16:50)という御言葉を無視して、被造物が持っている朽ちる命が、そのままで神の命に等しく、永遠に続くかのように主張しているのです。これは見えるものと見えないものの切り分けの否定であり、朽ちるものと朽ちないものとの混同、一時的な滅び行くものと、神の永遠の命に属するものを混同する教えです。

このような異常な考え方に立つと、新創造とは何かを理解する根拠が全く失われてしまいます。ここには旧創造と新創造を切り分ける十字架が全くありません。

さらに、サンダー・シングの使っている「発展段階」という言葉は、彼の教えが進化論の影響を受けていることを物語っています。サンダー・シングは、人は「神ご自身の姿に似せて造られた」けれども、「違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命…の一つ」に過ぎないと言っています。つまり、それぞれの生命には種類を超えた「発展段階」があると示唆しているのです。

しかし、聖書は、神がそれぞれの生命をその「種類にしたがって」(創世記第一章)造られたことは記述していますが、それぞれの生命に種類を超えた
「発展段階」があるとは全く述べていません。ですから、この言葉からも、私たちはサンダー・シングの教えが聖書に基づかず、決して神から来たのでない別の起源を持っていることをさらに明確に理解するのです。

さらに、朽ちゆく命が決して滅びを経ることなく永遠に神の内にとどまりつづけるという、絶対にあり得ない事柄を主張するために、サンダー・シングが「死」という概念をどのように骨抜きにしているかを見て下さい。


「生命は変化することはあっても、決して滅ぼすことはできない。死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するのでも、生命を加えることを意味するのでも、ましてやそこから何かを取り去ることを意味するものでもない一つの存在形態から別の存在形態へと生命を移すことにすぎないのだ。あるものが目にみえなくなっても、それは存在しなくなったのではなく、別な形と状態の中でまた現われるのである。

この宇宙の中でかつて滅ぼされたものは何一つなく、今後もそうである。それは、創造主が破滅のためにものをお造りにならなかったからである。滅ぼす意志があれば、初めから創造することはなかったであろう。被造物が何一つ滅ぼされないとすれば、被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう。神は神ご自身の形を滅ぼすことができようか。あるいは、それ以外のどのような被造物にも人間を滅ぼすことができるだろうか。決してできないのである。人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」(p.34-35)


ここでも、サンダー・シングは再三に渡り、神は絶対に人間を滅ぼしたりなさらないと、万物に定められた神の滅びの刑罰を否定せずにおれないわけですが、それはさて置き、ここで「死」という概念そのものが事実上、骨抜きにされ、否定されていることに注目して下さい。「死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するので…もない」と彼は言います。

このような詭弁を許すならば、死はもはや死ではなくなってしまいます。オースチンスパークスは『人とは何者か?』の中で、死についてこう述べています。「アダムのときにこれが起きた時、死が入り込みました。死の性質は、この語の聖書的意味によると、神との霊的結合からの分離です。」

人が罪を犯した時、人の霊は堕落し、神に対して死んでしまいました。全被造物も人の罪のゆえに神と断絶し、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されました。これが死の意味です。死の真の意味は、霊的な死を指しており、神に対して死んでいるということです。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) 肉体の死は罪が最終的に結ぶ実に過ぎません。一人の人の罪のゆえに全被造物に死が入り込んだのです。

生まれながらの人は、アダムの命にあって、人の目にはあたかも生きているかのように思われますが、それは、肉と罪とこの世(サタンと暗闇の世)に対して生きているのであって、神に対して彼は死んでいます(「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1))。「ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった」(ローマ5:17)。生まれながらの人は「一生涯死の恐怖につながれて奴隷」(ヘブル3:15)となって、死の支配下にあります。

もろもろの罪に対する解決策は赦しであり、それは神の子羊なるキリストの尊い血潮によって得られますが、死に対する解決法はただ一つ、復活しかありません。それはキリストのよみがえりの命によります。それは人が今まで生かされていたアダムの命に対して死んで、神の霊によって新しく生かされることです。復活は神の側からの奇跡以外の何ものでもなく、それはただキリストの達成された御業です。アダムの命からはどんなに努力しても、死以外のものを生み出すことはできません。ですから、人が神に対して生きるとは、ただキリストの十字架の死とよみがえりによる以外にはないのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4-6)

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル3:14-15)

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)


このように信仰により、キリストの十字架の贖いを受け入れ、神の霊によって新しく生まれなければ、誰も神の国に入ることはできず、死の支配から解放される手立てはないのです。

しかし、サンダー・シングは生まれながらの人が一人の例外もなく、罪のゆえに神に対して死んでいることを認めず、信仰によらずとも、被造物の朽ちる命の永遠性を主張します。そして、人が罪のゆえに刈り取らなければならない最後の報酬である死さえも事実上、否定して、死とは「別の存在形態へと生命を移すことにすぎない」と、魔法のように言い換えるのです。こうして、アダムの朽ちる命のままで、人が永遠に至る道があるかのような偽りを教えるのです。


②肉の思いは死である

しかし、驚くべき結果に注目しましょう。このような詭弁を用いて、人の命は決して滅ぼされないと主張しているサンダー・シングの関心は、結局、どこへ誘われていくのでしょうか?

「人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」


この問いの後、サンダー・シングの物語は、彼が瞑想中に出会ったとする様々な「死者との交流」、「死後の世界」に没入していきます。

なんと不健康極まりない発想だろうかと呆れ果てるのです。まさに「肉の思いは死であり」(ローマ8:6)というパラドックスが見事に表れているのではありませんか? これは彼の自己矛盾です。一方では、「被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう」と、旧創造の死を否定しながら、他方では、彼は生きている者についてではなく、死者について語らずにいられないのです。

この矛盾はまさに、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)という御言葉の成就ではないか思います。朽ちるアダムの命に定められている滅びを否定して、アダムの命を惜しみ、主と共なる十字架の死を拒んで、自らの力で復活の領域に達し、永遠に至ろうとすると、人はこうなるのではないでしょうか。思いは死にとらわれ、ずっと死の周辺をめぐり続け、生きているうちからまるで死者のように、死の支配にとらわれて、黄泉の国に誘われていくのです…。

補記:「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。」(箴言21:16)

断じて、クリスチャンはこんな問いに誘われて、死者との交流というテーマに立ち入るべきではありません。義人であろうと罪人であろうと、生きている者が死人にお伺いを立てることを、聖書がどれほど禁じているか振り返ってください。

「あなたがたのうちに…占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならないこれらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」(申命記18:10-13)


③見えるものを神とする

さて、このように十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、旧創造と新創造との切り分けを否定すると、最後には、全てのグノーシス主義の教えがそうであるように、目に見えるこの物質世界こそが真のリアリティであり、見えるものこそ神であるという主張に至りつきます。サンダー・シングは次のように述べます。

「真の、全能かつ永遠の唯一神がいること、現世はその被造物であるというのが真実なのである。この物質世界は、ヴェーダーンタ学者やソフィストのいうがごときマーヤー(筆者注――幻影)ではなく、現に存在するものである。被造物は神そのものではなく、神から離れてもいない。神は全被造物の中に現臨するのである。『人は神の中に生き、動き、存在を得る」(p.393)

ここまで来ると、完全にキリスト教とは別の宗教が成り立っているとしか言えませんが、ここでサンダー・シングが言おうとしていることは、「神はすべての見えるもの(被造物)の中にいます」という結論なのです。これはほとんど汎神論と呼んで差し支えないと私は思います。

ここにもサンダー・シングの自己矛盾があります。一方では、彼はまことしやかに、彼一人だけが「霊眼」によって見たとする、(聖書にも反し)誰一人として存在を証明できない目に見えない死後の霊界について語りながら、他方では、目に見えるこの全宇宙こそ、まことのリアリティであり、「神は全被造物の中に現臨する」と宣言しているのです。

聖書によれば、悪魔は「偽りの父」であって「彼が偽りを言うとき、いつも本音を吐いている」(ヨハネ8:44)のですから、偽りの父を起源とする異端に、自己矛盾、支離滅裂がつきものなのは当然のことです。今しがたあれほど確信を持って述べたことを、次の瞬間には、平然と自分で否定していたとしても不思議ではないのです。

「実際、神は万物に在り、万物は神に在る。だからといって、神イコール万物でも、万物イコール神でもない、創造者と創造物を混同する人間が無明に沈み込むのである。」(p.175)

サンダー・シングは、被造物イコール神なのではない、とあくまで注釈をつけていますが、そうであるからといって、サンダー・シングが「神は万物に在り、万物は神に在る」と言って、信仰によらずとも、全ての被造物が神の命の内にとどまっているかのように主張し、キリストの体を、見えない霊の体としてとらえず、むしろ、目に見える宇宙(物質世界)と同一視し、目に見えるこの世の被造物に神の現われを見出そうとしている事実は否めません。

朽ちる命と、朽ちない命の切り分けを否定し、見える一時的な世界と見えない永遠の来るべき世とを混同する結果は、結局、見えるものを神として祭り上げる結論の他にないのです。このようなサンダー・シングの言説が、キリストは宇宙の全ての被造物の中に満ちており、人格を持たない木や石の中にさえおられるとしたグノーシス主義の一部の教えと非常に共通していることにも、注意を払いたいと思います。

以下は、『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.302から、

「イエスが言った、『私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(七七)

 イエスは「光」として、覚知(グノーシス)者にとっては、そこから出てそこに帰る「すべて」のもの――人間のみならず、木にも石にも内在する。――こうして、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」にあってその本質を一つにする。そしてこの「光」は、語録六一において「一人」あるいは「同じ者」と言い換えられるのである。」

このような主張は、神が唯一の神であって、キリストが人格を持っておられることさえも否定している点で、その荒唐無稽さに呆れる他ないのですが、しかし、サンダー・シングの主張もほとんどそれと変わりません、彼もまた目に見える物質世界に神の現われを見出そうとしているからです。

しかし、聖書は、サンダー・シングが万物を神の位置にまで押し上げているのとは逆に、万物こそ、キリストの足の下に従わねばならないことを述べています。聖書はキリストは万物の上に立つかしらであると述べています。(エペソ1:20-23 参照)

「…それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。…万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

このような文脈で、次の御言葉も述べられています。

「…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)

聖書は、万物を支配する一切の権限が御子に委ねられていることを示しています。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(ヨハネ3:35)「…万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16-17)

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

聖書ははっきりと、見えるものは、見えない神の言葉によって成ったのであり、見えるものは目に見えるものから出来たのではないことを示しています。

しかし、サンダー・シングは、万物が御子の支配に服従せねばならないことを否定して、むしろ、万物を神の地位にまで引き上げようとするだけでなく、聖書によれば、見えないものこそが真のリアリティであって、見えるものはすべて、真のリアリティによって作り出された影のようなものに過ぎないという事実を決して認めようとしません。彼の書物の中には、「神(ブラフマン=絶対者)」を除いてはすべてが「マーヤー(幻影)」であるとするインドのヴェーダーンタ学派を彼が非難しているくだりがありますが、なぜ彼がヴェーダーンタ学派の「マーヤー」という考え方に激しく反対したのかも、これまでの文脈からほぼ明らかとなります。

聖書によれば、”I AM”と言われるお方だけが真のリアリティであり、全ての造られたものは、まことの神のリアリティに比べるならば、影のようなものであって、真のリアリティとは言えません。天に属するもの、すなわち、御子の十字架を経て、神の永遠の命に属し、永遠に至るものだけがまことのリアリティであり、それ以外は一時的な、滅びゆくものに過ぎないのです。そして、見えるものも見えないものも、すべての造られたものが、見えない御子によって、御子のために造られ、御子の支配に――神の霊なる支配に――服さなければなりません。サンダー・シングにはそのこと――見えるものが目に見えるものから出来たのではなく、万物が見えない御子によって成り、御子の支配に服さねばならないこと――が認められないのです。

聖書は言います、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方」であり、「万物は、御子にあって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1:15-16)、律法の定めや色々な決まりごとだけでなく、造られたすべてのものは――被造物も含め――次に来るもののであって、本体はキリストにある」(コロサイ2:17)のです。

ところが、サンダー・シングは「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という事実、目に見えるものは、「次に来るもの影」であるという事実を思わせるような主張には、(たとえそれがヴェーダンタ哲学であっても)、異議を唱えずにいられないのです。彼は言います、「目に見える被造物は夢でもマーヤーでもなく、現実のものなのである」(p.395)と。つまり、見えるものこそが、真のリアリティであると彼は言いたいのです。

これが見えるものと見えないものの秩序をさかさまにした偽りのキリスト教であることはすでに述べましたが、このような主張は結局、見えるものを神としている点で、(まことの神を否定して物質を神とする)唯物論、また、物質に神性を見出そうとする汎神論となり、聖書からは全くかけ離れた別の教えになるのです。


④ 神の国をこの世と同一視する

こうして、見えるものと見えないものの順序をさかさまにし、朽ちるものと朽ちないものを混同し、霊によって把握すべきことを魂によってこの世の領域に還元し、地に属するものと天に属するものを混ぜ合わせようとした結果、サンダー・シングはキリストのからだを見えない霊のからだとして理解せず、むしろ、キリストを見える世界そのものに見出そうとして、ほとんど汎神論と言っても良い主張に陥るだけでなく、彼は神の国というものも、目に見える世界に還元し、神の国をこの世と同一視しようとするのです。

「全宇宙は体である。四肢はどれも全身につながっているので、一部にでも痛みが生じれば、全身にそれが響く。血清が体の一部に使われれば、全身がその作用を感じる。それと同じく、キリストはこのみえる、そしてみえざる宇宙の一部たる地球で十字架に付けられたにもかかわらず、全宇宙がキリストの死から影響を被った。また、キリストは世の救いのためにただ一つの場所(エルサレム)で十字架にかけられたにもかかわらず、今も全世界はキリストの犠牲を共にしている。霊が全身に満ちているように、神は全宇宙に存在している。」(p.291)

ここでも、「神は全宇宙に存在している」という汎神論的主張が繰り返されています。その上、サンダー・シングがここでもやはり、信仰の必要性を否定していることが分かるでしょうか。ここで彼は、まるで全世界の被造物が、歴史を通じて、キリストの十字架と自動的に一体であり、キリストと絶え間なく苦しみを共にして来たかのように述べています。しかし、きちんと聖書に戻るならば、この言説がまるで嘘であることがよく分かるのです。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:9-12)

ここにははっきりと書いてあります。「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」と。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。世は自分を救うために遣わされたキリストを受け入れることを拒み、彼を十字架につけて殺したのです。

にも関わらず、サンダー・シングは世が御子を拒んで十字架につけた罪には一切触れずに(上記の文章の続きのくだりでも、キリストの十字架は罪人に対する神の一方的な愛のボランティアに過ぎなかったことにされ、世が彼を十字架につけて殺したその罪については一言の言及もありません)、まるで全世界が初めから彼の犠牲に哀悼の意を表し、全宇宙がキリストと自動的に一体であるかのように述べているのです。これでは、世の犯した罪も、信仰の必要性も否定されてしまいます。

聖書ははっきりと述べています、「…この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と。

このように、個人的な信仰によらなければ、誰もキリストの十字架の贖いを受け取ることはできず、神に受け入れられることもないにも関わらず、サンダー・シングは、あたかも信仰によらなくとも全世界がキリストの十字架により自動的に贖われているかのように主張し、信仰による救いを否定し、そのようにして、御子を拒んだ世の罪を覆い隠し、帳消しにして、この世をむしろ名誉回復させようとしているのです。

ですから、このようなことを考え合わせるならば、サンダー・シングが述べている全宇宙に存在している神とは、とどのつまり、この世の神を指していると言って良いのではないかと思います。
「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19)。人の堕落とともに、この世、旧創造はサタンに引き渡されました。ですから、「この世の君」(ヨハネ12:31)とはサタンのことに他なりません。それらの文脈を一切を無視して、サンダー・シングは目に見えるこの世があたかも創世の初めから神に背いたことなど一度もなく、キリストの十字架以来、絶えず彼と苦しみをともにして来たかのように主張し、世の罪というものを認めないのです。これでは結局、彼はこの世の神をまことの神として逆転させようとしていると言っても過言ではありません。

「…この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

サンダー・シングの次のような言説も、すべてをさかさまにしているため、決して惑わされないように注意しなければなりません。

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある。このことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態にあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(p.304)

注意して下さい、このような主張は東洋人の好みに非常に合致しているがゆえに、日本人の耳にとても良さそうに響くのです。日本人の文化的・精神風土には、「知られない神に」(使徒17:23)と刻んだ祭壇を拝んだアテネの人々のように、「神(々)はどこにでも存在する」という考え方が脈々と流れています(聖書の神は遍在されますが、この時空間の中に住まわれるのではなく、また、被造物の中に神性として宿っているのでもありません)。私たちは幼少期から、八百万の神や、石で作った道ばたの地蔵にも神が宿っているといったような考え方に慣らされて、神を人格としてとらえないことや、あたかも目に見えるどんな被造物の中にも神が宿っているかのような考えを受け入れやすい精神的土壌が作られてしまっているのです。

しかし、きちんと聖書に戻りましょう。神の国はどこにあると聖書は言っていますか?

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)


この記述に照らし合わせるならば、「神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある」というサンダー・シングの主張が完全に偽りであることがよく分かります。彼の主張とは逆に、聖書は、神の国の所在をきわめて限定しています。神の国はこの世の時空間に存在するあれやこれやの場所や、あれやこれやの被造物の中にはなく、ただ御子を信じる者のただ中に存在すると聖書は言っています。ですから、サンダー・シングの述べている地上天国の夢がどんなに良さそうに響いたとしても、聖書に反して、神の国をこの地上の時空間内(全ての被造物の内)に見出そうとしている点で、それがむなしい偽りの夢に過ぎないことが分かるのです。それは地上に作り出された神の国の幻(模造品)に過ぎず、その偽りの夢を作り出したのは、ただこの世においてのみ活動を限定的に許されている者たち(暗闇の勢力)なのです。

最後に、もう一度、確認しましょう、キリストはどこにおられるのでしょうか? 「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」と、果たして主は言われたのでしょうか? 「神は万物に在り、万物は神に在る」「神は全被造物の中に現臨する」、それが聖書の教えなのでしょうか? 

いいえ、まず、神については聖書はこう述べています、

「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(Ⅰテモテ6:15-16)


(そうです、この御言葉にも、死のない方はただ神お一人しかおられないということが示されているではありませんか。) そして、キリストのおられる場所は、次の御言葉が示している通りです。


「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)