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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。

「どのようなときも、わたしは主をたたえ
 わたしの口は絶えることなく賛美を謳う。
 わたしの魂は主を賛美する。
 
 貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
 わたしと共に主をたたえよ。
 ひとつになって御名をあがめよう。

 わたしは主に求め
 主は答えてくださった。
 脅かすものから常に救い出してくださった。
 主を仰ぎ見る人は光と輝き
 辱めに顔を伏せることはない。
 
 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
 苦難から常に救ってくださった。
 主の使いはその周りに陣を敷き
 主を畏れる人を守り助けてくださった。

 味わい、見よ、主の恵み深さを。
 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
 主を畏れる人には何も欠けることがない。

 若獅子は獲物がなく飢えても
 主に求める人には良いものの欠けることがない。
 
 子らよ、わたしに聞き従え。
 主を畏れることを教えよう。

 喜びをもって生き
 長生きして幸いを見ようと望む者は
 舌を悪から
 唇を偽りの言葉から遠ざけ
 悪を避け、善を行い
 平和を尋ね求め、追い求めよ。

 主は、従う人に目を注ぎ
 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
 主は悪を行う者に御顔を向け
 その名の記念を地上から経たれる。

 主は助けを求める人の叫びを聞き
 苦難から常に彼らを助け出される。
 
 主は打ち砕かれた心に近くいまし
 悔いる霊を救ってくださる。

 主に従う人には災いが重なるが
 主はそのすべてから救い出し
 骨の一本も損なわれることのないように
 彼を待追っ手くださる。

 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
 主に従う人を憎む者は罪に定められる。
 
 主はその僕の魂を贖ってくださる。
 主を避けどころとする人は
 罪に定められることがない。」(詩編第34編)

前回も同じ個所を引用したが、共同訳の方がどことなくしっくり感じられる箇所である。

命を永らえることを望む者は、何をなすべきであろうか。まずは偽りから遠ざかり、悪を離れ、善を行い、平和を追求すべきである。

嘘偽りが洪水のように溢れるこの時代、偽りを避けるというだけでも、人の目には狭き門であろう。人々は自分の見栄えが少しでも良くなるよう世間に気を使い、SNSで自分を粉飾し、企業も嘘の広告を出し、偽の期待を人々に持たせ、役所は文書を改ざんし、誰もが息を吐くように嘘をついている。

そんなこの時代に、世間に迎合することなく、偽りのない生き方を見つけることは、非常に困難なように思われる。自分を粉飾して、過大な実力があるように見せかけ、人々の関心を引くことができるなら、その方が楽に生きられるように感じられるだろう。

しかし、その道を行けば、命を失うと御言葉は言う。

どんなに狭き門に見えても、確実に勝利へと続く道を行くのが一番、近道なのだ。そのためには、偽りや、悪から遠ざかることは、決して外してはならない条件である。

さて、少し本題から逸れるようだが、インターネット上では、数年前から、「聖書信仰」やら「福音主義」への攻撃が盛んに行われている。これはカルト被害者救済活動のことだけを指すわけではない。

むしろ、カルト被害者救済活動は、以上の大きな流れの一端として現れて来たものである。そして、この流れが真に正体を現すのもこれからである。

「カルトを告発する」と言いながら、カルトとそうでないものをごちゃ混ぜにし、無実のクリスチャン、しかも、聖書に忠実に歩もうとするクリスチャンを攻撃するというのは、暗闇の勢力が用いるいつものやり方である。

聖書を敵視する運動は、今のところはまだ「聖書信仰」やら「福音主義」だけを攻撃する形を取っているように見えるが、やがて彼らの主張は、必ずや「聖書そのもの」を否定し、排除する流れへと変わって行くだろうと筆者は予想している。

共産党政権下の中国のように、国民の誰かが聖書を所持し、開いているだけでも、犯罪者扱いされるような国を作りたい、聖書を所持し、真面目にその内容を知ろうとしている人間は、みなカルト信者ということにして葬り去ってしまいたい、そういう悪しき思惑が渦巻いていることが感じられる。

そうした思惑は、時を追うごとに、国家神道やら共産主義やら日ユ同祖論やら先祖崇拝やらを一緒くたに混ぜ込んだ新たな異端思想(これこそまさに新手の新興宗教!)の形となって勃興しようとしている。

これもやがては、愛国主義、軍国主義、天皇崇拝などの一連の流れの一環として、戦前回帰という本流へ合流して行くだろう。

たとえば、ネット上には、プーチン政権下ロシアを極端なまでに美化したり、さらにマルクス主義を礼賛したり、日ユ同祖論を唱えたり、国家神道に近い考えを提唱するなど、様々な思想の持主を寄せ集めたような勢力がある。

その勢力は、大きく見れば、陰謀論と呼ばれる流れの中に位置するが、一見、安倍政権に反旗を翻すアウトサイダーのような立場から政権批判を繰り返しつつ、同時にEden Mediaが告発しているような悪魔的思想(グノーシス主義)を告発し、悪魔崇拝を告発すると言いながら、実際には「聖書信仰」を目の敵として、キリスト教を仮想的とする非難を開始している。

グノーシス主義を批判しながら、自らがグノーシス主義に陥っているという点で、この勢力は、まさにカルト被害者救済活動と同じ道を辿っていると言える。

しかし、マルクス主義であれ、国家神道であれ、日ユ同祖論であれ、もともとこうした思想の持主らが掲げている思想が、いずれも明らかに人類の生まれながらのルーツを神聖視するというグノーシス主義の系譜に属する思想ばかりであることを見れば、こうした勢力のものの考え方が、結局、グノーシス主義を批判しているように見えても、グノーシス主義から一歩も外に出られず、かえって正しい思想を攻撃するだけに終わるのは、初めから当然予想できる結果である。

当ブログでは、以前から、「プーチン率いるロシアが日本や世界を救ってくれる」などという考えが、どれほど愚かなものであり、国家としての主権の放棄に等しいか、また、極端なまでのロシア美化・賛美が、どのような背景で生まれて来るのかということを書いて来た。

天皇を賛美し、日本の文化やルーツを礼賛すると言っている連中が、それとは全く相矛盾することに、「プーチン政権下ロシアが日本を救う」などと言っているのだから、呆れることしきりである。最近は、日ロの経済協力も領土問題も全く膠着状態に陥ったので、かつてほどそうした声は聞かれなくなったが、そんなことからも、要するにその声は、表向きには安倍政権を非難しながら、背後では政権とぴったり歩調を合わせていることが分かる。

また、そうした異常なほどのロシア美化の背景には、マルクス主義が存在していることが多い。

マルクス主義の影響を甚大に受けている人ほど、ロシアを非現実的なまでに美化することが多い。今日、ロシアという国を極端なまでに美化してこれをまるで救世主か何かのように信奉している人々の歩みを追って行けば、若い頃に学生運動に参加していた、などのマルクス主義との接点が出て来ることが稀ではない。

すると結局、彼らは若い頃から今に至るまでずっと変わらず、思想的にはマルクス主義者のままだったことが分かるのである。だが、彼らは現実のロシアのことはほとんど知らない。ゆえに、自分の心の中で思い描いたユートピアをロシアに重ねているだけで、ソ連時代の暗黒の歴史がどんなものであったかも、彼らは真正面からは決して見ようとはしない。

マルクス主義は、宗教の形を取っていないが、とどのつまり、人間がキリストの十字架を介することなく地上にユートピアを建設できる(=救いに達することができる)と見なす点では、アダムを神としているグノーシス主義に分類されて差し支えない思想である。

そこで、マルクス主義と、国家神道、日ユ同祖論、先祖崇拝、天皇崇拝などといった思想は、一見、何の共通点も類似点もないように見えても、みな根底では、アダム(生まれながらの人間)を神とし、人類の生まれながらのルーツを神聖視するという、人間崇拝へとつながる点で、ベースが全く同じなのである。

だから、これらの思想がごった煮のように集まって来て「結婚(重婚)」に至ったとしても、不思議ではない。繰り返すが、これらの思想はもともと根本が同一であり、異なるのは表層部分だけだからである。

ロシアには歴史上、「ロシアが世界を救う」と言ったメシアニズムの思想が存在しており、なぜこうした思想が登場して来たのか、その分析はここでは行わないが、ロシア正教の中にもそうした思想が存在したことがあり、マルクス主義はそうしたロシアの文化的・思想的な土壌を背景に、その歴史的延長として、ロシアに移植されたと見てもおかしくないことは以前にも述べた。

さらに、『国体の本義』などを読んでも分かることは、かつての日本が唱えていた「八紘一宇」だとか、「大東亜共栄圏」などのスローガンも、みなメシアニズムの思想から出ているということである。戦前・戦中の国家神道は、天皇を救世主になぞらえ、皇国日本が世界を救うというメシアニズムの思想である。

そこで、これらの各種のメシアニズムの思想が、類は友を呼ぶ式に集まって来て結合し、それらの思想をことごとく闇鍋のように内包している勢力が、今や「聖書信仰」を新興宗教力ルト扱いして攻撃し、否定しにかかっているのも、何ら不思議なことではない。

もともとそういう似非救済思想が、聖書と相性が良いはずもない。彼らも聖書を利用したり、キリストの名を語ることがないわけではないにせよ、その目的は必ず、彼らが「自分たちは、先祖代々から伝わる神聖なルーツを受け継いでいる」と主張するためであり、日ユ同祖論者などは、自分のルーツを美化(神聖視)する道具として、イエス・キリストの名を利用しているに過ぎない。要するに、自分たちはメシアの末裔だから、世界を救う活動に参加する資格があると言いたいのである。

こういう思想を持つ人々が、歴史的に、はた迷惑な世界救済事業に乗り出して来たのであり、それらの思想にとって、聖書などはもとより自分を美化するための添え物に過ぎない。

キリストの名を都合よく騙って自分のルーツを美化・神聖視したいだけの人々にとって、本気で聖書などを読み、真剣にその教えを実践・探求する信者は駆逐したい邪魔者と映るのは当然に予想できる。

だが、もしも「聖書信仰」を攻撃するなら、プロテスタントのほぼすべての教会は「聖書信仰」に立っているため、これらのすべての教会が「カルト」ということにされて終わってしまう。そういう暴論は、ネット上でしか成立し得ないものである。

今日、「カルト」という呼び名は、あからさまな蔑称とみなされ、使用を避けられつつあるため、以上のような人々はやたらと「新興宗教」という言葉を使いたがる。新興宗教という呼び名には、何ら罵倒や侮蔑の意味は含まれていないのだが、こうした言葉をやたら振り回す人々は、「新興宗教と言えば、要するに、キリスト教系のカルトのことだ」という暗黙の了解を前提としているようである。

「新興宗教」などという曖昧模糊とした呼び名は、あらゆる宗教を十把ひとからげに疑わしいものとして攻撃するには、もってこいなのである。

だが、こうしてネット上で、気に入らない思想にのべつまくなしに「新興宗教」のレッテルを貼り、かつ「聖書信仰」を目の敵にして非難している人々のほとんどが、実のところ、統一教会とキリスト教界の区別もつかない人々である。統一教会とはキリスト教なのだと思っている人々が大半という有様で、もちろん、エホバの証人や、ローカルチャーチが使っている聖書と、プロテスタントの教会で使われている聖書の区別もつくはずがない。

彼らはそもそも聖書などほとんど読んだこともなく、キリスト教の基本的な言い回しも知らない人々であるから、彼らの糾弾している「聖書」が、一体、どの「聖書」を指しているのかも定かではない。

彼らはただ、「聖書を真面目に信じるのは狂信者だけのすることである」という先入観・固定概念を作り上げ、人々を聖書から遠ざけたいがために、攻撃的な言葉を振り回しているだけなのである。

しかし、彼らが聖書をあらゆる攻撃対象の中でも、とりわけ攻略せねばならない本丸とみなしていることだけは確かである。「新興宗教批判」は、手始めに創価学会、統一教会などから始まるが、ほとんど間をおかずに、キリスト教への攻撃に転じる。本当の目的は、キリスト教の中でも、「聖書信仰」を攻撃することにある。

こうした動きは、カルト被害者救済活動が辿って来たのと同じように、最初は「危険な新興宗教について警告を発する」という口実を用いながら、様々な宗教への攻撃を正当化して行き、そのうちに、自分たちに属さないすべての思想を攻撃するようになり、独麦と一緒に本物まで一緒に抜くために、もっぱらキリスト教徒に敵意を向けるようになる。

彼らの「本命」は、最初から、創価学会でも統一教会でもなく、キリスト教にあると言って差し支えない。だから、キリスト教徒はこれらの人々の出現に警戒せねばならない。

彼らが聖書を敵視するのは、聖書が彼らの思想の誤りを明白に証明するためである。特に、日ユ同祖論者などは、聖書の御言葉が本物であっては困る人々である。

それはなぜか?

聖書こそ、彼らの血統が偽物であることを証明しているからである。

誰かがチャンピオン犬の直子を買えば、きっと血統書がついて来るだろうが、聖書は、一体、誰がキリストの子孫でありうるのかをはっきりと証明している。

日ユ同祖論者にとって重要なのは、「日本人はユダヤ人の末裔だ!だから、俺もメシアの末裔なのだ!」と主張することである。天皇崇拝者にとっても、天皇の血統を神聖視し、日本国のルーツを高めるためならば、何でもありで、日本人がユダヤ人の末裔だという実に荒唐無稽な説も、天皇崇拝を肯定し、日本人を美化するエッセンスになりうるなら、ウェルカムというところだろう。

だが、聖書は言う、
「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」(テトス3:9)

新約聖書を開けば、まずマタイによる福音書における
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」が目に飛び込んでくる。しかし、このようにして最初の福音書の冒頭に、キリストの系図が登場することの最も重要な意義は、「この素晴らしい選ばれたメシアの血統」を誉めたたえることにはない。

むしろ、メシアの系図という最も選りすぐりの系図も含め、人類の生まれながらの系図の意義は、ことごとくイエス・キリストと共に価値がなくなり、終わった、ということが示されている。

人類の生まれながらの系図は、ただキリストと共に無価値とされただけでなく、キリストと共に「呪われたものとして木にかけられて罰せられた」のである。

そこで、今日、キリストの子孫とは、こうした系図によって、キリストに連なると主張している人々を指すのではない。信仰によって水と霊によって生まれ、キリストに連なる兄弟姉妹となり、神の家族となった人々のことを指すのであって、「日本人のルーツはユダヤ人だ!」などと主張して、自らの血統を誇る人々は、キリストに属する人々には含まれない。生まれながらの血統は、キリストとは何の関係もなく、木にかけられて、罰せられる根拠にしかならなかったのである。

だが、悪貨が良貨を駆逐するように、偽物は本物を駆逐しようと活動しており、そこで、信仰もないのにただ日ユ同祖論のような荒唐無稽な思想を根拠に、「自分はキリストの子孫だ!」と誇り、そのために聖書を飾りとして利用したい人々の目には、聖書など真面目に読んで信じている人々は邪魔な存在としか映らないのである。

一言で言えば、日ユ同祖論であれ、国家神道であれ、天皇崇拝、先祖崇拝であれ、マルクス主義であれ、あらゆるグノーシス主義の流れを汲む思想は、みな今日では「日本スゲー系」などと呼ばれている自画自賛の潮流と何ら変わらないものであって、

セルフの美化 セルフの神化

を究極目的としている。キリストの十字架によらず、自己の死を経ることなく、生まれながらの自己がそのまま神となるという究極目的を彼らは追い求めているのである。

最終的には、天皇を頂点とする軍国主義日本の再来、戦前回帰の流れの中に合流し、一致団結して向かって行くことであろう。このようなものは、キリストの名とは本来的に全く関係がない。

もちろん、「天皇を頂点とする」と言っても、彼らにとっては、天皇も、キリストと同じように、自己のルーツを美化するための道具でしかないため、しょせんは飾り物である。

彼らにとっては、何であれ、すべてが自己を高めるためのツールなのである。そこで、そのような勢力がこの国を占拠するようなことがあれば、この国は「俺様スゲー!」と自己を賛美する人々で溢れかえることになるだろう(考えたくもないが)。

今日、安倍政権に反対しているように見えるほとんどの潮流は、このように、実質的には安倍政権と同一であり、間もなくその本質を表すであろうことに注意が必要である。

たとえば、そこには、護憲を唱えながらも、実質的に、天皇崇拝に陥っている政党も含まれる。

さらに、キリスト教徒を名乗りながらも、天皇に宗教的意義を見いだし、天皇制を強調している者も含まれる。

さらに、キリスト教を装いながら、ニッポンキリスト教を盛んに攻撃している「俺様スゲー系似非キリスト教」もそこに含まれる。

これらはすべて、表向きには日ユ同祖論やマルクス主義とは手を結んでおらずとも、最終的には、一つの勢力として結集して行くであろう思想たちである。

これらは「俺様スゲー!」という自己愛(セルフへの執着)を基軸として、国民が再び一致団結して立ち上がるという究極目的へと続いて行く道である。一体、何に対して集団的に団結して立ち上がるのか? 死の恐怖に対し、侵略の恐怖に対し、自己を喪失する恐怖に対してである。

要するに、自分の内側にある恐怖をごまかすために、「日本はスゴイ!天皇はスゴイ!だから俺達もスゴイ!」などと吹聴して集団的な自画自賛に明け暮れ、自分の罪を見なくて良いように、絶えず自分の外に仮想敵を作り出しては、それに自分の罪を転嫁して集団的に攻撃を繰り返し、さらに、その攻撃を「世界の救済のため」などと言い換えながら、破滅へ向かって進んで行くのである。

こうした思想に欠かせない特徴は、「絶え間のない自画自賛」と「己の欠点から目を背け、自分が他者より優れていることを誇示するために、絶え間なく仮想的を必要とすること」だと言えよう。

たとえば、「ニッポンキリスト教」などという呼び名を使い、キリスト教への絶え間のない攻撃を行っている勢力も、これに含まれる。我々は、そのような勢力が、本質的にキリスト教とは無縁の勢力であることを心しておく必要がある。(現に彼らはキリスト教を否定し、自分たちは宗教とは一切関係がないと公言している。)

本当はキリスト教を攻撃し、駆逐することを目的としている勢力が、表面的には、自分たちがあたかもキリスト教徒の一部であるかのように装いながら、聖書を用いて、偽物の福音を語るということは昔から行われて来た。

エホバの証人やモルモン教徒がキリスト教を名乗っているのと原則は同じである。

もちろん、筆者は日本のキリスト教の宗教組織としての教会のあり方が正しいと言うわけではない。筆者のような人間は、牧師制度も必要ないものとみなしている。だが、そうした地上的な組織の有様に関する議論と、聖書の根底に流れる思想そのものを否定・攻撃することはわけが違う。

聖書66巻を神の霊感を受けて書かれた書物だと認めている人々の間には、いかに教団教派が違えど、宗教組織を超えた連帯が存在する。

しかし、ニッポンキリスト教を絶え間なく批判している勢力は、自分たちがキリスト教よりも優れた勢力であることを誇示したいだけである。彼らは聖書を利用はするが、決してその教えに従わない。十字架を語っても、自己の死を認めない。信仰のゆえの苦難を厭い、自己を高く掲げて栄光化し、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りに邁進し、己を低くして日々の十字架を負うこともない。このようなものがキリスト教と一切、関わりのない自画自賛の思想であることは明白である。ニューエイジの思想も取り込み、アセンションを経て、すでに自己を神とする領域へ達している。

どんなに自己を栄光化し、高く掲げても、彼らがのべつまくなしにあらゆる牧師をひっきりなしに批判し続けねばならないことが、彼らの内心の空虚さを何より物語っている。他者を否定したところで、寸分たりとも自分が進歩し、神聖な存在に近付けるわけではないのに、そのようにして絶えず、自分の処刑場に誰かを引っ張り出して来ては、自分には関係もなく、自分に害を加えたこともない赤の他人をひっきりなしに貶め、辱め、非難し、嘲笑し、否定せずにいられないことが、彼らの内心にある絶えざる恐怖、払拭できない空虚さを何よりもよく証明している。

そのようにして彼らが勝ち誇り、凌駕したい相手とは、最終的には、まさにキリストご自身なのである。キリスト教界に対して勝ち誇ることは、神に対してマウンティングをしていることとほとんど同じである。今日のキリスト教界はあまりにも弱体化しすぎており、牧師という人々が神聖を表すのではないとはいえ、そこにはやはり教会の名残がある。神の教会を貶める行為は、神ご自身を敵に回すのとほとんど同じである。

創価学会や統一教会がカルトと非難されて仕方がないものであるにせよ、あらゆる宗教には、神への畏敬の念が投影されていることは確かであるから、すべての宗教をのべつまくなしにカルト扱いしたり、十把一からげに「新興宗教攻撃」に走る人々は、要するに、あらゆる宗教を攻撃することによって、神ご自身を否定し去ろうとしているのだと言える。

そして、神を否定する代わりに、自分を神として高く掲げるのである。

ニッポンキリスト教を攻撃している勢力の所業は、まさにキリストの名を存分に利用しながら、キリストご自身を否定して、自己をそれに置き換え、自己を神とすることである。

そうして神と自己を置き換えることが、異端思想の特徴である。だから、このように、絶え間なくキリスト教を悪罵しては、「自分だけは本物だ!」と豪語している勢力こそ、まさに偽物のキリスト教なのである。(繰り返すが、彼らは自分たちをキリスト教徒だとみなしていない。すべての宗教とは無縁であり、キリスト教とも別格の存在だと主張している。だが、それならば、いっそ誤解のないように、聖書を使うこともやめれば良かろう。)

筆者はあくまで聖書の御言葉に固く立って歩みを進めるつもりである。それを時代遅れや偏ったものの見方のように吹聴する人々がどれほど現れようとも、事実は逆である。人の目を恐れるのか、それとも神の目を畏れるのか。私たちは常に選択を迫られている。世相になびいて神の御言葉を捨てる者は愚かである。

「「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。

草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペトロ1:24-25)

さて、この話題はここまでにしておこう。脱線が長くなってしまったので、手短に本題に入りたい。

「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」これは筆者がよく思い出す、好きな箇所の一つである。預言者エリヤがケリテ川のほとりで、主のはからいにより、カラスを通してパンと肉を運んでもらって過ごしたというあの有名な箇所の後で、彼は今度は貧しいやもめ女のもとへ身を寄せる。

やもめにはエリヤを養う余裕など全くない。むしろ、彼女は最後の食糧や水を使い切って死のうとしているところであった。そこへ預言者がやって来て、その最後の食べ物を要求する。やもめはこれを断らず、エリヤの命に従った。それによって、預言者も彼女も双方生き永らえるのである。

「しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。
「その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。

彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。

エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。

彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。 」(列王記上17:7-16)

筆者はあらゆるところでこの話を思い出す。今日、目に見える形で預言者エリヤが私たちのもとを訪れることはない。私たちと共におられるのは、目に見えないキリストである。

そして、キリストは、私たちに地上のものを預けておられる。それを使って神を証しなさいと言われる。しかし、時折、主は私たちが持っているごくわずかばかりのものを指して、「それを私のために使いなさい」と言われることがある。

その命令は、声なき声のようであるから、無視することも簡単にできるだろう。だが、私たちはあらゆる限界、欠乏、死の恐怖を打ち破って、自らの限界ある命を神に差し出し、神に使用してもらおうとする。その時、私の限界、欠乏、死の恐怖が去り、洪水のようにとは言わずとも、日照りで焼け付く地にオアシスが生まれるように、私たちに信仰によって与えられた永遠の命を通して生ける水の川が流れ、荒野に食卓が整えられる。

エリヤとやもめが共有したパンと水とは、まさにキリストの体を象徴していることだろう。

やもめの家に絶えなかった粉、油は、地上でキリストの体を養い、キリストの証しを維持するために与えられたのである。

まことにダビデが歌った通り、敵前でも、主は僕のために食卓をもうけて下さり、杯に注ぎ入れ、頭に油を注いで下さる。それは、人の目には瞠目するような豪勢な食卓には見えないかも知れないが、それにあずかる者には、確かに主が共におられることが分かる、他のどんなものにもかえがたい食卓である。

現代は御言葉の飢饉の時代であり、命の水の川は国中で絶え果てたように見える。嘘偽りがはびこり、どこにも真実など見いだせず、誠実な人々は、このやもめ女のように、恐ろしい危機的時代の様相に倦み疲れ、生きる道など見いだせまいと考えているかも知れない。

だが、その中で、主に従って生きる望みを捨てさえしなければ、私たちは常に一抹のごくわずかな真実を土台に生きて行くことができる。国中が暗黒に包まれたような恐るべき時代に、人の目から見れば、存在しているかどうかも分からないほど貧しく取るに足りないエリヤとやもめの限界の中に、主は確かに共におられ、生きて力強く働かれたのである。

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肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑧~

・Eden Mediaが推奨する偽りの「人類超人化計画」(アセンション)の危険性について 

6.錬金術とグノーシス主義は同一である ~なぜフリーメイソンは石工団体なのか?~

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

悪魔の目的は、神の能力、支配権を奪い取って、神を超えることにある。そこで、悪魔は人類をそそのかす際にも、自分が望んでいるのと同じ欲望を吹き込もうとする。

そのやり方は、人類誕生の当初から今日までも変わらない。私たちは、Eden Mediaの動画を通して、東洋神秘主義が目指していた悪魔的な超人思想(=人を神のように変容させる術)が、今やニューエイジ思想の中に最も先鋭化した形で受け継がれているのを見て来た。

これまで見て来たように、神秘主義は、ただ思想であるだけではなく、人体を変容させるための方法論でもある。たとえば、古代中国の錬丹術などがまさにその方法論に当たり、何らかの刺激や訓練(修行)を通して、人体を変容させて、眠っている力を引き出し、神のような超自然的な能力を備えさせようとするのである。

その意味で、錬金術も、ただ卑金属を金に変えることだけを目的としていたのではなく、ここにも、人類が不老不死を手に入れ、悟りの智慧を得て神に等しい者になろうとする悪魔的な欲望が込められている。
 

錬金術における最大の目標は賢者の石を創り出すことだった。賢者の石は、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられた。また後述の通り、神にも等しい智慧を得るための過程の一つが賢者の石の生成とされた。

「中国では『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれている。厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術である。
 Wikipedia「錬金術」から

 

現代人は、「賢者の石」などという言葉を聞けば、すぐさまハリー・ポッターの映画などを思い出し、ファンタジーだと一笑に付して終わりたくなるかも知れないが、この概念は、歴史上数多くのグノーシス主義者が追い求めた悲願を意味し、これまでオカルト研究者、魔術師、錬金術師のみならず、自然科学者の関心さえも惹きつけて来た。今日では、万有引力の法則の発見で知られるアイザック・ニュートンも、膨大な労力を錬金術(オカルト)の研究に注ぎ込んでいたことはよく知られている。

あらゆる錬金術師の至上命題は、卑金属を金に変える至高の物質とされ、かつ、治癒不可能な病や傷をさえ瞬時に治す「神の物質」とされていた「賢者の石」の製造と、それによる金の錬成にあった。

ニュートンの死後に残された蔵書のうち、数学・自然学・天文学関連の本が16%であるのに対して、神学・哲学関連は32%を占めていることを見れば(アイザック・ニュートンのオカルト研究)、いかに彼が生涯をオカルト研究に費やしていたかが分かるだろう。

ここで言う「神学」とは、正統な神学のことではなく、錬金術に集約される異端的オカルト研究を指す。ニュートンは、聖書の中に、何とかして錬金術の根拠を探し求めようと、ソロモン神殿などの研究を行っていたが、彼はそもそも三位一体を信じていなかったので、キリスト教徒としての正統な信仰に立っておらず、「神学者」と呼ぶのは全くふさわしくない。ニュートンの名誉をおもんばかって、後世の人々がオカルト研究を「神学・哲学研究」と言い換えているだけである。

ニュートンの錬金術師としての研究の主要な目的は、まずは「賢者の石」の発見、次に賢者の石と同一か、もしくはこれを液体化したものと考えられている「エリクシル」の発見にあった。

また、心理学者ユングも錬金術に注目していた。彼は心理学と錬金術との関係性を研究し、そこから「いっさいの神秘主義は、対立しあうものの結合を目指している」という結論を引き出したという。

心理学者カール・グスタフ・ユングは、錬金術に注目し、『心理学と錬金術』なる著書を書いた。その本の考察のすえにユングが得た構図は、錬金術(のみならずいっさいの神秘主義というもの)が、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである。
Wikipedia「
錬金術」から

結局、錬金術とは、何とかして卑金属(≒人間)から金(≒神)を生み出し、両者を「統合」させることで、生まれながらの人類という堕落した卑しい種族の中から、聖なる全知全能の「神」を作り出そうとするまさにグノーシス主義的な異端の(詐欺的)試みであったと言えよう。

ちなみに、あらゆる錬金術師の悲願が「賢者の石」を作り出すことにあると考えれば、なぜフリーメイソンが「石工」集団の名で呼ばれているのかも、おのずと理解できるのではないだろうか?

そして、錬金術が、大きく見れば、人体の外にある物質を通して「霊薬」としての「仙丹(=賢者の石)」を作り出し、これを摂取することで、人間が不老不死に到達しようとする外丹術であるならば、人が座禅や瞑想や呼吸法などの修行を通して、体内の丹田(腹)に「気」を集めることで「仙丹」を練り、不老不死に到達しようとするのが、内丹術である。

今日、神秘主義の探求者の間では、錬金術のような外丹術よりも内丹術の方が主流になっているように思われるが、ヨガや、座禅や、瞑想、気功、武術には、人が自らの力で「気」を集めることにより、人体を変容させて永遠に到達しようとする内丹術が受け継がれている。

もちろん、「気」などというエネルギーが実在するという科学的証明は一切ない。そのような超自然的エネルギーがもしあるとすれば、それはただ悪霊に由来する魔術のような力でしかないことはすでに述べた。従って、「気」を引き出すことで、人間が超自然的な力を得て、自ら神を乗り越えようとする内丹術は、聖書の神に反逆する魔術でしかないことも、すでに説明して来た通りである。

だが、神秘主義者らは、今日も変わらず、人間を「神のように」するために、「気」を汲み出すことで超人的な人体の変容を目指しているのであり、それを彼らは「悟り」とか「覚醒」と呼ぶ。

東洋思想における「悟り」(=般若)とは「覚醒」と同義であって、これはただ単に人間の頭の中だけで理解される「知恵」ではない。彼らの言う「悟り」の概念には、人間が神のように変容するための具体的方法論としての修行が含まれており、東洋思想における「悟り」とは実質的に超自然的な能力の「覚醒」を伴うものなのである。

そして、そのような意味での「覚醒」こそ、創世記で蛇が人類に吹き込んだ「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようにな」るという「偽りの知恵」だったのであり、それこそが、鈴木大拙の言う「知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになる」結果として生まれる「行を支配する知」(もしくは「行」と一体化した「知」)なのである。

そう考えると、なぜキリスト教に偽装したグノーシス主義の媒体に"Eden Media"という名称がつけられたのか、その意味も見えて来よう。私たちはこの媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、キリスト教の信仰を装いながら、その実、聖書とは決して相容れないものをキリスト教と合体させようとするグノーシス主義的な偽りの「統合」に根差していることをすでに見て来たが、”Eden Media” の意味する "Eden"とは、「入不二界」と同じであり、要するに、鈴木の述べた「第二の林檎を食べ」た後に出現する人類の楽園を意味しており、すべての神秘主義者が飽くことなく目指している人類の地上における幸福社会、第二のエデン、すなわち、「道」との一体化のことなのである。

私たちクリスチャンは知っているはずだが、真のキリスト者であれば、エデンに回帰することなどを決して目指したりしない。私たちの到達目標は、失われたエデンではなく、神の聖なる都としての新エルサレム、新しい天と地である。しかし、グノーシス主義者には、必ず時間軸を逆行して、人類が創造される前の状態に自力で回帰することで神と一つになろうとする、原初回帰という特徴がある。

「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)

 
むろん、鈴木大拙の以上の主張も、すでに説明した通り、錬金術のような詐術であって、これは徹底的に神不在のグノーシス主義である。アダム、エバのいたエデンには、聖書の神の言葉を人間がわきまえ、それに従うという「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」だけが存在したわけではなかった。そこには、「知」と「行」が一体化した世界があったのである。ところが、鈴木はそこから「神の言葉を知るという知」を除き去り、エデンには聖書の神の言葉も、それをわきまえる「知」もなく、ただ「行」だけがあったことにしてしまっている。

その後、蛇に由来する偽りの「知」が出て、失楽園が起きたのであるが、鈴木は、失楽園の原因となった悪魔的な「知恵」をも、聖書の神の言葉を知る「知恵」とすりかえ、人類が自ら神に逆らったため、神の言葉を知る「知」から排除されたことを棚に上げて、知性(聖書における神の言葉に立脚する知性)が二分性を帯びており、人間を罪に定めたり、排除したしりするから、表面的で薄っぺらなもので、人間の本質たり得ないと決めつける。

そこには、聖書の神の御言葉が、ただ人間を排除するものだという決めつけがあるだけで、聖書の御言葉が本来的に目指しているのは、キリストの十字架を通して、人間を神に立ち帰らせることだという神の側からの救済の観点が完全に抜け落ちている。

そして、鈴木は、そのようにして、すりかえと歪曲とごまかしと決めつけに立脚して、「神の言葉を知るという知」を全面的に退け、人類は失楽園の原因となった蛇に汚された偽りの「知」を保存しつつ、これをもとの「行」と一致させることで、第二のエデン(「入不二界」)に復帰できるというのである。

これが禅者の言う「悟り」の本質である。要するに、蛇に由来する偽りの「知」と「行」を一致させることで、人類が聖書の神の言葉を退け、神から疎外されたまま、神不在の状況の中で、「二度目の林檎を食べ」て、隠れた内なる目を開眼させて、自分だけの力で神のような超人の世界に足を踏み入れることができるという教えである。二度目の林檎を食べるとは、要するに、人類が再び、蛇に由来する偽りの知恵に基づいて、「内なる目を開眼させる=悟りを得る=覚醒する」ことを意味する。

これは、結局、創世記において、蛇が「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と人類に言ったことの発展・繰り返しであり、「目が開ける=第三の目が開眼する」、「神のようになる=覚醒して超人的能力を身に着ける」、「決して死なない=不老不死に到達する」、「善悪を知るようになる=悟りを得てすべての物事を聖書の神の秩序とはさかさまに被造物を中心に見るようになる」と理解できる。

大仏像などが、常に座禅のポーズを取っているのは、「覚醒」が起きるための修行中であることを表す。そうして彼らが得ようとしている「悟り」は、頭の中だけで得られる知識ではなく、人体を変容させるための「行(修行)」を含んでいる。つまり、「悟り(般若)」とは、単なる思想ではなく、人類が「神のように」変容するための方法論なのである。


7.座禅(ヨガ)は蛇(クンダリニー)による「覚醒」によって人類を超人化する偽りの「道」
 


鎌倉大仏殿高徳院 PHOTEK

 
日本人は、至る所で、座禅を組んで修行をしている仏像などを見ているものの、あまりにも何気なくそれを通り過ぎているため、自分たちが一体どのようなシンボルに取り囲まれているのか、それにどれほど危険な思想が込められているのかを理解することはほとんどない。

人類が自らの内にある悪魔的能力を開発することによって自ら神に到達するという「アセンション」の概念は、比較的最近になって生まれたわけではなく、実質的に、古代からずっと絶え間なく存在していた。そこで、今回、改めて、神秘主義思想家らの言う「悟り」が、蛇の教えによる「覚醒」と不可分の関係にある大変に危険な思想であることを、鎌倉の大仏の座禅のポーズなどが根本的に何を意味するのかを通して考えて行きたい。

今日、仏教の寺などで一般向けに行われている座禅は、精神統一の方法であるなどと教えられており、そこでは、「悟りを得て神のようになる」という神秘主義思想の本来の中核となる超人思想の要素はかなり薄れているか、あるいは抜け落ちている。

だが、禅は、もともとサンスクリットの dhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、もしくはその音写としての禅那(ぜんな)から来る名称で、日本の禅宗も、中国禅から来たものであり、その始祖はインド人で中国で禅を広めた菩提達磨(ボーディダルマ)であるとされる。また、座禅とヨガの根源は同じであり、インドの古典哲学「ヨーガ・スートラ」に由来する。

 


(月岡芳年画『月百姿 破窓月』Wikipediaから)
 だるま人形のモデルともなった菩提達磨。手足がない人形に模されるのは、達磨が偽りの知恵に基づき、修行によって「覚醒」した(=「悟り」を得た)結果、自らの思念によって肉体を制圧し、肉体の限界を超えて、手足を使わなくても、まるで霊だけであるかのように自在に動き回り、「神のように」超能力を行使する術を身に着けたことを意味する。

 
このように、座禅とヨガは基本的に同じ概念でり、同じ目的を目指していると言える。そのことを理解した上で、前回、取り上げた、Eden Mediaの「ニューエイジ思想の呪縛 / ヨーガ 」の中で触れられていたヨガの危険性を改めて振り返りたい。

この動画では、ハタ・ヨーガにのめり込んでいたとする解説者が、ヨガの危険性について語る。むろん、Eden Mediaは、すでに述べたように、ニューエイジ思想を非難しているように見せかけながら、実質的には、人々をニューエイジの只中に誘導するという悪しき循環のシナリオになっているため、視聴者はこれがキリスト教の信仰に立つメディアではないということにはよくよく注意して、これを鵜呑みにしないようにしなければならない。ただし、ヨガの起源が悪魔的思想にあるという指摘そのものは事実であるため、一体、座禅やヨガの意味するところが何なのかを理解するために、その危険性が指摘されている部分だけを取り出して見てみたい。

 

ハタ・ヨーガは”月と太陽””光と闇””男と女”
主要目的は内部の対極をバランスさせることです。

しかし、この概念は間違いであり、
別の機会に取り上げる予定です。
ここでは詳しい内容は述べませんが―
根源はオカルトであり、悪魔的です。

(注:対極にあるものを融合するとはグノーシス主義の概念であるから
オカルト的であり、悪魔的であるという指摘は正しい。)

では”ヨーガ”の意味は?
グーグルで”yoga”の意味を調べてみます。
すると現れる定義は、
「ヒンドゥー教の霊的な禁欲苦行」
「主な手法は呼吸法、簡単な瞑想、そして様々なポーズである」

まず気付くのが「ヒンドゥー教の霊的作法」
肝心なのが、そのルーツが間違った宗教にある事です。
私はヒンドゥー教徒の聖典「ハガヴァッド・ギーター」の勉強を行いました。

そして認識すべき事は一つ一つのヨーガのポーズは
ヒンドゥー教の神に対する礼拝になると言う事です。





ヨーガを始める多くの人は、この事実について全く知りません。
ナイーヴな状態です。
しかし、霊的な根源は間違った宗教にあり、
関わるべきではありません。

私が深くのめり込んだのが”クンダリーニ・ヨーガ”でした。
クンダリーニ・ヨーガは
ヨーガの種類の中でも、最も悪魔的です。
主要思想は、背骨の最下部に
休眠中の蛇がいると言うものです。



そこで体験するのが”クンダリーニ覚醒”です。
クンダリーニ覚醒では、螺旋の蛇が背骨を上昇します。
チャクラを経由し、松果体に到達します。
そこはクラウン・チャクラであり、”神意識”が芽生えるのです。

蛇が上昇し、頂点に到達すると―
”悟りの目”と言われるサードアイに達します。



そこであなたが神であると説得します。
ヨーガの最終段階は、神に到達する事だからです。
自分が神であると認識し、すべてが神となるのです。


この解説から、結局、ヨガが目指しているのは、「アセンション」つまり、「人が神のようになる」ことなのだと分かる。そのためには「サードアイ(隠れた第三の目)」の開眼が必要であり、蛇の助けを借りねばならないというのである。
 
聖書の創世記では、蛇の姿をした悪魔が、外側から人類に忍び寄って偽りの知恵を語りかけて欺いたように思われるが、「クンダリーニ覚醒」では、その蛇が人体の中に侵入し、人を内側から「覚醒」させるというのであるから、これは恐ろしい修行である。

だが、聖書において、人類が神に食べることを禁止されていたにも関わらず、取って食べた「善悪知識の木の実」は、実質的に「蛇の卵」だったとのかも知れないという推測も生じる。人類が神に背いて堕落してしまった時に、人類は悪魔の支配下に落ち、その際、霊的な文脈において、悪魔的な種子がすべての人類に植えつけられたのだと考えることもできよう。

 

(*ちなみに、Eden Mediaの動画には、以上のような不気味な映像や、ぞっとさせるような表現が満ちている。ある意味ではそれらの指摘は当たっているのだが、それでも、明らかに、この動画が単なる警告という目的を超えて、あらゆる箇所で不気味さを強調し、このような異常な悪魔的シンボルを人々に見せつけるために作られていることをも感じさせる。)

さて、ヨガという言葉には、「従わせる」という意味が込められているが、これが何を意味するのかを考えてみたい。この語は、もともとは牛馬などの家畜にくびきをつけてつなぐ、という意味を持つ。「十牛図」でも、グノーシス主義的な意味での「神的自己(真の自己)」を牛にたとえ、人類が「真の自己」を発見し、これを制する(一体化する)ことによって、世界(永遠)との合一を目指すという過程が描かれる。
 


十牛図

 
ここで「牛」がモチーフとして使われているのは、ヒンドゥー教では、牛が聖なる動物として崇拝の対象となっていることにちなんでいるだけでなく、牛は、「神的自己」でありながら、同時に、人体にもなぞらえられていると考えられる。

すなわち、ヨガにおいては、人間が自らの思念によって、自分の肉体にくつわをかけて、自在に引き回すがごとくに、己のすべての肉体感覚をないがごとくに滅却する能力を身に着け、肉体の限界を超えて、肉体を離脱して、あたかも霊だけになったかのように、自在に超自然的な働きをなす前提を整える。

「十牛図」の真の意味もそこにあり、一般向けの理解や解釈がどうあれ、この神秘主義思想の本来的な意味においては、ヨガのような修行によって、人間が体を完全に制圧する術を学ぶことによってしか、彼らの考える(偽りの)完全な「悟り」を得て、人が「神意識」に目覚め、「永遠」と一体化して「神のようになる」ことはできない、という意味が込められているものと考えられる。(まさに以下に引用するペンルイスの指摘の通りである。)
 

 

「十牛図」から。
この図は、人が「真の自己」(牛の姿で表される)を発見し、これと一体化して「悟り」に至る過程を絵図で表したとされる。上記の四~六の図では人が思いのままにならない「牛」を制御する方法を会得し、「真の自己」と一体化する過程が描かれている。各画像の出典は、

ヨーガ (योग) は、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞根√yuj(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、牛馬を御するように心身を制御するということを示唆しており、「くびき」を意味する英語yokeと同根である。『ヨーガ・スートラ』は「ヨーガとは心の作用のニローダである」(第1章2節)と定義している(ニローダは静止、制御の意)

森本達雄によると、それは、実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、自らの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中する(結びつける)ことを通じて「(日常的な)心の作用を止滅する」ことを意味する]。
Wikipedia「ヨーガ」より

 

先に引用したように、ペンルイスは、東洋神秘主義の導師(グル)たちが、思念によって肉体感覚を完全な制圧し、服従(=Yoga)させて、すべての肉体感覚を滅却する術を身に着けているがゆえに、邪悪な超自然的な力を発揮できると記している。

「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

「インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」

ジェシー・ペン-ルイス著「魂の力」対「霊の力」 

 

「クンダリーニ覚醒」とは、このようにして、人が自分の肉体を完全に制圧して、その限界から離脱することで、「神意識」なるものと融合するための前提条件だと考えられる。

さらに、そこで、言われている「チャクラ」なる概念も、非科学的で全く実在が証明されておらず、古代インドの神秘主義に由来する概念に過ぎないが、それが「円盤」や「輪」を意味するものであるということを心に留めておきたい。
 

「チャクラ(梵: चक्र, cakra; 英: chakra)は、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する語である。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。
輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。」

「身体エネルギーの活性化を図る身体重視のヨーガであるハタ・ヨーガでは、身体宇宙論とでもいうべき独自の身体観が発達し、蓮華様円盤状のエネルギー中枢であるチャクラとエネルギー循環路であるナーディー(脈管)の存在が想定された。これは『ハタプラディーピカー』などのハタ・ヨーガ文献やヒンドゥー教のタントラ文献に見られ、仏教の後期密教文献の身体論とも共通性がある。

現代のヨーガの参考図書で述べられる身体観では、主要な3つの脈管と、身体内にある6つのチャクラ、そして頭頂に戴く1つのチャクラがあるとされることが多い。この6輪プラス1輪というチャクラ説は、ジョン・ウッドロフ(英語版)(筆名アーサー・アヴァロン Arthur Avalon)が著作『蛇の力』 (The Serpent Power) で英訳紹介した『六輪解説』 (Ṣaṭcakranirūpaṇa) に基づいている。
Wikipedia「チャクラ」より

 

さらに、「クンダリニー」とは一体、何を意味するのか調べてみよう。すると、Wikipedia「チャクラを参照すると、それは「蛇の姿をした女神」であることが分かる。第一から第六までの「チャクラ」なるものについての詳細は、ここでは細かく引用しないため、上記ソースを参照されたいが、これを見ると、背骨の下にあるとされる「第一のチャクラ」において、「蛇=クンダリニー」が「休眠」しているということになっており、「覚醒」とは、この蛇が活性化し、次第に頭部まで昇りつめ、人間の全身を制御することで、超人的な変化をもたらすことを指す。「悟りの目」なる「サードアイ」が開眼するのは、この蛇が眉間にある「第六のチャクラ」まで到達した時だとされている。

「クンダリニー(蛇)」の正体とは何なのかさらに調べると、それは「人体内に存在する根源的生命エネルギー」であるとされる。
 

クンダリニー(Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、人体内に存在する根源的生命エネルギー。宇宙に遍満する根源的エネルギーであるプラーナの、人体内における名称であり、シャクティとも呼ばれる。クンダリーニ、クンダリニと表記されることもある。

クンダリニー・ヨーガなどにより覚醒させられると神秘体験をもたらし、完全に覚醒すると解脱に至ることができるとされているが、覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じる様々な快・不快の症状をもたらすと主張している。
Wikipedia「クンダリニー」より 

「クンダリニー」とは「プラーナ」とも呼ばれているため、「プラーナ」が意味するところも調べてみると、以下の通りである。
 

プラーナ(梵: प्राण、prāṇa) は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。Wikipedia「プラーナ」より

 

これでほとんどの謎が解けたのではないかと思う。武術や座禅や瞑想や呼吸法などの修行によって引き出される「気」というものは、まさに「クンダリニー」すなわち蛇に由来する悪魔的な力だったのである。古代インド哲学や、それを継承する東洋神秘主義思想は、蛇に由来する堕落したパワーをすべての生命の「根源的エネルギー」であるかのようにみなしているということである。

ここで蛇(クンダリニー)が女神とされているのは、おそらくは、サタンも神の被造物(霊的女性)であることから来ているものと思われる。グノーシス主義では、ソフィアの過失なども含め、女性人格の側から男性人格への簒奪が行われるが、それは結局、被造物から神への反乱という意味合いを持つ。

クンダリニーは離れ離れになったシヴァ神(ヒンドゥー教の最高神)と再結合を果たすために、人体に侵入しており、この堕落したエネルギーの活性化により、休眠状態を解いて頭頂部にまで上り詰めるというが、それが果たされれば、堕落した肉的エネルギーが人間の精神を制圧し、人体を完全に操ることになる。

このことは、人間の全身がグノーシス主義的思想によって占められることを意味し、結果として、霊的に「頭のない体」が出来上がる。なぜなら、人間の内側で、精神が肉体をコントロールするのではなく、肉体に由来する本能的で悪魔的なエネルギー(「気」、もしくは「思念」)が、人間の肉体ばかりか精神までも完全に制圧し、知性・理性を駆逐してしまうことは、人が理性を失った状態になることと同じだからである。

これが、グノーシス主義が目指している「嬰児的回帰」の具体内容である。老子が説いている「道への復帰」としての「精→気→神→虚の逆行」の過程も上記と同じことを指しており、人間が知性を退け、彼らが「万物を生み出す根源的なエネルギー」であるとみなす「精、気」に自ら立ち戻ること(嬰児的回帰)を通して、人類が自ら創造された過程を自力で逆行して、すべての創造の根源であり永遠の生命とされる「道」まで昇り詰め、「天地造化の秘密を奪う」ことを終局的な目的としているのである。(人体におけるクンダリニー上昇の過程は、人類の天までの上昇の過程と重なるであろう。)
 

クンダリニーは、神話を研究したソヴァツキーによれば、受精後の肉体の形成にはじまり、人間を終生にわたり成熟・進化させる究極の力であるという。また、フランスのエミール・デュルケームはあらゆる種類の神々の原料のことを集合意識と述べているが、クンダリニーはそれに該当する可能性があると主張する。
Wikipedia「クンダリニー」より

   

『老子』第十六章は「帰根復命」によって、道への復帰をいう。内丹術はこれらに基づいて、「道生一、一生二、二生三、三生万物」という天地万物の生成の「順行」に対し、修煉によって、「三は二となり一と化し道に帰る」という「逆行」に進むことができるとする。人間においては、神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだすという「神→気→精」が順行の経路であり、「精→気→神→虚」の逆行が根源への復帰であるとした。これが内丹道の説く天地造化の秘密を奪うことであるこの「逆修返源」の方法は「順成人、逆成仙」の原則となり、性と命が虚霊である「元神」(本性・本来の真性)にたち帰り、迷いを去り道を得る、万物と感応し道と交わる、永遠の生命たる道まで昇り一体となる修道(中国語版)の基礎理論となった。

『老子』は神秘思想を語った章があり日本では哲学と考えられていたが、現在では何らかの修行を伴ったとする研究者が増えている。『荘子』は道と一体になる手段として「坐忘」「心斎」を説いている。それを承け紀元前から紀元2世紀の『淮南子』までの初期道家で、虚に至る高度な瞑想実践が行われたとする説も発表されている。
Wikipedia「内丹術」より 

 

一体、彼らが、こうした修行によって到達できるとしている「神意識」なるものは、何なのだろうか。それを人類の「集合意識」だととらえている説もあるから興味深い。そう考えると、なぜグノーシス主義者が個人の悟りでは満足せず、集団的覚醒を促そうとしているのか、その理由も見えて来るだろう。

さて、このように座禅やヨガにおける「悟り」や「覚醒」は、蛇(悪魔)の偽りの知恵に由来するグノーシス主義的な悪しき概念であり、邪悪なエネルギーによって人間の内なる「神的自己」(本当はそのようなものは人間の内に存在しないので、これは邪悪な生まれながらの自己を肥大化したものである)を「覚醒」させて、人間を「神のように」変容させようとする手段であることを理解したい。

その上で、Eden Mediaが出している直近の動画「【4月】全能の目・松果体のお話。」や「悟り」を見てみると、この媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、むしろ、反キリストの到来に備えて、人類超人化計画(集団的アセンション)の達成に奉仕しようとするものであることが分かる。

Eden Mediaが真の目的としているのは、人類が「クンダリニー(蛇=悪魔)」の力によって「覚醒」し、「サードアイ」を開眼し、超能力を身に着けて、「神のよう」になって、存在し得ない地上の楽園たる「第二のエデン」に自力で回帰することであり、これはキリスト教に偽装しようとしてはいるものの、その本質は完全に偽りの神秘主義思想を「布教」する媒体なのである。

<続く>


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から(終)

・東洋思想の無常観と美の密接な関係 ~命をディスカウントして成立する東洋的な美の概念~
 
さて、かなり駆け足で重要なテーマを見て来た。前回までに記した三島由紀夫に関する一連の分析記事は、これまで書いた記事の中でも、苦労の多い分析であった。

当ブログでは何年も前から、東洋思想が本質的にグノーシス主義と同一であることや、いろは歌や般若心経に流れる無常観がグノーシス主義と同じであることを、記事で指摘しようと試みて来た。それがなかなか形にならなかったのは、グノーシス主義の分析にはかなりの厄介さが伴うせいでもある。

この種の思想は、通常の文章とは異なり、シンボルで出来上がっているため、一つのシンボルの中に幾通りもの解釈が込められ、言葉の後ろにある方程式を読み解かねばならない。その上、詭弁とダブルスピークによって成り立っているこの思想を丹念に解体して聖書と対比しながらその詐術を論理的に証明して行くのはかなり厄介で骨の折れる作業である。
 
そして、そのテーマに関心を払う人も、その作業を遂行できる人も、地上にそう数多くいるとは思えないが、だからこそ、それははかりしれない重要性を帯びた仕事である。この仕事に取り組もうとすると、各方面から激しい妨害が起きて来ること自体、どんなにこのテーマが喫緊の課題であるかをよくよく物語っていると言えよう。

記事は形にまとめることを最優先したため、文章の推敲、修正が必要な箇所は多く、さらなる考察が必要であることは否定しない。だが、そこで触れている一つ一つの事項は、それだけで独立した論文のテーマに値するようなものだ。特に、グノーシス主義における美の概念などについては、それ自体が長大な紙面を割いた考察に値する。だが、今は長大な分析をしている余裕はないため、今回は最後の補足として手短に結論だけを述べたい。

東洋思想は、すべての命がディスカウントされ、死によって脅かされているという危機感の上に成立している。東洋的な美の観念や、「もののあはれ」といった概念も、すべては滅びゆく被造物の無常観によって呼び起こされる情感であり、それは突き詰めて行くと、有限なる被造物の無念(被害者意識)に通じる。

東洋的な「美」の概念は、あらゆる命が死によって脅かされる儚いものであることを前提として生まれる。その意味で、東洋的な美の概念は、死や滅びと密接に結びついており、死と無縁の、死によって脅かされることのない完全な美というものは、この思想の世界観の中には存在しない。仮にそのようなものが出現すると、たちまち、三島の金閣寺のようなことになって、その完全性が憎むべきものとされて排除されるのである。

鈴木大拙は、東洋思想の根底には「母を守る」ことがあると述べたが、そこで言われている「母」とは、脅かされている人類を指す。東洋思想とは、言い換えれば「人類が脅かされている」という被害者意識、また、人類が脅かされねばならないほどか弱い存在であることへの無念を出発点に発生している思想なのである。

だが、この思想では、一体、何によって人類は脅かされているのか? なぜ「母を守る」必要があるのか? 直接的には、「母」を脅かしているのは、死の脅威であるが、さらに突き詰めれば、「聖書の父なる神の脅威によって脅かされている「母=人類」を守らなければならない」というのが、この思想の至上命題ということになろう。

グノーシス主義は、ディスカウントの教えであると言っても良い。ここでのディスカウントとは「本来の価値を値引くこと、尊厳を辱めて貶めること」といった意味である。

グノーシス主義の起源が、聖書の創世記に登場する蛇の教えにあることは幾度も指摘した。創世記で、蛇の形を取った悪魔が、人類に向かって、「神が人類を神よりも劣った存在として創造したことは、神の側から人類に対する不当なディスカウントだった」と嘘を吹き込んだのである。

悪魔のその嘘を信じてしまった瞬間に、人類の価値は値引きされ、その尊厳が傷つけられ、被害者意識が入り込んだ。それまでは神は人類の創造主であり、庇護者であり、まことの主人であったが、悪魔の嘘を信じた瞬間に、神は人類の抑圧者ということになってしまったのである。

ここに、東洋思想の「母を守る」という発想の起源があると言える。その後、人類が悪魔の勧めに従って神の掟を破って堕落したことにより、人類は実際に死という現実的な脅威に脅かされるこようになったのだが、堕落以前から、本当の意味での「ディスカウント」は、人類が悪魔の嘘を真に受けて、神を抑圧者であると考えるようになった瞬間に始まっていた。

悪魔は人類に向かって、人類は創造の初めから、神のもうけた不当な制約のために、いたずらに貶められた存在であり、それに気づいて神のもうけた不当な制約の抑圧の下から抜け出すことなしに自由になれないという偽りの知恵を吹き込んだのである。

いわば、グノーシス主義は、人類が神の形に似せて、神より劣ったものとして創造されたこと自体が、人類にとっての不幸の源であり、人類の誕生そのものが悲劇だと言っているに等しい。実際には、神は人間を創造して、これを見て「甚だ良い」と言われたのであって、その誕生は祝福であったのに、これを抑圧された悲劇に変えてしまったのである。

そのような思想的大転換が起きた後で、人類の思いの中で生じたディスカウントは現実となり、人類は堕落により神から遠く切り離され、創造当初の輝きを完全に失って、神に遠く及ばない存在になり、神のようになるどころか、人間性さえも喪失した。だが、実際に堕落が起きる前に、人類がすでに思いの中で悪魔のディスカウントを受け入れてしまったことに注意しなければならない。

こうして、グノーシス主義においては、まず人類の創造自体が神によるディスカウントであったと事実を塗り替えるところから始まり、その後、すべてのものが「死や滅びによって脅かされている」という危機感や被害者意識を終わりなく生み出していく。

無常観とは、「ディスカウントされている」という被害者意識、無念を基礎として生まれるのであり、そこでは、美意識も含め、すべての価値が、傷つけられ、不完全で、死の響きを帯びている。だが、「すべては有限であり、本質的には無であるが、滅びゆくものだからこそ美しい(=愛(かな)しい)」といった哀惜の情が生まれ、それが美的概念として受け止められるのである。

東洋的世界観では、儚く脆い実体のないものの有限性に対する同情や被害者意識が、美意識や愛情を生んで行く。死に脅かされている被造物同士だからこそ、同情や共感を持ち合い、互いに寄り添いましょうという被害者意識による連帯が、あたかも愛であるかのように錯覚されるのである。

だが、実際には、そこには、真の同情も愛情も存在しない。人間同士が愛情によって結びついたり、同情によって連帯していると見えるのは、ある種の錯覚に近く、この世の滅びゆく存在である限り、人間は自らの欠乏を満たすために他者を利用することをやめられないため、自分の必要を離れて純粋に他者と関わることができないのである。人は最も純粋な愛情が自分にあると思っている時でさえ、その関わりの中には必ず、他者の存在によって自己を満たそう(自分を喜ばそう)とする欲望が含まれている。

人は他者を見ることによって、また、手で触れたり、声を聞いたり、会話したりすることで感覚的な満足を得て、自分が満たされたいと願い、そうした欠乏と関係なく、自分の欲望を一切交えずに、他者と関わりを持つことができない。さらにもっと低い次元では、人は食べたり飲んだりして、外界から物質的な栄養を絶えず摂取しなければ、自分の命を保てない。

このように、人は己が欲望によって外界と関わり、外界から必要を満たされることによらなければ、決して自己存在を保つことができず、満たされても、満たされても、再び飢え渇くだけで、決して飽くことがない存在であるがゆえに、物質的世界の奴隷であり、自己の欲望の奴隷なのである。

本当は、人はキリストと共なる十字架の死と復活を経て、アダムの命に対して死ぬことによって、このようなしがらみに対して死ぬ道が備わっているのだが、神が不在で、被造物だけしか存在しないグノーシス主義には、十字架も、救いもなく、どこまで行っても、その思想の中で、滅びゆく被造物に、物質世界の有限性から脱する道はない。それゆえ、そのような世界観では、人間は自己存在に対して尽きせぬ悲哀を感じないわけに行かないのである。

さらに、グノーシス主義はその悲哀も、間違った方法で克服しようと試みて、さらなる悲劇に陥る。すなわち、人は神より劣った存在として創造されたという「コンプレックス」を自力で解消しようと、アダムの命のままで、自力で自己を高めて「神のように」なろうとし、神に反逆して自分を滅ぼすのである。

本当は、そうなる前に、人が神よりも劣った存在として造られたことが人間の悲劇だという考え方を捨てるべきであり、神の創造を不当なものとみなして、自分の「かたち」を憎み、自分が置かれているすべての状況を神のせいだと考えて創造主と他者だけを責め続ける不毛な堂々巡りから抜け出なければならない。神が人類をディスカウントしているのではなく、人類が自分自身をディスカウントしていることにこそ、真の問題があるのだ。

だが、グノーシス主義者は、どうしても自分を「可哀想」だと考えることをやめられない。彼らは人類を「哀れむべき存在」とみなすことが、人類へのディスカウントであることにさえ気づかず、同情や自己憐憫を美しいものだと考えており、そのことがこの人々が絶えず自己存在をディスカウントされ続ける最大の原因となっているのである。

神の創造そのものに意義を唱えている彼らは、弱い自己を哀れみ、あらゆるものをその被害者意識に染め上げながら観察し、被害者意識と無関係のものを見つければ、早速、それを傷つけることで自分と同じように不完全なものにしようとし、さらに何とかして自分を「神のように」見せかけることで、己の無念を自力で解消しようとする。彼らがしようとしているのは、自分が創造された形そのものに対して意義を唱えること、それを何とかして自分の力で変えることによって神に達することである。

あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。 」(イザヤ29:16)

グノーシス主義化された疑似キリスト教であるペンテコステ・カリスマ運動にも、同様のことが当てはまる。一方では、この運動は、偽物の「聖霊のバプテスマ」を造り出し、その霊を受けることによって、人が霊的に高められ、神のような偉大な存在となれるかのように教える。ところが、もう一方では、この運動の中から、カルト被害者救済活動のような、嫉妬と怨念に基づく破壊的な運動が生まれて来る。

実は、そのどちらもが根底には被害者意識を抱えているのである。カルト被害者救済運動は、表向きはカルト化教会の牧師に立ち向かうとしているが、その本当の敵は、聖書の神であり、正常なクリスチャンであり、神を毀損し、クリスチャンをディスカウントすることに真の目的がある。教会生活の中で心傷つけられて、正常な信仰を見失い、被害者意識を抱える元信者たちが、神に従って生きている正常なクリスチャンを妬み、これを中傷して傷つけることで、自分たちと同じレベルへ引きずり降ろそうとしているのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動と、そこから生まれて来たカルト被害者救済活動は、見かけは全く異なるように見えても、本質的には同一の運動である。そして、以下に記す通り、そこにはバベルの塔の精神が脈々と流れている。それは自己を神のように高めようとするナルシシズムと、嫉妬と怨念に狂って神とクリスチャンから聖なる性質を奪い取ろうとする二つの側面から成る本質的に同一の運動であり、その運動の根底にあるものはどちらも神に対する嫉妬と怨念と被害者意識に基づく神の簒奪なのである。

こうした運動に関わる人々の心の根底に流れるものは、東洋的無常観と同じく「人間が可哀想だ」という自己憐憫と被害者意識の叫びである。なぜ人間が可哀想なのか? その理由を突き詰めれば、結局、神がそもそも人間を自分よりも劣った有限なる存在として創造されたことが間違っていたという結論になる。いずれにしても、聖書の神が悪いのであって自分たちは悪くないという話になる。彼らは自分たちの罪や弱さをそのままで、何らそれを悔い改めることも反省することもないままに、彼らの存在を哀れみ、被害者意識を慰め、優しく包んでくれそうな東洋的な「慈悲」や「慈愛」や「同情」や「もののあはれ」などの感情に、見境もなく飛びつく。そして、真綿の中でがんじがらめにされて身動き取れなくなるように、同情に見せかけた歪んだ支配の中でますます弱くされて自己を失って行くのである。
 
だが、実際には、そうした偽りの「同情」や「慈悲」といった感情の根底にこそ、人間存在を残酷にディスカウントし、弱さの中に閉じ込める悪魔的な思いが隠されていることに気づかなければいけない。偽りの美辞麗句を弄して人を弱さに閉じ込め、立ち上がれなくさせてしまうこの思想の世界観の異常さに気づき、これを拒否せねばならないのである。
 
同情という感情は、人が自分以外の誰かの弱さや苦しみに直面して初めて生まれる感情であり、逆に言えば、他者が傷つけられるのを見なければ、生まれることもない感情であるため、そこには言外に、苦しんでいるのが自分ではなく他人で良かったという安堵が含まれている。

聖書の神は、人の弱さに同情することのできない神ではないが、神の同情は、単なる言葉や感情にとどまらず、人の抱えるすべての問題に対して、その痛み苦しみを共に担い、分かち合いながら、なおかつ、現実的な解決策を与えてくれる。キリストは、まずはご自分が人の形を取って地上に来られ、人間のすべての痛み苦しみを味わわれ、弱さを体験され、人類のための刑罰を身に背負われた。その過程を経ていればこそ、キリストは人間の苦しみに心から同情する根拠を持っておられるのであり、しかも、死を打ち破られた復活の命によって、悲しむ人には慰めを、病める人には癒しを、罪には贖いとしての十字架を、死には復活を提供することがおできになる。

何よりも、死からよみがえられたキリストの復活の命は、人間を自分自身とこの世の欠乏の奴隷状態から解放する力を持っている。神の同情はただの言葉や感情だけの内実のない同情ではないのである。

だが、それに引き換え、人間が人間に与える同情は、何も生み出さず、何の救済も与えないばかりか、人間を悪質にディスカウントする。人はただ他者の苦しみを前に、自分も同じように脅かされている人間として、他者の苦しみに自分の苦しみを重ねながら、自分の被害者意識のために憐憫の涙を流すことができるだけである。苦しむ他者にどんなに寄り添い、救済を与えたいと願っても、人間が与えられるものは、せいぜい口先だけの言葉や、束の間の寄り添いや、すぐに尽きる物質的支援くらいで、それは一瞬の慰めの後で、さらに相手を卑しめ、ディスカウントし、依存関係を生み出すことはあっても、解放には結びつかない。

同情する者とされる者とは、共に抱き合い、涙を流すことによって、一時的に一つになったかのような共感を抱くかも知れないが、そこにはれっきとして、同情を施す側と、施される側の立場の差があり、優劣がある。その共感からは何も生まれず、さらに悪いことに、そこでは、同情する者が、同情される者を利用して優位性を誇り、栄光を受けることが常態化し、支配関係が生まれることさえある。

そうなると、同情を受ける人は、弱さを抱えた時点ですでに命をディスカウントされている上に、他者から同情を受けることによって、自己の尊厳をより一層ひどく傷つけられ、ディスカウントされて行くことになる。それにも気づかず、うわべだけの感情がもたらす満足により、自分の立場が何一つ変わっていないのに、あたかも救いの手を差し伸べられたかのように錯覚しながら、まるで麻薬を求めるように、すぐに消えてえしまう仮初の感情的な満たしを求めて、泥沼に足を取られるようにして果てしないディスカウントの中に落ち込んで行くのである。
 
そうした偽りの同情が、偽りの救済論として体系化されると、「救う者」と「救われる者」との間の差別的支配関係が固定化される。「救われる者(弱者)」は「救う者」の満足の手段として、永久に弱さの中に閉じ込められたまま、徹底的に利用されることになる。人間同士が互いの弱さに寄り添い、同情しているつもりが、ますます互いをディスカウントしながら、弱く、卑しく、惨めな境遇に閉じ込め合うことになるのである。カルト被害者救済活動のようなものには、まさに偽りの同情がもたらす悪しき支配関係が最も典型的な形で表れていると言えよう。

このように、被害者意識による負の「絆」で結ばれることによって、人類が互いを守り合うことは決してできない。それは助け合いでもなく、解放でもないため、その絆はかえって人をますます罪や弱さの中に閉じ込めるだけで、何の自由を与えないのである。
 
だが、東洋思想の中には、「死によって脅かされない命」が存在しないため、被害者意識によらない連帯という発想が全く生まれる余地がない。そのようなディスカウントとは無縁の、自由に基づく関係が生まれるためには、まずは人間が罪の奴隷、欠乏の奴隷状態から解放されていなければならないが、そのような人間自体がこの世界観の中には存在しないからである。

聖書においては、この物質世界の外におられる霊なる永遠の存在である神が、人類の救済のために、その独り子を地上に送られたことにより、今や御子を信じる者たちが、神の子供たちとされて、「人となられたイエス」の死と復活に同形化され、有限なる被造物でありながら、同時に、永遠の命を持つことができる。

しかし、東洋思想には、神と人との仲保者なるイエス・キリストが存在しないため、この思想の中には、永遠という概念自体がない。霊的世界と物質世界との接点もなく、完全という概念もなく、この思想は、最初から最後まで、物質世界の外に一歩も出ることがないので、永遠という概念が生じようがないのである。(物質界にあるものはすべて一時的だからである。)

東洋思想における生成と消滅の背後にある無限の循環という概念は、永遠の偽物である。なぜなら、真に永遠を考えるためには、まずはこの世の時空間という概念の外に出なければならないが、この「輪」は、無窮とも言える果てしない時間軸の上に成立する歴史的概念であって、決して物質世界の外にある時間と無関係の概念ではないからである。

そこで、結局のところ、東洋思想には、永遠の偽物があるだけで、永遠が存在しない以上、完全もないのである。無限の循環は、この世の諸現象によって作り出される偽りの概念でしかない。

このように、東洋思想は、一方では永遠に憧れ、被造物の有限性という制約を覆すことを目指しながらも、他方では、滅びゆく物質的世界を一歩たりとも外に出ることができず、死によって脅かされることのない、ディスカウントとは無縁の、完全性に到達する道をどこにも見いだせないのである。

そうなるのは、もともとこの思想が、被造物を神とする「神不在」の思想であって、被造物としての物質世界だけで成り立っているからである。創造主に属する霊の秩序ではなく、被造物に属する物質世界が真のリアリティとされる転倒した唯物論的思想なので、このような思想の中では、「わたしはある」という確固たるリアリティである聖書の神や、神の完全という概念が受容されない。そればかりか、このような世界観には何一つ絶対的な価値が存在せず、欠けるところのない完全性、ディスカウントされない命というものが存在し得ないのである。

グノーシス主義には「永遠の女性美」といった概念が存在しているように見えるかも知れないが、それさえも究極的には「脅かされている母」であり、永遠ではなく、死や滅びと無縁の存在でもない。

このように、すべてが死を帯びて、不完全であり、有限なる滅びゆく世界に、いざ永遠に絶対的な価値が出現すると、どうなるだろうか、大変な問題が持ち上がる――なぜなら、両者は完全に異質だからである。

三島作品における金閣寺への放火には、神殿破壊、すなわち、エクレシア殺しという隠れた意味が込められていることを説明した。むろん、三島はそのような隠れたプロットを想定していなかったであろうが、真の意味での「永遠の女性美」とは、神の復活の命によって生かされるエクレシアにしか存在せず、それゆえ、宮を破壊するという行為は、ただ単に人が神の神殿である自分自身を破壊することばかりか、それに加えて、永遠に揺るがされることのない完成した女性美であるキリストの花嫁たる教会を破壊するという隠れた意味合いを持つ。それは人が自分の完全な救いであるキリストを退け、自分自身が神の花嫁となる可能性を根こそぎ否定することを意味する。

ここに、二つの全く異なる存在がある。一方には、東洋思想の死によって脅かされる脆く弱い「母」(エバ、人類)があり、もう一方に、キリストの復活の命によって生かされる神の教会たるエクレシア(キリストの花嫁、新しい人)がある。

三島作品における金閣寺への放火は、東洋的世界観の中には、永遠に揺るがされることのない美、もしくは、キリストにあって完全とされた新しい人という概念が決して存在し得ないこと、つまり、被造物の贖いや、完成というものが決してないことをよく表している。この思想の中では、死を帯びていない何物にも脅かされることのない傷のない完全なものは、決して存在してはならないのである。

『金閣寺』の主人公は、コンプレックスや惨めさや無念を心に抱え、まさに滅びゆく被造物としての不完全性の象徴のようである。そして彼は、東洋思想の原則にのっとって、完成された女性美を、この世界や自分とは全く無縁・異質なものとして憎み、これをディスカウントし、毀損して、自分のレベルまで引きずりおろすことにより、抹殺しようと試みる。

その行為には、すでに述べたように、無意識のうちにも、エクレシアに対する悪魔の憎しみ、死を打ち破ったキリストの復活の命に対する悪魔の憎しみが込められている。このプロットから読み取れるのは、いかに悪魔が、被造物の贖いが完成して、被造物が完全な美を取り戻すことを心から憎んでいるかということである。

悪魔は被造物を永遠にディスカウントしておきたいのである。間違っても、被造物が被害者意識を帯びた「もののあはれ」や無常観とは関係のない、傷つけられたり、脅かされることのない完全な美を取り戻すことを望まないのである。

キリストの復活の命は、死を打ち破る力を持っているが、悪魔は人を攻撃し、ディスカウントしては、信仰を弱め、人が傷ついて、弱く、脆い存在になるよう引きずりおろそうとする。その悪影響は、しばしば、贖われたキリスト者にさえ到達する。

使徒パウロはコリント人への手紙で言う、「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(Ⅰコリント11:30)これはキリストの復活の命によって生かされる信者であっても、不信仰ゆえに、滅びゆく世界の不完全性に逆戻りさせられ、弱さのゆえに死んだ者が数多くいることを示す。

弱さ、傷、病、死などは、決して聖書によれば、美化されるべき概念ではなく、キリストの命の本質とは無縁である。有限なる被造物の、死によって脅かされる脆く儚い、過ぎ行く有様に「もののあわれ」を見いだすような情緒は、聖書とは一切無縁である。それは悪魔のディスカウントした世界を抵抗もせずに受容し、すべてが不完全で弱く傷ついている転倒した有様に喜びを見いだすことであるから、まさに倒錯した嗜好と言って良い。

悪魔は完全なもの、傷のないもの、死によって脅かされないものを憎み、人間を偽りの「慈愛」や「慈悲」や「同情」などの美的概念で騙しつつ、何とかしてキリストの復活の命に達しないよう、滅びゆくアダムの有限な命の世界から逃がすまいとしている。

東洋思想の世界観は、悪魔が人類を騙し、ディスカウントしておくための格好のツールであり、相手が信者であっても、悪魔は信者が被害者意識に陥れて自らの弱さを甘んじて受け入れ、抵抗をやめるか、アダムの命を改良して、自ら神に至ろうとのむなしい努力をするかのどちらかに誘導しようとする。間違っても、アダムの命に対する霊的な十字架の死が適用されて、復活の命が現れることがないよう、細心の注意を払い、もしそれが現れたなら、早速、あらゆる攻撃を加え、ディスカウントし、引きずりおろそうと準備しているのである。


・「和の精神」とはバベルの塔建設における人類の一致の悲願を指す

さて、前回の記事では言及できなかったが、「和の精神」についても補足しておきたい。「和の精神」とは、バベルの塔における人類の一致という、罪人たちの悲願を表す。そう考えれば、実に多くの事柄に納得がいく。

グノーシス主義の偽りの霊性は、常に目に見える人間集団を建て上げることによって、人類の圧倒的な威信を全世界に見せつけ、自己を誇り、人類の一致という悲願を達成しようとする。
今一度、バベルの塔建設のくだりを聖書から引用しよう。

「 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1-9)

以上のバベルの塔建設における人類の連帯の中には、「和の精神」が見られたのではないだろうか。何しろ、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。」と言われたくらいなので、そこにはどんなことによっても妨げられないほどに統制された瞠目すべき人類の一致、協力、連帯が見られたのではないかと思う。

さて、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」という言葉は、まさに以下のような精神を彷彿とさせる。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



「万世一系の天皇皇后」というフィクションの神話に基づき、全世界を一つの家とみなして「一大家族国家」を形成し、これを歴史を貫いて輝かせ、永遠に到達しようという思想は、事実上、「町と塔(国家)を建てて、その頂を天に届かせよう」という発想と同じである。

そこでは確かに「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」という、永遠にまで到達しようという果てしない欲望が述べられている。このような思想に基づき、八紘一宇というスローガンのもと、全世界の国民が、一つ屋根の下に集まるように、同じシンボルのもとに集結すべきとしたのであるから、まさにバベルの塔の精神に他ならないではないか。

ここでは繰り返さないが、『国体の本義』が西欧文明の個人主義に対して激しい批判を展開し、西欧文明の長所と東洋思想との合体の末に新日本文化の創設なるものを唱えていたことを思い出したい。なぜ彼らがこのような塔=国家の建設にこだわったかという動機の根底には、「母が脅かされている」(西洋キリスト教文明の個人主義によって東洋文化が脅かされている)、すなわち、言い換えれば「聖書の父なる神によって人類が脅かされている」という被害者意識が存在したことが読み取れるのである。

そう考えると、「和の精神」とは、人類が聖書の神に対する被害者意識から、己が欲望によって自己を高ぶらせて、自力で神の領域にまで達しようとする悪魔的な一致・協力を指すことになる。一つ前の記事で、個人の意思決定権を認めず、集団だけにそれがあるかのようにみなす「和の精神」とは、まるで「かしら」を失った「首のない体」、つまり、精神に統御されない体と同じだと述べたが、首がない体だからこそ、自力で天に到達し、何とかして自分の力でかしらである神につながろうとしているのだと言えるかも知れない。

国家神道が「日輪(太陽=天照大神=天皇)」を神としていたということの中にも、首のない体(人類)が自力で天に到達しようとしていた願望を見ることができるのではないだろうか。そして、このような悪しき塔建設の試みは、必ず、個人単位ではなく、集団で行われるのである。

このような人類の神に対する反逆の試みに対する裁きがとりわけ厳しいものであることは言うまでもない。バベルの塔建設作業には、神の鉄槌が下されて分裂と混乱で終わり、塔も未完に終わったが、今日、そのような悪しき思想を信じる者には、個人単位でも、滅びが降りかかる。

前回、三島がいかに人類の果てしない欲望に対する神の霊的な刑罰を象徴するような最期を遂げたかを見て来たが、それと共に思い出されるのは、使徒行伝でペテロが語ったイスカリオテのユダの最期である。

「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。

詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ。
 そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」(使徒1:17-20)

ユダも自殺して体が真っ二つに裂けてはらわたがみな飛び出したというから凄まじい最期である。ちなみに、マタイの福音書では、ユダはイエスを銀貨三十枚で売ったことを後悔して、祭司長や長老に金を返そうとして断られ、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、その後に首をつって死んだとある。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。」(マタイ27:3-8)

この記述が使徒行伝の記述と食い違うと主張する者もあるが、高所で首をつった後、体が地面に転落して裂けたなどのことも考えられるため、表面的な描写だけを取って、死に様が食い違うと考えるのは早いものと思う。

いずれにしても、首を吊った上に腹が裂けたというのだから、あまりにも凄絶な見せしめ的な最期であり、それは三島と同様に、キリストの十字架に敵対する者の最期を思わせるものである。キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

ユダの体が真っ二つに裂けたことは、ユダが神と悪魔の両方に心を売ろうとして、最後までどっちつかずの生き方をしたことに対する厳しい報いと受け止められないこともない。そこには、バベルの塔同様に、分裂という要素も見られるし、自力で自分を高めて神以上の存在になろうとする人類が、最後には自分の正常な形までとことん失う様子を見て取れる。また、ユダがイエスを売った血の代価で買われたのが「陶器職人の畑」だったことにも、意味がなかったわけではないだろう。なぜなら、旧約聖書において、陶器師は何度も創造主なる神にたとえられているからだ。そして、そのたとえの中では、神が人の身も心も思うがままに、救おうと思う者を救われ、滅ぼそうと思われる者を滅ぼすことがおできになることが示されている。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ローマ9:18)

エレミヤ書第18章にも、神がご自分を陶器師にたとえる記述が登場する。そして、造られた者でありながら、創造主に逆らう民を、神が滅びに引き渡され、その宣告を告げさせるために預言者を民に向かわせるが、その預言者にも、民は耳を傾けず、かえってその宣告を憎み、彼を殺そうとする。これはまさに今日起きていることではないだろうか?
 
「主からエレミヤに臨んだ言葉。 「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。
わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、 粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。

その時、主の言葉がわたしに臨んだ、 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。 ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。
またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。

しかし彼らは言う、『それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します』と。
それゆえ主はこう言われる、異邦の民のうちのある者に尋ねてみよ、このような事を聞いた者があろうか。おとめイスラエルは恐ろしい事をした。レバノンの雪が、どうしてシリオンの岩を離れようか。山の水、冷たい川の流れが、どうしてかわいてしまおうか。
それなのにわが民はわたしを忘れて、偽りの神々に香をたいている。彼らはその道、古い道につまずき、また小道に入り、大路からはなれた。 自分の地を荒れすたれさせて、いつまでも人に舌打ちされるものとした。そこを通る人はみな身震いして、首を振る。わたしは東風のように、彼らをその敵の前に散らす。その滅びの日には、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない」。

彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。」

バベルの塔の精神は、まさに人類が被害者意識によって連帯して、創造主なる神に逆らい、立ち向かいながら、神が自分の主人であることを否定して、神に代わって自分が自分の人生の主人となり、欲望に従って思うがままに生きられるかのような、人類の集団的な思い上がりを示している。彼らがれんがとアスファルトで塔を建てたというのも、神の霊に属する性質ではなく、肉の性質を使って、神に到達しようとしたことを表している。

「和の精神」もその本質はこれと同じで、それは創造主に逆らって己を神とする人類の集団的な思い上がりと反逆、肉の思いによる高ぶりを示している。彼らは飽くことのない繁栄を望むが、首を失った体に対する裁きは厳しいものであり、分裂と、滅亡と、荒廃とが待ち受けている。

キリスト者の道は、このようなものとは全く異なる。筆者は、三島やユダの最期を思うにつけても、やはり、グノーシス主義者の滅びには、一切、キリスト者は手を貸さない方が良いと考えざるを得ない。

筆者は、周りで起きている激しい妨害を知らないわけではなく、それに当然の権利を持って立ち向かい、言葉を返し力を行使しようと思えば容易なことであるのも知っているが、グノーシス主義者には、まずは彼らの心のうちを隅々まで吐露させ、その悪しき思いが誰も否定できないほどにはっきり形を取って現れるまで、好きにさせておけば良いのではないかと考えている。なぜなら、彼らには、必ず、彼らの悪しき思想が形となって結実し、滅びとして身の上に降りかかる時が来ると分かっているからだ。
 
人は自分で自分の生き方を選択していると思っているかも知れないが、自覚せずとも、必ず、何らかの思想に導かれて生きている。その人の思想こそが、その人の生き様を形作っているのである。その思想とは、大きく分けて、この世には二種類しかない。聖書の神に従うのか、従わないのか、そのどちらかしか人間に選択はないのである。

文学作品は、現実から乖離したフィクションに過ぎないと言う人がいるが、実はそうではない。たとえ小説であっても、そこには、著者の世界観、思想がよく表れており、むしろ、小説であるからこそ、現実の何倍もの凝縮された形で端的に著者の思想が込められている場合が少なくない。

著者が作品の中でほとんど無意識に行った告白が、やがて著者の身の上に極めて教訓的な形で結実することはよくある。そのことは三島作品を読めば分かることだ。もし三島の書いた作品が単なる「フィクション」でしかなかったのならば、三島には作品中の主人公と同じような最期を遂げる必要は全くなかったであろう。しかし、実際には、作品中で行われたのはみな三島の死のリハーサルだったのである。

そこで、筆者は、グノーシス主義者らの行く末については、放っておいても、彼らの誤った思想それ自体が、彼らを当然の滅びに引き渡すであろうと考える。そこで、あえて二、三歩、退いて、その生き様を傍から観察し、彼らにふさわしい最期がやって来ることを見届けようと思う。

このように言うのは、「ディアボロス」すなわち「中傷する者=悪魔」に味方する人々に降りかかる裁きが、格別に厳しいものとなることが、予め分かっているためである。筆者はその結末に微塵も責任を負うつもりはなく、それは彼ら自身が選んだ結末としてはっきり身の上に現れなければならない。それがあまりにも悲惨な末路となることが明白であればこそ、キリスト者はその結末に手を貸さず、屠られる羊のように黙しつつ、この世の手段を用いず、ただ小羊の血潮と証の言葉のみに立って、すべての虚偽に立ち向かうことに意味があると考える。肝要なのは、血肉の戦いに精魂を費やすことではなく、まずは偽りの思想という要塞そのものを暴き出し、粉砕することである。

さて、話を戻せば、キリストの復活の命に至りつくためには、個人的な信仰がなくてはならず、それは集団的な連帯によって獲得することは決してできない。その個人的な信仰の歩みは、バベルの塔の連帯とは真逆の方向性である。だからこそ、グノーシス主義者らは必死になって、「集団を離れての個人は存在しない」とか「孤立は死だ」とか言いながら、人が個人としての真実な信仰の探求を行うことを何とかして妨げようと努力しているのであろう。

しかし、「和の精神」は、人類の悪魔的な一致の願望であるから、このような偽りのスローガンのもとで、有限なる被造物を神として崇め奉る組織や集団に帰属している限り、人は永久に復活の命にはたどり着けない。そうした組織の中には、牧師という目に見える人間を神の代理人とする集会も含まれている。

できるなら、これまで何度も引き合いに出して来たオースチン-スパークスの論説私たちのいのちなるキリストが現される時……を、もう一度参照されたいが、そこでは、はっきりと、終末に向けて、反キリストに属する「人造のキリスト教」が大規模に発展すること、それはキリストや、キリストの命に見せかけた「キリストご自身の代替物」を用意して、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」によって膨らんで行くことが指摘されている。

今日、ペンテコステ・カリスマ運動のように、また、牧師制度を有するすべての組織に見るように、キリストを礼拝すると言いながら、被造物を拝み、被造物の命を偽りの霊性に見せかけて発展させようとするグノーシス主義と合体した虚偽のキリスト教が、キリスト教界を席巻している。彼らは「事物、人、運動、制度、組織」などを中心に据えて、目に見える指導者のもとに、目に見える集団を建て上げ、「大衆を引きつけ、群衆をとらえる」要素をちりばめた、見せかけの礼拝を行うことに心を砕いている。

そうした人々は、主日礼拝を守るとか、安息日を守るとか、祝祭日を守るとかいった表面的な儀式を守ることを敬虔と勘違いし、うわべを飾ることに腐心している。だが、聖書はこれらの人々についてはっきりと言う、

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ2:16-19)

ここに、「頭であるキリストにしっかり付いていない」すなわち、「首のない体」が登場していることに注意したい。こういう体に属する人々は、いたずらに思い上がり、自分たちの努力で天にまで到達しようと様々な儀式を守り、偽りの従順を演じ、自らの努力をうず高く積み上げ、そうしていればいつか「頭」が得られるかのように思い込んでいる。

だが、どんなに努力を重ねても、彼らはずっと「首のない体」のままである。どんなに偉大な宗教指導者を組織の頂点に据えても、被造物はすべて体に過ぎないので、頭にはなれない。首のないその体に、どんなに「和」が働いても、そこにあるのは、神をわきまえる知性を捨てた「肉の思い」すなわち堕落した欲望でしかない。

もしもこの先、信者が少しでも「事物、人、運動、制度、組織」に気を取られ、このような価値観を受け入れるならば、欺かれて終わるだろう。「影」に過ぎず「本体」ではない本質的なものでないものに気を取られれば取られるほど、命の制限が生じるだけである。

被造物を神とするあらゆる制度から離れねばならないが、残念ながら、今やこの時代のキリスト者には、現人神のように人間を崇め奉る牧師制度のような偽りの教職者制度を離れ去るだけでなく、己を神として生きる全ての個々の人間からも離れ去ることが要求されている。

以下の御言葉は当ブログでは幾度も引用して来たが、今や隅から隅まで成就したことに慄然とする思いである。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(二テモテ3:1-5)

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(二テモテ3:13-16)


以前にも書いたが、今やこの世、宗教界を問わず、至る所で終末のバビロン化が大規模に進行し、目に見えない洪水がひたひたと押し寄せて来るように、周囲にいるすべてが水の中に飲み込まれて行く様を、筆者は箱舟の中にいながら、静かに見る思いがする。信者を名乗る人々が創造主なる神と神の民に反逆し、国は虚偽と不正と腐敗と搾取にまみれて機能停止し、すべてのものが支離滅裂な思想に汚染され、その中に飲み込まれつつある。悪いものは極端に悪くなり、およそ秩序という秩序が転倒させられている。

だが、ノアの時代、洪水から救われたのは、たった8人であった。イエスは言われた、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:7-8)
 
我々の脱出の道は常にキリストを通して備えられている。それは決して多くの人が見いだすことのない狭き門ではあるが、確かな救いであり、ディスカウントされることのない、まことの命である。オースチン-スパークスの以上の論説も警告している、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることであると。神の霊の実際の働きは、すべてのものをキリストに帰することであるから、我々はその命だけに頼って生きる方法を学ばねばならないのだと。

キリストだけが我々の内なる人の命となるときに初めて、私たちは、被造物の限界に脅かされることなく、彼の中で強くあることができる。もしも私たちが、この方だけに頼ることをやめ、自分自身や、他の人々や、物事に頼ろうとするなら、たちまち弱くされてしまうであろう。我々は、すべての「影」に過ぎないものを退け、「本体」であるキリストの力だけで、すべての逆境を切り抜ける秘訣を学ぶ必要がある。そして、そのために必要なすべての備えが、この命なる方の中には存在するのである。


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から⑦

・般若心経に現れるグノーシス主義的世界観 ~永遠に循環を続ける「無=空」~

多くの仏教の宗派の中で共通の経典として用いられていることを見ても、般若心経の中に、いかに「無=空」の思想が、最も凝縮された端的な形で込められているかが分かる。

多くの日本人は、自分はどんな宗教も信じていないと考えている人間でさえ、葬儀の際には、儀礼的に般若心経を唱えたりする。そうした読経によって、彼らは自覚なしに「いろは歌」と同じように、グノーシス主義の世界観を呼び起こす呪文(マントラ)を唱えているのである。

般若心経についてはいくつもの現代語訳があるため、それらを参考にしながら以下に私訳してみた。これを読めば、般若心経には「いろは歌」よりももっとはるかに鮮明に世界の本質が「空=無」であるという思想が表れていることが分かる。

むろん、仏教は、宗教と呼ぶより哲学であると言った方が良いため、そこには神もなければ神話もなく、一般的なグノーシス主義の物語に見られるようなプロットは存在しない。従って、「空=無」が擬人化されて登場するようなこともない。しかし、そのような差異を脇においても、当ブログでは、仏教の無常観も、世界の本質を「無」であると定義している点で、グノーシス主義と本質的に同一の思想であるとみなしている。

グノーシス主義における至高神にも、すでに見て来たように、およそ人格らしきものは存在しない。グノーシス主義の至高神は、自らの意志で行動して世界に関与することはなく、それはひたすら物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」である。それは結局、グノーシス主義が、人格を持った神の存在を認めておらず、グノーシス主義における至高神が、仏教の「空」や「無」と同一であることを意味する。

つまり、世界の創造者(と言っても人格を有さない神)が虚無の深淵と同一であって、すべての目に見えるものは根源的に「無」に集約されるというで、仏教もグノーシス主義も根本的に同じ思想だと言えるのである。そのことが以下の訳文の内容からも十分に見えて来よう。
  

かんじざいぼさつ
観自在菩薩               (観音菩薩は)
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時     (深遠な智慧により彼岸に到るための修業をしている時)
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空    (人間存在のすべてが本質的に実体のないものであることを見極め)
どいっさいくやく
度一切苦厄             (物事が思い通りにならない苦しみと災いをすべて彼岸に渡した)
しゃりし
舎利子                 (そしてシャーリプトラに向かって次のように述べた)
しきふいくう
色不異空               (すべて形あるものは、実体のない一時的なものでしかなく)
くうふいしき
空不異色               (実体がないものが一時的に形を取って現れているだけである)
しきそくぜくう
色即是空               (それゆえ形あるものはすなわち実体のない永遠でないものであり)
くうそくぜしき
空即是色               (実体のがなく永遠でないものが一時的に形あるものとして現れているに過ぎない)
じゅそうぎょうしき
受想行識               (人間の心の働きについても、)
やくぶにょぜ
亦復如是               (同じことが当てはまる。)
しゃりし
舎利子                 (シャーリプトラよ、)
ぜしょほうくうそう
是諸法空想             (この世の中のすべての存在や現象は、もともと実体がなく一時的で永遠でないからこそ、)
ふしょうふめつ
不生不滅               (それには本当は生成も消滅もなく、)
ふくふじょう
不垢不浄               (汚れも清さもなく、)
ふぞうふげん
不増不減               (増えることも減ることもないのだ。)
ぜこくうちゅう
是故空中          (すべてのものは常に変化して同じ形をとどめず実体がないからこそ)
むしきむじゅそうぎょうしき
無色無受想行識             (人の体も存在せず、心もまた存在しない。)
むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意         (むろん、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心などの感覚器官もなければ)
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法         (目に見える形や、耳に聞こえる音や、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思いなども存在しない。)
むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界     (物事を目で見て把握したり、心で意識したりしている感覚自体が存在しないのであるから)
むむみょう
無無明                 (当然、悟りに対する無知もければ、)
やくむむみょうじん
亦無無明尽             (悟りに対する無知の克服もない、)
ないしむろうし
乃至無老死             (そこから始まって、老いも死もなく)
やくむろうしじん
亦無老死尽             (老いや死の克服もない。)
むくしゅうめつどう
無苦集滅道             (苦しみやその原因となる迷いを克服して楽になる方法もなければ、)
むちやくむとく
無知亦無得             (真実を知り悟りを得るということもない。)
いむしょとくこ
以無所得故             (従って、悟りを獲得することがないのだから、)
ぼだいさった
菩提薩垂               (悟りを求めている者は、)
えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多         (彼岸に到る本質的な智慧のおかげで)
こしんむけいげ
故心無圭礙             (心を覆う疑いの雲は晴れ)
むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖       (心を覆う疑いがないから恐れもなく、)
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想       (あらゆる転倒して誤った幻想から遠く離れて、)
くきょうねはん
究境涅槃               (平安(涅槃)の境地に達することができる。)
さんぜしょぶつ
三世諸仏               (過去・現在・未来において、目覚めたものたちは)
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故       (彼岸に到る智慧のおかげで、)
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提   (最高の悟りを得ることができる。)
こち
故知                   (知るがよい、)
はんにゃはらみった
般若波羅蜜多           (彼岸に到る智慧は)
ぜだいじんしゅ
是大神呪               (偉大な神(仏)の呪文であり、)
ぜだいみょうしゅ
是大明呪               (悟りを得るための偉大な呪文、)
ぜむじょうしゅ
是無上呪               (この上ない呪文、)
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪             (並ぶもののない呪文である。)
のうじょいっさいく
能除一切苦             (これはあらゆる苦しみを取り除くことができ、)
しんじつふこ
真実不虚               (真実であって虚偽ではない。)
こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪     (ゆえに、彼岸に到る智慧の呪文を唱えよう。)
そくせつしゅわつ
即説呪曰               (次のように呪文を唱えよう。)
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝         (彼岸へ行く者よ、彼岸に行く者よ)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝             (彼岸に行きて到達する者が、)
ぼうじ
菩提                   (悟りを得て)
そわか
僧莎訶                 (幸いがあるように。)
はんにゃしんぎょう
般若心経               (悟りを得る智慧の最も重要な経典。)


 
般若心経においても、グノーシス主義に特徴的な「対極にある概念の統合」が見られる。すなわち、すべての物質界の現象は本質的に「空=無」である(実体がない)ため、悟りもないとしながらも、同時に、すべての物事が実体のない無であるという本質を理解することによって、人は「深淵なる智慧」を得て彼岸に到達し、苦しみから解かれて平安を得られるとしている。

このような説は、一見すると著しい自己矛盾でしかなく、そのような理屈は「対極性の統合」の果てに出現して来るものである。般若心経の言う「彼岸」(涅槃の境地)とは、ウロボロスの輪と同じように、生成と消滅を超越したところにある「永遠=無」を指しているのであり、涅槃の境地に達することは、要するに、人が個人としての生成と消滅にとらわれず、個人の枠組みを超越して、すべてのものを包含する「空=無」と一体化することによってのみ可能だと言っているに等しい。

そこで、結局、般若心経における智慧(=般若)は、グノーシス主義における叡智(=グノーシス)と同じであり、それはサタンがエデンの園で、人類をそそのかして吹き込んだ偽りの知恵と同義であり、そこにあるのは、人類と神とが本質的に同一だという思想である。

「でも、仏教にはそもそも神という概念が存在しません。なのに、なぜあなたは仏教の思想までが、人類と神とが本質的に同一だという神秘主義の思想と同じだと言うのですか」と再び尋ねないでもらいたい。

これまで見て来たように、グノーシス主義の神は、物言わぬ「虚無の深淵」である。そして、この「虚無の深淵」と人間とを同一視することによって、グノーシス主義は、人と神とが本来的に同一であるとみなしているのであり、これと比較すれば、すべてのものが人間存在も含めて根本的には「無」であると教える仏教の思想は、グノーシス主義とほとんど変わらないことになる。

聖書の創世記で、サタンは人類が自ら神の掟を破ることで、「神のようになれる」(=神になれる)と教え、人の側から神の性質を盗み取って神になりすますようそそのかした。しかし、その嘘を受け入れて堕落した瞬間から、人類は神を知る知識を失って、神のいない、被造物(自分)しか存在しない、独りよがりな世界に投げ出されたのである。神を喪失した人類の中では、神の席が空席となり、そこに実体のある神の代わりに、虚無の深淵が横たわった。そのため、人が自力で神に到達するために残された道は、虚無の深淵と自己を同一視して、無の中に飲み込まれることしかなくなったのである。


・個人の概念が幻想として消え「永遠の無という循環」だけがリアリティとして残る思想

虚無の深淵が「神」になり、「永遠の無」がリアリティとなって、個人がその中に埋没して消えると、一体、どういう恐ろしいことが起きるのかを、『方丈記』の有名な冒頭の文章を通してよりはっきり理解したい。
 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。」


  
『方丈記』では、人間が誕生しては死にゆく有様が「ゆく河の流れ」と「淀みに浮かぶうたかた」にたとえられる。個人の生や死は、水面に束の間現れては消える「うたかた」のような無意味でむなしいものに過ぎず、そこに何一つ確かなリアリティはない。確かなのは、うたかたではなく、うたかたを水面に登場させる絶えることのない「河」の方である。

こうして『方丈記』の冒頭では、「河」という概念が、グノーシス主義の「鏡」や「虚無の深淵」と同じものとして登場する。その「河」は、もちろん、「永遠の循環である無」(ウロボロスの輪)と同じである。

現実には、現れては消える「うたかた」の一つ一つには何の同一性もなければ、連続性もなく、それはただバラバラの一過性の現象に過ぎないのだが、一つ一つのうたかたの生成と消滅を「河」という視点から見ることで、あたかもそこに「うたかたが現れては消える」という繰り返しが発生しているような幻想が生まれる。そこから、その繰り返しが発展して、「先祖」から「子孫」へと、何らかの価値が受け継がれているかのような虚構の連続性が生まれ、循環する永遠の無という概念が作り出されるのである。

この虚構の連続性は、具体的には、万世一系の天皇家といった国家的神話や、先祖代々から受け継がれる神聖な家制度というフィクションや、創設以来永遠の発展を目指し続けている企業やその他の団体などの神話が生まれ、人類の連続性を謳う何らかの組織や集団のフィクションとなる。

そして、「うたかた」である個々の人間の生が幻に過ぎないような無意味なものとされる代わりに、この「人類の連続性」というフィクションが、確固たる永遠の真実であるかのようにみなされるのである。

『方丈記』の無常観を見ても、そこでは、人間存在は「神の似像」という呼び名にさえ値しないような、水面に束の間、現れては消えるだけの「あぶく」として、あるかなきかの些末な存在でしかないため、個人が、このように儚く脆いあぶくとしての存在を抜け出て、自己存在を神のような永遠に高めたいと思えば、自ら「あぶく」であることを捨てて、「河」と一体化するしかない、という結論が自然に出て来る。

従って、ここにも、グノーシス主義が常に導き出す究極の答えが見られる。人が有限なる被造物としての限界を脱したければ、人が自ら自己存在を捨てて、自己の隔ての壁を取り除き、人類の連続性という永遠のフィクションの中に身を投げて、虚無の深淵と一体化するしかないのである。そうしない限り、人間はどこまで行っても、あるかなきかの「あぶく」に過ぎないのである。

つまり、グノーシス主義を信じると、三島由紀夫がそうしたように、人は自分であるという区分を自ら取り払い、自分を抹消することで、「無=永遠」と一体化する以外には、解放に至り着く手段がないことになる。

すなわち、こうした思想では、人間が、目に見える世界の万象はおろか、自分自身の存在さえ究極的には「無である」とみなすことによって、虚無の深淵である「鏡=輪=永遠=無」の中に自ら飛び込み、無である世界と一体化して、自らの苦楽そのものも滅却するしか手立てがないのである。

それゆえ、グノーシス主義は、「無=永遠」と人が一体化するための手段として、肉体からの離脱(自死)という方法を提供する。

だが、多くの場合、グノーシス主義的な「無」との一体化による自己からの「解放」は、三島由紀夫のような凄絶な自死という形を取らず、人々が無意識的に集団の中へ埋没し、個の意識を放棄するという形で成し遂げられる。

般若心経のように、すべてのものが本質的に「無=空」であるとみなす思想を信じると、個人という概念が消え失せてしまい、全体(無)だけが残ることは、禅の視点から般若心経を読み解いた次のサイトの記述を読んでもよく理解できる。
 

『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -

 あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
 存在=空=自性がない=無常=変化を繰り返す=常なるものは存在しない
 これらはすべてイコールでつながるものなのだ。
 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

<略>
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

<略>
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


以上の解釈では、まず、人の体の機能について、あたかも、体が人間の意思とは関係のないところで自動的に働いていることが重要であるかのように述べることで、鈴木大拙と同じように、人間の本質は「知」にはなく「行」にあるという発想が述べられていることに注意したい。

つまり、ここでは、意志(精神)が理性によって体全体を統御することが重要なのではなく、体はそれ自体、意志(精神)とは無関係のところで働いているところに重要性があって、その自然な働きに人は身を委ねるべきだと言われているのである。

こうした考えの中に、前回見て来たような「精神と肉体の支配関係の逆転」、「肉体および肉欲の復権」というグノーシス主義の逆転の発想が見られることは言うまでもない。

そうして「精神」を軽視して、肉体の本能的な働きだけを重んじる考えに立って、以上の記述は続ける、人間一人一人の悩み苦しみなど全く本質的な問題ではなく、そのようなものは本質的に「空=無」でしかなく、人間存在は、個別に悩み苦しむバラバラの個人としては全く意味をなさず、人類全体もしくは全宇宙(あるいは社会や国家や家族)という大きなひとまとまりの「体」としてつながって初めて意味が生じるのだと。

裏を返せば、人類は個人単位では全く意味をなさず、個人には「命」も「働き」もなく、むろん、精神もなければ、悩み苦しみもなく、集合体となって初めて人類には「働き」や「命」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念自体が虚妄であると言っているに等しい。

そうして、この種の思想では、「自分」というものが虚妄の概念とする以上、「自分」に生じる苦しみも当然、虚妄ということになり、いっそそのような個人の隔ての壁を完全に取り払って、自分と世界とを融合させて一体化すれば、人は自分自身の限界からも解放され、「自分に固有の苦しみ」もなくなり、精神が生じさせるすべての葛藤から解放されて、楽になれると言うのである。

これも「うたかた」を幻とみなす代わりに、「河」を確かなものとみなすフィクションと全く同一の思想である。この思想は、多くの人々の誕生や死は、実体のない「空=無」でしかなく、個人のレベルでは、生成も消滅もないが、それらが集まって集合体をなすとき、「空=無」でしかないはずのうたかたの生成と消滅に、何らかの連続性や均一性といった虚構の概念が付与され、そこに先祖代々から伝わる家制度だとか国家だとかいった神話が生まれ、集合体としての社会に「和」という幻想に基づくフィクションが生まれ、そうなって初めて、その集団に真の「命」が吹き込まれ、「体」としての機能が始まると言っているわけなのである。

このような考え方は、まさに『国体の本義』における「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』が、西欧文明における個人主義を徹底して非難し、排除しようとしていることはすでに見て来たが、この書は、「和の精神」の名のもとに、個人という概念を退け、一人一人の人間が「個人」であることを自ら放棄して「生み生まれる親子の立体関係」という(本来、連続性のないうたかたの生成と消滅に連続性を持たせようとするのと同種の)神話的フィクションによって統御される国や家族といった集団に帰属することで、初めて人としての真価が発揮されると主張する。

『国体の本義』では、国家や家族という「生み生まれる親子の関係」という虚構の歴史から切り離された個人は、「所詮本源を失った抽象論」として無意味・無価値な存在として一蹴される。その根底にあるのは、結局、人類は集合体となって初めて「命」や「働き」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念はもとより存在しないとする般若心経と同じ無常観である。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


ここまで見て来ると、個人をフィクションとして集団の中に埋没させ、集団をリアリティとするこの種の思想は、日本の敗戦後も決してなくなるどころか、むしろ、現在に至るまで、日本社会に連綿と受け継がれ、強力かつ無意識的に社会に根を張り、社会全体を隠れたところから支配する原動力となっていることが分かるのではないだろうか。

今日、三島由紀夫のように、死によって永遠と一体化しようとする者はそうないであろう。しかし、その数歩手前で、日本国民の大半が、個人としての自分の存在を自ら滅却し、自己を集団の中へ埋没させ、集団と一体化することが、自分の使命であるかのように思い込み、自己放棄という「緩慢な自殺」を遂げている。彼らは「バラバラの個人」というものは存在しない虚妄の概念であるとみなし、集団に帰属して初めて自己の価値が生じると思い込み、「孤立は死である」などと言って、集団から切り離されることを病的なまでに恐れながら、SNSでのやり取りにやみつきになったり、官庁や、会社や、学校などの集団の中で、自己を放棄しようとむなしい努力を重ねている。そのようにして自己を滅却して集団の中に溶け合うことこそ、麗しい「協調性」であり「和」の精神の美徳であるかのように信じ込み、集団から追放されないことだけを是として生きている。同時に、集団の側からも、「麗しい美徳」としての集団との一体化を拒むような個人が出て来ると、徹底的に攻撃し、その存在を無化しようとする。

このように見ると、なぜ日本には民主主義が真に根付かないのか、その理由もおのずと見えて来よう。最近では、安倍政権の腐敗に絡めて、外国人記者から次のような警鐘が鳴らされたことも記憶に新しい。
外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ  森友スキャンダルが映す日本の本当の闇」(東洋経済オンライン 、レジス・アルノー:『フランス・ジャポン・エコー」編集長、仏フィガロ東京特派員2018/03/23 16:35)
外国人特派員が森友「公文書改ざん」に見た日本の深刻な病──この国みんなが“民主主義のお芝居”を演じているだけ?」週プレNews2018年04月05日、仏紙「ル・モンド」東京特派員、フィリップ・メスメール記者へのインタビュー)
 
民主主義とは、そもそも国家などの組織や集団の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行い、構成員が最終決定権(主権)を持つという制度である。それゆえ、民主主義が成立し、正しく機能するための前提として、まずは個人の意思決定権というものがれっきとして存在しなければならない。

ところが、以上のような日本社会に古来から蔓延するグノーシス主義的無常観は、個人という存在さえ認めないため、個人には決して意思決定権を与えず、個人が自己存在を集団に明け渡すことにより、自らの意思決定権までも集団に委ねてしまうことを要求する。

日本社会にあるのは、依然、個人を出発点とせず、全体を離れた個人という概念を「単なる抽象論」として退け、個人が細胞のように集まってできる「全体」としての「体」の「和」だけをリアリティであるかのようにみなす思想である。個人の意思決定よりも全体の「和」の方がはるかに重視されるのである。その意味で、日本の民主主義は、まさに見せかけだけの概念でしかない。


・「和の精神」とは、頭(精神)による統御を失って自己目的化した「体」に同じ

しかし、このように個人を否定して出来上がる集団に働く「和」の正体とは、一体何なのだろうか。

以上の般若心経の解説では、体は理性とは無関係に、無意識的に動き、人間の意志決定とは無関係に自己防衛的に条件反射して生きており、そこに重要性があるとされる。精神の働きなど、厄介なだけで、自然に身を任せて本能的に生きた方が楽になれると言いたげである。それが人間にとってあたかも正常な状態であるかのように述べ、その考えを集団にまで高めようとする。

だが、そんな考えが正しい結論とはならないだろう。これまでの記事で再三、見て来たように、人間の体は、精神によってコントロールされて初めて正常に機能する。あまりにも強い精神的ショックを受けた人が、自動的に心臓が止まって即死してしまうこともあり得るように、心臓の鼓動も、精神の統御に服していないわけではない。人間存在は、意識していようといなかろうと、必ず、意志のもとに統御されている。

精神のコントロールに服さなくなった体は、ちょうど脳死状態になった植物人間の体と同じである。司令塔としての「頭」を失ったも同然であり、もはや人としての正常なあるべき姿とは到底、言えない。

そこで、個人の存在を「あぶく」のようなものとみなして個人の意志決定権も認めず、個人には生成も消滅もないとしながら、個人が寄り集まって出来る組織や集団にだけは、「命」や「働き」が生まれ、「和」が生み出されるとする思想は、まるで脳死状態にある人の体と同じである。

なぜなら、そこでは、個人の存在もその精神の働きも幻想であるとみなされているため、体全体を統御する意思決定権を持つブレーンが事実上存在しないからだ。そのような集団は、脳が死んで、精神が抜け殻となって生き続けている体と同じである。

体は、脳が死んだからと言って、バラバラに分解することはなく、未だ何らかの「和」を保って生きているように見えるかも知れない。だが、精神のコントロールがなくなった体は、ただ自己保存のためだけに、本能に従って生き続けるだけである。精神が生きているうちは、人間の体は、決して体のためだけに生きることはない。体は主人である人間の意志に従い、自己や他者の必要を満たすために行動する手段でしかない。人間は体を使って他者と関わり、他者に影響を与え、他者に奉仕し、他者との関わりの中で生きる。しかし、精神が死ねば、人は植物状態も同然となり、体は自己保存だけを目的に生きるようになる。もはや他者との関わりはなく、自己表現もなく、すべての活動が、ただ体を生き永らえさせるという目的のためだけに続けられる。体は体としての本来の役割を失い、自己目的化して、ただ己の欲求を満たすためだけに生き続けることになる。

個人の意思決定権を認めない組織は、このように脳が死に植物人間となった体と同じであり、そこに働く「和」とは、結局、体に働く肉欲と同じ、人類の本能的な欲望の総体なのである。「和」と言えば聞こえは良いが、それは結局、知性によるコントロールを退けて、精神の統御が効かなくなった集団の本能的欲望の総体なのである。

グノーシス主義が、個人の内側で精神と肉体との関係を覆し、肉欲を無制限に解放することを目指す危険な教えであることはすでに見て来たが、それが集団に適用されると、集団のレベルでも同様のことが起き、集団における意思決定の方法や所在がどんどん曖昧となる代わりに、歯止めのない集団的な欲望の暴走が起きる。
 
日本の政体における「誰も責任を取らない」摩訶不思議なシステムは、まさに以上のような思想を土台に生まれて来るのだと言える。個人が責任を取るためには、まずは個人が組織の中で重要な意思決定権を持ち、自らの決定に対して責任を負うという発想がなければならないが、グノーシス主義的無常観に貫かれる日本の社会には、個人という概念が存在せず、個人の意思決定権もほとんど認められておらず、結果的に個人ではなく集団が最終的な意思決定権を持ち、集団が最終責任者となる。

最も下っ端の部下から上長まで果てしない人数の人間が承認印を押さねばなならない役所の決裁文書などは、それを表す格好の事例で、そのように多数の人間が承認印を押すことで、結果的に誰が意志決定したのか、責任の所在が無限に分散されて、最後にはすべてが「組織全体の決定」ということになってうやむやにされて終わってしまう。責任を追及しようにも、責任者が事実上いないも同然の仕組みが出来上がるのである。

そのような意思決定権の所在が不明かつ不在の組織は、脳のない体と同様、いざその「体」としての組織があらぬ方向へ向かって暴走し始めたときに、これを制御できるブレーキとしての司令塔が全く存在しない。だからこそ、我が国においては、このような無常観に基づき、かつて軍部の独走やら軍国主義化やら無謀な戦争への突入などといった事件が起きて来たのである。

それは我が国という「体」が、個人を個人として認めず、個人の意思決定権を奪い去り、それを集団に明け渡させて、脳の機能を破壊・放棄して、体の自己保存だけを目的に、果てしない欲望に従って生きた結果として起きたことである。

しかしながら、その教訓もむなしく、今日もかつてとほとんど同じ出来事が進行中である。我が国では、政・官・民・財界すべてが協力して、金儲けだけを第一として危険な原発推進に突き進んだ結果、取り返しのつかない事故が起きてもまだ引き返すことができない。総理夫人は権限もないのに国政に口出しし、首相は国会で虚偽答弁を繰り返し、政治家の汚職と腐敗が官庁に及び、官僚も汚職に手を染め、公文書を改ざんし、経済界は労働者を奴隷的に使役・搾取してその富を内部留保するか国家に貢ぐだけとなり、戦争放棄の憲法を食い破る形で、武器は海外へ輸出され、国内では安保法制や秘密保護法が敷かれ、共謀罪が制定され、カジノが解禁され、自衛隊は海外の紛争地域へ派遣され、国会議員が自衛隊員に脅しつけられ、シビリアン・コントロールは脅かされ、あらゆる場所で秩序の転倒が起きている。
 
今日も見えない「和の精神」の名のもとに追求されているのは、集団に働く人類の欲望の無制限な解放であり、それに歯止めをかけるブレーキの役割を担う知性はとことん軽視され、排除されている。我が国では、あらゆる組織や集団から、政権に逆らう個人が追放され、社会的に抹殺されており、そうなった結果、再び国全体で、良心のブレーキが全く効かなくなり、歯止めのない欲望の暴走が起き、国が再び丸ごと「虚無の深淵」に今しも飲み込まれようとしている最中である。

確かに、外国人記者の言う通り、我が国の民主主義はもはや完全に死に体なのであり、これが精神によって統御されることがなくなり、脳の機能を失って体の欲望だけが無制限に解放された「美しい国」の辿る当然の末路なのである。むろん、「美しい国」という概念における「美」が、見せかけだけの内実のない悪魔的な美であることは言うまでもない。

今や我が国では、国会も今や半ば機能停止し、国家レベルで、脳死状態が進行しつつある。それにも関わらず、「体」という集団だけは、己が欲望に突き動かされて未だゾンビのように歩き回り、ただ自分が今を生き永らえるだけでなく、永遠にまで到達しようと、果てしない欲望を募らせている。

三島由紀夫は戦後の日本社会を侮蔑しており、我が国は戦後、天皇という「かしら」を失ったために、正常な目的意識を失い、自己目的化して生きるようになったとみなして憂慮していた。「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品に登場する怨霊たちの叫びも、脳を失った体の漂流に対する危機感から来る叫びであると言えなくもない。

だが、集合体としての人類という「体」に対する真の頭首権は、三島が考えたように天皇にはなく、真の頭首権を有しておられるのは、「ひととなられたイエス」である。

聖書の神は、「わたしはある」と言われる方で、人類のためには一言も発しないグノーシス主義の虚無の深淵とは何の接点もなく正反対の存在である。聖書の神は、虚無の深淵ではなく、まごうかたなきリアリティであり、しかも、人格を持ったお方であるから、人間の弱さに同情できない方ではなく、人類の救済のために、独り子なるイエスを人として地上に送られ、現実的な解決策を自ら打ち出された。神ご自身が、神であるという姿を捨てて、卑しい人間となって地上に来られ、しかも、「肉において罰せられ」、人類の刑罰を身代わりに受けられたのである。
 
グノーシス主義は人間が自ら永遠と一体化するという「下からの解放」を唱えるが、キリスト教は徹底して神の側からの「上からの救済」を唱える。すなわち、イエスが人間となって地上に来られたがゆえに、これを信じる一人一人の信者は、地上にあるままで、罪のゆえに悪魔によって支配される滅びゆくアダムの奴隷状態から抜け出て、自分の人生に対する自己決定権を取り戻して自由にされるのである。

この神を信じるために、人は肉体を破壊して虚無の深淵と一体化する必要はなく、むしろ、キリストの十字架を信じるだけで、神の方から人の内に自ら住んで下さり、人と共に人自身とその周りの世界を治めて下さる。

こうして、滅びゆくだけであった人間は、キリストと共に死んでよみがえらされ、有限なる「あぶく」に過ぎない人間の中から、真のリアリティが生まれる。人の悩みも苦しみも、もはや存在しないと言われることはなく、全体から切り離された個人が虚妄であると言われるどころか、取るに足りない存在であるその土の器の中で、はかりしれない神の命の力が働き、人の内でも転倒していた秩序が回復され、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるようになる。
 
ところが、グノーシス主義は、被造物が神になり代わっているために、「神」の概念が骨抜きとなり、神不在となって、その空席に、虚無の深淵が横たわっている。その虚無の深淵に、人間を救う力はなく、そこに映し出される「神の似像」としての人類の姿は、見れば見るほど、むなしく、惨めで、無きに等しいあぶくのような姿である。

グノーシス主義は、被造物が神になりすましたために、神がもとより不在であればこそ、人の苦しみに対して、何の救済策も提示することができず、そこにいる「神」は、人の苦しみをどこまでも傲然と上から目線で見下ろすだけのもの言わぬ深淵であり、それ自体がフィクションである。

グノーシス主義は、神と人との断絶を認めないがゆえに、どこまで行っても、人間にとって「自分しかいない独りよがりな物語」である。そうであるがゆえに、この思想には永遠の堂々巡りという悪循環からの出口がなく、それを終わらせるには、自己存在を滅却する以外に手立てがないのである。
 
グノーシス主義は、人間が聖書における神の側からの救済を退け、自力で救済に至ろうとすると、どういう結末が待ち受けているかという残酷な事実を如実に表す思想である。結局、神をどのようにとらえるかが、人の生を決定するのであって、神をフィクションや虚無とみなせば、結局、人間自身も虚無となって消えるしかない。

我が国をかつて破滅の淵まで至らせたのは、まさに個を認めないグノーシス主義的世界観であり、「和の精神」などといったものが、徹底して個人への蔑視、人間存在への軽視の上に成り立っていることに気づいて、個人を出発点としてすべての物事を考え直さない限り、我が国では何度でも同じ破滅が繰り返されるものと思われてならない。


・グノーシス主義における「智慧」(グノーシス)の本質は、人類と悪魔による神に対する嫉妬と怨念である

ところで 、平安(涅槃)の境地に至るための悟りの智慧を表す訳語であるはずの「般若」は、今日、嫉妬と怨念に狂って鬼と化した女性の顔を表す能面の呼び名になっているが、それも以上のことを考えると、不思議ではないように思われてならない。


(般若の面「面友会」のページから転載)


  
 「般若の面」という呼称が定着したいきさつは、一説では、般若坊という能面師が作った鬼の面の評判が高かったことによるとされるが、その真偽のほどは定かではない。
 
また、能楽の謡曲『葵上』の中には、『源氏物語』の登場人物である六条の御息所が、嫉妬に狂った怨霊となって、源氏の寵愛を受ける葵上の前に現れるシーンがあり、そこで六条の御息所の怨霊が般若経の読経によって成仏させられることから、それにちなんで能面自体が般若と呼ばれるようになったという説もある。

ちなみに、『源氏物語』も、グノーシス主義的な無常観を表すものであって、文字通りにとらえるべき物語ではないと筆者は考えている。そこでは、光源氏という人物が「ゆく河」にたとえられ、登場する女たちは、現れては消える「うたかた」の役目を果たしている。光源氏は、無常観である虚無の深淵が擬人化された存在であって、源氏が美男子として描かれていることも、被造物を神とするグノーシス主義的世界観に一致する。

源氏を取り巻く女たちにとって、彼はあたかも「神」のような存在であるが、その「神」は、人間がどんなに手を伸ばしても、手に入れることのできない、実体のない虚無の深淵のような「鏡」であり、偶像でしかない。その「神」は人間を救済することができないため、人がどんなに神を見いだそうと、「鏡」を覗き込んでも、そこに映る自分の姿を見つめれば見つめるほど、ますます弱く惨めな存在である自分自身を発見し、満足を得られず、自分には手の届かない存在への嫉妬と怨念を募らせるだけである。

六条の御息所が怨霊と化すという筋書きも、本質的には、被造物を神とする人々が、「神」を独占してこれと一体化したいと願い、それによって、むなしい「あぶく」の立場を抜け出ようと願いながらも、思いを遂げられないで滅びゆく無念を表していると言える。

このように、当ブログでは、仏教における「般若」も、グノーシス主義における「グノーシス(叡智)」と本質的に同じで、その起源は、悪魔が人類に吹き込んだ、人類を神と同一視する悪魔的な知恵であるとみなしている。その知恵は偽りであるから、彼らの言う平安の境地も存在しないフィクションである。

そのように考えると、「般若の面」が「嫉妬と怨念に狂った鬼女」の顔をしていることは、全く不思議でない。そこに描かれている「鬼女」とは、脆く儚い「うたかた」であることに我慢ができなくなり、悪魔にそそのかされて、神に対する嫉妬と怨念を燃やし、自ら神になり代わろうとして「神を簒奪する」ことを悟りの境地であるかのように偽る人類そのものの姿だと言えるのである。

鈴木大拙は、東洋思想には「母を守る」ことがその根本にあると述べたが、東洋思想が目指している究極の目的は、グノーシス主義と同じく、「ソフィアの過失を修正する」ことである。つまり、「被造物が神になる」ことによって、被造物の罪を覆い隠し、正当化をはかることなのである。

そこで、東洋思想における「母」とは、神に逆らったために楽園を追われた人類全体を指すと同時に、あらゆる制限から自分自身を解放しようとする人類の欲望それ自体も表す。それは「子」らを自分の欲望をかなえる道具として支配し、集団からの自立を決して許さない「イゼベルの霊」(怨念)とも同一である。
 
三島作品の真の主人公が「怨念」であることはすでに述べたが、永遠を目指しながら永遠に到達できない滅びゆく人類という「母なる存在」が、自らの限界を前に発する無念の叫びは、主人公らの中でどんどん膨張して行く。三島作品の中で、怨念は主人公らを内側から食い破って、死に至らしめた挙句、ついに体も失った怨霊という形で作品の中をさまよわせる。

その怨念は、登場人物ばかりか、ついに三島自身をも内側から食い破って破滅させる。三島は、一方では自己存在を永遠にしたいと望みながら、他方では、自ら考え出した刑罰のような死によって、自分で自分の肉体を破壊し、それによって、「色即是空 空即是色」「是故空中 無色無受想行識」を自ら体現して、「彼岸」に到達しようと試みたのである。
 
むろん、私たちは、そのような方法で、人の魂が解放されることなどあり得ないことをよく知っている。それは、神風特攻隊として死んだからと言って、人が天皇と同化することもなく、まして「神になる」など不可能であるのと同じであり、人が自らの肉体を滅ぼしたところで、それで霊を解放して永遠の存在となれるはずもない。

そこにあるのは、ただ自分のためだけに、永遠の美と知識と満足を追求した結果、その高慢さによって、滅びの刑罰に定められた悪魔と同じ破滅の運命であって、グノーシス主義者がどんなに自らの死を解放に見せかけたとしても、その死は、実質的に刑罰も同然なのである。

こうして、人類の罪を認めず、神と人との断絶を認めず、人類が罰せられることなく自ら神に回帰することを正当化する教えを信じると、人はまるで脳を失った体のように、欲望に引きずられて地上をむなしくさまようだけとなり、神の概念が消えるばかりか、ついに人間も消えてすべてが無となり消失する。

三島が自らの最期に際して、自衛隊に向かってクーデターを呼びかけてそれに失敗し、割腹という手段を取ったのみならず、弟子に自分の首を切り落とさせたことも象徴的である。このような最期は、どこからどう見ても、罪人に対する最も残酷な刑罰以外の何物でもなく、三島が自分で自分を処刑したことを意味するだけではない。

聖書は、すでに述べたように、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちが、自らの「腹」を神としていると非難している。そこで言う「腹」とは、人類の欲望の象徴であり、さらに、三島が切り落とした「首」も、キリストの頭首権の象徴である。従って、首のない体とは、神の頭首権に服さなくなった集合体としての人類を意味し、裂かれた腹も、堕落した人類の体に働く罪深い欲望に対する神の裁きを物語ると言えよう。

三島は単なる小説家ではなく、グノーシス主義という反聖書的な偽りの福音を宣べ伝える宣教師であったからこそ、自ら宣べ伝えた恐るべき「福音」がもたらす当然の結末に従い、このような破滅的な最期を遂げたのだと言える。 


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑥

・被造物を神とする思想が過剰なまでの美意識とナルシシズムを生む

さて、そろそろ映画"MISHIMA; A Life in Four Chapters"の分析を抜け出たいと考えているが、今回は、これまでの分析の総まとめとして、グノーシス主義における「美」とは何かという疑問について、さらに、グノーシス主義がなぜ個人の概念を認めず、集団からの離脱を許さないのかという問題について考えてみたい。
 
これまで、グノーシス主義は、被造物を神とする被造物崇拝(人類の自己崇拝)の教えであり、この教えは、「父なる神」を事実上のフィクションとしてしまうため、この教えを信じると、人は神を探し求める過程で、自己の像を見つめるしかなくなり、それゆえ、歪んだナルシシズムに陥って滅びるということを再三に渡り、述べて来た。

グノーシス主義は、人間は神の「似像」として創造されたとするが、グノーシス主義における至高神とは、それ自体が「鏡」であり「虚無の深淵」であって、本体を持たないため、結局、グノーシス主義では、「似像」として造り出された被造物の方が真のリアリティだということになってしまう。

それゆえ、この教えを信じる人々は、神を探し求めると言いながら、自分自身を見つめ、己を神とするしか手段がないが、どんなに鏡の中を覗き込んで、そこに映る自分の像を見つめて、神を見いだそうとしても、そこに神はおられないため、彼らはナルキッソスのように自分を映し出す虚無の深淵に吸い込まれて破滅のうちに消えて行くしかないのである。

しかも、ただナルシシズムのうちに絶望して滅びるだけではない。彼らは神を探し求めているうちに、「虚無の深淵」である「鏡」に自分の像を質に取られ、自分をどんどん乗っ取られながら喪失して行くのである。

グノーシス主義とは、弱い者が強い者を乗っ取るというヒエラルキーの転覆を果てしなく正当化する教えである。そこで、このような秩序転覆の教えを信じると、神と人との関係が逆転するだけでなく、男女の秩序も逆転する。そして強い存在であるはずの男性が弱い女性に飲み込まれて自己を喪失するということが起きる。神の助け手となるべく創造された人類と神との関係が壊れることにより、男女の正常な秩序も崩れるのである。

詩編には次のような箇所がある。

「人の子は何ものなのでしょう
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように
 その足元に置かれました。
 羊も、牛も、野の獣も
 空の鳥、生みの魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ここに、人は「神に僅かに劣るものとして」創造されたとある。確かに、聖書において、人は神の形に似せて創造されたとはいえ、人類は堕落していなかったときから、神と同一の存在では決してあり得ず、人は神よりも弱く劣った存在として造られたのである。そこには明らかに序列があり、優劣があった。

しかし、この優劣はただ単に神と人との主従関係として理解されるだけでなく、人間に任された役割を示すものと理解できる。すなわち、神は霊であるが、人間を霊的な世界と物質的な世界の両方に接点を持つ者として創造され、神の代理人として、神が造られた目に見える万物を正しく治めるために創造されたのである。

いわば、人間は神が造られたこの世という庭の園丁のような存在でもあったと言えるかも知れない。被造物は被造物でしかなく、どこまで行っても、創造主にはなれないとはいえ、人は神と交流を持ちながらも、物質界の主人だったのであり、一つの世界を治めるべき存在として、神は人間に絶大な権限を与えておられたのである。

ここで神と人とは男女になぞらえられる。つまり、神はご自分の創造された物質的な世界を治めるための助け手として人を創造し、この世界を人の監督下に置かれた。何度も言うが、人類は、神に対して霊的に女性として創造されたのである。

ところが、グノーシス主義は、人類が神よりも劣った弱い存在であることを認めず、聖書の創世記において、蛇の姿をした悪魔が人類のもとにやって来て、神は人類を神より劣った存在に貶めるために、人類の知識と力をいたずらに制限しようと「善悪の知識の木の実」を食べることを禁じていると嘘を吹き込んだ。それがグノーシス主義の始まりである。

人類はこの時、悪魔の嘘を信じて神の掟を捨てて悪魔側に寝返ってしまったので、人類の堕落と共に、この世全体の統治権が悪魔の手に渡り、悪魔が人間を奴隷として従えつつ、「この世の君」となったのである。

グノーシス主義は、今日も、その時から少しも変わらず、神と人とがあたかも本来的に対等(同一)な存在であって、そこに優劣はなく、序列もなく、主従関係もなく、知識や力の差もないのが当然であるかのように主張している。

結局、この思想は、人類が神よりも劣った存在として創造されたこと、人類が被造物であって創造主ではないという事実自体に逆らって、人類を神と同一視しているのであり、それと同時に、人類が神の被造物として有限なる存在として創造されたこと自体に被害者意識を持っていると言って良い。

グノーシス主義は、もともと人類が神より劣った存在であることを認めていなかったが、その上、人類が神に逆らって罪を犯したために死に行く存在となって、永遠性から切り離されたので、罪に対する刑罰への恨みも、もともとあった神への被害者意識の上に増し加えた。

おそらく、そのような不当な被害者意識に基づき、神を悪者とする転倒した思想は、サタン自身がもともと神に対して持っていた思想を、そのまま人類に転嫁するために吹き込んだものと考えられる。

グノーシス主義は、別な言葉で言いかえれば、人類(被造物)の側からの、神への怨念に基づく神への反逆としての、神の乗っ取り(なりすまし)の思想ということになる。事実、人類は神ではないにも関わらず、その人類が自己を神と同一視することは、人類の側からの神の存在の乗っ取りやなりすまし以外の何物でもない。

このような転倒した教えを引き延ばして行くと、当然ながら、神と人との関係だけでなく、男女の秩序も破壊される。男性の側からは、女性は自分の「似像」(同一)であると主張して女性を支配しようとするが、他方、女性の側からも同じように自分は男性の「似像」であって、両者は本質的に「同一」であり、「対等」だと主張する。

その結果、神から神であることを奪った人類(男性)は、自分も弱い者(女性)から存在を奪われ、弱い者(女性)に同化させられ、飲み込まれて消え失せる。聖書の創世記において、エバがまず最初に「善悪知識の木の実」を食べ、次に夫であるアダムをそそのかして自分と同じ違反を犯させた様子を見ても、この時点で、すでに男女の秩序が転覆していることが分かる。男が自分よりも弱い女の言いなりになって誘惑されて独自の判断を失い、死に赴かされているのである。

むろん、こうした秩序の転覆は、男女の間だけでなく、人間社会における強者と弱者との間で果てしなく繰り返される。こうして、人類が神から神であることを奪い取って、自分が神になり代わることを正当化すると、人類同士の間でも、果てしなく弱い者からの強い者への乗っ取りが起きるのである。いわば、弁証法的唯物論の原型がグノーシス主義の中にあるのだと言えよう。

さて、話を戻せば、歪んだナルシシズムと並行して、グノーシス主義者の見落とせない特徴として挙げられるのは、過剰なまでの美意識である。

三島由紀夫が自分の美意識にこだわり、その美意識があるために、自分の肉体に対するコンプレックスを常に抱え、それを払拭するために、肉体を鍛えるなどして、何とかして自分の外見を自分の目にかなう「美しいもの」に変えようとしていたことは前回までの記事で確認した。

しかも、三島の場合は、ただ単に外見を美しくしようとするというありふれた努力で終わらず、自らを「永遠の美」の領域にまで高めようとしていたことを私たちは見て来た。自らの存在を永遠にするためにこそ、三島は自分が「美しいもの」になったと考えた次の瞬間、自分の美をそのまま永久に保存するために、死に赴いたのである。

むろん、死は残酷に彼の美を破壊して奪い去っただけで、何一つ保存などしなかったが、当の三島は、死を解放であると思い込み、それが滅びであるとみなしていなかった。我々から見ると、三島の死はまさに自ら造り出した刑罰に他ならず、凶悪な罪人に対する十字架刑のような残酷な死であって、およそ解放などと呼べる類のものでは決してない。

しかしながら、グノーシス主義者は肉体からの解放を、自己存在が永遠と一つに融け合うことだと考えているため、そのような霊的刑罰としての最も残酷な死でさえも、あたかも自己存在を高めるための儀式であるかのように錯覚しつつ、それに陶酔して行くのである。

このように、「宇宙全体と一つになる」という名目で個人を消失させることが、グノーシス主義の最大の破壊的マインドコントロールの効果である。グノーシス主義は、ウロボロスの輪のシンボルにも見られるように、創造と破壊という対極のものを一つに結び合わせるという錬金術的な詐術のもとで、永遠の循環という概念を信じているため、この思想において、死は終わりとはみなされていない。死は新たなる生の始まりのようなものでしかないとみなされているため、そこに個人の死という概念は存在しないのである。

もちろん、当ブログはそういう考えを完全に荒唐無稽とみなしているが、東洋思想の基盤には、すべての生命が滅びることなく永遠に循環するという偽りの概念が脈々と流れている。そのことは、サンダー・シングの教えの偽りについて分析した際にも見て来た。

このような循環あればこそ、美という概念が、彼らにとって極めて重要性を帯びるのだと言えよう。


・被造物が堕落したために、美はその本来的な目的を失って欺きの源となった

ところで、私たちは、女性が自分の美にこだわるならまだ分かるとしても、三島のような男性が、青年期を通り過ぎ、「いい年をしたおじさん」になってから、自分の外見的な美にそれほどまでにこだわり続けたことに、かなり奇異な印象を受けるかも知れない。

だが、そのようにして自分の美にこだわることは、グノーシス主義者には男女を問わず、共通して見られる現象であって、何ら三島に固有の現象ではないのである。当ブログでは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者が常に、人前で、弱者の救済者のように振る舞ったり、同情心溢れる純真で貞潔な信徒を演じたりしながら、自分の美的イメージを作り上げることに腐心し、その美しい外観が傷つけられることに強い抵抗感を示すことを見て来た。

彼らは自分で作り上げた美しい自己像にあまりにも耽溺しているせいで、それが現実の自分からは遠くかけ離れた虚構のイメージでしかない事実さえ、もはや自分では分からなくなっており、認められないのである。

さて、クリスチャンが、聖書の中で、自分の美に固執し続けたのは誰かと尋ねられ、真っ先に連想するのは、サタンの存在ではないだろうか。なぜなら、悪魔こそ、自分の美に対して異常なまでの自信と執着を示し、自らの美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に反逆した張本人だからである。

聖書の中では、悪魔の起源は明らかではないが、一般にキリスト教の教理では、悪魔は神に反逆して堕落した天使の一人であるとみなされており、しかも、天使の中でおそらく最高位の神に最も近い位にあったものと考えられている。

聖書では、サタンの神への反逆と堕落がいつ起きたのかは記されていない。それが天地創造以前の段階ですでに起きていたのか、それとも、天地創造以後のことであるのかも、聖書の記述の中からは明らかでない。しかし、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って人類をそそのかしにやって来たところを見ると、この時点ですでに悪魔が堕落していたことは明白である。

一般的に、クリスチャンの間では、エゼキエル書28章は、悪魔の神に対する反逆と堕落の一端を明らかにするものだと考えられている。むろん、この記述が悪魔に関するものだという証拠はなく、異論も存在するが、ここでは「ツロの君」に対する宣告に重ねて、悪魔に対する神の宣告が重ねて込められているという解釈が一般的である。その記述によれば、悪魔の堕落は、悪魔が自らの美しさと知識と、不正な貿易によって増し加えた富のゆえに慢心し、自分を神以上の存在であると考えたために起きたことが分かる。

「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。 」(2節)

「それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、 見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。

それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。
あなたは異邦人の手によって割礼を受けない者の死を遂げる。これはわたしが言うのであると、主なる神は言われる」。 」(6-10節)

「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。

わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。

あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。

あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。
もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。(12-19節)
 
エゼキエル書の以上の宣告の中には、「ツロの君」に対する宣告と、堕落した人類に対する宣告と、悪魔に対する宣告の三つの意味が重ねられているのではないかと想像されるため、それらをすべて別々に切り離して、どこからどこまでが悪魔に対する宣告なのかを明白にすることは難しい。

しかも、この記述は、悪魔のみならず、神に背いてエデンの園を追放された人類にも、随分、重なる部分があるように感じられる。

たとえば、創世記において、人がエデンを追放された場面にはこうある。

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 」(創世記3:22-24)

この楽園追放の場面の記述は、「守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。 」というエゼキエル書の記述に重なる。

さらに、「わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。」というエゼキエル書の記述も、「 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)というアダムへの宣告に部分的に重なる。アダムが死んで火葬されたという話は聖書にないが、塵に帰るという表現は、灰になることとも似通っているからである。
 
以上の記述の中では、悪魔がかつてアダムのように肉体を持っていたのにそれを失って霊だけの存在になったのか、それとも、悪魔は最初から霊だけの存在であり、体を持っていなかったのかも明白ではない。

ただ悪魔が蛇の姿を取って人間のもとにやって来たという記述から、悪魔は霊的な存在であり、地上の被造物の中に住処を得て入り込み、人知を超えた方法で人間に語りかけることができるという事実が分かるだけである。
 
もしサタンが体を持たなかったのであれば、この目で見ることのできない霊的存在であるサタンに、どのような美が備わっていたのか、我々は想像することもできないが、いずれにせよ、以上の記述から分かるのは、サタンは己が美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に対して逆らったために、特別厳しい裁きと滅びに定められたという事実だけである。

こうしたことを考えれば、聖書の神に対する反逆の教えであるグノーシス主義においても、美意識や美という概念が極めて重要性を帯びて来るのは不思議ではない。

ここで私たちは「美とは一体、何なのか」という根本問題について考えてみたい。そもそも、美というものは、それだけで成立するものではなく、これを見る者、愛でる者、鑑賞し、評価する者があって、初めてその真価を認められるものである。

そういう意味で、美とは、それを有する自己のためにあるというよりも、これを鑑賞する他者の満足のために備えられたものであると言うことができるかも知れない。

花は花自身のために美しく装うわけではない。深海の驚くべき生物たちも、空を飛ぶ鳥たちも、その瞠目すべき彼らの美は、明らかに彼ら自身の命のためだけに用意されたものではない。同様に、フェミニストたちは憤りを表明するかも知れないが、女性の美も、女性自身のためにあるわけではなく、これを見てその美しさを評価する他者のために存在している。その真価を最も評価できるのは男性であろう。

そうしたことから考えると、人間の美、そして、被造物の美とは、最終的には、これを創造した神の満足のために備えられたのであり、被造物自身の満足のためにあるのではないということが言える。

そして、神は決して人を外見だけで偏り見て評価せず、人の心を見られることも聖書には記されている。神が求めておられるのは、外見だけの美ではなく、外見と内面とが一致した、神への従順を通して自然に生まれて来る美しさだと言えよう。

そこで、もしサタンに美が備わっていたというならば、その美も、本来はサタン自身を満足させるために備えられたものではなく、神の満足に奉仕する目的で付与された性質だったはずであると言える。

しかし、サタンはその美を自分自身のために悪用し、まるで自分の手柄のように誇ったため、その瞬間に、サタンの外見的な美が、内面的な美と乖離した。サタンは神に背いて内面的な美を失っていたにも関わらず、外見的な美しさを誇り続けた結果、その美は、表面的でうわべだけの見せかけのものとなり、さらに、サタンに滅びの宣告が下されたことにより、その美は完全に実質とは正反対の欺きの性質となってしまった。

こうして見て行くと、美とは、被造物全般に共通する特徴であることが分かる。神に愛でられ、神の満足のために創造された被造物であるがゆえに、あらゆる被造物は、滅びゆく存在でありながらも、みな束の間の美を付与されていると言えるのである。

ところが、被造物全体が堕落したがために、サタンはおろか、被造物の美は、本来の正常な働きを失って、不幸の源となってしまった。被造物は、サタンと同じように、他の被造物と自らの美を競い合い、手柄のように誇りながら、自分の満足のために、自分の美に固執しつつも、一瞬でその輝きを失って滅んで行くしかない存在になった。人間の持つ美醜の概念は、それ自体が欺きとなり、偽りとなり、形容しがたい醜い争いを生む根源となった。


・グノーシス主義の美意識は、無常観と密接な関係がある

ここで、話が唐突に変わるように思われるかも知れないが、ここでグノーシス主義的な世界観と美の関係性について述べるために、「いろは歌」について触れておきたい。

日本人が誰でも知っている「いろは歌」は、中世から存在しており、平安時代にはすでに存在が確認されているが、誰がどういう目的で作ったのかは明らかでない。

この「いろは歌」には、単なる文字の学習という域をはるかに超えた深淵な無常観を表す思想が込められており、それ自体が、般若心経などと同じような「誦文(ずもん)=呪文」である。もちろん、当ブログの読者であれば、あえて説明せずともお分かりかと思うが、「いろは歌」に込められている思想も、やはりグノーシス主義である。そのことを確認するために、まずは「いろは歌」の解釈を確認したい。

 


(この達筆の書は「極楽浄土~浄土宗~仏教用語集」から借用)


色はにほへど 散りぬるを
(どんなに美しく芳しい香りを放って咲いている花も、すぐに散って枯れて行くように、すべての存在は束の間にしか存在せず、永遠性を持たない滅びゆくものである。[=諸行無常])

我が世たれぞ 常ならむ
(それと同様、人間がこの世の春を謳歌して生きていられるのも、ほんの束の間だけのことであり、人間存在も滅びゆくものであって、永遠ではない。[=是世滅法])

有為の奥山  今日越えて
(目に見えるものも、見えない心の有様も、何もかも束の間に現れては消える儚い幻想に過ぎないが、そのことが分かれば、この世の無常を乗り越えることができるため、 [=消滅滅己])

浅き夢見じ  酔ひもせず
(もはや儚い夢に浮かれたり、この世の苦楽に溺れたりもせず、この世の過ぎ行く有様を超えた平安な心の境地に至ることができる。 [=寂滅為楽] )



「いろは歌」が示しているのは、要するに、目に見える被造物の美しさも含めて、この世の有様のすべては幻のように仮初であり、すべての目に見えるものが、生成から滅亡への過程を辿っているように見えても、その本質は「空=無」であるという思想である。

さらに言えば、すべてのものが一時的でしかなくその本質は「空=無」であることを悟るとき、人々は心の中にあるすべての苦しみを超越して、自己と永遠を一体化させて無我の境地に至り着いて平安を得るという思想である。

この「いろは歌」は仏教思想の本質を表しているとよく言われるが、当ブログでは、仏教を含め、世界の本質が「無」であるというこの種の思想はみな根本的にグノーシス主義であるとみなしている。

つまり、「いろは歌」の中に込められているのは、万物の生成と消滅を一つの循環のようにとらえ、この輪の背後に巨大な永遠(=無)が存在するという思想なのであって、それはウロボロスの輪が意味するものと同じであり、さらに、『国体の本義』が説く「和の大精神」とも本質的に同じである。

すでに見て来たように、『国体の本義』が説くのは、我が国において、「天照大神」を始祖とする神話を継承する天皇家に始まり、先祖代々から人々が誕生と死を繰り返しながら全体として受け継いで来た「和の精神」によって、日本人は「天壌無窮」すなわち永遠に到達し、生成と消滅の「和=輪」の中で、「永遠の今を生きる」という思想である。

ウロボロスの輪がグノーシス主義の思想を表すシンボルであるのと同じように、「和の精神」という言葉や、「いろは歌」という呪文も、それ自体がグノーシス主義と本質的に同じ思想を表すシンボルなのだと言えよう。

(ちなみに、余談であるが、この「いろは歌」には暗号が隠されているといった話があり、その暗号を読み解くと「咎なくして死す」というメッセージが読み取れるという解釈がある。そのような説は江戸時代からあったらしいと思われ、それゆえ、いろは歌は、赤穂浪士の切腹を描いた人形浄瑠璃の題名に使われたり、柿本人麻呂の遺言や、菅原道真の無念が込められていると言った諸説が登場している。さらに、今日では、そこからもっと進んで、「咎(罪)無くして死んだ」者とは、イエス・キリストを示しているといった奇抜な解釈まで見られる有様である。
 



しかしながら、当ブログではこうした暗号の問題に立ち入るつもりはない。また、仮にいろは歌の中に、「咎なくして死す」という暗号が込められているとしても、この歌自体が、無常観という反聖書的な概念のもとに成り立っている以上、その暗号が決してイエス・キリストを指しているはずがないことは明らかであるものと確信する。

仮にこの「いろは歌」を暗号として理解したとしても、そこから読み取れる通低音は、やはり、「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品の叫びと同様に、「人類に罪はない! なのに神が人間を滅びに定めたのは不当だ!」というグノーシス主義に常なる滅びゆく人間の無念(被害者意識、怨念)の叫びだけである。)

「いろは歌」の中には「美」という概念がはっきり登場しているわけではないにせよ、そこでは「色」すなわち、この世の物質界の現象が一時的な形を取って現れる有様を「美」と同一視することもできよう。そう考えれば、美とはまさに永遠性を持たない一時的なもの、脆く儚いものの別名、代表格も同然となる。

そのように物質世界の諸現象が、脆く儚い有限な一時的存在として形を取って現れること自体が、グノーシス主義的な美の概念であるとも言えるかも知れない。言い換えれば、グノーシス主義における「美」には、確固たる存在の裏づけがないのである。

さらに、グノーシス主義の神話的プロットにおいて、唯一「醜い存在」として非難されているのが、ヤルダバオートおよび堕落したカインとアベルの種族であることを見ても、我々は、グノーシス主義における美醜の判断の基準が、「自分よりも上位の被造物の思惑を無視して自分にこだわること」と密接な関係を持っていることが分かる。

グノーシス主義が、被造物の間に貴賎を設け、カースト制のようなヒエラルキーを造り出すことを正当化する教えだということはこれまで度々述べて来たが、そのようなヒエラルキーは、グノーシス主義の神話においては被造物がどれほど至高者である神に近い存在であるかに応じて序列が定められていることに由来する。大田俊寛氏は、『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』の中で次のように述べる。
 

これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙の裡にヒエラルキーが設定されているのである。(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、春秋社、p.126)


注目すべきは、このヒエラルキーは神と被造物の関係を指すというより、被造物同士の序列を指すことである。悪とは、このヒエラルキーを覆すことである。しかし、グノーシス主義における至高神は、物言わぬ深淵であるから、自分にたてついた者を罰するために出てくることもない。従って、そのヒエラルキーは、至高者の目から見たヒエラルキーではなく、被造物同士の序列だということができる。

グノーシス主義における美醜の概念や、善悪の概念は、このような被造物同士の序列と密接な関係があり、被造物の社会の序列の中で、「空気を読み、自分の分をわきまえて行動すること」こそ美(善)であり、「被造物同士の間で、自分の分をわきまえないで行動すること」が醜(悪
)なる性質であるかのようにみなされる。

ソフィアはヒエラルキーを犯したがそれを後悔して、自分の分をわきまえようとしたのでとがめられることなく、また、ソフィアの行為は、自分も至高神を知りたいと願っていた他の被造物全体の思いを代弁していたため、同情されることはあっても、罰せられることはなかったが、ソフィアの過失の結果として生まれたヤルダバオートは、周りも憚らず、「私は妬む神である。私の他に創造主はいない」と宣言し、自分だけが神であると述べて、自分よりも上位の他のすべての被造物に恥をかかせ、面目を失わせたために「醜悪な存在」として侮蔑と嫌悪の対象とされているのである(もっと言えば、ヤルダバオートは出生の段階から母であるソフィアに恥をかかせていた)。さらに、カインとアベルの種族も、己が欲望だけに邁進して流血と殺人を繰り返す種族であるから醜悪な種族なのだという。

早い話が、グノーシス主義では、神との間で被造物がヒエラルキーを犯すことは無罪放免される一方で、被造物の間のヒエラルキーを犯して自分の存在を絶対化しようとすることは、非常に醜悪な行為とみなされ、侮蔑の対象となるのである。つまり、被造物自身が創造主を差し置いて、善悪や美醜の判定者になってしまっているのだと言える。

そこから考えると、グノーシス主義における美とは、「被造物同士の序列の中で、個々が自分の分をわきまえて、自分を手放すこと」と深い関係があることが見えて来よう。端的に言えば、グノーシス主義は、被造物が「全体のために自分を捨てる」状態にあることこそ「美」(善)であるとみなし、序列を無視して自分に固執する状態を「醜」(悪)とみなしていると言っても良い。それだからこそ、この思想における美は、自己存在の裏づけを持たない、脆さ儚さと切り離せないものとなのである。

このような考え方は、次回でも触れるように、『国体の本義』に現れる「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』は、個人の平等を認めず、社会の中に身分制度としての差別的ヒエラルキーをもうけ、その中で、人が「分をわきまえて行動する」ことで、全体の秩序(和)が保たれるかのように教えた。そして、個人はそのような差別的な序列に従ってこそ、その真価が発揮できるかのように説き、決して個人がそのヒエラルキーから離脱することを許さず、集団を離れた個人という概念自体を認めなかった。

グノーシス主義における「美」の概念は、このように差別的なヒエラルキーを守り抜くためにもうけられる「和」の概念と無関係ではない。それは被造物が創造主なる神に従うことによって保たれる美ではなく、むしろ、被造物自身が、神から盗み取って得た美であり、被造物同士が互いのヒエラルキーを保たせ、威信を保つための美である。

その「美」は、弱い者が自分よりも強い者のために自分を捨てながら、個であることを放棄して被造物全体と一体化することによって、初めて成し遂げられる「和」の一部である。

そうした思想の究極の形が、自分が無であること悟ることで世界と一体化するという仏教的な無常観、および、肉体からの霊の解放を救済とみなすグノーシス主義の思想の中に表れている。このような思想は、人が自己存在にこだわることをやめ、自分が生成し消滅する個としての命であることさえ否定し、自己存在が移ろいゆく不確かなものであるばかりか、本質的に無であることをわきまえ、自己存在をまるごと放棄して、永遠=無の中に身を投げる時に、初めて人と世界が一体化して全体の中の調和が取り戻され、被造物があるべき美を取り戻すのだと述べているに等しく、極言するならば、それは滅びと死の中に「美」を見いだそうとする倒錯した思想なのである。

別な言葉で言えば、その「美」は「哀れ」という感情とつながっており、命がヒエラルキーに従ってディスカウントされて完全性を失って行くことによって初めて得られるものである。こうした世界観では、あらゆる生命が死や滅びによって脅かされる儚く脆い存在であることを前提として初めてそれらの生命の「美」が成立するのであり、「美」とは本質的に「可哀想」という感情と一体化しているとも言える。別な言い方で言えば、滅びゆく被造物の無念とそれに対する同情という被害者意識に基づく感情自体が、美という形で表現されていると言えるのである。

日本人は「いろは歌」を通して、知らないうちに、世界の本質が無であるという思想に触れて、その世界観を無意識的に呪文として唱え、呼び出しているのであり、「いろは歌」に込められている無常観は、次回で説明するように、般若心経の中で、もっとはっきりと鮮明で凝縮された形を取って表れている。

<続く>