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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

御霊に導かれて生きる―主を待ち望み、生ける者の地で神の恵みを見る

このところ、すべての手続きが穏やかに進行中である。

何度も書いて来たことだが、訴訟などの手続きは、そのほとんどが一般市民にも弁護士なしで十分に対応できる。必要なのは、専門知識ではなく、ひとかけらの勇気と信仰である。

これらの訴えをことごとく提出した時に、筆者はこの土地で、自分のなすべき役目がほぼ終わりかけており、主は筆者をよそへ移そうと願っておられるという気がしてならなくなった。そのことは、これまで何度か書いて来た通りであるが、まるですべての状況が、ここを出なさいと筆者に語りかけているようだ。

本当はもっと早くそうすべきだったのであり、この土地はずいぶん前から不毛だったのだが、筆者が御心を掴むのに時間がかかったので、脱出の時が遅くなった。それから、最後にひと仕事、残っていた用事があった。

筆者はかつて住居を住み替えさえすれば、生活が快適になるだろうと思っていた時期があった。その頃は、この土地が不毛だなどとは考えておらず、様々な努力で未来が開けると考えていたのである。しかし、快適な住居に住み替えても、問題は去らず、この土地ではすべての努力が無駄に終わると分かった。
 
まるで首都圏の中心部から汚水がどんどん流されて来るように、年々、すべてが悪化して行くだけである。

筆者はこの土地に思い出はあるが、未練はない。そして、この土地の人々の気質が、ソドムとゴモラのように、どんどん悪くなって行っていることをひしひしと肌で感じている。

最近、街の弁護士日記というブログに「滅びるね」という記事が載った。詳細はその記事で読んでいただければ良いが、筆者はこの内容に深く頷くものである。

街はあたかも平和で、真夏の行楽日和が続き、店はバーゲンセールでにぎわっている。筆者も、連休中、偶然に立ち寄った店で、7割引きで洋服を買い、鳥を増やし、将来的な住処を探そうという考えで、土地と家を見て回った。どこかへ引っ越さねばならないという気がしているためだ。

だが、その道中、毎年、楽しんで来た夏の特製のパスタをパスタ屋さんで頼むと、それが今年には、まるで大奮発しないと買えない商品のように、値段が去年よりも随分、高くなっていた。しかし、人々の生活は潤っていない。

街はあたかも平和そうに見える。去年と似たような今年が続いているように見える。商業活動も盛んだ。だが、何かがおかしい。これは去年の続きでは決してない。商品のサイズは縮み、値段は上がり、去年できたことが、今年にはもうできなくなっている。そして、主都では、人々の頭上に刀を振り下ろすような凶悪な法案が次々と通過している。

この平和がソドムとゴモラのように映る理由を端的に言い表すのは難しい。どんなに人々の気質が悪くなり、人間が騙し合い、陥れ合い、殺し合うようになったのか、今ここで長々と説明をするつもりはない。

しかし、大量の汚泥の上に板子一枚で築き上げられたような、このうわべだけの平和が、何よりも滅びの最たる兆候である。この見せかけの平和にも、今やヒビが入り、脆いガラス細工の製品のように、人々の生活の安寧が壊れかけている。

とにかく、首都圏はもうダメなのだ。ここにはいかなる命の息吹きもなく、希望も、発展の見込みもなく、すべてが悪くなって行くだけであり、ここにいてはダメなのだ。何かがおかしいというこの予感が、具体的に何を意味するのかは知らない。巨大地震だとか、津波だとかの自然災害、もしくは戦争だとか、良からぬ出来事が迫っているという感覚なのか、それとも、理念を失った人々の生活が自滅へ向かっているために生じる感覚なのか。
 
筆者は県内にある素敵な家々を見学してみた。ところが、以前には「こんな家に住みたい」と、高嶺の花を見るように、憧れながら心躍らせて見ていた家々が、なぜか心に響いて来なかった。自分の見る目が変わったのか、それとも要求が高くなったのか、なぜそれらが魅力的に映らないのか、理由は分からなかった。しかし、どれもこれも決定打にかけるのだ。たとえただで差し上げますと言われても、筆者はそれを受け取らず、ここには住まないだろうという気がしてならなかった。
 
値段や内装がどうのといった問題ではなく、要するに、ここは筆者のための安住の地ではなく、この土地に家を構えてはならないという御霊の導きだという気がしてならない。

筆者は今、地中に深く埋蔵されたエネルギーを採掘する業者のように、収穫が深く隠されていそうな土地を探している。

あるいは、谷川の流れを慕う鹿のように、清い命の水の流れを、豊かな命の流れを備えた土地を探している。

それは間もなく見えて来るであろう。心の底から命の自由と解放を求める切なる願い求めが極限に達したときに、エクソダスが起きるのである。
 
ところで、仮の宿にいる筆者だが、生活を拡張する過程で、不思議なことがあった。

前にも書いたが、筆者は、最近、我が家の成員である小鳥たちのために、古い鳥かごをみな新調することにして、金色の鳥かごを三つ買って、そこにたくさんの色鮮やかなインコを入れてみた。
 
不思議なことに、一つ目の鳥かごは、到着してから組み立ててみると、屋根が微妙にずれて合わなかった。さらに、そこにはどういうわけかエサ入れの蓋が余計に一つ入っていた。

屋根に不具合があることを売主に書き送ると、早速、予備の屋根を二つ送ります、という返事が来た。なぜ二つも送ってくれるのだろうと不思議に思った。

その後、今度は別な鳥たちのために、同じ鳥かごをもう一つ買った。すると、到着したセットの中にあった餌入れの蓋の一つが、最初から割れていた。しかし、一つ目を注文した時に、蓋が余分に入っていたので、それを使うことが出来た。

その後、今度は別の世代の鳥たちのために、三つ目の同じ鳥かごを注文した。すると、売主から、商品は品切れ中で、取り寄せると時間がかかるが、屋根のない鳥かごなら一つある、値引きするがこれを買うかと問われた。もちろん、その屋根は、筆者に予備として送ったために欠けているのだ。

二つ返事で買いますと答えた。すると売主は本当に値引きしてくれた上、おもちゃも余分につけてくれた。商品に欠陥があるわけではないのにだ。

我が家の祝福された鳥たちである。

ここを出て行くときは、きっと民族大移動のようになることであろう。古い鳥かごを移動用キャリーに変えて、そこに鳥たちを入れ、他の動物たちもみなキャリーに入れる。まるでピクニックに行く時のように可愛らしい色の新しいキャリーだ。そして、彼らを車に乗せて、陽気な音楽をかけて、私たちは車で出発する。地上を何百キロも走って、列島を横断し、あるいは船に乗って、目的地に到達する。ちょっとしたノアの箱舟だ。その後で、車も新調することになるだろうか。むろん、その先に待っている家では、鳥たちのために一室を備えるのである。

いずれにしても、この土地にじわじわと押し寄せて来る滅びの感覚を振り払い、二つに割れた紅海を渡るようにして、筆者はここを脱出して行くだろう。だが、それはドラマの題材となるような出来事ではなく、人に知られないひそやかな歩みで、もの言わぬ我が家の成員だけが知っているひそかなピクニックだ。

どんなにこの土地に暗黒の未来が待っていようと、筆者はそれに巻き込まれて死人に数えられるつもりはなく、神にあって生きている人間として、祝福に満ちた地に達する決意と希望を失わない。

詩編には「命あるものの地で」「生ける者の地で」と訳されている言葉が登場する。私たち信者は、神にあって永遠に生きる者である。むろん、来るべき世においてだけでなく、この地上においても、生ける者なのである。

ただ生ける者であるばかりか、キリストと共に豊かな天の相続財産の共同相続人である。そこで、目には見えないが、御霊の命による我々の統治を待っている新たな地、新たな財産が存在する。私たち自身が探し求めているだけでない。その土地も、物も、財産も、人々も、私たちの現れを心から待ち焦がれて、その面影を探し求めている。だからこそ、主人の命を受けて、イサクのために使用人がリベカを探し出した時のように、求めていたものを見つけた時には、私たちは互いに必ずそれと分かるはずなのだ。

「主よ、あなたの道を示し
 平らな道に導いてください。
 わたしを陥れようとする者がいるのです。
 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
 偽りの証人、不法を言い広める者が
 わたしに逆らって立ちました。

 わたしは信じます
 命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め
 雄々しくあれ、心を強くせよ。
 主を待ち望め。」(詩編27:11-14)
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あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)

今、一つの絆を永遠に解き、一つの絆をつなごうとしている。これは厳粛な瞬間である。主の御前で永遠に断ち切れる絆と、再び結び合わされる絆がある。

断ち切るべきものを断ち切って、初めて回復される交わりがある。今、筆者は命ではなく、死に通じる扉を永久に塞いでしまうとしている。神の祝福が失われた枯れ枝のような交わりを幹から丁寧に取り除き、木を剪定して、死んだ枝を焼却炉に投げ込もうとしているのだ。

しばらく会うことのなかった信徒と久々に交わりを持ったが、困難の最中に回復された絆は、さまざまな嵐を耐え抜いて残ったものなので、頑丈だ。

筆者は日曜礼拝などに全くこだわるつもりはないが、これから素朴な日常生活を送りながら、二、三人の集まりが、徐々に拡大して行くだろうという気がしている。

筆者が専門と関係のない様々な仕事をしていた頃、地獄の一丁目のような職場でさまざまな人と出会った。学歴も高くはなく、社会層としても、そう高くない出身の人々に数多く出会い、彼らと一緒に働いた。

そういうとき、何気ないことで、助言ともつかぬ助言を、筆者がその人たちに向かって発したことがある。

何年も経ってから、その人たちが、筆者から受けた忠告を、別れた後も大切に守り続けていることを教えてくれた。彼らは、「あの時、ヴィオロンさんがこう言ってくれたから…」と言って、ずっと筆者の教えた法則を大切にし続けて生きたというのである。

ただ法則を知らないがゆえに、迷い続けている人が、法則を掴みさえすれば、生き方が安定することがある。筆者が発した何気ない言葉は、彼らにとっては、まさに必要な光だったのだと思う。

その頃、筆者には助言をしているというつもりはなく、ただ自分自身が生きて掴んで来た法則性をよかれと思って彼らに伝えただけである。だが、その後、伝授された法則を守って生きるのか、それを無用な忠告と退け、侮って生きるのかで、人の道は分かれた。

こちらの言い分を重んじて耳を傾けてくれる人たちには、関わる価値がある。華やかな学歴や教養に乏しくも、どんなに貧しく社会の底辺に位置している不安定な人々のように見えたとしても、忠告に耳を傾け、重要な法則に逆らわないで、これを掴んで取り入れる人たちは、時間と共に着実に生き方が進歩して行く。

それに比べ、自分は賢い、誰からも何も教えてもらう必要はないと考えている高慢な人たちは、何年、関わっても、全く進歩がない。彼らは恵まれた境遇にあるため、いい加減な生き方をしていても、それが何となく成り立ってしまい、試練を通して人間性が練られることも、変化することもなく、ただ同じところを堂々巡りし続ける。地位や肩書や財産などがあるので、かしづいてくれる人たちはたくさんいるが、それによりかかって生きているため、人格がいつまでも成長が止まったまま、幼稚で、未熟である。はっきり言って、そういう人との関わりは退屈でしかない。

彼らは貴重な助言も、侮り、罵倒し、逆らい、踏みつけて来るだけなので、助言する価値も、関わる価値も無い。どんなにクリスチャンを名乗っていても、そのような怠惰な人々との関わりは、交わりと呼べるものではないので、枯れた枝のように、木から剪定して行き、みずみずしい葉のついた生きた枝だけを残すべきである。

もちろん、枯れ枝を切り取って焼却することは神のなさるわざなのだが、それでも、時には、私たちが自分で剪定しなければならないこともある。私たち自身の意志表示も、やはり重要になって来るのだ。枯れ枝なのに、自分は生きていると主張して、他の枝の成長を妨げるような枝は、やはり木から取り除かねばならない。

さて、第一の訴えに付随して、何と段ボールひと箱分以上の資料が出来上がった。これも複合的な訴えなので、必要部数をすべてそろえると、当然、それくらいの分量にはなるのだ。ひと箱では運ぶのに分量が多すぎるため、3箱くらいに分けた。

訴えの中のあるものは約180頁、証拠だけで70以上もの番号がふられている。一セットゆうに400頁くらいになるだろうか? 

しかも、これは第一弾に過ぎず、続編が待っている。家庭用印刷機のレベルを超えた仕事だ。我が家の床も、ちょっとした私立探偵の事務所風になっている。

さて、この書類の山をどうやって裁判所へ持ち込むか思案し、台車があればちょうど良いのだが・・・と思いめぐらしていると、夜間、交わりから車で戻って来た際、ちょうど駐車場に車を止めると、すぐ真横のコンクリートの塀に、どうぞ使って下さいと言わんばかりに、使い古したキャリーが立てかけてあった。

まさかそんな都合の良いことが現実にあるだろうかと目を凝らすと、本当だった。駐車場は個別のスペースで区切られているため、間違ってそこにこんなものを置いて行く人がいるとは思えない。しかも、そのキャリーはほどよい古び具合で、持ち主が大急ぎで取りに戻って来るような代物ではない。そこに捨てられた可能性も十分に考えられた。

これはまさに筆者のために特別に用意されたものであるとしか思えなかったが、一体、誰がそんな親切を? 筆者に今これが必要だと知っている人はいるはずないのだが。

その時、「主がお要りようなのです」

という言葉が脳裏をよぎった。

まさにエルサレム入場の際の子ろばのことが思い出された。

これは主だ、としか思えないありがたいタイミング。ありがたく数時間、お借りして、またもとの場所に戻しておくことにした。必要なら、持ち主が取りに来るだろうし、捨てて行ったのなら、取りに来る人はいまい。

似たような具合で、必要のすべてがそろった。細かな道具の一つ一つに至るまで、目指した日にまでの間にすべてが供えられた。

このようにして、このところ、この地上は、まるで筆者のための共産主義社会になったような具合だ。決して他人の所有物の概念を否定する考えを述べるつもりはないが、キリスト者にとっては、誰かが地上に引いた境界線や、誰かが独占的に蓄えた私有財産などといった区分は、事実上、ないようなもので、すべてのものは天地を造られた神の所有なのである。そこで、神の子供たちに必要なものは、すべて天から適宜、供給される。

復活の命を生きて体験した人は、筆者の言わんとしていることを理解してくれるだろう。キリストの復活の命は、神の非受造の命であって、どんなものにも依存しない、死を打ち破った命である。そこで、この命が、持ち主のために、必要のすべてをおのずから供給する。

天の経済は、キリスト者の必要に応じて伸縮し、拡大・縮小する。

筆者は、これは神の喜ばれる正しい仕事なのだということを、あらゆる機会に痛感している。筆者はこの仕事をただ自分の必要、自分の権利を守るためだけにやっているのではない。聖書の神が生きておられ、今日も神の子供たちを十分に守って下さり、すべてのことについて、必要な解決となって下さり、ご自分の栄光を信じる者に存分に表して下さることを、公然と生きて世に証明することが、私たちの責務であり、証なのだと考えているからこそ、それに取り組むのである。

この方を信じて生きることが、人間にとっての喜びであり、最高の満足であり、どんな場合にも、その信仰は決して失望には終わらないことを、生きて証明し続けることが、私たちの責務なのである。そして、神はその期待に十分に応えて下さることがおできになる方である。

敵の要塞はエリコの城壁のように崩壊する。多くのことは書かないが、結果が目に見える形で現れるとき、何が起きているのかを人々は理解するだろう。

筆者が今手がけているのはすべて弁護士が書くような書類ばかりであるが、そういうことも、一般人でも工夫すれば十分に対応できる。バッハの『シャコンヌ』をヴァイオリンで満足の行くように弾くことに比べれば、書類作成などはるかに易しい。

筆者はある会社に勤めていた時、100頁近くもある就業規則を外国語に訳したことがあった。そこにはネイティブスピーカーもいたが、誰一人その仕事に着手する者も、完遂できる者もいなかった。業者に依頼すれば20万円以上に相当する翻訳だと言われた。それを他の仕事と共にやった。まるで頭髪の長さまで規定した校則のように、社員をがんじがらめにする意味のない規則ばかりではあったが、その時、そのように苦労して書類を作るのならば、会社を去った後も、自分の人生に残るもっと価値のある書類を作るべきだと心から思った。

今、やっていることが、それに似ている。誰のためでもない、自分のための権利の主張文である。だが、その書類では、筆者一人だけの権利ではなく、そもそもキリスト者の権利とは何か、天と地において、人とは何者なのか、という問題が提起されている。

たとえば、信教の自由、思想信条の自由という言葉が、私たちが様々な紆余曲折を経ながら、まことの神を探求し、神と共に生きる道を模索し続ける求道者としての魂の遍歴を十分に優しく認めてくれている。人は神と出会うために、また神に従って生きるために、必ずしも平坦ではない様々な試練の道を通らねばならない。だが、その道が平坦でないからと、これを罵倒できる人などどこにもいはしないのだ。

神は、私たちに「求めなさい」と言われる。あなたたちは何も求めないから、手に入らないのだと。多くの人々は、それを聞いても、自分は富んでいて、豊かで、何も乏しいことはなく、神の御前で打ち明けるべき弱さや、問題などない、と考えているため、何も神に求めようとはしない。求めるものは現世利益だけで、それさえも、つつましく分相応に見えるように、自分の規定したスケールの範囲内でしか求めない。常に周りを気にし、人並みの生き方をしてそこから逸脱しないことにしか目標がないのである。

彼らはあまりにも神と人との前で虚勢を張りすぎているため、自分の弱さを認めず、自分の人生の尺度を自分で規定してしまい、神の御前に素直に問題を打ち明けることもできず、自分の人生を打ち破るようなスケールの恵みを求めることもない。自分のために何も要求しないし、自分はその恵みに価しないと考えている。だから、何も与えられないのである。信じないから、何も与えられないのである。

それに引き換え、主張文を書くことは、自分の正当な権利の行使であり、要求である。自分はそれに価すると信じなければ、要求することはできない。地上でさえ、人の訴えを裁判官が取り上げ読み、審議するのだから、天に出すべき訴えというものも、当然ながらある。神は正しい方であり、真実が曲げられるようなことをなさらない。寄る辺ない人々の訴えに喜んで耳を傾けて下さる。

だから、地上で書類の山を作るのも必要だが、まして重要なのは、天に向かって訴えを出し続け、父なる神に向かって子としての権利を要求し続けることだ。

時に、信者が本気で神にぶつかり、扉が開けるまで懇願し続けなければならないことがある。答えが遅いように見える時もあるかも知れない。だが、信じてよい、神は我が子の訴えに喜んで耳を傾け、これを取り上げて下さると。神は信じる者たちの願いを喜んで受けられ、彼らの信仰に応えることを、ご自分の栄光とみなして下さる方である。


祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。(2)

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。
 
さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。
 
ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。
 
その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。
 
嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。
 
ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。
 
私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。
 
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。


求めなさい、そうすれば与えられます

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:17-23)

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハネ15:7)

「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」(ヨハネ16:24)

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 ニッポンキリスト教界において、不正な事件のために傷つけられ、苦々しい思いのうちに、信仰を失って、去って行く人々が絶えない。そのような人々を見る度に、どうしようもなく心が痛むが、人に過ぎない私が、彼らをどうやって引きとめられるだろう。私に彼らを救う力があるわけではない。私の言葉の影響力によっては、誰一人の心をも変えることはできない。たとえ私が生涯をかけて、教界の不正を声を大に叫び、全力をかけて彼らと闘ったとしても、私には彼らを打ち倒す力はなく、すでに傷つけられた人々の心を癒す助けにもならない。さらに、そのような活動は、義侠心から出た肉の働きに他ならず、全て実を結ばない、むなしいものである。

 しかし、神が、知恵と啓示の霊をその人に賜るならば、どんなに深刻な被害を受けた人であっても、人間の力によらず、ただ神ご自身の力によって、自分が辿って来た道が、神によって絶妙に整えられたものであったことを見出すだろう。たとえ幼い頃から、不幸な事件の連続、不正な事件の連続ばかりを見聞きして来たとしても、災いでさえ、その人が主の御許に引き寄せられるために必要な行程だったことを見いだすだろう。彼は自分が神から愛されている(しかも特別に愛されている!)がゆえに、そのような特別の采配の下に置かれたことを知るだろう。そして、神は、その人が心から神を呼び求めるならば、必ず、窮地からその人を救い出して下さるだろう。

 だから、ある人に私は言いたいのです、希望を失わないで、神に救いを求めて下さい。そのために手助けできるなら、どれほど幸いなことでしょう。

 最近、ある姉妹が、私の変わりように驚いたと言った。かつては非常に傷ついて悲しみに暮れているようだったのに、今は喜びに満ちて、信仰が強められているようだと。もしそうだとすれば、そうなったのにはただ一つの理由しかない、私は多く赦されたがゆえに、多く感謝するようになったのだ。以前の私は、恐らく、どんなカウンセリングによっても立ち直れないほどに、絶望と悲しみに暮れていた。将来を思い浮かべても、希望らしきものが少しも見いだせず、人生に大きな負債を抱えている実感があった。しかし、その中から、ただ神を呼び求め、また、私のために兄弟姉妹の熱心な祈りが捧げられた結果として、今、私は心の全ての縄目から解放されて、負債を帳消しにされて、自由を与えられた。それは全て神がお与えになったものであり、私が自力で獲得したものは何一つない。悲しみも大きかったが、それゆえに、喜びもまた大きいのだ。

 だから、悲しむ者は幸いである、と私は思う。自己満足して、誰からも助けを必要としていない人には、神の栄光を見るチャンスが全くない。しかし、傷ついた人、弱り果てた人、悲しみに暮れる人、不正に心を痛め、義を求める人が、心からまっすぐ神に向かって祈る時(ただ神にのみ心を向けることが大切である)、そこには主の栄光が現れる大きなチャンスがある、神はそういう人たちに必ず、ご自身の力と栄光を現して下さるだろう。

 多く赦された人は、解放された後も、ただ自分の自由を満喫し、ハッピーな生活を送るだけで人生を終わろうという気持ちにはならない。私たちの望みは、この地上で、搾取や、蔑みや、不幸とは無縁の、幸せな人生を個人的に獲得することにあるのではなく、ただ見えない神の国でいただく栄光こそが、ゴールなのだ。確かに、今はもう、罪と死の囚人ではなくなったが、今度は、自分から、主の囚人となりたいと願う。与えられた恵みが大きければ大きいほど、きっと、そう願わずにいられないのではないだろうか。

 だから私は言いたいのです、教界の不正を見て心痛めている人たち、混乱に満ちた世の中で、自力では自分を満たすことができないと分かって、心が貧しく空っぽになった人たち、義に飢え渇いている人たち、どうか一心に、神に心を向けてください、イエスの御名によって、あなたの願うものを、神に求めて下さい。一回の祈りであきらめたりせず、求め続けてください。扉を叩き続けて下さい。

 イエスは万物を足の下に支配しておられ、イエスの御名は、万物に勝って高く掲げられています。彼の名は、この地上のあらゆる支配、権威、権力、権勢にまさり、きたるべき世においても、あらゆる名の上に置かれるのです。イエスの御名が、キリスト教界に勝って高いことは言うまでもありません。

 キリスト教界で正義を見失い、信仰のあり方まで見失った人たち、どうかその傷ついた心を正直に、ありのまま、まっすぐ、ただ神に向けて、あなたが心から求めるものを、イエスの御名を通して、父なる神に願い求めてください。人に求めず、神に願い求めて下さい、そうすれば、あなたたちは飽き足りるまでに満たされることでしょう。

 恵みは水のように、低い方へ向かって流れる、とよく言われる。高ぶった魂を、神は退けられるが、打ち砕かれて、へりくだった魂を、決して、神は軽んじられることはない。

闇はこれに勝たなかった!!

 エクレシアの結びつき、一致は、特別なものだ。それは人の短い生涯を越えて、永遠に至る結びつきだからだ。だから、そういう人たち(エクレシアを持っている人たち)と接触していると、初めはそうと気づかないのだが、次第に分かってくる、彼らが私にとって、本当に、特別な意味を持つ人たちであるということが。

 かつてある場所を訪れた際には、私はまだ安息していなかった。目に見える世界の出来事に、あまりにも気を取られ過ぎていたからだ。しかし、今は待ち遠しい、冬になって、ペチカの火を囲んでその場所で過ごす時間が。その時、誰がそこに連なっているのか知らないが、誰であろうと、きっと、私たちは静かに、永遠に、ただ主だけを思いながら、神を誉めたたえるだろう。今度こそ、人生相談をするためではなく、ただ主を誉めたたえるためだけに、そこに集うだろう。

 エクレシアを思う気持ちは、仲間を恋しく思う気持とは、異なっている。共に神を誉めたたえたいという思いが何にもまして、出発点となって、人々が集まるからだ。私たちが一同に集まる時、私たちの内側から、賛美が爆発的なパワーとなって溢れ出すだろう。ちょうど合唱隊員が集まると、合唱が始まらないではおかないのと同じだ。隊員にとっては、忘我の境地で、歌の真っ只中に身を浸すことが、本分である。

 主を賛美することは、私たちの本分である。だから、その瞬間が、待ち遠しくてならない。
 私自身の存在や、願いなどもはやどうでもよく思われる。主との一致の中にとどまり、そこでただ主を賛美したい、それが願いの全てとなる。私の内におられるキリストが、多分、誰よりも、その時間を待ち望んでおられるだろうという気がする。その瞬間のためにこそ、私は生かされていると言って過言ではない。

 私自身にとっても、その一致は、焦がれるほど待ち望む、歓喜に満ちたものであるのだが、この先、私の生活がどれほど忙しいものになろうとも、神ご自身が、その至福のひと時を絶対に、用意せずに置かないという気がする。何しろ、誰よりも、主ご自身が、その時を待ち望んでおられるのだ。二、三人の聖徒たちが集まって、心を合わせて、主を誉めたたえ、主を賛美するその時を。

 私には分かるような気がする、主がご自分への妙なる捧げ物であるこの甘美なひと時を、絶対に、自ら手放されるはずがないと。神ご自身が、ご自分の栄光のために、神を誉めたたえる聖徒たちを起こされたのだ。もし仮に私がその本分を果さないならば、他の人たちがその偉大な任務に召し出されていくだろう。
 主が定められたエクレシアは、何があっても、衰退しない。それは必ず成就する不変の御旨である。

 だから、たとえ束の間、私たちが暗闇や孤独の中を通されることがあったとしても、ばらばらになるように見えることがあったとしても、主との一つの結びつきは、ぐらついたり、消滅したりすることなく、時を経て、なお一層、輝きを増し、強められて姿を現すであろう。

 我が神よ、私たちのエクレシアは、今、本当に、しみもしわもない花嫁にまで整えられようとしているのですね。あなたご自身が、その花嫁の聖なる美しさをご覧になって、畏怖の念さえ抱くほどまでに、私たちはあなたの前に清められ、整えられ、あなたにふさわしい聖なるパートナーとして、建て上げられようとしているのですね。それを全て、私たち側からの努力でなく、あなたご自身の力で、成し遂げようとなさっておられるのですね。

 あなたにふさわしい、聖なるパートナー、誰がその意味を真実、理解できるでしょうか。どうして塵に過ぎない私たちがそんな大それた聖なる召しに耐えられるでしょうか。けれど、主よ、あなたがなさるのです、あなた以外には誰もそんなことは成し得ません、あなたがそれをなさろうとしておられるのです、ご自分の栄光のために!

 栄光は限りなく主のもの。私たちが努力によって成し得ることなど、何一つありません。私たちはただ自分を差し出し、あなたが働いて下さるに任せるだけなのです。

 何という時代に私は生きているのでしょうか。この世の闇の暗さ、深さと、そこに星のように輝く光のコントラスト。光は、やがてまぶしいほどに輝き出て、ついには、闇を覆い、闇を葬るでしょう。
 闇はこれに勝たなかった!!(ヨハネ1:5)

 エクレシアに婚礼の鐘が鳴り響く瞬間が近づいています。どんな悪魔の業も、神と聖徒たちとが愛によって結ばれるその一致を妨げることはできません。岩盤のような固い壁を突き破って、生ける水がエクレシアからほとばしり出、怒涛のように溢れ出すことでしょう。その時のために、心のすべてをささげ尽くして、主なる神を愛する聖徒たちが、今、全地に起こされようとしているのです…。

 動脈硬化などもう沢山です。キリストの御身体にどうしてそんなものがあって良いでしょう。詰まった血管は、奔流のように流れ来る生ける水によって押し流され、通り良き管へと変えられるでしょう。
 貧困や、病や、欠乏や、抑圧、難行苦行はもう沢山です。どうしてそれらの欠乏が、あなたの栄光の証となりましょう?

 サタンの虜にされている聖徒たちを、今、あなたの力によって、解放してください。そして、私たちがあらゆる恐れとためらい、嘆きや涙を捨てて、あなたの偉大な解放の御業を、心から誉めたたえられるようにして下さい。
 これまで、いわれなく、苦しめられ、獄屋に閉じ込められてきた聖徒たちの叫びをかえりみて、どうか速やかに彼らを解放して下さい。兄弟姉妹たちが獄屋に閉じ込められているままで、どうしてあなたの栄光をあまねく全地に告げ知らせることができるでしょうか。

 私たちはいつまでも互いの欠乏を補い合い、互いに傷をなめあい、互いに依存し合い、同情し合うためだけに召し出されたのではありません。何よりも、あなたの栄光を誉めたたえ、あなたの憐れみ深さ、いつくしみ深さを世に証していくことが私たちの任務であります。しかし、そのために、まず、私たち自身が、あなたの十字架、御座にいますキリストから流れ出るまことの命の豊かさ、健やかさを、隅々まで体験する必要があるのです。

 私たちがこれまでどうやっても打ち破ることのできなかった束縛の枷を、今、あなたの十字架の御力によって、打ち砕いて下さい。あなたの恵みが人知をはるかに越えた素晴らしいものであることを、私たちが隅々まで味わうことによって、これまでとらわれてきたちっぽけな知識の枠組みから完全に解放されるようにして下さい!

 御身体はあらゆる人情を廃して、ただあなたの御力によって、一つとされるでしょう。しみやしわは消えうせ、壊死した細胞は丹念に取り除かれ、悲しみの涙は最後の一滴まで拭われて、若返りの命が、エクレシアなる御身体全体から、川のように、芳香のようにあふれ出るでしょう。御霊の命の息吹が、キリストの香りとして、キリスト者全員の内側から立ち上るでしょう。それをなさるのは、あなたなのです!

 主よ、今、あなたの御身体を名乗っているものの中には、全くそうでないものが混じっています。200歳ほどに年を取った、つぎはぎだらけの醜い怪物、何度、手術されても再生の見込みのない、腐臭漂うミイラは、その老化と衰えと貧しさゆえに、甚だしく倒れ、息絶えることでしょう。それで良いのです。どうして、そんなものがあなたの花嫁を名乗って良いでしょうか。死すべきものは、ますます衰退し、滅びへと向かい、聖なる十字架によって額に刻印を帯びた、まことの命を持つ者だけが、真の豊かさ、健康さを帯びて、全能なる神の永遠の誉れにふさわしく、喜びと賛美を持って御前に立ち、また、世にあなたを証するのです。

 私たちはそのような者として召し出されていることを確信し、あなたの十字架の解放の御業を感謝して、誉めたたえます!!

 主よ、この偉大な御業の立会人とされている恵みの大きさに、私は言葉も失いそうです。私は死すべき汚れた罪人の一人であるのに、どうしてこんな恵みがあり得たのでしょうか。しかし、それをなさったのも、やはり、あなたであるのです。主よ、あなたが一方的に私を憐れまれ、死体の山の中から私を掘り起こされ、死刑宣告された罪人に過ぎない私に、十字架上で、罪の赦しと、復活の命を与えられたのです。だから、私は生きることができるのです、あなたの力によって、あなたのために!

 この願いを私の心に植えられたのは主でありますから、ためらうことなく、心よりお願いします、どうか私を永遠にあなたと共におらせて下さい、いつまでも、あなたの一致の中にどまらせて下さい、兄弟姉妹と共に、貴い御身体の一部として下さい、そして人知をはるかに越えた、あなたの永遠なる御業の完成に、可能な限り、あずからせて下さい、あなたの聖なる御業は始まったばかりなのです。