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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。

今回の記事では、クリスチャンが証の言葉を公然と宣べ続けることの重要性を強調しておく。
 
今、香港では大変なことが起きている。

6月30日には周庭(アグネス・チョウ)氏が香港での政治団体からの離脱を表明した。
 

Agnes Chow 周庭
@chowtingagnes 

 「私、周庭は、本日をもって、政治団体デモシストから脱退致します。これは重く、しかし、もう避けることができない決定です。 絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。 生きてさえいれば、希望があります。 周庭 2020年6月30日」



その数日前の6月28日、27日に、周庭氏が以下のツイートをしていたことから、やむなく政治闘争をやめざるを得なかった過程が分かる。
 

「今日の香港での報道によると、香港版国家安全法は火曜日(30日)に可決される可能性が高い、そして「国家分裂罪」と「政権転覆罪」の最高刑罰は無期懲役という。日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい...」

「香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことも考えないといけないということが、本当に悲しい。私も、たくさんの夢を持っているのに、こんな不自由で不公平な社会で生き、夢を語る資格すらないのか。これからの私は、どうなるのか... いつかまた日本に行きたいなぁ。」



さらに、6月10日のツイートにはこうある。
 

普通の23歳は就職や夢の話をする時期なのに、これから何年(中国当局に)収監されるのだろうかと考えるのが悲しい。国際社会が中国の人権状況をみているとメッセージを出すことが大事だ。」



こんなことが現代に起きているとはまことに驚きである。香港では今も国家安全法に抗議するデモが進行中だが、370人が国家安全法違反で逮捕されたとの報道もあり、もはや後戻り不可能な地点に来た様子が伺える。

香港は完全に中国共産党政権下に制圧されたのである。
 
周庭氏は過去に3回逮捕されたとツイッターに書いているため、今回は、自身の逮捕を恐れたのではなく、仲間の身を案じたのだろう。

ついに自由に発言することさえできなくなって、沈黙に追い込まれたのである。
 
こうした動きを見ながら、筆者は深く考えさせられた。やはり、何かを主張するためには、命をかける覚悟が必要なのだと思わされた。それがないことには、この世では何も主張することはできない。
 
私たちは、香港で起きていることを踏まえ、身近に何気ない日常がまだ存在しているうちに、不屈の精神を持って、命がけで、自らの主張を叫び続けることをしなければならない。それをやめてしまえば、以上は我が国の明日になるかも知れないのだ。

今、私たちがさして激しい戦いもないうちから、自己の命、身の安全、幸福な生活、生活の安寧を何より優先するならば、私たちはこのまま死人のような生活に突入して行くだけであって、我々の発言権など誰も守ってはくれないだろう。

だが、筆者が言及しているのは、政治デモのことではなく、信仰を守るための戦いのことである。

御言葉に基づき、聖書の神の正しさを主張するためには、どうしても代価が必要だ。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

また、このようにも言われた。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
詠めをしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

エステル書4:1-17を思い出す。大臣ハマンの差し金により、ユダヤ人の絶滅の勅書が出された際に、エステルが取った態度である。

「モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。更に彼は王宮の門の前まで来たが、粗布をまとって門に入ることは禁じられていた。勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた。

女官と宦官が来て、このことを王妃エステルに告げたので、彼女は非常に驚き、粗布を脱がせようとしてモルデカイに衣服を届けた。しかし、モルデカイはそれを受け取ろうとしなかった。

そこでエステルはハタクを呼んでモルデカイのもとに遣わし、何事があったのか、なぜこのようなことをするのかを知ろうとした。ハタクは王に仕える宦官で、王妃のもとに遣わされて彼女に仕えていた。ハタクは王宮の門の前の広場にいるモルデカイのもとに行った。

モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、とハマンが言ったことについて詳しく語った。彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝言させた。

ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。

この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」

エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。

「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。

エステルはモルデカイに返事を送った。

「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。

そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。 」

* * *

この国において、エステルのような覚悟を固めている人がどのくらいいるのだろうか。

政治デモではなく、クリスチャンの中に?
 
筆者はここしばらくの間、我が身を振り返り、すべてを捨てる覚悟が本当に必要であることを思わされた。

かつてオウム真理教は省庁制を取り、疑似政府を教団内に作っていたと記事で触れたことがある。その時に、筆者は書いた、もしもカルト宗教が政府に浸透すれば、そんな面倒なことをせずとも、彼らには国を内側から思い通りに牛耳ることができるようになるだろうと。

敵の狙いは、法律を自分に都合よく解釈して、悪者を守るために、そして、正しい人々を弾圧するために、法を使うことだ。

反則行為の事実を山のように積み重ね、人々に無力感を植えつけ、後からそれらを合法に見せかけ、法律を自分たちだけにとって都合の良いものに書き変えてしまうことだ。
 
だが、法はそんなことのためにあるのではない。法を悪用して自分に都合よく裁きを曲げようとする人々に対して、私たちは断固、立ち向かい、彼らの言葉の嘘を喝破し、その効力を粉砕しなければならない。

そういうわけで、周庭氏が沈黙に入る前日の6月29日、筆者は、さるぐつわを投げ捨て、立ち上がって戦うために、前に向かって歩き出した。

この日、家を出がけに、Dr.Lukeが次のようにツイッターに書いていたのを見た。
 

不毛な論争で消耗することを避けよ。



筆者は心の中で、これを見て笑った。そして、”NO”と叫んだ。

敵であるエジプト軍は、これを読んで議論など不毛だと考えて、筆者の苦労をますます嘲るだろう。そして、自己の生活に安住しようとするだろう。

だが、筆者は、命をかけてでも、守り抜かなければならない価値があることを知っているので、追っ手を振り切って、紅海を渡り、前進して行くことに決めた。

海の向こう岸を目指して、水の上を歩き出す。

たとえそれが水の上であっても、渡って行かねばならない。

私たちは生きている限り、何が正しく、何が間違っているかを識別するため、議論し、主張し続けることをやめてはならない!
 
気づくと、もはや追っ手は着いて来ていないようであった。

Dr.Lukeはツイッターで次の記事を紹介することによって、いかに議論のむなしいかを力説したい様子に見られた。それは筆者以外の人々にとっては効果があったかも知れない。
 

認識とは高次元リアリティーの投影=論争の原因=
 2019-06-29 | by drluke 

「いわゆる「熱くなる」精神状態は自己(Self)と密接に関係している。人は自分が入れ込んだもの、そしてその上に自らのアイデンティティを置いたものを否定される時、抑え難い情緒的反応を呈する。「誤り」を指摘して相手の説を論駁し、「正しさ」を論証して自説を通そうとすることは、実は魂の自己主張と自己保存欲求の現れである。善悪の知識の木の実を食べて魂を肥大化した人類の宿命である。



要するに、人が「熱くなって」議論に熱中するのは、セルフ(堕落した自己)のなせるわざだというのだ。人は自分が入れ込み、その上にアイデンティティを築いたものを否定されたときに、自己を否定されたと考え、むきになって自説を主張せずにいられなくなるというのだ。

そうして、自己の正当性を主張するために議論を続けるのは、ますます善悪知識の木の実を食べて自己を肥大化させるだけの道だから、それはみっともないことであり、悪であり、避けた方が良いという。

だが、筆者は全くそれに共感しないばかりか、よくもこんな大した自己矛盾が言えるものだと呆れるだけだ。

第一に、このように言ったDr.Luke自身が、KFCの元信徒から「密室で呪いの預言をされた」ともの申された際、「熱くなって」、信徒の「誤り」を指摘して、相手を「論破」するために、しかも、ただ論破するためだけでなく、実力行使して排除するために、信徒を刑事告訴したのではなかったのか。

間違えないで欲しいのだが、筆者は刑事告訴すること自体が禁じられていると言っているのではない。

だが、Dr.Lukeの場合、彼の訴えた信徒の言い分は、真実であったかも知れず、さらに、彼は宗教指導者や、教職者という立場を利用して、ほとんど言い返す能力もない信徒を相手に告訴し、沈黙に追い込んだのである。

さらに、Dr.Lukeはブログやホームページで、当ブログも含め、気に入らない考えを述べている信徒を断罪しては、未だ自分の「正しさ」を論証し、「自説を通そうとする」ことを止められないでいる。

ニッポンキリスト教界も日々断罪されていれば、数知れぬ著名人もそこに含まれている。

彼の言葉をそのまま使えば、そのようにして、何が正しく、何が間違っているかという議論にのめり込むこと自体が、肥大化した「魂の自己主張」であり、「自己保存欲求の現れ」であり、「善悪知識の木の実」を食べて生きる人類の宿命なのではなかったのだろうか?

このように、Dr.Lukeの説は自己矛盾している。彼の理屈においては、自分が他人に論争をしかける時だけは、それは正しい行動であるが、他人から論争をしかけられる時には、それは「セルフ」のわざであり、悪しき人類の宿命であって、「善悪知識の木の実」の結ぶ議論とされるようだ。

そんな二枚舌の人間の言い分を信じてはならない。

悪徳商法は、人にものを考えることをやめさせるが、それは人を騙すためだ。

Dr.Lukeが論争を避けるように言うのは、人々に自分で物事を考えさせず、彼の教説の是非を検証させず、彼の言うことを疑わない思考停止状態を作り出すためである。

また、それは、牧師(指導者)と信徒という上下関係の中に信徒を閉じ込め、目下の立場にあるはずの信徒が、目上の立場にあるはずの指導者に異議申し立てをさせないための圧力でもある。

その考えは、戦前・戦中の国家神道、天皇崇拝によく似ている。

* * *

 『国体の本義』は、人々を上下関係の中に閉じ込め、人間に全体から切り離された個人としての存在価値を認めず、上下関係からの離脱の自由を与えなかった。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」



このように、『国体の本義』は、人は生まれながらに国家とその歴史に連なる存在であって、そこから抜け出す道はなく、全体から切り離された個人などは、虚妄の概念に過ぎないとして、個人という概念すらも根こそぎ否定したのである。

そうして、個人は全体から切り離せない存在であると決めつけた上で、国が国民に忠君愛国、親孝行などを強要し、人は自分よりも強い者のために自己犠牲することで分を果たせるなどと教え、「天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。」などとして、人が天皇のために死ぬことまで要求したのである。

その際、人が個人として己のために生きることを「小我」として軽蔑し、自己を捨てて天皇のために身を捧げることこそ、「国民としての真生命の発揚」などと誉め讃え、人が天皇のために死すことが最大の美徳であって、人としての使命の全うであるかのように要求し、そうした異常な価値観に対して一切の異議申し立てを認めず、個人としての生き方を徹底的に侮蔑・否定したのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。



このように、戦前・戦中の国家神道・軍国主義が、人に権威者への異議申し立ての機会や、自己主張の機会を一切与えなかったのは、彼らが作り出したヒエラルキーの中に人を閉じ込め、その支配関係の中で、個人を最後の血の一滴まで道具として使役せんがためである。

グノーシス主義とは、人をそのように上下関係の中に閉じ込めて離脱を許さない教えである。

なぜこのように、戦前・戦中の日本社会では、「全体の中に閉じ込められた個人」の存在しか認められず、「全体から切り離された個人」が認められなかったのか、その考えの根源は、「神と人との和」という発想にあることも、前に説明した。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、四、和とまこと より抜粋

  更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。

このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。

 又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。<略>

 この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。



これを読んで分かるのは、戦前・戦中の日本では、「神と人とが和合している」という誤った概念に基づいて、すべての誤った人間関係が規定されたことである。

端的に言ってしまえば、人間の罪を認めず、神と人との罪による断絶を認めない反聖書的な思想の誤りが、すべての間違いを導き出したのである。

当時の日本社会では、「我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」と書かれているように、キリスト教とは異なり、神と人とが罪によって断絶し、人間が滅びに定められたなどの事実は否定されて、神と人とが「親密」であるとされた。

そこで言われる「神」とは、天皇家のことであるから、彼らの言う「神と人とが親密」というのは、天皇と臣民とが「親密」だという意味である。

「親密」とはどいうことか。

それは結局、「和」のこと、和合しているという意味であるが、天皇と臣民は生きて会うこともほぼないわけだから、そこで言われる「和合」とは、言い換えれば、「切り離せない」関係のことである。要するに「あなたはこの上下関係からは、未来永劫、逃れられませんよ」という意味だ。

そして、「夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。」とあるように、この「親密さ」「和」は、個人が全体の中での「分を守ること」つまり、「上下関係を覆さないこと」によって保たれる。

個人はあくまで社会の中で定められた上下関係の中で、自分に与えられた分を超えないようにしながら、求められている役目を果たすことによって、「集団の和」を保たねばならないとされたのである。

相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。」と書かれている通り、「上下関係を覆すこと」や「対立」を生むことは、「自己に執着」する行為として、和を乱す悪とされた。

これは、Dr.Lukeの言葉と非常に近いものである。

「いわゆる「熱くなる」精神状態は自己(Self)と密接に関係している。人は自分が入れ込んだもの、そしてその上に自らのアイデンティティを置いたものを否定される時、抑え難い情緒的反応を呈する。「誤り」を指摘して相手の説を論駁し、「正しさ」を論証して自説を通そうとすることは、実は魂の自己主張と自己保存欲求の現れである。善悪の知識の木の実を食べて魂を肥大化した人類の宿命である。」



つまり、自分よりも目上の人間の誤りを公然と指摘して恥をかかせたり、その者を論破して自説の正しさを主張したり、上下関係を否定したり、そこから離脱したり、これを覆すような行為は、「自己に執着して対立」を生む、すなわち、和を乱す行為であって、悪とされたのである。

そして、目上の人間は、目下の人間が「分をわきまえて」行動しているのを見て、つまり、決して自分を乗り越えて権力を主張したり、自分との上下関係から離脱しようとしないのを見て、これを良しとしたのである。

そこで、ここで言われる(たとえば天皇から臣民への)「慈悲」「慈愛」とは、結局、「お前は私より劣った存在であって、その分をわきまえて行動することを忘れるなよ、その限りにおいてのみお前の存在を認めてやる」というディスカウントの言葉でしかなく、真の慈悲や愛情と呼べるものではない。

このような考えに基づき、当時の日本社会においては、国民は生まれながらに天皇の赤子であって、天皇との関係から離脱は許されず、天皇だけでなく、親子関係においても、職場の上司と部下との関係においても、社会のいかなる場所においても、上下関係に従って、分をわきまえて行動することが求められ、決して異議申し立ても、その関係からの離脱も許されなかったのである。

これが「親密」の意味である。人を上下関係の中に閉じ込め、異議申し立ての機会を与えず、そこから離脱する自由も与えず、果ては命まで要求するのだから、大した「和」である。

「親密」と言いながら、あなたにつきまとって来ては、カツアゲを繰り返すヤクザを想像すれば良い。そこに真の「親密さ」「慈悲」もあろうはずがない。そんな「和」など心底、ご免被りたい。

* * *

もちろん、そんな異常な教えには、終戦によって裁きが下された。戦後の民主主義も、キリスト教も、決してそのように「全体から切り離された個人」を虚妄として否定する考えの上に成り立つものではない。

むしろ、逆に、聖書においては、前述の聖句にも見る通り、主イエスは信じる者に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と言われた。

ここでは、親子関係が未来永劫に抜け出せないものとして提唱されているなどのことはない。それどころか、親子関係は、神に従う以上に優先されてはならないことが記されている。信仰は、家族関係に従って代々受け継がれるようなものではなく、あくまで個人としての決断であり、選択である。

また、主イエスは、狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)と言われた。

神の国に入る人は、「全体」ではなく、極めて少数の人々であることが示されたのである。

また、主イエスは偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ7:15-16)と言われ、個人がしっかりと自らの頭で物事を考えて、御言葉に照らして、何が正しいかを識別し、誤った教えを見分ける必要性を幾度も強調された。

主イエスは、信じる者が、社会の上下関係の中で、分をわきまえて行動し、自説に固執することによって周囲に波風立てて和を乱さないように、対立を生まないように自己主張を控えるように、などとは一切、言われなかった。

むしろ、主イエス御自身が、自分は分裂をもたらすために地上に来られたと言われたほどである。

主イエスは、地上におられる時、宮の境内から商売人を怒って追い払われたり、嵐を叱りつけられたり、不正には憤り、人の苦しみの前に涙を流され、自らに論争を挑み、彼を破滅に陥れようと罠を張った律法学者や、祭司たちには毅然と反論された。常に人間としての意思と感情をはっきりと表され、自らの信じる通りに、つまり、父なる神の戒めの通りに、ご自分の信念を持って真実に行動されたのである。

従って、聖書において、主イエスは決して自己主張を殺して、世人に迎合されたことは一度もなく、自己主張をすることや、怒ったり、反対を述べたり、非難するという、世に対して「和を乱す」行為を悪とされたこともなかった。

堕落したこの世に波風立てず、対立を起こさないことを善とされたのでなく、むしろ、この世からは憎まれ、罪なくして十字架につけられるほど、この世からは憎しみを受けられたのである。

そこで、私たちも、主イエスにならう者として、御言葉に従うためならば、世からの敵対や反発を恐れず、大いに自己主張せねばならないのであって、それは自分のためではなく、聖書の神の正しさを証明するためである。

「兄弟たちを告発する者」、すなわちサタンを後退させるために、私たちは生きている限り、証の言葉を宣べ続けなければならない。

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまでも命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

この御言葉を読むなら、文字通り、「死に至るまでも命を惜しまず」、「自分たちの証しの言葉」を宣べ続けることによってしか、サタンに対する勝利がもたらされないことが分かる。

主イエスは言われた。

神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ8:38)
 
罪深い時代の風潮に迎合し、自分を惜しんで証の言葉を捨てるなら、その者は自分自身が、来るべき日に、主によって恥じて捨てられるだけだ。

このように、聖書的な観点から見れば、何が正しく、何が間違っているかを識別するための議論を行うことは、何ら悪ではなく、正統な信仰を守り抜くために、証の言葉を宣べ続けることは、決してやめてはならないことである。
 
むしろ、聖徒らの信仰の証しを迫害し、口を封じようとすることこそ、悪魔の所業なのである。

だから、人が自己主張することが、悪だという誤った考えを持ってはならない。人が何を擁護して自己主張するのか、神の側につくのか、それとも、サタンの側につくのかが問われているだけである。
  
エデンにおいて、悪魔にそそのかされて、神が食べてはいけないと命じられた善悪知識の木の実を取って食べて以降、人類の中では、善と悪がごちゃ混ぜになった。

この木の実を食べるまで、人は神の御言葉の中を歩み、何が善であるかを知っていたが、サタンのそそのかしに従って、この木の実を食べたとき、人の中に悪が入り込み、人は善と悪を見分ける力を失ったのである。

こうして、混合してはならない相反する異質な概念が、人の内で同居するようになり、人は罪に堕落し、自ら神に至り着くことができなくなり、ただ御言葉だけが、この相反する二つのものを切り分け、人が悪を捨てて、罪に対して死んで、神に対して生きるようにすることができる。
 
御言葉だけが、人の内で混ざり合った善と悪の概念をもう一度、切り分け、死の病に冒された人を救い出して、神の正しさの中に引き戻すことができる。

ただし、一度でも罪に堕落したものは、罰を受けずに正しい存在にはなれないため、キリストの十字架の贖いが存在するのである。

こうして、聖なるものと、汚れたものとを分離するために、御言葉があり、キリスト教の二分性がある。

そこで、私たちは自分の頭で、御言葉を用いて、何が真実であって、何が嘘であるか、何が神に喜ばれる正しいことであって、何がそうでないのか、自ら考え、識別することをやめてはならない。

そうして御言葉による識別を否定し、自ら考えることをやめるとき、その人の内には、グノーシス主義者の言う「相反するものの統合」が残るのである。

かくて、善悪を知る知識の木の実を取って食べるとは、善悪について議論することや、自分が正しいと思うことを主張することを意味するのではない。かえって、善と悪を識別することをやめて、正しいものを守るための議論をやめること、自ら正しいと信じることを主張するのをやめて、証しをやめ、善悪をごちゃ混ぜにして識別せずに容認する態度を取ることを意味する。

歴代教会は、異端を識別するための公会議を幾度も開いて来た。正しい教えを異端から守るために、誤った教えを識別し、それを正しい教えから切り分けるための議論の重要性は、どんなに強調してもし足りない。

にも関わらず、御言葉の切り分け機能を用いて、自分で物事の是非を考え、議論することをやめてしまうならば、その人こそ、再び、善悪知識の木の実を取って食べているのだと言えよう。

善悪知識の木の実とは、「相反する概念の統合」である。

この木の実の本質は、「善と悪を統合すること」にある。つまり、グノーシスである。

Dr.Lukeは、幾度警告されても、「自分は大丈夫」と言いながら、聖書とは異質な教えを取って食べ続けた。ペンテコステ運動、サンダー・シング、ニューエイジ、スピリチュアリズム、禅、東洋思想…。

そうして限りなく「善悪知識の木の実」を食べ続けたために、彼の教説は、何でもありの混ぜ物だらけの堕落した福音になったのである。
 
もう一度言う、私たちは、議論することによって、善悪知識の木の実を取って食べるのではなく、逆に議論しないことによって、識別しないことによって、善と悪をごちゃ混ぜにして、善悪知識の木の実を食べるのである。

だから、議論することや、自己主張することが、悪だと考えてはならない。

分をわきまえ、社会に波風立てず、自己の主張を殺し、権力者に異議申し立てを一切せず、誰とも議論しないことが、あたかも正しい所業であるかのような考えに欺かれ、まだ生きているうちから、もの言わぬ死人のようになってはいけない。

私たちは生きている限り、公然と御言葉の証を宣べ続けなければならない。

それなのに、御言葉による切り分けのために必要な議論までも、悪として退け、聖徒らに証を宣べることをやめさせて、沈黙に追い込もうとする力は、悪魔から来るものであって、神の喜ばれることがらではない。

それは親孝行を是とする儒教的精神、忠君愛国を解いた国家神道、天皇崇拝などから生まれた、人間の作り出したこの世のむなしいだましごとの哲学の下に、聖徒らを閉じ込めようとするグノーシス主義的精神であって、聖書にその根拠はないことに気づかなければならない。

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肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

とても重い反駁の作業の第一段階が終わった。筆者が、聖書の正しい教えを守り、悪魔から来た誤った教えを退けるためには、論戦が必要だと書いているのを見て、そんなのは嘘だと思っている人間がいるかも知れない。

しかし、私たちの発する言葉は、すべて霊的な論戦の材料なのだ。そして、敵(暗闇の勢力)の発する言葉には、いつも自己矛盾があって、そこには、嘘や、呪いが込められている。

私たちは、敵の理論のほころびを見つけ出し、これに丁寧かつ根気強く反論することで、彼らの蒔いた嘘を無効化できる。

以前から書いている通り、嘘は嘘たる所以を明らかにすることで、効力を失う。反論とは、単なる否定ではなく、敵の論を無効にするための作業なのだ。 
 
この先、隠れたところで行われることを見ておられ、明らかにされる神が、何をどう明るみに出されるかに注目したい。

地道な論証作業の積み重ねの必要性はいくら強調してもし足りないし、判断が下されることで、初めてその理論のほころびや、次に踏むべきステップが見えてくる。全てのことが極めて貴重な実地体験であり、それがあって初めて前進が可能となる。 

だが、筆者の論証作業だけが物事の真相を明るみに出すわけではない。隠れた事柄を明らかにして下さるのは神ご自身であるから、神の御業に信仰を持って期待したい。
 
 
* * *

さて、前回、Dr.Lukeの教説の異常性について触れたが、彼は最近、「エロヒムの増殖」なる非常に気持ちの悪い言葉を使うようになった。

神の増殖を増殖する-エロヒムとはスピリチュアル・ドメイン-」
2019-03-05 |  by drluke 

上記の荒唐無稽な記事内容には深く立ち入らないが、この記事に欠けているものがある。

それは、やはり、キリストの頭首権に服すること。すなわち、御言葉の掟を守ることだ。

御言葉の中にとどまらない者、その掟を守らない者は、神の国の住人ではない。

その視点が、Dr.Lukeの教説からは完全に欠けている。

いわば、自分は御言葉に服さないまま、恵みだけを受け取るという、いいとこどりの御都合主義の福音である。

Dr.Lukeが「エクレシアとはキリストだ」と言っていることについては、これは首のない体であるということを説明した。

エクレシアはキリストの体であって、頭ではない。そして、頭(かしら)なる方こそがキリストであるから、Dr.Lukeが主張しているものは、首のない体なのである。

ヘッドのないボディ。司令塔なくさまよう体。斬首された罪人の体。

それが「増殖」するとは何を意味するか。

自己増殖である。

頭なるキリストなしに、体だけが自己増殖するのだから、そこには「二人」ではなく「一人」しかいない。だから、自己増殖である。

グノーシス主義において、単独で神を知ろうとしたのはソフィアである。彼女は最下位のアイオーンであったが、父なる神からの承認がないのに、神のDNAを盗み、自ら神となろうとした。その結果、ソフィアの堕落(転落)が起きる。

「父」が、自分の生んだ子でないものを、自分の子と認知するはずがない。だが、神から神の性質をを盗んだそのトリックを正当化するために、ソフィアとその子孫たちは、「神の御国の後継者」を名乗り出て、正当な後継者を追い出し、自分たちこそが神の子孫だと詐称する。それがグノーシス主義である。

Dr.Lukeはこんなことも言っていた。

ジーザスがニューエイジを始められた-我々こそが真のニューエイジャーだ
2018-06-16 |  by drluke 

これは、類人猿は人類の親戚だから、人類の兄弟だと言っているのにも等しい。

Dr.Lukeは、以上のようなタイトルを通じて、イミテーションが本物を模して作られたからと言うだけで、イミテーションを本物と巧妙にすり替えようとしているのだ。

聖書とニューエイジは何の関係もなく、ニューエイジはどこまで行っても、聖書の悪しき模倣でしかない以上、キリストとは何の関係もないイミテーションに過ぎない。

ところが、本物とイミテーションをごちゃまぜにし、すり替えてしまうのである。

Dr.Lukeの記事のタイトルは、「人類と類人猿は似たDNAを持っているから、人類こそが真の類人猿だ!!」などと叫んでいるに等しい。

一体、なぜ、我々が尊い人類であることを捨てて、「真の類人猿」などという蔑称にも近い呼称を受け入れなければならないのか。

そこに巧妙なすり替え、ディスカウントがあるのに気づかなければならない。

あなたは類人猿が人類と似たDNAを持っているからと言って、類人猿があなたの親戚として名乗り出ることを認めるだろうか。ある日、類人猿があなたの家庭にやって来て、自分はあなたの兄弟だから、自分にも相続財産を分けろと言えば、それを認めるだろうか。

絶対に無理だろう。

ところが、ニューエイジは聖書のパクリだと強調することによって、キリストはニューエイジの元祖だと論旨をすり替え、キリスト教徒がニューエイジを受け入れることは罪ではないとする。

これは、全く性質の異なるものを混ぜ合わせようとするとんでもない論法であって、キリストを人間のレベルに引き下げることによって、彼から聖なる神の独り子としての性質を失わせてしまう、ペンテコステ運動にありがちな「養子論的キリスト論」と同じトリックである。

要するに、そのような教えを信じる人々は、自分たちが聖書の「まことの父」から生まれたと勝手に詐称しているだけで、実際には、そこには異なるDNA(異なる福音)がごちゃ混ぜにされており、彼らは誰から生まれたのか、誰が父なのかも分からず、結局、その教えは、父を持たない「みなし子の福音」なのである。

さらに、Dr.Lukeは、人類は地上に生きている限り、完全な贖いに達することはできず、従って、完全な聖化も有り得ず、すべての面で新創造とされることはない、という事実さえ見失っている。

スピリチュアル・ジャーニーは神との同意から始まる
2018-06-29 |  by drluke  ではこう書いている。

「私が最近強調しているニュー・クリーチャー、エロヒム属。アダムにある私たちはすでに終わり、キリストにある新創造とされた事実(2Cor 5:17;Gal 6:15)。これって、けっこう抵抗があるようだ。あるいはこの聖句を単なる文学的表現と思っているむきもかなりある。

いわく、自分のうちを見ると罪的なものや汚れているものばかり。それを無視して、新しい人類と言ってしまっていいのか? 私たちは罪ゆるされた単なる罪人にすぎない1)、だからへりくだって、自我が砕かれる必要があるし、もっと罪の告白やデボーションや修養により聖化される必要がある・・・。ところがそのような人はたいてい次から次へと問題を抱える。

大脳辺縁系の問題はもう繰り返さないが、真理は私が今現在どのような状態であるとかないとか、一切関係ない。神がキリストにあってそれをなされたゆえに私たちはすでに新創造、ピリオド。スピリチュアル・ジャーニー、すなわち神とともにスーパーナチュラルな歩みをするためには、まず神と同意する必要がある。問題を次々に抱える人は、実は真に神と同意してしないのだ。

ふたりの者が同意することなしに一緒に歩めるだろうか。-Amos 3:3

神は言われる、あなたはすでに聖であり完全である。新しい生命体であり、ニュークリーチャーであると。あなたはこれに同意するか?

サタンはすでに私たちに対して何らの権威も有していない。が、彼は私たちのマインドに接触できる(Eph 2:1-3;Col 2:20)。私たちのマインドに彼が語りかける偽りに同意するならば、彼のパワーが私たちに働くようになる。つまり自ら敵の権威の下に服することになるのだ。」

非常に危険なのは、Dr.Lukeがかねてより「魂と肉体の堕落」という聖書的事実を無視しながら話を進めている点である。

Dr.Lukeはここで、地上にある限り、私たちは堕落した魂と肉体を持ち、体が贖われない限り、地上において、完全な新創造とされることはない、という事実に言及していない。

Dr.Lukeはかねてよりボディビルで鍛え上げた自分の肉体を自慢するなど、肉体が堕落したものであって、そこに働くのが罪と死の法則であることを無視した教説を唱えて来た。

そしてついに、肉体の堕落(+魂の堕落)という事実を無視したまま、自分たちは新創造だと言い始めたのである。

これは、危険極まりない教えである。
 
パウロは言った。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則性があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマ7:18-25)

このように、罪と死の法則が絶えず働く堕落した肉体の中にありながら、命の御霊の法則に従って善をなそうとして生きる、パウロの言ったその葛藤が、Dr.Lukeの教説には、存在しないのである。

聖書は、肉(魂と肉体)が堕落していると言い、私たちは罪と死の法則に縛られながら、霊によって善をなそうとしてもがいている状態にあるという。

その葛藤に終止符を打つのは何か。肉に対して十字架の死が適用されることである。
  
聖書は言う、

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)

これは、人の堕落した肉の領域には、十字架の霊的死が絶えず適用されなければ、人は肉に従って生き、すなわち、罪と死の法則に支配されることを免れられないことを意味する。

ところが、Dr.Lukeは、肉に対して十字架の死が適用される以外に、人が罪と死の法則に対して死ぬ方法がないという事実から目を背け、人が霊によって体の仕業を死に渡すのではなく、自らの「マインド」すなわち、思考パターンを変えることによって、魂の領域に働くサタンの脅威を排除できるかのごとく教える。

彼は上記の記事の中で、このように言う、「人は自分で自分を罪深いものだとみなして、くよくよ悩むから、実際にそうなるのであって、自分で自分の思いを変えて、自分はすでに新創造とされたと信ずれば、サタンの脅威に翻弄されることはない」と。
 
このような考えには、ある種のトリックがある。すでに幾度も書いて来た以上、私たちが新創造とされているのは、霊だけであって、魂と肉体は、この地上に生きている限り、新創造とはされず、逆に十字架の死に服さなければならない。

このように、魂と肉体は常に主と共なる十字架で死に渡されなければならないのに、「思考パターンを変える」ことによって、サタンの働きを排除できるとなれば、その霊的死の必要性は忘れ去られる。

そうした考えに陥ると、結局、サタンの攻撃というものは、人の外側から来るものでなく、内側に存在するものであって、人の考え方が悪いから、サタンの攻撃を受けるのだ、という結論に至り、サタンの罪が免罪される。
 
たとえば、肉体というものの堕落を認めない考え方に立つと、「病気になる人は、肉体の筋力が衰え、免疫低下が起きているから、病気に罹患するのであって、健全な肉体を持ちさえすれば、病気にかかることはない」などという考えが生まれる。

そうして、肉体を増強することで、病に打ち勝とうと、ボディビルに励んだりすることになる。しかし、どんなにボディビルに励んでも、人は病どころか、死を克服することもできず、どんなに鍛えた体も、滅びに向かって行くこととなり、そのようなやり方で、人間の肉体を永遠にまで高めようと試みるものは、逆説的に、自分で自分の肉体を滅ぼすという、三島由紀夫と同じ最期に行き着く。
 
そのような理論を、同じように魂の領域に当てはめた場合、魂そのものの堕落という事実は否定され、「人が悩んだり、苦しんだりして、精神の働きが低下したり、精神を病んだりするのは、魂(精神)の筋力が衰え、魂(精神)の免疫低下が起こるからだ。だから、マインドを鍛えれば、悩み苦しみは去る」などという理論が生まれる。

その結果、人々は、自分の「マインド」を何とかして改造し、弱みを取り除き、強い「マインド」を作れば、悩み苦しみは去って、幸福になれると考え、魂のボディビル(自己改造)にいそしむ。「マインド・セット」によって、心の筋力増強に取り組んで行くことになる。

だが、そのような考え方は、魂と肉体そのものが堕落しているがゆえに、すべての罪が生まれるのであって、これらの肉はどんなに改造しようと、良いものにはならず、死に渡される以外に結論はないという聖書的事実を否定している。

自分で自分の思考改造を行うことによって、悩み苦しみのない幸福に到達し、サタンの攻撃を免れられるなどというのは、真っ赤な嘘である。

それは「病気なんてない。病気があるのではなく、ただ人の体が弱くなった結果、病気に似た現象が起きるだけだ」と言うのにも似て、「サタンの攻撃なんかない。人の精神が弱くなるから、そういう状態が生まれるだけだ」と言っているに等しい。

サタンは、存在を隠すことによって、聖徒らからの攻撃を免れようとする。多くの人たちは考えている、「悪魔なんていない。そんなのは想像の産物だ。」と。

そのようして、悪魔は脅威ではないと思わせ、堕落した肉に働く罪と死の法則を軽視・無視することで、悪魔は逆に人々に対するステルス支配を行うことができる。

その足場を排除するためには、魂と肉体が堕落している事実を認め、それを十字架において死に渡し、体の仕業を絶つこと、自己を否むことから始めねばならないのに、罪による堕落を否定し、死に渡されなければならないものを改造することによって、あたかも悪しき働きから逃れられるかのように教えることは偽りである。
 
こうして、サタンの脅威を否定し、肉の堕落を否定し、サタンの働きを人があたかも自己努力によって克服・排除できるかのごとく教えることが、悪魔による支配の第一歩なのである。

それに対して、私たちが知らなければならないことは、「どんなに自己改造をしようとしても、人間の魂と肉体は堕落しており、人がこれを自分自身で改良することはできない」という聖書の事実であり、「これらのものは、十字架で絶えず死に渡されるしかない」という結論である。

だからこそ、人は自己を否み、自分の十字架を取って、イエスに従わなければならないのである。
 
  <続く>


キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブル11:6)

* * *

長らく何の関係もなく、彼らが何を言っているのかも知らなかったが、その間にここまで異端化が進んでいたのかと呆れた。

Dr.Luke率いるKFCのことである。

エクレシアとはキリストである」2019-06-25 |  by drluke 

この標題を見ただけで、ああ、またしても聖書にはないことを言っているなとすぐに分かる。
記事の中でDr.Lukeは次の聖句を自分で引用している、

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

教会をエクレシアと置き換えて読んでも、エクレシアはあくまでキリストの「体」。キリストご自身ではないのだ。「体」は「頭」の指令に従って動く。

つまり、エクレシアがキリストの体であることの意味とは、エクレシアは頭(かしら)であるキリストの頭首権に服し、その手足となって動くという意味なのだ。

前述の御言葉の前に次のフレーズがあることを忘れてはならない。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(エフェソ1:22)

ところが、この「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」という部分は、Dr.Lukeの記事からは都合よく抜け落ちている。

同じエフェソ書には次のようにもある。

「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:14-15)

これを読む限り、エクレシアは、キリストの体ではあるが、頭ではない、ということがよく分かるだろう。

ならば、Dr.Lukeが「エクレシアとはキリストである」と言っていることの意味は何か。

これは、頭のない体のことを指す。

頭がない体とは、首のない体、斬首された罪人と同じである。Dr.Lukeがしばしば尊敬する人物として挙げている三島由紀夫は、自ら割腹し、首を刎ねられて死んだことを思い出したい。

首を刎ねられるとは、明白に罪人の死を意味する。

以前にも当ブログでは書いた。首を刎ねられた上、割腹するとは、自らの欲望を神として生きた者が、その罪のゆえに罰せられるという意味だと。

首のない体が、地上をうろうろさまよっている光景を考えてみれば、誰しもぞっとするばかりだろう。

首のない体とは、自分で物事を考えることができず、判断することができない体である。そして、自制することもできないので、体に働く欲望に従ってほしいままに罪を犯す。

体は、罪に堕落しており、死が適用されなければならない領域である。
 
キリストに連なり、彼と共なる十字架の死と復活を経て、この御言葉なる方の頭首権に服するからこそ、死んだはずの者が贖い出されて生きるのである。堕落した体にも霊的死が及び、もはや体の欲望の奴隷となって生きることがなくなるのである。

従って、我々を死から救い出して下さった方の頭首権を否定するならば、その人は死刑に処せられたままの首のない体に等しく、それはキリストでないばかりか、エクレシアでさえもない。

そして、首のない体とは、唯物論のことなのである。

フォイエルバッハは唯物論者の父のような存在であり、マルクス、エンゲルスなども、フォイエルバッハの哲学を土台として自らの唯物論を作り上げた。

Dr.Lukeが神学を「人間が考え出したもの」として否定して来たことも知られるが、同氏は「カルバンvsアルミニウスのナンセンス」(2017/01/07 20:41)で言う。

フォイエルバッハは、「神学は人間学である」と喝破した。つまりソレを唱える人の精神病理の反映なのだ。カルバンはサディズム、批判者をあえてとろ火で火あぶりにした。ルターはユダヤ人排斥でヒトラーの思想的根拠となった。ウェスレーは完全癖・強迫性で、清め派の牧師などはメンタル病むのが多い。自殺者もね。だから、私は神学本読むときは、その提唱者の病理を読み取るべく読んでいる次第。要するに彼らの主張をマジで受け取るなということ。

要するに、ルターもカルヴァンもウェスレーも人間的に狭量であるから、彼らの神学は間違っている、というとんでもない言い分だ。

ここには、ルターは宗教改革によって、カトリックの教皇権を含め宗教権力を否定し、「聖書のみ」を唱えて、カトリックから分離し、聖書への回帰を唱えた結果、カトリック側からは異端者とみなされ、断罪された経緯などは、一切触れられていない。

さらに、かつては「人間に優しい砂糖まぶしの甘えの福音」は聖書に反する罪であるとして断罪していたDr.Lukeが、また、今もニッポンキリスト教界を根こそぎ否定しているDr.Lukeが、ルターとカルヴァンとウェスレーの狭量さを断罪するなどといった自己矛盾は全く愚かしい限りである。

プロテスタントの宗教改革者は「聖書のみ」の観点から、この世の世俗の権力と迎合したカトリックの宗教権力を否定したのであって、宗教改革者の人間的な弱点を取り上げることによって、彼らの果たした最も大きな功績までも否定するのは間違いである。

そこまでするならば、いっそDr.Lukeがカトリックへ回帰すれば良い。法王はあらゆる宗教の原理主義を否定しているようなので、考え方としては極めてよく似ている。「生ぬるい信仰」はOKだが、本気ですべてを捨てて、神に従うような考え方は、原理主義であり、過激派だから、御免被るというのである。

「苦しみの代価の伴わない、生ぬるい信仰」、「大衆迎合主義的信仰」を唱道していればこそ、Dr.Lukeはかつて自分を激しく罵り、プロテスタントを去って、カトリックへ行った言われている信徒と仲良く文通したりするのだろう。

そういう意味で、Dr.Lukeはもはや「聖書のみ」を唱えたプロテスンタントの中にはいない。そして、「聖書のみ」に基づく信仰を否定するからこそ、ニューエイジ、オカルト、サンダー・シング、禅、三島由紀夫など何でもありのごちゃまぜの福音を垂れるようになっているのだ。

だが、Dr.Lukeの出発点はペンテコステ運動だった事実も見逃せない。反カルト運動の指導者らも、ペンテコステ運動から出てきているが、当ブログでは、ペンテコステ運動は、その本質は盗みであるということを再三、述べて来た。

当ブログでは、ペンテコステ運動は、聖書の中から出て来たものではないということをいくつもの記事で解説した。また、その運動の本質は、本来は、キリスト教でないものが、既存のキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込み、これを内側から破壊し、乗っ取ることを目的としていることも指摘した。

反カルト運動を率いている村上牧師が、沖縄の教会をブランチ化したことへの疑問も前から述べているが、最近、Dr.Lukeが「第二のエクソダス」などを呼びかけているのも、既存のキリスト教から信者を離れさせるためである。

既存のキリスト教界を否定するのは自由とはいえ、自分の囲いでないところから、羊を奪い取ろうとするように、離れさせるのはいかがなものか。

ちなみに、当ブログでも、プロテスタントの終焉を述べているが、それは「聖書のみ」の信仰を否定するためではなく、カトリックの宗教権力を否定して「聖書のみ」の信仰へ立ち戻るために始まったはずのプロテスタントが、時を経て、牧師制度という、またしても聖書にはない宗教権力を打ち立て、それを固定化させたためである。

牧師と信徒の階級制には、聖書的根拠がない。だから、カトリック同様に、教職者を信徒にまさる階級として位置づけ、信徒から教職者への奉仕を当然視し、牧師に権力を持たせたプロテスタントは、もはやカトリックとの境界線を失い、新たな宗教権力となって、当初の宗教改革のエッセンスを失ったのであるとして、反対しているのである。

それゆえ、今やもう一度、プロテスタントからの宗教改革が必要とされている、というのが当ブログの結論である。

さて、話を戻せば、Dr.Lukeは自分たちは「神(=エロヒム)」だと豪語しているが、彼らの言う「エロヒム」とは何なのかは上記の記事に解説されている。

「かくしてあのキリスト(The Christ)がなされたことがキリスト(christ)であるわれわれにおいて再現される。ただし、私はわれわれがナザレのジーザスとは言っていないし、エロヒムであると言っているが、YHWHであるとも言っていないことに注意すること。何度も指摘するようにエロヒムとは霊的領域あるいはカテゴリーである(Dr.Heiser)。」

何と、エロヒムとは「霊的領域あるいはカテゴリーである」そうだ。

ここに欠けているものは何か。意思・人格を持ったパースンである。

聖書によれば、神は霊であるが、人間と同じように、意思や考えを持っておられるパースンである。キリストの御霊は、キリストの人格そのものである。

従って、ヘッド(頭)を失ったボディ(体)には、意思・考え・思いなどを持ち、体を統御する司令塔となる人格が存在しないのである。

ボディは、ヘッドの意思によって治められる領域であり、同じDNAを持つ一つのカテゴリーに属する細胞の集合体である、と言えるだろう。

これらの細胞の塊は、ヘッドの意思があってこそ、一つの目的へ向かって一貫性を持って機能する。

もしボディからヘッドが失われれば、そこには、統御されないバラバラのパーツ、空っぽの領域が広がるだけである。一つ一つの細胞が、てんでんばらばらに自己主張を繰り広げ、体全体の生き残りではなく、一つの細胞としての自分の生き残りのために、欲望のままに振る舞おうとするだけである。

聖書は言う。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

頭なるキリストがいなければ、体だけでは、成長することができない。節々を補い合うことも、しっかり組み合わされることも、分に応じて働くこともできない。

Dr.Lukeが「愛」を何より否定し、その言葉に拒否反応すら示していたことも思い起こされる。

さらに、Dr.Lukeは次の記事の中でこんなことも言っている。

メタモルフォーシスは栄光の中で-宗教の霊から解かれよ-」2018-06-26 |  by drluke 

「すなわち造り変え(メタモルフォーシス;トランスフォーメーション)は栄光の中でなされるのだ4)。栄光とは”Kavod”、その原意は「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!  主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ5)。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

当ブログでは、ペンテコステ運動がもたらす恍惚状態は、偽りのエクスタシーであり、その起源は、聖書にはなく、ヒンドゥー教のクンダリーニ覚醒と同じであるということを指摘した。

あらゆる原始宗教にはそういうエクスタシーがつきものである。

そして、Dr.Lukeは、そのような恍惚体験こそが、「栄光」であり、その中で、人々がキリストに似た者とされる、などと言う。そして、キリストは十字架につかれる瞬間にも、「歯を食いしばる」ことなく、「喜びのゆえに十字架につかれた」などと言うのだ。

この箇所について、Dr.Lukeは次の御言葉を引用している。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2」

しかし、この箇所は新共同訳ではこうなっている。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12:1-2)

真逆の文脈になっている。だが、KJVなどを見る限り、訳としては上記の訳の方が近いのではないかという気がする。

"Looking unto Jesus the author and finisher of our faith; who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is set down at the right hand of the throne of God."
 
日本語訳の食い違いの問題をさておき、ここでは「御自分の前に置かれた喜び」をどう理解するのかが争点である。十字架そのものが喜びであろうはずがない。現に"endured the cross, despising the shame, "と書いてある通り、それは恥であって、忍耐の限りを尽くして負わなければならない死の苦しみである。

そこで、"for the joy that was set before him "、つまり、「御自分の前に置かれた喜び」とは何かと言えば、それは死の向こうにある復活の喜び、その復活を一人の人(キリスト)を通して多くの人(信じる者たち)が享受することになる喜びであるとみなせる。

つまり、神が独り子なるキリストに人類の罪の身代わりとして、人類の受けるべき死の刑罰を受けさせることによって、贖いの御業が完了し、そして、御子が栄光のうちに引き上げられた神の右の座に就かれたこと、それが復活の意味であり、それこそが喜びの内容である。

また、"and is set down at the right hand of the throne of God"、「神の右の座に就かれた」という後半部分こそが、「御自分の前に置かれた喜び」の具体内容だと見ても良いだろう。神の右の座に就くこと以上の栄光はないからである。

しかし、その喜び、その栄光は、死の刑罰を受け切った先にしか用意されていないものであり、そのために、キリストは神の栄光に満ちた形を捨てて人となられ、十字架の死に至るまでもご自分を低くされたのである。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

 
このように、キリストが十字架の死の苦しみに至るまでも、ご自分を低くして、従順に御父に従われたからこそ、神はキリストにあらゆる名にまさる栄光を与えられたのである。

だが、当ブログでは、サンダー・シングについて分析した過去の記事においても触れたことであるが、グノーシス主義者は、十字架から死の苦しみを割り引き、かえって十字架を甘美な体験であるかのようにみなす。

ヴァレンティノス派に属するグノーシス主義文献、『真理の福音書』は次のように述べた。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ちつけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。<…>」(『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献他訳、白水社、p.168)

「……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ。……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は 自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」(同上、p.169)

このように、グノーシス主義者は、十字架を通して、キリストは人々にグノーシス(偽りの知識)を与える甘美な実になったと述べる。

彼らは、主イエス・キリストが十字架上で味わわれた凄絶な死の苦しみを矮小化、過小評価、あるいは、無視して、十字架には苦しみなど伴わず、十字架はかえって喜ばしい体験であったかのごとく描写する。そして、「それは食べられることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。」などという。

こうして、グノーシス主義者は、主の十字架の苦しみを割り引くことで、主イエスを信じる者たちが、日々、自己を否んで、自分の十字架を取って主に従う過程からも、すっかり苦しみを割り引いてしまうのである。

彼らは言う、キリストの十字架とは、人にとって喜ばしいグノーシスの実であり、その実は、それを食べた人が「決して死」んだりせず(創世記3:4)(=「それは食べられることによって破滅を与える…のではない」)、むしろ、その実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」には「いかにも好まし」い(創世記3:6)、つまり、甘美なものであり、(=「それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えた」)、その実を見いだした人間は、「目が開け、…神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)(=「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」=「エクレシアはキリストであることを発見する」)、つまり、十字架を取って主イエスに従うとは、決して「歯を食いしばることによるのではない」と、そこには苦しみも死も伴わず、むしろ、喜ばしい体験(エクスタシー)の中で、「永遠の命を身につけ」、「滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとう」、つまり、神と自己とが同一になるというのである。

こうして、グノーシス主義者の言う「十字架」とは、聖書における十字架の概念から完全に逸れて、ただ単に人を高ぶらせる知識の実、つまり、エデンでサタンが人類をそそのかして食べさせた善悪知識の木の実と同じようになる。

奇しくも、Dr.Lukeはツイッターにおいて、「主は甘い」と述べたら驚く人があったが、リンゴを食べたことのない人にその味が分からないのと同じだ、などと言っている。

「「主は甘い」と言ったら、あるニッポンキ業界の女性に質問された。「それって、分かりません!」と言われても、リンゴを食べたことのない人にそのテイストをどうやってシェアできる?」(6月25日)
 
ここでリンゴのたとえが用いられているのも偶然ではない。禅の思想家である鈴木大拙は「二度目の林檎を食べねばならぬ」と述べたが、大拙の言う「二度目の林檎」とは、以前にも詳しく記事に記した通り、悟りのことであり、悪魔が人類に与える偽りの知識に開眼することである。
 
ペンテコステ運動のもたらすエクスタシーとは、人を偽りの知識で開眼させるための覚醒の儀式のことである(クンダリーニ覚醒などと同じ、「悟り」のための儀式)。

クンダリーニ覚醒の場面では、教師に手を触れられた人が痙攣するなどしながら恍惚状態に陥って地面に倒れ伏す映像を紹介した。(キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋神秘主義の危険⑦キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋神秘主義の危険⑧ 参照)
 
Dr.Lukeは言う、「神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!  主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ5)。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

これは、そのエクスタシーの中で、Dr.Lukeが得たとしている知識の中身をよく表している。彼はその儀式を通じて、既存のキリスト教界を憎むようになり、旧来の十字架の解釈とは全く異なる十字架の解釈を得た。
 
それを通じて、聖書に記されている十字架とは別の十字架、異なるイエス、異なる霊、異なる福音に目覚めたのである。
 
しかも、Dr.Lukeが「十字架教」などという言葉を使って、一人一人の信者が自分を十字架で死に渡すこと、日々の十字架を取って主に従うことを侮蔑・否定し、「十字架教の宗教の霊から解かれよ!」などと述べて、旧来の聖書的な十字架の理解を全面否定していることに注目したい。

これがその「エクスタシー」がもたらす実であり、美味な「リンゴ」を取って食べた人が受ける偽りの知識の中身なのである。

パウロは述べている。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くこさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださとるのです。」(フィリピ3:18-21)

頭を持たない体は、斬首された罪人と同じで、栄光とは何の関係もない存在である。それにも関わらず、罪人が自分の卑しい体を誇る。自分自身の欲望を誇る。自分自身を神と称する。

そして、信仰によって到来する霊的秩序を、目に見える世界の秩序に置き換え、地上天国を提唱する。
 
Dr.Lukeが以下の記事で述べているのとほとんど同じことを『国体の本義』が述べていたことを思い出したい。

神の国はNOW&HERE」2017-11-01 |  by drluke 
 
『国体の本義』は、万世一系の天皇家が永遠に続くものであり、そこに「過去も未来も今に於て一になり」「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」として、「我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。」などと主張していた。

さらに、その「永遠の今」なる時空間を日本国民は生きるのかと言えば、天皇のために死すことにより、人は自己存在を昇華し、「真生命の発揚」すなわち、「永遠の今」に至れるなどという、とんでもない説を唱えていたのである。


国体の本義

第一 大日本国体、一、肇国から抜粋


  天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
<略>

 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


その時代には、天皇のために臣民は身命を捧げ、死ぬことにより、「真生命の発揚」すなわち「永遠の今」に到達することができるなどという愚かしい詭弁が唱えられていた。つまり、彼らの言う「永遠の今」には、死を持ってしか到達できなかったのである。

Dr.Lukeが以上の述べていることもそれとほぼ同じになって来ている。
 
われわれは新生命体であり、世の人とは致命的に異なる次元に生きているのだ。このアイデンティティーを明確に持たないと、いわゆる罪ゆるされた憐れな罪人に過ぎないとして、「まずしく・きよく・ただしく・うつくしく」という三浦綾子の世界に生きることになる。」

キリスト教界の貧しさを嘲笑し、上から踏みつけて勝ち誇る。なぜ三浦綾子が再三に渡り引き合いに出され、踏みつけにされているかと言えば、おそらくそれはDr.Lukeの女性蔑視が出てきたものなのだろう。同氏があえて嫌いな神学者を引き合いに出さず、わざわざ女性作家を引き合いに出して踏みつけにするのは、当ブログへの攻撃と同じ精神の上に立ってなされたものだと見える。

「貧しさなんて嫌だ。清さなんて古い。そんなものに美はない!!」というわけだ。
 
こうして、常に自分よりも弱そうな他者を引き合いに出して来ては、マウンティングして勝ち誇り、自分たちがいかに優れているかを強調せずにいられないという論法の中には、かつてこの日本国民が、自分たちは「万世一系の天皇家」を頂点にいただいているから、卑しいアジアの他国とは違う・・・などと言ってアジアの国々を侵略した驕りとほとんど同じ高慢さが見て取れる。

結局、今や我が国はそうして過去に見下していたアジアの国々にすっかり経済成長で追い抜かれ、置き去りにされているのであるが。
 
Dr.Lukeは、そのようにまで躍起になって、「清く、正しく、貧しく、美しく」という生き方を否定しながらも、同時に、中国共産党政権下で福音宣教を行ったために、20年間幽閉されたウォッチマン・ニーを再三に渡り、引き合いに出して褒めたたえるという自己矛盾ぶりだ。

ウォッチマン・ニーの生き様は、三浦綾子に比べて、はるかに貧しく、はるかに苦しみに満ちていたはずなのだが…。
 
さらに、Dr.Lukeは、

フェイスは時間のマトリックスを超える」2018-03-02 |  by drluke 
でこう述べる。

「フェイスには時間のスケールはない! それは永遠のNOW! われわれのフェイスは時間に束縛されていない(☞フェイスは時空を超える)。なぜなら-

神のわざは天地創世の時にすでに完成されていたのだ。-Heb 4:3」

ほとんど言っていることが「国体の本義」と同じになっていることにお気づきか。

ここには、グノーシス主義者が決まって陥る無限ループがよく表れている。グノーシス主義者には、必ず原初回帰を唱えるという特徴があるからだ。

つまり、彼らはエデンにこそ完成があり、エデンに戻ることが、人類の完成なのだと言って、輪を描く時間軸を主張する。

共産主義者も同じように、人類の歴史の最初には、いかなる経済格差もない「原始共産主義社会」があったとして、階級を廃絶することにより、その理想状態に逆戻ることを目指した。
 
だが、聖書の時間軸は直線である。そこにはアルファとオメガがあり、初めと終わりは決して同じにはならない。

聖書は言う。

見よ、わたしは新しい天と地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はいない。
 それはだれの心にも上ることはない。」(イザヤ65;17)

その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(2ペテロ3:12-13)

神の国が私たちのところに来ているとは、この直線的な時間軸の中に、神の側からの恵みとして、超自然的介入がもたらされ、救いを受け入れた人の中に、神の国の秩序が(永遠の命、キリストの復活の命)がもたらされたことを意味する。

だが、それでも、私たちが滅びゆく地上の幕屋の中で、体の贖われる時を待ち望みながら生きている事実は変わらない。私たちの贖いの完成は、あくまで未来の出来事である。

Dr.Lukeの説には、十字架の死がもはやないのだ。そこには、体が滅びへ向かっている事実もなければ、頭なるキリストの頭首権に服するという考えもない。

今というとき、滅びゆく罪に堕落した体が、あたかも聖なるものであるかのごとく祀り上げられ、それは実際には、死に定められた人間が首を切り落とされて地上をさまよっている姿と同じなのにも関わらず、その体が、「自分たちは永遠だ!」と叫んでいる異様さである。

キリスト教の正しい秩序は、霊が魂と肉体を支配するというものであるが、彼らの場合は、肉体が魂と霊を支配しようとしており、頭なるキリストが否定されることにより、体があるじとなって、唯物論が提唱されているのだ。

ヘッドを否定して、ボディが己を誇る思想は、すべて唯物論である。そして、唯物論に立脚しているからこそ、今、見えている世界で富や栄光を得ることが、神の国の富や栄光と同一視され、地上天国が説かれるのである。

だが、主イエスははっきりと言われた。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一歩を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで 他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

地上の富を追い求めながら、同時に、神に仕えることはできないのだ。

だが、それだけではない。すでに述べた通り、グノーシス主義は相反する概念を統合しようとする無限ループの教えなので、そこには、霊的死がない代わりに、必ず何らかの形で現実の死が求められることになる。

つまり、この世の富や快楽を求め、今という時の永遠性を主張しながらも、同時に死へ向かって行くという自己矛盾が必ず起きて来るはずなのだ。

筆者は、それがどういう形でDr.Lukeの教説に現れて来るのかは知らない。

今の所、Dr.Lukeは三島を讃えてはいても、三島のように「天皇のために死ね」とは言っているわけではない。ウォッチマン・ニーを引き合いに出しているが、誰もが20年間幽閉されるべきと言っているわけではない。

今の所、享楽的な生き方を唱道しているようであって、何かを口実に死へ向かうようあからさまに唱えているようには見えない。従って、その「死」が何を口実にもたされることになるかは、興味のあるところだ。

しかし、Dr.Lukeがウォッチマン・ニーの死を賛美しているところにも、筆者は三島由紀夫と似たような、ある種の「死の美学」を見いださないわけには行かないのだが。

また、当ブログの証を否定し、これを踏みにじって立ち向かって来た人物らに降りかかった滅びのことを思うと、筆者は、それがこの先、どういう形でやって来るにせよ、以上のような教説を唱えている人が、そのまま普通の人生を送るとは思えないものがある。

地上のエルサレム神殿は、石組み一つ残らないように崩された。マサダの城壁に逃れて立てこもった人々も、自ら死を選んだのである。

マサダに立てこもったユダヤ教徒たちは、自己の誇りを捨てないために死を選んだ。自己の教説を守るため、彼らの信じる「永遠の今」が否定されないためである。

また、グノーシス主義者たちは「肉体の牢獄」から魂を永遠に解き放つためと称して、死を選んだのである。
  
従って、この先、KFCにどういう形で「死の美学」が現れて来るのかは分からない。

だが、主と共なる十字架において自己の栄光を捨てることができず、それをしようとする人々を嘲笑し、踏みつけにするような人々の建てた城壁は、遠からず、バベルの塔として、何らかの形で崩される時が来るであろうと思わずにいられない。

御言葉も、十字架に敵対する人々の行き着くところが「滅び」であるとはっきり告げている。

「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

主と共なる十字架の死を拒んで、生まれながらの自己を神とする人々は、堕落した人間の体を神聖なものであるかのようにみなし、己の欲望を神として生きている。

従って、そのような人々は「腹を神」として歩んでいるのだと言えるのであって、彼らのその後については、三島由紀夫が割腹自殺したことや、イスカリオテのユダの末路を思い出し、早急にそのような生き方からは離れるべきだろう。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。

しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談の上、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。

このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の値である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」 (マタイによる福音書 27:3-10)

「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。

ところで、ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で、『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
詩編にはこう書いてあります。

『その住まいは荒れ果てよ、 そこに住む者はいなくなれ。』
また
『その努めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」 )(使徒行伝 1:16-20)

ヘッドから切り離されて、ボディだけが無事に生き残ることなどあり得ない。十字架に敵対する人々の末路は滅びである。だから、筆者はどんなに嘲られ、蔑まれようとも、主イエスと共に十字架の死にとどまることを固く決意する。今は特にそうしなければならない緊急の時だ。

奇しくも、Dr.Lukeが幾度も引き合いに出すウォッチマン・ニー自身が、十字架の装甲から外に出れば、我々は一巻の終わりだと告げている。それは主と共に十字架の死にとどまることだけが、復活にあずかる道であり、それ以外に、信じる者が主と共に栄光を受ける道はないという強いメッセージだ。
 
だから、読者よ、この悪い時代に惑わされることなく、立ち返って救いを手放さないようにしなければならない。
 
筆者は全面的に次の御言葉にアーメンと言う。もしもこの御言葉を原理主義と呼んで嘲笑うクリスチャンしかいなくなっているとしたら、もはやこの世に信仰はほぼ見られない時代になったのである。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
<略>
だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)
 
最後に、常に忘れられがちになっているが、私たちが主のために投じたものが、決して無駄になることはなく、真に主イエスに従うために必要があって捨てたものならば、必ず、百倍にされて報いられると聖書は告げていることも思い出そう。
 
キリストの福音は、ハッピーエンドであって、決してウォッチマン・ニーのような悲劇には終わらない、と筆者はみなしている。

むろん、苦しみの渦中にある時には、それは分からないかも知れない。だが、主は私たちが福音のために捧げた犠牲を決してお忘れにはならない。百倍にもしてそれを返して下さることが約束されているのである。

かくて天の御国の法則は、主のために捨てた者がそれを豊かに得、この世ですべてを握りしめたまま何一つ捨てなかった者は、何も得られないで終わるというものである。
 
ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出した。

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:28-30)


女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれ た子と一緒に相続人になってはならないからである。

久々にこれぞグノーシス主義という作品を読んだ。そこで改めてこの思想の反聖書的構造について述べておきたい。

池田理代子という作家がいる。有名な『ベルサイユのばら』を書いた劇画家であり、声楽家としても活躍している。最近まで、筆者はこの作家の作品の中で、『妖子』と『ラムダのとき』という2作品を読んだことがなかったが、これを読んで初めて、この作家は、グノーシス主義の精神を受け継いでいるのだということに納得がいった。

なぜ池田氏の作品の多くは、相当な人気を集めながらも、非常に救いのないプロットになっているのか、考えたことはあるだろうか。宮廷の華やかな生活と革命の混乱を描いた『ベルサイユのばら』にしても、最後には次々と登場人物が死に追いやられ、悲劇で幕を閉じる。明るい未来が提示されているわけでなく、何かの道徳的教訓が投げかけられているわけでもない。革命賛美の物語とも言えない。刹那に消えて行く愛憎劇の模様以外に、作者が一体、この作品を通して訴えようとしたものは何であったのか、読者には今一つ分からない。

しかも、最も大きな疑問は、なぜ主人公は性別を偽って育てられなければならなかったのだろうか、という問題にあろう。それは自分のあり方を根本的に偽る生き方だからである。『ベルばら』の次に描かれた『オルフェウスの窓』ではその問題はさらに深化している。主人公は妾の子として生まれたが家の跡取りになるために性別を偽って育てられたことされている。

さらに、『妖子』と『ラムダのとき』の2作品を読むと、主人公の抱える出生の秘密という池田氏の作品に繰り返し現れるテーマの謎に幾分か答えが見えて来る。それは、この2作の中にこそ、作家の非常に深いところに流れている思想が表れているからだ。この2作品は、そのどちらもが、聖書の神に対する反逆の精神に貫かれた家の乗っ取り物語である。主人公はおよそ正統な後継者と名乗るにはふさわしくない存在にも関わらず、秘密を抱えたまま、家の主人となり、家を支配しようとする・・・。

『ラムダのとき』には、存在しているかも分からない聖書外伝が登場しており、そこでは、聖書の神が人間を理不尽に追い詰める「悪神」として描かれ、それを読んで主人公が自分の出生の秘密に開眼するところも興味深い。この作品では聖書の神とそれに属するものが、誤ったものとして嘲りの対象としてしか描かれていない様子がよく分かるだろう。

もちろん、以上に挙げた2作品は、単なる創作であり、脚本を書いたのは別人であることなどを考えても、そのプロットを作者の思想と安易に同一視することはできないと言われるだろう。それでも、このような悪魔的思想を題材とする作品を、敬虔なキリスト教徒であれば、いかに創作といえども、決して世に送り出そうとは思わないであろうし、また、池田氏のその他の作品群の筋書きの中にも、共通するテーマが扱われているところを見ても、やはりこれらの作品には、作者の思想的な立場がよく表れていると言えるものと思う。つまり、池田氏は、筆者の考えによれば決してキリスト教徒ではありえず、むしろ、グノーシス主義の側に立っていると見てよい。

当ブログでは、グノーシス主義思想とは、聖書の神に対する反逆を正当化するための終わりのない詐術の物語であると述べて来た。それは善と悪、光と闇、天と地、聖と俗、神と悪魔といった、すべてのものの境界線を曖昧化することで、本来、一つに統合することのできない対極にある概念を統合できるかのように見せかけ、そのことによって、罪あるものを聖なるものに見せかけようとする嘘の教えなのであると。

グノーシス主義の神話的なプロットは、「母の過ち」によって生まれた誰を父としているかも分からない子供が、まことの父の後継者の資格を持たないにも関わらず、家の正統な後継者を詐称して、正統な資格保持者を追い出して、家を乗っ取ることを正当化するというものである。

グノーシス主義の物語には、「ソフィアの過失」と呼ばれている事件があり、それは最下位のアイオーンである女性人格ソフィアが、単独で至高神を知ろうとして、誰の子か分からない子を生むという出来事である。ここでは、ソフィアという名そのものが、聖書の創世記において、人類(最初にエバ、次にアダム)が、神によって取って食べてはならないと命じられたはずの善悪知識の木の実を取って食べることによって、神の戒めに背いて、神のようになりたいと願った誤った知識欲を正当化するためにつけられたと見ることもできよう。

「主なる神が作られたの野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、そのの中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:1-7)


人類が神の戒めの中を歩いていた間、人類にはいかなる不足もなかった。自分を見て、裸だ、弱い、身を覆うものが必要だ、などと考えることもなく、自らを恥じる必要を感じることもなかった。しかし、神の戒めを破ったとき、彼らは自分たちが非常に弱く、無力で、恥ずべき存在であることが分かり、その無力さと恥を覆うために、自分を変えるための工夫が必要であることが分かった。

エバが取って食べた善悪知識の木の実が、どういうものであったのかは分からない。だが、その描写から分かることは、アダムとエバは、己が肉欲を通して、神を知る知識を得られるという誤った考えにそそのかされ、欲望のままに行動したということである。その木の実は、人の目に美しく、好ましく、美味しそうに、魅力的に見えた。そして、いかにも賢くなるにふさわしいもののように映った。

しかし、その実を取って食べて、人類に分かったことといえば、自分が堕落して、恥ずべき、無力、無価値な存在であるということだけである。

人類はその事実を自分の目から隠した。自分が罪を犯したこと、堕落したこと、それゆえ、聖なる地位を失って、無価値な者となったことを認めたくはなかった。だから、人類は自分を変えようと工夫した。しかし、自分を変えると言っても、ただ表面的に装うことができるだけである。こうして、神の御前における人類の取り繕いが始まった。彼らはまず自分たちの手で、いちじくの葉を綴り合せて服を作ったが、それはその後、武装手段としての鎧や兜に発展し、各種の武具や装備、また、それらを作り出す知恵となり、神に逆らう人類の知恵の集大成を生み出して行く。

歴史の最後には、その偽りの知恵に基づく人類の活動は、大淫婦バビロンと呼ばれる世界的都市にまで発展している。バビロンは一大商業都市であり、自分の恥を覆うために豪奢な着物を着ているが、それはすべてうわべの取り繕いに過ぎず、内側には不法、搾取、虐げ、詐欺などあらゆる悪が満ちている。

さて、グノーシス主義の言う「母の過ち」とは、聖書的に見るならば、こうして人類が神の戒めを破って、己が力で神を知って、自ら神のようになりたいと願い、反逆によって堕落したことを意味すると言えよう。

ところが、グノーシス主義思想は、そもそも罪という概念を認めず、かえって人類の使命とは、堕落した母の過ちを自力で修正することにあるとみなす。こうして、罪を罪とみなさず、それを取り繕うことを目的とするため、終わりなき自己弁護のための詐術が生まれる。本来ならば、罪に堕落して神から切り離されたため、もはや神の子孫だなどと名乗れる資格もないはずのない人類が、神の許しを受けないままに、自分たちは神の子孫であると名乗り、母がそうしたように、自分も再び己が知識によって神を知って、自力で神に回帰しようと、延々と己がルーツの浄化を試みる詐術の物語を編み出すことになる。

もちろんのこと、人類が自力で神に回帰しようとする偽りの教えの根底に流れるのは、神に反逆して永遠の滅びに定められた悪魔が、自分を罪に定めた神を排斥して、神と入れ替わろうとする願望である。

正統な後継者の資格を持たない者が、正統な後継者を追い出して家を乗っ取る、悪魔が神を追い出して神を詐称する、その願望を受け継いだものがグノーシス主義思想である。

* * *

さて、話は変わるようだが、牧師崇拝とは、神と人との唯一の仲保者であるはずのイエス・キリストを退けて、これを人間に置き換えようとする偶像崇拝の教えである、ということを、当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けて来た。牧師とは、神が贖って下さった子供たちの心を、肉なる人間に過ぎない者が、自分に向けさせ、自分を崇めさせるために、神から盗むための存在、と言っても良いだろう。

かつてプロテスタントは、カトリックが法王を中心とした聖職者階級を築き、法王が神の代理人となっている事実を批判し、聖書に忠実な信仰を取り戻すための抵抗運動として生まれて来た。しかし、そのプロテスタントも、結局、牧師と信徒という二つの階級を信徒の中に作り出すことで、事実上、牧師を神の代理人にするという反聖書的な制度をそのまま温存した。

それゆえ、万民祭司の原則を忠実に再現するためには、牧師というプロテスタント固有の現人神制度とも訣別しなければならないのである。プロテスタントの教会の内装は、カトリック教会のような装飾をは省いたものとなっており、信者らの目を、目に見える装飾に引き付けることでこれを信仰に置き換えようとする弊害から抜け出そうとした工夫は見られるが、それでもまだ、特定の時空間に集まるという制約から抜け出ていない。

「あの山でもエルサレムでもない」場所で、真理と霊によって父なる神を礼拝するという本来の礼拝が行われるためには、固定的なリーダーの繰り広げるショーのような催しを見るために、限定された時空間に信者を閉じ込める装飾を省いた礼拝堂からもさよならする必要がある。神への礼拝を、目に見える人、組織、制度、教えといったものの中に閉じ込めようとする試み一切と訣別する必要がある。そのために、既存の教会組織からエクソダスが必要なのである。

ところが、エクソダス、と唱えていた多くの人々も、結局は、牧師か、それに等しいリーダーたちを崇め奉る道へと逆戻って行き、今や牧師制度と訣別して信仰を守る群れは、ほとんど見当たらない。牧師を持たない、と言いながらも、実質的なリーダーを作り、その人の教えに従っている群れ以外に見いだせるものがない。

こうして信者たちの心を神から盗んで自分たちに向けさせる牧師たちの群れの中に、さらにその牧師たちの獲得した信者を盗む新手の盗人たちが忍び込んだ。反カルト運動である。牧師たちの過ちを修正すると言いながら、その牧師たちに対する信徒の反感を煽り、その機に乗じて牧師たちから羊を奪って拡大して行く新手の荒々しい残酷な運動である。

そのようにして既存の組織に侵入して行っては、内側から組織を乗っ取ったり、食い破って破壊したりするのは、ペンテコステ・カリスマ運動の常套手段であるということも、これまで繰り返し述べて来た。だから、反カルト運動が、他ならぬペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは偶然ではない。

聖書は、すべての霊が神から来たものではないから、霊を試しなさいと命じている。そこで、ペンテコステ・カリスマ運動のやたらと強調する「霊」とは何なのかをじっくり調べてみる必要がある。当ブログでは、彼らの強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」の光景が、ヒンドゥー教のクンダリーニ覚醒の様子にそっくりであることも、過去の記事で解説した。クンダリーニ覚醒とは、尾てい骨の下から人の内側に侵入した蛇が、頭部に達し、両目の間にある第三の目を開眼させて、覚醒に至らせる過程なのだという。筆者の考えでは、大仏の額にある白毫は、世界に向かって悟りの光を放つ長く白い毛であるとされているものの、きっとその正体は第三の目に到達した白蛇に違いないということも述べた。

いずれにせよ、蛇によって覚醒するなどのことは、聖書的な概念に照らし合わせて有り得ないことであって、それは人がまさに悪魔的な知恵によって、偽りの教えに開眼し、神への反逆の道を歩むことに他ならない。どんなに形を変えていても、それは人間が堕落した肉の情欲に従って生きることにより、知識を得て神のようになれるという、太古から受け継がれた蛇の教えの繰り返しでしかないことが分かる。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する各種の恍惚体験からは、無秩序や混乱以外のものは何も生まれて来ないのである。このように様々な恍惚体験、神秘体験を通して、信仰を得られるかのような考えは、錯覚に過ぎず、それは教会の中に各種の装飾を施し、聖画などと呼ばれるものを飾り、感覚的な体験を、信仰に置き換えようとすることが偽りであるのと同様、深い欺きなのである。

* * *

当ブログでは、そこからさらに大胆に進んで、資本主義の精神はプロテスタントから生まれて来たものであって、プロテスタントが聖書に完全に忠実な制度ではなく、過渡的な段階でしかない以上、資本主義にも同じ弊害が受け継がれていることを述べた。

プロテスタントの信者たちが、自分が神に救われているかどうかがはっきりしない不安から、毎週日曜日に牧師たちの説教を聞きに教会に集まるのと同じように、資本主義社会におけるサラリーマンは、この世に身の置き所のない不安から逃れるために、会社によって社員証という目に見えない救いを貸与してもらい、労働の対価として免罪符をもらうために出社する。

こうして、人々は月曜日から金曜日までの間には、企業にお参りして奉仕することで、代表に不安を慰めてもらい、日曜日には教会で牧師から慰めてもらう。労働(奉仕)はその不安心理を埋め合わせるための代償として、現人神に捧げられているものである。

どちらの場合も、その人生には、不安に駆られる人々が、誰か象徴的な人間から、おまえは正しい生き方をしている、と承認を受けることにより、自分が果たして救われているかどうかも分からず、この世に身の置き所がないという不安をなだめようとする現実逃避あるのみであって、根本的な救いが欠けている。

企業の社員証などはいつなくなるか分からないのであって、教会の会員証を維持するためにも、生きている限り、献金と奉仕が必要である。そして、彼らの不安をなだめる牧師や教師たち、もしくは、企業の代表者たちも、本当は、自分も救われているかどうか全く定かではない人々であるから、彼らに真の慰めなど与えられるはずもない。だから、彼らは口先だけの詐術によって、ないものをあるかのごとく見せかけて束の間、時間を稼ぐことができるだけであり、彼らはむしろ確信犯的に免罪符を売り歩き、それによってもうけを得ているだけであるから、非常に性質が悪い。それでも、不安に駆られた人々は、あるかないか分からない救いのために、教会員やサラリーマンの身分証に飛びつき、自腹を切ってでも、喜んで奉仕までしてくれるのだから万々歳である。

さて、では働いていない主婦はどうするのか。夫に仕えることで、夫から不安を慰めてもらうだけである。ヒンドゥー教の既婚女性が額にビンディーをつけるように、妻となった女性たちは、額に見えない刻印をつけて夫に奉仕することにより、間接的に現人神に仕える。

これらの人々は、みな人間の作った集団に帰属して、そこで互いに果てしない重荷を負い合い、リーダーに仕え、承認を得ることによって、それを救いという内心の問題と置きかえようとしている。つまり、救われているかどうか分からない不安から手っ取り早く逃れるために、神に向かわず、目に見えるものに向かい、本物の救いではない、偽物のかりそめの救いを貸与され、その印を身に着けることによって、自分の心を慰めているだけなのである。

だが、偽物の救いを貸し出してもらうための代価は非常に高く、一生、自分のものにはならない救いのために、馬車馬のごとく立ち止まることなく働き続けなくてはならない。

このような文脈における労働は、根本的に呪われており、不毛であると言って差し支えない。それは人間にはもともと地上に住みかはないという自明の理を証明するためだけの生き方である。その生き方は、人は地上に現れては消えるうたかたのようなものに過ぎず、しょせん、この世で確かにつかめる価値などないのだと告げているに過ぎない。それを超えるものは何もそこには見いだせない。

そこには、人が獲得していないものを、いかにも得たかのように見せかけ、自分のものにならないものを、あたかも築き上げたかのごとく見せかけようとするために、各種のカラクリが存在しているだけであり、そのカラクリは、嘘をまことに見せかけるのみならず、嘘が重ねられる度に、さまざまなピンハネがそこで正当化される。他者に仕えるための労働は、社会全体を罪から救済するという見せかけの目的を得るためのごまかしの手段の一つのようなものであり、だからこそ、どれほど重ねても、自己を真に富ませることがないのである。圧倒的大半の人々は、労働によって富むことはない。そして、飛んでいる人々は労働をしない。このことをよく考えてみた方が良い。

そういうわけで、プロテスタントにおける「救われているかどうか分からない」という不安心理から生み出されるとされている労働は、人類の自己救済という根本的に誤った試みであるから、それとは異なる、自己救済でない働きがなくてはならず、プロテスタントでも資本主義でもない新しい生き様、つまり、万民祭司の原則が忠実に実行された新しいライフスタイルが現れて来なくてはいけない、と筆者は考えている。筆者は少しずつそこへ向かっているところである。

* * *

パウロは人が結婚することを決して禁じはしなかったし、夫には、キリストがご自分の命を教会に捧げられたように、妻を愛しなさいと命じ、キリストと教会との間には、花婿と花嫁のような愛が成立していることを示したが、同時に、人は結婚しないでいられるならそれが最も良いとも勧めていた。

そうした勧めの根本には、人の情欲というものが、しょせん、罪に堕落した自己中心なものでしかなく、愛情とは必ずしも一致しないことが、初めから明々白々だという事情もあろう。つまり、人間の男女の間に成立し得る結びつきは、堕落した欲望を排除することができないという点で、来るべき完全なものの絵図に過ぎないためである。その完全は、キリストと教会との結びつきにある。

人間の欲望というものは、すべて自己の欠乏を満たすために存在しており、喉が渇いているときに、目の前に何かの飲料水があれば、それが炭酸水であろうと、リンゴジュースであろうと、人は大した違いはないものと考えて手を伸ばし、どれでも美味だと感じることであろう。つまり、人は己が欲望が満たされさえすれば、それを満たしてくれた対象のことなどどうでも良く、瞬時に忘れるし、そこに唯一無二の関係は存在しないのである。

人の欲望とは、そういう風に、他者を常に己を満たすための手段として扱う残酷で身勝手な性質を持っており、さらにもっと言えば、欲望の持ち主自身をも奴隷と変えてしまう。それは人間の尊厳をいたく貶めるものであって、人はどんなに相手を愛しているつもりになっていても、己が欲を通して相手に関わっている限り、そこに自己中心性が入り込むことを阻止することはできない。

唯一、そうした堕落した欲望を介さずに関わることのできる関係が、神と人との信仰による関係であり、花婿なるキリストが花嫁なる教会を愛された愛なのであるが、人がそこに到達するためには、キリストと共なる十字架の霊的死を通らなければならない。しかし、人間にとっては、己が肉の欲情を滅ぼすこの十字架の死が非常に恐るべき脅威と映る。人間には、目に見えるものによって自分を満たし、集団に帰属することによって、目に見える安心を得たいとする根強い願望があって、どうしても、目に見えない救いだけでは不十分であるかのごとく、目に見えるものに頼ろうとし、それによって自分を慰めようとすることをやめられない性質がある。

そこで、多くの信者は十字架の死にとどまることができず、見えないキリストだけを一心に見つめて歩むことができない。そこに各種の欲望を誘う人間のリーダーが現れ、牧師やその他の教師たちが群がり、信者たちの心は彼らにそそのかされ、奪われ、偽りの教えに誘い出されて行くことになる。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(2テモテ4:3)


ここで教師たちが惑わす者として登場している。信者たちが目に見える人間を権威者として崇め、奉り、偶像視しつつ、その人間に自分の欲望を重ね、それを肯定してもらうために群がる。すでにそういう時代が来ている。だが、聖書ははっきりとそのような教師たちの存在は必要ないと教えている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(1ヨハネ2:26)


このことは、人間の方を向くことをやめて、キリストの方に向き直るならば、人の心の覆いは取り除かれること、真理の御霊に頼り、教えられて生きることだけが、すべての目に見えるものを超越して歩み、何が真実であるかを知り、この世を超越して支配する秘訣であることを示している。なぜなら、キリストは世に勝って、すべての権威の上に高く上げられ、すべてを超越して支配される方だからである。この方の御霊と共に歩むとは、キリストと共にすべてを超越して支配することを意味する。とはいえ、その支配は、主と共に霊的死にとどまることによって、神の命の中に隠されて生きることであるから、決して人を脅かしたり、虐げたりすることによって他者に君臨するというものではない。

この最もへりくだった方の御霊を受けていながら、なぜ心に割礼を受けていない目に見える人間―偶像に頼る必要があるのか。もし心に平安がないというなら、牧師や教師たちや教師になりたがる信徒たちといった、キリスト以外の肉なるものに頼っていないかどうか、自分の心を点検し、心の偶像をすべて捨て去り、見えない神以外の一切の肉なるものに頼むことをやめるべきである。そうして侵入口を断てば、心に安息が戻り、偽りに翻弄されることも終わり、真実に立ち帰ることができる。様々な権威を振りかざしてやって来る中間搾取者を離れ、神にのみより頼む人生を送ることである。

<続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(1)ー 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

さて、控訴理由書ははかどっており、書けば書くほど、深い満足が生まれて来る。第一審の判決を心の内側に取り込み、これを咀嚼し、そして、新たな要素をつけ加えながら、第二審の判決を予想して書いて行く。

筆者は弁護士の書く錯綜した文書ではなく、裁判官の判決を受け取ったことを非常に喜んでいる。弁護士の文章は一方の当事者だけに肩入れしたものなので、参考にならないが、膨大な資料を整理して対立する陣営の双方の主張を比較衡量した裁判官の判決は、それとは比べものにもならない生きた教訓である。

判決が出るまで、予想できない点が多々あったが、今、こうしてみると、ただ法的観点からだけ事件に注目するのではなく、筋の通った矛盾のないストーリーを弁論の最中に打ち立てておくことがどれほど重要かを思わされる。
 
判決の変更を求めるためには、第一審以上にリアルで矛盾のない説得力のあるストーリーを証拠と共に提示することが必要となる。そのために、筆者は、第一審での自己の主張と共に、判決に記されたストーリーを内に取り込み、それを両方上書きしうるだけのさらなる説得力のあるストーリーを作り出しているのだが、それはあたかも一人の作業ではなく、共同作品を作っているような具合で非常に面白い。

第二審では、「カルト監視機構」が主要な争点になると書いた。すでに述べた通り、「カルト監視機構」と「宗教トラブル相談センター」が実質的に同一であるとの主張を展開するに加えて、村上密が関与して来た統一教会の信者の拉致・監禁を伴う強制脱会の違法性についても触れることになる。

その過程で、統一教会の信者らが強制脱会活動に抗議するために起こした裁判などについても、本訴訟とは直接関係していないにも関わらず、かなりのページ数を割いて説明することとなる。

ちなみに、統一教会の発表によると、2016年の時点で、強制脱会に反対するために起こされた裁判は20件を超え、強制脱会活動の対象とされた信者は4千人を超えていたという。また、数多くの強制脱会事件を主導した高澤守牧師は、刑事告訴された上、自殺していることや、また、強制脱会の対象となって精神病院に入院させられた信者が裁判所に人身保護を求める請求を手伝った高村弁護士が後の法務大臣になっていることなども分かった。

筆者は統一教会を擁護するつもりはないが、10年間以上監禁されても棄教しなかった彼らの信仰の強さは、敬服に値するものがあると考えている。前々から当ブログでは、殉教者の精神に学び、生きている限り、聖書の神への信仰を貫くことこそ、キリスト者の使命であるということを訴えて来たが、自分を絶対善・絶対的正義のようにみなすプロテスタントの牧師とその支持者から、統一教会の信者でなくキリスト教徒である筆者が、「カルト宗教の信者」や「異端者」の濡れ衣を着せられた挙句、今、こうして人権侵害のかどで牧師を訴える羽目になっているのは、運命の皮肉のようである。

だが、筆者は「自分は正しい」と叫んで他者を排斥する側に立たず、自己の無謬性を信じる牧師らから、かえって排斥される側に立たされたことを、むしろ、誇りに思う。

今、まだ二審が始まる前から、筆者があたかも敗訴に終わって悲嘆に暮れるのではないかなどと故意に悪意に満ちた未来を予想したい連中もいるようだが、そんな愚かな推測は、迷惑なのでやめてもらいたい。そういう予測は、すでに自殺した牧師を含め、強制脱会を主導した牧師たちの運命としてお返ししよう。

村上密が新たな権利侵害の証拠をあれほど大量に追加した以上、筆者の控訴は棄却されず、村上の権利侵害は必ず認定されて、彼は二審では敗訴するものと筆者は予想する。そういう意味で、二審は一か八かの賭けではなく、手堅い勝負になる。

また、杉本の控訴には、報復と賠償金支払いを延期したいという以外に動機がないと見られ、合理的な理由が何も見いだせないため、棄却される可能性が高いと筆者は見ている。控訴審は、杉本のリベンジの場ではないから、仮に当ブログの記事を大量に提出するなどしたとしても(一審も杉本は常にそうしていたが)、それは過去の権利侵害を正当化する理由としては受け入れられないだろう。

そういうことは反訴でなすべきことであるが、控訴審での反訴は、原則的に控訴人の同意なく受理されないため、杉本が筆者に反訴するのは、ほぼ不可能に近い。一審でも無意味な反訴を予告するなどして、被告らは裁判官からも反感を買っていたし、杉本はそれに加えて、裁判所の決定を「不法行為」だとまで言い立てていたが、控訴審では、賠償金も払わず、ブログ記事の完全削除もなく、一審判決に全く従う態度を見せないまま、杉本が何を求めて控訴するのかを問われ、ただ裁判所を自分の欲望に都合よく従わせたいという理由では、控訴を受理する根拠にならないとして、心証を極度に悪くするだけに終わるものと思う。

おそらく、二審判決の言い渡し後は、一審判決後よりも、さらに多くの人たちが、筆者や当ブログの主張に反対したことで、良心の呵責に苛まれることになるのではないかと筆者は予想している。

このように、筆者は、二審では勝訴は当然とみなしているどころか、訴訟とは関係ないところでも、可哀想な人として憐れまれる余地の全くない人生を歩むことが、目的の一つであると考えている。人権侵害は世に訴えねばならないが、筆者が最も訴えたいのは、私たちの信じている聖書の神の贖いの確かさであって、人権侵害の被害の甚大さではない。

神の御言葉に従う者が、あらゆる祝福にあずかること、私たち信じる者のためには、キリストを通して、天に無尽蔵の富が蓄積されていること、そして、神の御言葉に逆らう人々の運命は、非常に厳しいものとなることを、公然と世に示さなければならない。しかし、筆者はそのこととは別に、己が権利侵害がいかに深刻であるかを切々と訴えることによって、被害者と呼ばれたいとは思っていない。

筆者は第一審でも、善良な人々に出会い、信仰に基づき、また、法的根拠に基づき、丁寧かつ根気強く主張を提示し続けることによって、必ず、未来が開かれることを確信した。未熟な点があれば、学習して、それを補えば良いのであって、私たちは常に完成に向かって歩みを進めている。

そこで、筆者には何一つ絶望に至る理由などない。これからますます多くの人たちに出会い、ますます完成された主張を提示し、完成された判決へ向かい、信仰の完成を目指して歩み続けるだけのことである。

こうして、紛争が長引いても、筆者はそのことを良いことであると考えており、自分の召しが果たされるまで、忠実にその労苦を背負うつもりでいる。だが、それは決して労苦だけには終わらないだろう。キリストが私たちのために用意して下さっている命の豊かさ、栄光の前味に、生きているうちにたどり着くことも、信仰者に与えられた使命の一つであるから、この労苦には豊かな報いと慰めが伴うだろうと筆者は考えている。

そういう意味で、これほど価値ある戦いを与えて下さった神に、筆者は心から感謝せずにいられないのである。
 
* * *

さて、筆者は今、新たなる措置を準備中であるが、その過程で、杉本に関する新事実が分かった。これまで、杉本の経営する会社の住所には、アパート名や部屋番号の記載がないため、筆者はこれまでこの住所は一戸建ての持ち家だろうと思っていたところ、実はそうではなく、単なる賃借人であったことが判明したのである。

それは同番地の地番を調べている過程で分かった。同番地に3つくらいの地番があり、そのうちいずれも「杉本」の名では登録されていないことが判明、さらに詳しく調べてみると、杉本が表記している住所の後には、実際には建物名、部屋番号が省略されていることが分かった。

モバオクの表記
 


全国法人情報データベースの表記



企業がビルのテナントを借りるなどのことはよくあることだが、その際には、企業の所在地として、大抵、ビル名や階まで詳しく記載される。建物を借りていながら、まるで土地が自分の所有であるかのように思わせるような表記をすることは、そうそうあることではない。

ちなみに、この住所の真のオーナーは以下の青果店である(画像はgooタウンページより)。



杉本が経営する株式会社メディアテラスは、この青果店の所有する建物の一区画の賃借人に過ぎない。だが、杉本はまるでオーナーの店を押しのけてでも、自分がこの土地の主人だとアピールしたいかのように、オーナーと全く同じ住所表記で法人登録をし、自分が賃借人に過ぎないことがすぐには一般の人々に分からないようにしている。

正直な話、他人の所有する建物の正式な表記を省略して、まるで自分がオーナーであるかのように思わせる表記をするのはどうなのだろうかと筆者は思う。テナントならテナントらしく書けばどうなのだろうか。

特に、これまで、杉本が商工会議所の会員資格を詐称したり、東京銀杏会の資格を詐称したりしていたことを考えると、この住所表記も、偶然ではなく、何事についても自分を現実以上に誇大に見せかけようとする杉本の性格、そして、本来は自分の所有でないはずのものを自分の所有のように見せかけるパクリが大好きな性格がよく表れているような気がしてならないのだが・・・。

以下がGoogle mapで見た青果店の所有する建物の外観である。1階が店舗で3階もオーナーの所有であることが、問い合わせで分かった。貸間は2階のみだという。きっとこの青果店は、地域社会とも密着して経営されていることであろうが、商工会議所会員でないのに会員資格を名乗ったり、全国のキリスト教会をネットで叩き続け、見ず知らずの他者の個人情報を暴いたり、名誉毀損したりしている杉本のブログは、このオーナーの店にどういう影響を及ぼしているのだろうかと考えないわけには行かない。

何となく、過去にもそういう問い合わせがこの店に寄せられたことがあったのではないかという雰囲気が感じられたのである。杉本は早くブログを削除した方が大家への迷惑が減り、地域社会のためにもなると思わずにいられない。



ここには詳しく書かないが、調べたところ、他にも多くのことが分かった。たとえば、メディアテラスがヤフオクでもう数ヶ月近くも売りに出しているが、まだ売れていない以下の自転車(これがネットオークションでは同企業の現時点で最も高額の商品のように見えるが、価格を見ても、アピールポイントを見ても、なぜ今この商品なのかが全く分からない)は、さすがにこれは上記の会社住所には置けないものと見られるが、どこで撮影したのか、アパートではなく民家のような一軒家っぽい背景が移っている。



調べると、やはりこの自転車の保管場所は別にあるらしいことが分かった。たとえば、そう遠くない場所に実家があるとかいったことが考えられる。

オークションの他の出品を見てみたが、古物商でもなく、絵画などを専門に取り扱うでもなく、日用中古雑貨というだけで、独自のセールスポイントが分からない。商品の取り揃えも少なく、テーマも統一されていないため、これでは、ネットで十分な収益が上がるとも全く思えず、主な収入は、社会福祉士としての稼ぎだと想像される。
 
雑貨を売りたいならば、店舗を構えることもできるであろうがそれもなく、会社の所在地を構えながら、それとは違う場所を撮影や保管に利用していたり、間借り人としての住所で、完全に独立した生活を営んでいるようにも見受けられず、社会福祉士と、企業経営と、キリスト教会をバッシングするブログとが、一体どう結びつくのかも定かでない。

そもそも企業経営者であり社会福祉士でありながら、社会的弱者を愚弄して悦に入ったり、見ず知らずの他人の個人情報を暴いて名誉毀損して賠償金を踏み倒すなど、もはや何がしたいのかが全く分からない無定見な人生でしかない印象だ。

興味の赴くままに、あらゆることに手を広げはしたものの、明白な目的意識がなく、気が多すぎて一つの事に集中もできず、他者の手を借りずに自分だけで事を成し遂げられず、自分の欠点や不利な事実を指摘されても、これを真正面から受け入れる勇気や覚悟がないために、常に不都合な指摘は退け、易きに流れ、結局、何を手掛けても、一定の成果を出せないまま、すべてが空中に散じて終わるというパターンが感じられる。

前々から書いている通り、そういう傾向が改まらない限り、社会福祉士も長くは続かないだろう。こうして見ると、杉本の一つ一つの選択は、真に事業を成功させたいという願いに基づくものではなく、ただ「人に認められたい」とか、「人よりも上に立ちたい」といった動機(承認欲求)で飛びついた結果ではなかったのかと思わざるを得ない。

そういう性格は、村上密ともよく似ているように見受けられる。村上は今でも「宗教トラブル相談センターへの相談は尽きない」とか、「東奔西走」とかいった記事を掲載しては、自分がいかに全国から引っ張りだこになっているかを絶え間なく自慢せずにいられないという性格を披露しているが、イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、人に尊ばれるものは神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:15)

杉本は第一審の終わり頃から、裁判所が杉本にとって不都合な決定を出したことを「不法行為だ」と非難していたが、今、判決の取消を求めて控訴している事実も興味深く、筆者は前々か杉本はいずれ裁判所に対しても、警察署に対しても、反抗的な態度を取るだろうと述べて来た。

それは筆者が、杉本の信仰こそ異端的見解であって、すべての異端は反社会的なものであるとみなしているためである。そこで、今、彼が判決の取消を求めている主張の根底にも、裁判所の決定を否定するのみならず、神に対する反逆の精神が流れていると見ている。

おそらく、村上もこの先、杉本と同じ行動に及ぶだろうという気がする。鳴尾教会相手の裁判の時も、彼は随分、あきらめが悪かったが、村上は、カルト牧師が心を頑なにして裁判所の判決を認めない姿勢を非難していたにも関わらず、当ブログを巡る訴訟の第二審で、自分に不利な判決が出た場合、杉本と同じように、判決を認めまいとする態度を取るのではないかと予想される。

こうして、次第に彼らの反社会的な本質が徐々に明らかになっているのが、現在である。つまり、杉本や村上のような人たちが敵対している相手は、もはや当ブログや筆者だけではなくなり、彼らを取り巻く社会全体(神と人)に広がりつつあることが徐々に明らかになっているのだ。

こうして、飽くことのない承認欲求に生きる人たちの空虚な内実は、遠からず万人の目に明らかになるだろうと筆者は思う。人に認められたいとか、必要とされたいとか、他人を押しのけてでも、自分が人の上に立ちたいとかいった願望だけが、すべての行動に先立ち、自分を誇大に見せかけることは得意でも、内実のない人々というのは、最後には風船みたいに弾け飛んで終わるものだ。

事業の失敗くらいで終わればまだ良いが、キリスト教会に立ち向かい、神に対してマウンティングをしてしまったのが、彼らの運の尽きであり、「わたしはある」という方に向かって舌を出して挑戦すれば、「おまえはない」という以外に下る結論はない。すべてにまさる真実なリアリティである方を否定すれば、虚無の深淵に落ち込んで行くだけである。

この先、彼らが言い逆らっているものが、あれやこれやの人物ではなく、社会そのものであり、聖書の神ご自身であるという事実がより公然と明らかになるに連れて、彼らにはこの世においても、自然と居場所がなくなって行くものと確信する。

そして、「交流の少ない所で生活」「情報はインターネットが頼り」だとか、「甘っちょろい空想」や、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」といったレッテルも、ついにはこれを吐いた人間自身に返されて終わることとなるだろう。
 
* * * 
 
さて、少し前のことになるが、村上密は「反知性主義」と題する記事の中で、長年、自分の活動に反対して来たある人物に対して、その人物から被害を受けたとする人間の代理人となって、訴訟を提起することをほのめかしたところ、相手が折れて出て来たので、屈服させることができたと語っていた。

和解などという言葉を使ってはいるが、「相手は撤回と謝罪に応じてきた。それで双方は和解した。」と書いているので、結局は、訴訟をされたくないなら、自説を捨てて謝罪せよと圧力をかけて、相手を屈服させることに成功したということである。

この記事で村上は書いている。

「嫌いと言う感情は嫌いとされた相手の実像を捉えることができない。相手をネガティブにしかみれない感情は、反知性主義に陥っているからだ。以前、私に対して何でも反対の立場を表明した人がいた。彼は公私にわたって反対した。しかし、私の主張や働きが一時的に足止めを食ったりはしたが、挫折に追い込まれたことはない。」

まるで自分は無敵だと豪語するような文面である。だが、嫌悪感と反知性主義はそもそも関係ない事柄のはずであるから、村上がここで使っている「反知性主義」の定義とは、感情に流されて理性できちんと物事を考慮できないといった意味合いで、反知性主義の本来の定義からは離れている。

反知性主義という言葉の本来的な意味は、「日米で異なる2つの「反知性主義」とは?その意味と論点を正しく理解する為に 」という記事では、次のように紹介されている。

「反知性主義はもともとアメリカで生まれた概念で、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」を表しています。「知性そのもの」を否定しているのではなく、「既存の知性主義や権威」を否定するものなのです。」

村上は、以上の記事で屈服させた人物が、牧師であるとは書いていない。だが、村上がキリスト教界の多くの牧師に対して、争いをしかけて来たこと、訴訟をほのめかすか、もしくは実際に訴訟をしかけるなどの方法で、牧師らを屈服させて来たことは事実である。

ちなみに、筆者は以下に再び引用する通り、かつてアッセンブリー教団、いや、ペンテコステ運動そのものが反知性主義に陥っていると書いたことがあった。

そして、筆者のこうした指摘は、iRONNAの記事「安倍晋三政権の「反知性主義」」(榊原英資著)の前半で、アメリカのキリスト教原理主義を分析した文章を読んでも、的を外れたものではないと考えざるを得ない。

「反知性主義」とはもともとアメリカのキリスト教原理主義者達が進化論等の科学的分析に対し反発した事等を指したものでした。かなりの社会的地位のある人達が平然と科学的分析を否定し、キリスト教の絶対性を説くといった現象は他の国にはあまり見られないものでした、アメリカ建国以来、何度かにわたって訪れたリバイバリズム(信仰復興運動)とも密接な関係があるとされています。

 アメリカという国自体、旧イングランドを脱したピューリタン達が神との新しい契約のもとで「新しいイングランド」を創設するという壮大な実験でした。そしてそのリーダーシップをとったのは高学歴の牧師達でした。彼等は入植後わずか一六年で牧師養成機関としての大学、ハーバード大学を作ったのでした。知性を重んじるこうした動きは、次第に権威と結びつき、アメリカのエスタブリッシュメントになっていったのです。

 こうした権威に対して民衆に信仰を取り戻すという運動として、新たな布教運動が拡がっていったのです。その主導者達は教会を持たず牧師の資格も持たず命がけで土地・土地を巡り布教活動をしていったのでした。大衆をターゲットにし、神の前の平等を説く彼等の辻説法は、人口が爆発的に増え、同時に生まれた字も読めず教養もない層に熱狂的に受け入れられたのでした。それが反知性主義の原点であり、極端に言えば、アメリカという国の原点だったのです。つまり、アメリカの反知性主義はアメリカ的宗教革命だったということもできるのでしょう。

 そして、反知性主義は大衆民主主義(マス・デモクラシー)が拡大する中で権力が大衆に媚(こ)びる手段にもなってきたのでした。知識人、あるいはインテレクチュアル、は社会のエリートであっても少数派です。知性主義を否定し、法の前の平等、実用主義等を説き、権力が直接大衆にアッピールするためには反知性主義は有力な手段の一つにもなりうるという訳なのです。」



だが、以上の文章には、筆者から見ると、多少の誤謬が混じっているので注意が必要である。たとえば、進化論に反対することを、この論者は「反知性主義」に分類しているが、このような考え方に立つと、およそすべての信仰はみな「反知性主義」に分類されることになる。

そうしたステレオタイプなものの見方は、ちょうど20世紀に「科学」に対する絶対的なまでの信頼が高まった時代に(科学万能主義が生まれた時代に)、「科学」対「信仰」という単純な二項対立の図式が作られ、あらゆる宗教への信仰は非科学的だという理由から、キリスト教の信仰に対しても批判が展開されたのと大して変わらない。

現代では、「科学」対「信仰」という対立の図式を「知性」対「信仰」といった図式に置き換え、「キリスト教原理主義者」や「聖書原理主義者」に「反知性主義」というレッテルを貼って、あたかもすべての信仰が、反知性主義的なものであるかのような先入観を作り出し、それがキリスト教信仰(聖書信仰)を攻撃するための材料として利用されている。

そのようなステレオタイプなものの見方に立って、聖書信仰をいわれもなく否定、非難したものが、杉本の記事だったと言えよう。

だが、実際には、以下で詳しく述べるように、信仰は決して知性と対立するものではなく、また、人間の知性の中には、誤った知性というものも存在することを考える必要がある。

当ブログで再三、警告して来たグノーシス主義などは、特に、「偽りの知性」「誤った知性」を「叡智」のようにみなす思想であるから、知性という名で呼ばれるものが、何もかも正しいとみなすと、こうした誤った知性を警戒して退ける試みさえも、「反知性主義」というレッテルを貼られて排斥されることになりかねない。
 
人間の生まれながらの知性は不完全なものであり、真理を啓示できるのは、聖霊だけであり、よって、聖書に基づく信仰を通してでなくては、人は正しい知性にたどり着くこともできない、というのが当ブログの見解である。

そうした考えに立って、筆者は、科学が必ずしも知性的であるとは限らないし、進化論が正しい知性の産物であるとも全く考えていない。だから、進化論を否定したからと言って、それが「反知性主義的」であることの証拠にも全くならないとみなしている。

このように、以上の論説には、科学万能主義が唱えられていた時代の再来のように、科学に反対するあらゆる信仰を「反知性主義」に分類してしまいかねない危険な二項対立の図式が含まれていることに注意せねばならないが、それ以外の点では、興味深い指摘も含まれている。

それは、この論説では、ペンテコステ運動という言葉は登場しないものの、アメリカでエスタブリッシュメント層に対する反発として生まれて来た新たな「宗教革命」すなわち、信仰復興運動が、反知性主義的な傾向を持っていると指摘されていることである。

もちろん、この信仰復興運動の中で、ペンテコステ運動がかなり大きなウェイトを占めていることは間違いないだろう。なぜなら、教養もなく、場合によっては字も読めない大衆をターゲットに、辻説法を繰り広げるだけでなく、異言や奇跡的な癒しなどの超自然的現象を強調しては、大衆の注意を惹きつけ、圧倒的な支持を受けて拡大して来たのが、ペンテコステ運動だからである。

聖霊派とも呼ばれるこうした運動には、従来の福音派の説教にはないダイナミズムが伴い、それゆえ、大衆の支持が得られた。マスメディアを通じて、ムードたっぷりの讃美歌や、心を打つ信仰の証などをふんだんにちりばめ、感動的な礼拝風景をテレビやネットを通じて配信するなどして大衆の支持と注目を集めたのもこの運動である。

そこで、以上の論説が、大衆の支持を背景に生まれて来たペンテコステ運動の流れを汲む米国の信仰復興運動が、反知性主義によって特徴づけられると記していることは、筆者の指摘とも共通する部分があって興味深い。

村上密が所属しているアッセンブリー教団も、言うまでもなくペンテコステ運動に属する。そして、村上が、記事において、牧師が聖書の解釈を独占していると非難していることを思い出すと、これこそ、牧師だけが聖書の解釈を独占することで、「知性と権威が強く結びつく」キリスト教界に対する「反知性主義的反発」として登場して来た説だと言えよう。
 
以上の記事で解説されていたように、反知性主義を、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」とらえるならば、もともと反知性主義的な傾向を持ったペンテコステ運動の中から、牧師が御言葉の解釈を独占することで、「知性」を独占し、それゆえ牧師が「権威化」されるという風潮や制度そのものに対する反発として、カルト被害者救済活動、すなわち、村上密の反カルト運動が生まれて来たのだと言える。

ちなみに、当ブログでも、牧師制度は無用なものであるとみなし、信者が牧師から聖書の御言葉を咀嚼して「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、自分では聖書を理解もできない状態をあたかも正常な状態であるかのようにみなすプロテスタントの牧師制度は、信者の霊的前進を妨げる障害物にしかならないので、撤廃されねばならないという見解を幾度となく述べて来た。

今や聖書の理解が牧師によって独占されている状態に終止符を打ち、聖書がより一般に解放されて、信者一人一人が自ら聖書を理解する時代が来なければならず、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要なのである。

この見解は、村上の指摘と一見、似ているように見えるかも知れない。村上だけでなく、杉本もプロテスタントの牧師らの権威主義を強く非難し、また、唐沢治もまたニッポンキリスト教界の牧師らを非難し続けて来たのであるから、当ブログと以上の人々の主張の間には、何かしらの共通点が見いだせるように思われるかも知れない。

だが、これらの人々の牧師批判と、当ブログの主張とでは、似ているようで、決して見逃すことのできない大きな相違点がある。

それは、当ブログは、知識が一部の人々によって独占された結果、権威もまたその人々によって独占されるという状態には反対するものの、以上の3名が行っているように、知識と権威の両方を否定して排斥しようとは全く試みていない点である。

当ブログでは、「知性」と「権威」とが結びつくこと自体を否定したことは一度もない。

むしろ、当ブログでは、聖書には「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)と聖書にあるとおり、要するに、すべての「知性」の根源は、神を知る知識、すなわち、聖書の御言葉を御霊によって理解することにこそあり、聖書の御言葉に忠実に生きることこそ、その者が他の者に対して霊的優位性を勝ち取る秘訣であると述べて来た。

つまり、聖書の御言葉の理解に精通した者が、他の者に先駆けて知識と権威を得るのは当然のことであって、正しい法則であるということを、繰り返し述べて来たのである。

歴史を振り返っても、キリスト教国がそれ以外の諸国に比べて早期に経済発展を遂げた事実や、プロテスタントの精神が資本主義の発展を促した事実の中に、聖書の御言葉への理解がいかに経済的な利益とも見えない領域で結びついているかを確認することができよう。

筆者の見解では、経済発展の真の原動力になったのは、科学の発達ではなく、むしろ、聖書に立ち戻ろうとする信仰復興運動である。時代を超えて、聖書の御言葉に忠実に歩もうとするキリスト教の最先端の信仰復興運動こそ、あらゆる経済発展の真の原動力となって来たのである。

従って、プロテスタントの牧師が他の信者に比べて精神的・経済的に優位を誇っている根拠も、牧師が御言葉を取り継ぐ者として、聖書の理解を他の信者から奪って独占していることにこそある。

こうして、聖書の御言葉に精通した者が、他の者に先駆けて知識や権威を得るという原則は、非常に信仰的な意味合いが薄れているとはいえ、たとえば、我が国において、官僚や知識人の多くが法律の専門家から成るという風潮の中にも見て取れる。

法律の解釈と出世とは一概に結びつかないように見えるであろうが、こうした風潮の中には、ちょうど律法学者らがラビとして民に敬われていたのと同じような原則を見ることができる。法律は死んだ条文ではなく、生きた言葉であり、そこから命を汲み上げることのできる人たちは、それができない人たちに比べ、知的に優位に置かれるのである。それはその法が人間を各種の脅威から守り、救い出すことができる根拠だからである。

この世の法でさえそのような機能を果たすわけであるから、ましてや聖書の御言葉に精通した者がこの世のすべての人々に超越した霊的優位性を得て、知識と権威を得るのは当然である。

従って、こうした観点から、当ブログでは、知性と権威が結びつくことそれ自体は、誤ったことではないとみなしており、問題は、聖書の知識の理解が、これまでのすべての時代において、一部の聖職者階級によって独占されて来たこと、それゆえ、ほんの一部の人々が、他の信者よりも優位に立って、経済的にも、その他の面でも、特権を得ているという状態が、望ましくないと述べている。
 
当ブログでは、今日のプロテスタントの牧師たちは、かつてカトリックの聖職者たちがそうであったように、聖職者階級となって聖書の御言葉の理解を独占することで、一般の信者たちが自ら聖書の御言葉を理解するのを妨げており、それゆえ、こうした状態から信者が解放されて、聖書の御言葉が万人に解放されるという最後の信仰回復運動が到来せねばならないと述べているのである。

このように見ると、当ブログの主張は「反知性主義」に立つものではない、と言うことができる。むしろ、知性をより一般に普及させることで、知性と権威の底上げとでも言うべき状態を目指すべきというのが、当ブログの主張である。これは決して「知性」と「権威」とが結びつくことそれ自体を否定するものでもない。

反知性主義とは、当ブログの主張とは異なり、知性を持つ者が、それを持たない者に対する優位の証しとして、権威を獲得すること自体を否定する考えであるから、根本的に、唯物論から出て来た発想であると言える。

そして、ペンテコステ運動に見られるやたら奇跡を重んじる体験主義なども、反知性主義から出て来た傾向であることは、すでに幾度も解説して来たが、カルト被害者救済活動を率いる村上密や、ニッポンキリスト教界を非難し続ける唐沢治などは、当ブログとは違って、まさに反知性主義的観点から、牧師らを非難しているだけであることに注意しなければならない。

それが証拠に、村上も唐沢も(杉本も)、牧師らをただ非難し続けるだけで、決して聖書の御言葉への忠実な理解に立ち戻ろうとはしない。むしら、これらの人々は、プロテスタントの問題性、牧師らの腐敗を追及・非難すればするほど、ますます聖書の御言葉を知る知識から遠ざかり、異端的教説に接近して行くだけである。
 
要するに、この人たちは、反知性主義に基づき、牧師を非難することで、「知性」と「権威」の両方を同時に否定しているだけなのである。そのために、かつては大学講師をつとめ、知識人の一人のように見えた唐沢治でさえ、アカデミズムを去って、怪しげな新興宗教の指導者が宣伝するようなごちゃまぜの異端的教説を公然と宣べるようになったのである。

当ブログでは、随分前から、唐沢や村上のネット上の論説が、極端なまでの劣化の道を辿りつつあることを指摘して来た。数年前から、唐沢の文章も、匿名掲示板の投稿とほとんど変わらないようなレベルになっている事実は見逃せない。

こうした知的劣化(荒廃?)は、彼らの反知性主義的な理念のもたらした必然的な結果だと筆者は見ている。では、知性が欠如(劣化)すると、その次に何が起きるのであろうか。権威の崩壊である。

筆者は、グノーシス主義とは、悪魔が人類に吹き込んだ「偽りの知性」であって、それは根本的に「無知」であると述べて来た。

聖書が神の霊感によって書かれた書物である以上、聖書の御言葉を理解するためには、聖霊による導き(啓示)が必要となるが、今日、聖霊の名で呼ばれているあらゆる運動が、真に御霊によって生まれたものなのではない点に注意しなければならない。

キリスト者は、飽くことなく、聖霊の働きを追い求めるべきという点において、聖霊派は、確かにキリスト教の中でも、最も先駆的な信仰復興運動なのであるが、残念ながら、その中には数多くの偽りの霊による運動が入り込み、ペンテコステ運動にも、聖書の御言葉の深い理解を得ようとするのではなく、感覚的な享楽をもたらす体験を重んじることで、信者が知性によらずして、神を知ろうとする「さかさまの探求」が込められている。

ペンテコステ運動とは、そういう意味で、鈴木大拙の言う「二度目の林檎」と同じものなのである。つまり、これは信者を知性へと導くように見せかけて、無知へと導く偽りの知恵に支えられた運動である。

村上密も、唐沢治も、杉本徳久も、みなペンテコステ運動に多大なる影響を受けていることは幾度も指摘したが、その結果として、彼らは聖書の御言葉を知る知識と権威の両方を否定するようになり、自分自身がまさにその両方を失おうとする直前まで来ている。今日、すでに彼らからは知識が失われているが、次に失われるものは権威である。

当ブログが提起する訴訟は、彼らの知性が偽物であることを公にし、彼らの権威が完全な失墜に至るための導火線のようになるだろうと筆者は考えている。なぜなら、上記の通り、本来、知性と権威とは不可分の関係にあり、聖書の御言葉を知る正しい知識こそ、人に権威を与えるものであるから、神を知る知識すなわち聖書の御言葉への正しい理解を捨てた者は、もはや自己の尊厳を守れず、自分で自分の命を失う結果となるからだ。

不正や暴虐によって得た利益は、その人を滅ぼす。強制脱会活動などに関わって金銭を蓄えた者、罪もない者を陥れるために策略をしかけた者らの富は、恐怖と災いがつむじ風のように襲うとき、あっけなく奪われ、取り去られる。

しかし、主の御言葉に従う者は、地上においても確かな住まいを得て、災いを恐れることなく暮らす。神の御言葉を知る知識は、人の生活のすべての面における繁栄と平穏の根拠なのである。

最後に、箴言第1章を引用しておきたい。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

 
これは知恵と諭しをわきまえ
 分別ある言葉を理解するため

 未熟な者に熟慮を教え
 若者に知識と慎重さを与えるため。

 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
 聡明な人も指導力を増すであろう。

 また、格言、寓話
 賢人らの言葉と謎を理解するため。 

 
主を畏れることは知恵の初め。
 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 わが子よ、父の諭しに聞き従え。
 母の教えをおろそかにするな。

 それらは頭に戴く優雅な冠
 首にかける飾りとなる。

 わが子よ
 ならず者があなたを誘惑しても
 くみしてはならない。

 彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
 罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
 陰府のように、生きながらひと呑みにし
 丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

 金目の物は何ひとつ見落とさず
 奪った物で家をいっぱいにしよう。

 我々と運命を共にせよ。
 財布もひとつにしようではないか。

 わが子よ
 彼らの道を共に歩いてはならない。
 その道に足を踏み入れるな。

 彼らの足は悪事に向かって走り
 流血をたくらんで急ぐ。

 翼あるものは見ている。
 網を仕掛けるのは徒労だ。

 待ち伏せて流すのは自分の血。
 隠れて待っても、落とすのは自分の命。

 これが不当な利益を求める者の末路。
 奪われるのは自分の命だ。

 
知恵は巷に呼ばわり
 広場に声をあげる。 

 
雑踏の街角で呼びかけ
 城門の脇の通路で語りかける。

 「いつまで
 浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
 不遜な者は不遜であることを好み
 愚か者は知ることをいとうのか。

 立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
 わたしの言葉を示そう。

 しかし、わたしが呼びかけても拒み
 手を伸べても意に介せず

 わたしの勧めをことごとくなおざりにし
 懲らしめを受け入れないなら

 あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
 恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

 恐怖が嵐のように襲い
 災いがつむじ風のように起こり
 苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

 そのときになって
 彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
 捜し求めても
 わたしを見いだすことはできない。

 彼らは知ることをいとい
 主を畏れることを選ばず

 わたしの勧めに従わず
 懲らしめをすべてないがしろにした。

 だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
 自分たちの意見に飽き足りるがよい。

 浅はかな者は座して死に至り
 愚か者は無為の内に滅びる。

 わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
 災難を恐れることなく平穏に暮らす。