忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


我弱くとも恐れはあらじ

「『子を産まなかったうまずめよ、歌え。
 産みの苦しみをしなかった者よ、
 声を放って歌いよばわれ。
 夫のない者の子は、
 とついだ者の子よりも多い』と主は言われる。」(イザヤ54:1)

 私は最近、既存の教会で培った礼拝や信仰のスタイルからますます離れつつあるように思います。信仰に関する制限がますますとりはらわれて行っているのです。ある人はそれを見て、これは危険だ、我流の信仰の始まりだ、潔癖症の始まりだ、禁欲主義だ、既存の教会で受けた根深いトラウマが、それを思い出させるあらゆるものに対する拒否反応を呼び起こしているのだ、きっとそのうちに何か自己流の神秘主義のようなものへ堕ちて行くに違いない、と危険を感じるかもしれません。しかしそう判断するのは、もうちょっと待っていただきたいのです。

 それはまず、下で述べたように、私が記憶している賛美歌の大整理から始まりました。
 既存の教会で習い、私の血肉となったような現代音楽の讃美歌がいくつもあります。中には、美しいメロディのものもありますし、奏楽をしているうちに脳裏に焼きついて、忘れられなくなったものもあります。かなり長い間、私は教会の奏楽に携わりましたので、当然のごとく、それらの歌は私の血肉になっていきました。ひらめきの感じられる、かなり気に入った曲、叙情的な曲もありました。しかし、それらの高揚感溢れる美しい賛美歌に、どういうわけか、私は年を追うごとにだんだん馴染めなくなってきたのです。

 私の賛美歌の好みは、飾り気のない単純素朴なものへと帰って行きます。私自身の心が、自分の血肉になるほどにまで慣れ親しんだ各種の讃美歌から、どういうわけか、離れて行くのです。

 今、私の頭に残っているのは、祖父が亡くなった時に、幼い姉妹たちと共に葬儀で歌った『主我を愛す』です。あまりにも単純な飾り気のないメロディと和音には、現代流行の音楽のように、興奮を煽る要素は何もありません。音楽としてはあまりにも素朴で、やや退屈なほどです。

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 我が罪のため 栄えを捨てて
 天より降り 十字架につけり

 御国の門を 開きて我を
 招き給えり 勇みて昇らん

 我が君イエスよ 我を清めて
 良き働きを なさしめ給え
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 この単純な歌詞、感動からは程遠いような単純な旋律を声に出さずに歌っているうちに、えもいわれぬ感動が内から沸き起こるのです。まるで獄中で、絶望の只中にありながら、ただ一人きりで、全身全霊をこめて歌っているかのようです。我が主イエス、我を愛す、この絶対的な関係の中には、いかなる他人も入り込むことはできません。四面楚歌の状況にあっても、ただ主と差し向かいで、私はこの歌を歌うのです。私の奥深いところから、その歌は生まれて来ます。

 次に、祈りが変わりました。既存の教会に通っていた頃、特に子供の頃のことですが、日曜学校などで、人前で祈らされる瞬間が嫌で嫌でたまらなかったことを覚えています。しかつめらしい、もっともらしい祈りの文句を頭の中で考えて、心にもない感謝の言葉を並べなければならないのが苦痛だったのです。

 けれども、今は、そんな形式的な祈りを一切しなくなりました。一人ぼっちで祈るのですが、声に出してつぶやくことさえほとんどありません。しかしながら、それは祈らなくなったということではなくて、生きている毎瞬が、祈りに変わったことを意味しています。今の私の祈りは、自分の魂を注ぎ出す、うめきに近いものです。ですから、言葉に直すとそれがどうなるのか、自分でもよく分かりません。ある人は、私に向かって「あなたはこのように祈ったらよいのです」と教えるのですが、私にはそれが受け入れられません。いや、いかなる形式も受け入れられません。主との二人きりの時間は、人には明かせないのです。

 今は、祈りとは、四面楚歌の状況にあっても、ただひたすら、うめきながら、泣きながら、神に助けを求め、罪を告白し、勝利を宣言し、来るべき出来事を知らせて下さいと頼むことへと変わりました。神への愛を静かに告白し、喜びに満たされることも自然に起こるようになりました。とりなしの祈りもあります。けれども、どのような順番で何を祈っているのか、自分でもよく分かっていません。それは全て密室の祈りであり、神と私だけの秘密であり、そこにはどんな形式も、入り込む余地はありません。

 礼拝も変わりました。毎瞬が祈りになったので、神を賛美することもそこに含まれるようになりました。ですから、礼拝という特別な時間を持たなくなりました。歌も特に歌わなくなりました。それで不自由を感じることもなくなったのです。

 今の私はちょうどサムエル記上の冒頭に登場するハンナのようです。ハンナはあまりにも深く嘆き悲しんでいたので、主の神殿を訪れても、まともに礼拝することができませんでした。楽しい歌も歌えませんでしたし、もっともらしい祈りを捧げることもできませんでした。ハンナの態度があまりにも常軌を逸していたので、エリは彼女が酔っ払っているのだとさえ誤解しました。しかし、ハンナは、愚痴のように、積もる憂いと悩みを神に告白することしかできなかったとはいえ、確かに、心のすべてを主の前に注ぎ出していたのです。

 礼拝とは何でしょうか。私たちが喜びと感謝を惜しみなく主に捧げることが礼拝なのでしょうか。
 楽しく主を賛美し、大胆に勝利を宣言し、快い、高揚した気分で、感動しながら、感謝しつつ主と向き合うことが礼拝なのでしょうか。
 必ずしも、そうだとは思いません。

 悲しみと憂いの只中から主に捧げる歌もあります。
 絶望の只中から生まれる涙の歌もあります。
 声にならない声、祈りにならない祈り、歌にならない歌があります。
 とても礼拝という範疇にはおさまらない、霊の切なるうめきがあります。

 主は、私たちが自分の心を偽らず、主に正直に申し上げることをこそ、何より喜ばれるのではないかと私は思います。それが憂いであるにせよ、悲しみであるにせよ、です。私たちが神の御前に格好をつけて、かくあれかしと思う装いを整えて出て行くことは、これ以上、必要ないのではないでしょうか。砕かれた魂を持って主に向き合うこと、それ以上に、神が私たちに求められ、また喜ばれるものはないと思うのです。

 今日の礼拝と呼ばれるものは、ほとんどが、人が人知により礼装を整えて主の御前に出ようとするものであるように私には感じられてなりません。その礼装が、霊によって着せられる服であれば良いのですが、ほとんどは、人が裸の惨めさを覆い隠して、神の御前で、また人前で格好をつけるための、人工的な服装、形式に過ぎないように感じられます。だから、心から悲しんでいる人たちは、教会の中に居場所を見いだせないのです。苦しんでいる人たちは、礼拝の中に居場所を見いだせないのです。そういう人たちに対しては、自己憐憫に溺れている、礼拝に水を差すので気持ちを改めて出直して来いとの非難の言葉がかけられるだけです。

 しかし、神はハンナの正直な告白に耳を傾け、彼女の涙とうめきをかえりみられたのです。神はいつも、自分は強いと自惚れ、自分は正しい心の持ち主であり、主を大胆に礼拝できるから感謝ですと告白する者たちではなく、自らの弱さを知って打ち砕かれた者たち、自分には神を礼拝する資格さえないと感じている者たちの味方なのです。
 主はいつも心砕かれた者を引き上げて下さいます。ハンナがサムエルを得た後に、喜びのうちに主に捧げた歌は、逆説的な勝利を謳ったものでした。
「勇士の弓は折れ、
 弱き者は力を帯びる。
 飽き足りた者は食のために雇われ、
 飢えたものは、もはや飢えることがない。
 うまずめは七人の子を産み、
 多くの子をもつ女は孤独となる。
 主は殺し、また生かし、
 陰府にくだし、また上げられる。
 主は貧しくし、また富ませ、
 低くし、また高くされる。
 貧しい者を、ちりのなかから立ち上がらせ、
 乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、
 王侯と共にすわらせ、
 栄誉の位を継がせられる。
 地の柱は主のものであって、
 その柱の上に、世界をすえられたからである。
 主はその聖徒たちの足を守られる、
 しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。
 人は力をもって勝つことができないからである。
 主と争うものは粉々に砕かれるであろう<…>」(サムエル記上2:4-10)

 キリストにあっての勝利とはいつもこのようなものです。勇士が与えられた力を感謝し、富める者がその安定した生活を感謝し、子沢山の女が神に感謝を捧げたからとて、何の不思議があるでしょうか。
 かえって、産まず女として軽んじられた女が、子を授かって喜びの声を上げ、貧しく蔑まれていた者たちが王侯のような栄誉を与えられて感謝を捧げ、弱い者たちが強くされて躍り上がる時にこそ、主の栄光が輝くのです。「夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」、ここにこそ、神の御業の不思議があり、神の憐れみの深さがあり、人間の力によらない、神による逆説的な力の反転があるのです。

 神は常に心砕かれた弱い者たちと共におられます。礼拝とは、私たちが神の御前にまず自分の心を砕かれた状態で進み出ること、弱いままの自分を隠さずに御前にさらけ出すことから始まるのではないでしょうか。そこにはどんな装飾をちりばめた祈りも、高揚感溢れる情緒的な音楽も、大胆な宣言も、叫びも、踊りも、必ずしも必要ではありません。ただ単純素朴な、声にさえならないうめきがあるだけで十分なのです。

 工夫や粋を凝らした装飾を捨てて、ただ弱さだけを携えて静かに主の御前に出ませんか? そうすれば、私たちのその無の中に、弱さの中に、静寂の中に、主は限りなく現れて下さると思うのですが?

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す
PR

騒がしい信仰から静寂な信仰へ

主が今、確かに働いておられる、主は、牧者から打ち捨てられ、教会から捨てられて傷ついた羊のもとを一匹、一匹、訪ねておられる、社会から、家庭から、見捨てられかかったような貧しい人々のところを訪ね、魂の打ち砕かれた人々を神の御前に集めようとなさっておられる…、そのことをまさに実感できるような嬉しい手紙を遠方のクリスチャンからいただきました。
 その方は、金もうけ主義に堕した教会で思い切り傷つけられ、ショックのあまり御言葉を読むことさえできなくなり、一時は、聖書を封印すると宣言されていました。
 しかし、それほどの苦しみを乗り越えてでも、主は、その方を率直に御言葉に立ち戻るよう促されたのでした。それは、その兄弟が主によってどれほど愛され、どれほど主が彼を切に求めておられるかを示す出来事でした。

 彼が主にあっての兄弟であることを私は疑ったことはありませんが、それにしても、兄弟が父なる神の懐に大胆に飛び込み、主によって抱きしめられた瞬間を目にすることができたのは、私にとっても、大きな喜びであり、感動でした。

 ところで、彼は賛美について書いています。
「静寂な信仰をモットーにしています。
 あの、新興宗教(メガチャーチ)のライブ系、ヒップポップ系のノリノリの賛美礼拝というドンチャン騒ぎの大宴会場と化した教会は祈りの家と呼ぶのにふさわしくありません。あれは教会のクリスチャンの士気と結束力を高めるための歌にしか私には聞こえないです。神様に対して真心を込めた賛美ではないと感じます。」

 この言葉をここに引用させていただいたのは、「静寂な信仰」という言葉が、まさに私が求めている信仰のあり方とぴったり一致するからです。私は先日、ある人に向かって断言しました、「今日の教会は騒がしい現代音楽の賛美歌を捨てて、バッハに立ち戻れば良い」と。
 多分、このような意見を聞いた方は、誰でも、気分を害されるでしょう。それはよく分かっています。しかし、あえてこのような極論を述べるのは、現代音楽というものがいかにサタン的なものによって深く汚染され、堕落しているかということを、ひしひしと感じるからなのです。

 このように述べると、早速、「あんたは超保守派だ!」「どうせロックは悪魔の音楽だとか、そういうことを言うつもりなんだろう?」との批判が私に向けられるだろうことは分かっています。現代の化石、空気読めない人、クラシック・アニア、音楽的潔癖症…、まあ、ありとあらゆる非難の言葉が向けられるでしょうね。

 しかし、私にとって、特に、聖霊派の現代流行となっている賛美歌は、皆、人の感情や感覚に訴えかけることばかりが巧みで、肉的高揚感をひたすら煽るための一種の装置となっており、知性の感じられない、芸術性に乏しいものです。それはまるで濁った水溜りのようです。そこには、形式的に完成された美はありませんし、それを目ざそうとの意欲もありません。歌詞も極めて軽薄であり、知性に乏しく、音楽的に計算されつくした形式と美がありません、単調な歌詞と和音の繰り返しは、まるで人を暗示や催眠に陥れようと狙っているかのようです。

 現代音楽そのものがこういう道を辿っているので、非難されるべきは何も聖霊派の賛美歌だけではないのですが、このようなものは本物の音楽ではありません。私たちは水溜りを指して、これが海だと言うことができるでしょうか? インスタントラーメンを指して、これが本場のラーメンだと言うことができるでしょうか?

 特に聖霊派の流行の賛美歌は、どれもこれも、人間の肉を手っ取り早く喜ばせるには都合が良い、インスタント食品のようになってしまっています。手早く空腹を満たそうと思うならば、それは役に立つでしょう。しかし、そこには、沈黙の中で忍耐強く主の訪れを待つという要素は何もありません。静寂の中にこめられた深い感動、完成された形式の中にこめられた美、苦しみの極致から生まれて来る調和、といったものは、何も感じられないのです。言い換えるならば、それらの賛美歌の中には、手っ取り早く、主の素晴らしい臨在を我が物にしようとの欲望が働いており、人間が自分の心を無にして、ただ静寂の中に座し、主に心を明け渡して、忍耐強く、主の訪れを待ち望もうという覚悟が全く感じられないのです。

 とはいえ、私自身も、現代流行の賛美歌の中で育てられてきました。そこで、それらの音楽と私は切り離すことができません。私が曲を作ろうとしても、やはりそのような「くだらない音楽」が出来上がってしまうのです。それは時代の影響です。
 しかしながら、それでもあえて言うならば、今となってはもう、そのような賛美歌の底の浅さ、軽薄さ、無意味さに私は耐えられないのです。それらを「霊的」な賛美として理解することは、私にはもうできません。音楽に合わせて、叫んだり、泣いたり、手を叩いたり、騒いだり、跪いたり、歩き回ったり、そういうパフォーマンスを、霊的衝動であるかのように勘違いしていた時期が私にありましたが、今はもう、そんな外的現象、感覚的な要素は、霊的なものとほとんど関わりがないどころか、むしろ障害物のようにしか見えないのです。

 主の御前では、私たちが肉的衝動に突き動かされて忙しく動き回ることは、主の訪れを邪魔するものにしかなり得ないように思います。まるで片時もじっとしていられない駄々っ子が教室内を忙しく歩き回るように、次から次へと行動に移るのをやめて、自分の内に沸き起こるあらゆる衝動を鎮めて、ただ主にのみまっすぐ心を向けて、静けさのうちに主を待ち望むことが、今、私たちに求められているのではないでしょうか。古典音楽の中には静寂が絶妙な形で織り込まれていますので、それは私たちが主を静かに待ち望むことと矛盾しません。

 教会が偉大な古典の遺産を捨てて、さらには聖歌や新聖歌まで捨てて、どうして軽薄な即席の音楽を選び取らなければならないのか分かりませんが、時代の風潮は確かにその道を行っているようです。知性ではなく、感情や感覚に訴えかける音楽ばかりがますます採用されるようになってきているのです。しかし、私は、キリスト者はこのあたりで最新流行とはきっぱり手を切って、静寂の中に、沈黙の中におられる主に立ち帰った方が良いのではないかと思います。それほどに、現代流行の音楽には何かしらの危険を感じずにはいられません。

繁栄の神学の危険性

<聖霊の第三の波とは何か(2)からの続き>

 さて、少し時間が空いたので、前回の話をざっと振り返るところから始めたい。
 以前に書いたように、現時点で、私は聖霊運動(ペンテコステ、カリスマ、第三の波を含む運動)とは、キリスト教に偽装した非キリスト教であるという理解に立っている。その理由は、これから詳しく説明していかなければならない(もしきちんと説明しなければ、ただの誹謗中傷だとのそしりを免れないだろう)。
 初めにお断りしておけば、私はこれを「食わず嫌い」として主張しているのではなく、あくまでかつて聖霊派に属していた経験に立って主張しているのである。

 なぜ聖霊運動が非キリスト教であるとまで言えるのか。
 その第一の理由は、すでに述べたように、聖霊派が、キリストの十字架による贖いの完全性を損なうような教説を唱え、キリスト者の祝福の根源として、「十字架以外の何か」である、聖霊のバプテスマ(満たし)を付け加えようとしているからである。

 もう一度引用しよう、従来のプロテスタントの福音派が伝統的に取って来た立場はこうであった、「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」

 この伝統的な考え方は、回心とは別個の祝福としての聖霊の満たしという体験を否定するだけでなく、ペンテコステ・カリスマ運動に顕著に見られる「体験重視の信仰観」をも否定する。従来の福音派は、キリスト者の救いや祝福は、必ずしも、五感で感じられる体験によってはかれるものではないにも関わらず、それを体験という観点のみからとらえようとすることに、危険を見いだすのである。
 たとえば、回心の時にどれだけ後悔の涙を流したかによって、救いの完全性をはかることができないのと同様に、聖霊の満たしを受けてどんな不思議な出来事が身に起きたか、どうやって神の御声を聴いたか、霊の戦いにおいてどんな悪霊と対決しとか…など、目に見え、五感で感じられるような事柄、特に、私たちの感覚に高揚感をもたらすような非日常的な奇跡的体験を通して、信仰の成長をはかろうとすることに、重大な危険を感じ取って来たのである。

 かつて聖霊派に属していた私も、今では、上に書いたような従来の福音派の立場に賛同している(私は福音派に属しているわけではないし、福音派の政治形態については多くの異論があるがそれはさて置き)。体験としての聖霊の満たしが、信仰の成長をはかる現実的なものさしであるとは、私は全く考えられないし、さらに、もっと進んで言うならば、ペンテコステ・カリスマ・第三の波の人々の主張する聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)における「霊」とは、イエスとは関わりのない、何かしら、聖書外の「霊」ではないかと私は結論づけている。

 その「霊」が神から来たのかどうかを見分ける有効な方法の一つは、霊を受けた人にへりくだりがもたらされたか、それとも、高ぶりがもたらされたかに注目することだろう。イエスが遣わす霊は、決して、人に高ぶりをもたらすようなものではない。また、それはイエスを証することはあっても、自分自身を証することはない。聖霊は「臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊」(Ⅱテモテ1:7)である。だが、この聖句の中から、大胆さと力だけを抜き取って、「愛と慎み」を捨て去ってしまったのが、今日の聖霊派に見られる「霊」であると私は考えている。愛と慎みがないのに、ひたすらパワーを主張し、恐れ知らずに突き進んで行く霊が、聖書に示されている聖霊でないことは明らかだろう。

 私が接触した聖霊派の多くの熱心な人たちに共通する特徴は、彼らが自分に与えられた「使命」や「力」に慢心し、酔いしれていることであった。自分たちが「リバイバル」を起こすために「特別に選ばれた器」であると信じ、あるいは、特別な召命として神から「献身」するよう求められたと信じ、その召しや献身に、異常なほどの誇りを持っていることであった。そして、こうした献身者たちは、反対者、助言者の意見などものともせずに、自分の特別なプロジェクトに向かって、いかなる障害をもかえりみずに突き進んで行った。彼らは非常に競争心が強く、自分と異なる考えを持つ者には、蔑視的態度を取ることも多かった。そこで、いつも対立や分裂、競争、疎外が起こっていた。このような影響を人々にもたらす霊が、「力と愛と慎みの霊」であるとは、私には全く考えられないのである。

 さて、では、聖霊派の言う、聖霊の満たしによるエクスタシーのような恍惚体験(天国体験などとも言われている)は一体、何だったのであろうか。私はそれを体験した一人である。それは子供の頃のキャンプでの出来事であったが、不思議な魂の浄化作用を伴うように感じられた。その効果が続いていた間、私はかつてない心の平安を覚え、悪意、競争心、憎しみ、トラウマ…、いかなる罪深い考えも持てなくなったことを覚えている。その点では、聖霊運動に関わる人々が、この体験について異口同音に記しているあの天国体験の描写は、まさに正確な描写であると私は考えている。確かに、そこには何かの恍惚体験があったのである。

 だが、私は以前に、音楽にはカタルシスの作用があり、音楽が人の心に子供のような退行現象を引き起こすこともあるということを書いた。同様に、恍惚体験は、御言葉(キリスト)以外の手段によっても、簡単に引き起こすことができる。Dr.Lukeも薬物体験との類似性を挙げながら、聖霊派の主張する恍惚体験の由来に疑問を投げかけている。その他、たとえば、マントラと呼ばれるお経のような言葉を長時間、唱え続けることによって、人の魂を日常から離脱させることが可能であることも指摘されている。いくつかの人工的装置を組み合わせれば、そのような感覚を人に引き起こすことは簡単にできるだろう。

 従って、何らかの非日常的体験があったからといって、それがただちに神から来たものだと信じ込むのは極めて危険である。特に、聖書には、サタンにも奇跡を起こすことができることが、はっきりと記されているのだから。たとえ聖霊という名前が冠されているにせよ、全ての恍惚体験が神から来るのではないことを私たちは覚えておかなければならない。
 そして、私自身の体験について言うならば、恍惚体験は一日半ほど続いて元に戻り、それによって信仰が深まったという実感はなく、そのために後の人生の歩みが聖められ、より主に近いものになったということもなかった。むしろ、その反対に、将来には信仰的挫折が待っていたのである。

 さらに、第三の波に限って言うならば、ピーター・ワグナーが著書の中で、聖霊の力強い働きが聖書的なものであると主張しようとして、聖書外の記述に頼っていることも見逃せない事実である。彼は、力強い聖霊の働きの有効性を示すために、新約外典『使徒ペテロの働き』、偽典『使徒ヨハネの働き』など、聖書に含まれていない記述を、あたかも正統な根拠であるかのように挙げている(p.94)。さらに、彼が次のような呆れる内容を述べていることに注目したい。
「私が神学校の学生であったとき、使徒時代の話で聖書にないものをあまり信用してはいけないと教えられた。マクマレンはそれに反対している。歴史家として彼は、そのような話も信頼に足る記述であり、歴史的な有効性を持ちうると語っている。さらに、そういった書物によって、実際多くの人々がキリスト教に改宗してきたことをマクマレンは発見した。」(p.95)

 エール大学の歴史学者ラムゼイ・マクマレンの著書からワグナーは大きな影響を受けたことを記している。こうして、マクマレンの意見を取り込みながら、ワグナーは、第三の波運動の方法論の中に、聖書外の事実を混ぜものとして混入し、公然と組み込んで行くのである。

 さらに彼は書いている、
「この本(『ローマ帝国のキリスト教化』―筆者)の最初でマクマレンは彼がもっとも重要だと考える質問を提示している。『キリスト教は大衆に対して何を与えたのか。簡単に言ってしまえば、何があれだけの回心をもたらしたのかということである』。その答えはばかばかしいほど単純である。キリスト教は言葉と行いによって伝えられたが、伝道に果たした役割からすれば、行いが言葉よりもはるかにまさっていたのである。」(p.92)

 ここに問題のすりかえがあることに読者は気づかなければならない。聖書ははっきりと言っている、「信仰は聞くことによるのであり、聞くとはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)と。にも関わらず、ワグナーは、マクマレンの著書を引用しながら、ローマ帝国内にキリスト教が爆発的に広がりを見せたのは、「行いが言葉よりもはるかにまさっていた」からだと断言し、その「行い」による宣伝方法論を現代にも適用すべきだとするのである。これは、キリストの御言葉を聞くことから始まるはずの信仰の否定であり、聖書にない考え方を、彼が自分の伝道方法に持ちこんだことの明らかな証明である。ワグナーの言う聖霊による「力の伝道」や「力の対決」は、御言葉によらない「行い」(つまり、宣伝、マーケティング論)として登場してきているのである。

 さて、これから先、第三の波運動(ペンテコステ・カリスマ運動を含む)を「繁栄の神学」と呼び換えよう。第三の波がペンテコステ・カリスマ運動と本質的に同一であることはすでに述べたので、繰り返す必要はないと思うが、ペンテコステ・カリスマ運動の主要な柱は以下の通りである。

1)信徒が回心後に、聖霊のバプテスマ(満たし)を受ける必要性を強調
2)カリスマ的指導者を頂点に頂くミニストリーのスタイル
3)神は貧困を喜ばず、豊かになることは罪ではないとする繁栄の神学
4)人の心身や、地域、国から悪霊を追い出さなくてはならないという霊の戦いの神学
5)キリスト教シオニズム
6)大宣教命令に基づき、運動を全世界に普及させるべく打ち出される教会成長論

 第一の柱である「聖霊のバプテスマ」についての疑いはすでに述べた。
 次に、「繁栄の神学」について見ていこう。

 少し前に、「解放の神学」というものがキリスト教の中に存在していた時期があるのをどれくらいの人がご存知だろうか。これについては次回以降の記事で詳しく述べるつもりだが、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と非常に似通っている部分がある。
 かつて「解放の神学」がそうであったように、今日、ペンテコステ・カリスマ運動や第三の波運動が打ち出す「繁栄の神学」は、第三世界を中心にして、貧しく、あまり教養の高くない、一般大衆をターゲットとして布教され、第三世界に流行しつつある。最もよく知られているのは、アルゼンチンやチリのリバイバルであろう。また、ペンテコステ運動と名乗らず、カリスマ派として従来の福音派の教会に浸透しつつある。

 この新しい神学は、既存のキリスト教界、特にカトリックにとって大きな脅威となった。かつて引用したことのあるアンドレ・コルタン氏の『ペンテコステ派という繁栄の神学』にもこうある、「カトリック教会が恐れているのは、『アジアとアフリカにおけるイスラム急進派の拡大』だけでなく、『第三世界の大都市における、福音諸派や様々な新興宗教、それにとどまるところを知らない『ペンテコステ派』との熾烈な競争(4)』である。他方、あるプロテスタント系の神学者(5)はこう問いかける。『ペンテコステ派こそ第三世界におけるキリスト教の未来なのではないか』と。ともあれ、アフリカやラテンアメリカでは、改宗者があとを絶たない。様々な名前を冠した教団が次々に現れる。アッセンブリー・オブ・ゴッドやチャーチ・オブ・ゴッドなど知名度の高いものもあるが、その他にも『神は愛なり』『生ける教会』『シオンの聖堂』『勝利の教会』などそれほど知られていないものもある。これらの教団は『ペンテコステ派』を名乗ることはめったになく、むしろ『福音派』と呼ばれている(6)。」

 この聖霊運動が第三世界にそれほどまでの広がりを見せた理由が、まさにワグナーが指摘した「行い」、つまり、その巧みな宣伝方法にあった。ヨーロッパ文明から半ば置き去りにされかかった第三世界には、今でも、呪術や、シャーマニズムや、アニミズムや、民間信仰が生きている。ペンテコステ、第三の波運動は、従来のカトリックやプロテスタントが見向きもしなかった民衆の伝統的な土着の信仰に目をつけ、その精神性を巧みに利用したのである。

 ワグナーは、欧米文化人の意識には欠けているが、第三世界の人々の意識の中にははっきりと存在している意識の層を、「中間層」と呼ぶ。この中間層に働きかけることが、第三世界への効果的な伝道方法なのだと彼は言う、
「欧米以外のほとんどの人たちの物の見方は三階層になっている。いちばん上の層は、広大な宇宙にただよう人格者あるいは勢力に基づいた高級な宗教心。それは非常に遠く離れた部分である。
もっとも下の層は毎日の生活。たとえば、結婚、子育て、農作業、雨と日照り、病気と健康、あるいは持ち物。
そして真ん中の層は、こういった日常の出来事と、超自然、超人間的なものが普通に交錯する部分である。毎日の生活の中で、さまざまな霊、悪霊、祖先、悪鬼、幽霊、魔術、呪術、魔女、霊媒、魔法など、自分以外の力の影響を心に受けることは、彼らにとってあたりまえなのである。」(p.35)

 シャーマンや、霊媒師、巫女、魔術、先祖崇拝、先祖の祟り…、そういったものが文化の中に組み込まれ、巫女や霊媒に頼る民間療法がれっきとした生活の知恵とみなされているような土地では、この「中間層」に巧みに訴えかける方法論がなければ、布教は成功しないとワグナーは考えた。日本では恐らく、沖縄がこのような地域に当たるのだろう(だからこそ、沖縄は「霊の戦い」の浸透率が全国で最も高いのであろう)。
 病気になれば、病院ではなく、シャーマンのもとに通う生活に慣れきった第三世界の貧しい人たちを取り込むには、キリスト教もシャーマニズムに匹敵するだけの何かを持たなければならない、従来のように、魂の救いを語るだけで、現実問題には何ら答えを出さないようなキリスト教では効き目がないと、ワグナーはみなしたわけである。そこで、第三世界への効果的な伝道方法として、「超自然的ないやし」が打ち出された。さらに、ワグナーがしばしば引き合いに出しているチョー・ヨンギは、病からの超自然的解放を唱えるだけでなく、福音は貧しい者に現実の経済的な豊かさをも約束するものでなければならないと考えて伝道しているため、彼らが唱えているものを総合すれば、それは実質的に、第三世界や比較的貧しい国々の社会的弱者を貧困と病から解放する弱者解放の神学であると言えよう。

 つまり、「繁栄の神学」は、弱者解放の神学として登場してきたのである。それはかつての「解放の神学」のように、公然と既存のキリスト教との対決(暴力革命等)を主張したり、宗教改革や、クーデタの構図をあからさまに示して、既存のキリスト教界の打倒を旗印に掲げることはないにせよ、実質的には、「繁栄の神学」の存在自体が、欧米式教会をモデルとする従来のプロテスタントのキリスト教に対する強烈なアンチ・テーゼになっていることは否めないだろう。「繁栄の神学」は、これまでのように、教養もあり、社会的地位もあり、礼拝堂の席を何不自由なく占めて安楽な信仰を維持することができた「富める者たち」のための福音ではなく、場合によっては、病院での治療費もなく、献金を払うことさえできないような、第三世界のうち捨てられた「貧しい者たち」をターゲットとした福音として始まった点で、まさに黒人や女性や虐げられた弱者を解放しようとした「解放の神学」の焼き増しであると言える。だからこそ、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と全く同じ危険性を内に含んでいるのである。

 さて、今日はここまでにして、次回、解放の神学とは何かを見てみよう。
 ちなみに、この蝶は何度目かにやっと撮ることができた♪
 


創造主のみわざを誉めたたえる

 私の住んでいる地域は、田舎ゆえに、季節の移り変わりがまことに美しい。
花好きの家人のおかげで、庭には私の名も知らない、数え切れないほどの花々が日々、咲き乱れている。

元々、農業のための土地だったところに住んでいるため、周りには住宅が少なく、田園が広がっている。

自然に恵まれた環境に住んでいながら、今まで、写真を一枚も載せなかったのは、このように調和の取れた美しい映像を目にした読者は、私の迷いや、紆余曲折の多い文章など、読みたくなくなってしまうような気がしたからだ…。

これまで、話題の深刻さ、不親切な長文ゆえに、きっと悪評高かっただろう私のブログだが(笑)、残念ながら、このブログでは、さらに一層、深刻な話題を扱うことになるかも知れないので、どうぞご覚悟下さい。

けれども、主にあっての健全さ、魂の調和を保つために、今後、話題が深刻なものに偏りすぎないよう、身近な風景を少しずつ紹介していくことにしたい。また、できるならば、音楽を紹介することができればベストだと思っている(試行錯誤中ですが)。

 「人はみな草だ。
 その麗しさは、すべて野の花のようだ。
 主の息がその上に吹けば、
 草は枯れ、花はしぼむ。<…>
 しかし、われわれの神の言葉は
 とこしえに変ることはない。」
 (イザヤ40:6-8)

 逆境にある時、私は人間の命の脆さ、はかなさを思い知った。若さが花のようにあっけなく散ること、悲しみが人の生命力を急激に衰えさせることを知った。その時の体験を通じて、人を生かしているものが、その人の肉体だけではあり得ないことを痛感させられた。


「目を高くあげて、
 だれが、これらのものを創造したかを見よ。」
(イザヤ40:26)

まことに、命の源であるただ一人の方を失ってしまえば、たとえ健全な肉体を持ち、優れた頭脳を持っていたとしても、それが何になるだろう、滅びは一瞬にしてその人を襲うだろう。

だが、今、たとえ苦しみの中にある方がいたとしても、その人が神により頼んでいるなら、幸いだ。主を待ち望む者の人生は、決して失望に終わることがない、聖書はそう約束してくれている。

主に信頼するクリスチャンは、必ず、一人ひとりが、この美しい野の花に全く劣ることなく、主の栄光を表わすために、それぞれに不思議な形で用いられるだろう。

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(マタイ6:30)

私たちクリスチャンは一人ひとりが主のくすしきみわざによって造られた聖なる神殿である。神を誉めたたえよう。