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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。 」(黙示録2:10)

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 」(ヤコブ1:12)

何年も前から、当ブログにおけるキリストの復活の証に憎しみを燃やし、この証を何とかして地上から取り去り、筆者を含め、真実に聖書の神に従う信者たちの信仰告白を、この世から消し去ろうと腐心している勢力があるが、彼らは常に失敗を続けている。

しかし、悪人どもは、色々な工作をしかけたが、結局、このブログを消し去ることに失敗し、ブログ主を告訴することもできなかったので、このブログの一番どうでも良い記事ばかりが検索結果にヒットするよう常に腐心している。

ところが、このように検索結果が歪められているおかげで、筆者には、悪人どもの狙いがこの上なくはっきりと理解でき、当ブログ記事のどこに弱いところがあって、何をどう書き直すべきか、そのヒントをも的確につかむことができるのだ。

つまり、悪人どもが何を企んでいるのかが分かるため、その策略が功を奏さないよう、以前に書いていた信仰告白の弱いところを補強する。

悪魔を喜ばせるだけの不信仰な文面はすべて削除して、キリストの十字架における解決の完全性をこの上なく強調する内容とする。

中途半端に言い切れていなかったがゆえに誤解を与えそうな表現は最後までガッチリと文脈の中に抑え込み、まことの神だけに栄光を帰するように改める。むろん、書き直し不可能な文章は惜しみなく削除して、新たな信仰の証のためにスペースを空ける。

人間の義を掲げて神の義を退け、十字架を否定して、神に敵対する人間たちの悪事は、激しい言葉で糾弾する。そのような記事はできるだけ前面に出す。悪魔に魂を売った連中が恥じ入るようにだ。

これは決して筆者のブログがもっと見栄えが良くなるように書きなおしているのではなく、また、人の目に読みやすいように変えているわけでもない。読者の存在など、もう何年も前から、筆者の眼中にはなく、文学的修辞も念頭にない。

おそらく、筆者の文章力は、当ブログを始めた頃に比べれば、落ちたことであろう。何しろ、以前の筆者は美的感覚に随分、こだわっていたが、今はもうそんなこだわりがなくなったからだ。しかし、文学的な表現力とは全く違う次元で、言葉というものが持つ本当の衝撃力を、筆者は理解したのである。

当ブログの文面は、人に対するものではなく、暗闇の軍勢に対する神の御言葉による攻撃である。また、すべてのものがひざをかがめて、キリストを主として迎える時のための人間側からの準備なのである。

だから、キリストだけにすべての栄光が帰されるように、また、キリストの救いの完全性がこの上なく明確にされて、ここに書かれている内容が、神に栄光をもたらし、暗闇の軍勢にとって恥となり、この上なく不都合な内容となるようにすることこそ、当ブログの狙いなのである。

そのため、悪魔にとって不都合な事実をしきりに強調しながら、神の正しさ、神の憐れみ深さ、神の愛の偉大さがより明確になるよう、書き直しているのである。

一体、そんなことをやり続けることに、意味があるのかと問う人もあろう。しかし、悪人どもの意図的な攻撃が続く限り、筆者の彼らに対する追い討ちも続く。

この戦いの過程で、筆者は相当に強くなったし、戦いのポイントをかなりおさえたのである。

神の被造物である人間を日夜訴え、苦しめ、その尊厳を奪い、無益な人生を送らせようと狙っている勢力があるのに、どうして無防備に呑気に構えている必要があるか。そんなのは愚かな人間のすることである。我々も悪魔と同じだけの執念を持って、日々、悪魔に立ち向かわなければならない。そうすれば、悪魔は逃げ去って行く。悪魔の抑圧から解放されることができるのに、その権利をつかみ取らないほど、無意味なことはない。

さて、悪魔に立ち向かうために、有益なコツをいくつかここに書いておく。

➀・・・罪悪感と訣別すること。これは信者にとって第一義的に必要なことである。クリスチャンが罪悪感や自責の念に苛まれていては、決して悪魔と対峙することなどできはしない。むろん、罪なる生活を送り続けながら、罪悪感を捨てるべきと言っているのではない。思いつく限り全ての罪から離れるべきである。だが、離れたならば、もう罪悪感を持ち続けてはいけない。過去に何があったかなど、忘れることだ。いや、忘れなくても良いが、過去は血潮によって清められているという事実を掴むことである。自分の人生に頓着してはいけない。

悪魔は訴える者であるから、あらゆるきっかけをとらえて、あなたを告発しようとして来る。それに対しては、ただ神の義による潔白を徹底して主張することである。自分が何者であるかに立脚せず、神が何者であるかに立脚して闘うのだ。そして、あなたの人生そのものが、キリストの義によって覆われているのだから、あなたの人生そのものがキリストと同じほど、聖別されていることを確信しなさい。

さらに、時には、倍返しの訴えを悪魔に返してやり、あらん限りの力を持って、神の御前で悪魔を告発することも有益である。何しろ、悪魔は最初から罪を犯しているから、悪魔の罪状など終わりなく挙げられる。

悪魔を訴えるに当たり、最も有益な罪状は、クリスチャンに対する迫害の罪である。悪鬼どもは人間よりも寿命が長いので、有史始まって以来、クリスチャンの血をいわれなく流して来た己の罪をよく覚えている。特に、皇帝ネロの大迫害などは、悪魔の所業としていつでも効果的に訴えられる材料である。クリスチャンに対する迫害を、あなたの同胞に対して悪魔が犯した罪として、我が事のように告発せよ。悪鬼どもを殺人者として告発し、聖徒らの迫害者として神に訴えるのだ。その際、恐るべき執拗さを持って、悪魔があなたにしようとしたのと同じほどの執念で、彼らを延々と訴え続けることが有益である。悪魔はそのようにクリスチャンから非難されることが大嫌いであるし、第一、聖徒らの口から自分がクリスチャンの迫害者として非難されることに耐えられない。義人の証言は、暗闇の軍勢に対して大いに衝撃力を持つ。悪魔には良心の呵責は無いのかもしれないが、それでも、罪の自覚が存在するのである。彼らは自分の美が傷つけられることに耐えらない。だから、その非難の際、彼等には悔い改めの余地が永遠に失われており、彼等を待ち受けるのは神の激しい御怒りと地獄の火の池であることもセットで強調するが良い。

②・・・キリストが十字架で取られた完全な勝利を我が物として宣言し、自分の人生のあらゆる場面に適用すること。この点で、クリスチャンは謙虚でありすぎてはいけないし、臆病であってもいけない。クリスチャンは人生の勝利者なのである。あなたの人生の現時点での弱点は何か? 仕事がないことか? 体の不調か? 友人が足りないことか? 家族の理解がないことか? もしあなたが自分の生活に何かしらの弱点を持っているならば、それがキリストの強さによってすでに覆われており、キリストが天に備えて下さっている解決が、すでにあなたのものであることを高らかに宣言し、これを自分に適用せよ。状況に目を留めず、神の強さと恵みに大いに満たされ、それを宣言しなさい。弱々しい生活を送りながら、悪魔と対決することはできない。

神の解決を御言葉によって掴んだならば、もうそれ以上、問題などというものは存在しないのだから、問題を現実のようにとらえるのをやめることである。また、「助けて下さい」と神に向かって懇願するのではなく、もっと大胆に、主の御名によって、状況に向かって命じるのである。

クリスチャンには環境を支配する力がある。地上に生きる動物も、天候も、テクノロジーも支配することができる。その逆ではないのだ。アダムもそれなりに支配力を持っていたが、あなたの支配の力は、すべてにまさる主の御名から来る。だから、キリスト者にどれほど絶大な支配力が与えられているのか、試してみなさい。たとえ嵐が吹き荒れていても、主がそれを静められたことを思い出し、あらゆる困難な状況に向かって、従うよう命じなさい。命じたら、状況がどうあろうとも、それに左右されないことである。状況に主導権を与えず、それをあなたが握りなさい。

主があなたの牧者であるから、あなたには欠けたところは何もないという事実を大胆につかみ取り、あなたの人生における全ての欠乏を、天の恵みによって隅々まで満たしなさい。このようにして、クリスチャンが満たされて恵まれた人生を送り、喜びに溢れることは、悪魔にとって非常に忌々しい大打撃となる。

③・・・ただ神だけに頼ること。神以外のものに頼っていると、恵みが制限される上、御霊からでない無用な助言や忠告も入って来て、混乱が生じる。だから、人に頼らず、神だけに頼りなさい。神だけが栄光を受けられる状況を自ら用意しなさい。

④・・・さらに、神を喜び、高らかに賛美しなさい。悪魔はクリスチャンが喜んでいるところを見るのが我慢がならない。だから、特別に良いことがあった時だけでなく、どんなきっかけをとらえてでも、神を喜び、神に感謝と賛美を捧げるべきである。

むろん、人間には良い時と悪い時があり、不調の時もあろう。だが、そういったすべての状況を超えて、天の喜びの中に住まう秘訣を掴むのである。天にある富がどのくらい地上に引き下ろされるかは、あなたの信仰の状態にかかっている。あなたの霊が打ちのめされている時に、大胆に信仰を働かせることはできない。だから、何かダメージを受けても、失意に落ち込むことなく、できるだけ早く立ち上がり、信仰を奮い立たせ、天に直通の祈りを働かせる秘訣を学ぶことである。そのために最も有益なのは、主を喜ぶことと、主を賛美することである。賛美には人の霊を奮い立たせ、暗闇の軍勢の束縛を打ち破る力がある。パウロが獄中にいたとき、賛美によって囚人の枷が落ちたことを思い出せ。

クリスチャンよ、いつまでも打ちひしがれていないで、信仰によって、大胆に立ち上がって、歩き出しなさい。試練を通過するとは、打ちひしがれ、翻弄され、束縛や弱さに黙って身を委ね、そこから立ち上がれなくなることではなく、むしろ、その逆なのである。あなたに約束された命の冠を受けとるために、御霊によって強くされて、信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい。主は世に勝った方であり、あなたにはこの世のどんな圧迫にもまさる御名が与えられているのだから、その権限を地上で大胆に行使しなさい。そうしているうちに、キリストとあなたとの距離が、思ったほど遠いものではなく、むしろ、主があなたと一つになって働いて下さることが分かるようになるでしょう。

神はあなたを通してもっと働きたいと願っておられる。その可能性は十分に開けているのに、問題は、常に人間の側からの神への応答が、不十分なことにある。だから、もしあなたさえ同意するならば、暗闇の軍勢との霊の戦いにおいて、神はあなたを勇敢な戦士として十分に訓練することができることを信じなさい。その確信に身を委ね、訓練を始めなさい。どうせなら、弱々しい一兵卒で生涯を終えるよりも、将軍になった方が良いと思わない人がどこにあるだろうか。
 

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東洋からの風の便り続編について

現在、当ブログは以下のアドレスで執筆中です。
東洋からの風の便りIV(2016年現在)

「東洋からの風の便りI」そのものは終了していますが、重要な記事に関しては、このブログにも掲載して行きます。
 また、以下のホームページには全トピックが簡潔にまとめてありますのでご覧ください。
 
東洋からの風の便り(ホームページ)
 


ニッポンキリスト教界の病理を考察する記事の目次

 ニッポンキリスト教界の病理を考察する記事の目次

 今日、ニッポンキリスト教界には、非聖書的で、誤った教えや活動が、多数、入り込んで来ており、キリスト教界全体が福音を見失って、カルト化へと向かっています。そのことについて、このブログでは、読者と共に、聖書と照らし合わせながら、詳しく、批判的に論じて来ました。
 ニッポンキリスト教界は今、近寄るべきでない、大変に危険な場所になっています。そこでは多くの信徒が傷つけられ、人生を狂わされ、破滅させられています。以下の7項目にまとめた記事やコメント内容を参考に、教界の活動がいかなる危険性を持つか、一人でも多くの方に気づいていただければと思います。
 なお、このブログは終了していますが、「東洋からの風の便りⅡ」にて議論を続行しています。雑感の記事の目次は別途まとめる予定です。


1)ニッポンキリスト教界という名の非キリスト教
1.大衆が作り出す幻としての偶像崇拝宗教

…ニッポンキリスト教界は、十字架を失い、今や「擬似キリスト教的セルフ教」となっている。そこでは、神から遠ざかり、孤独や無力の不安を抱えたクリスチャン大衆が、自己保存を求めて、自分で自分を救うシステムを終わりなく作り出している。キリスト教界から打ち出される弟子訓練等の、各種の人類救済プログラムは、人が自分で自分を救うための、決して成功することない計画である。

2.偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望

…ビュン事件を含め、なぜ牧師の性的不品行が起こるのか。その理由としてお読み下さい。


2)原罪についての考察
1.聖書に見る生活苦と男女不平等の起源

…聖書によれば、この世は人間の堕落のために呪われた場所となったのであり、生きる限り、人間の苦労は終わらない。そこで、バベルの塔の昔から、この世に大規模な人類の幸福社会を打ちたてようとする全ての計画は、決して実現しない。にも関わらず、リバイバル運動を含め、今日、地上に神の国を打ち立てるべく推進される擬似キリスト教的プログラムには、どんな将来が待っているのだろうか。

2.『クロイツェル・ソナタ』に見る音楽によるマインド・コントロールの危険

…カルト化した教会では、信徒に対するマインド・コントロールが行われている。だが、マインド・コントロールはどのようにして行われるのだろうか。最も無害で美しく見えるもの、音楽や、芸術なども、その強力な手段になり得る。


3)アメリカのプロテスタントのキリスト教界の危険性について
1.システムによって神の国を作ろうとすることの危険

…イエスは、神の御国は見える形で来るものではない、と言われたにも関わらず、今日、キリスト教界には、人工的な方法論を駆使することによって、目に見える形で、大規模な神の国を地上に建設するために、様々なプログラムが終わりなく生み出されている。(リバイバル運動、弟子訓練、セル・チャーチ等。)それらは全て恐るべき将来を運命づけられている。

2.米国キリスト教界における異常事態

…イラク戦争以来、国家政策に同調するようになったアメリカのプロテスタントの教界が、現在、大寒難時代の到来を宣言し、イスラエルを神の国と同一視し、キリストの再臨を人為的に引き起こそうとするかのような危険な政策に走っていることを指摘。


4)偽預言者たちを警戒せよ!
1.個人預言という名の占いについて

…今日、「個人預言」を聞いたがために、人生を狂わさせれたクリスチャンが多数存在する。「個人預言」とは一体、何なのか、それには聖書的根拠があるのか。神から来たのでない預言とはどのようなものかを考察。

2.肉を喜ばせる預言の特徴

…神から来たのでない預言は、聞いた者の肉を喜ばせ、彼の心を謙遜でなく、高ぶりへと導く。偽りの預言を見抜くために必要なことは何か。

3.預言を売り物にするミニストリーの誤り

…代価を取って預言を売り物にする「個人預言」のミニストリーは聖書に基づかない占いである。

4.偽預言者に対する厳しい裁き

…真の預言者は、預言の成就について自ら責任を負う。平和についての預言が、成就しなければ、預言した者が偽り者であることの証明となる。無責任な偽預言を繰り返し、信徒の人生を狂わせている者たちには、どんな未来が約束されているのだろうか。


付録
「キリスト教会に広がる疫病としての『霊の戦い』」

…筆者が所属していた教会で起こった偽りの「預言」について。


5)カルト被害者救済活動を警戒せよ!
1.カルトはアンチカルトと同一である

…キリスト教界のカルト化が深まるにつれて、裁判等によって、カルトを防止しようとする被害者救済活動があたかも「正義の味方」であるかのように注目を浴びる。だが、この救済活動には、果たして正義があるのだろうか。

2.偽預言者をゲストに招く教会

…アッセンブリー京都教会は、カルト被害者救済活動の拠点として全国に有名である。だが、最近、この教会でまるで被害者の訴えを無視するかのような矛盾した活動が行われたのはなぜなのだろうか。

3.カルト監視機構という名の秘密警察の設立について

…カルト被害者救済活動の拠点であったアッセンブリー京都教会は、カルト監視機構なるものの設立を予定して活動していた。しかし、このカルト監視機構とは、要するに、カルト防止に名を借りただけの、キリスト教界全体に対する抑圧機関であることを本記事にて指摘、批判しした。

(カルト監視機構の設立は現在、中止されている。しかし、同種のプロジェクトが再び起こらないかどうか、警戒が必要である。)

4.キリスト教界のカルト化を防ぐために真に必要なことは何か

…教会のカルト化を防ぐことができるのは裁判ではない。イエスの十字架、そして罪の悔い改めに立ち戻ることこそ、教会をカルト化から救う道である。裁判や、この世の諸力を通じて、カルト化を防止する運動は、聖書に基づいていないため、未来がない。


6)教会成長論という名の異端について
1.教会成長論というむさぼりの教え

…教会成長論の影響を受けた東京キリストの教会はなぜ崩壊したのか。教会成長論とは、教会をカルト化させ、信徒から救いを奪い、教会を崩壊させる誤った教えであることをシリーズで指摘する。

2.偽牧師、偽教師、偽預言者への対処法

…偽預言者や偽教師を警戒せよ、彼らから離れなさい、と聖書は教えている。これらの人々に出会った時、私たちはどう対処すれば良いのか。

3.教会成長論が生む牧師への個人崇拝

…手束正昭著、『教会成長の勘所』を見本として分析しながら、教会成長論の教えの本質とは、イエス・キリストを否定し、牧師がキリストに成り代わり、信徒に自分を神のようにあがめることを求める教えるものであることを明らかにする。

4.教会成長論という強盗の教え(1)

…イエス・キリストを否定する牧師とは、羊の門を通らないでやって来る強盗であり、教会を盗む者である。そのような者は、教会を私物化する教えを公然と説く。その集大成が、教会成長論である。

5.教会成長論という強盗の教え(2)

…強盗である偽牧師が教会を支配するようになると、信徒は偽牧師を栄光の中に押し上げるための下僕とされてしまう。信徒を公然と牧師のための雑用係、使用人に貶めることを認めているのが、教会成長論である。

6.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(1)

…牧師や牧師夫人を、信徒が「霊の父」、「霊の母」として敬うことは聖書的なのだろうか。キリスト教は父性原理ばかりが過剰であるため、人間性に欠けており、母性原理を補わなければ、この先やっていけないという指摘があるが、そのような説に対して、クリスチャンは耳を貸す必要があるのだろうか。

7.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(2)

…手束正昭氏は『教会成長の勘所』において、キリスト教に母性原理を補う必要から、聖霊を「母なるもの」ととらえる説を打ち出した。しかし、これは従来の三位一体の正統な解釈を破壊する異端である。

8.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(3)

…手束正昭氏が早くから唱えていた「養子論的キリスト論」の本質とは、イエス・キリストは聖霊によらなければ神の子ではなかった(イエスは聖霊によって神の養子に引き上げられた)とする異端である。この説は異端ネストリウス派を現代に復興しようとする試みである。

9.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(4)

…クリスチャンはイエスを信じて神の子とされているのであって、神の「養子」なのではない。そのことを聖書に基づいて再確認しよう。また、手束氏が唱えている「聖霊による人間の新創造」とは、十字架によらずに、人間の変容を唱えるものであり、非聖書的教えである。

10.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)

…教会成長論の分析のまとめ。教会成長論とは、要するに、十字架を通さず、人が牧師を崇拝するよう求める教えであり、これを信じることはイエス・キリストの否定につながり、必ず、信徒に救いを失わせる。クリスチャンは神の養子や、私生児などではなく、正統な神の子とされている貴いアイデンティティを忘れてはいけない。


7)沖縄キリスト教の抱える病的問題
1.沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ

2.沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ(続)

…沖縄の教会は、日本の諸教会のうちで、とりわけ、偽牧師の活動の盛んな地域である。ニッポンキリスト教界の病が最も大規模に集中している場所であると言える。だが、そこでは、カルト化した教会によって、信徒が食い物にされているのみならず、カルトを防止するという名目で、被害者救済活動を繰り広げる人々によっても、信徒が二重に食い物にされ、信徒の争奪戦が起こっている。沖縄は今まさに、二つの敵対する勢力が激しく衝突する戦場のようになっている。


我が街倉敷に寄せて


  正確に言うと、今、私が住んでいるのは倉敷市ではない。だが、かつて幼い頃、私はこの街で暮らしたことがあった。この街の見所は、よく知られているように、美観地区に立ち並ぶ倉(蔵)屋敷であり、有名な観光スポットにもなっている。

 十数年以上前、この倉敷市にチボリ公園を建設する計画が持ち上がった。当時、それを聞いて私は心の中で首をかしげたものだ。すでに全国に誇れる歴史的名所があるというのに、どうしてそれを差し置いてまで、何の文化的ルーツも持たない、ただの外国のモノ真似のようなハコモノ建設計画を進めるのか。
 その頃、私は関西に住んでいたが、幼い頃に、記憶に刻み付けられた街の思い出を壊されるようで、不快だったのを覚えている。

 だが、建設は進められ、テーマパークは駅からすぐに見えるところに建設された。JR倉敷駅のプラットホームには、倉屋敷の模様がデザインされているが、その和の趣と、おとぎ話から抜け出たような洋風の城の尖塔が、まことにちぐはぐな印象を醸し出している。

 案の定、チボリ公園はたった11年で採算が取れなくなり、閉鎖された。建設に使われた莫大な費用は、ただ借金となって県の財政に残ったのだろうか。もちろん、チボリ公園で散策を楽しんで、それが記念になったという人も沢山いただろうが、それにしても、風に吹きさらわれるもみがらのように、はかなく消えていった愚かな計画であった。他方、歴史ある倉屋敷の方は、今でも夕涼みに人々が楽しく散歩し、静かな観光名所として続いている。

 今、私はこの街を歩きながら、幼い頃に見た風景を一つ一つ、思い出している。アイビーガーデンの壁は、私にクレムリンの城壁を思い出させる。もう10年近くも前になるが、モスクワの赤の広場から、川にそって、どこまでも続く長い城壁の下をよく歩いたものだ。その時、どこかで見た風景だと思ったのは、この壁を思い出していたのだろうか。煉瓦の壁は、キエフの大門をも髣髴とさせる。

 かつて、この街に住んでいた頃、私の記憶にはまだ何の悲しみもなかった。それが私の人生で、最も純粋無垢で、楽しかった時代かも知れない。キリスト教界のドグマティズムも、まだ私の生活に入り込んでいなかった。近所の子供たちと、広い田畑を駆け回り、喧嘩をし、毎日、疲れ切るまで、夢いっぱいに遊んで過ごした。

 今、街を歩きながら、私は人生の敗残者かも知れないなあと、思い巡らすことがある。「故郷に錦の御旗を飾る」どころか、まさか、こんな風にして、手ぶらで街に戻って来ようとは、考えたこともなかった。田舎にはいつも世間の動向の波が遅れて届く。この土地に多く暮らす裕福なお年寄りたちは、失業や不況にあえいだことがないので、若者の苦労を知らない。そこで、時に、思い切り残酷な言葉を投げかけられることもある。

 先行きが見えない時代になった。私が最近、どのようにして死を迎えるかということばかり考え続けているのも、きっとそんな状況が影響してのことだろう。人間らしく生きるために必要な希望が手に入らないので、自分の手でコントロールできる、残されたただ一つのものが、死なのだ。
 キリスト者として、尊厳に満ちた死に方ができれば良い、そのことで、少しでも主をお喜ばせできれば良いということが、心の支えになっているのだ。我ながら、不健全であると思う…。

 マイホームを築き、子供を育て、希望ある未来を思い描いて、懸命に働くべき世代が、こうして、社会から外側にはじき出されてしまった。正規雇用の道から一旦はずれた人々が、二度とそこへは戻れなくなるような社会の仕組みの中で、それまで人々を守るために作られてきたはずの様々な制度が、逆に、人々を疎外するものへと変わった。
 システムが、人を守るためのものから、人を食らい、排除するためのものに変わった。このシステムの下で、あまりにも多くの人々が押しつぶされ、呻吟している。そこで、やがてこのシステムそのものを破壊しようとして立ち上がる人々が現れるのは避けられないだろう。革命的な混乱の時代がやって来る足音が聞こえるような気がする。

 伝統的に続いてきた文化をこそ守らなければならない。昔ながらの暮しを守らなければならない。なのに、一攫千金の夢を見る者たちが、砂上の楼閣を打ち立てるために、湯水のように金を使い、伝統を破壊してしまった。そのために、社会の様々な組織が、鬼のように人を食らっては、バブルのようにはじけ飛ぶものとなり、人を成長させるための基盤が根こそぎ消えてしまった。キリスト教界も然りである。

 打ち捨てられた世代はどこへ行けば良いのか。今、私の属する世代は、社会の中で食い物にされる以外、ほとんど行き場を失いつつある。ある者は派遣の地獄の中ですり減らされ、ある者は引きこもりとなり、ある者は私のように死に様を思い巡らしながら、街を歩き、最後の生命の糸をつないでいる。運良く家庭を築き、安定した生活を送っている人でも、将来の事を考えると、きっと不安が絶えないだろう。はっきり言って、この社会はもう、私のような人々にとって、生きていたいと思える魅力を失っている。未来が今よりも良くなるという見込みを私はほとんど抱けない。

 「時が良くても、悪くても、しっかりやりなさい。」
 弱気になる時、聖書の言葉が私を励ます。もしも、主によって注がれる愛がなければ、生きてはいられないだろう。こうして、多くの人に支えられ、励ましを受けている恵まれたキリスト者の私にさえ、他者の幸福な人生のニュースが、時折、鋭い矢のように胸に突き刺さることがあるのだ。いつまでこんな時代が続くのか…。そして、出口が見えないまま、さらなる混乱の中へと社会は突入してくのか…。私たちは最後まで、置き去りにされたままなのか…。殺伐とした暮しの中で、人間性を失う人々が続出するのは全く理解できないことではない。

 だが、主は一人ひとりの悩み苦しみを確かに知っておられる。そして人の弱さを覚えておられる。耐えられないような試練を主は人に与えられない。システムには頼れないことが分かった今だからこそ、悔しい時、泣きたい時は、人のもとへ行くのではなく、キリストの懐に駆け込むことができる。
 主よ、あなたの花嫁を迎えに来て下さい、混乱の中に置き去りにしないで下さい、主よ、私はここにおります。あなたが頼りなのです、主よ、来たりませ。そう祈りたい。

 「わたしに喜びと楽しみとを満たし、
 あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 み顔をわたしの罪から隠し、
 わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 神よ、わたしのために清い心をつくり、
 わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
 わたしをみ前から捨てないでください。
 あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
 あなたの救の喜びをわたしに返し、
 自由の霊をもって、わたしをささえてください。
 そうすればわたしは、とがを犯した者に、
 あなたの道を教え、
 罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。<…>
 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
 神よ、あなたは砕けた悔いた心を
 かろしめられません。」(詩篇51:8-13,17) 

 故郷の馴染み深い風景が、主の愛と共に、私の傷ついた心を黙って優しく包んでいる。