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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。

ヨシュア記7章20節~26節
「アカンはヨシュアに答えた。
「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。

分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」
ヨシュアの出した使いたちがアカンの天幕に走って行って見ると、果たして彼の天幕の中に、銀を下に敷いて地下に埋めてあった。
彼らはそれを天幕から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげた。
ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、
こう宣言した。
  「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。

彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。 」

* * *

最近、主は筆者にこう問われたように思われた。
「ヴィオロンさん、あなたは本当に自分のことを不器用だと思っているのですか?」

筆者はその問いを受けて考え込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます、あなたは私が着いているのに、自分は不器用だ、と人前で吹聴し、それをあたかも謙虚さであるかのように言うつもりですか?」

筆者ははっとして黙り込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます。私があなたの中で、あなたの弱さを覆い、あなたのための強さとなっているのに、それでも、あなたは自分は不器用だ、他人に比べて何もできない、自分は大した人間ではない、などと吹聴して回る気ですか?

 そのあなたの言葉は、あなた自身に対する侮辱であるだけでなく、私に対する侮辱でもあり、不信仰であることが分かりませんか?

「しかし,主は,『わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。」(2コリント12:9)

この御言葉はあなたの中でどこへ消えたのです? なぜあなたは自分は弱い、などと得意げに吹聴して回るんですか? なぜそうした言葉を聞かされて、それに無条件に頷くのです・・・?」

このような気づきがあってから、筆者は人々との関係性を根本的に見直さねばならないことに気づいた。いつからか分からないが、振り返ってみると、筆者のものの考え方が、巧妙に主ではなくこの世を中心とするものへ、次第にシフトしていたことに気づかされたからだ。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは 、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えること はできない。」(マタイ6:24)

この御言葉は、どういうわけか、筆者の記憶では、いつも「神と人とに兼ね仕えることはできない」という風に思い出される。ここで言う「人」とは「この世」のことだ。つまり、この御言葉を、筆者は、神と世の両方に兼ね仕えることはできない、という風に理解して来た。富とは、この世の権勢のことでもある。だから、この御言葉が「神と世に兼ね仕えることはできない」という意味を兼ねていると筆者が考えたとしても、その理解は、この御言葉の本質からそうかけ離れていないだろう。

筆者は、これまで自分を取り巻いている状況があまりに苦しくなったり、極度に自由が圧迫され、天の高みから地に投げ落とされたように感じられ、さらに退路が封じ込められたように思われるときには、自分をつぶさに振り返ってみると、大抵、巧妙に、「この世」が生活の中に入り込んでいることを発見したことを思い出す。

しかも、そうしてキリスト者を堕落させたり、自由を奪う「この世」とは、ほとんどの場合、人を通してやって来る。誰かが神の御前を孤独に静かに歩くことをやめ、「自分は一人ではない!」などと豪語し始めれば、その人は、大変な危険に直面していると思った方が良い。人々から誹謗中傷され、のけ者にされ、蔑まれることがやんで、笑顔で迎えられるようになり、どこへ行っても、もてなされ、必要とされ、歓迎されるようになり、本人までが、その状態を喜んで、自分は二度と孤独になることはないなどと、人前に吹聴するようになれば、もはやその人は、まことの信仰の道から逸れて、偽預言者の道を歩いていると考えた方が良いのだ。

そういう意味で、筆者は、この年始に、主によって、危ない道から危険に遭遇する前に引きずり出された。筆者は年明けに、真に気高い目的のために、人々に本当に奉仕する道を選ぼうと決意したが、それは直接的に、人間の喜ぶ奉仕をして、人々を喜ばせようという計画ではあり得ず、そこで、筆者は、直接的に人の心を喜ばせ、満足させる生き方からは、引きはがされねばならなかった。

モーセがシナイ山に登って、十戒を授かったとき、民は山のふもとで金の子牛像を作って、これを拝み、歌い踊り、戯れていた。てんでんばらばらな欲望を心に抱き、それを互いに自慢し、承認し合って、祝杯をあげていたのである。モーセは民のその姿を見て、憤りに燃え、十戒の刻まれた石板を地にたたきつけて粉砕した。

キリスト者の道は、山のふもとで生きる道ではない。むしろ、ふもとにいる民を置いて、高い山を登り、望みうる限りの最高の目的を神に向かって申し上げ、その高みへ到達できることを信じ、孤独な戦いを一人で戦い抜くことが必要な道である。そうして信仰の戦いを戦い抜いて帰って来ても、民は理解もせず、歓迎もせず、むしろ、そのキリスト者はとうに死んだと思って、怪訝そうな顔をし、疎んじるだけかも知れない。

それほどまでに、誰も理解も賞賛も感謝もしないかも知れない道であり、それはとてもとても婉曲で、困難で損な道に見えるかも知れないが、結果的には、それこそが、民全体のために奉仕するエクソダスの道なのであり、天の無尽蔵の栄光で報いられる十字架の道なのである。

私たちは自己満足のために高い山に登ろうとしているわけではない。それは自己の栄光のためではなく、まさに山のふもとにいる民に本当の利益をもたらすための試みでもあるのだ。
 
そういうわけで、筆者は年始になると、心から狭い道を行こうと決意させられると同時に、それから瞬く間に、心にある「アカンの外套」を手放すよう求められた。それが、神を喜ばせない「この世」の奉納物であるとは、筆者は知らなかったのだが、主は「自分は一人ではない!」と豪語する道を行ってはいけないと、早速、筆者を引き戻された。

主は、それがイミテーションの心の慰めであり、この先の道で、筆者はそれらのものを携えて行くことはできないし、それを持ち続ける限り、それは筆者の心の偶像となり、筆者の生活を堕落させて敗北に導き、地に投げ落とす原因になると告げられた。

筆者はその時が来るまで、その外套が、これまでの間にも、筆者を天的な生活から地に投げ落とすきっかけとなっていたことを知らなかった。筆者の気高さ、尊厳を失わせている源は、筆者がまさに仕えていると考えていた民だったのであり、もっと言えば、彼らの心を支配する欲望であった。主は、金の子牛を拝んでいる民のために給仕することは、決して神の御心ではなく、筆者の尊厳を失わせるだけだと示された。
 
それらの被造物が、あたかも筆者の主人のごとく、ぴったりと筆者に身を寄せて、味方のように振る舞い、なおかつ、真実な信仰者の姿に非常によく似ていたので、筆者にはそのことが分からなかったのである。

だが、筆者が霊的な山に登り、真に困難な挑戦に挑もうとした時、それはふもとの民となって、筆者を引き留めようとし、訣別の時が来た。彼らは彼らなりの金の子牛像を取り出して、筆者にそれを拝むよう求め、筆者がそうしないならば、筆者とはもはや一緒に行けないと告げて来た。その瞬間が来てから、ようやくそれらは世から来たものであり、偶像であることに気づかされたのである。

筆者は主以外に筆者の心を占めるものを完全に取り除き、筆者の隣の席を、主のためだけに空席として、進んで行くことに決めた。

この世でも、人は誰しも、誰かの愛人になりながら、自己の尊厳を主張することなどできはしない。まして大勢の愛人の一人の立場に自ら甘んじながら、尊厳などという言葉を口にすること自体が、僭越であり、滑稽であろう。それと同じように、欲望の奴隷となった人には、尊厳も自由もなく、この世(地上的な人間関係、この世の富、権勢、栄誉など)は、すべて堕落した人間の欲望から成り、世に支配される者は、欲望の奴隷であり、罪と死の奴隷である。そこにあるのは、いわば、一夫一婦制ではなく、人を奴隷にする愛人関係のようなものだけである。それに仕えている限り、その人は卑しめられた状態から抜け出せない。

堕落した欲望に縛られ、その奴隷となりながら、自分は高貴で自由な人間であると、どんなに叫んでも無駄なことである。

だからこそ、御言葉は、私たちが主と共なる十字架を経由することにより、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、 十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)と言うのであって、私たちはこの十字架を離れてはならないのである。

だが、この世には偽りの信仰の一大体系や、偽りの信仰者たちがいて、その教えは結局は、グノーシス主義に他ならないのだが、それは人が自己修練することで、信仰の高みを目指せると教える。

確かに、信仰の高みというものは存在するものと筆者は思う。だが、その高みは、あくまで人の個人的な望みによるものであり、その道も、個人的に様々に異なっているのに対し、グノーシス主義の教える信仰の高みとは、いわば、偏差値みたいなもので、何かしらの共通のヒエラルキーの階段を通して、人々が自分の信仰の度合いを比べ合い、裁き合って、品定めし合いながら、自分はどこまでその階段を登ったのかを競い合うことを言う。

そういう考えを持つ人々は、一見、この世の信仰を持たない人々のように、あからさまに己が肉欲の奴隷となったりはしないため、あたかも敬虔な信仰を求める人々のように見えるかも知れないが、よくよく話を聞いてみれば、その内容は、ヒエラルキーの階段を上に上に登ることで、あなたも自己の栄誉欲を満しなさい、という内容となっている。彼らは弟子をたくさん作って互いに競争させながら、彼らの言う「高み」を目指すよう、過酷な鍛錬を敷いて、成果を競い合っている。

そうして自己修練に励むことで、神に近付けると考える人々は、肉体を鍛えたり、修道僧のように禁欲的な生活を送り、自分よりもはるかに弱い人たちに仕え、謙虚で、誠実そうにも見えるため、一見すると、この世の人々の及ばない人格者のようにも見える。また、弟子を作ることに熱心なので、人々をスカウトする術にも長けているし、人の心に寄り添う術を心得ている。

だが、それでも神は、筆者がそうした仕掛けにひっかからないよう、それが偽りであることが分かる瞬間を用意される。

筆者はこうした人々が築いた偽りの一大宗教体系の真っただ中を何度も通過して来たのだが、いつも、彼らと筆者とは異質であることが、途中で判明するのだった。それはこんな具合である。筆者が一歩でも彼らの言うヒエラルキーの階段を上に上ろうとすると、その階段が、まっさかさまになって筆者の上に落ちかかってくる。階段が、ものすごい重さになって筆者にのしかかり、筆者の人生を押し潰そうとしてくる。そこで、筆者は、ああ、これは何かしら栄光に満ちた達成のように思われたが、やはりそうではなく、決して聖書に基づく信仰の道ではなく、むしろ、破滅への道だったんだな・・・と分かり、一歩も登らないうちに、その階段にさよならを告げることとなる。

そうして筆者は、これら清楚で謙虚で誠実そうに見える人々を離れて、彼らの賞賛や関心を得ようとすることもやめて、一人、神の御前に、静まって自分の道を申し上げ、極めて個人的な、誰にも知られない、主と二人だけの道を歩き始める。人の考えなどどうでも良いから、何事も主に相談の上、真実、神に喜ばれ、真実な栄誉を得るための道を、歩いて行きたいと、主に率直に申し上げる。

そういうわけで、新年早々、筆者のトランクからは、二つのアカンの外套が見つかった。それは色違いのおそろいの外套であり、一つはこの世の生地で出来ており、もう一つは、信仰に似た生地で編まれていた。どちらも人からプレゼントされたものであり、これを着れば、高みへ舞い上がれると勧められたが、着ようとして手に取っただけで、外套は鉛のように重く、一歩たりとも進んで行けそうになかった。外套についていた札を見てみると、素材は小羊の毛に似せて造られた合成繊維のイミテーションであることが分かった。

しかも、もっと悪いことに、その外套は、プレゼントされたものにも関わらず、支払いが完了していないというのである。つまり、贈り物と言いながら、手渡されたのは負債であった。それに気づいて、筆者はこの呪われた二着の外套を焼き捨てる(もしくは贈り主に返す)ことに決めて、初めから筆者にプレゼントされていた真っ白な外套を手に取った。それは小羊の毛で編まれ、小羊の血で洗われて、雪のように白く、また、軽い外套であった。それはもちろん、ただで贈られたものであるばかりか、すべての負債を帳消しにする力まで持っていた。

その小羊の毛で出来た真っ白な外套を着ると、改めて次の御言葉が思い出された。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

そうだ、何だか随分疲れた気がしていたのは、あの偽物の外套のせいだったのだ。あれを着ると、自分はあれもできない、これもできない、この世に自分ほど不器用で、何もできない人間はいない、自分にできることは、せいぜい人々の後から着いて行って、彼らに奉仕するために、地に頭を擦りつけて、身を投げ出すことだけだ・・・などと思わされ、人々を喜ばせるために、絶えず奔走させられることになり、疲れ切ってしまうだけだ。日々、歓迎され、引っ張りだこにされ、感謝されて、喜ばしいイベントが連続しているようでありながら、その裏では、陰口が絶えず、絶えず不満を述べて来る人たちのご機嫌をなだめるために、果てしなく新たなノルマが課され、てんでんばらばらな人々の心の欲望を満たすために、奴隷のごとく奔走せねばならなくなる・・・。

しかも、その外套は何日着ても、体になじむことなく、ますます重くなり、ますます歩きづらくなり、ますます足手まといになって行くばかりなのだ。

その一方で、小羊の外套は、着るや否や、心の内が軽くなり、内なる人の力と尊厳が回復されて、主が着いておられるから、どんなことでもできる、と、御言葉が自然と口から湧き出て来る。この外套には、多分、翼がついているのだろう。歩いてもたゆまず、走っても疲れない。そして、疲れたときには、隠れ家なる主の砦の高い塔に筆者を連れて行って休ませてくれる。
 
休日に電話が鳴って、潰えたはずの希望が再びよみがえり、御国への奉仕に呼び出された。主よ、私をお見捨てにならなかったのですね、と思わず、感謝が心に溢れた。だが、この世は、筆者がしようとしていることが、御国への奉仕だとは、理解することはないし、認めることもない。あの外套を着た、敬虔そうな恰好の信者たちは、こんな仕事が神の栄光になどなるものかと反対して、それに唾棄して、踏みつけにして去って行った。彼らは世を捨てられなかったのである。

そうやって、宝石をちりばめた僧服のように重すぎる外套を着た人たちが、筆者のしようとしていることをかえって罪のように考えて、自分から去って行ってくれたのは、まことに好都合なことであった。

筆者は、別離の時も、出会いの時と同様、すべて主が定めておられると確信している。だから、来る者も拒まず、去る者も追わない。主が与え、主がとりたもう。

キリスト者の道は、神の御前でつつましやかな、やもめの道であって、時期尚早に現れた愛人たちをぞろぞろと引き連れては、豪奢な服を着て、自分は孤独ではないから悲しみを知らないと豪語する女王の道とは異なる。
 
だから、心して、自分は一人になることはないとか、孤独とは無縁だなどと言う台詞を、どんなことがあっても、二度と口にすることがないよう気をつけねばならない。そういう台詞は、まさに地獄から出て来るのではないだろうか。キリストは人に蔑まれ、忌み嫌われ、人に尊ばれず、顔を背けられるほど、疎んじられた。彼は歓迎されず、良いことをしてもなじられ、絶えず誤解され、罵られた。それなのに、なぜ、私たちが彼に先だってこの世で栄誉など受けて良いものだろうか。

筆者は、孤独でつつましやかなやもめの道を、シナイ山へ一人で登って行ったモーセの道を、ゴルゴタへ向かった主の道を、人知れず歩き続けようと思った。勝利は、この細い道の向こうにあり、復活は、いつも我々の死の先にある。

ところで、グノーシス主義者は、自力で神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、神と人とが分離される前の状態に逆戻ることによって、自己を神と同一にすることを願っている。だが、筆者は、彼らとは異なり、神から切り離されて堕落した人間が、キリストの十字架の贖いを通して神に立ち戻り、その後、主と同労して、共に「光あれ」と力強い命令を発する時を待ち望んでいる。

命令は、実行されなければ意味がない。筆者は命令(御言葉)と実行(その成就)が一体化する時を待ち望んでいるのであって、そのために、何とかして命令そのものに近づき、これがまさに発せられんとする瞬間に立ち会い、さらに、それが発せられた後に、実際となって成就する有様を、主と共に見たいと願っているのだ。

そのことを、信仰においてだけでなく、この世の働きを通しても、経験できないものかと願っている。今年はそのための挑戦となるし、筆者が真にその道を行かない限り、おそらく筆者が本当の意味で、人々に仕え、益をもたらすこともできないものと確信している。もしかすると、モーセがシナイ山で十戒を受けたように、筆者も筆者なりのやり方で、神から御言葉を授かろうとしているのかも知れない・・・。
  
山に登る時は、すべてのからみつく罪を捨て、心の偶像になりそうな一切を振り切り、主の前に心を孤独にして、一人で進み出なければならない。その意味で、この道は決して人に優しい道とは言えないし、楽な道であるとも言えない。だが、その代わり、真に筆者を支えてくれる真実な主人があり、筆者を迎えてくれる天の栄光がある。

日に日に罪の負債の重さだけが増し加わる、色違いの美しい外套の贈り物を捨てたとき(もちろん、これは比喩であるが)、それが足手まといとなって、これまで天の高度に飛び立てなくなっていたことが、はっきりと筆者には分かった。

次の御言葉は極めて象徴的である。大勢の信者たちが、この聖句をお気に入りの歌にして口ずさんでいるが、この御言葉は、信仰によって実際となるばかりか、主の民のために下される神の正しい裁きと密接につながっている。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)

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何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞切れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(ヨハネ一5:13-15)

ここ一週間、曇天と雨が続き、それに合わせて、心を曇らせる出来事が山のように起きた。

だが、同時に、誰かが筆者のために、非常に心を砕いて心配してくれていることも、ひしひしと伝わって来た。

そういうことは、これまでにも幾度かあった。 筆者の身を案じてくれているのが、誰なのか分からないこともある。もしかしたら、御使いなのかも知れない。

それでも、苦難がやって来るときに、錯覚とはとても思えないリアルな感覚として、本当に筆者のために心を悩ませてくれている人がいることが伝わって来る。誰であれ、そういう人がいると分かると、心が慰められるし、立ち上がって、圧迫を粉砕するため、何度でも奮闘しようとの力が湧いてくる。

昨朝、目覚めた際、懐かしい知人が、まるで顔を覗き込み、「ヴィオロンさん、大丈夫ですか 私はあなたの味方ですからね」と、幾度も語りかけているように感じられた。

何をそんなに心配されねばならないような理由があるのかと、その時は思ったが、理由はあとになって分かった。その慰めは、しばらく経った今も続いている。これは主から来た慰めなのか、それとも、人から来たものなのか、御使いによるものか、知らない。だが、至る所で、特別な配慮に満ちた励ましをそば近くに感じる。

だから、筆者は出来事に振り回されることはなく、また、人の思いとは一切関係なく、静まって、内なる気力を養い、虚偽と、不当な制約と、死の宣告を打ち破るために、何が必要なのかを神に知らせて下さいと願うのみである。

サタンからは、絶え間なく、筆者のもとに「あなたは値しない」という証書が届く。

「あなたが望んでいることは、あなたに値しない」「あなたの言い分は、あなたに値しない」「あなたの願いは、あなたには値しないから、あきらめなさい」「あなたが抱えている不自由と苦しみと制約こそ、あなたが選んだ、あなたにふさわしいものである」

しかし、筆者は、その証書を破り捨て、サタンの言い分は粉砕し、さらなる自由と解放を求めて、神が望んでおられる道を歩いて行くために必要な知恵と手立てが与えられるように天に願う。
 
突飛な話と感じられるかも知れないが、このようなことについて考える時、筆者はどうしても、人を生かす力は、女性にはなく、男性からやって来る、と思わざるを得ない。

このところ、筆者に関わる全く同じような手続きを、女性と男性の二人の権威者が、違ったやり方で成し遂げるのを筆者は見させられた。

その結果、この二つのケースにおいて、ほとんど同じ状況で、180度異なる結論が出たのである。

女性は、筆者に自由や解放を与えず、困難を乗り越えて信頼を維持し、手続きを成功裏に導くことができなかった。それだけでなく、筆者に疑いを抱き、大きなダメージを与える結果をもたらしたが、他方、男性は、そういう困難を打破して、根気強く、誰もが生きられるような結論を導き出すことができた。

この二人が相手にしたのは、筆者という同じ人間である。この二つのケースがあったおかげで、筆者は、何もかもが自分の選択の結末ではなく、誰を相手にするかによって全く結論が変わって来ることを思い知らされた。

女性は早々に筆者に向かって、信頼を手放し、望みをあきらめるよう釘を刺したが、男性はそのようにはしなかった。だとすれば、信頼を維持できないことは、必ずしも筆者の側の責任ではないことが分かる。
 
筆者の目には、女性には、困難を根気強く乗り越えながら、互いに信頼を維持し、願っている自由へ向かって、あきらめることなく、手を携えて進んで行く能力が、そしてそのために苦しみを負う能力が、男性に比べ、極度に不足しているように見えてならない。

だから、女性との連帯は、困難が来るとすぐにあっけなく壊れ、かえって女性が女性を束縛し、死に導くという結果が起きてしまいがちなのである。

こうした出来事を筆者はこれまで山のように見せられて来た。職場でも、それ以外の場所でも、女性に自分の決断を委ねようとすると、なぜか命に至り着くどころか、束縛と、死の宣告を受け、死に触れることになるのである。

最近、その傾向がますます強まっており、女性が筆者にもたらす死の力は、何かしらものすごいものとなっているように見受けられるため、一体、これは何なのだろうかと、どうしたらそのような影響を防げるのかと、筆者は考えさせられている。

虚無に服した被造物全体を象徴する女性が、非常に美しい笑顔で笑いながら、死神のように、サタンが作った債務証書を筆者に突きつける。

「あなたにはこの限界がふさわしい。いい加減、あきらめてそれが自分の運命だと悟りなさい。私もあなたと同族で、大きな制約を負って生きてきたのです。なぜあなたは自分だけがそこから逃れられるなどと思うのですか。そんなのはわがままです」

だが、筆者はそれでも首を振り、限界と死の宣告を受け入れない、という意思表示を行う。不可能事を望んでいると言われても、構わない。見えない領域に向かって、その証書を突き返し、改めて死の力ではなく、生きた命をもたらすことのできる人々へ担当者の交替を願い出る。

筆者は死神など呼んだ覚えはなく、神の御言葉に沿って正しい解放をもたらすことのできる存在を呼んだのである。
 
当ブログでは、繰り返し、聖書によれば、男性が先に創造され、女性は男性から後になって造られたという順序があり、男女の秩序は決して覆せないものであるということを述べて来た。

男性は、主イエス(救済者)のひな型であり、女性は、教会(被造物)のひな型である。もちろん、人類は男性も女性も含め、神の神殿であり、宮なのだが、とりわけ象徴的には、男性は神を象徴し、女性は被造物全体を象徴している。

そうである限り、男性には、誰であれ、またどんなにそれがかすかなものとなっていようとも、人を困難から救い出し、追い詰められている人を解放し、自分の命を投げ出してでも、弱い他者を救うことを、己が使命とするキリストの面影が宿っているように見える。

男性には、男性である限り、誰であれ、救済者になろうとする願望がある。それはしばしば誤った形で発揮されることも多いが、いずれにしても、その性質の中には、神ご自身が持っておられる他者を生かす力が、受け継がれていると筆者は見ている。

だが、女性にはそうした性質がない。女性は憐れむことはできるが、それは自分を投げ出してでも、他者のために命を与えることとは、別の種類のものである。

教会は宮であり、あくまで主がなければむなしい存在であるから、女性は単独では虚無であり、解放者ではなく解放される側に立ち、空っぽで満たされるのを待っている器である。それゆえ、単独では、制約と、死を象徴する。

このようなことを言い始めると、たちまち差別だと誤解する人たちも出て来るかも知れないが、あくまでそういう文脈ではないことを断っておきたい。

以上のようなわけで、女性は、筆者から見ると、その存在自体に、単独では「理不尽」と書きこまれていると言って良い存在である。だからこそ、その存在に触れるとき、理不尽に触れてしまうことになり、死の力が及ぶのである。女性は、自分だけでは、その理不尽を打ち破ることができず、その中に閉じ込められているからこそ、他の女性を解放することもできないのである。
 
そこで、筆者はこの先、被造物の象徴としての女性の受けている死の圧迫を避け、その制約から自由になるために通るべき道を知らねばならないと思わされている。

さしあたり、筆者を生かすことのできる人々を天に向かってオーダーすることしかできないが、一体、この問題に終止符を打つために具体的に何が必要なのであろうか、と考えさせられる。
 
* * *

とはいえ、女性同士の間でも、痛みを分け合いながら、共に進んでいくことのできる人たちがいる。

人生が落ち着いたときに、時折、互いに身の上話をして来た友人と久々に会話したところ、その人は、筆者に向かって、いつになく確信に満ちた断固たる口調で、早いうちにボーナスや退職金が支給される環境に行かなければならない、そうでなくては、生涯の賃金格差を決して乗り越えることができない、と切々と説いた。

その言葉は、いつになく切迫した重要な助言のように響いた。なぜなら、ちょうど筆者の感じていた危機感と一致していたからである。

筆者は雇用契約書に目を通す際、育児休暇・産前産後休暇、介護休暇に賃金が支払われるのかどうかを気にしている。さしあたり、そうした休暇をすぐに取る予定があるわけでないのに、それに注意を払うのは、もしもそれらの休暇が、無給であれば、その職場は、真に人を人間として育てて行こうとの意識がないところだから、そう長くは続けられない、と認識して構わないからである。

社員を労働力としてしか見ず、人として豊かな生活を送るために、必要な余裕を与えない職場では、社員が幸福を求めて行動を起こすと、大きな障壁にぶつかる可能性が高い。

それは身長の高い人が、天井の低い家に住むようなもので、人間の身の丈に合っておらず、窮屈な生活の中で、幾度、頭を鴨居にぶちつけて痛い思いをするか分からないのを分かって、あえてその家に住もうとするのは愚かである。

もちろん、短期の派遣の雇用や、契約社員の雇用に、そのような恵まれた条件があるはずもなく、通勤交通費さえ支給されない職場に、有給の産前産後休暇や介護休暇を望むのは愚かである。

そういうものは、屋根も壊れて雨漏りのする家のようなものであって、それが家だと思っている限り、その人には安全な暮らしさえ保証されない。

筆者は、人が人らしく生活を営むことと、働くことが両立しうるような雇用体系の中に身を置かない限り、その人の勤めている職場は、結局、人を使い潰すことしかできない、という法則性は変わらないという結論を得ている。

そのことを明白に悟ったとき、筆者は、これまでの自分が、あまりにも微小なものしか求めず、ほんのわずかな条件の向上を見ただけで、天から救済者が現れたかのように喜び、本当の意味で、自分の身の丈にあったものが何であるのかを、知らず、それを探し求め、得る道があることを十分には知っていなかったことを思い知らされた。

たとえるならば、カビの生えたパンを毎日食べながら、これが食事だと思い込み、雨漏りのする家に住みながら、これが家だと思い込んでいるような具合で、本当の食事とは、本当の家とは、決してそのようなものではない、ということを漠然と感じながらも、では、一体、自分の探し求めているものは何なのかを具体的に知ることなく、ただ一体、なぜ自分はこんなに窮屈で不快な思いをしながら毎日を苦しんで暮らさねばならないのだろうか、これが本当に人の生活というものだろうかと思い悩んでいたような具合である。

自分の望む真の食事とは、真の家とは何なのかを見極め、見極めたならば、それが自分に値することを信じなければならない。

そういうわけで、筆者は、限界と制約と死の象徴である死神が、どんなに限界だらけの証書を筆者のもとに届けても、それが筆者にふさわしい最終宣告であると受け入れる気はないのである。

「あなたには、雨漏りのする家と、カビの生えたパンで十分である。あなたは自らそれを望み、知っていて、それを選んだのだ。だから、それがあなたの人生にふさわしい応酬だ。それを不満に思い、それをあなたに与えた者を、騙したなどと言って、非難する資格はあなたにはない」

などと言われても、筆者は言う、

「そんな馬鹿なことはない。私は雨漏りのしない本当の家らしい家と、カビに悩まされることなどない食事に憧れ、それを探し求めてあらゆる場所の門戸を叩いた。その結果、知りもしないうちに、雨漏りのする家をつかまされ、カビの生えたパンを口に押し込まれたとしても、それが自ら招いた選択であり、私の望んだ結果であり、私にふさわしい結末であったなどとは、決して認めない。私はこういうものを、家とも、食事とも思っていないし、そんなものを求めた覚えもないし、そんなものしかないなどという話も聞かされていない。にも関わらず、これが私に値するものだとどうして言えるのか。制約よ、引きさがりなさい。」

実りをもたらさない干からびた大地をいつまでも耕し続け、貧しい家の中で、こんなにも収穫がないのは誰のせいなのだと言って互いを責め合うのは、愚かな所業であり、そんな場所からは、離れるべきなのである。必ず、実りをもたらす大地が存在するはずである。

筆者と久方ぶりに話した知人は、前途洋々たる20代、30代の中に、多額の借金を抱えている人たちが非常に増えていることを話してくれた。筆者よりも年下の世代の中に、筆者の世代よりもさらなる困難の中に投げ入れられている人々がいることが分かった。

私たちの世代も大きな困難の中に長い間、助けなく放置されて来たが、それより下の世代は、無知と無防備につけこまれ、さらにもっと大きな抑圧の中に置かれている様子が垣間見えた。

誰がこの人たちの抱えている苦難に目を留め、彼らのために自由を用意し、貧しさの連鎖が生まれないように手立てを打つのであろうか。それは大人たちが考えてやらねばならないことではないだろうか。

こんなことでは、貧しい農村から、若者を身売りさせ、騙してひどい職業に従事させたり、特攻に送り出していた戦前・戦中と何が違うのだろうかとため息をつきたくなる。

しかし、知人は、そういう悲しい出来事ばかりを毎日のように見聞きする状況を離れ、貧しさではなく、豊かさを求めねばならないこと、働くことが苦痛でしかない環境を去り、喜びを感じられる仕事を選んだこと、筆者にも、あきらめて制約を受け入れるのではなく、飽くことなく自由を探し求めるよう、改めて背中を押してくれた。

その時、筆者の目の前には、今見ているものより、はるかに遠く、もっともっと先にある目的がおぼろげながら思い浮かんだ。

雨漏りのしない本当の家――貧しさや、限界や、不幸に追い詰められ、絶えず家族のメンバーがいがみ合い、争うような不幸な家ではなく――生きるために馬車馬のように働き、休息も取れず、不意の事態にも対応できないような生き方ではなく――家族が集まって、安心して団らんのできる、幸福な家、笑顔の溢れる家――安息に満ちた生き方――それは絶対にあるはずだし、筆者はそれをこそ絶え間なく探し求めて来たはずである。

何度、騙されかけ、何度、あきらめるよう求められ、何度、制約の中に閉じ込められ、何度、それがあなたの選んだ選択であって、それ以上のものにあなたは値しないと言われたとしても、決して、それが筆者の動かせない結論であるとは認めない。

もちろん、ここで言う家とは、あらゆる環境条件のことである。そこには、雇用条件や、それ以外のあらゆる条件も含まれる。

雨漏りのしない堅固な家を願うなら、それは必ず、存在し、手に入れることが可能であり、また、自分はそれに値するという確信を持つ必要がある。あなたはそれに値しないという、サタンの死の宣告を破り捨て、これを無効化する、新たな命に満ちた証文で上書きしなければいけない。

たとえ荒野の中を通されていても、そこが永住の地ではないことを、私たちは信じている。乳と蜜の流れる土地へ向かって、長い長い道のりかも知れない。だが、その約束の地がなぜ遠く、長い道のりに感じられるのかと言えば、私たち自身が、それが自分に値することを、まだ十分には知っておらず、信じる力が十分に達していないためである。

しかし、神は私たちを根気強く教えて下さる。

主は、日々起こる波乱のような出来事の中で、瞬間、瞬間、こう言って下さる。

「私はどんなことがあっても、あなたの味方であり、あなたを見捨てません。私があなたを教え、あなたを平安に導きます。だから、どんなことがあっても、落胆せず、私に従って来なさい。私は必ずあなたを安息の地に導くことができます。それがあなたのための私の約束なのです。」

筆者はその約束を信じている。だから、試練があるときにこそ、慰めは深く、解放も近いということを、常に思わされている。

新エルサレムまで続く長く細い道のりを、主が出会わせて下さった兄弟姉妹と共に辿りつつ

さて、証言を集め、協力者も集まって来ている。ここからが大詰めで、ドラマのような展開が進んで行く。

前にも書いたことだが、弁護士は当事者ではないため、当事者以上の証言を決して行うことができない。そこで、何が真実であるか、その是非を争いたい時には、当事者の証言こそ有効である。

キリストの御身体に命の供給が必要だいう言葉の重さを痛感するのは、こういう時だ。一人だけでもすべてに立ち向かうことは十分にできるが、やはり、仲間としての兄弟姉妹の協力を仰ぐことによって得られる利益も確かに存在する。それは地上の個人的な利益だけを指すのではなく、キリストの御身体に新鮮な命の供給がもたらされるという利益だ。
 
一人だけでも、もしキリストが内におられるなら、それは一人の証言ではない、と筆者は思うが、その上、兄弟姉妹の証言が得られば、その証言の強度は倍加する。

凶暴な狼によって、バラバラに引き裂かれた信徒たちが、再び一つにつなぎ合わされる。それが一つのからだとなり、真実を持って、虚偽に対抗して立ち上がる巨大な兵士の軍団のようになる。草の根的な、名もない小さな人々の集まりが、大きな力になって行くのだ。

今はまだ小さな流れだが、いずれ大河のように流れる時が来よう。

さて、以前には関東圏は終わりを迎えているため、よその土地に引っ越した方が良いという筆者の思いを記したが、それはあるいは、エリヤがイゼベルから逃げ出した時のような弱音だったのかも知れないし、あるいは、未来へつながっていく確実な望みなのかも知れない。今のところ、まだそうした問題には答えが出ていない。

どこになら住まいを構えてもよいだろうかと考えながら、土地を巡る中で、かつて筆者が地上で楽しく交わりを行ったあるクリスチャンの夫人のことを思い出した。その人の人生最後の時期に、筆者は彼女と親しく交わりを持つようになった。

それ以前から、互いに存在を知ってはいたが、彼女も、筆者も、ともに地上の団体を離れ、人間のリーダーを離れるまで、個人としての出会いは起きなかった。年齢は親子ほど離れていたが、良い交わりが持てた。多分、それまで様々な団体の指導者に気を取られていた頃には、せっかく出会っても、互いの価値が分からないまま、通り過ぎていたのだろう。

その人は祈りに祈って家を手に入れたとよく言っていた。家を建てる前から、図面を作り、案を練っていた。彼女は、念願かなって手に入れたというその家へ筆者を招いてくれて、雄大な景色を見せ、センスの良い家具や、配置を見せて、言った、「この家へあなたをお招きしたのは、誰でも、祈りさえすれば、こういう家が手に入ることをあなたに教えたかったからなのよ」と。

色々なところで会い、信仰の交わりをし、あかしをし、共に喜び、感謝した。それからごくわずかな間に彼女は天に召され、しばらくして彼女の夫も天に召され、その素晴らしい家は、誰も住む人がいなくなった。筆者が知らないうちに、いつの間にか、彼女の夫までも地上を去っていた。

筆者からみれば、その夫婦は、まるであたかも両親の代理のように、非常に親切にしてくれた。夫人が亡くなってから、二、三回、ご主人に会って、思い出話を聞いた。筆者の心には良い思い出しか残っていなかった。

しかし、筆者が見ていたのは、ほんのうわべだけの有様に過ぎない。夫人は生前、夫には信仰がないと嘆いており、家の屋上にのぼって泣きながら祈ることがよくあると語っていた。他人には決して打ち明けることのできない様々な悩み苦しみが、胸の内には色々あったのだろうと思われる。

しかし、一体、何を涙して祈らねばならなかったのか、いつも幸福そうな外見からは全く分からなかった。こちらから事情は何も尋ねなかったし、彼女の夫も、教養ある人たちの家庭では常にそうであるように、他者に対しては親切で気前良く、何一つ愚痴も悩みもこぼすことなく、夫人が嘆いていたような問題があることは全く分からないままであった。

筆者は、彼女が召されてからも、彼女と過ごした夢のようなひと時を幾度も心の中で思い出した。

それからずっと経って、筆者は、偶然に、この夫人の家のことを思い出した。最後に残っていた彼女の親族から、ついに夫人の家も、すっかり空っぽになって、売りに出されたという話を聞いて、心から寂しい気持ちになったことを思い出した。

筆者にとっては、いつまでも記憶の中で、色あせることのない、夢のような家である。もしも地上で最も天に近い、聖なる場所があるとすれば、それはきっとあの家に違いない、と思った。

そこで、ずっと前に削除したアドレス帳に記した住所を何とか記憶を辿って思い出し、探してみると、その家は何と買い手がないまま売りに出されているではないか。

この聖なる場所が人手に渡らなかったのはきっと奇跡に違いない、などと筆者は思って、そこを訪ねてみることにした。

だが、現実は容赦なかった。その家は、誰も住まなくなって久しいため、大規模な修繕が必要で、とてもではないが、誰から見ても、経済的な買い物と言える状態ではない。修繕で済めば良いが、すべてを造り変えるしかない可能性が極めて高い。

夫人が筆者をもてなしてくれ、みなで聖書を輪読した素敵な居間も、今は朽ちかけ、床はひび割れ、壁も傷み、テラスへ続く扉は、開けようにもシャッターや扉が開かなくなっていた。

それでも、ごくわずかな思い出の片鱗でも残っていないかと期待しながら、筆者は歩き回ってみたが、その家には、もう当時の生活の名残は、ごくわずかに天上に吊るされた照明と、家の中に数か所残されたインテリアのかけらくらいしかなかった。

その代わり、筆者は、客として招かれた頃には、決して案内されることのなかった家の隅々までも見ることができた。

そうして驚くべきことが分かった。その家には、筆者が客として招かれたときには、決して存在を知ることのない隠された空間があったのである。夫人が生前に、センスの良い高価な家具をたくさん飾り、実に良い雰囲気を醸し出していた居間のある上層階とは別に、一種の廃墟と言っても良い状態の下層階が存在したのである。

その下層階は、まさに廃墟と呼ぶべき状態であり、しかも、多分、そこが廃墟になったのは、家が空き家になって後のことではなく、夫人がまだ生きていた当時から、開かずの間として放置されていたのではないかと思われた。つまり、同じ家の中に、美しく改装された二階と、放置されて朽ち果てて行く一階とがあり、この二つが、基礎構造を通じてつながっていたのである。

筆者は非常に驚き、複雑な思いになった。これはまるで人間の心の中のようだという気がした。生まれながらの人の心の中には、誰にでも、こうして人には見せられない隠された奥の間がある。そこに、様々な嫌な思い出や悪意が封印されていたりする。

筆者が客としてこの家を訪れた時、夫人は、信仰によって与えられた非の打ち所のない家のように、この家を紹介しれくれたが、その時、夫人が筆者に見せてくれたあの夢のような空間は、最も良いごく一部である上層階に過ぎず、この家には、下へ下へと降りるに連れて、それとは全く異なるもう一つの顔があったのである。

しかし、あれほどセンスの良い綺麗好きで自分の家をとても愛していた夫人が、そのような状態で、率先して下層階を放置していたとは、およそ考えられず、多分、そうならざるを得なかったのは、そこには夫人が立ち入れなかったか、管理の及ばない何かの特別な事情があったためだろう、と考えられた。

同じ一続きの家ではあったが、そこは夫人が設計したわけでなく、管理したわけでもない、別人の空間だったと思われる。

そういう事情を見ても、きっとこの家の中には、外の人には決してあけっぴろげに見せることのできない何かの秘密が隠されていたのだろう、という気がしてならなかった。

多分、その秘密こそが、夫人が生前、幾度も涙しては屋上で祈らなければならなかったり、静かに祈るための空間を求めて、郊外へ移動したりしていた理由につながっていたのではないだろうか、などと筆者は思いを巡らしてみた。
 
だが、筆者はそれ以上、その事情について、知りたいとは思わなかった。どの家族にも、それなりの秘密がある。たとえば、筆者の目から見て、夢のように素晴らしい家庭に見える家でも、その家に生まれた子供たちの目から見れば、かなりの問題があると感じられるかも知れない。

人目には愛のある素晴らしい夫婦のように見える二人がいても、もしかすると、毎日のように、どちらか一方が泣いているかも知れない。あるいは、親たちは幸福そうに見えても、子供たちは苦しみ、悩んでいるかも知れない。

遠目に見るからこそ、何もかもがきれいに見えるだけのことである。すべての地上の家は、そういうものだ。筆者が愛していた夫人の家だからと言って、すべてが例外などということは決してないのだ。

だから、その家が、最も天に近い、地上で一番、祝福された、聖なる場所のように筆者に見えていたのは、あくまでその当時の筆者の主観によるものであり、同時に、夫人の主観によるものであり、また、同時に、単なる人間の主観にはとどまらない、信仰によってつながった姉妹たちが、主の御名の中で、ともに分かち合った喜びや賛美によるのである。

確かに、その時、私たちの霊の内で、何とも言えない理想的な空間が広がっていた。だが、だからと言って、その思い出を、まるで完全で聖なるもののように、極度に美化するわけには行かない。

地上のものが、エクレシアの永遠の構成要素の一つであるかのようにみなすわけにはいかない。どんなに素敵な家も、ありふれた家の一つでしかなく、理想や、完成からは遠い、不完全なこの世の朽ち行く物質から作り出されたものに過ぎず、その家も、どこの家もそうであるように、老朽化やその他の様々な問題に悩まされ、いずれは消えて行く脆くはかないものの一つでしかない。

仮にその家が、何の秘密も持たない理想的な空間であったとしても、それでもやはり地上の朽ちて行くものが、天の朽ちないものを形成するわけではない。

結局、真理と霊によって神を礼拝する場所は、あの山や、エルサレムではない。エクレシアは、思い出の中に存在しているのでもなければ、他人の素敵な家の中にあるわけでもない。

筆者にとってのエクレシアとは、常に筆者の内に住んで下さるキリストによって、筆者と共に存在している。このことを決して忘れるわけにいかない。あの時、筆者と夫人と、また別のもう一人の夫人が、共に三人で集まり、祈ったことにより、我々の霊の交わりの中に、確かにエクレシアが存在していたのであり、他方、夫人の素敵な家は、その交わりによって照らされ、聖別されていた地上の空間に過ぎない。

不思議なことに、目の前で、思い出深い場所が、残酷に朽ちて行く光景を見せられたというのに、しかも、そこには、筆者の知らない秘密まであったと分かったにも関わらず、筆者の記憶の中では、依然として、その家も、夫人の面影も、輝いたままに残っている。

おそらく、それがエクレシアの永遠の交わりが、確かにその時に生きて存在していたことによるのだろう。そこがどんな家であったかなど、全く問題ではないのだ。

エクレシアは、主の御名の中で集まる二、三人の中にある。だから、過去を振り返ることなく、真実な心で今、生きている兄弟姉妹と手を取り合って、前に進んで行こう。
 
人間は生きている限り、絶えず変化し、前に進んでいく。人は常に新しいものを求める。人間の作った技術が年々、進歩しており、年々、物質が古くなり、朽ちて行くのと同様、かつては最善に見えたものも、時代の変化により、廃れて行く。だから、思い出を振り返り、名残惜しむことによって、何かが取り戻せるということは絶対にない。過去を振り返る時でさえ、今の基準に立って、すべてを厳しく評価しなければならない。そして、地上に存在しているものは、どんなものであろうと、満点をつけられるものはない、と言い切らねばならない。

なぜなら、私たちが求めているものは、この地上に属するものではないからだ。
 
ところで、筆者は、開かずの間のない家を理想と考えている。古いものと新しいものを一緒に残すことはできない。古い基礎構造の上に、新しい部分をかぶせて、一部だけを新しくして、すべてが新しくなったように見せようとは思わない。そういう混合は決してあってはならないものだ。

開かずの間とは人の心でもある。エレミヤ書にあるように、どんなに人の心が陰険で、罪と悪に満ち、直りようがないほど悪かったとしても、その部分は、神の光によって照らされなければならない。そうして、照らされて、新しく造り変えられる必要がある。

そのためには、その部分をまず神に対して解放して、明け渡さなければならない。廃墟であろうが、どんな状態であろうが、構わないから、そういうものが自分の心の中にあることをまず認め、扉を開けて、主をその中にお招きせねばならない。客人をお招きするにふさわしくない空間であることは百も承知だが、だからと言って、それをないもののように、鍵をかけて閉ざしてはいけない。にも関わらず、それをそのままにして、古い基礎を残したまま、その上に上層階を建れば、その弊害は必ずしばらく経って現れて来る。そのような仕方で建てた家は、長くは持たない。筆者には、そういう気がした。
 
大胆な外科手術によって、取り除くべきものがすべて取り除かれた上で、すべてが新しくされねばならないのである。基礎構造から、すべてが新しくなければならない。そういう意味において、夫人が見せてくれた家は、天の故郷である新エルサレムまで続く道の途上にある、非常に魅力的な通過点の一つであったとはいえ、それがゴールでは決してなく、そこから天の故郷までには、まだまだ遠く、はるかな距離が残っており、その通過点は、どんなにその時には満足できるもののように見えたとしても、そこで立ち止まるべきではない、甚だ不完全で中途半端な地点でしかなかったのである。

だから、私たちは生きてキリストの十字架の死と復活をさらに知るべく、主のよみがえりの命によって刷新されるべく、後ろのものを忘れ、前に向かって進んで行く。その途上で、また新たに喜びに満ちた出会いや、有益な参考材料となる学びが現れて来るだろう。


見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。
 
溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。
 
だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。
 
だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)
 
最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)



ジョン・バニヤン著『天路暦程』より抜粋(2)

[あらすじ]
主人公の基督者は十字架のもとで罪赦されて重荷を降ろし、新しい服を着せられ、額に印を受け、封印された巻物を受け取った。その後、引き続き、天の都、シオンの山を目指して信仰の旅を続ける。道中、様々な困難に見舞われながらも、信仰者という道連れを得る。
しかし、空の市を通り過ぎる際に、二人は市場に騒乱を引き起こしたかどで無実にも関わらず、逮捕、投獄され、信仰者は火刑にされて殉教した。基督者だけが釈放され、旅を続ける。
物語は、著者ジョン・バニヤンが夢に見ているという設定。


「さて、私が夢で見ていると、基督者は一人で進んで行くわけではなかった。有望者という名の者が(市場での基督者と信仰者の言動と受難を見て希望を抱くようになって)彼といっしょになり、兄弟の契りを結んで、道連れになろうと語った。こうして一人は死んで真理への証を立てたが、また一人がその灰の中から甦って、基督者の巡礼の道連れとなったのである。この有望者は基督者に語って、市場の人々の中には折を見て彼の跡に従おうとする者がまだ沢山あると言った。

 こうして私が見ていると、彼らは市場から出るとじきに前に行く人に追いついた。その人の名は私心者であった。そこで二人は彼にどこの国のお方でしょうか、どこまでお出かけになりますかと聞いた。彼は二人に答えて、自分は巧言町から来たもので、天の都へ行こうとしていますと言った(が、自分の名は告げなかった)。

 巧言町からですって、と基督者は言った、そこにはだれか善い人が住んでいますか。
 私心者は言った、はい、いると思います。
 失礼ですがお名前は、と基督者が尋ねた。
 私心者 あなたも私も互いに他人です。もしこの道を行かれるならば、喜んでお供いたしましょうが、さもなければ、一人でもしかたありません。

 基督者は言った、この巧言町のことはわたしも聞いたことがあります。何でも私の記憶しているところでは、富裕な町だそうですが。
 私心者 そうです、確かにそのとおりです。私もそこには沢山金持ちの親戚があります。
 基督者 失礼ですが、お差支えなかったら、ご親戚というのはだれでしょうか。
 私心者 ほとんど町中の人です。とくに、移気候、日和見候、巧言候(このお方の先祖から初めあの町の名をとったのですが)、また円滑氏、二心氏、何でも御座れ氏、また私たちの教区の牧師である二枚舌氏は母の腹違いの兄弟です。
それで実を申せば、私は身分のよい紳士となっていますが、私の曾祖父はただの船頭で、一方を向きながらそれをと違った方向へ漕げる人でした。私の身代も大部分は同じ仕事でもうけたものです。

 基督者 あなたは家庭をお持ちですか。
 私心者 はい、私の家内は実に貞淑な婦人の娘です。佯装(みせかけ)夫人の娘なので、非常な名門の出です。非常に高い教養に達していますので、王侯でも小百姓でも、どんな人の前に出ても、振舞う道をわきまえています。なるほど厳格な向きの宗教とは幾分異なっていますが、それはほんの二つの小さな点だけです。
第一に、私達は決して世の風潮にさからわないことです。第二に、私たちは宗教が景気がよくて銀のスリッパをはいているときにはいつも一番熱心です。日が照って、人々が宗教をもてはやすなら、それといっしょになって街を歩くのが大好きです。

 そのとき基督者は少し側によって仲間の有望者に言った、これは巧言町の私心者という人のように覚えています。そうだとすれば、私たちはこの界隈に住むしたたかな悪党と道連れになったわけですよ。
すると有望者が行った、聞いてご覧なさい。自分の名を恥はしますまい。
そこで基督者は再び追いついて言った、あなたは事柄によっては、世間のすべての人々より物知りなようなお話し振りですね。見当違いでなければ、ほぼ察しがついたように思われます。お名前は巧言町の私心氏ではありませんか。

 私心者 これは私の名ではありません。実は、だれか私に我慢のできない人がつけたあだ名です。それで私は仕方なしにそれを非難として我慢しているのです。ちょうど私より以前にも他の善人たちが我慢したようにね。
 基督者 ですが、人からそんな名前で呼ばれるような事をした覚えはないのですか。
 私心者 いやもう決して。私がこういう名で呼ばれる覚えのあることといったら、せいぜいこんなところですよ、つまり当時の時代風潮がどんなものであろうと、私の意見はいつも運よくそれと符号したことで、たまたまそれで得をしたというわけです。しかしいろいろな物がこんなふうに舞い込んでくるなら、それはありがたい授かり物と考えたいですね。そのために意地悪連中から非難を浴びせかけられるのはご免ですよ。

 基督者 実際あなたはうわさに聞いていた方だと思いました。私の思うとおりを申し上げると、この名はあなたが望まれる以上にぴったりではないでしょうかね。
 私心者 なるほど、そのように想像なさるというなら、しかたはありませんよ。もしまだお付き合いを許して下さるなら、私も相当な仲間だということが分かりましょうがね。
 基督者 私たちといっしょに行くと、世の風潮に逆らって行かねばなりませんよ。ですが、それはご意見に添いそうもないですね。宗教が落ちぶれてぼろを着ているときにも、栄えて銀のスリッパをはいているときと同様、それを認め、また鉄の足かせに縛られている時にも、歓呼の声を浴びて街を歩く時と同様、それを支持しなくてはいけませんよ。

 私心者 信仰はこれを押しつけたり、抑えつけたりしてはいけませんな。私の勝手にさせていっしょに行かせて下さい。
 基督者 私が提議することを、私たちと同じようにやろうとしないなら、これから先一歩も行けませんよ。
 そのとき私心者は言った、私は昔からの主義を決して捨てませんよ、それは無害で有益なのですから。ごいっしょに行けないのなら、あなた方に追いつかれない前にしたようにする、つまり独りで行くよりほかはありませんな。そのうちだれか私と道連れになるのを喜ぶ人が追いつくでしょう。

 さて、私が夢で見ていると、基督者と有望者とは彼を見捨て、大分離れて先に立って行った。ところがそのうち一人が振り返って見ると、三人の人が私心者に従って行くのが見えた。すると見よ、三人が彼に追いついたとき、彼がきわめて丁寧な会釈をすると、彼らもまた挨拶をした。人々の名は現世執着氏、愛銭氏、吝嗇氏で、私心氏が以前知り合いであった人々である。

彼らは少年時代には学校友だちで、北国の欲張州の愛利町という市場のある町で校長をしている掴取(つかみどり)氏によって教えられたのであった。この校長は、暴力、詐欺、追従、虚言によるか、それとも宗教の仮面を被ることによって、もうける術を彼らに教えた。この四人は先生の術を大いに会得して、このような学校をめいめい自分で経営することができた。

 ところで先にも言ったように、彼らが互いに挨拶した後、愛銭氏は私心氏に、前の方に行く人たちはだれですかと言った。基督者と有望者とはまだ視界のうちにいたのである。

 私心者 あの二人は遠国の者で、自分の流儀で巡礼をしているのです。
 愛銭者 それは惜しい。どうして待たなかったのでしょう。私たちは彼らのよい道連れになれたでしょうになあ。彼らも、私たちも、それからあなたもそうでしょうが、皆巡礼をしているのですからね。
 私心者 そのとおりです。しかし前に行く連中ときたら、それは頑固で、自分の考えにばかり固執して、他人の意見なんか非常に軽んじるのです。どんなに信心深い人でも、万事につけて彼らと一致しなければ、まったく仲間はずれにしてしまうのです。

 吝嗇氏 それはいけないな。『義に過ぎた』者のことを読んだことがあるが、こんな連中は頑固になるために自分以外のすべての者をさばいて、罪に定めるのさ。ところでお伺いしたいが、意見が合わなかったのはどんな事で、どのくらいでしたかな。
 私心者 いや、あの連中ときたら、その頑固な流儀で、天候はどうあろうと、むやみに旅を急ぐのが義務だときめ込んでいるのですが、私は風向きと潮流を待とうというのです。彼らは神のためにすべてを一挙に賭けるという方で、私はあらゆる機会を利用して生命・財産を守ろうという方です。彼らはたとえ他人がことごとく反対しても自分の意見を固執する方ですが、私が宗教にくみするのは、時代とわが身の安全がそれに耐える場合、またその限りにおいてです。
彼らは宗教がぼろを着て軽蔑されているときでもそれを支持しますが、私が味方するのは、宗教が金のスリッパをはき、日の照る中を歓呼を浴びて行くときだけです。

 現世執着氏 そうだ。いつもそこを固執し給え、私心者君。ぼくなど、彼はばかだとしか思われないね、自分の持物を保つ自由を持っていながら、愚かにもそれをなくそうというんだから。
われわれは蛇のように賢くなろう。日が照っているとき乾草をつくるのが一番いいのだ。蜜蜂は冬中はじっとしていて、愉快に利益が得られるときだけ活動するからね。神は時に雨を降らし、時に日光を送られる。たとえ彼らが愚かにも雨の中を行こうと、われわれは甘んじて天候のよい日を選んで行こう。

ぼくとしては、われわれに対する神のよい祝福の保証と一致するような宗教が一番好きだね。理性に従う者なら、神がこの世のよいものを賜ったのに、それを保持するのを神が好まれないなどとだれが思うだろう。アブラハムもソロモンも宗教で金持ちになり、ヨブも、善人は塵のように黄金を積むと言った。
しかし善人とは、前方に行くような人ではない、君の言うような人たちだとすればね。

 吝嗇氏 この事では皆意見が一致して(る)から、これ以上語ることはないと思うね。
 愛銭者 そうだ、実際これ以上語る必要はない。聖書も理性も信じない者は(この二つはわれわれの味方なんだからね)自分の自由を知らず、自分の安全を求めもしないものさ。

 私心者 諸君、ご承知のようにわれわれは皆巡礼の道中だから、悪い事柄からもっとよく気を紛らすために、次のような問題を提起するのを許していただきたい。
 たとえば、一人の人が、牧師でも商人でも他の者でも、この世のよい祝福を得る機会を目前に持っているとする。ところがそれは彼がこれまで関係しなかった宗教上のある点で、少なくとも上べだけでも、特別に熱心にならなければ決して手に入れることができないようなものだとする。この人はその目的を達するためにこれらの手段を用いてもなおまっ正直な人と言われないだろうか。

 愛銭者 問題の本意が分かった。諸君の許しを得て、答えを作るよう骨折ってみよう。まず第一に、牧師自身に関する質問に対して答えるなら、かりに牧師がりっぱな人でありながらほんの少ししか俸給を受けていないとする。そして遥かにゆたかな俸給を望んでいて、今やそれを手に入れる機会はあるが、もっと勉強し、もっと数多く熱心に説教し、また人々の気質が要求する以上は、多少自分の主義を変えなければ手に入らないとする。
私に言わせると、(彼が召命を受けているなら)そうやったって少しも構わない、いや、そのほかもっと沢山やっても、やはり正直者だ。というのは、

 一、一層大きな俸給が神慮によって目前におかれた以上、それを望むのは正当だよ(これに反対はできない)。だから、できればそれを手に入れてもいいわけだ、良心のために疑問など起こさないでね。
 二、のみならず、そういう俸給を欲する心から彼は一層勉強し、一層熱心な説教家になり、こうして一層よい人間になる、いや、彼の才能は進歩する。それは神のみ心にかなうことだ。
 三、さて信者たちに役立つよう、自分の主義を多少曲げて、その気質に従うことについて言えば、これは次のことを証明する。
(一)彼に克己心があること。(二)優しくて人を引きつける態度があること。したがって、(三)聖職に一層適していること。

 四、そこで結論を言うと、少ない俸給を大きなのと取り換える牧師は、そうしたからといって欲張りだと判断してはならない。いやむしろ、それによって才能と勤勉とを増進した以上、彼は自分の召命を励み、授けられた善をなす機会を追求する者として考えるべきである。<略>

 このように愛銭氏が私心氏の問題に与えたこの答えは、皆からやんやとほめそやされた。そこでこの答えは大体極めて穏健で好都合なものと断定された。彼らの考えでは、だれもそれに反対はできないし、基督者と有望者はまだ呼べば聞こえる所にいたので、二人に追いついたらすぐこの問題で攻めたてようということに一同の意見が一致した。ことに二人が私心氏に反対したことがあるのでなおさらのことであった。そこで彼らは後から呼びかけた。
二人は立ちどまって、彼らが追いつくまでじっとしていた。ところで彼らが道々取り決めたことは、私心氏ではなく年寄の現世執着氏が問題を出すというのであった。彼に対する返事なら、少し前別れる際に私心氏と二人との間に交わされた論戦の余熱もなかろうと思ったからである。
 こうして彼らは互いに近寄って、短い挨拶を交わした後に、現世執着氏が基督者とその仲間に問題を出し、できれば返事して欲しいと言った。

 そこで基督者は言った、宗教については赤ん坊のように幼稚な者でも、こんな問題なら一万でも答えることができましょう。もしパンのためにキリストに従うことがよくないとすれば(実際そのとおりですが ヨハネ第六章)この世をもうけて享楽するためにキリストと宗教をだしに使うことは、なおさら言語道断のことではありませんか。このような意見を持つ者は異教徒や偽善者や悪魔や魔女のほかには見当たらないのです。

 一、異教徒と言ったのは、ハモルとシケムがヤコブの娘と家畜とに気があって、割礼を受けるよりほかには、それに至る道はないと見たとき、彼らはその仲間に言ったものです、もしわれわれのうち男子が皆彼らのように割礼を受けるならば、彼らの家畜も財産もすべての獣もわれわれの物となるのではないかと。その娘と家畜とは彼らが手に入れようと欲したものであり、宗教はそれに近づくために利用した『隠れ馬』でした。その話をすっかりお読みなさい(創三四・二〇―二三)。

 二、偽善的なパリサイ人もこの宗教を持っていました。長い祈祷は彼らの見せかけで、やもめの家に入り込むことがその目的でした。神から来る『もっときびしいさばき』こそ彼らの受ける罰です(ルカ二〇・四六、四七)。

 三、悪魔ユダもこの宗教をもっていました。彼は財布のために信心深かったのですが、それはその中にある物を手に入れるためでした。しかし彼は滅び、見捨てられました。まさに滅びの子です。

 四、魔法使いのシモンもこの宗教を持っていました。彼は聖霊を得ようとしたが、それで金もうけをするためでした。ペテロの口から下された宣告は適切でした(使八・一九―二二)。

 五、私の念頭を去らないことは、この世のために宗教を取り上げるような者は、この世のために宗教を捨てるということです。確かにユダは信心深くなったとき、この世を捨てました。が、それと同じく確かに彼はこの世のために宗教と主とを売ったのでした。それ故その問題に肯定の答えを与えることは、(察するところ君たちはそうしたようですが)、また、そのような答えを拠り所あるものとして承認することは、異教的で、偽善的で、また悪魔的です。そして君たちの報いはその行いしだいです。

 そのとき彼らはお互いに顔を見合わせて立っていたが、基督者に答えるすべを持たなかった。有望者も基督者の答えの正しいことを認めた。こうして皆すっかり黙り込んでしまった。私心氏とその道連れはわざとぐずぐずして遅れた。基督者と有望者が先になるためである。そのとき基督者は仲間に言った、この連中が人間の宣告の前に立つことができないなら、神の宣告に対してはどうするつもりでしょう。また『土の器』である人間にあしらわれて黙るくらいなら、焼き尽くす火の焔によって叱責されるときはどうするつもりでしょう。」

ジョン・バニヤン著、『天路暦程』正編、池谷敏雄訳、新教出版社、1993年、p183-194。太字は筆者。

* * *

 これが何を示しているか、説明せずとも皆様は大体、お分かりのことでしょう。どこかで聞いたような話だとは思いませんか。信者が神の祝福を受けて、富める者になることは悪いことではない、それどころか、神はクリスチャンが豊かになることを望んでおられる、立派な牧師が貧しい謝儀に甘んじているなどとんでもない、牧師たるもの、自らの威厳にふさわしい、荘厳な生活を送らねばならない…。
 そんな風にして、主のための貧しさや、苦難や迫害にも勇敢に耐えるようにと信者を励ますのでなく、むしろ、地上的な繁栄を旗印にして、信者を増やそうとしている宗教団体がどこかにありませんか。時代の潮流に乗って、明るい日差しの中を、立派な衣装を着て、金の靴を履き、人々の歓呼の声を浴びて堂々と歩むことだけを奨励している宗教がありませんか。宗教の繁栄のために、聖書を曲げた偽福音を平然と宣べ伝えている教職者たちがいないでしょうか…?

ペンテコステ・カリスマ運動の主要な柱

1)信徒が回心後に、聖霊のバプテスマを受けて、霊的な力や賜物を得る必要性を強調
2)カリスマ的指導者を頂点に頂くミニストリーのスタイル
3)神は貧困を喜ばず、豊かになることは罪ではないとする繁栄の神学
4)人々の心身や、地域、国から悪霊を追い出さなくてはならないという霊の解放と戦いの神学
5)キリスト教シオニズム
6)大宣教命令に基づき、ペンテコステ運動を全世界に普及させるべく打ち出される教会成長プログラム

 クリスチャンが聖霊を受け、聖霊に満たされる必要性を私は否定するつもりはありません。ただし、何のために聖霊を受けるのか、その動機が問題となるでしょう。魔術師シモンは金もうけをもくろみ、聖霊を按手によって信者に授ける能力を金で買おうとして、ペテロの厳しい叱責を受けました。
 このように、聖霊を受けようとする信者の側だけでなく、聖霊を受けるように勧める教職者たちの動機もまた問題となり得るのです。今日、宗教団体の繁栄のために、信徒に聖霊を受けるように勧めている教職者たちがいないでしょうか。宗教団体の繁栄のために、信徒の持つ聖霊の賜物を利用しようとしている教職者たちがいないでしょうか。大宣教命令を隠れ蓑に、宗教団体の地上的繁栄を果てしなく求めて、組織拡大活動にいそしんでいる人たちがいないでしょうか。

 聖書は、時が良くても、悪くても、信徒が主のご用のためにいつも己をむなしくして御言葉に従順に働くよう教えています。主の栄光のために、貧しさや迫害を耐えねばならない時には、それに甘んじる覚悟を決めることも必要となります。それは主の栄光のために信徒が自主的に固める決意であって、決して、宗教団体の繁栄のために強制されたり促されることであってはなりません。ところが、自分の安楽と、金もうけのためだけに宗教を利用し、宗教を隠れ蓑にして現世利益を求めるようになった宗教指導者や信者たちは、偽善者となり、二枚舌を平気で使うようになり、そのうち、はっきりと福音を曲げる異端の教えを語るようになります。そして、他の信者たちを神に自主的に仕えるしもべではなく、人間に仕える奴隷としてしまうのです。

 しかしながら、このように、金銭的むさぼりを達成するための隠れ蓑として宗教を利用するようになった指導者や信者たちは、やがてどういうわけか、目指している繁栄とは正反対に、破滅と貧困に陥っていくのです。ハモルとシケム、ユダは成功と繁栄を手にすることなく、破滅に落ち込み、死にました。魔術師シモンも悔い改めることがなければ、やはり破滅していたでしょう。考えてもみて下さい、今日、繁栄と解放を謳っているある運動が、どんな思いもつかない悲惨な実を信者にもたらしているでしょうか。貧困と虐待と死の噂があちこちで聞かれる運動がないでしょうか。そういった悲惨な実は、一体、なぜ、もたらされているのでしょうか。

 人々が現世利益を求めるために宗教を利用するようになると、そこには数え切れない悲しい結果が生れるようになるのです。まことの豊かさに至りたいならば、その道は、たった一つしかありません。肉にまくことをやめて、つまり、自分の身体を喜ばせる現世利益を求めることをやめて、キリストの十字架を通して己の肉の欲に死に、霊にまくこと、すなわち、神の栄光のために自分を低くして、御言葉なるイエスに仕えて生きること、それだけが、まことの命の豊かさに至る唯一の道なのです。