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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

新エルサレムまで続く長く細い道のりを、主が出会わせて下さった兄弟姉妹と共に辿りつつ

さて、証言を集め、協力者も集まって来ている。ここからが大詰めで、ドラマのような展開が進んで行く。

前にも書いたことだが、弁護士は当事者ではないため、当事者以上の証言を決して行うことができない。そこで、何が真実であるか、その是非を争いたい時には、当事者の証言こそ有効である。

キリストの御身体に命の供給が必要だいう言葉の重さを痛感するのは、こういう時だ。一人だけでもすべてに立ち向かうことは十分にできるが、やはり、仲間としての兄弟姉妹の協力を仰ぐことによって得られる利益も確かに存在する。それは地上の個人的な利益だけを指すのではなく、キリストの御身体に新鮮な命の供給がもたらされるという利益だ。
 
一人だけでも、もしキリストが内におられるなら、それは一人の証言ではない、と筆者は思うが、その上、兄弟姉妹の証言が得られば、その証言の強度は倍加する。

凶暴な狼によって、バラバラに引き裂かれた信徒たちが、再び一つにつなぎ合わされる。それが一つのからだとなり、真実を持って、虚偽に対抗して立ち上がる巨大な兵士の軍団のようになる。草の根的な、名もない小さな人々の集まりが、大きな力になって行くのだ。

今はまだ小さな流れだが、いずれ大河のように流れる時が来よう。

さて、以前には関東圏は終わりを迎えているため、よその土地に引っ越した方が良いという筆者の思いを記したが、それはあるいは、エリヤがイゼベルから逃げ出した時のような弱音だったのかも知れないし、あるいは、未来へつながっていく確実な望みなのかも知れない。今のところ、まだそうした問題には答えが出ていない。

どこになら住まいを構えてもよいだろうかと考えながら、土地を巡る中で、かつて筆者が地上で楽しく交わりを行ったあるクリスチャンの夫人のことを思い出した。その人の人生最後の時期に、筆者は彼女と親しく交わりを持つようになった。

それ以前から、互いに存在を知ってはいたが、彼女も、筆者も、ともに地上の団体を離れ、人間のリーダーを離れるまで、個人としての出会いは起きなかった。年齢は親子ほど離れていたが、良い交わりが持てた。多分、それまで様々な団体の指導者に気を取られていた頃には、せっかく出会っても、互いの価値が分からないまま、通り過ぎていたのだろう。

その人は祈りに祈って家を手に入れたとよく言っていた。家を建てる前から、図面を作り、案を練っていた。彼女は、念願かなって手に入れたというその家へ筆者を招いてくれて、雄大な景色を見せ、センスの良い家具や、配置を見せて、言った、「この家へあなたをお招きしたのは、誰でも、祈りさえすれば、こういう家が手に入ることをあなたに教えたかったからなのよ」と。

色々なところで会い、信仰の交わりをし、あかしをし、共に喜び、感謝した。それからごくわずかな間に彼女は天に召され、しばらくして彼女の夫も天に召され、その素晴らしい家は、誰も住む人がいなくなった。筆者が知らないうちに、いつの間にか、彼女の夫までも地上を去っていた。

筆者からみれば、その夫婦は、まるであたかも両親の代理のように、非常に親切にしてくれた。夫人が亡くなってから、二、三回、ご主人に会って、思い出話を聞いた。筆者の心には良い思い出しか残っていなかった。

しかし、筆者が見ていたのは、ほんのうわべだけの有様に過ぎない。夫人は生前、夫には信仰がないと嘆いており、家の屋上にのぼって泣きながら祈ることがよくあると語っていた。他人には決して打ち明けることのできない様々な悩み苦しみが、胸の内には色々あったのだろうと思われる。

しかし、一体、何を涙して祈らねばならなかったのか、いつも幸福そうな外見からは全く分からなかった。こちらから事情は何も尋ねなかったし、彼女の夫も、教養ある人たちの家庭では常にそうであるように、他者に対しては親切で気前良く、何一つ愚痴も悩みもこぼすことなく、夫人が嘆いていたような問題があることは全く分からないままであった。

筆者は、彼女が召されてからも、彼女と過ごした夢のようなひと時を幾度も心の中で思い出した。

それからずっと経って、筆者は、偶然に、この夫人の家のことを思い出した。最後に残っていた彼女の親族から、ついに夫人の家も、すっかり空っぽになって、売りに出されたという話を聞いて、心から寂しい気持ちになったことを思い出した。

筆者にとっては、いつまでも記憶の中で、色あせることのない、夢のような家である。もしも地上で最も天に近い、聖なる場所があるとすれば、それはきっとあの家に違いない、と思った。

そこで、ずっと前に削除したアドレス帳に記した住所を何とか記憶を辿って思い出し、探してみると、その家は何と買い手がないまま売りに出されているではないか。

この聖なる場所が人手に渡らなかったのはきっと奇跡に違いない、などと筆者は思って、そこを訪ねてみることにした。

だが、現実は容赦なかった。その家は、誰も住まなくなって久しいため、大規模な修繕が必要で、とてもではないが、誰から見ても、経済的な買い物と言える状態ではない。修繕で済めば良いが、すべてを造り変えるしかない可能性が極めて高い。

夫人が筆者をもてなしてくれ、みなで聖書を輪読した素敵な居間も、今は朽ちかけ、床はひび割れ、壁も傷み、テラスへ続く扉は、開けようにもシャッターや扉が開かなくなっていた。

それでも、ごくわずかな思い出の片鱗でも残っていないかと期待しながら、筆者は歩き回ってみたが、その家には、もう当時の生活の名残は、ごくわずかに天上に吊るされた照明と、家の中に数か所残されたインテリアのかけらくらいしかなかった。

その代わり、筆者は、客として招かれた頃には、決して案内されることのなかった家の隅々までも見ることができた。

そうして驚くべきことが分かった。その家には、筆者が客として招かれたときには、決して存在を知ることのない隠された空間があったのである。夫人が生前に、センスの良い高価な家具をたくさん飾り、実に良い雰囲気を醸し出していた居間のある上層階とは別に、一種の廃墟と言っても良い状態の下層階が存在したのである。

その下層階は、まさに廃墟と呼ぶべき状態であり、しかも、多分、そこが廃墟になったのは、家が空き家になって後のことではなく、夫人がまだ生きていた当時から、開かずの間として放置されていたのではないかと思われた。つまり、同じ家の中に、美しく改装された二階と、放置されて朽ち果てて行く一階とがあり、この二つが、基礎構造を通じてつながっていたのである。

筆者は非常に驚き、複雑な思いになった。これはまるで人間の心の中のようだという気がした。生まれながらの人の心の中には、誰にでも、こうして人には見せられない隠された奥の間がある。そこに、様々な嫌な思い出や悪意が封印されていたりする。

筆者が客としてこの家を訪れた時、夫人は、信仰によって与えられた非の打ち所のない家のように、この家を紹介しれくれたが、その時、夫人が筆者に見せてくれたあの夢のような空間は、最も良いごく一部である上層階に過ぎず、この家には、下へ下へと降りるに連れて、それとは全く異なるもう一つの顔があったのである。

しかし、あれほどセンスの良い綺麗好きで自分の家をとても愛していた夫人が、そのような状態で、率先して下層階を放置していたとは、およそ考えられず、多分、そうならざるを得なかったのは、そこには夫人が立ち入れなかったか、管理の及ばない何かの特別な事情があったためだろう、と考えられた。

同じ一続きの家ではあったが、そこは夫人が設計したわけでなく、管理したわけでもない、別人の空間だったと思われる。

そういう事情を見ても、きっとこの家の中には、外の人には決してあけっぴろげに見せることのできない何かの秘密が隠されていたのだろう、という気がしてならなかった。

多分、その秘密こそが、夫人が生前、幾度も涙しては屋上で祈らなければならなかったり、静かに祈るための空間を求めて、郊外へ移動したりしていた理由につながっていたのではないだろうか、などと筆者は思いを巡らしてみた。
 
だが、筆者はそれ以上、その事情について、知りたいとは思わなかった。どの家族にも、それなりの秘密がある。たとえば、筆者の目から見て、夢のように素晴らしい家庭に見える家でも、その家に生まれた子供たちの目から見れば、かなりの問題があると感じられるかも知れない。

人目には愛のある素晴らしい夫婦のように見える二人がいても、もしかすると、毎日のように、どちらか一方が泣いているかも知れない。あるいは、親たちは幸福そうに見えても、子供たちは苦しみ、悩んでいるかも知れない。

遠目に見るからこそ、何もかもがきれいに見えるだけのことである。すべての地上の家は、そういうものだ。筆者が愛していた夫人の家だからと言って、すべてが例外などということは決してないのだ。

だから、その家が、最も天に近い、地上で一番、祝福された、聖なる場所のように筆者に見えていたのは、あくまでその当時の筆者の主観によるものであり、同時に、夫人の主観によるものであり、また、同時に、単なる人間の主観にはとどまらない、信仰によってつながった姉妹たちが、主の御名の中で、ともに分かち合った喜びや賛美によるのである。

確かに、その時、私たちの霊の内で、何とも言えない理想的な空間が広がっていた。だが、だからと言って、その思い出を、まるで完全で聖なるもののように、極度に美化するわけには行かない。

地上のものが、エクレシアの永遠の構成要素の一つであるかのようにみなすわけにはいかない。どんなに素敵な家も、ありふれた家の一つでしかなく、理想や、完成からは遠い、不完全なこの世の朽ち行く物質から作り出されたものに過ぎず、その家も、どこの家もそうであるように、老朽化やその他の様々な問題に悩まされ、いずれは消えて行く脆くはかないものの一つでしかない。

仮にその家が、何の秘密も持たない理想的な空間であったとしても、それでもやはり地上の朽ちて行くものが、天の朽ちないものを形成するわけではない。

結局、真理と霊によって神を礼拝する場所は、あの山や、エルサレムではない。エクレシアは、思い出の中に存在しているのでもなければ、他人の素敵な家の中にあるわけでもない。

筆者にとってのエクレシアとは、常に筆者の内に住んで下さるキリストによって、筆者と共に存在している。このことを決して忘れるわけにいかない。あの時、筆者と夫人と、また別のもう一人の夫人が、共に三人で集まり、祈ったことにより、我々の霊の交わりの中に、確かにエクレシアが存在していたのであり、他方、夫人の素敵な家は、その交わりによって照らされ、聖別されていた地上の空間に過ぎない。

不思議なことに、目の前で、思い出深い場所が、残酷に朽ちて行く光景を見せられたというのに、しかも、そこには、筆者の知らない秘密まであったと分かったにも関わらず、筆者の記憶の中では、依然として、その家も、夫人の面影も、輝いたままに残っている。

おそらく、それがエクレシアの永遠の交わりが、確かにその時に生きて存在していたことによるのだろう。そこがどんな家であったかなど、全く問題ではないのだ。

エクレシアは、主の御名の中で集まる二、三人の中にある。だから、過去を振り返ることなく、真実な心で今、生きている兄弟姉妹と手を取り合って、前に進んで行こう。
 
人間は生きている限り、絶えず変化し、前に進んでいく。人は常に新しいものを求める。人間の作った技術が年々、進歩しており、年々、物質が古くなり、朽ちて行くのと同様、かつては最善に見えたものも、時代の変化により、廃れて行く。だから、思い出を振り返り、名残惜しむことによって、何かが取り戻せるということは絶対にない。過去を振り返る時でさえ、今の基準に立って、すべてを厳しく評価しなければならない。そして、地上に存在しているものは、どんなものであろうと、満点をつけられるものはない、と言い切らねばならない。

なぜなら、私たちが求めているものは、この地上に属するものではないからだ。
 
ところで、筆者は、開かずの間のない家を理想と考えている。古いものと新しいものを一緒に残すことはできない。古い基礎構造の上に、新しい部分をかぶせて、一部だけを新しくして、すべてが新しくなったように見せようとは思わない。そういう混合は決してあってはならないものだ。

開かずの間とは人の心でもある。エレミヤ書にあるように、どんなに人の心が陰険で、罪と悪に満ち、直りようがないほど悪かったとしても、その部分は、神の光によって照らされなければならない。そうして、照らされて、新しく造り変えられる必要がある。

そのためには、その部分をまず神に対して解放して、明け渡さなければならない。廃墟であろうが、どんな状態であろうが、構わないから、そういうものが自分の心の中にあることをまず認め、扉を開けて、主をその中にお招きせねばならない。客人をお招きするにふさわしくない空間であることは百も承知だが、だからと言って、それをないもののように、鍵をかけて閉ざしてはいけない。にも関わらず、それをそのままにして、古い基礎を残したまま、その上に上層階を建れば、その弊害は必ずしばらく経って現れて来る。そのような仕方で建てた家は、長くは持たない。筆者には、そういう気がした。
 
大胆な外科手術によって、取り除くべきものがすべて取り除かれた上で、すべてが新しくされねばならないのである。基礎構造から、すべてが新しくなければならない。そういう意味において、夫人が見せてくれた家は、天の故郷である新エルサレムまで続く道の途上にある、非常に魅力的な通過点の一つであったとはいえ、それがゴールでは決してなく、そこから天の故郷までには、まだまだ遠く、はるかな距離が残っており、その通過点は、どんなにその時には満足できるもののように見えたとしても、そこで立ち止まるべきではない、甚だ不完全で中途半端な地点でしかなかったのである。

だから、私たちは生きてキリストの十字架の死と復活をさらに知るべく、主のよみがえりの命によって刷新されるべく、後ろのものを忘れ、前に向かって進んで行く。その途上で、また新たに喜びに満ちた出会いや、有益な参考材料となる学びが現れて来るだろう。

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見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。
 
溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。
 
だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。
 
だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)
 
最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)



ジョン・バニヤン著『天路暦程』より抜粋(2)

[あらすじ]
主人公の基督者は十字架のもとで罪赦されて重荷を降ろし、新しい服を着せられ、額に印を受け、封印された巻物を受け取った。その後、引き続き、天の都、シオンの山を目指して信仰の旅を続ける。道中、様々な困難に見舞われながらも、信仰者という道連れを得る。
しかし、空の市を通り過ぎる際に、二人は市場に騒乱を引き起こしたかどで無実にも関わらず、逮捕、投獄され、信仰者は火刑にされて殉教した。基督者だけが釈放され、旅を続ける。
物語は、著者ジョン・バニヤンが夢に見ているという設定。


「さて、私が夢で見ていると、基督者は一人で進んで行くわけではなかった。有望者という名の者が(市場での基督者と信仰者の言動と受難を見て希望を抱くようになって)彼といっしょになり、兄弟の契りを結んで、道連れになろうと語った。こうして一人は死んで真理への証を立てたが、また一人がその灰の中から甦って、基督者の巡礼の道連れとなったのである。この有望者は基督者に語って、市場の人々の中には折を見て彼の跡に従おうとする者がまだ沢山あると言った。

 こうして私が見ていると、彼らは市場から出るとじきに前に行く人に追いついた。その人の名は私心者であった。そこで二人は彼にどこの国のお方でしょうか、どこまでお出かけになりますかと聞いた。彼は二人に答えて、自分は巧言町から来たもので、天の都へ行こうとしていますと言った(が、自分の名は告げなかった)。

 巧言町からですって、と基督者は言った、そこにはだれか善い人が住んでいますか。
 私心者は言った、はい、いると思います。
 失礼ですがお名前は、と基督者が尋ねた。
 私心者 あなたも私も互いに他人です。もしこの道を行かれるならば、喜んでお供いたしましょうが、さもなければ、一人でもしかたありません。

 基督者は言った、この巧言町のことはわたしも聞いたことがあります。何でも私の記憶しているところでは、富裕な町だそうですが。
 私心者 そうです、確かにそのとおりです。私もそこには沢山金持ちの親戚があります。
 基督者 失礼ですが、お差支えなかったら、ご親戚というのはだれでしょうか。
 私心者 ほとんど町中の人です。とくに、移気候、日和見候、巧言候(このお方の先祖から初めあの町の名をとったのですが)、また円滑氏、二心氏、何でも御座れ氏、また私たちの教区の牧師である二枚舌氏は母の腹違いの兄弟です。
それで実を申せば、私は身分のよい紳士となっていますが、私の曾祖父はただの船頭で、一方を向きながらそれをと違った方向へ漕げる人でした。私の身代も大部分は同じ仕事でもうけたものです。

 基督者 あなたは家庭をお持ちですか。
 私心者 はい、私の家内は実に貞淑な婦人の娘です。佯装(みせかけ)夫人の娘なので、非常な名門の出です。非常に高い教養に達していますので、王侯でも小百姓でも、どんな人の前に出ても、振舞う道をわきまえています。なるほど厳格な向きの宗教とは幾分異なっていますが、それはほんの二つの小さな点だけです。
第一に、私達は決して世の風潮にさからわないことです。第二に、私たちは宗教が景気がよくて銀のスリッパをはいているときにはいつも一番熱心です。日が照って、人々が宗教をもてはやすなら、それといっしょになって街を歩くのが大好きです。

 そのとき基督者は少し側によって仲間の有望者に言った、これは巧言町の私心者という人のように覚えています。そうだとすれば、私たちはこの界隈に住むしたたかな悪党と道連れになったわけですよ。
すると有望者が行った、聞いてご覧なさい。自分の名を恥はしますまい。
そこで基督者は再び追いついて言った、あなたは事柄によっては、世間のすべての人々より物知りなようなお話し振りですね。見当違いでなければ、ほぼ察しがついたように思われます。お名前は巧言町の私心氏ではありませんか。

 私心者 これは私の名ではありません。実は、だれか私に我慢のできない人がつけたあだ名です。それで私は仕方なしにそれを非難として我慢しているのです。ちょうど私より以前にも他の善人たちが我慢したようにね。
 基督者 ですが、人からそんな名前で呼ばれるような事をした覚えはないのですか。
 私心者 いやもう決して。私がこういう名で呼ばれる覚えのあることといったら、せいぜいこんなところですよ、つまり当時の時代風潮がどんなものであろうと、私の意見はいつも運よくそれと符号したことで、たまたまそれで得をしたというわけです。しかしいろいろな物がこんなふうに舞い込んでくるなら、それはありがたい授かり物と考えたいですね。そのために意地悪連中から非難を浴びせかけられるのはご免ですよ。

 基督者 実際あなたはうわさに聞いていた方だと思いました。私の思うとおりを申し上げると、この名はあなたが望まれる以上にぴったりではないでしょうかね。
 私心者 なるほど、そのように想像なさるというなら、しかたはありませんよ。もしまだお付き合いを許して下さるなら、私も相当な仲間だということが分かりましょうがね。
 基督者 私たちといっしょに行くと、世の風潮に逆らって行かねばなりませんよ。ですが、それはご意見に添いそうもないですね。宗教が落ちぶれてぼろを着ているときにも、栄えて銀のスリッパをはいているときと同様、それを認め、また鉄の足かせに縛られている時にも、歓呼の声を浴びて街を歩く時と同様、それを支持しなくてはいけませんよ。

 私心者 信仰はこれを押しつけたり、抑えつけたりしてはいけませんな。私の勝手にさせていっしょに行かせて下さい。
 基督者 私が提議することを、私たちと同じようにやろうとしないなら、これから先一歩も行けませんよ。
 そのとき私心者は言った、私は昔からの主義を決して捨てませんよ、それは無害で有益なのですから。ごいっしょに行けないのなら、あなた方に追いつかれない前にしたようにする、つまり独りで行くよりほかはありませんな。そのうちだれか私と道連れになるのを喜ぶ人が追いつくでしょう。

 さて、私が夢で見ていると、基督者と有望者とは彼を見捨て、大分離れて先に立って行った。ところがそのうち一人が振り返って見ると、三人の人が私心者に従って行くのが見えた。すると見よ、三人が彼に追いついたとき、彼がきわめて丁寧な会釈をすると、彼らもまた挨拶をした。人々の名は現世執着氏、愛銭氏、吝嗇氏で、私心氏が以前知り合いであった人々である。

彼らは少年時代には学校友だちで、北国の欲張州の愛利町という市場のある町で校長をしている掴取(つかみどり)氏によって教えられたのであった。この校長は、暴力、詐欺、追従、虚言によるか、それとも宗教の仮面を被ることによって、もうける術を彼らに教えた。この四人は先生の術を大いに会得して、このような学校をめいめい自分で経営することができた。

 ところで先にも言ったように、彼らが互いに挨拶した後、愛銭氏は私心氏に、前の方に行く人たちはだれですかと言った。基督者と有望者とはまだ視界のうちにいたのである。

 私心者 あの二人は遠国の者で、自分の流儀で巡礼をしているのです。
 愛銭者 それは惜しい。どうして待たなかったのでしょう。私たちは彼らのよい道連れになれたでしょうになあ。彼らも、私たちも、それからあなたもそうでしょうが、皆巡礼をしているのですからね。
 私心者 そのとおりです。しかし前に行く連中ときたら、それは頑固で、自分の考えにばかり固執して、他人の意見なんか非常に軽んじるのです。どんなに信心深い人でも、万事につけて彼らと一致しなければ、まったく仲間はずれにしてしまうのです。

 吝嗇氏 それはいけないな。『義に過ぎた』者のことを読んだことがあるが、こんな連中は頑固になるために自分以外のすべての者をさばいて、罪に定めるのさ。ところでお伺いしたいが、意見が合わなかったのはどんな事で、どのくらいでしたかな。
 私心者 いや、あの連中ときたら、その頑固な流儀で、天候はどうあろうと、むやみに旅を急ぐのが義務だときめ込んでいるのですが、私は風向きと潮流を待とうというのです。彼らは神のためにすべてを一挙に賭けるという方で、私はあらゆる機会を利用して生命・財産を守ろうという方です。彼らはたとえ他人がことごとく反対しても自分の意見を固執する方ですが、私が宗教にくみするのは、時代とわが身の安全がそれに耐える場合、またその限りにおいてです。
彼らは宗教がぼろを着て軽蔑されているときでもそれを支持しますが、私が味方するのは、宗教が金のスリッパをはき、日の照る中を歓呼を浴びて行くときだけです。

 現世執着氏 そうだ。いつもそこを固執し給え、私心者君。ぼくなど、彼はばかだとしか思われないね、自分の持物を保つ自由を持っていながら、愚かにもそれをなくそうというんだから。
われわれは蛇のように賢くなろう。日が照っているとき乾草をつくるのが一番いいのだ。蜜蜂は冬中はじっとしていて、愉快に利益が得られるときだけ活動するからね。神は時に雨を降らし、時に日光を送られる。たとえ彼らが愚かにも雨の中を行こうと、われわれは甘んじて天候のよい日を選んで行こう。

ぼくとしては、われわれに対する神のよい祝福の保証と一致するような宗教が一番好きだね。理性に従う者なら、神がこの世のよいものを賜ったのに、それを保持するのを神が好まれないなどとだれが思うだろう。アブラハムもソロモンも宗教で金持ちになり、ヨブも、善人は塵のように黄金を積むと言った。
しかし善人とは、前方に行くような人ではない、君の言うような人たちだとすればね。

 吝嗇氏 この事では皆意見が一致して(る)から、これ以上語ることはないと思うね。
 愛銭者 そうだ、実際これ以上語る必要はない。聖書も理性も信じない者は(この二つはわれわれの味方なんだからね)自分の自由を知らず、自分の安全を求めもしないものさ。

 私心者 諸君、ご承知のようにわれわれは皆巡礼の道中だから、悪い事柄からもっとよく気を紛らすために、次のような問題を提起するのを許していただきたい。
 たとえば、一人の人が、牧師でも商人でも他の者でも、この世のよい祝福を得る機会を目前に持っているとする。ところがそれは彼がこれまで関係しなかった宗教上のある点で、少なくとも上べだけでも、特別に熱心にならなければ決して手に入れることができないようなものだとする。この人はその目的を達するためにこれらの手段を用いてもなおまっ正直な人と言われないだろうか。

 愛銭者 問題の本意が分かった。諸君の許しを得て、答えを作るよう骨折ってみよう。まず第一に、牧師自身に関する質問に対して答えるなら、かりに牧師がりっぱな人でありながらほんの少ししか俸給を受けていないとする。そして遥かにゆたかな俸給を望んでいて、今やそれを手に入れる機会はあるが、もっと勉強し、もっと数多く熱心に説教し、また人々の気質が要求する以上は、多少自分の主義を変えなければ手に入らないとする。
私に言わせると、(彼が召命を受けているなら)そうやったって少しも構わない、いや、そのほかもっと沢山やっても、やはり正直者だ。というのは、

 一、一層大きな俸給が神慮によって目前におかれた以上、それを望むのは正当だよ(これに反対はできない)。だから、できればそれを手に入れてもいいわけだ、良心のために疑問など起こさないでね。
 二、のみならず、そういう俸給を欲する心から彼は一層勉強し、一層熱心な説教家になり、こうして一層よい人間になる、いや、彼の才能は進歩する。それは神のみ心にかなうことだ。
 三、さて信者たちに役立つよう、自分の主義を多少曲げて、その気質に従うことについて言えば、これは次のことを証明する。
(一)彼に克己心があること。(二)優しくて人を引きつける態度があること。したがって、(三)聖職に一層適していること。

 四、そこで結論を言うと、少ない俸給を大きなのと取り換える牧師は、そうしたからといって欲張りだと判断してはならない。いやむしろ、それによって才能と勤勉とを増進した以上、彼は自分の召命を励み、授けられた善をなす機会を追求する者として考えるべきである。<略>

 このように愛銭氏が私心氏の問題に与えたこの答えは、皆からやんやとほめそやされた。そこでこの答えは大体極めて穏健で好都合なものと断定された。彼らの考えでは、だれもそれに反対はできないし、基督者と有望者はまだ呼べば聞こえる所にいたので、二人に追いついたらすぐこの問題で攻めたてようということに一同の意見が一致した。ことに二人が私心氏に反対したことがあるのでなおさらのことであった。そこで彼らは後から呼びかけた。
二人は立ちどまって、彼らが追いつくまでじっとしていた。ところで彼らが道々取り決めたことは、私心氏ではなく年寄の現世執着氏が問題を出すというのであった。彼に対する返事なら、少し前別れる際に私心氏と二人との間に交わされた論戦の余熱もなかろうと思ったからである。
 こうして彼らは互いに近寄って、短い挨拶を交わした後に、現世執着氏が基督者とその仲間に問題を出し、できれば返事して欲しいと言った。

 そこで基督者は言った、宗教については赤ん坊のように幼稚な者でも、こんな問題なら一万でも答えることができましょう。もしパンのためにキリストに従うことがよくないとすれば(実際そのとおりですが ヨハネ第六章)この世をもうけて享楽するためにキリストと宗教をだしに使うことは、なおさら言語道断のことではありませんか。このような意見を持つ者は異教徒や偽善者や悪魔や魔女のほかには見当たらないのです。

 一、異教徒と言ったのは、ハモルとシケムがヤコブの娘と家畜とに気があって、割礼を受けるよりほかには、それに至る道はないと見たとき、彼らはその仲間に言ったものです、もしわれわれのうち男子が皆彼らのように割礼を受けるならば、彼らの家畜も財産もすべての獣もわれわれの物となるのではないかと。その娘と家畜とは彼らが手に入れようと欲したものであり、宗教はそれに近づくために利用した『隠れ馬』でした。その話をすっかりお読みなさい(創三四・二〇―二三)。

 二、偽善的なパリサイ人もこの宗教を持っていました。長い祈祷は彼らの見せかけで、やもめの家に入り込むことがその目的でした。神から来る『もっときびしいさばき』こそ彼らの受ける罰です(ルカ二〇・四六、四七)。

 三、悪魔ユダもこの宗教をもっていました。彼は財布のために信心深かったのですが、それはその中にある物を手に入れるためでした。しかし彼は滅び、見捨てられました。まさに滅びの子です。

 四、魔法使いのシモンもこの宗教を持っていました。彼は聖霊を得ようとしたが、それで金もうけをするためでした。ペテロの口から下された宣告は適切でした(使八・一九―二二)。

 五、私の念頭を去らないことは、この世のために宗教を取り上げるような者は、この世のために宗教を捨てるということです。確かにユダは信心深くなったとき、この世を捨てました。が、それと同じく確かに彼はこの世のために宗教と主とを売ったのでした。それ故その問題に肯定の答えを与えることは、(察するところ君たちはそうしたようですが)、また、そのような答えを拠り所あるものとして承認することは、異教的で、偽善的で、また悪魔的です。そして君たちの報いはその行いしだいです。

 そのとき彼らはお互いに顔を見合わせて立っていたが、基督者に答えるすべを持たなかった。有望者も基督者の答えの正しいことを認めた。こうして皆すっかり黙り込んでしまった。私心氏とその道連れはわざとぐずぐずして遅れた。基督者と有望者が先になるためである。そのとき基督者は仲間に言った、この連中が人間の宣告の前に立つことができないなら、神の宣告に対してはどうするつもりでしょう。また『土の器』である人間にあしらわれて黙るくらいなら、焼き尽くす火の焔によって叱責されるときはどうするつもりでしょう。」

ジョン・バニヤン著、『天路暦程』正編、池谷敏雄訳、新教出版社、1993年、p183-194。太字は筆者。

* * *

 これが何を示しているか、説明せずとも皆様は大体、お分かりのことでしょう。どこかで聞いたような話だとは思いませんか。信者が神の祝福を受けて、富める者になることは悪いことではない、それどころか、神はクリスチャンが豊かになることを望んでおられる、立派な牧師が貧しい謝儀に甘んじているなどとんでもない、牧師たるもの、自らの威厳にふさわしい、荘厳な生活を送らねばならない…。
 そんな風にして、主のための貧しさや、苦難や迫害にも勇敢に耐えるようにと信者を励ますのでなく、むしろ、地上的な繁栄を旗印にして、信者を増やそうとしている宗教団体がどこかにありませんか。時代の潮流に乗って、明るい日差しの中を、立派な衣装を着て、金の靴を履き、人々の歓呼の声を浴びて堂々と歩むことだけを奨励している宗教がありませんか。宗教の繁栄のために、聖書を曲げた偽福音を平然と宣べ伝えている教職者たちがいないでしょうか…?

ペンテコステ・カリスマ運動の主要な柱

1)信徒が回心後に、聖霊のバプテスマを受けて、霊的な力や賜物を得る必要性を強調
2)カリスマ的指導者を頂点に頂くミニストリーのスタイル
3)神は貧困を喜ばず、豊かになることは罪ではないとする繁栄の神学
4)人々の心身や、地域、国から悪霊を追い出さなくてはならないという霊の解放と戦いの神学
5)キリスト教シオニズム
6)大宣教命令に基づき、ペンテコステ運動を全世界に普及させるべく打ち出される教会成長プログラム

 クリスチャンが聖霊を受け、聖霊に満たされる必要性を私は否定するつもりはありません。ただし、何のために聖霊を受けるのか、その動機が問題となるでしょう。魔術師シモンは金もうけをもくろみ、聖霊を按手によって信者に授ける能力を金で買おうとして、ペテロの厳しい叱責を受けました。
 このように、聖霊を受けようとする信者の側だけでなく、聖霊を受けるように勧める教職者たちの動機もまた問題となり得るのです。今日、宗教団体の繁栄のために、信徒に聖霊を受けるように勧めている教職者たちがいないでしょうか。宗教団体の繁栄のために、信徒の持つ聖霊の賜物を利用しようとしている教職者たちがいないでしょうか。大宣教命令を隠れ蓑に、宗教団体の地上的繁栄を果てしなく求めて、組織拡大活動にいそしんでいる人たちがいないでしょうか。

 聖書は、時が良くても、悪くても、信徒が主のご用のためにいつも己をむなしくして御言葉に従順に働くよう教えています。主の栄光のために、貧しさや迫害を耐えねばならない時には、それに甘んじる覚悟を決めることも必要となります。それは主の栄光のために信徒が自主的に固める決意であって、決して、宗教団体の繁栄のために強制されたり促されることであってはなりません。ところが、自分の安楽と、金もうけのためだけに宗教を利用し、宗教を隠れ蓑にして現世利益を求めるようになった宗教指導者や信者たちは、偽善者となり、二枚舌を平気で使うようになり、そのうち、はっきりと福音を曲げる異端の教えを語るようになります。そして、他の信者たちを神に自主的に仕えるしもべではなく、人間に仕える奴隷としてしまうのです。

 しかしながら、このように、金銭的むさぼりを達成するための隠れ蓑として宗教を利用するようになった指導者や信者たちは、やがてどういうわけか、目指している繁栄とは正反対に、破滅と貧困に陥っていくのです。ハモルとシケム、ユダは成功と繁栄を手にすることなく、破滅に落ち込み、死にました。魔術師シモンも悔い改めることがなければ、やはり破滅していたでしょう。考えてもみて下さい、今日、繁栄と解放を謳っているある運動が、どんな思いもつかない悲惨な実を信者にもたらしているでしょうか。貧困と虐待と死の噂があちこちで聞かれる運動がないでしょうか。そういった悲惨な実は、一体、なぜ、もたらされているのでしょうか。

 人々が現世利益を求めるために宗教を利用するようになると、そこには数え切れない悲しい結果が生れるようになるのです。まことの豊かさに至りたいならば、その道は、たった一つしかありません。肉にまくことをやめて、つまり、自分の身体を喜ばせる現世利益を求めることをやめて、キリストの十字架を通して己の肉の欲に死に、霊にまくこと、すなわち、神の栄光のために自分を低くして、御言葉なるイエスに仕えて生きること、それだけが、まことの命の豊かさに至る唯一の道なのです。


ジョン・バニヤン著『天路暦程』より抜粋

[冒頭のあらすじ] 

 「滅びの町」に住んでいた基督者はある日、聖書を読んで自分の罪深さを思い知って、心に大きな重荷を感じるようになった。しかも、町全体に、滅亡が近づいていることを悟る。滅びの町を一刻早く出なければならないと考え、そのことを妻子に話すが、家族はまるきり信用してくれない。それどころか、基督者は家族からは気がふれたと誤解されて、哀れまれたり、見下されたり、説得されたり、引き止められたりしながら、ついに、家族の制止を振り切って、町を脱出するに至った。

 野原で基督者は伝道者に出会った。そこで、伝道者に、背中に背負っている重荷から逃れるために、また、来るべき裁きから逃れるために、自分はどうすればよいのかと尋ねた。伝道者は、輝く光から目を離さず、向こうにあるくぐり門のところまで行って、門を叩きなさい、そうすれば、その後どうすべきか教えてもらえるでしょうと答えた。そこで基督者は伝道者の言うとおり、歩き始めた…。

「さて、基督者がひとりさびしく歩いていたとき、遠方から一人の人が野原を横切って彼に会いにやって来るのを見た。そしてはからずも二人はちょうどお互いの道を横ぎろうとする時出会った。
この紳士の名は世才氏で、俗才町に住んでいた。これは非常に大きな町で、基督者が出て来た町のすぐ近くにあった。この男はその時基督者と出会うと、彼のことをうすうす知っていたので――基督者が滅びの都から出かけたことは大分世間に聞こえていて、その住んでいた町のみならず、ほかの所でもとりざたされていた――世才氏は彼の苦しそうな歩きぶりを見たり、ため息やうめき声などを聞いてほぼ見当をつけ、基督者と少し話を始めた。

世才氏 やあ、君、そんなに重荷を負ってどちらへお出かけですか。
基督者 まったく、憐れな人間が背負ったこともないような重荷を負ってね。どちらへとのお尋ねで申しますが、私は向こうのくぐり門へ行くところです。そこで重荷をすてる道に案内されると聞きましたので。
世才氏 君には奥さんやお子さんがおありかね。
基督者 はい、ですがこの重荷を負っておりますので、以前ほど楽しくありません。妻子など何もないように思われるのです。
世才氏 私が勧めを与えるとしたら、君は聞くだろうかな。
基督者 よい勧めでしたら聞きましょう、私にはそれが必要ですから。

世才氏 では君に勧めよう、大急ぎでその重荷を捨ててしまいなさい。それまでは決して落ちつかないだろうし、またそれまでは神が君に与えられた祝福の利益を受けられないだろうからね。
基督者 この重荷を捨てるということは、それこそ私の求めていることです。しかし自分では捨てることができないのです。私たちの国にはそれを私の肩から払いのけることのできる人は一人もありません。それで今も申したとおり、重荷をすててしまうためにこの道を行くところなのです。

世才氏 君に重荷をすてるようにこの道を行けと言ったのはだれかね。
基督者 非常にえらい、尊敬すべき人と見えた方で、お名前はたしか伝道者でした。
世才氏 いまいましい奴だ、そんな勧めをするなんて。あいつが君に教えた道ほど危険で難儀な道はこの世にない。もし彼の勧めに従うならそれが分かるだろう。すでに、わしも気がついたことだが、君は何かに出会ったな、落胆の沼のどろがついているところを見ると。
だが、あの泥沼はその道を行く者に伴う悲しみの最初のものだよ。わしの言うことをお聞き。わしの方が年上だ。君の行く道では恐らく疲労と苦痛と、飢えと、危険と、裸と、剣と、ししと、火龍と、暗黒と、まあ一言で言えば、死と、そういった類のものに会うだろう。これらの事は多くの証しによって確認されたものだから、確かに本当なのだ。なぜ人は見も知らぬ者の言うことを聞いて、こんなに軽率に身をすてるのだろう。

基督者 でも、背中のこの重荷はあなたがあげられたすべてのものにまさって恐ろしいのです。いや、この重荷から解放されさえしたら、途中で何に出会おうがかまわないと思えるほどです。
世才氏 初めにどうしてその重荷をしょいこんだのかね。
基督者 手に持ったこの本を読んだためで。
世才氏 そんなことだろうと思った。柄にもない高尚な事に手を出して突然乱心に陥る頭の弱い連中同様、君にもそれが起こったのだ。この乱心は、見たところお前さんのがそうだが、人をめめしくするばかりか、何かわけの分からぬものを手に入れようとする死にもの狂いの冒険に乗り出させるのだ。

基督者 私には自分が手に入れたいと思うものが何だか分かっています。それは私の重荷がとれて楽になることです。
世才氏 だが、どうして君はそれほど多くの危険が伴うと分かっていながら、この道で楽になるのを求めようとするのかね。ことに、もし辛抱してわしの言うことを聞きさえすれば、この道で君が冒そうとする危険なしに欲しいものが手に入るよう教えてあげられるんだが。実際その方法は手近にあるのだ。おまけに、つけ加えて言うが、そういう危険の代わりに、多くの安全と友情と満足とに出会うであろう。

基督者 どうかこの秘訣を私に打ち明けてください。
世才氏 それはな、向こうの村に(その名は道徳村というが)遵法者(じゅんぽうしゃ)という名の紳士が住んでいる。非常に思慮深い、評判もよい人で、君のような重荷を方からおろすのを助ける手腕がある。実際、私の知るところでは、この方面で大いに尽くすところがあった。いやそればかりか、重荷のため頭がややおかしくなった人を直す手腕もある。今も言ったように、その人のところへ行ってすぐ助けてもらうがよい。
家はここから一マイル足らず。もし本人が留守だったら、息子に丁重氏という名のいきな青年がいて、(ついでの話だが)その老紳士と同じくらいうまくやれる。そこで君の重荷をとって楽にしてもらうがよい。そしてもとの住居にもどる気がなければ(まあ実際わしも君にそうしてもらいたくはないが)この村に来るよう奥さんとお子さんたちを呼びよせるがよい。そこには今空家があるが、その一つは安い家賃で借りられる。食べ物も安くて品がよい。君の生活を一そう仕合せにすることは、そこでは確かに正直な隣人たちのそばで、信用され、りっぱな生活も送れるということだ。

 さて、基督者は少し困ったが、やがて次のように判断した。もしこの紳士の言った事が本当だとすれば、最も賢明な方針は彼の勧めを受けることであると。それとともに彼はさらに話した。
基督者 このりっぱなお方の家へ行く道はどれでしょうか。
世才氏 向こうの高い丘が見えるかね。
基督者 はい、とてもよく。
世才氏 その丘を通って行かねばならない。最初に行きついた家が彼の家だ。

 そこで基督者は遵法者の家に行って助けを求めるため、回り道をした。ところが見よ、いよいよ彼が丘のすぐ近くに来てみると、丘は非常に高く思われ、また路傍のすぐ近くの側は道にのしかかっていたので、基督者は丘が頭上に落ちて来はしないかと恐れて、それ以上冒険しなかった。

それで彼はそこに立ち止まって、どうしてよいか分からなかった。今や重荷は道を歩いていた時よりも一層重く思われた。また丘から火が閃き出して、焼かれはせぬかと基督者は恐れた。それ故ここで汗をかき、恐れのためにふるえた。今や彼は世才氏の勧めを受け入れたことを後悔し始めた。
それと共に伝道者が彼に会おうとやって来るのが見えた。その姿を見ると彼はまた恥ずかしさで赤面し始めた。かくて伝道者は次第に近づいた。そして彼の所へやって来ると、きびしく恐ろしい顔つきで彼を眺め、次のように基督者に説きつけ始めた。
伝道者 お前さんはここで何をしているのかな。

 その言葉を聞いて基督者は何と答えてよいのか分からなかった。それで今や彼は言葉もなく彼の前に立った。すると伝道者はさらに言うのであった。君は滅びの都の城壁の外で泣いているのをわしが見つけた者ではないか。
基督者 はい、私がその男でございます。
伝道者 小さなくぐり門へ行く道を君に教えたではないか。
基督者 はい、さようでございます。
伝道者 ではどうしてそんなに早く道からそれてしまったのかな。君は今道をはずれているのだ。<略>それではしばらくじっと立っていなさい。神のみ言を君に示そうから。

 そこで彼はふるえながら立っていた。すると伝道者は言った、あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上でみ旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるではないか。彼はさらに言った、わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない。彼はまたこのように彼の言葉を当てはめて言った、君はこのような不幸に走り込もうとしている者だ。君はいと高き者のみ旨を拒み、足を平和の道より返り、ほとんど破滅の危険を冒そうとしているのだ。

 この時、基督者は死んだようになって、その足もとに倒れて叫んだ、ああ悲しい、私はもうだめだ。これを見て伝道者は彼の右手をつかんで言った、すべての罪も神を汚す言葉もゆるされる。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。そこで基督者はまたいくらか元気づいて、最初のようにふるえながら伝道者の前に立った。

 伝道者はそれから続けて言った、わしが話すことにもっと熱心に注意を払いなさい。今から、君をだましたのはだれであるか、まただれの所へ君をさし向けたか、教えてあげよう。君に会った男は世才者という者で、そう呼ばれるのもむりはない。一つには、この世の教理だけに賛成しているからで(だから彼はいつも道徳町の教会へ行くのだ)、また一つには、その教理が十字架なしですませるところからそれを最も愛するからだ。かような世俗的性質を持っているために、わたしの道が正しいのにそれを曲げようとする。さてこの男の勧めには、君がまったく厭うべき事が三つある。<略>

第一に、彼が君を道からそれさせたこと、また君自身がそれに同意したことを厭わねばならない。これは世才者の勧めのために、神のみ旨を斥けることだからである。主は言われる、『力を尽くして狭い門からはいれ』。それは私が君をさし向けた門なのだ。それは『命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない』からである。この小さなくぐり門と、それにいたる道とから、この悪者は君をそらせて、ほとんど破滅にいたらせようとしたのだ。だから彼が君を道からそらせたことを憎み、彼の言うことをきいたことで君自身を厭わねばならない。

第二に、彼が君にとって十字架をいやなものとするように骨折ったことを厭わねばならない。というのは、エジプトの宝よりも十字架の方を選ぶべきであるから。のみならず、栄光の主は君に語られた、『自分の命を救おうと思う者はそれを失う』と。また『自分に従う者でその父母、妻子、兄弟、姉妹、いや、自分の命までも憎むのでなければ、私の弟子になることはできない』と。それ故わしは言おう、永遠の命を失わせるなどと君に説きつける人があるならば、君はその教説を厭わねばならない。

第三に、彼が君を死の支配にいたる道に踏み込ませたことを憎まねばならぬ。そしてこのためには、だれの所に君をさし向けたか、またその人は君を荷物から解放することなどとてもできないということを考えなくてはならない。

君が楽になるためにとさし向けられた男は、名を遵法者と言って、今女奴隷である者の息子なのだ。この女は子供たちと共に今は奴隷の身分で、奥義によれば、このシナイ山のこと、頭の上に落ちはせぬかと君が恐れたものなのだ。
さて、もし彼女が子供たちと共に奴隷であるとしたら、どうして君は彼らによって自由になれると期待できようか。だから、この遵法者は君を荷物から自由にすることはできない。彼の手で荷物を捨てた者は、今までだれもない。いや、これからもあるまい。
君たちは律法の行いによっては義とせられることはできない。というのは、律法の行為によってはどれも荷物を捨ててしまうことはできないからだ。だから世才氏は門外漢で、遵法者は詐欺師なのだ。また息子の慇懃者はそのお愛想面にもかかわらず、一介の偽善者で、君を助けることはできない。本当に君がこの愚か者から聞いたこのたわごとには、わしが君に教えた道からそらして、君の救いをだまし取ろうとする魂胆のほか何もないのだ。

こう言った後、伝道者は自分の言ったことを確認するため、天に向かって呼ばわった。するとそれに応じて、憐れな基督者がそのふもとに立っていた山から、言葉と火とが出てきたので、身の毛がよだった。

その言葉は次のようにのべられた、『律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる』と書いてあるからである」。

ジョン・バニヤン『天路暦程』、正編、池谷敏雄訳、新教出版社、1993年、p.53-63。
 

* * *

 この抜粋が何を意味しているのか、説明せずとも、すでにお分かりの方も多いことでしょう。私自身を含め、これまで記事を読んで下さった方には、かなり身につまされるテーマだろうと思います…。
 この本の前書きによると、ジョン・バニヤン自身が、随分と、精神的に不安定な傾向を持つ人物であったことが分かります。その不安定な傾向が、主人公である基督者にも、そして旅の描写においても、そのまま表れている部分がかなり多くあると言えるでしょう。罪の恐ろしさを描くのはよいが、それにしても、主人公の悩み苦しみや、ショッキングで怖い場面の強調が多すぎはしないか、という受け止め方があるかも知れません。
 しかしながら、主人公は罪ゆえに生じる心の病を患っていたのであり、その重荷と訣別するためにこそ、旅に出たという設定です。この旅は、信仰を持つ者が、信仰を維持していく上で、どんな困難に立ち向かわなければならないかを比喩的に表した物語です。

 引用文の解説は教会成長論のしめくくりと合わせて、後ほどの記事の中で、しっかり行いますので、ここではとりあえず引用だけに終わらせていただきます。
 本編、続編ともにあります。世界史の授業でこの本の題名を知った人もいるかも知れません。キリスト教の世界ではダンテの『神曲』と同じくらいに有名な本だそうですから、全編通して、お読みになりたい方はどうぞご自身でお買い求め下さい。原文は美しい英文で書かれているそうなので、英文に通じた方は原語で読まれるのがよいかと思います。