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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

完全な恵みの中で

 一週間ほど前に、近所の田んぼには水が引かれ、小さな苗が植えられた。今、我が家の前に広がっている田んぼは湖面のようで、風が吹くごとにさざなみが立って美しい。

 今日は井倉洞に行く予定を立てていた。子供の頃、祖父に連れられて行った記憶がおぼろげにある鍾乳洞だ。近々、友人がひょっとすると家に遊びに来てくれるかも知れないので、下見をしておこうと思ったのだが、ホームページを見ると、豪雨のため落石が起こり、入洞禁止とのこと。残念…。

 さて、今日は地元で撮影され、私が興味を持っている映画を一本紹介したい。私はまだ観ていないが、全国ではすでに上映が始まっている地域があるそうなので、関心がある方はぜひご覧下さい。

 映画「精神」は、「こらーる岡山」という、岡山市にある外来の精神科診療所で、実際の患者を対象として撮影された。
「映画が撮られ始めたのは小泉政権のもと、『障害者自立支援法案』が可決された2005年秋。
『自己責任』や『受益者負担』のかけ声のもと、福祉政策や社会構造が激動期に突入し、患者たちの生活や将来の展望に不安が増していた。『精神』は、社会の転換期を如実に切り取る作品にもなったのだ。

監督は、ニューヨーク在住の映画作家・想田和弘。前作『選挙』に続き、ナレーション・説明・音楽一切なしで、観客が自由に考え、解釈できる作品を完成。『被写体にモザイクをかけると、偏見やタブーをかえって助長する』と考えた監督は、素顔で映画に出てくれる患者のみにカメラを向け、人間として鮮烈に描き出すことに成功した。
本作は、08年の釜山国際映画祭とドバイ国際映画祭で最優秀 ドキュメンタリー賞を、マイアミ国際映画祭で審査員特別賞を、そして香港国際映画祭で優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、 既に4冠 を達成。ベルリン国際映画祭(09年)にも『選挙』に続き正式出品され、世界中で絶賛されている。」

 小泉政権以来、日本社会には、合理化の強い圧力が上からかけられている。終身雇用制を含む、伝統的な制度と価値観が崩壊し、それに代わって、至るところで、厳しい競争原理が導入され、日雇い派遣、派遣切りなどの問題が続出している。だが、そのような非人間的なまでの合理化の圧力に対して、元来、不合理な部分を含む人間性は、必ず反乱を起こすものだ。それは不適応や、病や、脆さ、弱さとなって現れる。今や年間の自殺者が三万人にも達している日本社会で、鬱病など心の病は誰にとっても、他人事ではなくなっており、人間の変えられない弱さ、非合理性を体現している一つの集団が、精神障害者たちであると言えよう。

 映画「精神」は、精神障害者に直接、スポットライトを当てることによって、極端な合理化の波に見舞われた現代日本社会の中で、圧迫され、行き場を失い、叫び声をあげている人間性そのものを象徴的に描き出していると言えるだろう。上映されれば必ず観に行こうと私は考えている。
 

* * *

 さて、今、日本社会だけでなく、ニッポンキリスト教界も、刻一刻と殺伐とした場所に変わりつつあるように感じられる。営利を優先した過酷な競争社会となり果てたキリスト教界は、カルト被害者を含む、数え切れない脱落者の信者を今も生んでいる。だが、人間を大切にしない、利益優先の競争原理は改められているようには見えない。

 その上、カルト対策、異端の排除等の美名に名を借りた、別種の圧力がキリスト教界に介入している。こうして、信者同士が互いに断罪し合い、互いに罪をなすりつけあい、互いの正当性を誇って、互いを滅ぼし合う殺伐とした場所がキリスト教界となりつつある。
 キリスト教界全体が、まさに血塗られた戦場のような場所へと変わりつつあるように私には感じられてならない。いくつもの対立する集団が、互いに異端のレッテルを貼り合って、互いに根絶し合うような時が間もなく来るかも知れない。すでにその兆しのように、浅はかな勧善懲悪の構図に基づいた異端バッシングと、一触即発のような緊張した空気が、各種キリスト教系のメディアに漂っているように感じられる。

 異端という言葉が独り歩きすることを私たちは十分に警戒しなければならない。異端を異端であると告発するためには、分厚い調査報告書のような、十分な論拠が必要となるだろう。異端に関する判断は決して、軽率に行われてはならず、極めて慎重に行われなければならない(だからこそ、それは本来、専門家が行うべき仕事であると私は考えるのだ)。
 だが、今日、異端を告発しているメディアのうちどれほどが、信頼するに足る十分な根拠を提出した上で、異端の教えを糾弾しているだろうか。たった2行や3行程度の短い文章で、満足な証拠の提出もないままに、長年、存続してきたどこかの教会に、あるいは誰か特定の信者に対して、異端のレッテルを貼りつけられると考えている人がもしあるとすれば、それはあまりにも軽率な考えであるだけでなく、はかりしれないほど危険な行為であると言えよう。

 私はこれまで、キリスト教界の未来が大変、危険なものになるだろうという予測を様々な形で述べて来たが、そこには教界のカルト化の危険性だけではなく、カルト対策に名を借りた異端への抑圧行為が暴走することの危険性も含まれている。すでにキリスト教メディアにおいて、カルトや異端について警告するという名目でのバッシングが暴走するきざしが見えていることを私は感じているが、この先、教界内に何らかの公式の抑圧機関、異端審問機関が生まれる可能性も、まだ完全に消えたわけではないと思っている。恐らく、このような計画は、一旦、提出された以上、たとえ考案者とは別人の手によってであっても、何度でも再燃し、いつかは実現するものだと感じざるを得ない。

 歴史を振り返っても分かることだが、社会を一元的な価値観の下に統制しようとする様々な計画は、熱狂的に統一的な秩序を夢見る者たちの粘り強い努力によって、長い時を越えて、実現されて来た。だから、キリスト教界において、やがていつか一元的な秩序と、公式の異端抑圧機関が生まれることは、不可避の結果であるように私には思われてならない。だが、そのようなものによって人間を解放することは決してできない相談であるから、もしもそのような統一的な秩序が教界内に出来上がれば、それは反人間的な制度となり、教界に属しているあらゆる信者にとっての抑圧となるだけでなく、教界に属していない、私のような、はみ出し者の信者にとっても、大きな脅威となって迫り来るだろう。

 神は人間一人ひとりに自由意志を与えられた。人間の自由は侵しがたいものであり、人間の尊厳の根底に横たわる、どんな暴力によっても取り除かれてはならないものである。人には、多様な価値観の中から自分が好むものを取って生きる自由が与えられており、たとえある信者が異端の教義を選んだとしても、神がその人から力づくで選択の自由を奪われることはない。それは神が人を創造した初めの時点から、人に内心の自由を与えておられるからである。

 従って、キリスト者がキリストに服するのは、あくまで本人の自主性によるものでなければならない。神は自主的な礼拝を喜ばれるのであって、強制された回心や、強制された礼拝は、神を喜ばせる聖なる捧げ物にはならない。キリストは十字架上の死を通して、人間を律法による罪の奴隷状態から解放した。福音の本質は自由であり、律法主義からの解放であり、強制ではなく、自主的な献身と服従である。
 神が与えられた自由を、人間に奪う資格がないことは明白である。

 ところが、昨今、この神の与えたもうた自由を人間から取り上げて、外的影響力を通して、人間の悪なる部分を矯正するために、極端な律法主義をあてはめようと叫ぶ声がキリスト教界に顕著に現れて来ているように私は思う。それは日曜礼拝の厳守というような、我々が諸教会でよく耳にしてきた比較的緩やかな教えから、モーセ律法に基づく石打刑の復活という極端に残酷な教えまで、内容は様々であるが、実に危険な傾向として観察される。
 さらに、現在のカルト対策のあり方も、これと同一線上にあると見てよいだろう。

 今、キリスト教界には目を覆いたくなるような不祥事が広がっているが、このような無秩序な混乱に飽き飽きした信者たちは、自分たちが何を望んでいるのか全く分からないままで、統一的な秩序を打ち立ててくれる強力なリーダーの登場を待ち望み、その登場を歓呼して迎えたい心境になっているのではないだろうか。教会の不祥事が一つまた一つと暴露される度に、自分の代わりに手っ取り早く悪を成敗してくれる誰かを求め、その人間に一票を投じたいとするクリスチャン大衆の欲求が、日に日に強まっているように私には思われてならない。

 大衆は「カルト対策をやってくれる誰か」を求めている。無秩序状態に終止符を打ってくれ、自分が望んでいる正義を手っ取り早く体現してくれ、散らかった机の上を自分の代わりに片付けてくれそうな誰か、面倒かつ複雑な問題に、自分に代わって着手してくれる聡明な誰か、望んでいる理想的な秩序を、早急に打ち立ててくれそうな誰かを求めているだけなのである。

 大衆は、自分自身がその問題に着手しないでいられる怠慢を確保するために、自分の代わりに働いてくれるリーダーを常に待ち望む傾向を持っている。そういう他人任せな、身勝手な期待が、これまでにもさんざん、キリスト教界において、自称預言者、自称牧師、自称カルト専門家などが活躍する土壌を作ってきたし、それこそが、いかがわしい偽牧師や偽教師の活躍を支える培養土となってきたのである。従って、カルト対策に関しても、もしもクリスチャンがそのような無責任かつ身勝手な心理だけに基づいて、リーダーを求めるならば、ろくな結果を生まないだろうことは誰しも予想できる。

 異端の教えは確かに警戒しなければならないが、異端を排除するという名目で、人の自由までが圧迫されるようなことはあってはならない。その意味で、異端の取り締まりを唱えて登場してくる「正義の味方」をも、私たちは十分に警戒し、吟味しなければならないのである。
 聖書は、クリスチャンが異端に対して力づくの闘いを挑むことで、信者を無理やり解放するようにとは教えていない。異端団体から力づくで信者を奪回したり、異端団体に対して訴訟を起こしたり、異端の教会を取り潰して、土地と財産を没収したり、異端者を火刑に処したり、異端文書を徹底的に焚書にすることによって、異端団体を地上から根絶し、ただキリスト教的な秩序に基づいた一元的な世界を残すようにとは、聖書は教えていない。

 聖書が教えているのはあくまで、異端を警戒し、異端から離れ去りなさい、ということと、罪のない者がまず先に石を投げなさい、ということである。異端に対して、私たちクリスチャンは、十分な証拠を集めた上で、平和的に警戒を呼びかけることは許されるが、それ以上に、石を投げること(つまり、裁判を起こしたり、暴力を用いたりして、異端者の生活の糧を奪ったり、異端団体を根絶したり、異端者を死に追いやるなどのこと)はクリスチャンに許されている行いではない。

 異端の教えに陥った信者は、正しい教えを信じるクリスチャンから絶縁されてしかるべきだと思うが、それ以上に迫害されるべきではない。異端者がもしも新しい宗教を開いて、そこに活動の場を見いだそうとするならば、それは止めてはならないことだと私は思う。
 だが、今日、キリスト教徒を名乗るある種の人たちには、異端者への処遇について、一線を踏み越えて、サディズムに落ちようとしている危うさが感じられるように思う。異端を静かに批判し、排除することではなく、異端を絶滅することを目的に活動している人たちがいるのではないだろうか。さらに不十分な証拠に基づいて異端のレッテル貼りが行われていることについて、私は憂慮している。

 クリスチャンの目的は異端への警戒と異端からの分離であって、異端の根絶ではない。聖書に基づいて、十分な議論を重ねた上で、異端団体と分離することが必要なのであって、十分な証拠の提出もないままで、一方的に誰かに異端のレッテルを貼って、異端者とされた人に危害を加えたり、異端団体と取っ組み合って、どちらかが勝つまで、徹底的に闘争を続けることが必要なのではない。
 そのことをよくわきまえておかなければ、クリスチャンは自分も罪人の一人に過ぎないのに、罪を犯した人間を石で撃ち殺すということを、今でも、平気でやってしまいかねないのである。しかもそれが集団的なサディズムに発展していく危険性を否定できないのである。

 あらゆるカルト団体の教えには、極端な律法主義の再来、つまり、十字架を通さない、外側からの人間の改造と浄化の試みが含まれている。だが、今日の著名なカルト対策のあり方にも、それと全く同様の危険が含まれていることに私は恐怖を覚えずにはいられないのである。
 たとえ異端の取り締まりという名目であっても、外側からの圧力によって人間を変えようとする試みは、十字架を通しての生まれ変わりという、キリスト教の教義とは相容れないものであり、キリストの与えたもうた自由を、再び律法の奴隷というくびきに取り替えることを意味する。裁きや、処罰といった強制力によって、人間性を変えようとする試みは、実際に罪を処理し、人間を変える力を持たないだけでなく、人間に与えられた自由の領域に侵入し、自由を奪い取る行為である。
 その意味で、この世の力学を用いて、カルトを抑圧・根絶しようとしているカルト対策のあり方は、まさに人間性そのものに対する脅威だと私は感じざるを得ない。

 この問題は極めて深刻であると思うので、今後も続行して訴えていかねばならないと思うが、今は、このことについて、これ以上、声を大にして訴えるのはやめて置こう。

 不思議なことに、心に平安が満ちるに連れて、キリスト教界において繰り広げられる殺伐とした事件に、私は興味を持てなくなってきた。カルト化教会の悪事を見逃すべきでないと主張する人たちは多く、私もそう考えていた一人であったが、かといって、律法主義を律法主義によって斬る試みに一体、どんな将来の希望があるというのだろうか。

 大切なのは、キリストの下さる愛と平安を私たちが十分に享受し、キリストの与えたもうた自由をしっかりと受け取り、放さず手中につかんで生きることだ。つい最近まで、私は臆病者、卑怯者になるくらいならば、勇敢に悪事を告発し、そのために命をいくつ投げ出しても惜しくないと思っていたが、クリスチャンの第一義的使命は、悪との闘いにあるのではなく、神と隣人を愛して、助け合って生きていくことにある。

 こんなことを言うと、誰かさんに早速、食ってかかられそうな気がする。
「あなたは本当に不真面目で意見がころころ変わる移り気な人なんですね、一体、あなたは誰の味方なんですか、本当に正義を望んでいるんですか、カルト被害者の心情に配慮する気持ちがあるんですか!?」
 その質問にはこう答えよう、
「ご指摘の通り、私は今、被害者の感情を全く考えていないと思います。私はこれまで自分がカルト被害者のつもりでいましたし、確かに相当の被害を受けたので、そう言うだけの根拠はあったでしょう。自分と同じ苦しみを味わった人のために、できる限りのことをしたいと願って来たことは確かです。

 けれども、私はもうこれ以上、自分を被害者とは呼べないだろうことを感じます。失望させていたらごめんなさい。冷たい人間と思われても構いません。でも、私にとって今、一番重要なのは、弱者の正義ではなく、主ご自身が何を正義とされ、何を喜ばれるかという点なのです。

 どういうわけか、私は主にあって、急に被害者ではなくなってしまったことを感じます、私は完全に贖い出され、完全に買い戻されたのです。私は完全にされ、訴えるべき被害がもうなくなったのです、ですから被害者と同じ感情を共有することができなくなってしまったのです。奪われたもののために涙し、奪われたもののために立ち上がるということができなくなったのです。虐げられた弱者の正義を訴えることに、関心がなくなったのです。なぜならば、私に与えられた恵みは完全だということを全く否定できないからなのです…」

 私の過去は変わらないが、私には嘆かなければならない被害と損失がもうなくなってしまった。嘆きも、恐れも、義憤もなく、今は、キリストの与えて下さった命の豊かさが私の心をとらえて離さない。だから、カルト、アンチカルトのどちらの陣営の訴えにもほとんど関心はないし、それを告発する作業も、しばらく脇に置いておきたい。

 こんな風にして、カルト被害者の戦線から離脱しようとしている私を、愚か者、臆病者、変節者、裏切り者、冷血漢、等々の名前で呼ぶ人があるかも知れないが、そうなっても構わない。魂に暗闇をもたらす諸々の闘争から抜け出し、命ある喜びに引き入れられたクリスチャンは幸いだと思う。

 ヨブの例を思い出してみればよい。カルト被害者の被害を何倍にもして償うことができるのは、神ご自身である。まことの裁き主、癒し主であるイエス・キリストに立ち戻る時、被害者はもはや被害者でなく、受けた被害を補って余りある祝福を受け取ることができると私は確信している。

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雨の横浜へ

 先週末、居ても立っても居られないような気持ちになって、ほとんど衝動的に夜行バスを予約し、Dr.Lukeのいる横浜のKFC(Kingdom Fellowship Church)へと飛んで戻って来た。
 日曜の朝はあいにくの大雨で、歩いているうちに、持っていた荷物までずぶ濡れとなったが、午後、煙るような霧雨に包まれた港町には風情があった。

 私はキリスト教界において幾度も悲しい事件に遭遇させられ、教会に対する大きな不信感を心に抱え込んだ。教会に期待を抱いて、関わろうとしたその度毎に、私が教会から受けた被害は、より深刻かつ甚大なものへと変わっていった。受けた被害を解決するために向かった京都A教会でも、解決を得られず、ただ希望を失って教会を離れなければならなかった。そんないきさつがあったので、最後に教会を訪れてから、今までに至る約一年近くの月日の間、私はどんな信仰者の群れにも関わることなく、ただ一人で聖書を読み、祈り、考え続けた。ブログを除いては、信仰者と関わる手段は全くなかった。

 KFCの存在は二年前ほどからネットで知っていたが、訪れようという気持ちにならなかった。安全な教会を見つけ出したい、真のキリスト者と出会いたいという願いが心になかったわけではないが、同時に、教会と名のつくもの全てに対する不信感と、クリスチャンを名乗る人間に接触することへの恐れが、行動を起こすことを妨げていた。それに、群れに所属することによって、信仰が保証されるわけではないことも分かっていたので、同胞のあるなしに関わらず、とにかくまことの神への信仰に立ちたいと願ってきた。

 だが、最近、それだけでは気が済まなくなった。KFCとはどのような場所なのか、そこに主から与えられた私の兄弟姉妹がいるのかどうか、どうしても自分の目で確かめたいという思いが無視できないほどに高まった。とにかく、会わないことには、居ても立っても居られない気持ちになったのである。

 それに、少し前から、主は私のためにクリスチャンの同胞を備えて下さるという確信を祈りの中で得ていた。だから今回、実際にそのことを自分の目で確認せずにはおれなかったし、確認できたのは良いことだった。

 ネット上で聞いているだけでは、KFCの礼拝は聖霊派のスタイルにかなり近いもののように感じられる。そこで、私のように、聖霊派の礼拝につまずいた経験のある人は、それを聞いて、抵抗を覚えることがあるかも知れない。私はこれまで数々の教会をめぐり、そこで様々な賛美のスタイルを聞いてきた。それぞれの教会ごとに、賛美歌、聖歌、新聖歌、ミクタム、リビングプレイズ、等々、使われる曲に違いがあり、楽器も様々であった。だが、中でも、KFCの賛美は私が今まで聞いたことのないものだった上に、歌詞の大半が英語であり、奏楽者もいないようであったので、私には馴染みがなかったし、正直な話、奇をてらっているだけではないのかという疑いが、なかったわけではない。

 だが、重要なのはどんなスタイルが採用されているかということではなく、礼拝を捧げる人々の心である。実際に現地に身を置いてみることで、そこには心を預けても良いと思うに十分な礼拝があることを確認できた。私の教会恐怖症はほぼ完全に払拭された。

 KFCで主の恵みとして私に与えられた貴重な時間について、あまり細かく書くのはやめておこう。ただ、私のために憐れみを示して下さった全ての兄弟姉妹たちに、主からの豊かな報いがありますようにと願う。
 それに、百聞は一見にしかず。関心のある方は、それぞれ自分の目で確かめられるのが一番良いだろう。

 その日、私はDr.Lukeを教会から奪い去り、随分、長いこと、拘束してしまった。彼に横浜観光案内までさせた人は私の他にいたのだろうか。霧雨の振る中、懐かしい神戸の街を思い出させるような港街を車で通り過ぎ、私が一人では決して行くことができないだろうホームレスの町、寿町の界隈も見せてもらった。

 私はDr.Lukeに向かって、私がこれまで経験してきた、暗い、お先真っ暗な話題について沢山、語った。その上、これまで私が彼に対して持っていた疑問をも何の遠慮もなくぶつけた。それは聞かされる側からすれば、随分と荷厄介な話だったかも知れない。だが、そうして取ってもらった時間のおかげで、私の心に残っていた疑いは最後まで払拭されたし、世にはカルト化教会で起こっているような奇妙な事件をも、受け止められるクリスチャンが確かにいるのだと知った…。

 Dr.Lukeは、私の受けた印象では、キリスト教の牧者というよりも、禅寺の住職のようであった(だがそれでも真にクリスチャンである)。九州人と関西人を足して2で割った上に、ほんの少しだけ東京人のエキスを加えたような人物であり、長く関西に暮らした私にとって、抵抗感なく、話ができる人だった。(関西人は個性的な人物を愛するものだ。この表現が理解できない方は実際に自分で確かめて下さい。)

 ところで、夜行バスに関して、私には悲しい思い出が一つあった。カルト化教会で、私はそれまで7年間も親しくつきあってきた親友を失った。その友人は同じ大学出身の研究者であり、互いに海外にいた期間も含めて、数え切れない文通を交わし、生活の隅々までよく知っていた幼馴染のような間柄だった。彼はよく「大阪は我が庭」と豪語していたほどに、大阪の地理に精通しており、バイクの運転も含めて、私はこの人から色々なことを教わった。彼が学振の研究員に選ばれて、関西から東京に向かう時、私は大阪駅前の夜行バスのロータリーまでよく出発を見送りに行ったものだ。

 カルト化教会でその人と縁を切るように求められ、私は別れの挨拶も告げず、友人をいきなり捨てた。後日、それが誤りであったと分かり、さらにその友人にも、かなり以前から信頼を裏切られていたことが判明した時、二度と取り返せなくなってしまった人間の絆のために、私は泣きに泣いた…。

 最後にその親友と会ったのは、偽教会との縁を切った後、東大のキャンパスでのことだった。むっとするほど蒸し暑い空気の夏の日、会うなり、彼に向かって、私は教会での事件をとうとうとしゃべった。学生たちがカフェテリアにやって来ては、潮が引くように去って行った後、夕方になっても、私はまだ教会の事件についてしゃべり続けていた。一体、あれは何だったのか、どうして私があんな目に遭わなければならなかったのか…、当時、何も理解できておらず、ただどうどうめぐりの疑問の中をさまよっていただけだった。友人はいつものように穏やかに、ほとんど黙って私の話を聞いていた。

 夜になって、私はその友人と新宿のバス停で別れた。それまでは私が彼の出発を見送ってきたが、その時は、私が見送られる番だった。いつものようにつまらない冗談を言い合いながら、バスの到着を待った。それが親友との最後の邂逅になるとは、当時、考えてもいなかったが、帰りのバスの中で、なぜか心が痛んで、涙が溢れて止まらなかった。多分、心の奥底では、壊れた人間関係が永久に戻らないこと、私の青春時代が空宙で砕け散ったまま、完全に終わってしまったことを感じ取っていたのだろう。
 この親友とは幾度か海外にも共に行ったし、何度も神戸の港を訪れたものだ。私が関西で培った思い出そのもののような人物であった。

 親友はその後、私の論文執筆のために助力してくれたが、論文が審査に通ったことを報告して以後、連絡は途絶えた。幾度、電話をかけても、彼が受話器を取ることはもうなかった。それは昨年春のことである。今、彼がどこでどのように暮らしているのか、私は知らない。

 こうして、カルト化教会で受けた体験はあまりにも悲しいものであり、私の人生そのもの、思い出そのものをズタズタに引きちぎって行ったが、今回の横浜行きでは、そんな悲しい記憶を思い出させるようなものは何もなかった。
 横浜は美しい街だが、私の今住んでいる中国地方からはあまりに遠いので、この先、そう何度も訪れることはできないだろう。だが、それでも、今回、KFCを訪れたことで、私の信仰生活に、今までとは全く違う第二幕が開けたことを確かに感じることができた。主はやもめや、産まず女の涙を拭って下さるように、私の涙を拭って下さった。だから、もう二度と、かつてのような悲しい体験をさせられることはないだろう。今回の旅は、終わりではなく、始まりなのだ、そう感じることができた。

 今、キリスト教界の教えに疑問を感じながらも、一人ぼっちになることを恐れて、そこから抜けられないでいるクリスチャンがきっと多いだろうと思う。身体に馴染んだ礼拝や賛美のスタイルや、教会に連なる友人たちを捨て去るに忍びないと感じて、そこにとどまることを選ぶ人たちがこの先、大勢いることだろう。しかし、偶像礼拝ときっぱり縁を切り、御言葉に純粋に立ち戻り、たとえどんな孤独を味わおうとも、ただ主ご自身だけをひたすら求めて行く時に、必要の全てが兼ね備えられることを私は身を持って知った。

 一人の幼馴染を失ったが、代わりに、数え切れない魅力的な兄弟姉妹が与えられたことが分かった。この悪しき、暗い世の中にあって、星のように輝いている兄弟姉妹たちだ。父なる神から「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と呼ばれるにふさわしいクリスチャンたちだ…。
 
 絶望に泣き明かした日々も含めて、主は私が今まで辿ってきた全ての苦しみを、きっと益へと変えて下さるだろう。この信仰に立ち戻るために、一旦、余計なもの全てを焼き尽くされ、孤独の中を通され、死ぬような思いを味わう必要性があったのであれば、それで良かったのだと今は思う。

 主が今後、私の人生にどんなことを成して下さるのか、楽しみである。


誇るなら、弱さを誇ろう

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
ところが、主は言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」(コリントⅡ12:7-10)

人は誰でも弱さを持っている。人前では一生懸命、強いふりをしていても、弱点を持たない人は一人もいない。私は二人の信徒から全く同じような苦労話を聞いた。それは、彼らが人前で話すことを苦手としていたにも関わらず、牧師になるように教職者に願われ、説教を担当させられ、それが本当に嫌で嫌で仕方がなく、ついに逃げ出すようにしてその奉仕をやめたという話であった。

私にはその人たちの気持ちが痛いほど分かるような気がする。なぜなら、私も社交家でないからである。もし人の能力を円グラフのようにして示すならば、いびつな図が出来上がらない人がいるだろうか? ある面では、人並み以上の力を発揮できる人も、他の面では、人の半分以下の能力しか持っていない。そういうことはよくあることだ。

自分の弱さを思いされる瞬間は、私にとっても、必ずしも楽しいものではないが、それでも、近頃は、キリストの力が私の弱さに染み渡り、そこにこそ働いてくれることが分かるので、以前のように、弱点を気にかけたり、それを自分の力で補おうと努力せずに済むようになった。気楽に構えるというところまでは行っていなくとも、ケ・セラ・セラ(露語ではАвось!)くらいの気構えにはなっている。

キリストを知って心から良かったと思うことは、もうこれ以上、頑張らなくて良いことである。弱さは弱さのまま置いていいのである。人が私の弱さに対してどのような感情や反応を示すかということに、私は責任を持たなくて良いのである。キリストが私を無条件に愛して下さったので、私は人から愛されるために、自分を強くみせかける演技を絶え間なく続けるようなむなしい努力の必要性から解放されている。

今はむしろ、自分の弱さを自覚するときに、「ここにキリストが働いて下さるんだな」と気楽に思えるようになった。人がどんな反応をしようと構わない、ただ主が「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言って下さっているので、その御言葉に安らぎ、自分をそのまま受け入れることができるようになった。

過去には、弱さについての記憶は思い出したくないもの、あるいは恥ずべきものととらえられていたかも知れないが、主イエスが与えて下さった福音を思う時、その弱さがあればこそ、神の強さに出会うことができ、神の強さに覆われて、自分で達成不可能な努力をして苦しむことなく、主がすべてをなしてくださるという生き方に変わることができたことをまことに幸いに思う。

聖書を開き、その一ページを読むだけで、主がどれほど私を愛して下さったかという証拠がいくつも目に飛び込んで来る。まるで芳しい香水を吸い込むように、私はその言葉を飲み干す。他に何も要らない。どんな人の賞賛の言葉も、どんな人の愛の言葉も、御言葉が与えてくれる約束の力にはかなわない。たとえ全世界から存在を否定されたとしても、一体、それが何だろうと思うほどの圧倒的な御言葉の威力。

「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」

パウロがそう言ったのは、「私はキリストのためにこれほどのものを捨てたのだ」と人前で誇るためではなかった。ただ、主への愛からそうしたのだった。私も同じようにしたい。キリストのために華々しく殉教し、聖徒の模範のように生きることを目指すのでなく、ただ主への愛から、すべてを捧げたいのだ。

私に残されている人生の時間も、能力も、レプタ一枚程度のものでしかないかも知れない。だが、残るもの全てをただ愛によって捧げるならば、主は喜んで私の差し出したものを受け取って下さるだろう。主が喜んでくださるなら、私は自分の命そのものを捧げて構わない。私の命も、すべてはもとより主からの借り物なのだ。どうせいつかお返ししなければならない時が来るならば、それを自主的に今、主にお返しすることで、主が少しでも喜んでくださるなら、私はぜひそうしたいと思う。

「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう」

以前はただ自分で自分の弱さを克服しようと不可能な努力をして苦しんでいただけの人も、今はその弱さをキリストのために役立てることができる。その恵みを感謝したい。


教会とは何か

ニッポンキリスト教界はすでに命運尽きているから、きっとそのうちひどい崩れ方をするだろう、そうなる前に、ソドムから脱出せねばならない…
これまで随分、熱を入れてそういうことを書いてきたが、もしそれが本当に本当だとしたら、一体、クリスチャンはこの先、どこへ行けばよいのだろう? それが次なる課題となる。

実は、私自身も、これにまだはっきりした答えを得ていない。
所属するということがもたらす心地よさに比べ、どこにも所属場所がないということがもたらす言い表せない孤独感。私自身は、帰属場所を失うという孤独感には、かなりの回数、出会って来たので、随分、慣れて、覚悟を決めたつもりではある。しかし、初めにその体験を持つ人にとっては、きっと、ショックが大きいだろう。それを思うと、所属するということに重きを置いている既存の教会から、自主的に信徒が抜け出るということが、いかに難しい選択であるかよく分かる。私やカルト被害者のように教界から傷つけられて放逐されたのでなければ、ほとんどの信徒は、自主的に今いる場所を出ようとは決して思わないであろう。

それは、出て、どこへ行けば良いのか。それが分からないからだ。どこへ行っても、結局、人の集まりというのは、同じではないのか? 特に、複数の教会に通って、結局、居場所を見つけられなかった人や、複数の教会から食い物にされた経験のある人にとっては、次に「教会」を求めてどこかへ赴こうという希望を持つだけでも、かなり難しいことだ。

キリスト教界に属していた頃、いかによく次のような言葉を私は耳にしてきたことだろう。
「あのね、複数の教会を転々としながら、結局、どこにも居場所を見つけられないような人はね、どこへ行っても、結局はやっていけないんだよ。なぜならね、そういう人は自分は何も努力していないくせに、その無責任を棚に上げて、牧師や他の信徒のあら探しばかりしては人を批判して、教会に苦情を述べたてては、教会を変わっていくんだからね。本当は、変わらなければならないのは自分自身のくせに、それを認められないからこそ、ああやって苦情を言っては、教会遍歴を繰り返しているんだ。そんな人は、どこへ行っても上手くやれないに決まってるさ」

どこかで聞いたような、こういう残酷な台詞。ずっと後になって、心に突き刺さって来る。
教会の中にいて、所属場所を得ていた頃には、何事もなく聞き流せたこの毒を含んだ言葉が、教会の外にいるようになった時、改めて、効力を発揮し、自分に突き刺さって来るのだ。

私は、もしかして、教会遍歴者なのか? どうせどこへ行ってもやっていけないことが決まっている人種に属しているからこそ、今もこうやって、キリスト教界そのものにぶつぶつ不平を言って、悪口を言って、苦情を述べ立てているのか?
すると、その疑いがじわじわと心に広がるに合わせて、どこか地の奥深くからいやらしい声が聞こえてくる、「そうだ、やっと分かったか。随分、遅い理解だったな。おまえのような者は、どうせ、初めから教会にはふさわしくなかったのだ…。どうせ、どこへ行っても、やっていけないのだ…。何しろおまえは誰よりも最高の異端者、最高の無責任屋で、最高の自惚れ屋、最高の批判屋、最高の不満屋だからな。おまえだけがそれを分かっていなかったんだ。でも、他の人たちはみなおまえの短所がよく分かっていたからこそ、奴らは早めにおまえの有害性を見抜いて、おまえの正体を察知して、おまえを仲間から追い出したんだよ…。つまり、奴らがやったことは、全く正しかったんだ…。無駄なんだよ、どこへ行っても受け入れられない、それがおまえの運命だ。それはおまえが悪いからだ。教会など探しても意味がない、どうせ、拒絶され、よくても利用、悪ければ、再び恥辱をこうむるだけに終わるのだ…」

このいやらしい声を聞いていると、ひたすら、気が重くなり、もう一度、布団へもぐりこみたくなる。本当だ、これ以上、人に期待して裏切られるのはもうまっぴらだ、これ以上、傷つくことに誰が耐えられるだろう、それに、誰が一体、この私の強情な性格に耐えられるだろうか、私につきあう人々も苦労を強いられて可哀想なものだ、だから、やはり教会を探すということはやめよう、信徒の交わりなんてきれい事にこだわって、互いに理想論を押し付けあって、裁き合って、失望し合っても意味がない、どうせ人になんて、大した期待は初めから持てやしない、聖なる神の宮、うるわしい信徒の愛に満ちた共同体としての教会とか何とか言っているけど、そんなものは、この世にもとから成立しないのだ…、初めからなかったのだ…、そんなものを信じているのは初心な理想論者だけなんだろう…、私は高望みしすぎているんだ…、いい加減、この世の仕組みを理解しなくちゃいけない…、だんだん、そういう結論に心が傾いてくるのを感じる。

しかし、ここでこの疑いをバッサリ斬らなければならない。絶対に、何があっても、クリスチャンはこのような結論を受け入れてはいけないのだ。
確かに、もしもこの世に神がおられないなら、教会もまた存在しないだろう。だからあの悪魔の言っている「人の集まりには希望がない」、「理想を求めても無駄」という言い分は正しいのだ。

だが、キリストがもしおられるなら、話は全く別だ。
キリストは言われた、「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ12:28)。
神の国の秩序は、キリストとともにこの地上にやって来た。それは見える形で存在するものではないが、イエスを神の御子として信じた人々の心の中に、神の国は種蒔かれ、広がって行ったのだ。

悪魔の毒矢が突き刺さって、激しい痛みに冒された私は、キリストの足元に涙ながらに駆け寄って言う、「イエスさま、あの悪魔が、今、私のことを告発しています、私は教会にふさわしくないと、こんな人柄では、きっとどんな教会に行っても、人から拒絶され、放逐される運命にしかないと言うんです、今まで私を教会から追い出してきた人たちは、全く正しいことをしたんだと言うんです、何が本当なんでしょうか」

キリストは静かに答える、「悪魔はあなたを悪者だと言ったんだね?」
「はい、地上で最も汚らわしい悪者、聖なる美しい教会にはふさわしくない悪者だと言われました」
「悪魔はあなたに罪があると言ったんだね?」
「そうです、私は悪口屋で、批判屋で、自惚れ屋で、強情で、えーと、それから、数え切れないほど嫌味を言われました」
「そう、それであなたの罪は今どこにあるんだろうか?」
キリストはそう言って、釘の打たれた両手を私に向かって見せる。
私ははっとして黙り込む。

「全く、あなたはどうしていまだにそんなに初歩的な悪口に耳を貸したりしているのか。思い出しなさい、あなたの罪はすでに私が全部、引き受けたんだよ…」
「じゃあ、私は教会にふさわしくないというあの人たちの言葉は…」
「嘘だ」
「でも、イエスさま、私は次に行くかもしれない教会のことを考えると怖くなるのです、私は人から愛される資格となるものを何ももっていません、特に今、私の人生には愉快な要素があまりにも欠けすぎています。立派な仕事がないし、自慢できるものは何もなく、人を楽しませてあげられる愉快な話題の持ち合わせもありませんし、カラオケも歌えません。趣味にしても、いくらもあるわけじゃありませんし、テレビは見ていませんので時事的な話題も知りません、その上、私は不正を黙って見逃せない性格ですから、きっと小さなことに針小棒大にこだわって煙たがられたりするでしょう、今でもこうやって時々、身の上に起こったことで悲嘆に暮れたりしていますから、きっと自己憐憫に溺れているのだと思われ、避けられるでしょう…」

「いつからあなたはそんなに臆病になったのか。もっと勇気を持ちなさい、一体、あなたの信仰はどこへ消えてしまったのだ。私は言ったではないか、こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国はかれらのものだ、悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められる、義に飢え渇いている人たちは、さいわいだ、彼らは飽き足りるようになる、心の清い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるだろう、義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである、これはみんなあなたのことではないのか」
「では、私は御国にふさわしい人間なんですか? でも、それにしては、この地上においては、どういうわけか、教会と名のつくところからは、厚遇された思い出がなく、排斥ばかりされてきたような気がするのですが。所属教会ももうなくなりましたし、その上、そうなったのも、私が悪いせいなのだ、私が不器用で、人と上手く合わせられなかったせいなのだ、もっと上手く立ち回らなければいけなかったのだとある人から言われました、どんな結果になっても、自業自得なのだと、いつも人から言われて来ましたが」

「一体、あなたの聖書の知識はどうなったのか。聖書のどこに、神の国は器用な人たちのものだと書いてあるか?」
「そうですね、書いてありません」
「そうだろう、正しい信仰者が会堂から追い出される日が来ることについても、私は警告しておいたはずだ」
「では私がされたことは自業自得ではなかったということですか?」
「あの人たちがやっていることが何であるか、それはこれから明らかにされるだろう。たとえあなたに自業自得があったとしても、あなたの罪は私を通して赦されている」
「では私はこれからどこへ行けばいいんでしょう、どこに行ったら、神の国の生きている教会を見つけることができるんでしょうか」
「神の国は、どこそこにあるというものではない。すでにあなたの心の中に神の国は来ているのだ」

もちろん、この対談は、キリストの名を出してはいても、私が心の中で思ったことを物語化したにすぎない。この不完全な文章は、とても聖書と並べられるような信憑性のあるエピソードではない。しかしこのようにして、教会から追い出されたことで、心に痛みが生じ、心に責めの思いが到来する度に、私はキリストの懐に飛び込んで行って、そこで対談を繰り広げるのである。聖書のページをめくり続けながら(まだ聖書の知識が私に不十分であることをひしひしと感じる)、ひたすら、私を告発する者の矢をへし折るための根拠を捜し求めるのだ。

今も、現実生活で上手く行っていない点を数え上げようとすれば、それは無限にあり、悩みもまた無限大に見えるときがある。しかし、そんな状況にあっても、私を告発する者が根拠とする材料は、何一つ残っていないことを確認して、ようやく心が休まるのである。

本当に、「人の集まり」に過ぎないあの教会で、これまで私はどれほど間違った先入観を抱え込まされて、無駄な罪悪感と劣等感ばかり抱えこまされて来たことだろう。
あの場所で私が学んだことは、律法による逃れられない罪悪感、責めと死の思い、それに尽きるような気がする。
結局、あの律法主義的集まりには、どう逆立ちしても、私には入れてもらえる資格がなかったのだろうと思う。だからこそ追い出されたのだろう。そして、それは確かに正しかったのだ。なぜなら、律法は人を罪に定め、殺すことができるだけで、人を生かし、命を与えるお方はキリストだけだからである。
だから、キリストを拒んでいるあの場所には、死の法則しか働いていないのである。
律法主義的な教会において、私は何度も死に定められた。肉体の死にまで至らなかったのは、本当に幸いであったと言えるだろう。だが、あの死によって味わった痛みが、まだ私の心に残っていて、時々、思いもしないきっかけで、うずき出すのである。

だが、もうこれ以上、そんな悩みは必要ない。仮に私の性格がどうひねくれていたとしても、そんなことは救いとも、御国とも関係ないのだ。ザアカイを呼び寄せてくださったキリストが、私をも呼び寄せてくださり、天の食卓に招いてくださった。キリストは私のために死んで下さった。キリストは、私が良い行いを何一つしない前に、私のために死を選ぶことを決意して下さっていたのだ。その愛が私を生かしている以上、誰が私を拒否することができるだろう、私を拒否する者は、キリストをも拒否することになるのだから。

この先も、肉なる人に過ぎない私は、地上できっと山ほど過ちを犯すだろうが、いかなる時にも、キリストが弁護して下さるのだから、心配は要らない。絶対に間違ってはならないのは、私が何かしら教会にとってパーフェクトな人間となろうと努力し、向こうの要求する条件を全て備えるから、教会にふさわしい人間として、中に入れてもらえるわけではないということだ。

教会は、私がそこへ入れて下さいと言って、全力で戸を叩いて、向かって行く場所ではなかった。教会は、私が呼ばない先に、向こうからこちらに出向いて来ていてくれたのである。神の国は種のように蒔かれ、私の心の中に根付いて、発芽していた。だから、きっと心に教会を(神の国を)持っているクリスチャンは、私がこの土の器の中に抱えている光に、きっと気がついてくれるに違いない。そしてこの私も、そのような人に道で行き交ったら、きっとこちらから気づくに違いないのだ。

互いが地の塩であり、世の光であり、キリストを愛する喜びをたたえている人たちとすれ違って、どうしてそれと分からないはずがあろう。あのお遍路さんでさえ、同じ衣装を着ており、互いにあいさつを交わすのだから、どうしてキリストのための本当の巡礼者たちが、互いが同じ小羊の血によって洗われた真っ白な着物を着て、額に印を持ち、手に持っている灯をできるだけ輝かせようと高く掲げているのに、互いに気づかないはずがあろう。そうして出会った素敵な巡礼者たちは、私を見て、きっとにっこり笑ってくれるに違いない、そして旅の道連れになってくれるに違いない。とにかくも、あの律法主義的教会の人たちのように、最初は笑顔、最後は憎悪、ということではきっと終わらないことだろう…。

さて、このように考え続けていたところ、山谷少佐が、記事の中で、「教会とは何か」ということについてはっきりと書いておられた。

「教会は、どこで生まれたのか。
 その始まりにあるのは、神の愛であります。憐れみ豊かな神が、わたしたちを、しかも、罪のために死んでいたわたしたちを、この上なく愛してくださった。この愛によって、教会が生み出されたのです。神の愛が教会を生んだ。

『この上なく愛してくださった』と言われていることに注意いたしましょう。だれにもまして、何にもまして、どのようなものにも優って、神は、わたしたちを愛してくださった。これ以上と言うことがないほどの愛で、愛してくださった、ということであります。

しかも、『罪のために死んでいたわたしたち』と言われていることに注意いたしましょう。わたしたちの側に、何か取り柄があったわけではない。わたしたちの側に、何か優れた点があったわけではない。わたしたちに、何か愛されるべき良きことがあったわけではない。そうでなく、罪のために死んでいた、と言われているのです。罪のため、もろもろの悪のために、死んでいた、つまり、これ以下と言うことがないほど絶望的なまでに、最低の状態にあった、わたしたち、ということです。」

 日曜日の朝にこの記事に出会えたことは不思議なめぐり合わせを感じる幸いだった。この記事は素晴らしいので全文を読まれたい。神の愛が、教会を生んだ。そして神の愛が、人を生まれ変わらせ、人を教会にふさわしい聖なる神の宮へと造り変えたのだ。
 私はこれ以上、自分の力でいかなる姿に変わろうとする必要もない。神の愛が無条件で私を包み、私の中に、主への愛と共に、生き生きとした神の国を与えて下さったのだから。


空の鳥も憩うほどに…

昨日、夜遅く、窓の向こうから、不思議な鳥のさえずりが聞こえてくるのに誘われるようにして外へ出た。人々が寝静まった田園のしじまの中で、ナイチンゲールが互いに美しい声で呼び合っていた。
(*ナイチンゲールは日本には棲息していないと言われるが、確かに夜鳴き鶯としか言いようのないこの声の主は何だろう?)
多分、恋人同士の語らいだったのだろう。口笛で真似してみると、積極的な応答がある。面白いので、しばらくの間、私も暗がりを散歩しながら、鳥のふりをして呼びかけてみた。だが、あまりの下手さに、偽者が交じっていることがばれてしまったのだろう、やがてナイチンゲールはどこかへ移動してしまった…。

水田にはまだ水が引かれていないが、もう少ししたら、稲が植えられ、蛙の大合唱が聞こえるようになる。子供の頃は、大好きだった田園風景だが、今は望まずしてここに帰って来た経緯が悲しく思い出される。

きょうだいが、また新しい仕事に出発することが決まったようだ。まだ十分な語らいがあったとは言えないので、私の方に心の準備ができていない。また、この環境に一人、取り残されるのか…、そう思うと、寂しさがどっと心に押し寄せる。きょうだいが帰宅して何日にもなるのに、私を除いて、今日に至るまで、これまでに生じた溝を埋めるべく努力した家人は一人もいなかった。この世に生きている時間は限られているというのに、互いに口を利くことさえ避ける家人…。

時々、こんな曲がり切った環境にいつまで耐え続けねばならないのか、と、愚痴を言いたくなる。まるで自分が、今読んでいる『天路暦程』の主人公そのもののように思えてくる。なのに、みじめなことは、私はあの主人公の基督者と違って、「滅びの街」を脱出する方法さえ分からないまま、ソドムの街中をいまだウロウロしているように思われることだ。こんな街で、私の一生は終わってしまうのか!? こんな街に、私は骨を埋めなければならないのか!?

だが、主の御約束は完全だ。聖書の約束の成就は、環境条件によらず、人の努力にもよらない。「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって。」 

草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変わることはない。(イザヤ40:8)

寂しさを覚える時に、いつも思い出す言葉がある。
京都A教会を去る時、キリスト教界から味わわされた痛みと、前途に待ち受けている困難のために、激しく失意落胆していた私に、ある信徒が贈ってくれた別れの言葉だ。
「ヴィオロンさん、あなたは貴いキリストの裂かれた身体なんです。この意味が分かりますか、あなたはキリストの貴い裂かれた身体の一部なんですよ…。ぼくらは同じキリストの血が流れ、同じ身体に属する仲間なんです。あなたは主の前に高価で貴いのです。ぼくらが共にキリストの一つの身体であるという事実は、あなたがどこへ行こうと、永遠に変わりません…」

今となっては、遠く離れ、その上音信も途絶え、同じ教会に属する望みも全くなくなってしまった兄弟だが、彼の教えてくれた「ともに一つの身体である」という事実、そして私自身が「キリストの裂かれた貴い身体の一部」であるという事実によりすがることなくして、私はあのすさまじい痛みから立ち上がり、福音そのものを拒絶せずに済むことはなかったかも知れない。

何しろ、自分の犯した過ちを思い返すだけで、そこには絶望の深淵しかなかったのだ。赦されるにはあまりにも多くの過ちを犯し過ぎた。誤った人生の道を選び、誤った教会に人生を捧げ、あまりにも遠く、主の御心から遠く離れてしまった。放蕩息子のようにボロボロになり、「正統な」信者からは、鼻先で笑われ、門前払いを食らわされ、愛想を尽かされるほどだった。
そんな私でさえも、「貴いキリストの裂かれた身体」として認めてくれたその信徒の深い愛に基づいた言葉なくして、福音の幸いと恵みを、私は失わずに済んだろうか。「私もまたキリストの身体の一部なのだ」、その希望と確信があって、初めて、私はその後の困難を耐えることができたのだ。

自分の掲げる義や、人が与えてくれる義への期待にことごとく打ち破られていた私は、多分、その時、自分の力では決して、立ち上がることができなかっただろうと思う。私はアイデンティティそのものを失っていた。キリストによる義認、キリストによる一方的な恵みによりすがらねば、自分の支えとなるものが他に何もなかったし、生きていくことすら、恐らく不可能だったのではないか…。
あの時、私に向かって、「あなたはキリストの裂かれた貴い御身体の一部だ」と言ってくれた兄弟の言葉を、私はこれからも、決して忘れることはないだろう。

そして、「裂かれた」という言葉の中には、言い尽くせない悲しみと痛みがこめられているように思う。

私は自分からキリスト教界を拒否したことはなかった。キリスト教界が私を辱め、私を見捨て、私を同胞として認めることを拒否したのだ。長い間、所属し、奉仕して来た教団は、私の教会籍一枚、取り返す力はなかったし、その意欲すら持たなかったことが判明した…。

こんないきさつがあり、しかも、キリスト教界に様々な惑わしの教えが入り込んでいることが明らかとなった今も、だからと言って、私はキリスト教界そのものを敵対視するつもりはないし、特定の教会に所属する全てのクリスチャンが誤りに陥っていると考えて、教会と名のつくもの全てと縁を切ろうというつもりも全くない。

キリスト教界の組織的な活動が、今日、どれほど誤った方向に進んでいるにせよ、そこにいる信徒全員にまで、希望がないということはあり得ない。主の救いは組織的に与えられるものではなく、信徒一人ひとりに、個人的に与えられる恵みである。だから、キリスト教界の組織がどれほどスキャンダルにまみれようとも、そんなこととは関係なく、教界の枠組み、教団・教派の枠組みを超えて、主は心から、真実、神を信じるクリスチャンを、全国各地に起こしておられるのではないかと思う。
ネットでの礼拝参加者が増えているとしたら、それもまた、そんなボーダーレスな信仰の表れの一つだろう。

まことの主イエス・キリストを信じている者たちは、どの組織に属していようと、どんな土地にいようと、ともに一つの身体なのだと私は信じる。一人、孤独の中にうち捨てられているように思われる信徒も、失望することはない。迷える一匹の羊のために死なれたキリストが、あなたを忘れ去ることなどあり得ないのだから。
教会につまずいた人たちも、どうか失意のうちに信仰を捨てたりしないで欲しい。私のような者がいまだにキリストにつながった枝として主から認められているのだから、あなたたちには、なおさらその資格があるはずだ。信仰から離れて何年も経つ人には、今、主イエスの十字架による救いに立ち戻って欲しい。

今夜もまたナインチンゲールのさえずりを聞きながら思う。遠く離れていても、あの兄弟もきっと、今日も共にキリストの身体として歩んだだろうな…と。私たちはたとえ言葉を交わすことがなくとも、同じ御身体につながっている枝であり、また、このブログに書き込みをしてくれて、私を必要な時に励まし、勇気付けてくれる信徒たちも、皆が共にキリストという太い幹につながった大切な兄弟姉妹たちであるのだ。

私と肉なる親兄弟、親戚縁者との間には、どうしてなのか知らないが、まるで最初から何のつながりもなかったかのように、年々、さらなる誤解と隔たりが生まれていくばかりだが、不思議なことに、それとは全く違ったところで、血縁によらない「親戚縁者」が続々、登場してくるところに、神のユーモアを感じる。
「あなたを捨てて孤児とはしない」という御言葉は、こんな形でも成就されるのかと、思わず、笑ってしまう。孤児には親も兄弟もいないはずだが、クリスチャンには父なる神がおられ、長兄イエスがおられ、そして信仰による兄弟姉妹が無数にいるのだ…。

私の教会籍はなくなり、所属教団もなくなり、所属教会もなくなった。だが、それが一体、何だったのだろうかと思う。キリスト以外に誇りとするものは、クリスチャンにはあってはならないのだから、たとえ所属教会があったとしても、それは何の誇りにもなり得ないはずだ。むしろ、地上の国籍が消滅し、寄留者(悪い言葉で言えばジプシー・クリスチャン)としての身分が確定した後になって、かえって、天での国籍がより明らかな形で魂に迫って来たことは、私にとって大きな幸いだった。信仰の仲間も、かつてよりも、もっと大きく広がりつつあると言えるかも知れない。

いつになれば、エクレシアの仲間と、互いに顔を見合わせて、話せる時が来るのだろうか。それがまだ成就していないことに、孤独を感じる時もある。だが、そんな時には、今後、からし種一粒の信仰が、どれほど大きく成長していくのかに思いを馳せる。今まだ小さな芽に過ぎないものが、どうやって、太い幹となり、枝葉を茂らせ、空の鳥も憩うほどの大樹となっていくのだろうか。
神は今後、まだまだ多くの羊を呼び集められ、私達の兄弟姉妹を多く増し加えて下さるだろうと思う。そしていつか、クリスチャンが豊かに生い茂らせる平和の枝の上で、空の鳥たちが憩い、歌う日が来るだろう。楽しみなことだ。人には出来ないことも、神には出来るのだ。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、
その腕は世を治める。
見よ、その報いは主と共にあり、
そのはたらきの報いは、そのみ前にある。
主は牧者のようにその群れを養い、
そのかいなに小羊をいだき、
そのふところに入れて携えゆき、
乳を飲ませているものをやさしく導かれる。(イザヤ40:10-11)
 
藪の中で迷い、孤独に泣いているか弱い羊が、一匹でも、主の御手によって救い出され、そのふところに抱かれて安らぐようにと願う。