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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

バビロンの包囲の中で

昨日、エクレシアのことを書いたが、重大な注意点を補足せねばならない。それは、キリスト者が集まって神を礼拝することの喜びが、たとえどれほど大きかったとしても、私たちは、その喜びを求めるために集まるようになってはならないという点だ。キリスト者は、人生最後の瞬間まで、ただ神ご自身のみに目を向け、神ご自身だけを切に求めるようにしなければならない。それが礼拝の目的である。

 ドストエフスキーが警告しているように、集団的な跪拝の対象を求める人類の欲望には、果てしない深みがある。私たちは人知によっては、何がバビロンであり、何がエルサレムであるのかをきっと見分けることができないだろう。それほどまでに、かの者の誘惑は深い。サタンの荒野の第三の誘惑である地上の王国の中には、必ず、繁栄ばかりでなく、統一的な地上の宗教が含まれている。私たちは、自分が神のみに目を注ぎ、神に栄光を帰するためにある場所へ赴こうとしているのか、それとも、集団的な跪拝が生み出すあの興奮を求めて出かけようとしているだけなのか、それを常に、吟味し続ける用心深さを忘れてはならない。

 たとえキリスト者の集まりがどれほどの深い感奮をもたらすものであったとしても、私たちは、それを得ることを目的にして礼拝を行おうとしてはならないのだ。仮に、隣にいるキリスト者の中に、どれほど感動的な主の臨在を感じたとしても、私たちはただ天に目をむけ、天にまします私のお一人なる神だけを見上げることを忘れてはならない。隣の人の中にこそキリストがおられると考えて、その人の内側に目を向けようとすべきではない。(確かにキリスト者それぞれうちにはキリストが住まわれているのだが。)

 なぜなら、もしもそのように注意していなければ、私たちはあまりにもあっけなく、隣人の中の「現人神」に目を奪われ、そのきらびやかさに魅せられてしまうだろうからだ。元来、神のかたちに似て創造された人間の中には、人の目を惹きつけてやまないある種の誘惑が潜んでいる。それを用いて、人が神に仮装することはまことに簡単なのだ。たとえ、その人が「私は神だ!」とあからさまに叫んでいなかったとしても。

 だから、人に惑わされないよう常に気をつけていなければならない。キリスト者はいつでも、ただ主ご自身だけを一心に見つめるようにしなければならない。そのことだけが、あらゆる惑わしからクリスチャンを救ってくれるだろう。

 考えれば、考えるほど、現代のキリスト者は、いずれも深いバビロンの中にとらわれており、バビロンによって全面的に包囲されているのではないかと思われてならない。このバビロンの誘惑は極めて深い。

 一つには、それはバビロン化したニッポンキリスト教のことであると言えるだろう。だが、しかし、これ以上、その名称を使い続けることがためらわれるのは、ニッポンキリスト教という枠組みの中だけで、背教を論じようとすることに、そもそも意味がないからだ。むしろ、ニッポンキリスト教界という名を多用することによって、私たちは、背教が、そこに限定されて働くものでなく、もっともっと深い危険性を持っているものであることを忘れ去ってしまうかも知れない。

 バビロンとはまず、私たちキリスト者を完全に包囲している空中に働く霊的影響力であり、地理的な境界や、あらゆる組織の枠組みを超えて働く、諸霊の力であると認識すべきだろう。それは決して、キリスト教界内のみに限定して働くことはない。バビロンとは、まさに私の周りに広がっている世界全体のことだ。

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている。」(ピリピ2:15)

 この世はまさに曲がった邪悪な霊の支配に覆われている。キリスト者はその暗闇に囚われながら、御言葉の灯火を輝かせている小さな星だ。
 預言者エレミヤはバビロンにとらわれたエルサレムの民に、主が命じられていることを告げた。「わたしがあなたがたを捕らえ移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである」(エレミヤ29:7)。

 この言葉は、偶像礼拝の支配する土地の只中に住んで、異なる宗教的価値観にさらされて生きねばならない私のような者にとって、一種の安らぎとなる。私はこの土地の安全なしには、生きていけない。だから、この土地の実りと安全を願わずにいられないが、それは神の御心に反することではないと理解することができる。バビロンの中に住んでいるイスラエルの民は、とらわれている町の中で、安らかに暮らすために、町の平安を願っても良いとされた。

 だが、注意せねばならないことは、異教の町の安全を願うことは良くとも、エルサレムの民は、決して、その異教の町から霊的影響を受けてはならないと主から命じられたことだ。

「あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる」(エレミヤ29:8-9)

 注意せねばならないのは、「わたしの名によって偽りを預言している」と、神はエレミヤを通して、はっきりと警告されたことである。異教の神の名によってなされる預言ではなく、まさに唯一の神の名においてなされる預言の中に、信じてはならないものがあると警告がなされたことである。
 現代における背教もこれと同じである。私たちが警戒せねばならないのは、非キリスト教の教えではなく、キリスト教の名でやってくるあらゆる背教である。だが、その背教が、明らかな異端と分かっている腐敗した教えや、カルトと名指しされている集団や、ニッポンキリスト教界の名だけでやって来ると思っていたら、大間違いだ。背教はまさに主の御名を通して(偽のキリスト者から、もしくは堕落しつつあるキリスト者から)やって来るのである! 主の御名をかたりながら、偽りを広める人間は、どこにでも存在しうるのだ。(明日にでも、私がそうならないという保証はどこにもない! 主が私を守ってくださり、御言葉のうちを歩めますように!)

 背教に囲まれている今の時代にあって、神の名を用いながら、神が語られたのではない教えに影響を受けた誰しもが、疫病のように、背教を持ち運ぶ器となりうることに、私たちは注意せねばならない。さて、とらわれた民に向けられたエレミヤの預言は、次の有名なくだりにさしかかる。

 「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果たし、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導きかえろうと主は言われる。」(エレミヤ29:10-14)

 バビロンでの捕囚には70年という月日が定められていた。この捕囚の終わりは、私の人生においては、キリスト教界を抜け出た事件とも重なって見える。だが、考えてみよう。キリスト教界を抜け出れば、それがすなわち、バビロンを抜け出たことになるのか? それが、私が背教の影響にさらされる時代の終わりとなるのだろうか? 違う。断じて、そうではない。

 この曲がった時代にあって、一体、どんなキリスト者が、バビロンの包囲から完全に抜け出たなどと豪語できるだろうか。いや、今なお、私は捕囚の状態にあると言った方がふさわしいだろう。もちろん、主はそのとらわれの苦しみの中でも、私に平安と、将来の希望を約束して下さっている。だから、主に信頼して、揺るぎない平安の中に立っていれば良いのである。だが、真実の解放は、主の定められたその時(サタンの完全な敗北と主の再臨の時)でなければやって来ないことを忘れるわけにはいかない。

 確かに、私にはかつて奪われたものが少しずつ主の恵みによって回復されつつあり、追いやられた土地から、主の御名のもとに集まる人々のもとに引き戻された。だが、それで万事が回復し、警戒の必要はなくなったのかと言えば、そうではない。もはや背教は後ろに過ぎ去り、私とは無縁になったと言えるかと言えば、そうではない。油断は禁物である。戦いはまだまだこれから始まるかも知れないからだ。(いや、恐らく、今からが本番なのであろう。)

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」

 エクレシアとは、一人ひとりの信者が神だけを一心に尋ね求めて、神に出会う場所のことだ。それはどこか限定された一区画の土地である必要はまったくないし、集まる人々の種類にもよらない。
 私たちがただ主のみに心を向け、ただ主ご自身の臨在のみを求める時に、神自らが私たちに会ってくださるのだ。仮にそれが一人ぼっちの礼拝であったとしても、神が臨在されるならば、それは十分に礼拝であると言えるだろう。だから、恐れることはない。私たちは信者に会うために常にどこかに出かけようとする必要はないし、集うことに過度なこだわりを抱く必要もない。ただ、神にお会いすることだけを切に求めていれば、全ては兼ねて与えられるのだ。
 
 集団的な跪拝というものが作り出す情熱と興奮を求めて各地を行き来することがないよう注意しなければならない。そのような情熱の中に、背教が大きな原動力を見いだしていることは確かだからだ。だが、それでも、もしも許されるならば、私は心から共に主を礼拝する仲間と出会い、喜びを分かち合いたいと願わずにいられない。そして、共にキリストの御身体なる兄弟姉妹として、欠けた部分を補い合い、互いに助け合い、支え合って生きていきたいと思わずにいられない。(もちろん、神の御前での単独者としての立場を忘れるわけではないが、これ以上、一人きりで信仰生活は、沢山である。)
 私は心の底から、兄弟姉妹と集える日が来ることを願い、また、そのことを切に主に求める。

 主よ、あなたのいつくしみ深さ、恵み深さをどうかもっと私に教えてください。
 あなたの私への愛の広さ、深さを、どうかもっと知らせて下さい。
 あなたこそがすべての恵みの源。私はあなたの愛を求めてやみません。
 花婿なる主よ、私はあなたにお会いしたいのです。
 あなたが私のうちにおられるだけでなく、主を愛される人々の只中に、
 臨在されることを知りたくてたまらないのです。
 主よ、あなたの訪れをただ待ち望みます。

 
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恐れからの解放

 退屈になると、バイクを飛ばして道を走る。
 川べりの土手を走ると、山からの冷たい空気が降りて来て、心地よい。
 冬は恐ろしく寒いが、今の季節は快い。
 飛ぶように、滑るように走るバイクが、私はとても好きだ。

 今日は、走りながら、ヘルメットの中で叫んだ。
「主イエス・キリストの御名によって、私を束縛する全ての枷を打ち砕きます! 
 私を閉じ込める『水槽』からの完全な解放を宣言します! 私は完全にあがなわれ、健やかさの中に入れられたことを信じます!」と。

 さて、「水槽」とは何なのか。
 少し前まで、我が家では魚を飼っていた。小さな水槽に、初めは5匹の稚魚がいたのだが、日が経つにつれて、一匹減り、二匹減り、ついに最後の一匹だけ残った。
 だが、最後の一匹もついにある日、死んでしまった。(餌はちゃんとやっていた。)

「孤独死したんでしょう」、と母が言った。それを聞いて、私はぎょっとした。
 魚が、孤独死することなんてあるのか!?と思ったからだ。

 私は今でも、読むとどうしても笑わずにいられない聖書の箇所がある。
 ホセア書第4章の冒頭だ。

「イスラエルの人々よ、
 主の言葉を聞け。
 主はこの地に住む者と争われる。
 この地には真実がなく、愛情がなく、
 また神を知ることもないからである。
 ただのろいと、偽りと、人殺しと、
 盗みと、姦淫することのみで、
 人々は皆荒れ狂い、
 殺害に殺害が続いている。
 それゆえ、この地は嘆き、これに住む者はみな、
 野の獣も空の鳥も共に衰え、
 海の魚さえも絶え果てる
。」

 これは少しも笑い事ではない、実に深刻な聖句なのだが、私にとっては可笑しく思われる。人類の罪のために、空を飛ぶ鳥さえもやせ衰え、海の魚さえ死に絶えるというこの聖句は、比喩なのだろうか、それとも、事実なのだろうか?

 人類の身勝手で放埓な生活ゆえに生じた環境汚染の挙句、鳥や魚が死ぬというのなら、まだ話は分かる。だが、ホセア書の書かれた時代に、そのような問題はなかったのではないだろうか。

 すると、どういう因果関係があって、獣と鳥と魚が人類の罪の被害をこうむって弱り果てねばならないのか、考えると不明なのだ。

 きっと、鳥も魚も、言葉を使わず、人間のような知性を持たないが、どこかでちゃんと、この世の中がどうなっているか理解しているのだろう。そして、あまりにも人々が乱れきったひどい生活をするようになると、とても見るに忍びず、愛想を尽かし、嘆き、苦悶し、絶望して、自ら世を去っていくのではあるまいか…。

 年間の自殺者約三万人、という今の日本。国民さえも愛想を尽かして世を去って行くこの国に、果たして、魚と鳥が住みたいと願うだろうか。
 
   刺激のない小さな水槽に閉じ込められた魚が長生きしないように、人が健全に生きるためには、それなりの環境が必要となる。

 だが、私にとって、物心ついた時から、周りに広がっている環境は、あまりにも生きづらいものであった。 
 そのほとんどの責任は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。
 私は当時、この教団と教会で教えられている内容を偽りだと知らず、その中で希望のない信仰生活を送らされていたのである。

 さらに、世の情勢の悪化がそれに追い打ちをかけた。

 かつてこの国には、一生懸命、勉強し、働けば、人並みの人生をきっと生きられるというビジョンがあった。だが、私が社会に出る頃には、そのビジョンは崩れており、今現在は、もうこの国ではかつてのような生活は成り立たず、どれだけ多くの人々が追い詰められ、夢を奪われているであろうか?

 宗教の欺瞞。世の欺瞞。
 私は、そうした環境の腐敗のために、自分が弱り果てて行くように感じていた時期があった。
 かろうじて命をつないでいたあの小さな水槽の魚と同じように。
 
 だが、その中で、一体、まことの神はどこにおられ、この現状をどう見ておられるのかと、叫び求めるようにして、神からの応答を待った。

 私たち一家がかつて通っていたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含めたキリスト教界全体は、世の絶望に向かう環境の中で信者がどう生きるべきか、全く希望を与えなかった。
 それどころか、背教がはびこり、多くの信者が願いを打ち砕かれ、迷いの中に投げ出された。
 牧師に信者を依存させるだけのキリスト教界の中にいては、真理は決して得られないのだと分かったのは、少し後のことである。

 だが、ようやくそれが分かってキリスト教界を出た後でさえ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師とその支持者たちは、この教団に長きに渡り、少なからぬ奉仕をして貢献してきたはずの私や、私の家族に敵対した。
 彼らは何とかして信者を本物の信仰に至らせまいと、私たちに対しても盛んに妨害工作をしかけ、悪魔に加勢する側に回った。
 
 村上密牧師は、その他にも、多数のキリスト教会に裁判を仕かける側に回り、無実のキリスト教徒に濡れ衣を着せて教団から追放し、ただでさえ背教がはびこり、多くの信者が苦しんでいたキリスト教界に、光を与えるどころか、徹底的な打撃を加えた。
 
 まさに悪魔の所業としか言いようがない、キリストの似姿からはほど遠い、人間の心さえも失った、無慈悲な連中である。長年、教団に奉仕した人間にさえ、礼節を忘れ、容赦なく戦いを挑む、もはや信者と呼ぶに値しない、堕落した生まれながらの獣のような人間の姿そのものである。

 こうした人々に率いられる、世に打ち勝つ力を全く持たない偽りの教会の中にいて、そこで自分を神のように見せかけている指導者たちを本物の信仰者だと思い込み、彼らの身勝手な言い分に従おうと無駄な努力しているうちは、信者はそこに絶望しか見いだすことはできないであろう。

 このような腐敗した「水槽」を早く脱出して、信者はまことの神を探し求めねばならないのである。

 今日、「健やかさの追求」というメッセージを、再生と停止を繰り返しながら聞いているうちに、私はだんだん無性に腹が立ってきた。
 
 こんな「水槽」のために何年間、無駄な我慢を強いられて来たことであろうか。
 こんなもののために弱り果てねばならないと、聖書のどこに書いてあるのか。
 そんなことは聖書のどこにも書いていない!!

 むしろ、聖書はイエスの十字架によって、私が完全に罪と呪いから解放されたことを告げているではないか。

 私はどうしようもない憤りを感じた。
 私を長年に渡って縛り続けて来たこの虚偽に対して。
  
 そこで、イエスの御名によって、水槽に死を宣言することにした。
 私の信仰が本物ならば、いちじくの木が立ち枯れたように、この水槽も粉々に砕け散るだろう。

 水槽が壊れ、水がなくなったら、魚はどうやって生きていくのだろう?
 いや、そんな人工的な装置はもう要らないのだ。
  
 私自身が、いや、私のうちにおられる主こそ、豊かな水の源なのだから。
 バプテスマに浸され、死んだ私は、神の命の中に隠されて生きている。

 体中管だらけにされて、延命治療を受けさせられるかのように、キリストご自身に直結せず、偽物に信者を縛りつけるだけの偽物の生命装置としての水槽には、もう用はない。

 キリスト教界を脱出しなさい!
 牧師やリーダーや教師たちから離れなさい! 
 救済者や、助言者を名乗って、あなたに近づいて来る、優しそうな人々に、
 これ以上騙され、束縛され、栄光を奪われてはいけません。
 
 彼らの正体を見抜き、これを糾弾し、離れなさい。
 神の御言葉を売り物にして商売している人々に決して近づいてはいけません。

 キリストとエクレシアの偽物でしかない人工装置としての「水槽」によって生かされるのをやめて、まことの神ご自身にしっかりとつながって、キリストご自身から命と、栄養をいただいて生かされなさい!

 神はすべての損害から人々を立ち上がらせて下さることができる。
 
 たとえ現在の日本に、野の鳥も衰え、川の魚も死ぬほどに、ひどい環境が広がっているように見えたとしても、たとえキリスト教界がどれほどの暗闇に覆われており、背教が広がり、バクテリアさえ死を願うだろうほどに厭わしい環境がこの国を覆っているのだとしても、キリスト者の望みは尽きることがない。それを変えてくださる力は、主にある。

 人にはできないことでも、神にはできるのだ。
 
「『主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。
 わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。
 これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに約束した言葉である。
 わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。
 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、
 かわいた地とを震う。
 わたしはまた万国民を震う。
 万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。
 わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」(ハガイ2:4-9)

 荒れ果てた主の家を再建した人々に与えられたこの御言葉は、私に与えられたものでもある。たとえキリスト教界を偽りが覆い、多くの信者たちが迷い、疲れ果てているとしても、荒れ果てた神の宮を再興する使命が、私に与えられたのだ。

 私はギデオンのように、最も困難に直面して途方に暮れているかのように思われる瞬間に、「勇者よ」と呼びかけられて、立ち上がったのである。

 「私に従って来なさい」
 主は繰り返される。

 「私に従って来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」

 神学校などに行って献身するからではない。
 神ご自身が、御霊によって見えない証印を押して、私の背中を押して、言われるのだ。

 「全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を伝えなさい。キリストの勝利と、悪魔の敗北を、神の国の到来を告げ知らせなさい・・・」
 
 もうこれ以上、偽りにごまかされるのはやめよう。
 牧師などというものは要らないのだ。
 どんなに救済者然と登場して来る指導者も要らない。
  
 キリストが私の内に住んで下さり、神が我が味方なのである。我が避けどころであられる主が、私をあがなわれ、祝福しておられ、すべての弱さを強さで覆い、恥を名誉に変え、悲しみを喜びに変えると言われているのだ。

 貧困や、破滅や、死に絶え間なく脅かされ、世の思惑、人間の指導者の思惑に縛られ、脅かされるような人生はもう終わりである。
 乳と蜜の流れる土地、キリストの命溢れるまことのエルサレムに、神の国の秩序の只中に、信者は入れられているのだ。 

 主は言われる、神の国はあなた方の只中に来ている、と。
 だから、全ての恐れと不安に、さよならを宣言し、神が信ずる者のために天に蓄えて下さった豊かな命の中を生きよう。

 弱って衰えたひざをまっすぐにして立ち上がり、喜びと感謝の歌を歌いながら、歩いて行くのである。天の都へ向かって。
 
「シオンの娘よ、喜び歌え。
 イスラエルよ、喜び呼ばわれ、
 エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
 主はあなたを訴える者を取り去り、
 あなたの敵を追い払われた。
 イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。 
 あなたはもはや災いを恐れることはない。<…>

『シオンよ、恐れるな。
 あなたの手を弱々しくたれるな。
 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、
 勇士であって、勝利を与えられる。
 彼はあなたのために喜び楽しみ、
 その愛によってあなたを新にし、
 祭りの日のようにあなたのために喜び呼ばわられる』。

『わたしはあなたから悩みを取り去る。
 あなたは恥を受けることはない。
 見よ、その時あなたをしえたげる者を
 わたしはことごとく処分し、
 足なえを救い、追いやられた者を集め、
 彼らの恥を誉れにかえ、
 全地にほめられるようにする。<…>
 わたしがあなたがたの目の前に、
 あなたがたの幸福を回復するとき、
 地のすべての民の中で、
 あなたがたに名を得させ、誉を得させる』と
 主は言われる。」(ゼパニヤ3:14-20)

 何と素晴らしく勇気づけられる御言葉だろう! 何ととてつもなく大きな勝利だろうか!

 主よ、私はあなたの御約束を信じます。あなたの私へのとこしえに変わらない愛を信じます。私をあがない出して下さり、御国へと導いて下さるあなたが、この世においても、私を良きもので飽き足らせて下さることを信じます。

 私は災いを恐れず、二度と孤独になることもありません。どんな状況にあっても、あなたが共にいて下さり、すべての必要を満たして下さるからです。
 主イエスよ、我が神よ、あなたに感謝を捧げ、あなたの偉大な御名を誉めたたえます。


初めの愛

日が昇って、辺りが明るくなりつつある。昨日より、神に捧げる愛が、私の中に、まるで潮騒のように優しい音楽となって鳴り響いている。旋律も和音もないのに、不思議なほど感動的な調べなのだ…。
 「初めの愛」に引き戻された。今はどんな斬新な話題も要らないし、緻密な分析も要らない。時事的な話題で人目を集める必要もないし、人の語る言葉の刺激によって自分を満たす必要もない。こうしてブログを書くことさえ億劫なほどに、主との語らいが、大きな安らぎとして身に迫ってくる…。

 静かなところへ身を避けて、主との一致の中で、安らかに、半生を振り返る。これまでの人生に起きた喜びと悲しみと、壮絶な苦悶の跡も含めて、すべての事柄をもう一度、主の視点で見ながら、語り合う。
 ああ、あの場面でも、主は私と共におられたのだな。この場所へ来た時も、やっぱり、一緒におられたんだろうか? 旅の道連れと心が通じず、破れた心を抱えて、自分は一人ぼっちで、見捨てられていると思っていたあの時でさえ、私は一人ではなかった…?
 全ての心の打ち傷について、主に率直に申し上げる。すると主は私の祈りに応えて、それを御言葉によって温かく包んで下さる。

 神は聖書の中で、キリスト者の夫になったり、親になったりと、結構、忙しい。やはり、私の中で一番、近しく感じられるのは夫から妻への呼びかけだが、戒めを語る時には、「わが子よ」という表現が多く用いられる。

 「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
 わたしの語るところに耳を傾けよ。
 それを、あなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに守れ。
 それは、これを得る者の命であり、
 あまたその全身を健やかにするからである。
 油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉は、これから流れ出るからである。
 曲った言葉をあなたから捨てさり、
 よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。<…>
 あなたの足の道に気をつけよ、
 そうすれば、あなたのすべての道は安全である。
 右にも左にも迷い出てはならない。
 あなたの足を悪から離れさせよ。」(箴言4:20-27)

 私の心はまるで海の色のように刻々と変化する。海のように荒れ、または穏やかに波打つ。その心を守れと主は語られる。自分の心を見張れ、と。この世の事象によって心騒がせるのではなく、御言葉によって心が導かれるようにせよ、と主はおっしゃる。それが私の健全さと、命の泉を保つための秘訣なのだと。その通りに従おう。

 近々、主は私が知らず、考えたこともないような新たな恵みへと導いて下さるのではないだろうかと思いを馳せる。世はますます混乱へ向かうかも知れないが、それに反して、キリスト者はますます主にあっての喜びと平安に満たされるだろう。

 格差とは、経済的なものではないのだ。このことに、どれほどの人々が今、真に気づいているだろうか。この先、神の御言葉に立つ者の豊かさと、御言葉に立たない者の貧困という、霊的格差はますます広がっていくだろう。御言葉に立たない者の貧困はあまりにも著しくなり、求めても、求めても、安らぎが得られなくなるかも知れない。御言葉を聞くことへの飢餓が始まるだろう。そして、よく言われるように、その飢饉はすでに始まっているのだ…。

 花嫁は婚礼へ向けて、身支度を始めなければならない。灯りと油を用意せねばならない。救いの確信に立ち、御言葉の光を保ち、霊によって導かれて生きなければならない。人生の時間はいつまでも永遠に与えられているわけではないのだから、限られた生の中で、神に召し出された花嫁としての身支度をクリスチャンは完全に整えなければならない。この峻厳なたとえ話を思い出し、愚かな花嫁になってはいけないと自分に言い聞かせる。

「私にできるでしょうか、主よ?」
 不安に駆られてそう尋ねるならば、主はきっとこうお答えになるだろう。
「あなたがするのではない、私がするのだ」

 聖書に出て来る花嫁の身支度の場面は、私にとって特別な意味を持っている。いつかまた語ることがあるかも知れないが…。主に召し出された花嫁の晴れ姿はいかばかりに美しいものだろうか? だが、そのきらびやかさ、美しさばかりに思いを馳せるのでなく、今、もう一度、心を厳かにして、私がいずれ臨もうとしている婚礼の厳粛な意味を考えてみる。何度、考えても、私はそれにふさわしい人間ではない。主が私を聖めて下さらなければ、どうしてその日に私は主の御前に恥ずかしい思いをせずに立ちおおせようか。

 主よ、どうして私のようなものをお選びになって下さったのですか?
 一瞬にしてこの地上を過ぎ去り、気づけばもう消えている道端の草のようなこの命の短い者を、永遠の存在であるあなたがお選びになることなど、どうして起こり得たのでしょうか?
 どうしてあなたが私を愛されるなどという奇跡が起こり得たのでしょうか?
 さらに、あなたがこの私のために命を捨てられたとは、何という信じられないほどの不思議でしょうか。
 人とは何者なのでしょうか。
 人が何者だから、あなたはこれほどまでに人に目を留めれるのでしょうか。

 神は、限りある命の、脆く弱い人間のために、小羊なる御子イエスの命を与えられた。その血によって人を罪から洗い清め、神にふさわしい聖なる花嫁となるようにされる。

 

自分発の愛から神発の愛へ

人の道は自分の目にことごとく潔しと見える。
しかし主は人の魂をはかられる。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:2-3)

 山谷少佐が記事「目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、Sugarさんの「山暮らしのキリスト」の記事を読んで、目からうろこが落ちるような感銘を受けたことを書いておられた。それを読んで驚いた。実は、私もSugarさんの記事を読んで、驚きと感銘を受けていたからである。

 高校生の頃、私は教会に所属していた。教会で何か行事がある度に、参加者を増やすために、学校で友人や先生にチケットやパンフレットを配り歩いていた(今から思えばはた迷惑な信徒であっただろう)。そんないきさつがあって、学校では私がクリスチャンであることを数人の先生方が知っておられ、職員室で、たまたま信仰の話が出たことがあった。
 ある時、世界史の先生が、私に聞いた。
「ねえ、きみ、神様を信じてるらしいけれど、好きな人が出来たら、きみは神様と、その人と、どっちを取るつもり?(好きな人をあきらめてでも、神様に従うことができる?)」

 私はそれを聞いて、心の中で、何という愚問だろうと思ったことを覚えている。人は皆、神が創造されたのだ。神は互いに愛し合いなさいと人に言われたのだ。だから、神を愛することと、人を愛することは対立しない。
 …それが当時、生真面目な信徒だった私の思い描いた生真面目な答えだった。
 もっとも、先生はその会話を冗談にして終わらせてしまったので、せっかくの模範解答には、答える暇も与えられなかったのだが…。

 今から思うと、その教師が投げかけた質問は、私が当時、思い描いたよりも、はるかに深い意味を持っていたことが分かる。時に、クリスチャンでない人の言葉を通してさえ、主は私に来るべき試練を告げ知らせ、私を試されることがあるのかも知れない。人から試される時、私たちは、自分の心をもう一度、奥底までかえりみる用心深さを持つ必要があるだろう。間違っても、自分は誰からも試される必要のない、全てを悟った人間であるなどという自己過信に陥ってはいけない…。

 「心にはかることは人に属し、舌の答えは主から出る。」(箴言16:1)
 私が今、心に持っている答えは、人の思いに過ぎないものだろうか? それとも、主から与えられた答えなのだろうか? 時に、それは試されてみなければ分からない場合がある。人の心を探り極める方が、私の心を底の底まで探り極め、あらゆる不純物を取り除いて下さることを願う。

 さて、高校時代が過ぎ去ってだいぶ経った頃、クリスチャンでなかった友人や、クリスチャンを名のっていたにも関わらず、実は偽クリスチャンであった牧師や信者らの手によって、私の人生は滅茶苦茶に壊された。それは、神への愛と、人への愛が、私の中で、両立しなかった結果であった。
 もちろん、そこにあったのは、様々な人間関係であった。師弟関係あり、先輩後輩あり、信徒の交わりや、近所づきあいなども含まれていた。愛という名前でひとくくりにするには、あまりにも複雑な人間関係だったかも知れない。
 だが、人への愛(人への執着や、義理人情)は、いずれにせよ、私の人生を足元からひっくり返し、私を引き倒し、神の御前で取り返しのつかない大きな失敗を犯させた。その体験の最たるものが、カルト化教会での事件だった。

 そんなことがあったおかげで、以後、私は人を愛することに対して、極度に慎重になった。というよりも、人に対して徹底的に絶望させられたため、愛という感情そのものが、しばらくの間、私の中で、完全に死に絶えていたと言っても過言ではなかった。全ての人間関係を断ち切り、あらゆる人への未練を追い払い、ただ一人きりになり、神の愛と真実だけを求めるところから、挫折した私の信仰生活は再開した。

 その後、私のために色々な励ましをして下さる方も現れたが、それでも、人を愛することについて、未だ大きなためらいを私は持ち続けていた。キリスト者の人への愛のあり方はどうあるべきなのか? どうすれば、人への愛と、神への愛は対立しなくなるのか? 
 人に徹底的に絶望させられた私の中で、もう一度、人への優しい感情が甦ろうとするにつれて、これ以上、人の思惑に振り回されたり、人に欺かれるという失敗を繰り返してはならないという強い自戒の念がこみあげた。そこで、わずか二日ほど前、私を支援して下さったある方に、心からの好意と感謝を表しつつも、私は次のような内容を書き送った。

「全ての感情にまして、私は私を贖い出された主のものです。
私の夫は万軍の主なのです。世界中の夫族の中でも、とりわけ、嫉妬深い夫なのです。
私の愛を独占しなければ、気がすまないお方なのです。
私がどんなに愛しても、決して、満足することがなく、さらに私に愛と忠誠を求められるお方なのです。この方が、『おまえは私の聖なる妻(エクレシア)となったのだ、その立場を二度と忘れるな』と言われます。
ですから、私は夫の怒りが怖いので、今後、何があっても、誰とも『浮気』はいたしません。
生きるのも死ぬのも、ただ主のためです。 」

 二度と、神よりも人への感情を優先することはすまい。たとえ主の御名によって遣わされる兄弟姉妹であっても、神以上にその人を優先することはすまい、そう宣言したつもりであったが、それだけでも、神への愛を表すには、まだ不十分であった。そのことが、数日後、Sugarさんの記事「愛は分割されてはならない」を通して判明した。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。
神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が『私流のやり方で』主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が『神ご自身に従って』ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に『ねたむ神』です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は『彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る』と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。

 これを読んだ時、主は私の心の弱さを隅々まで見透かしておられるのだろうか、と驚いた。人への愛を神への愛よりも優先しません、などという中途半端な言葉でお茶を濁している場合ではない。まずは、人へのあらゆる未練と執着を徹底的に断ち切り、自分の感情の全てを神へ捧げきるところから、キリスト者の歩みは始まるのだ。最初に、まず、それをしておかなければならない。

 私が愛するのは、主よ、あなただけです。地上のどんな人間も、天のどんな存在も、私の心を動かすことはできません。私の愛は人生最後の瞬間まで、ただあなただけのものです。
 主よ、私はあなたの他には誰一人、愛していません!! 私の愛はただあなただけのものなのです!!
 まずは、主の御前でそう告白する必要がある。

 だが、それでは、神お一人だけに全ての愛を捧げ切ってしまうなら、私たちはもう誰をも愛せなくなるのか? まるで修道院に入ったように、人を離れ、世俗を捨てて、余生を神だけに捧げる孤独な生活を送ることしか残されていないのか?という疑問が生じるかも知れない。
 そうではない。ここで逆説的な事件が起こる。一旦、私たちが自分の愛を完全に神に捧げてしまうと、神は私たちを神との一致の中に引きいれて下さり、そこで、聖別された愛を与えて下さり、神を出発点とする聖い愛によって、私たちが他人を愛することを改めて可能にして下さるのだ。そのことは、一つ前のSugarさんの記事「主に愛を捧げること」に記されている。

「私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
『他人を自分と同じように愛する』ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に『神のために、
神の中で、神の愛によって』人を愛するようになるからです。」

 自分自身として人を愛そうと苦心している時には、人の愛には制限が生じる。好感の持てる人しか愛することはできない。自分にとって益となる人しか愛することができない。さらに、愛情の源となり、刺激の源となる自他の関係を何とかしてつなぎとめておきたいとの思いから、相手の存在への強い執着が生じる。別離が怖くなり、死などによって愛する相手を失うことへの恐れが生じる。

 しかし、愛情が、自分発のものから、神発のものへと変えられる時、私たちの愛情のあり方そのものが変わってくる。手に入れる⇔失う、出会う⇔別れる、という区別が消えて、私たちの愛はどんな出来事によっても、決して失われることのない永遠の絆へと変わっていく。

 目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う。(何しろ、神は愛だからだ。)私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。
「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。

 今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しないと。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。

 そして、今はまだ難しいことであるが、神は敵への愛をも、きっと与えて下さることを信じる。肉なる私にとっては、ただ嫌悪することしかできないような相手にさえ、不思議な形で、愛することを可能として下さるのが、主であると信じる。
 神は愛なのだ。神にできないことはない。そして愛はすべてのとがを覆うのだから。


村上春樹氏のエルサレム賞受賞のスピーチ原稿から


 皆様の熱いご要望にお応えして、村上春樹氏のスピーチを再掲します。
余計ながら、以前に私が書いた文章も繰り返しますが、ご了承ください。
 

* * *

イマーゴ氏の「精神分析じゃない日々」に掲載されていた、エルサレム賞受賞の際の村上春樹氏のスピーチ原稿です。あまりにも見事なスピーチのため、部分的ですが、記事からぜひにも引用させていただきました。(記事には全文翻訳が掲載されています。)

私は必ずしも村上春樹の全作品が好きなわけではなかった。というより、どちらかと言えば、彼の作品は苦手だった。けれども、今回の村上春樹氏のスピーチは、私が言いたいことを、そっくりそのまま代弁してくれるような、胸のすくような文章だった。
ただ、とても心を打たれた。

私はこれまで、日本のキリスト教会における問題についてひたすら語って来た。けれども、ひょっとすると、中には、私の文章を読んで、次のように非難する人があるかも知れない。
「どうしてきみはいつもふざけた『言葉遊び』のような方法ばかり使って信仰を語ろうとするのか? どうしてフィクションの物語まで登場させるのか? 信仰とは真面目な事柄なのに、きみの文章を読むと、いつもきみが本気なのか、冗談半分なのか、分からなくなってしまう。しかも、いつもセンセーショナルな題名ばかり並べて、まるでワイドショーきどりだね。そういうやり方はぼくは好かない。いい加減、言葉遊びはやめて、きみもクリスチャンなら、もっと真面目に、純粋に、ストレートに信仰を語りたまえ。きみの心の純粋さが、きみのふざけた文章からは見えないよ。」

けれど、そうではないのだ。冗談半分で、私はフィクションの話など登場させているわけではないし、受け狙いで、センセーショナルな話題に焦点を絞っているわけではない。
学術論文、創作、記念文集…、これまで色々な文章を書いてきたが、私もやはり、村上春樹氏と同じように「プロの嘘つき」なのだとつくづく思う。そして「プロの嘘つき」として、これからも文章を綴り続けたいのだ。
それは「言葉遊び」を目的としてのことじゃない。
ただ、「システム」という巨大な壁に立ち向かい、そこにぶつかって割れ続ける、幾千、幾万の「個人の尊厳」という卵、この小さな小さな命の光に焦点を当て、彼らの苦しみを代弁し、この不条理を訴えるためだ。

私は、マシュマロのように甘い砂糖まぶしの、自分の幸福のことばかりに焦点を当てた文章を読むことを好まない。たとえ、それがどんなにその人にとって嬉しい、幸せな話であったとしても。
世界中の数え切れない人たちが、今も不幸に呻き続けている中で、そのようにして、壁に押しつぶされて消えてゆく人々を、無いがごとくに無視して、ただ自分の幸福だけに酔いしれているだけの文章を見ると、私はどうしても、目をつぶり、耳を塞ぎながら、そういう言葉たちを足早に通り過ぎたくなってしまう。

私は、たとえ自分の書く物語がどんなに極端な構造になったとしても、それがどんなに非現実的なまでに、ただ一点にだけ焦点を当ててそれを押し広げるものになったとしても、今後も、壁につぶされる弱い者の側に立って、文章を書いていきたいと思っている。それはシステムという巨悪を大きく浮かび上がらせるための闘いだ。

だが、巨悪と闘うための政治運動ではない。壁を倒すことが目的なのではない。(そんなことが無理であるのは分かっている。)ただ、壁に押しつぶされる人々の命かけた悲鳴を、より多くの人々の耳に届け、壁というものの不条理性を訴えることによって、一人でも、その壁にぶち当たって、血まみれになる人が減るように、叫ぶためなのだ。

…それは、すでに壁にぶつかって無惨に壊れ、砕け散った、私のような無数の「卵」たちへの弔いの詩でもある。

教会というところが、システムという壁になることの残酷さ。
教会というところで、人間を道具化し、押しつぶすプログラムが実行されていくことの恐さ。

人間をコントロールし、支配しようとする全てのシステムやプログラムという壁の理不尽さを訴え続けること、そのシステムがすでにキリスト教界にも導入されている現実の恐ろしさを訴え続けること、それが恐らく、これからも私の命かけた闘いとなるだろう。

闘いの武器として与えられているのは、ただ、ペン一本、今はキーボードだけ。
それでも、真実、神に従って生きるのなら、そのクリスチャンの言葉には、霊と肉を切り分ける鋭い刃のような力が与えられることを私は信じる。(そして、その人はもはや「嘘つき」ではなくなり、真実の証人となる。)
真実の言葉には力がある。真実の言葉は、鋭利な刃物のように、光と闇とを切り分け、人の思いと信仰とを切り分け、何がほんとうであって、何が嘘であるのか、全ての人々の前で、白日の下にさらけ出すだろう。

村上春樹氏が、今もまだ紛争が続くイスラエルの、他ならぬエルサレムで次のスピーチを語ったことの意味は大きいと思う。

 

――― 村上春樹氏のスピーチ―――

今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。
もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。
外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。
車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。
小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても
不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。
巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?

答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。
創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。
小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。
ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、
正確に描写する事も困難です。
ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。
ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。
で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか
明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。
1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。
結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。
もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。
国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。
その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。
こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、
紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、
圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。
もちろんそんな印象は与えたくありません。
私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。
もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。
あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。
たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。
「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、
「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。
そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。
その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。
自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。
正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのは
それぞれの書き手にまかされています。
私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。
今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。
これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。
メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。
どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。
何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、
そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。
爆撃機と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。
卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。
これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。
私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。
私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。
私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。
そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。
壁には名前があります。それはシステム(The System)です。
システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、
私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。
個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。
物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です

私は完全に信じています。
つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が
小説家の仕事だとかたく信じています。
それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり
悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。
生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、
体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。
だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
<…>

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。
私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。
私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。
どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。
もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、
かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。
システムにはそんなものはありません。
システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。
システムがひとり歩きするのを許してはいけません。
システムが私たちを作ったのではないです。
私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。
エルサレム賞をいただき、感謝しています。
世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。
今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。