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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

初めの愛

日が昇って、辺りが明るくなりつつある。昨日より、神に捧げる愛が、私の中に、まるで潮騒のように優しい音楽となって鳴り響いている。旋律も和音もないのに、不思議なほど感動的な調べなのだ…。
 「初めの愛」に引き戻された。今はどんな斬新な話題も要らないし、緻密な分析も要らない。時事的な話題で人目を集める必要もないし、人の語る言葉の刺激によって自分を満たす必要もない。こうしてブログを書くことさえ億劫なほどに、主との語らいが、大きな安らぎとして身に迫ってくる…。

 静かなところへ身を避けて、主との一致の中で、安らかに、半生を振り返る。これまでの人生に起きた喜びと悲しみと、壮絶な苦悶の跡も含めて、すべての事柄をもう一度、主の視点で見ながら、語り合う。
 ああ、あの場面でも、主は私と共におられたのだな。この場所へ来た時も、やっぱり、一緒におられたんだろうか? 旅の道連れと心が通じず、破れた心を抱えて、自分は一人ぼっちで、見捨てられていると思っていたあの時でさえ、私は一人ではなかった…?
 全ての心の打ち傷について、主に率直に申し上げる。すると主は私の祈りに応えて、それを御言葉によって温かく包んで下さる。

 神は聖書の中で、キリスト者の夫になったり、親になったりと、結構、忙しい。やはり、私の中で一番、近しく感じられるのは夫から妻への呼びかけだが、戒めを語る時には、「わが子よ」という表現が多く用いられる。

 「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
 わたしの語るところに耳を傾けよ。
 それを、あなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに守れ。
 それは、これを得る者の命であり、
 あまたその全身を健やかにするからである。
 油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉は、これから流れ出るからである。
 曲った言葉をあなたから捨てさり、
 よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。<…>
 あなたの足の道に気をつけよ、
 そうすれば、あなたのすべての道は安全である。
 右にも左にも迷い出てはならない。
 あなたの足を悪から離れさせよ。」(箴言4:20-27)

 私の心はまるで海の色のように刻々と変化する。海のように荒れ、または穏やかに波打つ。その心を守れと主は語られる。自分の心を見張れ、と。この世の事象によって心騒がせるのではなく、御言葉によって心が導かれるようにせよ、と主はおっしゃる。それが私の健全さと、命の泉を保つための秘訣なのだと。その通りに従おう。

 近々、主は私が知らず、考えたこともないような新たな恵みへと導いて下さるのではないだろうかと思いを馳せる。世はますます混乱へ向かうかも知れないが、それに反して、キリスト者はますます主にあっての喜びと平安に満たされるだろう。

 格差とは、経済的なものではないのだ。このことに、どれほどの人々が今、真に気づいているだろうか。この先、神の御言葉に立つ者の豊かさと、御言葉に立たない者の貧困という、霊的格差はますます広がっていくだろう。御言葉に立たない者の貧困はあまりにも著しくなり、求めても、求めても、安らぎが得られなくなるかも知れない。御言葉を聞くことへの飢餓が始まるだろう。そして、よく言われるように、その飢饉はすでに始まっているのだ…。

 花嫁は婚礼へ向けて、身支度を始めなければならない。灯りと油を用意せねばならない。救いの確信に立ち、御言葉の光を保ち、霊によって導かれて生きなければならない。人生の時間はいつまでも永遠に与えられているわけではないのだから、限られた生の中で、神に召し出された花嫁としての身支度をクリスチャンは完全に整えなければならない。この峻厳なたとえ話を思い出し、愚かな花嫁になってはいけないと自分に言い聞かせる。

「私にできるでしょうか、主よ?」
 不安に駆られてそう尋ねるならば、主はきっとこうお答えになるだろう。
「あなたがするのではない、私がするのだ」

 聖書に出て来る花嫁の身支度の場面は、私にとって特別な意味を持っている。いつかまた語ることがあるかも知れないが…。主に召し出された花嫁の晴れ姿はいかばかりに美しいものだろうか? だが、そのきらびやかさ、美しさばかりに思いを馳せるのでなく、今、もう一度、心を厳かにして、私がいずれ臨もうとしている婚礼の厳粛な意味を考えてみる。何度、考えても、私はそれにふさわしい人間ではない。主が私を聖めて下さらなければ、どうしてその日に私は主の御前に恥ずかしい思いをせずに立ちおおせようか。

 主よ、どうして私のようなものをお選びになって下さったのですか?
 一瞬にしてこの地上を過ぎ去り、気づけばもう消えている道端の草のようなこの命の短い者を、永遠の存在であるあなたがお選びになることなど、どうして起こり得たのでしょうか?
 どうしてあなたが私を愛されるなどという奇跡が起こり得たのでしょうか?
 さらに、あなたがこの私のために命を捨てられたとは、何という信じられないほどの不思議でしょうか。
 人とは何者なのでしょうか。
 人が何者だから、あなたはこれほどまでに人に目を留めれるのでしょうか。

 神は、限りある命の、脆く弱い人間のために、小羊なる御子イエスの命を与えられた。その血によって人を罪から洗い清め、神にふさわしい聖なる花嫁となるようにされる。

 
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自分発の愛から神発の愛へ

人の道は自分の目にことごとく潔しと見える。
しかし主は人の魂をはかられる。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:2-3)

 山谷少佐が記事「目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、Sugarさんの「山暮らしのキリスト」の記事を読んで、目からうろこが落ちるような感銘を受けたことを書いておられた。それを読んで驚いた。実は、私もSugarさんの記事を読んで、驚きと感銘を受けていたからである。

 高校生の頃、私は教会に所属していた。教会で何か行事がある度に、参加者を増やすために、学校で友人や先生にチケットやパンフレットを配り歩いていた(今から思えばはた迷惑な信徒であっただろう)。そんないきさつがあって、学校では私がクリスチャンであることを数人の先生方が知っておられ、職員室で、たまたま信仰の話が出たことがあった。
 ある時、世界史の先生が、私に聞いた。
「ねえ、きみ、神様を信じてるらしいけれど、好きな人が出来たら、きみは神様と、その人と、どっちを取るつもり?(好きな人をあきらめてでも、神様に従うことができる?)」

 私はそれを聞いて、心の中で、何という愚問だろうと思ったことを覚えている。人は皆、神が創造されたのだ。神は互いに愛し合いなさいと人に言われたのだ。だから、神を愛することと、人を愛することは対立しない。
 …それが当時、生真面目な信徒だった私の思い描いた生真面目な答えだった。
 もっとも、先生はその会話を冗談にして終わらせてしまったので、せっかくの模範解答には、答える暇も与えられなかったのだが…。

 今から思うと、その教師が投げかけた質問は、私が当時、思い描いたよりも、はるかに深い意味を持っていたことが分かる。時に、クリスチャンでない人の言葉を通してさえ、主は私に来るべき試練を告げ知らせ、私を試されることがあるのかも知れない。人から試される時、私たちは、自分の心をもう一度、奥底までかえりみる用心深さを持つ必要があるだろう。間違っても、自分は誰からも試される必要のない、全てを悟った人間であるなどという自己過信に陥ってはいけない…。

 「心にはかることは人に属し、舌の答えは主から出る。」(箴言16:1)
 私が今、心に持っている答えは、人の思いに過ぎないものだろうか? それとも、主から与えられた答えなのだろうか? 時に、それは試されてみなければ分からない場合がある。人の心を探り極める方が、私の心を底の底まで探り極め、あらゆる不純物を取り除いて下さることを願う。

 さて、高校時代が過ぎ去ってだいぶ経った頃、クリスチャンでなかった友人や、クリスチャンを名のっていたにも関わらず、実は偽クリスチャンであった牧師や信者らの手によって、私の人生は滅茶苦茶に壊された。それは、神への愛と、人への愛が、私の中で、両立しなかった結果であった。
 もちろん、そこにあったのは、様々な人間関係であった。師弟関係あり、先輩後輩あり、信徒の交わりや、近所づきあいなども含まれていた。愛という名前でひとくくりにするには、あまりにも複雑な人間関係だったかも知れない。
 だが、人への愛(人への執着や、義理人情)は、いずれにせよ、私の人生を足元からひっくり返し、私を引き倒し、神の御前で取り返しのつかない大きな失敗を犯させた。その体験の最たるものが、カルト化教会での事件だった。

 そんなことがあったおかげで、以後、私は人を愛することに対して、極度に慎重になった。というよりも、人に対して徹底的に絶望させられたため、愛という感情そのものが、しばらくの間、私の中で、完全に死に絶えていたと言っても過言ではなかった。全ての人間関係を断ち切り、あらゆる人への未練を追い払い、ただ一人きりになり、神の愛と真実だけを求めるところから、挫折した私の信仰生活は再開した。

 その後、私のために色々な励ましをして下さる方も現れたが、それでも、人を愛することについて、未だ大きなためらいを私は持ち続けていた。キリスト者の人への愛のあり方はどうあるべきなのか? どうすれば、人への愛と、神への愛は対立しなくなるのか? 
 人に徹底的に絶望させられた私の中で、もう一度、人への優しい感情が甦ろうとするにつれて、これ以上、人の思惑に振り回されたり、人に欺かれるという失敗を繰り返してはならないという強い自戒の念がこみあげた。そこで、わずか二日ほど前、私を支援して下さったある方に、心からの好意と感謝を表しつつも、私は次のような内容を書き送った。

「全ての感情にまして、私は私を贖い出された主のものです。
私の夫は万軍の主なのです。世界中の夫族の中でも、とりわけ、嫉妬深い夫なのです。
私の愛を独占しなければ、気がすまないお方なのです。
私がどんなに愛しても、決して、満足することがなく、さらに私に愛と忠誠を求められるお方なのです。この方が、『おまえは私の聖なる妻(エクレシア)となったのだ、その立場を二度と忘れるな』と言われます。
ですから、私は夫の怒りが怖いので、今後、何があっても、誰とも『浮気』はいたしません。
生きるのも死ぬのも、ただ主のためです。 」

 二度と、神よりも人への感情を優先することはすまい。たとえ主の御名によって遣わされる兄弟姉妹であっても、神以上にその人を優先することはすまい、そう宣言したつもりであったが、それだけでも、神への愛を表すには、まだ不十分であった。そのことが、数日後、Sugarさんの記事「愛は分割されてはならない」を通して判明した。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。
神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が『私流のやり方で』主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が『神ご自身に従って』ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に『ねたむ神』です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は『彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る』と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。

 これを読んだ時、主は私の心の弱さを隅々まで見透かしておられるのだろうか、と驚いた。人への愛を神への愛よりも優先しません、などという中途半端な言葉でお茶を濁している場合ではない。まずは、人へのあらゆる未練と執着を徹底的に断ち切り、自分の感情の全てを神へ捧げきるところから、キリスト者の歩みは始まるのだ。最初に、まず、それをしておかなければならない。

 私が愛するのは、主よ、あなただけです。地上のどんな人間も、天のどんな存在も、私の心を動かすことはできません。私の愛は人生最後の瞬間まで、ただあなただけのものです。
 主よ、私はあなたの他には誰一人、愛していません!! 私の愛はただあなただけのものなのです!!
 まずは、主の御前でそう告白する必要がある。

 だが、それでは、神お一人だけに全ての愛を捧げ切ってしまうなら、私たちはもう誰をも愛せなくなるのか? まるで修道院に入ったように、人を離れ、世俗を捨てて、余生を神だけに捧げる孤独な生活を送ることしか残されていないのか?という疑問が生じるかも知れない。
 そうではない。ここで逆説的な事件が起こる。一旦、私たちが自分の愛を完全に神に捧げてしまうと、神は私たちを神との一致の中に引きいれて下さり、そこで、聖別された愛を与えて下さり、神を出発点とする聖い愛によって、私たちが他人を愛することを改めて可能にして下さるのだ。そのことは、一つ前のSugarさんの記事「主に愛を捧げること」に記されている。

「私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
『他人を自分と同じように愛する』ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に『神のために、
神の中で、神の愛によって』人を愛するようになるからです。」

 自分自身として人を愛そうと苦心している時には、人の愛には制限が生じる。好感の持てる人しか愛することはできない。自分にとって益となる人しか愛することができない。さらに、愛情の源となり、刺激の源となる自他の関係を何とかしてつなぎとめておきたいとの思いから、相手の存在への強い執着が生じる。別離が怖くなり、死などによって愛する相手を失うことへの恐れが生じる。

 しかし、愛情が、自分発のものから、神発のものへと変えられる時、私たちの愛情のあり方そのものが変わってくる。手に入れる⇔失う、出会う⇔別れる、という区別が消えて、私たちの愛はどんな出来事によっても、決して失われることのない永遠の絆へと変わっていく。

 目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う。(何しろ、神は愛だからだ。)私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。
「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。

 今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しないと。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。

 そして、今はまだ難しいことであるが、神は敵への愛をも、きっと与えて下さることを信じる。肉なる私にとっては、ただ嫌悪することしかできないような相手にさえ、不思議な形で、愛することを可能として下さるのが、主であると信じる。
 神は愛なのだ。神にできないことはない。そして愛はすべてのとがを覆うのだから。


村上春樹氏のエルサレム賞受賞のスピーチ原稿から


 皆様の熱いご要望にお応えして、村上春樹氏のスピーチを再掲します。
余計ながら、以前に私が書いた文章も繰り返しますが、ご了承ください。
 

* * *

イマーゴ氏の「精神分析じゃない日々」に掲載されていた、エルサレム賞受賞の際の村上春樹氏のスピーチ原稿です。あまりにも見事なスピーチのため、部分的ですが、記事からぜひにも引用させていただきました。(記事には全文翻訳が掲載されています。)

私は必ずしも村上春樹の全作品が好きなわけではなかった。というより、どちらかと言えば、彼の作品は苦手だった。けれども、今回の村上春樹氏のスピーチは、私が言いたいことを、そっくりそのまま代弁してくれるような、胸のすくような文章だった。
ただ、とても心を打たれた。

私はこれまで、日本のキリスト教会における問題についてひたすら語って来た。けれども、ひょっとすると、中には、私の文章を読んで、次のように非難する人があるかも知れない。
「どうしてきみはいつもふざけた『言葉遊び』のような方法ばかり使って信仰を語ろうとするのか? どうしてフィクションの物語まで登場させるのか? 信仰とは真面目な事柄なのに、きみの文章を読むと、いつもきみが本気なのか、冗談半分なのか、分からなくなってしまう。しかも、いつもセンセーショナルな題名ばかり並べて、まるでワイドショーきどりだね。そういうやり方はぼくは好かない。いい加減、言葉遊びはやめて、きみもクリスチャンなら、もっと真面目に、純粋に、ストレートに信仰を語りたまえ。きみの心の純粋さが、きみのふざけた文章からは見えないよ。」

けれど、そうではないのだ。冗談半分で、私はフィクションの話など登場させているわけではないし、受け狙いで、センセーショナルな話題に焦点を絞っているわけではない。
学術論文、創作、記念文集…、これまで色々な文章を書いてきたが、私もやはり、村上春樹氏と同じように「プロの嘘つき」なのだとつくづく思う。そして「プロの嘘つき」として、これからも文章を綴り続けたいのだ。
それは「言葉遊び」を目的としてのことじゃない。
ただ、「システム」という巨大な壁に立ち向かい、そこにぶつかって割れ続ける、幾千、幾万の「個人の尊厳」という卵、この小さな小さな命の光に焦点を当て、彼らの苦しみを代弁し、この不条理を訴えるためだ。

私は、マシュマロのように甘い砂糖まぶしの、自分の幸福のことばかりに焦点を当てた文章を読むことを好まない。たとえ、それがどんなにその人にとって嬉しい、幸せな話であったとしても。
世界中の数え切れない人たちが、今も不幸に呻き続けている中で、そのようにして、壁に押しつぶされて消えてゆく人々を、無いがごとくに無視して、ただ自分の幸福だけに酔いしれているだけの文章を見ると、私はどうしても、目をつぶり、耳を塞ぎながら、そういう言葉たちを足早に通り過ぎたくなってしまう。

私は、たとえ自分の書く物語がどんなに極端な構造になったとしても、それがどんなに非現実的なまでに、ただ一点にだけ焦点を当ててそれを押し広げるものになったとしても、今後も、壁につぶされる弱い者の側に立って、文章を書いていきたいと思っている。それはシステムという巨悪を大きく浮かび上がらせるための闘いだ。

だが、巨悪と闘うための政治運動ではない。壁を倒すことが目的なのではない。(そんなことが無理であるのは分かっている。)ただ、壁に押しつぶされる人々の命かけた悲鳴を、より多くの人々の耳に届け、壁というものの不条理性を訴えることによって、一人でも、その壁にぶち当たって、血まみれになる人が減るように、叫ぶためなのだ。

…それは、すでに壁にぶつかって無惨に壊れ、砕け散った、私のような無数の「卵」たちへの弔いの詩でもある。

教会というところが、システムという壁になることの残酷さ。
教会というところで、人間を道具化し、押しつぶすプログラムが実行されていくことの恐さ。

人間をコントロールし、支配しようとする全てのシステムやプログラムという壁の理不尽さを訴え続けること、そのシステムがすでにキリスト教界にも導入されている現実の恐ろしさを訴え続けること、それが恐らく、これからも私の命かけた闘いとなるだろう。

闘いの武器として与えられているのは、ただ、ペン一本、今はキーボードだけ。
それでも、真実、神に従って生きるのなら、そのクリスチャンの言葉には、霊と肉を切り分ける鋭い刃のような力が与えられることを私は信じる。(そして、その人はもはや「嘘つき」ではなくなり、真実の証人となる。)
真実の言葉には力がある。真実の言葉は、鋭利な刃物のように、光と闇とを切り分け、人の思いと信仰とを切り分け、何がほんとうであって、何が嘘であるのか、全ての人々の前で、白日の下にさらけ出すだろう。

村上春樹氏が、今もまだ紛争が続くイスラエルの、他ならぬエルサレムで次のスピーチを語ったことの意味は大きいと思う。

 

――― 村上春樹氏のスピーチ―――

今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。
もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。
外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。
車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。
小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても
不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。
巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?

答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。
創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。
小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。
ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、
正確に描写する事も困難です。
ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。
ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。
で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか
明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。
1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。
結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。
もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。
国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。
その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。
こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、
紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、
圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。
もちろんそんな印象は与えたくありません。
私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。
もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。
あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。
たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。
「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、
「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。
そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。
その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。
自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。
正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのは
それぞれの書き手にまかされています。
私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。
今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。
これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。
メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。
どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。
何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、
そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。
爆撃機と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。
卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。
これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。
私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。
私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。
私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。
そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。
壁には名前があります。それはシステム(The System)です。
システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、
私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。
個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。
物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です

私は完全に信じています。
つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が
小説家の仕事だとかたく信じています。
それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり
悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。
生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、
体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。
だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
<…>

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。
私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。
私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。
どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。
もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、
かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。
システムにはそんなものはありません。
システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。
システムがひとり歩きするのを許してはいけません。
システムが私たちを作ったのではないです。
私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。
エルサレム賞をいただき、感謝しています。
世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。
今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。
 


 


悲しめる者のためのくちびるの実



気絶しそうなほどの猛暑の中、美観地区を散歩して来た。
私は子供時代に、7歳になるまでこの街に住んでいた。
今になっても、記憶のどこかに、街の風景がおさまっている。

街中を歩くと、まるで方位磁石が身体の中に埋め込まれているかのように、遠い記憶が呼び覚まされる。
いつか通ったことのある道。いつか見た風景、いつか見た空き地、なじみ深い山々…。
写真を通じて、猛暑が読者に伝わることはないと思うので、美しい映像を載せておきたい。

昨日、ある方からとても嬉しいお便りをもらった。
「もしもこの先、苦しまねばならないなら、私もあなたと共に苦しみましょう、
けれども、キリストにあっての自由を私はあなたに楽しんでいただきたいのです」、という内容の便りであった。

それを読んだ時、こんな不思議なことがあって良いものだろうか? と思った。

これまで、キリスト教界において、私は泣く者と共に心ゆくまで泣いてくれた人を見たことがなかった。ましてや、苦しむ者のために立ちどまり、共に苦しみを担ってくれる人には出会ったことがなかった。

私の知っているクリスチャンと名乗る人たちのほとんどは、みな、自分が正しくふるまうことで精一杯だった。
何が正しくて、何が間違っているかを論じることで精一杯。
サタンの誤りに陥らないように気をつけることだけで精一杯。

それは、私の目には、幾度、倒されても、立ち上がる不死身の怪物のように見えた。
まるで痛みなどないかのように、弱さなどないかのように、不撓不屈の精神で、自分を鞭打って、わき目もふらず、そばにいる人の気持ちにさえ気づかずに、ただ前に、神の義にだけ向かって、まっすぐ、進んで行こうとする人たち。

何が正しくて、何が間違っているかを論じるために、果てしなく生み出される議論の数々(律法学者たちとまるで同じ)。
もつれた糸にからまるようにして、議論の中で訳が分からなくなり、立ちどまってしまった信徒は、道の途中で、置き去りにされた。
「信仰の勇者」になりたい人たちは、脱落者に構うことなく、信仰の弱い人を助け起こそうともせず、疲れ果てた人を置いて、議論しながら、どんどん先へ進んで行った。
自分達だけが、天国に到達し、神の御前で義人としてふるまうために。

どれだけの人が、気づけば教会に姿を見せなくなっていっただろう。
人の苦しみさえも、どう解決すべきかという議論に変えられてしまった。
主の御前で喜ぶことさえ、義務として教えられた
他人の苦しみに対して、涙一つ流さないまま、聖書を指差しながら、押し付けがましく、もっともらしく、残酷に、誤った考えを捨てるように、繰り返される説教。

まるで人生で一度も挫折したことがないかのように、「主にあっての喜び、平安」だけをひたすら強調し続ける、このお化けのような人たちに、ある日、私はついに、身体がついて行かなくなった。

まるで人生で一度もつまずいたことがなく、自らの失敗のために一夜も泣き明かしたことがないかのように、「何が正しいか」だけをひたすら説き、避けるべき過ちを潔癖症のように列挙する人たちに耳を貸せなくなった。

光は、闇を拒否することによって生まれるだろうか?
喜びは、悲しみを拒否することによって生まれるだろうか?
たとえ全ての誤った感情と行動を拒否したところで、人はそこから、真の自由や解放を得られるだろうか?

それはキリスト不在の福音であったのだが、私はそのことに長い間、気づけなかった。
そこで、私はキリスト教そのものを一旦、捨てなければならなくなってしまった。

身近なクリスチャンの語る不自然な「喜び」や「平安」に、私は辟易してしまった。
異常なほど熱狂的で明るい説教を、心が受け付けなくなった。
異常なほど歓喜に満ちて、軽薄な賛美歌に、心がついて行かなくなった。

ある教会の礼拝で、ゲストとして招かれた講師の説教に我慢しきれなくなった私は、いきなり礼拝堂から外へ向かって駆け出した。
「何してるの、一体、どうしたの…?」
他の信徒が不審そうに後を追って来た。

しかつめらしい服装をした、社会的にもそれなりの肩書きを持つ紳士たちの集う静かな教会だった。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。
どうしようもない拒否反応。どうしてこんなにも大勢の立派な人たちが、こんなくだらない説教に我慢できるのかという嫌悪感。
その時、私はもう生理的に、キリスト不在の礼拝に我慢できなくなっていた。

私はこの「義人お化け」のようなクリスチャンたちのいる教会から、嫌悪感だけを抱いて去った。彼らのうちには、人として何かとても大切なものが、大きく欠けているように思われてならなかった。

私は彼らに聞きたかった、なぜあなたたちは、人の悲しみや涙を受け入れないのか?
絶望的な環境にあって、笑顔も作れなくなった人たちの気持ちに、なぜ寄り添おうとしないのか?
なぜあなたたちは悲しむ者の悲しみを担わず、泣く者と共に泣くために、片時も立ちどまることなく、ただひたすら、自分の義のことだけを唱え、神にあっての喜び、勝利、平安ばかりを一方的に強調し続けるのか?

それから、私は長いこと、神なき絶望的な日々を送った。

ある人は、それを自己憐憫だったと言うかも知れない。
人につまずいて教会を離れた私を、浅はかだった、信仰が足りなかったと言うかも知れない。
私はただ自分の感情を優先しただけであって、それは信仰とは関係ない事柄だったと言うかも知れない。
人の憐れみや、助けを期待していた時点で、真に神に頼る信仰心がなかったのだと言うかも知れない。

だが、私は、「キリスト教」を離れて、初めて、人間的な感情を自分に取り戻すことができた。
もうこれ以上、不自然な喜びを自分に強制する必要がない。
無理な努力をして、キリストの枝らしくふるまう必要がない。
あらゆる苦難の中にあって、さも立派な解決を得たかのように、ありもしない勝利について語る必要がない。
私は失格者になったのかも知れないが、それならそれで良いと思った。これがあるがままの現実なのだから…。

そうして教会から遠ざかって、月日が過ぎた。
その間、ただ迷いと挫折だけがあったわけではない。私は確かに、自分の現在地を探し出すことができた。

多くのクリスチャンは自分の現在地を知ろうともせずに、ただ目的地のことばかり議論しているように私には思われてならない。
だが、たとえどんなに遠大かつ崇高な目的地を設定したとしても、自分の立っている現在地が分からないのでは、どうやって目的地にたどりつけるというのだろうか。

失意の日々に、私は地図を広げ、キリストから遠く遠く離れている自分の現在地を発見した。
現在地とは、自分が罪人であり、悔い改めて、神に立ち返らなければならないということであった。
それから、犯した罪を悔い改め、とにかく、どんなに時間がかかっても構わないから、ただ神へ向かって、キリストへ向かって歩こうと決意した。
誰もそばにいなかった。信仰の一人旅が始まった。

ところが、不思議なことに、その後、歩いているうちに、私の現在地と目的地が重なっていることに気づいた。
目的地であられるキリストが、いつの間にか、私と共に歩いて下さっていたからである。
「あなたはもうどこへも行かなくて良いのだ。あなたのうちに私がすでに宿っているのだから」と、神は我がうちに語られた。そして、今、私は自分がどこへ向かっているのか知らない。それを知っているのは、私ではなく、思いのままに吹かれる風――御霊である。



気づけば、他にも道連れが出来ていた。もはや一人旅ではなくなっていたのだ。
そして今、私に向かって、再び、主にあっての喜び、自由、平安を語る人があった。
それを聞いても、以前のような嫌悪感を、私はもう感じない。

それは、今、説かれている喜びが、以前のように、不自然な、上から強制される感情ではないことが分かるからだ。その喜びは、我がうちにおられるキリストからあふれ出てくるものであり、私が自分の感情を懸命に偽って、無いところから無理やりひねり出そうとする、不自然で到達不可能な感情ではないからだ。

イザヤ書の中で最も有名な箇所の一つを挙げよう。

「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた。
 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。<…>

 彼が自分をとがの供え物となすとき、
 その子孫を見ることができ、
 その命をながくすることができる。
 かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」(イザヤ53:2-4,10-11)

 これは御子イエスのことである。イエス・キリストはご自分の苦しみを通して、苦しむ人々に解放をもたらされた。主は喜びしか知らない人ではなかった。むしろ人の何倍も、悲しみと痛みを味わわれた。イエスの福音は、悩みのない富める者が、貧しく苦しんでいる罪人に、高みから押し付ける福音ではなかった。

 主は、私よりもさらにご自身を低くされ、私よりもさらに惨めな姿になって、無言のうちに、私に十字架の恵みを差し出された。そこには一切の強制がなかった。
 今日、もしも真の牧者と呼ばれるに値する人たちがいるならば、彼らはきっとイエスがされたのと同じように、自らを低くし、自分の打ち傷を通して、悲しむ人、泣く人を慰め、励ますことだろう。

イザヤ第61章1~3節。
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。
 これは主がわたしに油を注いで、
 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
 捕われ人に放免を告げ、
 縛られている者に解放を告げ、
 主の恵みの年と、
 われわれの神の報復の日とを告げさせ、
 また、すべての悲しむ者を慰め、
 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
 灰にかえて冠を与え、
 悲しみにかえて喜びの油を与え、
 憂いの心にかえて、
 さんびの心を与えさせるためである。
 こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
 主の栄光をあらわすために
 植えられた者ととなえられる。」

 愛に基づいた深い共感がなければ、人が人の心を開くことは難しい。悲しみを知らない人に、人の悲しみを慰めることはできない。痛みを知らない人に、他人の痛みを理解できない。捕われる苦しみを知らない人に、捕われ人の気持ちが分かるはずがない。
 だが、私たちは人として、実際にあらゆる種類の苦難を自ら体験できるわけではない。努力と経験によって、苦境に立たされている人たちの気持ちを正確に理解できるわけではない。

 どうすれば、私たちは、悲しむ者、憂う者の心を、主を信じる喜びと賛美へと導く「義のかしの木」となれるのだろうか。それは、他者の苦しみに対してとてつもなく深い共感を持っておられたイエスの姿勢にならうことによってである。私たちの拙い言葉と態度は、私たちの努力と経験によらず、イエスと御霊との力を受ける時にこそ、苦しんでいる人、悲しんでいる人たちの心に、届くものとなるだろう。

 私は、被害者や犠牲者と呼ばれる人たちの心の痛みを無視したり、否定するわけではない。だが、その人たちが、これ以上、いたずらに苦しみ続けることには反対である。なぜなら、すでに解放の喜ばしいニュースが届けられており、もう誰も、自分を犠牲者と呼んで、自らを卑しめなくとも良くなったのだ。なのに、どうしてその大きな特権を行使しない理由があるだろう?
 クリスチャン一人ひとりは、主によってすでにあがなわれ、完全に回復されている。私たちはその事実に堅く立って、ただ人の哀れみと同情ばかりを乞いつづける卑しい物乞いになることをきっぱり拒絶しようではないか。

 主イエスは私の苦しみのために、私以上に苦しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、苦しむ必要がない。
 主イエスは私の悲しみのために、私以上に悲しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、悲しむ必要がない。
 主イエスは私が見捨てられた以上に、人からも、神からさえも見捨てられて死んだ。だから、私にはもうこれ以上、誰からも見捨てられる苦しみを味わう必要がない!

 神が支払われたはかりしれない犠牲の中に、私の苦難は吸収されて消えて行く。
 主は語られる、「覚えておきなさい、あなたが苦しむ時には、あなたのために、すでに私が苦しんだのだと。私はあなたのために、十字架の上で無限に代価を払った。それはあなたの負債を返すために、私がかかった十字架なのだ。覚えておきなさい、私の十字架の血によって、あなたのために解放の証書が書かれた。これは奪い去られたあなたの権利を補って余りあるものである。あなたが一生、平安に暮らして余りあるものである。
 私があなたの代わりに、全ての痛みを担った。あなたの悲しみと病と涙とは、私がすでに代わりに支払ったのだ。だから、十字架を見上げる時に、思い出しなさい、あなたはもう苦しまなくてよくなったのだと。たとえこの世界にどんなことが起きようとも、あなたは絶望に心痛め、悲しみに暮れる必要はもうなくなったのだと」

 一体、誰がこれまで、私の痛み苦しみのために一瞬でも立ちどまってくれる人があっただろうか?
 そんな人はいなかった。
 誰が私の苦難を共に背負ってくれただろうか?
 そんな人はいなかった。

 いや、いたのだ、それがキリストである。
 手紙はそのことを私に告げていた。神は貴い十字架を通して、私がこれまでに受けた全ての傷から完全な解放を得、主にあって、喜びに満ちた自由な生活へと入ることを望んでおられるのだと…。
 それは捕われた人に解放と平安を告げる声であった。

「『わたしは彼をいやし、
 また彼を導き、慰めをもって彼に報い、
 悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
 遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、
 わたしは彼をいやそう』と主は言われる。」(イザヤ57:18-19)

 全ての被害者よ、犠牲者よ、喜べ。あなたたちはもはや寝たきりの人のように、座して人の助けを乞わなくてよいのだ。主ご自身があなたを解放され、あなたに健康を取り戻された。主はご自分に従う者たちを悲しみから救い出し、その涙を拭い、苦しみの代わりに、平安と喜びを心に植えられる。だから、今、私たちは信仰によって歩き出そう。心と身体を拘束する被害者という鎖を断ち切り、自立して、大胆に歩き出そう。


律法から解放されて、イエスの命に生きる


  驚くべきことに、最近、主は私に大きな恵みを下さった。なんと、我が家で穏やかに信仰を語れるようになってきたのである!

 これまで、我が家では、信仰の話題を持ち出すことは、不毛な口論につながるだけであった。同じキリスト教徒でありながら、残念なことに、家人と信仰を共有できなかったのである。

 ところが、今、ネット上で起きている一連の騒動について、私が家人に話した時、家人は、「あなたにはきっと神様から与えられている仕事があるのでしょう」と私を励ましてくれた。

 かつて、カルト化教会の牧師が、就職難に直面していた私を、仕事の斡旋という嘘の甘言で釣り上げ、教会のために奉仕させ、さんざん私との約束を裏切った。そのことについてどんなに話そうとしても、我が家では、今まで取り合ってもらえなかったのだが、家人は今回、穏やかに私の話を聞いてくれた。

 私は話をこうしめくくった、「この世にある限り、これからも、不安はつきないでしょう。貧乏や失業や孤独がついて回るかも知れない。でも、その不安の中で、真に頼るべきは人ではなく、神様お一人だという信仰に立たないと、どんなクリスチャンでも、私のように、人に惑わされてしまう危険がある。
 私は、人に頼ろうとして、手痛い失敗をしてしまった。でも、そこを通過した今だから言える、私を生かしているのは、人脈でもなければ、私の能力でもなく、人からの約束や、助けでもない。私を生かしているお方は、ただ神様であって、これからの生存を保証してくれるのも、ただ神様だけ。今はそのことを信じている」と。

 家人は穏やかに頷いていた。ああ、私たちの信仰が同じになって来ているなあ…、そう感じさせられた奇跡のように嬉しい瞬間だった。
 この調子だと、まだ救われていない私の家族のメンバーが、キリストを受け入れるようになる日も、そう遠くないかも知れないと、期待が飛躍する。その時、私はどこにいるのだろうか? 一家全員が平和に集って、主を賛美している光景を、私はこの目で見られるだろうか? とにかく、そこに私がいようといまいと、いつか必ず、我が家がキリストにあって、愛と調和に満ちた場所へと変えられることを切に願ってやまない。

 主は、何か一つのものを取られる時に、代わりに新しい恵みを与えて下さるのかも知れない。一人が離れて行っても、別の人がやって来る。一人が唾を吐きかけても、別の人が勇気をくれる。だから、一つの悪いことが起きても、心配することはない。神様の御助けと約束は完全なのだ。

 かつて、私はカルト化教会にて、「主の手から憤りの杯をうけて飲み、よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。」(イザヤ51:17) 私はイザヤ書の次の聖句を読む時、それが自分の身に降りかかった災難と重なって見える。

「これら二つの事があなたに臨んだ――
 だれがあなたと共に嘆くだろうか――
 荒廃と滅亡、ききんとつるぎ。
 だれがあなたを慰めるだろうか。
 あなたの子らは息絶え絶えになり、
 網にかかった、かもしかのように、
 すべてのちまたのすみに横たわり、
 主の憤りと、あなたの神の責めとは、
 彼らに満ちている。」(イザヤ51:19-20)

 福音から離れた時、私には災いが臨んだ。私は主の御許に立ち戻ったつもりだったのに、まるで盲目の者が罠にかけられ、捕囚にされるようにして、何も分からずに、カルト化教会へと囚われていった。
 そこでは、貧しさと辱めと苦役とが私を待っていた。やっと気づいて離れた後も、その災難について語っても、信じてもらえず、同情してくれる者がなく、慰めてくれる者もなかった。ヨブが友人から責められたように、私は自己弁護に力尽きるまで、周りにいる全ての人たちから、責められなければならなかった。

 だが、主に栄光あれ! 私が心から主に立ち返った時、神は状況を一変させられたのだ。

「あなたの主、おのが民の訴えを弁護される
 あなたの神、主はこう言われる、
『見よ、わたしはよろめかす杯を
 あなたの手から取り除き、
 わが憤りの大杯を取り除いた。
 あなたは再びこれを飲むことはない。
 わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。
」(イザヤ51:22-23)

 私は二度と、かつてのような苦しみを味わうことはない、主がそう約束されるのだ。

「『恐れてはならない。
  あなたは恥じることがない。
  あわてふためいてはならない。
  あなたは、はずかしめられることがない。

  あなたは若い時の恥を忘れ、
  寡婦であった時のはずかしめを、
  再び思い出すことがない。
  あなたを造られた者はあなたの夫であって、
  その名は万軍の主。
<…>
  捨てられて心悲しむ妻、
  また若い時にとついで出された妻を招くように、
  主はあなたを招かれた』」(イザヤ54:4-6)

 みなし子や寡婦、宿無しのように寄る辺なかった者が、万軍の主を夫とする妻へと変えられ、頼もしい神の家族へと加えられた。イエスによって義とされ、もはや人からの非難に苦しめられる必要がなくなったのである。

 「『義を知る者よ、
  心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。
  人のそしりを恐れてはならない。
  彼らのののしりに驚いてはならない。
  彼らは衣のように、しみに食われ、
  羊の毛のように虫に食われるからだ。
  しかし、わが義はとこしえにながらえ、
  わが救はよろず代に及ぶ』。」(イザヤ51:7-8)

 幼い頃、私は「罪を残したまま死ぬと、人は地獄へ堕ちる」と教会で教えられた。以来、子供心に、よく次のように考えたものだ。「もしも私が不意に交通事故で死んだとすれば、そして、それがあまりにも突然で、悔い改めの時間も残されていなかったとしたら、私はひょっとして、地獄へ堕ちてしまうのだろうか!?」と。

 それは愚問だった。なぜならその当時から、私はすでにキリストを信じ、受け入れて、罪赦されていたからである。しかし、それでも、長い間、そんな疑問から抜け出られなかった。
 私は100%罪赦されているのか? 私にはどこかに罪が残っていないだろうか? 私は本当に100%救われているのか?

 それは、まるで、プールサイドの飛び込み台に立って、水に飛び込むのをためらい、恐れている子供のような心境だった。
 信じるということが要求する高さのために、イエスの与える生ける水の川という、心地良い流れに全身で飛び込むのをためらっていたのだ。
 だが、バプテスマによって全身、水に浸された時、肉なる私は確かに死んだ。
 そのことが、実際に理解できたのは、バプテスマよりも、ずっと、後のことだったが…。

 今、私には自分が救われていることに疑問はない。「私は本当に御霊によって歩いているのか? それとも、肉の欲に仕えている罪人ではないのか?」という疑問はもうない。なぜなら、私は信仰を持って、思い切って、主の懐に飛び込んだからである。私は救われ、罪赦され、贖われたという信仰の大海に飛び込み、その確信にずぶ濡れになるまで身を浸した。バプテスマと同時に、肉なる私は死んだ。そして、キリストにあって復活し、今は命の川の中を、安らかに、楽しく泳ぎ回っている。

 主は言われる、
「わたしは海をふるわせ、
 その波をどよめかすあなたの神、主である。
 その名を万軍の主という。」(イザヤ51:15)

 高波がとどろき、砕け散る暗い嵐の海。
 イエスの弟子達が船の中で恐れたように、水は人にとって脅威であった。水は人の肉体を殺す力を持っていた。律法が人を罪に定め、死を宣告する力を持っているように、ノアの洪水は、神に従わなかった人々の命をことごとく水の底に沈め、滅ぼした。
 だが、モーセに導かれる民を、神は水(海)を乾かすことによって、救われた。

「海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、
 また海の深きところを、
 あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、
 あなたではなかったか。」(イザヤ51:10)

 モーセに導かれる民は、律法によって義とされる方法を知らなかった。人として律法を完成される御子イエスがまだこの世に来ていなかったからである。そこで神は、イスラエルの民を殺す力を持っている海を真っ二つに分けられ、乾いた道を造られ、民が水に触れないでそこを通り過ぎることができるようにされた。

 今、イエスの十字架の後の時代を生き、バプテスマを受け、イエスを通して律法の完成者とされたクリスチャンにとって、水はもはや、旧約のイスラエルの民にとってそうであったように、人を死に定める脅威とはならない。

 イエスご自身は罪のないお方であったので、水によって死に定められる立場には初めからなかった。主は人と同じようにバプテスマを受けられたけれども、海の上を歩いて渡り(マタイ14:25)、また、風と海とを従わせる権威を持っておられた(マタイ8:26,27)。
 イエスはご自分の罪ゆえでなく、ただ神の御心に従って、人類の罪の身代わりとして、律法によって死に定められた。ゲッセマネの園で、イエスは祈られた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と。

 この時、イエスでさえも、できれば逃れたいと願った杯は、人類の罪に対する神の憤りの杯、イザヤ書に記された「よろめかす杯」、「わが憤りの大杯」と同じものであった。杯の中にあったものは、何だっただろうかと私は考える。確信を持って言えないが、ひょっとして、それは神の憤りの大水だったのではあるまいか?

 イエスは十字架にかかられて死なれた時に、わき腹から「血と水」(ヨハネ19:34)を流された。この時、次の御言葉が完全に成就した。
「あかしをするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。」(Ⅰヨハネ5:7)

 御霊と水と血とが、十字架上のイエスにおいて一致の完成を見た。その後、イエスを信じる者は、バプテスマによって肉に死に、イエスが十字架上で流した血によって義とされ、御霊によって生きるようになった。

 聖書は言う、「古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」(Ⅱペテロ3:5-6)

 聖書を読むと、一度水で滅んだ大地には、「二度目の洪水」が差し迫っていることを知ることができる。それは水による洪水ではなく、焼き尽くす火による洪水(=大火災)である。ひょっとして、巨大火災地震と呼んでも差し支えないかも知れない、なぜなら聖書はこう告げているからである、「震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している」(ヘブル12:27)と。

 つまり、大地にはもう一度、ノアの洪水に匹敵する規模で、揺さぶられる日が来ることが定められているのだ。しかし、クリスチャンは一度、水によって滅んだ以上、もう二度と滅びる必要はない。キリストによって義とされている以上、焼き尽くす火によって滅ぼされる必要がない。ふるいにかけられて、毒麦として抜かれる対象ともならない。主の日が盗人のように迫ってくることもない。「わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか」(ヘブル12:28)。

 「あなたをあがなわれる主は言われる。
 『このことはわたしにはノアの時のようだ。
  わたしはノアの洪水を
  再び地にあふれさせないと誓ったが、
  そのように、わたしは再びあなたを怒らない。
  再びあなたを責めないと誓った。
  山は移り、丘は動いても、
  わがいつくしみはあなたから移ることなく、
  平安を与えるわが契約は動くことがない』と
  あなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:8-10)

 イエスを信じ、イエスに従う者は、もはや二度と、神の憤りの杯を飲まされることはない。旧約のイスラエルの民は律法による契約によって神と結ばれていたが、私たちはイエスの血による契約を通して神に結ばれている。今や、イエスを信じるクリスチャンにとって、神によって発せられる水はもはや死を意味せず、かえって、命となっているのである。

 「さあ、かわいている者は
  みな水にきたれ。

  金のない者もきたれ。
  来て買い求めて食べよ。
  あなたがたは来て、金を出さずに、
  ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。<…>
  わたしによく聞き従え。
  そうすれば、良い物を食べることができ、
  最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
  耳を傾け、わたしにきて聞け。
  そうすれば、あなたがたは生きることができる。」(イザヤ55:1-3)

 大地を潤す雨のように、作物を実らせる水路のように、春の優しいせせらぎや、夏の川の流れのように、力強い命の川の流れが、クリスチャンを健やかに養ってくれる。だが、もしも、クリスチャンが地上で健やかに暮らすことだけを願うのでなく、主のための艱難を、勇気を持って忍ぶ覚悟を決めるならば、神は彼になお大きな喜びを約束して下さる。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」(ヘブル12:2-3)

わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。」(ヘブル13:13)

 私たちは義とされ、地上で恵みに満ちて平和に生活する権利を与えられている。だが、それにとどまらず、主イエスの背負われたはずかしめをすすんで身に背負うべきなのである。イエスが私たちのためにご自身を低くされて仕えられ、その身を私たちのために捧げられたように、私たちが自分を低くして神に捧げ、主の御名のために、はずかしめや、苦痛や、嘲弄や、誤解や、犠牲をもすすんで耐え忍ぶ時、その献身と従順によって、私たちは神に満足していただくことができるのだ。

 この献身と従順こそが、私たちをあがなうために、はかりしれない犠牲を払って下さった主のために、私たちができるせめてものお返しである。
 
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)


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