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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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数え切れないバナナ(祝福)の中で…

 コアラ姉妹のために。
 主は私から、石の心を取り除き、兄弟姉妹への愛を与えて下さいました。十字架がもたらす平安の中で、人を見るとき、私はその人を愛さずにいられないのです。
 兄弟姉妹に会いたいと思う時、その愛は、激しい恋心のように燃え上がります。しかし、会うことができない間も、強く、穏やかな愛で、その人の幸せを主に願うことができるのです。

 約一年前、かなり貧しい暮らしの中で、私は苦心してある教会に通っていました。平日、通勤の際に持って行く弁当は、ゆかりご飯だけ。毎日、定刻にスーパーのタイムセールに駆けつけては、半額のお惣菜を買い込むのが日課でした。通勤で磨り減ったバイクのタイヤを交換できません。いつ、バッテリーが切れるかと不安です。緊急の余分な出費がいつ生じやしないかと、おびえながら暮らしていました。

 日曜日に、往復の電車賃を払い、教会で献金を払い、信徒との交わりの際に、店で昼食代を支払ってしまうと、残る一ヶ月、どのようにしてやり過ごせばよいのか、いつも、心に不安がありました。

 その頃、私は日曜礼拝に希望を託していましたので、礼拝に通わないことはできませんでした。信徒の交わりにも希望を託していました。だから、いつも主に祈ったものです、「神様、私は交わりの機会が欲しいのです。どうか、そのために必要な費用を与えて下さい。誰にも借金しないで暮らせるように、どうか助けてください」と。そして、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、昼食代を支払っていました。

 しかし、その教会で私が出会った姉妹が経験された貧しさは、それとは、比べ物になりませんでした。姉妹がカルト化教会にいた頃の献身生活とは、労働が制限され、収入はほとんど得られず、それでも、収入の5分の1以上を献金として捧げさせられるようなものだったのです。強制的な集団生活の中で、プライバシーが保てず、毎日、応じきれないような、理不尽な量と内容の奉仕が次々と要求され、極限まで疲労困憊させられていました。
 もちろん、ご飯のおかずなどありません。切り取ったにんじんのへたを窓際に置いて、徐々に生えて来る芽を摘んでは、炒めて食べる…。そんな生活であったことを、私は聞きました。

 ある日のことです。その過酷な献身生活の最中、姉妹が道を歩いていると、ふと、八百屋でバナナを売っていたのが目に入りました。一束、100円です。それを目にした時、姉妹はどうしても、バナナが食べたいと思ってしまったのです。しかし、収入は全てカルト化教会に捧げきっているので、買うお金が残っていません。だから、姉妹は神に祈りました、「神様、バナナを下さい、私はどうしてもバナナが食べたいのです」と。

 すると、後になって、本当に、考えられない方法で、食べきれないほどのバナナが知人を通して贈られたのだと、彼女は教えてくれました。神に仕えると言いながら、指導者を崇拝する偽りの教会の中にいたのに、そんな生活の中でさえ、主は彼女に御手を伸ばそうと、いつも彼女を見つめ、その時を待っていて下さったのです。(この事件については彼女の記事をご参照ください。)

 その話は、私にとってはあまりにも悲しく、かつ痛ましかったので、それを聞いた時に、答える言葉がありませんでした。けれども、
 「バナナが食べたい。」
 そんな小さな、取るに足りない、秘められた、切なる人の願いにさえ、豊かに応えて下さるのが主なのです。主は私たちの困窮を知っておられ、助けの御手を伸べる機会を待っていて下さるのです。

 私たちが神の助けを得るためには、まず、私たちが自分の願いを主に率直に申し上げ、その心の領域を主に明け渡す必要があります。このことについては、Dr.Lukeと、山谷少佐が明快に語っておられますので、ご参照下さい。(「十字架―交換の場―」「私たちのアイデンティティ」) 十字架とは、自分の願いと、主の願いとを交換する場なのです…。

 バナナ一本、食べたいなあと思う、願いであったとしても、私たちがそれを主に捧げる時、主は数え切れないバナナを持って、私たちの願いを満たして下さるのです。たとえ、その時、私たちに買うお金がなかったとしても、どんなに主から離れていたとしても、どんな混乱の最中であろうと、あるいは、カルト化教会の中にいようと、人知で考えられる限りの距離と障害を越えて、神は私たちが真心から主に捧げる願いを聞きつけ、それに応えようと、飛ぶようにして、私たちのもとに駆けつけて下さるのです。神はいつも待っておられるのです、私たちが、自力で何かをやろうとするのをやめて、ただ主に向かって目を上げ、主よ、成して下さいと、願いを神に委ねる時を…。
 
 さて、その後、私は引っ越し、姉妹との間にはかなりの距離が生じました。周知の通りの問題も手伝って、私たちの立場は今、離れています。
 しかし、私は信じています、私たちが信じているものが、同じ神である限り、一切の障害を超えて、私たちは姉妹として結ばれているのだと。
 いつか、もう一度、姉妹の元気な姿を主が私に見させて下さいますように、その時まで、互いの必要の全てを主に委ね、必要を満たされて健全な豊かさの中を生きることができますように。二度と以前のような困窮を通過せずに済みますようにと、願わずにいられません。

 教会に通っていた頃、彼女が詩を書き、私が曲を作りました。二人での初めての共同合作です。楽譜を書いて、牧師に提出しましたが、誰にも歌ってもらえませんでした。しかし、私としてはかなりの力作であったと、今も自負しているのです。まだ最終的な完成を見ていませんが、いつか歌える日が来ることを願います。(詩は一部変更。)

「礼拝」

私の全てを尽くして 愛する事を学ぶ
神様と この私自身と 弱さを覚えている 隣人を

弟子たちの足を洗ったイエスは
愛する事を教えてくれた
私の心に 主の愛が注がれ
私の心は変えられた

礼拝 それは愛する事
神様と 私と 隣人を


「愛する事を学ぶ」

イエスの十字架のゆえに
愛されていることを知ったとき
心から 主に従おうと
強く 強く 願う

御言葉に従おうとしても
できない自分がある
義にも 真理にも 届かなくて
あわれみ求め 叫ぶ

ありのままで 目を上げて
変わらない主イエスの愛を受けて
罪赦されて はじめの愛に戻り
愛する事を学ぶ

それが私の喜び
 

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キリスト者に与えられた揺るぎない平安

まだ夜が明けるにはちょっと早いが、風が気持ちよさそうなので、これから外を散歩してくることにしよう。

 夜の散歩はとても心地よい。この近辺の数少ない礼儀正しい住人は、夜にはちゃんと寝静まっているので、深夜に、家を一歩外に出れば、世界は私だけのものだ! 星空を見上げながら、ゆうゆうと道を歩き回り、鳥や虫の声に耳を傾けることができる。
 夜は、虫や蛙たちが最も活発に歌いだす時間帯だ。田舎では特に、昼間には聴こえないオーケストラが夜には聴こえる。昼間とは、別の世界が広がっていると言った方がいい。

 さて、昨夜は、KFCのアクシデントつきの礼拝でお疲れのはずのDr.Lukeをつかまえて、私は受話器を通じて彼の時間を大量に奪い取り、さんざん私だけに必要なアドバイスをむしりとって行った。一応、断っておけば、そんなことをしでかしたのは今回が初めてである。

 Luke氏には色々と聖書を引きながら、疑問に親切に答えていただいたが、その中で、最もためになったのは、記事の中で氏が少しだけ触れておられるように、人が自分の十字架を負うとは、平安のうちに歩むことだという点に気づけたことである。

 え? 十字架が平安? そんな楽なことがあっていいわけ?
 と驚くような答えが、真の答えなのだと。なぜならば、人の十字架は、その人のうちにおられるキリストが負ってくださるものだからだ。
 だが、これはあまりに画期的な答えなので、あまり世間に言いふらしたくない。正直なことを言えば、誰にも教えたくない。何も知らない人々には、いつまでも、クルシチャンでいてもらって構わない。

 時々、クラゲ化があまりにも進行しすぎているように思われるLuke氏の文章に、正直なことを言えば、私のような生真面目な人間は、苛立たせられる瞬間があるのだが、それはあくまで表面的なこと。氏の文章に、背骨はしっかりと通っている。それが、分かる人にはちゃんと分かる。彼は言った、「生来の真面目さは、どこかで破綻しなければならないものですよ」と。

 生真面目な人種に属している私のような人間には、大いに考えさせられるものがある。真面目な人間というものは、かなりコワイ。わがまま勝手な人の有害性は外から見て分かりやすい。だが、外からは見えない、秘めた危険性を持っているのが、真面目な人々なのだ。

 真面目な人々は、一旦、何事かを思い込んだら、自分の正義を振りかざし、止めようのない力で、どこまでも、猪突猛進して来る。彼らを思いとどまらせるものは何もなく、一切の議論が無駄となり、ポリシーのためならば、命かけてでも、活動し、不撓不屈の努力によって、革命さえ、起こしかねない。しかも、真面目な人々は、自分の真面目さというものを高く評価しており、誇りに思っているので、それが裏目に出ることがあろうとは、露ほども考えてもみない。実際、生真面目な信念を持った生真面目な人々が結集した結果、はた迷惑な革命が、歴史上、幾度も起こされてきたのだ。

 十字架において自己に死ぬ、ということを考える時、その中には、己の短所や欲望に死ぬというだけでなく、自分では美徳だと考えているような長所にも死ぬことが含まれている。己により頼む気持ちが、あらゆる面で、一旦、破綻しなければならない、それが十字架なのだ。この全面的な死を経験しないと、美徳を養う名目で、相変わらず、セルフを引きずったままの人生が続いていってしまう…。落とし穴だ。自分では正しく生きているつもりなのだが、自分の力で必死で十字架を担おうとしているので、やがて疲れ果ててしまう。自己に死んでいないからこそ、自分の力で十字架を背負おうとする努力が生まれるのだ。

 だから、真に自己に死んだ者にとって、もはや自分の十字架を負うことは(=キリスト者として生きることは)苦しくなく、軽いことのはずだ。それが苦しく感じられるのは、状況のせいではなく、何か自分の中に、十字架上で死に切れていない部分があるからだと思っておいた方が良い。何かを負おうとしている自己があるからこそ、苦しみが発生するのだ。(と言うと、アリストテレスのような議論に落ち込んで行きそうだし、さらに、十字架上で己に死すべく、必死に努力する人々が現れることが予想されるが…、この堂々巡りについてはノーコメント)。 

 自分の周りにある一向に改善しない悪しき状況を見て、ため息つかないでいられる人間はどこにもいないだろうが、それでも、どんな状況のうちにも主がおられることを本当に信じられるようになれば、現象によって心が動かされることはなくなる。

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。<…>
 わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも、深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:34-35,37-39)

 キリスト者の歩みが深まっていく時、そこには神への愛に根ざした揺るぎない平安が生じるはずだ。どんな現象も、人の言葉も、人の存在も、その人を動かすことができない。泰然自若とした生き方が自然と生まれる。

 時には、自分がどうにも、平安とは逆行する人生を歩んでいるように感じられることがあるが、そんな時には、私たちを神の愛から引き離すものは何もない、というふりだしに戻ろう。

 私の人生にとって、もはや何一つ、脅威となるものはないのだ。脅威の名で呼ばれるに値するのは、私をキリストから引き離す力を持っているものだけだが、そのような力を持つものはすでに存在していないことを、聖書が告げているのだから。どんな被造物も、魅力あるリーダーの言葉も、冷たい非難の言葉も、巧妙なサタンの策略も、キリストの勝利によって、すでに無効とされている。それを心から信じる時に、私を平安から外におびき出そうとする敵のあらゆる策略が、力を失うのだ。そして主の与えて下さる愛のうちで、ただ安らぐことができるようになるのだ。

 この平安から外に出ないように気をつけよう。この平安のうちを歩みながら、信仰生活を送って行くことにしよう。そうすれば、きっと今までの生き方よりも、今後の行程は、かなり楽になるはずだ。

 ところで、これ↓、何か分かる? (サマルカンドからタシケントへ戻る道中に見た光景。ヤバイよなあ…、これ、絶対、オマワリにつかまるよなあ、と思っていたら、ほんとにつかまっていた。)


港町の風景

KFCから届いたワーシップソングを聴いていると、どんなに悩みが山積していても、心のもつれがほどけていくようだ。中でも、私が一番好きなのは、"Jesus you are beautiful." 最も美しく感じられるメロディーだ。
 
 つい先ほどまで、人間関係において、道を踏み誤ることへの恐れがひどく私の心を苛んでいた。今まで、弱さゆえに、何度、同じ過ちを繰り返しては、人間関係を損なってきただろう。そのことを思うと、自分の弱さが二度と、以前のような形で大失敗となって現れることがないよう、泣きながら神に祈らずにいられなかった。

 考えているうちに、自信がなくなってしまった。私は本当に、主によって与えられた兄弟姉妹を心から愛していると言えるのか? ひょっとして、利己的な感情に基づいて、相手を利用しようとしているだけではないのか? 私が愛と呼んでいるものは、正真正銘、主の御心にかなう偽りのない感情なのか? それとも、利己心を都合よく言い換えただけではないのか?
 せっかく主によって与えられた兄弟姉妹との関係を有害なものに変えてしまうくらいなら、今のうちに、全ての人間関係を断ち切ってしまった方が良いのではないか。そんな恐れをさえ感じた。

 だが、賛美を聴きながら、心を鎮めた。そして、麗しいキリストの御業を思いながら、すべての人とのつながりが、ただ主によって一方的に与えられたものであったことを思い出した。私が主の御名を賛美することを始めてから形成されてきた人間関係の中には、私が自力で掴んだものなど、何一つない。それが分かった時、恐れは消え、はっきりと、今後、どうすべきかが分かった。
 これ以上の自己批判は一切、無用である。これ以上、自分の心に起こるあらゆる感情を、良いものも悪いものも含めて、一つ一つをまるで顕微鏡で調べるようにして、丹念に吟味し、不要なものがないか探し、自分の持っているあらゆる財産をズタボロに切り刻んでは、一片一片を丹念に日に透かして吟味しようとするような作業は必要ない。

 私は、仮に弱さが残っているにせよ、確信を持って、兄弟姉妹への愛に立って生きていけば良いのだと分かった。与えられた兄弟姉妹との関係を(正しいものにしようとして)コントロールしようとすることさえ無用なのだ。すべては主が成して下さること。だから、未来に起こるどんな出来事をも、もはや恐れまいと決意した。自分が間違うことさえ、恐れない。どんな背教も、汚れたものも、キリストがうちにおられる限り、私には触れることができない、ただそう信じることができるだけだ。
 もしも私の心の中で起こっている様々な感情について、外から介入しようとする試みがあれば、一切、退けることを決意した。いわれのない非難だけでなく、人の杞憂に対しても、耳を塞ぐ必要がある。本人の自主性を侵してまで、他者の心を切り刻もうとするあらゆる力を排さなければならない。

 サタンの非難の声にいちいち親切に耳を貸していれば、義人になれない地上の人間は、誰一人、正気を保てなくなってしまうことだろう。すでに十字架によって罪赦されている以上、私たちには、善悪のものさしに立って生きる必要はもうない。たとえ色々な弱点は消えないにせよ、それを糾弾する声に耳を傾けてはいけないのだ。罪はキリストの十字架によってすでに処理されているはずであるし、弱いところにこそ、キリストの強さが現れるのだから。もしも未処理の罪があるならば、キリストの十字架へ持って行くだけでよい。自分で自分を裁いたり、吟味し続ける作業は必要ない。

 近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。
 以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。


どうなるか、夏祭り?

昨日は、地元の夏祭りの予定日であったが、朝からあいにくの雨のため、一日延期。
 だが、今日も天気予報によれば、雨なのだ。しかも、朝から土砂降りの雨…。 
 
 いまだにアナウンスがない。ということは、役場で協議が続いているのだろう。果たして、祭りはどうなるのか…。私としてはぜひ開催して欲しい。田舎にも関わらず、川原でかなり壮大で豪華な打ち上げ花火が見られる機会はこれを除いてないのだから。

 今、10時半を回ったところだが、蝉が鳴き始め、鳥の声が聞こえ始めた。これなら希望がありそうだ。主よ、どうか私たちに楽しみの機会をお与え下さい!(左は何年も前の祭の写真。)

 朝から、エクレシアのことについて色々と思い巡らしていたが、主からの平安が心にやって来る。やはり、幾度、考えても、私の心は兄弟姉妹への温かい愛に戻って行く(その中にはまだ見ぬ人々も含まれている)。それでも、かつてのような失敗を二度と繰り返したくない、偶像礼拝や、間違った感情に陥りたくないと思ったため、自分の心の最終吟味のつもりで、私は以下の記事を書いた。

 だが、これ以上、何も思い煩う必要はないと分かった。この愛は、主が、互いに愛するようにと私に上から与えて下さったもの。主を愛する愛の中から生まれて来たもの。誰に対しても、何一つ、恥じるところはないし、それを無理やり吹き消そうとする必要もない。きっとこれから、交わりの輪はますます広がっていくことだろう。

 何もかも、平安のうちに、主におまかせだ! もちろん、今日の天気のことも含めて!

(追記:) なんと、記事を書いた時点ですでに祭りは中止されていたことが判明。川の増水のせいでもある。残念だが、「主が与え、主が取りたもう」と、主に感謝を捧げよう。
 信仰の仲間も、全て、主が与え、主が取られるもの。神に信頼して、これから起こることに期待しよう。

バビロンの包囲の中で

昨日、エクレシアのことを書いたが、重大な注意点を補足せねばならない。それは、キリスト者が集まって神を礼拝することの喜びが、たとえどれほど大きかったとしても、私たちは、その喜びを求めるために集まるようになってはならないという点だ。キリスト者は、人生最後の瞬間まで、ただ神ご自身のみに目を向け、神ご自身だけを切に求めるようにしなければならない。それが礼拝の目的である。

 ドストエフスキーが警告しているように、集団的な跪拝の対象を求める人類の欲望には、果てしない深みがある。私たちは人知によっては、何がバビロンであり、何がエルサレムであるのかをきっと見分けることができないだろう。それほどまでに、かの者の誘惑は深い。サタンの荒野の第三の誘惑である地上の王国の中には、必ず、繁栄ばかりでなく、統一的な地上の宗教が含まれている。私たちは、自分が神のみに目を注ぎ、神に栄光を帰するためにある場所へ赴こうとしているのか、それとも、集団的な跪拝が生み出すあの興奮を求めて出かけようとしているだけなのか、それを常に、吟味し続ける用心深さを忘れてはならない。

 たとえキリスト者の集まりがどれほどの深い感奮をもたらすものであったとしても、私たちは、それを得ることを目的にして礼拝を行おうとしてはならないのだ。仮に、隣にいるキリスト者の中に、どれほど感動的な主の臨在を感じたとしても、私たちはただ天に目をむけ、天にまします私のお一人なる神だけを見上げることを忘れてはならない。隣の人の中にこそキリストがおられると考えて、その人の内側に目を向けようとすべきではない。(確かにキリスト者それぞれうちにはキリストが住まわれているのだが。)

 なぜなら、もしもそのように注意していなければ、私たちはあまりにもあっけなく、隣人の中の「現人神」に目を奪われ、そのきらびやかさに魅せられてしまうだろうからだ。元来、神のかたちに似て創造された人間の中には、人の目を惹きつけてやまないある種の誘惑が潜んでいる。それを用いて、人が神に仮装することはまことに簡単なのだ。たとえ、その人が「私は神だ!」とあからさまに叫んでいなかったとしても。

 だから、人に惑わされないよう常に気をつけていなければならない。キリスト者はいつでも、ただ主ご自身だけを一心に見つめるようにしなければならない。そのことだけが、あらゆる惑わしからクリスチャンを救ってくれるだろう。

 考えれば、考えるほど、現代のキリスト者は、いずれも深いバビロンの中にとらわれており、バビロンによって全面的に包囲されているのではないかと思われてならない。このバビロンの誘惑は極めて深い。

 一つには、それはバビロン化したニッポンキリスト教のことであると言えるだろう。だが、しかし、これ以上、その名称を使い続けることがためらわれるのは、ニッポンキリスト教という枠組みの中だけで、背教を論じようとすることに、そもそも意味がないからだ。むしろ、ニッポンキリスト教界という名を多用することによって、私たちは、背教が、そこに限定されて働くものでなく、もっともっと深い危険性を持っているものであることを忘れ去ってしまうかも知れない。

 バビロンとはまず、私たちキリスト者を完全に包囲している空中に働く霊的影響力であり、地理的な境界や、あらゆる組織の枠組みを超えて働く、諸霊の力であると認識すべきだろう。それは決して、キリスト教界内のみに限定して働くことはない。バビロンとは、まさに私の周りに広がっている世界全体のことだ。

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている。」(ピリピ2:15)

 この世はまさに曲がった邪悪な霊の支配に覆われている。キリスト者はその暗闇に囚われながら、御言葉の灯火を輝かせている小さな星だ。
 預言者エレミヤはバビロンにとらわれたエルサレムの民に、主が命じられていることを告げた。「わたしがあなたがたを捕らえ移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである」(エレミヤ29:7)。

 この言葉は、偶像礼拝の支配する土地の只中に住んで、異なる宗教的価値観にさらされて生きねばならない私のような者にとって、一種の安らぎとなる。私はこの土地の安全なしには、生きていけない。だから、この土地の実りと安全を願わずにいられないが、それは神の御心に反することではないと理解することができる。バビロンの中に住んでいるイスラエルの民は、とらわれている町の中で、安らかに暮らすために、町の平安を願っても良いとされた。

 だが、注意せねばならないことは、異教の町の安全を願うことは良くとも、エルサレムの民は、決して、その異教の町から霊的影響を受けてはならないと主から命じられたことだ。

「あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる」(エレミヤ29:8-9)

 注意せねばならないのは、「わたしの名によって偽りを預言している」と、神はエレミヤを通して、はっきりと警告されたことである。異教の神の名によってなされる預言ではなく、まさに唯一の神の名においてなされる預言の中に、信じてはならないものがあると警告がなされたことである。
 現代における背教もこれと同じである。私たちが警戒せねばならないのは、非キリスト教の教えではなく、キリスト教の名でやってくるあらゆる背教である。だが、その背教が、明らかな異端と分かっている腐敗した教えや、カルトと名指しされている集団や、ニッポンキリスト教界の名だけでやって来ると思っていたら、大間違いだ。背教はまさに主の御名を通して(偽のキリスト者から、もしくは堕落しつつあるキリスト者から)やって来るのである! 主の御名をかたりながら、偽りを広める人間は、どこにでも存在しうるのだ。(明日にでも、私がそうならないという保証はどこにもない! 主が私を守ってくださり、御言葉のうちを歩めますように!)

 背教に囲まれている今の時代にあって、神の名を用いながら、神が語られたのではない教えに影響を受けた誰しもが、疫病のように、背教を持ち運ぶ器となりうることに、私たちは注意せねばならない。さて、とらわれた民に向けられたエレミヤの預言は、次の有名なくだりにさしかかる。

 「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果たし、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導きかえろうと主は言われる。」(エレミヤ29:10-14)

 バビロンでの捕囚には70年という月日が定められていた。この捕囚の終わりは、私の人生においては、キリスト教界を抜け出た事件とも重なって見える。だが、考えてみよう。キリスト教界を抜け出れば、それがすなわち、バビロンを抜け出たことになるのか? それが、私が背教の影響にさらされる時代の終わりとなるのだろうか? 違う。断じて、そうではない。

 この曲がった時代にあって、一体、どんなキリスト者が、バビロンの包囲から完全に抜け出たなどと豪語できるだろうか。いや、今なお、私は捕囚の状態にあると言った方がふさわしいだろう。もちろん、主はそのとらわれの苦しみの中でも、私に平安と、将来の希望を約束して下さっている。だから、主に信頼して、揺るぎない平安の中に立っていれば良いのである。だが、真実の解放は、主の定められたその時(サタンの完全な敗北と主の再臨の時)でなければやって来ないことを忘れるわけにはいかない。

 確かに、私にはかつて奪われたものが少しずつ主の恵みによって回復されつつあり、追いやられた土地から、主の御名のもとに集まる人々のもとに引き戻された。だが、それで万事が回復し、警戒の必要はなくなったのかと言えば、そうではない。もはや背教は後ろに過ぎ去り、私とは無縁になったと言えるかと言えば、そうではない。油断は禁物である。戦いはまだまだこれから始まるかも知れないからだ。(いや、恐らく、今からが本番なのであろう。)

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」

 エクレシアとは、一人ひとりの信者が神だけを一心に尋ね求めて、神に出会う場所のことだ。それはどこか限定された一区画の土地である必要はまったくないし、集まる人々の種類にもよらない。
 私たちがただ主のみに心を向け、ただ主ご自身の臨在のみを求める時に、神自らが私たちに会ってくださるのだ。仮にそれが一人ぼっちの礼拝であったとしても、神が臨在されるならば、それは十分に礼拝であると言えるだろう。だから、恐れることはない。私たちは信者に会うために常にどこかに出かけようとする必要はないし、集うことに過度なこだわりを抱く必要もない。ただ、神にお会いすることだけを切に求めていれば、全ては兼ねて与えられるのだ。
 
 集団的な跪拝というものが作り出す情熱と興奮を求めて各地を行き来することがないよう注意しなければならない。そのような情熱の中に、背教が大きな原動力を見いだしていることは確かだからだ。だが、それでも、もしも許されるならば、私は心から共に主を礼拝する仲間と出会い、喜びを分かち合いたいと願わずにいられない。そして、共にキリストの御身体なる兄弟姉妹として、欠けた部分を補い合い、互いに助け合い、支え合って生きていきたいと思わずにいられない。(もちろん、神の御前での単独者としての立場を忘れるわけではないが、これ以上、一人きりで信仰生活は、沢山である。)
 私は心の底から、兄弟姉妹と集える日が来ることを願い、また、そのことを切に主に求める。

 主よ、あなたのいつくしみ深さ、恵み深さをどうかもっと私に教えてください。
 あなたの私への愛の広さ、深さを、どうかもっと知らせて下さい。
 あなたこそがすべての恵みの源。私はあなたの愛を求めてやみません。
 花婿なる主よ、私はあなたにお会いしたいのです。
 あなたが私のうちにおられるだけでなく、主を愛される人々の只中に、
 臨在されることを知りたくてたまらないのです。
 主よ、あなたの訪れをただ待ち望みます。