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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

毎年、2、3月は、筆者が静かに冬眠させてもらいたいと切に願う季節だ。一体、なぜ大人の社会には、春休みというものがないのか。

筆者のような人間は、この時期、ひたすら家に閉じこもり、世間に顔を出さずに、布団でもかぶっているのが無難である。これは筆者が若い時分から、一年で最も気力が衰える時期であり、そのエネルギー枯渇の習慣は、全く変わらない。

2月には、絶望的な気分がどっと押し寄せ、すべてが嫌になり、活動意欲がゼロに近くなる。3月には、ただ生き永らえるだけで精一杯となる。春にたどり着く直前に、新年度の戸口に手をかけたまま、ばったり倒れてそこでお終いになってしまわないために、かろうじて生きているとしか言えない状態になる。

それにも関わらず、社会は立ち止まってはくれない。そこで、筆者は起きて来る出来事に対処する能力がなくなり、うつ状態にも近い絶望的な気分で、やっとのことで春にたどり着く。

今年も例年にならって、この時期に、未だかつてない悪い出来事が連続して起きた。筆者はそれに対処する気力もなく、絶望的な気分で、信頼していた人々の助けさえも拒んで、自らより一層の絶望的な窮地に立った。

それと同時に、なぜか世界にも、コロナウィルスという未曾有の災難が押し寄せた。しかし、もともと何もなくとも、たとえようなく陰鬱な気分になる季節だけに、世界的な災禍も、筆者にとっては大した出来事には感じられなかった。

とにかく、生きて行かねばならない。何が起きようと、歩みを止めるわけにはいかない。あらゆる災禍に立ち向かうしかない。自分の痛みと疲労に無感覚になってでも、日々、新たな一歩を踏み出すしかない。
 
ところが、3月になると、信仰による新たな友・協力者も現れて、筆者の回復のために祈ってくれた。そこで、桜の咲く頃には、絶望的な気分も振り払い、3月最後の雪の降る寒い日曜日には、筆者はすべての災難に自ら立ち向かって、これを打ち破って生きる気力をほとんど完全に回復した。

今もみぞれまじりの冷たい雨が外では降っているが、筆者は全く天候に左右されず、果たさねばならない仕事を果たした。
  
祈りの力は大きかった。ただ単に暖かくなって、活動意欲が回復したというだけにはとどまらない。長年に渡り、失われた人生を取り戻すための、内なる大いなる力が回復してきたのである。

地中深く蒔かれた種も、春が来れば、その気配を察知して、固い殻を破って発芽する。そのように、神がお与え下さった筆者の命に込められた回復の力が、自然と効力を発揮し、ただ生きるために生きるといった次元ではなく、心身の深いところで、どのように生きたいのかという願いが、何かを成し遂げるための力が湧いて来たのである。

筆者が頼るのは、人でも、状況でもない。主なる神ご自身である。筆者がどんなに愛する人間も、肉なる弱い人間に過ぎず、筆者を助けたり、支えたりする力はない。もしも人に助けを求めれば、共倒れに終わるだけである。

だから、筆者は人ではなく、神に助けを求める。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

いつ御前に出て
 神の御顔を仰ぐことができるのか。

昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。

わたしは魂を注ぎだし、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。

わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの血から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く。

昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。
(詩編42:1-9)

かつて筆者が嵐のような苦難の中で、主に見え、十字架のキリストを知った日のことを思い出す。多くの友が、神が力強い御腕を持って、筆者を窮地から救い出して下さったことに、快哉を叫んだその時のことを。

苦難や試練や孤独は、何と人の心を神に向けさせるのに好都合であろうか。もしも孤独がなかったなら、苦難がなかったなら、どうして筆者が真剣に神を呼び求めることなど起きようか。

だから、何が起きようと、落胆する必要などなく、すべてのことに感謝し、すべてのきっかけを主なる神に心を向けるために使うべきなのである。

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。

わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。

もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
(詩編51:12-19)

静かな平安が心に満ち、暗闇の中で目を凝らせば、すべての問題に対する解決が、もうすぐそこにあり、手の届くところに、おぼろげに見えているのが分かる。それは人の耳にはとらえがたい霊の歌のようである。人の思いをはるかに超えて、主の静けさ、平安の中に住み、主からすべての物事の解決を受けなさい。

心静まっていると、カルバリの十字架において取られた勝利が、筆者の人生に適用されるのが分かる。主が血潮を適用して下さる。あなたの人生のすべての問題に対し、主ご自身が解決となって下さる。主は災いの日に、ご自分の僕たちが、損失を被ることがないよう、一人一人、印をつけるように見つけ出し、助け出して下さる。だから、恐れることは何もない。

キリストは、へりくだった方であり、私たちを苦難から助け出すことを、まるでこの上ない光栄のように考えて下さる。私たちの心の渇きを、慰めによって満たして下さり、すべての問題に対し、解決となって下さり、心を煩わせないようにと言われる。

だから、私たちは静かに主の助けを待つべきである。主の霊は、私たちのために給仕する姿を取り、僕のようにへりくだって仕えて下さる。その謙遜を知るとき、私たちの心は一層、砕かれて柔らかになり、慰めを得る。

そして、心の深いところから、霊のうめきのように、賛美と感謝の歌が流れだす。

私の魂よ、神を待ち望みなさい。大いなる方を。地上の何ものでもなく、ただお一人の神を、その清い、尊い霊を真直ぐに待ち望みなさい。主は必ず、あなたの呼び声に応えて、あなたのもとに来て下さり、あなたを満たして下さる。主は遅れることはないし、あなたを見捨てられない。

だから、私の魂は、主に向かって、感謝と勝利の歌を歌う。そして、私の愛する方は、地上の何者でもなく、天に住まわれるただお一人の神であると告白する。たとえ全地のすべてのものが、これを否定し、嘲ったとしても、私は疑わない、主が私のために勝利を取られたこと、そして、私を生きている限り、守り、支えて下さることを…。

そういうわけで、この先も様々な苦難に対し、勇気を持って、立ち向かって生きて行かねばならないが、主が筆者の勇気となり、力となって下さると信じられるため、筆者には、恐れることは何もない。
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むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って命を得ることができますように。

以前、当ブログでは、1940年に幻と消えた東京オリンピック同様、今回のオリンピックも、決して開催できないで終わるだろう、という趣旨の記事をいくつも書いた。なぜなら、オリンピックを国威発揚のために利用しようという理念そのものが誤っているからだ。その後、誰も予想していなかった思わぬウィルス騒動によって、それが現実味を帯びて来ている。

また、昨年、宝塚市が就職氷河期世代を対象とする公務員採用試験を行ったのに引き続き、今年、政府もが就職氷河期世代への支援の一環として公務員での採用試験を行ったが、それは百倍の倍率を超える、一般の通常の試験以上の難関となった。

呆れるような馬鹿馬鹿しさである。正規雇用に恵まれなかった貧しく弱い人たちを集め、一見、彼らを助けてやるように見せかけながら、他方では、通常の正規雇用の試験よりもはるかに過酷な競争試験を課して、多くの人々をふるい落とす。それを「支援」の名のもとに行うことは、まさに呪いを招くような悪なる所業だと筆者は思う。

だが、そのような状況を見つつも、「正規」とは何か、ということを考えさせられる。筆者は牧師制度を、牧師と信徒のヒエラルキーを思い出さずにいられない。そして、そのヒエラルキーは、人をディスカウントするために作られたものであって、そのものさしに踊らされている限り、人に平安はやって来ないと思わずにいられないのだ。
 
神に救われているかどうか分からない不安を持つ人間が、教会に所属すれば、安泰だと思って、教会の正会員になったところで、そんな会員証によって、何ら救いの確信が得られるわけではない。その埋められない不安を何とかするために、次には、神学校へ行って牧師になり、「献身」することで、神に近づこうとしても、それによって神に近付けるわけではない。
 
神学校の卒業証書も、教会の会員証と同様、何ら救いの保証とはならず、牧師になったからとて、外側を飾ることはできても、その人間性は1ミリたりとも変わらない。罪が贖われるわけでもなければ、心の内側は全く変革できない。

同様に、自分が「選ばれた者」になるために、必死になって努力をし、かいがいしく奉仕を重ね、常に他者からの承認を得るために、死ぬまでずっと終わりなきヒエラルキーの階段をひざでよじ登り続ける人生は、まるで自分の力で自分を救おうとするむなしい努力と同様であり、不毛だから、一刻も早く、やめた方がいい、と思う。

その果てに何が待っているのか。ピラトの階段の上にあるものは十字架の死である。その十字架の死を、キリストが負って下さったという立場に立たない限り、あなたはその刑罰を絶え間なく自分の身に負わされることになるだけである。

自分が安全圏だと思う場所へ滑り込むという目的のためだけに、一生、はるか上へ上へと続くピラトの階段をひざでよじ登るという苦行の毎日が待っているだけである。

「正規」だとか「非正規」だとか、牧師であるか、信徒であるかなど、どうでもいいことであるが、そもそも自己の力で「選ばれた者」というレッテルを得るために、終わりのない階段をのぼり続ける人生は、やめにしないか。
 
聖書の原則は、いつもそれとは反対で、選ばれなかった者が選ばれる、というパラドックスに満ちている。ユダヤ人たちは、諸国の民の模範となるべく、神の選民として選ばれたが、かえって今日まで心頑なにされて、救いにはあずからなかった。そこで、救いは選ばれなかった民である異邦人に宣べ伝えられた。
 
キリストにつながる系譜にも、ユダヤ人からは卑しい民として蔑まれていたモアブ人のルツ、ダビデがその夫を殺して娶った妻バテシェバ等、およそ「選民」にはふさわしくないと言われる経歴の持ち主たちが、信仰によって名を連ねている。ダビデ自身もそうだ。

ダビデの犯した罪も大きかったが、それでも、彼ほど神に愛された者は他にいないのではないか。そう言えるほど、ダビデはただ一途な信仰によって、神に受け入れられ、覚えられた。

私たちが神に受け入れられるのは、自分の努力によるのでもなければ、生まれや、立場や、能力や知識によるのでもない。自分で自分を選んだからでもないし、選ばれたという誇りによるのでもない。それはいつも神の側からの一方的な恵みなのである。
 
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない」 
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:25-26)

こうして、「自分たちは選民だ!」と神の御前で豪語する人たちが退けられ、かえって選ばれなかった民であるはずの人々が、恵みによって救いへと入れられる。

誰よりも、キリストご自身が、「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(1ペテロ 2:4)と言われる通り、人には拒まれ、世からは蔑まれ、人々の目には、神にさえ捨てられたように見えた。

しかし、キリストは罪のない神の独り子でありながら、神の姿に固執せず、己をむなしくし、十字架の死に至るまで御父に従順であられたがゆえに、神はキリストを高くあげて彼の御名をすべての名にまさる名とし、
 
「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ恣意を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

と言われるのである。キリストは、信じる者にとっては、神に選ばれた尊い生ける石であり、救いの岩である。だが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

「つまずきの石、妨げの岩」である。
(1ペテロ2:6-7)

そこで、私たちは、自己の力によってではなく、私たちのために、すべてを達成して下さったこの方の御業によって、神に選ばれ、受け入れられる民となることを目指すことはよくとも、自己の力によって、世から承認や賛同を受けることで、「世から選ばれよう」とする努力は、もうやめて良い頃合いであろう。そこには、何かしら深い堕落の誘惑が潜んでいるのではないかと筆者は感じざるを得ない。
    
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(一ヨハネ2:15-17)

だから、世の人々が、毎日のごとく、筆者の目の前に現れては、肉の欲、目の欲、生活のおごりなど、自慢にもならないものを自慢し、自分たちと一緒に来れば、世の幸せが手に入ると誘いをかけて行っても、筆者はそれに耳を塞ぎ、彼らに着いて行くことを拒む。
  
「ああ、あなたは未だにこんなにも貧しく、乏しい生活を送っているのですね! 本当に可哀想ですね。でも、私たちはあなたと違います。ですから、私たちと一緒に来なさい、そうしたら、私たちはあなたに素晴らしく豪華な食卓と、退屈しない会話を与えてあげられますよ!」

「あなたは誰を待っておられるのです? なぜ人生を楽しまないのです? あなたをこんなにも孤独のうちに待たせている人のことなど放っておいて、手っ取り早く、私たちと一緒に来て遊びましょうよ。楽しいですよ。一言、お言いなさい、『どうか私を一緒に連れて行って下さい』と。そしたら、私たちはあなたを最後の子分として連れて行き、存分に楽しませてあげますよ。あなたが待っている人は、きっと約束をすっぽかして来ないでしょう。ですから、あなたは当てが外れて恥をかかされるだけですよ」

「私たちは人生を謳歌しています。現在に100%満足しています。なのに、なぜあなたはいつも物足りなさそうで、何かを待っている風情なんです。え? この世が堕落している? 肉の欲は神の御心に敵対する? 今見ていないものを信じる力が生きる糧ですって? そんなわけがありませんよ。今、見えているものがすべてなんです。その今を楽しまなくてどうするんです? あなたにはきっと人生の楽しみ方が分かっていないんですよ。私たちが教えてさしあげましょう・・・。」
 
たとえそんな誘いの声を聞いたとしても、筆者はそれに着いて行かない。その誘いに乗って、彼らに着いていけば、その先には、罪の連帯責任が待っているだけなのだ。

ちょうど 不良グループが、カツアゲの現場で、見張り人をつとめる人間が必要だからと、あなたに声をかけて行くようなもので、それに着いて行けば、彼らの共犯者となってしまうだけである。だから、筆者ははそうした自慢話に耳を塞ぎ、お引き取りいただくようお願いするだけだ。

中には、知識欲、出世欲、権力欲を刺激する誘いもある。色々と話術は巧みであるが、どの誘いも、それに応じるだけの価値を持たない。
    
人は自分には手の届かないもの、自分に与えられていないものを見せつけられたとき、心に焦燥感を覚えたり、自分も同じようにならねばならないと感じたり、あるいは、自分はそういうものに値しないから、その高みから排除されたのだという悲しみを心に覚えることもないわけではないだろう。
 
だが、一瞬、そういう心の動きが起きても、大抵、後になって、それらは、手にするに値しなかったからこそ、与えられなかったのだと分かる。それは決して負け惜しみとして言うのではない。私たちが、まことの羊飼いである主にあっては、どんな時にも乏しいことはない、という御言葉は、真実であり、自分にまだ与えられていないもののことで、他人を羨む必要はないし、ましてそれを不足であるかのように他人に補ってもらう必要はないのである。
 
むしろ、神の御前に頭を垂れて、己を低くする人間にこそ、恵みが与えられるのだから、愚かしい自慢話と肉の欲を誇る生活とはきっぱりと一線を画し、いつ主の恵みの時が訪れるかを待っていればいいだけのことだ。自分には悩みごとなど何もなく、万事は順調で、欠けたところもないから、神の助けなど全く要らないと豪語して、自慢話に明け暮れているような人間には、放っておいても、そのうちふさわしい破滅がやって来る。

だから、そんな人間を羨んだり、気にしたり、あるいは腹を立てたりする必要は全くないのである。

実際、こんな箇所も聖書にはある。

「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)
 
だから、筆者は世の中で高い地位についている人たちが、様々な自慢話を語って聞かせても、それに関心を持つこともなく、賛同もせず、彼らがどれほど筆者のような立場にある人々を蔑み、嘲ったとしても、彼らを羨まないし、彼らと一緒に行かないことに決めた。

その人たちが誇っている富とは、不法や虐げによって手にしたものであって、真の裏づけを持たないものである場合がほとんどだからだ。彼らが誇っている外側の美も、人を欺くための偽りの外見に過ぎず、本物でないことがほとんどである。
 
今、世の中で起きている様々な騒動を見るにつけても、自分たちは選ばれた者だと豪語し、富んでいて、おごり高ぶっている人たちへの審判の時が、近づいて来ているような気がしてならない。 

こういう時に、私たちがなすべきことは何だろうか。家の門に過越しの血潮を塗って、家の中に静かに隠れることではないか。それは外出を控えるという意味ではない。神の御前で心静まって、主と二人きりになり、すべての相談事を、ただお一人の神にのみ打ち明け、この世にある一切のものに対して、執着を持たず、霊的死にとどまることを意味する。

そういうわけで、筆者は、世との交流を望まず、世と世にあるものを愛さず、目に見えるものに頼ることをやめて、より一層、見えない神を見あげたい。

人を救う力を全く持たないむなしいものは、もう見たくもない。そこには肉なる人間も含まれれば、この世の全ての富も含まれる。そういうものを筆者の眼差しに映すことさえ厭わしく、それらのものに心を奪われるなど論外である。

だから、筆者を救う力を全く持たないむなしいものをこれ以上、見なくて済むよう、その代わりに命の道に目を移すことができるよう、神に希うのである。
 
「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。

 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。
 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。
 あなたの道に従って
 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。
 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。
 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)


主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

あなたは誰との一致、一体化を目指すのか。目に見える人間、事物、制度、組織との一体化か、それとも、見えないキリストとの一致か・・・。

私たちは誰を自分の「代表」として生きるのか。それは非常に深刻かつ重要な問題である。

ある時、地上の権威者が、筆者はその権威者の代理人であって、筆者に話しかける人々はみな筆者を通して、その権威者自身に話しかけているのと同じだと述べたことがあった。

その時、筆者はそうした信頼が寄せられたことが嬉しく、それによって自分が高められ、かつ、その関わりの中に、キリストと信者との一致のひな型を見いだしたような気がした。

しかしながら、それは本物と似ているようでありながら、本物ではなく、厳密に言えば、大きな誤謬と言っても差し支えない考えであった。

なぜなら、私たちの代表は、ただ見えない主だけであって、目に見えるどんな人間も、私たちの代表や代理人とはなれないためである。

私たちは、目に見える人間との間で、どんなに一致や一体性を確保しようとしても、それをほんのわずかの間も、保つことができない。

目に見える人間は、他者を力づくで支配したり、あるいは指図したり、説得したりして感化を及ぼし、あるいは他者の関心を自分に向けさせたりすることはできるかも知れない。

しかし、どんなに強い心の結びつきが出来たとしても、それは決して他人を内側から変える力とはならないし、内側からの一致ともならない。

目に見える人間同士は、どんなに互いを愛し、信頼しているつもりであっても、決して真に互いを理解し合うことはなく、互いを満たすこともできず、やがて来る別離を避けることもできない。

人間同士の結びつきは、非常に脆弱で、不完全で、一時的なものに過ぎず、どこまで行っても、真の一致には至ることがない。

だからこそ、私たちには、私たちの真の助け手として、また代表として、信仰により、内側にキリストを持つことが必要なのである。キリストの中にこそ、私たちに必要な一切のものが満ちているからである。

A.B.シンプソンは「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中でこう述べている。
 

聖書に示されている私たちとキリストとの結合には二つの面があります。それらはギリシャ語の前置詞「~にある(in)」によって最もよく表されています。それは、私たちに祝福の半球を二つ与えます。第一は「キリストにある(in Christ)」であり、第二は「あなたがたの内にあるキリスト(Christ in you)」です。

これらは異なる思想ですが、互いに相補的であり、組合わさって私たちがこれまで語ってきたキリスト生活を構成します。

まず第一に、私たちはキリストにあります。「キリストにある」とはどういうことでしょう?それは、キリストが代表となって、私たちのために立ち、私たちがそのすべての恵みと特権にあずかることです。

アダムを盟主としていただく限り、私たちはアダムにあります。同様の意味で、私たちの政治的代表者は私たちのために立ち、私たちを代表するので、私たちは彼の中にあります。そのように、キリスト・イエスは私たちのためであり、私たちの代表者です。そして彼の行為はある程度私たちのものとなります。彼はご自身のためよりも、私たちのために行動されます。


 もしもアダムに属する古き人を自分の代表とみなすなら、私たちの行動様式の一切は、古き人を導く罪と死の法則に支配され、そこから寸分たりとも抜け出ることができない。どんなに優れた偉人であろうと、どんな権威者であろうと、肉なる人間を頼るなら、私たちはそこから何一つ得るものはない。

私たちはその人間の外見や行動様式を模倣することはできるかも知れないが、模倣によって同じ性質が得られるわけではない。滅びゆく人間から受け継ぐことができるものは、しょせん、滅び以外にはないのである。
  
だから、私たちは、私たちのために死んでよみがえって下さった、神の目にただ一人完全な人であるキリストに、私たちの代表者となっていただく必要がある。

その時、その代表者の人格、思い、知恵、力、行動様式が、私たちのものとされるのである。

その法則を説明したという一点においては、地上の権威者が筆者に告げたことは、幾分か真実を含んでいたと言えるが、私たちは、キリストによって救われていない者でなく、キリストご自身を代表として生きなければならない。いや、その方が私たちの内側から生きて下さるようにしなければならない。

私たちが心の内側で、確固としてこの方の命、人格と結びつくことにより、キリストの知恵、力、すべての優れた性質が、私たち自身のものであるかのように、内側から生きて外に流れ出すようになる必要がある。

とはいえ、それが起きたからと言って、私たちは何ら超人のようにはならず、実に素朴な生活が待っているだけであろうが、それでも、私たちには、主が共にいて共に生きて下さっていることが、確実に分かるはずである。

一体、そのようなことが机上の空論としてでなく、可能なのかと、首をかしげたくなるかも知れない。

だが、先人たちの証を通しても、それは可能であることは明白である。聖書がそう告げている以上、私たちは「わたしにとって、生きるとはキリスト」である(フィリピ12:21)と言えることを信じるべきである。学習は少しずつであるが、進んでいる・・・。

* * *

もしもあなたが今、心に平安がない・・・と思っているならば、または、生きることに不自然なほどの疲れを感じる時があるなら、まずは心の扉をきっちり閉めて、主イエス以外に頼るものがない心の状態を作り出すことをお勧めする。

あなたの心は、家のようなものである。家の外では嵐が吹き荒れている。その上、強盗やごろつきどもが外をうろついている。獣だっているかも知れない。

心の平安を取り戻すためには、まずは家の鎧戸をぴったりと閉めて、隙間風が入らないようにし、外にたむろしている怪しい連中や獣たちの怒号が、家の中に届かないようにしてから、静かに神に向かって語りかけることだ。

あなたに信仰があるなら、キリストはあなたの内に確かに生きて共におられ、あなたの呼び声に応えて下さる。だから、その方に静かに呼びかけてみると良い。怖いなら、助けを求めると良い。

ならず者たちを心の中から追い出しただけでも、驚くほど心の平安が回復したことにあなたは気づくだろう。

あなたは外にいる者たちが、ならず者だということに、気づいていなかった。あなたは友を求め、助言者を求め、慰め主を求め、あらゆる場所を奔走し、目に見える人間に声をかけ、すがりついたが、誰もあなたを助けてくれる者はなかった。

彼らは、自分たちに得になる時にしか、あなたに関わらず、あなたが助けを必要としている時には、甚だ冷淡であった。彼らは、あなたをへとへとになるまで利用し、これ以上、取るものがないと分かると、あなたをぼろ切れのように投げ捨て、踏みつけて去って行った。

目に見える存在は、どんなに優れた者のように見えても、あなたを寸分たりとも、救う力を持たない。そういうむなしいものにすがり続ける限り、あなたは力を失って行くだけである。

だから、それらすべての偶像を、心の外に毅然と締め出しなさい! そして、主と二人きりになって、見えない主ご自身から、すべての必要な力を引き出しなさい。そうするだけでも、あなたは、内なる力がどれほど回復し、心に平安が戻るかを知ることができるだろう。

どんなにあなたが失敗を重ね、疲れ切っていたとしても、関係ない。主はへりくだって、心優しい方であるから、あなたが主以外のものに頼ることが誤りであると認めさえするならば、あなたの罪を赦し、責めずに受け入れ、恥じることなく、あなたの弱さを力で覆って下さる。

だから、ダビデが詩編第18編で述べた通り、あなたは大胆に宣言することができる。

「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
 主はわたしの岩、砦、逃れ場
 わたしの神、大岩、避けどころ
 わたしの盾、救いの角、砦の塔。
 ほむべき方、主をわたしは呼び求め
 敵から救われる。」

「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
 大水の中から引き上げてくださる。
 敵は力があり
 わたしを憎む者は勝ち誇っているが
 なお、主はわたしを救い出される。

 彼らが攻め寄せる災いの日
 主はわたしの支えとなり
 わたしを広い所に導き出し、助けとなり
 喜び迎えてくださる。」
 
 「わたしは主の道を守り
  わたしの神に背かない。
  わたしは主の裁きをすべて前に置き
  主の掟を遠ざけない。
  わたしは主に対して無垢であろうとし
  罪から身を守る。
  主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
  御目に対してわたしの手は清い。」(詩編18:2-4,17-20,22-25)

あなたがどんな状況にあり、どれほど万策尽きていようとも、神には行き詰まりはない。

運転手が何度道を間違えようとも、ナビが狂うことはないように、主は、あなたが頼り続ける限り、あなたを嘲笑することも、見捨てることもなく、あなたを正しい道へと導いて下さり、すべての悪から遠ざけられ、目的地を指示して下さる。

だから、あなたは以前は幾度も道を間違えて迷っていただけであったが、ついには勝利の歌を歌うことができるようになる。

 「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ
  驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
  いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
  御名をほめ歌おう。
  御顔を向けられて敵は退き
  倒れて、滅び去った。

  あなたは御座に就き、正しく裁き
  わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
  異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし
  その名を世々限りなく消し去られる。

  敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り
  あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。

  主は裁きのために御座を固く末
  とこしえに御座に着いておられる。
  御自ら世界を正しく治め
  国々の民を公平に裁かれる。

  虐げられている人に
  主が砦の塔となってくださるように
  苦難の時の砦の塔となってくださるように。
  主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
  あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」(詩編9:2-11)

さて、A.B.シンプソンの「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中から、キリストのご性質がどのように私たちのものとされるのか、その描写に注目してみたい。

罪の赦し、義認というテーマが重要でないと言うわけではない。しかし、ただ罪が赦され、義とされ、無力な者が神の強さによって覆われ、無知な者が知恵を得て、キリストの人格、性質が私たちのものとされる、という以上に、代表者であるキリストを通して、私たちにいかにとてつもない特権が付与されているか、そのことについて考えてみたい。

* * *

神の子供たち

もし人がキリストにあるなら、その人は彼との交わりに入り、神にとってキリストと同じ者になります。イエスは「私の父またあなたがたの父、私の神またあなたがたの神」1と言われました。

「彼を受け入れた者、すなわち、彼の御名を信じた人々に、彼は神の子どもとなる力をお与えになりました」(ヨハネによる福音書一章一二節)。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子どもなのです」。2

1 ヨハネによる福音書二十章十七節(訳注)
2 ガラテヤ人への手紙三章二十六節(訳注)

子たる身分を表すのに、新約聖書では二つの言葉が使われています。一つは「生まれた息子」を意味しますが、もう一つにはそれ以上の意味があります。子たる身分を表す二つ目の言葉は、ほとんどの場合キリストの子たる身分にあてられており、イエス以外の他の誰にもめったに使われていません。

しかし、その言葉はキリストと結合された人たちを指すのにも使われています。彼らは新しく生まれて神の子供になっただけでなく、キリストが受け入れられたのと同じ意味で受け入れられます。すなわち、彼らは新生によって子たる身分を持つだけでなく、キリストご自身の立場をも持ちます。彼らは神の子供であるだけでなく、「長子」でもあります。

東洋人の考えでは、息子と長子には大きな違いがあります。長子は世継ぎです。他の者は何らかの分け前にあずかることができますが、年長者が跡継ぎです。それで「御子は多くの兄弟たちの中で長子であり」1と述べられており、信者たちは「長子たち」と呼ばれています。

ですから愛する人々よ、あなたがたは天使がなることのできない「子供」なのです。私たちはイエスのように子です。私たちは「天に登録されている長子たちの教会」2に近づいています。私たちは「神の相続人、イエス・キリストと共同の相続人」3です。

1 ローマ人への手紙八章二十九節(訳注)
2 ヘブル人への手紙十二章二十三節(訳注)
3 ローマ人への手紙八章十七節(訳注)

聞き届けられる祈り

私たちはキリストにあります。そして、偉大な大祭司であるキリストが、御座の前で私たちを代表しておられます。ですから、私たちの祈りや礼拝は、彼ご自身が受け入れられるのと同じように、彼のゆえに受け入れられます。

彼はあなたの名によって嘆願を手渡して、その裏に彼の御名を記されます。そして、まるで彼が願っておられるかのように、あなたの祈りは御父のみもとに届きます。

キリストはご自身の人格と性格において、あなたを代表しておられます。彼は個人としてそこにおられるのではありません。私たちは個人と見なされているのではなく、キリストと一つである者と見なされています。

私たちがこのようにキリストと一つである者として来る時、私たちは自分の欲するものを願い、それを受けます。これが次の約束の意味です、「もしあなたがたが私の内に住み、私のことばがあなたがたの内に住んでいるなら、何でも望むものを願いなさい。そうすれば、それはあなたがたにかなえられます」(ヨハネによる福音書十五章七節)。

共同の相続人

私たちはキリストにあって万物を受け継ぎます。私たちは彼と共に御座に座します。彼のすべての豊富、すなわち後の時代に来ようとしているものはみな、私たちのものになります。彼はご自身の未来と私たちとをつないで下さいました。

キリストは私たちと一緒でなければ、決してなにものも所有されません。愛する人よ、もしあなたが「私はキリストにあります」と言えるなら、続けて「私は彼にあってすべてのものを持っています」と言うことができます。

それで、パウロはエペソ人のために、「キリストがどのような方であるのか、彼らが見ることができますように」と祈りました。「神はキリストを、すべての支配、権威、力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く上げられました。また神は、彼をかしらとして教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(エペソ人への手紙一章二十一~二十三節)

彼は「私のものはすべてあなたのものです」と仰せられます。永遠の時代をもってしても、その測り知れない富を使い尽くすことはできません。

彼の所有は私のものとなり、
 彼のように私はなります。
 彼の神聖な栄光を着せられて、
 私は彼のようになります。 

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私たちは、キリストと共に、死んで復活させられただけでなく、御座にまで引き上げられ、天の無尽蔵の富の共同相続人とされている。

文字通り読めば、恐ろしいと思うほどに、とてつもない特権が約束されていることが分かる。

とはいえ、これほど絶大な特権が与えられているにも関わらず、私たちの歩みは、あくまでいつも恐る恐る、新たな一歩を定めるようなものであって、決して超人的なものとはならない。それは、キリストは果てしない大海のようであっても、私たちはその海に浮かぶ小瓶のようなもので、私たちは自分というちっぽけな器を、絶えず彼のはかりしれない命によって満たしてもらうために、御前に進み出る必要があるためである。

そのはかりしれない権威、力、知恵、富、栄光は、あくまでキリストのものであって、私たち自身から出て来るものではない。しかし、私たちが彼の中にとどまるときに、それはあたかも私たち自身のもののように、私たちの内側から生きて働き、私たちは神の御前に、彼と全く同じ者のとして受け入れられるのである。


今や、恵みの時、今こそ、救いの日。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

今もなお忍者ツールズにはログインもできない状態が続いている。このブログを除き、ホームページやブログの更新ができなくなっているが、物事は困難な方が面白い。大々的に自己宣伝して更新を触れ回るようなことは、もともと筆者の好みではない。いつまでこうした状況が続くか知らないが、表向きは、更新もされていないように見えながら、知る人のみ知るよう、記事がこっそり書き足されている状況は、なかなか乙だと思う。

昔々、大震災が起きたとき、亀裂が入り、液状化現象が起きているアスファルトの道路の上を、自転車をこいで願書を出しに行ったときのことを思い出す。大事な時期に、まあ、世界の終わりのような、えらいことが起きてしまった、と感じたが、筆者はただ自分のなすべきことを淡々と果たすだけであった。

当ブログに対しては、何とかして当ブログの正しい訴えを妨害しようと、ひどい中傷の嵐が掲示板で吹き荒れたことは記憶に新しい。その後も、ひどい妨害が起き続けた。まことに異常な事件が起き続け、今になっても、何とかしてこのブログを地上から消し去ろうと願い続けている存在があるらしい。だが、目的は初めからそこにある。この信仰の証しのブログを地上から殲滅することが、敵の目的なのである。

要するに、それほどまでに、牧師制度を糾弾することが許せない、と考えている人たちがいるということだ。

いや、牧師制度を糾弾するというより、地上にはまるで本物のように広がっているキリスト教界の偽りなることを語る者が出て来ては困るということなのだ。牧師や教師などとに頼らず、万民祭司の原則を、この地上で忠実に実現し、神にのみ頼って生きようとする者が現れると、困る人々が大勢いるのだ。

何しろ、霊的中間搾取が成り立たなくなってしまうからだ。中間搾取だけで成り立っている商売が、あがったりになってしまうからだ。だから、妨害はいつまで経ってもやまないのである。

とはいえ、掲示板での中傷などは、それが止まった時期を考えてみれば、どの筋から来た妨害工作であったのか、読者にはすぐ分かるはずだ。

筆者は諦めたり、退却するつもりもない。今はまだ語れない多くのことがあるが、時が来れば、明らかにできるだろう。

筆者が目指しているのは、あらゆる意味で、この悪しき中間搾取から抜け出て、主イエスの名を通して、父なる神に直結し、誰からも霊的搾取を受けないで、神から恵みをじかに受け、神との直接的な交わりを失わないでいられる、そういう生活を送ることなのである。

そして、栄光から栄光へ、鏡のように主に栄光を反映させながら、本当に主に似た者とされるとは、どういうことなのか、知りたいと思っている。

霊的中間搾取というのは、モーセの書を朗読するときに、顔にかかる覆いのようなものである。そして、霊的中間搾取を受けるか受けないか、という問題と、地上で中間搾取を受けるか受けないか、という問題は、どこかしら密接につながっているように思われてならない。

本当はキリスト者一人一人が、父なる神に直接つながり、御言葉を自分で解釈し、恵みを受けられるはずなのに、これをピンハネする存在がある。キリスト者の目をくらまして、何とかして霊的中間搾取に気づかせまい、そこから逃がすまいとする勢力は確かに存在する。

聖書は、全世界は悪しき者の支配下にあると言う。しかし、同時に、我々、贖い出された者たちは、サタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられている。主に向くときに、私たちの心の覆いは取り除かれる。私たちの命は、キリストと共に、神の命の中に隠されている。このことをはっきりと心に覚えよう。

私たちはこの土の器の中に神のはかりしれない力をいただいているのであり、神は教会を通じてすべての存在に対して、ご自分の多種多様な知恵を現されることを願っておられる。私たちは弱くとも、主は強く、カルバリでキリストは勝利を取られ、世に打ち勝ったのだから、彼を信じる者も、必ず勝利する。このことを覚えよう。

それゆえ、何も絶望することはなく、我々は勝利を求め、根気強く、敵に渡った陣地を取り返し、そこに復活の旗を立てて行かねばならない。

「でも、ヴィオロンさん、あなたは少しも勝ってなんかいないじゃないですか。いつも追い詰められて、中傷されて、恥をかかされ、窮地に立たされているのではありませんか? それでどうしてキリストの勝利の証なんかできるというんです? どこに勝利があるんです?」

人々はそう尋ねて来るかも知れない。ヨブに対して神を呪って死になさいと言った彼の妻のように。しかし、筆者は言う、いや、今日が恵みの日、救いの日だと。パウロの言葉を思い出そう。


「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしたちはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。


今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。


大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、観桜、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。


左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。


わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(2コリント:1-10)


聖書の原則は、私たちがキリストを知ることにより、「選びから除外された者が選ばれた民になる」、「愛されなかった者が愛される者となる」、「罪を宣告された者が赦しを得る」、「死に定められたはずの者が生きる」というものだ。

世には自分の手練手管により栄達を得る者がいる。もしくは、生まれた家柄によりかかって繁栄を手にする者もいる。その他、運の良さ、巡り合わせ、コネ、年齢の力などによって、色々なチャンスを掴む者がいる。もちろん、生まれ持った能力、知恵、経験も大いにものを言う。

ところが、私たちの主は言われる。「権勢によらず、能力よらず、我が霊によって」(ゼカリヤ4:6)


筆者はこの言葉を噛みしめ、前に向かって進んでいる。確かに、若い時分には、何も持っていない人でさえ、色々と自分により頼むものがあると考えているものだ。だが、そんな自信は時と共に消えうせていく。そして、主だけを頼りに進むとなると、他人を当てにすることはできない。時には、自分の無力さに、もうこれ以上、自分では対処できないと、叫びたくなることがあるだろう。

だが、筆者の場合、神は、そういう時の信じる者の叫びを、とても好意的に受けとめて下さる。

人間的な観点から見れば、「もう駄目だ!」と叫ぶことは、不信仰か、みっともないことに思われるだろう。

しかし、神は、人間が「もう駄目だ」という限界を迎えるときにこそ、速やかに助けの手を差し伸べて下さり、私たちが助けを求めることを、決して恥ずべきことや、みっともないことだとはお考えにならない。

むしろ、いついつまでも自分にはできると思って自己過信しているからこそ、神の助けを受けられないのであり、自己の力で生きる限界に早く達した方が、早く神の助けを受けられるから、早く平安に到達できる。そして、その平安、安息は、決してまやかしでも、偽りでもない。

ただし、そのようにして神の助けを受けるためには、しばしば真の窮地を通らされ、全身全霊で神を求めるという過程が必要になる。ただ単に困った時の神頼みなどという程度の求めではない、心の底からの願い求めが生まれる必要がある。人間的な観点から見れば、まさにすべてが絶望という状況から、ただ信仰によって、新たな望みが起こされ、キリスト者の勝利が始まるのである。

ローマの信徒による手紙9:13-33にはこうある。


「ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。


焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。


神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」


また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」


それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」


では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。


「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。」


あなたはどちらの組に入りたいだろうか? 義を追い求めながらそれに達し得なかった人々と、義を追い求めなかったのに、信仰による義を得た人々と?

努力して熱心に働き、熱心に財を築こうとして、ビジネスに成功した人でも、天災が来れば、一瞬でその富を失ってしまうことがあるように、自己の力で築き上げたもの、信仰によらないものは、神の目に永遠性を持たない。

霊的高みに達しようと、あらゆる勤行や精進を重ね、牧師や教師たちからお誉めの言葉を得て、日々、熱心に学びを積み重ねた人が、神から、義に達し得ないものとして疎外され、罪に定められる。義に到達しないどころか、罰せられて終わる。

キリスト教を、霊的高みに到達するための壮大な偏差値教育のようにしてしまった人たちがいる。そして、その無限のヒエラルキーの階段を日々上に上ろうと学びを重ねている人たちがいる。

だが、筆者はその階段をいつも中途で回れ右して降りて行く。真の高みに達するための方法は、その階段を自力でよじのぼろうとすることにはない。その階段には終わりがない。それは欺きであるから、高みもなければ、頂上というものも存在しない。あなたがどんなに努力しても、決して頂上を見ることはない。それは霊的搾取のために作られた階段であるから、どの段に立っていようと、恵みをかすめ取られ、栄光を曇らされ、他人に欺かれ、犠牲者になる道でしかないのである。

私たちのために、すでにすべてを達成された方がおられる。その方は、ご自分のもとにやって来る人に、ひざで階段をのぼれとはおっしゃらない。その方が私たちのために、すべての恥を負い、労苦を担って下さった。真の高みは、その方が就いておられる天の御座にこそあり、私たちは信仰によって、この方と共に死に、よみがえられ、共に御座に引き上げられている。だから、ひざで階段をよじのぼろうとしなくとも、すでにすべてを足の下にしているのである。

だが、それがあまりにも想像を超えた恵みであるがゆえに、そのことを素直に信じ、受け入れることは、人知では難しいであろう。だが、このパラドックは、考えれば考えるほど面白い。主イエス御自身が、「つまずきの石、妨げの岩」と呼ばれた。人には捨てられたが、神に選ばれた生ける石。人の目に尊ばれるものと、神の目に尊ばれるものは、正反対なのである。

とはいえ、神は信じる者を恥や失望の中に打ち捨ててはおかれない。だから、私たちをいつまでも弱さの中に打ち捨てて置かれることもなく、私たちの弱さの中に働いて、力となり、知恵となり、勝利となって下さる。すべての争いや、悪しき者のしかけた罠の中から、鳥のように救い出し、静けさと平安の中にかくまって下さる。そして義人の正しさはあけぼのの光のように輝き、明るさを増してやがて真昼のようになる。

だから、筆者は言う、今日が恵みの日、救いの日。望みを絶やすことなく、これを正直に主に申し上げながら、主と同労し、前進して行きたい。どんな状況にあっても、また、私たち自身がどうあろうとも、神の愛と憐れみに満ちた眼差しが、今日もふんだんに私たちに降り注いでいることを忘れたくはない。状況が私たちを支配するのではなく、主こそがすべての状況に対するまことの支配権を持っておられる方であり、私たちにとっての正解であり、栄誉であり、勝利なのである。

真実は、人間にもなければ、状況にもなく、ただ一人の真実なるお方がおられるだけである。この点を見失わなければ、私たちを取り巻く悪しき状況は、いずれ朝日を浴びた露のように消え去る。

「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。」(1ヨハネ3:7)

「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。」(黙示3:11)


主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

大晦日である。晴れた空に,夕日がいつになく美しく輝いていた。

その日は、筆者の関わるキリスト者の交わりが、文字でなく、音声でもなく、顔と顔を合わせた生きた交わりとなり、筆者の中で、エクレシアが完全に復興を遂げた日であった。

特段、何かがあったわけでないのに、信仰による交わりがあったというだけで、ここ数ヶ月の間、一度も味わったことがないほどの平安が心に訪れた。果たすべき課題はまだたくさん残っているが、それらをすべて脇に置いて、休むことができた。

これまでにも、様々な交わりに出席してきたが、その頃と今とでは、何かが違う。

こんなことを言われた。

「あなたにはねー、こんなこと言っていいかどうか迷ったんだけど、今朝、ヴィオロンさんと『不器用』という言葉が一つにつながったんだよ」

筆者はそれを聞いて「それはひどいですねー」とうわべは抵抗を見せつつも、頷いて笑う。

筆者は確かに不器用な人間であり、人のために何かしてあげようと思っても、そのタイミングを逸することが多い。筆者が動こうとする前に、気の利いた誰かが、もうすでに人々の世話に着手しているからだ。

ところが、キリスト者の交わりとなると、そんな不器用な筆者からも、世話を受ける人が出て来る。互いに仕え合い、満たし合う関係が不思議に成立する。

その日の話題は、主にあって、いかに自分の生来の力に対して弱められ、それに死に、主の力によって強められて生きるか、というところを巡っていた。筆者が不器用であっても、私たちは存在そのものが神の教会であり、己の力で何かを努力して果たすことによってではなく、ただ存在しているだけでも、世に影響を与え、信仰によって、キリストを人々にもたらす役目を果たせる。それができると信じて良い。

「もっと教会(エクレシア)に頼ったらいいんですよ」

とも言われた。以前には、なかなか人に頼るということができず、頼ることを恐れていた筆者であったが、ここ数年で、考えを変えさせられた。

近頃、筆者の周りには、どこからともなく、善良な人たちが集まって来るようになり、困難な日に、どれほど貴重な助言を受け、励ましを受け、支えられたか分からない。そうして助けを受けたからといって、決して、依存関係や、主従関係が生まれるわけでなく、それぞれが自分の信念を持ち、自立していながら、互いに支え合い、仕え合い、助け合う関係が成立するのである。

そのようなわけで、今年は、人から助けを受けることへの抵抗感がなくなり、特に、神の家族からの助けは、大いに受けて良いものであると分かった。肉の家族ではなく、天の家族が、はっきりと姿を現し、信仰の有無に関わらず、肉の家族以上に筆者を支えてくれるようになったのである。

筆者は、初めは恐る恐る、その人たちとの関わりに足を踏み入れ、恐る恐る、助けを受けた。かつて、あまりにも多くの交わりが、サタンの試みによって引き裂かれ、疑心暗鬼によってバラバラに分解されたので、またも同じことが起きないか、非常に心配であったが、何度、試しても、その交わりは分解することなく、筆者を取りこぼすこともなく、より安定して、強固なものになり、発展した。

以前にも、筆者はキリスト者の交わりを求めて、はるばる長い距離を移動した。その頃も、純粋にエクレシアを求めていたつもりであったが、その時と今とでは、何かが違う。エクレシアを求める熱心さにさえ、死んだのかも知れない。今、与えられているものは、恵みであって、筆者が探し求めた努力の結果とは言えない。

すべての希望が潰え、もう何も戻っては来ないだろうと思った頃に、望みをはるかに超えた恵みが、向こうから自然と姿を現したのである。

それは、天によって支えられている不思議な関係である。鳥が空中に巣をかけるように、地に属さず、地上のすべての関係を超越したところに、不思議な形で、交わりが保たれている。その交わりを何と名づけるべきか、分からない。だが、そこに筆者の居場所があり、平安がある。

その居場所は、信仰のない様々な人たちの間でも、不思議に成立している。たとえば、最近は、警察官から、「クリスマスケーキは食べたの?」と聞かれたり、この世の人から、「無事に年を越せるの?」などと言われ、御馳走を振る舞われたりもした。そんなに心配されるほど、筆者の境遇は危なっかしくはないのだと、とうわべは弁明するのだが、それでも、虚勢を張らず、ありがたく人の親切を受けるようにもなった。
 
これまでは、筆者を苦しめるためだけに、ひたすら筆者の嫌がることばかりをやり続ける人たちがいたが、今年は、そういう人たちと入れ違いのように、筆者が頼んでもいないのに、筆者が何を願っているのか、言葉も発していないうちから、筆者の願うことだけを、ひたすらやり続けてくれる人が現れるようになった。

しかも、それはただ単純に、望みをかなえてくれるという低い次元の関わりではなく、時宜にかなった助言があり、将来に渡ってまで、役立つ助けが与えられ、困難の中でも、率直に心の内を語り合い、互いに支え合い、励まし合う関係が成立している。そんな関わりが成立しうるとは、想像したことさえなかったが、筆者の未熟さによって揺るがされることのない、真実で誠実な信頼関係が成り立つことを知ったのである。

そういうわけで、「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を作ろう」とおっしゃられた神の御言葉が、筆者の人生にも成就し、筆者自身も、人の助け手となったり、人々も、筆者の助け手となってくれたりして、これまでのように一人で時間を過ごすことがだんだん難しくなってきた。

かつてのように、開かずの間に向かって、扉を叩き続けるような、むなしい関わりが減って行き、そういうものが残っていても、ある時、バッサリと枝葉が切り捨てられるようにしてなくなる。そして、いつの間にか、筆者自身からも、命の水が細い川のように流れ出し、その流れを人々と分かち合うことができるようになった。

どういうわけか知らないが、長年、筆者を縛っていた敵の呪いが解け、筆者自身の中に残っている古き人の残滓が、どんどん筆者から切り離されて行くのである。恐れ、疑い、不信、肉なる情・・・、そういった古き人の思いが、御言葉による「手術」により、筆者から切断されて、取り払われて行く。これは人知を超えた不思議な逆説的なみわざである。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24-26)

筆者を憎む者が、筆者を踏みつけ、勝利の快哉を叫んでいる最中に、筆者は、キリスト者の交わりの中に入れられ、愛によって取り囲まれ、信仰者からも、信仰を持たない者からも、心を尽くした助けと慰めと励ましを受け、魂を生き返らされている。

追い詰められ、殺されかかっているように見える時に、かいがいしく世話を受け、「生きよ」と命じられ、「私はあなたの敵を滅ぼす」、「すべての重荷を私に委ねなさい。」、「私はあなたを見捨てない」、「私を信頼してすべてを任せなさい」と、主から励ましを受ける。

一体、この恵みは何なのだろうか。多くの苦難と、それを圧倒的に上回る慰めに満ちた励ましとのコントラストである。

主は、信じる者をお見捨てにならず、恥の中に捨て置かれることもない。同時に、神の家族も同じように、愛する人々を苦難の中に置いて去って行くようなことをしない。

まるで多くの人たちからこう言われているようである、「疑わなくていいんですよ、ヴィオロンさん、私たちは目に見えない家族として結ばれているのですから、引き離されることはありません、互いに助け合うのは当然です」

神は報復なさる方であり、無垢な者を破滅させようと企む者には、したたかに報いられる。だが、主の勝利は、私たちが肉の腕で勝ち取るものではなく、信仰を通して、神がなさるみわざである。そうであるがゆえに、それがどのように現れるのか、私たちは事前に知らないし、己の力を誇ることで、敵に対する勝利を勝ち取るわけでもない。

キリスト者の原則はいつも、「私は衰え、彼(キリスト)は栄える」、というものだ。だから、来るべき年は、ますます肉の力によらず、信仰による神の御業を待ち望み、主の御言葉の正しさを地上で証明することに専念し、自分自身を誇るのではなく、ただお一人の神を誇りたいと願う。
 
二つの詩編を引用しておこう。

詩編第1編

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編第64編

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
 人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。