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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

大晦日である。晴れた空に,夕日がいつになく美しく輝いていた。

その日は、筆者の関わるキリスト者の交わりが、文字でなく、音声でもなく、顔と顔を合わせた生きた交わりとなり、筆者の中で、エクレシアが完全に復興を遂げた日であった。

特段、何かがあったわけでないのに、信仰による交わりがあったというだけで、ここ数ヶ月の間、一度も味わったことがないほどの平安が心に訪れた。果たすべき課題はまだたくさん残っているが、それらをすべて脇に置いて、休むことができた。

これまでにも、様々な交わりに出席してきたが、その頃と今とでは、何かが違う。

こんなことを言われた。

「あなたにはねー、こんなこと言っていいかどうか迷ったんだけど、今朝、ヴィオロンさんと『不器用』という言葉が一つにつながったんだよ」

筆者はそれを聞いて「それはひどいですねー」とうわべは抵抗を見せつつも、頷いて笑う。

筆者は確かに不器用な人間であり、人のために何かしてあげようと思っても、そのタイミングを逸することが多い。筆者が動こうとする前に、気の利いた誰かが、もうすでに人々の世話に着手しているからだ。

ところが、キリスト者の交わりとなると、そんな不器用な筆者からも、世話を受ける人が出て来る。互いに仕え合い、満たし合う関係が不思議に成立する。

その日の話題は、主にあって、いかに自分の生来の力に対して弱められ、それに死に、主の力によって強められて生きるか、というところを巡っていた。筆者が不器用であっても、私たちは存在そのものが神の教会であり、己の力で何かを努力して果たすことによってではなく、ただ存在しているだけでも、世に影響を与え、信仰によって、キリストを人々にもたらす役目を果たせる。それができると信じて良い。

「もっと教会(エクレシア)に頼ったらいいんですよ」

とも言われた。以前には、なかなか人に頼るということができず、頼ることを恐れていた筆者であったが、ここ数年で、考えを変えさせられた。

近頃、筆者の周りには、どこからともなく、善良な人たちが集まって来るようになり、困難な日に、どれほど貴重な助言を受け、励ましを受け、支えられたか分からない。そうして助けを受けたからといって、決して、依存関係や、主従関係が生まれるわけでなく、それぞれが自分の信念を持ち、自立していながら、互いに支え合い、仕え合い、助け合う関係が成立するのである。

そのようなわけで、今年は、人から助けを受けることへの抵抗感がなくなり、特に、神の家族からの助けは、大いに受けて良いものであると分かった。肉の家族ではなく、天の家族が、はっきりと姿を現し、信仰の有無に関わらず、肉の家族以上に筆者を支えてくれるようになったのである。

筆者は、初めは恐る恐る、その人たちとの関わりに足を踏み入れ、恐る恐る、助けを受けた。かつて、あまりにも多くの交わりが、サタンの試みによって引き裂かれ、疑心暗鬼によってバラバラに分解されたので、またも同じことが起きないか、非常に心配であったが、何度、試しても、その交わりは分解することなく、筆者を取りこぼすこともなく、より安定して、強固なものになり、発展した。

以前にも、筆者はキリスト者の交わりを求めて、はるばる長い距離を移動した。その頃も、純粋にエクレシアを求めていたつもりであったが、その時と今とでは、何かが違う。エクレシアを求める熱心さにさえ、死んだのかも知れない。今、与えられているものは、恵みであって、筆者が探し求めた努力の結果とは言えない。

すべての希望が潰え、もう何も戻っては来ないだろうと思った頃に、望みをはるかに超えた恵みが、向こうから自然と姿を現したのである。

それは、天によって支えられている不思議な関係である。鳥が空中に巣をかけるように、地に属さず、地上のすべての関係を超越したところに、不思議な形で、交わりが保たれている。その交わりを何と名づけるべきか、分からない。だが、そこに筆者の居場所があり、平安がある。

その居場所は、信仰のない様々な人たちの間でも、不思議に成立している。たとえば、最近は、警察官から、「クリスマスケーキは食べたの?」と聞かれたり、この世の人から、「無事に年を越せるの?」などと言われ、御馳走を振る舞われたりもした。そんなに心配されるほど、筆者の境遇は危なっかしくはないのだと、とうわべは弁明するのだが、それでも、虚勢を張らず、ありがたく人の親切を受けるようにもなった。
 
これまでは、筆者を苦しめるためだけに、ひたすら筆者の嫌がることばかりをやり続ける人たちがいたが、今年は、そういう人たちと入れ違いのように、筆者が頼んでもいないのに、筆者が何を願っているのか、言葉も発していないうちから、筆者の願うことだけを、ひたすらやり続けてくれる人が現れるようになった。

しかも、それはただ単純に、望みをかなえてくれるという低い次元の関わりではなく、時宜にかなった助言があり、将来に渡ってまで、役立つ助けが与えられ、困難の中でも、率直に心の内を語り合い、互いに支え合い、励まし合う関係が成立している。そんな関わりが成立しうるとは、想像したことさえなかったが、筆者の未熟さによって揺るがされることのない、真実で誠実な信頼関係が成り立つことを知ったのである。

そういうわけで、「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を作ろう」とおっしゃられた神の御言葉が、筆者の人生にも成就し、筆者自身も、人の助け手となったり、人々も、筆者の助け手となってくれたりして、これまでのように一人で時間を過ごすことがだんだん難しくなってきた。

かつてのように、開かずの間に向かって、扉を叩き続けるような、むなしい関わりが減って行き、そういうものが残っていても、ある時、バッサリと枝葉が切り捨てられるようにしてなくなる。そして、いつの間にか、筆者自身からも、命の水が細い川のように流れ出し、その流れを人々と分かち合うことができるようになった。

どういうわけか知らないが、長年、筆者を縛っていた敵の呪いが解け、筆者自身の中に残っている古き人の残滓が、どんどん筆者から切り離されて行くのである。恐れ、疑い、不信、肉なる情・・・、そういった古き人の思いが、御言葉による「手術」により、筆者から切断されて、取り払われて行く。これは人知を超えた不思議な逆説的なみわざである。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24-26)

筆者を憎む者が、筆者を踏みつけ、勝利の快哉を叫んでいる最中に、筆者は、キリスト者の交わりの中に入れられ、愛によって取り囲まれ、信仰者からも、信仰を持たない者からも、心を尽くした助けと慰めと励ましを受け、魂を生き返らされている。

追い詰められ、殺されかかっているように見える時に、かいがいしく世話を受け、「生きよ」と命じられ、「私はあなたの敵を滅ぼす」、「すべての重荷を私に委ねなさい。」、「私はあなたを見捨てない」、「私を信頼してすべてを任せなさい」と、主から励ましを受ける。

一体、この恵みは何なのだろうか。多くの苦難と、それを圧倒的に上回る慰めに満ちた励ましとのコントラストである。

主は、信じる者をお見捨てにならず、恥の中に捨て置かれることもない。同時に、神の家族も同じように、愛する人々を苦難の中に置いて去って行くようなことをしない。

まるで多くの人たちからこう言われているようである、「疑わなくていいんですよ、ヴィオロンさん、私たちは目に見えない家族として結ばれているのですから、引き離されることはありません、互いに助け合うのは当然です」

神は報復なさる方であり、無垢な者を破滅させようと企む者には、したたかに報いられる。だが、主の勝利は、私たちが肉の腕で勝ち取るものではなく、信仰を通して、神がなさるみわざである。そうであるがゆえに、それがどのように現れるのか、私たちは事前に知らないし、己の力を誇ることで、敵に対する勝利を勝ち取るわけでもない。

キリスト者の原則はいつも、「私は衰え、彼(キリスト)は栄える」、というものだ。だから、来るべき年は、ますます肉の力によらず、信仰による神の御業を待ち望み、主の御言葉の正しさを地上で証明することに専念し、自分自身を誇るのではなく、ただお一人の神を誇りたいと願う。
 
二つの詩編を引用しておこう。

詩編第1編

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編第64編

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
 人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。
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神に従う人の道は輝き出る光 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」(ヤコブの手紙5:12)

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイによる福音書第5章36)

* * *

前回、神は人の心の極みまで明らかにされる方であり、隠れた事柄が明らかにされるのは、聖書の御言葉にかなっている、ということを書いた。

そして、神が立ち上がって報復して下さるためには、ある人がただ私たちクリスチャンを傷つけたというだけでは不十分であって、その人が、神を冒涜する言葉を述べている必要があるということをも書いた。

神聖なものが冒涜・蹂躙されて、初めてその事件は、単なる人間同士の小競り合いという域を超えて、神が対処されるにふさわしいものとなるのである。

そういう意味で、今、考えれば考えるほど、人の内心が露わにされており、神を信じない人は、自分は勝利を遂げたと快哉を叫ぶ瞬間にさえ、オウンゴールを遂げて自滅することを免れられない。

昔々、教会が主催する日曜学校で、こんな出来事が起きた。日曜学校では、お祈りしているときには、みんな目をつぶっていなさい、と先生が生徒たちに教えていた。

ところが、ある生徒が、お祈りしている途中に、他の生徒がちゃんと目をつぶっていないのではないかと疑い始め、お祈りが終わったあとに、先生に向かって、得意満面でこんな報告をした。

「先生、A子ちゃんがお祈りの途中に目をつぶっていませんでしたよ!」

先生は至極落ち着いてその子に問うた。

「どうやってあなたにそれが分かったの?」

もちろん、面目を失ったのは、A子ちゃんではなく、お祈りの最中に、他の生徒たちの行状を先生に告げ口しようと、あら探しを重ねていた生徒であったことは言うまでもない。

クリスチャンの罪を告発しようなどと考える不届き者が出現すると、こういうことが起きる。

ある人が得意満面で、クリスチャンの「失敗」や「不正」を神に報告しようとする。あそこの教会ではこういう不祥事が起き、あの信者は、別な兄弟姉妹と争い、また別な信者は、家庭内のいざこざを治められず、また別な信者は、信仰の道を踏み外し・・・etc. etc.

ところが、神は問われる、「なぜあなたがそういう出来事を知っているのですか。どうやってそれを調べたのですか。あなたは祈りの家と唱えられるはずの私の父の家で、父へ捧げられた礼拝の時間と場所を使って、かえってあなたの兄弟姉妹を不利に陥れるために、彼らが知られたくないと思う情報をこっそり集めていたのですか。そんなことがあなたにとっての『礼拝』や『祈り』なんですか」

告げ口屋は、それで万事休すだ。そのことは、子供向けの日曜学校だけでなく、それ以外の教会生活にも、現実の生活においても、同じように当てはまる。

まことの父に捧げられるはずの厳粛な祈りと礼拝の時間を使って、まるで興信所のように、兄弟姉妹の身辺調査を行い、彼らを不利に陥れるための証拠を嗅ぎまわる者がいる。

しかし、そうして他人の生活を盗み見て得た情報を、聖なる貴重な手柄であるかのごとく、礼拝に携えてやって来ることはできないし、そういう者には、神ご自身が「穢れた者よ、ここから出て行きなさい!」と厳しく命じられ、神の家から放逐されることになるのは、避けられないだろう。

たとえいと小さき幼子のような兄弟姉妹であっても、その者のためにも、以下の御言葉はある。だから、祈りや礼拝の最中に、兄弟姉妹を訴える材料を探す者は、最終的には、神ご自身を敵として歩むことになる。
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。・・・」

これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39) 
 
さて、これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義を含む)の目的は、「対極にあるものの統合」であると述べて来た。言い換えれば、それは「然り」と「否」との統合である。

さらに別な言葉で言えば、グノーシス主義とは、ただお一人の神だけに忠実に生きていない人が、自分の不実な生き方を隠そうとして作り出す、終わりなき自己弁明のための詭弁だと言って差し支えない。

だから、そういう者の発言の中には、必ず、「然り」と「否」が混同している。

たとえば、自分を罪から贖い、義として下さった神に献身して、生涯を伝道に捧げるために牧師として生きる、と言いながら、その実、全く別なこと(教会や兄弟姉妹を告発すること)をライフワークとして生きている。
 
キリストの贖いによって罪赦されて、自分はクリスチャンになったと言いながら、兄弟姉妹の罪を決して赦そうとせず、彼らを非難・罵倒し、罪に罪を重ねて生きている。

「金持ちが天国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい」という聖書の御言葉を知っていながら、「金持ちも天国に入れる!」と自分勝手な例外をもうけて、富裕者を対象としたセミナー、集会などを開いては、積極的に献金を集め続けている。

「義人は信仰によって生きる」という御言葉があることを知っていながら、「自殺は罪ではない」と触れ回り、心弱くなって自殺した人の肩を持ち、御言葉に人を救う力があることを否定する、等々。

こんな風に、御言葉に従うように見せかけて、それを曲げたり、逆らいながら、二重性を帯びた生き方を続けて行けば、「然り」と「否」との統合(対極にあるものの統合)が起きることになる。もちろん、それは統合できるはずのないものを統合しようとする錬金術のような生き方であるから、嘘であって、詭弁であり、やがてその破綻が誰の目にも明らかになる。

最近、筆者が手を加えなくとも、そういう人にはおのずから破綻が起きるのだということが分かるようになった。そして、そういう光景を見るにつけても、やはり神は、聖徒らに罪を着せようとする人間を、そのまま放っておかれることは決してなく、キリストの十字架の血潮の絶大な価値のゆえに、私たちの身の潔白を、ことごとく証明して下さるのだと感心しないわけにいかない。

以上に挙げた御言葉には、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と書いてある。

このことは、主イエスによって示された神の愛は、時空間を超越して私たちと一つに結びついていることを示している。この世の事物や、人の思惑が、どんなにその邪魔をしようと入り込んで来ても、それが私たちを神の愛から引き離すことは決してない。

その約束は極めて絶大である。人の人生には、その人自身の目にさえも、失敗と映る出来事が存在しないわけではないし、人の目から見て、何が正しく、何が間違っているかは、時に分からないこともある。だが、そういうときでさえ、キリスト者の人生にあっては、神がすべての出来事を益として下さり、神の栄光のために用いられる。

それゆえ、私たちの人生には、失敗とか、損失というものは存在しないし、思い煩わねばならない理由もない。

神に従う人の道は輝き出る光
 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
 
 神に逆らう者の道は闇に閉ざされ
 何につまずいても、知ることはない。」(箴言4:18-19)

ハマンはエステルの祝宴に招かれ、自分の地位は安泰だと過信し、モルデカイとユダヤ人たちを殺す機会は目前に迫ったと考えて喜び浮かれていたが、王はハマンがモルデカイを吊るすために自分の邸宅の庭に造った絞首台に、ハマン自身を吊るすよう命じた。ハマンの邸宅は、エステルに与えられた。

霊的な文脈においては、すべてのことについて、決着が完全についている。そして、筆者は、時を追うごとに、目に見える出来事を通しても、その霊的な勝利が少しずつ表されていること、カルバリの勝利は、信じる者に揺るぎのない約束として与えられており、私たちにはいつでもそこへ帰って行く権利が与えられていることが、分かるようになった。

「然り」と「否」を統合しようとする者は、最終的に、神ご自身によって討たれ、退けられる。すでに誰も強制していないのに、その者は、自らの内心を赤裸々に吐露して、自分を義としてくれた人の言葉を裏切って、自滅へと向かったことを見ても、なおさらそう思わないわけにいかない。

実に不思議なことであるが、その人が勝利のおたけびだと思って叫んでいる言葉が、そのまま、敗北の宣言に変わっているのだ。
 
そして、気づくと、十年来、筆者が解こうとして苦労して来た呪いは、いつの間にか解除されていた。

いつしか筆者の周りには、多くの人たちがやって来るようになり、一人でいるための時間も残らないほどになった。なぜそうなったかと言えば、筆者の手がけているプロジェクトが、完成に近づいているためである。

そのプロジェクトは、生ける命の水の川々をこの地から、筆者自身から、はるか遠くに及ぶまで、果てしない広域に向けて流し出すというものである。干上がったこの霊的飢饉の最中に、沙漠の中にオアシスを作るように、神の愛が川のように溢れ流れ出すよう、巨大なパイプラインを建設中なのである。

それは誰も注目しないみすぼらしい「干潟」から始まる。人知れない事業であった。だが、筆者が開拓した「干潟」からは、確かに命の水が流れ出し、周囲を潤すようになり、その水を求めて来た人たちや、筆者との交わりのために来た人たちが、泉の水を汲み出して飲み、そこに手足を浸して、体を休めている。パイプラインが建設された後には、人々が安らぐための広場が出来、緑の公園や、ベンチや、噴水が出来、子供たちが駆けまわる。

だが、まだ足りないものがある。それは、住まいである。多くの人たちを受け入れ、かくまうための住まい、彼らが荷を下ろし、時を忘れて静かに語らい、ゆっくりと休むことのできる住まいがまだない。
 
その住まいとは、神のために用意された神殿である私たち自身のことでもある。主イエスは、地上を去られる前に、私たちのために天に住まいを用意するために行かれると言われた。その住まいはたくさんあるとも。だが、同時に、私たち自身が、この地上において、まことの主人の到来にふさわしい住まいとして建て上げられ、整えられ、主の栄光を表すことが必要なのである。

それはまるで天と地とが呼応するようである。その住まいが完成されたとき、神ご自身もそこに喜んでやって来て、私たちと共に住んで下さり、それはついには朽ちることのない永遠の巨大な都を構成するようになるだろう。

そういうわけで、今は終わりの時に向かって、人々の内心がことごとく明らかにされ、それぞれが目的とするところが何であるかが試され、各自のビジョンが完成に近づいている時である。正しい者はますます正しく、悪い者はますます悪くなる。聖なる者はますます聖とされ、汚れた者は、なお汚れるままになると聖書に書いてある。

不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示22:11-15)

渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者がれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何かを取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示22;17-19)
 
だから、私たちは、より一層、霊や肉の穢れから身を清め、聖なる神の住まいとなるにふさわしく整えられたい。

荒野で、蛇にかまれても、さおにかけて上げられた青銅の蛇を見た者が生きたように、カルバリにおいて永遠に打ち立てられた御子の十字架を仰ぐことによって、私たちは生きる。

私たちの内に義があるのではなく、キリストが、私たちの義であり、贖いであり、聖なのである。彼こそが、私たちのために模範として与えられた、神の御心を完全に満足させる新しい人である。
 
神はそれぞれの心の内にある動機を知っておられ、これらをすべて万人の前に明らかにすることができる。神の御前には何一つ隠し立てできるものはなく、人の思いの不完全さも、神にはすべて知られており、明らかにされる時が来る。

筆者はまずはその光による照らしを待ちたい。その後、悪者たちには終わりが来る。その行程がどんなものになるか、筆者はここに明かすことはないが、主を信じる者が、失望に終わる事はないと聖書に書いてある通り、神はご自分を信じる者をみもとにかくまい、すべての悪巧みから救い出し、高いところに置かれる一方で、主に逆らう悪者にはしたたかに報いられる。

悪者は、自分を襲う恐怖を知らず、それに対策を打つこともできず、そこから自分を救うこともできない。主に叫んでも、その叫びはかえりみられることなく、その祈りは罪とされる。主に従う者の道は栄え、悪者は断たれる。それは聖書が一貫して告げている変わらない法則性である。


彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。

そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるとおりです。

見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
 のであり、また、
「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、

「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(Ⅰペテロ 第2章)

* * *

当ブログは、聖書の神が、正しい、唯一の神であって、キリストの十字架の贖いが、人類にとってただ一つの救いであることを証しするために執筆されている。

従って、当ブログの最終目的は、神に栄光を帰することであって、それ以外の目的にはない。

このブログは、筆者が信仰の証のために書き続けているものであって、筆者の自己満足や、筆者が栄光を受けることを目的としていない。

とはいえ、このブログには、筆者自身の人間らしい歩みも率直に記されているので、一見すると、無価値にも見える多くの記事があるかも知れない。しかし、それも含めて、このブログは、干潟に溜まっている泥水のように、外見的には、みすぼらしく、魅力も、見栄えもしないが、そこには、神の愛に満ちた眼差しが確かに注がれているのであって、人知れず光合成が起き、泥水にしか見えない水が、神の目に尊く、すべての人々に役立つ、永遠に価値ある生ける水に変えられている最中なのである。

筆者がこの地に置かれてから後、筆者に与えられたミッション――すなわち、干潟を開拓して、そこから命の水が湧き出るためのパイプラインを建設し、これを稼働させること――が開始するまでに、相当な年月がかかった。

それは、この地にパイプラインを建設できるような土壌がなかったためで、地盤作りに年月がかかったからである。さらに、地中を深く掘り下げ、地下深いところから水を汲み上げるためには、多くの苦難が必要となった。

神の御業が現れるためには、信じる者の側にも、深い飢え渇き、願い求めが必要で、旱魃のようにも見えるむなしい実り少ない月日の間に、深く深く井戸を掘ることが必要となった。

だが、ある時が来ると、掘削作業は終わり、確かに水脈に達し、地下水を汲み上げる作業が始まった。そして、ついに筆者は、命の水が確かに流れ出す瞬間を見たのである。

二、三年ほど前までは、多くの交わりが試練に耐え得ず、分解させられるところを幾度も目撃して来た。

だが、そのことを通して筆者が学んだのは、人間関係とは、キリスト者の交わりも、そうでない交わりも含め、全て試され、揺さぶられることなしに、本物にはならないということである。不信や、対立や、分裂をもたらそうとする悪しき力や、様々な策略が働くときに、これに勇敢に立ち向かって、人々との信頼の絆を保ち、目的に向かって共に一致協力して前進できる関係を手放さない方法を学ばなければ、私たちは、順調な時しか人々と協力できず、逆境になると、すぐに人間関係が壊れ、これを手放すこととなり、そんなことでは、周囲の人々が、一体、何のために私たちの周りに置かれたのか、彼らが私たちにとって、どんなに重要かつかけがえのない役目を果たしてくれるかを、決して生きて知ることはできないままに終わる。

そうして不信や対立を乗り越えて、信頼を維持・強化する方法を学ぶためだけにも、相当の歳月が必要であった。
 
これと同様のことが、当ブログにも当てはまる。信仰の証としての当ブログは、これを中断させ、放棄させようとする様々な試みによって、絶え間なく揺さぶられ、試練を味わわされて来た。

しかし、それもまた、筆者が信仰の証を確固として保ち続けるために、これをやめさせようとするすべての策略に勇敢に立ち向かって、神への賛美と証を続けることの重要性を学ぶ過程であったと言える。

困難や試練に見舞われても、神に栄光を帰する作業を決してやめないでいること、兄弟姉妹や、愛すべき人々を、嵐のような試練の中で守り抜き、彼らとの絆を決して絶やさないように守ることの重要性を学ぶまで、確かに歳月はかかった。しかし、ついに、揺さぶられても、決して壊れることのない交わりが生まれ、相互の固い信頼の絆が生まれたのである。

そうして、地下深く掘り下げられた井戸から、汲み上げられた命の水が、地上から流れ出し始めた・・・。

今でも、当ブログを地上から殲滅したいとの願望が、筆者に向かってあからさまに述べられることがある。筆者がすべての主張を放棄し、これまで獲得したすべてのも成果を投げ捨てることによって、あたかも筆者の安全が保たれ、平和が到来するかのような主張を聞かされることがある。

だが、筆者に証を述べることを辞めさせようとする願望を聞くとき、筆者は、殉教者たちのことを思い出す。長崎のキリシタンであれ、皇帝ネロの時代のクリスチャンであれ、みな同じ要求を突きつけられ、同じ試練の道を通ったのである。自分の命や、自分の身の安全を第一優先し、神の御言葉を恥じて捨てるのか、それとも・・・。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

筆者が第一に優先せねばならないことは、自分の命を真っ先に優先して守ろうとすることではなく、神の国とその義を第一とし、神の御言葉を人前で恥じることなく、伝え続けることである。
 
これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義)の時間の概念は、円を描く曲線であるが、キリスト教の時間軸は直線である、ということを書いて来た。

ここで言う「グノーシス主義」とは、聖書とは真逆の偽りの教えを総称したものである。
 
この問題を考えるとき、筆者が当ブログにおける信仰の証を自ら放棄・否定して、これまで達成して来たすべてを、なかったこととして否定しさえすれば、あたかもすべての争いから解放されて、安息を得られるかのような考えが、偽りであることが分かる。

何度も述べて来たように、聖書に反するグノーシス主義のシンボルは(東洋思想も含め)「円」である。この円とは、人類が時間軸を逆にして、歴史の初めと終わりを一つに結びつけること、すなわち、循環する時間の概念を表している。
 
このシンボルの究極的に意味するところは、人が自力で、神と人とが分離する前の状態に逆戻ることである。すなわち、聖書によれば、神が天地を創造され、人を創造された後、人は自ら神に反逆し、罪によって堕落し、神と断絶するに至った。

しかし、グノーシス主義は、人間が自分で時間を遡り、神から分離する前の状態に逆戻ることによって、あたかも、人が神に対する反逆という問題を起こしたことがなかったかのように、罪の問題を自力で解決して、自ら神に回帰し、救いに到達できるかのように教える。そのような偽りの考えを示すシンボルが、円(東洋思想における「道」)なのである。
 
それは、人が自力で母の胎内に逆戻り、生まれる前の状態に逆戻ることによって、この世の悩み苦しみの全てから解かれ、両親との一体性を取り戻し、胎内でもう一度、安息を得ようとする試みにたとえることもできよう。

しかし、普通に考えて分かる通り、人が自力で母胎に逆戻ることなど、できるはずもないのであるから、同じように、罪によって神と断絶した人類が、時間軸を逆向きにして、神と分離する以前の状態に自力で回帰することなど無理な相談である。

そのことを考えれば、筆者が当ブログを閉鎖したり、信仰によってエクソダスを遂げたことを否定して、幼い頃から慣れ親しんだもとの故郷に逆戻り、そこから出た後、昨日までに打ち立てたすべての達成を自ら否定してみたところで、それによって生まれる成果など何一つないことがはっきりと分かる。

私たちは、昨日までの歴史を否定したり、自分の信仰の証や、果ては兄弟姉妹の存在や、自分自身の存在までも否定して、何も起きなかった当初の状態に逆戻ることで、心の平和を得られるわけではない。

そういう意味で、人類が、神によって創造され、罪によって堕落したことは、それ自体、著しい悲劇なのであるが、それでも、私たちは、その悲劇が起きなかった以前の状態に自力で逆戻ろうとすることによって、問題解決を成し遂げ、平和を手に入れられるわけではなく、その悲劇の事実をしっかりと見据えた上で、これを真に克服できる方法を探し求め、それを手に入れて、先に進んで行かねばならない。

そして、神と人との断絶を克服する方法は、神の側から恵みとして与えられた十字架以外には存在しないのである。十字架は、エクソダスの道である。生まれながらの自分自身から、古い肉的な故郷から、私たちが目で見て、耳で聞いて、感覚を通して確かめて来たこの世そのものからのエクソダスである。
 
これまで当ブログでは幾度も述べて来たことであるが、聖書には、こうある。

「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)

筆者が、この御言葉を幾度も引用するのには、理由がある。ここで述べられている内容は、非常に重要な奥義であって、それは神と人とが一体であるかのごとく親しく結びつき、一つとなって共に住まうことが、神の望みであることを示している。

つまり、聖なる神の宮として造られた人類に、神ご自身がやって来られ、人の内に住まわれること、そうして、神と、宮なる人類が一つとされ、それによって、花婿なるキリストと花嫁なる教会の結婚が実現すること、それこそが、教会の奥義なのである。

だが、この一体性が成り立つために必要な条件は、「人は父と母を離れて・・・」というものである。父と母を離れるとは、人が自分の生まれながらの出自に死ぬことを意味し、生まれながらに持っている堕落した天然の命に対し、キリストの十字架の死を経由し、自分の生れ故郷(ヘブル書では「出て来た土地」(ヘブライ11:15))を離れ、信仰によってよみがえらされて、新しい命により、新しい天の故郷へ到達するために、歩みを続けることを意味する。

生まれ故郷を離れないことには、新しい故郷にたどり着くこともない。地上的な故郷との結びつきが断ち切られないことには、天の故郷への道も開かれない。だからこそ、人はバプテスマを経て、生まれながらの自分に死んで、上から生まれることが必要なのであり、筆者自身も、真実な信仰を知って、神ご自身を探し求めるためには、エクソダスの道を通らねばならなかった。

筆者は幼い頃から形式的にはキリスト教徒だったのであり、信仰それ自体も、持っていたとはいえ、それでも、「父と母」のいる、もといた「故郷」、すなわち、物心つく前から筆者を取り巻いていた慣れ親しんだ宗教的な環境において、古き自分に死ぬことなしに、神ご自身に出会うことは不可能だったのである。

ヘブル書には次の通りある。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)


神の御言葉は、あたかも裁判の判決が法的拘束力を持つように、霊的な拘束力を持つものである。そこには、人類に対する神の約束事が書かれている。約束が成就していないうちば、御言葉は、単なる空手形のようにも見えるかも知れないが、その約束には、生きた効力があり、聖書の御言葉には、約束を実現させる力が込められている。

とはいえ、その約束は、私たち自身がこれを承認し、信じ続けなければ、実現することのないものである。従って、私たち自身が、何があっても、御言葉に基づく望みの確信を手放さないことをせず、その確信を途中で投げ捨て、自ら否定してしまえば、その効力は失われる。
 
たとえば、ちょっとした困難が起きただけで、自分の命や、身の安全が惜しいからと、当ブログの信仰の証を、筆者が自ら否定し、捨て去ったり、筆者に与えられた尊い御言葉の約束を、筆者が自分で否定したりすることは、約束の放棄を意味し、それは結局、筆者が出て来た故郷へ戻ろうとする試みと同じなのである。そのようなことをすれば、さらにまさった天の故郷へ向かう道は断たれる。

それだけでなく、筆者のエクソダスも、意味がないものとなり、地上の故郷を出した後に打ち立てられた信仰的成果もすべては無に帰され、当ブログの存在も無用なものとなるばかりか、筆者自身の存在も、消えてなくなるであろう。

いや、消えてなくなるくらいならまだ良い。キリスト者が信仰の証を捨てれば、塩気を失った塩として、誰にとっても無用なものとして、道端に捨てられ、踏みにじられて終わることになるだけである。争いが終結して平和が訪れ、自分の命と安全が保たれるどころか、すべてが「無」に帰され、踏みつけられて終わるだけなのである。
 
当ブログは、筆者なりに、天の故郷へと続く道を歩く行程(天路歴程)なのであり、これを否定したり、放棄することで、筆者の安息(救い)が得られることは決してない。そのような考え方の中には、筆者を古い故郷へと戻らせようとする、偽りの思想に基づく循環の時間の概念が反映していると言える。

だが、繰り返すが、人類は自力で神の懐に回帰することができない以上、筆者がこれまでの歴史を否定してみたところで、それによって達成される成果など何もないのである。
 
私たちは、不可逆的な時間の流れの中に立っており、時には、根こそぎ心を揺さぶられ、自分が一体、何のために生きているのかも分からないと思うような、悲痛な出来事に遭遇することもある。だが、悩み苦しみが大きいからと言って、自分がこの世に誕生し、ものを考えるようになり、自己の意思を表明するようになり、神を求めるようになり、信仰を見いだす以前の、生まれなかった前の状態に逆戻ることによって、問題が解決するなど、断じてあり得ず、それは詭弁でしかない。
 
むしろ、目の前に大きな困難があるように見えるときにこそ、私たちには、神の御言葉という、絶大な効力を発する、勝利の約束が与えられていることを思い起こし、私たちの存在に、神の愛が注がれていること、それゆえ、御子の十字架が与えられていることを思い起こし、勇気を奮い起こして前に進んで行かねばならない。

御言葉が、私たちに勝利を約束してくれている以上、一体、何を恐れて、これを自ら否定し、証をやめて、御言葉を知らなかった頃の、古い故郷に駆け戻る必要があろうか。
 
なすべきことは、エジプトを恋しがり、あるいはソドムに未練を感じて振り返ることではなく、約束の確信に基づいて、目の前の紅海を最後まで渡り終え、復活の領域に達することである。

キリストこそ、私たちにとって、すべてのすべてであるから、この方の中にこそ、地上のあらゆる問題に対する「正解」がある。この方を信じる者は、失望に終わることはないと、はっきりと聖書に記されている通りである。その約束に立脚して進んで行くのか、恐れて退却するのかは、各自の自由な判断であり、選択である。
 
「「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。」
 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)
  
さて、不思議なことに、筆者の人生においては、様々な困難が存在しているように見える中でも、失われた兄弟姉妹の交わりが、少しずつ回復している。筆者がキリスト教界をエクソダスして後に築かれた兄弟姉妹の交わりが、戻って来ており、そこで10年以上前から温められていたプロジェクトが、今も進行中であることが分かった。

それは、筆者がエクソダスを遂げるに際し、とても重要な役割を果たしたプロジェクトである。あれから相当な歳月が経ったので、筆者は、さすがにこの計画はもう放棄されているのではないかと思っていたが、そうではなかったことが分かった。

それは他の人たちが撤退して行った場所で人知れず続けられている計画であり、このことを見るにつけても、筆者は、神の国と神の義をまず第一にすれば、すべてのものは添えて与えられるとの御言葉の確かさを確信させられる。

人の目から見てどう見えようとも、神の御言葉の約束を信じてこれを追い求め続ける人の人生には、神ご自身がすべての責任を取って下さるという、生きた見本を見せられているようである。

聖書には、不正な裁判官のたとえがある。

神を畏れず、人を人とも思わぬ裁判官に対しても、やもめが懇願を続けて、ついに裁判官の心を動かし、正しい裁きを得たという、主イエスが語られたたとえ話である。
 
このたとえ話に登場する不正な裁判官は、神を象徴している。神を不正な裁判官にたとえるのはどうかと思われるかも知れないが、神の采配は、私たちには、ときには、非常に理解しがたく、納得できないものに見えることがある。

たとえば、神はなぜサタンの活動を許しておられるのか。なぜこれほど理不尽な悪事や災害が世に溢れ、神はこれを放置されているのか。もしも神がただちにサタンの働きを滅ぼしてしまえば、私たちは、現在の悩み苦しみからすぐにでも解かれたであろうに、なぜ神は善良に見える多くの人々の苦しみを黙認しておられるのか・・・。

そういった疑問は、クリスチャンであっても、実に多くの人たちが抱くものである。だが、それは愚門であると言えよう。神が望んでおられるのは、あくまで私たち自身が、自らの信仰を通して、理不尽や混乱に満ちたものに見えるこの状況の只中に、御言葉の約束の効力を及ぼし、それによって、サタンのわざを後退させて行くことだからである。

だから、私たちがせねばならないことは、いかなる状況の中でも、その状況の理不尽さに目を留めるのではなく、神の采配がどんなに理解できないものに感じられるときでも、神は正しく、真実で、公平な方であって、私たちのために、常に最善の解決を用意して下さっていることを固く信じ、主がカルバリで打ち立てて下さった勝利の御業を誉めたたえ、その約束に信頼しつつ、新たな一歩を信仰によって大胆に踏み出していくことなのである。

そうして、私たち自身の努力によるのではなく、神の側から恵みとして与えられている御言葉の約束に基づく解決を、混乱に満ちた状況の只中に、力強く現実的かつ具体的に引き下ろすことである。

そのために、私たちに必要なのは、あくまで望みを捨てずに祈り続けること、執拗に懇願し続けること、目的に向かって進み続け、決して後退しないことであり、断じて、脱出してきたはずのい故郷に帰ろうと考えることではないない。

そこで、仮に今、誰かが筆者の隣にやって来て、筆者の耳元で、自分の身の安全が惜しいなら、あなたの信仰の証をさっさと放棄しなさいとささやいたとしても、筆者は、そんなことは無理です、としか答えられない。

なぜなら、筆者には、キリストに出会わなかった以前の状態に戻ることはできないからである。その答えの中に、一切が込められている。キリストを否んで、信仰の証を捨てることができるか問われれば、当然のことながら、答えはノーであるが、それと同様、愛すべきキリスト者との交わりを手放せるかと問われれば、答えはノーである。敬愛する権威者・友人を捨てられるかと問われても、答えはノーであるし、裁判所の飛び地のようなところで、筆者に与えられている仕事を放棄できるかと問われても、答えはノーである。自分に与えられた信仰によるミッションも終わらないうちに、この街を出て行き、よその土地で暮らせるか、と尋ねられても、やはり答えはノーであると言うしかない。

信仰によるエクソダスをなかったことのように否定して、ブログを立ち上げる前の状態に逆戻り、地上的故郷に舞い戻り、そこで自分自身の名で、自分のために、地上的な功績を打ち立てることを目的とする人生を送れるかと問われれば、そのような人生は、すでにバプテスマと共に、水の底に沈んで死んでいる以上、思いめぐらすこともできないし、取り戻すことも不可能だと言うしかない。

そこで、誰かが筆者のそばにやって来て、筆者に向かって、あなたがエクソダス後の成果を頑固に手放さないから、私はあなたに間違った信仰の証を辞めさせるために、あなたを殺害することにしますと予告したとしても、やはり、筆者の答えは変わらないだろうとしか言えない。

だが、それは決して筆者が、歯を食いしばって、必死の思いで、あるいは涙ながらに、自分はこれからあらゆる恐怖に打ち勝って、信仰を守り通さねばならないと告白するような、悲壮な決意表明ではない。

筆者は、ただ与えられた御言葉の約束と、その前味として、すでに筆者の人生において成就している恵みの素晴らしさを知っているがゆえに、もはやそれを知らなかった頃に逆戻ることはできないという、シンプルで自然な思いを述べているに過ぎない。

一言で言えば、自分の全てを捧げてキリストに従うとは、愛ゆえに生まれて来る自然な告白なのであって、自分の力であらゆる苦難に立ち向かって信仰を守り通そうとする頑固で必死の努力の賜物ではないのである。

すべては愛のゆえである。信仰による応答は、まず何よりも、十字架でご自分の命を捨ててまで、筆者を救って下さった神の深い愛に対する、筆者の側からの愛による応答である。いかに幼い頃から信仰を持っていたとはいえ、筆者は目に見える教会生活を送っていた時代には、十字架のキリストを内に啓示されることで、主に出会うことはなかったのであり、その後、教会生活をエクソダスして、初めて、主ご自身に出会うことができ、聖書の御言葉と、それに基づく信仰の、真実で正しいことを身を持って知った。今、それによって得たすべての恵み、そして、来るべき報いに対する望みの確信を放棄して、主ご自身に出会う以前の状態に逆戻ることは、筆者には死を意味することであって、全く考えられもしない。

主に出会ったときに、筆者の人生は根本的に変えられ、自分が何のために生き、存在しているのか、その目的も、意味も、以前とは全く異なるものに変わった。ひと言で言えば、筆者はもはや自分のために生きているのではなく、神に贖われた者として、筆者のために命を捨てて下さった神に栄光を帰するために生き、存在している。どんなにその目的が、わずかしか達成されていないように見えたとしても、筆者に与えられた使命が失われるわけではない。

それに加えて、筆者がこれまで出会って、支えられて来たすべての人たちとの愛に満ちた交わりや、信頼関係がある。キリスト者の交わりへの慕わしい思い、筆者を助け、支えてくれている人たちへの愛がある。困難の中で得られた信頼や交わりは、とりわけ価値があり、それは筆者の手柄ではなく、まさに主が恵みによって与えて下さったものであるとしか言えない。

こうした信頼関係は、交わりがふるいにかけられて試される以前のように、頼りない、壊れやすいものではなく、試練にさらされても、それに耐えて残るだけの力があると確信できるものとなっている。

そうして新たに生まれた信頼に満ちた交わりが、とても喜びに満ちた、麗しく、慕わしいものであるがゆえに、それらを自ら否定したり、侮辱するくらいなら、ただちにこの場で殺されて息絶えた方がましだと筆者には思えるのである。
 
このように、主が与えて下さった人々の価値、また、自分が守ろうとしている信仰の証の価値を知っているがゆえに、それを守るために、死をくぐらなければならないとしても、筆者にはそれは大したことではないと思われる。

 おそらく、殉教した時のステパノは、そういう心境だったのに違いない。彼は栄光に満ちたキリストをそば近くで拝し、自分が今しも迎え入れられようとしている天の故郷の絶大なる価値を確信していたがゆえに、群衆に石打ちにされそうになっている瞬間にも、誰も彼を助け得なかったことなどには何の注意も向けず、むしろ、兄弟姉妹を安全なところにかくまい、自分を殺そうとして打つ人々に神の福音が届けられることを願いつつ、率先して地獄の軍勢の憎しみの只中に立ち、息絶えたことであろうと思う。

それは、彼が神の愛を通じて、人々を愛することを知っていたために、できたことなのである。断じて殉教者になることを目指し、それによって、信仰的に偉業を達成しようなどと考えて起きた出来事ではない。

そういうわけで、筆者は、人前で信仰の証を守り通すことは、ぜひとも必要だと考えているが、それも、神と人とに向けられる自然な愛の中で達成されることであって、決して、正しい信仰を何が何でも守り通そうとする不自然な努力の結果ではないと思っている。

しかも、聖書には、逆説的に、自分の命を捨てる者がそれを得る、と書いてあるから、筆者は、歴史的殉教者のようにはならないことであろう。筆者は、主の御名のゆえに、忍ばなければならない苦難や試練を避けるつもりはないが、それは決して悲劇的最期を迎えたいがゆえの愚かしい意思表示とは異なるのである。
 
むしろ、私たちキリスト者の人生は、終わりに近づけば近づくほど、ますます明るさを増して、健全かつ喜び言満ちた輝きを発することになろう。今、筆者の歩いている行程の先には、花婿なるキリストが、筆者を迎えようと、天に住まいを準備されている。筆者は、地上的住処には全く満足していないし、天には住まいがたくさん用意されていると、主ご自身が言われたこともあって、天の故郷に大いに期待しているのだが、最終的にそこにたどり着くまでの間にも、主は筆者のために、その時、その時で、恵みに満ちた地上の仮住まいを、備えて下さるだろうと信じている。そして、その仮住まい(筆者自身が仮の地上的幕屋である)を通して、神に栄光を帰するために、私たちは互いに交わりを持つ。

主の御名によって集まる二、三人の交わりの中に、主が共にいて下さる。主は互いに愛し合いなさいと、信じる者たちに命じ、そのことによって、私たちがイエスの弟子であることが皆に分かるようになる、と言われた。

やがて花婿なるキリストが再び地上に来られるとき、主が地上における信徒の小さな交わりに目を留め、それがとても愛に満ちた麗しいものである様子をご覧になって、ぜひともそこに共にいたいと願って下さるためにこそ、私たちは地上に存在している。

そういう意味で、筆者は使徒行伝の終わりが好きである。使徒パウロは、おそらくは皇帝ネロの迫害により殉教したにも関わらず、使徒行伝の終わりには、殉教を思わせる記述は全くない。かえって、これから何かが始まりそうだという期待感に満ちたしめくくりとなっている。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30-31)

パウロが自費で借りた家に住んでいたことや、自分の私生活を後回しにして、誰でも訪問者を歓迎したことは措いておくとして、ここには、「全く自由に何の妨げもなく」(!)と書かれている。そのことは、パウロにこの間、いかなる迫害も及ばなかったとか、制約も生じなかったということではない。神の福音は、たとえ信じる者が鎖につながれるようなことがあっても、決してつながれず、地上的な、人間的な、あらゆる制約を超えて、人々のもとに自由に届けられて行ったのである。

これが、生ける水をもたらすパイプラインの効果である。キリスト者は、主の御名のゆえに、様々な信仰的な試練を通過するし、制約も負うが、御言葉は、その制約の只中から、溢れ出る泉のように湧き出て、全く自由に、何の妨げもなく、人々のもとへ届けられて行く。

筆者も、地上で重荷を負って、労苦奮闘しているが、その只中から、命溢れる成果が生まれ、やがてその苦労の先に、想像を超える大きな収穫が待ち受けていることを思うと、今感じている労苦など、何でもないという心境になる。

神が喜んで下さることこそ、私たちの喜びであり、満足なのであって、その達成のためになら、信仰のゆえに、地上で味わう試練などは、全く取るに足りない。それがどんなに人の目に損のように映ったとしても、神はそれを補って余りある恵みを、私たちに与えて下さることのできる方であり、それが幾分かすでに与えられている以上、筆者は、私たちが地上で味わうすべての労苦には、天の大いなる報いがあると確信する。
 
そこで、筆者は最近、目の前で何が起きていようとも、主が出会わせ、結び合わせて下さった愛してやまない人々と共に、この先も、主を賛美しつつ、地上での生涯を終えられるだろうとの確信を持つようになった。

エクレシア(教会)は、あちらこちらを訪ね求めて見つかるものではなく、私たちの信仰の只中から、私たち自身の神への愛と献身によって、生まれて来る。その愛に満ちた麗しい交わりこそ、キリストが再びこの地上へ来られるときを早め、引き寄せるための鍵である。
  
そうして、どんな困難や迫害の最中にあっても、私たちが喜びに溢れて主を賛美し続け、互いに愛し合い、神が私たちのそば近くにやって来られ、早く共に住まわれたいと、切に願って下さるような交わりを、地上で打ち立て、御言葉の約束を固く守り、これを実現していれば、主は私たちの抱えるすべての地上的問題に対して、速やかに解決の手を差し伸べて下さり、私たちが地上において悩みの種としているような問題のほとんどは、塵芥のごとく吹き飛び、あっけなく消えて行くであろうと予想する。

そのようにして、御言葉を守り、これを実現して生きることが、今、私たちに最優先で求められている課題なのである。
 
そして、それが真に神の御心にかなうことならば、私たち自身が、生ける水の川々を流し出す泉となることを止められる者は、地上に誰もいない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(19)―わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

さて、神はこの世の時空間の制約や、私たちの思いの限界の只中から、人知を超えた、偉大な解放のわざをなして下さると筆者は信じて疑わない。

筆者はジョージ・ミュラーの「椅子」の話がとても好きである。孫引きになってしまうが、「祈りの小部屋 -バウンズ著、「祈祷の目的」から-」(「同労者」第23号(2001年8月)から引用したい。
 

  D・W・ホイットル少佐はブリストンのジョージ・ミュラーについて祈りの不思議に関する序文で次のようにいっている。

 「私はケベック(カナダ)からリバプール(イギリス)に航行とする朝、急行列車中でミュラー氏に会った。小船が旅客を載せて本船に行く三十分前に、彼は係の者に、ニューヨークから甲板用の椅子がとどいているかどうかをたずねた。だがまだ来ていないばかりか、とても汽船の間に合わないだろうと答えられた。

私はミュラー氏に向かって、自分は今、一つの椅子をすぐそば の店で買ったところである、時間までにはまだ数分あるから一つ買ったらよかろうとすすめた。すると彼は『いや、兄弟よ、天の父はニューヨークから椅子を送って下さる。それは家内の使いなれたものです。私は一人の兄弟に手紙を出して、先週のうちにここに到着するよう依頼してやったのです。彼は私が期待したように早くやってくれなかったけれども、神様はあの椅子を送って下さるに相違ありません。家内は船に弱いのでどうしてもその椅子がほしいのです。それで私は昨日から天の父にそれを送って下さるように願っておりました。ですから父はそれを送って下さることと信じます。』と答えた。

この愛すべき神の人は数ドル出せばミュラー夫人に危険な旅行をさせずにすむものを、あまり極端に信仰の原則を応用しすぎると私はおそれた。ュラー氏が小荷物室を去ってから十分もそこに居たが丁度私が急いではとばに行く時に、一台の馬車が道を走って行った。その荷物の上に、ニューヨークからとどいたミュラー夫人の甲板椅子があった。それは直ちに世話人の手に渡された。(これは主が私に与えたもうた教訓であった)ミュラー氏はにこにこした子供のような態度で深くそれを喜び、うやうやしく帽子をとって手をその上におき、椅子を送りたもうたことを天の父に感謝した。」・・後略(バウンズ、「祈祷の目的」、東宣社、1957、p.31)


 
現在、筆者が直面している多くの困難を見て、人々はこのような試練に女性が一人で耐え抜くことは無理であろうと考えるかも知れない。ましてや、そこで勝利を勝ち取るなど、あり得ないと・・・。

だが、筆者は少しも恐れておらず、落胆もしていない。現在、筆者が抱えているすべての困難に、神は必ず、御名にふさわしい形で、解決を与えて下さるものと信じている。だから、筆者は、車を運転する時のように、障害物を見ないで、進路だけを見つめて進んで行く。

 神を待ち望むことには希望がある。主は信じる者の呼び声に必ず応えて下さり、私たちが待ち望んでいる答えを必ず与えて下さると分かっているからだ。この方は、私たちの栄光をお受けになるにふさわしい方。私たちの信頼を決して裏切ることなく、すべての問題に対する勝利に満ちた解答となって下さる方である。
 
* * *
 
さて、村上密は5月2日の記事で、まるで筆者が提起した民事訴訟がすでに終わったがごとく、筆者が完全敗訴したと叫んでいる。

サイバーカルト監視機構は虚構  
 
 ヴィオロンは私に対する民事訴訟に完全敗訴してから、攻撃をインターネット上に移している。記事の一つ一つは、頭の上に燃える炭火を積み上げているようだ。相変わらず、事実と想像を交えて記事を書き続けている。これは事実、これは私の想像であると区別をしてくれれば、読者は混同しなくて済むはずであるが、混同することを目的としている可能性があるので、そのような丁寧さはない。サイバーカルト監視機構を想像ではなく事実と思っている限り、常識のある読者は混同することはないと思われる。 」

まるで掲示板の投稿のような短い文章に驚かされる。相変わらず、具体的根拠の裏づけがなく、筆者がサイバーカルト監視機構の実在性を訴えているかのように決めつけて非難しているだけである(筆者はそのような機関が実在しているとは一度も述べていない。)

筆者は前回の記事で、村上とその周囲にいる「側近」のような信者たちが、まるで念仏のように、「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害はなかった」と自分に言い聞かせることで、自分たちがカルトから強制脱会を遂げた際に負った深い心の傷を覆い隠し、また、他者に対して行っている行為の残酷さからも目を背けようとしていると書いたが、この記事もまさにそうした「念仏」の類にしか見えない。

やはり、村上の支持者たちが、一人の女性信徒を寄ってたかって、数千件のコメントと共に掲示板で口汚い言葉で罵り続けたことが、よほど深い罪悪感となっているのではないかと見られる。だからこそ、自分は掲示板の騒ぎとは無関係だと強調するために、こうした記述を繰り返し行わないわけにいかないのではないだろうか。

村上の記事では、いつも白黒反転論法が使われている。筆者は少し前の記事で、村上がカルトに入信した青年をアメリカまで捜索に行ったと書いている記事を指して、この記事には、事件の発生年月日が記されていないため、これを読んだ読者が、最近起きた出来事だと誤認する可能性があり、そして、村上はその危険があることを十分に知った上で、あえて読者の誤認を誘う曖昧な書き方をしている可能性があると指摘した。

その非難を、村上は根拠も示さずに、筆者に置き換え、あたかも筆者が読者の誤認を誘う内容の記事を書いているかのように非難しているのだ。

杉本もそうであったが、村上も、誰かから批判を受けると、その批判を常に裏返しにして自分を批判した者に投げ返すことで、事実から目を逸らそうとすることをやめられないらしい。「悪いのは私ではない。私を非難しているあいつこそ、悪事を犯しているのだ」というわけで、延々と他人を非難するばかりで、いつまで経っても自分の過ちを認識することもない。

だが、そのようにして、人が己が罪悪感から目を背けるために様々な形で現実認識を歪め、自己正当化をはかっていると、それがついにはやがて深刻な認知の歪みへ結びつき、最終的には正常な意識を失わせる危険がある。

これまで幾度となく繰り返し強調して来た通り、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり神を畏れないことは精神崩壊の始まりである。「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」’結果として、自分の罪を認めないためのごまかしを重ね、ついには事実を事実と認識する力さえも失って行くことになる。

さらに、村上は、筆者が村上を批判する記事を書くことで、あたかも燃える炭火を頭上に積み上げているかのように書くが、自分に刃向う信者に対して、このような台詞を使うのは、まさにカルト牧師のすることではないだろうか?
 
村上は、自分は善人であり、筆者は悪人であって、筆者は村上を批判することで、罪に罪を重ねているだけだと言いたいのである。だが、「燃える炭火」という言葉が使われている該当の聖書箇所は以下の通りである。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

これは悪人が悪事を重ねることで、自分に降りかかる報いを増し加えているという意味ではない。そもそも燃える炭火を頭上に積むとは、悔い改めの儀式を指しているらしいから、この文章は、誰かに悪さをされても、悪に悪で報いないで、かえって善で報いることによって、敵の良心の呵責を引き出しなさい、といった意味に受けとるのが通常であろう。

従って、村上の言葉は、聖書の御言葉の理解を根本的にはき違えたものと言えるが、その点をさて措いても、村上が自分を善人であるとみなし、筆者が悪人であるとみなす根拠はどこにあるのか?

筆者は前の記事で、預言者ダニエルが獅子の穴に投げ込まれて無事であったことについて書いた。そして、その後、かえってダニエルを讒言した者が、この穴に投げ込まれて滅びる結果になったというくだりに触れたが、その時にも、裁きをなして下さる方は神であるということを強調している。

ダニエルの敵は、ダニエルに刃向ったから滅びたのではなく、まことの神により頼まなかったから滅びたのである。私たちは、小羊の血潮に隠れるからこそ、贖いにあずかることができるのであって、私たちが神の裁きに耐えうる根拠は、私たちの自己の正当性にはなく、カルバリの十字架にある。

だが、村上の記事には、何故、村上は正しく、村上を批判する記事を筆者が書くことが、「頭の上に燃える炭火を積み上げている」ことになるのか、根拠が何も記されていない。

いや、村上が筆者を断罪する唯一の根拠とは、筆者がありもしないサイバーカルト監視機構の話を記事にして、村上を批判したから、という以外にはない。
 
要するに、村上の記述は、彼が自分を現人神のように考えており、自分に逆らう人々は皆罪人、とみなしている様子を読者に感じさせるだけである。これぞカルト的思考と言わずして何と言うのだろうか?

しかも、事件は控訴中である。それにも関わらず、村上の記事では、そのことが書かれていないことも、極めておかしな現象である。村上は、まるで民事訴訟が一審で終わって、村上の完全勝訴が確定判決となり、その後、筆者が仕方がなく「攻撃をインターネット上に移している」かのような印象を読者に持たせる書き方をしている。

むろん、こうした文章が、あえて読者の誤読を誘うための誘導(虚偽のプロパガンダ)であることは言うまでもない。だが、それ以前に、筆者は、村上の事実認識が、根本的に狂い始めているのではないかという気がしてならない。

なぜなら、杉本にも同様のことが起きたからである。杉本ブログに集まる人々は、様々な中傷や罵倒の言葉を用いて筆者を口汚く非難しているうちに、自分たちが用いている非難の言葉が、大袈裟な作り話であることを忘れ、次第に自分たちの発言を事実であるかのように思い込むようになっていったのである。自分で自分の嘘にとらわれ、現実認識そのものが狂って行ったのである。

以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。きっと彼は、よほど控訴審のことを考えたくないのだろう。村上はすでに筆者に対する権利侵害の事実を積み重ねているため、二審は一審のようにならないことを、内心では十分に理解しているのではないかと見られる。

* * *

さて、それに続く村上の最新記事も、相当な危うさを感じさせるものである。

教会の暴走  
 
 教会のカルト化は教会の規模に関係がない。カルト化していくときは、教会が閉鎖的になる。牧師は、教会を閉鎖的にしていくことによって自分の権威を確立しようとする。牧師は牧師におもねる人を役員にする。そして権威主義を共有する関係となる。側近はけっして牧師を公の場では非難しない。個人的にはなおさらである。持ち上げることで、牧師から引き上げられる。牧師を持ち上げれば、実は自分の教会内における地位や名誉が上がっていくと思っている。持ち上げる人が権威主義の体質を持っているのである。同じ体質の人が集まりだすと、教会はカルト化へ勢いがつく。それは暴走の始まりである。 」

この記事には、具体的な日時、場所、教会名の特定がない。まるで一般論か、他人事のような書き方である。だが、筆者はこれまで、村上の教会こそ、まさに暴走を遂げている教会であることを再三再四、指摘して来た。

村上はまず、後継牧師になるはずであった長澤牧師を不明な理由で主任牧師の地位から退け、自分の妻を主任牧師に据えた。村上はその当時、自分は60歳ではなかったとか(60歳を迎える直前であった)、牧師を引退したわけではないなどと、些細な訂正事項をあげつらっては、筆者の論に噛みついている。

だが、問題はそういう些細な事柄にはなく、村上が正式な手続きを経て選出された後継者を、正式な手続きによらずに退けたことにこそある。長澤氏には「あなたには(主任牧師としての)神様の召しはありません」という内容の牧師たちの連名による通達が届けられたそうで、その後、村上は自分の身内を主任牧師に据えることで、半永久的に教会内で自分たちファミリーの権威を保とうとしたのである。

普通の教会では、こんな不明な人事の私物化が見逃されることはない。これは教会の分裂騒ぎに発展してもおかしくない出来事である。にも関わらず、京都七條基督教会では、この人事に対して、大々的な抵抗も起こらなかったばかりか、その話が外へ漏れ聞こえることさえなかった事実を考えると、村上がいかに常日頃から、教会内で、自分が統一教会から強制脱会させた信者たちを役員に据えるなどして、自分の意見に反対する者がいなくなるようなイエスマンばかりの体制を築き上げて来たかがよく分かる。

おそらくは、反対者・批判者が現れると、今、村上が筆者に対してそうしているように、早速、「名誉毀損だ!」などという言葉で、誰も公然と批判の声を上げられないように圧力をかけて来たのであろう。

このように、七條基督教会では、村上の権威主義を信者たちが共有する体制が出来上がっていればこそ、村上の行った行為の理不尽さを明るみに出す声が上がらず、村上に対する否定的な評価も、外へ持ち出されないのである。

筆者は、村上の身内の間で、不幸な事件が相次いでいることも書いた。通常の教会ならば、牧師家庭で子供たちに不幸な事件が起きたりすれば、そもそも自分の家庭も治められない人間が、牧師としてふさわしいのか、などという非難が、信徒から湧き起こって来るのが当然である。

ところが、村上ファミリーに関しては、そうした噂すらも、これまで外に出て来ることがなかった。それも異常な現象であり、さらにこの問題を指摘した筆者が、早速、掲示板で袋叩きに遭わされたことも、異常現象に輪をかけている。
 
こうした現象を見れば、読者は、村上の支持者たちがどれほど必死になって、村上に関する否定的な噂や、批判や、反対を抑え込んで来たかが分かると共に、京都七條基督教会の信徒たちが、事実上の恐怖政治下で、言論・思想統制を受けているにも等しい状態にあり、村上に不利な事実について、頑なに沈黙を守らざるを得ない深刻な理由が存在することを、如実に理解できよう。
  
遠方から筆者がそのことを指摘しただけで、掲示板での騒ぎ(人権侵害)が起きて来るわけだから、暴走している教会とは、まさしく村上自身が所属している教会の他ならない、という結論が生じるのは当然である。

村上のブログは、彼の運動の傘下に立てこもっている人々に向けて書かれたプロパガンダであって、要するに、「ヴィオロンみたいに好き勝手な発言を重ねていると、おまえたちもいずれこうなるぞ」という見せしめのために、筆者に対する記事が発表されているだけである。そうした事実を読者は見抜かなければならない。

* * *

最後の記事も同じだ。

連休はカルト研修の時期 2  
  
  「連休はカルトの研修の期間」の記事をブログに掲載した。その後はどうなるかと質問があった。夏にさらに研修がある。大学出の学びが再開すると、今度は勧誘する側になる。研修のテキストがあり、段階的に学習して、その後は実践となる。その実践が会員を増やすことである。5月の連休も帰らない。夏休みも帰らない。どんな理由があろうが、家に帰らないことを自立していると思い込んではならない。カルトに勧誘された子供は親に嘘をつくように指導される。親よりもカルトの指導者の言うことを聞くようにコントロールされている。友達と旅に出るとか言っても安心できない。 」

こういう短い記事は、具体的な根拠も示されておらず、日時も団体も特定されておらず、些細な出来事を普遍的な一般論のように見せかけるのに役立つ。統一教会などの一部の団体にしか通用しない話が、すべてのカルト団体に当てはまる話であるかのように拡大されていること、個々具体的な事例の違いを無視して、一つの事例があらゆる家族に当てはまる危険であるかのように話が拡大されていることにも、読者は注意しなければならない。

村上は、子が親に嘘をついてカルトに入信する行動だけを疑問視している。相変わらず、子どもの言い分を疑えと言いたげな記事である。だが、幾度も述べて来た通り、子がカルトに走るのには、必ず、それなりの理由がある。ほとんどの場合は、子どもの頃から育って来た家庭環境が重大な精神的重荷となって、そこからの逃避の手段として、子供はカルトに走ることになる。

そこで、子どもがカルトに入信することだけを危ぶみ、子どもの行動だけを疑問視しているのでは、何らの問題解決にもならないのだ。大人たちが、そうなった深い動機を探り、親自身が、子どもを追い詰めていることを認識し、家庭にとどまらず、大人たちの作って来た社会の歪みを深く認識することなくして、根本的な問題解決に至ることはできない。

だが、村上の論では、村上を含め、自分たち大人自身が、子どもたちの前に犯して来た罪を自己反省するという視点は、徹底的に欠けている。自分たちは常に正しく、不可解な行動を取る子供たちが誤っているという以外の切り口はない。

そのことは、引いては、村上が常に強い大人たちの味方となってしか、物事を認識できず、弱い者の心の本当の叫びに耳を傾けることなく、自分自身の罪を認識できないまま、弱い者たちだけを断罪して来たという盲点を如実に示している。

それだからこそ、村上の「救出活動」には救いがないのである。聖神中央教会の被害者など、村上が手を差し伸べようとした多くの被害者たちが、この問題を見抜いて離反して行った。それは、村上の活動が、弱い者たちに心から寄り添うのではなく、彼らの弱さにつけこんで、彼らの尊厳を踏みにじり、強い者である村上が、彼らの上に立って君臨し、自己の正当性を誇り、自己の力と勝利を見せびらかすための活動になっているためである。

村上は今、筆者を「完全敗訴」したと決めつけ、筆者を嘲っているが、それと同じように、カルト被害者に対しても勝ち誇って来た。そうこうしているうちに、高慢さのうちに、己の罪が全く見えなくなって、キリストの贖いの血潮の外に出たがゆえに、村上は防御の盾を失って、終わりの時が近づいているのである。
  
* * *

さて、筆者は一審のすべての行程を通して、自分は勝訴したと誇っている村上よりも、はるかに貴重な学びと教訓、深い満足を得たと思っている。

村上は一審で不法行為を認定されなかっただけのことであって、心の中では、平安と喜びを失っている。そして、そうなった時点で、すでに勝負に負けているに等しいと筆者は思う。これから先、その事実は、より鮮明に、よりはっきりと具体的な形を取って、外に現れて来るだろう。

さて、調べてみると、一審を担当してくれた裁判官は、西日本に異動しており(*)、さらに、この裁判官が、筆者とほぼ同じ世代に属していることも分かった。ああ、それであのような不思議な親近感を覚えたのだなと、初めて納得がいった。

追記:4月1日付でこの裁判官は福岡へ異動、村上密が主任牧師を降格させた長澤牧師も同日付で博多に異動していることが発覚した。

地裁の裁判官が、サラリーマンのような多忙状況に置かれているというのは、本当のことだ。それは筆者の事件の判決言い渡し日に、同じ裁判官が、4つほどの事件の判決言い渡しを同時に抱えていた様子からも十分に伺えた。

こうした多忙状況が、非人間的なものであって、いかに一つ一つの事件の精度を落として行くものであるかは言うまでもない。

筆者は、裁判官が書いた移送申立の却下通知を読んで、この人が並々ならぬ知性と深い理解力の持ち主であることを感じ、ぜひとも判決を書いてもらいたいものだと願った。しかし、その裁判官でさえ、事件の終わりが近づくに連れて、時間的制約に追われ、書面を十分に読む時間的余裕さえなくなって行ったのである。

50頁以上に及ぶ判決文を読めば、これがどれほどの厳しい時間的制約の中で書かれたものであるかはすぐに分かる。

だから、一審判決で及ばない部分があっても、筆者はそれを誰の非として責めるつもりにもならない。それはこれから控訴審で解決して行く課題であり、関係者一同は、筆者のリクエストに応えて、なすべきことをしっかりやってくれた。そのことに筆者は深い満足を覚えている。
 
筆者は一審判決と戦うのではなく、これを土台として、さらに完全なものとするため、先へ進んで行くのである。

さて、今回の一審で、筆者が得た教訓とは、信仰によって、自分自身の制約と、他者の制約という、大きな制約の只中にあっても、その限界に押し潰されることなく、望む成果を勝ち取る秘訣を理解したことであった。

筆者は、紛争を開始したばかりの頃は、自分の心のままに振る舞うことしか知らず、被告から送りつけられる書面を、常に限りない厭わしさを持って受け止めていた。ただでさえ不愉快な、まるで怪文書のような中傷の文書が、ほとんどと言って良いほど、締め切りを超えて送りつけられることに、限りない不快感を覚えずにいられなかったのである。

だが、ある時、筆者は自分が感じている動揺や厭わしさが、関係者一同に、我が事のように伝わり、非常なマイナスの影響を及ぼしていることを知った。そして、初めて当事者感情を克服することの重要性を理解したのである。

それはある時、筆者が民事部に書面を出しに行ったときのことであった。筆者が自分の書面を提出すると同時に、被告の書面が届いていることを書記官から告げられ、これをついでに受け取らないかと尋ねられた。

だが、筆者はその時、またしても被告が締め切りを破ったことに、憤りを覚え、被告の切手代を浮かせるために、筆者はここへ来たのではないと言って、被告の書面を受領することを拒んだ。そして、書面を郵送してもらいたいと願い出ると同時に、被告に締め切りを守るよう、今一度、注意してもらいたいと書記官に伝えた。

実は、こうした会話は、その時が初めてではなく、筆者はそれ以前にも、同じことを書記官に伝えていた。そして、書記官はこの点について十分に理解し、被告に注意を促してくれていた。そこで、筆者は彼を責めたいがゆえに、こうした話を持ち出したわけではなかった。

だが、書記官がどんなに注意を促してくれても、被告の行動は変わらず、被告の書面が届けられる度に、筆者の心に沸き起こる厭わしさも、隠すことはできなかった。

思いがけないことに、ちょうどそのやり取りが行われていた最中、裁判官が偶然、そばを通りかかった。そういう出来事が起きたのは、後にも先にも一回きりのことであった。彼は顔色一つ変えず、全く見ず知らずの人物を見るように、筆者のそばを通り過ぎて行った。

裁判官が何も言わずに通り過ぎたので、筆者は書記官との会話を続けたが、しかし、裁判官の後ろ姿を見たとき、筆者は、彼がそ知らぬふりをしているのはうわべだけのことであって、実際には、筆者が心に感じている動揺は、すべて我が事のように伝わっていることが、はっきりと理解できた。

そして実際に、筆者の心の動揺は、裁判官の心中にも、非常にネガティブな効果をもたらした。その次に開かれた口頭弁論では、我々は最初から心がバラバラで、裁判官は筆者と視線を合わせずに語り、その上、一つ前の記事にも記したように、被告らの反訴の予告があったせいで、議論は大荒れとなった。

しかし、そこで筆者は、議論を制止した裁判官が、まるで筆者の身代わりのように、被告らの反訴の予告に圧迫され、これに非常な嫌悪を示しながら、受け答えしている姿を見、まるで鏡に映した自分を見せられるように、その苦しみに深い同情と共感を抱くと同時に、初めてこのままではいけないという危機感をはっきりと感じたのである。
 
気を確かに持たなければならない。すべては筆者自身の心の平穏にかかっている。これ以上、我々が、被告らの非常識な振る舞いの一つ一つに影響を受け、逐一、それに振り回されて、足並みを乱されているようではいけない。

筆者が、被告の様々な心理作戦に巻き込まれてこの先も動揺していれば、その動揺や苦しみは、周囲のすべての人々に伝わる。そして、多分、信仰者でない以上、誰一人、そのプレッシャーに耐えうる人はいないだろうから、彼らはやがて事件を持て余すようになり、筆者を救い得ない無力感にさいなまれ、それに耐えられなくなって、そのうちいずれ敵に降伏して行くだけである。

そうして私たちに分裂を来たらせ、足並みを乱し、互いに憎み合わせ、争わせ、敵対させて、決して信頼も協力も打ち立てられないようにすることが、敵の狙いなのである。そうして疑心暗鬼をもたらすためにこそ、被告は常識外れな行動を繰り返し、心の揺さぶりをかけているのである。

そこで、以上のような事態の発生を防ぐためには、まずは筆者が自分をしっかりと持って、全力で自分の心を敵の攻撃から守り、周囲の人々の心をも、守ることができなければならないと分かった。それができて初めて、円滑な協力関係が打ち立てられ、人々と心を合わせて一つの目的へ向かって行くことが可能になる。

筆者はそれまで、筆者が心の中でどれほど苦しもうと、それは他者にはまるで関係のないことだと考えていた。また、自分の苦しみは、取るに足りない問題であって、筆者の心の状態が、他者にそれほどまでに深刻重大な影響を及ぼすことはないと考えていた。だが、この時から、そうでないことがはっきり分かり始めたのである。

もしも筆者が、一審の期日が開かれていた間に、この問題の重要性を理解できなかったならば、その後、掲示板で行われた嵐のような集団的な誹謗中傷の前に、筆者は全く立ちおおせる力を持たなかっただろうと思う。

だが、筆者は先に教訓を得ていたからこそ、掲示板の投稿に振り回されることなく、自分の心をしっかりと防御し、また、誰一人その問題に巻き込まずに済んだのである。

もしも筆者が自分の心を守る術を知らず、中傷の書き込みを真に受け、これを苦にして、自殺でも遂げようものなら、筆者の周りにいる人たちは、間違いなく全員が、生涯に渡って、癒えない心の傷を負うことになる。

筆者は、そんな結論に至ることは、真っ平御免だと固く心に決意していた。もうこれ以上、一人も敵に渡したくない。しかも、こんな下らない事件のために、これ以上の苦しみが、誰に必要だというのだ。重荷は、筆者一人分だけで十分である。いや、筆者一人分であっても、もうこれ以上のお荷物は御免だ。筆者をも、他の誰をも、二度と絶対に彼らに渡しはしない・・・。

自分のためだけならば、立ち上がれたかどうか分からないが、筆者以外の人間までが、人質に取られるように、敵の攻撃にさらされているのを見たとき、筆者は自分の内心で起きていることを客観視するチャンスを与えられ、そのおかげで、自分の心の中で起きていた当事者感情を克服して、事件全体を俯瞰し、自分のみならず、関係者一同の心の状態に注意を向けて、人々を守るために策を講じることができるようになったのである。
 
これ以上、彼らの策略によって動かされていては駄目だ、こんな心理的な圧迫は、即座に振り払い、二度と許すわけにはいかないという心境に、ようやく達したのである。

私たちは協力関係にあるのだから、それを決して奪われてはいけない。互いにいがみ合ったり、争ったりしている場合ではない。苦しむべき人間は、別にいるはずだ。

圧迫は、しかるべき人間にお返しせねばならない。心の動揺や、悲しみや、圧迫や、やるせなさや、分裂や、敵対や、憎み合い、裏切り合いは、すべて敵にお返しし、私たちは、敵の策略を、敵自身の頭上に注ぎ返し、自分の心の平穏を失わせるすべての策略に毅然と立ち向かって、疑心暗鬼に陥ることなく、自分たちの間に生まれた協力と信頼を最後まで守り抜かねばならないと分かったのである。
 
 * * *

さて、もう一つのエピソードをここに付け足しておきたい。

それは2008年頃、筆者がまだ横浜に来る前、遠方の地で唐沢と電話で会話していた時のことであった。

その頃、筆者は唐沢も兄弟の一人であることを疑わず、エクレシアの兄弟姉妹との交わりを探し求めながら、今後のことを考えていたが、ある時の会話の中で、唐沢がとても奇妙な発言をしたのを覚えている。彼はこう言った。

「私はどんなクリスチャンを見ても、ほとんど恐れることはありませんが、一つだけ怖いと思うものがあります。完全な平安の中にいて、揺るがされることのない人を見ると、私は怖いと思いますね・・・」

それを聞いたとき、筆者は、とても奇妙な発言だと思った。完全な平安の中にいる信者を、羨ましいと思うとか、見倣わなければならないと思う、と言うなら分かるが、「怖いと思う」とはどういうことなのだろうか。

その理由はずっと後になってから分かった。唐沢は、自分のマインドコントロールの効かない相手を恐れていたのである。

神への完全な愛と、全き平安に座す信者は、何者のどんな策略によっても、決して揺るがされることがない。誰かがその信者を安っぽい誘惑や、各種の欲望、あるいは恐怖心で釣ろうとしても、彼はその策略に負けることはない。神の全き充足の中を生きているので、一切のマインドコントロールが通用しないのである。

偽預言者たちは、そういう信者を恐れる。彼らの策略がすべて見抜かれて、打ち壊されるからだ。私たちは、そういう風に、決して動かされることなく、確固たる信仰に立って、自分自身の心を守れる信者にならなければならない。神にあって、自分の心をも、周囲の人々の心をも、敵の攻撃から守り抜ける人にならねばならないし、そのための具体的な防御の方法を知らねばならない。

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。 」(箴言4:23)

* * *
 
さて、筆者は今、一審によって得られた小さな種を地に蒔いて、発芽を待っているところだ。

夫人のお気に入りの椅子が、出発に遅れずに届けられることを心に信じて待ち続けたミュラーのように、今、神のさらに完全な解決が、必ず遅れることなく確かに届けられることを心に信じてそれを受ける準備をしている。

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)
 
私たちが待っているのは、主ご自身であり、私たちが着くべきは、主と共なる天の御座。そこはすべてのものを足の下に従える、御名の圧倒的な権威が支配しているところである。

私たちはキリストの御名で呼ばれる民として、神ご自身のこの世に対する圧倒的な超越性・優位性を実際に生きて証明することができ、それをするためにこそ、この地に置かれている。

この先も、試練はあるだろう。だが、そのすべてに勝利する秘訣が、すでに十字架上で与えられている。そうである以上、私たち自身だけでなく、私たちに属するすべての人々を守り抜くための知恵と力をも、神はきっと教えて下さるはずである。

勇気を奮い起こしなさい。あなたの心の平安を、誰にも奪われないように守りなさい。神への完全な愛と、全き平安に座し、何によっても、心を揺るがされることがないように、あなた自身の心と、あなたの愛するすべての人たちの心をしっかり守りなさい。

生ける命の水の川々は、あなた自身の心の中から流れ出す。あなたはこれを絶やさないよう、自分の心を見張って、これを守らなければならない。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右に尾諏訪地になったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、
 鞭打たれるからである。

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。<略>

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12:1-13)
 
<続く>


何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)

ウォッチマン・ニーは、信仰とは天の目に見えない預金口座から、目に見える形で預金を現金化することに似ているとたとえた。これを聞いて、何という現金なたとえだろうかと思う人もあるだろう。あるいは、「そんなことが本当にあるはずがない。あれば、誰も苦労しませんよ」と笑う人もあるかも知れない。

ところが、そういうものが確かに存在するのだ。それは、イエスがスカルの井戸で出会ったサマリヤの女に語られた、尽きることのない命の泉である。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

このいつまでも絶えることのない命の水の泉、多くの人は、これを単なる比喩か何かだと考えている。命の水、クリスチャンはこの言葉が好きだ。しかし、多くの信者は、本当にそのようなものが存在するとは信じていない。

ところが、それはあるのだ。これは信じる者の内側で起きる御霊の働きである。御霊が、私たちの内側で、まさにとめどなく溢れる命の泉としての働きをなすのであって、それは目に見えない霊的秩序、天的な圧倒的な支配力として、私たちに必要なすべてを供給する。

御霊の命を供給する働き、それは、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)との御言葉にもよく表れている。

この命の泉から汲み出すためには、神の国と神の義を第一に追求して生きる必要がある。それは、筆者自身の言葉で言えば、ただ神を心から愛し、神に栄光を帰し、御言葉の正しさを世に証明するために、全身全霊を捧げて、実際に御言葉に生きることである。

私たちの神は、正しい方であるから、神を愛し、その戒めを守って生きるとは、言い換えれば、真実を愛し、正義を愛し、慈しみを愛し、公義を行うことだと言うこともできよう。今、これらの言葉の定義について、長く説明することはしない。

信仰によって、神の御言葉に従い、神が喜ばれる生き方をするために、身を捧げるとき、その人は、天に直接雇用される。そして、その人が生きるための必要のすべてが、この世の方法によらない、不思議な方法で天から与えられる。

このことが、聖霊による命の泉が人の内側から湧き出ることの意味であり、その泉は、ただその人一人が生きるためだけの必要を供給するのではなく、やがて洪水のように溢れ、周囲を潤すようになる。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

私たちは、この泉を開拓しなければならない。今、筆者が「干潟」にとどまってやっているエネルギー資源開発が、ちょうどそれに当たるが、このように、この世を超越した不思議な方法で、私たちはとめどのない命の流れを汲み出す秘訣を実際に知らなければならない。

当ブログでは、数年前からこのことについて書いて来た。つまり、馬車馬のように生きることをやめ、生活の心配から解かれたいなら、真に正しいと心から信じられる目的のために、自分のすべてを捧げなさいと。御言葉の奉仕者となるために、自分を完全に捧げなさいと・・・。

地上の団体に雇用されて月給をもらっていれば、どんなにその月給が多いように思われたとしても、それは決して一定額を超えることはない。それはいつも人間の予想の範囲を超えず、あなたの必要に応じて変化して、伸び縮みすることもない。

何よりも、その給与では、ジョージ・ミュラーのように、信仰だけによって、5千人の孤児を養うにはあまりにも少ない。すべてが人間の定めた決まり事であり、予想の範囲内から一歩も外に出ず、そこには何一つ不思議も奇跡もない。

だが、信仰によれば、人間の予想の限界を大きく超えて、無からとどめようのない命の流れを汲み出すことが可能なのだ。もちろん、最初からすべてが一足飛びには行かない。だが、あなたはもしも本当に信仰があるなら、ぜひともこの方法を開発しなければならない。そうでなければ、イエスを信じた意味がない、と言っても差し支えない。

さて、こうした結論を当ブログでは何年も前から述べ、また、一部、実際に実行に移しながらも、筆者は今まで、完全には御言葉の奉仕者として生きず、世俗の所属先をかけもちし、バビロン化した経済体系からエクソダスしても完了していなかったゆえ、この命の泉の汲み出し方がまだ十分には分からないまま、現在まで来てしまった。

だが、今や筆者は、資本主義からも、プロテスントからも、本格的に足を洗わねばならないと考え、この度、やっとそれを実行に移すことができたと考えている(これは冗談で述べているのではないため、嘲笑しないでいただきたい)。これらはともに「バビロン」という一つの宗教に組み込まれた複合的な体系なのであり、その呪われた体系の一員として生きている限り、決して人には自由はやって来ないのである。

筆者は長い間、この体系の一員であったので、今やこのバビロンが本当に破滅に瀕していること、早急にそこを出て、真に御言葉の奉仕者として、天に雇用されて生きることによってしか、この先、生きる道がないという時代が到来していることを心から確信している。

当ブログを嘲笑っている人々は、そのような生き方が可能だとは全く考えないだろう。彼らは、筆者がいたずらに自分を王妃エステルや預言者エリヤになぞらえているだけだと言っては、筆者の裁判を嘲笑い、当ブログの信仰の証しを嘲笑して来た。

彼らは、筆者の生き様がこの世の常識から外れているため、筆者はただ破滅に向かって進んでいるだけで、筆者がより頼んでいる神は、筆者を助け得ないと言って今も嘲笑っている。ちょうどノアが箱舟を建設していた頃、人々が彼を嘲笑ったのと同様である。

ところが、結果はどうだったであろうか。神は生きておられ、エステルのように死を覚悟して、筆者が目に見えない王の前に進み出たところ、王は金の笏を伸べて「生きよ」とおっしゃり、筆者に命を提供して下さった。

また、現在も、筆者は、バアルの無数の預言者の前に、たった一人で立ち向かったエリヤと同様、一体、どこからこんなに湧いて来るのかと思うほど、名も知れない大勢の人たちから、夜となく昼となく、向けられる非難や中傷にも、一人で勇気を失わずに立ち向かっている。

筆者のたとえを嘲笑する人々は、このようなことが、冗談でできるはずがないことを知らないのだろうか。

彼らは、自分たちが「バビロン王国」の一員であって、立派な所属先として「バビロン株式会社」に就職していることを誇っている。彼らにとって、それはかけがえのない輝かしいステータスであるらしい。ところが、その国にも、会社にも、やがて間もなく倒産と破滅が決定していることを彼らは知らない。それは沈みゆく泥船であって、その「会社」や「社会」に仕えている限り、誠実な人は、何一つ築き上げることができないのが現状である。

あなたは「バビロン株式会社」の社員として、毎月、雀の涙のような給与と、負いきれない多忙なスケジュールの仕事を任され、それに押しつぶされそうになりながら生きている。その会社は、強欲な幹部や役員らによって支配されているので、あなたの売り上げがどんなに伸び、あなたがどれほど優秀な働きをしても、あなたの給与が増えることはなく、あなたに課せられる任務は、日に日に重くなる一方で、休みさえ満足に取ることができない。

あなたは、その会社の人間関係に疲れ果てるまでがんじがらめにされて、日々、取引先の接待に追われ、休日も携帯電話が鳴って上司に呼び出されることも稀でなく、いつか取れるという有給休暇に憧れているが、なぜかそれを取得した経験がない。賞与などというものも、約束されていたはずだが、一度も受け取ったことがない。むろん、昇進もするはずだったが、なぜかずっと平社員にとどめおかれている。

約束されていた夢のような待遇は、どれもこれも実現したことがないし、最も恐ろしいことに、当初は終身雇用と言われていたはずだが、今や雇用契約は一カ月ごとの更新である。給与も、当初は年俸制だったはずだが、すぐに月給制に変わり、今や時給制になっている。あなたは毎月、生きた心地もしないが、そうなったのは一体、なぜなのか、真剣に考えてみたこともない・・・。

ルターは、ピラトの階段を膝でのぼるうちに、このような精進を通してしか、人が罪赦されて聖化されて神に近づくことはできないというカトリック教会の教え全体が、全くのまやかしでしかないことに気づいて、その苦行を放棄した。

我々が生きるのは、自分の力で階段を上って精進するからではない。「義人は信仰によって生きる」(ヘブル10:38)からだと気づいたのである。

この御言葉が真実ならば、信仰は、我々が生きるためにすべてを供給するまことの命に直結しているはずである。すなわち、ただ一人の命なるお方が、私たちのためにすべてを成し遂げて下さったと信じることこそ、私たちのすべての必要が満たされる根拠なのだから、膝で階段を上るという苦行によっては、人が自分で自分を救うことはできず、自由も解放も得られないのは当然である。

この世で今、多くの人々が獲得しようともがいている安定や、社会的成功は、まさにこのピラトの階段を膝で上るのと同じ苦行でしかない。はた目には、成功例も、あるように見えるかも知れないが、その階段には終わりがなく、上に上って行くためには、あなたは今よりもさらに多くの理不尽な苦悩を耐え忍ばなくてはならない。そして、上に行けば行くほど、ますます解放されるどころか、自由がなくなり、あなたは自分の良心を殺して生きなくてはならなくなる。

さらにもっと言えば、ピラトの階段を上まで登りつめれば、待っているのは死だけであって、そこには約束された自由も解放もない。それはすでにイエスが私たちの代わりに上って下さった階段であって、その先にはゴルゴタの十字架がそびえたっているのであって、私たちはイエスと共にすでにその階段を信仰によって上り切ったのであるから、再びその苦行を身に負う必要はないのである。

従って、あなたが真に健全に、自由に、豊かに、幸せに生きたいならば、この階段を上に上るのではなく、できるだけ早くそこから降りて、このようなまやかしとは無縁の人生を生きなくてはならない。このような階段を他者と競争しながら、誰よりも早く上へと上って行くことが、あたかも正しい人生であり、成功であるかのような幻想と錯覚を、愚かしい誤謬として、一刻も早く捨て去らねばならない。

これが、資本主義とプロテスタントからのエクソダスの意味である。それは双方ともにヒエラルキーに組み込まれて、自分よりも上の階層に位置する人間に利益をもたらすための道具として生きることを意味し、エクソダスはそのような生き方自体をやめるという意味を持つ。
 
さて、天的な命の法則性を確かなものとして習得するために、このような生き方を選ぶことを、当ブログでは、少し前から宣言して来た。昨年の初め頃から、筆者はソドムとゴモラと化したこの地に嫌気がさしたので、ここから脱出するという考えを繰り返し述べて来たが、その脱出は、筆者がどこか地上の別な町へ逃れることを意味するのではなく、ただ地から天へ向かって逃れることを意味した。

筆者は、予めバビロン王国からの国外亡命の準備を整えていたので、まずはエクレシア王国の住人としての永住権を取得し、さらに、亡命後、安定した雇用からあぶれなくて済むよう、エクレシア会社に終身雇用されるための入社手続きも済ませておいた。
 
そして、ある日、信仰と名付けられた飛行機に乗って、ソドムを脱出したところ、離陸の際、バビロン王国とは、全体が一つの高い塔であって、ピラトの階段は、この塔にからみつくように、地上から天に届くほどまで渦高く続いている様子が見えた。ああ、あんなにも長く果てしない階段を膝で登らされようとしていたのかと分かり、そんな不可能事を可能であるかのように教え、自分をそこまで騙したバビロンへの失望と幻滅はさらに募った・・・。

さて、エクレシア王国に着いて、前もって入社しておいた会社へ挨拶に行くと、社長自らが出迎えてくれて、歓迎会を開いてくれた。「エクレシア無限会社」に就職するときには、入社時にただ一人の慈悲深い社長のもとで、社長に栄光をもたらす働きをするためだけに、終身雇用となる契約書にサインを求められる。

社長は言った、この会社では、すべての社員が、社長の直属の部下であるから、上司は、ただ一人しかいないのだと。そして、ダブルワークは禁止されているから、他の社長のためには、二度と働いてはいけないと。

実際に、この会社には、あの頭痛しかもたらさない尊大で横暴な幹部は一人もいなかった。同僚もいるはずだが、一人一人が全く違う部署にいて違う働きに従事しているため、競争や妬みが発生することもない。
 
不思議なことに、雇用契約書には、サラリーの規定がなかった。なぜなら、この会社では、社員のサラリーは、社員の必要に応じて、変化するからである。そして、サラリーという言葉の語源が塩であると同様、一人一人の社員の仕事も、「地の塩」としての役目を果たすことである。
 
 社長は、エクレシアへ脱出してきたこと自体が、あなたの果たした最初の仕事であると労をねぎらってくれ、最初のサラリーも、すでに見えない給与口座に払い込まれていると教えてくれた。
 
手渡された給与明細を見ると、そこには、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)と書いてあり、それは、地上の人々の言葉では、判決という名で呼ばれていると告げられた。

社長は述べた、この会社では、すべての社員のサラリーは、必要に応じて十分な額が支給されることになっているが、それはいつも支給される時期も形態も異なる。ただし、常に目に見えない給与口座に振り込まれる仕組みになっているので、それを天の銀行で、「現金化」して持ち帰ることも、社員の重要な仕事の一つである。だが、それには困難も伴うことを覚えておいてもらいたい。仕事が常に容易だなどとは決して思わないでもらいたい。だが、信仰によってすべてを乗り越えられると信じなさい。あなたがそうしてミッションを果たすことにより、天には栄光がもたらされる・・・。
 
さて、最初のサラリーを現金化するこの作業がどのように成し遂げられるかを、読者はよく見ておいて欲しい。この世の人々は、筆者の述べていることは、愚かしいたとえ話でしかないと考えて笑うかも知れないが、これは決してたとえ話などではないからだ。

ウェーバーなどを引き合いに出すまでもなく、この世では、実はキリスト教の最先端の信仰回復運動こそ、目に見えない圧倒的優位を誇り、政治体制のみならず、経済をも支配してきた。それは、ピラトの階段を上る者こそ出世するというのが、この世の掟だからであって、それゆえ、この階段を上ったと自負する聖職者階級が、今日に至るまで、この世で最も大きな力を誇っているのは何ら不思議ではない。むろん、プロテスタントの牧師階級もその一部である。

プロテスタントの牧師たちは、信徒とは異なり、教会で俸給をもらい、特権的な地位についている。だが、何ゆえ、彼らと信徒との間に、そのような「格差」が生じるのかと言えば、それもピラトの階段ゆえである。牧師たちは、フルタイムで献身する御言葉の奉仕者を名乗っているゆえ、信徒よりも霊的に一段上の階層に立っているのである。

すなわち、この世の人々は、世俗の仕事に従事しており、世俗に生き、御言葉への献身度が低いために、牧師に比べて罪人であるから、その罪人らが月曜から金曜までフルタイムで汗水流して働いた労働は、牧師たちに捧げられ、彼らの俸給となるのは当然だというわけなのである。
 
筆者は、こんな理不尽かつ愚かしい制度に何ら賛同するつもりはないが、少なくとも、そこにも、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。 」という見えない法則が働いているのは確かなことであろうと思う。

このような制度を見ても、いかに神の御言葉を独占的に扱う者(御言葉の奉仕者)が、この世において、歴史時代や、国境や、制度を超えて、御言葉に奉仕しない他者に比べて、圧倒的な優位を占めて来たかが、垣間見えると言えよう。

だが、御言葉の奉仕者になる資格は、今日、信じる者には誰でも与えられているのであって、なおかつ、我々は、ピラトの階段を自力で上ることによって、ヒエラルキーの階段を上って行く必要はない。むしろ、信仰によって、この階段をはるか足の下にして、命の御霊の法則に従って、圧倒的な自由と解放を掴んで生きることが可能なのである。ただし、そのための唯一の手段は、「神の国と神の義を第一として生きる」こと、すなわち、「地の塩」としての役目をきちんと果たすことである。
 
このように、「天に直接雇用されて生きること」は、あらゆる時代の信仰の先人たちの証しを見ても、彼らに共通して必要なステップであったことが分かるだろう。ハドソン・テイラーなどもそうであろうが、多くの宣教師たちは、任地へ赴いた後、自分たちを任地へ派遣した所属団体を離れた。それは、組織に所属していることによって、必ず、心のしがらみが生じることを知ったからである。その後、彼らは、所属団体から俸給を受けとることによってではなく、天から直接、俸給を受けることによって生きることを余儀なくされ、それゆえ、信仰を試された。

今日も、神に従って生きる人々にとって、これは避けては通れない学びの一過程であると、筆者は考えている。

さて、今はバビロン王国を脱出したことにより、とりあえず最初のミッションを果たしたので、しばし休息が必要である。慣れない飛行機に長時間座るのは、やはり緊張が伴い、それなりの苦労もある。これから、次回以降の記事で、天のサラリーをいかにあらゆる困難を乗り越えて「現金化する」かという具体的な作業について、書いて行くことにしたい。