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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまりむなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形を取って宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイの信徒への手紙2:6-15)
 
 * * *

コロナウィルスを機に、筆者は「密室」と化した組織から脱出した。命の危険があっても、労働を最優先せよと命じ、遅刻欠勤早退はおろか、時差出勤さえも認めず、懲罰の対象にしようとずるそのあまりに行き過ぎた理念に、全く着いていけなくなったからである。

さらに、そうした組織の理屈に反した社員を、他の社員たちが見つけ出しては、魔女狩りのごとく密告や批判に明け暮れるという集団監視状態に恐れをなした。

まるで学校時代の部活のようである。部活をさぼって帰宅しようとすると、メンバーたちが追いかけて来ては、帰宅など絶対に許さないと詰め寄る。

上部に逆らった社員は、他の社員との交流を断たれ、密室のような隔離状態に追いやられ、むなしい労働に従事せねばならなくなった。

こうして、次々と密告に基づいて懲罰が行われ、これでは、まるで集団処刑ではないか、と筆者は感じ、そうした光景を見るうちに、このような場所に、生きる希望が見いだせるはずもないし、このような組織は、いずれ疑心暗鬼に基づき、崩壊するため、早期脱出を図らねばならないと考えたのである。
 
「密室」は、筆者を追いかけ、何とかして罪に定めようと試みたが、できなかった。

またしても、聖書の御言葉がそれに打ち勝ったのを見た瞬間であった。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」
 
こうして、「密室」が筆者に宣告するはずであった罪の債務証書は、ことごとく主の御手によって破り捨てられ、十字架に釘付けにされて、無効とされた。

それによって、キリストの贖いは、いかなる罪定めよりも効力を持っていることが、筆者の前の前で改めて証明されたのである。

それゆえ、筆者は晴れて「密室」のすべての掟によって裁かれることなく、そこから解かれ、公然と許しを得て、むしろ、ねぎらいと感謝と配慮の言葉と共に、無事に収容所を「釈放」されて、娑婆に戻って来た。

だが、それを機に、筆者は「労働は懲罰である」という従来の考えをさらに強めている。

日本では、新卒採用制度から始まり、転職回数が多いと就職できないとか、職歴に記載される勤務期間はできるだけ長い方が良いとかいった「伝説」が未だに健在である。

だが、筆者は、実際に生きて来て、それが「伝説」に過ぎないことを痛感して来ただけでなく、今や、職歴に記載されたリストを見ると、これは「前科」みたいなものだと感じる。

こんなにも長い間、労働という懲罰を受け続け、懺悔と人格改造を要求されて来たのか。こんなにも、全国各地の収容所を転々とさせられては、囚人労働に従事させられて生きて来たのか、と、ため息が出る思いである。

もうこれ以上、こんなむなしい道を歩いていてはならない。最後の組織が、筆者にそのことをよく教えてくれた。正直なところ、自分の命を守ることと、コロナウィルスによる死の危険を一切かえりみずに組織のために労働することと、どちらを取るかという二者択一を迫られないことには、筆者はずっとそのような生き方に疑問も持たず、むしろ、喜んでその道を歩き続けたかも知れない。

筆者はコロナウィルスを恐れてこう言うわけではないし、そこに残り続ければ、必ず自分が死ぬなどという予感があったと言うわけでもない。

筆者は、どんな環境でも、神は筆者の命を守って下さったと思うが、それでも、人命軽視の環境で働き続けるのは有害であると考えている。それに加えて、今は別なことをせねばならないと痛感している。だから、「密室」は極めて良い教訓と、そのためのチャンスを与えてくれた。
  
さて、当ブログでは、東京オリンピックは、誤った理念に基づく祭典であるから、必ず、開催されないで終わるという予想をかねてより述べて来たが、それは成就しつつある。
 
それに加えて、今回、改めて筆者は、日本における労働は、人間が己が欲望の追求の果てに、ありもしないユートピア(共産主義)に至りつけるという幻想(=市場原理主義、日本型社会主義)に基づいているため、そういう誤った目的は、およそ達成できないばかりか、人を破滅にしか追いやらないという自論を繰り返しておきたい。

* * *
 
 以下の記事が面白かった。

コロナ危機が日本企業の非合理な“ムラ社会”を確実に破壊する訳 .
(ITmedia ビジネスオンライン  加谷珪一 2020年05月13日 08時00分)

この記事は、のっけから、筆者の考えと同じことを述べてくれている。
 

今回のコロナ危機では、社会のあちこちで従来型価値観からの転換が起こっている。最たるものは会社と個人の関係だろう。日本の「カイシャ」というのは、表面的には合理性に基づいて作られた組織に見えるが、その内実は前近代的なムラ社会だった


  この記事は、日本の「カイシャ」組織なるものが、実質的に、単なる前近代的な「ムラ社会」に過ぎないこと、そして、その「ムラ社会」の人間関係とは、共依存関係に他ならないことを喝破している。

さて、この「ムラ社会」の正体とは何かということを考察する上で、面白いのが次の記事である。

人材流出企業あるある:会社を崩壊に追い込む“コミュ障な組織”の正体
(ITmedia ビジネスオンライン 安達裕哉 2019年06月13日 10時00分 公開
 
この記事では、「ムラ社会」という言葉こそ使わないが、実際に「ムラ社会状態」に陥った会社組織を、「コミュ障(コミュニケーション障害)な組織」と呼ぶ。

そして、「コミュ障な組織」の共通点は、「信頼」ではなく「安心(=不安心理)」にすがり、人間関係を結ぼうとする点だと言う。

記事では、社会心理学者の山岸俊男氏の『安心社会から信頼社会へ』という著書が紹介され、山岸氏の考えに沿って、「コミュ障」とは、「人を信頼するのが下手な人」を指すと定義される。
 

 詳しく見ていこう。

 山岸氏は、「信頼」を次のように定義している。

 「信頼」は、相手が裏切るかどうか分からない状況の中で、相手の人間性のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。


 そして面白いことに、山岸氏は、信頼と対になる概念として「安心」を挙げている。安心の定義は次のようなものだ。

 「安心」は、相手が裏切るかどうか分からない状況の中で、相手の損得勘定のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。

 信頼は不確実性を大きく残したまま、人に期待を持たなければならない。

 だが、安心は、システムやルール、約束事などによって、「相手が裏切る」という不確実性を大きく減らしている。

 
例えば、「裏切ったら処刑する」という“鉄のおきて”があるマフィアにおいて、ボスが子分に持つのは信頼ではなく、安心である。


 三蔵法師が孫悟空に対して「頭を締め付ける輪があるから、裏切らないだろうと考えること」も、信頼ではなく、安心である。


 山岸氏の洞察の素晴らしい点は、この「信頼をベースにした人間関係」と、「安心をベースにした人間関係」を区別しているところにある。


 つまり、安心は「直接人を信じなくとも仕組みによって機能」し、逆に信頼とは文字通り「人間を信じている」からこそ、成り立つということだ。



簡単に言えば、人間関係には、「安心(=不安心理)」をベースにしたものと、「信頼」をベースにしたものと、二種類あるということだ。会社組織なども、そのどちらに立脚しているかによって、性質が異なる。

「安心(不安心理)」をベースにする人間関係とは、要するに、「ムラ社会」のことである。

「ムラ社会」は、もともと閉鎖的な人間関係であって、地理的にも、逃げ出すことが困難な閉鎖された空間に形成されることが多いが、さらに、そこには、裏切り者には、村八分にして制裁を加えるなど、必ず何かの罰がもうけられているため、住人には逃げ出す自由がない。

罰がもうけられ、離脱の自由が失われているからこそ、ムラ社会のメンバーは、そのコミュニティに安定が保たれていると錯覚して「安心」する。言ってみれば、その「安心」とは、必ず、村八分などの何らかの「懲罰(制裁)」とセットで成り立っているということである。

他方、「信頼」をベースにする人間関係は、オープンであって、人に離脱する自由を与え、裏切った場合の罰を定めていない。そこで、これは常に裏切られることも覚悟した上で成り立っている関係性であると言えよう。
 
そのような関係を作るためには、まず自分が、相手は必ず期待に応えてくれるだろうと信じ、それでも、裏切られる可能性があることも考慮した上で、裏切って去る自由を、相手に与えなくてはならない。そうして、「不確実性」を大きく残したままでも、人を信じる気持ちを持たなければ、オープンな人間関係は築けないのだ。

だが、記事では、罰則つきの「ムラ社会」の「安心」にすがり続けている人間は、そのように他人に自由を与えつつ、信頼する能力が、どんどん低下して行き、ついには、「コミュ障」になるという。

「安心」にすがる組織というのは、逆に言えば、罰則がなければ、安心できない組織である。従って、その組織は、裏切られることへの「不安」をベースに成り立ち、何とかそれを阻止することを最優先課題としていると言って良いかも知れない。
  
そういう組織は、不安心理をなだめるために各種の罰則をもうけ、離脱者、違反者を絶えず吊し上げていなければ、安心できない。それは人の自由を縛り、懲罰をもうけなくては、人間関係を維持できなくなるという恐怖に絶えず駆り立てられているため、減点主義の、閉鎖的な関係であって、どこまで行っても、信頼を生むことはない。
 
  記事は言う。

 例えば、山奥の伝統的な共同体に住んでいる限り、その中では人は周りの人を警戒する必要がない。お互いに集団の内部を相互に監視し、裏切り者は共同体の外に放逐すればよいというシステムができているので、「信頼」を育む必要がないからだ。

 しかし、安心に依存し続けていると、「人を信頼すること」が下手になり、外の世界に出ていく機会は極めて限られたものになってしまう。

  実際、山岸氏の実験では、特定の相手との安心に基づく関係を形成すると、関係外部の人間に対する信頼感はむしろ低下することが分かっており、ますます閉鎖的になる、ということが示されている。

 実際、山岸氏が、この安心をベースにした人間関係を重視する人々が持つ傾向を、実験によって明らかにしたところ、次のような人々であることが分かった。

•仲間以外は信用しない(「人を見たら泥棒と思え」に賛同する)
•仲間内で、誰が誰を好いている、嫌っている、という情報に敏感
•周りの人が自分をどう思っているのか気になる
•他人との付き合いは、自分も傷つきたくないし、他人も傷つけたくない
•孤独感が強い
•感情を顔に出さない

 山岸氏はこれを「社会的びくびく感」と名付けているが、これは、一般的なコミュ障のイメージに驚くほど近いことがよく分かる。

•まさに安心に依存しすぎている人たちこそ、コミュ障の正体だ。

 彼らは「人間同士の信頼関係」よりも、「安心を作り出す仕組み」の方に依存しているため、「この人はどの程度、信頼できるのか」という感覚が鈍ってしまっており、それゆえに、コミュ障なのだ。

 

この記事を読んだとき、筆者は、自分の属していた組織に感じていた違和感の正体が、どこにあるのか、はっきりと分かった気がした。

その組織では、心の内では、互いを全く信頼できない者同士が、出社して、互いの顔を目で見て、声を聞き、肌で温もりを確かめあうことで、表面的な安心感を得ていた。
  
その組織の人間関係は、信頼に基づかず、安心(=不安)に基づいていたからこそ、互いの姿を目で見て確認し、その声を聞いて、仲間だと確認することが、必要不可欠であるとみなされ、それがなくなれば、信頼を裏切られるという不安に絶えず怯えていたのである。

それゆえ、コロナを機に、出勤して物理的に仲間であることを確かめられない状態になると、疑心暗鬼が爆発的なまでに高まり、出勤しないなど許されないと、過度な懲罰に走ったり、仲間同士で監視し合い、否定し合い、見た目で仲間と確認し合えない者をよそ者として排除しながら、自壊の方向へ向かって行ったとしか思えないのである。

コロナウィルスを機に、テレワークを拒む企業の心理分析を行う記事なども盛んに出されるようになった。テレワークの導入が可能なのに、それを拒む企業は、何が何でも出社して、皆が同じ場所に集まり、互いがメンバーであることを、感覚的に確認しなければ、相手を信じられないし、安心できないという、不安心理に基づく運営がなされる組織だと言えよう。

さらに、テレワークを導入してさえ、社員のパソコンを上司が監視しなければ、仕事をさぼっているのではないかなどと不安が生じて気が済まないという例もたくさんあるようだ。そのように、相手が仲間であって、同じ規律に従っていることを、絶えず感覚的に(物的証拠によって)確かめない限り、安心できないという関係は、信頼の上に成り立っていないと言える。

もともと、そのような組織では、メンバーが心の中で、互いを尊敬しておらず、好いてもおらず、まして信頼もしてい者同士が、出社して上っ面だけの笑顔で、口先だけの挨拶や、世間話や、お世辞を述べ合い、「自分たちはまだ仲間なんだ」という、かりそめの連帯感を得て、団結が保たれているかのような錯覚を持ち、自分はまだ裏切られていないと、安心を得ていただけである。

そのような感覚によって得られる錯覚に等しい安心しかなかったからこそ、物理的なつながりが断たれると、早速、不安(疑心暗鬼)に陥る。

信頼とは、離れていても、相手は自分の期待を裏切らないと信じられる関係である。自分の目で見、その声を聞いて、約束を守っているか、命令に従うかどうか、期待を裏切っていないかなどを、絶えず証拠によって確かめなくても、相手は期待を裏切っていないと信じられる状態を言う。
 
従って、リモートワークを受け入れられるか、受け入れても、社員のPCを監視しなければ気が済まないなどの問題がないかどうかと、社員を信頼できるかどうかといった問題は、密接につながっている。
 
筆者の属していた組織では、うわべだけの連帯はあったが、その根底に信頼がなかった。そこで、出社して社員同士が目で見てつながりを確かめ合っているうちから、陰では悪口、密告、讒言、足の引っ張り合いが絶えず、醜い光景が展開されていた。

それにも関わらず、うわべだけそうした醜いすべての争い事を覆い隠して、口先で巧みに「仲間」を演出した者が、あたかも「コミュニケーション上手」であって、「協調性がある」人間であるかのようにみなされて来たのだ。

だが、うわべだけの浅はかな人間関係だけでは、何事も上手くいかないので、様々な問題が噴出する。ところが、そのような関係性の虚偽を見抜いて、そこから離脱しようとする者が出て来ると、早速、集団で村八分にし、制裁を加え、次々と罰則が発動される。

その有様を見て、筆者は、そのような関係性は異常であって、そんな組織はやがて疑心暗鬼に陥り、崩壊するだけだと悟ったのである。
 
   

こう考えていくと、コミュ障は個人だけに適用できる概念ではない。実は、「“コミュ障な”組織」も存在する。

 例えば、「コンサルタント」や「外部リソース」を使うことがやたら下手な会社。そういった会社は実は“コミュ障な”会社であること多い。

ある会社では、経営陣が外部リソースを使う際に、まず言っていたのが、「なめられるな」「ノウハウをできるだけ隠せ」「できるだけ“たたけ”」だった。

 要するに、「外部の会社は一切信用できない、使うにしても上下関係をはっきりさせておきたい」という考え方だ。

 また、ミスが起きたときに、それを外部の業者に押し付けようとする傾向もあった。だから結局、どこかの時点で必ず、コンサルタントや外部の協力者とのコミュニケーションが、うまくいかなくなる。

 しかも、そういう会社は決まって人材に関しても排他的で、当然副業も認めず、「辞めた人のことは口にしてはならない」という“暗黙のおきて”があったり、会社を辞めた人をあしざまに言ったりすることも多い。

 さらに、“好き嫌い”で人事が行われ、会社の「文化」「暗黙のルール」を社員に強制することもしばしば見受けられる。

 要は「ムラ社会」のような会社、つまりコミュ障な組織なのだ。

 


まさに、筆者が体験した通りのことが以上に書かれている。社内でも社外でもヒエラルキーを作り、誰が誰より格上、格下であると序列をつけない限り、安心できず、本来ならば、対等であるはずの者にさえ、序列をつけようとしたり、好き嫌いで、情実人事が行われ、実力もない者が出世して行ったり、合理的でないこまごまとした規則を山のように作り、ルールに従っているかどうかを絶えず試したり、従わない者は罰し、排除したりして、そして、失敗の責任は、自分よりも弱い者になすりつける・・・。

どこからどう見ても、不合理極まりない「ムラ社会」の有様は、絶望的なほどまでによく似ていた。

その「ムラ社会」では、あたかもムラ社会の掟にうまく適応・迎合した人間が、「コミュニケーション上手」のように自称していたが、現実は、むしろ逆で、そのムラ社会こそ、「コミュ障な組織」だったのだ。

そのような組織は、人を信じられず、外に出て行く勇気がないため、極端に内向的・閉鎖的になって自壊するという結論に、筆者は全面的に同意する。

最初に挙げた記事 「コロナ危機が日本企業の非合理な“ムラ社会”を確実に破壊する訳 .」も、「ムラ社会」(コミュ障な組織)が、コロナを機に、淘汰されて行くだろうと予告する。
 
だが、コミュ障組織の崩壊以前に、日本型雇用そのものが崩壊するだろうと、記事が述べていることに注目したい。

それはコロナがなくても、予告されていた。記事中盤ではこうある。
 

コロナ危機のためほとんど話題にも上っていないが、今年の春闘では、経団連が日本型雇用の見直しを議題として取り上げる方針を示していた。つまり企業側は、すでに終身雇用や年功序列の賃金体系を放棄する意向を示しているのだ。

 コロナ危機の影響が長期化するのはほぼ確実であり、とりあえず当面の感染拡大が一段落したタイミングで、多くの企業が希望退職など雇用調整に乗り出す可能性が高い。日本型雇用は実質的に終焉していたが、コロナ危機がその動きを加速させるだろう。


 経団連は今年、新卒採用という、戦後日本で連綿と続けられて来た雇用のあり方を改めるよう警告を発し、もはや従来の日本型雇用では、この先の深刻な労働人口の現象に対応できないとの見方を示していた。

それに加えて、今年は、政府が就職氷河期世代への支援プログラムを開始するはずの年であった。

こうしたすべては、従来の日本型雇用は、そのものが不安心理に基づく「ムラ社会」を形成していたこと、それがコロナウィルスとは関係なく、今の時代には、もはやそぐわないものとなりつつあった事実をよく物語っている。

新卒採用の制度は、学校という「ムラ社会」から、職場という「ムラ社会」へ、滞りなく移動し、その「ムラ社会」の正当性を疑わせるような価値観に感化を受けたり、そこから離脱した過去がないことを確かめるための制度である。

何度も述べて来た通り、これは離婚回数の数えきれない浮気性の男が、自分だけ清純で無垢な初婚の花嫁を娶りたいと願うような身勝手な願望だ。自分が浮気性だからこそ、相手の浮気が許せず、相手が組織を渡り歩い来た過去があると、これは浮気者に違いないと、信用できず、価値がないとみなすのである。
 
一度でも、組織を離脱した者は、裏切り者であるという発想がそこにある。

企業に入社して、中途退職(=離婚)した者は、もはや「初婚」ではないのだから、「無垢で清純な花嫁」とは呼べず、価値が下がる。「婚期」を逃して出遅れた者(=新卒で就職できなかった者)も同様である、という前近代的な考えなのだ。

人が新卒で入社できるのは、人生の中で、一年きりであるが、その貴重な時期に、どれだけ優れた「玉の輿」を見つけ、自分を高く身売りしたかが、その後の一生を決めるという、不合理極まりない制度だ。
 
終身雇用制度が崩れて久しいにも関わらず、そのような制度が維持されていることは、未だこの国には、「人は新卒で入社し、一生、同じ会社に勤めるのがふさわしい。そのレールから外れた人間は、失格者だ」などという幻想が生きていることをよく示している。

フリーターやニートは、レールからあまりにも外れ切っているため、もはや「正妻(=正社員)」になる資格もない、せいぜい派遣や契約社員といった使い捨ての「愛人契約」で十分な人々だとみなされているのであろう。

このように、一度でも「ムラ社会」である学校や職場を離脱した者は、人間としての価値が下がり、一生、幸福な生活を営むに値しない存在になるかのような幻想を、制度的に肯定し、後押しして来たのが、日本社会である。

これは、時代錯誤な差別的制度であるから、批判を浴びるのは当然であって、早急に見直しをはからなければ、我が国は人口減少にも、労働力の不足にも対応できないだろう。

だが、そうした議論と実践のほぼすべてを、コロナが津波のように押し流した。
 
それだけでなく、コロナは、日本型雇用は、改善されるどころか、この先、さらに悪い状況へ向かうことを示したのである。
 

先ほど、日本のカイシャは労働者にとってムラ社会だったと述べたが、社会学的には「共同体社会」と言い換えることができる。共同体は構成員にとって所与の存在であり、自分で主体的に参加するどうかを選べるものではない。集団の中では、お互いを監視したり、貶(おとし)めるという行為が行われるが、一方で共同体は、自分のアイデンティティーを確認したり、満足感を得る場でもあった。

 共同体としての職場では、他人への誹謗中傷やイジメもある意味では業務の一部となり、純粋なタスクとこうした暴力行為、そして幸福感が渾然(こんぜん)一体となっていた。だがテレワークに移行すると、ほぼ全てがタスク単位となり、労働者の評価基準は、指定された時間に指定されたアウトプットを出せたのかどうかに集約されてくる。

 当然のことながら、会社の業務に貢献している人とそうでない人がハッキリと区別され、上司の立場の人間も、適切にマネジメントできていたのか完全に可視化される。コロナ後の社会では、自分のアウトプットを正しく評価してくれない企業で労働者が働き続ける意味はないし、会社から見れば、共同体的な振る舞いしかできない社員はもはや不要である。

 

「ムラ社会」である会社組織では、村社会であるがゆえに、監視もあり、密告もあり、誹謗中傷や、虐めさえ、組織の活動の一部、「業務の一環」として見逃されて来た。なぜなら、ムラ社会を維持するためには、「安心」とセットになった「懲罰」がなくてはならず、組織の掟を破ったり、離脱しようとする者への制裁に加わってくれるメンバーが、必要不可欠だったからである。

ところが、コロナのせいで一か所に集まって閉鎖的な人間関係を維持することが難しくなり、職場から、共同体社会としての性質が薄れると、その代わりに現れるのは、露骨なまでの成果主義である。

コロナ後は、社員同士が出社して互いが仲間であることを確認し、温もりを確かめ合うという共同体社会の旧来の感覚的な満足がなくなり、それゆえ、実力もない社員が、情実人事で出世して、縁故によりその地位を保つといったことも難しくなって行くが、その代わりに、もともと信頼に基づかない人間関係しかなかったその社会では、成果を求める過酷な競争が始まる。成果こそ、共同体社会の新たな掟となり、それを叩き出せない人間は、失格者として淘汰・追放されて行くことになる。
 
この先は、共同体社会の温もりという「安心感」にすがることで、身を守って来た人々も、共同体社会にとどまるメリットがだんだん薄れていくことになろう。それは彼らも、組織を離脱した者たちと同様に、過酷な競争の中に投げ出され、個人として勝負を迫られるようになるからだ。

以上の記事内容から感じ取れるのは、今や日本型雇用ばかりか、労働そのものが、もはや手遅れに近い状態にあることである。

家全体が火事になって焼け落ちようとしている時に、窓の修理とか、水回りのリフォームなどにこだわっても、仕方がないように、新卒採用制度がどうとか、就職氷河期世代がどうとかいった議論が、吹き飛んでしまうほどに、今や日本型雇用が根底から脅かされている。
 
義務教育の崩壊が叫ばれて久しいように、国民が勤労の義務も履行することで、より良い未来を勝ち取れるという発想そのものが、ますます幻想と化し、今のままでは、国民が働いても、働いても、生きられなくなるだけであり、国を支えるには不十分どころか、国が破綻して行くだけなのは明白である。

共同体社会とは、その成員が互いに負担を分かち合うことで、身を守り、支え合おうとする相互扶助の仕組みであった。それはもともとは死の恐怖から逃れるために、互いが「負担(罪=負債)」を分かち合い、あるいは、押しつけ合う(責任転嫁する)ために作られた仕組みであると言える。

共同体社会が、その成員に離脱の自由を与えず、離脱者を村八分にしたりするのも、離脱者が出ると、負担を分かち合う者が減るため、残るメンバーの負担が増えることを防ぎたい心理に基づいている。
 
だが、もともと死の恐怖や、不安心理に基づいて作り出された人間関係は、信頼に基づく人間関係とは、根本的に相容れないものだということもできよう。
 
 そして今、この国を支えるために必要とされる労働は、働くことのできる国民が、全員、一生かけて働いたとしても、およそ満たせないほどの「巨額の負債」になっている。

つまり、この先、国民全員が負担を平等に分かち合っても、バブル時代の繁栄を取り戻すどころか、労働によっては全く解消できないほどの巨大な重荷が生じ、それが雪ダルマ式に膨れ上がって行くだけであることが、すでに明らかと言えるのだ。

コロナ禍ではいみじくも、政府が国民を直接、支援しなければ、生きられない状況にある国民が多数いることが明らかとなった。それは我が国の経済がすでに破綻しつつあることをよく物語っている。

そこで、この先、政府がどんなに国民に向かって「勤労の義務」を説いたところで、国民の勤労によって、社会に豊かさを取り戻し、これを維持できる見込みはなく、それゆえ、この先、労働はますます、負い切れない罪の負債を、互いに責任転嫁し、押し付け合いながら、国民が自己返済するために連帯責任で背負うという、自己懲罰的な性質のものとなり、それゆえ、密室化が加速し、早く逃げないと手遅れにさえなるだろう。

検察庁の人事に内閣が介入できる法案が審議入りし、強行採決に至ると言われているのも、国民がこの負の連帯責任から逃げ出すことを、国家がより困難にするための仕組みづくりであると考えられる。その先に待っているのは、戒厳令国家である。

かつて社会主義国では、国民が極度の貧困の中、理想社会を出現させるために、労働を強いられ、国から亡命することさえ、死刑に処されたことを思い出したい。

バビロン化した経済の倒壊が迫っていることを思う。それに気づかず、ノアの時代、ロトの時代がそうであったように、娶り、嫁ぎ、売り、買い、植え、建て、飲み、食いしながら、この先も、従来通りの生活を送れると考える人々は、焼け落ちる火宅にとどまり、自分の命を粗末にしているのと同じである。

バベルの塔が崩壊した主たる原因は、疑心暗鬼による意思不疎通だったのではないかと筆者は思う。そこにいる人々は、仲良くしているように、協力しているように見え、協調性があるように見えた。彼らは、ひとつの目的へ向かって、団結しているように見えたが、すべてが幻想であり、崩壊に至ったのである。

そうなったのは、彼らの連帯は、しょせん、自己の利益のための表面的なものに過ぎず、相手を尊重するように見せかけながら、その実、陰では妬み合い、騙しあい、中傷しあい、内心ではいつ裏切られるか、戦々恐々としながら、徒党を組んで互いを監視し、罰し合っていたからだろう。必然的に、誰もが互いを信じられなくなって、崩壊したのである。 
 
似たようなことが、今日の様々な職場で起きている。

私たちは、自分がどこの「国」に属し、どの共同体の一員であるか、改めて考え直すべきである。負債だけを押しつけられる地上の国の住人ではなく、負債のない、無尽蔵の蓄えのある、天の共同体社会の住人は幸いである。

* * *

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイの信徒への手紙1:13)

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもはるかに価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのよう育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎしない。しかし、言っておく、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日には炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6:25-34)

* * *


「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ。」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」(ヨハネによる福音書20:24-29)

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主に信頼して、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼して、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編37編1-6)

* * *

いよいよゴールデンウィークも終わろうとしており、今年の筆者は、休息と未来に向けての準備だけに時間を費やした。コロナを機に、筆者自身も立ち止まり、今後、どのように生きるべきか考えさせられた。この国にもそうであるが、筆者自身にも、大きな転機が来ているのを感じている。

日本経済は、これまで奈落のどん底へ向かってひた走って来たのだが、コロナを機に、ついにその「奈落」が本当に見えて来た。おそらく、これから未曽有の大打撃を受けることになり、その影響ははかり知れないものと思う。

それに伴い、これまで就職氷河期世代の抱えていた問題を、はるかに超えるような巨大な問題が生じた。多くの人々が生活難に見舞われようとしているのである。

それにしても、今年からの2年間は、就職氷河期世代への政府の特別なプログラム支援の年になるはずであった。しかし、それも、コロナの影響でほとんどかき消されようとしている。

その現状を見ると、やはり、この世代は、政府の支援など当てにせず、自分の足で力強く立って、逆境を切り抜けて生きる秘訣を早く習得するのが最善だという気がする。

筆者自身は、以下にも書く通り、その秘訣をすでに見つけ、歩みを進めているところであるため、コロナがどうあれ、政府がどうあれ、社会がどうあれ、生き方に何の影響も受けてはいない。

だが、コロナがもたらした影響の大きさを思うのは、コロナは、これまでのように、就職氷河期世代と、それよりも若い世代だけでなく、バブル時代に入社した正社員たちにまでも、悪影響を及ぼしつつあることだ。

大企業が生産停止に追い込まれ、巨額の赤字を抱えるようになり、これまでは「社内失業状態」が許されて来た50代の大量の人々が、今後、真っ先にリストラの憂き目を見るかも知れないとの記事もある。

筆者は、コロナが本当に終わらせようとしているのは、「昭和の名残り」ではないかと思う。

筆者は、昭和生まれでバブルを経験した人々と話すとき、彼らには、バブル崩壊以降に、社会に出た人々とは、全く異なる考え方があるように感じられることがあった。

一概にひとくくりにはできないのだが、バブル世代は、自分たちの人生が絶頂期にあった時の「成功」のイメージに、今も非常に強くとらわれているように感じられる。

世の中が不況になって以後、そのような「成功」はもはやほとんど有り得ないものとなったのだが、彼らはずっとその時代の成功と繁栄のイメージにしがみつき、これを今もお手本のように生きている。そして、その夢が今も達成可能であるだけでなく、あたかも彼らが今、それを手にしているかのように演じることをやめられない傾向が強いように思う。

一言で言えば、彼らはものすごく強がりで、見栄っ張りなのである。自分が今も成功していることを、何とかして周囲にアピールしようと、自慢話を続けずにいられない。基本的に、社交好きで、派手好きで、パーティーや宴会が大好きな人たちも多い印象だ。

だが、世の中は、とうにそんな時代ではなくなっているので、彼らが演出し続けている「繁栄」や「成功」は、実体の伴わない外側の演技、虚勢のようなものと見える。もちろん、バブル時代に築いた人脈は、今も有効なのであろうし、彼らが家を買ったり、何人もの子供を成人させて世に送り出したり、蓄財したり、出世したのは事実かも知れないが、しかし、彼らはあまりにも強がりである一方、逆境に弱いので、そのままの価値観では、今後の嵐のような時代を生き抜けないかも知れないと、筆者は感じることがある。

特に、彼らがこれまで「当たり前」だと思って来た、昭和的価値観に基づく生活形態が脅かされ、崩れ去るようになれば、彼らはあっけなく自信喪失して、その先の時代に適応できないまま、人生の表舞台から退場して行くのではないかという危機感すらも感じることがある。

それに比べ、就職氷河期世代は、バブルが弾けたおかげで、逆境の時代に慣らされて来た。この世代は、上の世代の言うような「成功」を一度も経験したことがないので、それゆえ、良い意味で、過去の成功にとらわれることがないし、今がどん底であっても、未来に望みをつないで、一度も到達したことのない目標へ向かって、アグレッシブに、挑戦的な試みを続けられる。

この世代は、現状に対しては極めて悲観的であるが、同時に、未来志向であり、この20年近く、あまりにも浮き沈みが激しい生活を送って来たため、逆境に耐える術を知っている。その間に、絶望に追い込まれた仲間も多いが、考えられないような適応力を見いだした者もいる。

その適応力は、生まれつきの器用さとか、強さといったところから出て来たものではなく、どんな状況においても、望みを捨てずに、自分を見失わずに生きる秘訣を学んだところから来る。

人にもよるとは思うが、就職氷河期を生き残った人々は、バブル世代に比べ、揺れ幅の大きい生活の変化に耐える力がある。「今」を楽しむことよりも、未来へ向かって行くために英気を養うので、ストイックであるが、その分、不屈とも言える信念を持って目的へ向かって行く強い意志の力を持っている。

筆者は、約20年近くの不況時代を耐え抜くことで、学んだことは大きかったと思う。その最大の成果は、どんな状況にあっても、信念を変えずに、望みを捨てずに、自分らしく生きる秘訣を学んだことである。

「コロナ失業が広がっているときに、ヴィオロンさん、あなたは何を言っているんですか。またしても、夢物語ですか」と言われるかも知れない。

だが、どういうわけか知らないが、筆者は、長い長いトンネルをようやく抜けて、広い所へ出たという実感を持っている。やっと、就職氷河期という長い長い「隔離」期間が終わったのである。筆者は自分の歩むべき道を見つけた。だから、心配することはない。昭和の名残りには、さようならだ。

筆者が苦しめられて来たのは、就職氷河期ではなく、実は、バブルの名残だったのかも知れないと思う。

これまで、上の世代から、さんざん聞かされては、羨望を感じて来たバブル時代の名残り。かつてこの国にあった繁栄、豊かさ。そういうものへ回帰できるという望みや、そこへ滑り込むことのかなわなかった自分を責める思いが、見事に筆者の中から消えて行ったのである。

何を言っているのかと思われるかも知れないが、筆者が大学を卒業しようとしていた頃には、教授たちは、研究室でよくこんなことを言っていたのだ、「あと2年ほどでこの不況も終わり、すべてが元に戻り、きみたちのポストも復活するだろう」と。それから3年以上が経っても、まだ言っていた、「昔は就職に苦労することなんてなかったんだよ。企業が大学まで来て学生をスカウトしていたんだから・・・」

その頃、誰もバブルが本格的に終わったとは信じていなかった。あと2年したら、3年したら、来年になったら・・・まじないのようにそう唱えながら、昔の思い出話を繰り返していたのだ。

だが、昭和は過ぎた、もう戻らない。そうである以上、これ以上、昭和の価値観にとらわれ、バブル時代を振り返る必要はない。過去を脱ぎ捨て、新しい時代の新しい価値観を身に着けて生きなさい。「失われた」20年間に身に着けた価値観は、これからの時代、非常に大きな教訓となって生きて来るはずだ。

つまり、嵐のように激しい逆境の時代を、負けずに生き抜いてきたからこそ、身一つ、信念一つでも、これからも、何者にも頼らずに、すべてに勇敢に立ち向かい、生き抜くだけの自信が身に着いたのである。

だが、その勝利は、筆者一人だけのためではない。筆者はこの時代を生きたからこそ、自分のためだけでなく、多くの人々のために生きることの価値を知ったのだ。

筆者は信仰者であるから、信仰によって、天の秩序をこの地に引き下ろし、命の水を流し出す見えないパイプラインを、この地に建設したいと願う。その建設作業はあらかた完成し、初めて、この地から、広域に向けて、その命の水を流し出す段階に入った。そのための新たな事業を始めるべき時が来たのである。そして、その事業については、おいおい書いていくことにしたい。

* * *

さて、今回は、少し信仰の話ではないことも書いておこう。

日本の経済が弱体化した原因は、労働者の間に無限とも言えるヒエラルキーが作られたことの悪影響が大きいと筆者は考えている。

終身雇用の時代には、社員の競争相手は、せいぜいライバル企業と、同僚くらいであった。

だが、終身雇用制が崩れ、非正規雇用が蔓延してからは、事情が大きく変わった。一つの企業内に、正社員と、正社員以下の存在である契約社員や、派遣社員や、バイトといった、期間限定の使い捨て人材が無数に生まれたのである。

もちろん、以上はあくまで大雑把な表現である。実際には、契約社員が正社員以上の給与をもらっていたり、古株のアルバイトが、社内で正社員以上の影響力を持っていたりもするのだが、そういうことは今は脇に置いておこう。

こうして、同じ会社の中にヒエラルキーが出来たことにより、社員同士が、仲間を下に見て、踏みつけにしたり、モノのように使い捨てたりするようになった。

そうして、労働者間に、這い上がれないヒエラルキーが出来てしまったことが、日本経済の崩壊の始まりであったと筆者は見ている。

20代の正社員の下で、40代の派遣社員が働く。若い正社員は出世していく一方で、派遣社員は、契約期間が終われば去っていくだけだ。若い正社員は、新しく「派遣さん」がやって来たときには、「長期の雇用で良かったですねー」などと言う。「派遣さん」が去るときには、もちろん、送別会を開き、そのときには、お手製のケーキなどを持って行ったりもする。だが、「派遣さん」は「派遣さん」であって、名前はない。黙ってやって来て、黙って去っていく顔のない存在である。

こうしたヒエラルキーが社内で固定化し、年功序列は崩壊した。ヒエラルキーの下層に置かれた者は、どんなに努力しても、上に行くことはできない。何年働いても、びた一文、給与は上がらず、たった数ヶ月の雇用契約を更新するために、涙ぐましい努力をし、あらゆる雑務をこなし、上司たちに頭を下げ続けねばならない。その努力と引き換えに、得られるものときたら、年限が来れば、あっけなく去るように求められるというだけの話なのだ。

このように、永遠に出世の見込みのない使い捨ての雇用形態が蔓延したことが、日本の労働者の働く意欲を著しく低下させ、日本の企業の成長を押しとどめ、経済を弱体化させて行った最大の原因の一つなのである。

ちなみに、そういう差別的なヒエラルキーは、民間から生まれて来た発想ではない、と筆者は考えている。それは官主導で導入されたものであり、官が民を弱体化させるために、悪意に基づいて導入したのではないかと疑われる。

そのヒエラルキーは、国家公務員のキャリア制度を真似て導入されたものと筆者は見ている。

ところで、国家公務員のキャリア制度の起源は、以前にも書いた通り、戦前にさかのぼる。官吏が天皇の直属の使用人だった戦前に作られた制度が、多少形を変えて生き残ったものが、現在の国家公務員試験制度である。

天皇が「神」とみなされていた時代に、「神」にお仕えする人々は、とりわけ優秀な人材でなくてはならなかった。そこで、官吏の登用のためには、難易度の高い試験が作り出され、特定の大学を卒業していなければ、受験資格さえ与えられないといった縛りがもうけられたのである。

現在の国家公務員試験制度は、戦前の官吏登用試験の残滓と言えるものであり、20代の時に受験して合格した試験の種類で、その後の一生分の人生のキャリアが決まってしまうなどという不合理な制度は、時代にもそぐわず、憲法にもかなわない。国民の公僕たる公務員を、そのような不可解な試験によって選抜することが、誰のためになるというのだろうか。

そうした時代錯誤な制度に基づき、国家公務員には、I種、II種、III種といった等級や、その他に専門職やら、任期付職員や、期間業務職員といった存在がある。これらは厳格なヒエラルキーである。

労働者派遣制度は、厚労省が認可したことによって、民間企業に導入された。だが、派遣とは、国家公務員の世界にもともと存在していたヒエラルキーを、民間に移植したものではないかと筆者は見ている。

国家公務員の世界には、3年で満期を迎える期間業務職員というものが存在していた。それは正規の国家公務員のような試験を経ることなく採用される、準公務員的存在である。それは公務員の手助けを行うためのアシスタントであって、もっと露骨に言ってしまえば、正規の公務員のために、花瓶に生けられる花のようなものである。

花を花瓶に生けておくのは、それが新鮮で、美しい間だけでよい。枯れたり、しぼんでくれば、別な花に取り替えるだけだ。いつでも新鮮なものに取り替えられるように、初めから期限をもうけておけば万全だ。

正規の公務員は、異動を繰り返しており、新年度には、突如、違う部署に配属されたりもする。ところが、正規でもない職員が、ずっと何年間も、同じ職場にとどまっていると、正規の公務員以上に業務に精通するようになったり、力を持ったりもする。助手がどうして主人以上の存在になってよかろうか。期間業務職員ならば、同じ職場に3年しかいられないから安心だ。

これを民間に置き換えたのが、いわゆる派遣制度である。派遣社員が同じ職場に3年以上いられないという縛りも、公務員の世界から出て来た発想ではないかと推測される。

だが、もともと倒産することのない官公庁にあった職員のヒエラルキーを、民間企業に導入することに、意味があるだろうか。そもそも何年、働いても、昇給、昇格することなく、それどころか、一定期間が過ぎれば、会社を去って行かねばならないような仕事に、誰が魅力とやりがいを感じ、真面目に働くだろうか。そういうものは、市場競争にはなじまない。

このように、国家公務員のヒエラルキーは、もともと時代の遺物であって、民間企業には全くなじまないものなのだが、さらに、国家公務員は、もっととんでもないことを考え出した。

それが、政府のサービスの業務委託である。それによって、国民が、国家公務員のヒエラルキーの最下層よりも、もっと下層に置かれ、政府の下僕とされたのである。

ちょうどつい先日、厚労省からアベノマスクの調達を受注した4社目の企業の名前が発表されたが、その企業が、社員がほとんどゼロに近い、あまりにも怪しく、実績もない、しかも何社もの企業が同じ場所に名を連ねている、まるでプレハブのような建物に入った、ほとんど幽霊会社のような会社であることが世間で取り沙汰されて、騒がれた。

なぜ、何の実績もない、社員もろくにいないような会社が、突如、政府の事業を受けたのか。しかも、入札もなく、随意契約である。

それを見ても分かる通り、政府の委託事業には、この手の怪しい企業はたくさん群がっているのである。

そもそも一からビジネスを起こし、独自の発想でこれを成長させていきたいという本物の企業家は、政府の事業などに手を出さない。そこで、必然的に、政府の事業を受注する企業は、手っ取り早く安定を求める、本物の企業精神を持たない会社となる。

そこで、さしたる実績もなく、ホームページすら作成されていないような企業も、縁故で事業を受注したりする。

それだけならまだしも、政府の競争入札に参加して、最低価格で事業を受注するような企業の中には、労働者に残業代も払わずにこき使うブラック企業も含まれている。こういうハイエナのような企業が、政府に揉み手ですり寄り、下僕として事業を受注して行くのだ。すると、何年か後になって、その事業は失敗に終わり、大規模な不正が発覚して、スキャンダルになったりする。
 
一体、こういう行政サービスの業務委託の流れを歓迎できるだろうか。そもそも政府の行政サービスを、営利を目的とする民間企業に委託するという発想自体、異常ではないかと疑ってみるべきだ。

それでなくとも、政府は営利を目的とする企業とは異なるのだから、市場経済に参入してビジネスに乗り出すべきではない。政府が巨大事業主のごとく市場経済に参入して、大規模公共事業を売りに出したりすれば、民間企業のパイが奪われる。

その上、公務員が自ら行うべき行政サービスまで、外部委託事業として売りに出そうというのだ。これを受注した民間企業は、当然ながら、委託契約において政府から支払われた金額を超えるサービスを提供しようと心がけるため、それでは政府がまるで土地ころがしのように、行政サービスを転がして、民間企業を利用して金儲けをしていることになる。

このように、政府が巨大プレーヤーとして市場経済に参入すること自体、異常であることに加え、その上、国民の公僕たる国家公務員が行うべきサービスまでも民間に丸投げという姿勢では、もはや国家公務員のなすべき仕事は残らない。

各省庁に不祥事が起きれば、早速、コールセンターが民間企業に外部委託され、そこで役人の代わりに、派遣社員が国民に謝罪したりしているが、こうして面倒な仕事はみな民間任せにし、自らの不祥事の後始末までも、「くれてやった」と、恩着せがましい態度で民間に投げるのが、国民の公僕たる公務員のつとめなのか。

このように、政府が各種の行政サービスを切り売りするがごとくに外部委託して市場に売りに出すことによって、正常な市場競争が阻害され、公務員の国民の僕としての役割が失われているのが実状である。

そのようなことをやればやるほど、国民は政府の下僕と化していき、大規模公共事業は安定しているように見えても、それに群がった企業の独自の発想を殺して窒息させてしまう。

かくて、政府が行政サービスを次々に民間に委託するのは、断じてやめるべきである。国家公務員に、国民の下僕としての役目をきちんと果たさせるのが国民のつとめであって、それにも関わらず、国民が率先して政府の仕事を肩代わりし、政府の下僕になるようなことは、断じてやめなくてはならない。

そんなことをして、憲法の理念と真逆のことを、国民が自ら率先してやろうとするから、政府が異常に肥え太り、国民が虐げられるという結果に至るのである。

行政サービスは何年経っても改善されず、政府から委託を受けた民間企業が、超ブラックな環境で、労働者を搾取して働かせている間、国家公務員は、仕事もなくぼんやり遊んでいるという結果になる。

もちろん、不夜城では長時間残業が常態化して来たのだが、人手不足ならば、公務員を増やせば良いだけであって、人手不足を解消するために、汚れ仕事は民間へ委託というのはナンセンスである。

このように、政府の事業が怪しいハイエナ企業にたかられて思う存分に食い物とされ、役人が国民の上に君臨して、仕事をくれてやったと横柄な口を利き、次々と国民の意に反するサービスが導入され、その質が劣化して行ったりするのも、もともと政府が営利になじまない行政サービスを民間に投げ、民間企業がこれをありがたく受け取ろうとしたことが元凶なのである。

最悪なのは、それによって、民が官よりも下に置かれ、国民が公務員の下僕と化したことである。

郵政民営化によって、郵便局のサービスも、不便になって久しいが、業務委託も、民営化も、似たり寄ったりで、結局、国民が国民の首を絞めているのと同じである。

官の仕事は、官が最後まで責任を持って果たすべきであって、民が官の仕事を肩代わりしてはいけないのだ。その関係性を逆転させるから、国民に君臨して国民を抑圧する強大な政府という化け物が出来上がり、民は徹底的に自由と権利を奪われて踏みしだかれるのだ。

警察国家・戒厳令国家も、一日にして出来上がるわけではない。独裁体制も、ある日、突如として生まれるのではない。国民が自分の頭で物事を考えるのをやめて、プライドを捨て、長い物には巻かれろ式に、「お上」である政府にすがりつき、それによりかかっておけば安心だなどと考え、自ら政府の下僕と化すからこそ、その先に、独裁国家が現れて来る。

かくて、真に強くなりたいならば、国民は自分の僕であるはずの人々の情けにすがって生きようという考えを捨てて、むしろ、政府からは自立した立場から、政府を監視せねばならないのである。

以前から書いている通り、政府というのは、嘘をつくものであって、必ず、道を間違えるものなのだ。霞が関にある厚労省の庁舎の4階には、霊安室があり、そこには、今も、大戦時に大陸で行方不明になった身元不明の日本人の白骨がためこまれている。

近年、この省ではまたしても不祥事が発覚し、政府が収集した遺骨には、日本人だけでなく、身元の分からない外国人の骨がたくさん混じっていたことが、遅ればせながら、発表された。その事実は長年、隠されていたのだが、発覚したことにより、身元不明の遺骨が近親者に返還される見込みは、さらに遠のいた。

それさえ外部委託事業であるから、誰も責任を取ることはない。こうして、成果もあがらない委託事業が漫然と続けられ、そこに公金が湯水のごとく投じられる。しかし、事業を受注した企業が、それによって豊かになることもない。

どれだけ異常な事業運営が行われても、役人は誰一人責任を問われず、この省の有様は、もはや、自分の城の地下室に妻の白骨死体をためこんだ青髭の世界をリアルに実現していると言う他ない。

こんなものが、我々が助けを求めてすがりつくべき相手だろうか? すがりつけば、生かされる見込みがあるだろうか? いや、青髭にすがれば、行き着く先は、青髭の城の地下室である。

だから、私たちは、大戦時に国民が政府に何をされたのか、はっきり思い出すべきであり、それも棄民だったならば、就職氷河期も、棄民なのであり、今また、政府はその延長上に立って、補償なき休業を命じることで、新たな棄民政策を取っているだけである。

このような政府に対し、国民が自ら下僕になってはいけない。そういうことは、我々が憲法を否定し、時代を逆行させて、再び政府の悪事の片棒を担ごうとする以外の何者でもないことを、いい加減に、理解すべき時である。

各種の外部委託事業の甚だしい劣化は、そのことを示しているだけであって、国民が政府に仕えるのではなく、政府が国民に仕えるという正しい関係性を取り戻すためにも、国民が政府の仕事をいたずらに肩代わりして、その重荷を担ってやることは、やめなければならない。

虐げる者から遠く離れよ、破壊する者から遠く離れよ。――コロナ後を生き延びられる価値を思う――

・コロナ後の世界は「ぼっち」が強みを発揮できる世界

コロナのせいで食べ物屋が軒並み休業し、閉店時間が早まる中でも、筆者はできるだけ、これまで通りの生活を維持することを目指して、夜も開店を続けるユニークな店を探した。

真っ暗となった車道を走ると、道路外にほんのり灯りをともしているだけの小さなお店も目立つ。大型商業施設や、大手チェーン店が閉まっていなかったならば、発見もしなかったであろうお店をいくつか見つけた。

外観はみすぼらしくとも、味もボリュームもも程よく、深夜に、いかつい兄さんたちと並んで、真剣な表情でカウンターについても、珍しがられることはない。家族連れに遠慮する必要もなく、意外な居心地の良さがあった。混雑などするはずもない小さな店舗内に、3密を避けるため、ご協力下さいなどと、手書きの貼り紙があるのも面白い。

そんな風に、お上の自粛要請の中でも、コロナをものともせず、それまで通りの営業を続けているお店を探すと、それはすべて大手ではない、細々とやっている個人経営のようなお店ばかりだった。
 
そこに駆け込んで来る人たちの顔ぶれも、トラックの運ちゃんや、バイトの学生など、大企業でテレワークを命じられて自宅に閉じこもってなどいられない、切迫した環境にある人たちばかりだった。

営業自粛しないことを非難する人がいるかも知れないが、スーパーで買いだめもできず、家にストックをおく場所もなく、家に閉じこもっていることが土台、無理な人たちが、今日を生きるためだけに、そのお店に来ていることを、責めるのは酷であろう。

そうして、暗黙のうちに、地域の助け合いが成立している。お店の人も、むしろ、こんな時だからこそ、元気で明るい。店に来るお客を励まそうと努力し、どんな事情があるのかなど一切構わない。
 
このように、コロナ禍に立ち向かい、自分らしい生活を送り、これを維持する秘訣を、筆者は探した。そうこうしているうちに、政府や、大企業や、大手チェーン店やら、巨大な権力とネームバリューのある組織の意外なほどの脆さと、ネームバリューも権力もない地域密着型の草の根的な商売の強さを知った。
 
テレワークが可能でも、ほとんどの企業は、それだけでは収益を保てない。政府の言うことだけに黙って従っていれば、倒産を避けられない会社も多いはずだ。また、給与が100%補償されたとしても、自宅にこもり続けるサラリーマンは徐々に疲弊して行く。

コロナ禍を生き延びるためには、知恵がいる。そして、コロナを生き延びる知恵は、コロナ禍の中でも、必要なものを、必要としている人々のもとに確実に届ける名もないビジネスの中に見いだされるような気がした。

コロナは、これまでの私たちのワークスタイル、ライフスタイルを津波のごとく押し流し、大きく変えてしまった。今までは、人と群れ、大規模な集団をなし、同じリーダーのもとで、皆と同じ仕事をやり続けることが、安心、安全の秘訣であるかのように思われて来た。

何を評価するにも、とにかく人数、規模、知名度などがまず真っ先にものを言い、一極集中の波に乗ることが、成功の手段であるかのようにみなされた。その一方で、人と群れず、集団を築くことに価値を置かず、皆と同じように振る舞わず、自分で考えて一人で行動する人は、「ぼっち」などと呼ばれ、蔑まれ、のけ者にされ、憂き目を見させられてきた。

だが、コロナが、人々が一ヶ所に集まる行為自体を、危険に変えてしまった後では、価値観が逆転してしまったのである。

コロナは、どこへ行っても、大勢で幅をきかせ、他人を押しのけながら、無遠慮に会話し、我勝ちに幸福を享受していた家族連れのような集団に、大変、迷惑で自己中心な人々というレッテルを貼った。彼らは、今も大人数で行楽地に駆けつけては非難の的となり、大家族で家に閉じ込もり、不自由で窮屈な思いをせよと命じられている。

TVで露出の多かったタレントやアナウンサーにも、コロナは容赦なく襲いかかり、そこでは、知名度も何の助けにもならなかった。

プロテスタントの教会の礼拝も中止され、インターネットに切り替えられた。他国の新興宗教の信者が、危険を冒して礼拝を行ったために、感染を広げたことも、非難の的になった。これまでには、「日曜礼拝を守ることこそ、信者の第一義務!」などと言って、自分を犠牲にし、他の用事もすべて脇に置いて、何が何でも教会に駆けつけていたような信者は、恥を見ただろう。

こうして、大勢の人々が同じ時間帯に、同じ場所に集まり、同じ価値観を共有し、同じリーダーのもと、同じ作業にいそしむことで、集まった人々が特別な恩恵を享受して、そこにいない人々に比べ、有利になれるという幻想は、脆く崩れ去ったのである。
 
かえって、個人として単独で行動している人の方が、比較的安全に、はるかに自由に身動できることが分かってきた。

そのことは、決して感染のリスクの低減だけにとどまらず、あらゆることに当てはまる。コロナは、私たちの生活を塗り替え、昨日まで安定、繁栄の印のように思われていた価値観に、とどめを刺したのである。
 
コロナが明らかにしたのは、自分の頭で考えず、誰か偉い人の命令に従っているだけでは、この先、自分らしく生きることも、望んでいる幸福を手にすることもできず、豊かになることもできない、という結論であった。

そのことは、公共事業や、企業のネームバリューや、過去の成功や威信だけにすがったビジネスモデルが、この先、立ち行かなくなることをも、示しているのではないかと筆者は思う。
 
何もかもがお仕着せの、できあがったビジネスは、規模も大きく、安定しているように見えるかも知れない。だが、それは携わる人に、自分で自由に物事を決める裁量の余地を与えないため、やりがいがないし、発展性もない。

やりがいのない仕事には、やる気のない人たちしか集まって来ないので、必然的に仕事はマンネリ化し、人間関係も腐敗し、成果も出なくなる。自分では何も考えず、給料さえもらえていればそれで良いと、現状維持だけをすべてとし、面倒なことはすべて隣の他人に押しつけて、仕事をサボることこそ美徳と考えるような社員が集まる職場が出て来るのもそのためである。

そのようなビジネスでは、放っておいても、人間関係が極度に悪化して、組織が内側から瓦解して行くから、先がない。
  
そのように、自分では何も考えず、知名度や権力の大きさにすがり、ただ他人の命令に唯々諾々と従うことを是としてきた人々が、今、赤信号で立ち止まるよう命じられ、どこにも行き場がなくなっているのが現在ではないだろうか。

人はもともと、自分の自由裁量の余地がたくさんあって、これから自分が何をするのか、何のためにその仕事をしているのか、誰に教えられずとも、確かに実感できる仕事でなくては、やりがいを感じることができない。

誰に命じられるのでもなく、自分で物事を考えて決める自由を持つことが、人間の生きる力を引き出す最高の秘訣であると、筆者は確信している。
  
しかも、ただ自分のやりたいことだけをやって、自分だけが成功するために生きるのでは、本当のやりがいを見いだせない。自分だけではなく、他者の必要をも満たし、他者の幸福を助けることを目的にしなければ、長期的に成功するビジネスを行うことはできないと、筆者は考えている。
 
今、明らかになっているのは、自分の頭で何をなすべきかを考え、自分で決定することをせず、他人の指示に従って生きて来た人たちが、あたかも成功しているように見えながら、実は最も高いリスクにさらされていることではないだろうか。

信号機の色が青色であるうちは、彼らは意気揚々と進んで行けるが、赤になると、たちまち、どう生きれば良いかも、分からなくなって立ち止まり、閉じ込められた家の中で、家族の間で不毛な喧嘩が始まり、暴力を振るったり、離婚に至ったりする。

もともとしっかりした信頼関係が構築されておらず、都合の良いときの連帯があるだけだったからこそ、狭い家の中で、四六時中、ずっと一緒にいなければならなくなると、早速、人間関係の脆さが露呈するのであろう。ここでも、コロナは、家族という美名の下に、最初からあった人間関係の脆弱性を明らかにしただけである。
 
筆者は、この先、真に伸びしろがあって、人々に必要とされる事業に携わって生きたいと願うため、コロナを耐え抜き、コロナ後も生き延びるビジネスモデルとは何かを考えている。
 
コロナ後に到来する新たな価値観、これを見極めた者が、これからのビジネスにおいて勝利するのだろう。だが、そこには、決して一足飛びに派手な成果をもたらすような法則はなく、キーワードは地道な「草の根」ではないかと筆者は思っている。

昔々、「コンクリートから人へ」などというスローガンが、時の政権によって討ち出されたことがあった。それにもどこか似ているかも知れない。一極集中から地方への拡散、集団中心から個人中心の生活。家でも、職場でも、ひたすらストレスのたまる「3密」ではなく、個が中心となる新たなライフスタイルへの変化が求められているのではないか。

つまり、これまで集団によって隅に追いやられ、発言もできず、存在すらも忘れられてきた「ぼっち」にとっては、最高に強みを発揮できる時代がやって来たということである。


・自分の頭で考え、自分で決めて行動した者が勝つ

筆者の父が、筆者に早く独立するように言い聞かせていたことがあった。何年も前、筆者が様々な職場で見て来た理不尽な光景について、こんな有様は耐えられない、筆者ならばこうするのにと、改善策を語っていた時のことである。

「あなたのアイディアは面白く、経営者から見れば、利用価値があると思われるだろう。そういう観点から、あなたに目をつける人もいるかも知れない。でも、他人にアイディアを利用されるよりは、自分自身で試した方が良い。人生の残り時間は少ない。自分のしたいことを始めるのは、早ければ早いほど良い。」

と父は言った。それから何年過ぎたか分からないが、それと全く同じことを、別な人からも言われた。あなたはここにいても、自分を発揮できないだろうから、早く新しいことをした方が良いと。

だが、例によって筆者は悠長に構え、計画も熟さなかったため、そこにとどまり、以前と同じ問題に突き当たった。筆者は本当に追い詰められて、行き場がなくなり、何が何でも新しいことをせねばならないというエネルギーが極端なまでに高まるまでは、行動に至らないタイプだからである。

そんな筆者にも、ついにそのストレスが頂点に達するような時がやって来た。筆者の生長のスピードと、組織の生長のスピードが合わない。もっと多くの自由を望んでいるのに、変化を拒む硬直した入れ物に閉じ込められる。

大きく成長した魚が、狭い水槽の中に閉じ込められていれば、やがてつらくて仕方がなくなるのは当然である。それでも水槽は、自分たちのサイズは変更できないのだから、自分たちが正しいと言い張る。他方、水槽におさまりきらなくなった魚は、そんなはずはない、悪いのは、自分の成長を阻む水槽の側だと言う。

独立は、そういうせめぎあいが起きた時に、解決のために有効な選択肢の一つである。

とはいえ、筆者はこれまで自由を求めて独立した人の中に、模範となる人を見たことがないため、独立した時の展望を未だはっきりと思い描くことができないし、ただちに明日、独立することが正解だなどと言うつもりもない。

独立した者たちは、一概に、そこに高みがあり、自由があるかのように筆者に言った。だが、筆者の目には、そうは見えなかったのである。

筆者が見て来た経営者らは、筆者の生き方に自由がないと、筆者を気の毒に思っていたようであるが、筆者の目には、実は非常に狭い水槽に閉じ込められているのは、高みにいて、自由に見える彼らの方であるように見えた。

彼らは筆者から見て、極めて孤独であって、助けのない状態に置かれているように見えた。大勢の人々に囲まれているようでありながら、内心ではずっと一人のままなので、変化する機会を奪われている。また、他人を使役するだけでなく、搾取する側に立つことは、それだけで、呪われた所業であるように、筆者には感じられた。

なるほど自分のアイディアを他人に妨げられたり、かすめとられず、存分に生かせる自由があるのは良い。しかし、そこに「女房役」として、共に苦楽を分かち合い、絶えずうるさく口を出し、叱咤激励し、成功を喜び合い、あるいは誉めてくれる誰かがいなければ、その道はあまりにも孤独すぎるのではないだろうか。

自己満足のためだけに、事業を展開できるという人もあるかも知れないが、筆者にはそうは思えなかった。筆者の仕事の成果を、評価し、共に喜んでくれる誰かがいなければ、自分のためだけに、途轍もない苦労を背負って事業を続けられるとは、筆者には思えなかった。

しかも、その「女房役」は、虐げる相手ではなく、対等でなくてはならない。そのような理解者、助け手、共感者がおらず、ただ自分の目標を達成したいためだけに、事業を起こすことは、あまりに孤独で、独りよがりな道で、ほとんど不幸と言っても良い結果に行き着くしかないと思われてならなかった。

だから、自己満足だけを目的に事業を起こすことは意味がない、と筆者は考えている。誰のために、誰を喜ばせるために、新しい事業を始めるのか、そこが肝心なのである。

自分が金儲けしたいからビジネスを興すとか、有名になりたいからそうすると率直に表明し、自己満足だけを目的に、事業を始めた人を非難するつもりはない。筆者自身はそういう生き方はできないが、彼らは嘘をついているわけではない点で、非難されるべきではない。

だが、世の中には、しょせん自分の利益や、自己満足の追求に過ぎない事柄を、他者の利益の追求であるかのように見せかけ、さらには、社会貢献や、人助けを目的とするものであるかのように、美辞麗句を弄する者もいる。そのようなスローガンを掲げることは、非常に罪深い所業であると感じられたので、筆者はしたくなかった。

だから、筆者は、一体、自分はどのような「事業」に携われば、真の満足や達成を得られるのかを考えた。それは決して自分の願望の実現のためだけであってはならず、他人を使役・搾取するものであってもならず、他者に君臨して支配するものであってもいけない。むしろ、ジョージ・ミュラーが信仰により大勢の孤児を養ったように、他者に豊かに与えることが目的でなくてはならない。

さらに、その事業は、自分がこれだけのことをやったと人前に誇るためでなく、右の手がしていることを、左の手に知られないように、こっそりと人を豊かにしていくものでなくてはならない。

筆者は今までそのような事業とは何かを考え続け、未だそのモデルとなるものを発見していないが、それでも、心の内側には、自分の人生は自分で決定したいという強い願いがある。

そのため、いつも「水槽」は、筆者の成長を押し留めることができなくなり、せめぎあいの果てに、亀裂が入り、壁は崩れ落ち、ついに崩壊して、筆者を吐き出さずにはいられなくなった。そして、筆者は釈放された囚人のように、外へ出て行くのが常であった。

魚は、水槽の外に出ては生きられない、と、読者は言うかも知れない。しかし、実は水槽の外にも、海は広がっている。そこで、一つの水槽から出たからと言って、筆者の生存圏が失われ、そこで人生が終わりになるようなことは決してなかった。

そんなわけで、筆者はより広い、妨げられることなく活動できるフィールドを求め、いつかたどり着く自分の事業とは何かを考え続けている。何もかもが、最初から誰か偉い人の裁量によって決められているパッケージ、自分の裁量で物事を決める余地の全くない「水槽」の中で、思考停止状態に陥り、意欲をなくし、自分を閉じ込めた壁を憎みながら、生きて行くことはできない。

筆者は、外見的には、まだ小魚のようであるが、完全に成長を遂げたときのサイズは、とても大きく、強いので、筆者を閉じ込めようとすれば、どんな水槽であっても、結局は崩壊を免れられなくなることを分かっている。

そんな不幸な「事故」が起きるよりも前に、筆者の方からジャンプして、壁を飛び越え、水槽の外へ出るのが最善である。


・後のものが先になり、先のものが後になる時代

今回の記事は、まるで自己啓発本のようなタイトルと内容になったものの、最後に、当ブログの目的である聖書の御言葉に戻っておきたい。

この世において、器用に行動できる人々は、早々と成功を手にして、己の幸福を掴み、不器用な人たちに対して、勝ち誇っているように見えるかも知れない。

弱い人々は隅に追いやられ、声をあげることもできず、望みさえも奪われて、いつまでもずっとそんな苦しい状態が続くように感じられるかもしれない。
 
何事においてもそうだが、全ての物事をじっくりと深く考え、真相を見極めてからでなくては行動できない人々は、なかなか一歩を踏み出せないために、足踏みしながら大勢の人たちに取り残され、器用な人々に比べ、人生を周回遅れで歩いているように感じられるかも知れない。

そういう人には、以下、記事末尾に引用する御言葉を読むことを勧める。

聖書は言う、ノアの時代も、ロトの時代も、人々は飲み、食い、売り、買い、植えたり、建てたり、娶ったり、嫁いだりしながら、めいめい幸福を享受していたと。それだけでなく、彼らはそういう生活が、今日も明日も永遠に続くと思い込んで、自分たちの幸福は揺るがないと、豪語していたのである。ところが、ある日、洪水や、火と硫黄が襲って来て、その生活は一瞬で奪い去られた。

今日も同じである。今まで、飲み、食い、売り、買い、植え、建て、娶ったり、嫁いだりすることこそ、人の生活の中心、幸福の秘訣のごとく考えられて来たが、そう豪語していた人々が、突如、そういう活動の一切を、停止させられたのである。

それを見て気づくべきである。これまで繁栄の秘訣だと思われていた行動が、かえって害と見なされるようになったのは、それがもともと堅固な土台に根差していなかったからだと。早々と幸福を享受しているように見えた人たちも、永続的な土台の上に、自分の人生を打ち立てていなかったのだと。

それが真の価値ではなかったためにこそ、そうした行動は、脆さを露呈しているのであり、それを見て、今まで安楽な生活から切り離されて、除外されていた人々は、考え直すべきだと。

すなわち、真に揺るぎない幸福を掴みたければ、必要なのは、人よりも早く行動して、手っ取り早く成果を手に入れようとすることではなく、真に揺るぎない確かな価値の上に、自分の人生の土台を築くことである。

そうすれば、最初は成長が遅いように見えても、時が経てば、人に比べてはるかに多くの成果を残すことができる。

聖書は、揺るぎない価値は、ただ一人のお方、つまり、まことの神にしかないと示している。多くの人々が価値を置いて、先を争って求めている目に見えるものは、すべて永遠でなく、神に創造された被造物、物質世界の消え行く産物でしかない。

飲み、食い、売り、買い、娶ったり、嫁いだりするという刹那の行動に価値があるわけではなく、永遠に変わることのないお方に価値を置いて、その方に従い、その方に栄光を帰して生活を送るからこそ、人の生活のすべての行動に価値が出て来るのである。

己の幸福、己の満足だけを第一に求めて生きても、その人生には残るものはない。

だから、永続する幸せを手に入れたいと願うならば、まず神の国と神の義を第一として生きることである。そうしていれば、その他のすべてのものは、気づくと、添えて与えられる。

まことの神が、信仰によって生きる義人を、信仰のない人々よりも、貶められた立場に捨て置かれることは決してない。神はご自分の羊を、すべての危機から救い出し、自由と解放に導かれる。

どのような武器も、その人を攻撃するには役に立たず、どんな裁きも、その人を罪に定めることができないように守ると言われる。

その一方で、まことの神に従わないすべての人々は、どれほど富んでいるように見えても、最後には、罪に定められ、恥を被ることになる。

だから、コロナを機に言えることは、これまで述べて来たことと同じである。私たちは、まことの神に従うために、多くの人々に理解されずとも、狭き門を行くべきである。

まことの神などどうでも良いと考え、大勢の人々と共に生きるために広き門をくぐてはならない。正しい選択をなすべきである。

喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
 歓声をあげ、喜び歌え
 産みの苦しみをしたことのない女よ。
 夫に捨てられた女の子供らは
 夫ある女の子供らよりも数多くなると
 主は言われる。

 あなたの天幕に場所を広く取り
  あなたの住まいの幕を広げ
 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。

 あなたは右に左に増え広がり
  あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ
 荒れ果てた町々には再び人が住む。

 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。
 うろたえるな、もはや辱められることはないから。
 若いときの恥を忘れよ。
 やもめのときの屈辱を再び思い出すな。

 あなたの造り主があなたの夫となられる。
 その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
  全地の神と呼ばれる方。

 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように
 主はあなたを呼ばれる。
 若いときの妻を見放せようかと
  あなたの神は言われる。

 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。

 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
  とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
  あなたを贖う主は言われる。

 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。
 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
  あのとき誓い
 今またわたしは誓う
 再びあなたを怒り、責めることはない、と。

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
 しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
  わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
  あなたを憐れむ主は言われる。

 苦しめられ、嵐にもてあそばれ
 慰める者もない都よ
 見よ、わたしはアンチモンを使って
  あなたの石を積む。サファイアであなたの基を固め

 赤めのうであなたの塔を
  エメラルドであなたの門を飾り
 地境に沿って美しい石を連ねる。

 あなたの子らは皆、主について教えを受け
  あなたの子らには平和が豊かにある。
 あなたは恵みの業によって堅く立てられる。

 虐げる者から遠く離れよ
  もはや恐れることはない。
 破壊する者から遠く離れよ
  もはやそれがあなたに近づくことはない。

 見よ、攻め寄せる者があっても
  わたしによらずには何もなしえない。
 攻め寄せる者はあなたの前に倒れる。

 見よ、わたしは職人を創造した。
 彼は炭火をおこし、仕事のために道具を作る。
 わたしは破壊する者も創造してそれを破壊させる。

 どのような武器があなたに対して作られても
 何一つ役に立つことはない。
 裁きの座であなたに対立するすべての舌を
  あなたは罪に定めることができる。
 これが主の僕らの嗣業
 わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。
(イザヤ第54章)


今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のようにすべきです。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編第1編1-3)

(後日付記:この記事を発表した後、我が職場は、社員への休業補償を6割から満額に改めることを発表した。)

昨日の雨が嘘のように、夏のようによく晴れた空の下を車で走った。

いよいよコロナの波が首都圏を本格的に襲い、我が国は、ヨーロッパで起きている悲劇を対岸の火事と見ている場合ではもうなくなった。

ヨーロッパも、ほんの2~3週間前には、今の我が国のような状態だったのだ。

3.11の時が思い出される。その当時、筆者は職場で、パンク状態になった電話回線に一瞬も途切れることなくかかって来る電話への応対にかかりきりだった。個人の力では、何としてもおさめられない大パニック。人々の阿鼻叫喚の叫びの前に、我を忘れて立ち向かったが、それも大海からスプーンで水をすくって捨てるようなむなしい奮闘だった。

ライフラインが止まり、電車もバスも止まっているにも関わらず、上司は毎日のように電話をかけて来て、我々に出勤を命じた。

津波は? 放射能は? 外へ出て良いのか? 政府発表からは聞こえてこない情報に耳を澄まし、もどかしさを覚えつつ、それでも仲間と共有していた危機感から、筆者は勇気を持って職場へ駆けつけた。

だが、事態がほんの少し、回復の兆しを見せると、出勤を命じた上司たちは、ことごとく異動して早々と消え去り、クライアントの会社も、我々の努力に頭を下げることもなく、たちまちもとの傲然とした態度に戻った。

もちろん、賃金が微塵も上がることはなかった。それだけではない。事故については口外しないよう箝口令が敷かれ、非常事態に津波のように襲いかかる苦情に勇敢に立ち向かった社員たちには、より一層厳しい統制が敷かれた。褒賞が与えられるどころか、休むことさえままならなかった。

筆者は幻滅と疲労感だけを手土産に、何とか無難にその職場と別れたが、今でもその頃の光景を思い出すし、あの日、あの時、バスや電車を乗り継いで、無理に無理を重ねながら出勤したのは、正しかったのか、間違いだったのか、と問い返す。もしも津波が、原発事故の影響が、報道よりもさらに重かったなら、あの時、外へ出た我々には、命はなかったかも知れない…。

今も、当時と似たような選択を迫られている。「3密」そのものであり、すべての対策が後手後手に回り、沈みゆく泥船のように、ますます環境が悪くなって行くだけのこの職場に、今日も駆けつけるべきか、否か。

迫りくる破滅を一向に考えず、乗客同士が目先の利益を我先にと争い、互いを押しのけ合い、裏切り合っている泥船のような職場に、今、命の危険を冒してまで、駆けつけるべきなのか、否か。

そこで与えられる幻想に過ぎない利益に、しがみつくべきなのかどうか。

我が職場にいる人々は、未だに昇進、昇格、昇給などの夢に憧れ、それが到達可能であるかのように信じている。権勢を拡大し、人脈を強化し、人々と連帯し、人生を謳歌し、自分の待遇を良くするという希望によすがを見いだしている。

だが、筆者の目には、それらはすべてはかなく消えて行くだけの、幻のような夢に見える。

もはや、コロナの襲来によってそれらの希望はすべて潰えたのに、なぜそのことが分からないのだろうか。それだけでなく、目的に到達するための方法が正しくないから、彼らがそうした目的に至り着くことは絶対にないことも。

己が利潤だけを追求し、それと引き換えに誠実な人々を侮り、嘘をつき、弱者を虐げ、欺きと搾取によって得た富で、享楽をむさぼるような道徳的退廃が、どうして正しい成果をもたらすことがあろうか。

そういう光景はすべて滅びの前兆でしかない。だから、そういう光景を見たならば、そこには期待をかけず、一目散に逃げた方が良い。ところが、残念ながら、我が職場で毎日のように繰り広げられる光景とは、以下のようなものだったのである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日には、同じことが起こる。<略>ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)


そういうわけで、今年に入った頃から、筆者は、職場の人々が飲んだり食べたりしながら繰り広げる享楽的な自慢話に、強烈な違和感を覚えるようになり、それに背を向けて、心の耳を閉じて、遠ざかっていた。

一時期、筆者もそうした人々の仲間入りをしようと試みたことがあった。それは、滅多に職場に来ない上司が、筆者の目を書類から上にあげさせて、彼を見つめさせた時期である。

その上司は、かつて出会った裁判官にもどこかしら似て、善良で、心優しく、へりくだって、高貴な人のように見えた。その人は、まるで主イエスが、筆者の心に語りかけるように、へりくだって、筆者に寄り添い、彼と筆者とは同じ考えを共有していると言って、筆者を勇気づけようとした。

この世の人であったにも関わらず、まるでキリスト者のように、深い霊的な交わりが可能に思われたのである。

だが、しょせん人間は人間に過ぎず、神ではない。そして、神ではないにも関わらず、主イエスがされるように、その人が腰を低くして、筆者の心を自分に向けさせようとした理由が何であるかは、少しずつ分かった。
 
やはり、よく確かめて行くと、その人はグノーシス主義者であった。これまでにも、光の天使のように、善良そうに親切な姿で、筆者に近づいて来る人は、後になって、ことごとくグノーシス主義者であることが判明するのだったが、その人が何より大切なスローガンとして唱えていた協調性も、偽りであった。

協調性とは、グノーシス主義のシンボルである「輪(和)」を指す。それはとどのつまり、本来は二分された相容れないもの、別個のものを統合するための錬金術であり、対極にある概念の統合を指す。もっとはっきり言ってしまえば、協調性とは、盗みである。

考えてみれば分かるはずだ。ふてぶてしい悪党と、お人好しな正直者が、二人で向き合い、協調性を発揮するよう命じられたら、どうなるだろうか。悪党はふてぶてしい態度を貫き、一歩たりとも正直者には歩み寄らない。だが、お人好しな正直者は、心理的圧迫に負けて、次第に譲歩して、悪党に歩み寄らざるを得なくなるだろう。

本来、悪党と正直者の間には、何の共通点もありはしない。ところが、「協調性」なる魔法の言葉を使うと、正直者が悪党に歩み寄らなくてはならなくなってしまうのだ。

聖書には「協調性」なる概念は存在しない。あるのは、むしろ、「二分性」である。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんあ調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿ご偶像にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)
 
こうして、聖書は、絶対に交わってはいけないもの、絶対に相容れないものの間に、しっかりと線を引いて、両者を切り分ける。

ところが、グノーシス主義は、聖書の「二分性」を否定する。そして、様々な美辞麗句を弄しながら、絶対に相容れないはずのものの間に引かれた境界線を巧みにずらして行き、俗なるものを、聖なるものに見せかけ、自他の区別を排し、自分のものでないものを、自分のものと言い、他人のものを横領する。

こうして、盗みを正当化し、美化するために作り出された概念が、「和」であり、「協調性」なのである。その魔法の言葉を使えば、劣った者が、優れた者の性質をただで盗み取り、努力しない人間が、努力する人の成果を盗み取り、聖でない者が、聖なる者から、聖なる性質を盗み取れるようになる。平和の名のもとに行われる侵略、兄弟愛を唱えながらの搾取や支配なども、みなこうした考えから出て来る・・・。究極的には、それは神でない者(悪魔)が、神の性質を盗み取り、神を詐称することを正当化する思想であり、悪魔が作り出した偽りの思想、それが「和」の概念の本質である。

さらに調べてみると、その上司は、もとを辿れば、フリーメイソンにたどり着く団体に属していることが分かった。キリスト者のような深い満足をもたらす霊的交わりが可能であった理由は、そこにあると見られた。

つまり、グノーシス主義者は、ただの人ではない。彼らは、無宗教を装ってはいるが、実際には、肉なる自分自身を神とする宗教に入信し、自分を拝むための儀式に参加しているのと同じである。

彼らは、ある種の礼拝儀式を行っていればこそ、主イエス・キリストを信じて救われた信仰者とよく似て、霊的な力を持っている。だからこそ、筆者とその上司は、互いを見た瞬間に、何か双子のようによく似た者に出会ったような、懐かしさを覚えたし、その人は、筆者の持っている力に気づいたのであろう。

筆者は、その人に何かしら信仰者に似た雰囲気を感じ、その人もまた、筆者の希望が、彼の絶望を打ち負かす力があることに気づいたのだろう。そして、筆者の信仰を利用すれば、すべてを成功に導けると考えたのであろうと思う。

確かに、筆者には、自分が心を込めて面倒を見ているすべてを生かす力がある。それは筆者の力ではなく、筆者の信仰を通じて働くキリストの復活の命の力である。

筆者は、キリストの復活の命を流し出すためのパイプラインを建設中であり、その命の水を流し出せば、その圏内に入れられたものはすべて生きる。

だが、筆者は、その上司の信じている教えの偽りなることが分かってから、その教えを心の外へ追いやり、命の水を流し出すパイプラインの元栓をひねり、水の流れを止めた。

彼は筆者の心をこの世の事柄に向けさせて、それを受け入れさせようとした。目に見える人々との交流、協力、連帯を打ち立て、肉なる力によって建て上げるレンガの塔の建設に関わり、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを語り続けるむなしい会話を受け入れ、人助けに邁進するようにと…。

そうして、ヒューマニズムの名のもとに、神から与えられた筆者の持てる力を、徐々にそれに値しない者のために盗み取って行こうとしたのである。そのことに気づいてから、筆者は光の天使のようなその人の美しい像から目を背け、再び、無味乾燥な書類に目を落とした。むなしい会話に耳を塞ぎ、滅びゆく目に見えるもの全てを視界から遠ざけた。

神でないその人が、筆者が彼の像を拝まなくなったことに、腹を立てたのかどうか知らない。やがて、したたかな反撃がやって来た。筆者が人々の自慢話に耳を塞ぎ、レンガの塔を建て上げる作業から手を引こうとすると、人々の怒りが、襲いかかった。
 
そうした事態に直面して、改めて筆者は思った、やはり、労働とは人が自力で罪を贖うためのレンガの塔の建設であり、神への反逆としての自己救済なのだと。どんなことをしても、その労働を美化することはできない上に、牧師であろうと、弁護士であろうと、裁判官であろうと、どんな立派な教師であろうと、職場の上司であろうと、誰も神ではないから、信頼などできはしないと。

神でないものを神のように信頼しようとすると、したたかな報復を受けるだけなのだ。

だが、主は確かに筆者の信仰を知っておられ、筆者が窮地に立たされる前に、コロナ禍が襲って来て、筆者を圧迫していたすべての原因を取り去った。公判は止まり、上司は職場から逃げ去り、職場の人々も、筆者の前で、自慢話を繰り広げようにも、もはや会話することも、互いに近づくことさえ危険となった。

そればかりか、一般市民が、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりすることさえ、後ろめたいことのようにみなされる時代となったのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。」(1コリント7:29-30)

ある意味で、コロナがもたらしたこの市民生活の変化の中には、筆者にとって、ありがたい解放のように受け止められる側面があった。なぜなら、これまでのように、職場で終わりなく繰り広げられていた人々の享楽的な自慢話や、当たり前のように他人を押しのけて道を歩く赤ん坊連れの親子や、レストランの座席を占める大勢の家族連れなどの姿を目にしなくて済むようになったからである。

光の天使のように美しく見えた上司も、筆者がこの職場の理念の偽りに気づき、上司を信頼することをやめ、パイプラインを自ら断絶し、命の水が流れ出ないようにしたことが分かると、すべてを部下に任せて、職場から逃げ去った。

筆者の信頼が失われたことが分かるや否や、筆者を置いて逃げ去って行ったのである。そればかりか、死ねとばかりに、残る社員に出勤を命じ、休業させるにしても、路頭に迷えとばかりに、いきなり給与を減じた。

やっぱり、そうだったかと、それを見て、筆者は心の中で頷いた。すべてが順調に行っているときには、あんなにも謙遜で、親し気で、人情味に溢れていたように見えた人物であり、とてもではないが、他人に苦しみをもたらすような所業に手を染めるとは思えない人物であった。ところが、その美しい外見、善良でへりくだったように見える態度、優しい物腰と言葉、ヒューマニズムは、すべて見せかけでしかなかったのだ・・・。

これがグノーシス主義者の本質である。見かけは非常に崇高で、高潔に見えるが、内実がない。口では大言壮語し、美辞麗句を語るが、試されると、逃げることしかできない。最も危機的な時に、そばにいて助けてくれない存在に、何の価値があろうか。無責任に、部下たちを危険の中に放り捨てて行くような上司の命令にしがみついて、生き延びられるはずがない。

それは神ではなく、死神と呼ぶべき存在であり、普段から虐げと搾取を繰り返していればこそ、危機にあって、残酷な本性が現れるだけだ。

だが、このように大胆な非難の言葉を発している筆者も、まことの羊飼いは、羊のために命を捨てるという聖書のフレーズを知らなければ、危険の中に部下を置き去りにしていく上司の態度が、残酷で無責任だということにさえ、気づかなったかも知れない。

悪魔は、盗んだり、滅ぼしたり、殺したりするために来る。だが、私たちのまことの羊飼いである主人は、私たちに命を与え、しかも、豊かに与えるために来られる。

私たちキリスト者は、自分を生かすことのできる本当の主人を知っている。だからこそ、何が偽りであるかを見分けることができるのだ。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

わたしは負い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は、羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられr、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:9-15)

そこで、筆者は、この火急の時に、この世の富にしがみつき、それによって焼け太りする人々がいても、むなしい利益はもう見たくないと、そこから目を背ける。沈みゆく泥船に背を向け、死出の旅路に他ならない片道切符を払い戻し、ソドムを後にしようと決意した。

幸いなるかな、神に逆らう者たちのはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者と共に座らなかったその人。主はその人を緑の牧場に伏させ、豊かな牧草を与え、決して乏しくなることがないよう、取り計らって下さる・・・。
 
だから、誠実な人間を騙し、嘲り、不法と、虐げを重ねて、富を積み上げる罪人の集会にはもう属すまい。

このような言葉で、自分のいた職場を形容せざるを得ないとは、情けないことではあるが、気づくと、そこはすっかり沈みゆく泥船としか言いようのない状態に陥っていたのである。

コロナ禍の襲来がなければ、そのことに今も気づかなったかも知れない。この災いが、物事の真相がよりはっきりと見えるよう、助けてくれたのである。

ただある団体や、理念が異常というにはとどまらず、このような生き方、働き方には先がないということを示してくれた。

それは教会も会社も同じである。一人の指導者のもと、一つの場所に、多くの人々が詰めかけ、同じ時間に、同じ理念、同じ活動を共有し、同じ社員証を身に着け、あたかも、その一人の指導者を礼拝して、そこから命の保障を得ようとするかのように、行動を同じくし、他人に自分の命を預ける生き方が、終わりに来ているのだと…。

そのようなむなしい目に見えるものに、命の保障を見いだそうとする生き方が、破綻したのだと。

そうである以上、見かけ倒しの空虚な美と、呪われたむなしい利益には、もう心を奪われたくない。

そこで、目先の利得に振り回される人が、自分の命も、周囲の人々の命もかえりみず、ただ賃金と地位を得るためだけに、今も我先にと死の中へ率先して突撃して行くような働き方には背を向けて、鳥が飛び立つように、ソドムを逃げ去ることを決めた…。

そうして、筆者はまたしても、御国の利益のための書類作成にとりかかることにして、この記事を書く時間を確保している。
 
今、このような危機的な時代にあって、私たちが、真っ先に考えねばならないのは、神に背かず、良心を捨てず、御言葉に従って、残りの人生をどのように守り、人間らしい尊厳を保って生きるか、ということではないだろうか。

外面の美や、地位や肩書や俸給を保つことではなく、自分たちの内面の美を、良心を、人格を、真に高潔で品性ある人格を、どのように保てるかということではないだろうか。

改めて次の御言葉を思う。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
自分の命を救おうとする者は、それを失うとある。筆者は、自分の利益でなく、天の利益を第一として生きたい。

だから、心から祈ろう、我が神よ、私にはこれ以上、偽りの指導者に従ったり、偽りの理想に基づく、むなしい、実りのない生き方はできません。けれども、あなたは私を今日まで助け、守って下さいました。あなたはこれからもただ一人、私を守り、導くことのできる方です。ですから、あなたは必ず、私が次になすべき働きを与えて下さるでしょう。私の誇りはあなたであり、私はあなたを知っていることを幸いに思います。あなたは私の羊飼い、ただ一人のまことの羊飼い、あなたは私をお見捨てにはなりません…。

こうして、一つの街を通り過ぎ、天の都エルサレムへ向かって、筆者の旅路は続く。何度目だろうか、こうして腐敗したレンガの塔の倒壊を見させられるのは。だが、少しずつ、少しずつではあるが、偽りは後退し、あんなにも隆盛を極め、驕り高ぶっているように見えたバビロンにも、己が富を誇る力が失せつつある。確かに、バビロンには、滅びが近いらしい。その高笑いは聞かれなくなり、自慢話は封じられ、美しかった屋根瓦は、一つ一つ剥がれて、崩れ落ちて来ている。

他方、イサクを連れたサラは、まだまだ取るに足りない、か弱い存在であるが、少しずつ、少しずつ、尊厳を身に着け、信仰が力強くなり、勇気を増し加えている。

権勢によらず、能力にょらず、主の霊によって、見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからだ。

いつの日か、偽りの都バビロンは倒壊し、聖なる都である天のエルサレムが、着飾った花嫁として、真の尊厳と美を身にまとって現れる日が来る。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ、
 その罪に加わったり、
 その禍に巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。
 彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、
 その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ。

 彼女は心の中でこう言っているからである。
 『わたしは、女王の座に着いており、
 やもめなどではない。
 決して悲しい目に遭いはしない。』
 それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる。
 彼女を裁く神は、力ある主だからである。」(黙示18:4-8)

神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

毎年、2、3月は、筆者が静かに冬眠させてもらいたいと切に願う季節だ。一体、なぜ大人の社会には、春休みというものがないのか。

筆者のような人間は、この時期、ひたすら家に閉じこもり、世間に顔を出さずに、布団でもかぶっているのが無難である。これは筆者が若い時分から、一年で最も気力が衰える時期であり、そのエネルギー枯渇の習慣は、全く変わらない。

2月には、絶望的な気分がどっと押し寄せ、すべてが嫌になり、活動意欲がゼロに近くなる。3月には、ただ生き永らえるだけで精一杯となる。春にたどり着く直前に、新年度の戸口に手をかけたまま、ばったり倒れてそこでお終いになってしまわないために、かろうじて生きているとしか言えない状態になる。

それにも関わらず、社会は立ち止まってはくれない。そこで、筆者は起きて来る出来事に対処する能力がなくなり、うつ状態にも近い絶望的な気分で、やっとのことで春にたどり着く。

今年も例年にならって、この時期に、未だかつてない悪い出来事が連続して起きた。筆者はそれに対処する気力もなく、絶望的な気分で、信頼していた人々の助けさえも拒んで、自らより一層の絶望的な窮地に立った。

それと同時に、なぜか世界にも、コロナウィルスという未曾有の災難が押し寄せた。しかし、もともと何もなくとも、たとえようなく陰鬱な気分になる季節だけに、世界的な災禍も、筆者にとっては大した出来事には感じられなかった。

とにかく、生きて行かねばならない。何が起きようと、歩みを止めるわけにはいかない。あらゆる災禍に立ち向かうしかない。自分の痛みと疲労に無感覚になってでも、日々、新たな一歩を踏み出すしかない。
 
ところが、3月になると、信仰による新たな友・協力者も現れて、筆者の回復のために祈ってくれた。そこで、桜の咲く頃には、絶望的な気分も振り払い、3月最後の雪の降る寒い日曜日には、筆者はすべての災難に自ら立ち向かって、これを打ち破って生きる気力をほとんど完全に回復した。

今もみぞれまじりの冷たい雨が外では降っているが、筆者は全く天候に左右されず、果たさねばならない仕事を果たした。
  
祈りの力は大きかった。ただ単に暖かくなって、活動意欲が回復したというだけにはとどまらない。長年に渡り、失われた人生を取り戻すための、内なる大いなる力が回復してきたのである。

地中深く蒔かれた種も、春が来れば、その気配を察知して、固い殻を破って発芽する。そのように、神がお与え下さった筆者の命に込められた回復の力が、自然と効力を発揮し、ただ生きるために生きるといった次元ではなく、心身の深いところで、どのように生きたいのかという願いが、何かを成し遂げるための力が湧いて来たのである。

筆者が頼るのは、人でも、状況でもない。主なる神ご自身である。筆者がどんなに愛する人間も、肉なる弱い人間に過ぎず、筆者を助けたり、支えたりする力はない。もしも人に助けを求めれば、共倒れに終わるだけである。

だから、筆者は人ではなく、神に助けを求める。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

いつ御前に出て
 神の御顔を仰ぐことができるのか。

昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。

わたしは魂を注ぎだし、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。

わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの血から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く。

昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。
(詩編42:1-9)

かつて筆者が嵐のような苦難の中で、主に見え、十字架のキリストを知った日のことを思い出す。多くの友が、神が力強い御腕を持って、筆者を窮地から救い出して下さったことに、快哉を叫んだその時のことを。

苦難や試練や孤独は、何と人の心を神に向けさせるのに好都合であろうか。もしも孤独がなかったなら、苦難がなかったなら、どうして筆者が真剣に神を呼び求めることなど起きようか。

だから、何が起きようと、落胆する必要などなく、すべてのことに感謝し、すべてのきっかけを主なる神に心を向けるために使うべきなのである。

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。

わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。

もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
(詩編51:12-19)

静かな平安が心に満ち、暗闇の中で目を凝らせば、すべての問題に対する解決が、もうすぐそこにあり、手の届くところに、おぼろげに見えているのが分かる。それは人の耳にはとらえがたい霊の歌のようである。人の思いをはるかに超えて、主の静けさ、平安の中に住み、主からすべての物事の解決を受けなさい。

心静まっていると、カルバリの十字架において取られた勝利が、筆者の人生に適用されるのが分かる。主が血潮を適用して下さる。あなたの人生のすべての問題に対し、主ご自身が解決となって下さる。主は災いの日に、ご自分の僕たちが、損失を被ることがないよう、一人一人、印をつけるように見つけ出し、助け出して下さる。だから、恐れることは何もない。

キリストは、へりくだった方であり、私たちを苦難から助け出すことを、まるでこの上ない光栄のように考えて下さる。私たちの心の渇きを、慰めによって満たして下さり、すべての問題に対し、解決となって下さり、心を煩わせないようにと言われる。

だから、私たちは静かに主の助けを待つべきである。主の霊は、私たちのために給仕する姿を取り、僕のようにへりくだって仕えて下さる。その謙遜を知るとき、私たちの心は一層、砕かれて柔らかになり、慰めを得る。

そして、心の深いところから、霊のうめきのように、賛美と感謝の歌が流れだす。

私の魂よ、神を待ち望みなさい。大いなる方を。地上の何ものでもなく、ただお一人の神を、その清い、尊い霊を真直ぐに待ち望みなさい。主は必ず、あなたの呼び声に応えて、あなたのもとに来て下さり、あなたを満たして下さる。主は遅れることはないし、あなたを見捨てられない。

だから、私の魂は、主に向かって、感謝と勝利の歌を歌う。そして、私の愛する方は、地上の何者でもなく、天に住まわれるただお一人の神であると告白する。たとえ全地のすべてのものが、これを否定し、嘲ったとしても、私は疑わない、主が私のために勝利を取られたこと、そして、私を生きている限り、守り、支えて下さることを…。

そういうわけで、この先も様々な苦難に対し、勇気を持って、立ち向かって生きて行かねばならないが、主が筆者の勇気となり、力となって下さると信じられるため、筆者には、恐れることは何もない。