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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち開けなさい。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち開けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
(フィリピの信徒への手紙4:6-7)

* * *
 
ここ数日間、書き溜めていた話題についてざっと記しておきたい。

当ブログでは、国の業務委託・受託業務が腐敗の温床になっていることは今までにも幾度も指摘してきたが、またすごいニュースが出て来た。

経済産業省が実体のない幽霊法人に等しい「サービスデザイン推進協議会」なる一般社団法人に持続化給付金の給付事業を丸投げし、この法人が事業のほぼ全部を電通に再委託し、さらに電通がパソナ、トランスコスモスに再々委託していた件だ。

中抜きのための再委託だと批判を浴びているだけでなく、この一般社団法人の設立そのものに経産省が関わっていたのではないかと言われている。

文春がかなり突っ込んだ取材をして、はっきりと経産省が幽霊法人の設立に関わっていたことを認めた。

持続化給付金問題 “幽霊法人”が経産省最高幹部の部署から1300億円超を受注
  週刊文春 2020年6月11日号

 持続化給付金事業を実体のない“幽霊法人”が受注していた問題で、この法人が設立からこれまで、経済産業省の最高幹部が在籍している部署から累計1300億円を超える発注を受けていたことが、「週刊文春」の取材でわかった。

 今回、769億円で持続化給付金事業を受注した「一般社団法人サービスデザイン推進協議会(以下、サービス協議会)」は2016年に設立された。サービス協議会を実質的に運営していたのは、電通社員(当時)のA氏で、名目上のトップだった代表理事(当時)は「経産省の方から立ち上げの直前に代表理事を受けてもらえないかという話があって、それで受けた」と証言するなど、経産省が設立に関与していた。この時、経産省は肝いりで始めた「おもてなし規格認証」事業の公募を開始。不可解なことにサービス協議会が設立されたのは、公募開始日と同じ日だった。

 2カ月後の2016年7月、従業員4人のサービス協議会は4680万円で、この事業を落札。さらに、2017年度にはサービス等生産性向上IT導入支援事業費補助金を約100億円で、サービス等生産性向上IT導入支援事業費を約500億円で落札。これらの三事業はいずれも、経産省の商務情報政策局が所管しており、当時、同局を担当する大臣官房審議官を務めていたのが前田泰宏氏だった。

 現在前田氏は経産省中小企業庁の長官を務めているが、今回の持続化給付金を所管するのは中小企業庁だ。サービス協議会は、持続化給付金事業(769億円)を含めて、設立以来4年で1576億円を経産省から受注しているが、そのうち少なくとも1300億円以上、率にして8割以上が、前田氏が幹部を務める部署からの受注だった。

「前田氏は、東大法学部卒で、持続化給付金の仕組みを作った人物。若い頃はベンチャー企業の人と合コンを開くなど、幅広い人脈を誇る」(永田町関係者)

この前田氏の広い人脈の中にいたのが、A氏だった。電通関係者によれば、A氏は、「電通では町おこしに寄与する企画を担当していた。官公庁にも関係するので、よく足を運んでいましたね。A氏は前田氏とも一緒に食事に行くなどして、食い込んでいくスタイルでした」

 (後略)


 


* * *

まさに政府と一民間事業者に過ぎない電通とのズブズブの関係を思わせる記述だが、電通が今年初の808億円もの赤字を出していた事実も見逃せない。

電通初の赤字転落! 大手各紙は「忖度」なく報道したか? ネット上では「解体すべし」の批判が殺到
(JCAST会社ウォッチ 2020年02月14日11時45分)

ネットでは「解体」が叫ばれていた電通。コロナで淘汰されるべき「ゾンビ企業」とは、まさに電通のことだったのではないか。だが、ゾンビだけに冥土へ旅立つことを拒否し、正攻法ではおよそ考えつかないようなやり方で、娑婆にしがみついたと見える。

ところで、今回、電通のトンネル法人と呼ばれた幽霊法人が持続化給付金事業を受注した金額が769億円だった。808億円の赤字と合わせると、まるで示し合わせたような金額にも思える。

トラブル続出 コロナ「持続化給付金」を769億円で受注したのは“幽霊法人"だった
(「週刊文春」編集部  2020/05/27 週刊文春 2020年6月4日号)
 
しかし、今回、経産省で起きたのと類似の出来事は、他省の委託事業でも起きている。

厚労省によるアベノマスク調達のための事業者との不透明な随意契約も、ネット上では大いに問題になった。アベノマスクは、安倍政権の支持率低下の最も主要な原因になったとも言われている。これほど国民に不評だった施策もないだろう。

そもそも首相の鶴の一声で、日本の全戸にマスクを配るなどといった事業が思いつきのごとく発案され、誰からの批判を浴びることもなく、会議にかけられることもなく、即座に実行されて良いのか。

なぜこの発案を止める者は誰もいなかったのか。しかも、市場にマスクが最も不足して高値になっているその瞬間を狙って、政府が民間事業者と組んで、国民の危難を投機的な商売に利用するようなことがあってよいのか。

しかも、その機に乗じて、実績もない無名の会社が、不透明なプロセスで政府に食い込み、随意契約を結んだ事実が知れ渡れば、それは癒着による選択だったのだろうと憶測を呼ぶのは仕方がない。

政府の委託事業がハイエナのような企業に食い物にされ、政府自らがそれを分かって特定の企業と癒着しているのではないか・・・。

昨年には、以下のような驚愕のニュースもあった。

シベリア抑留戦没者の遺骨 「すべて日本人ではない」」
(NHK 2019年7月29日)

抑留者遺骨「日本人でない」=シベリアで収集、公表せず-厚労省
(時事ドットコム 2019年07月29日23時19分)

もちろん、これらはすべて外部委託事業の結果なのだが、その事実はあまり注目されていない。

上記の記事では、厚労省がシベリア抑留者のものとされた遺骨の大半が、日本人のものでないと、長年、知りながら、これを認めず、公表もして来なかった隠ぺい体質が非難されているが、実は、政府が遺骨収集事業をほとんど民間企業に丸投げし、考えられないほどの低価格で外部委託して来たために、その当然の結果として、以上のような問題が起きて来たことは、検証もされていない。

シベリアだけでなく、何年も前にフィリピンでも日本人のものでない遺骨が混入しているとのスキャンダルが持ち上がった。その際に、現地の委託業者が、出来高制のようにして遺骨を収集したために混入が起きたと騒がれたはずなのに、政府はその時から今に至るまで、外部委託が抱える問題に対し、何ら対策も反省も行っていない。

そもそも戦後処理を外部委託するという発想自体がどうなのだろうか。政府は大規模プロジェクトを立ち上げ、それに予算をつけはするが、計画の詳細を、自分たちでは考えようともせず、ほとんど青写真さえもないまま、民間企業に丸投げする。

委託された民間企業は大急ぎで計画書を作り、素人に毛が生えたような「専門家集団」をかき集めて来ては、通訳やら調査団やらを作り上げ、会議に会議を重ね、どうやって「事業」を成り立たせ、成果を出すかを話し合う。

しかし、もともとその筋の専門家ではない人々がかき集められて来ている上、鉄のカーテンの向こう側の、歴史家や政治学者でさえ知識の及ばない領域にメスを入れ、肉親や親族でさえ探し出せなかった人々を探索しようというのだから、短期間で大々的な「成果」など叩き出せるはずもない。その上、委託業者も、さらに外注の通訳などに、眩暈がするほどの薄給で、名簿の翻訳やら診断書の翻訳やらを任せる。

こうして、再々委託という名でさえ呼べないような多重ピラミッド委託構造が出来上がり、現場では、考えられないほどの低賃金で人々がこき使われることになる。もちろん、そのような低賃金で人をこき使うような企業が、まっとうな団体のはずもないし、それでまっとうな成果が出る方がおかしい。

政府の事業だから巨額の予算がついているから安泰かと思いきや、ふたを開けてみれば、その実体は、単なるブラック企業による搾取もしくは委託費の持ち逃げのようなことになる。もちろん、そんな薄利の事業を受注しようという企業も、そうそうたくさんあるはずがないので、当然ながら、何らかのコネやツテがあってそうなっている。

このように、政府の事業と言いながら、実際には、薄利のビジネスが、多重中間搾取のピラミッド構造の中で推し進められ、事業は下から浸食され、徐々に土台から溶解して行く。ろくに中身も考えずに作り出されたイリュージョンのような事業は、その実行のプロセスも、成果もイリュージョンとして消える。

だが、幻のような計画に、税金だけが、リアルに投入され、労働者も、リアルに搾取され、苦しめられる。

一体、こういう委託事業とは何なのだろうか。そして、日本人のものでないと鑑定された遺骨はどこへ行くのだろうか。ただでさえ厚労省には、身元不明で引き取り手もない「無縁仏」の遺骨がうず高く積まれているが、またしてもそれが増えることになるのか。

「間違ってました」では済まされない。一体、その遺骨はどうするつもりなのか。まさか返すというのだろうか。話も聞かれないのが不気味である。

* * *

だが、こうして、政府の事業の外部委託の弊害を告げるニュースが、少しずつ明るみに出されるようになったのは、歓迎すべきことである。これまでは当然とみなされて見過ごされて来たコネや癒着による委託にも、批判が集まるようになった。

それもコロナの果たした正の役割ではないだろうかと思う。コロナウィルスの蔓延に伴い、これまでのように、顔と顔を合わせたおつきあいが撲滅されつつある。お友達の間柄ならば、どんなことでも許されるというなあなあの雰囲気が、駆逐されようとしているのだ。

癒着の上に成り立つ「ムラ社会」の掟が崩れようとしているのが今だ。こんな記事もある。

コロナ禍を経て、「飲みニケーション」はいよいよ絶滅する?」
(日経ビジネス 上野 泰也 みずほ証券チーフMエコノミスト 2020年6月2日 )

飲みニケーションなどといった時代の遺物は、早くなくなった方が良い。さらに、次のニュースも歓迎されるべきだ。

 「コロナ不安で休み」欠席にせず 出席停止扱い可能に―文科省
(時事ドットコムニュース 2020年06月01日20時32分)
 
改めて、コロナ禍の中、遅刻も欠勤も早退も許そうとしなかった時代錯誤な我が職場への怒りがふつふつとこみあげて来る。

ただし、次の記事を読むと、おやと思った。

加藤厚労相、休業の妊婦に有休を 4閣僚、労使団体と会議
(2020年06月01日19時15分)

確か当初、政府は妊婦のために、直接受け取れる給付金を創設すると言っていなかったか。だが、この記事の中では、あくまで事業主に賃金の満額を支払うよう促しているだけだ。

加藤勝信厚生労働相は1日、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い休業を余儀なくされた妊婦について「休みやすい環境づくりに協力をお願いしたい」と述べ、有給休暇の取得を促すよう企業経営者らに求めた。関係4閣僚と労使団体トップとのテレビ会議で語った。
  政府は妊婦に関し、医師や助産師の指導があった場合、休業や在宅勤務などの措置を取るよう事業主に義務付けている。



政府による給付金の創設が、なぜか事業者への「お願い」に変わった。随分、トーンダウンしたものだ。この記事を読む限り、政府は妊婦への休業給付金の創設を断念したのではないかと思える。

だが、筆者はきっとそうなるだろうと思っていたので、いささかほっとした。

妊婦が産休中に受け取れるお金は、出産一時金など、賃金以外にもある。自治体によっては、他の支援もあるだろうし、産休が有給であるか無給であるかも、事業主によって異なる。

事業主から労働者に給与が支払われているかどうかを確認できるのは、ハローワークだけである。給与の支払いや、出産一時金の支払いがないかどうかを確認もしないまま、政府が妊婦に直接、給付を行うと、重複した給付が行われることになりかねない。

さらに、コロナが蔓延する前に産休に入った妊婦からは、当然ながら、差別だと非難の嵐となるだろう。

だから、もしも妊婦のための休業補償を政府が用意するならば、コロナウィルスに伴う一時的な措置としてではなく、給付金の創設を目指すべきでもなく、恒久的な措置として、産休を有給休暇として企業に賃金の支払いを義務付けるべきなのだ。そうすれば、我が国の少子化にも少しは歯止めがかかる。国の復興に役立つ。

だが、この国はきっとそれができるほど社会の意識が進んではいまい。

さらに、同じ問題が、妊婦への休業給付だけでなく、休業者に対する給付金の創設案についてもそっくり当てはまる。

次の記事などは、当然に予測された問題であると言えよう。

「新しい給付金もらって」 休業手当、会社が不払い宣告
(朝日新聞DIGITAL 榊原謙、滝沢卓 2020年6月3日 6時00分)

事業主が賃金の支払いを届出るのはハローワークであるから、休業者への休業補償は、本来、政府による新たな給付金制度の創設ではなく、「みなし失業」として、ハローワークで扱う雇用保険の枠組みの中で行うのが最も安全である。

その上で、失業者に対する給付と休業者に対する給付を同水準に引き上げるのが、最も安全で失敗のない方法である。

給付金制度が出来てしまえば、当然ながら、事業主は、休業手当を支払わなくなる。法定の6割すらも払わなくなるだろうし、まるで厚労省が、休業手当を支払わないことを後押ししているような恰好になる。

さらに、場合によっては、賃金をもらっていても、給付金を申請し、二重取りを狙う人たちも出て来よう。そんなに多くの厄介な問題があるのに、政府はあくまで給付金制度にこだわるつもりなのだろうか。なぜ厚労省傘下のハローワークを活用しないのか。失業者と差をつけようとするのか。非常に理解に苦しむ話である。

だが、今はその話からは離れよう。

* * *

黒川問題は長引くだろうと筆者は書いた。違法な閣議決定、そして、賭けマージャンをしておきながら、訓告+約7千万近い退職金をもらっての自己都合退職では、誰も納得できまい。

案の上、未だに後追い記事が出て来る。

「“国会より麻雀”だった「黒川弘務」前検事長 雀卓での素顔
(デイリー新潮  週刊新潮 2020年6月4日号掲載)

万難を排して賭け麻雀に駆けつけていたそうだ。

さらに、古賀重明氏の説明は分かりやすい。

「黒川検事長の任命権は内閣にある」、従って、処分を決められるのも内閣以外にはないのだ。黒川氏の処分を決めたのが、内閣なのか、それとも法相なのかという議論にこだわること自体が、無駄なのだと分かる。

また、退職金がゼロで当然の理由も書かれている。

 「古賀茂明「黒川氏処分の“真犯人”は内閣の証拠」
(AERA.dot  連載「政官財の罪と罰」2020.6.2 07:00 )
 から抜粋

まず、国家公務員法84条には、「懲戒処分は、任命権者が、これを行う」と書いてある。処分権限は任命権者にあるという意味だ。次に、検察庁法15条には、「検事総長、次長検事及び各検事長……の任免は、内閣が行い」と書いてある。「黒川検事長の任命権は内閣にある」という意味になる。  

この二つの条文を合わせると、黒川検事長に国公法上の懲戒処分をできるのは、黒川氏の任命権者である「内閣」しかないということになる。もちろん、内閣の代表は安倍晋三総理だ。 <中略>


ちなみに、マスコミの報道でもう一つ注意したいのは、黒川氏の行為が該当すると思われる「常習とばく」の場合の懲戒処分は、「停職」であるという解説だ。これは、人事院の「懲戒処分の指針」の「標準例」によるものだが、実は、その「指針」の中には、標準例より重くする可能性のある例として、「職責が特に高いとき」や「公務内外に及ぼす影響が特に大きい」場合を挙げている。黒川氏は検察ナンバー2で極めて高い地位にあり、また、今回の行為による検察への国民の信頼の失墜という影響は特大級だ。これら2点を勘案すれば、標準例の「停職」よりも一段厳しい処分、すなわち、「免職」にするのが常識的判断だろう。

 その場合、退職金はゼロとなる。




* * *


ここから先は、蛇足になるが、筆者の話である。
 
前にも書いた通り、不当に軽い処分の陰には、不当に重い処分がある。処罰されるべき政治的大物が見逃され、優遇される陰で、どれほどの弱い人々が不当に泣かされて来ただろうか。

上記の出来事は、我が職場における出来事に重なるため、筆者の注意を引いている。

筆者はこうした出来事に耐えられず、何とかして、正義を実現するために力を尽くしたい、というやるせない思いが込み上げてならず、そこで、筆者の周りにいる「悪党ども」の悪事について調べていた。

ふと気づくと、我が職場の上司が、いつの間にか「俳優のような」写真を「トンデモ」写真に差し替えていた。

それを見て、筆者は思わずふき出した。

悪党の生き方は必ず顔に出るから、自然な笑顔ができなくなると筆者が非難したことを知ってか知らずか、今度は笑顔もない写真になっていた。そして、いつの間にか、筆者が作成に反対したプロモーションビデオも、取り下げられていた。

もちろん、トップが筆者の意見を知っているのかどうかは不明だ。

だが、このトップは、これまでにも筆者の意表を突くのが実にうまかった。まるで泣いている子供を、親がひょいと抱き上げて、広い景色を見せてあやし、笑わせるように、筆者のあらゆる苦悩と非難を、こともなげに交わしてしまうのである。

それは決して非難の声に押されて退却したというわけではない。

筆者のごとき若輩者の言い分に負けて譲歩するのか?

そう思われることを全く気にしていないのだ。

自分が侮られることや、人になめられること、見下げられることに、全く平気なのである。
 
まるでこう言われているようだ。

「もともとビデオも、写真も、自己アピールのために作ったのではないから、あなたに不評なら、廃棄しても構わないのです。人に美しく見られたいなどとは、もとより思ってもいないから、自分の姿が他人にどう映るかなど、どうでも良いんですよ。

だから、もしあなたが反対するなら、すべて撤去しても構わない。あなたが、しかつめらしい、もっと不細工な写真の方がいいというなら、それに取り替えましょう。もっとひどい写真をご所望なら、それも引っ張り出して来ましょう。

二度とビデオを撮るな、二度と姿を現すな、事業所を放棄し、東京になど進出するな、この地球から消えうせろと言うなら、そうしても構わないんですよ。

ただし、その前に、私にも質問させて下さい。

一体、あなたは私がどうあれば、満足するんですか?

私に注文があるなら、いくらでも私はそのすべてのリクエストに応じましょう。でも、それだけで終わらず、あなたは、あなたの本心を正直に言ってくれなくちゃいけませんよ。言って下さい、あなたは何が望みなんですか?」

まるで、そう問われているようにさえ感じられる。
 
これだから、いつも拍子抜けさせられるのだ。非難に対して非難で返さず、侮られたからと言って、虚勢を張るわけでもない。注文をつけても、さらにリクエストを出すよう求められる。

どんなに非難を受けても、窮地に追い詰められるということがないのだ。

筆者がどんなに懸命に物事を訴えても、さらりとそれをかわすようにして、想像を超えた答えが出て来る。

「私は組織を誇るつもりもないし、立派なオフィスにしがみついているわけでもないし、権力、名声、知名度を上げるために、仕事をしているわけでもない。
 あなたは私がケチで、自分の栄光を捨てられず、搾取が目的であなたに近づいたと言いますが、そういう批判を浴びるなら、私はこの世の財産、富、人の歓心や注目、そんなものはどうでもいいものとして投げ捨てましょう。

もしあなたが非難するなら、そんなものは本当にすべて捨ててもいいんですよ。そういうものは、すべて過ぎ行くものでしかなく、どんなに富を溜め込んだところで、この世は栄光盛衰、そこに何一つ確かなものはないと、私も知っているんです。
 
だから、人の歓心や注目を集めること、目に見えるものを築き上げることは、どうでもいいのです。そんなことが重要なのではないのです。」
  
そこで、筆者は心に感じるうさん臭さを押し殺して問いかける。
 
「では、あなたにとって最も大切なものとは何ですか。」
  
トップはさらりと話題をすり替えて、こう問い返しそうだ。

「何だと思いますか」

筆者は分からないと答える。すると、さらに話題をはぐらかされて、こう返されそうだ。

「あなたが満足して笑ってくれることですよ」と。
  
筆者はそれを聞いて苛立ちを感じる。

「嘘はやめて下さい。そんなはずがないでしょう」と。
  
そして、心に思う、こんな問答をしているようではだめだ、まるでこれでは大悪人の彼が、善人のように見えるではないか。
 
筆者は彼らのことを調べているうちに、トップに続き、ナンバー2(3)が、そろって異動していたことを知った。同じ頃、ナンバー3が、筆者と出会うずっと以前にも、トラブルを起こしていた事実が分かった。

一般人以上の高い品性が求められる職務にふさわしくない暴言を吐いて、罰を要求されていたらしい。

その発言とは意訳すると、こんな内容だったとか。

「俺たちは今までこのど田舎の地元で、まるでドブさらいのような、ゴミみたいな仕事を引き受けて、ゴミを糧に、利益を叩き出して生きて来た。ドブさらいはドブさらいかも知れないが、それがなくなっては生きられないのが、俺たちの仕事なんだ。

俺たちはそういう底辺のところを這いずり回って何とか今まで生きて来た。ボスは遊んでばかりで、役に立たないから、この組織は、俺がいるおかげで持っているようなものだ。こんなど田舎に住んでいる連中など、どれほど権力者に見えても、どうせ出世から外れたはみだし者ばかりだ。そんな奴らなんて、どうにでもなる。

俺たちは、この街のごろつき同然の連中のことなど知り尽くしている。知り尽くして、奴らと共に生きて来たのだ。おまえにそのことが分かるか。俺たちの生活が分かるか。この生き方に文句があるなら、俺に言わずに、トップに言え。お前たちから見れば、俺たちは最低のゴロツキかも知れないが、俺たちには俺たちの生き方の仁義があり、美学があるんだ。それが不服なら、トップのところに行ってもの申して来い。きっとお前の愚痴を聞いてくれるだろうよ。」

そんな「暴言」が本当にあったのかどうかは分からない。言われた本人は、こんな言葉は到底、聞き捨てならないと解釈し、ナンバー3(2)にはお仕置きが必要だと考えて、訴えを出したようだ。

だが、その訴えは、地元の権力を使って揉み消されたらしい(少なくとも、出した本人はそう思っている)。だから、真相は今となっては分からない。
 
だが、少なくとも、そこに記されている人物像は、筆者が見聞きして来た通りだった。だから、筆者はそういう発言は、実際にあったのだと思っている。
 
ただし、ナンバー3(2)の「トップは遊んでばかりで、自分がいるから持っている」発言は、聞き捨てならない。

トップは、確かに皆に良いところしか見せなかった。人前に善人に映るようにしか行動しなかった。だから、汚れ仕事はみなナンバー2、ナンバー3が行うことになり、部下たちは常識外れなほどに残酷な人々ばかりになった。

だが、筆者には分かるような気がする。

遊んでいるというより、寂しいのだと。何をやっても、心は満たされず、この人の人格のスケールに匹敵するような人物は現れず、心を満足させる出来事も起きないので、むなしいのだと。

寂しくて、寂しくて、仕方がないから、そうして気を紛らさずにいられないのだと。
 
トップは、悪党ではあったが、筆者がこれまで見て来た悪党どもとは、かなりタイプが違っていた。この世のものに執着せず、プライドを持たないところが、違っていた。

ただ一つの弱点は、悪党のくせに善人を装いすぎて、自分の荷を下ろせなくなったところである。

彼はかつて言った、自分は昔のタイプの人間であるから、人前で弱さを見せることはできないと。強い人間を演じ続けているうちに、いつの間にか、それをやめられなくなったと。

それでドブさらいのような仕事をしながら、聖人君子のような像を作り上げて来たのである。

それを筆者からハリボテと言われ、非難されると、あっけなく聖人君子の衣を投げ捨てた。

そして、筆者に尋ねて来る。

「どういう姿が、あなたのお気に入りなんですか?」と。

筆者は、ため息をついて言う。

「あなたはマジシャンのような人間で、いっぱい写真の取り揃えがあるのでしょうが、そのどれも演技であって、本物じゃないんです。だから、私にどれを見せても、お気に入りの写真は見つからないと思いますよ。」と。

筆者は正直な人間であるから、強がったりせず、みっともないところを隠そうとも思わず、耐え難いと思えば、怒りもすれば、泣きもする。非難したいときには、非難する。絶望している時に、気丈に振る舞ったりはしないし、人に侮られるのが嫌で、強がって演技を重ねることもない。

筆者にとっては、他人からの目線や評価よりも、自分が自分であれることの方がはるかに大切なのだ。

だから、たとえ気が狂う寸前になっても、自分を取り繕わないだろう。

そこで、筆者は言う。

「あなたは確かに私の百倍くらいは器用な人間なので、あなたから奉仕を受ければ、みんなきっとその親切に本気で喜ぶでしょうね。あなたは私も満足させられるかも知れません。人助けの得意な善人のように振る舞うことにかけて、あなたは私の何倍も長けているし、先を行っている。
 
でも、私に言わせてもらえば、私の欠乏は、私の側の問題であって、あなたの問題ではないんです。

私はあなたに助けを求めてはいけないし、あなたの欠乏は、私を助けても埋まらない。

あなたの欠乏は、あなた自身が気づいて埋めない限り、どんなに他者に親切を施し、喜ばれても、それでは埋められないんです。いい加減に気づくべきではないでしょうか。困っているのは、私ではなく、あなた以外の誰か他人ではなく、あなた自身なのだと。あなたの欠乏を私にすり替えたところで、問題は解決しないんです。」

「彼ら」は、筆者の「説教」を聞いて、面白そうに肩をすくめて、笑うかも知れない。

トップは言うだろう。

「確かに、そうなのかも知れませんね。あなたの言う通りなのかも。私には私の知らない欠乏があるのかも知れません。それでも、私はあなたの満足を優先したいんですよ、私はあなたに喜んでもらいたいんです・・・」

筆者は無限ループのようなやり取りに困惑し、しばらく考え込んでから言う。

「それなら、言いましょう。私の望みは、あなたに悪党になってもらうことだと。私はあなたを悪者として告発し、何もかも、あなたのせいでこうなったと、被害を主張するかも知れません。それから、あなたのように自堕落でいい加減な生き方をしながら、他人を助けるなど、お門違いだと、非難するかも知れません。

悪者としてのあなたの正体を公然と明るみに出し、あなたは聖人君子ではないと、世間に情報を晒し、そうして責任を取らせるのが、私の望みだと言えば、あなたはそれを受け入れるんですか。」

「もしそれがあなたの望みで、そうすれば、あなたが満足するというなら、反対はしませんよ。でも、私の美学には、そうやって自分の人生を他人のせいにするという法則はありませんので・・・」

「ほうらご覧なさい、だからこそ、いつまで経っても、あなたは失われた自分の本心を発見できないんですよ」と筆者。

トップは続ける。

「あなたは他人を責めることで、何かが得られると思っているんですか? 被害を主張して、それを取り返すことで、幸福になるんですか? 他人を責めることによって、余計に自分の人生がその他人に束縛されるだけなんですよ?」

筆者は言い返す。

「なるほどあなたの言い分は立派ですね。自分の人生は、すべて自己責任だと、あなたはおっしゃるんですね。だから、あなたは他人を責めないし、人のせいにしないことで、自由を保っていられると。

でも、それは偽りだと私は思うんです。人の人生には、自己責任だけでは終わらないことがある。強い者は、弱い者の面倒をみなければならない。強い者が、弱い者の面倒をみないまま、弱い者の生き方は自己責任だと突き放すのは、方便に他なりません。まして強い者が、弱い者の権利を蹂躙し、その尊厳を辱めた上で、他者を責めるなというのは、お門違いです。

あなたはそういう論理を振りかざすことで、自分に弱音を吐くことも許さず、自分の心を自分で封印し、置き去りにし、見捨てていることに気づいていないんです。気づいていないからこそ、私を見たときに、私の中に、あなたは自分自身を見いだして、私の悲しみに、あなたの悲しみを重ね、私を助けることで、自分を助けられるかのように思っているだけなんですよ。

でも、私を救おうとしてはいけません。私はあなたから助けられる前に、自分であなたと戦って、それを取り返します。

そうなる前に、あなたこそ、正直に自分の望みを口にしなければ。

あなたが正直でないのに、私にだけ正直に弱みを告白させて、あなたが私を助けるヒーローになれるなんて、そんな都合の良い話はないんです。

私たちは似た者同士なのかも知れません。もしもあなたが私に自由になって欲しいと言うならば、私もあなたに同じ言葉を返すでしょう。もしもあなたが私の前に、自分の美など惜しくないと投げ捨てるなら、私も同じようにするでしょう。もしもあなたが地上の富も権勢も、何もかもどうでもいいと言うなら、私もそれらを捨てるでしょう。

でも、すべてを捨てて行ったあとにも、欠乏は残るんです。私はそれをあなたに発見してもらいたい。あなたは全てに満足しているように振る舞っているけれども、実はそうではなくて、とてもたくさんの欠乏を抱えていて、弱くて、満たされていないのだということを知ってもらいたい。

それは私の弱さであり、欠乏なのかもしれませんが、同時に、あなたの弱さであり、欠乏でもあるんです。そして、それらは別々の問題で、我々が互いに同情し合って解決するようなものじゃないんです。
 
私たちは、お互いに正直にならなければならない。そのために、私はあなたを非難しようとしているんです。ドブさらいをしながら、聖人君子になんて、なれるわけないじゃないですか。ドブさらいの悲哀について、悲哀を感じていたなら、それを隠すことなく、あなたもちゃんと吐き出した方がいい。

自分が弱いなら、弱さを隠すべきでないし、悲しいのに、喜んでいるふりをすべきではないし、傷つけられたのに、強がるべきではないのです。
 
少なくとも、私はあなたにドブさらいをさせられたことについて、正直に苦情を言います。泥だらけになって、なお、聖人をきどったりしない。ドブさらいをさせられたにも関わらず、あなたに助けられたとは言わない。その分だけ、私はあなたより正直だと思う。

でも、こう言うのは、自分の人生を他人のせいにするためではなく、自分自身の心に正直であるためです、本当の自分自身であるためです。

そうやって弱音を吐くことによって、つまり、人のせいにすることによって、責任転嫁ではなく、真実を取り戻せる事例があることを、あなたは知らないんです。人のせいにしたからと言って、世の中がそれで崩壊することもないし、人間関係がダメになるわけでもない。

むしろ、世の中のすべての悪事は、「サタンのせい」で起きて来る。

だから、悪魔にだけは、責任転嫁して、しすぎることはないんです。いや、むしろ、大いに責任転嫁すべきなんです。それを知らずに、人はあまりにも多くの悲惨な出来事が、自分のせいで起きていると考え、自分ですべてを負うべきだと考えて、我慢に我慢を重ね、そうやって無意識のうちに悪魔をかばって、黙って彼の重荷を背負ったまま、時に墓にまで下って行く。

でも、それは違うんです。

自分の味わった痛み苦しみ、悲しみ、理不尽さ、やるせなさについては、私たちは正直に神に告白することが許されている。それは貧しく弱い人々が、裁判官の前に、自分たちの悲痛な訴えを持って行くのと同じです。

伝家の宝刀を使うことは、何ら禁じられていない。いや、積極的に、使うべきなんです。自分の心を正直に、ありのまま、さらけ出し、まことの裁判官たる神にその理不尽さを訴えるべきなんです。神はそれを聞き届けて下さる。

もちろん、地上の裁判官に訴えることも禁止されていない。

それが許されているのに、その道があるのに、債務者を神のように考えて、揉み手で懇願すべきではない。罰せられるべきは、サタンであって、人ではないのだから。

だから、あなたはあなたの欠乏を、私にかこつけずに、正直に口にしなければなりません。そうなることが、私の本当の願いなんです。また、それがなければ、私は自分が何を望んでいるのか、永久にあなたの前で口にすることもできないままに終わるでしょう。

そうして、私たちの関わりは尻切れトンボに終わり、あなたは私を助けられなかった、何もできなかった、この関わりからは害悪しか生まれなかったという、忸怩たる思いだけを抱え続けることになるのです。

そういうことを私は望んでいない。だから、総括が必要だと言うのです。」

<続く>

PR

主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。

「主よ、朝毎に、わたしの声を聞いてください。
 朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
 あなたを仰ぎ望みます。
 
 あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。
 悪人は御もとに宿ることを許されず
 誇り高い者は御目に向かって立つことができず
 悪を行う者はすべて憎まれます。
 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし
 流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。

 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて
 あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し
 あなたを畏れ敬います。
 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き
 まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」(詩編5:4-9)

まだまだしばらくの間、重要な訴えのための膨大な書類作成が続く。だが、捨てる神あれば拾う神・・・ではないが、紛争が起きれば、それをきっかけに、回復される絆もある。協力者が現れ、助けられる。

まことに聖書の御言葉は正しく、神が許されて起きる地上の軽い艱難には、常に大いなる天の栄光が伴う。苦難には慰めを、悲しみには喜びを、欠乏には満たしを与えて下さる我らの神の御名は誉むべきかな。

暗闇の勢力は、兄弟姉妹に何とかして猜疑心を植えつけ、ネガキャンを展開し、互いに裏切らせ、信仰の絆を分断し、引き裂こうとするのかも知れないが、必ず、それに影響を受けない草の根的な交わりを神は取っておいて下さる。

これこそかつてずっと夢見ていた草の根的なクリスチャンの集まりだ・・・。

しばらくの間、誤解や対立があって分断されていても、時と共に回復される絆もある。困難があるからこそ、忍耐によって乗り越えたのだと言える絆がある。

そういう意味で、罵りや中傷の言葉は、人の心を試す実に良い試金石だ。誰が本当に最後まで、主にあって兄弟姉妹でいられるのか。誰が人間のうわべだけの有様に惑わされることなく、物事を見極め、人間的な絆によってではなく、信仰によって繋がり合えるのか。

おそらく、私たちは死ぬまで他者との間で、すべての物ごとに対する見方が完全に一致することは決してないだろう。そういう意味では、クリスチャンに思想的な同志を求めても無駄である。必ず、どこかでズレが起きて来る。そのズレにこだわれば、分裂や対立しか待つものはなかろう。だが、たとえ多くの点で見解が互いに異なっていたとしても、基本的なところで、一致を保つことはできる。

その基本とは、キリスト以外によりどころを持たないことだ。人間の造った組織や団体を離れ、立派な教師や指導者の肩書に背を向け、いかなるビジネスや集金活動、組織や指導者の栄光とも関係ないところで、素朴で対等な兄弟姉妹として、ただ聖書への信仰によってのみ、繋がり合うことができるかどうか?
 
そんな草の根的な信徒の交わりを、筆者はずっと前から探索し続けている。そんなものを求めても無駄だ、そういうものはないんだよと、悪魔は言うかも知れない。

だが、そんなにも簡単に諦めるのは忍耐力のなさの表れでしかない。かつてある姉妹にも、早く諦めてはいけないと叱咤されたことがある。だから、はっきり言っておきたい、今日、社会の状況がこれほど悪化し、人々の心が険悪になり、人々が裏切り合い、貶め合う中でも、そうしたみずみずしい新鮮な青草のような信徒たちは、確かに温存されているのだと。

ただし、私たちが、それに気づく目を持っているのかどうかはすべてを分けるだろう。いと小さき貴重な兄弟姉妹の存在に気づくためには、私たちの目が、曇らされた状態でなくなることが必要である。立派な肩書をぶらさげた人気の指導者、荘厳な教会、うやうやしい礼拝儀式、大人数の集会、弁舌の巧みさ、知識の豊富さ、外見のきらびやかさなど、見かけ倒しの虚栄に振り回され、踊らされ、惑わされ、絶えず欺かれてばかりの軽薄な浮草のような心では、どんなに価値ある貴重なものに出会っても、それに気づくことは永遠にできまい。

そのように惑わされやすい軽薄な心そのものと訣別し、自己の栄光にも死んでいない限り、我々の目に、みすぼらしく取るに足りない「草」たちの価値が分かる日は決してないであろう。だが、その青草の発見は、十字架で死なれたキリストご自身の発見でもあり、ある意味では、自分自身の発見でもある。

ところで、宗教的なリーダーというものは、やはり、決して人前で信徒を罵ったり、悪しざまに言ったり、信徒の個人情報を無断で公開したりしてはいけないと筆者は思う。筆者は牧師制度そのものに反対であるが、それをさておいても、あらゆる組織のリーダーには、自分のもとに集まって来るさまざまな信徒に対する包容力がどうしても必要だ。

特に、教会にはあらゆる問題を抱えた人々がやって来る。巨額の借金を抱えた人々、家庭内問題を抱えた人々、心理的な病を抱え、人生に行きづまっている人々、こうした人々の中には、福音などには全く耳を傾けず、ただ自分の愚痴を聞いてもらう事だけを求め、手っ取り早い現世利益を求め、それが得られないために、早々に指導者を罵って教会を去って行く人もあろうし、またあるときには、牧師を脅すことを目的にヤクザがやって来ることもあろう。
 
こうしたすべての人々にリーダーは対処せねばならないのであって、自分を批判されればすぐにかっとなって言い返し、信徒の中傷を言いふらすような人々は、もともと指導者の器ではない。

ところが、プロテスタントの牧師には、そういうリーダーの力量を持った人がほとんど見られないのが現状だ。昔からそうだが、本当に信仰のある志の高い人々は、決して牧師になどならない。それもそのはず、信徒の献金で生計を立てるのが当然になっているような、特権階級としか言いようのない職業的地位に就こうと自ら願うような人々は、それ相応の心を持った人々しかいないからだ。

そうした人間的な力量に欠け、信仰的な力量にも欠けている牧師のいる教会に所属してみたところで、信徒に心の安らぎが得られるはずもない。

ただでさえ、日本の教会の永遠のテーマは、ずっと「なぜ日本にはキリスト教が普及しないのか」というものだ。多分、これから先も、20年経とうと、30年経とうと、このテーマは依然として、教会の中心的課題であり続けるに違いない。

多くの教会は高齢化の影響もあり、閑古鳥が鳴いており、社会的事業に乗り出さないとやって行けない有様だというのに、そんな中で、まるで教会の衰退に拍車をかけるがごとくに、所属教会を自ら明かしながら、インターネットで他の信徒を悪しざまに罵り、聖書を否定するような「信徒」が現れる。

ただでさえ信徒数が少ない教会にとって、そのような不良信徒の出現は、とてつもない打撃になるだろう。そうした事態からも見えて来るのは、もしもその信徒の教会生活が、本当に満たされて正しく幸福なものであったなら、その信徒が、面識もない他の信徒たちに言いがかりをつけては聖書を捨てろなどと言いふらしたりするようなことは、決してなかっただろうということだ。

得意げに所属教会を名乗っていても、実際には、まるで身の置き所のない孤独感がひしひしと伝わって来る。所属教会に対する配慮もないのだろう。空疎な祝福の言葉が、かつてよく聞いた「栄光在主」とか「頌主」とかいったむなしい言葉を思い起こさせる。

悪いことは言わないから、早くそんなにも身の置き所なく味気ない教会生活をきっぱり離れ去った方が良いのだ。いつまでも形骸化した組織にすがりついているからこそ、心のむなしさが募る。その空虚さを、所属教会以外のところで埋め合わせようと、聖書に忠実な信仰生活を送る信徒を引きずり降ろすしかないなど、何と惨めな生き方であろうか。

だが、もっと恐ろしいのは、そういうことをしているうちに、いつの間にか、その信徒にとっては、あれやこれやの気に入らないクリスチャンだけでなく、「聖書」そのものが敵になっていくことだ。

これが一番、恐ろしいことなのである。

その人にとっては、所属している組織が「神」となり、聖書の御言葉が、人を狂わせる「悪」と見えて来る。すべての物事を人間を中心として見るあまり、自分にそんなにも心の空虚さとむなしさを味わわせたのは、人間に過ぎない牧師や、人間の造った組織ではなく、神ご自身だという風に、考え方が転倒するのである。

まるで聖書とはさかさまの世界観であり、どこをどうすればクリスチャンを名乗っている人間が、このような考え方になるのか、首をひねるばかりである。だが、何度も言って来たように、これがペンテコステ運動が人にもたらす倒錯した世界観なのである。

実体のない組織にすがり続けていると、最後にはそういう事態にまでなってしまうのだ。私たちはそのような悪しき運動を離れ去ることを宣言する。

これまで幾度となく繰り返して来た通り、ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動の失敗が、プロテスタントの終焉を何よりよく物語っている。被害者救済を唱えている人々自身が、まさに被害者を率先して売り渡し、被害者を中傷し、破滅させる所業に手を染めたという事実は、キリスト教史の恥ずべき汚点として、歴史を超えて永久に語り継がれるだろう。そうした恥ずべき事態が、これらの人々が被害者救済を唱えて来た真の目的が、全く被害者の救済になどなかったことをよく物語っている。

プロテスタントはもう終わっているのだと、気づかなければならない時に来ている。むろん、だからと言って、他の宗派に去れば良いという簡単な問題ではない。宗教改革は続行しているが、それは今やプロテスタントを離れて、人の目に見えないところで続行している。聖書は万人に解放された。今は聖職者階級というものから、信徒が解放されねばならない時代である。万民祭司という新約聖書の当然かつ根本的な大原則が回復されるために。

いくつか前の記事で、筆者がある職場からエクソダスしたエピソードを書いたのは、これをキリスト教界になぞらえて、今、ここからエクソダスしないと、この業界はこの先、本当にひどいことになって行くと警告したかったからだ。御霊の息吹が失われ、神が目を背けられ、人の関心も失い、誰からも打ち捨てられて形骸化した組織の中に残っていると、とんでもない事態が起きて来るだけである。

今、多少、手傷を負ってでも良いから、建物全体が倒壊する前に、そこから出た方が良いのだ。そのまま残っていれば、傷を負うくらいでは済まされず、やがて命を失うことになるだろう。

しかし、そうした警告に耳を傾ける人はほとんどいまい。今、この国の経済界で起きていることも、キリスト教界で起きていることは、合わせ鏡だ。自分は選ばれた民だ、他の人々と違って、安定した居場所がある、れっきとした教会員だ、仲間がいて、孤独ではない生活がある、と豪語することと、私は正社員だ、難解な試験をパスして、上位で合格したエリート公務員だ、教職員だ、妻子もいれば、家もあり、家業もあり、土地も財産もあり、誇るべきものがこれほどたくさんある・・・などと豪語することの間には、さしたる違いはない。

そういう見せかけのアイテムの数々を誇っていると、やがてすべてが取り去られ、とんでもない事態に巻き込まれるだけである。

人間の本当の救いは、そんな風に目に見えるものの中には決してないからだ。本物の救いを偽物のバッジと取り替えた人々には、つらく苦しい未来が待っているだけである。そのことは、教会籍制度に何よりもよく当てはまる。神の救いは、教会籍のように目に見える証明に決して置き換えることなどできない。それが証拠に、その証明書は、これほど多くの教会難民のような人々を生み出した。そうでありながら、まだ教会籍にすがり続ける人々は、自分をエリートだと自称している。

これは世の有様と同じである。組織それ自体の中に、命はないのに、組織をまことの命と取り違え、神と取り違えると、そういう忌むべき事態が起きるのである。宮は、神がやって来られて、その中に入られて、初めて価値を持つというのに、神が忌み嫌われ、見捨てられ、神ご自身が不在となった宮が、己を神のようにみなして誇っている。何と忌まわしい光景であろうか。

高プロ制度を批判している場合ではない。偽りの階層制の上に成り立つ一つの虚構の世界がまるごと倒壊しかかっているのが今なのだ。この危ない建物全体から離れねば、誰も身を守ることはできない時代にさしかかっている。
 
さて、いきなり話は変わるようだが、我が家のペットが昨日の朝、ちょっと様子が変に見えたので、動物病院に連れて行った。かつて動物病院では、誤診がもとになって狂奔させられた嫌な思い出があるが、今回は違った。全く異なる病院である。無駄な治療は一切しないし、余計な手当ても勧めない。待合室にいると、看護士さんがやって来て、採れたての新鮮な野菜をサンプルとしてくれた。家に帰ると、ペットは何事もなかったようにけろっと元気になっていた。何でもなかったのだが、連れて行ったついでに色々身ぎれいにしてもらった。

もらった玉ねぎに包丁を入れると、みずみずしい真っ白な断片が見える。しばらく水にさらせば、生のままでもサラダにできそうだ。試しに炒め物に半分使ってみると、あまりに美味だったので、もう半分も早速調理した。

とにかく、一つ一つのことについて祈る。主の助けを乞う。すると、一見、人の目にはハプニングに見えるような、思わぬ出来事からも、思わぬ出会いが生まれ、新たなチャンスが生まれて来る。大規模な組織など必要ない。立派な指導者の助言も要らない。ただ草の根的な知恵と知識だけで、私たちは十分に生きていける。その確信は、日常生活だけでなく、信仰生活にも十分に当てはまる。

人に知られないひそやかなところで、御霊の導きにすべてを委ねて、一歩一歩、主と共に進んで行こう。それは人に踏み固められた道でないため、不安が全くないと言えば嘘になるが、それでも、霊の内側には、確信があり、平安がある。

筆者はたとえこの先、どれだけ多くの兄弟姉妹からの賛同や理解を得たとしても、心はただ主にのみ向けておきたいと真に思う。ただお一人のまことの神である方とのみ、二人三脚し、すべてのことを相談しながら、地上にいる最後の瞬間まで、共に歩いて行きたいのだ。これが新エルサレムまで続いている狭く細い道である。それは人に知られず、誰にも踏み固められていない細い道だからこそ、スリルもあれば、冒険もあり、涙もあれば、笑いも、喜びもあり、毎日、わくわくする体験には事欠かない。決してそうした体験を人前で語ることはないであろうが、主に訴え、主に感謝する出来事に溢れている。

組織になど所属せずとも、いや、組織に所属しないからこそ、真に神が働いて下さったと言える出会いがあり、真に自分の人生だと言える地点に立脚して、味わい深い日々を送ることができる。
 
まことに主は我らの重荷を日々担われる。それゆえ我らの荷は軽い。新しい朝ごとに主を讃え、すべてのことを主に訴えよ。主が我らの正義、解決となって下さる。御名に栄光あれ。

神を説き伏せることのできる祈りの五大条件(ジョージ・ミュラーの祈りから)

私たちは人生において、少なくとも幾度かは、絶対にこの願いを神に聞き届けてもらわなければ困る、という切迫した祈りを捧げる必要に迫られます。それは自分自身が危機から救い出されるためであるかも知れないし、あるいは、愛する者の健康や幸せのためであるかも知れません。いずれにせよ、その時、私たちが捧げ る祈りが、神に聞き届けられるかどうか、その是非は、私たちにとって生死を分けるほどの重大問題となります。

もちろん、私たちの願いの全てが必ずしも御心にかなったものであるわけではありません。しかし、神に聞き届けられる祈りというものが存在することは確かなのです。私たちが切迫した必要に迫られている時、また心のうちに強い願いを持つ時、信仰によって、確実に神に聞き届けられる祈りを捧げるためには、一体、 どうすればよいのでしょうか。私たちの生活態度は、心の状態は、その時、どうあるべきなのでしょうか。

偉大な信仰の人ジョージ・ミュラーから、祈りの秘訣を学ぶことができます。次のことをよく心に留めておきましょう。

「神を説き伏せるほどの祈りをする際の五大条件を、彼はいつも心に言い聞かせていた。

1 どんな祝福を求める際にも、主イエス・キリストの功績と仲保に全面的に依存すること(参照 ヨハネ一四・一三、一四、一五・一六等)。

2 すべての知っている罪から離れること。私たちの心によこしまなものが残っているなら、主は私たちに耳を傾けて下さらない。もし聞かれるとすれば、私たちの罪を容認することになってしまうからである(詩篇六六・一八)。

3 誓いによって堅くされた神の約束のみことばを信ずること。約束なさった神を信じないということは、とりもなおさず神を偽り者とし、偽証人としてしまうからである(ヘブル一一・六、六・一三―二〇)。

4 神のみこころと一致した祈りであること。私たちの動機は敬けんなものでなければならない。私たち自身の欲望を遂げる目的で、神にいかなる賜物を求めてもいけない(第一ヨハネ五・一三、一四、ヤコブ四・三)。

5 執拗に願いをささげること。農夫が収穫を求めて長い間忍耐強く待つように、私たちも、ただ神のために働くだけでなく、神の働きを待っていなければならない(ヤコブ五・七、ルカ一八・一~八)。

 以上のような原則をしっかり心に留めておくことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。ここにあげた第一の条件は、大祭司であられるかたと一つに なるということで、これはすべての祈りの基盤である。第二は、罪を捨てるという祈りの条件の一つを示している。第三は、私たちが信仰によって、神のいます ことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを信じて、神に栄光を帰する必要性を強調している。第四は、神と同じ心を持つということであり、そうするこ とによって初めて、自分のために、また神の栄光を現わすために、何を求めればよいかを知るのである。最後の項は、祈りによって神にしがみつくことであり、 神が御手を伸べて祝福を与えて下さるまですがりつかなければならないことを教えている。

 このような条件が満たされないのに、神が祈りを聞き入れられるようなことがあるとすれば、それはご自身の栄光に傷をつけることである。またそれは、求め た人に対しても有害になる。もし人が自分の名により、あるいは自己義認、利己追求、または不従順な心で神に祈ることを奨励するようなことになれば、それは 罪の中に住むことを奨励し、そのうえに賞金を与えるようなものである。また、信じようともしない人の求めに応ずることは、その人があくまでも神の真実性を 疑い、約束を守られる忠実さを信用せず、結局神の約束のみことばと、それを保証される誓いとを侮辱することになるのに、それに対して目をつぶっておられる ようなものである。

実に、本質的にここにあげられたもの以外に、神を説き伏せる祈りの条件は一つとして存在しない。これは独断的な意志によってかってに決められたものではなく、神のご性質上、また人の益のためにも、どうしても必要なものなのだ。」
(A.T.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、いのちのことば社、pp.158-159)

ミュラーの挙げた五大条件に、一つだけ、追加しておきたい。

6.神にしか決して叶えることのできない、神の偉大さにふさわしい、真にダイナミックな願いを捧げること。信者の祈りが聞き届けられることによって、神の偉大さ、神の栄光、神の愛の深さが全地にあまねく証明され、地獄の監獄が揺るがされ、悪魔が敗北して色を失うような、スケールの大きな祈りのリクエストを出すことは、神が信者の祈りと信仰に心動かされ、祈りを聞き届けることによって満足されるための秘訣である。


悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ

かつて、学術論文を書きながら、生計を維持するために、さまざまな仕事を経験したことがある。今になっても、論文の締め切りに追われていた当時の自分を夢に見ることがある。

その頃の筆者には、人の成さない偉大な仕事を成し遂げた いとの夢があった。友人に向かって、こんな大胆な台詞を口にしていた、「私も自分のケーニヒスベルクへ世界を集められるような人になりたい」*。

(*これはは哲学者カントが生涯のうちに一度も国外旅行をせず、ケーニヒスベルクだけで人生を終えたことになぞらえた言葉である。カントは自分から世界の国々に出て行かなかったが、その代わりに、自らの哲学によって、世界を自分のもとに集めた。人はそれくらいの強烈な創造行為を行うべきである、という意味。

ちなみに、ケーニヒスベルクは東プロイセンの主都であり、ドイツ騎士団によって建てられた美しい貿易都市で、レンガ造りの街並みで知られた。が、第二次大戦中にロシアに占領されてカリーニングラードと改称され、古き良き街並みは破壊され、歴史はほぼ完全に絶たれた。今もって再興は不可能な状態で、いわば、歴史の幻となった都の一つである。)
 
さて、以上のような願いは、天然の人としての筆者だけの力では、実現が不可能であった。そこで、筆者は主と共なる十字架を経て、それまでの願いが全て自分の手から取り去られ、天から聖別されて、再び、キリストの力によって再興されて戻って来るのを見る必要があった。

それまでの夢は、あたかも一旦、目の前で砕け散ったかのようであったが、力強い十字架の解放の御業によって、再び、復興されて筆者の手に返された。筆者はこの十字架の御業により、永遠にアダムの世界にあるあらゆる絶望から救い出され、全ての恐れから解放されて、十字架の死と復活によって、天的な高さへと引き上げられ、暗闇の支配下から、愛する御子の支配下へと移されたのであった。

キリストにあって満ち溢れる光の支配下へと移され、新 しい心と、新しい霊とが与えられた――。

以前とは全く違う人生が開け、過去についての後悔や、痛みや、悲しみは、なくなり、どこにいても、何をしていても、主が共におられると、信じることができるようになった。

そして、今や、主とともに生き、歩んで行きたいという願いだけが、生涯の目的となったのである。

だが、「古き人に死んだ」というテーマと、「神に生きる」というテーマを追求する余り、筆者は、キリストにある新しい人として、自分が過去と現在をどのように結びつけるべきかが、長い間、よく分からなかった。

特に、従来のキリスト教においては、「献身する」とは、信者が自分の個人的な人生を離れて、全生涯を福音宣教に捧げることを意味すると教えられる。

そんな固定概念も手伝って、神のために生きることと、自分の個人生活が、どのように両立し、統合されるのか、筆者には、長い間、よく分からなかったのである。

そして、筆者がこの当時、関わっていた兄弟姉妹は、この点において、全く助けにならなかったどころか、誤った観念によって、かなり有害な影響を及ぼした。

その頃、筆者が「兄弟姉妹」として交わっていた全員が、筆者とは全く無関係なフィールドで生きて来た人たちであり、ほとんどの場合、自らの専門も持っていなければ、あったとしても、すでに仕事からも離れた年金生活者などで、彼らは信仰生活というものを、この世の職業とは何ら関係ない、ほとんど形而上のもののようにとらえていた。

そこで、前途ある若者が、一体、働きながら、どのように神に仕えることができるのか、という問題には、全く具体的な答えやヒントをくれなかったのである。むしろ、そのような人々の話を聞けば聞くほど、筆者にも、「信者がこの世の職業を通して自己実現を目指すことは、御心にかなわない生き方なのだ」といった考えが増し加わるばかりであった。

筆者は兄弟姉妹の人生を参考材料にすることができず、また、彼らも、キリストにある「新しい人」の生き様について、従来のキリスト教の固定概念を超え得るような考えを何も持っていなかったので、その交わりからは、何の新しい発想も生まれて来なかった。

そんなこともあって、筆者は、何年間も、この問題については答えを見いだせなかった。果たして、自分の過去に積み上げて来た功績、過去の自分の持っていた夢、性格、知識、経験、生き様などを、新しい人生にあって、どの程度、継承して良いのだろうか? 

たとえば、学術研究の世界において功績を打ち立てたいという願いは、今後も、妥当なものとして持ち続けるべきなのだろうか? かつて書いていた論文を続行させるために、研究書を取り寄せて、文学の世界に没入することは、許されるのであろうか? 

そんな疑問から始まって、たとえば、ペットを飼うことは許されるのか、とか、一体、自分の願いや嗜好のどこまでが、御心にかなうものとして、生活に適用して良いのであろうか、といった疑問の中にあった。

そういった疑問がなかなか解けなかったので、筆者は長い間、自分で自分の人生を「保留」にし、自分の願いを「保留」し、自分の経歴を「保留」して、それとは無関係の生き様を続けていた。

兄弟姉妹からの不適切な助言の影響もあって、かなり長い間、筆者は自分のかつての個人的特徴を「アダム来のもの」として捨て去るべきなのかどうかという問いに、明確な答えを出せなかったので、個人的な願いに基づいて生活の新たな一歩を踏み出すことをためらっていた。

だが、こうしたことは、全く、間違った固定概念を持つ人々からの悪影響に他ならず、本当は、「キリストにある新しい人」について、そんな疑問を持つ必要はなかったのである。

筆者の過去は、すでに霊的に十字架を経ていたので、キリストにある新しい人に自然と再統合されており、筆者が自分から過去を捨てるとか、個人生活を捨てるとか、そんな行動は全く必要なかった。たとえば、かつてよく筆者が口にしていた「自分のケーニヒスベルクに世界を集める」とかいった台詞も、筆者は、長い間、信仰の何たるかをよく分かっていなかった頃に口にした若気の至りでしかないような気もしていたのであるが、実は、そんな些細な願いでさえ、キリストにある新しい人の中に有益に再統合されていたのである。

そんなわけで、主と共なる十字架の死と復活の何たるかを実際に経験した後も、筆者はあたかも自で自分の過去と訣別せねばならないかのように考えていたため、学術論文を書いておらず、論文を書いているわけでもないのに、ただ生計を立てるためだけに、論文の締め切りに追われていた頃と大差ない、自分の専門とは無関係の仕事に従事したりしていた。

だが、そのような考えは、すでに述べた通り、あたかも信者であるかのように、兄弟姉妹を名乗る人々を通じてもたらされた暗闇の勢力の偽りの力の影響によって生まれたものだったのである。

暗闇の勢力は、信者の人生が、十字架を通して解放され、信者が神と同労して生き生きと自由に生活しながら、,キリストによって生まれた「新しい人」として、天的な歩みを進めることを何としても妨げるために、全力を挙げて、信者の思いを攻撃して来る。だが、その攻撃の多くが、他でもない「兄弟姉妹」を名乗る人々から、間違った不適切な偽りの助言という形を通してやって来ることに、当時の筆者はまだ十分に気づいていなかったのである。

さて、暗闇の勢力が信者に吹き込む嘘の筆頭格は、いわれなき「罪悪感」である。つまり、本当は罪深くもなく、わがままでもなければ、贅沢でもない、信者の些細な願望までも、それがあたかも神の御心にそぐわない罪深いものであるかのように思わせることで、信者に自ら願いを捨てさせ、あきらめさせることが、暗闇の勢力の策略なのである。

第二は、神に対して生きることへの偏見であり、「徹底的に自己を放棄しなければ、神に従うことはできない」という名目で、信者に自分の個性を自ら捨てさせ、自分を否定させようとする偽りであり、これもまた暗闇の勢力による極めて重大な嘘である。そして、第一の嘘と第二の嘘は密接に絡み合っている。

地獄の軍勢は、この世に生きる人々を罪の奴隷として拘束しており、そこで暗闇の勢力は、人を貧しさや、不自由や、夢や希望のない人生に閉じ込め、可能な限り苦しめ、自由を奪うことを使命としている。だが、彼らは、信仰を持たずにこの世に生きている人たちだけでなく、キリストにある新しい人をも、そのように束縛しようと、信者の思いの中に攻撃をしかけて来るのである。

暗闇の勢力は、信者が自分の願いを率直に神に申し上げながら、生き生きと自主的かつ個性的な人生を送ることを何としても妨げようとして、こう言う、「あなたの専門知識や、かつての職業や、かつての願いは、みな堕落したアダムの古き人から生まれたものであるから、あなたはそれを罪深いものとして捨てなければならない。そうしなければ、神のために生きることはできない」と。

実は、兄弟姉妹を名乗っている多くの信者たちでさえ、知らず知らずのうちに、このような悪魔の嘘に加担して、信者をより束縛し、より不自由にし、より不自然に苦しんで生きさせる手伝いをしようとすることが多いのである。

今日の信者のほとんどは、「キリストにある新しい人」という言葉を口にしながらも、実際に、「新しい人」は、この世の職業において、個人生活において、どのように生きるべきか、ほとんど分かってはいない。だから、もしこの点について、信者がうっかり、ふさわしくない兄弟姉妹に助言を求めようものならば、非常に好ましくない有害なアドバイスを受けることがあり得る。

当時の筆者の周りにいた兄弟姉妹の多くは、ただ信者が「神のために」何かを「捨てる」ことや、「理不尽を耐え忍ぶ」ことだけが、御心に従う道であるかのように誤解して、周囲の人々に対して、そのような説得に腐心していた。これは、今日のクリスチャンの多くの姿と同じである。

たとえばの話、「ペットを飼いたい」という願いを、筆者がある兄弟に向かって口にしたとき、その「兄弟」はこう答えた。

「ヴィオロンさん、パウロがペットなんか連れて伝道旅行できたと思いますか?」

こうして、その「兄弟」は、信者がペットを飼うことが、いかにも主への献身の妨げになる、伝道&宣教にとって障害となる、と言わんばかりの否定的反応を示した。だが、筆者は、その頃には、この兄弟の性格を知り抜いていたので、こうした忠告ばかりをずっと聞き続けていれば、自分の人生で何一つ、願いを決行できはしないということを悟っていた。そこで、その忠告を振り切って、ペットを飼ったのであった。

ここで筆者が議論したいのは、信者がペットを飼うことの是非ではなく、従来のキリスト教の固定概念の域を出ない人々は、全ての考え方が、万事こんな調子だということである。つまり、彼らは自分よりも若い「後学」となるような信者をつかまえて、彼からあらゆる自由と権利を取り上げた上で、自分好みの型に当てはめるために、その信者の生活のどんな些細な事柄についても、「神のために」という理由がついていないと、信者に何も許そうとせず、しきりに反対するのである。

たとえば、神のために人生を捧げた人が、学術論文など書くべきではない、といった考えもその中に含まれているし、自分の専門性を人前で誇示すべきではないとか、何を買うか、何を食べるか、といった些細なことでも、「贅沢」や「貪欲」に該当すると非難して、事細かに様々な制約を持ち出して来る人たちもいるのである。そんな人々に助言を求めるのは、自殺行為にも等しい。

だが、何年も、筆者はそういった兄弟姉妹の考え方が根本的に間違っていること、彼らに意見や忠告の機会を与えてはならないこと、あるいは、もっとひどい場合には、こうした人々を「兄弟姉妹」と考えるべきではない、ということに気づくのが遅れた。そして、かなり経ってから、キリストにある新しい人の人生は、過去の何かを「捨てること」に基づいて成り立っているのではなく、むしろ、十字架を経て、「新しい人」には、過去の要素がすべて再統合されているので、信者は自分で過去の生き様と訣別しようと努力して、自分の願いを滅却したり、それを禁じたりする必要はない、ということが分かったのであった。

信者は、御言葉に背き、神を悲しませるような反逆的な内容でなければ、自分の心の自然な願いに従って、ごく普通に生きて行けば良いのであり、もし自分に備わっている何らかの適性があれば、それを思う存分、活かせば良いのである。

奇しくも、そのことを筆者に向かって語ったのは、ベック集会にいた兄弟たちであったが、彼らは、以前に筆者が出会った「兄弟姉妹」たちが、筆者の心にかけた呪縛を解いて、いかに筆者が自分の専門性を有効に活用して生きるべきか、延々と筆者を説得した。

「ヴィオロンさん、あなたの学歴や経歴は、神が許されるのでなければ、決して手に入れられないものです。それが許されたということは、あなたにはそれを用いてなすべきことがある、という意味に他なりません。だから、あなたは自分の専門とは関係のない仕事に就いて苦しんだりする必要はありません。そんな人生が、神のために生きることではないのです。あなたは自分の能力や知識を神に捧げ、神がそれをどう用いて下さるのかを見るべきです。」

この忠告は筆者の心に光を与えた。年々、悪化して行く情勢の中で、専門と関係ない仕事をして生計を立てることには、筆者も限界を感じていたので、筆者は彼らの忠告の通りに、自分の過去に持っていたすべての知識や経験をすべて改めて主にお捧げし、その後、専門の仕事に立ち戻るために必要な努力をして、人生がどう開かれるのかを観察した。

そうして、筆者は確かに専門に復帰したのであるが、しかしながら、以上の兄弟姉妹の助言にも、相当な限界があった。それは、この集会の多くの人たちは、かなり裕福であり、生活の苦労をあまり知らず、特に、筆者の世代が社会で置かれている窮状がどれほど深刻なものであるかに、理解がなかったことである。それゆえ、彼らもまた、前述の兄弟姉妹と同じように、「後学」を自分たちの正しいと思う考えに当てはめ、従わせせようとして来たのである。

以上のような方法で、筆者が神に願って与えられた専門の条件が、過酷で、とても長くは続けられそうにないものだと分かって、筆者がその仕事を辞めようとしたとき、仕事を見つける時に助言し、祈ってくれた兄弟姉妹が、かえって敵対する側に回った。彼らには、「神様が与えて下さった仕事を、そんなにも早く辞めようとするなど、不信仰であり、言語道断だ」という考えしか、返答の持ち合わせがなかった。

また、この集会以外のつながりのある姉妹からも、その時、同じように非難の言葉を返されたことを覚えている。あろうことか、この姉妹からは、この転職を機に、絶縁さえも申し渡されたのであった。その時、筆者には、次の仕事も無事に決まっていたのだが、彼女は、それを喜んでくれるどころか、「もうそんなにも早く、次の仕事を見つけたなんて」と冷たい反応を示し、「もう二度と連絡して来ないで」と、交わりの扉を閉ざしたのであった。

だが、いかに周囲の兄弟姉妹に誤解されたとしても、当時、働いていたのは筆者自身であるから、筆者が誰よりも、その労働環境が、逆立ちしても長くは持ちこたえられないものであることをよく知っていた。そのような不適切な条件に耐えていれば、いずれ自分を壊すことになり、場合によっては、不法に加担することにさえつながりかねない。それが神の御心であろうはずがないことは承知していた。
   
だから、筆者はこれらの「兄弟姉妹」の誤解や怒りや叱責を無視して、自分の判断で、新たな道に踏み出して行った。

こうして、兄弟姉妹と考えていた人々から、間違った、不適切な忠告や助言を受け、それに従わなかったために、筆者がこうむった誤解の数々は、枚挙に暇がない。だが、たとえ不愉快な誤解をこうむったとしても、筆者は根気強く自由と解放を目指して信仰による模索を続けねばならないことを知っていた。だから、そうした助言は、神から来るものではなく、暗闇の勢力から来るものと確信して、筆者はそれらを振り切ったのである。

そもそも、信者は自分の人生について、主ご自身だけを相談相手に、自分自身で決断を下して行かねばならない。たとえ兄弟姉妹であっても、他者に主導権を明け渡すことはできないし、人の支配下に入ると、そこから始まるのは、奴隷的拘束だけである。だから、たとえ兄弟姉妹であっても、他者に助言の隙を与えることは、ほとんどの場合、逆効果となる。
 
そんな模索を繰り返す過程で、筆者には、この世に存在する仕事の大半が、非常に問題だらけで、実に多くの場合は、違法な労働条件のもとに行われており、たとえ専門に関係する仕事に就いても、その事情はすぐに変わらず、こうした悪しき問題が一挙に解決する見込みはほとんどない、ということが分かって来た。

しかし、そんな中でも、筆者は「世の情勢がこんな風だから、どんな不適切な条件にも、自分が耐えるしかない」とは考えず、可能な限り、自分の願いを否定することなく、正常な仕事を探す努力を続けた。

つまり、この世の情勢に自分を合わせるのではなく、あくまで自分の正しいと思うことや、願いを譲らずに天に向かって主張し続けて、根気強く、不正や、不法を助長することなく、神の正義と、自分自身の願いにかなう、納得できる条件を求め続けたのである。

この世の情勢では、99%見込みがない時だからこそ、信仰に頼る価値がある。人にはできなくとも、神にはできる。世はいつでも「これしかないから、あなたは妥協して条件を引き下げなさい。多少の不正には目をつぶりなさい」と言って来るであろうが、信者がその言い分に耳を貸して、自分が最低限度だと思っている条件にさえ、妥協を繰り返すようでは、信仰者となった意味はなく、その先はない。神は必ず、信者が健やかに自立した生活を営むために、必要な全ての条件をお与え下さるはずだ、と、筆者は心に確信していた。

そのような筆者のスタンスを、兄弟姉妹のほとんどは理解できなかったであろうと思う。筆者の態度は、彼らから見れば、「贅沢」であり、「わがまま」であり、「えり好み」でしかなかったのではないかと想像される。だが、そのように不評をこうむるであろうことが予め分かっていたので、筆者の方でも、もう彼らには何の助言も乞わず、相談もしなかった。

そうして、筆者は他者の助言や忠告に従って生きることをやめ、ただ神との関係において、自分の願いをあきらめずに神に申し上げることだけによって、生きることに決めたのである。

そして、その過程で、実に驚くべきことが分かって来た。

筆者がこれまでに見つけた仕事は、もはや相当な数に達しているのだが、もともと数少ないと言われていた専門分野の仕事である。労働条件に文句をつけて、度々、仕事を変わっているような人間に、将来の見込みなどない、と普通の世間は考えるであろう。しかも、筆者は郷里からの援助などは受けず、完全に独立して、自分だけで生計を立てている。筆者の試みは、どうせ長くは続かないだろう、と高をくくっていた人々がいたとしても不思議ではない。

だが、それにも関わらず、筆者は行き詰まりに達することはなく、常に道が開けたのである。そして、それが神の采配であるばかりでなく、筆者と主との「信仰による同労」によって生まれた結果であることが、筆者にも、だんだんはっきりと分かって来た。

つまり、これまでの筆者はよく「こんなご時世だから」と悲観したり、恐れに駆られたりもしながら、それでもあきらめきれずに、「どうか御心にかなう良い条件の仕事をお与えて下さい」と、必死の思いで神に懇願したりしていたのだが、本当はそのように祈るべきではなく、実のところ、神の方が筆者に向かって、問うておられたのである、「あなたは一体、何をしたいのですか。世の情勢は関係ありません。あなたが願っている内容を正直に具体的に私に向かって言いなさい。そして、私にはその願いを満たすことができると信じ、権威を持って行動しなさい。」

神がそのように問うておられることは、その都度、「運よく」見つかる仕事が、どうにも筆者が心の中でそれまで思い描いていた条件にかなり合致している様子からも理解できるのだった。つまり、筆者自身も半信半疑の状態で祈りつつ、「神が奇跡を備えて下さるならば」と期待し、「運よく」見つけたと思っていたものが、実は、筆者自身が心の願いによって、主と同労して自ら創り出したものであり、神が筆者の祈りと信仰に応えて下さったことにより、信仰に応じて「創造」されたものであることを、認めずにいられなくなったのである。むろん、そうしたことは、職探しの過程だけでなく、生活のあらゆる場面で起きて来た。

このあたりから、筆者の考え方が劇的に変わって来た。

つまり、キリストにあって生きる「新しい人」は、この世の情勢に翻弄され、圧迫されて生きるどころか、天に直通の祈りを捧げ、キリストとの同労により、無から有を呼び出して来る権威を持つのだということが、次第に分かり始めたのである。

その「新しい人」の生き様は、世の中の悪化して行く情勢の中で、かろうじて生存が保たれているといったようなレベルのものではなく、まさに(共産主義者が自分たちの思い描くユートピアを表現するために、誇らしげに使っていたあの有名な)フレーズ、「必然の王国から自由の王国へ」、に見るように、「この世の情勢が悪いから、信者は仕方がなく妥協して、たとえ不法で劣悪な条件でも、この程度で我慢しなければならない」といったような、ちっぽけかつ不自由な生き方から、「あなたは何を願うのか」という、信者自身の個人的な願いに基づく「オーダーメイド」の生き方への転換なのである。

「キリストにある新しい人」の人生は、天と地の同労によって作り出される極めて個人的な人生であり、その生き方にキリスト以外の「型」はない。神は信者の心の願いに、細部に渡るまで耳傾け、応えて下さるので、キリスト者の人生は、極めて個人的な特色を持つもの、周囲の誰にも似ていない「オリジナルな」ものとなる、ということを、信者が心に留めておくのは有益である。

この世のほとんどの人々は、まるで大量生産された服を買って着るように、職業や、暮らしぶりなど、人生の隅々においてまで、すべての事柄について、ある種の型に自分をあてはめている。そして、その域を決して出ることはできないし、出ようと考えない。彼らは、その「型」が、自分の個性にとって非常に窮屈で、多くの苦しみをもたらしていることを、ある程度は認識しているのだが、それでも、それがあるまじき制約だとは考えず、あくまで自分自身を型に合わせて切り刻むことが正しいことであり、それ以外の人生はあり得ないかのように錯覚している。

だが、本当の人の人生のあるべき秩序は、それとは逆なのである。人間が型に合わせるべきなのではなく、型が人間に合わせて作られるべきなのである。型というものは、人間によって人間のためにこそ、造り出されるものであって、人間に奉仕することが、その役目だからである。そういう意味で、キリストにあって自由とされた人の人生は、もはや大量生産された型に自分を当てはめて、それに適合しない自分の一部を自ら切り刻んで切除しようと苦しむ人生ではなく、型が信者に従って作られる「オーダーメイド」の人生なのである。

そんなことは信じられないし、信じたくない、という人は信じなくて結構である。

だが、そのように、信者の人生が、信仰による「オーダーメイド」である以上、神との同労において、信者が心に何を願うのか、その願いの内容は、宇宙的な重要性を持っており、信者の人生に最も大きくものを言う事柄である。

そして、聖書の原則はこうである、「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう。」

つまり、神は信者に大志を抱くよう求めておられるのである。世人の誰であっても、多少のコネや、実力さえあれば、実現できるような、ちっぽけな願いで人生を終わるのではなく、「どうせなら、神にしか実現できないような、壮大なスケールの夢を持ちなさい。私(神)があなたと同労してそれを叶えてあげるから。そのようにあなたを満たすことが、私の心なのです」と、神は信者に求めておられるのである。

だから、信者が自分の人生について、どういう願望を抱くのかという問題は、信者が神をどのようなお方であると考えているのかという問題に直結している。信者は、神の愛と理解の無限なること、神の懐の深さ、気前良さ、その御力の偉大さなどに、ふさわしい夢を抱くべきである。そして、自分の願いを率直に神に申し上げ、「私にはできないことも、神にはできる」と、神を信頼して一歩を踏み出して行く時、神はそのような信仰を喜んで下さると、筆者は確信している。

そのようなわけで、多くの兄弟姉妹が「わがままだ」とか「贅沢だ」とか「献身者にふさわしくない」、「貪欲だ」などと言って批判し、退けていた信者の個人的な願いこそ、実は、極めて重要な事柄であり、それは信者自身にとってのみならず、神にとっても重要であり、神はその願いに熱心に耳を傾けて下さり、その願いに応えて、ご自分を現して下さることが分かって来たのである。

「現世利益を求めてはいけない」などの言葉で、多くの信者が、自らそんな願望は自分にはないかのように否定しようとしている信者の願いこそが、実は、信者がキリストと共に同労して行う「信仰による創造」の原材料となって行くのだ、ということが分かって来たのである。

だから、信者は、自分の個人的な願いを自ら捨てようとしてはいけないのである。それが明らかに御言葉に反するものでない限り、自分の願いをあきらめることなく、根気強く、天に向かって願い続けるべきである。

信者は自ら「古き人」と訣別しようとして、自分のあれやこれやの特質を自分で抹殺しようと努力する必要はない。信者の過去も、性格も、知識も、能力も、何もかもが、キリストにある「新しい人」に自然に統合されていることを信ずべきである。そして、十字架を経て、自分に備わった全ての特徴が、すでに神のものとして、神にあって有益に活かされることを信ずべきである。

もう一度言うが、信者は、自分の心の願いを通じて、信仰によって環境を創造しているのである。信者が環境に合わせるのではなく、環境が信者によって創造され、治められるべきなのである。

最初のアダムは、地を治めるために創造された。アダムは堕落してその任務に失敗したが、神はキリストにあって再び人類に地を治めさせようと計画しておられる。人間の創造の目的は、人類の罪による堕落と、サタンによるこの世の占領という出来事によってさえ、変わることなく、神はこれを永遠のご計画の中で成就される。それは、ただ単に信者が自らの意志でこの地を治めるというだけでなく、信者が主と同労して、すべてのものをキリストの御名の権威の下に服従させるという壮大な計画の一部なのである。

だから、信者が信仰によって祈り求める時に行使しているのは、御名の権威なのである。その祈りが応えられることは、環境が信者を通して、御名の権威に服することを意味する。

確かに、この世は堕落しており、目に見えるものはいつか終わらなければならない。そうして新しい世がやって来る。だが、キリスト者にあっては、御国はすでに来ている、ということを覚えておかなくてはならない。御国は、信者の心の中に、霊の内にすでに到来しており、信者は御名の権威に基づいて、霊的な支配権を行使することによって、天を地にもたらし、御国をこの地に及ぼし、この世を堕落した悪魔の霊的支配から奪還して、キリストの統治を打ち立てねばならないのである。だから、信者が主にあって何を願い、何を求めるのかは、この二つの支配権――キリストの支配と悪魔の支配――の争奪戦において、極めて重要な意味を持つ。

だが、それはただ単に霊的な戦いにおける勝利と、神の権益の拡大のためという文脈においてのみ行われるのではなく、神は信者自身の個性そのものを、極めて重要なものとして尊重して下さり、キリストにある新しい人の中で、信者の人格や個性が、生き生きと発揮され、そうして信者が一人の人として真に自然なあるべき人間の姿を形成することを願っておられる。

この「新しい人」は、自分の個性を、地獄の軍勢に支配されるこの世が大量生産した型に合わせて自ら歪め、切り刻んでは、自らを苦しめるという不自然で抑圧された生き方(必然の王国)を離れて、信仰によって、神と同労しながら、神に自分の願いを率直に申し上げ、祈りを通して、主と共に望む環境を作り上げていくという「オーダーメイド」(自由の王国)の生き方へと転換して行くのである。

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ――御名の権威に基づく環境の創造――それが「キリストにある新しい人」の生き様の主要な特長の一つである。信者が主と共に信仰によって環境を呼び出し、自ら創り出すのだから、信者のいる「ケーニヒスベルク」に全てが集まって来るのは至極当然である。


十字架のかげをいかで離れん

皆さんお元気でしょうか。
この頃、パソコンを置いている部屋の気温が高すぎるためか、思考能力が低下し、いつものような長文の記事が書けなくなりました。最近、記事がどんどん短くなっているのはそのせいです(これでやっと読みやすくなったと喜んでいる方もいらっしゃるかも知れません)。

書かねばならない問題は山積しているのですが、今はそれについて考える余裕がなく、さらに、今週末は諸用のため郷里を離れるため、来週明けまでは、ブログを更新できなくなります。コメント等、書いていただいてもいいのですが、戻って来るまでお返事できませんのでご了承ください。

さて、とても嬉しい報告が一つ。カルト化教会で深刻な被害を受けられたある方が、書いておられた。どんなに教会で意地悪をされたり、ひどい目に遭ったとしても、一度、心に灯った信仰の明かりは、そんなに簡単なことでは消えないと。たとえ消えたとしても、その人がキリストのもとへ立ち戻ることを望めば、必ずその火は再び灯るのだと。

この言葉を聞いて、私は、万歳、ハレルヤ!と叫びたくなった。心配は要らない、カルト被害者が何度、痛めつけられることがあっても、死の影の谷を歩まされることがあっても、主ご自身が必ず、その人を助けられるだろう。神の愛は考えうる限り全ての障害を越えて、さまよう羊たちの心にまで届くだろう。
そして一度打たれた人たちは、打たれなかった人たちよりはるかに強く賢くなって、鍛えられて、戻って来るに違いない。私はその雄姿を見て、驚かされることになるかも知れない…。

神の愛は、人間によるすべての救済活動の枠組みを高く超えて、川のように流れ行くだろう。街も、家も、丘も、人の築いたもの全てがその流れの下に隠れて見えなくなるだろう。しかし、緩やかで力強いその愛の流れは、小さく弱い人間を決して無造作に押し流したり、傷つけることなく、そっと温かく包み込み、川のほとりまで優しく運んでくれる。そこに着けば、どんなに傷ついた人も、心の重荷を降ろし、安らぐことができる…。

幾度も書いてきたように、カルト被害者に何よりも必要なのは、まことの癒し主であるイエス・キリストである。極限まで傷つけられた被害者の心をカウンセリングで癒すことはできない。真の悲しみ、苦しみの前では、人は無力だからだ。不注意かつ不完全な私のどんな努力も、善意も、圧倒的な悲しみの前では、全てわざとらしいものにしか映らない。人を癒す力を持っているのは人ではなく、ただキリスト、御言葉だけである。

しかし、それを分かった上で、クリスチャンは、カルト被害者のために熱心に祈り続け、彼らに寄り添うことを心がけて欲しい。多分、初めは拒絶されたり、不信感だけが返って来て、上手く行かず、当惑を覚えることもあるだろうと思うが、それでも、寄り添うことを続けて欲しい。そして、傷つけられて教会の外に打ち捨てられた羊たちが、一人でも多く、信仰に立ち戻るように、絶望の淵に立たされている人々の心に、少しでも早く、御言葉の光が届くように、祈って、呼びかけて欲しい。なぜなら、それが遅れると、死を選んでしまう人たちもいるからだ…。教会の中に戻ることが必要なのではない、キリストの十字架の救いに連なる者となることが何より必要なのだ。

もしも善良で心あるクリスチャンがいるならば、どうか私のためにも祈って欲しい。先にお祈りをお願いした被害者と全く同様かそれ以上に、私自身もいまだ被害から抜け切れていないためだ。張り詰めた生活のために生じた極度の疲労は今も抜けないし、将来の不安、失業問題もついて回っている、その上、家庭的な問題と信仰の迫害があり、幾度も人に利用され、捨てられてきたゆえの孤立無援感、そういうものに苛まれないで暮らせる日は一日もない。これは今、私の力では解決することができない諸問題である。もしも主のためにそれを耐え抜くのが私の仕事なのであれば、そこから逃げようとは思わないが、けれども、もしこれらの重荷が軽減される恵みをいただくことができるなら、幸いに思う。

すでに私のために祈って下さっている方がいらっしゃることは分かっています。けれども、さらに協力をお願いしたいのです。私の弱さのために、また、私と同様の苦痛を耐え忍んでいる被害者たちの環境改善のためにどうかお祈りください…。

さて、今日は懐かしい賛美歌を一曲紹介する。
キリスト教界でつまずかされた信徒たちが、一人でも多く、十字架に戻れるようにとの願いをこめて。また、同胞クリスチャンには、共に御国に入る時まで、十字架をしっかりと離さず、心の中で握り締めて、人生を最後まで歩み抜きましょうとの願いをこめて。

「十字架のかげに」聖歌 396番

十字架のかげに いずみわきて
いかなる罪も きよめつくす
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで

十字架のかげに ゆきしときに
み神の愛を さとりえたり
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで

十字架のかげを 求めつづけん
けわしきさかを のぼるときも
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで

十字架のかげを いかではなれん
みくにのかどに いる日までは
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで

何度つまずき、何度神を裏切り、何度信仰を離れたとしても、人には生きている限り、十字架のみもとに立ち戻るチャンスが与えられている。希望を失って悲しんでいる人たちには、今日、あなたのために死んで下さった主イエス・キリストの十字架の救いを信じて魂の安らぎを得て欲しい。