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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(10)―義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

村上密が挑発的な記事を書いている。

自分は全国行脚の旅に出ており、各地から引っ張りだこで、宗教トラブル相談センターへの相談は尽きないという。

筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表し、控訴審で名誉毀損を主張されても、仮に自分が刑事告訴されたとしても、そんなことでは、自分の率いるセンターはびくともしないと言いたいらしい。

まるで「ヴィオロンよ、俺の首を討ち取ってみろ、そんなことができるわけがない。センターは永遠だ」と言いたげな記事に感じられる。

だが、このような状況で、このようなことしか書けないとは、本当に愚かなことであると筆者は思う。こうした話には、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)との御言葉を繰り返すのみである。

村上はこれまで高慢さゆえに、ことごとく自らの言葉につまずいて来た。むしろ、筆者にとって、村上がこのような多忙状況に置かれていると知らされることは、まさに幸い以外の何物でもない。

ここ一年間、筆者は民事訴訟における戦い方を学んできた。次回期日までに一カ月程度の時間しかない中、複数の仕事をかけ持ちしながら、準備書面を用意することは、並大抵の苦労ではない。しかも、筆者はそれを2名の被告相手に、他の様々な煩雑な作業と並行して成し遂げて来たのである。

その作業が、これから村上に落ちかかることとなる。控訴審では、村上は本格的な防御に回らなければならないからだ。これまでのように、杉本を盾のように利用しながら、杉本と筆者との全面対決を傍観者的に見ていられる立場ではなくなったのである。

控訴審で村上とどのような議論になるか、そのロジックの基本部分は、判決では全く認められなかった杉本の書面からも十分に拝借できる。むろん、第一審でも、筆者はそれを利用したが、筆者はこれから杉本の主張を裏返しにして、村上に適用して行くことになる。まずは真実性・相当性の法理である。

村上は私人ではない。TVの記者会見に出演し、数多くのカルト被害者の訴訟にも支援者として関わり、宗教トラブル相談センターを率いて、自らカルト問題の専門家を名乗っている著名な牧師である。以上の記事でも、村上自身が、自分は全国から引っ張りだこになっているかを強調している通り、村上の活動は、社会の関心事であり、それゆえ、村上の活動を筆者が批判したとしても、その内容が公共の具体的な利害に関係しており、なおかつ、摘示した事実が真実もしくは真実であると信ずるに相当な理由があり、その批判の目的が、もっぱら公益を図ることにあれば、その批判が、村上の社会的な評価を低下させるものであったとしても、名誉毀損とはならず、違法性阻却事由に該当する。

それに引き換え、筆者は私人であり、筆者の執筆しているブログも限定されたテーマであるから、それに対する非難が公共性のあるものと言えないことは一審でも認められている。

そこで、村上はこの先、筆者の記事がなぜ違法性阻却事由に該当しないと言えるのかを自ら証明し、さらに、村上が発表した記事が、筆者に対する名誉毀損にも該当しないことを自ら証明するという二段階の論証をせねばならない。

その他にも、そもそも刑事告訴がなされたのかどうか、これを客観的に立証するのも、村上の仕事だ。

それに加えて、村上は4月1に発表した人格権の侵害が不法行為に当たらないことをも主張して、自己防御せねばならないが、こうしたことは、すべて相当な困難を極める作業となるはずである。

しかも、村上は一審判決が言い渡されるや否や、すぐに筆者の人格権を侵害しつつ、事件について触れた記事を発表し、さらに筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表し、それ以外にも、筆者を名指しで批判する記事を発表している。

こうした一連の記事に、筆者は当然ながら、反論する権利を有する。ただ反論内容が気に入らないということで、名誉毀損が成立するはずもない。

そこで、村上が主張している名誉毀損が、成立の条件を満たしていない場合には、当然ながら、虚偽告訴罪が視野に入って来ることになる。民事でまず村上の主張を崩し、次に刑事事件でこれを無効化し、最終的には、虚偽告訴罪を主張して行くという段取りになるだろう。

このように、村上が軽率にブログで蒔いたいくつもの種は、これからことごとく村上に極めて厄介な問題となって跳ね返るものばかりである。正直に言えば、今の筆者から見て、村上が今、専念すべきは、宗教トラブル相談センターの活動を自慢することではなく、この訴訟において、これだけ不利な要素を抱えながら、確実に勝利できる手立てを必死に考えることである。
 
筆者から見て、村上が以上に挙げた問題について、不法行為を主張されないための十分な反論を行うこと自体が極めて困難であるばかりか、村上が現在のように訴訟を見くびった態度で、他の仕事に専念している状態では、到底、勝つことはできない。

準備書面を作成するのは、ただでさえ全国を忙しく飛び回っている牧師には、相当な負担となるであろう。きちんとした論を展開するためには、まとまった時間が必要であり、何より自由に物事を熟考するための余裕が必要である。

いくつもの仕事の合間に、細切れに文書を作成することは、極めて難しく、思考がとぎれとぎれになり、主張が明確化できない。論敵に反論するのは、ただでさえ厭わしい仕事であるから、逃避の手段が他にあれば、すぐにそこから逃げてしまうのが人間である。

自分の考えもまとまらないうちに、下手に弁護士に丸投げすると、ますます支離滅裂で筋の通らない理屈を立てられ、敗北へと誘導されるだけである。

筆者は、訴訟が時間との戦いであり、主が采配して下さらなければ、このような戦いを完遂するための条件を、自力で整えることは不可能であることを知っている。

訴訟に勝つためのポイントは、まずは時間的制約という問題を取り払い、この問題において、論敵よりも圧倒的優位に立つことである。

別の言葉で言えば、その争いにどれほど強い思い入れがあり、自分の望む結果を得るために、どれほど時間と労力を惜しみなく投入できるかが、勝敗を分ける。勝つためのロジックは、まず時間的余裕があって初めて生まれる。時間と労力において、論敵よりも不利に立たされながら、訴訟で勝利をおさめることは、まず不可能なのである。

そこで、この時間的制約という厄介な問題を、可能な限り取り払うためには、何よりも、自由であることが必要だ。この問題は、訴訟だけでなく、すべての物事に共通する。自由こそ、勝利のための基礎なのである。

そこで、多くの人々から呼びつけられ、歓迎され、引っ張りだこにされていることは、「これだけ私は社会で必要とされているのだ」という満足感を本人にもたらし、自慢話の種にはなるかも知れないが、それは裏を返せば、自分の必要のためでなく、人々の必要のために、絶えず時間を費やさせられ、奔走させられていることを意味するから、自己を防御するための時間は、その合間にしか残らない。このような状態は、極めて無防備と言えるのであって、こちらから見れば、まさしく好都合でしかないのである。

村上が控訴審の議論も、A4・3枚で事足りると考えているのかどうかは知らないが、その「簡潔な」書面で、以上のような極めて複雑で厄介な問題をどのように整理できるのか、まずはお手並み拝見と言えよう。繰り返すが、弁護士に依頼したからと言って、本人がきちんと考えてもいないものを、弁護士でさえ補えない。唐沢治の弁護士が作成したような書面では、ほぼ勝ち目がないことは、はっきり断言できよう。

神の御前で本質的に重要な事柄をおざなりにしながら、自分の栄光のために東奔西走したとしても、それは滅びにしかつながらない。心を静かにして、御前に立ち止まり、人間の思惑から離れたところで、自分の問題をすべて主に委ね、心を注ぎだして解決を求める謙虚さが必要である。

* * *
 
さて、掲示板では、ビュン事件の性暴力の被害者もしくはその関係者と見られる信者(?)の女性が、当ブログをひどく中傷し、おびただしい数の権利侵害を繰り返しながら、当ブログが性被害事件に理解がないと責めている。

だが、こうした言い分に流されて、カルト被害者を巡る裁判に肩入れすることが、いかに危険であるかを考えてもらいたいと筆者は思う。

掲示板では、次のような趣旨の投稿があるのを筆者は読んだ。2009-2010年にかけて、「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と杉本ブログに書き込んだKFCの元信者が、当時、杉本ブログの関係者に被害を訴えて泣きついたところ、このブログに深く関わっていた黒幕のような人物から、唐沢に対して訴訟を起こせ、さもなくば、俺たちに金を払え、と脅され、元信徒は杉本ブログを取り巻いているヤクザのような連中に恐れをなして、彼らの陣営から逃げ出したのだと。

むろん、こういった話の真偽のほどは定かではないが、これは十分にあり得ることだと筆者は考えている。ここに、なぜカルト被害者救済活動の支持者らが、訴訟にこだわるのかという理由がよく表れているものと思う。

つまり、KFCの元信徒の訴えた被害は、カルト被害者救済活動の陣営にとっては、新たな訴訟を起こして賠償金をせしめる絶好のチャンスと映ったと考えられるのだ。彼らは元信徒の訴訟を助けるように見せかけて、これにたかり、賠償金をせしめようと考え、元信徒を訴訟に焚きつけようとしたが、元信徒がこれをためらったので、目当てとしていた金が手に入らないと踏んで、手のひらを返して彼を恫喝し始めたのである。まあ、ゆすり、たかりのようなものであろう。

安易にカルト被害者救済活動に接触すると、このようなひどい目に遭わされるという教訓である。また、訴訟を支援するように見せかけている人々の本当の目的が、被害の克服にではなく、訴訟で得られる金にある様子もよく見えて来る。

掲示板でも指摘されている通り、ビュン・ジェーチャンの事件では、被害者は民事で四桁の賠償を勝ち取った。むろん、性被害事件のすべてがこのような高額の賠償で終わるわけではない。むしろ、個人が性被害を訴えた事件では、被害の認定さえも行なわれないで、敗訴に終わるケースは少なくない。

その点、ビュン事件は、被害者が団結してメディアなどでも被害を訴え、世間から注目されていたことなど、様々な条件が有利に働いて、以上の結果が出た。もちろん、このような好条件が整えられたのも、カルト被害者救済活動の側からの効果的な演出によるもので、偶然ではないと見てよかろう。

だが、それゆえに、おそらくは、この事件で被害者に支払われた賠償金の何割かは、この訴訟をバックアップした陰の支援者たちに、「謝礼金」としてキックバックされたのではないかと考えられる。

むろん、こうした話は、闇から闇へと消えて行くものであって、確かな証拠を提示することは難しいとはいえ、業界の常識を考える限り、暗黙の了解として、そういうことが行われているのではないかと考えるのは妥当である。

たとえば、音楽の業界でもこういうことがある。バイオリンを習っている生徒が、新たな楽器を購入したいと考えて、自分の師匠に相談したとして、師匠が懇意にしている楽器商を生徒に紹介し、生徒がその楽器商から新たな楽器を購入すれば、その購入代金の3割程度が、楽器商から紹介した師匠にキックバックされる。

あるいは、労働紛争を考えてみれば、もっと分かりやすい。労働紛争を専門に担当している弁護士、NPO法人、ユニオン、組合などは、すべてボランティアではなく、成功報酬型の商売である。彼らは労働者を助けてやると言いいつつ、労働者の問題にたかって利益を得ている。労働者の訴訟を支援する代わりに、勝訴した場合の賠償金の少なくとも2割程度は、成功報酬として彼らに差し出される。

従って、労働紛争も、被害者ビジネスとして大いに利用されているのであって、訴訟の支援者たちは、成功報酬の一部を受け取ることで、それを利益としている。その中で、カルト被害者の裁判だけが、例外ということはまず考えられない。四桁の賠償金の2~3割となれば、相当な金額に上る。
 
つまり、カルト被害者の裁判は、これを陰から支援している代理人や支援者にとっては、実に美味しいビジネスになりうるということなのである。
 
筆者は、杉本徳久のような人物が、カルト被害者から恒常的にキックバックを受けていたと言っているわけではない。むしろ、杉本ブログは、特に初めの頃は、カルト被害者の裁判をビジネスの手段としている人々に、都合の良い宣伝広報係として、大いに利用されていた可能性があるものと思う。

このように、KFCの元信徒を巡る話を考えてみる限り、非常に強欲な勢力が、杉本ブログの背後に着いていて、金儲けのために、杉本にどんどん被害者の訴訟に関する記事を発表させたり、杉本ブログに助けを求めてやって来る被害者を食い物にしようと待ち構えていた可能性が、考えられないことではないのだ。

そこで、いかに真偽のほどは分からないとはいえ、訴訟を巡っては、実際に高額の金銭が動くのであって、表向きの美談だけを見て、カルト被害者の支援者を名乗る者たちが、正義の味方だなどと思い込むことは、極めて浅はかかつ危険であると筆者はみなしている。

カルト被害者の訴訟を、ビジネスの手段として利用している様々な勢力が存在している可能性があること、彼らが被害者の弱みにたかり、栄光と金をむしり取っている可能性があることを疑ってみなければならないのだ。
 
そしておそらく、2009年当時から、それがすでに実状となっていたからこそ、被害者意識が(加害者意識と表裏一体の)罪深いものであることを指摘し、これを聖書にさからう悪として、神の御前に投げ捨てる必要を訴え、被害者を一方的に美化する活動の危険を訴え続けて来た当ブログは、カルト被害者救済活動の陣営から見れば、非常に目障りだったのだと言えよう。

むろん、村上密も、カルト被害者の裁判に、支援者・代理人として関わっている。上記の記事で、村上は、「北海道の山々はまだ雪に覆われている。ここでの仕事が終われば沖縄での仕事が待っている。それから富山、茨城、神奈川、東京、大阪、奈良、石川、宮城、沖縄、東京、福島。宮城、奈良、東京、大阪、沖縄と二月間の巡回の予定である。」と記しているが、こうした活動も、基本的には、被害者の相談に乗ったり、被害者の会合に参加することを指しているものと見られる。

だが、一体、それだけの旅費・交通費はどこから出るのか、という疑問が湧いて来るのは当然であろう。まさか京都七條基督教会が単独でそこまで負担するはずもない。だとすれば、その旅費の大半は、おそらくは村上を招いた人々が自主的に負担しているのだろうと見られる。

もちろん、旅費のみならず、牧師を招聘し、メッセージやカウンセリングを依頼するとなれば、招聘した側の人々は、それにも謝礼を支払うであろう。だが、そうした献金は、活動報告と共に、京都七條教会の会計に上がって来ることはないものと考えられる。

従って、カルト被害者救済活動には、訴訟における賠償金のキックバックだけでなく、こうした日常的な活動においても、誰の目にも触れないところで、被害者から牧師に渡される極めて不透明な資金の流れがあることが予想される。

これは村上に限ったことではない。村上の登場以前から行われていた、統一教会からの信者脱会運動などにも同様に当てはまることである。カルト被害者の家族が、カルト宗教の信者となっている娘息子の脱会を牧師に依頼した場合、その牧師に、娘息子が取り戻されてから直接、手渡した謝礼金というものが存在するはずである。それは教会の一般の会計報告には上がって来ない、闇から闇へと消える金である。そして、おそらくは、この不透明な資金の流れこそが、一部の人々が、いつまでもカルト被害者救済活動から離れられない理由ではないかと筆者は見ている。
 
カルト被害者たちは、裁判を起こせば、勝訴した後も、被害者の会を結成し、いついつまでも、訴訟を支援した者に、「先生、ありがとうございました」と頭を下げつつ、定期的に支援者を自分たちの会合に招いて集会を持つ。彼らは、それが立ち直りのために必要なことであると考え、自分たちはこの先生に助けられてこそ、今の人生があると考えているので、招聘の度ごとに、食費、旅費、交通費、謝礼金などを喜んで負担する。その他、相談料、献金など、様々な名目で金銭の受け渡しや便宜供与が行われる。

もちろん、そのような会合を何度重ねたところで、彼らはキリストに至り着くことなく、心の解放を得られるわけでもない。むしろ、生涯に渡り、訴訟の代理人・支援者となった者と、心の癒着が生じ、受けた被害から離れられなくなって行くだけなのである。
  
今後の記事では、このようにビジネスとして他者から食い物にされないためにも、人が被害者意識そのものを捨てることの必要性について触れたいと考えている。特に、性被害事件のトラウマを引きずり続けることは、人間の男女の健全な関わりを生涯に渡って壊してしまう恐れがあるだけでなく、神と人との関係をも、根本から破壊する恐れがあるためである。

聖書によれば、神と人との関係は、小羊とエクレシアの婚姻になぞらえられている。そこで、性被害事件の被害者が、その事件のトラウマのために、地上における男女の健全な関わりのイメージが傷つけられ、穢され、壊されたままで、小羊とエクレシアとの婚姻の問題だけを、健全に考慮するということは、非常に難しいであろうと考えられる。

つまり、地上において受けた被害が、魂の傷となるだけでなく、霊的にも非常に深い傷となって残り、神との正常な関係を妨げ、傷つける恐れがあるのだ。

筆者は、何らかの事件に遭遇すれば、合法かつ正当なやり方で、これを解決することに反対するつもりはない。物損事故は、弁償されればすぐに終わるであろうし、名誉毀損事件も、賠償で終えられるかも知れないが、性被害事件のような事件のトラウマは、決して金銭で解決できる種類のものではない。受けた心のトラウマは、どれほど高額な賠償を得たとしても、それによって払拭されない。

そこで、受けた被害を神の御許に持って行くという行程が必要となる。だが、カルト被害者救済活動の支持者たちは、いついつまでも被害の思い出から離れることなく、決してその傷を神の御許へ持って行き、解消するよう促さず、かえって被害者であることを強調しつつ、まるで被害を記念するような会合を持ち続けている。

そのようなことをしている限り、彼らのトラウマは、消え去るどころか、ますます強化される一方である。そして、健全な自己イメージを回復できず、かえって傷つけられた自己イメージを、あたかも正常な自分自身であるかのように勘違いし、その結果として、地上における男女の健全な関わりが不可能になるだけでなく、神との関係においても、傷つけられた自己イメージを持ち続けることによって、恵みから疎外されることとなり、やがてその被害者意識が、キリストの完全性に悪質に逆らう罪にさえなって行く。

筆者の書いていることが厳しすぎると考える人々がいれば、掲示板で、今、カルト被害者を擁護する人々が、当ブログに対して、どれほど悪質な誹謗中傷を加えているかを見てみれば良い。このような汚い言葉を他者に向かって平然と吐き捨てることができる人たちが、本当に被害者の味方であろうか。また、仮に自身が被害者であったとしても、自分を憐れむあまり、他者に対してこうまで残酷となり、狼藉を加えることがどうして許されるであろうか。

しかし、当ブログでは10年ほど前から、カルト被害者を名乗る人々に接触し、彼らの中には、このようにまで自分の被害から離れられなくなり、自分は受けた被害のゆえに、自分は人々から無条件に憐れまれるべきで、何をしても許されると思い込むほどまでに、人格が腐敗し、幼稚化してしまった人たちが混じっていることを見て来た。

こうした被害者意識をこそ、私たちは主と共なる十字架において死に渡し、手放して行く必要がある。裁判で社会的決着が着いた後も、いついつまでも被害を記念すべき会合など持ち続けて、支援者を名乗る人々に束縛され、利用されている場合ではない。その被害の思い出そのものを、罪深いものとして手放し、きっぱりと捨て去って、新たな出発を遂げ、被害者であるというステータスと訣別しなければ、その被害は、やがて山火事のように、あなた自身を食い尽くすことになろう。

当ブログは、聖書の御言葉に基づく信仰に立つものであるから、性被害を訴えることが目的でもなければ、カルト被害者の裁判の模様を発表することを目的ともしておらず、カルト被害者を擁護することも目的としていない。それゆえ、カルト宗教における性被害の問題は、ほとんど取り上げることもなく、詩織さん事件などについても、これまで何も言及して来なかった。

筆者は、詩織さんの事件についても、深い懐疑の念を持っている。それは、詩織さんという一人の女性が、あまりにも美化され、彼女がまるで性被害事件の象徴のようになって、一人歩きしていることに、大いなる疑問を感じるからである。自分が遭遇した一過性の事件として、彼女がこれを解決するならば、それは大いにすれば良いことである。もちろん、弱さを抱えている若者を食い物にする現在の日本社会の問題も一緒に論じられることは構わない。

だが、当ブログが懐疑するのは、彼女に群がって、彼女を美化し、神話化し、象徴化し、生涯に渡り、彼女を性被害を受けた被害者の象徴として祀り上げ、これを存分に利用しようとしている実に数多くの人々や団体があることである。

そして、それに利用されれば、彼女は生涯に渡り、自分が受けた一過性の被害から抜け出ることができなくなり、自分の人生を失って、絶えず被害者の象徴として、無数の人々の被害を代弁しながら、悲劇の人として生きて行くことになるであろう。そして、そのような役割を、もしも彼女が喜んで引き受けるとすれば、そこには、ただ彼女を担ぎ上げた団体や人々の思惑が働いているだけでなく、彼女自身がこの事件に遭遇するよりも前から、心に持ち続けていた何かの問題、弱者性から抜け出ることのできない世界観が、影響を与えているのではないかと筆者は見ている。(彼女の世界観がどのようなものであるかは、彼女が制作した作品を見れば分かるであろう。)

つまり、当ブログでもずっと主張しているように、カルト被害者が、被害に遭遇したのには、何かの理由が存在するのであって、被害者はいかなる心の弱さが自分の側にあって、それが暗闇の勢力がつけこむ隙となったのかについて、よく考えてみなければならない。この問題を考えるよう促すことは、断じてセカンドレイプではない。なぜなら、弱さがあればこそ、被害者はつけこまれたのであって、そこには、当然、心の弱さも含まれており、その弱さを克服することができなければ、何度でも、同様の問題に巻き込まれることがありうるからである。

神はキリストにあって、私たちを完全にしようと願っておられる。そこで、私たちは、その完全性を受けとるために、自分の弱さを知り、それを神の完全に逆らうものとして手放しつつ、その弱さを主にあって補われ、克服できることを知らなければならない。自分は弱いかも知れないが、神の強さによって覆われる道が開かれているのだから、いつまでも弱さの中にとどまり続ける必要がはない。

事件に立ち向かうことを通して、自分自身の心の中にも、克服すべき弱さが存在することを知って、その領域を光によって照らされ、より完全な人としての自己意識へたどり着くことが必要である。
 
筆者が述べていることの意味がまだ分からないという人のために、別なたとえを述べよう。筆者が掲示板の誹謗中傷の書き込みを、名誉毀損の被害として訴訟で訴えたとして、それは単に一過性の事件に過ぎない。筆者はそれを機に、生涯、掲示板における誹謗中傷の問題を世に訴え、これと戦うために、活動家に転身しようなどとは全く思わないし、そのようなことは実に馬鹿げたことである。投稿者が判明し、賠償をさせれば、その時点で、何が書かれたにせよ、その問題は、以後、終わったものとして考えるだろう。

それなのに、一度、掲示板の投稿者を敗北に追い込んだことで、これをいつまでも掲示板への勝利の記念として、会合を開いては、そこにいかなる誹謗中傷が書かれたのか、つぶさに文言を読み上げて、自分がどれほどそれによって深く傷つけられたかを思い出し、涙を流すようなことは決してしない。むしろ、毅然と立ち向かったがゆえに、敵の嘘をきっぱり退けて、この問題を克服し、虚偽の投稿によって自分の心を傷つけられず、それを鵜呑みにすることもなく、心の平和を無事に保ったことをこそ、喜ぶであろう。

もちろん、そうなるまでには、多くの月日が必要かも知れないが、一旦、一つの問題を解決したならば、もはやそれは心に影響を及ぼすことはない。その後、筆者はまた別のより困難な問題に取り組むかも知れないが、それは、掲示板とは全く別の新しい問題である。筆者はその新たな問題をも克服して、前進して行くであろう。このようにして、絶え間なく前に進んで行き、そこで自分の心の弱さと取っ組み合って、これを打破し、勝利をおさめ、さらに前進して行くためにこそ、人は試練に遭遇するのだと筆者は考えている。

従って、一つの課題をクリアしたのに、その問題にいついつまでもとどまり続け、いついつまでもとらわれ続けることは、有害である。一つの問題を解決したならば、それを後にして、前に進んで行くべきなのである。

このように、起きた事件を一過性のものとして決着をつけることと、生涯、自分をその問題の被害者の立場に置いて生きていくことは、全くわけが違う。だが、被害者に群がって、これをビジネス化する人々は、被害者の像を無限大に美化し、神話のように祀り上げることによって、かえって被害者が生涯に渡り、その問題に束縛され、被害者としてのステータスから抜け出るチャンスを失うように仕向ける。

その結果、彼らは、神にあって約束されている健全さ、完全性を見失い、傷つけられた自己イメージを生涯に渡って持ち続けることになり、その中を生きるようになる。一つの問題を克服して、次なる次元に進むことさえ、できなくなって、生涯、一つの問題の中だけにとどまり、それにとらわれて前進することができなくなってしまう。そのようにして、被害者自身もそうだが、それに群がる無数の人々が、被害者の像を美化することで、被害者を「被害者性」の中に閉じ込め、永遠にそこから抜け出せないように仕向けて行くことは、神が約束された人間の自由と解放に悪質に逆らう行為であり、非常に罪深い行為であると筆者はみなしている。

* * *

さて、本日の当ブログのテーマに戻ろう。まず最初に、オリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの論説を挙げておきたい。この記事には、キリストと教会の結婚の奥義について、詳しく書いてあるからである。
 

 「キリストとの合一」第五章 夫婦の合一(4)


交わりと配偶

 これを二、三の単純な、自明と思われる点にまとめることにしましょう。最初のアダムの最初の夫婦関係という絵図・型に沿って、これに注目して調べることにします。そして、「これに関する神の御思いは何だろう」と問うことにします。そうするなら、それらの御思いを、あらゆる関係の中で最も幸いな関係の中にあるキリストと教会、キリストと私たちに適用することができます――確かに、これはキリストとのすべての関係の中で最も幸いな関係です。神の御思いは何だったのでしょう?

 まず第一に、聖書が示すところによると、神が女を創造してこの合一を生み出そうとされたのは配偶のためでした。「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)。これに尽きます。しかし、それには豊かな内容があります。これをキリストと教会に適用するのはおこがましく思われますが、それでも、キリストに対する教会の関係――教会はキリストの妻です――には、これを確証・証明する多くの他の要素や特徴があります。

これはこれだけではありません。旧約聖書の中には花嫁の型がとてもたくさんあり、その思想をキリストと教会に適用するに足る十分な証拠に満ちています。それらがキリストと教会を指し示している証拠や証しがふんだんにあります。今はその学びに取りかかるつもりはありませんが、確かにあります。証拠はたくさんあります。ですから、おこがましく思われるかもしれませんが、私たちはこの点を私たちの主との私たちの関係に適用することができます。すなわち、教会を神が創造されたのは、御子の益を促すためであり、御子のために配偶を願ってのことだったのです。

 地上におられた時の主イエスを見ると、彼がどれほど交わりを求めておられたのかを見落とすことはありえません。おそらく、彼が語られた最も悲しい言葉の一つは――「あなたたちは(中略)私を独り残すでしょう。しかし、私は独りではありません。父が私と共におられるからです」(ヨハ一六・三二)という言葉です。これによって彼の発言が弱まったり相対化されるわけではありませんが、「私は独りです」という彼の言葉には悲しい響きがあります。彼が常に配偶を求めておられたことは自明です。彼は人であり、他者の必要を感じておられました。それは神聖なものです。キリストは交わりを求めておられます――「交わり」というこの言葉を取り上げる新約聖書の方法は素晴らしいです。これは何と豊かな言葉でしょう!自分のコンコーダンスを調べてみてください。そうすれば、「交わり」というこの言葉の原語がわかります。そうするだけでも豊かな学びと黙想になります。確かに、とても貴重な経験になります。「あなたたちは御子の交わりの中に召されたのです」(一コリ一・九)

 これは、まず、夫婦の合一、配偶もしくは交わりの思想、観念を表しています。第一に、配偶に先立つ交わりは交わりにすぎません。この関係の最初の調べ、支配的調べはまさに交わりです。

 交わりとは何でしょう?交わりは生活と目的の一体化です。キリストは生活と目的が御自身と同じ人々、御自身の心と一つ心である人々を望まれました。あなたや私はそのような関係の中に召されました。あなたや私が主イエスに、御自身の生活や目的と一体化した人々を求める深い心の願いと願望を起こさせなければならないとは、高遠なことであり、聖なることであり、貴いことです。今述べるのはこれだけですが、これが夫婦の合一の意義の第一歩です。



ここに、キリストと信者(エクレシア)の交わりの本質は、「生活と目的の一体化」であると記されていることは、注目に値する。

なぜなら、数多くの信者が、キリストとの交わりとは、日曜礼拝に参加することや、甘美な讃美歌の調べに身を委ねること、説教を聞くこと、パン裂きの儀式に関わることや、兄弟姉妹と交流することなど、何か宗教的な名目のついた心地よい体験に浸ることだと勘違いしているからである。

もしくは、ある日突然、天から神の啓示が下り、キリストが自分に対して特別にご自身を現して下さり、何か尋常でない恍惚体験に浸ることを、神との交わりであるかのように勘違いしているる人々もいる。

確かに、神は信じる者に、ご自身を啓示して下さることがないわけではないが、オースチンスパークスは、以上のような感覚的な享楽や、恍惚体験が、神との交わりであるかのような考えをきっぱり退け、主との交わりとは、「生活と目的の一体化」であると断言する。

そこからも分かる通り、主との交わりとは、信者の生活のあらゆる場面が、ただ一つの目的――御国の前進、御心の実現――のために集約されて行くことを言う。別の言葉で言えば、それは信者が、自分の人生のすべてを神のために捧げ、神の満足のために生きることを言う。

それは決して信者が神学校に行って牧師になったり、伝道師や宣教師になったりすることを意味しない。

信者の人生の一瞬一瞬のすべてが、ただキリストのために、キリストの満足を目的として捧げられることを指している。

パウロは自分に与えられた人生の時間を、すべて主のために注ぎだしたいと考えた。彼はただ神の満足のために生きたいと願っていたので、それゆえ、自分の時間をそれ以外のことに費やすことを惜しんだのである。

もしもパウロが地上で妻を得れば、彼は伴侶を喜ばせるために、たくさんの気を遣わなければならなかったろう。子がいれば、多くの世話をしてやらねばならない。家庭を持てば、パウロ自身も、満たされることはあるかも知れないが、彼は感覚的満足と引き換えに、自分の時間と労力を、人間のために捧げねばならなくなる。だが、パウロは、自分の持てる時間を、自分の満足のためでなく、神の満足のために捧げたいと考えた。

パウロが誰よりも喜ばせたいと考えていた相手は、人ではなく神であり、そうすることが、他のどんな事柄りも尊い価値ある生き方であることを、彼は知っていたのである。

さて、オースチンスパークスの論説からも伺えるのは、神の悲しいまでの孤独、配偶を得たいと願われる切なる御思いである。

「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)――この言葉は、神の独り言と言って差し支えない。神は天地を創造され、人を創造された際、人(アダム)のために助け手(エバ)を造られた。しかし、ご自身はまだ助け手を得ておられなかった。

そこから、悲劇が始まる。人類は本来、神の配偶(助け手)として造られたのに、創造された次の瞬間、神を裏切り、悪魔の支配下に下った。

神は人類を滅びから救おうと、独り子を地上に遣わされたのに、弟子たちは主イエスが十字架にかかられる前、主を裏切って逃げた。

かの有名なイザヤ書53章には、イエスが地上におられた際の孤独が、どれほどのものであったかを伺わせる記述がある。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」

さて、筆者が、当ブログに対して向けられる中傷のすべてが、筆者個人に向けられたものではなく、実は、筆者の背後におられるキリストに向けられたものであることに気づいたのは、ここ最近のことである。

村上や杉本のような人々は、当ブログの内容が、かねてより「創作」であり、嘘に満ちたものであるかのように非難していた。

しかし、杉本がある時、はっきりと聖書は神の霊感を受けて書かれたものでなく、人間の書いた書物に過ぎないと告白し、人類の堕落も、ノアの洪水も、サタンも悪霊も暗闇の軍勢も、みなファンタジーのような比喩に過ぎないと書いたことにより、筆者は、この人々が、当ブログをファンタジーの産物であるかのように述べているのは、実は当ブログの記述の背後にある聖書の御言葉に対する攻撃であることに気づいた。

彼らは、当ブログを「創作」であるとみなしているだけでなく、その背後にある聖書の御言葉をも「創作」だと考え、その真実性を信じていないのである。

今、掲示板等で行われている筆者に対する人身攻撃もそれと同じである。上記の御言葉を参照するならば、キリストには、「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もな」かったのであり、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とある。

これは不思議なことである。一方では、キリストはそのまことの命を人々に分かち与えられたことにより、多くの人々から慕われ、大勢の群衆に囲まれていた。ところが、他方では、彼には、堂々たる風格も、人目を引く容姿もなく、むしろ、人々から軽蔑されて、拒絶され、顔を背けられ、孤独で、見捨てられ、嘲られていたとある。

人々は、自分にとって利益となるものを見いだせる間は、キリストに群がり、その後を追ったが、いざキリストが苦難を受けられると、自分は一切、関わりたくないとばかりに逃げ去って行った。

地上におられた時のキリストの圧倒的な孤独――これは、父なる神の孤独にも重なるであろう。十字架において死の瞬間に、主イエスが、「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、ただ罪のゆえに神と断絶して見捨てられた人類を代表する叫びであるだけでなく、配偶を失った父なる神の叫びにも通じるように思う。

神は人類をご自分の助け手として創造されたのに、人類は神を裏切り、見捨て、蔑んで去った。「私は、私の助け手、花嫁とすべく、人類を創造したのに、なぜ人類は、花婿なる私を見捨て、嘲り、踏みにじって去って行ったのか――」主イエスの叫びの中に、神の人類に対する言い尽くせない悲しい叫びが込められ、それが主イエスの言葉の中で、互いに響き合っているように感じられる。

だが、神は十字架の死と復活を通して、ご自分が望んでおられる新しい人を取り戻された。そして、主に連なる人々は、キリストと同じように、神の御心を満足させるために、この世から取り分けられ、召し出された人々である。
 
そのようなわけで、神は今日も人類をご自分のために招いておられる。私たちは、ある時、そのことに気づき、ふと立ち止まって、この召しに応えるかどうかを考えさせられる。

筆者は「わたしについて来なさい」という主イエスの呼び声に応え、神の満足のために身を捧げて生きたいと願う。ところが、ある人々は、これを幻聴だなどと言って嘲笑っている。神が最も願っておられることを嘲笑う――神が人類に与えられた最も貴い召しを嘲笑う――何と恐ろしい冒涜的な考えであろうか。

主の御心は、小羊の婚礼にこそあり、神はご自分の配偶を得て満足したいと願っておられる。神がまだ満足しておられないときに、どうして私たちだけが、地上で先に満ち足りて幸福になって自己満足してしまってよかろうか。

キリストが人々に拒絶され、蔑まれ、見捨てられ、踏みにじられ、栄光を傷つけられたままなのに、どうして私たちだけが、人々に受け入れられ、尊ばれ、喜ばれ、誉めそやされて、担ぎ上げられ、栄光を受けて良かろうか。

筆者が御国のために献身し、神の国の働き人となってから、筆者に対する暗闇の勢力からの攻撃は、以前にもまして激しさを増した。暗闇の勢力は、筆者の召しを嘲笑い、孤独を嘲笑い、容姿を嘲笑い、生活状況を嘲笑り、筆者に属する何もかもを、徹底的に罵倒し始めたのである。

だが、そのような罵倒は、上記の御言葉を見る限り、まさにことごとく主イエスが受けられた嘲りにそっくり重なる。

主ご自身は、地上で軽んじられ、嘲られ、拒絶された。犯してもいない罪のゆえに断罪され、奴隷としての死を担われた。そこで、筆者は、筆者に向けられたいわれのない非難や罵倒の中に、まさに主に対して向けられる非難や罵倒、冒涜の言葉を見ずにいられない。

そういうわけで、私たちは、今日も御名のゆえに、罵られたり、迫害されることにあずかっているわけだが、これはキリストの苦しみにあずかることであるから、実に幸いなことだと筆者は考えている(もちろん、これは誹謗中傷の罪が免責されるという意味ではない)。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

私たちは、こうして実に不思議な形で、キリストが地上におられた時に味わわれた苦難の一端を、共に担うという幸いにあずかることができるのである。

地上でも、親友の絆は、共に苦労を乗り越えた時に生まれる。夫婦の愛も、喜びと悲しみを共に分かち合うことによって深まるだろう。どんな人間関係であれ、苦しみを共に乗り越えた体験がなければ、深まらない。そこで、主イエスは、地上でご自分が経験された孤独や悲しみや痛苦しみみを、ご自分に従う人々にも、少しばかり、分かち与え、共に担って欲しいと願っておられるのではないだろうか。

だから、神との関係において、私たちは御手から、ただ喜びや、祝福だけを受けとるのではなく、神が感じておられるであろう悲しみや孤独、痛みや苦しみを、その片鱗でも良いから、託されることは、実に大きな信任のゆえではないかと思わずにいられないのだ。

これは決して、筆者が自分から余計な苦しみを求めていることを意味しない。筆者は苦しみを求めているわけではなく、ただ神の御思いをより深く理解するために、そのへりくだりにあずかり、主の御心の中心にあるものを知りたいと願っているだけである。

そこで、自分のためにではなく、主の満足のためにこそ、あえて孤独や、苦難や、迫害をも耐え忍ぶ価値があると考えるのである。そのような意味でこそ、パウロは地上で得られる利益のすべてを無価値とみなして投げ捨て、自分の生涯のすべてを神のために注ぎだし、捧げることを決意したのだろうと想像する。

筆者は、少し前に、バビロン王国をエクソダスし、エクレシア王国の住人となったと書いた。こうして、エクレシアに終身雇用される神の国の働き人となってから、筆者には毎日、なすべきたくさんの仕事がある。

その仕事の中には、決してここで報告することのない数多くの隠れた働きも含まれているが、それらはすべて、御心が天に成るごとく、地にも成るように、この地上に御国の秩序を引き下ろし、父なる神に栄光を帰するためになされるものである。正義、真実、平和、公平、公正を地にもたらすための激しい霊的戦いである。

この戦いに精通すればするほど、主と共なる生活は、他のどんなものとも引き換えにできない価値があることが分かって来る。

そして、主と共に生きることは、地上におけるすべての権威と支配を足の下にする、極めてダイナミックで壮大な生活である。

これは誇張でもなければ、ファンタジーでもない。私たちは、外見は全く弱々しく取るに足りない民でしかないが、御名の権威を授けられていることによって、絶大な権威と力を帯びているのであり、その権威を実際にこの地で正しく行使して、戦いに勝利して、神が満足される平和を打ち立てることが求められている。

神はこの地上全体を管理するために、人類を創造されたのであり、サタンの支配下から奪還されて、愛する御子の統治下に入れられた一人一人の信者には、当初の神の目的の通り、地上のすべてを治める権限を与えられている。

それが、神の国の働き人となることの意味であり、私たちはエクレシアに身を置き、主と共に天の御座から、地上の物事を管理する。主の御名には、地上のすべての支配と権威を足の下にする超越性、優位性があり、私たちは、御名にこめられた霊的優位性を行使して、敵を足の下にし、御座に住む秘訣を知らなければならない。

キリストにある霊的優位性により、私たちはこの世の喧騒をはるか下に見下ろし、高く御座に引き上げられる。

そこには圧倒的な心の平安がある。

それは決して戦いが止むことを意味せず、私たちが何もかも忘れて、ただ心地よい感情に漫然と浸ることを意味するわけでもない。

依然として戦いはある。苦しみもある。試練もある。だが、もしもキリストと共に苦しむならば、それは主の満足につながるのであり、その苦しみは、しばらくすると、慰めと、勝利の喜びに変わる。

私たちの霊は、たとえ試練の最中を通過する時でさえ、御座に高く引き上げられて、地上の喧騒をはるか足の下にしつつ、御座から流れる命の川々に浸され、神から注がれる清い愛に満たされて、深い満足を覚える。

こうして、私たちの心は、何が起きようと、動かされることなく、揺るぎない平安に住む秘訣を知る。生活の一瞬一瞬のすべてを神の満足のために費やすことには、はかりしれない大きな満足がある。そのように、自分をすべて主のために注ぎだすことを決意し、これを実行すればするほど、たとえ私たちが感覚的には主の臨在を感じておらずとも、あるいは、苦しみの中にあっても、主との交わりは、いよいよ強化されるのであって、私たちは神の愛の中に住み、自分の心を平和に保ち、御座から権威を持って、地上のもろもろの支配と権威に大胆に命ずる秘訣が分かって来る。

御名の権威が、すべての権威にまさるものである以上、地上のもろもろの支配と権威は、私たちの命に従い、これに服さざるを得ない。筆者の述べていることを嘲笑っている人々は、やがてその成果を間近に見て、驚愕させられることになろう。

私たちは御名の霊的優位性・この世に対する超越性によってこそ、暗闇の勢力に対して勝利をおさめ、彼らを凱旋の行列に捕虜として従えて、足の下にすることができるのである。

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(9)―たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)

* * *

虚偽告訴罪(刑事告訴・告発支援センター)

「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に処する(刑法第172条)。 」

最新の記事で「霊的優位性」について書いたのは偶然ではなかったものと思う。

村上密が本日、ブログ記事で筆者を告訴したと発表している。この一報を最初に報じたのは掲示板であった。仮処分の申し立てを作成していなければ、気づかなかったかも知れないが、タイムリーに投稿があったので、リアルタイムに知ることが出来た。

 
*ちなみに、村上密はこの記事を投稿してすぐ削除した模様。
 悪ふざけなのか、本気で魔女狩り裁判を開始して、これから
 クリスチャンに有罪宣告を下したいという悲願を語ったものか、
 筆者には真意が完全に不明。

 控訴審できちんと釈明していただきましょうね・・・。
 もはやオーウェルのディストピアと化している宗教トラブル相談センター。
 人格権侵害と合わせれば、あまりにも重大な名誉毀損に該当するこの記事、
 信徒相手に、
普通に考えて、牧師としてヤバすぎでしょう・・・!?
 事実ならば、むろん、こちらも虚偽告訴罪で対抗するのみですが。


こうしてテレスクリーンに「ビオロンは人民の敵」との見出しが躍り、かの全体主義国では、筆者はゴールドスタインさながらの扱いを受けている。そこはすべてが鏡のようにさかさまに映っている。罪人が聖人に、聖人が罪人に置き換えられる・・・。

本日、筆者は、先にチェックをお願いしていた告訴状を、明日受理してもらうことで警察と合意していた。先週から人格権侵害の記事については、警察へ資料を提出、最終チェックと校正をお願いしていたが、明日には受理されると聞かされた。

従って、この情報が事実ならば、村上は筆者に先手を打とうとしたことになろう。

村上の告訴事実が何から成っているのかは知らないが、村上の記事内容から判断すると、村上は、筆者が訴訟において、村上と杉本から「反訴の脅しを受けた」と記していることが、名誉棄損に相当するという主張も含めているらしい。

しかし、村上が杉本と一緒に第一審において、筆者が彼らの提示する和解条件を飲まなければ、反訴すると筆者に主張したことは、まぎれもない事実である。そのことは、村上自身が、前掲記事で、「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている」と書いている通りである。

そこで、村上の主張は、筆者にとっては、まさに「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と主張したKFCの元信徒を彷彿とさせるものである。

筆者は当初、KFCの元信徒は、杉本のブログでありもしない虚偽の事実を主張したのだと考えていたが、後になって考えを翻したと書いた。従って、もしも筆者のその予測が的中しているならば、この信徒は、虚偽告訴罪を主張できたはずだということも、繰り返し書いて来た。

それは、虚偽の告訴に対しては、毅然と立ち向かい、その罪を相手にお返しすべきだという筆者の信念を述べたものである。
 
このような事情であるから、筆者は驚いてはいない。村上は筆者がこのニュースを聞けば恐れると考えたのかも知れないが、筆者自身が、告訴状が受理されて後、どういう顛末を辿るかを、実際に確かめて知っている。その上、筆者は、村上の行った権利侵害について、警察に相談を重ねて来たのである。
 
今、筆者は、4月1日にも、今回と同様のことが起きたのを思い出す。筆者は3月末日、コラム欄に、掲示板に実名を挙げながら村上密の家族に言及しているコメントがあるのを見て、こうした掲示板の投稿を整理して、村上密について書くつもりだと予告した。すると、それからわずか1時間も経たないうちに、村上は筆者の人格権を侵害する記事をブログに投稿したのである。
 
幾度も述べた通り、村上によるこの権利侵害がなければ、今回の訴訟は第一審で終わっていたはずである。筆者は、杉本徳久の記事が名誉棄損に相当することが認められただけでも、十分な成果だと考え、判決に不服を述べないために、一審で終了するつもりでいた。

ところが、神はこの紛争をここで終わらせず、第一審では出て来なかった不法行為の証拠として、村上に以上の権利侵害を犯させたのである。

村上はこの時、おそらく筆者に実名入りの記事を書かれる前に、先手を打ったつもりであったと見られるが、その焦りが、権利侵害を犯している事実を彼に見えなくさせた。筆者は、このことは、天の采配であり、この紛争を妥協せずに最後まで徹底的に戦い抜き、望む成果を勇敢に勝ち取りなさいという天の命令であると解釈した。

今回も、村上の主張を見る限り、これと同じ現象が起きているものと見られる。告訴状を提出するには、十分かつ入念なチェックが必要で、それがあったとしても、疑義や問責が生じる可能性は十分にある。

従って、自分の焦りできちんとした構成要件を満たさない告訴状を提出した場合、その不備が後になって重大な問題となって自身に跳ね返って来る可能性は大いにあると言えよう。

特に注意が必要なのは、匿名掲示板のように、誰が投稿したかも分からない投稿を告訴する場合ではなく、相手が分かっている場合である。

もしも誰かが、筆者の記述が真実であることを知りながら、これをあたかも虚偽であるかのように主張して、自分に対する名誉毀損であると主張して告訴した場合には、当然ながら、虚偽告訴罪に該当する可能性が出て来る。
 
上記した通り、虚偽告訴罪は重い罪である。従って、告訴人の言う告訴の事実に裏づけがなく、その理由に整合性が取れず、その訴えの真実性が証明できず、故意性が認められれば、いたずらに被告訴人とされた者は、告訴人に対してこの罪を主張しうる。

実を言うと、筆者は昨日まで、控訴審での戦いのポイントを思いめぐらし、かつ、明日受理される告訴状について考えながら、これではインパクトが足りないと考えていた。確かに、この告訴状には、受理される要件は整っている。そのことはお墨付きをもらっており、第二審においても、これが確かな材料となって行くであろうことは明白に予想できた。

だが、人格権侵害だけでは、いささか被害のインパクトが軽すぎる気がする。これでは起訴―有罪に持ち込む根拠とはならないだろうという予感がある。しかも、筆者の控訴状は、「未熟児のサイズ」と記した通り、昨日までの時点では、第一審で取りこぼしたわずかな記事と、人格権侵害の記事の削除および微々たる賠償を追加するだけのものでしかなかった。

むろん、手堅く事件を進めるためには、それで十分な主張なのだが、「小さく産んで、大きく育てる予定」と当初から書いていた通り、このような些末な理由で、二審を戦う結果には、きっとならないだろうという予感があった。こんな微々たる理由では、たとえ勝ってみたところで、御名を冠する戦いにふさわしい勝利と呼ぶには、いささかインパクトが小さすぎる。

そこで、今回起きたことも、やはり主の采配であると思わずにいられない。

筆者は二審について、大々的な注目を集めるつもりは全くなかった。だが、村上がこのような記事を出した以上、この戦いは、否応なしに注目を集めるものとなろうし、まさに筆者が2009年から主張して来た通り、反カルト運動の陣営による「魔女狩り裁判」の様相を帯びて来たのである。

筆者は2009年から、村上密の活動は、このような結果に至ることを幾度も予告して来た。今回のことは、その霊的法則性が成就しただけと言えよう。信者を解放するように見えて、人間の正義によって抑圧する反カルト運動の悪しき本質が、いよいよ正体を現したのである。

ところで、筆者は今回の裁判で、告訴が確かになされたという事実を客観的に証明すること自体が、かなりの苦労を伴うことを知った。

杉本は、筆者が告訴状を提出したことを否定していなかったが、あくまで事件化はされていないなどと主張していた。

村上と杉本が、一緒になって、筆者が警察を証人として呼ぼうとした行為をメールで嘲笑っていたことは、記事で記した通りだが、告訴状が受理されていることを客観的に証明するためには、確かにある種の苦労が伴うのである。

裁判官は筆者の申し出を調査嘱託に変えたが、それでも十分ではなかった。さらに、筆者はそれを補う証拠を提出したが、それでも、十分であったとは見られない。民事では、終結していない刑事事件の確かな進行状況を認定することは、およそ不可能であり、そのようなことを争点とするのも難しいのである。

そこで、結論から言えば、検察に事件が送付されて、きちんとした結末が出てもいないうちに、誰かに対する告訴の事実を名指しで公表することは、決して得策とも賢明とも言えない。そのようなことは、100%確実に勝算の見込みがある場合以外には、絶対にしてはならないと言えるほど、リスクの大きい行為だと言えよう。

筆者の事件では、今回は第一審において、はっきりと杉本による名誉毀損や侮辱の事実が認められたゆえに、刑事事件でも、ほぼ同等の結論が出ることを予想でき、それが大幅に覆ることはまずないとみなせる。それゆえ、以上のリスクは回避することができたし、筆者の論証も十分であった。
 
しかし、これがもし民事で名誉毀損が認められず、控訴審でその事実を争うとなった場合には、早まって人物を特定して刑事告訴を公表してしまった人間は、控訴審で窮地に立たされることになる。

たとえば、村上密自身が、五次元スクールから名誉毀損で告訴されたが、不起訴になったと得意げに記事に記している。そのような結果となったにも関わらず、それ以前に、早々と相手を告訴した事実を実名で発表してしまった場合、後になって、それは事実無根の主張として、重大な名誉棄損の罪に問われる可能性も出て来る。
 
しかも、ペンネームだけであれば、人権侵害には相当しないが、村上はすでにその条件を自分で破ってしまっているのである。

そこで、今回の村上の記事の発表は、筆者から見れば、勇み足と言うべき、村上自身にとって極めて重大なリスクをはらむ危険な行為であり、筆者にとっては、控訴審における主張を大いに補強する材料となる。

この記事は、筆者に対する人格権の侵害の記事と合わせれば、十分な名誉毀損行為に相当する要件を満たしているから、これこそ、控訴審を戦い抜く上で、御名を冠する戦いとするにふさわしい最も大きな被害のインパクトとなる。
 
さて、警察とのやり取りは、ものすごい消耗戦である。告訴状を出しさえすれば、後は警察が自動的に捜査をしてくれ、自分は何もしなくても、ただ待ってさえいれば、すぐに警察が犯人を逮捕してくれて、裁判が開かれ、犯人が有罪とされて事件が終わる・・・などという甘い世界はないことを、筆者はこれまで痛感して来た。

それは、民事でも刑事でも基本的に同じであるが、民事ならば、定期的に口頭弁論が開かれ、嫌でもいつかは審理終結が来るが、刑事事件の進展はまことに見えない部分がある。

そして、この壁を打破するために、筆者はものすごい苦労を払い、ようやくのことで、風穴を開けたのである(だからこそ、筆者の事件に、これ以上の遅延はないと断言できる)。
 
だが、刑事事件の進展が遅い場合、民事において、告訴されたこと自体を名誉毀損だと相手が主張して来た場合、告訴要件をきちんと満たしていることを立証することには、膨大な時間と手間を要する。

その作業を2名の被告を相手にしながら、筆者は一審で成し遂げたが、これから、その作業が、村上に課せられることになる。杉本と一緒になって、筆者が警察を証人に呼ぼうとしたことを嘲笑った村上である。どのような手法でそれを行うのかは、注目される。弁護士を雇ったとしても、唐沢治が出して来た陳述書のような理屈では、勝算の見込みは薄いであろう。
 
だが、それよりも、今回、注目されるのは、信徒を告訴したと自ら発表したことにより、村上密という人物の内面が、極みまで明らかになったことである。

かつて相談にやって来た信徒を告訴する牧師のもとに、これから身を寄せたいと願う信徒がいるとは思えない。そこで、村上の行為は、村上の率いる宗教トラブル相談センターに、致命的と言っても良いくらいの打撃を与えることであろう。

さて、筆者は、このようなことがあってもなくても、自分の果たさなければならない仕事を淡々とこなすだけである。

幾度も言うが、キリスト者の身には、神が許された事柄しか決して成就することはない。そして、神は信者の同意がないのに、突然、試練をもたらされるようなことはなさらない。

読者は知っている通り、2009年から、筆者は、村上が構想したカルト監視機構の危険性を世に訴えて来たのであるが、その時から抱いていた危惧が、このような形で成就するまでには、10年間という月日が必要であった。

本来ならば、10年もの月日があれば、記憶も薄れ、関わりも断たれ、かつてそんな主張がなされていたこと自体を、当人同士が忘れていておかしくない。だが、霊的な領域においては、記憶が忘却されるとか、主張が消滅するということは決してないのである。

だから、今回の出来事は、かねてより懸念されていた事柄が、実際となっただけであるが、そうなるまでの10年という月日は、筆者自身の霊的・内的訓練の期間であり、主は、筆者が当時から予想していた出来事に対して、十分な準備が出来るまで、待って下さったのである。

幾度も繰り返すが、筆者は個人の人権を守るためにここに立っているのではない。ここから先は、過越し――御名の主権がものを言う世界である。

今、カルバリで流された主の血潮の絶大かつ永遠なる効果のほどが、万人の前で問われているのであって、もしも筆者が罪に問われるようなことがあれば、それは主の名折れでしかない。

神はそのような方でないことを、筆者はこれまでの人生のあらゆる場面で実際に確かめて来て知っている。第一審でも、これと全く同じ、十字架の死を潜り抜けた。この事件に向き合うことを決めたときから、筆者の覚悟は固まっている。そこで、筆者にとって、このような出来事に対峙することは、日々の十字架でしかない。

神の救いは、一度限り、永遠のものであって、血潮の中に隠れる者を、罪に問える者は誰もいない。それにも関わらず、そのようなことを試みるなら、その訴えのすべてがその者自身に跳ね返ることになる。まさしく――虚偽告訴という罪として。

それが、過越しである。筆者は自分の家の鴨居に幾重にも小羊の血を塗っておく。そうしておけば、外に死の風が吹き荒れても、それは家の中の者に触れることはない。かえってエジプト人の長子が滅ぼされるのである。

神の御前で起きることに、何一つ偶然はない。そこで、なぜ村上が杉本と一緒になって反訴を言い立て、さらにこれを見送りながら、今、告訴を選んだのか、その理由は以下にあると筆者は見ている。

反訴には、どんなに虚偽の訴えを出そうとも、いかなる罪も伴わないが、告訴が虚偽だった場合には、罪に問われる。

それが、神が村上に告訴に及ばせたことの真の理由である。
 
* * *

さて、掲示板はこれまで、筆者が自分自身をエステル妃になぞらえているのを見て、さかんに嘲笑していたが、エステルは、モルデカイがハマンの策略によってユダヤ人が皆殺しにされようとしている計画が存在することを知ったとき、自分は死を覚悟して、王の前に進み出ると述べた。

すでに幾度も述べて来た通り、筆者は、杉本・村上からの反訴の予告をきっぱりと退けて、第一審を終えるだけでも、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。その時に、筆者の覚悟は決まったのである。

エステル記を読んでみれば良い。ハマンは自分の家の庭に、モルデカイを吊るすための絞首台を作った。その頃、モルデカイは、ハマンに手をかけることなど、考えてもいなかったであろう。

ハマンはモルデカイのみならず、ユダヤ人全体を殺害しようと考えていた。モルデカイ一人に対する憎しみをきっかけに、ユダヤ人全体に対する尽きせぬ殺意を抱いていたのである。

そして、ハマンは王の信任を得ていた。絶大な権限を持っていた。それにも関わらず、ハマンが作った絞首台は、ハマン自身の絞首台となった。

そうなるために、エステルが死を覚悟した勇気を振り絞ったからである。
 
筆者はこの物語に2018年の初め頃から、幾度となく言及して来た。それは、この戦いを貫徹するためには、筆者は、まさにエステルやモルデカイと全く同じ覚悟を固めねばならないことを初めから知っていたからである。

主はいつも筆者に問われる。「あなたはどのくらい本気ですか? 私のためにどんな代価を払うつもりがありますか?」

筆者は答える。「私は準備が出来ました。私はあなた以外に価値とするものは、何もありません。私はあなたがどういう方であるかを知っています。あなたが決してご自分のもとに身を寄せる者を見捨てられたり、失望に終わらせない方であることを、私は知っています。

私は自分のすべての利益に変えても、あなたご自身を現していただくことを利益と考えています。私が欲しているのは、私の正義以上に、あなたの正義、私の真実以上にあなたの真実であり、あなたの自由と解放、命に満ちた統治を得るために、自分の十字架を負うつもりです。たとえ、私が不真実であっても、あなたは真実な方です。あなたのおられるところに、私の命もあるのです。ですから、何が起きようとも、最後までご一緒いたしましょう・・・。」

これは宿命の戦いである。村上の思惑を忖度した信者らは、筆者が第一審で村上に勝訴できなかったことをさかんに嘲笑しているが、もしも村上密が、控訴審で必ず勝てると考えていたなら、このような措置を講ずる必要はなかったであろう。

筆者が控訴したことを、筆者よりも前に報じたり、筆者の告訴が完了する前に、筆者を告訴したと報じたりするところに、村上の恐怖心の表れを感じざるを得ない。

* * *

もう一度、エステル記(4:9-17、7:1-10)の以下のくだりを引用しておく。

「ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。


そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(8)―こうして救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

さて、今回は少し違った話題を以下で書こうとしているが、初めに断っておきたい。

村上密の記事には重大な問題がある。些細なことで他人の揚げ足取りはしても、いつも一番肝心なことについて説明がないことだ。これは人々の不信感を誘う。

村上密は2015年3月27日の記事「残りの人生」で、「40代の牧師」に主管者を譲って、自分は退任すると宣言した。これは、「長澤牧師を後継に据え、若い牧師に道を譲る」と言っているに等しい。

この記事で村上は「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。私は4月で60歳になる。」と書いていた。この記事が書かれたのは3月末であって、そこから4月までは1ヶ月もない。つまり、主管者を退任した時点で、村上は60になるまで約1ヶ月しかなかったということである。

ところが、村上はこうして自分から「40代の牧師」に道を譲るとして、主任牧師を引退しておきながら、後継であったはずの長澤牧師を、ほとんど一瞬とも言える短さで、主任牧師の座から退け、若くもない自分の妻を牧師に据えた。なぜこんな事件が起きたのかについて、村上は今日まで何一つ理由を対外的に説明できていない。

主任牧師をわずかな期間で交替させるなどのことは、会社で言えばトップの交替に等しいため、対外的にも深刻重大な影響を及ぼし、極めて慎重な判断が下されなくてはならず、それだけの十分な理由が必要だ。なのに、村上の教会では、この事件について、合理的な説明が一切なく、村上のブログでも、この出来事が全く説明されていないのは、非常に恐ろしい、読者に不信感を呼び起こす出来事である。

特に、村上の後を継いで主管者になって間もなく、長澤氏のもとには、村上の教会の牧師たちの連名で、「あなたには神様の召しはありません!」という内容の通達が届き、それが主たる理由となって、長澤氏は主任牧師を降格させられたのだという。

とはいえ、長澤氏にはいかなる落度もなく、依然、信徒からの信任も篤いことは、主管者を降格させられた後も、長澤氏が未だに同教会で何事もなく奉職を続けている事実を見ても分かる。従って、長澤氏が主任牧師を降格させられたのは、不祥事による主管者の交替ではない。

ある人たちは、村上は初めから長澤氏を後継にするつもりなどなく、これは短期間の目くらましの人事だったと言う。村上は、長澤氏を長年、手足のようにこき使い、あらゆる雑務を任せた挙句、不当かつ不明な理由で、約束していた主任牧師の地位から速やかに退けたのである。

今回、当ブログ執筆者が提起した訴訟の第一審の準備書面の受け取りも、長澤氏がかなりやっていた事実は、事件記録のサインを見れば明らかである。そこに村上密の署名はない。

繰り返すが、教会の主管者の交替という、これほど深刻かつ重大な問題に、村上のブログで一切、言及がないのは、極めて不審な事態である。長澤氏はほぼ100%に近い信徒の総意で主任牧師に選ばれたが、なぜその長澤氏を降格させて、村上恵子を主任牧師に据えねばならなかったのか、世間を納得させられるだけの理由は、何ら提示されていない。

しかも、村上自身が「40代の牧師」に道を譲ると宣言した後で、なぜ他でもなく村上の妻が主管者とならなくてはいけならなかったのか、なぜそれが信徒の総意に反さないと言えるのか、いかなる説明もないのは、非常におかしな現象である。

村上はこの問題を指摘されると、自分の引退劇に話を逸らし、退任した時点ではまだ60を迎えていなかったとか、牧師職を降りたわけではないなどといった話でごまかしながら、長澤氏を降格させた理由を何とかして隠そうとする。こういう村上の主張は、不透明な人事を隠すためのスピンとみなされておかしくない。

だが、どんなに隠そうとしても、極めて異常で合理的説明もつかないこの事件は、村上が退任時の年齢を訂正するくらいのことでは隠せない。むしろ、そんな些細な事柄をあげつらって、躍起になって反論し、話題を逸らさざるを得ないほど、後継者問題は、村上にとってネックだったのだと自ら告げているようなものだ。
 
そこで、おそらく、この状況では、村上の記事を鵜呑みにして信じる人はほとんどいまいと思う。自分の主張が人に信じられる根拠とは、そういう些細な問題ではないということが、村上には分かっていないようである。

もちろんのこと、鳴尾教会の裁判で、村上が当事者になったなどと、当ブログでは一度も書いていない。なぜなら、村上が常に「代理人」という名を使って、他者の裁判に介入して来たのは、この業界では言わずと知れた有名な話だからだ。

しかしながら、鳴尾の裁判を陰からバックアップしながら、これに勝てなかったことが、村上の信用に致命的な打撃をもたらしたことは確かだと見られる。宗教トラブル相談センターの働き等に専念することは、主管者を降りるほどの理由とはならないからだ。
 
だが、村上が本当に「40代の牧師」に道を譲るために、つまり、教会の若返りのために、自主的に主管者を降りたというなら、まだ理屈は通るであろう。しかし、妻に主管者を譲るために、60前に引退せねばならない理由はなかったはずだ。従って、村上が主管者を引退せねばならなかった本当の理由は、それではないとみなされるのは当然である。

要するに、それほど地元では村上の信頼が失われていたということである。ところが、その話が表に出て来なかったのは、村上が自らの教会においても、当ブログ執筆者に対して現在そうしているように、少しでも自分に対して批判的な言動を見つけると、早速、名誉毀損だとか、裁判だとかをちらつかせながら、信者を心理的に圧迫・恫喝して黙らせて来たためであると、もっぱらの評判である。

筆者は、前々から、沖縄では、村上を批判すれば、村上の思惑を忖度した信者たちから、たちまち集団リンチに遭わされ、村八分にされるという噂を聞かされて来たが、この度、筆者が村上に訴訟を提起したことにより、掲示板で起きた筆者に対する連日連夜の誹謗中傷を見れば、以上の噂が事実であることは、今更、証明する必要もないほど、万人の目に明々白々になっただろうと思う。

掲示板には、当ブログ執筆者の個人情報があることないこと数多く書き散らされ、歪曲された人間関係が記され、家族や知人など数多くの関係者までが、一緒になって誹謗中傷されているが、その情報の出所は、ほぼすべてが村上の運営する宗教トラブル相談センターである(一部、唐沢治からのものもある)。このセンターに家族を連れて行ったがゆえに、今や筆者の家族までバッシングされているのが現状である。

こうして信者の家族関係まで徹底的に利用して、不都合な信徒を弾圧する材料とするのが、村上の宗教トラブル相談センターなのである。村上自身が直接関わっておらずとも、村上の思いを忖度した信者が、不都合な人間を自主的に片付けてくれるのだから、楽な仕事である。

そして、今やその信徒から裁判を起こされているというのに、村上本人が未だ信徒の個人情報を無断で公開しては個人的に権利侵害を伴う反論に及んだりしている状況であるから、こんなにもコンプライアンスの意識の欠落した恐るべきセンターには、終わりが近いのは当然と言えよう。というより、むしろ、このセンターこそ、宗教トラブルの根源だとみなされて当然ではないだろうか。

読者はよく見ておかれたい。この牧師には、個人情報を話せば話すほど、それが後に訴訟の材料として利用されたり、掲示板で誹謗中傷の材料とされるのだ。そんな恐ろしいセンターに相談に行くことは、自殺行為同然であるから、絶対に誰にもお勧めできない。

さて、京都教会では、数多くの牧師が奉職しており、英語礼拝なども行なわれているにも関わらず、牧師たちの名前が、ホームページでは公表されていない。これもおかしなことだ。

さらに、村上密、村上の息子、村上の義理の父(津村昭二郎)、村上の妻(恵子)と、この教会では、教職者のほとんどが、村上ファミリーで占められ、彼らの謝儀が献金の圧倒的大半を占め、他の牧師は生活もできないような貧しい謝儀しか与えられていない。

村上一家が教会から出て行った際には、現金で家を買ったという噂も出回っており、沖縄出張への費用がどのように賄われているかも不明だという。そもそも沖縄で、村上が何をしているのかも、出張報告書も出て来ないので、誰にも分からない。神学生のための特別献金など、名目をもうけては、通常会計に上らない献金が集められるものの、その使途も、管理方法も不明だという。

京都七條基督教会が、人事においても会計においても、世間の常識から並外れて不透明な教会となっていることは明らかである。、

最後に、村上は粘着気質により、自分がターゲットとした人間を延々と批判し続けるが、筆者はそのような動機から発言していない。筆者は自己の人権を守るために発言しているのではなく、聖書の御言葉に立って、神の教会の権益を守るために発言している。

すべての人間を自分の低いものさしに従ってしかはかれない村上は、心底、情けない男としか言いようがない。村上の記事には、神への愛もなければ、教会や、信者への愛もない。何よりも、聖書の御言葉による裏づけが完全に欠けている。神への愛、そして、聖書の御言葉への愛、信者への愛がないこと――これは牧師として、他のどんなことにも比べられない、たとえようのない三大悪のような恥である。


* * *

さらに、唐沢治についても、ひと言、追加しておきたい。一つ前の記事に掲載した唐沢の陳述書は、唐沢が弁護士を介して出して来たものである。

信徒を刑事告訴し、自分が訴えられると、弁護士を通じて回答する。このような牧師が、唐沢治なのである。三大悪ということでは、この牧師も同格である。
 
とはいえ、弁護士の作った文書も、唐沢の文書とほとんど内容が同じであったので、あえて掲載する必要もないと考え、割愛した。

筆者は常日頃から、弁護士とは詭弁を弄するために存在している職業だと考えている。従って、裁判では、弁護士をつけたから、勝算が上がるということもなく、特に、牧師が信徒に向き合うに当たり、弁護士を介さねばならないとは、実にみっともないことでしかない。その上、あれほど辻褄の合わない支離滅裂な回答では、不誠実な人間性は覆い隠すこともできず、弁護士をつけたことで、かえってますます評判が低下するだけだろうと思わざるを得ない。

筆者が第一審で分かったことは、やはり訴訟においては、首尾一貫した矛盾のない誠実な主張を通すことが、信頼を得る何よりの根拠だということである。法的根拠に基づき、白黒つけられない問題については特に、整合性の取れる主張を丹念に積み重ねて行くことが必要である。

村上は杉本と同様に、あたかも筆者の書面がいたずらに長いかのように嘲っているが、筆者は一度の反駁で、杉本と村上の2名の被告を相手にしたのであり、杉本の準備書面も、相当な分量に及び、非常に虚偽に満ちた内容であったため、これに反論するためには、どんなに少なくとも3倍近くの文書量が必要となった。

前々から述べている通り、誹謗中傷するのは1行で済むが、それに反論するためには、3~5倍程度の文章が必要となる。ただ反論するだけでなく、証拠の積み重ねが必要だからである。また、小さな文言の修正であっても、訂正を怠らないことも、誠実さの証しである。

さて、当ブログであえて村上密や唐沢治の書面を公開しつつ、これらの牧師たちの不誠実さについて言及しているのは、牧師という職業について、読者の幻想が徹底的に打ち砕かれることを、筆者が心から望んでいるからだ。

当ブログでは、2008年に始まった頃から、牧師という職業は、それ自体が、聖書に反しており、必要ないどころか、有害な偶像崇拝であるという見解を提示して来た。従って、以上に挙げたような出来事は、すべてその結論を裏づけるものでしかないと言えよう。

唐沢治は、かつて自分でも、エクレシアに固定的な指導者は必要ない、自分はKFCの指導者であり続けたくないので、一刻も早く牧師職を降りたい、などと述べていた。だが、それはポーズに過ぎず、唐沢のもう一つの側面は、決してこの集会を手放したくない、リーダーの座を折りたくないというものであった。

村上密が主管者を退任すると宣言した後も、自分はあくまで現役牧師であると言い張り、教会に対する影響力を手放せないでいることや、唐沢治がKFCから降りたいと言いながらも、この集会の牧師職にすがりついた姿の中に、我々は、自分から引退を口にして役目を終えたはずの人間が、いつまでも必要のない地位にすがりつくと、こうまで人間性が腐敗して行くという生きた実例を見て取れよう。

さて、掲示板のコメントを読めば分かるが、村上密・唐沢治をとりまく信者たちは、「自分は見捨てられた」という自己憐憫と被害者意識で一致団結している。そして、見も知らない当ブログ執筆者から、何の正当な根拠もなく、自分たちは見捨てられたのだという被害者の立場に身を置き、筆者に報復するために、集団で攻撃している。

だが、この被害者意識こそ、こういう悪しき指導者たちの吸引力の源であり、麻薬のように人格を腐敗させて行く根源なのである。杉本徳久もそうであったが、村上密に深く関わった人々は、皆、筆者の目から見ると、同じような被害者意識を抱え、それゆえ物事を正常に見られなくなって行く。
 
杉本徳久がかつて1件のコメントの削除を筆者から依頼されただけで、その依頼によって自分を完全に否定されたかのように思い込み、10年間もかけて、筆者を恨み続けたように、この人々は、少しでも他者から自分を批判されるような言動があると、早速、自分を否定した人間を(見ず知らずの人間であっても)許せない思いとなり、生涯に渡るほどの執念を持って反撃し続けるのである。(しかも、自分が批判されたのではなく、指導者が批判されたことに対して報復しているところが、より異常だと言えよう。)
 
この異常とも言える被害者意識は、人を完全に霊的盲目にしてしまう。これに感染した人は、どれほど自分が残酷な行動を取っていても、我が身可愛さのゆえに、全くその残酷さが自覚できなくなり、いつか限度を超えた報復行為に出て、それが犯罪行為として裁かれる結果に至る・・・。

被害者意識が、人の健全な意識を失わせ、まるで傷が人間全体を飲み込むように、人格を腐敗させて行く様子を、掲示板の人々に見て取れよう。

そこで言えることは、このような悪影響を信者たちに及ぼす指導者からは、すぐに離れなさい、ということだ。村上密の被害者意識によるマインドコントロールから離れなさい。自分は見捨てられた人間だとか、傷つけられて、打ち捨てられた哀れでみっともない人間だという意識から離れなさい。

真に神を信じて生きているならば、他者の言動に振り回されることがなく、他者との間で紛争が起きても、これを合法的かつ正当な手段で早期に解決できるはずだ。見も知らない他人を恨み続け、延々と匿名で掲示板に恨み言を書き連ねるような不毛な行為に至り着くはずがない。

ラスコーリニコフにもソーニャがいたわけだから、たとえ犯罪者になったしても、それで人生が終わるわけではない。真摯な悔い改めと誠実な心があれば、自分のソーニャを見つけ、いつからでも人生のやり直しは可能なのである。
 
ところが、この人々が、いつまでも自分を見捨てられた人間の立場に置いて、自己憐憫、自己卑下に明け暮れているのは、その心の根底に、「自分は神に見捨てられた」という被害者意識があるためである。このことを、当ブログでは、幾度となく説明して来た。それがグノーシス主義なのである。

実はこれこそが、最も厄介かつ深刻な問題であり、個人的な恨みや復讐心のレベルを超えて、人の永遠の命の問題を左右する問題である。だが、この問題については、長くなるので、別途、記事を改めることにしよう。

いずれにしても、被害者意識や自己憐憫から離れ、紛争が起きたなら、これを合法的で正当な手段を用いて早急に解決することをお勧めする。市民としての正当な権利がいくつも与えられているのに、掲示板になど深く関わっていれば、いずれあなたの人生が取り返しのつかないことになるだけである。
 
 
* * *

さて、前置きは終わったので、ようやく、今回の記事のテーマに入ろう。まず述べておかねばならないことがある。それは、キリスト者は御言葉に立つために、徹底的に霊的戦いを戦い抜かねばならない場合があるということだ。

筆者がなぜ戦いを続行しており、それによって何を掴もうとしているのかも、これによって説明できる。地上で己の利益を保って平穏無事に暮らすことだけを第一優先している肉的な信者は、「和」を尊び、争い事を敬遠することこそ、この世の知恵であると思い込むあまり、このような戦いの重要性を全く理解できなかった。

だが、筆者は繰り返し、この戦いは、筆者の人権を守るためではなく、神の国の前進のために必要不可欠なものだと述べている。筆者は、個人的な思惑に基づいて、訴訟を提起したりしているわけではない。

ここには、私たち信者が、迫害を受けた際、簡単に主の御名を捨ててしまうのか、それとも、どんな迫害に遭っても、信仰の証しを大胆に守り抜くことができるのかという、私たちの永遠の命に関わる問題がかかっている。

また、教会が、一人や二人の狼藉者のために、恐怖によって脅しつけられ、口を封じられ、証の言葉を大胆に述べられなくなるような、あるまじき理不尽な状況を容認するのかどうか、という問題もかかっている。

もし以上のような状況を容認するならば、教会は、死を打ち破られたキリストのよみがえりの命によって、自由にされた人々の集まりどころか、死の恐怖によって脅しつけられた捕われ人の集団となるであろう。

そして、そのような待遇に自ら同意した人々は、この先、一歩たりとも前進して行くことができず、ついに最後は、すべての自由と権利を失い、信仰の片鱗も見られなくなり、クリスチャンというより、ゲヘナの子と呼んだ方が良い有様にまで転落し、キリストの福音を全く知らなかった方がまだましな状態となって人生を終えるのではないだろうか。

一つの権利侵害に甘んじることは、百の権利侵害に甘んじることと同じである。不当な脅しに沈黙して、立ち向かわないことは、自分のすべての権利を自主的に放棄して、生きることを放棄しているも同然である。

そこで、聖書の御言葉の真実性を信じない人々による恫喝、嘲笑、侮辱の言葉を放置・容認するならば、それは彼らの信念に、あなたが自ら同意しているのとほとんど変わらない効果をあなたにもたらす。

神は、神の御名が汚されている時に、沈黙しているあなたを喜ばれるだろうか。むしろ、あなたの態度を恥じて、あなたの名が汚される時にも、あなたを守って下さらないだろう。

神を知らない人々にも、憤って立ち上がらなければならない瞬間があるように、クリスチャンには、断じて黙っていてはならない瞬間がある。

我々が侮辱されたから立ち上がるのではないのだ。聖書の御言葉が曲げられ、主の御名が冒涜され、神の教会が蹂躙され、我々の嗣業が脅かされているがゆえに、立ち上がって、これを取り戻さねばならないのである。

それができなければ、教会は、自分に与えられた尊い永遠の嗣業を失ってしまうだろう。約束の地にたどり着けず、荒野で倒れた民のように、神が約束された偉大な自由と解放に全く至りつけないまま、中途半端な妥協で人生を終えてどうして良いだろうか。

いみじくも、オリーブ園に掲載されているオースチン・スパークスの最新の論説が、この霊的戦いのテーマについて、はっきりと告げているので、まずはこれを掲載しておきたい。


 「キリストとの合一」第四章 創造的・種族的合一(10)
 
 さて、他の文脈でそうするのと同じように、私は次のことをあなたたちに思い起させて終えることにします。すなわち、嗣業はキリストと教会に対する戦いの鍵です。そして、相続人たる身分には二つの面があります。法的面と霊的面です。

新しく生まれた時、私たちは法的に相続人となりました。新創造の中にあるなら、私たちは法的に出生による相続人です。しかし、相続人としての法的身分と霊的に相続する行為とは非常に異なります。

後で見ることになりますが、聖書は他の文脈と同じようにこの文脈においても明確な区別をしています。ガラテヤ人への手紙はまさにこの思想を巡って構築されています。「相続人は子供である間(中略)父によって定められたその時が来るまで、保護者や家令の下にいます」(ガラ四・一、二)。この手紙はさらに続けます――子供であるなら息子でもあります。私たちはみな息子たちです。それは信仰によって、つまり法的にです。たとえ子たる身分すなわち嗣業の意義・価値を実際かつ霊的に所有していなくてもそうです。私たちは出生により法的相続人です。しかし、霊的成長によって私たちは嗣業の霊的所持者になります。


 これについてはっきりしているでしょうか?もし教えに関してはっきりしていないなら、実行と経験に関してはっきりしているかどうか自問して下さい。どれだけ多くのクリスチャンがこの嗣業を享受し、自分たちの嗣業を所有し、嗣業の保有に向けて前進しているでしょうか?多くのクリスチャンはそうしていませんが、それでも彼らは神の子供であり、法的相続人です。法的相続人から霊的相続人になるまでの間に、何かが起きてあなたはこの嗣業を失うかもしれません。

新約聖書は常に私たちに告げます。私たちは偉大な嗣業を持っているので、それを失ってはならないことを。私たちは偉大な数々の権利を持っているので、それらを放棄してはならないことを。私たちは永遠の過去からある事柄にあずかるよう召されています――しかし、しかと「あなたの召しとあなたの選びを確かなものにしなさい」。私たちの法的身分と私たちの霊的状態とは異なります。


 この新創造でも同じです。私たちは霊的学びをしなければなりません。一つの領域から他の領域に漸進的に渡らなければなりません。戦わなければなりませんし、争いの中に入らなければなりません。自分の救いのためではなく、キリストの中にある私たちの嗣業のためです。私たちは試され、試みられなければなりません。それは自分が良いクリスチャンであることを証明するためではなく、霊的優位性の何たるかを学ぶためです。こうして霊的優位性の中でこの嗣業の中に入ります。

無代価の賜物として受けることと、次にそれを受け継ぐべきこととに関する、これらの矛盾のように思われる事柄にあなたは心当たりがあるでしょう。すでに見たように、一方は法的地位であり、他方は霊的地位です。私たちは新創造の中にあります。その圧倒的大部分は彼方にあります。しかし、私たちは進み続けています。確かに、私たちが集会に集まる時は常に、その理由は主と共に前進したいからです。一つの領域から他の領域に移りたいからです。私たちの心は、主が御自身との合一に中に私たちをもたらされたその意義全体の上に据えられています。彼の恵みにより、私たちは切り抜けて前進します。



* * *

さて、このオースチンスパークスの論説を理解するためのキーワードは、「霊的優位性」である。以上の話を理解するために、もう一度、以下のガラテヤ書の御言葉に戻ろう。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)


私たちは、キリストの贖いを信じて受け入れているならば、約束の相続人である。これは来るべき国の無尽蔵の相続財産が、私たちに約束されていることを意味する。

だが、この相続人としての権利は、判決文のように、実行されなければ、効力の伴わない宣言で終わる。

法的権利を持っていても、これを実際に行使しなければ、自らに約束された権利を掴むことはできない。そこに戦いが起き、困難が伴う。あなたはその困難をすべて打破して、約束の権利にたどり着き、これを実際とせねばならない。

アブラハムに約束された子イサクは、信仰によって生まれたが、成長するまでは、肉によって生まれたイシマエルと同じ家に暮らしていた。

同じように、今日の神の教会にも、御霊によって生まれた神の子供たちと、新生を経ていない、肉によって生まれ、うわべだけクリスチャンに偽装しているだけの、偽りの霊に導かれる者たちが混在している。

この異質な両者は、まるで同等の権利を持つ者であるかのように、教会を我が物として活動している。

だが、これらの異質な者同士の間には、必ず、戦いが起きる。まず最初に肉によって生まれた者たちが、霊によって生まれた者たちを、神の教会から追い出そうとする。これが戦いの最初のステップである。

今日の時代には、肉によって生まれた者たちが、カルト化を監視するという名目を用いて、全教会の支配者となろうとする恐るべき理念を振りかざし、裁判を利用して教会に戦いをしかけ、気に入らない者を中傷し、諸教会を自らの支配下に置こうとしている(反カルト運動)。

反カルト運動は、表向きには、人々をカルトから解放するという正義と自由の旗を掲げているものの、実際には、恐怖による恫喝を手段としており、その真の目的は、教会を解放するどころか、むしろ、抑圧して支配することにある。

今やプロテスタントの多くの教会が、このほえたけるししのような連中の罠を見抜けず、恐怖に脅しつけられ、抵抗できなくさせられた。

だが、心配することがないのは、 私たちは、二度とそのような奴隷のくびきにつながれないためにこそ、救いにあずかっているわけであり、命の栄冠を誰にも奪われないために、不当な脅しに毅然と立ち向かってこれを撃退するならば、むしろ、肉によって生まれた者たちを教会から追放することが可能なのだ。

イサク(御霊によって生まれた子)が、イシマエル(肉によって生まれた子)をアブラハムの家から追い出せるようになるまでには、成長が必要である。イシマエルは、イサクよりも早く生まれた分だけ、イサクよりも先に力と知恵をつけているため、初めは強敵に見える。

だが、イサクもやがて成長して、イシマエルに自力で立ち向かうことができるようになる。そして、イサクが反撃に転じたことにより、肉によって生まれた者と、霊によって生まれた者との間に、激しい相克が起きる。これが第二のステップである。

第二のステップは、異質な者同士の間で起きる壮絶な争いである。むろん、サラとハガルとの間にも、争いが起きている。一体、どちらの陣営が勝利するのか、この時点では、はた目には分からない。肉は早熟であり、一時的な勢いがあるため、肉によって生まれた者の方に優位があるように見えるかも知れない。

だが、キーワードは「霊的優位性」である。

キリスト者は戦いに臨むとき、自らの勝利を十字架から引き出して来る。コロサイの信徒への手紙には、「キリストはすべての支配や権威の頭です。」(コロサイ2:10)と記されている。

これが、キリスト者の圧倒的な霊的優位性の根拠なのである。あなたが女性であろうと、この世で見下された無力な存在であろうと、世間からどんな風に見られていようとも、関係がない。もしもあなたがキリストによって新しく生まれた者であるならば、あなたは彼の御名のゆえに、彼と共に、すべての支配と権威を足の下にする権威を帯びているのである。

だから、私たちは敵に立ち向かうとき、この霊的優位性をフルに活かして、戦いを有利に進めなければならない。この霊的優位性の内実は十字架にこそある。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

二つ前の記事に、債権差押命令を提示したが、これはまさに債務を抱える者に対する強制的な取り立てを許可する令状である。

キリストによって贖われておらず、自由とされていない民には、罪という名の無限大の債務がある。それゆえ、悪魔は彼らに対して強制的に取り立てを行う権利を有し、日々、彼らを恫喝し、彼らの権利を剥ぎ取っている。

他方、贖われた者たちには、そのような債務は存在しない。従って、私たちには、誰からも恫喝されたり、取り立てられたりする根拠は何もないのである。

だが、肉によって生まれ、贖われていない者たちは、悪魔のみならず、神の子供たちに対しても、債務を抱える存在であると言えよう。特に、神の教会を迫害して来た者どもの罪は重く、神の子供たちは、彼らの罪を債務に変えて、実際に取り立てが可能なのである。

「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)というのは、そういう意味である。

そこで、私たちが暗闇の勢力に対して戦いを挑むとき、私たちはこの霊的優位性を活用する。贖われていない者は、罪という債務に縛られており、それゆえ、もろもろもの支配と権威による取り立てに服するしかない存在であるが、贖われた私たちは、罪という債務に縛られていないので、もろもろの支配と権威を従わせ、贖われていない者を支配下に置くことができる。

だが、筆者は、この戦いが簡単だと言うつもりはない。目的を達成するためには、想像を超えるほどの根気強さを持って、壁を打破して行かねばならない。

だが、それでも、私たちは、この戦いを貫徹するならば、自分たちが、本当にこの世のあらゆる支配と権威を超越したところに立たされていること、敵こそ、私たちの足の下に踏みつけられ、罪の負債を負って、我々の取り立てに服する義務を負った存在であり、我々の命令に服するしかなく、彼らはすでに十字架において霊的死の宣告を受け、裁かれており、恥をこうむって終わることを運命づけられていることが分かるだろう。

私たちの名のゆえでなく、キリストの御名のゆえに、この世のもろもろの支配と権威は、私たちに完全に服従しなければならない。そうなる時まで、私たちはこの戦いの中で、十字架を貫き通し、キリストの御名に込められている霊的優位性が、目に見える実際となって、この地にもたらされるまで、この戦いを容赦なく貫徹する。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(コリントニ10:4-6)

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

筆者はおそらく、自分のしているこの戦いが、神に栄光を帰するための信仰による戦いであることを証するためにも、キリストの御名以外の名を高く掲げることはないだろうと思う。

この戦いに勝利するために、私たちは死力を尽くさなければならないが、御名のゆえに与えられた霊的優位性、すなわち、神に由来する力は、敵の要塞をも打ち破るに足るものであり、敵の振りまくあらゆる嘘、詭弁、ごまかし、すりかえ、脅しを粉砕し、神の御言葉に逆らうすべての高慢を打ち砕いて、すべての人々の思いをとりこにしてキリストに服従させることができるものであるから、私たちは、すべてのものを足の下にしているキリストの絶大な御名の権威のゆえに、地上のすべてのものを足の下にする。

教会は、キリストを頭とする体であり、キリストが満ちておられる場であるから、主と共に御座に引き上げられ、地上のすべてを足の下に従えている。

そして、私たちは、すべてのものがひざをかがめて、「イエスは主である」と告白することが実現するためにこそ、この世から召し出され、この地に置かれているのである。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、精力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:20-23)

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:10-11)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

こうして、イサクは信仰によって成長し、強くなって、困難を忍びつつ、よく戦い抜いて、実際にすべてのものをキリストと共に足の下にする秘訣を学ぶようになる。

その時、イサクはイシマエルを打ち破り、肉によって生まれた子に対する霊的優位性を見事に証明することができるようになる。そして、第三のステップである平和が訪れる。

反カルト運動は必ず打ち破られて、恥をこうむり、神の家から追い出される日が来るであろう。

今や不従順な肉の子であるイシマエルは神の家から追い出され、イサクこそ、神の家の唯一の約束の相続人である。

イサクのためには、アブラハムが築き上げた無尽蔵の相続財産が約束されている。これがイサクの嗣業である。私たちは、キリストの命の中に隠されている無限とも言える自由と豊かさに、実際に至り着く必要がある。これが私たちの目指している新しい領域である。ただ贖われただけで終わるのではなく、激しい戦いを戦い抜いて、霊的に勝利をおさめ、敵を征服し、圧倒的な自由と豊かさの中に、実際に入らなければならないのである。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(7)―唐沢治と杉本徳久のメール文通―彼らのために真理の道はそしられるのです。

5.唐沢治が杉本徳久と交わしたメール(牧師としての秘密漏示)
 
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽預言者が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。
彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」(ペテロニ2:1-3)


彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(ペテロニ2:10-12)

当ブログ執筆者を日夜誹謗している掲示板には、多くの「杉本用語」「村上用語」「唐沢用語」が登場する。本人が書き込んでいるかどうかまではまだ不明だが、以下のコメントで使われている「脳内空転」という言葉も、唐沢治のお気に入りの用語である。



口汚い言葉で筆者を罵っているこのコメントに登場するこの言葉は、以下に示す通り、唐沢が杉本に宛てて書き送った、当ブログ執筆者を罵倒するメールにも登場している。

だが、今は掲示板について話す前に、まずは唐沢治がどのように杉本徳久の圧力に屈し、牧師としての守秘義務を破って、当ブログ執筆者の個人情報を杉本に売り渡し、筆者を陥れて、杉本を筆者に対立させるよう仕向けて行ったか、唐沢治が用いた巧妙な策略について、今回の裁判において新たに判明した事実を提示しながら、振り返っておきたい。

* * *

➀ 唐沢治が杉本徳久に2010年に民事提訴を予告した経緯

唐沢治は、KFCの元信徒が、杉本が2009年に当ブログをバッシングするために発表した記事のコメント欄に、「唐沢から密室で呪いの予言を受けた」という趣旨のコメントを書き連ねたことをきっかけに、2010年にこの元信徒を刑事告訴した上、その事件を自分に有利に解決するために、筆者に警察での証言を頼んで来た経緯がある。

さらに、唐沢治はこれと前後して、筆者に対するバッシング記事を取り下げさせることにより、都合よくKFCの元信徒の書き込みも削除させようという名目で、杉本に宛ててメールを送り、そこで筆者に(はおろか他の誰にも)何の断りもなく、一方的に杉本に民事提訴を予告するという暴挙とも言える行動に出た。

唐沢が杉本に提訴を予告した目的は、KFCの元信者の書き込みについて、杉本による幇助の責任を追及するためであったことは、杉本ブログに2010年8月23日付で投稿された記事「唐沢治からの民事提訴の通告」に、以下の通り、唐沢自身のメールとして公開されている通りである。



 

「また杉本さまにつきましては、メールや私に関する書き込みなどを当局に提出し、一応幇助罪の適用の可能性を検討していただき(あまり高くはないかと思いますが、掲示板管理人が書類送検された事案がありましたね)、また民事提訴させていただきます。法的構成は2ちゃんねるの西村氏と同じ立場になるかと思いますが、後ほど弁護士からご連絡させていただきます。

「容疑者検挙や事実関係の詳細などにつきましては、おいおい私のブログで公表してまいります。なお、私からの直接のご連絡はこれを最後とし、今後は弁護士経由でご連絡させていただきます。

ここに書かれている通り、唐沢はこの当時、杉本に対し、KFCの元信徒による書き込みについて、幇助の可能性を問うため、民事提訴を予告し、以後、杉本への個人的な連絡は一切控え、弁護士を通じて連絡する、と通告したのである。

繰り返すが、この提訴予告は、唐沢があくまで自らの権利を擁護する目的で、杉本に通告したものである。

それにも関わらず、唐沢は、誰にも何の説明もないまま、自ら行った提訴予告を実行に移さなかった。それゆえ、唐沢の提訴予告に激怒した杉本は、唐沢をブログで激しく中傷したのみならず、筆者や、エシュコル氏など、当時のKFC信者に宛てて、幾度となく、唐沢の提訴予告のことで、事の次第を明らかにせよと、信者をなじるメールやコメントを書き送った。

筆者は当時、このような杉本の行為に当惑させられていたが、唐沢はどこ吹く風といった態度であった。

なぜ唐沢は、誰にも何の説明もなく、杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかったのか。その理由として考えられるのは、唐沢は勇み足で杉本に提訴を予告したものの、その後、調べてみると、杉本ブログに投稿されたKFCの元信者のコメントについて、ブログ管理者としての杉本に幇助の責任を問うことは、ほぼ不可能であることが分かったのではないかということである。

ちなみに、本訴訟でも、コメント投稿欄に投稿された内容について、ブログ管理者は責任を負わないという判断が出ている。

つまり、唐沢は、杉本に提訴予告した後になって、先に通告した理由では、訴訟を提起しても、勝ち目がないことを悟ったのではないかと見られる。だが、そのことを、唐沢はプライドゆえに、決して誰にも明かしたくなかった。提訴を取りやめたと言うことさえ恥であると考えたのではないか。

それゆえ、なぜ提訴を実行に移さないのか、誰にも説明しないまま、唐沢は沈黙を決め込み、時間を稼いだのではないかと見られる。

だが、もしも唐沢が誠実な人間であったとすれば、先に通告した理由で提訴が困難と判明しても、別な手段で杉本に立ち向かう道が残されていた。それは、唐沢が自分自身への誹謗中傷を理由に、杉本を訴えることである。

なぜなら、提訴を予告されて激怒した杉本は、上記の記事で、唐沢治を「精神家きどりのやぶ医者ごっこ」をしているだけの「預言者気取りでエセ精神病理学の専門家」と呼び、「ある種の痛々しさ」は唐沢の病的な心理に潜んでいるものであろう。」とか、「こういう洗脳、心理操作の台詞をいともあっさり他人に対して次々に放って恐怖心を射貫き、心理的に相手を圧して支配していく手法。」などと記し、唐沢は、心理操作の手段として、杉本に提訴を予告したのであって、これはスラップ訴訟であると決めつけ、「これが独裁カルトの新興宗教、誇大妄想信仰の恐ろしさである。」などと、あらん限りの非難・中傷の言葉を唐沢に浴びせた上で、ついには「唐沢治のキングダムフェローシップチャーチ(KFC)は、見まごう事なき異様な独裁カルトである。」とまで結論づけていたからである。

杉本が唐沢の実名に対して向けた以上のすさまじいまでの記述は、当時、十分に名誉毀損に相当する不法行為となり得たのであり、もしここで唐沢が杉本を民事提訴していれば、杉本は一巻の終わりとなっていたものと見られる。

ちなみに、杉本がこのように誰かから非難を受ける度に、より深刻な権利侵害を行っては、罪に罪を増し加えて行った様子は、筆者と杉本との間に起きた紛争においても、共通して見られた現象である。

たとえば、2017年に筆者が杉本に脅しメールやバッシング記事について反省と謝罪を促し、念書を差し入れた時点では、杉本による不法行為は成立し得たかどうか分からなかった。脅しメールは過去のものであり、バッシング記事では実名も出ておらず、権利侵害が成立したかどうかが分からないためである。

ところが、杉本は和解を断っただけで終わらず、それを機に、筆者のメール等を無断で公開しながら、筆者に対する人格権の侵害、名誉毀損・侮辱に及んだ。この時点で、杉本による明白な不法行為が成立したのである。

さらに、筆者が杉本の不法行為の存在を知って、2018年2月に、杉本を刑事告訴の上、民事調停を提起した時点でも、まだ杉本による明白な不法行為は、2、3本の記事にとどまっていた。ところが、筆者が調停を提起した後で、杉本はさらに20本ほどのおびただしい数の名誉毀損に相当する記事を投稿し、自ら賠償を重くして行ったのである。それゆえ、杉本の不法行為は、まさしく訴訟にふさわしいインパクトを持つものとなった。

杉本が唐沢に対して2010年に行ったことは、それととてもよく似ている。当時、唐沢が杉本にぶつかって行ったことにより、杉本の内側に隠れていた罪深い内面が、思い切り外にぶちまけられたのである。

このことは、神の子供たちには、霊的な視力によって、自分に害を加えようとしている敵の不法行為を、それが実際に成し遂げられるよりも前に、察知し、彼らの本質を見抜き、これを明らかにする役割が備わっていることを示している。

我々が暗闇の勢力と接触する時、我々の宣言によって、暗闇の勢力の内実が明らかにされる。村上密の場合も、同様であった。筆者が村上を訴えた時点では、村上の不法行為の証拠は固まっていなかった。しかし、第一審が終結した時点で、村上は無罪放免されたにも関わらず、自ら不法行為に及んで、自分を不利に陥れたのであり、そうなったのは、筆者が村上と接触し、村上を糾弾したことにより、村上の内面が外に現れたのだと言える。

話を戻せば、仮に唐沢が杉本に提訴を予告した時点で、杉本の明白な不法行為が成立する要件が十分に整っていなかったとしても、だからと言って、唐沢は敗北すると決まっていたわけではなく、その提訴予告に激怒した杉本が、ブログで唐沢を誹謗中傷し始めた時点で、杉本には不法行為が成立する要件が十分に揃っていたのである。従って、その機に乗じて、唐沢が杉本に対して断固たる措置に出てさえいれば、杉本にまつわるすべての問題は、それ以上拡大することなく、終了していた可能性が高い。

ところが、KFCの元信徒を訴えることにはためらいがなかった唐沢が、自分自身の名誉と人権を守るために、また、自分の率いる集会KFCの正統性を守るために、杉本の主張に毅然と立ち向かうことをしなかった。

このようなことは、唐沢が当時から真理に生きていなかったからこそ、起き得たことであると筆者はみなしている。

唐沢が、自分に盾突いたKFCの元信徒には容赦のない措置を取りながらも、杉本を訴えることを躊躇したのは、唐沢の心の中に、杉本を「延命させておきたい」という願いがあったからだではないかと考えられる。

つまり、唐沢は、真のクリスチャンを抑圧するための手段として、杉本を残しておくことに価値を見いだしたのではなかと考えらえるのだ。少なくとも、唐沢があの当時、本気で杉本に立ち向かっていれば、杉本は簡単に倒されたことであろうが、そうなることは、唐沢にとっても、まずい事態だったからこそ、唐沢はそれを実行しなかったのである。

このようなことは、唐沢が真のクリスチャンであれば、起き得ない事態であり、むしろ、その逆であったからこそ、唐沢は杉本を上手く使えば、クリスチャンたちを弾圧する手段として利用できることを知っていたのではないかと予想できる。

また、筆者から見れば、唐沢は、自分が傷つけられたときに、正当な方法で、自らを擁護することができない性格であった。杉本も、村上も、唐沢も、みなこの点で共通している。彼らは、自分を脅かした敵に対して、いつまでも執念深く報復措置を加えることはあっても、どういうわけか、正当かつ合法的な手段を用いて、紛争を早期に終わらせ、自己の正当な権利を取り戻すために戦うことができない。

だから、彼らはどんなに戦っても、戦えば戦うほど、その成果が薄れて行き、何も成果が残らないのである。このようなことは、自己を非常に深いレベルで傷つけられて、自分を防御できなくなっている人々に共通する。
 
いずれにせよ、唐沢が杉本の主張に毅然と立ち向かうことをせず、その口を封じる行為に及ばなかったがゆえに、杉本が発した呪いのような言葉が、唐沢の身の上に徐々に成就して行くことになったものと筆者は見ている。


* * *

② 唐沢治自身が認めている2013年にKFCで鵜川貴範が起こした「クーデター」

筆者は2012年にKFCを去ったが、そうなるまでの間に、KFCは杉本が述べた通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」と呼ばれても、致し方ないのではないかというほどの惨状に陥っていた。

(とはいえ、2012年が来るまで、KFCには複数のメッセンジャーがいたため、独裁という言葉は当てはまらない。しかし、2013年にKFCが解体されて、2015年に唐沢がフルタイムの牧師になった頃には、まさに以上のような状況が生まれた。)

筆者は、2011年から2012年頃にかけて、KFCで起きたクーデター事件について、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」にまとめている。

この事件を要約すると、当時、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信徒であった鵜川貴範が、Br.Takaという名で、身元を隠してKFCに潜入、2011年頃にはKFCの中核的なメッセンジャーとなり、唐沢の信用を得た。

この頃、筆者は、他教団の信徒であるにも関わらず、身元を隠してKFCに入り浸る鵜川夫妻に多大なる疑問を持つようになり、唐沢にこの夫婦は何を目的にKFCに来ているのか分からないので、注意した方が良いと、クーデターの可能性を告げて警告したが、鵜川夫妻に心酔していた唐沢は、2012年になって、危険を警告した筆者を、夫妻と一緒になって非難、呪った挙句、KFCから追放した。

彼らは筆者を仕事の後で呼び出し、「悪霊に憑りつかれている」だの「そのままでは滅びる」だの、まさしく陳腐な呪いの予言としか言えない言葉を三人でかわるがわる浴びせて、筆者にKFCに来ないように求めたのであった。

この事件が起きたことにより、筆者は初めて、唐沢が「人を呪うような人間ではない」と考えていた以前の見解を改め、唐沢がKFCの元信徒を刑事告訴した事件でも、唐沢が嘘をついている可能性があると疑うようになった。

なお、鵜川のクーデター事件については、唐沢自身が2014年4月30日のブログ記事「お知らせとご注意」で、KFCで当時、確かに「クーデター」が起き、自分が一時、メッセンジャーを降格させられていたこと、鵜川の策略によって、KFCの会堂契約が無効になり、さらに偽サイトが開設されたままになっている事実を自分で記している。

この記事で、唐沢がクリスチャン・トゥデイに掲載された鵜川貴範に関する記事にリンクを貼っていることを見ても、この事件をおこしたのが、まさしくアッセンブリー教団所属の鵜川貴範であったことは明白である。

「*1:端的に言えば、2013年1月初旬、クーデターが起き、Dr.Lukeが一切の働きを封じられて追放された次第。
*2:チャペルに関してはそのまま彼らが使用したいとのことで、2013年9月末に私の契約解除を申し入れ、12月に彼らが契約することになっており、不動産屋との交渉も開始されておりましたが、12月になり彼らは突如チャペルから逃亡しました。こちらからと不動産屋の連絡に対しても一切の応答はなく(携帯もメールも遮断)、よって契約の意思なしとして、チャペルは契約解除され、もちろん彼らの契約下にはありません。よって「公式サイト」の記載は偽りですので、私宛の来訪者が一部おられるようですが、ご注意ください。」





以下は、唐沢が、KFCでクーデターを起こした「メッセンジャー」という文字に、リンクを貼っている鵜川貴範に関するクリスチャントゥデイの記事



このように、鵜川貴範によるKFCのクーデター(乗っ取り)事件は、唐沢治自身が、その存在を認めたものであった。

この事件のために、KFCは会堂を失い、一時は閉鎖に追い込まれていたが、KFCの残党がその後、結集して、また新たに唐沢治を担ぎ上げ、まるでエリコの町を再建するように、会堂がないまま、現在のKFCを作り上げたのである。

こうして再建されたKFCは、前よりも一層ひどいものとなり、唐沢は以前からサンダー・シングなどのオカルトに影響を受けていたことに加え、新しくリニューアルしたホームページの中では、ニューエイジ、禅など、ありとあらゆる非キリスト教的教えから無分別に影響を取り込んだことを隠し立てもしていない。

そして、唐沢自身も、以前は女学生から人気があると自慢するために続けていたような大学講師の職を、2015年に「神の啓示を受けた」として、KFCの牧師業に専念するため、自ら辞した。それによって、アカデミズムを去り、学術研究者としてのキャリアも捨てて、公に心理学の専門家を名乗ることのできた根拠をも自ら捨て去ったのである。

唐沢が大学講師の職を自ら辞したことは、KFCホームページに掲載されたプロフィール欄でも確かめられる。

 

* * *

③ 唐沢治が当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久に漏洩した経緯

・唐沢治が坂井―杉本裁判に当ブログ執筆者のメールを無断で提出(2013年)


筆者は、2012年にKFCを去って以後、唐沢とは何の関係もなくなっていたが、唐沢の方では、うわべは一切の関わりがなくなったように見せかけながら、水面下では、色々と筆者を争いに巻き込むために画策していたようである。

まず、唐沢は、杉本が2013年に坂井能大を民事提訴した際、坂井を支援するという名目で、筆者の了承を得ないまま、筆者の個人情報を含むメールを無断で坂井に書証として提出させた。

このメールは杉本の手に渡り、それが、杉本が筆者の個人情報を特定する根拠の一つとなったと、杉本は筆者との訴訟において認めている。

唐沢は、筆者があたかもメールの提出を許可したかのように述べ、また、筆者と坂井との間で、何らかの「協力関係」が構築されていたかのように弁明を重ねているが、それはすべて事実に反する。

筆者が、唐沢に坂井の裁判にまでメールの提出を許可したことは一度もなく、筆者は坂井とはいかなる協力関係にもあったことがなく、面識すらなく、連絡を交わしたことも一度もない。

しかも、杉本―坂井裁判が行われていた時、唐沢は筆者を呪った挙句、KFCから追放したのであって、筆者はすでにKFCを完全に離れ、唐沢の影響下にもなく、ブログも閉鎖しており、裁判のことも知らなかった。

それにも関わらず、唐沢は筆者の同意を得ないまま、あたかも筆者を遠隔操作で杉本との対立に引き込むかのように、筆者のメールを裁判に提出し、まるで筆者がこの裁判を支援しているかのように「演出」したのである。

この裁判で、坂井は杉本に敗れ(杉本の言葉によると、杉本の勝訴的和解に終わったという)、それによって、坂井と杉本だけでなく、坂井を支援していた唐沢と杉本との対立関係にも、終止符が打たれた。

唐沢は、こうしてもはや杉本の記事を、自分への名誉毀損だと主張する根拠さえ、自分から手放したのだと言えよう。

だが、唐沢は杉本に降伏したことで、KFCが杉本の予告の通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」へと転じる最後の歯止めを自ら外したのだとも言える。


・唐沢治が杉本徳久と交わしたメール文通(2016年―2018年)

その後も、唐沢は2010年に、杉本に対する個人的な連絡はこれを最後とし、以後、弁護士を通じてしか連絡を取ることはないと通告したことなど、全く忘れたかのように、杉本とのメール文通を重ね、そこで牧師としての守秘義務を破って、筆者の個人情報を次々とメールで杉本に提供するようになった。

その結果、唐沢が次々と筆者をいわれなく不利に陥れるような情報を杉本に伝え、杉本がそれを受けて、その情報を筆者を誹謗中傷する材料として使用するという「連携プレー」がなされた。

そのようにして、唐沢が信徒の個人情報を杉本に漏洩していた事実は、杉本が第一審で筆者に書証として提供した一連のメールを通して明らかになった。

杉本はおそらく唐沢に筆者を裏切らせたことが、よほど嬉しかったのであろうと思う。筆者を悔しがらせようと、あえてこの恐るべき悪事の証拠を自ら書証として公の場に持ち出して来たのである。

唐沢が2016年に筆者を指して「脳内空転」と罵った次のメールも、杉本が書証として出して来たものである。

 
1.唐沢が杉本と2016年に交わしたメール。この時点では、唐沢は筆者を「脳内空転」と罵っていたが、まだ秘密漏示には及んでいなかった。

ここで唐沢は、依然として杉本ブログには、唐沢を中傷する記事が掲載されているにも関わらず、杉本と対立する大義はもうなくなったなどと、杉本に対する事実上の和解宣言をしている。

さらに、このメールは、唐沢が、杉本を批判するために書いた記事の削除を、杉本から求められ、それに返信したものであるが、唐沢は杉本の怒りが自分に向かないように、巧妙に筆者の話に話題をすり替え、筆者を「脳内空転が強い」などという言葉で罵ることによって、杉本の注意を筆者に引きつけている。

杉本は、この悪口にも早速、飛びついたと見られ、あたかも筆者が精神異常に陥っているかのような根拠のない自説の裏づけとして利用して行った。

さらに、唐沢はまだこの時点では、秘密漏示には及んでいなかったが、その後も、杉本とのメール文通を重ねるうちに、ますます事実に基づかない、もしくは極度に誇張された情報を盛んに杉本に漏洩しては、杉本が筆者を中傷する行為を助長・容認するようになった。

唐沢はその過程で、杉本の怒りを自分から逸らすために、自分が過去に杉本に行った提訴予告すらも、まるで初めから唐沢の権利を擁護するためのものではなく、あたかも筆者の権利を守るために、筆者から促されて仕方がなく行ったものであるかのように、巧妙に主張をすり替え、その嘘を杉本に信じ込ませた。

そのことは、以前に書いた記事でも示した通りであるが、以下にも唐沢のメールを再掲載する。


2.2017年1月のメールでは、唐沢は杉本に対して虚偽の情報を提供しては、筆者を不利に陥れようと画策していたことが分かる。

唐沢は2017年1月に杉本に宛てたこのメールで、自分が無責任にも実行に移さなかった提訴予告のことで、責任を棚上げしようと、「彼女から提訴を何度も求められましたが、実名が出ておりませんので、彼女の件では動けなかったわけです。」などとうそぶき、2010年に自分が杉本に行った提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るために、筆者が唐沢に杉本を訴えるよう促したものであったかのように話をすり替え、虚偽の事実を杉本に伝えた。

だが、唐沢は以上で述べた通り、そもそもの初めから、KFCの元信者による書き込み幇助の責任を問うという、自分の権利を擁護するために杉本に提訴を予告したのであって、筆者が唐沢に杉本を提訴してくれ、などと頼んだ事実はない。また、唐沢は筆者の代理人でもないのだから、仮に筆者の権利が侵害されたとしても、それを理由に唐沢が杉本を訴えることなどもとより不可能である。

それにも関わらず、唐沢治がこのように虚偽の事実を杉本に伝えたのは、自分から杉本に(勝ち目のない理由で)提訴を予告したにも関わらず、これを実行しなかった自らの責任を、巧みに筆者に転嫁することで、杉本の怒りを筆者に集中させて、矛先を逸らし、さらに筆者を杉本との争いに全面的に巻き込んで行くための巧みな心理操作であったとしか言いようがない。

さらに、唐沢はこのメールで、2012年に筆者をKFCから自ら追放しておきながら、2013年になって、唐沢とは何の関わりもなくなっていた筆者が、あたかも坂井の裁判を「応援したい」と述べた事実が存在するかのように、虚偽の事実を杉本に伝えている。そして、あたかも、筆者の許可を受けて、筆者のメールを坂井に書証として提出させたかのように自己弁明している。

だが、筆者は坂井とは現在に至るまで、いかなる面識もないだけでなく、その当時、ネットから遠ざかっていたため、坂井と杉本の二人の間で、そのような裁判が行われていた事実さえも知らず、唐沢は筆者に坂井の裁判について伝えるメールを送ったと主張するが、そのメールを筆者は読んだ記憶もなければ、返信した事実もない。むろん、見ず知らずの坂井の裁判へのメールの提出を許可した事実などあるはずもない。

だが、杉本はこのような唐沢の巧みな心理操作に乗せられ、2013年に坂井を訴えた裁判で、筆者があたかも坂井+唐沢の援護射撃に回っていたかのように信じ込んだだけでなく、さらには、坂井の裁判までが、筆者が陰で糸を引いて、坂井を巧妙に焚き付けて杉本と衝突させたものであるかのようにまで信じ、そうした虚偽を、後にまことしやかにブログで吹聴しては、筆者を断罪し、名誉を傷つけたのである。

いずれにせよ、唐沢にとって、そうした嘘を杉本に信じさせるのは、全く困難ではなかったと見られ、こうして唐沢は、筆者について嘘を吹き込むことで、筆者を杉本との全面的な対立に至らせるきっかけを作って行ったのである。

唐沢が、常日頃から、「自分には人の気持ちが読める。人を操るなど簡単だ」と豪語していたことを思い出しても、このメールで、唐沢が「杉本さんが彼女を告訴する/しないは、もはや私が関与することではありません。」と、あえて杉本が筆者を告訴することを認めるような発言を行っていることも見逃せない。

この言葉から、唐沢が、できれば、杉本がヴィオロンを訴えてくれれば、非常に都合が良いのに、と考えていた様子がひしひしと伝わって来るように感じられる。
 
この他にも、唐沢は杉本に対し、秘密漏示に当たるメールを送信している。

 
3.2017年5月に唐沢が杉本に書き送ったメール。このメールで、唐沢はいくつもの信徒の個人情報を杉本に漏洩し、秘密漏示に及んでいる。

このメールで、唐沢は以前よりもさらに積極的に、杉本が筆者を中傷する材料を得られるよう、筆者に関する情報を捏造・歪曲する形で、杉本に伝えている。

唐沢が杉本に漏示した情報は次の通りである。
1.家庭の事情(何かしら深刻重大な事情があるかのような思わせぶりなニュアンス)
2.信徒の人間関係(兄弟姉妹と「総当たりでトラブルを起こしている」という虚偽の情報)
3.実家の所在地
4.家族構成
5.家族との人間関係(家族と対立しているかのようなニュアンスを含む歪曲された情報)
6.生活状況(生活苦に落ちっているかのようなニュアンスを込めた書きぶり)

こうした情報を伝えられた杉本が、それに飛びつき、これを利用して筆者を名誉毀損する記事を書き始めたのは周知の通りであるが、その直接的なきっかけを作ったのは、唐沢治なのである。

むろん、筆者はKFCにいた時、「兄弟姉妹と総当たりでトラブルを起こした」事実もなければ、実家と対立した事実があるわけでもない。実際に、この年、筆者は700km以上の距離を走行して実家へ旅していることからも、それは明らかである。

だが、唐沢から歪曲された情報を提供された杉本は、これを鵜呑みにして、2017年から2018年にかけて、筆者が至るところで対立を引き起こし、実家とも対立して絶縁状態にある、などとする中傷を書き記して行くことになる。

その後も、唐沢と杉本は親しくメール文通を続け、二人を批判する筆者に対する「対策」を共に練っていたようである。


 
4.2018年5月、筆者が杉本と村上に対して提起した民事調停が決裂に終わる直前に唐沢が杉本に送信したメール。

以上のメールで、唐沢は、筆者の書いた記事が虚偽であるかのように述べるだけでなく、訴訟のアドバイスまで丁寧に杉本に書き送っている。

「この種の人物は些細な兆候や事実を膨らませます。杉本さんと村上さんが連携して彼女を追い詰め、さらに私が寝返って関わっていると言うわけですよね。ですから、その兆候のヒントを与えると彼女がますます増長し、彼女を利するわけです。

ゆえに杉本さんの態度としてはあくまでも「不知」がベストなのです。こうして私とメールをやり取りしていることも彼女には利益となるでしょう。」

こうして、次々と筆者を不利に陥れるような歪曲された情報を杉本に与えて、個人情報まで漏洩し、杉本が筆者を中傷・攻撃するきっかけを作っておきながら、よくも以上のように主張できるものだと呆れるばかりだ。

唐沢はこの当時、まさかこのメールを杉本が訴訟に提出することになるとは予想していなかったであろうし、それを願っていなかったと考えられるが(だからこそ、唐沢は杉本に「不知」で通すよう、余計なことを話さないよう勧めている)、それでも、独特の直観で、このメール文通の存在が、筆者の目に隠しおおせず、必ず、彼らにとって不利な証拠として利用され、いつか白日の下に晒される日が来ることを予見していたようである。

杉本はこのメールの中で、「ヴィオロンから民事調停を申し立てられていますが、卑怯なことに住所を秘しているため、こちらから反訴ができない状況です。」と述べている。筆者の情報をどこまでも集めたいがために、手あたり次第、筆者のかつての知人にメールを送りつけ、情報を聞き回っていたわけであるが、唐沢の反応を見る限り、唐沢は筆者を陥れるために、知ってさえいれば、どんな情報であれ、喜んで杉本に伝えたのではないかと疑われてならない。

筆者の目から見て、唐沢が杉本に嘘を信じ込ませることで、杉本の筆者に対する対立感情を煽った手法は、極めて狡猾なものである。下手に心理学などを学ぶと、このように他者の愚かさや弱さに付け込んで、他人の心を操り、手玉に取る術ばかりを、常人以上に身に着けてしまうのであろうか?

杉本に情報を提供してやることで、杉本を思い通りに動かし、筆者に対立させることなど、唐沢にとっては全く問題ではなかったであろう。だが、唐沢の誤算は、筆者が(信仰ゆえに)杉本よりも強く、杉本が筆者に打ち破られて終わると予測できなかったことにあった。

いや、筆者は、内におられる方のゆえに、杉本だけでなく、唐沢にも打ち破られるとは思っていない。唐沢が聖書の御言葉に立たないならば、真実なクリスチャンの前に立ちおおせる根拠は何もないのである。

* * *

④ 唐沢治の嘘とまことの混在した整合性のない矛盾だらけの主張

現在、唐沢は、筆者がKFCで起きたクーデター事件について、自らのブログ記事とは裏腹に、U(鵜川)夫妻がKFCを乗っ取った事実はないと否定し、さらに、筆者とは「牧師と信徒の関係にはなかった」などという荒唐無稽な嘘を主張している。

唐沢の巧妙な印象操作と詭弁に満ちた主張は、以下の陳述書でも如実に見て取れる。




これは筆者が昨年に申し立てた仮処分の申立に対する陳述書であるが(仮処分は訴訟に転じる予定で一旦、取り下げている)、唐沢はここで筆者が「神の啓示を受けた」などとして、あてもなく突然、横浜に尋ねて来ては、自分の孤独を切々と訴え、唐沢に面倒を見てもらおうとし、それを唐沢は親切にもケアしてやっていたかのように、虚偽の情報を記している。

しかしながら、事実は全くこのようではなかった。筆者は、2009年10月に横浜へ移住した際、確かに神が奇跡的に筆者の祈りに応えて、大きな恵みを与えて下さったことに喜んでいたが、「神の啓示」により、移住したと述べたことは一度もない。むろん、それ以後、生活について、いかなる形でも、唐沢から支援を受けたこともない。

むしろ、筆者が横浜に移住してわずか数日後に、唐沢の20年来の知己であり、ローカルチャーチ時代からの親友であったMr.Sugarを名乗る年長の兄弟が、「唐沢は非常に危険な男であるから、近寄るべきではない」と筆者に向かって真摯に忠告したため、筆者はそれ以後、杉本によるバッシング事件が起きて、年末から年明け頃になるまで、KFCには近寄らなかった。

従って、筆者が唐沢に孤独な心中を打ち明けたとか、親切に面倒を見てもらったなどという事実はない。むしろ、杉本事件が起きてから、筆者が途方に暮れて唐沢のもとに相談に行っても、それに対して、唐沢が行ったことは、KFCの元信徒の事件を自分に有利に解決するために、筆者に唐沢に有利な証言を警察で行うよう求めることだけであった。

唐沢はその後、独断で杉本に提訴を予告して杉本を激怒させた上、その提訴を実行に移さず、さらにそうした理由さえも、いわれなく筆者にかこつけ、筆者をKFCから追放した上、筆者を中傷する情報を杉本に提供したことはすでに述べた通りであり、それを考えれば、唐沢が筆者のためになした良いことなど、ほとんど何も見当たらないと言えよう。

筆者は、唐沢の信仰的見解を非常に危ぶんでいたので、唐沢に助言や忠告めいた内容を伝えたことが、幾度となくあり、何とかして唐沢に正統な聖書的見解を取り戻せないかと試行錯誤し、話し合いの機会をもうける口実として、「横浜を案内して欲しい」と頼んだことがあった。

しかし、それに対しても、唐沢はただホームレス伝道が行われている教会へ筆者を連れて行っただけであり、筆者はその伝道風景を見て、あまりにも人工的であると感じて、気分が悪くなっただけであった。もちろん、筆者がそれ以外に唐沢から横浜案内を受けたことはない。信仰についてKFC以外の場所で話し合ったことはあるが、観光などの信仰とは関係のない事柄を共に行ったことはない。

筆者は杉本のバッシング事件において、唐沢からほとんど助力を得られなかったが、それとは別に、2012年にKFCを去るまで、唐沢が「セレブレーション」と呼んでいた礼拝に通っており、それゆえ、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」という唐沢の主張が荒唐無稽であることは言うまでもない。

唐沢が筆者の「カウンセラー」でなかったという事実は、何ら牧師と信徒の関係に影響を与えるものではない。

むろん、筆者が2012年に鵜川夫妻に口論をしかけた事実もなければ、鵜川夫妻が土下座したといった芝居じみた話も、事実ではない。大体、キリスト教徒が土下座などすると考える方がどうかしているが、鵜川夫妻は、当時、筆者が夫妻に疑問を感じていることを鋭く感じ取っており、2012年のある日の礼拝後、筆者が鵜川のメッセージを素直に聴かないと言って、他の信徒が見ている前で、筆者をすごい剣幕でなじった。そして、夫妻は、筆者が彼らに心を開かないことを責め立てたのであった。

唐沢は、その頃から、鵜川夫妻に入れ込んでいたので、彼らの肩を持って、その話を聞いていたのであろう。それからほんのわずかしか経たないうちに、3人で筆者を断罪し、KFCから追放したのである。

同じ頃、筆者がKFCを去る少し前に、エシュコルがKFCに対してブログで決別宣言を出し、集会を去った。だが、それについても、唐沢は「ヴィオロンがエシュコルを唆したに違いない。あんな人間に自分で物事の判断ができるはずがない」などという理由で、鵜川夫妻と一緒になって筆者を断罪し、さらに、礼拝後、信徒たちの目の前で、「彼は血潮を踏みにじり、赦されない罪を犯した。これから先、己が罪を生涯背負って、無意味な自己弁明を重ねながら生きて行くしかないだろう。」などと宣告していた。

こうした事件を目の当たりにした結果、筆者はKFCの元信徒が、唐沢から「密室で呪いの予言を受けた」と主張していたことを、全く嘘とは思えない心境に至ったのである。

その確信は、唐沢が現在、この信徒だけでなく、筆者をも事実に基づかない理由で断罪する以下の記事を公然とホームページに掲載しているところを見ても、さらに深まるばかりである。

 



この記事で、唐沢はすでに10年ほども前に、不起訴に至ったKFCの元信徒に対して、未だに尽きせぬ恨み節を向けながら、彼の家庭・精神が崩壊に至ったことを喜び、嘲笑するかのような言葉を浴びせている。

このような断罪記事には、唐沢の精神が余すところなく表れているのであって、このように信者を断罪できる唐沢が、この信徒に「密室で呪いの予言を浴びせる」ことなど、平気だっただろうという推測が生じるのは当然である。

唐沢はここで筆者についても、誇張・歪曲された事実をいくつも並べて、あたかも筆者がアッセンブリー教団で「挫折」したかのように述べたり、筆者が「現実と幻想の混濁した独自の世界観」の持ち主であるかのように、必死に印象操作をしようとしている。こうした記事が、杉本にどれほど好都合な材料となったか、あえて述べなくとも明らかであろう。

こうした唐沢の主張は、村上密が筆者に向けている非難にほぼ重なるものである。かつて唐沢は、自分から村上密を嘲笑する記事を投稿していた事実などすっかり忘れたように、ここでは筆者が村上を「憎悪」しているかのように、都合よく村上を擁護する側に回っている。

唐沢はかつてはアッセンブリー教団をも批判していたのである。しかし、2012年にアッセンブリー教団所属の鵜川夫妻がKFCでクーデターを起こして以来、唐沢はアッセンブリー教団を非難することができなくなった。唐沢が鵜川夫妻を公然と批判できないのは、鵜川夫妻と親しく交わりを重ねているうちに、夫妻に弱みを握られたためなのかどうかまでは、筆者は知らない。

いずれにしても、唐沢がこうして杉本徳久が筆者を名誉毀損することを促すかのように、格好の材料を次々と提供して行ったのは事実である。

こうした事実から、読者は唐沢という人間の極端なまでの利己主義、サイコパスのごとき冷淡さを見て取れるのではないだろうか。

とはいえ、筆者は、唐沢が筆者を呪ったり、杉本が誹謗中傷したとしても、全くその言葉には効果がないと確信している。なぜなら、私たちのためには、すでに木にかけられて呪いとなって下さった方が存在しているためであり、誰からの呪いも、十字架によって無効にされているからである。

ただし、それでも、唐沢は自らの行動の責任を取らなければならないことは確かである。

* * *

④ 偽預言者を待ち受ける破滅 異端的教説にはまることの恐ろしさ

最後に、以上のような事態が、唐沢治の内側で進行したのは、その間、唐沢治が、ニューエイジ、オカルト、東洋思想などの非キリスト教的思想をいくつも渡り歩いて、それに深く影響を受けたために他ならないと、筆者は考えている。

筆者はまだKFCにいた頃、こうした教えがどれほど危険なものであるか、再三、唐沢に忠告し、議論したこともあった。その当時、筆者は何とかして唐沢の心を変えて、正常な信仰を取り戻せるのではないかという甘い期待を持っていたのである。

しかし、唐沢はどれほど忠告しても、己が考えにしか従わず、聖書と異なる教えを捨てようとはしなかった。唐沢は自分にあまりにも自信を持ち過ぎていたため、むしろ、筆者がそれらについて警告すればするほど、筆者に対する嫌悪を深めて行ったのである。

当ブログでは、前々から述べている通り、東洋思想の基礎は、グノーシス主義にあり、グノーシス主義の本髄は、「対極にあるものを融合する」こと、すなわち、嘘とまこと、「然り」と「否」を統合し、究極的には「神」と「人」を一つにすることにこそある。

唐沢治がかつて属していたローカルチャーチでは「神と人とが混ざり合う」という異端的教説が教えられているが、唐沢はこの教えをかつては糾弾していたにも関わらず、結局のところ、自分自身がそこへ戻って行ったのだと言えよう。

唐沢治が現在、KFCにおいて、自分たちは「エロヒム(神々)だ」と主張し、「キリスト教からのエクソダス」を唱えていることは、彼らが、自ら神(々)になっていることを意味する。

生まれながらの人が、十字架の死を経ることなく、自力で神に到達すること――これは、あらゆる異端が目指している最終目的であり、神秘主義の極意である。

筆者は、目に見える教会組織や、目に見える指導者からの「エクソダス」を唱えたことはあっても、唐沢のように「キリスト教からのエクソダス」を唱えたことは一度もない。

しかしながら、禅とキリスト教の融合を唱えたり、「白いキリスト教の呪縛から解かれよ」などと唱える唐沢は、もはや自分をキリスト教徒であるとは認識していないことがよく分かる。

筆者は2010年当時から、KFCが世間からどのように見られているかを観察して来たが、もしも自分の職を捨てることがなければ、唐沢の言い分は、今でも心理学の専門家として、世間で通用したかも知れないものと思う。

しかし、今はその根拠もなくなっている。唐沢は筆者を指して「脳内空転」と嘲るが、その用語も、心理学の専門用語ではなく、唐沢が考え出した時前の罵倒語に過ぎない。そして、「脳内空転」では、告訴状は受理されず、民事での賠償命令も出ない。

年上の男性宗教指導者および信徒に対し、何の肩書もない年下で無名の女性の筆者の告訴状が受理されること自体、真に驚くべきことであるが、そのようなことが起きるほど、彼らの信用は失墜していると言うこともできよう。

実際には、キリスト教の信仰に「挫折」、「現実と幻想が混濁した独自の意味不明の世界観」を生きているのは、唐沢自身である、と筆者は断言する。さらに、唐沢はキリスト教を憎悪し、教会をも憎悪している。かねてより、キリスト教は人間に狂気をもたらすなどと述べて来たのも周知の事実である。

これまで繰り返し述べて来た通り、村上・杉本・唐沢が、筆者を陥れようとしたり、権利侵害を行ったりした背景には、彼らの聖書の御言葉に対する憎悪が存在する。ここには、単なる個人的な対立を超えた、霊的争いが存在し、彼らが滅ぼそうとしたのは、聖書に忠実な信仰であり、神の国の権益であって、個人としての筆者ではないのである。

*ちなみに、この記事を書いている最中、上記でリンクを貼った記事を、杉本は削除した模様だ。しかしながら、はっきりと物事の決着をつけておくためには、記事が削除されても、控訴審で改めてこうした一連の記事の削除を求めることは、続けて行かねばならない。また、記事を削除させるための別の強制手続きも続行中である。

だが、いみじくも、今回、断固として敵の嘘に立ち向かいさえすれば、正しい主張は通るのだという結論が出た。すべての信者には、暗闇の勢力による脅しに屈さず、毅然と立ち向かうことをやめないでもらいたい。そして、敵の要塞を打ち破ることは可能なのだと勇気を奮い起こしてもらいたい。

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。

あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテ二3:12-17)


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(6)―良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

3.株式会社メディアテラス 代表者杉本徳久に対する強制執行(債権差押命令)
  
さて、まずは次の事実から先に読者に報告したい。

判決に仮執行がついていれば、控訴中もしくは判決の確定前であっても、判決はただちに効力を有する。そこで、原告の賠償請求が判決で認められれば、その分は、被告の「債務」としてただちに取り立てが可能となる。

ここから先は、金融業界の人々が専売特許としている世界だ。おそらく悪魔と暗闇の勢力はこの分野を知り尽くしているはずで、ドラマに出て来る取り立て屋、地上げ屋などを思い出すだけで良い。

もちろん、良心的に判決に従ってくれる人々に対して、こんな強制命令は必要ない。代理人などがついている争いの場合であれば、判決言い渡しの後は、代理人同士で穏やかに解決が図られるのが常であろう。

しかし、本件が特異であるのは、杉本徳久という人物が、これまで、当ブログ執筆者の側から接触を図る度毎に、事を荒立て、筆者に対するさらなる権利侵害に繰り返し及んで来たという事実である。

過去を振り返っても、当ブログ執筆者が今回、被告として訴えた杉本徳久は、2009年に筆者がたった1件のコメントの削除を求めただけでも、これに応じず(杉本の行為は筆者に対する著作権侵害であると、判決でも認められている)、筆者が書き送ったメールの文面が、あたかも無礼極まりないものであったかのように主張し(これについても、後程筆者のメールを全文公開する)、かつ当ブログの内容を不服として、ただちに当ブログに対して1千件のコメントを伴うバッシング記事によって応酬した経緯がある。

その後も、杉本は当ブログから気に入らない記事を削除させようと、当ブログ執筆者の個人情報を無断でネット上に公表すると予告する嫌がらせのメールを大量に筆者に送りつけた(このことは過去の記事で指摘した通りである)。

さらに、杉本は唐沢治など、当ブログ執筆者にかつて関係のあった人物に接触し、当ブログ執筆者に関する情報を収集(これは次回以後の記事で詳しく指摘)、さらに、2017年に筆者の側から和解を申し入れるためにメールを送った際にも、これを無断で公開した上で筆者を名誉毀損し、その後、筆者の側から和解を目的とする調停を申し入れると、筆者を名誉毀損する記事を20本以上に渡って大量にブログに大量投稿(判決で20本以上の記事の削除が命じられた)、当然ながら調停は決裂して訴訟に転じ、その結果、今回の賠償が杉本に命じられたのである。

第一審でも、被告杉本が、被告村上密と一緒になって、原告に反訴すると脅しをかけていたことは幾度となく記した通りであり、当ブログ執筆者は、このように常に騒ぎを無制限に拡大しては、紛争をこじらせた挙句、事態の収拾に何の貢献もして来なかった被告杉本に対し、第一審の判決言い渡し後は、いかなる直接交渉も行なわないことに決めた。

読者にも、このような人物と接触することが何を自分にもたらすのか、よく考えることをお勧めしたい。
 
むろん、第一審の判決言い渡し後、杉本が筆者に賠償金の支払い方法をメール等で尋ねて来ることも一切なかった。個人情報を暴露すると言って一方的に人を脅したり、信仰生活について不当に干渉し、僭越な助言を行うメールを送りつけるときにはためらいがないのに、自分に不利な判決には、どこまでも知らぬふりである。
 
そこで、第一審の判決を実行に移すために、当ブログ執筆者は、強制執行により財産の差し押さえという方法を取ることにした。その申立てが許可され、裁判所の差押命令が届いたので、ここに掲載しておく。


株式会社メディアテラス 代表取締役を第三債務者とした裁判所による債権差押命令

むろん、これは第一回目の法的措置であるが、これは企業に対するものであるから、債務者である杉本がこれに従わず、あくまで「債務」から逃げようとするならば、こちら側では、個人としての杉本をも対象として、第二、第三の措置を講じなければならない。
 
だが、債務から逃げることが得策ではないと言えるのは、この種の措置は、繰り返せば繰り返すほど、より一層、企業の信用を低下させ、個人にとっても、ダメージとなるからだ。

判決が出ても、すぐに従わず、通常の企業から見て、さして高額でもない賠償金すら、ただちに支払う能力のないほどまでに、資金繰りが悪化しているとすれば、そんな企業とこの先、取引を行うことは、非常な危険であるから誰にも勧められない。

以前に杉本は、筆者がこの会社が幽霊会社になっているのではないかという懸念を記しただけで、激怒して筆者を罵倒・侮辱・名誉毀損しつつ、尊大な態度で、法務局に行って登記簿謄本を取れば、自分の会社が幽霊会社でないことくらいはすぐに分かるはずだと叫んでいた。

その頃、杉本は、自分の会社の資格証明書の取得代金が、後に債権差押の執行費用として、自分に請求されることになると、少しでも予想していたであろうか。

このように、気に入らない他人を誹謗中傷することだけは大いにしても、その後、自分に降りかかる事態を全く予想できないのは、まことに愚かであると言う他ない。

筆者が今、この記事を書き記しているのは、これと同様の現象が、掲示板で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている連中の誰に対してでも、起きうるためである。

ある日、IPアドレスから個人が特定されて、掲示板の投稿者であるあなたに訴状が届く。それを見たあなたの家族は、あなたが日夜、掲示板に他者を誹謗するコメントを投稿していたために、そのような事態が起きたことをどう思うであろうか。

債務は、逃げれば逃げるほど、さらに膨らむ可能性もそれなりに秘めている。杉本が、幽霊会社かも知れないと言われたことを実現させたくないならば、早期に対処しておくことが必要となろう。
 
今回は、企業の代表としての杉本徳久を第三債務者としているが、勤務先にこうした命令が届いた場合には、それ以上、穏便に勤務を続けられるかどうかは定かではない。

いずれにしても、騒ぎを煽るだけ煽って、自分に不利な判決が言い渡されるや否や、その事実から目を背けたり、事態を収拾する一切の努力を、すべて相手任せにするような人物や企業と、この先、取引をする価値があるかどうかは、各自がよくよく考えられたい。
 
メディアテラスの代表である杉本が、企業の代表として、この問題にどう手を打つのかが注目される。

* * *

4.杉本のみならず、村上密に忖度する信者を待ち受ける厳しい末路

さて、前から書いた通り、杉本徳久による2009年に始まった当ブログ執筆者に対する執拗なバッシングと、正当な理由のない個人情報の開示要求等の脅しの引き金となったのは、それより少し前に、村上密が当ブログ執筆者だけを標的として掲載した以下の記事であったものと見られる。
 
村上密は、2009年7月に17日に、当ブログ執筆者が、村上密が唱えた「カルト監視機構」の構想を悪魔的な発想であると批判したことに激怒し、同じ教団で育って来た信徒である筆者を個人的に非難するバッシング記事「ヴィオロンさんへ」を自らのブログに掲載した。

だが、何よりも注目されるのは、そこで村上が、当ブログ執筆者に対して、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方から早く卒業することです。」と記し、当ブログ執筆者がペンネームでブログを執筆している行為を、まるで許されないものであるかのように、正当な理由なく非難していたことである。

 

村上密が、自教団で子供の頃から育ち、村上の教会に身を寄せたこともある当ブログ執筆者から批判を受けたことを許せず、筆者を個人的にバッシングするために掲載した記事
 


 また、この記事が発表された時点から、村上密が、当ブログ執筆者が、村上の像を「創作」している(=悪魔化している)と主張していたことも、注目に値する。

だが、事実はどうであろうか?

通常のプロテスタントの牧師は、信徒を名指しで非難する記事をブログに掲載したりしないし、信者の著作者人格権を否定して、実名を公表せよと要求したりもしない。

もちろんのこと、全宗教界を取り締まる「カルト監視機構」などという恐ろしい機構の設立を提唱したりもしない。

さらに、被害者を募って、自分の所属しない教会に裁判をしかけたり、同業の牧師を誹謗中傷する記事をブログに投稿し続けるなど、他の牧師には類例のない行為である。

何よりも、村上密自身が、常日頃から、裁判をしかけられた側の教会の牧師や信徒たちから、自分が「教会の破壊者」と呼ばれていると、得意げに周囲に吹聴していたのである。

むろん、教会の破壊者とは、悪魔のことである。

このように、村上自身が、自分は裁判をしかけられた教会から、悪魔のようにみなされていると、自慢話のように喜んで吹聴していたのだから、それを信じる人が出て来ることを、村上が非難できる筋合いにはあるまい?

それにも関わらず、一体、なぜ村上は筆者のブログ記事だけを、村上を悪魔化した「創作」であると、躍起になって否定せざるを得ない理由があるのだろうか。実におかしなことである。
  
いすれにしても、この頃から、村上密が、当ブログがペンネームで執筆されている行為を、何の正当な法的根拠もなく、許しがたいもののようにみなして、暗に非難していたこと、そして、前回述べた通り、杉本も、村上によるバッシング記事のURLを、当ブログを非難した記事で引用していたことを見ても、杉本が当時から、村上の言い分が正しいかのように、鵜呑みにしていた様子が分かる。

杉本は、当ブログ執筆者に対する権利侵害に及ぶことで、あたかも自分が村上の思想の代弁者のごとく振る舞い、村上に代わって筆者に制裁を加え、報復しようとしたものとみなせる。
 
そのことは、何よりも、杉本が賠償を命じられた直後の4月1日に、今度は村上密自身が、当ブログ執筆者に対する著作者人格権の侵害に及んだ事実を通しても分かる。

杉本が口を封じられたので、いよいよ村上本人がお出ましになるしかなくなったのである。もしも杉本と村上との間に、いかなる思想的つながりも、連帯もなかったのであれば、杉本が口を封じられたからと言って、それを機に、村上が以上のような権利侵害に及ぶ理由はなかったはずである。

だが、実際には、村上が以上の行為に及んだことは、村上が2009年以来、何としても当ブログ執筆者の実名を暴いてやりたいという(杉本徳久同様の)執念を持ち続けていたことをよく物語っている。筆者から見れば、杉本はただ村上の執念を、忠実に体現して実行しただけなのである。
   
そこで、筆者は村上による権利侵害を不法行為として控訴、および刑事告訴を完了しようとしている。掲示板における村上忖度信者は、この事実をファンタジーか何かだと考え、筆者に勝利はないとしきりに吹聴しているが、村上自らが第一審では出さなかった不法行為の証拠を自ら揃えたのであるから、村上の今後は、これまでとは全く違ったものとなろう。
 
さて、杉本がどれほど村上の思惑を忖度して行動していたのか、村上から杉本に具体的な指示があったのかなかったのかは不明だが、いずれにしても、村上の記事が、杉本による権利侵害のトリガーになっていることは十分に確認できるのであり、同様のことが掲示板にも当てはまる。

掲示板でも、当ブログに対して、日夜、著作者人格権の侵害、著作権の侵害、名誉毀損等の権利侵害が行われているが、これらの書き込みはほぼ100%、村上密の支持者によるものである。

これらの信者は、村上が新たな記事を発表する度に、その主張を真に受け、村上を擁護する目的で、村上の政敵としての当ブログ執筆者を「悪魔化」して弱体化し、それによって、村上に代わって筆者に報復を加えるためにこそ、日夜、筆者を誹謗中傷し続けているのである。

しかし、実際に、悪魔と呼ばれるにふさわしいのは誰であろうか。筆者はいかなる法も犯しておらず、膨大な手間暇をかけて、自らの主張を合法的に立証すべく、正当な訴訟手続き、刑事告訴の手続きに及んでいる。

ところが、村上密を支持する掲示板の投稿者は、匿名で筆者を誹謗中傷し、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」を続けているだけだ。

信仰を持たない通常人であれば、これほど激しい誹謗中傷を受ければ、2日と持たないだろう。しかし、掲示板に溢れる村上忖度信者は、他者を死に追いやっても、まるで反省のないほどに、残酷かつ無慈悲な言動を続けている。ここまで人間性を失った異様さを見れば、彼らが、まるで教祖麻原のために大勢の人々を死に至らしめる犯罪行為を犯したオウム信者と同じようになって、すでにカルト信者と呼ばれるにふさわしいあらゆる特徴を備えていることが、読者には十分に見て取れよう。

筆者が警告しているのは、このようにまで正常な精神を失った信者の群れを「実」として生み出す宗教指導者は極めて危険である、という一言に尽きる。

常識を失い、法令を遵守する精神もなくなり、人としての思いやりもなく、まるでヤクザのように殺気立って、日夜獲物を探し求める獣のように、口汚い言葉で誹謗中傷するための標的を探し求める、異常な取り巻きが主たる支持者となっている牧師――そのような誹謗中傷を扇動するがごとくに自ら信者に対するバッシング記事を掲載してはばからない牧師――さらに、自身が、学校時代に級友に暴力をふるって退学に追い込んだり、「教会の破壊者」と呼ばれていることを、自慢話として吹聴する牧師など、プロテスタントのどこを見ても、村上密の他にはまず見当たらない。

村上密は、鳴尾教会との裁判に敗れてから、若い後継牧師(長澤牧師)に道を譲ると言って60代で引退したが(アッセンブリー教団の平均的な退職年齢は80代であると村上自身が書いていることを見ても、これがいかに不本意な早期の引退であったかは分かるだろう)、それにも関わらず、信徒総会の決議によらずに、後継牧師を勝手な理由で退けて、自分の妻(恵子)を主任牧師に据え、今も自分の息子を牧師として奉職させている。

ゆくゆくはこの教会を息子に継がせようという意図が透けて見えるが、このような現象をこそ、教会の乗っ取りと言うのではないだろうか? これはかつて鳴尾教会で、村上が義理の父である津村牧師と協力して、津村牧師の後継牧師夫妻を追い出した手法にそっくり重なる。その当時から、信徒総会の決議を経ずに、自らの一存だけで密室で事を進める村上の手法は全く変わっていない様子が見て取れる。その上、村上の家族においても、子供の不幸が相次いでいる様子を見れば、村上密という牧師がどれほど悪しき「実」を結んだのかを人々は如実に理解できよう。

このように、村上の主張はすべてがさかさまである。乗っ取られてもいない教会に「乗っ取り」の容疑を着せ、自分のしていることこそ、教会の乗っ取りであるとは認めない。自分が属していない他教会にまでも、裁判をしかけて、教会を弱体化させ、自分が悪魔化され、「創作」されている、などと言いながら、罪もない信者を悪魔化し、自ら権利侵害を犯し、誹謗中傷を容認・黙認しながら、信者を嘲笑することにためらいがない。

村上密が牧師であるにも関わらず、まるで訴訟を悪ふざけの場であるかのように、杉本徳久と共に(実行もできないのに)筆者に反訴の脅しをかけた様子を見るだけでも、信徒は、当ブログにおける村上に対する批判が、断じて筆者の「創作」などでないこと、このような悪しき牧師の本質が何であるかを、十分に知ることができるだろう。
 
このような事実が明らかになっても、まだこの牧師の言い分を信用するのは、まさしく愚行と言う他ない。村上の追随者には厳しい運命が待ち受けている。その最初の第一号が、杉本徳久なのであって、掲示板の投稿者たちも、杉本の今日は自分の明日であることをよく考えるべきであろう。

偽預言者の目的は、自分と共に破滅に追い込む人間を、一人でも増やすことにある。従った者には、厳しい報いが待ち受けているのであって、彼らは自分が「教祖」と拝んだ人物と共に恥をこうむり、悪事の報いを受けることになる。

彼らの行く末は火の池であるが、この世においても、切り倒されて火に投げ込まれるため、よくよく用心されたい。

偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶことできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ7:15-20)

2.サイバーカルト監視機構はない!と主張する人々の犯罪行為 等へ続く。