忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

十字架の死と復活の原則―裁きの時には一つの罪でも有罪となるが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される

オースチン-スパークスの論説を読むと、キリスト者の中には、神から特別に厳しい訓練を課される者たちがいることが記されている。

そういう者たちは、端から見れば、信じがたいほど絶え間なく困難に見舞われているように見えるだろう。しかも、苦難の規模が通常人をはるかに上回っているため、なぜそこまで苦しまねばならないのか、周りの人々には理解できない。中には自業自得と誤解して責める者もあるかも知れない。

だが、そうした患難には神の深遠なご計画がある。

困難が次々と起きるからと言って、それだけを見て決して落胆する必要はないと言えるのは、これまで幾度となく繰り返して来たように、神がクリスチャンに地上で苦しみを許される時には、必ず、それと同時に天に慰めも用意されているからだ。

つい数日前、筆者はブログを更新していない間に、一つの思いがけない喪失を経験したが、ほぼ同時に、神は大きな慰めを用意して下さっていた。筆者が探してみると、ただちに失ったものを上回るほどの稀有な新しい宝を得ることができたのである。良い人と出会うことができ、受けた損失を補うほどの価値のあるものを得ることができた。

そこで、求めなさい、そうすれば与えられます、叩きなさい、そうすれば開かれます、あるいは、罪が増し加わるところには恵みも増し加わる、と聖書に書いてある通り、どのような出来事が起きても、キリスト者は、落胆することなく、死から命へ、苦しみから慰めへ、天に備えられている恵みだけをまっすぐに見上げ、それを実際にすべく具体的な行動を起こすなら、そうして信仰によって踏み出すと同時に、苦しみの時は束の間に過ぎ去り、豊かな恵みと慰めが待ち受けていることをすぐに確認できるだろう。

繰り返すが、キリスト者には、苦しみもあるが、同時に、その苦しみを補って余りあるほどの豊かな慰めが必ず天に備えられている。だから、クリスチャンの中のある人々が絶えずひっきりなしに困難な状況に見舞われているように見えたとしても、その人には、受けた苦難と比べものにならないような慰めが天に同時に用意されていることをも思った方が良い。そういう人生を送ることは、非常に希少な幸福であると言えるかも知れない。
 
イエスは言われたのである。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)
 
クリスチャンが地上で福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、主に従わざるを得ない瞬間に、失ったものの百倍を受ける時が来るというこの御言葉を思い返しても、信じがたい気持ちになるだけであろう。そういうことが起きる度に、心は悲しみにふさがれ、孤独に苛まれるかも知れない。

実際に、神の御手の中で訓練を受けているクリスチャンが、苦しみの渦中にある時、慰めの方向へ目を向けることは難しい。見えるものに従って歩んでいるわけではない、とどんなに口では言っても、目の前に嵐のような目まぐるしい状況が展開するときに、その出来事に注目しないことは難しい。

さらに、以前にも書いたように、クリスチャンが霊的に巨大なエクソダスを遂げる直前には、特に大きな激動が起きるものだ。キリストと共なる十字架の死を経て、命へと移される直前には、極めてドラマチックな展開があることが稀ではない。だが、その中をくぐりぬける当人にとっては、それは少しも「ドラマチック」などと言って笑っていられる状況ではなく、全世界が自分に敵対しているかのような、まさに生きるか死ぬかのような体験に感じられることだろう。

そのような状況の中でも、失望や落胆に沈むことなく、どんなことが起きても、あるいはそれが自分の過失や、不注意や、愚かさによって起きた取り返しのつかない損失のように見える時でさえ、決して自分自身の不完全さに拘泥することなく、神の憐れみや恵み深さにのみ目を留め、どんな瞬間にも、神を信頼し、天に備えられた希望だけを見つめ続ける姿勢が必要である。そのような姿勢が保たれていて初めて、苦しみと同時に天に用意されている慰めに到達することができる。

だが、クリスチャンの信仰の歩みの中で最も難しいのが、以上の姿勢を保つことではないかと筆者は思う。つまり、どんなことが起きても、決して失望落胆することなく、絶えず自分の不完全さから目を離し、キリストの完全さだけを見つめ続け、自分自身ではなく、キリストに依拠して、神の完全が自分自身に適用されることを求め続ける姿勢である。

さて、聖書には裁判官とやもめの有名なたとえ話がある。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

このたとえ話は、クリスチャンが神に正しい裁きを求める権利を有していることをよく示している。

もちろん、地上ではすべての市民に裁判を受ける権利がある。世にはスラップ訴訟なども存在し、司法が悪用される危険もないとは言えないが、裁判それ自体が悪ではないことは、誰しも認めることであろう。

上記の聖書箇所における地上における裁判官の描写は、クリスチャンが神に正しい裁きを求めて祈ることのたとえとして描かれている。

だが、その御言葉は、幾分かは地上の裁判にも当てはまるであろう。筆者はこれまで、地上の裁判に対する考え方を少しずつ変えて来た。教会に関わる事柄は依然としてこの世の裁判にかけるべきでないと考えているが、この世に関する事柄は別である。

筆者は、暗闇の勢力がいかに人の正当な訴えを邪魔し、正しい主張を封じ込めようとするかを、幾度にも渡り、見せられて来た。人が自分に保障された正当な権利を取り戻そうとして主張する前に、主張すること自体を諦めさせようとするのが彼らの手口である、と言って良い。

たとえば、ブラック企業が従業員の正当な訴えを封じ込めようとする手口を考えてみると良いのだ。世に言うブラック企業には、往々にして、専属の悪徳社労士や悪徳弁護士が雇われている。彼らは企業が従業員に対して定められた賃金を支払わなかったり、不当解雇を行ったりして、様々な不正かつ不当な措置に出る時、常に企業の味方となって、従業員を黙らせる役割を担っている。この人々は、いわば、口封じのために雇用されている「専門家」だと言っても過言ではない。

このような「専門家」がブラック企業についている場合には、彼らは、企業によって不当な措置を受けた従業員が、決して裁判に訴えて自らの権利を取り戻したりしないよう、事前に様々な文書を送りつけては、訴えを封じ込めようとする。訴えるよりも前から、訴えてもどうせ結果は変わらないので諦めた方が良いと、あの手この手で主張を放棄させようとするのである。

むろん、そのようなことは、社労士や弁護士でなくともできるのだが、強欲な依頼主の要望に従って、そのようなむなしい目的のために自分の専門知識を活用している人々が存在する。本来、そのような人たちは、専門家と呼ぶにも値しないが、彼らはうわべだけは、自分たちが本来の道理を曲げていることを悟られないよう、まことしやかな文書を書き記すものだ。
 
従業員はそれを見たとき、考えなければならない。本当に、自分が何をしても結果は変わらないのか、それとも、それはそう思わせるためのうわべだけの工作に過ぎないのか。自分に何の責任もないにも関わらず、不当な措置を黙って受け入れ、その結果を自分で身に背負うべきか、それとも、そのような事態は、自分のせいで起きたことではないと、公然と主張して、不当な結果は、不当な措置を行った張本人にお返しして、彼らに背負っていただくのか。

主張するか、しないかによって、人生の結末そのものが変わって来ると言って良い。その争いは、法廷などに持ち出されるよりもはるか前に、従業員の心の中で始まっている。その従業員が、専門家を名乗る連中からやって来る様々な脅しのテクニックにまんまと乗せられて、失望落胆して、自分の権利をみすみす諦め、主張せずに終わるのか、それとも、最後まで不当な決定に抵抗して、正々堂々と自分の主張を打ち出して、権利を取り戻すのか。すべては従業員の心次第である。

多くの人々は、主張することの重要性を考えてみない。専属の弁護士がいるかどうかや、書類が自分で上手に書けるかどうかや、要するに、人数やテクニックの問題ばかりに目を留めて、初めから自分には分が悪すぎると諦めている人が多いものと思う。

だが、本当の戦いは、そのような表面的な事柄にはなく、最も弱い、不利な立場に立たされた本人の心の中から始まる。明らかに不当と分かっている主張に遭遇した時、人がどのような態度を取るか、最後まで勇気を持って抵抗するのか、それとも、脅されれば簡単に諦めるのかどうかにすべてがかかっている。

ある人々は、これまでクリスチャンを提訴して法廷に引き出すことに何のためらいもなかったにも関わらず、筆者にはあたかも彼らと同じように市民としての権利を行使することが全く許されないかのように主張している。

その人々は、筆者がまだ何一つ手続きもしていないうちから、まるで今しも自分が筆者に提訴されるのではないかとでも言うような勢いで、筆者を含む数々のクリスチャンが、彼らに対してスラップ訴訟に及ぼうとしているかのように非難して来た。

だが、彼らの主張を見ても分かることは、彼らは、よほどクリスチャンから訴えを起こされることを常日頃から恐れているに違いないということだけである。

彼らは、何とかして自分が訴えられることを阻止し、自分の主張の不当さが、公然と世人の前に知れ渡るのを避けるために、筆者一人だけでなく、彼らを訴える可能性のありそうなすべてのクリスチャンをさんざんに罵倒したり、脅しつけたりせずにいられないのであろう。

そのような彼らの行動は、自分が罪を犯していることを、内心ではよく知っているがゆえの本能的な自己防衛の心理に基づくものだと言える。

なぜなら、身の潔白を信じている人々は、誰かから不当な訴えを出される可能性があると分かっても、決して慌てないからである。不当な訴えには、ただ毅然と立ち向かえば良いだけであり、訴えられる前から自分を懸命に弁護したり、自分を訴える可能性のある人間を片端から攻撃・非難したりする必要もしない。そのような行動を取る人間は、訴えられれば必ず負けると分かっていて、恐れの心(本質的には罪の意識)に支配されているのである。

筆者は、自分の運命を振り返って、よくよく数奇な歩みだと思わずにいられない。

筆者は、初めの内こそ、教会のカルト化はあってはならないという立場に立ち、カルト化の疑いをかけられた牧師や教会を非難しても構わないという考えを持っていた。にも関わらず、筆者の運命は、その後、それとは全く逆の方向へ転換し、カルト化の疑いをかけられた教会よりも、むしろ、カルトを撲滅すると自ら主張している人間の方がはるかに重大な危険であることが分かった。そこで、前者ではなく、後者にこそ、筆者は立ち向かってもの申さなければならないことが判明したのである。

筆者はキリスト教界の堕落を否定するつもりはない。筆者自身が、当ブログにおいて、プロテスタントの諸団体の中に怪しげな理念のものが数多くあることについて書いて来た。

今ここでは詳しく繰り返さないが、そうした例の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(および聖霊派の主張)の誤りや、ゴットホルト・ベック氏の集会の理念の問題性や、Kingdom Fellowship Churchの問題もあった。

筆者はこうした集会の理念について、具体的な問題点を挙げ、それを聖書の御言葉と対比しながら、何が問題であるかについて説明して来た。
 
筆者自身は、教会に牧師制度を導入することに反対である。牧師制度というものは、本来、対等であるべき信徒間に差別をもうけ、信徒の献金で養われる特権階級を作り出すものでしかない。

多くの霊的先人が、この制度が間違いであることを指摘し、ゴットホルト・ベック氏の集会や、KFCなども、表向きは、公然と牧師制度を否定している。こうした集会は、牧師制度を取っていることを理由の一つとしてキリスト教界と訣別している。

ところが、上記の団体は、一方では、牧師制度を否定しながら、他方では、牧師制度とほとんど変わらない固定的な指導者制度を置いている。そこで、これらの集会の現実は、表向きに掲げている理念とは正反対であり、大きな自己矛盾をはらんでいることを指摘し、筆者はこれらの集会の理念と行動の首尾一貫性のなさを非難して来た。

だが、筆者が当ブログにおいて、以上のような見地から、これらの集会の理念と活動を疑問視する発言を行ったからと言って、こうした団体から、筆者に抗議が送られて来たことは、これまで一度もない。対立関係が起きたこともない。筆者の記したブログ記事内容について、彼らの側から教義論争が起こされたり、反対意見が寄せられて来たことも一度もなかった。

そして、このことは、これらの団体が筆者の主張を初めから誤謬とみなして相手にしていないためではなく、もともとこうした団体は、筆者が彼らに関わるよりはるかに以前から、数多くの批判にさらされて来た過去があるためであると見られる。
 
以下にも記すように、こうした団体は、過去に巨大な分裂、大規模な離反などの騒動を繰り返し経験して来ている。そこで、彼らは批判や離反には相当に慣れているだけでなく、批判者や離脱者を執念深く追いかけては取り戻そうとして脅しつけたり、論争をしかけるようなことをしないのである。

たとえば、ベック氏の集会は、もともと争いを嫌う平和的な性格の団体であり、さらに教養人が数多く集まっているせいもあって、集会の雰囲気そのものが温和で上品で寛容である。兄弟姉妹の間で意見が割れたからと言って、口汚い論争が発生することはほぼなく、兄弟姉妹は、離脱者に対しても寛容で、筆者が彼らと異なる考えを持って集会を離れた後でも、いつでも交わりはウェルカムという態度を崩さない。

つい先日も、知り合いの兄弟が召されたから祈って欲しいという連絡が、その集会の一人の姉妹から来た。そのリクエストの是非はともかく、こうしたことからも、時が経っても、依然として、彼らが筆者を兄弟姉妹の一人に数えている様子が分かる。

残念ながら、筆者はそうした接触を機に、集会に戻ろうとは思わないが、そのような連絡が未だにやって来ること自体が、この集会にいる兄弟姉妹の誰一人として、筆者に憤りを持っておらず、筆者を憎んでもおらず、筆者の考えをあるまじきものとみなして、筆者が考えを改めない限り、二度と受け入れるつもりはない、などという狭量な考えを持っていないことをよく示している。

そして、彼らがそのような考えに立っている理由は、この集会の成りたちを考えてもすぐに分かる。

ベック氏の集会は、もともとキリスト教界に失望幻滅してそこを去って来たクリスチャンが大半を占める。ベック氏のメッセージの中心的テーマの一つにも、キリスト教界には決して行ってはいけないということがある。そして、こうしたメッセージ内容は、ベック氏が独自に編み出したものではなく、古くはハドソン・テイラーや、オースチン-スパークス、ウォッチマン・ニーなどを含め、地上の組織や団体としての教会の欺瞞性を悟り、組織としての教会から離脱し、エクレシアが地上の団体ではなく天的な共同体であるという事実を知って、本来のエクレシアのあり方を追い求めた霊的先人たちから部分的に受け継がれたものである。

こうして、この集会には、キリスト教界を離脱した人々が数多く集まっているため、この集会の信徒たちの多くが、かつて何かの苦い対立や、深刻な失望を味わって、教会組織を出た経験を持つ。それゆえ、彼らは、信徒が牧師や指導者の意向に逆らって、時には悪魔扱いさえされながら、組織と対立し、組織を離脱することの難しさや、苦しみをよく理解している。

こうした背景があるので、この集会の信徒らは、一人の信徒が彼らの集会にやって来るまでの間に、どれだけ数多くの団体で苦い経験を味わったか、どれだけの団体を遍歴したかなどの事実を追及し、あげつらっては、これを非難や嘲笑の材料としたり、あるいは、彼らの集会を離れた信徒をいつまでも悪しざまに言うことをしない。

彼らにとってはキリスト教界は出るべきところであって、教会組織を離れる行為を悪とみなすような考え方は彼らにはない。

むろん、そうは言っても、それでも、彼らが自ら立てた指導者にだけは従うべきと考えていることは自己矛盾なのであるが、だからと言って、この集会が、筆者が集会を去ったことを、指導者に対する下剋上のようにみなして非難して来ることもない。まして、筆者を追いかけて来てまで、戻るよう説得した者もいない。
 
筆者がその集会を立ち去る前に、筆者を引き留めようとして色々とお説教めいた忠告をして来た兄弟姉妹からは、そのすぐ後に、お詫びと理解して差し支えない内容の手紙が届いた。そこには、彼らとは根本的に考えの異なる筆者を異端者扱いして退けるどころか、依然として、筆者を兄弟姉妹の一人とみなしていることが分かる内容が書かれていた。

このように、この集会の信徒らは、基本的には非常に情の篤い、世話好きで、もてなし上手で、人間的にも好感の持てる純朴な人々である。彼らの信仰のあり方は、日本の戦後間もない開拓時代を思わせるような、極めて単純で素朴なものである。筆者は彼らがクリスチャンでないなどと決して言うつもりはなく、筆者と同じ信仰が彼らの中には全く見られないとも考えていない。

だが、そのように、彼らが極めて好感の持てる人々で、筆者と幾分かは信仰も共有している兄弟姉妹であるという事実と、その集会の理念が持つ問題性は、別個の問題なのである。

筆者はすでに述べた通り、エクレシアにはいかなる固定的な指導者をも置く必要がないと確信している。そこで、この集会が自ら牧師制度を否定しているのであれば、牧師制度に類するいかなる制度をも置くべきでなく、にも関わらず、一人の指導者を祀り上げているのは自己矛盾でしかない。

筆者は、牧師という名であろうと、その他の名称であろうと、人間に過ぎない者を師として仰ぎ、その指導者が教会を管理するようになれば、組織が腐敗することは避けられないと考えている。ただ腐敗するだけでなく、その指導者は、キリストに代わって信者の心と生活を支配するようになるため、反キリストに等しい存在となる。そこで、牧師制度という名称であろうとそうでなかろうと、階級制度としての教職制度自体が教会にはあってはならない、というのが筆者の見解である。

また、以上の集会が家族ぐるみで信徒を取り込もうとすることに対しても、筆者は非常に懐疑的である。なぜなら、聖書は地上における肉の家族の絆がそのまま霊的な神の家族を形成するとは全く述べていないからである。むしろ、地上における肉の家族は、往々にして福音には敵対する誘惑となる。

このように、筆者がとらえている聖書のエクレシアの理念と、以上の集会の理念とは、多くの点で著しい相違がある。このような理念の相違こそが、筆者がこの集会を去った理由であり、人間的な対立は起きていない。起きたとしても、すでに解消されており、そのようなことが本質的原因ではないのである。

にも関わらず、筆者がその団体を去ったことを人間関係の問題に置き換え、すべての問題を、常に聖書との対比において検証しようとせず、ただ人間関係の相克といった低い次元のドラマに置き換えようとする人々は、そのようにして、筆者が組織を離脱した根本的な原因をすり替えることで、牧師制度そのものが根本的に誤っているという、筆者が提起している重大な議論の本質をごまかしているのである。

さらに言えば、その人々は信者を再び人間の支配(組織のヒエラルキー)に従わせ、人間(指導者)の奴隷としたいだけなのである。
 
そういう人々の理屈は、たとえるならば、ブラック企業を辞めようとしている社員に向かって、「社長の言うことには従うべきだ。権威には従いなさい」と説教するようなものである。社員が過重労働のために死の寸前まで追い込まれても、それでも社長という権威に逆らうことや、組織を離脱することは悪だと教え、人間関係を損なうべきではない(和を乱すべきではない)などという口実で、社員が命を守るために逃げ出すことさえ禁止して、自由を奪おうとするのである。

そのようなやり方で、信者一人一人が、何が聖書の理念に照らし合わせて正しいことであるのか、自分自身で判断して行動する自由を妨げ、人間(指導者)の思惑や支配に盲信的に従わせようとすることこそ、まさにカルトの手口と言って差し支えない。

カルト化した組織では、すべての物事の是非が、聖書の御言葉に照らし合わせて検証・吟味されず、ただ指導者の思惑や、組織のヒエラルキーに従って解釈される。人間の立てた権威や秩序に逆らわずに黙って従うことが、聖書の御言葉に従うことよりも優先される。聖書の理念が、人間の作り上げた指導者制度を支えるための添え物として利用されているのである。

こうして、何が正しく、何が間違っているかという価値判断を、信者自身が行うことを阻止し、人間に過ぎない指導者が代わって行い、その指導者の意向に信者を盲信的に従わせるのがカルトである。

笑止千万なのは、カルトに立ち向かうと豪語しているカルト被害者救済活動の支持者が述べている言葉が、まさにカルトのマインドコントロールの手口そっくりになりつつある点である。

彼らは、筆者が様々な団体を離脱したことを悪であるかのように非難する。しかし、もしそれらの団体が聖書の御言葉に従っていないならば、筆者がそれらの団体を離脱したことは何ら悪でないどころか、離脱しなければ正しい信仰生活を送れないのだから、離脱して正解なのである。

にも関わらず、カルト被害者救済活動の支持者らは、決して聖書の理念に照らし合わせて物事を考えようとはせず、ただ筆者が人間の立てた権威や秩序に従わず、組織のヒエラルキーに従わず、団体内で波風立てる行動に及んで(団体の理念に異議を唱えて)そこを離脱したことを理由に、筆者があたかもそれらの団体であるまじき対立関係を引き起こした(「和を乱した」)かのように筆者を非難している。

そのような彼らの主張には、どこにもクリスチャンらしい判断基準はない。聖書は、「和をもって貴しとなす」という価値観とは正反対の理念に貫かれている。

聖書は、人間の作った地上的な組織の秩序の中で、「波風立てずに行動する」ことを正しい信仰生活のあり方として教えていない。むしろ、多くの点で、聖書の御言葉は、この世の人間関係に「波風立てる」ものばかりであり、地上のすべての権威や支配を超える霊的な秩序を唱えているのである。

従って、彼らが、筆者が地上的な団体を離脱したことを下剋上のようにみなして非難しているのは、彼らが内心では、筆者を人間の立てた権威や制度に盲信的に従わせ、人間の奴隷にしようと目論んでいたことを表しているに過ぎない。

しかも、彼らは、筆者とは異なり、以上の団体に通ったことが一度もなく、それらの団体の実情を少しも知らず、筆者の行動を見て知っているわけでもなく、兄弟姉妹の心中も知らないにも関わらず、ただ筆者がいくつかの団体を去って来たというだけで、その離脱が「悪」であるかのように非難しているのである。

彼らは結局、筆者が人間に過ぎない指導者たちの意向に盲信的に従わず、自分自身で物事の是非を判断して行動したことが気に食わないために、筆者を非難しているだけなのである。結局、彼らの言い分は、筆者は牧師制度の前にひざまずくべきであり、指導者の意向に従うべきであった、ということに尽きる。

これは、組織内で波風立てずに行動することを至上の価値のように唱えるこの世的な価値観そのものであり、もっと言えば、指導者に対する絶対服従を要求するカルト的思考である。

こうして、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者に指導者への絶対服従を要求しているのであり、彼らの思考こそ、笑止千万なことに、どんなカルトよりも、より一層ひどいカルト的思考に陥っているのである。
  
さらに、追記しておけば、ベック氏の集会では、対立など全く珍しいことではなく、筆者が立ち寄る以前から、ベック氏の後継問題を機に巨大な分裂騒動が起きていた。筆者がこの集会を訪れた頃は、かつて一つだった集会が真っ二つに分裂し、互いに論争を続けながら、別々の場所で集会を開いていた。

だが、この集会はもともとかなり平和的な性格の団体であるため、集会が分裂したからと言って、両者の間で、あからさまな中傷合戦や、政治的駆け引き、教会財産の争奪戦のような、あまりにも次元の低い争いが起きることはなかった(と見られる)。分裂した二つの集会は、できるだけ衝突や対立を避けながら、独自に平穏な集まりを続けており、さらに、筆者が驚いたことには、深刻な対立があったにも関わらず、両方の集会を行き来しながら楽しんでいる信徒もいるという始末だった。

このように、元来がジメジメした対立や論争を嫌う、根の明るい性格の団体であるから、筆者がそこを去った後でも、「深刻な対立」やら「相克」は起きようがなかった。

KFCも然りである。KFCもそのほとんどはキリスト教界を去ったクリスチャンから成るため、ここにも、指導者に絶対服従を説いたり、組織や教団を離脱することを「悪」とみなす考え方はほぼ見られない。ウォッチマン・ニーなどを一時しきりに教本のごとくメッセージの土台としていた様子を見ても、地上の組織や団体に信者を縛りつけて従わせようとする考え方には根本的に否定的であると言える。

この団体も会員制度がなく、さらに、時期によってメッセージ内容があまりに大きく変化していることもあり、信徒の入れ替わりが非常に激しい。一時はメッセージに共感していた信徒も、ある時期を過ぎると、着いて行けなくなり、去って行くという具合で、大きな離散があり、古参のメッセンジャーもほぼいなくなって現在に至っている。

こうして、もともと信徒を管理し、団体に縛りつけようとする制度自体がない上に、様々な離反や騒動を経験し、信徒の入れ替わりが激しい以上、その団体に失望幻滅して去る信徒が出たからと言って、それは全く珍しいことではなく、去った信徒がいつまでも悪しざまに言われることもない。

中にいるうちは色々言われるかも知れないが(しかも、外野のようなメンバーを中心に)、むしろ、出てしまえばすっきりしたもので、去った信徒を追いかけてまで嫌がらせを加えるような陰湿さは全くないし、そんなことに携わっていられるほど余裕があって執念深い人間もいないと言える。

特に、KFCには、昔から相当に数多くの批判者がいた。もともとキリスト教界への辛辣な批判を定番としており、キリスト教界側の人々には恨みも買っていたであろうし、彼らに言わせれば、「どこの教会からも落ちこぼれた信徒しか集まっていない」と言われるほどに「異端児的」な団体であるため、筆者が当ブログでKFCの理念に対して相当に深く切り込んだ批判を述べたからと言って、そのようなことはKFCにとって何ら目新しいことでなく、誰一人としてその内容に反駁して来た信者もいない。この団体に残っている人々と筆者との間で対立や論争が起きたことは一度もない(その理由には、この団体の信者の平均年齢が、筆者とは全く異なるため、そもそも共通の理解さえ成り立たないということもあったかも知れない)。
 
今になって考えてみると、KFCという団体は、筆者の子供時代にTVで放映されていた「ジミー・スワガート・アワー」にも似たような、聖書の教義の中核に迫る議論からはおおよそ外れた、興業的な意味合いの強い集会であったように思われる。もっと卑近なたとえでは、七色に光るイミテーションのガラス玉か、3分で完成するエスニックの即席麺のようなもので、たくさんの香味は効いているが、本質となるべき中核を欠いているのである。ウォッチマン・ニーやその他の先人の教えを数多く引き合いに出していたとはいえ、それもうわべだけの装飾でしかなく、すべては単なるパフォーマンスとして見るべきもので、真面目に論じるだけ時間の無駄であったかも知れない。

また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団について言えば、この教団は「しるし・不思議・奇跡」を求め、常軌を逸するほど聖霊を強調する過激な集会のあり方のせいで、長らくプロテスタントの中でも、異端視され、排除されて来た過去があることは周知の事実である。この教団がプロテスタントの一部であるかのように公然と認められるようになったのは、比較的最近のことであり、それもキリスト教人口が一向に増加しない中、大衆受けする集会のあり方が功を奏して、この教団の人口の成長率がプロテスタントの他の教団と比べても著しかったためでしかない。

教義面では、依然として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書研究に重きを置く福音派などの伝統的な教団教派からは、あまりにも思慮分別の足りない「体育会系」に偏りすぎた教団とみなされ、半ば軽蔑気味に退けられる傾向が強い。

そのことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出てから、他の福音派の教団に行って、実際に、評判に耳を傾けてみればすぐに分かることである。だが、そうした評判を待つまでもなく、事実、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書に基づく深い理念の考察を怠り、現象・活動にばかり熱中して来た歴史があるため、もともとしっかりした教義というものが存在しないも同然である。

そこで、伝統的な福音派から見れば、このように聖書研究が考えられないほどにお粗末で幼稚なレベルにとどまっているにも関わらず、異言を語ることや、しるしにばかり重点を置いて、それがないことで、他のクリスチャンを見下し、自分たちが優位に立っているかのように思い込んでいる態度が気に食わないと、半ば軽蔑ぎみに批判されるのも仕方がない。そして、その批判は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団もそれなりに理解しており、昨今は、以前はトレードマークのようであった過激な礼拝のあり方を自粛する教会も増えている。

このように、この教団は、長きに渡り、プロテスタントの中でも異端視されて来た歴史があるので(教義の面から見ても、異端視されて当然の理由(重大な欠陥)があったと筆者は考えるが、今はその問題には触れない)、批判には慣れており、教団を去ったクリスチャンが批判を口にしたからと言って、いちいち目くじら立てることもなく、まして去った信徒を追いかけてまで口封じしようと嫌がらせに及んで来ることもない。

そのようなわけで、筆者はいくつかのプロテスタントの団体を束の間、通過した過去があるとはいえ、現在に至るまで、それらの団体と筆者との間で、対立や論争が続いている例は一つもない。
 
現在に至るまで、筆者との間で長年、対立関係を深め、筆者の考えを改めさせない限り決して許さないと尽きせぬ執念を燃やして筆者に論争をしかけている存在があるとすれば、それはただカルト被害者救済活動の支持者だけである。
 
そして、これは極めて重要な事実である。つまり、色々と問題を抱えて欠点が多く異端視されても仕方がない数多くの教会は、筆者を決して中傷したり、論争をしかけて来ないし、打ち負かそうと挑んでくることもない。むしろ、そういうことをして来るのは、正義の旗を掲げて「カルトを取り締まる」と主張している陣営だけなのである。

だから、そのことを見るにつけても、筆者は、牧師制度には反対を唱えないわけには行かず、教義面で多くの問題を抱える教会が数多く存在することも疑わず、地上の組織や団体としてのキリスト教界を擁護するつもりは微塵もないにも関わらず、だからと言って、そのような疑わしい教えを唱える教会がすべて筆者と敵対関係にあるとは思わないし、そこにいるクリスチャンが、ことごとく筆者の兄弟姉妹ではないと言うわけでもない。
 
ここに、クリスチャンに対峙することの非常な難しさがある。クリスチャンは外見的には、全員が、途方もなく多くの欠点を抱えた、とりわけ未熟な人々ばかりである。この世の人々と引き比べても、何一つ長所が見いだせないどころか、むしろ、格段に劣っているとさえ言える場合が少なくない。何しろ、何かのきっかけで自分の限界を思い知らされなければ、教会になど足を運ぶことはなかったであろうし、神を求めることはなかった。そういう意味で、クリスチャンは、世の人々と比べても、圧倒的に弱々しく、生きるのに不利となる様々な厄介事や困難や弱さを抱えた人々ばかりであり、とりわけ見劣りのする不器用な連中から成っていると言っても過言ではないだろう。

その上、聖書の御言葉への理解や、信仰の成長という点でも、全く芳しくない人々が99%以上を占めるのである。こうなっては世人からは、弁護の言葉もほとんど出て来ないであろう。
 
ところが、そのように、外面的には極めて弱々しく、不器用で、ぱっとしない、見栄えの悪い人々、そして内面的にも、極めて未熟で、欠点だらけの、愚かな人々に、この世の不信者以上に、神の愛と憐れみが信仰によって及び、義認が行き届いているのが現実なのである。

クリスチャンとは、自分自身の優れた長所によらず、立派で正しい心がけによらず、ただ信仰によって神に受け入れられた人々である。そうである以上、たとえ彼らが未熟であって、その行動が欠点や誤りに満ちており、さらに理念の面でも愚かさと誤りが明白であって、危ない道を歩んでいるようにしか見えなかったとしても、彼らの心の内に、もし真摯に神を信じ、すがり続ける信仰が少しでも残っているならば、その限りにおいて、ただ彼らが未熟で欠点だらけであるという理由だけで、兄弟姉妹ですらないと全否定することは難しく、また、すべきでもないのである。

筆者は、すでに書いて来たように、兄弟姉妹を名乗っている人々に裏切られた回数は数知れず、二度と関わりたくないと嫌気が差した人々や、その高慢さにうんざりした人々も存在する。そういう思いを味わえば、彼らをクリスチャンだとは一切認めたくない気持ちになることも人間としては往々にしてあると言える。いっそ自分は正しく、彼らはみな異端者だと決めつけてしまえば、気も楽になるであろう。

だが、誰がクリスチャンで、誰がそうでないのか、その線引きは、筆者がすることではなく、その線引きは非常に難しく、判断は極めて慎重でなければならないと思う。たとえあるクリスチャンの欠点や非が明々白々であって、また、そのクリスチャンが筆者を再三に渡って裏切り、打撃を加えて来たような場合であっても、もし筆者が彼らを全否定すれば、それによって神を敵に回してしまう危険性が十分にありうるためである。

それだからこそ、筆者は、特定の人物をその人格の未熟さや行動の欠点を取り上げて非難することをできるだけ避け、むしろ、その人物の主張の内容や、特定の集団に流れる思想・理念の問題を洗い出し、理論面からの批判にとどめるように心がけているのである。そして、ほとんどの場合、理論面から問題を洗い出すと、そこに異端思想の共通構造が隠されていることが分かって来るのである。

つまり、敵はあれやこれやの人間ではなく、神に敵対する思想なのである。そして、悪魔から来る思想の基本構造とでも言うべき、異端の型というものが存在することを、筆者は当ブログで再三に渡り、繰り返して来た。

そのようなわけで、あれやこれやの危うい歩みをしているクリスチャンを敵のようにみなして非難することによっては、何ら異端の問題は解決しないのである。そのような方法は、まるで病原菌を根絶するために、感染した人間を全員殺しましょうと言っているのと同じほどナンセンスである。

つまり、教会の堕落は看過すべきでない問題であるとしても、一部の堕落のために、エクレシア全体を否定することは避けねばならず、そのような極端な議論を容認すると、恐るべき結果が生まれるのである。

見かけ上は肉的であり、堕落そのものにしか見えない教会であっても、そこに信仰によって霊的なエクレシアの成分がわずかでもあるとすれば、すべてを否定するわけには行かないのである。たとえ神社に油をまくようなクリスチャンや教会が出て来たとしても、そのような恐るべき行動に及ぶ人々も、やはり教会の末端に位置する以上、そこには、嘘と真実、信仰と不信仰が混じり合い、本物も少しは紛れ込んでいる可能性があり、それにも関わらず、行動があまりにも未熟かつ異常だからと言って、一概にすべてを異端と決めつけて退けてしまうと、本物のエクレシアの成分さえも否定することになってしまうという難しさが存在するのである。

かつて教会の迫害者であり、クリスチャンを断罪して殺すことに加担していたパウロでさえ、あのような回心を遂げたわけであるから、神に対する熱心さのあまり、逸脱を犯している信者らについては、判断は慎重でなければならない。

神社に油をまくことが、神の国に奉仕することでないことは、聖書的観点から見て明白であり、そのような行為は、この世的な観点から見れば、言語道断でしかないであろうが、それでも、そのような行動を本気で正しいと信じるクリスチャンの中にも、1%でも純粋な信仰があるならば、我々は、その行為の表面的な愚かさと迷惑さ加減だけを取って、彼らをクリスチャン失格であるかのように決めつけることができないのである。もちろん、そうした行動は正されるべきではあるが、それはあくまで同胞としての忠告によって是正を試みるにとどめるべきであろう。

このようなわけで、筆者の目から見れば、最も重大な危険は、未熟さや愚かさや過ちがあまりにも明白すぎるために、誰からも「カルトの疑いがある」と名指しで非難されているクリスチャンにはなく、むしろ、自分だけは正しく、決して誤らないという根拠のない自己過信に陥って、指導者然と、自分以外の数多くのクリスチャンの「非行」をあげつらっては裁き、「カルトを撲滅する」と主張している人々の方にあるのである。

繰り返すが、クリスチャンはどの人間も未熟であり、自分は神に従っていると思いながら、実際には、間違いを繰り返しながら生きている人々でしかない。間違いは、それが大きなものであれ、小さなものであれ、神の目から見て、同じように逸脱であり、不従順であるという点で、すべては五十歩百歩である。神社に油をまくことを非常識だと笑うクリスチャンも、毎日、何かの行動において、神の願っておられる水準に達せず、神の聖霊を悲しませながら生きている。

そういうことが全くないと胸を張って言える信者は、地上に一人も存在しないことであろう。それでも、神の愛や憐れみ、義と聖と贖いは、その愚かなクリスチャンにも、信仰によって十分に及んでいるのである。だとすれば、一体、表面的な行動だけをあげつらって、クリスチャンを断罪できる存在がどこにあるのだろうか?
 
我々が警戒しなければならないのは、愚かな間違いを犯して、クリスチャンの村社会の中でもの笑いのたねにされることではなく、むしろ、「私は完全に正しい」という思い上がりに陥って、自己反省の余地を全く失って、自分が神のようになって、自分以外の信者を裁くようになることである。

異端に関する教義論争はいくらでも行われるべきであるし、構造面から異端を明るみに出す作業には意義がある。だが、ある人間がクリスチャンと呼ぶに相応しいかどうかを判断する基準は、決して特定の人間に委ねられるべきでなく、その判断に当たっては、極めて慎重な吟味がなされなければならない。

クリスチャンであるかどうか、クリスチャンとしての要件を満たしているかどうかは、この世の価値観によっておしはかることはできず、それにも関わらず、この世から見て、常識的に振る舞い、世人に受け入れられる条件を満たしているかどうか、まして社会的に成功しているかどうかとかいった基準で、クリスチャンが判断され、裁かれるべきではない。

むしろ、信者は、クリスチャンであるがゆえに、世人から見てどんなに失格者の烙印を押されようとも、神の尽きない愛と憐れみにあずかって、その弱さを神の強さによって覆われているのであり、この世の価値観に従って判断されることから解放されているのである。

クリスチャンとは、そのようにして、信仰によって神の特別な寵愛(恩寵)を受けている人々であり、そうである以上、クリスチャンの価値は決してこの世的な判断基準でおしはかることはできないのである。

筆者はこのことを開き直りの材料として使っているわけではないが、それほどまでに信じる者への神の恵みが深いのは事実である。

そこで、我々は、あるクリスチャンの人間的な欠点や、未熟さ、あるいは、誤った熱心さが行き着いた愚かで非常識な行動だけをとって、彼らがクリスチャンに相応しいかどうかを外側から判断すべきではない。ただし、誤った理念がこの先も、他のクリスチャンらをそうした行動に駆り立てる危険性が十分にあるため、異端を糾弾したいのであれば、行動面だけにスポットライトを当てることをやめ、他の信者の愚かで非常識な行動をあげつらっては、これを一方的に上から非難・断罪して終わりとするのではなく、何よりも信者をそうした行動に及ばせる原因となった思想・理念が何であるかを地道に検証しながら、その誤謬を証明する作業を行っていかねばならない。

時に、筆者は、異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなものかも知れないと思う。病原菌は、体力の弱った人々には重大な感染の脅威となり、存在しないに越したことはないかも知れないが、それがない限り、人の免疫抵抗力も育たない。
 
仮にクリスチャンが、一切の異端とは無縁の、完全に純粋で正しい教えだけを受け取り、その中で成長することができるとしても、もしその人が誤りとは何かを知らなければ、それはあたかも無菌室の中で育つ人生のようになってしまうだろう。

霊的無菌室だけしか知らずに育った人間は、その部屋を一歩でも外に出れば、たちまち生きる力を失って死んでしまうだろう。悪に対する免疫抵抗力がないためである。
 
そこで、信者は地上に生きている限り、数多くの疑わしい教えに出会い、その嘘を自力で見抜き、識別し、退けて行く力を養わなければ、信仰は育たず、従順も育たない。神への従順を証明するためには、不従順を選ぶことが可能な状況が前提としてなければならない。信者が誤った道を選ぼうと思えば選べる状況で、自ら正しい道を見分けて、偽りを退け、神に従うことを自ら選ぶのでなければ、その信者には、判断力も、自己決定権も育つはずがない。

だから、信者が多くの誤った教えを見聞きした上で、その誤りを自ら識別する力を養うことが大切であり、その意味で、誤謬と出会うことは何ら恥でないどころか、それこそ、信者の霊と魂の成長のために、避けて通れない不可欠な過程(訓練)ではないかと筆者は思う。

そういう意味で、筆者はこれまでに通過して来た団体や集会を振り返り、そこを訪れたことを後悔するつもりは微塵もない。そうした団体の理念に疑わしいところがあるというだけの理由で、そこに行ったのは時間の無駄であったとか、そこで出会ったクリスチャンのすべてが兄弟姉妹ではないと否定するつもりもない。

むろん、ある団体で唱えられている理念に、聖書に合致しない点がないかどうか、吟味することは重要であり、もし聖書い合致しないと分かったならば、分かった瞬間から、筆者はそこにとどまるべきではないだろう。だが、だからと言って、その中に残っているすべての人々が、みな異端者であるとか、非クリスチャンであるなどと筆者は考えてもおらず、そこで見聞きした経験のすべてが無駄であるとも思わない。
 
筆者はその団体にいる兄弟姉妹が、筆者と同じようにその団体の理念を疑わないからと言って、彼らに自分の見解を押しつけるつもりはない。筆者が理解している内容を彼らに向かって述べたとしても、それが彼らに理解されるかどうかは分からない。すべては信者自身の中の「時」による。今日気づかなくとも、明日気づく人も出て来るかも知れない。気づかせて下さるのは神である。
 
筆者の義務は、自分で理解した事柄に忠実であることであり、他の人々がどう行動するかまでは、筆者の責任ではない。ただし、筆者は、誤りだと分かっているものに接触を続けるわけにはいかないため、忠告しても聞き入れない人々からは離れるのみである。
 
カルト被害者救済活動の支持者らの盲点は、自分の欠点や未熟さには目を向けようともせず、常に他者の欠点や未熟さばかりをあげつらい、神ご自身を退けて、神になり代わって、自分がクリスチャンの内心や生き様に対する裁き主になり、周囲の人々がまだ理解する時期が来ていないかも知れない事柄についてまで、何の資格もなしに、強制介入・干渉して行き、聖霊になり代わって信者を教え、信者の内心や行動を正し、支配しようとしている点にある。
 
異端は教義面から明らかにしなければ意味がないにも関わらず、彼らは信者の行動の欠点や、外側の出来事ばかりを中心に据えて、この世の観点から信者の行動の是非を論じ、信者を裁こうとする。

だが、そのような観点からは、決してこの先も正しい教義論争は生まれて来ないであろう。それどころか、彼らは何をよりどころにして他者を裁いているのか、その土台をますます見失って行くだけである。聖書は何と言っているか。
 
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つ一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:15-21)

クリスチャンを裁くことに躍起になっているカルト被害者救済活動の支持者らは、信者の行動の非をあげつらったところで、自分自身の罪から逃れられるわけではないことを知らないのだろうか。彼らは無罪とされるためには、完全に罪なき人でなくてはならず、自分の内にわずかに一つの罪でも見いだされれば、たちまち有罪を宣告されることを知らないのだろうか。

他方、クリスチャンは、キリストのゆえに、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決」を受けた人々である。罪が増し加わるところには恵みはなお一層増し加わるというのは、クリスチャンにこそ誰よりも当てはまる。クリスチャンがいかに欠点が多く、多くの罪を犯して来たとしても、キリストにあって、神はそのクリスチャンのすべての非をすでに血潮で覆って下さっているのである。クリスチャンが世人に比べ、いかに絶大な特権を持つ者であるか、いくら認識してもし足りない。

だから、誰かがこの世的な観点に立って、一人一人のクリスチャンを、見かけの貧相さや、行動の不器用さや、未熟さ、愚かさや、弱さのゆえに、非難したり、断罪するのは、非常に容易であろうが、そんなことはやめておいた方が良い。むしろ、クリスチャンが弱々しそうに見えれば見えるほど、その弱さが神の憐れみに満ちた強さによって特別に覆われていることを考えてみるべきなのである。その事実を見ずしてクリスチャンの表面的な弱さだけを見て、これをあげつらって非難・説教・嘲笑していれば、いずれ神ご自身を敵に回すことになる。聖書には次のように警告されている。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)

PR

十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―

ひとつのミッションが大詰めを迎えている。
長年、待ち望んだことが、少しずつ実現しているのだ。

クリスチャンを脅しつけては牢に閉じ込め、自由を奪い、逃げ出すことさえ禁じて来た悪の要塞が、エリコの城壁のように音を立てて崩れ去る瞬間まで、筆者は何事にも容赦する気はない。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

キリストの十字架の贖いにより罪赦されたクリスチャンを、再び人間的な観点やこの世的な価値観に従って訴え、有罪を宣告しようと企むような者は、かえって自らこそすべての権威と武装を解除され、キリストの凱旋の行列に捕虜として加えられ、さらしものにされるだけである。

悪魔は、自分こそクリスチャンを苦しめ、訴え、さらしものにする権利があると考えていることであろうが、事実は全く逆である。暗闇の軍勢とそれに仕えた者たちこそ、キリストの凱旋の行列の中でさらしものとされる。

だから、これから起きることをよく見ているよう読者に勧める。

筆者は、地上の教会組織に様々な堕落や問題があることは否定しないが、だからと言って、神のエクレシアまでも否定して、福音に敵し、教会に敵対した者たちがどうなって行くか、その悲惨な末路は、公然と世に示されなければならないと考える。

何度も述べて来たことであるが、実際に自分自身が体験した事実に基づき、地上の教会組織の堕落を憂慮し、御言葉に立ち戻るよう、兄弟姉妹に勧めることと、「教会のカルト化を憂う」ということを口実に、自分が所属もしていない、通ったことすらもない教会組織に対してまで、何の正当な権限にも基づかずに、教会の規則すらも無視して介入して行き、教会をスキャンダルの暴露の脅しで威圧して支配し、自分が裁き主であるかのように君臨しようとすることは全く訳が違う。

筆者は当ブログにおいて、自分が苦しみや喜びを持って体験・通過して来た事柄や、自分自身が生きて関わって来た人々についてしか触れておらず、そこで信者の実名も挙げておらず、筆者が書いた内容が、誰を指しているのかも特定できない人々がほとんどである。そして、そのことで筆者に対立して来るクリスチャンもいない。(対立しているのはカルト被害者救済活動の担い手だけである。)

にも関わらず、彼らは、自分が所属もしておらず、見たことも聞いたこともなく、関わったこともない教会やクリスチャンたちの非をあげつらっては、他教会の人事に公然と介入し、無関係なクリスチャンに争いをしかける。まるで通りすがりに因縁をつけるヤクザと同じように、一つの争いが起きると、その輪を広げて、次々とクリスチャンを争いに巻き込んで行こうとするのである。

彼らにお聞きしよう、筆者は自分自身が遭遇し、直接身をもって体験したことしか書いていないし、その体験談の中には、誰一人、一介の信者の本当の名も登場していないが、一体、あなたたちは、何の権限があって、自分が体験したこともなく、見聞きもしてもいない、自分に全く関係のない、被害すら受けたことのない教会の内情に干渉して行き、自分と無関係な人間の生き様までも、さらしものにしながら、裁いたり、非をあげつらっては、お説教する資格があるのかと。

要するに、「教会のカルト化」は、彼らが自分たちが所属もしておらず、通ったことすらない教会の内情に干渉し、支配権を握るための口実でしかない。このようなことこそ、教会の乗っ取りであり、強奪である。

神社に油をまくことが正しい福音伝道のあり方だなどと筆者は全く言うつもりもない。だが、もっと恐ろしいのは、そうした事件を針小棒大に取り上げては教会のスキャンダルに関する情報を振りまき、常日頃から秘密裏に教会に不利な情報を集め続けて、教会を脅しつけるチャンスを伺いながら、何者かがプロテスタントの教会の堕落をきっかけに、自分とは何の関係もない諸教会に介入する権限を握ろうとしていることなのである。

彼らの目的は、信者の弱みを握ることで、教会を思い通りに操ることにこそある。一度でも、誰か信者が、心弱くなって、彼らのもとを訪れ、相談を打ち明ければ、彼らはその信者の弱みを握り、それを盾に取って、いつまでも信者を脅しつけて、彼らの傘下から逃げ出せなくなるように仕向けるだけである。それでも、信者が彼らのもとを逃げ出そうとすれば、彼らは信者から質に取った情報を言いふらすことで、信者を中傷し、傷つける。そのことが筆者自身への彼らの仕業を通して実際に明白に証明されているではないか。

筆者は、地上的な教会組織がどうなろうとも構わないが、彼らの真の目的が、地上の教会組織を圧迫することよりも、むしろ、自由な共同体としてのエクレシアを圧迫することにあると知っているためにこそ、これに猛反対しているのである。

彼らが、どの教会組織にも属していない筆者を、どんな組織や団体よりも激しく圧迫・攻撃している事実は、彼らの真の目的が、もともと地上の教会組織に介入することにはなく、天的な共同体としてのエクレシアに介入し、これを蹂躙、強奪、支配することにある事実をよくよく物語っている。

こんな人々が正義の担い手であるはずがないことは、誰の目にも明白である。

だから、筆者は、神の神聖なる教会が、悪魔的な思想の担い手である暴徒のような人々によって蹂躙され、脅しつけられていることに対して、決して黙っていることはできないし、黙っていようとも考えないのである。御言葉が現実となって、これらの人々がエクレシアに手を触れることができなくなるまで、手を緩めることはしないし、このような人々を哀れんだり、惜しんだりもしない。

神の義と聖と贖いは、人間の正義を振りかざして、各教会にカルト化の疑いをかけてはクリスチャンの恥をさらし、教会の権威を貶めようとする者たちにはなく、キリストの御身体なる天的な共同体であるエクレシアにこそある。筆者はこの天的な聖なる構成体の一員として、彼らの暴言に立ち向かうのである。結末がどうなるのかは注視してもらいたい。

さて、これまで筆者は、様々な霊的な戦いを経て、それに勝利する秘訣を少しずつ学んで来た。

どれもこれも難しい戦いばかりであり、通り抜けるのは容易ではなく、当初はそれも神から来た懲らしめにも似た教育訓練に思われたが、どれも大きな価値ある戦いであった。霊的な幼子から、大人へと成長するために、信者はこのような訓練を避けては通れないものと思う。

その戦いの中で、筆者は、暗闇の勢力が、どのようにして、自分たちの劣勢を隠すために虚勢を張り、本当は負けることが最初から分かっている不利な戦いで、あたかも自分たちに勝ち目があるかのように見せかけるか、また、彼らは、本当は仲間内でさえ、互いに分裂しており、統制が取れず、意見はバラバラで、常に孤独であって、真の味方もいないのに、どのようにうわべだけ、あたかも全世界が自分の味方であって揺るぎない連帯があるかのように見せかけるか、どれだけ彼らが人数を水増ししたりしながら自分たちが優勢にあるかのように見せかけるのを得意とするか、また、信者の団結の勢いを削ぐために、どんなに卑劣な工作や心理戦をしかけて、信者同士を分裂させて裏切らせようとするか、筆者はこれまでかなり詳しく目にして学習を積むことができた。

むろん、まだまだ十分な量の学習に達したとは言わないが、現実にそうした工作を見、心理作戦をしかけられる中で、敵の狡猾さ卑劣さを知り、

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)

という言葉の意味を思い知る。敵のやり方から学ぶことは多くある。たとえば、負けているのに最後の最後まで勝っているかのように見せかけて、虚勢を張ろうとする姿勢には、クリスチャンもその執念に負けないまでの執拗さで、キリストの勝利を確信してやまない不動の決意が必要だと思い知らされる。

こうして、神と共に二人三脚で戦いを戦い抜くことを、繰り返し繰り返し学んでいると、次第に、暗闇の勢力による激しい心理作戦に惑わされたり揺るがされることなく、勝利をおさめる秘訣が分かって来るのだ。

以前にも、以下の詩編を引用し、これは霊的な戦いのことだと述べたことがある。クリスチャンが霊的な戦いにおいて熟練した強い兵士となるように、神自らが戦いの技を教えて下さる。

主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。
 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。
 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

歴史上、これまでクリスチャンの民の間には絶えざる争いが起こって来た。しかし、主はご自分に従うキリスト者を舌の争いから解き放ち、自由にして下さるであろう。

筆者もダビデが書き記したように、暗闇の勢力を追いかけ、彼らを打ちすえ、彼らの首筋を踏み、二度と立ち上がって口をきけないまでに追い詰めるまで、その戦いから手を引くことはない。彼らが叫んでも、誰も憐れむ者もなく、彼らが風の前の塵のようにむなしいものとして吹き去られるまで、手を引かないし、彼らが去っても、二度と振り返ることはない。

「わたしを憎む者をわたしは滅ぼす」

この御言葉を実現するためには、信者は神の御前で自分自身をどれほど潔癖に保たねばならないであろうか。

霊的戦いに勝利するための秘訣は、決して神から来たのではないものを受け入れないこと、そうしたものをそばに置かないこと、まことしやかに味方を装い、助けを申し出て来る不要な助言者をすべて退け、肝心な時に裏切る不誠実な仲間と決して連帯しないことである。

ただ神だけをよりどころとして、他のすべてのよりどころを排除し、預言者エリヤのように、神の御前に単独者として立つ。そうすれば、戦いはもう7~8割方終わったようなものだ。

あとは大胆に一歩を踏み出すだけ。

「わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。」

弱ったひざと、よろめくくるぶしでは、そう遠くまで歩いて行くことはできない。

ロトはソドムを脱出する際、御使いたちに山まで逃げるよう言われたのに、力不足のゆえに、遠くまで逃げられず、近くの低地の街までしか行けないと御使いに懇願した。神はロトの願いを聞き入れては下さったが、ロトは自らの力不足ゆえに、神の最善を退けたので、その後で困難な状況に見舞われることになる。

キリスト者は、霊的に高く、遠くまで行くことが求められている。そのためには、まっすぐなひざ、よろめくことのないくるぶし、走ってもたゆまず、歩いても疲れない体が必要だ。わしのように翼をかって、天高く舞い上がることが必要となる。

キリスト者にあっては、内側の霊の高度が、御名による支配権の行使と密接に関係している。クリスチャン一人一人にはこの世を超越する天的な支配権(キリストの御名による超越的な支配)が与えられているが、これを十分に行使するためには、クリスチャン一人一人が、心の内側で、霊的な高度を保っていることが必要なのである。

王は玉座から支配権を行使すが、クリスチャンは、キリストと共に御座につき、そこから天的な支配権を行使する。

だがもしクリスチャンの内側での霊的な状態が、御座に就いている状態からほど遠ければ、大胆に御名の権威を行使することができない。霊が圧迫されて極度の不安に陥っていたり、地上のものに心惹かれて低地をさまよっていたり、目を覚ましておらず、敵の不意の襲来に用意ができていなかったりすれば、御座から簡単に撃ち落とされてしまい、大胆に権威を行使することができない。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)


霊的な高度、すなわち、天の御座の高さに自分自身の霊を保つためには、信者には心の平安、平静、および、天的なものにのみ心を留める関心の高さがどうしても必要である。地上のものに心を留めず、絶えず目を覚まして、上にあるものを思い、神の御心や、あらゆる状況に注意散漫でなく、信者の関心を絶え間なく地上のものへと引きずりおろそうとする暗闇の勢力の作戦に対抗し、悪しき力にしっかりと抵抗して打ち勝っていること、御言葉を現実に適用することで、天的な富を地に引き下ろす秘訣を知っていること、滅びゆく肉体を持った人間であるにも関わらず、自分の肉なる人としての弱さを、神の力の強さによって覆う方法を知っていること…などが必要となる。

このことは決してクリスチャンが一朝一夕に学べることではなく、何度も、何度も、困難な戦いを経て、失敗を繰り返して、初めて習得する事柄である。そうなるまでには、信者は自分の心に激しい戦いをしかけて、信者の霊を天の高度から地上に打ち落とそうとする悪しき勢力が存在することを知り、どうやってこれに抵抗するかを学び、また、自分自身の弱さに目を留めると常に目指していた目的地まで到達できなくなることを知って、どうやって霊を奮い立たせて、この弱さを神の強さによって補強してもらうのか絶えず学び続けねばらない。これは長い学びの過程である。

さて、最近、筆者は、目に見える兄弟姉妹と地上的な連帯があるかどうかに関係なく、エクレシアは常に霊的に機能する共同体であると思うようになった。ここで言うエクレシア(教会)とは、地上的な組織や団体としての教会のことを指すのではない。

聖書には、キリストのみからだなる教会は、一つのからだであって、その一部が弱ったり、痛んだりすれば、からだ全体が共に痛み、その弱った部分を助けると記されている。

だが、我々は現実の目に見える人間としての兄弟姉妹と常に物理的接触があるわけではないし、信者には誰にも口に言い表すことのできない多くの問題がある。信者はそのような問題をただ神の御許へ持って行き、神との間で解決するが、その時、エクレシアはどうなっているのであろうか。

もしも信者が他の兄弟姉妹と現実に物理的な接触を持っていなければ、その人は、エクレシアからの助けを受けられないのであろうか?

答えはNOである。

もしエクレシアがそのようにこの世の物理法則にとらわれるものであったなら、パウロが投獄された時、彼はエクレシアから切り離されかかっていたことになろう。ガイオン夫人などはどういう状態にあったことになるだろうか。

しかし、現実には、クリスチャンがたとえ迫害されて牢に入れられて他の兄弟姉妹と会うこともできなくなっているような時でさえ、そのクリスチャンはれっきとして天的な共同体としてのエクレシアの一員をなしており、この共同体には、絶えずキリストの復活の命が流れ、霊的供給が行き巡っているのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」(エペソ3:10-11)

エクレシアの目的の一つは、天上の支配や権威に対して、多種多様な神の知恵を知らせることにある。エペソ書には、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)と記されており、天上には悪しき霊も存在することが分かる。

悪しき諸霊は、何とかして信者の霊を天の高度から地に引きずりおろし、撃ち落とそうとするが、逆に、信者の方が、悪しき諸霊を天から撃ち落とさなければならない。

「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。

イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)


以上の御言葉から、イエスに遣わされた者たちが、悪霊を屈服させ、追い払ったことにより、「サタンが稲妻のように天から落ちた」ことが分かる。老いた蛇である悪魔が最終的に火の池に投げ落とされるまでには、まだ時を待たねばならないが、そうなるまでの間にも、幾度となく、その予行演習のような戦いが行われ、悪の諸霊が天から転落するのである。そうすることがクリスチャンの使命である。

エクレシアの使命とは、天にいる悪の諸霊も含め、天上のあらゆる支配や権威に対して、神の知恵と力のどんなに豊かであるかを見せつけ、知らしめることにこそある。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エペソ1:17-23)

この御言葉は、人間の理解力を超えているため、説明し直すこともできないが、要するに、エクレシアとは、すべてを満たすキリストご自身が満ち満ちている場であり、そこには、すべての支配、権威、勢力、主権を超えて、来るべき世においてさえも、すべての名にまさる名であるキリストの御名の絶大な権威が付与されており、神の多様な知恵が働き、神の召しにこめられた絶大な希望があり、キリストある無尽蔵の富と豊かな栄光が宿り、キリストを死からよみがえらせた神の偉大な力が働いているのである。

エクレシアは時代を超え物理的制約を超えて、キリストに連なり、御子の復活の命にあずかる一人一人の者たちから構成されている。それはクリスチャン一人一人のことでもあるし、キリストの成分にあずかる者たち全体の、時代を超えた集合体のことでもある。

クリスチャンは、キリストの御体の一部として、絶えずキリストの命の供給を受けることができる立場にあり、弱り果てたときには強くなって立ち上がるための力を受け、困難に直面した際には解決のための知恵を供給され、どんな境遇にも対処することのできる知恵と力を「すべてのすべて」であられる方ご自身から供給される。

そこで、時にクリスチャンはこの世から憎まれ、追い詰められ、完全に孤立し、死にかかってさえいるように見えることもあるかも知れないが、真の現実は、それとはさかさまであり、クリスチャンこそ、すべてに勝利する秘訣を知っているのである。

それは、主イエスが次のように言われたことを思い出すだけで良い。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

パウロは次のように言った、

わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(Ⅰコリント6:8-10)

以上の言葉は、クリスチャンの宣べ伝えていることが、人々から嘘だと疑われて罵られたり、悪口を言われて貶められたり、あらぬ罪を着せられて罰せられる寸前まで行ったり、あるいは殺されかかったり、さまざまな苦難に見舞われて悲しんだり、貧しさの中を通らせられたりすることがあるにも関わらず、そのすべてにクリスチャンが勝利をおさめることが可能であることを伝えている。

この世の有様がどんなものであれ、また、クリスチャン自身の肉なる人がどんなに弱くとも、信者がそうした地上の制約にとらわれず、決してあきらめることなく、御名の権威を行使して、信仰によって御言葉が実際になることを要求し続ければ、嘘に過ぎない地上的な現実は後退して行き、キリストにある天的支配がリアリティとして実際に地に適用されるのである。

堕落したこの世の君は、自分たちの秩序こそ、永遠の動かせない現実であるかのように見せかけようとするが、現実はその逆なのだ。

筆者がこれまでに向き合って来た暗闇の軍勢の一部の様子を見れば、誰にでもすぐに分かることであるが、悪しき諸霊に導かれ、神のエクレシアに戦いを挑んでいる人たちの心の内は、自分たちの罪を暴かれ、責任を追及されることへの恐怖で満ちている。

彼らは、キリスト者にこそ、神の教会への彼らの乱暴狼藉に対し、厳正な処罰を求める権限があることを最初から知っているので、キリスト者が正当な権限を行使して、彼らに対してその罪の償いを要求し、彼らを駆逐することを恐れ続けて来たのである。

筆者は、彼らと出会った頃には、まだそういう結果になることを知らず、何より、この人々が神の敵の霊に導かれ、神の教会に敵する思想の持主であることさえ知らなかった。しかし、悪霊たちは、クリスチャン自身が自覚しているよりも、もっとはっきりと、最初から、クリスチャンの内側にある神の霊の偉大な強さを知っているのである。最初から、自分たちがどうなるのか、最後の結末を知っているのである。

そのことは、イエスが、悪霊につかれて凶暴化した二人の人間に出会って、その人たちから悪霊を追い出し、豚の群れに入るよう命じたという、聖書の有名なくだりを読めば分かる。

そのくだりには、悪霊たちは、イエスが近づいて来るのを見ただけで、イエスが自分たちに対してどのような権限を持っているか、自分たちの運命がどうなるのかががすぐに分かり、イエスを恐れて哀れみを乞うて叫んだことが分かる。

イエスが向こう岸のカダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。

二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここにきて、我々を苦しめるのか。」


はるかかなたに多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。

豚使いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者たのことなど、一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」(マタイ8:28-34)


筆者が向き合って来た暗闇の軍勢もどこかしらこれとよく似ている。聖書に記された以上の悪霊どもは、とりついた人間を誰の手にも負えないほどに凶暴化させて、その人間を通して街の住人を脅しつけていたが、今、暗闇の勢力に動かされ、神の教会に立ち向かう人々も、これとそっくりな有様ではないか。

彼らは、当初、筆者や筆者の知り合いたちが彼らの狼藉に抗議を申し入れたときから、自分たちが駆逐される運命にあることをはっきりと知っていたのであろう。そこで、クリスチャンがそのような行動に出ることを全力で阻止しようと、まだ起きてさえいなかった戦いに反撃を開始し、あらん限りの罵詈雑言と共に、自分たちを訴え、罰しようとしているクリスチャンたちを罵り始めたのである。

彼らがそうしたのは、本当はクリスチャンこそ、彼らを神に訴え、取り押さえ、彼らの口を封じて、しかるべき場所に送る権限を持っていることを最初から知っていたためである。今も、そうされること怖さに、何とかしてクリスチャンを思いとどまらせようと、罵詈雑言を吐き続けているのである。

しかし、私たちは、このことから逆に、私たちに与えられた御名の権威が、どれほど絶大なものであって、彼らを天から投げ落とし、駆逐するに足るものであるか、彼らの敗北がどれほど最初から確定済みの事項であるかを伺い知ることができる。彼らの恐怖と、それを隠すための卑劣な工作を見るだけで、この人々が敗北することは必至だと知ることができる。

ただ、クリスチャンは正当な権限を自らの意志で行使しなければならない。その行使の時を遅らせるために、彼らはひたすらクリスチャンを脅しつけているのである。

さて、上記の聖書のくだりを読むと、悪霊に憑りつかれて乱暴狼藉を繰り返す人間も脅威であったとはいえ、街の住人たちも、五十歩百歩だったように思われてならない。

主イエスは、長年に渡り、悪霊にとらわれていた二人を解放されただけでなく、それによって、街の住人たちをも、悪霊の脅威から解放された。ところが、その街の住人たちは、その光景を見て喜ばなかったどころか、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

豚使いたちは、自分たちの商売道具が台無しになったことを惜しんでイエスを責めたのであろうし、他の住人たちは、イエスが一瞬で行われた解放の御業を見て、それを悪霊たちが長年かけて彼らに行って来た乱暴狼藉よりも、もっと恐るべき「秩序騒乱」とみなし、街の秩序がこれ以上、揺るがされないために、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

結局、その街の住人は、墓場に住む悪霊の乱暴狼藉にずっと苦しめられていた方が、イエスがその悪霊たちを瞬時に豚の群れの中に追放するのを見るよりは、ずっと良かったと言いたかったのである。彼らはそれほどまでに悪霊の支配に慣らされてしまい、抵抗する力を失っていただけでなく、自分たちの理解をはるかに超えた事態が起きたこと自体が耐え難かったのである。

つまり、街の住人でもなく、そこにひと時立ち寄っただけの「よそ者」である(はずの)イエスが、自分たちの街の長年に渡る秩序を瞬時に根底からひっくり返し、新しい秩序を打ち立てるほどまでに絶大な権威を持っていることを、決して認めたくなかったのである。

おそらく、今日もそれと同じ現象が起きているのではないだろうか。キリスト教界は、墓場に住む凶暴な悪霊に圧迫され、脅しつけられることにあまりにも慣らされ、自らそれに同意するまでに至っている。そこで、「サタンが天から稲妻のように投げ落とされる」光景をたとえ見たとしても、どれだけがその価値を理解して喜ぶかは疑問である。
 
それでも、信者は「サタンを天から投げ落とす」ことに貢献すべきである。そのためにこそ、地上に遣わされているのだから。

私たちは、目に見える地上の有様にとらわれず、聖書の御言葉にある通り、キリストの御名を用いて、神の喜ばれる天の支配をこの地に適用し続ける。そして、神がキリストにあってお与え下さった自由や解放をどこまでも追求してやまない。神がキリストの命の代価を通して私たちにお与え下さった義と聖と贖いを、どうして再び侵害されねばならない理由があるだろうか。

こうして決して二度と再び人の奴隷とならず、神だけにより頼んで信仰に立ち続けるその過程で、堕落したこの世の有様が、負けじと自己主張して来ることであろうが、彼らは御言葉によって天から投げ落とされることが確定している。へびやさそりやまむしを足の下に踏みつける権威は、クリスチャンにこそ与えられているのである。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(Ⅱコリント4:7-10)


十字架の死と復活の原則―束の間の軽い患難と引き換えに与えられる永遠の重い栄光―

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。
そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。 」(創世記19:10-11)


このところ、筆者はひたひたと良くないものがこの街に迫って来ていることを感じ、エクソダスの時が近いと感じる。ここに残ったり、定着する選択肢はない。エクソダスできるか、できないか、それが人の生死を分けると感じている。

このような時だから、以前のような牧歌的な記事を書くことは決してできない。人の耳に心地よい言葉を一切並べることはできないし、もっともらしい説教のような告白や、人の歓心を買うための記事など断じて書くことはできない。

さて、クリスチャンは考えてみたことがあるだろうか?

もしも自分の住んでいる街が、ソドムとゴモラであったなら?

ソドムとゴモラの住人との間に、平和な隣人関係や、愛や友情を育めるだろうか? そこで住人に受け入れられ、身内のようにみなされることは可能だろうか?

ノアが箱舟を建てていた時、ノアと同じ街に住んでいた住人や知り合いの誰一人として、彼が何をしているのか理解できなかったであろうし、ノアは彼らの嘲りに直面し、孤独だったろう。

同じように、ソドムにあるロトの家に神の御使いがやって来たとき、ソドムの住人たちがロトの家に押しかけて何を要求したかを思い出せば良い。

その街で、ロトは以前からずっと孤独ではなかったろうか。ソドムの住人たちは、ロトの家にやって来た御使いたちを凌辱する目的で、ロトに向かって彼らの引き渡しを求め、彼らの要求に従わないロトに押し迫ってこう言ったのだ、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」(創世記19:9)

ソドムの住人たちは、常日頃からまるで不良集団のように、いきりたって「獲物」を求め、街を徘徊していたと思われる。ロトがどんなに彼らをいさめても、「よそ者が何を思い上がって俺たちに尊大な態度で説教するか!」と、自分に忠告して来たロトにかえって危害を加えようとするだけであったほど、彼らは常日頃からまともではなかった。

そして、こういう住人は、ソドムでは例外ではなく、むしろ標準だったのではないかと思われる。何しろ、聖書をよく読むと、ロトの家に押し寄せたソドムの住人たちの中には、老いも若きもいて、かなりの大規模な集団をなしていたと思われるのである。決して一部の不良少年のような集団ではなかったことが分かる。また、そこにいない他の住人たちも、みなこの集団を恐れてものが言えなくなり、彼らが何をしてもとがめることなく、ただ目立たぬよう陰に引っ込んでいるだけだったのではないだろうか。もしかすると、この集団は、不良集団どころか、ソドムの自警団を名乗っていた可能性さえも考えられる。

ロトの娘たちの中で、ソドムの住人のもとに嫁に行った者たちは、誰もが婿の言いなりになってソドムの気質に汚染され、脱出のチャンスが与えられても、これを活かすことができなかった。

ロトがソドムから連れ出すことができたのは、ただ未婚の娘たちだけである。未婚というのは、その地に定着していないことを意味する。

ロトの妻でさえ、脱出がかなわなかったことを考えると、まさに配偶者の存在そのものが、財産と同じように、重荷となった可能性がある。ロトの妻が、ソドム脱出の際、ソドムの富に惹かれ、後ろを振り向いて、塩の柱になったことを考えれば、妻という存在が、ロトにとって、それ以前から、ひそかな心の重荷となっていた可能性さえある。

おそらく、ソドム脱出の前から、ロトは妻と信念を分かち合うことができなくなり、孤独であったのではないだろうか?

ロトの心を支配する価値観、何よりもロトの持っていた神への信仰は、おそらく、その地においては、誰からも理解されていなかったのではないだろうか。家族にさえも、理解者がいなかった可能性がある。そして、当のロトでさえ、ソドムに住んでいたくらいだから、聖書では「義人」と称され、かろうじて助かったとはいえ、かなりの程度、ソドムの価値観の汚染を受け、危うい状態にあった様子が、聖書の様々な記述から伺えるのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:29-31)

こうして、聖書は、配偶者であれ、家であれ、喜びであれ、悲しみであれ、家財道具であれ、飲んだり、食べたりすることであれ、どんなものも、キリスト者の主要な関心事になってはいけないと教える。地上にある限り、我々はそういう事柄に一切、関わらないわけにはいかないとはいえ、それらを行う時にも、ないがごとくに振る舞い、心を置いてはいけないと聖書は言うのだ。

筆者はロトの物語を教訓として振り返りながら、ますますそういう思いを強めている。

筆者は、首都圏に、また、この街に、これから何が起きようとしているのか知らず、筆者がここを出て行ったからと言って、まさかその日に天から火と硫黄が降って来るなどと言いたいわけではない。

ただもうここにいてはいけないということが分かるのみである。複数の筋から「出なさい」という忠告を受けた。

何より、筆者は、この街の住人の気質が、どんどん悪くなって行っていることを感じている。むろん、この街に限ったことではない。それは首都圏全域かもしれないし、もっと広範囲を含んでいるかも知れない。

いずれにせよ、「ソドムとゴモラ化」とでも言うべき現象が起き、洪水が少しずつ足元から押し寄せるように、じわじわと人を飲み込んで行くのを感じる。
 
「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。」
 
脱出の日には、全く後ろを振り返ることなく、地上のものへのすべての未練を一瞬で断ち切り、ただ前だけを向いて進んで行かなければならない。

だが、現代という時代には、たとえ神が脱出させて下さるにせよ、ロトと同じように、身一つで街を逃げ出すということはおそらくないであろうと筆者は思う。それでも、地に属するものには決して未練を持ってはいけないということはいつの時代も変わらない。

筆者は、この地に定着せず、この地の住人の歓心を得ようとすることなく、この地の人々の評価を受けたいと願わず、ここに住み着いて穏便にやって行くことを目的に生きて来なかったことを、誇りに思いこそすれ、いささかも恥とは思わない。それどころか、ソドムの社会に受容され、そこに定住して、一切の孤独とは無縁で、人々と「うまくやれる」人がいたとしたら、その人は明らかにおかしいのだと確信している。その人は我が身に滅びを招いているだけなのである。

だが、筆者がこのように言ったからとて、決して筆者がこの街を馬鹿にしているなどとは思わないで欲しい。この街に比べて、他の街ならマシだとか、どこならばよりよく暮らせるか、といった比較の次元で話しているのではない。これは霊的な文脈である。

だが、脱出する前に、まだひと仕事ある。ペリシテ人の神殿を崩壊させ、宮から商売人たちを追い出し、不信者とのつり合わないくびきを根こそぎ打ち砕いて、真に自分を自由の身とし、誰の奴隷にもならずに出て行くという最後の仕事が残っている。天の大掃除である。

話が変わるようだが、筆者はこれまで、主として、思想面から異端思想の構造を明らかにし、糾弾して来た。悪魔の思想というものが、この世にあることを指摘し、それらに共通する構造を明らかにして来た(グノーシス主義の構造)。

すなわち、悪魔の思想には、聖書の神だけが神であるという地位を奪って、生まれながらの人間を神として掲げ、キリストの十字架の贖いを否定し、キリストの花嫁たる教会に敵対するという特徴があるということを告げて来た。

多くの場合、こうした異常な思想を信じる人々が「神聖な要素」であるかのように主張するのは、人間の弱さ(生まれながらの自己)である。

カルト被害者救済活動もこうした思想の一つであるが、彼らは「被害者性」という人間の弱点を、あたかも神聖なものであるかのように掲げる。だからこそ、「被害者が冒涜された」などと主張しているのである。

彼らがこうして「被害者性」という「弱さ」を聖なる要素であるかのように掲げるのは、マザー・テレサが「貧しい人たちの中にキリストがおられる」と表現したのと同じ理由からである。彼らは要するに神でないものを神としているのであり、本当は、貧しさも、弱さも、被害者意識も、神聖とは何の関係もない、ただの堕落した人間の一部に過ぎない。

ところが、マルクス主義もそうなのだが、虐げられた人々が集まって、自らの弱さをあたかも神聖な要素であるかのように掲げ、それを軸にして連帯すると、強者と弱者の関係を覆し、自らの弱者性をバネに神にまで至ろうとする思想が生まれる。

これが社会主義思想くらいの程度にとどまっていればまだ良いのだが、本当に神の教会に敵対することを目的とする思想になってしまうことがある。それが、カルト被害者救済活動である。この思想の極めて悪質なところは、神聖な方は、聖書の神ご自身であり、また、キリストの十字架の贖いを受け入れ、御子を信じて救われた信者によって構成される神の教会こそ、その聖にあずかっている存在のはずなのに、彼らは「教会で被害を受けたという人の弱さ(被害者性、弱者性、自己)」を神聖な要素とはき違え、教会を悪者として訴えながら、自分自身が教会の裁き主となろうとし、教会を押しのけて、あたかも自分こそ神聖な存在(宮)であるかのように主張している点なのである。

むろん、今日、組織としてのキリスト教会には様々な堕落が起きて、神の御心から離れていることは事実である。だが、そのことを内側から憂慮し、御言葉に立ち戻ることで是正していくことと、堕落しつつある一部の教会のために、教会全体を敵に回して告発することはわけが違う。

後者の思想・運動は悪魔的な構造を持つものなので、これに関わって行くうちに、人々は悪霊に深く憑りつかれて正気を失い、無実のクリスチャンに対する迫害・弾圧に及ぶことになる。筆者はこれまでに幾度もそう警告して来た。そして実際にその通りのことが起きているのである。

にも関わらず、大勢のクリスチャンを名乗る人々が、この思想に貫かれてクリスチャンを弾圧する者どもらの勢いに気圧されて、沈黙してしまった。あるいは、脅しつけられて、黙ってしまった。ちょうどソドムとゴモラの中で、ロトが住人たちに押し迫られていた時、他の住人たちはどこにいたのかも分からず、ロトの家族でさえ、一切抵抗できずに口をつぐんでいたのと同じである。

しかし、突如、話が変わるように思われるかもしれないが、筆者は次の言葉が好きである。

ソドムの住人たちが、ロトの家に御使いの引き渡しを求めて押し迫った時、御使いたちがソドムの住人たちの目をくらませたので、彼らは大勢であったにも関わらず、ロトの家に押し入ることができなかった。

もう一度言うが、筆者はこの言葉がとても好きである。

「彼らは入口を捜すのに疲れた。」

聖書を読むと、悪霊たちは、人間を宿として、人の中に住もうと絶えず願っていることが分かる。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう。」(マタイ12:43-45)

悪霊に入られないための秘訣は、家を「空き家」にしないことだ。もしキリストが住んでさえおられるならば、悪霊はそこに入ることができない。ソドムの住人たちがロトの家に押し寄せて来たとき、ロトの家の中には御使いたちがいた。そこで、御使いたちは、住人たちがどんなに大量であっても、彼らの目をことごとく打ってくらませ、入り口が見つからないようにさせたのである。

住人たちはそんなに大きくもないと思われるロトの家の周りをぐるぐるぐる行き巡ったが、入り口が見つからず、疲れ果てて帰ったというのだから、筆者はこの場面を想像すると、思わず笑ってしまう。

だが、現代のキリスト者もこれと同じで、キリストが内に住んでさえおられるならば、悪魔に入り口を自ら指し示したりすることはないのだ。

しかし、もしキリストが住んでおられなければ、悪魔にとっては入り口を見つけるのは容易であろう。

今は、カルト被害者救済活動の思想的な構造について言及することはしない。ただ、この悪魔的な思想に憑りつかれてしまった人たちが、筆者を攻略するために、すさまじい呪いと中傷を筆者に投げかけていることだけを述べて糾弾しておきたい。

筆者の周りにいるクリスチャンたちは、これに抵抗できず、自らが罵倒されているにも関わらず、立ち向かうどころか、彼らの軍門に下ってしまった。今や彼らを公然と糾弾しているのは、ただ一人筆者しかいない(もちろん、彼らを非難している人たちはいるのだが、立ち向かうという点では、筆者一人のように思われる)。

だからこそ、彼らは何とかして筆者の証をも地上から取り去りたいと業を煮やしていればこそ、筆者にすさまじい呪いと迫害と中傷を加えているのである。

彼らの言い分の中核は、「おまえはこのソドムの街でうまくやれず、ソドムに定着もできず、ソドムに受け入れられず、ソドムで生計を立てることに失敗した情けない落伍者だ。このソドムの住人は、誰もおまえの存在を喜んでいないし、おまえの証にうんざりしている。あとから来たよそ者のくせに、おまえは自分が俺たちに受け入れられなかったからと言って、まるで俺たちのさばきつかさのように尊大に振る舞い、俺たちに上から目線で説教しようとした。そんな高慢な態度は許せない。だから、カルト化教会の道を踏み外したどんな牧師よりも、おまえをもっとひどい目に遭わせてやる」ということに尽きる。

まさにロトに対してソドムの住人たちが述べた言葉と同じである。

それに対する筆者の反論はすでに記した通り。ソドムに受容され、ソドムで孤独を感じず、ソドムに定着する人間の方が全くどうかしているのだ。筆者は一度たりともそんな人間になりたいと考えたことはなく、彼らに「落伍者」であるかのように罵られても、それをむしろ当然であると思う。

むろん、筆者は彼らの呪いや中傷を放置する気はないし、彼らの思い通りになることもない。彼らの手から筆者自身を救い出す。二度と彼らが筆者を呪ったり、汚し言を言うことができないように。

だが、ひとこと断っておけば、この戦いは長期に渡り続いており、激しい迫害になっているとはいえ、そんなに次元の高い戦いではない。こうした人々によるネット上のクリスチャンに対する迫害は、現実生活においてまで、信者に危害を加えるレベルに達しておらず、また、影響の範囲も限られている。何より、きちんと手を打てば終結するし、このような低い次元の情報を鵜呑みにして信じる人々の数もごくわずかに限られている。

学者にとっては自分の主張の論拠をどこから引っ張って来るのかが大切であり、誰も自らの論文で三流・四流のゴシップ新聞の記事を引用したりしないのと同じように、あまりに低い次元の誹謗中傷などを大真面目に信じて吹聴していれば、その人の人間性が疑われるだけである。

だから、一定の洞察力を持っている人は、誰もこういう低次元の情報に振り回されることはない。

しかし、この度、筆者は、そうしたものを超える、もっと高度な迫害が現実にありうることを述べておきたい。それは歴代のクリスチャンがずっと耐え抜いて来た、本当の迫害のことである。

再び、話が変わるように思われるかも知れないが、悪霊は人間を宿としてその中に入り込み、その人間を思うがまま操るが、人間の中に悪魔自身が入ることがありうることを、聖書ははっきり教えている。

「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22:4-6)

これはイエスを売り渡す行為が、決して下級の悪霊にはできない仕事だったことをよく表している。だからこそ、サタン自身がそれを遂行するために、ユダの中に入ったのである。そして、注目したいのが、ユダに悪魔が入ったのはいつなのか、ということである。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:21-30)

前にも書いたことがあるが、神はクリスチャンに代価を要求される時、決して本人の承諾なしに何かを強制的に剥ぎ取ったりはなさらない。たとえば、殉教を願っていないクリスチャンに殉教を強制されるようなことは決してない。

クリスチャンが神に従う過程で、何を手放すかは、神とその信者との間で合意があった上で、決められる。そして、神は決定的に重要な事項は、信者が目を覚ましてさえいるならば、前もって知らせて下さる。大きな迫害が迫っている時や、危機が訪れようとしている時、もし信者が御霊に聞く姿勢さえ失っていなければ、必ず知らせて下さる。

だから、もし何の前触れもなしに、不意にとてつもなく悪しき出来事が起きてそれに翻弄されるようなことがあれば、その時は、クリスチャンが目を覚ましていなかった可能性が高い。
 
主イエスは、ご自分が父なる神に従うために、命を投げ出さなければならないことを、以上に挙げた場面で、すでに知っておられた。それが避けがたい召しであることも知っておられた。そして、神との間で、命を投げ出すことにすでに同意されていたのである。

主イエスが、その召しに承諾してから、初めて、サタンは動くことができた。いわば、サタンは、イエスの許可なく、ユダを使ってイエスを裏切ることができなかったのだと言える。そこで、イエスが「今こそ、その時だ」と、指示した時、初めてサタンがユダに入った。イエスは裏切られることを前もって知っており、ご自分が死に渡されなければならないことをすでに承諾しておられたからである。

我々クリスチャンの人生にも、似たようなことが起きる。

悪魔がどんなに猛威を振るうように見える時でも、最終的に見れば、それは神の支配下で許された範囲内でしかないのである。たとえば、クリスチャンには、兄弟姉妹を名乗る人たちによる手ひどい裏切りが起こることも稀ではないが、そのようなことは、ある日、突然、起きるものではない。あるいは、肉親にまで裏切られることもあろうが、そういうことは、必ず、神ご自身が信者に教えて下さる。我々はすべての兆候から、そうなることを前もって予測できるのである。むろん、心の準備も可能である、目を覚ましてさえいるならば。

クリスチャンを罵るくらいのことは、下級の悪霊のレベルでも可能であろうが、クリスチャンに手をかけて命を取るような危害を加えるというようなところまで行くと、これはサタン自身の仕事である。サタンの霊を受けた人間しか、そのようなことを大規模に実行できる人間はいない。だが、心配しなくて良い。そのような迫害は、それを受けるクリスチャン自身が、神との間で、前もって同意しない限り、その人の身に起こりはしない。

聖書は言う、

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)

筆者は今まで幾度も殉教について述べて来た。最終的には、すべてのクリスチャンは殉教を目指すべきであると思う。だが、筆者について言えば、今はまだその時ではない。これは殉教を恐れるがゆえに言うのではなく、すべての物事に時があることをただ述べているだけだ。だが、上記の御言葉の実に多くの部分はすでに筆者の人生で成就している。戦いはかなり深いレベルにまで達した。

これから先、クリスチャンに対する迫害は、時をかけて、より一層、巧妙に、深化して行くであろうし、ついに最後には殺意のレベルへまでも進行して行くであろうと予想する。そうなるためには、まだしばらく時があり、時代の状況そのものが変わることであろうが、すでにその戦いが始められようとしていることを筆者は知っている。

この地へやって来たときとは正反対である。やって来たときには、筆者はキリスト者の純粋な交わりを求めて、それに憧れ、心躍らせていたが、牧歌的な時代は終わったのである。

そして、筆者は心の中で神に向かって言う、「いいでしょう。同意します。私にはあなた以外で価値あるものは何もありません。」と。「たとえ兄弟姉妹であろうと、ソドムの住人であろうと、誰であろうと、あるいは物であろうと、家であろうと、何であろうと、あなた以外のもので、私が自分の心の中心として据えるものは何もありません。私はあなたが私に望んでおられる道を生きることに同意します。ただその道において、あなたが束の間の苦難と引き換えに、はかりしれない重い栄光をすでに天に用意しておられることも私は知っており、その褒賞を見上げ、それに至り着きたいと願っているのです。どうか私があなたの栄光に入り損なうことがありませんように。」


キリストの十字架の死と復活の原則―死ぬべきものが命に飲み込まれるために、天から与えられる住処を上に着たいと願う―

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。

死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えて下さったのです。」(Ⅱコリント5:1-5)

筆者は様々な文書をこれまで作って来たが、文書にはいつもある程度の完成度というものがある。公式な文書であれば、当然ながら時間をかけて推敲し、誤字脱字もすべて修正せねばならない。字数制限がある場合もある。

ブログとなると、誤字や誤表現にそこまで気を使わなくても良い。間違いに気づけば後から訂正すれば良いし、気に入らなければ、全面的な書き直しも許される。

だが、どんな文書であれ、いつも思うように推敲の時間が取れるわけではなく、形式については、どうしてもある程度のところで手を引かざるを得ない。
 
その代わり、妥協できないのが内容だ。内容のない文書など書くだけ意味がないのだから。

そして、内容については、最初から書きたい内容がすべて目に見えているわけではない。ほとんどの場合、書いているちに内容が掘り出されて来る。

筆者はどのような公式文書よりもブログの価値を重く見ている。

ブログでは、自分の書いた内容について、何年も何年も経ってから、当時、言わんとしていたことの重さが分かって来ることが多い。自分でも気づかないうちに、そこにある種の予言的な意味合いが込められていたことに、後になってから気づく。

御霊はクリスチャンに来るべき事柄を教える。私たちは心の奥深くで、未来がどうなるのかを知っている。そしてその未来とは、究極的には、神の勝利の計画の成就である。
 
ここしばらくの間、筆者は、このブログの題名を「私ではなくキリスト」とつけたことは、間違いなかったと感じている。今回はその理由を述べたい。
 
筆者の子供時代、家の近所に川があり、よく遊びに行っていた。その河川敷に、おかしな鳩がやって来たことがあった。
 
川の橋げたには、いつもたくさんの鳩が群れとまっていたが、ある時、そこにとまろうとしてやって来た一組の鳩の様子がおかしい。

二羽がまるで団子のようにくっついて飛んでいるのだ。よく見ると、その二羽は、鉄線か何かで足がからまり、離れられなくなって、二人三脚のような状態で、一緒に飛んでいるらしい。

しかも、一羽目が上にしきりに飛び立とうとしているのに、二羽目は下へ下へと落ちて行く。

子供だった筆者は、それを見て、何とか助けてやれないものだろうか、と哀れに思った。あの絡まった鉄線をほどいてやれさえすれば、二羽とも自由になれるのに、と。

そこで、近づいて助けるチャンスはないだろうか、と、しばらく様子を伺っていた。

しかし、橋げたにとまることがどうしてもできずに、とまることをあきらめた鳩が、水面すれすれにまで降りて来て、筆者の前を飛び去った時、筆者にははっきり分かった。二羽目はもう死んでいるのだと。

生きている鳩が、死んだ鳩と鉄線でつながれたまま、死んだ鳩をぶら下げて、飛んでいるのだ。
 
その鳩は、死体の重みで下へ下へと引っ張られながらも、何とか上へ飛び立とうともがきつつ、そのまま筆者の目を通り過ぎ、飛び去って行った。

筆者は、子供心にも、何とも醜悪でグロテスクなものを見せられた気分になり、衝撃を受け、言葉を失って、家に帰った。
 
その光景を、筆者は今でも、時折、思い出すことがある。
 
だが、その光景は、現在、筆者の中で、当時とは全く異なる新しい意味合いを持っている。

それは、その光景が十字架において罰せられたアダムとキリストへと重なるからだ。

筆者の中では、あの死んだ鳩は、罪人として罰せられた人類の姿に重なる。

キリストの十字架は、罪なく永遠の命を持つキリストと、罪を犯して滅びゆく人類が一緒に罰せられた場所である。

もちろん、信仰のない人にとっては、キリストの十字架は、あくまでキリストだけが罰せられた場所であり、その死は、自分の死ではなく、それは自分の十字架でもない。

そこで、そのような不信者の中には、「キリストさんは、可哀想だなあ。無実だったのに、弟子に裏切られ、罪を着せられて、殺されたんだからなあ」などと、他人事のように哀れんでいる人もあるかも知れないし、キリストは新しい宗教の開祖で、誤解のゆえに殺された犠牲者だと思っている人もいるかも知れない。

しかし、信仰に立つ者は、ゴルゴタで、神の独り子なるキリストの死と、自分の死とが一つになっていることを知っている。

そこで、信じる者にとって、ゴルゴタは、「無実にも関わらず、裏切られて売り渡された哀れな犠牲者としてのキリストが罰せられた場所」では決してないのだ。

そこは何よりも「十字架刑に処されて当然であった「私」(=アダム=人類=人間の自己)が罰せられて死んだ場所」である。そして、そのように御子を罰することは、人類を救うための神の深遠なご計画だったのである。

罪なくして罰せられたキリストは、十字架においてさえその尊厳を失われなかった。どんなに鞭打たれ、あざけられ、唾を吐きかけられても、最後までご自分の尊厳を保ち、父なる神に従われた。

しかし、滅びゆく人類は別である。滅びゆく人間は、まさに罰せられて当然の存在であった。

もし十字架において罰せられた「アダム(「私」=人類=生まれながらの人の自己)」の姿を実際に見ることができるとすれば、それは誰もが目をそむけたくなるほどに醜悪で、まさに嘲りと罵りと鞭打ちと拷問に値する存在であると言えたであろう。

それほど残酷に罰せられてさえ、己が罪を認めず、キリストを見下げて罵り、嘲っていたかも知れない。ゴルゴタでキリストと一緒に木にかけられたあの強盗の一人のように。
 
筆者は思う、子供の頃に見た、あの死んでしまった鳩でさえ、あれほどグロテスクで醜悪な印象を醸し出していたのだから、十字架においてキリストと共に罰せられた人類(人間、アダム、生まれながらの人の自己)を見ることができるとすれば、それはどんなに目を背けたくなるほどに醜悪な姿であろうか、と。

だが、そのことを思うと同時に、筆者は平安を感じるのだ。それは「心配要りません。あなたの裁きはもう終わりました。」と、神は筆者に言って下さるという確信を心に持つことができるからだ。

「カルバリでの御子の死が自分の死であることを認め、その裁きを心に受け入れさえするならば、あなたが再び罰せられることは決してありません」と、神は言われるからだ。

だが、信仰によってキリストと自分が一つであることを認めても、やはり、信じる者は、地上での生活において、一歩一歩、十字架の死と復活を背負うことが必要となる。

筆者はこの度、キリストの十字架を嘲り続ける者を、この世の諸手続きによって暗闇に引き渡そうとしている。だが、これは筆者の生まれながらの自己の義憤から出た行動ではないことを予め断っておきたい。

筆者は多分、このブログに自らの地上の名を記すことは最後までないだろうと思う。それは、多くの人々が考えているような理由からではなく、以前にも述べたように、このブログによって栄光を受けないためである。

多くのクリスチャンが、牧師や教師や指導者となって、自分の名を公然と世に掲げて著書を出し、ミニストリーを開き、献金を集め、CDを売った。

「偉大な霊の器」などの触れ込みのもと、何千人も収容できるスタジアムを借りて集会を開いたりもした。

だが、筆者は決してそのようなことをせず、このブログを有料化もしない。

無料だからと言って、自分の名を売るために、利用することもしない。それをミニストリー扱いするつもりもない。何よりも、筆者は決して人を上から教える立場に立たない。

だから、最後まで無名の「ヴィオロンさん」のままで良いのである。

多分、何年も後になれば、すべての記憶が風化し、「ヴィオロンさん? それって一体、誰なの? 現実にいる人なの?」ということになって終わるだろう。

「ヴィオロンさん」は、牧師でもなく、教師でもなく、指導者でもない。神学博士でもなければ、キリスト教社会主義の政治家でもない。無学な人間なのか、偉い人なのか、一体、何者なのかも分からないまま、ただの名もない人間として、風のように現われ、風のように過ぎ去って行くだけである。

だが、現実の筆者の名は、市民権を持っている。社会生活がある。筆者に連なる人々も同様である。そこで、現実の筆者を貶める行為に及べば、当然ながら、その者は報いを受けなければならない。

それはこの世の法則である。

いわば、筆者はその時をずっと待っていたのだとも言える。

上手く説明できる自信はないが、筆者にとっては、「ヴィオロンさん」こそ、生きた鳩であり、この世で生きる筆者は、ゴルゴタの十字架でキリストと共にすでに死に渡されており、あの醜悪な死んだ鳩も同然なのである。

この二つは切り離せないものとして一体である。

生きている鳩とは、信仰によってよみがえらされ、生かされた「新しい人」としての筆者である。
 
多くの人々にとっては、驚くべきことであろうが、筆者から見れば、死んだのは地上における筆者(アダムとしての筆者)なのである。
 
その意味で、筆者の目に映る「現実」は、多くの人が見ている光景とはさかさまである。

筆者の地上における名は、決して天の栄光と結びつけるつもりはない。むろん、地上における名も何かを為すことくらいはあるかも知れないが、その栄誉は束の間で、これは絶えず十字架で死に渡されているアダムである。
 
ゴルゴタにおけるアダムの死が絶えず筆者に適用されることによって、逆説的に、信仰によって復活の命が働くのである。

あの河川敷にいた鳩は、いつまでも死体と結びついていたのでは、生きるのは難しいであろうが、キリスト者は、信仰によって絶えずキリストと共なる死と復活を経ていなければ、進んで行くことができない。

筆者には、ここで訴えている内容が、決して自己の利益のためではなく、神の国の権益に関わるものであることを証明するために、代価を払ってそれを証することが、どうしても必要なのである。

なぜなら、代価を払わなければ、天の褒賞を得ることができないためである。

その意味において、地上における筆者が何かの犠牲を払わされることになることを決して厭うつもりはないし、脅しつけられたからいって黙るつもりもないのである。
 
それは神がご自分のために要求されている代価を支払うことなしに、神に従うことが不可能であり、エクレシアはこの代価を払って神に従うことで、神に栄光を帰するために召された存在だと知っているからである。

人々はあざ笑うであろう、「あなたには色んな才能があり、それを有用に用いれば、もっと社会的に成功できたはずなのに、いつまでこんな無料ブログに『命をかける』だなんて寝言を言ってるんですか。なんて馬鹿げているの。それこそ人生の浪費、犬死でしょう。

いいですから、たかがペンネームのブログごときのために、現実のあなたが社会的地位を失う必要はありませんよ。そんなのはもったいない。あなたはもっと人類に奉仕できるはずの存在じゃありませんか。今からでも遅くありません。何が本当に価値あることか見極めて、こんなブログはお遊びとしてうっちゃって、もっと自分のためになることをおやりなさい。決して真剣に命がけでここに文章を書こうなんて思っちゃダメですよ。幼稚な喧嘩をわざわざ買って出る必要はありません。茶番劇は放っておきなさい」と。

なるほど極めてもっともらしい説得である。だが、筆者は言う、「そうではありません。私はあなたがおっしゃるようなものは、もうすべて後にして捨てて来ました。私が目指しているのは、あなたが考えているような『社会的成功』ではありませんし、『名声』でも、『地位』でもありません。

いいですか、私の信じる神は、そんなものをいつでもいくらでも私のために用意することができるんです。実際に、信じる者のためには天に莫大な富が蓄えられていて、私たちはいつでもそういうものは引き出せるんです。

でも、私は神の目に、私が何を第一として生きているのかをまずは証明しなければならないんですよ。

私は自分の利益や、人の目に認められることを目指しているのではありません。人の目にどう映るかを恐れているのではなく、神の目にどう映るかを恐れているのです。私は信仰の証しを述べたことにより、自分が痛めつけられたり、脅しつけられたりすることを恐れてはいません。聖書の神の御言葉が曲げられ、神の国の権益が侵されていることを憂慮しているがゆえに、叫んでいるのです。

もし聖書の神が冒涜されているのに、私たちが立ち上がらなければ、世の人々はどうして私たちが神を信じていることを知り得ますか。脅かされればすぐに黙ってしまうような信仰なら、最初からない方がましでしょう。

私はすでに死んだのです。ですから、何度、死んでいるという事実を突きつけられても、ビクともしません。この地上の我が国でも、死者には名誉という概念がありませんが、それと同じですよ。 死者には人権もないのです。死者が冒涜されているなどととんなに言っても、死者には法的権利がないんですよ。

でも、本当の意味での死者とは、私のことではなく、滅びに定められたこの地上にいるすべての人たちのことなのですよ。

そして、本当の生者とは、神がキリストを通してよみがえらせて下さったすべての信者のことなのです。ですから、それは私のことでもあるのです。

ある人々は、「カルト被害者が冒涜された」などと言って騒いでいますが、神聖な存在は「カルト被害者」ではありません。神聖な存在は、聖書の神ただお一人です。さらに言えば、神聖なのは、神がキリストと共に死に渡され、よみがえらせて下さった神の子供たち一人一人ですから、それはすなわち、私たちのことなのです。

キリストが内に住んで下さっている信者の一人一人が、神の神聖な教会なのですよ。

ですから、あの人たちが言っていることはすべてさかさまなのです。彼らは自分たちが「冒涜された」と叫んでいるけれども、彼らこそ、神聖な神の宮を冒涜しているんですよ。

私たちは、一方では、滅びゆくアダムに過ぎませんが、他方では、信仰によってよみがえらされた新しい人、聖なる人なのです。私たちのアダムに十字架の死が適用されている以上、真の私たちとは、キリストと同じ性質で覆われた、神の満足される、聖なる新しい人なのですよ。

ですから、信仰のないあの人たちが、自分たちを神聖であるかのように主張しているのは間違っています。もし彼らがそう言うなら、なおさら、私たちこそ、真に神聖な神の宮なんです。

それが現実なんですよ。

ですから、あの人たちは、神の聖を奪い取って、あたかも自分たちが神聖な存在であるかのように主張したいだけなのです。だからこそ、彼らは神の宮である教会をしきりに乗っ取っては、破壊しようとするのですよ。

でも、本当は彼らこそ、何も主張できない死体に過ぎないのです。死んだはずのものが、どうしてゾンビのようによみがえって、生きている人を脅かしたりできますか。彼らは超えてはならい境界を踏み越えました。死者と生者の境界を踏み越え、しかも、神がよみがえらされた人々の権益を脅かしているのですから、これこそ神聖の冒涜ではありませんか。

死体にはまっすぐに墓にお帰りいただかなくてはいけません。死者が立ち上がって生者に狼藉を加えるなど許されることではありません。

ですから、私はこうして荒野で叫んでいるのです。そして、あの人々は、私の訴えていることが真実であるからこそ、自分の罪が暴かれない為に、私を殺そうとしているんですよ。

アダムとしての私に攻撃を加えることはいくらでも可能でしょうし、私はそれに甘んじましょうし、そんなことではビクともしません。でも、今の世で、ステパノの証が聞くに耐えられないからと、ステパノを石打にして殺せば、その人たちが殺人罪に問われるのは当然でしょうね。たとえステパノが死んで口がきけなくなっていたとしても、殺した人たちは罪人として連行されるのが当然でしょうね。それはこの世がこの世の秩序を守るために、放っておいても自らするような仕事なのですよ。

何度も言いますが、キリストと共なる十字架で、私はすでに死んでいるのですから、私には惜しむべきものはありません。でも、だからと言って、誰かが地上に生きている私を本当に殺してしまえば、殺した人たちが罪に問われるのは当然ですね。侮辱を加えれば、罪に問われるのも、仕方がないですよね。

いいですか、私はこの地上にある限り、まだまだ「死んでしまった鳩」とのくびきを断ち切るわけにはいかないんです。処刑されたアダムも、まだこの地上での仮の宿としてのつとめがありますから、やってもらわねばならないことが色々残っているんです。
 
いくら仮の宿とは言っても、その内側に神聖な神の霊が宿っている以上、アダムに攻撃を加えた人間は、神聖な宮の入れ物となるべきものの破壊行為について、罪に問われることになりますよ。でも、それはアダムに属する事柄ですから、あくまでこの世の法によって裁かれるのがふさわしいのです。
 
恐れるべきは、それよりももっと厳しい裁きが天に存在することです。「聖霊を穢す者は赦されない」と聖書に書いてある通りです。彼らは神聖なものを冒涜したことの報いとして、この地上だけでなく、永遠に至るまで、引き渡されます。それが彼らの避けようのない運命です。

私はどんなにそうならずに済むなら、その方が良いと願ったでしょう。しかし、彼らはついに私たちが与えた最後の和解のチャンスまで踏みにじり、罵り、嘲ったのですよ。ですから、もう彼らに猶予は残されていません。

私は彼らを「サタンに引き渡す」と以前に書きましたが、そう書いた後、まさに予告した通りのことが起きたのです。彼らの宿主である悪魔が、彼らを本当の破滅に引き渡したのです。

私は言いましたね、悪魔の法則は使い捨てだと。

ひと時、悪魔は手下となってくれる人たちを使って、すさまじい乱暴狼藉を繰り返します。その勢いは破滅的で、誰も止めることができないと思うほどです。しかし、それは疫病のように、いつまでもは続かず、時が来れば、たちまち勢いを失って行きます。そして、その後は、悪魔の宿主とされた人々は、責任を問われ、地上での人生を失って行くんです。

聖書に書いてある通り、悪人たちは、ひと時、雑草のように生い茂っても、振り返れば、彼らはもういない。痕跡もとどめず、思い出そうと思っても、思い出せない。跡形もなく消し去られてしまうんですよ。それに引き換え、主に従った者たちの名は命の署に記され、永遠に残ります。

あるクリスチャンが私の前でこう言ったことを思い出します、

「悪魔は本当に愚かです。キリストを殺しさえしなければ、地上には、復活した人間は一人もいなかったはずなんです。悪魔がキリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れていたことが起きてしまい、悪魔がどうやっても手出しのできない領域が生じてしまうことが、悪魔自身にも、予め分かっていたんです。

(悪魔が支配することができるのは、旧創造だけである。復活の領域には、悪魔は指一本、触れることができない。)

なのに、悪魔は抑えがたい欲望から、キリストへの殺意に燃え、どうあってもキリストを十字架にかけて殺さずにはいられなかったんです。殺せば、よみがえりが生じる。自分にとって最も恐ろしい、不利なことが起きる。それが分かっているのに、悪魔はわざわざそれをやってしまったんです。これがいつの時代も変わらない悪魔の愚かさです、悪魔は自分にとって最も不利なことをやり続けているのです!」」

まさにその通り。それこそが悪魔の法則というもの。

だから、筆者は「サタンに引き渡す」と書いたのである。その結果、何が起きるかは、天と地の前で証明されることであろう。

筆者は彼らを憐れまないし、惜しまない。

彼らが決してクリスチャンの言うことに耳を傾けないことは分かっているので、筆者は彼らを罠にかける。彼らがその愚かさによって自らつまずくように。自らしかけた罠に落ちるように。筆者は旧創造としての自分をも憐れまずに十字架に引き渡すが、自分以外の旧創造をも憐れまない。彼らを弁護もしないし、救おうともしない。

生きた鳩と死んだ鳩を一緒に救うことはできないのだ。

だが、生きた鳩は、どんなに死体の重みに引っ張られても、自力で上へ上へと飛び立って行くだろう。そうこうしているうちに、鉄線は古くなり、いつか重みで断ち切れる。気づくと、鳩は自分が自由に、軽やかになっていることが分かる。

あの死体はどこへ行ったのだろう。分からない。しかし、そんなことはどうでもいい、鳩は自由になったのだ。鳩は軽々と天へ羽ばたいて行く。

私たちの地上の幕屋はいつか壊れる。地上的名声や地位は束の間である。

しかし、神に従ったことから得られる褒賞は、永遠である。

その永遠のものが、死すべきものを飲み込む時が来る。天の永遠の栄誉が、滅びゆく無価値な地上の栄誉を飲み込んで行く。こうして、死んで滅びたはずのものさえ、命に飲み込まれて、新しくされる時が来るのだ。

アダムの死は過去となり、気づくと、新しい人が立っている。私ではなくキリスト。

私たちは地上の幕屋を負ってうめきつつ、天から与えられる新しい幕屋を上から着る時を待ち望んでいる。新しい天と地を喜びを持って迎える時を待ち望んでいる。

私たちの希望は決して失望には終わらない。神はご自分を頼る者を決して見捨てられることがないからだ。


十字架の死と復活の原則―律法による罪定めから解放され、御霊によって生きる天の自由人へ―

比較的最近のことであるが、あるレストランで食事をしていると、近くの席に老夫婦がやって来て座った。

聞くともなしに、聞こえて来る会話を通して、その老夫婦がクリスチャンらしいことが判明した。彼らは食前の祈りを捧げていたのである。

「この食事を感謝します。あなたがこの食事を通して、私たちの体を健やかにして、癒して下さると信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

そんな祈りだった。

筆者は長いこと食前の祈りというものを耳にしていなかったので、彼らの敬虔そうな様子と、懐かしい祈りの言葉に、はっと目を覚まさせられる思いになった。自分が食前の祈りをせずに、食事を取っていたことに、バツの悪い思いさえ味わいながら、その夫婦のその後の会話に耳を傾けた。

筆者はキリスト教会を離れて久しく、全ての形式的な儀式から遠ざかっていたので、そばでクリスチャンが祈るのを聞くことも新鮮で、そういう時には、心から捧げられる祈りであるのが当然だと思っていた。

筆者は真実な交わりを求めて教会を離れて後、心からの祈りしか聞いたことがなかったので、いかにも敬虔そうなその老夫婦の祈りが、単なる形式的な祈りでしかないことが、すぐには分からなかったのである。

そこで、筆者は、その老夫婦がきっと本物のクリスチャンなのに違いないという思いで、何か新鮮な信仰の息吹が得られることを期待して、彼らの会話に耳を澄ました。

すると、その祈りの後にただちに彼らの口から出て来たのは、子供たちへの愚痴や不満であった。

「あの子はねえ、自分の部屋も片付けてないのに、自立なんて無理だと思うんだよね。働いて一人で下宿するとか、結婚するとか、そんなことばっかり言ってるけど、今のあんたには無理だって、この前も言って聞かせたんだよ」
「まずは自分の部屋を片付けることから始めなさいって、言っておいたよ」

そんな言葉が筆者の耳に入って来ると同時に、老夫婦はウェイターを呼びつけ、

「あのね、スープバー代わりに取って来て。私たち自分で歩けないから」

と言って、壁に立てかけた杖を顎で指し示したのであった。

筆者は、あまりのことに驚き、心の中で憤慨さえした。老夫婦がいかにも敬虔そうな態度で食前の祈りを捧げていた時の様子と、その祈りが終わるや否や、始まった会話は、まるで正反対であった。夫婦は、自分が祈った内容が、舌の根も乾かないうちから、まるですべて嘘だったとでも言うかのように、ただちに世俗の会話に明け暮れ、我が子と思われる人物についての不平不満を二人で語り始めた上、自分たちは病人だと言って、ウェイターに代わりにスープバーを取って来るよう指示したのであった。

筆者は、主イエスが「人前で見せるために祈るな」と警告したことを思い出し、あんなにも素朴で敬虔そうに聞こえた祈りが、全く無内容だったことを理解したのであった。問題は、うわべだけ敬虔な信者らしく、食前の祈りを人前で捧げるかどうかではないのである。

しかし、何より筆者が憤慨したのは、老夫婦が癒しを求めて祈ったのに、何一つ、自らの信仰を実践しないことだった。もし筆者が、「主よ、あなたが私たちの体を癒して下さることを信じます」と祈ったならば、ただちに杖を捨てて立ち上がることを考えるだろう。そうでなければ、そんな祈りはしない方が良い。

神は、本当に人の病を癒すことがおできになる方である。筆者はそのことを確信している。だから、「癒して下さい」と祈るなら、神に一方的に懇願して終わりにするのではなく、ただちに自らの信仰が嘘ではないことを表明した方が良い。その行動による表明を通して、信仰は生きて働くのだ。

ちなみに、話が脱線するが、神は人の病を癒すことができるだけでなく、機械の故障も直すことができる。筆者は、色々な機械の故障を修理によらずに直して来た。

その初めは院生の頃、下宿でパソコンにコーヒーをぶっかけ、それを御名によって復活させたことだった。

今では、何かが壊れたからと言って、祈ることはしない。ただ、機械は故障したのだという事実を、心の中で静かに拒否するだけである。

わずか一週間ほど前に、筆者の家では、電化製品を同時に使いすぎたせいで、ブレーカーが飛んで、電気を復旧させると、つけっぱなしだったCDデッキがカタカタ言い始め、CDを再生できなくなった。

CDデッキは買ってから年数が経っており、保証期間も過ぎており、修理はかなり高額になり、預ければしばらく帰って来ず、修理のために預ける心当たりの業者もなかった。

そういう面倒な事柄が脳裏をよぎったが、ついさっきまで普通に動いていたのだから、ブレーカーが飛んだくらいのことで、おかしくなるはずはないと思い直し、CDデッキは壊れてしまったのだという考えを心の中で拒否した。

そして試行錯誤すること15分程度、機械を開けたりも何もしていないのに、CDは普通にデッキにスルスル入って行き、何事もなかったかのように再生が始まった。それ以来、一度たりともヘンな様子は見られない。

さらに、以前にいた家では、レンジフードが故障し、付属の電球がつかなくなり、お湯が出なくなるということが起きた。お湯が出ないんなんて、ロシアじゃあるまいしと思いながら、しぶしぶ修理の見積もりに来てもらうと、老朽化により復旧は不可能と言われ、大規模な工事をするしかないとのことであった。その際、業者が付属の電気だけは復旧させて行った。

大規模な工事にはなかなか予定がつかず、筆者は修理を数ヶ月、先送りした。しばらく、ぬるま湯しか出なかったが、冬場、これでは困るなと思っていると、どんどんお湯の温度が上がって行き、ほとんど普通にまでなった。しばらく経って工事はしたが、とても老朽化により復旧不可能と言われた機械とは思えないほど普通に稼働してくれた。

そんなわけで、筆者は神と二人三脚の生活では、すべてが間に合うことを実際に身を持って体験して来たのである。健康が備えられるだけではない。経済的にも、物質的にも、あらゆるものが間に合うのである。これは人生に何も困ったことが起きないという意味では決してなく、どんなことが起きても、神と信じる者との二人三脚ですべてに間に合うということなのである。

だから、何かが起きる度に、ああ、どうしよう、取り返しのつかないことが起きた、どうやって対応しようか、と思って慌てふためき、自分でその責任を負おうとしてもがき、悩み続けるのか、それとも、悪魔がしでかしたいたずらの責任は、悪魔自身に負ってもらうかどうかは、その人の決断次第である。

こんなことを書けば、笑われるかも知れないが、筆者はあらゆる霊的な負債を悪魔自身に負わせ、自分では負わないことを学んだ。地に属する事柄についての責任は、最終的に地にある。機械が壊れたという事実を拒否することも、その一つである。

アダムの堕落という人類の地滑り以来、人類史はずっと絶え間ない「放浪」と「紆余曲折」の連続だ。どこにも進歩などない。それなのに、自分の人生だけには進歩があると思っている人があるならば、その人は偽善者である。笑止千万である。そんなのは思い込みであって、事実ではない。

人間の義は、みな不潔なボロ切れのようなものだと、聖書に書いてある。クリスチャンの進歩は、天的な歩みによってしか保障されない。

さて、老夫婦に話を戻せば、長い長いこと筆者はキリスト教界に属する信者たちを見ていなかったので、彼らがどういう種族であるかを忘れていたが、そう言えば、キリスト教界というところは、こんな人たちばかりだったな、とやっと思い出したのである。

「学習性無気力」という言葉がある。

長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物が、その環境に慣らされたあまり、その状況から逃れようとする努力すらももはや行わなくなるという現象である。

これは家庭内暴力などを受け続けた人によく当てはまる。たとえば、毎日、毎日、夫から暴力を振るわれ、「お前は何もできないクズだ!」などと罵倒されている妻がいたとすれば、その妻は、夫の暴力と暴言が一定の限度を超えると、無気力状態に陥り、ついには本当に自分は何もできないクズなのだと考えるようになり、その夫から逃げる気力さえ失ってしまう。

それでも妻が渾身の気力を振り絞って、その夫のもとから脱走しようとすれば、夫は全力で妻に打撃を加え、立ち上がれないようにし、再び、家の中に監禁してしまう。そういうことを何度も、何度も繰り返せば、妻はついに最後は逃げ出すことをあきらめるしかなくなる。最終的には、死へ向かって行くのであろう。

筆者は、キリスト教界というところは、早い話が、信者に学習性無気力を植えつけることで、教会組織から逃げられないように囲い込んで行く恐ろしいDV組織であると考えている。

神の健やかな教会ではない。DVが蔓延する機能不全の家庭である。

以上の老夫婦の会話を聞いて、筆者はそのことを改めて思い出したのだった。

彼らの短い会話から理解できたことは(それほど長い間、聞いていなかった)、彼らの子供は、多分、自立したい、親元を離れたい、結婚したい、と思っているということであった。年齢がいくつなのかは分からないが、子供ならば、当然に願う事柄だろう。

ところが、老夫婦は、そういう子供の願いを聞いているにも関わらず、子供の願いを質に取って嘲笑うかのように、「おまえにはまだ無理だよ。そんなことができるくらいなら、まず自分の部屋をちゃんと片づけられるはずだ。目の前のこともできない人間が、どうして将来、もっと大きなことができるんだ」と、議論をすり替えることで、子供の未来への願いまで否定し、奪い去ってしまうのだ。彼らは真顔でそういう態度が正しいと思い込み、上から目線で子供を説教し、断罪しているのである。

子供は、そういう親のメッセージを聞いて、「おまえには無理だよ」と否定された言葉だけを記憶する。自分の願いが親には受け入れられておらず、後押しされてもいないという悲しみと、親から逃れたくても逃れられない焦燥感と、部屋の片づけが十分でないということで、またもや責められたという罪悪感だけが残る。

こうして、子供は、自立して家を出ようとする度に、「今のおまえにはそんなのは無理だ。そんなことを考えるくらいならまず・・・・」というお説教(ディスカウント)を延々と聞かされ続けなければならない。

子供がこういう機能不全家庭から脱出するためには、親が植えつけて来る罪悪感、無力感と戦ってきっぱり訣別しなければならない。

たとえば、「部屋の片づけができていないから自立なんてできるはずがない」というロジックには、

「私はもっといい家に住んで、気に入った部屋を確保してから、片づける。こんな貧乏な家では、片づけする気にもならないのは当たり前。部屋の片づけをちゃんとやるためにも、私はこの家を出るんだ」とでも何とでも、適当な理屈をつけて、撃退すれば良いだけなのだ。

以下の記事で触れたホームレス伝道もそうなのであるが、キリスト教界は、何かのトラブルを抱えて困っている人々が、そのトラブルをきっかけに、助けを求めて教会にやって来たことを機に、その人の精神的な弱点を握り、これを質に取って、あたかも困っている人を助けてやっているように見せかけながら、その教会から半永久的に「自立」できないようにさせてしまう恐ろしい組織である。

人々に罪悪感、無力感を植えつけることで、その教会の支えがなければ、決して自分だけでは生きていけないかのように思い込ませるのである。

そのために利用されるのが、「信仰の証」と称する懺悔の儀式である。

「証(あかし)」と称して、信者は、過去に犯した罪を、何度も、何度も、繰り返し、人前で「自白」させられ、そうして自分で自分を卑しめ、蔑み、負のイメージを抱え、挫折感や、劣等感をずっと持ち続けることを強要される。罪赦されるために教会に来たはずなのに、これではちっとも過去と訣別できない。

そうして自分を蔑み、貶めることと引き換えに、人々は教会を持ち上げることを要求される。あんなにも恐ろしい罪人だった自分が、今こうしてあるのは牧師のおかげだ、指導者のおかげだ、信徒のおかげだ、教会のおかげだ、と感謝を強要される。

そういうことをずっと繰り返していると、その信者は、本当に、自分は一人では何もできない、どうしようもなく無力で愚かな罪人なのだと思い込むようになる。そして、誰から要求されなくとも、牧師や信徒のもとを離れると、悪魔の虜にされるだけだと考え、自分からその場所にとどまるようになる。

学習性無気力である。もう教会から離脱する気力はその信者にはない。

要するに、部屋の片づけが出来ないことを親に責められ続け、自立の気力を奪われている子供と同じである。

筆者は、あらゆる組織は人間のためにあるのであって、人間が組織のためにあるのではないと信じている。教会や職場なども、これと同じである。合わなくなったら、出れば良いだけの話だ。

自分が成長して、今まで着ていた服のサイズが合わなくなったら、さっさとそれを脱ぎすてて新しい服を着れば良いだけである。愛着のある古い服をごみ箱に捨てることは、確かにちょっとためらわれるかも知れないが、だからと言って、サイズが合わない服をいつまでも着続けて、何の良いことがあろう。

ところが、人間社会では、多くの人々がこれとは反対の考え方をしており、人間のために組織があるのではなく、組織のために人間があると思い込んでいる。そこで、人々は、自分が成長して、服がきつくなっても、とりかえようともせず、血まみれになりながら、その服を着て出勤しているような有様である。

筆者から見れば、こんなのはあまりに馬鹿げたことである。

自分が成長したという事実は、本当はとてもめでたい話のはずなのに、人々は成長したという事実をひた隠しにしながら、何事もなかったかのように古いユニフォームを着続ける。

古い革袋を持ち続けたまま、教会に出席したり、職場に出勤したりしているのだ。

もしその人がすでに成長して古い服がもう合わなくなっていることが周囲にバレたら、早速、人々からお説教が始まる。

「あんた、もしかして転職を考えてるんじゃないでしょうね」
「きみ、まさかここを出て別の教会に行くつもりじゃないだろうね」
「どれだけそんな風にいい加減な放浪を続けたら気がすむんだ」

「あんたが自分の考えを持つなんて百年早いんだよ」
「ここでうまくやれない人が、次でうまくやれるはずがない」
 「不平不満を並べる前に、まず自分の欠点をちゃんと直したら」
「自己過信して、独りよがりな生き方をするようになったら、正しい信仰から逸れて行くだけだよ。私たちには霊的な指導者が必要なんだ」

等々。早速、ディスカウントによる引き留め&囲い込み作戦が始まる。

それはまこしやかに助言や忠告の形を取って発せられる言葉の数々だが、要は、親切を装いながら、霊的に中間搾取できる奴隷を逃がしたくないがために言われていることだ。

こうして、キリスト教界も、ブラック企業も同様に、一旦、人を中に取り込んだら、弱みにつけこんで、容易には二度と外へ逃がさない閉鎖的な場所になっているのである。

逃げ出すことが不可能になるように、常日頃から人の自尊心を打ち砕き、罪悪感や劣等感、無力感を植えつけるための数々の儀式や説教を行うのである。自分一人でものを考える暇を与えず、常に偉い人たちの忠告に従い、自分の心の本当の願いを否定するよう教えられる。

少しでも自立しようとのそぶりを見せると、周りにいるエージェントたちがワッと押し寄せ、たくさんのお説教で圧力を加え、逃がさないように袋叩きにして閉じ込める。

DVが蔓延する機能不全の家のようなものである。

カルト被害者救済活動など、その最たるものである。

この活動を主導しているリーダーたちは、この活動の虚偽性を見抜いて、そこから逃げようとしている筆者を、まるでDV夫のように執拗に追いかけては、バッシングを加え、「おまえごときにこの俺様から逃げる力なんてあるはずがない! このクズめが!」と叫んでいる。

そこで、まるで三流ドラマのようだが、カルト被害者救済活動を「DV夫」にたとえ、「妻」の立場からもの申すとすれば、こんな風な会話になるのではないだろうか。

「ちょっと、あんたねえ、私をクズ呼ばわりする前に、あんたは私に今まで何をしてくれたのか言いなさいよ。見なさい、あんたが用意した、このひどいボロ家! 私以外の人たちはみんなとうにこんな家、見捨てて出てったわよ。

それをさ、あんたは私が不満だって言ってるのに、私を脅しつけてこの家に監禁したんだよね。あんたは未だに自分が家長だから、俺様に従えって威張り散らして私に命令して、私に従順が足りない、頭が高い、仕事が足りないとかってケチつけてるけど、こんな貧相なあばら屋しか私のために用意できなかった甲斐性のないあんたに、誰が本気で着いて行って奉仕なんかすると思ってるの? 鏡を見てからものを言いなさいよね。今さら、そんなあんたが、私に何を要求しようっていうの?

あんたがもし自分の口で言ってるほど偉い人間なら、一時でも、あんたのもとに身を寄せた私は、今はもう女王様みたいなご身分になってておかしくないはずだよね? 食事も自分で作らず、家の掃除もせず、お手伝いさんが何人もいて、かしづいてくれて、あんたにこんなに偉そうに上から目線で命令なんかされてないはずだよね? 

あんた、自分に甲斐性がなくて、自分の周りの人間を誰も幸せにしてあげられなかったからって、なんで自分を責めずに、全部を私のせいにするわけ?

私にガミガミ要求する前に、まずあんたが私にどんな良いことを今までしてしてくれたのか、それを列挙してみなさいよね? 私を幸福にするために、あんたがどんな具体的な手助けをしてくれたのか、言いなさいよね。私、何一つとしてあんたが私のためにしてくれたことについて、記憶がないんだけど。何か一つでも自信を持って言えることがあんたにあるの?

私の稼ぎが少ないから、私はクズだって、あんたはあざ笑ってるけど、それじゃあ、あんたは一体、いくら稼いでいるのか、白状しなさいよね。私に友達が少ないとか、社会から認められていないとか言って、人を蔑んだり、あざ笑ったりする前に、あんたには今一体、何人の友達がいて、どれだけ社会に奉仕して、どのくらい認められてるのか、そもそも給料はいくらなのか、それをまず言いなさいよ!

そしたら、多分、あんたよりもっと偉い人たちがぞろぞろ出て来て、あんたが威張ってるのには根拠なんてないってすぐに分かると思うよ。

どうせあんたが見栄で設立した会社だって、今は幽霊会社になってるんでしょ。自分の事業も成功させられなくて、毎日、毎日、宮仕えに出ないと生きていけない、しがないサラリーマンのくせに、それがまっとうな職業だってほんとに思ってるわけ? そんなのただの囚人じゃない・・・。

私はね、このどうしようもないボロ屋と暴力と暴言と貧しい食事しか用意できないくせに、毎日、毎日、自己反省もなく、弱い私を一方的に責め続けるだけの卑怯なあんたとさっさと別れて、天の特権階級として生きることに決めたのよ。

天の特権階級になれば、職歴なんて要らないの。「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」て書いてあるでしょ。宮仕えとかも必要ないの。だって、私たちが宮であって、神が共に住んで下さって、どこにも仕える必要なんかないんだから。その宮は、大きな都で、そこでは太陽が沈むことなく、ずっと明るく照らされてるの。

そこには、貧しさも、悲しみも、悲鳴も、涙も、叫びもないの。何てらくちんかつ幸せな生き方! そういう生き方を私にさせてあげるって言う人が、今、私を迎えに来て、扉の外に立って、戸を叩いてるの。だから、私、あんたと暮らすのはもうやめることにしたわ。ここであんたに虐げられ、暴力振るわれてるより、そっちのがどう見ても、絶対、幸せじゃん。

多分さ、今、ここで私があんたの部屋の押入れを開ければ、あんたが今まで殺して来た妻たちの白骨死体が見つかると思うんだよね。あんたってさ、私には隠してたけど、多分、初婚じゃないよね。その上、愛人とかもいっぱいいるよね。今までもずっと私に隠しながら、私にしているようなことを、他の弱い女たちにもして来たはずだよね。

言いなさいよ、私の前に何人妻を殺したの? 何人の可哀想な人たちを、弱みにつけこんでこの家に引き入れては精神的にいたぶって殺したの?

押入れを開ければ、真実が見えるよね。でもさ、私は、そういうグロテスクなものは見たくないんだ。だから、あんたはどこからどう見ても怪しすぎるってことで、さっさと110番しといたわ。あんたは私の頭がイカれてるって言ってごまかそうとするんだろうけど、あんたが私につけたこの生傷を見せてあげれば、どこの誰だって、どんなにあんたが自己弁明しても、私の言っていることが嘘じゃないって、分かるはずだと思うよ。

「宮詣でする前に兄弟から反感を持たれていることが分かったなら、捧げものを置いて、早く和解しなさい」って書いてあるのに、あんた、自分が殺した妻たちの悲鳴に耳を塞いで、彼女たちと和解もしないで宮詣でを優先するっていうんだから、心底、呪われた生き方だよね。あんたって、ほんとに、うわべだけの見かけ倒しの中身のない男だよね。でも、そんなにまでして懸命に宮詣でしても、それって全部、カインの捧げものになって罪に定められるだけだよ。

「罪人の富は義人のために蓄えられる」って書いてあるの、忘れたの?

ところで、あんたの祈りってさ、ほんとうわべだけで、「主よ、私はこの取税人のようでないことを感謝します」って、あのパリサイ人と一緒じゃん。

私と一緒に教会に行ってもさ、あんたって、どうせ心の中では、「主よ、私はこんなクズ女とは別人であることを感謝します」とかって祈ってるんでしょ。

そんな男、行く先はもう見えてるよね。憐れむ価値もない。せいぜい外の暗闇に閉じ込められて歯ぎしりしながら、自分のして来たことを振り返るがいいわ。

そういや、あんたの両親って、私、今まで一度も会ったことなかったけど、父は悪魔で、母は大淫婦バビロンなんでしょ。大した家系でないどころか、誰よりもひどい生まれのくせに、よくも今まで偉そうに上からものが言えたわけだよね…。

あんたなんて、私とはあまりにも不釣り合いで、あんたなんかに、私がもったいない。よくもこれまで一瞬たりともあんたに我慢できたものだわ。よくよく私も幼かったのね。でも、もう分かったのよ、あんたの言うことなんて、隅から隅まで嘘だって。脅しても無駄。あんたのマインドコントロールはもう二度と、効かないよ!」

これ以上、何も言う必要はないと思う。

「カルト被害者救済活動」が「元被害者」をいついつまでも学習性無気力状態に追いやるために絶えず投げかける呪いと罪定めとディスカウント、これが要するにキリスト教界の言い分の総括であり、集大成なのだと筆者は思う。

こんな「家」にいつまでもとどまっている筋合いは誰にもない。

これは「家」ではない。牢獄だ。

出ることを考える前に、さっさと部屋の片づけをしろ?

独房の片づけは、囚人の仕事ではない。普段から人を囚人として監禁した上に、監禁した独房の清掃まで要求するとは、どこまで厚かましいのだろうか。しかも、筆者は囚人ではなく、自由の身だ。もとよりこんなところに監禁されている理由はないため、さっさとお暇します。

でも、本当の「家」が用意された暁には、部屋の片づけなんてことも、考えてあげてもいいかも知れない。ただし、覚えておいた方がいい、独房の清掃は、「部屋の片づけ」とは呼ばないんだ。こんな業界からは、本当にエクソダスあるのみだ。