「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)
当ブログはこれにて終了し、新しいアドレスに引っ越します。
全然、変わり映えがしないのはなぜ!? 引っ越す必要があるの!? とお叱りを受けそうですが、どうぞご容赦くださいませ(笑)。

「東洋からの風の便りⅡ」

これまで皆様の積極的なご参加をいただき、ブログを発展させることができたことに心より感謝します。今後ともどうぞよろしくお願いします。


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 ニッポンキリスト教界の病理を考察する記事の目次

 今日、ニッポンキリスト教界には、非聖書的で、誤った教えや活動が、多数、入り込んで来ており、キリスト教界全体が福音を見失って、カルト化へと向かっ ています。そのことについて、このブログでは、読者と共に、聖書と照らし合わせながら、詳しく、批判的に論じて来ました。
 
 ニッポンキリスト教界は今、近寄るべきでない、大変に危険な場所になっています。そこでは多くの信徒が傷つけられ、人生を狂わされ、破滅させられていま す。以下の7項目にまとめた記事やコメント内容を参考に、教界の活動がいかなる危険性を持つか、一人でも多くの方に気づいていただければと思います。

 なお、このブログは終了していますが、「東洋からの風の便りⅡ」にて議論を続行しています。雑感の記事の目次は別途まとめる予定です。

1)ニッポンキリスト教界という名の非キリスト教

1.大衆が作り出す幻としての偶像崇拝宗教
…ニッポンキリスト教界は、十字架を失い、今や「擬似キリスト教的セルフ教」となっている。そこでは、神から遠ざかり、孤独や無力の不安を抱えたクリス チャン大衆が、自己保存を求めて、自分で自分を救うシステムを終わりなく作り出している。キリスト教界から打ち出される弟子訓練等の、各種の人類救済プロ グラムは、人が自分で自分を救うための、決して成功することない計画である。

2.偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望
…ビュン事件を含め、なぜ牧師の性的不品行が起こるのか。その理由としてお読み下さい。


2)原罪についての考察

1.聖書に見る生活苦と男女不平等の起源
…聖書によれば、この世は人間の堕落のために呪われた場所となったのであり、生きる限り、人間の苦労は終わらない。そこで、バベルの塔の昔から、この世に 大規模な人類の幸福社会を打ちたてようとする全ての計画は、決して実現しない。にも関わらず、リバイバル運動を含め、今日、地上に神の国を打ち立てるべく 推進される擬似キリスト教的プログラムには、どんな将来が待っているのだろうか。

2.『クロイツェル・ソナタ』に見る音楽によるマインド・コントロールの危険
…カルト化した教会では、信徒に対するマインド・コントロールが行われている。だが、マインド・コントロールはどのようにして行われるのだろうか。最も無害で美しく見えるもの、音楽や、芸術なども、その強力な手段になり得る。


3)アメリカのプロテスタントのキリスト教界の危険性について

1.システムによって神の国を作ろうとすることの危険
…イエスは、神の御国は見える形で来るものではない、と言われたにも関わらず、今日、キリスト教界には、人工的な方法論を駆使することによって、目に見え る形で、大規模な神の国を地上に建設するために、様々なプログラムが終わりなく生み出されている。(リバイバル運動、弟子訓練、セル・チャーチ等。)それ らは全て恐るべき将来を運命づけられている。

2.米国キリスト教界における異常事態
…イラク戦争以来、国家政策に同調するようになったアメリカのプロテスタントの教界が、現在、大寒難時代の到来を宣言し、イスラエルを神の国と同一視し、キリストの再臨を人為的に引き起こそうとするかのような危険な政策に走っていることを指摘。


4)偽預言者たちを警戒せよ!

1.個人預言という名の占いについて
…今日、「個人預言」を聞いたがために、人生を狂わさせれたクリスチャンが多数存在する。「個人預言」とは一体、何なのか、それには聖書的根拠があるのか。神から来たのでない預言とはどのようなものかを考察。

2.肉を喜ばせる預言の特徴
…神から来たのでない預言は、聞いた者の肉を喜ばせ、彼の心を謙遜でなく、高ぶりへと導く。偽りの預言を見抜くために必要なことは何か。

3.預言を売り物にするミニストリーの誤り
…代価を取って預言を売り物にする「個人預言」のミニストリーは聖書に基づかない占いである。

4.偽預言者に対する厳しい裁き
…真の預言者は、預言の成就について自ら責任を負う。平和についての預言が、成就しなければ、預言した者が偽り者であることの証明となる。無責任な偽預言を繰り返し、信徒の人生を狂わせている者たちには、どんな未来が約束されているのだろうか。

付録
「キリスト教会に広がる疫病としての『霊の戦い』」
…筆者が所属していた教会で起こった偽りの「預言」について。


5)カルト被害者救済活動を警戒せよ!

1.カルトはアンチカルトと同一である
…キリスト教界のカルト化が深まるにつれて、裁判等によって、カルトを防止しようとする被害者救済活動があたかも「正義の味方」であるかのように注目を浴びる。だが、この救済活動には、果たして正義があるのだろうか。

2.偽預言者をゲストに招く教会
…アッセンブリー京都教会は、カルト被害者救済活動の拠点として全国に有名である。だが、最近、この教会でまるで被害者の訴えを無視するかのような矛盾した活動が行われたのはなぜなのだろうか。

3.カルト監視機構という名の秘密警察の設立について
…カルト被害者救済活動の拠点であったアッセンブリー京都教会は、カルト監視機構なるものの設立を予定して活動していた。しかし、このカルト監視機構と は、要するに、カルト防止に名を借りただけの、キリスト教界全体に対する抑圧機関であることを本記事にて指摘、批判しした。
(カルト監視機構の設立は現在、中止されている。しかし、同種のプロジェクトが再び起こらないかどうか、警戒が必要である。)

4.キリスト教界のカルト化を防ぐために真に必要なことは何か
…教会のカルト化を防ぐことができるのは裁判ではない。イエスの十字架、そして罪の悔い改めに立ち戻ることこそ、教会をカルト化から救う道である。裁判や、この世の諸力を通じて、カルト化を防止する運動は、聖書に基づいていないため、未来がない。


6)教会成長論という名の異端について

1.教会成長論というむさぼりの教え
…教会成長論の影響を受けた東京キリストの教会はなぜ崩壊したのか。教会成長論とは、教会をカルト化させ、信徒から救いを奪い、教会を崩壊させる誤った教えであることをシリーズで指摘する。

2.偽牧師、偽教師、偽預言者への対処法
…偽預言者や偽教師を警戒せよ、彼らから離れなさい、と聖書は教えている。これらの人々に出会った時、私たちはどう対処すれば良いのか。

3.教会成長論が生む牧師への個人崇拝
…手束正昭著、『教会成長の勘所』を見本として分析しながら、教会成長論の教えの本質とは、イエス・キリストを否定し、牧師がキリストに成り代わり、信徒に自分を神のようにあがめることを求める教えるものであることを明らかにする。

4.教会成長論という強盗の教え(1)
…イエス・キリストを否定する牧師とは、羊の門を通らないでやって来る強盗であり、教会を盗む者である。そのような者は、教会を私物化する教えを公然と説く。その集大成が、教会成長論である。

5.教会成長論という強盗の教え(2)
…強盗である偽牧師が教会を支配するようになると、信徒は偽牧師を栄光の中に押し上げるための下僕とされてしまう。信徒を公然と牧師のための雑用係、使用人に貶めることを認めているのが、教会成長論である。

6.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(1)
…牧師や牧師夫人を、信徒が「霊の父」、「霊の母」として敬うことは聖書的なのだろうか。キリスト教は父性原理ばかりが過剰であるため、人間性に欠けてお り、母性原理を補わなければ、この先やっていけないという指摘があるが、そのような説に対して、クリスチャンは耳を貸す必要があるのだろうか。

7.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(2)
…手束正昭氏は『教会成長の勘所』において、キリスト教に母性原理を補う必要から、聖霊を「母なるもの」ととらえる説を打ち出した。しかし、これは従来の三位一体の正統な解釈を破壊する異端である。

8.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(3)
…手束正昭氏が早くから唱えていた「養子論的キリスト論」の本質とは、イエス・キリストは聖霊によらなければ神の子ではなかった(イエスは聖霊によって神の養子に引き上げられた)とする異端である。この説は異端ネストリウス派を現代に復興しようとする試みである。

9.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(4)
…クリスチャンはイエスを信じて神の子とされているのであって、神の「養子」なのではない。そのことを聖書に基づいて再確認しよう。また、手束氏が唱えている「聖霊による人間の新創造」とは、十字架によらずに、人間の変容を唱えるものであり、非聖書的教えである。

10.クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)
…教会成長論の分析のまとめ。教会成長論とは、要するに、十字架を通さず、人が牧師を崇拝するよう求める教えであり、これを信じることはイエス・キリスト の否定につながり、必ず、信徒に救いを失わせる。クリスチャンは神の養子や、私生児などではなく、正統な神の子とされている貴いアイデンティティを忘れて はいけない。


7)沖縄キリスト教の抱える病的問題

1.沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ

2.沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ(続)

…沖縄の教会は、日本の諸教会のうちで、とりわけ、偽牧師の活動の盛んな地域である。ニッポンキリスト教界の病が最も大規模に集中している場所であると言 える。だが、そこでは、カルト化した教会によって、信徒が食い物にされているのみならず、カルトを防止するという名目で、被害者救済活動を繰り広げる人々 によっても、信徒が二重に食い物にされ、信徒の争奪戦が起こっている。沖縄は今まさに、二つの敵対する勢力が激しく衝突する戦場のようになっている。

今夜は近くの天然温泉に母と共に行って来た。
おかげで休養を取れ、眼精疲労もかなりましになったように思う。昔から私は斜視ゆえに視力が悪かったのだが、最近は、本を広げても、15分とページを見つめていられないほどに疲れが出て来るようになった。

最近、主の憐れみと恵みにより、我が家には随分と平和が訪れて来たように思う。新たにキリスト者となった者がいるわけでなく、偽教会で起こった事件を語ることもできないし、信仰の話を分かちあえる人がいるわけでもないのだが、少なくとも、以前にあったような残酷な裁き合いはしばらくの間、起こっていない。

これは主の御恵みであり、皆様のお祈りのおかげだと感謝しています。

先日、店でかかっている音楽を聴いて、おやと思った(我が家は自営業を営んでいる)。
「これって、KFCで使っていた賛美と同じ曲じゃない…?」
母が言った、「知らなかったの、ヒルソング、一時期、流行したでしょう?」
そうか…。随分前から、私は店でかかっているヒルソングを知らずに聴いていたのだ。

我が家には、キリスト教界を席巻したあらゆる書物や音楽CDが大量に保存されている。書棚をのぞけば、聖霊派の信徒が教科書のように読んだ本がいくらでも見つかるし、リバイバルソングのCDもきっちり棚にそろっている。だが、約10年間、教会に幻滅してキリスト教界から遠ざかっていた私には、その間の流行に関する知識が全く抜けている。どうやら、私よりも母の方がはるかに教界の動向に精通しているようだ。

私は生まれてこの方、携帯電話を一度も持ったことがなく、外出しても腕時計をはめず、TVも見ない、新聞も読まない、流行の音楽も聴かない、そんな人間であると白状したら、驚かれるかも知れない。好まないものを排除した結果、そうなったのだが、これでは、現代の化石と呼ばれても仕方ないだろう。

その上、偽教会の事件が起こって後、約1年間、ショックのため、世間一般の動向から完全に遠ざかった。そんないきさつがあって、ちょうどカルト化教会で長年、共同生活を送った元カルト信者のように、私には、世間の誰もが知っている一般常識が欠けている部分が、大いにあるかも知れない。その無知があまりにもはっきりと記事に表れていなければ良いと願うのだが…。

さて、話を戻せば、我が家にとりあえずの平和が訪れて、約1ヶ月ほどが過ぎた。
平和になって、心が落ち着いたかと言うと、そうではない。ますます、主に連なる兄弟姉妹を近くに得られないことから来る孤独感が高まった。聞けば、ある兄弟もやはり家庭でキリスト者として孤立し、信仰の友を近くに得られずに苦しんでいるようだし、以前、親しかったある姉妹はと言うと、生活のために過重労働を強いられて、とても交わりを持つどころではないらしい。

たとえ喧嘩や、騒ぎが一切、周りで起こらなくなったとしても、心の深いところで何よりも求めているものが見いだせないことから来る孤独感は埋まらない。
自分が心から同意して生きている価値観に、全くそぐわない環境で暮らすことから来る苦痛は減らない。
だから、日々、祈らずにいられない。
主よ、あなたの名において歩む全ての兄弟姉妹に、あなたの名において集まる機会をどうぞお与え下さい。世の光としてのクリスチャンを孤立したままに置かれないで下さい。あなたを共に賛美し、あなたに栄光を帰し、共に愛を示し仕えることのできる兄弟姉妹と会う機会をどうか与えて下さい、と。

さて、このブログは読者の皆様の参加のおかげで随分、有益な議論の場にすることができた。しかし、今、私の中で、一つの時代が終わったように感じられるため、この記事を最後に、もう一度、場所を改めることにしたい。

前ブログでも随分、無駄な記事を沢山書いたと思う。このブログにもやはり無駄な内容が多かっただろう。クリスチャンとしてふさわしくない内容も、あったかも知れない。しかし、そうした私の心の紆余曲折、話の脱線、無知を含めて、今、すべてを改めて主にお返ししたい。

どうぞこのブログを読んで下さった方が、私の弱さ、私の愚かさ、私の怒り、私の無知、私の利己主義、そういうものを大いに感じ取って下さるように。そして同時に、それが主にあって、打ち砕かれ、変えられていく過程をも、感じ取っていただければ、それ以上に幸いなことはない。

私は完全な人間として、真理を完全に把握している人間として記事を書いているつもりは少しもない。学術論文ならば、誤りは決してあってはならないが、キリスト者の歩みは、それとは違う。不完全な者が、キリストを求め、真理を求め、時に、苦しみ、迷い、道を誤りながらも、倒されてもまた起き上がって、歩んでいく過程が、信仰の歩みだ。

このブログ執筆中に起こった変化の中でも、最大の変化(恵み)が一つある。それは私が、ニッポンキリスト教界から受けたひどい仕打ちに対する怒りから解放されたことだった。

あの事件のために、何ヶ月間、私は泣き暮らしたことだろう。どれほどの貴重なものを失い、どれほど苦しまなければならなかったか。それは生涯、決して忘れることができない事件であったし、忘れるまいと心に誓った。
キリスト教界では、私の遭遇した事件に勝るとも劣らない悲惨な事件が各地で起こり、カルト被害者と呼ばれる人々が次々生まれているが、このような忌まわしい状況は、決して放置してはならないものであると私は思った。

だが、ブログを書いている途中で、私には変化が起こった。それまで私をキリスト教界の告発へと突き動かしていた動機―義憤―が消えてなくなったのだ。偽教会で受けた仕打ちから来る悲しみ、苦しみ、喪失感、そういうものがある時点を境に、消えてなくなったのだ。それは、ひとえに主の憐れみによって、私の悲しみが癒されたのだが、それだけに終わらなかった。

私が自分の中で最も正しいと思っていたもの、不正や悪事に対する一人の人間としての全うな憤りすら、キリストの御前に焼き尽くされたのだった。

さらに、義憤が焼き尽くされるという経験は、家庭における迫害を通して、最も苦しい形で実現されねばならなかった。以前のどの時よりもひどい形で、私は暴言、いわれなき非難を受けた。だが、そこで私は抵抗することを完全にやめた。誰からどのような理不尽な非難を受けたとしても、呪いの言葉を吐きかけられたとしても、それに対して、憤りをもって応酬することをやめ、身の潔白を主張するのをやめることを学ばせられた。

それは生きた人間としての私にとっては、死に等しい選択だった。非難されて黙っていることは、ちょうど虫が攻撃されないために死んだふりをするのに似ているが、その難はいつ終わるとも知れないものだった。死んだふりが、一瞬ではなく、何ヶ月も、一年以上に渡って続き、死んだふりが、ふりではなくなって、本当の死につながる可能性もないわけではなかった。

私のプライドはその間、ズタズタにされた。ちょうど「神を呪って死になさい!」と妻に言われたヨブと同じような心境だったのではないかと思う。喜びも、悲しみも、今まで歩んできた人生行路の全てが全否定された。そんな状況で、学位などに何の価値があろう。私は身近な人々から目を背けられるゴミ捨て場のような存在となった。残酷ないわれなき非難の言葉と、完全な軽蔑の前に、何も言わずに、ただ立ちつくすことを学ばされねばならなかった。

それは嵐のような苦しみだったが、その時を経て、今、私は改めて聖書の御言葉を握り締め、子供はやはり両親を敬うべきだと言いたいし、私たちは兄弟を呪ってはならない、敵となった人をも愛すべきだ、自分を傷つけた人を赦すべきだと言いたい。

家庭の歪みがどんなに人の人生を狂わせるか、その苦しみの深さを私は身を持って知っている。アダルトチルドレン等の学説が馬鹿にならない信憑性を持っていることも身を持って知っているし、カルト被害者がどんなにつらい人生を歩まされているかも知っている。偽牧師たちがどんなに卑劣な行動を取っているかも知っている。だから、被害者感情に溺れていると言って、受けた被害から立ち上がれないでいる人々を非難するつもりは毛頭ない。

だが、想像を絶するような苦しみを体験した者として、改めて言いたいのだ、私たちは決して、自分を迫害する者を憎んではいけないと、両親を憎んではいけない、兄弟を憎んではいけない、信仰の友だった者を憎んではいけないと、自分自身で裁きを行おうとしてはいけないし、敵と思われる全ての人を、主にあって赦すべきなのだと…。

このブログを終了するに当たり、私ははっきりと宣言しておきたい、私を傷つけた人々を私は主の御名において赦すと。この言葉の裏に、私の絶叫のような、心引き裂かれる痛みがあることを忘れないで欲しい。しかし、私は自分の感情にではなく、主の御言葉に従って生きるために、このことを宣言する。だから、私に対して罪を犯した人は、主にあって赦されることを先ず何よりも考えて欲しい、たとえ私に対して何もできなかったしても、負い目を感じる必要はない。

あざけりは愚かさの表れである、と私は思っている。私たちは迷いの最中にある人、誤った道を歩いている人、真理を知らない人をあざけらないように気をつけねばならない。ニッポンキリスト教界に属している人々をあざけったり、カルト被害者をあざけったり、偽牧師、偽教師に対して裁判を起こした人々をあざけったりすることは間違いである。

クリスチャンは、ただすべての人が十字架を信じ、命と喜びに引き入れられて欲しいと願うべきであり、真理を知らず、自分よりも無知な人生を送っているように見える人を馬鹿にしたりすべきではない。私も昔は随分、人に対する軽蔑の感情を持っていたが、今はあらゆる軽蔑、嘲笑は主から来たものではないと確信している。高ぶりは滅びに先立つことを人は知るべきである。

さて、場所を改めて、キリスト教界の動向についての分析をこの先も続けたいと思っているが、それは今までのように、義憤からでなく、あざけりからでもなく、ねたみや、競争心、復讐心からでもなく、ただまことの光であられるイエス・キリストに照らし合わせて、真理でないものの正体をはっきりさせたいという気持ちから行いたい。

数日程度、休みを取ります。その後、新しいアドレスをここに書きます。
では、皆さん、お元気で!

 大学時代、ゼミである小説を読んでいた時、次の言葉が出て来たのを思い出す。
"Время поднимать камень и время бросать его"。(石を拾う時、石を投げる時)
 読んだ時はただ意味不明な言葉として通り過ぎただけだった。

 これについて、お師匠様(ゼミの教授)が後でこっそり教えてくれた。
 「石を拾う時って、伝道の書にあるでしょ?
 人にはね、石を投げる時と、拾う時とがあるんだよ」

 その当時、私は教会に幻滅して信仰を離れていた。だから、聖書はただの積読本となって家で埃をかぶっており、それが伝道の書からの引用であることさえ私は知らなかった。だが、師匠のこの言葉が胸に痛かったのを覚えている。

 石を投げる時。
 それは私たちが人を責める時のことだ。

 クリスチャンならば誰でも知っている、聖書のあの有名な場面。
 姦通の現場で捕らえられた女が、公衆の面前に引きずり出されて来て、律法に基づいて、ユダヤ人たちに石打にされそうになる場面。

 どうして女性だけが捕らえられたのだろうか。男は一体、どこへ逃げたのか。
 恐らく、女は密会の現場で、計画的に捕らえられたのであろう。着る物もとりあえず惨めな姿で引き出されて来たのかも知れない。聖書の記述によれば、女が捕らえられたこと自体が、「イエスをためして、訴える口実を得るためであった」(ヨハネ8:6)、つまり、イエスを陥れるための罠だった。だから、すべてが計画ずくだったものと想像できる。

 多分、女が逢引きの現場に向かうところを、律法学者、パリサイ人の手先が跡をつけ、物陰から密かに様子を伺って、現行犯逮捕するようにして、捕まえてきたのではないだろうか。

 密会だとか、姦通だとか聞けば、私たちはセンセーショナルなイメージを抱きがちだが、案外、そこには同情に値する、ロミオとジュリエットのような悲劇があったのかも知れない。幼い頃から、結婚を誓い合っていた若い男女が、家の事情やら、何かのいきさつのために、泣く泣く別れさせられ、男が徴兵されているうちに、女性だけが好きでもない老人のような別の男に嫁がされたのだとか。
 もしも映画化すれば、引きずり出された女性の側に誰もがほろりと同情してしまうような、そんな筋書きをつい想像してしまうことがある。

 どんな事情があったのかは不明だが、とにかく姦通罪は当時、律法に照らし合わせれば死罪、石打の刑に相当した。一説によれば、石打の刑とは、定められたやり方を実行に移すと、死ぬまでに20~30分はかかる、最も残酷な刑だったという。

 群集は、女が引きずり出されてきたこと自体が、イエスを陥れるための策謀であったとは知らなかった。恐らく、日頃からのうっぷん晴らしができる材料が出来たことに大喜びで、女を取り囲み、好奇心をもってじろじろ眺め、できるなら石を打ちつけようと、じりじり待ち構えていたのかも知れない。

 イエスの言葉がもしもなければ、殺気立った群集は、罪を犯した者を大喜びで死ぬまで打ち続けたかも知れない。
 だが、狡知とも言えるような見事な主の言葉が、群集を正気にかえらせ、なおかつ、律法学者、パリサイ人の卑劣な罠を打ち破った。

 律法学者、パリサイ人たちは、イエスが律法を守る側、すなわち女を殺す側に回っていれば、彼が自分達に屈服して仲間となった(すなわち律法の守り手となった)と認めたであろう。だがもし、イエスが律法を無視するように群集に命じたならば、その言質をとって、イエスを律法の違反者として捕らえる手はずであった。
 どちらに転んでも、律法学者、パリサイ人の筋書き通りになるはずであった。彼らは、一人の女の命を材料にして、イエスを罠にかけようと企んだのである。
 だが、イエスは彼らの予想に反して、どちらの選択もしなかった。いや、どちらをも選択したのである。律法を守り、同時に、律法を超越し、女の罪を認めながら、同時に、女の命を救ったのである。

 ああ、私たちは一体どのくらいの信仰生活を積めば、イエスのような答えに達することができるのだろうか、と、思わずため息つきたくなってしまう。
 人間はいつも二つのものの間で愚かに争い、引き裂かれ、対立しながら生きている。二つの対立する陣営があれば、私たちはいつもどちらに味方するかという単純な発想しか持つことができない。そして、それぞれの掲げる正義に心引かれ、相別れて争い、正義のイデオロギーのために命をかけると豪語して、殺し合いまで行い、和解と命をもたらす十字架には目もくれようとしない。
 もしも私たちが血まみれの戦場になった地平から目を上げれば、そこに主がおられ、すべての対立の終わりと、和解が用意されているというのに、生まれながらの人間にはそれが見えないのだ…。

 石を投げる時。
 それは私たちが自分の罪を忘れ、自分の義を振りかざして、自分よりも弱い、劣った、罪ある人間に対して優位性を誇り、罪人を裁くために、力をこめて拳を振り上げる時のことだ。

 対して、石を拾う時。
 聖書には、石を拾う時について劇的な物語の記述はない。ただ伝道の書3章5節にそれらしき言葉がある。
「石を投げるに時があり、石を集めるに時があり」

 これを、投げた石を拾う時であると詩的に解釈するなら、それに相当する場面はいくつか思い浮かぶ。
 ステパノを意気揚々と石で打ち殺すことに加わったパウロが、その後、ダマスコ途上で主に出会って、盲目となり、自分の犯した罪を思い知らされて愕然とした時。それはパウロにとって、自分が投げた石を拾う時ではなかっただろうか?

 戦場でウリヤを殺すことによって、バテシェバを奪ったダビデが、生まれるはずだった赤子を失って、悲嘆に暮れた瞬間も、やはり彼にとって、石を拾う時だったのではないだろうか。
 虐げられたヘブル人をかばうために、エジプト人を殺したモーセが、ヘブル人から逆に殺人者と罵られ、恐れと失意のうちにミデヤンの地に逃げた時も、やはり石を拾う時だったのではないだろうか。

 聖書は言う、罪のない者がまず先に石を投げなさいと。
 罪ある私たちが、罪ある他人に向かって石を投げれば、必ずそれが自分に跳ね返って来て、投げた石を拾わねばならない時が来る。

 裁判員制度に対して多くの人が恐れを抱くのは、そういう事情あってのことだろう。
 「私には人を裁く資格がない」という、本能的とも言える良心の声を、それぞれの人が心に持っている。クリスチャンであるか否かに関わらず、人は自分が義人でなく、他人を裁く資格を持たない、誤りやすい人間の一人に過ぎないことを誰しもどこかで感じているものだ。人を裁き、罪に定める行為が恐ろしいものであること、あまりにも重い責任が伴うものであること、それがいつか自分自身に対する裁きとなって跳ね返って来ることを、因果応報の考え方を強く持っている日本人は、無意識のうちに、感じ取っているのかも知れない。

 群集は扇動されやすく、集団的なサディズムに陥りやすい性質を持つ一方で、人を裁くことへの良心のブレーキをも心に持っている。理解できないものは裁けない。理解できない以上、裁きたくない。裁けない以上、握り締めた石を、そのまま静かに下ろすしかない。

 各自の心に働くこの良心のブレーキの中に、何か未来の希望につながるものがあるように私は思えてならない。「疑わしきは罰せず」、「罪のない者からまず石を投げなさい」、という、良心のブレーキを働かせる言葉が、今ほど、必要とされている時はないかも知れない。

 現代という時代は(石打刑の復活という危険なスローガンが象徴的に現しているように)、私たちが人を裁くことに対して慎重になるより、むしろもっと大胆に、軽率で、愚かになるようにと、盛んに鼓舞しているように感じられてならない。

 近年、国民が互いに監視し合い、互いに評価し合い、互いに告発し合い、裁き合うような殺伐とした制度が、いたるところに出来上がってはいないだろうか。あらゆる人々が、互いの活動を監視し合い、評価し合い、無用(あるいは有害)と判断されるものがあれば、容赦なく叩き潰していくことを正当化するような残酷な仕組みが各地に出来上がってはいないだろうか。

 十分な議論を重ねてから決断を下すのではなく、十分な議論のための時間すら用意されないまま、他人の活動を短い時間でおしはかり、本来、数値化できないはずのものを数値化し、評価できないはずのものを評価し、単純に白黒つけて、不適当なものを断罪し、除外することを、専門家ばかりか、名もない一般市民までが求められるような瞬間が、ますます多くなって来ているように、私には思われてならない。

 国民投票法案についても、次のような危険性を指摘する声もあるので紹介しておこう。
本当は恐ろしい国民投票法

 さらに、大学評価機構、カルト監視機構、裁判員制度、そういう発想や構図の中に、まるで隣組のように、互いが互いを監視し合い、告発する制度の萌芽を私は見ずにいられないのだ…。もしも隣の家で起こった殺人事件を、私たちが裁く者として選ばれた時、私たちはどこまで冷静に判断を下せるだろうか。いや、それよりも、昔からよく知っているおじさんおばさんを、私たちが裁く立場に立たされるかも知れないことを思い浮かべるだけで、私は何かしら慄然とせずにいられない。これはまさに愛の冷えた時代にこそふさわしい制度であるように感じられてならない。

 それでも、制度が始まった以上、私も裁判員制度にいつ呼び出されるか分からない。そこで今、一つの事件について、いかに違った見解が可能であり、いかに的確な裁きを下すことが難しいかを考えるために、ある事件について振り返ってみたいと思うのだ。

 酒鬼薔薇聖斗事件だ。

 中尾英司氏というカウンセラーが「あなたの子どもを加害者にしないために」というサイトを執筆している。クリスチャンでないが、温かい人柄を持った優秀なカウンセラーらしい、鋭い視点と深みのある考察で、現代の日本の家族を見舞う病理について、数々の例を挙げながら分析している。この中尾氏のブログの題名の根拠となっているのが、酒鬼薔薇事件だ。

 中尾氏のブログは、少年A、すなわち酒鬼薔薇聖斗事件のような凶悪犯罪を起こす少年を、これ以上、世に出さないために、私たちは何をすれば良いのか、という危機感から展開されている。
 氏の説によれば、少年Aがあのような凶行に及ぶに至った最大原因の一つが、Aの家庭環境であった。Aの家庭環境、特に両親の性格や行動を細かく分析することで、中尾氏は少年Aが犯行に至るまでに追い詰められていく心理を解明しようと試みている。緻密な分析がなされており、物語構成も巧みで、読んでいると納得させられてしまう。

 この中尾氏もまた、裁判員制度の難しさについて考察しながら、一連の記事(「仮面の家をあなたは裁けますか?」)を書いている。少年犯罪などでは、それぞれの家庭の抱える、部外者には分からない根深い問題まで、確実に見通した上でなければ、判決を下せない。だが心理学に関して全くの素人である市民に、そこまでの洞察や理解が果たして可能だろうか。そういう難しさが伝わって来る。

 中尾氏の説は全てもっともなのだが、しかし、私はあえてここで、中尾氏の説に根本から対立する一つの疑問を提示してみたいと思っている。
 それは、酒鬼薔薇事件の真犯人は、本当に少年Aだったのだろうか?という疑問だ。

 何を今更、そんな寝言のようなことを言い始めたのか…、と笑われるかも知れない。
 だが、ディベートの手法では、物事を論じる際に、一方の角度だけから論じることは決してない。必ず、肯定と否定の両サイドに分かれて討論を繰り広げ、それを徹底的に比較した結果、どちらの論理に、より信憑性があるかをジャッジが判定を下す。そうすることによって、私たちは一方的な決め付けに陥ることを防ぐことができる。
 このディベートの手法に、私は多くのものを学ばせてもらい、この思考法は、私が物事の判断を下す際の基礎となった。常識であっても疑うべし。全ての物事を両極の立場から考えてみるべし。このディベートの手法をここに持ち込むと、酒鬼薔薇事件の真犯人についても、私たちにはまだ議論の余地が残されていると言える。

 この事件については、かねてからぜひ詳しく記事を書いてみたいと思っていた。が、残念なことに、私は最近、眼精疲労のため、画面を長く見ていられず、あまり熱のこもった記事をしばらく書けないかも知れない。

 そこで、詳細な分析はずっと後になってしまう可能性があるが、ひとまずここに、酒鬼薔薇事件の犯人は、絶対に少年Aではあり得なかった、という立場に立つサイトを紹介しておきたい。

神戸小学生惨殺事件の真相

 恐らく、これを詳細にご覧になられた方は、この事件に再考の余地があることを感じずにいられなくなるのではないかと思う。
 すでに常識として世間に定着している事柄にすら、未だに疑問の余地が残っていたことに気づかされる時、私たちは、他人に向かって石を投げる行為がどれほど難しく、重大な行為であるか、考え込まずにいられなくなるだろう。
 柔軟に物事を考えるための頭の体操としても、ぜひ一度、ご覧になられたい。

教会成長論 総括

 さて、あまりにも昔の話になってしまったので、すっかり忘れておられる方も多いかも知れないが、教会成長論についての総括を書いておきたい。
 これまで、手束正昭著『教会成長の勘所』(マルコーシュ・パブリケーション)を手本にしながら、教会成長論の教えがどれほど非聖書的かつ危険なものであるかを指摘してきた。最後の記事では、クリスチャンは神の子か、それとも神の養子かというテーマで話を進めたが、今、このテーマ全体を振り返りながら、氏が述べている「霊の親」の教えの危険性について、話をまとめたい。
 内容はすでに教会成長論という枠組みを超えて、ペンテコステ・カリスマ運動へと広がりを見せようとしている。そこで、教会成長論の分析はこれで終了とし、以後、改めて、議論を続行することにしたい。
 

1.「養子論的キリスト論」はなぜ異端なのか

 手束正昭氏の理論の異端性は、すでに見てきたように、何よりも、手束氏が早くから唱えていた「養子論的キリスト論」の中に最もはっきりと現れている。(これについては、すでに述べたように、『キリスト教の第三の波 ―カリスマ運動とは何か』p.29-35、『続キリスト教の第三の波』p.15-36を参照。)

 「養子論的キリスト論」とは、文字通り、イエス・キリストは神の子ではなく、神の「養子」だったとする説である。なぜなら、手束氏の見解によれば、イエスは、聖霊の力によらずして、本来的に、神の子としての資格と力を持たなかったからである。
 手束氏によれば、イエスを神の高みにまで引き上げたのは、聖霊による受胎、そしてバプテスマを受けて後の聖霊による満たしであり、この聖霊こそが、イエスに神の子たる資格を付与している根源であり、聖霊なくしては、イエスは私達と同じ人間であり、キリストではありえず、神の子としての資格を本来、持たなかった(つまりイエスは本来、神の子ではなかった)ということになる。
 つまり、聖霊なくして、イエスはただの人に過ぎなかった、というのが、手束氏の述べている「養子論的」キリスト論の本質であり、この説は異端とされたネストリウス派の教えの影響を強く受けて生れたものである。

 (ここで、私の言っていることがよく分からない、という人のために、手束氏の著書より、正統派の教えとされたキュリロスの説と、異端の宣告を受けたネストリウスの説の違いについて、もう一度、説明を補足しよう。手束氏は言う、
「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。
 キュリロスはキリストを聖霊の送り手としては認めるが、担い手としては認めようとしない。アナテマ九項に言う、『イエスの行い給うた奇跡は、イエスが神より享受し給いし聖霊によりて行い給うたものであると思うてはならぬ。何故ならば、この聖霊自体がイエス自身の聖霊であるのである』。

つまり、キュリロスはイエスが人に変化した神であるが故に奇跡をなし得たのであって、イエスと共に働いた聖霊がそれをなしたと考えてはならぬ、聖霊とはキリストの霊であり、キリストから発する、と言うのである。

これに対してネストリウスは、イエスの奇跡は『聖霊とロゴスなる神との間に存在せし連続関係による』のであり、聖霊こそがイエスをして“カリスマティカー”(カリスマの業を行う者)たらしめた原因であることを明確にしている。
 このカリスマティカーなるイエスとの聖霊による連続性は、同じくカリスマティカーとしてのキリスト者を生み出すことを可能にすることになる。もし、あのエペソ公会議においてネストリウスが異端として退けられることなく、その主張がキリスト教会の主流をなしていったならば、それ以後のキリスト教のあり方も俄然違ったものとなり、教会はカリスマ的なダイナミックなものとして生き続けていったことであろうと思う時、私は残念でならない。」『続キリスト教の第三の波』、p.35-36。

 このようにして、手束氏はその理論において、私たちクリスチャンが十字架を通して生まれ変わって神の子とされる必要性を強調するのでなく、クリスチャンが聖霊を受けることによって、イエスに等しい神の養子として引き上げられ、イエスのような「カリスマティカー」としてダイナミックに働くようになることを強調するのである。ここでは、人を生まれ変わらせる力として、聖霊の力だけが強調され、十字架による新生の必要が事実上、否定されていると言えよう。)

 手束氏のキリスト論の異端性は、すでに述べたように、この他、『教会成長の勘所』における、「父なる神、母なる聖霊」という主張にもはっきりと表れている(p.77)。従来の三位一体論には、聖霊を「母なるもの」として捉える見解はなく、三位一体の神は相補関係にあるのではなく、あくまでそれぞれが独立した神の位格であるとされてきた。にも関わらず、手束氏は「父なる神」と「母なる聖霊」とがあたかも相補関係にあって、互いに無い役割を補い合う存在であるかのような説を展開する。そのような考えに立つと、必然的に、二つの神格の交わりから生れたのが御子イエスであるということになる。そのような説に立つと、御子には「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになり、御子の独立性は成立しなくなる。

 このような説は、イエス・キリストが完全な神であられ、同時に、完全な人としての条件を持って地上に来られたとする従来のキリスト論、従来の正統な三位一体論から完全に逸脱している。カルケドン信条に照らし合わせれば、異端であることは明らかである。
 

2.「養子論的キリスト論」を信じることに伴う危険

 さて、手束正昭氏の「養子論的キリスト論」を受け入れ、それを信奉するようになると、私達の信仰にはどういう危険な変化が起きるのだろうか。

① キリストの十字架上での罪の贖いの否定
 まず、イエス・キリストの十字架上での罪の贖いは、私たちがキリストの神性・人性を完全に認めないならば、効力を持たないことになる。
 もしもキリストが聖霊によらずに単独では神の子たりえず、本来的に人間であったという説に立つならば、私たちにとって、十字架は、神の側から提供された、神の独り子による罪の贖いではなく、人間による犠牲ということになってしまうから、神と人とを和解させる効果を持たないことになる。

 従って、もしも私たちがキリストの完全な神性を信じないならば、私たちはキリストの十字架による罪の贖いを信じていないことになる。なぜなら、聖書ははっきりとこう言っているからである、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
 聖書は、キリストが神の「御子、ひとり子」であったと記しており、神の養子であったとは教えていない。キリストは完全に、何一つ欠けるところのない「神のひとり子」だったからこそ、神と人とを和解させる贖いの犠牲となられるにふさわしいお方だったのである。

「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」(ヨハネ3:17-18)

 このように、神のひとり子たるキリストを信じない者は、罪の赦しを得ることができず、救いにはあずかれないことを聖書は教えている。従って、「養子論的キリスト論」を信じ、キリストが本来的に神の「養子」であったと考える者が、救いの条件を満たしていないのは明白である。このような教えを信じている者について、聖書は何と言っているだろうか。
イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(ヨハネⅠ4:3)
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)


② 神と人との唯一の仲保者としてのキリストの否定

 『教会成長の勘所』によれば、神は人間とは異なる次元に住まう方であり、肉なる人間は、神と直接交信することができないので、神の恵みと救いを受け取るために、信徒は牧師を仲保者として介さなければならない、とされている(p.21)。だが、このような説は、すでに述べたように、聖書が神と人との唯一の仲保者であると教えているイエス・キリストを否定し、人である牧師がキリストに成り代わって神と人との仲保者になろうとする異端の教えである。

「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた<略>」(テモテⅠ2:4-5)

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エペソ2:14-16)

 完全な神であられ、同時に、完全な人となって世に来られたキリストだけが、ご自身の死と復活によって、人を神と和解させることのできる唯一の仲裁者なのである。このキリストを信じることによってのみ、人は神にふさわしく生まれ変わることができる。このただひとりの仲保者、聖なる犠牲の小羊であるキリストを通さずして、私達はたとえどんなに優れた牧師を仲裁者に立てたとしても、決して、神からの救いも、恵みをも受け取ることはできない。優れた牧師も、信徒と同じく、肉なる人間の一人に過ぎず、人を神の国にふさわしく生まれ変わらせる力は十字架の他にないからである。

「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」(ヨハネ3:3,6)
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)


★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義

牧師がイエス・キリストに成り代わっている

 教会成長論は、牧師がキリストの代わりに神と人との仲裁者に成り代わろうとし、信徒にキリストへの信仰ではなく、牧師への崇拝を求める教えである。このように、キリストを通さずに、肉なる指導者を介して救いを得ようとする信者が、永遠の命に到達することは決してない。
 

③ クリスチャンが神の子である事実の否定
 聖書は言う、「神は<略>天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、<略>愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ1:3-5)
 このように、私たちクリスチャンは、万物の存在以前から、神の愛によって、神の子供として正式に選び出された。私たちは、父なる神の正統な子供であり、御国の正統な後継者であるがゆえに、救いや、その他諸々の恵みを約束されているのである。

 だが、もしもキリストを神の不完全な子、神の養子としてとらえるならば、私たちクリスチャンもキリストと同様に、神の養子に格下げされ、神の子たる資格と権利を本来、持たない者になってしまう。これは、私たちを子として愛して下さる父なる神の愛を否定することにつながるだけでなく、このような教えを信じていると、信徒は神の国の正式な後継者としての資格をやがて失うのは明白である。

「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪によって死んでいた者であって、<略>この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて<略>生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜った慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった」(エペソ2:1-7)

 もう一度考えてみよう、私たちの本当の父は誰なのだろうか?
 子供の頃、きっと誰しも一度は、自分が本当に両親の実の子なのか、それとも、継子なのかと、疑ってみたことがあるのではないだろうか。子供にとっては、自分が実の子であるのかどうかという疑問は、アイデンティティの根幹に関わる一大事のように思える。その差が、自分が親から本当に愛されるにふさわしいかどうかを決定する重大な要素のように思われるのだ(もちろん、実子かどうかという一点によって、親の愛をおしはかることはできないのだが、子供の目から見れば、これは重大問題のように思われる)。

 クリスチャンにとっても、同様のことが言える。私たちが誰を自分のまことの父と考えるのかという問題は、実際にはかりしれないほどの重大性を持っている。私たちが、まことの父とは唯一の神であると考えるのか、それとも、実は別な誰かが本当の父親として存在すると考えるのか、その違いは、私たちクリスチャンのアイデンティティを左右するだけでなく、御国の後継者としてのクリスチャンの資格そのものを根幹から揺るがす重大事である。

 仮に手束氏の説に立って、クリスチャンが神の養子であると信じるとしよう。すると、その人間にはどのような将来が待ち受けているのだろうか。聖書を見てみよう。

 パウロは言った、「あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる」(ガラテヤ4:21-24)
 神の祝福によって、諸国民の父と呼ばれることが約束されていたアブラハムには、長い間、子が生まれなかった。そこで心配したアブラハムと妻サラは、神の約束の成就を待つのでなく、人間的な思惑によって、ハガルという女奴隷を通して、アブラハムに息子をもうけてしまった。だが、その子は女奴隷の血を引いているわけであるから、アブラハムとサラの正式な子ではない。そして、その後、神の約束が成就して、アブラハムとサラの血を引いた正統な息子イサクが生れた。

 女奴隷とその息子は分を超えて思い上がっていたので、イサクと世継ぎの資格を争うだろうとの危惧があった。そこで、女奴隷ハガルとその息子は、アブラハムの家から追放された。パウロは旧約聖書に記述されるこの出来事を「比喩」としてとらえて、次のように説明する。

 「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である
しかし、聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある。だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである」(ガラテヤ4:28-31)

 ここに私たちは、手束氏の言うような、神の「養子」たちに定められた運命を象徴的に見ることができる。

 十字架によって生まれ変わり、真理に従って歩むクリスチャンたちが、いずれ、偽りの信仰を持つ、律法と肉によって歩む世の子らから迫害されるだろうことについては、イエスも予告している。
人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(ヨハネ16:2-3)。
「あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」(ルカ21:16-17)

 この御言葉は、「私は神に仕えている」と標榜する信者の中に、実は神を知らず、キリストを知らない、肉によって生まれた者が混じっており、彼らが誤った信仰に立って、真の信仰者を迫害するだろうことを示している。このような、「父を知らない、キリストを知らない」信者は、肉に従って歩む者であるから、父なる神によって生まれたのでないのに、子供であると標榜している、いわば、キリスト教の私生児のようなものである。

 だが、私生児の方が、正統な子供たちよりも威厳があるような振る舞いをし、自分こそが最も神の国にふさわしい後継者であるかのように触れ回り、教会の会堂を占拠して、本当の信仰者を次々追い出したりする(というよりも、必ずそうなる)ことを聖書は告げている。

 パウロは、このようなキリスト教の「養子」たちは、いずれ、ハガルとイシマエルと同じ道を辿らなければならないことを告げている。御国の正統な後継者でない女奴隷とその子は、必ず、追い出されなければならないのである。

「聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある」(ガラテヤ4:30)
イエスも言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」(マタイ7:21)。

 このように、神の国の真の後継者は、霊によって生まれ、キリストのものとされ、神の子と約束されているクリスチャンだけである。肉によってはアブラハムの子孫を名乗る資格はないかも知れないが、霊によって、約束の相続人と定められているクリスチャンこそが、御国の相続人なのである。
もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:29)。
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である」(ガラテヤ4:6-7)

 私たちは、神に向かって「アバ、父よ」と呼びかける特権を与えられた、神に愛される神の正式な子供である。この絶大な特権を、どうして養子という惨めな身分と取り替える必要があるだろうか。そんな必要はどこにもない。


④ イエスの名を通して信ずる者に与えられるすべての恵みの否定
 もしも私たちがキリストの完全なる神性を否定し、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定するならば、私たちは救いを失うだけでなく、神から一切の恵みを得ることもできなくなってしまう。

 「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネ16:23)と、クリスチャンには、御言葉のうちにとどまるならば、イエスの名を通して、父なる神から必要な恵みをいただけることが約束されている。ところが、もし、手束氏の説に従って、クリスチャンがイエスを通して父なる神に祈り求めるのではなく、「霊の父」である牧師を通して、祝福を得ようとするならば、私たちは聖書が約束している恵みを全く受け取ることができなくなってしまう。


⑤ 信徒の牧師への依存や隷従

 さらに、もしも私たちが聖霊を「母なるもの」ととらえ、「父なる神」と「母なる聖霊」を通して生まれたのが御子イエスであると考えるならば、イエスには「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになる。すると、 同じことが、信徒にもあてはまる。もしも信徒がイエスを通して父なる神に祈るのでなく、「霊の父」である牧師や、「霊の母」である牧師夫人を通さねば神と交われないという教えを信じるようになれば、信徒は、信仰生活全般にわたって、牧師(または牧師夫人)へ依存しなくてはならなくなるだろう。

 聖書は言う、「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである」(ガラテヤ5:13)。信徒には救いと同時に自由が与えられたのである。しかし、その自由を牧師への依存ととりかえてしまえば、信徒は再び、人の奴隷と成り下がってしまい、この世の掟、肉に従って歩む奴隷の子へと転落し、神の怒りがその上にとどまる生まれながらの怒りの子へ逆戻りしてしまうのである。


 このようにして、教会成長論とは、教会を立派な会堂建築や、多額の献金集めや、信徒数の増加に駆り立てて、教会の権勢を誇ろうとする終わりない競争、「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」というむさぼりの欲に陥れるだけでなく、クリスチャンからイエス・キリストへの信仰を奪い取り、代わりに牧師崇拝を植えつけるものであり、救いを失わせるものであることを見て来た。

 手束氏の教会成長論は、牧師を「礼典的・象徴的存在」として、信徒が下にも置かないほど崇め、牧師を経済的にも何不自由なく厚遇するように教えている。
 だが、そのようにして信徒から尊ばれ、崇められ、もてはやされようとする聖職者に対して、イエスは何と言われただろうか。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」(ルカ16:14-15)
あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(ルカ16:13)

 教会成長論の影響を受けて、富に仕えるようになった教会は、必然的に、神を裏切り、神の御前で忌み嫌われる教会となることを、私たちは聖書から十分に学び知ることができる。富に仕え、営利を追い求めるようになった教会が、同時に神に仕えることは不可能である。そしてそのようなむさぼりに取りつかれた教会の中にとどまっている信徒は、実際に、イエス・キリストを否定する誤った異端の教えを信じるようになり、救いを失っていくのである。

 正統な教義にはっきりと反しているにも関わらず、このような教えを吟味もせずに取り入れた結果、はかりしれない悪影響を受けた教会は多いと考えられる。『教会成長の勘所』は、ペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた多数の教会で好意的に迎えられた。同書の裏表紙に推薦の辞を書いているのは、全日本リバイバルミッション代表 日本教会成長研究所全国講師 有賀喜一氏である。長年、講壇に立って信徒を教えてきたはずの牧師が、この書物の明らかな異端性をどうして見破ることができず、一方的な賛辞を送っているのか、驚く他ない。

 ところで、私は異端に関する分析は興味本位で行われてはならず、ある説を異端であると宣言するためには、慎重な分析と、十分すぎるほどの根拠が必要になると考えている。そこで、手束正昭氏の説を詳しく分析するために、私はこれまでにもかなり長い記事をいくつも書いてきただけでなく、氏の著書の大半を自費で購入したことをお断りしておきたい。

 特に、私の手元にある『教会成長の勘所』は、幸運なことに(!?)手束氏の直筆のサイン入りであり、「主を畏れよ!2008.8.31」とある。
 だが、その言葉はそっくり著者に返そう。主を畏れるべきなのは、一体、誰なのか、諸教会とクリスチャンは今、改めて考えてみる必要があるだろう。

 メガ・チャーチを目指した多くの牧師たちが、『教会成長の勘所』を手本にして、教会運営を目指し、誤った道に堕ちて行っただろうことが憂慮される。営利優先の教会運営に走って、多数の信徒を傷つけ、食い物にした沖縄の諸教会も、恐らく、この書物の影響を強く受けていたのではないかと私は想像している。

 しかしながら、『教会成長の勘所』が諸教会にもたらした悲しい影響はこれだけでは終わらない。この著書においては、この他にも、セル・チャーチ論、悪霊追い出しの理論等、ペンテコステ・カリスマ運動において重要な役割を果たしたいくつかのプログラムについての分析が進められており、いずれも一読しただけで、大きな危険性を含んでいることが感じ取れる。だが、そのことについては稿を改めて論じることにしよう。

 繰り返すが、教会成長論を信じてはならない。このような教えに影響されてはならない。私たちクリスチャンにとってのまことの父、まことの教師は、天にお住まいになられる神ただお一人である。それを「霊の父」としての牧師と取り替えようとするような教えを信じてはならない。

 私たちは神の子とされている貴いアイデンティティを忘れないようにしよう。クリスチャンは聖霊を受けることによって、イエスに並ぶ「カリスマティカー」とされることによって、御国にふさわしくなるのではなく、バプテスマを受け、十字架を信じて新生し、聖霊によって生まれ変わることによって、キリストと同じく神の子としての資格を与えられ、御国にふさわしい者へと変えられるのである。
 十字架による生まれ変わりには、華々しい奇跡や、五感で感じられるダイナミズムは伴わないかも知れない。だが、たとえ肉体的な感覚が何一つ伴わなくとも、人の罪を贖い、人を生まれ変わらせる力は、イエスの十字架にしかないことを、私たちクリスチャンは聖書を通して確かに知っているのである。

「あなたがたは、みな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」(ガラテヤ3:26-27)

 私たちはキリストへの信仰にとどまり、そこから一歩も外へ出ないよう注意しよう。教会はキリストの御身体として機能する時にこそ、調和の中で、麗しさを発揮するのであって、キリストを否定し、キリストを捨て去った教会成長論の影響を受けた教会が、正常な機能を失い、やがて崩壊に至ることは疑いがない。そのような教会では、信徒は傷つけられ、救いを失って、絶望の中に投げ出されていくだろう。
 教会成長論は教会をカルト化させ、信徒から救いを奪う危険な教えである。そのことを、今までの記事の中で十分にご理解いただけたならば幸いである。
 

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