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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

筆者は、筆者にとっての「干潟」と一つの約束を結んだ。その約束の内容は、ここには書かないが、今はその約束を守るために、とても重要な時期であるから、あえて主の平安と安息の中にとどまっていたい。
 
ウォッチマン・ニーが書いていた、私たちは、装甲の中にいてこそ、敵のあらゆる攻撃から身を守ることができると。

装甲とは、キリストの十字架である。もしも十字架から外に出れば、私たちには、防御の術がない。そして、十字架の装甲とは、神の愛の中にとどまることであり、同時に、キリスト者の交わりの中にとどまることである。

これまでひたすら筆者が学ばされてきたのは、この装甲から外に出ない方法であった。

読者はよく見ておかれたい。敵はしばしば激しい挑発を持って、私たちを装甲の外へ連れ出そうとして来る。だが、私たちには、どんなことがあっても、平安を持って、装甲の中にとどまることが必要であり、また、可能なのである。

逆に言えば、非常に困難な事件が起きるときには、それと同時に天に用意されている祝福も大きいのだと言えよう。筆者はこれまでの経験上、知っているのだが、とても重要な、栄光に満ちた出来事が起きる前に、サタンは人間を攻撃し、落胆させようとして来る。

そこで、私たちは困難が起きるとき、今一度、主がこの先、どんな栄光を私たちのために用意されているのか、考えを巡らしてみることは有益である。

今、人間の本心が赤裸々に吐露されているが、それを通して、多くの人たちが、その人の隠されていた内心と、その人の生きる目的を知ることになったろうと筆者は思う。

今は激しい戦いの行われている最中であって、時期尚早な言葉を述べるべき時ではない。だが、人の内心が明らかにされ、覆われていたものが明らかにされ、各自がどのような目的のもとに歩みを進めているのか、万人が知りうる状態になるのは、聖書の御言葉にかなった事実であり、私たちのこれからの歩みにとって、必要不可欠なプロセスであると、筆者は思う。

だが、それだけでは、まだ足りないものがある。それは今、試されているのは、私たちが神の御言葉に従っているのか、それとも、自分の思いに従って歩んでいるのか、という問題だからであり、これがはっきりするためには、各自の他者への思いだけでなく、神に対する思い、すなわち、聖書の御言葉に対する態度が明らかにされなければならない。

一言で言えば、神の御言葉を真実なものとして、これに従うのか、それとも、神の御言葉そのものがファンタジーであるとして退け、これに従わないのか、ということが試されているのである。

聖書には、神は報復なさる方だと書いてある。しかし、その瞬間が来るためにも、ただ人が人を非難したり、憎んだり、罵倒したり、傷つけたというだけでは十分でなく、その人の神に対する態度、御言葉に対する態度が明らかにされていなければならない。

何度も書いて来たように、人がキリスト者を憎むということは、その人が、神ご自身を憎むことと同じであり、人がエクレシアを破壊しようと試みることは、その人が、自分で神の宮として造られた自分自身を破壊しようとすることと同義なのである。

だから、キリスト者(兄弟姉妹)を憎み、これを害そうとする人は、自分で自分を傷つけることになり、相応の報いが降りかかることになる。

とはいえ、私たちキリスト者がただ傷つけられたというだけで、神が私たちを守るために立ち上がって下さるわけではない。私たちを防御するために、神が立ち上がって下さるためには、条件がある。

それは、兄弟姉妹を攻撃する人が、ただ兄弟姉妹を憎んでいるというだけでなく、神ご自身を憎み、聖書の御言葉に逆らっていることが、はっきりと言い表される瞬間が来ることである。

その瞬間が来ると、神ご自身が動かれる。

このようにして、ある人が、兄弟姉妹を愛するか、憎むか、という問題は、その人が、神御自身を愛するか、憎むかという問題に直結しているのだが、それでも、神が動いて下さるためには、はっきりと神ご自身に対する冒瀆の言葉が述べられていることが必要であると、筆者は考えている。その段階まで来ると、人が人を対処するのではなく、神が人を対処される。

このところ、筆者の周りで、キリスト者の交わりが復興している。神はそこで時宜にかなって、多くの祈りと、助けを与えて下さり、エクレシア(神の教会)が建て上げられるために、必要なことをなして下さっている。

このような時に、このような交わりが復興していることも、決して偶然ではなかろう。私たちは、兄弟姉妹を憎んでいる者ではなく、兄弟たちを愛する者である。神がご自分の命を私たちのために捨てて下さったように、互いに支え合い、助け合う。

世人でさえ、私たちに対して驚くべき愛を示してくれている。だとすれば、まして神の家族である者たちが、互いに愛を示さないはずがあろうか。

以下の御言葉には、兄弟を憎む者は、人殺しである、とはっきり書いてある。キリスト者を憎み、攻撃する者の最終目的がどこにあるのかが、ここにはっきりと示されている。単なる非難や、攻撃ではなく、殺意であると書かれている。筆者が殉教を語る理由がここにある。

「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同上しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハネ3:11-18)

しかし、サタンの言い知れない憎しみに遭遇するときでも、私たちキリスト者は、平安の内にとどまることができる。そして、そのことによって初めて、敵の多くの攻撃が無に帰されて行くのである。

ステパノは石打ちにされる瞬間にも、人々の罪のためにとりなし、祈った。もちろん、ステパノには罪がなかったが、彼は自分を殺そうとする人々の罪のために、神にとりなしたのである。そんなことができたのも、ステパノが、石打ちにされるまさにその瞬間、天におられる主を見て、その栄光に満ちた姿を知っていたためである。

キリスト者があらゆる瞬間に、平安にとどまるための秘訣、もしくは、平安にとどまることができる秘訣は、その人が神を知っているかどうか、という一事に尽きる。
 
エクレシアとは、神の軍隊のようなものである。戦いに勝つためには、軍隊がきちんと建て上げられ、増強されていなければならない。そして、そのためには、最高司令官が、軍隊の成員に対して、自分を明らかにし、軍隊の成員が最高司令官を知るようになることが必要だと、最近のオリーブ園のオースチンスパークスの記事に書いてある。

最新の記事の一つから、少し引用してみよう。

「私たちの戦い」 第一章 最高司令官(5)

これは私たちを新約聖書に連れ戻します。エペソ人への手紙――あの偉大な戦いの手紙(なぜならそれはそのようなものだからです)――で、パウロは「知る」という言葉を大いに凄まじく強調しています。その冒頭で彼は祈ります、「それはあなたたちが彼の召しの望みの何たるかを知るためです」「それはあなたたちが聖徒たちの間にある彼の嗣業の(中略)富を(中略)知るためです」。「それはあなたたちが(中略)彼の力の卓越した偉大さを知るためです」(一・一八~一九)。「それはあなたたちが知るためです……」

「知る」というこの言葉が、私たちの戦いというこの問題全体を支配する言葉です。熟練した兵士だったので、パウロは主を知ることを大いに強調しました。「それは私が彼を知るためです……」と彼はある箇所で書いています(ピリピ三・一〇)。人々が重要だと見なしている他の何ものにもましてこれは遥かに重要である、と彼は述べました。彼はこの知識を彼が以前持っていたあらゆるもの――莫大なこの世の嗣業の富――と対比しています。「しかし」と彼は言いました、「私はそれをみな無――塵芥――と見なします。それは私が彼を知るためです」。これによりパウロはあのような戦士になったのであり、彼を通して教会の士気が大いに上がったのです。


 「最高司令官は、もし彼が賢明なら、自分の軍隊が自分を知るように配慮するだろう」。もしこの地上の死すべき人に関して賢明だと言えたとするなら、私たちの最高司令官はさらに賢明です。主は最高の知恵をもって――私たちはこれを謹んで申し上げます――彼を知る私たちの知識が絶えず増し加わるよう確証して下さいます。



これは非常に勇気を与えられる記事ではないだろうか。

なぜなら、神は、私たちから離れた遠くにいまし、沈黙のうちに、ご自身を現して下さらないような方ではないからである。神は、私たちに主を知る知識を与え、それによって、私たちを主に似た者に造り変え、私たちを創造された当初の目的へ――神がかくあれかしと望まれた人の姿へとー―建て上げて下さり、主と共に万物を統べ治めるというその使命を果たせるようにして下さる。

それは決して、達成できないようなはるか遠くにある目的ではなく、最高司令官は、私たちのそばに、手の届くほどそばに、いつも共にいて下さり、ご自身を現して下さる。

私たちが、あらゆる瞬間に平安にとどまることができるかどうかは、すべて主を知る私たちの知識にかかっている。パウロの祈りに心を合わせよう、どうか、主が、私たちに神を深く知ることができるようにし、私たちの召しにどれほど大きな希望がかかっているか、また、私たちに将来的に約束されたものに、どれほど大きな栄光が込められているか、心の目を開いて、見ることができるように。

また、地上において、いかなる艱難があっても、キリストがすべてのものを足の下に統べ治められ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に立っておられる以上、神は私たち信じる者に絶えず絶大な働きをなして下さることを信じよう。

軍隊の成員である我々は、最高司令官が、私たちのところにやって来て、私たちの労をねぎらい、ご自身を現して下さる瞬間を待ち望んでおり、それをこの上ない栄誉と考えている。その瞬間は、最初は、とても稀有なもののように思われるかも知れないが、次第に、より頻繁に、より長くなり、いつしか最高司令官は、いつも私たちと共にいてくれ、常にかけがえのない仲間として、喜びと悲しみのすべてを分かち合い、いつも絶えず共にいて、助けてくれることが分かるようになる。

一点、キリスト。いかなる瞬間にも、見るべきは、この方であり、その方の栄光に満ちた姿であることを知るようになると、私たちの平安は、揺るがされることがなくなる。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:17-23)

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彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。

そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるとおりです。

見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
 のであり、また、
「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、

「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(Ⅰペテロ 第2章)

* * *

当ブログは、聖書の神が、正しい、唯一の神であって、キリストの十字架の贖いが、人類にとってただ一つの救いであることを証しするために執筆されている。

従って、当ブログの最終目的は、神に栄光を帰することであって、それ以外の目的にはない。

このブログは、筆者が信仰の証のために書き続けているものであって、筆者の自己満足や、筆者が栄光を受けることを目的としていない。

とはいえ、このブログには、筆者自身の人間らしい歩みも率直に記されているので、一見すると、無価値にも見える多くの記事があるかも知れない。しかし、それも含めて、このブログは、干潟に溜まっている泥水のように、外見的には、みすぼらしく、魅力も、見栄えもしないが、そこには、神の愛に満ちた眼差しが確かに注がれているのであって、人知れず光合成が起き、泥水にしか見えない水が、神の目に尊く、すべての人々に役立つ、永遠に価値ある生ける水に変えられている最中なのである。

筆者がこの地に置かれてから後、筆者に与えられたミッション――すなわち、干潟を開拓して、そこから命の水が湧き出るためのパイプラインを建設し、これを稼働させること――が開始するまでに、相当な年月がかかった。

それは、この地にパイプラインを建設できるような土壌がなかったためで、地盤作りに年月がかかったからである。さらに、地中を深く掘り下げ、地下深いところから水を汲み上げるためには、多くの苦難が必要となった。

神の御業が現れるためには、信じる者の側にも、深い飢え渇き、願い求めが必要で、旱魃のようにも見えるむなしい実り少ない月日の間に、深く深く井戸を掘ることが必要となった。

だが、ある時が来ると、掘削作業は終わり、確かに水脈に達し、地下水を汲み上げる作業が始まった。そして、ついに筆者は、命の水が確かに流れ出す瞬間を見たのである。

二、三年ほど前までは、多くの交わりが試練に耐え得ず、分解させられるところを幾度も目撃して来た。

だが、そのことを通して筆者が学んだのは、人間関係とは、キリスト者の交わりも、そうでない交わりも含め、全て試され、揺さぶられることなしに、本物にはならないということである。不信や、対立や、分裂をもたらそうとする悪しき力や、様々な策略が働くときに、これに勇敢に立ち向かって、人々との信頼の絆を保ち、目的に向かって共に一致協力して前進できる関係を手放さない方法を学ばなければ、私たちは、順調な時しか人々と協力できず、逆境になると、すぐに人間関係が壊れ、これを手放すこととなり、そんなことでは、周囲の人々が、一体、何のために私たちの周りに置かれたのか、彼らが私たちにとって、どんなに重要かつかけがえのない役目を果たしてくれるかを、決して生きて知ることはできないままに終わる。

そうして不信や対立を乗り越えて、信頼を維持・強化する方法を学ぶためだけにも、相当の歳月が必要であった。
 
これと同様のことが、当ブログにも当てはまる。信仰の証としての当ブログは、これを中断させ、放棄させようとする様々な試みによって、絶え間なく揺さぶられ、試練を味わわされて来た。

しかし、それもまた、筆者が信仰の証を確固として保ち続けるために、これをやめさせようとするすべての策略に勇敢に立ち向かって、神への賛美と証を続けることの重要性を学ぶ過程であったと言える。

困難や試練に見舞われても、神に栄光を帰する作業を決してやめないでいること、兄弟姉妹や、愛すべき人々を、嵐のような試練の中で守り抜き、彼らとの絆を決して絶やさないように守ることの重要性を学ぶまで、確かに歳月はかかった。しかし、ついに、揺さぶられても、決して壊れることのない交わりが生まれ、相互の固い信頼の絆が生まれたのである。

そうして、地下深く掘り下げられた井戸から、汲み上げられた命の水が、地上から流れ出し始めた・・・。

今でも、当ブログを地上から殲滅したいとの願望が、筆者に向かってあからさまに述べられることがある。筆者がすべての主張を放棄し、これまで獲得したすべてのも成果を投げ捨てることによって、あたかも筆者の安全が保たれ、平和が到来するかのような主張を聞かされることがある。

だが、筆者に証を述べることを辞めさせようとする願望を聞くとき、筆者は、殉教者たちのことを思い出す。長崎のキリシタンであれ、皇帝ネロの時代のクリスチャンであれ、みな同じ要求を突きつけられ、同じ試練の道を通ったのである。自分の命や、自分の身の安全を第一優先し、神の御言葉を恥じて捨てるのか、それとも・・・。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

筆者が第一に優先せねばならないことは、自分の命を真っ先に優先して守ろうとすることではなく、神の国とその義を第一とし、神の御言葉を人前で恥じることなく、伝え続けることである。
 
これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義)の時間の概念は、円を描く曲線であるが、キリスト教の時間軸は直線である、ということを書いて来た。

ここで言う「グノーシス主義」とは、聖書とは真逆の偽りの教えを総称したものである。
 
この問題を考えるとき、筆者が当ブログにおける信仰の証を自ら放棄・否定して、これまで達成して来たすべてを、なかったこととして否定しさえすれば、あたかもすべての争いから解放されて、安息を得られるかのような考えが、偽りであることが分かる。

何度も述べて来たように、聖書に反するグノーシス主義のシンボルは(東洋思想も含め)「円」である。この円とは、人類が時間軸を逆にして、歴史の初めと終わりを一つに結びつけること、すなわち、循環する時間の概念を表している。
 
このシンボルの究極的に意味するところは、人が自力で、神と人とが分離する前の状態に逆戻ることである。すなわち、聖書によれば、神が天地を創造され、人を創造された後、人は自ら神に反逆し、罪によって堕落し、神と断絶するに至った。

しかし、グノーシス主義は、人間が自分で時間を遡り、神から分離する前の状態に逆戻ることによって、あたかも、人が神に対する反逆という問題を起こしたことがなかったかのように、罪の問題を自力で解決して、自ら神に回帰し、救いに到達できるかのように教える。そのような偽りの考えを示すシンボルが、円(東洋思想における「道」)なのである。
 
それは、人が自力で母の胎内に逆戻り、生まれる前の状態に逆戻ることによって、この世の悩み苦しみの全てから解かれ、両親との一体性を取り戻し、胎内でもう一度、安息を得ようとする試みにたとえることもできよう。

しかし、普通に考えて分かる通り、人が自力で母胎に逆戻ることなど、できるはずもないのであるから、同じように、罪によって神と断絶した人類が、時間軸を逆向きにして、神と分離する以前の状態に自力で回帰することなど無理な相談である。

そのことを考えれば、筆者が当ブログを閉鎖したり、信仰によってエクソダスを遂げたことを否定して、幼い頃から慣れ親しんだもとの故郷に逆戻り、そこから出た後、昨日までに打ち立てたすべての達成を自ら否定してみたところで、それによって生まれる成果など何一つないことがはっきりと分かる。

私たちは、昨日までの歴史を否定したり、自分の信仰の証や、果ては兄弟姉妹の存在や、自分自身の存在までも否定して、何も起きなかった当初の状態に逆戻ることで、心の平和を得られるわけではない。

そういう意味で、人類が、神によって創造され、罪によって堕落したことは、それ自体、著しい悲劇なのであるが、それでも、私たちは、その悲劇が起きなかった以前の状態に自力で逆戻ろうとすることによって、問題解決を成し遂げ、平和を手に入れられるわけではなく、その悲劇の事実をしっかりと見据えた上で、これを真に克服できる方法を探し求め、それを手に入れて、先に進んで行かねばならない。

そして、神と人との断絶を克服する方法は、神の側から恵みとして与えられた十字架以外には存在しないのである。十字架は、エクソダスの道である。生まれながらの自分自身から、古い肉的な故郷から、私たちが目で見て、耳で聞いて、感覚を通して確かめて来たこの世そのものからのエクソダスである。
 
これまで当ブログでは幾度も述べて来たことであるが、聖書には、こうある。

「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)

筆者が、この御言葉を幾度も引用するのには、理由がある。ここで述べられている内容は、非常に重要な奥義であって、それは神と人とが一体であるかのごとく親しく結びつき、一つとなって共に住まうことが、神の望みであることを示している。

つまり、聖なる神の宮として造られた人類に、神ご自身がやって来られ、人の内に住まわれること、そうして、神と、宮なる人類が一つとされ、それによって、花婿なるキリストと花嫁なる教会の結婚が実現すること、それこそが、教会の奥義なのである。

だが、この一体性が成り立つために必要な条件は、「人は父と母を離れて・・・」というものである。父と母を離れるとは、人が自分の生まれながらの出自に死ぬことを意味し、生まれながらに持っている堕落した天然の命に対し、キリストの十字架の死を経由し、自分の生れ故郷(ヘブル書では「出て来た土地」(ヘブライ11:15))を離れ、信仰によってよみがえらされて、新しい命により、新しい天の故郷へ到達するために、歩みを続けることを意味する。

生まれ故郷を離れないことには、新しい故郷にたどり着くこともない。地上的な故郷との結びつきが断ち切られないことには、天の故郷への道も開かれない。だからこそ、人はバプテスマを経て、生まれながらの自分に死んで、上から生まれることが必要なのであり、筆者自身も、真実な信仰を知って、神ご自身を探し求めるためには、エクソダスの道を通らねばならなかった。

筆者は幼い頃から形式的にはキリスト教徒だったのであり、信仰それ自体も、持っていたとはいえ、それでも、「父と母」のいる、もといた「故郷」、すなわち、物心つく前から筆者を取り巻いていた慣れ親しんだ宗教的な環境において、古き自分に死ぬことなしに、神ご自身に出会うことは不可能だったのである。

ヘブル書には次の通りある。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)


神の御言葉は、あたかも裁判の判決が法的拘束力を持つように、霊的な拘束力を持つものである。そこには、人類に対する神の約束事が書かれている。約束が成就していないうちば、御言葉は、単なる空手形のようにも見えるかも知れないが、その約束には、生きた効力があり、聖書の御言葉には、約束を実現させる力が込められている。

とはいえ、その約束は、私たち自身がこれを承認し、信じ続けなければ、実現することのないものである。従って、私たち自身が、何があっても、御言葉に基づく望みの確信を手放さないことをせず、その確信を途中で投げ捨て、自ら否定してしまえば、その効力は失われる。
 
たとえば、ちょっとした困難が起きただけで、自分の命や、身の安全が惜しいからと、当ブログの信仰の証を、筆者が自ら否定し、捨て去ったり、筆者に与えられた尊い御言葉の約束を、筆者が自分で否定したりすることは、約束の放棄を意味し、それは結局、筆者が出て来た故郷へ戻ろうとする試みと同じなのである。そのようなことをすれば、さらにまさった天の故郷へ向かう道は断たれる。

それだけでなく、筆者のエクソダスも、意味がないものとなり、地上の故郷を出した後に打ち立てられた信仰的成果もすべては無に帰され、当ブログの存在も無用なものとなるばかりか、筆者自身の存在も、消えてなくなるであろう。

いや、消えてなくなるくらいならまだ良い。キリスト者が信仰の証を捨てれば、塩気を失った塩として、誰にとっても無用なものとして、道端に捨てられ、踏みにじられて終わることになるだけである。争いが終結して平和が訪れ、自分の命と安全が保たれるどころか、すべてが「無」に帰され、踏みつけられて終わるだけなのである。
 
当ブログは、筆者なりに、天の故郷へと続く道を歩く行程(天路歴程)なのであり、これを否定したり、放棄することで、筆者の安息(救い)が得られることは決してない。そのような考え方の中には、筆者を古い故郷へと戻らせようとする、偽りの思想に基づく循環の時間の概念が反映していると言える。

だが、繰り返すが、人類は自力で神の懐に回帰することができない以上、筆者がこれまでの歴史を否定してみたところで、それによって達成される成果など何もないのである。
 
私たちは、不可逆的な時間の流れの中に立っており、時には、根こそぎ心を揺さぶられ、自分が一体、何のために生きているのかも分からないと思うような、悲痛な出来事に遭遇することもある。だが、悩み苦しみが大きいからと言って、自分がこの世に誕生し、ものを考えるようになり、自己の意思を表明するようになり、神を求めるようになり、信仰を見いだす以前の、生まれなかった前の状態に逆戻ることによって、問題が解決するなど、断じてあり得ず、それは詭弁でしかない。
 
むしろ、目の前に大きな困難があるように見えるときにこそ、私たちには、神の御言葉という、絶大な効力を発する、勝利の約束が与えられていることを思い起こし、私たちの存在に、神の愛が注がれていること、それゆえ、御子の十字架が与えられていることを思い起こし、勇気を奮い起こして前に進んで行かねばならない。

御言葉が、私たちに勝利を約束してくれている以上、一体、何を恐れて、これを自ら否定し、証をやめて、御言葉を知らなかった頃の、古い故郷に駆け戻る必要があろうか。
 
なすべきことは、エジプトを恋しがり、あるいはソドムに未練を感じて振り返ることではなく、約束の確信に基づいて、目の前の紅海を最後まで渡り終え、復活の領域に達することである。

キリストこそ、私たちにとって、すべてのすべてであるから、この方の中にこそ、地上のあらゆる問題に対する「正解」がある。この方を信じる者は、失望に終わることはないと、はっきりと聖書に記されている通りである。その約束に立脚して進んで行くのか、恐れて退却するのかは、各自の自由な判断であり、選択である。
 
「「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。」
 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)
  
さて、不思議なことに、筆者の人生においては、様々な困難が存在しているように見える中でも、失われた兄弟姉妹の交わりが、少しずつ回復している。筆者がキリスト教界をエクソダスして後に築かれた兄弟姉妹の交わりが、戻って来ており、そこで10年以上前から温められていたプロジェクトが、今も進行中であることが分かった。

それは、筆者がエクソダスを遂げるに際し、とても重要な役割を果たしたプロジェクトである。あれから相当な歳月が経ったので、筆者は、さすがにこの計画はもう放棄されているのではないかと思っていたが、そうではなかったことが分かった。

それは他の人たちが撤退して行った場所で人知れず続けられている計画であり、このことを見るにつけても、筆者は、神の国と神の義をまず第一にすれば、すべてのものは添えて与えられるとの御言葉の確かさを確信させられる。

人の目から見てどう見えようとも、神の御言葉の約束を信じてこれを追い求め続ける人の人生には、神ご自身がすべての責任を取って下さるという、生きた見本を見せられているようである。

聖書には、不正な裁判官のたとえがある。

神を畏れず、人を人とも思わぬ裁判官に対しても、やもめが懇願を続けて、ついに裁判官の心を動かし、正しい裁きを得たという、主イエスが語られたたとえ話である。
 
このたとえ話に登場する不正な裁判官は、神を象徴している。神を不正な裁判官にたとえるのはどうかと思われるかも知れないが、神の采配は、私たちには、ときには、非常に理解しがたく、納得できないものに見えることがある。

たとえば、神はなぜサタンの活動を許しておられるのか。なぜこれほど理不尽な悪事や災害が世に溢れ、神はこれを放置されているのか。もしも神がただちにサタンの働きを滅ぼしてしまえば、私たちは、現在の悩み苦しみからすぐにでも解かれたであろうに、なぜ神は善良に見える多くの人々の苦しみを黙認しておられるのか・・・。

そういった疑問は、クリスチャンであっても、実に多くの人たちが抱くものである。だが、それは愚門であると言えよう。神が望んでおられるのは、あくまで私たち自身が、自らの信仰を通して、理不尽や混乱に満ちたものに見えるこの状況の只中に、御言葉の約束の効力を及ぼし、それによって、サタンのわざを後退させて行くことだからである。

だから、私たちがせねばならないことは、いかなる状況の中でも、その状況の理不尽さに目を留めるのではなく、神の采配がどんなに理解できないものに感じられるときでも、神は正しく、真実で、公平な方であって、私たちのために、常に最善の解決を用意して下さっていることを固く信じ、主がカルバリで打ち立てて下さった勝利の御業を誉めたたえ、その約束に信頼しつつ、新たな一歩を信仰によって大胆に踏み出していくことなのである。

そうして、私たち自身の努力によるのではなく、神の側から恵みとして与えられている御言葉の約束に基づく解決を、混乱に満ちた状況の只中に、力強く現実的かつ具体的に引き下ろすことである。

そのために、私たちに必要なのは、あくまで望みを捨てずに祈り続けること、執拗に懇願し続けること、目的に向かって進み続け、決して後退しないことであり、断じて、脱出してきたはずのい故郷に帰ろうと考えることではないない。

そこで、仮に今、誰かが筆者の隣にやって来て、筆者の耳元で、自分の身の安全が惜しいなら、あなたの信仰の証をさっさと放棄しなさいとささやいたとしても、筆者は、そんなことは無理です、としか答えられない。

なぜなら、筆者には、キリストに出会わなかった以前の状態に戻ることはできないからである。その答えの中に、一切が込められている。キリストを否んで、信仰の証を捨てることができるか問われれば、当然のことながら、答えはノーであるが、それと同様、愛すべきキリスト者との交わりを手放せるかと問われれば、答えはノーである。敬愛する権威者・友人を捨てられるかと問われても、答えはノーであるし、裁判所の飛び地のようなところで、筆者に与えられている仕事を放棄できるかと問われても、答えはノーである。自分に与えられた信仰によるミッションも終わらないうちに、この街を出て行き、よその土地で暮らせるか、と尋ねられても、やはり答えはノーであると言うしかない。

信仰によるエクソダスをなかったことのように否定して、ブログを立ち上げる前の状態に逆戻り、地上的故郷に舞い戻り、そこで自分自身の名で、自分のために、地上的な功績を打ち立てることを目的とする人生を送れるかと問われれば、そのような人生は、すでにバプテスマと共に、水の底に沈んで死んでいる以上、思いめぐらすこともできないし、取り戻すことも不可能だと言うしかない。

そこで、誰かが筆者のそばにやって来て、筆者に向かって、あなたがエクソダス後の成果を頑固に手放さないから、私はあなたに間違った信仰の証を辞めさせるために、あなたを殺害することにしますと予告したとしても、やはり、筆者の答えは変わらないだろうとしか言えない。

だが、それは決して筆者が、歯を食いしばって、必死の思いで、あるいは涙ながらに、自分はこれからあらゆる恐怖に打ち勝って、信仰を守り通さねばならないと告白するような、悲壮な決意表明ではない。

筆者は、ただ与えられた御言葉の約束と、その前味として、すでに筆者の人生において成就している恵みの素晴らしさを知っているがゆえに、もはやそれを知らなかった頃に逆戻ることはできないという、シンプルで自然な思いを述べているに過ぎない。

一言で言えば、自分の全てを捧げてキリストに従うとは、愛ゆえに生まれて来る自然な告白なのであって、自分の力であらゆる苦難に立ち向かって信仰を守り通そうとする頑固で必死の努力の賜物ではないのである。

すべては愛のゆえである。信仰による応答は、まず何よりも、十字架でご自分の命を捨ててまで、筆者を救って下さった神の深い愛に対する、筆者の側からの愛による応答である。いかに幼い頃から信仰を持っていたとはいえ、筆者は目に見える教会生活を送っていた時代には、十字架のキリストを内に啓示されることで、主に出会うことはなかったのであり、その後、教会生活をエクソダスして、初めて、主ご自身に出会うことができ、聖書の御言葉と、それに基づく信仰の、真実で正しいことを身を持って知った。今、それによって得たすべての恵み、そして、来るべき報いに対する望みの確信を放棄して、主ご自身に出会う以前の状態に逆戻ることは、筆者には死を意味することであって、全く考えられもしない。

主に出会ったときに、筆者の人生は根本的に変えられ、自分が何のために生き、存在しているのか、その目的も、意味も、以前とは全く異なるものに変わった。ひと言で言えば、筆者はもはや自分のために生きているのではなく、神に贖われた者として、筆者のために命を捨てて下さった神に栄光を帰するために生き、存在している。どんなにその目的が、わずかしか達成されていないように見えたとしても、筆者に与えられた使命が失われるわけではない。

それに加えて、筆者がこれまで出会って、支えられて来たすべての人たちとの愛に満ちた交わりや、信頼関係がある。キリスト者の交わりへの慕わしい思い、筆者を助け、支えてくれている人たちへの愛がある。困難の中で得られた信頼や交わりは、とりわけ価値があり、それは筆者の手柄ではなく、まさに主が恵みによって与えて下さったものであるとしか言えない。

こうした信頼関係は、交わりがふるいにかけられて試される以前のように、頼りない、壊れやすいものではなく、試練にさらされても、それに耐えて残るだけの力があると確信できるものとなっている。

そうして新たに生まれた信頼に満ちた交わりが、とても喜びに満ちた、麗しく、慕わしいものであるがゆえに、それらを自ら否定したり、侮辱するくらいなら、ただちにこの場で殺されて息絶えた方がましだと筆者には思えるのである。
 
このように、主が与えて下さった人々の価値、また、自分が守ろうとしている信仰の証の価値を知っているがゆえに、それを守るために、死をくぐらなければならないとしても、筆者にはそれは大したことではないと思われる。

 おそらく、殉教した時のステパノは、そういう心境だったのに違いない。彼は栄光に満ちたキリストをそば近くで拝し、自分が今しも迎え入れられようとしている天の故郷の絶大なる価値を確信していたがゆえに、群衆に石打ちにされそうになっている瞬間にも、誰も彼を助け得なかったことなどには何の注意も向けず、むしろ、兄弟姉妹を安全なところにかくまい、自分を殺そうとして打つ人々に神の福音が届けられることを願いつつ、率先して地獄の軍勢の憎しみの只中に立ち、息絶えたことであろうと思う。

それは、彼が神の愛を通じて、人々を愛することを知っていたために、できたことなのである。断じて殉教者になることを目指し、それによって、信仰的に偉業を達成しようなどと考えて起きた出来事ではない。

そういうわけで、筆者は、人前で信仰の証を守り通すことは、ぜひとも必要だと考えているが、それも、神と人とに向けられる自然な愛の中で達成されることであって、決して、正しい信仰を何が何でも守り通そうとする不自然な努力の結果ではないと思っている。

しかも、聖書には、逆説的に、自分の命を捨てる者がそれを得る、と書いてあるから、筆者は、歴史的殉教者のようにはならないことであろう。筆者は、主の御名のゆえに、忍ばなければならない苦難や試練を避けるつもりはないが、それは決して悲劇的最期を迎えたいがゆえの愚かしい意思表示とは異なるのである。
 
むしろ、私たちキリスト者の人生は、終わりに近づけば近づくほど、ますます明るさを増して、健全かつ喜び言満ちた輝きを発することになろう。今、筆者の歩いている行程の先には、花婿なるキリストが、筆者を迎えようと、天に住まいを準備されている。筆者は、地上的住処には全く満足していないし、天には住まいがたくさん用意されていると、主ご自身が言われたこともあって、天の故郷に大いに期待しているのだが、最終的にそこにたどり着くまでの間にも、主は筆者のために、その時、その時で、恵みに満ちた地上の仮住まいを、備えて下さるだろうと信じている。そして、その仮住まい(筆者自身が仮の地上的幕屋である)を通して、神に栄光を帰するために、私たちは互いに交わりを持つ。

主の御名によって集まる二、三人の交わりの中に、主が共にいて下さる。主は互いに愛し合いなさいと、信じる者たちに命じ、そのことによって、私たちがイエスの弟子であることが皆に分かるようになる、と言われた。

やがて花婿なるキリストが再び地上に来られるとき、主が地上における信徒の小さな交わりに目を留め、それがとても愛に満ちた麗しいものである様子をご覧になって、ぜひともそこに共にいたいと願って下さるためにこそ、私たちは地上に存在している。

そういう意味で、筆者は使徒行伝の終わりが好きである。使徒パウロは、おそらくは皇帝ネロの迫害により殉教したにも関わらず、使徒行伝の終わりには、殉教を思わせる記述は全くない。かえって、これから何かが始まりそうだという期待感に満ちたしめくくりとなっている。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30-31)

パウロが自費で借りた家に住んでいたことや、自分の私生活を後回しにして、誰でも訪問者を歓迎したことは措いておくとして、ここには、「全く自由に何の妨げもなく」(!)と書かれている。そのことは、パウロにこの間、いかなる迫害も及ばなかったとか、制約も生じなかったということではない。神の福音は、たとえ信じる者が鎖につながれるようなことがあっても、決してつながれず、地上的な、人間的な、あらゆる制約を超えて、人々のもとに自由に届けられて行ったのである。

これが、生ける水をもたらすパイプラインの効果である。キリスト者は、主の御名のゆえに、様々な信仰的な試練を通過するし、制約も負うが、御言葉は、その制約の只中から、溢れ出る泉のように湧き出て、全く自由に、何の妨げもなく、人々のもとへ届けられて行く。

筆者も、地上で重荷を負って、労苦奮闘しているが、その只中から、命溢れる成果が生まれ、やがてその苦労の先に、想像を超える大きな収穫が待ち受けていることを思うと、今感じている労苦など、何でもないという心境になる。

神が喜んで下さることこそ、私たちの喜びであり、満足なのであって、その達成のためになら、信仰のゆえに、地上で味わう試練などは、全く取るに足りない。それがどんなに人の目に損のように映ったとしても、神はそれを補って余りある恵みを、私たちに与えて下さることのできる方であり、それが幾分かすでに与えられている以上、筆者は、私たちが地上で味わうすべての労苦には、天の大いなる報いがあると確信する。
 
そこで、筆者は最近、目の前で何が起きていようとも、主が出会わせ、結び合わせて下さった愛してやまない人々と共に、この先も、主を賛美しつつ、地上での生涯を終えられるだろうとの確信を持つようになった。

エクレシア(教会)は、あちらこちらを訪ね求めて見つかるものではなく、私たちの信仰の只中から、私たち自身の神への愛と献身によって、生まれて来る。その愛に満ちた麗しい交わりこそ、キリストが再びこの地上へ来られるときを早め、引き寄せるための鍵である。
  
そうして、どんな困難や迫害の最中にあっても、私たちが喜びに溢れて主を賛美し続け、互いに愛し合い、神が私たちのそば近くにやって来られ、早く共に住まわれたいと、切に願って下さるような交わりを、地上で打ち立て、御言葉の約束を固く守り、これを実現していれば、主は私たちの抱えるすべての地上的問題に対して、速やかに解決の手を差し伸べて下さり、私たちが地上において悩みの種としているような問題のほとんどは、塵芥のごとく吹き飛び、あっけなく消えて行くであろうと予想する。

そのようにして、御言葉を守り、これを実現して生きることが、今、私たちに最優先で求められている課題なのである。
 
そして、それが真に神の御心にかなうことならば、私たち自身が、生ける水の川々を流し出す泉となることを止められる者は、地上に誰もいない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)


わたしの愛にとどまりなさい。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。


あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

* * *

全く不思議なことで、このところ、キリスト教徒を名乗っていない人との間に、信仰の交わりのようなものができ、神を知らないはずの人から、筆者は神の愛を知らされている。
 
筆者は、とても敬愛しているある権威者の言葉を通して、適宜、神から必要な助言を送られているような具合である。

これは実に不思議な交わりであって、信徒の交わりというものを、久しく失って、孤独を感じていた筆者にとっては、まるで神が、筆者の心の願いに応えて、慰めを与えて下さったように思える。

その人は、筆者に言った、無用な対立を一切避けなさいと。そして、こう言ったのである、筆者は、その権威者の代理人も同然であって、筆者の存在は、もはや筆者だけのものではなく、その人自身でもあるのだから、筆者がその権威者自身であるかのように振る舞いなさいと。

現実の筆者には、何の権限もなければ、職責があるわけでもない。むしろ、単なる使用人の立場である。ところが、その人は、あたかも筆者にその人自身の持っている高い職責や、大いなる権威や、権限が付与されているかのごとく、筆者は筆者だけのものではないから、その人自身のように行動しなさい、と助言したのである。

その人は、もちろん、筆者の信仰のことも、訴訟のことも知らず、筆者の身内でもなければ、キリスト教徒でもない。なぜにそのような発言がなされたのか、その交わりが何であるのか、筆者は知らない。
 
だが、その忠告は、実に深い意味を持っており、私たちキリスト者一人一人が、神の代理権威であって、神は私たちを本当に神御自身に似た者とされ、私たちを彼の栄光の高みにまで引き上げようと願っておられることを、筆者に想起させた。

以下の御言葉の通りである。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

似た者・・・という言葉には、まだ多少の距離感が残っているように感じられる。しかし、キリストと教会の関係は、「二人は一体」なのである。そこには、決して切り離すことのできない完全な一致、一体性が存在している。

そのようにして、神は信じる人を、ご自分と瓜二つになるほど近づけ、そこに完全な同質性が生まれるまで、一致させようとしておられるのであり、ご自分が持っておられるすべての富、栄光、威光、尊厳、栄誉、尊いご性質のすべてを私たち信じる者と分かち合おうと願っておられる。

そういうことは、今までの筆者には、御言葉の知識としては存在していたが、まだ現実としては理解されていなかった。しかし、目に見える人の助言が、筆者にこれを至上命題のごとく、目の前に突きつけたのである。

主に似た者とされるという栄化は、空を見上げて待っていれば、降って来るようなものではない。それは、約束としては与えられているが、その実現は、私たちの側からの積極的な応答にかかっており、筆者自身が、それを現実として受け入れるかどうかにかかっている。

そして、さらに分かったことがあった。それは、神が人をご自分に似た者とされる、とは、神が人の心を、ご自分から二度と引き離したくないというほど、強く愛しておられ、他のものを一切見ないでもらいたいと願っておられる、そういう排他的な愛と、密接な関係があるということである。

聖書における神と人との愛は、排他的な愛の関係である。雅歌の次の御言葉もそれを示している。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7) 
 
「熱情」と書かれているところは、「妬み」とも訳されている。
 
筆者に分かったことは、神の愛から人を引き離すすべてのものに対して、神は妬みの炎を燃やされる、ということである。

筆者は、貴重な助言を受けたように感じたが、すぐにはそれに従えなかった。なぜなら、筆者から見て、神はあまりにも高いところにおられ、私たちからはそこからあまりにも遠く、卑しい私たちが、神に似た者として振る舞うなど、あまりにも大それたことであって、要求されても、すぐには実現不可能と感じられたからである。

そこで、筆者は、依然、生まれながらの人間のように振る舞い、神の偉大さ、完全さに注目するのではなく、自分自身の限界、不完全さに注目して、色々と嘆き、不満を述べ、無理だとつぶやいていた。だが、そうした嘆きや不満が、実は、神との一体性を何よりも損ない、筆者を神から遠ざける要因となっており、神はそのようなすべての隔てとなる要因を何よりも非常な怒りを持って憎まれ、筆者の心を神から遠ざけるすべてのものに対して、妬みの炎を燃やされる、ということが分かったのである。
 
聖書における神の妬みとは、要するに、神ご自身と、信じる者とを隔てるすべてもののに対する、神の尽きせぬ憎しみを表しているのである。

悪魔と暗闇の勢力は、信じる者の心を、常に神の愛から外に引き出そうと試みるが、筆者はただ真直ぐに、神だけを信頼して見つめなければならないのであって、横道に逸れてはならないのである。そうして初めて、神の完全性、栄光、威光、尊厳が筆者自身にも分け与えられる。

もしもそこから目を離し、別のものに注意を向け始めると、神ご自身との一体性は損なわれ、私たちの尊厳は曇らされ、損なわれる。神は信じる者の注意を、もう一度、ご自分に引き戻そうとされるが、神は不従順を非常に憎んでおられるため、不従順は罰を伴い、神は信じる者の注意をご自分から奪うものすべてを憎まれ、妬みの炎を燃やされる。

もしも信者が、神との一体性を損なうものを、心の中で手放さず、それを依然、心の中で抱きしめて進んで行こうとするならば、信者は、たとえそれがサタンであっても、自分が心の中で注目しているものと一体となり、やがて神は、信者をご自分から引き離した敵だけではなく、敵と言一体となったその信者自身にも、妬みを向けて、手のひらを返して、信者を憎むべき者と共に滅ぼされるだろう、ということが分かって来たのである。

正直な話、筆者には今まで、聖書における神の妬みというものが、どのような性質のものなのかが、今一つ理解が及ばなかった。妬むほどまでに愛するということの意味が、はっきりとは分からなかったのである。だが、現実に起きた出来事を通して、不従順が、あっという間に、神と信者とを隔て、その一体性を損なうものであること、また、それが、愛による一致を妨げ、死と断絶と呪いを招き、やがては信者自身が神の敵と化する原因とまでなるものであることが分かった。

神は高きにいまし、威光と尊厳を身にまとい、すべてのものを超越して、御座から支配される方であるが、私たちから決して遠くにおられるのではなく、常に私たちと共にいて、共に支配して下さり、私たちをその支配下に置いて、守って下さる。だから、私たちはその懐に安心して飛び込み、そこで安らぎ、安息すべきなのであって、愛する御子の支配から一歩たりとも、外に出るべきではないのである。

そこで、筆者は、自分自身も、神ご自身の完全性、その安息、栄光と尊厳から、筆者を遠ざけようとするすべてのものを憎み、退けねばならないことに気づいた。そうして、ただ神の愛の中だけにとどまり、それに浸され、何があっても、心をそこに留め置くよう、そこから心を逸らされることがないよう、自分を律しなければならないと分かったのである。
 
* * *

さて、控訴審では、重要な和解協議が開かれている最中であり、さらに当ブログに対して様々な権利侵害を繰り返して来た掲示板に対する法的措置も進行している。

この非常に重要な時期に、ある牧師が、またしても、色々な非難を筆者に対してしかけていることが分かった。筆者は一つ前の記事に、訴訟に関する記事はこれが最後になるかも知れないと書いたにも関わらず、筆者が訴訟に関連する記事を次々に書き始めることを恐れ、先手を打ったものと見られる。

むろん、彼の主張は嘘であるから、いくらでも具体的な反論は可能なのであるが、筆者は、以上に挙げた、筆者にとって非常に敬愛する人からの助言を受けて、反論の記事を、あえて掲載しないことに決めた。

さらに、筆者は、現在、和解協議中であるから、そこでの筆者の提案が、真実であることを示すために、ある人物に関する記事をホームページから外すことに決めた。

筆者は、その人物は、これまで教会でさまざまな仕打ちを受けたがゆえに、多くの傷を負っており、それゆえ、ブログで現在の教会のあり方に対する反対意見を表明せざるを得ない事情があったことを知っている。

とはいえ、筆者は、そうした活動が、その人の生涯に渡る主要な活動になって欲しくないのである。訴訟においては、精力的に書面を書き記すことができ、また、ブログでも旺盛に記事を書いて、ある時は日に5千人に達するほど、多くの人々の注目を集めることができ、学問の道でも、それなりに成果をおさめ、人的ネットワークを作り上げることが得意であったその人には、これ以上、無益な法廷闘争は似合わないし、そのようなものは、性格的にも合わないため、無益な心労にしかならないものと思う。

そこで、筆者は、今後、その人には筆者との無益な闘いに人生を奪われることなく、自分の持っている力を、人の役に立つ活動に割いてもらいたいと願っており、その願いが、真実であることを示すことにした。

その人物は、非常な幸運に見舞われており、かつてある牧師から提訴の予告を受けたのに、提訴されることもなく、その牧師に告訴された信徒は、相当にひどい扱いを受けたのに、彼自身は、その信徒とは、全く異なる扱いを受けている。そのことは、ただ幸運というだけではなく、やはり、その人に対する神の愛と憐れみの大きさを示しているように筆者には見受けられる。

筆者は、神が惜しみ、憐れみをかけ、愛を示しておられるものを、筆者のこの手で壊そうとは思わない。そこで、今後の歩みの妨げとなるものを残したくはないと考えており、その言葉が真実であることを示すために、約束に先駆けて、記事を修正して行くことに決めた。

これを筆者の「敗北宣言」と受け取りたい人が出て来たとしても構わない。一体、何のための訴訟だったのか。誰に勝利し、何の収穫があったのか。そう受け取りたい人たちには、そう思わせておけば良い。
 
いずれにしても、筆者が判決を通して受けた宝とは、勝訴などという言葉ではおよそ呼べないものであった。筆者は、この訴訟の判決を受けて、自分自身が見えない命を受け取って、死からよみがえらされて生かされたのであり、さらに、判決も筆者と共に、死をくぐって生かされたと考えている。

筆者はこの訴訟とその判決のおかげで、心に敬愛する人ができ、新しい人生のフィールドを見つけ、筆者が判決を手に進んだ新しい分野においても、尽きせぬ敬意と愛情を持って関われる人を見つけた。

筆者はできるなら、この訴訟を担当してくれた裁判官が、横浜の街にいるうちに、何かしら関わることができたらと思ったが、時すでに遅しであった。だが、神は、筆者の心の寂しさを知っておられ、その裁判官に代わって、新しい助言者を筆者のもとに送って下さり、その人のもとで、筆者の訴訟と判決は、命の交換を伴う「交わり」に転換したのである。

筆者は、裁判官に代わって、新たな友となった権威者から、これ以上、訴訟を提起してはならないと言外に忠告されているように感じている。神の法廷で、サタンと共に主張を争ったことは、筆者にとって極めて重要な体験であり、貴重な成果であったが、神は筆者の勇気をたたえると同時に、これからはただ神にのみ目を向けなさいと筆者に言われ、神の愛の中にとどまるよう求めておられる。

まだせねばならない訴訟の残務処理は色々と残っており、進めねばならない手続きはあるとはいえ、筆者はこの先、決して魔女狩り裁判に関わることはないし、そんな時間もないと、はっきり言っておきたい。
 
今、新たな世界が筆者の前に開けており、神と筆者との間を隔てていた隔ては、より一層、取り除かれ、愛による一致の関係が始まった。遮蔽の措置の中にいる筆者を、高みから見つめていた裁判官の眼差しは、新しい権威者・友の眼差しに置き換えられ、さらに、そこには、天から神ご自身が筆者に注がれる愛に満ちた眼差しが重なっている。

あなたの心を私に与えよ、と主は言われる。わたしの愛から引き離そうとするすべてのものから、あなたの目を離し、あなたの心をただわたしにのみ与えよと、神は言われる。

その呼びかけに応答した時、聖化に続き、栄化という、信仰の第二のステージが始まるのであり、私たちは、原告席から、法壇の高みへの招かれ、いや、地上から、御座の高みへと招かれ、主に似た者へと変えられて、主と共に統治するという「変容」が起きる。

エクソダスは完了し、箱舟から新天地へと私たちは足を下ろす。過去の残滓は、もうないか、あったとしても、ことごとく取り除かれる。そして、神が人とともに住まわれ、人と共に生きられる人生が始まる。敵はまだ存在しているものの、私たちから遠ざけられ、触れることができない。そこは、復活の領域であって、そこに神と私たちを引き離すものはもうない。


どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:10-12)
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている
 と書いてあるとおりです。

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

* * *
 
去る11月12日、控訴審の和解協議のために東京高裁を訪れた。前回とは違って、二方向に大きな窓があって、大きなスクリーンやラウンドテーブルの置いてある、青空の見渡せる広々とした部屋に案内された。

東京高裁全体の陰気な雰囲気と異なり、横浜地裁を思い起こさせる、明るい、開けた部屋であった。筆者は自分が横浜へ瞬時に場所を移動して、電話会議が行われていた部屋に戻り、裁判官が来るのを待機しているような錯覚を覚えた。

待機時間はたっぷりあったので、筆者は自分も裁判所の職員の一人になったような感覚で、誰もいない部屋の中を幾度か歩いてみた。部屋の雰囲気が、解放的で、霞が関のビル群の中にいることを完全に忘れさせてくれるものだったので、筆者は目の前で起きている出来事をすべて忘れ、安堵しながら、懐かしい人々を思い出しつつ、自分の番が来るのを待った。

ラウンドテーブルの他に、立会人たちが座れるソファも置いてあるこの部屋に、大勢の人々がやって来て、和解調書に調印する光景が心に思い浮かんだ。また、ある時は、誰もいないこの部屋を、法衣を着た裁判官と書記官が慌ただしく行き来し、本を片手に研修を行ったり、セミナーなどを開いて、スクリーンを指し示しながら、何かを説明をする様子が見えて来るような気がした。

以前から書いている通り、裁判所は、筆者にとってもはや家同然であり、それ自体が大きな要塞であり、砦である。どんなに予想外の事態が持ち上がっても、最後にはその安心感へと戻って来る。

それは、筆者と裁判所との間で交わされた、秘密の約束のようなものである。その日も、夜になるまで用事があり、疲れを覚えつつ、筆者は暗い廊下のパイプ椅子に待機していたが、そのときにも、何とかして、もっと裁判所の近くに来られないか(これは決して物理的な距離のことでなく)、ここで目にする人々の喜怒哀楽のすべてに、もっと深く接近し、入り込むことはできないかと考えを巡らした。

不思議なことであった。どんなに気が滅入る慣れない不案内な手続きを進めている時でも、あるいは失望を覚えるような出来事の最中でも、筆者は心の中で、ここは家同然であるから、最も安全な場所であり、離れたくない…という感覚を覚えるようになっていたのである。

* * *

さて、被告Aは、裁判所が秘匿の措置を認めないことが分かってから、和解協議の場を最大限、自分に都合よく利用し、毎回、毎回、脅しめいた条件を提示しては、解決金の支払いを遅らせて来るようになった。

前回は、何と筆者に向かって、訴えそのものを取り下げろと要求し、命にも等しい判決を手放すよう求めた。

そして、それを阻止するために、筆者が記事の修正を申し出ると、今度は、分厚い苦情の手紙を裁判所に送りつけ、筆者が被告Aの名を出していない記事を指し示して、筆者が示談をしてもその約束が守ると思えないから、和解協議を蹴る、などと言って来たのであった。

裁判官と書記官は、被告Aを説得したとみられ、長い時間、筆者は部屋の中で待たされ、様子を見守った。

ようやく筆者の番が来て話し合いが行われたとき、裁判官はあくまで非常に落ち着いて、和解協議を成功裏に導ける確信を捨てていなかったが、書記官はいささか青ざめた表情であった。おそらく、被告Aの筆者を赦せないという思いや、筆者を提訴したいとの願望がどれほど強いものであるかを、本人の言を聞いて理解し、初めて被告Aの真の性格を理解したのではないかと思われた。

被告Aは、一見すると、権威に忠実で、他者に食ってかかったり、論争をしかけたりすることのない、穏やかな性格のように見える。電話会議でも、はっきりした発音で、静かに裁判官に返答しており、苦情を述べている時でさえ、声を荒らげて論争することはなく、その声や話し方だけに注目するならば、決して悪印象を持つことはなかった。

だが、それだからこそ、被告Aがどれほど筆者に対して深い恨みを持っており、それがもはや合理的なレベルを超えて、一生、筆者に報復しなければ気が済まないほどのレベルに達しているか、その執念の深さは、人々には分かりにくいのである。

だが、筆者は前から被告Aのことを知っているし、彼から送りつけられたメールの数々もこのブログにはまだ公開してある。その論調、話し方、要求の内容などを考えると、被告Aが控訴審で自らに有利な判決が出る見込みが薄い中でも、あくまでこの先も、筆者を提訴するなどして対決を続け、筆者を罪に問うて何とかして人生を滅ぼしたいという願いを述べ続けていることは、筆者にとっては、何ら不思議ではない。

さらに、村上密も、控訴審になってから、筆者を法廷に引きずり出したかったのに、それができなかったことの悔しさをにじませる記事をブログに投稿している。

筆者は、10年以上前から、村上密の真の願いは、カルト化を防止するという名目で、自前の異端審問所を開設し、そこで無実の一般クリスチャンを魔女狩り・見世物裁判に引きずり出して辱めることにあると指摘して来た。

筆者は2009年に、村上密がかつて提唱していた「カルト監視機構」の構想に、真っ向から異議を唱え、このような機構が設立されれば、キリスト教会には「カルト化を防止する」という口実で、密告が溢れ、やがて魔女狩り裁判が横行し、無実のキリスト教徒が異端者の濡れ衣を着せられて迫害されることになるだけで、カルト監視機構は、まるで秘密警察のように、何の権限も与えられていないのに各教会を調査するなどして、教会に対して君臨するようになるだろうと予告した。

その頃から、村上はカルト監視機構を設立しなかったが、その代わりとなる組織として、宗教トラブル相談センターを設置していた。そして、筆者がカルト監視機構に抱いた危惧は、ことごとく宗教トラブル相談センターの中で実現することとなったのである。

クリスチャンたちは、宗教トラブル相談センターに関わった信者がその後、どうなったのか、筆者の例を見て、よくよく学習しておくことだろう。

村上密は、今年、一審が終わってから、「唐沢治の陳述書」と題する4つの記事をブログに投稿した。そして、記事の中で、筆者のかつての牧師でもあった唐沢の陳述書を公開するに当たり、唐沢から全く了承を得ていないことを自ら明かした。

村上は、自分は唐沢治とは何の関係もない、提携もない、協力関係があるというのは、筆者の思い込みだ、などと嘲笑気味に記事に書き記しており、答弁書でも同じことを述べている。

だが、これは非常に恐ろしい発言である。要するに、村上密は、唐沢治の陳述書やその他の書証を、本人からの承諾も、依頼も全くないのに、勝手に独自のルートで調べ上げて、ネット上に公開したということなのだ。

さらに、村上の公表した四つの記事には、筆者が唐沢に宛てた親書メールも含まれているため、陳述書の内容もさることながら、こうした他者のメールを承諾なく公表する行為が、プライバシー権の侵害に該当することはまず間違いがない。

しかも、村上自身は、唐沢治の陳述書とその他の書証を、裁判所に出向いて自ら記録閲覧・謄写したわけでなく、それを行ったのは被告Aだけなのである。そして、村上は、誰からどのようにして陳述書と書証を入手したのか明らかにしておらず、被告Aしかこれを閲覧・謄写した人間もいない以上、被告Aが村上に情報提供したと考えるのが自然な流れである。

第一審では、被告Aとの協力関係はない、提携はない、と言って、筆者から受けた嫌疑を否定していた村上であるが、村上は、唐沢の陳述書を被告Aから入手していないとは一切発言していない。

しかも、村上がそのように入手の経路を明かさず、相談者でもない唐沢の陳述書を勝手に公開した先は、宗教トラブル相談センターの公式ブログなのである。

村上は、このブログの仕様を今日、ようやく変えて、とうに期限切れとなった10年以上前に撮影した写真をようやくトップ画面から一掃したようだが、初めは極めて陰気な背景画像にしており、それを変えた後も、依然、ブログのレイアウトは崩れたままである。筆者の見解としては、前のままの方がはるかに良い。

それはともかく、村上密は、どこから、誰から、どのように、何の権利に基づいて、唐沢治の陳述書や、その他の書証や、唐沢と筆者の交わしたメールを入手したのか、どんな正当な理由があって、これを本人の了承なく無断でブログに公開したのか、情報源も、理由も、全く明かしていない。

繰り返すが、これは非常に恐ろしいことである。宗教トラブル相談センターは、少なくとも、今までは一応、形ばかりは、誰かからの被害相談を受け、村上がその相談者の代理人となって、紛争解決のために動くという名目を保って来た。それだからこそ、被害者の救済という大義名分が保たれ、センターの活動への理解が成り立って来たのである。

しかしながら、その後、村上密は、誰の代理人にもなっていないのに、宗教トラブル相談センターを使って、自分の一存だけで、唐沢治と筆者との間で係争中の事件の記録を調べ上げ、両者の個人情報に当たる記録を、本人の了承なく公開してしまったのであり、これは明らかに両者に対する人権侵害に相当する。

村上がブログ記事に引用している書証は、非公開の保全事件の記録であり、村上は牧師としての守秘義務も負っている以上、勝手に信者の身辺調査を行い、その情報を本人の了承なくネットに投稿したりすれば、当然ながら、罪に問われる。また、唐沢の陳述書には多くの嘘の記述もあるため、それを一方的に鵜呑みにして引用する行為も、筆者に対する名誉毀損行為になり得る。

村上は、答弁書の中で筆者の名前も無断で公表した事実を認めているため、こうした事実はすべて、筆者が主張すれば、筆者に対する不法行為として認定される可能性の極めて高いものである。

こうして、宗教トラブル相談センターは、まるで戦前の特高などの秘密警察のごとく、正当な理由もないのに、ただ自分たちの活動に批判的な信者をターゲットとして、秘密裏に身辺調査を行い、信者に制裁を加えるために、信者本人にとって望ましくない、あるいは不利となりそうな個人情報を集めては、ネット上に次々と曝し始めたのである。

その上、その信者を一方的に刑事告訴までし、提訴したいという願望をも言い表しているのだから、これは筆者が前々から予告して来た通り、宗教トラブル相談センターが、魔女狩り的な異端審問に走ったことの何よりの証左である。

村上密のブログ記事からは、筆者が控訴審に出席しなかったことを不満に思い、自分が提訴されたことが許せないから、その報復に、何とかして筆者を公開裁判に引きずり出したいという思惑が透けて見えるし、さらに、村上は、牧師であるにも関わらず、相談者であり信徒でもあった筆者を右京署に刑事告訴したと、はっきりと答弁書で主張している。

筆者は神社に油を蒔いたこともなければ、カルト宗教に入信したこともなく、村上に対しては危害を加えたことも一度もないし、控訴審さえまだ開かれている途中で、民事訴訟の終結もまだである。それにも関わらず、一審判決では不法行為に問われなかったのを良いことに、それだけでは満足せず、むしろ、それを皮切りに、筆者に対する人権侵害を堂々と開始し、さらに筆者のとことん人生を破滅させなければ気が済まないという執念を持って、筆者を告訴したというのである。

筆者は10年以上前に村上のもとへ相談に赴き、解決も得られず、失意のうちに村上の教会を離れ、その後も、何か月間も村上の教会で受けた心無い言葉に泣き暮らしつつ、それでも自分を責めていた頃のことをよく覚えている。その上、この仕打ちであるから、一体、こんなセンターが、カルトを防止するための何の役に立つというのか。それ以前から、村上の義理の父が牧会する教会で、何が起きたかもすべて公開している通りである。

この人々は、ただカルトを防止することを名目に、無実の一般信徒を標的にして、中世の魔女狩り裁判、クリスチャンの迫害を再現しようとしているだけのことである。

筆者は2009年からそのように予測して来たのであり、それだからこそ、このような活動に従事する人たちは、いつか必ず、筆者を見世物裁判に引きずり出して辱めたいという願望を赤裸々に表明する時が来るだろうと、ずっと考え続け、また、その通り主張して来た。

実際にこれまで、幾度となく、筆者を提訴・告訴したいという台詞を、筆者は被告A・村上密の双方から聞かされて来たので、正直なところ、それこそが、彼らの悲願だと初めから思っている筆者は、今、再び同じ台詞を聞いても、驚きはしない。

そこで、被告Aが和解協議の場においても、改めて裁判官の勧める和解案を蹴って、自分に敗訴判決が下されることも覚悟で、その後、筆者を提訴したいとの願望を言い表し、村上も準備書面に全く同じ内容を書き記して、こうして二人ともが、声をそろえて、生きている限り、筆者を赦すつもりはなく、何とかして報復として筆者を被告として裁判に引きずり出し、刑罰を受けさせることが人生の悲願であると主張しても、筆者は別に驚かない。

だが、一般の人々は、それを聞いて青ざめるだろう。答弁書や準備書面に書いていることは、あくまで法廷闘争のための文字上の主張であって、現実には、それとは違ったもっと柔軟な行動を取る人々は数多くいるし、そうなるものと人々は考えている。村上も被告Aも準備書面では色々言うであろうが、それはあくまで法廷闘争のテクニックであって、本気ではないと人々は考えたい。だが、実はそうではないと分かると、人々は衝撃を受ける。

筆者が2009年に、村上密が秘密警察を作ろうとしている、魔女狩り裁判をしようとしている、と述べたとき、その言葉を、あまりに大袈裟な誇張だと思って一笑に付した人は少なくなかったろう。ところが、実際にその通りの願望が彼らの口から発せられ、彼らがその通りの行動を取り、信者の身辺調査を行ってそれを無断で公開したり、信者を刑事告訴したり、提訴して法廷に引きずり出そうとし、それを表向きには協力関係にないはずの人間が傍聴しようとしたり、協力関係にないはずの人間が裁判所で閲覧・謄写した記録が、村上のブログから公開されたり、その人間が、和解協議の場で脅しめいた要求を突きつけ、これを相手を震え上がらせるための場として利用し、紛争を可能な限り長引かせることで、生涯に渡って相手を苦しめ続け、報復を果たしたいという欲望を言い表しているのを見たとき、人々はその度を超えた残酷さと復讐心に色を失い、恐れをなして逃げ出すに違いない。

宗教トラブル相談センターにはそもそも何人の協力者がいて、どのような方法で情報を集め、いかなる法的根拠に基づき、収集した個人情報を管理しているのか、最低限度のガイドラインさえ、全く公開されていない。

村上は、ブログには勝手に筆者の個人情報を掲載し、自分に関わりのない紛争に、代理人でも相談役でもないのに、何の資格も権限もなく介入し、他者のプライバシーを暴いておきながら、自分は被害者だと自称して、告訴まで遂げたというのであるから、筆者には実に呆れる話である。
なお、村上密は、第一審の最中、被告Aが20本以上の記事を書いて筆者を中傷していた時にも、一切、被告Aをいさめず、むしろ、被告Aと一緒になって筆者に反訴を予告し、しかも、反訴を実行しなかった経緯があるので、筆者はそうした村上の行動を通して、いかに彼が残酷で容赦のない人間であるかを見ることができた。

さらに、村上は、第一審において、筆者が削除を要求した記事を自ら削除すると途中まで約束していたにも関わらず、前言を翻したのであり、筆者の村上に対する反論が手薄になったのも、村上が自ら記事を削除すると約束していたことを、筆者が審理の途中までは信じてしまっていたせいでもある。

牧師として公の場で約束したことを簡単に翻す、これだけでも、非常に信頼を損なう行為である。しかも、村上が筆者にしたことと、被告Aが筆者にしたことは同条件ではなかったのに、村上は、被告Aと一緒になって、筆者が両者に対して一切の賠償なしで和解するよう要求し、その条件に筆者が応じない限り、筆者に反訴すると予告し、これを実行しなかったのである。

そして、今また被告Aが、賠償金を支払わないまま、控訴審の和解協議の場で、前々回は、筆者に対して訴えを取り下げろと要求し、前回は、和解協議を一方的に蹴ると通告し、協議をいたずらに引きのばし、筆者を苦しめ、目の前でひざまずかせるための要求だけをひたすら突きつけている。

第一審が終わったのが3月、それから今までもはや半年以上が過ぎた。被告Aはこの間、自分からは賠償金を一銭も支払わず、筆者の取立行為を「恐喝」と呼んで非難し、筆者が取立を続けるなら刑事告訴すると息巻き、通話が成立もしていないのに、恐喝の電話を受けたなどと「被害」を主張し、筆者が郵便物を送ってもいない人々に、郵便物を送りつけたと主張、今もただいたずらに紛争を長引かせるためだけに、和解協議を続け、要求の内容も、エスカレートしている。

最初は、筆者の口座番号が分からないから金を払えない、と自己正当化をはかっていたが、控訴審の席上で払うことを提案されても、まだ理由をつけて支払わず、口を開けば、訴えを取り下げろとか、筆者を提訴・告訴してやりたいと、脅しめいた要求ばかりである。

このようなものが、和解を目的にする協議とはとても思えないのであり、筆者は勤務も休んで協議に出席しているため、こうした損害も、別訴の提起があったときには、損害賠償請求の対象となり得るものと考えている。

さらに、被告Aは書面の中で、筆者が告訴したこともない人物の名を複数名挙げて、彼らを筆者が告訴したと断言したり、明らかに誤った、事実に反する告訴罪名で、筆者が被告Aを虚偽提訴したなどと主張して、筆者を非難しているため、これらはあまりにも行き過ぎた事実無根の主張として、訴訟における名誉毀損を構成する可能性が十分にあると筆者は考えている。

被告Aは、この先、和解協議を蹴っても、それで彼にとって色の良い判決が出ることはまずないであろうと予測されるし、それどころか、それによって、彼は刑事事件でも、温情を受ける余地を徹底的に失ってしまうことになるにも関わらず、それでも、未だ筆者を提訴したいと述べ続け、判決に従うことを拒み、先延ばしにしている様子には、合理性が全く感じられず、筆者をとことん追い詰めて人生を破滅させたいという尽きせぬ執念以外には感じるものもない。

筆者は今回、裁判官の勧めも考慮して、被告Aに対する最大限の譲歩を示し、被告Aの個人情報をすべてブログ記事から削除し、被告Aのブログ名や、個人情報に当たらない記述もすべて削除することに同意して良いとまで提案した。

従って、この提案を受ければ、これまで被告Aが要求して来たことは、ほぼかなえられる上、別訴を提起する権利も、被告Aから取り上げられない。それにも関わらず、筆者自身の提案であるその約束を、信用できないとして拒み、たった一つの個人情報さえ本当に削除できるかどうか分からない不毛な訴訟を今後、提起して、筆者にリベンジする願望が捨てられないから判決を求めるなどと主張することには、報復目的以外に見いだせるものはないのであって、そのような態度で示談を拒んで判決に進んでも、その結果、今後の訴訟の展開が、被告Aにとって有利となることはないであろうと筆者は確信する。

そんな風に、合理的な理由もなく、判決を軽んじ、裁判官の勧告をも、相手方の譲歩をも、一切、かえりみず、いたずらに和解協議を長引かせた結果、これを蹴るという態度を取る人のために、今後、真面目に審理を進めてくれる裁判所が、この世に一つでもあるとは、筆者は思わない。

しかも、被告Aは当初、自分から解決金を支払うと述べたのであり、筆者がブログ記事を修正するなら、多少、解決金を上乗せすることができるかも知れないとまで提案していたらしい。なのに、その言葉を途中ですべて翻し、筆者に対する脅しめいた不満を並べ続けた挙句、ついに自ら協議を蹴ったとなれば、彼の言う和解協議とは、ただ相手にいたずらに期待を持たせ、いつまでも苦しめ続けるための機会でしかなかったこととなる。

裁判所は、そもそも報復目的以外に必然性のない無駄な提訴によって、余計な仕事を増やされることを非常に嫌っている上、判決では、筆者にはブログ記事を修正せねばならない義務は全く課されておらず、和解協議はすでに複数回、開かれているため、この間に示談締結をしておけば、筆者はもはや被告Aに対する記事を書けない状況になっていたのである。しかし、それをあえて先延ばしにしているのは、被告A自身であり、それゆえ、現時点でも、筆者は被告Aのことを記事に書いてはならないという義務を全く負っておらず、なおかつ、被告Aは、筆者がブログ記事を修正するために時間が必要であることを分かりつつ、どんどんその時間がなくなるように仕向けているので、このままだと修正さえも不可能となり、期限が延ばされない限り、その条項を外す以外には方策がなくなる。

通常、和解協議の席で、相手を提訴したいという願望など述べる者はまずいないから、今回のことは、裁判所にとっても、一つの教訓となるのではないかと筆者は思っている。さすがに今までは被告Aの言い分にも少しは理があると考え、彼をなだめようとしていた人々も、次第に、被告Aの目指している目的が、決して合理的な解決ではなく、ただ筆者を永遠に苦しめ続けることにあると気づき始め、それゆえ、彼の望みを助けることから手を引き始めたのではないかと感じられる。

そのようなわけで、筆者は示談が結ばれて、互いに個人情報を書かないという約束が成立したならば、それを機に、訴訟に関する記事を書くこともやめ、記事を修正するという約束が結ばれれば、この記事も含め、その約束を忠実に果たす用意はあるが、未だ掲示板での筆者に対する誹謗中傷その他の権利侵害が今も止まらない様子を見るにつけても、個人情報をブログに書くことをやめられないのは、筆者ではなく、「彼ら」自身ではないかと思われてならない。

示談の締結を引き延ばしているのは、それを締結してしまうと、もはや筆者の個人情報を弄び、これを無断で好き勝手に投稿・公開できなくなることに躊躇しているからではないのか。

筆者から見ると、被告Aや村上本人も、彼らの支持者たちも、他人の秘密を調べ上げ、個人情報を暴露したくてたまらない願望を持っているように見える。その抑えきれない欲望を、示談書の締結によって終わらせることができないからこそ、被告A本人も、何かと理由をつけてはその締結を先延ばしにしているのではないのかと思われてならないのだ。

もしもこの予測が的中しているとすれば、今回の協議の落としどころは、被告A自身が最初に約束した通り、ただ賠償を支払って終わりとするにとどまるのであって、それ以上でもそれ以下でもないことになろう。

その最低限度の事項すらも拒めば、今まで以上に厳しいものになると思われる判決が、彼を待ち受けているだけであり、その先には、もう一度、法廷に被告として呼び出される運命が待っているだけである。筆者は、判決が出たとしても、全く恐れはしない。なぜなら、筆者の側からの反撃の材料はすでに多く集まっており、おそらく、判決とほぼ同時に、筆者自身が、村上・被告Aに対して別訴を提起するという運びになるだけだからである。

控訴審では、原審の枠組みから出られないので、以上のような主張を全く提起できなかっただけで、別訴ではそれが可能となる。一審では自由に主張を追加できるからだ。被告Aも村上も、未だ筆者を提訴したいと息巻いている以上、筆者が十分な反訴の材料を蓄えておくのも当然である。

ちなみに、筆者は裁判を提起する前に警察に行って色々と調べてもらうことにしている。警察の判断は、裁判所の判断とそれほど大きく違わないと見えるため、警察が事件を受理するかどうか、どのような罪名で受理するか、といった点は、今後、反訴や別訴を提起したとき、どのような判決が得られるかを予測する大きな参考材料となる。

だから、筆者もこれまでの教訓に学び、勝ち目のない主張で訴訟の提起は行うつもりもないのであって、提訴するとなれば、ほぼ確実に不法行為が認定される証拠のある話に限られることであろう。

* * *

とはいえ、矛盾するようだが、筆者の真の願いは、今後、別訴を提起することにはなく、むしろ、この訴訟の判決を書いてくれた原審の裁判官の判決によって、この紛争を終わらせることにある。

筆者が誰に判決を委ねるかは、筆者自身の個人的な願望によっても決まることであり、筆者は、第一審判決を書いてくれた裁判官が、筆者にとって、筆者のために最終的な確定判決を書いてくれた最初で最後の裁判官となることを願っている。

たとえその判決が、筆者にとって完全な勝利でなくとも、筆者は構わない気持ちでいる。

また、村上が唐沢の陳述書を無断で公開したことも含め、ネット上では、筆者と唐沢治を何とかして訴訟対決させたいと考えて、陰から紛争を煽り、唐沢の個人情報までも、次々と本人の了承なく公開している者たちがいるが、そうした連中を喜ばせても意味がないため、筆者は、唐沢に対する訴訟それ自体を再考することとした。

唐沢はたった一つしか筆者に対する記事を書いていないし、それも「ヴィオロン」に対するものにとどまっている(組み合わせによって著作者人格権の侵害が成立しうることは措いておく)。

筆者は、唐沢の個人情報を無断で公表したことなどないし、当ブログとホームページ以外の場所に投稿をしたこともない。

そこで、出回っている陳述書と書証のコピーを見るときには、よく注意されたい。

当事者が裁判所から送達を受けた書証には、事件簿を綴るための黒紐が写っていない。だが、当事者でない者が、記録を閲覧・謄写し、勝手に公開した書証には、裁判所の事件簿の紐までが写っている。裁判所で記録をコピーする際には、紐を緩めることができるだけで、外すことができないからだ。だから、紐が写っている記録は、当事者に送達された記録ではなく、何者かが裁判所で事件簿を閲覧・謄写した記録であると見て良い。

ちなみに、裁判所で唐沢治の陳述書と書証の閲覧・謄写を行った人間は、何度も言うように、本年10月28日時点になっても、被告A一人しかいないのである。

このようなわけで、筆者の個人情報の漏洩、また、筆者の事件に関わった人々の個人情報の漏洩には、あらゆるところで、被告Aの影がちらついているのであり、そうした状況で、被告Aが個人情報を収集・開示しないという条件の示談の成立に乗り気でない理由は、考えれば誰にでも分かるのではないだろうかと思う。

この状況で、筆者は、様々な点で意見が対立したままの唐沢に対しても、かつては兄弟姉妹と呼び合っていた仲として、対応を考え直すこととした。

不思議なことに、唐沢は、筆者が彼を信頼して書き送っていた頃の最も意義深いメールを、一つも裁判所に提出していない。

唐沢が裁判所に提出したのは、最も無価値かつ無用な内容のないメールでしかなく、それ以外に、筆者が当時、率直に彼を信頼して色々と相談したり、書き送っていたメールがあるはずだが、唐沢はそれらを悪事の記録であるかのごとく裁判所に提出することを控えた。

この点は、唐沢を見直す点である。それは彼自身が、自分が信頼されていた頃に送られた手紙の内容を、自ら衆目にさらすことで、否定し、穢すには忍びないと考え、公開しなかったからである。

このように、唐沢と筆者とのメールのやり取りには多くの「聖域」が保たれたままであり、唐沢自身が裁判所に提出したのは、被告Aに関わる部分だけである。そして、村上が、T第1号証から6号証までの書証を入手したとしながらも、被告Aが筆者の個人情報を無断で公開すると予告するために筆者に送りつけた脅しのようなメールを、唐沢が転送メールとして提出したT第2号証、T第3号証の記録には、言及すらもしていないことも、注目に値する。

このように、唐沢も信徒を告訴した過去があるとはいえ、村上密とは性格が全く異なるのであって、村上がこの度、誰の代理人でもないのに、自分に無関係な牧師や信徒の身辺調査を行って、唐沢治の陳述書を本人の了承もないのに公開し、無関係な他者の争いの火をつけようとした行為については、明らかに、筆者だけでなく、唐沢も被害者なのである。

これは、明らかに、村上が牧師としての一線を超えたものであり、十字架の装甲から外に出た行為だと筆者は考えている。

これまでにも書いたように、もともと村上がこれまで使って来た「代理人」とか「相談役」などという呼び名は、村上が巧妙に他者の悩みに寄り添うように見せながら、他者の意思を絡め取って行き、クリスチャン同士の対立が修復不可能になって教会が分裂するよう、兄弟同士を争わせ、紛争の傷口を押し広げるための口実に過ぎなかったものと筆者は見ている。

鳴尾教会の伝道師夫妻と津村牧師との対立、鳴尾教会の離脱反対派の信者の裁判、Y牧師とT牧師との紛争など、村上が関わって来た紛争は、一つ一つを振り返ると、どれもこれも、紛争当事者が憎み合い、ほとんど永久的に和解不可能となったものばかりである。カルト被害を受けた信者の裁判でも、犯人が逃亡したりして和解が成立しなかったケースもあり、平和裏に紛争が解決したと言えるようなものは、ほとんど見当たらない。

このようなことでは、村上の仲裁者としての力量が根本的に問われるだけであって、ただでさえ「代理人」などの法的な位置づけがよく分からない名称を勝手に名乗って、紛争を激化させてきた村上が、この度、「代理人」という最後の仮面さえもかなぐり捨てて、自分の本音をむきだしにして、ただ筆者を追い詰めるためだけに、自分には無関係の事件記録を不明な方法で調べ上げ、筆者のみならず、筆者に関わる人々(兄弟姉妹)の個人情報にまで手を出し始めたことには、空恐ろしさを感じるのみである。

村上はそうまでして、かつて仲の良い兄弟姉妹のように見えたクリスチャン同士を、何としても引き裂き、分裂させ、さらに法廷でまで対決させて、兄弟同士の罵り合いを世間の見世物にしたいとの願望を捨てきれないのだろうか。そうまでして、教会を分裂に導き、兄弟姉妹を憎み合わせたいのか。

だが、筆者はその作戦には乗らない。そのようなわけで、村上の件では、唐沢も紛れもなく被害者なのであって、それが分かるだけに、筆者は唐沢に対する訴訟は見合わせ、すでに措置を講じた他の方法で紛争解決を目指すこととした。

筆者が目指すのは、法廷闘争ではなく、判決でもなく、あくまで個人の意思を重視した和解である。そのことが、裁判所に関われば関わるほど、ますますよく理解できるようになった。だからこそ、筆者は、このブログを巡る訴訟の第一審判決が、筆者の人生で、最初で最後の確定判決となることを願っているのである。

一審判決では、筆者の村上に対する勝利はない。とはいえ、村上は一応、筆者の牧師であった時期もあるわけだから、筆者はそれでも構わないのである。すでに書いた通り、別訴を提起すれば、村上を不法行為に問える可能性は十分にある。だが、信徒と牧師が法廷で対決する必要はないのであって、責任の追及の方法は、民事訴訟以外にも存在する。前から述べている通り、村上の犯した罪を裁かれるのは、誰よりも神ご自身なのである。

結論に戻るが、こうして、カルト化したキリスト教会による人権侵害を許さない、と一方では言いながら、他方では、ただ自分たちの活動が批判されたというだけで、人権侵害を犯してまで報復行為を続け、魔女狩り裁判に及ぶ宗教トラブル相談センターを、皆さんどう思われるだろうか。

特に、誰からの相談も依頼もないのに、信者の身辺調査を行って個人情報を無断で公開するようなセンターを、皆さんどう思われるだろうか。

筆者は、村上の告訴状を入手した暁には、これを全文公開したいと思っている。牧師が信徒を刑事告訴した際の告訴状が公開されたことなど、これまで一度もないから、これは世界初の現代社会の魔女狩り裁判の貴重な事例となって残ることであろう。むろん、そこにどんな虚偽が含まれているかも、明らかになる。

それに先立ち、筆者が結論として言えることは、どんなにひどいカルト化した教会でも、牧師は信徒を告訴しないし、10年以上に渡って、個人情報を無断で公開して信者への弾劾を続けることもないので、このような恐るべきセンターに比べれば、カルト化教会ははるかにましな場所だということである。

だから、些細なトラブルをきっかけに、このセンターに足を向け、自己の正義を貫き通して戦い続ける道を選ぶよりは、受けた被害のことで、自分にも神の御前に罪があったのではないかと、真摯に悔い改めることを勧めるのみである。

* * *

終わりに、以上は、訴訟シリーズの総まとめとして書いたものであり、このシリーズの再開とはいえ、最後の記事になるかも知れない。

というのは、筆者は最近、とても忙しく、魔女狩り裁判にも興味はないし、無意味な訴訟にこれ以上の時間を割いている暇はなく、宗教論争をしている暇もないのが現状だからである。

特に、筆者は最近になって、いかなる状況でも信頼し、助け合うことのできる人物に出会い、自分の正義を投げ捨てて、人々と協力して生きることの価値を知った。

そして、理不尽な出来事が起きても、権威に忠実であることの意味を知らされ、自分の上に立てられた指導者に服して生きる道を選んでいる。今や宗教団体にも一切関わっておらず、宗教紛争などに巻き込まれるのも御免と考えている。

そこで、カルト被害を防止したいがゆえに、裁判をやりたいという人がいるなら、好きにすれば良いことであり、それに対してとやかく言うつもりもない。

この先、掲示板の権利侵害を追及するためには、訴訟における言語の壁を超える必要があり、申立書の英訳なども必要になると言われており、それも、やろうと思えばできるだろうと疑わないが、正直に言って、今、筆者の最もやりたいこと、やるべきことが、それだとは思えないものがある。

最後に和解協議のために裁判所を訪れてから、筆者の心にひたすら湧き起こるのは、裁判所のもっとそば近くで生きる方法はないか、さらにもっと裁判所の近くに筆者の生きるフィールドを定められないかという願いだけである。

だが、それは決して、法廷闘争を糧に生きたいという願いではないのだ。ただ、真に人々の痛み苦しみを引き受け、これを適切に解決することを、日々自らの責務としている裁判所の仕事と似たような仕事をしながら、筆者は自分の残りの生涯を、紛争処理に携わって生きたいという願いを、改めて確認するのみである。

筆者は、裁判所で起きる出来事に煩わされたり、失望を覚えることがないとは言わないが、それでも、裁判官一人一人が、こじれた紛争を丁寧に解きほぐしながら、感情に流されることなく、これを穏やかな解決に導こうとしている努力と手腕には、いつも敬服している。そこには、やはり、仲裁者としての確かな力量、そして、それができるだけの人間的な度量と経験の蓄積があると思っているし、それを女房役として助けている書記官たちのきめ細やかな配慮と、裁判官との見事な連係プレーにも感心させられている。

裁判所はそれ自体、筆者にとって非常に近しい、身内のような存在であって、そこで、どんなに困難な事件が取り扱われていても、それによって、筆者が裁判所全体に感じている畏敬の念や、親近感が取り去られることは今後も決してないと思う。

判決によって、筆者は裁判所に結ばれたのだが、筆者は、裁判所とのさらなる一致を目指しているのであって、それは法廷闘争を通して達成されるものでもなければ、目に見える建物としての裁判所との一致でもない。ただ筆者の心の中にある「干潟」としての裁判所との、心の完全な一致なのである。

その目的のために、必要な時間を考えると、無意味な係争のために割いている暇などほとんど残りはしない。だから、色々と書いてはいるが、結局のところ、筆者は、今後、すべての裁判手続きから遠ざかりたいという思いを述べているに過ぎない。それは訴訟の提起を恐れているためではなく、たとえ勝てると思う訴訟があっても、これ以上の判決をもらいたいという願いが積極的に湧いて来ないからだ。

これからは特に、紛争当事者としてではない立場から、改めて裁判所の門をくぐる方法を模索することになろう。その前進のために必要であると判断し、あえて今回の記事を書いたが、これも、紛争を激化させるために書いたものではなく、魔女狩り裁判のような執念とは、関係のないところで生きたいという筆者の意見表明に過ぎない。

今回、明確な収穫があるとすれば、それは何となくではあるが、筆者なりに、この紛争の「落とし所」がどこにあるか、分かったような気がしたことである。今後、筆者の気が変わらないとの保証はないが、唐沢も村上の被害者であることを考慮し、唐沢への訴訟は見合わせることとし、村上には勝訴を確定判決として贈っておき、被告Aには個人情報を書かないという約束を抜きに、筆者を提訴・告訴する可能性をあえて残したまま、示談するという選択肢も悪くない。

そして、第一審判決の内容は、永久に人の目から隠され、訴訟記録も隠されたまま、筆者は魔女狩り裁判には永久的にさようならを告げることになる。

被告Aに対するブログ記事の削除は実現しないかも知れないが、当分の間、筆者に対する記事もそのままになる。筆者は、今後、筆者に対する告訴や、提訴が成立すると全く思わないが、そういうことをあえてやりたいと思う人が、筆者を提訴してやりたいとの願望を何が何でも表明したいというなら、それを止めるつもりもない。書きたい人は、自ら法的責任を負う覚悟で、書けば良いことである。

筆者に言えるのは、どんな中傷を浴びせられようとも、筆者は自分の信じるところに従って進んでいくのみであり、その目的のためならば、自分の命を惜しまないことだ。その覚悟は、信仰の交わりにおいても、それ以外のフィールドにおいても、全く同じである。

今は昔となったが、かつて苦難の日々の最中、ただ御言葉だけを頼りに、か細い御霊の声を聞き、何とかしてすべての地上の重荷を脱するために、正しい信仰を求めて、夜行バスで11時間以上もかけて横浜にたどり着き、その後、唐沢の車で、さらに5時間以上かけて、福島の兄弟のもとへ送り届けられたときを思い出す。当時と、筆者の覚悟と決意は今も何ら変わらない。

神の御心を真に満足させる正しい目的のためならば、そして、筆者自身が真実な価値を見つけるためならば、筆者はどれほどの距離をも、代償をも乗り越えて、探求を続けても構わないと、その当時も願ったし、今も願っている。

当時、筆者が夜行バスの中にいる間に、地震が起き、バスは渋滞に加えて、さらに到着が遅れ、携帯電話も持っていなかった筆者は、兄弟たちにいつ到着するのか、連絡さえ取れず、車中で不安な時を過ごした。福島の兄弟は、唐沢に向かって、筆者を置いていけと指示したらしいが、唐沢は待った。彼にはそうしたところで、妙に義理堅く人情に篤いところがあった・・・。

そうした連携プレーのおかげで、筆者はその頃、初めて、信仰によって生きて働く御言葉の意味を知ったのであり、その経験を後悔することは決してないが、それが終着点でもなかったことが分かる。筆者は過去を否定しているわけでなく、過去を乗り越えて、自分の代価を払いつつ、前に向かって進んでいるだけであり、今後も、代価を払うことなしに、筆者の信仰に真実に応えて下さる神の御業を生きて知ることはないと思っている。

だから、その過程で、誰かから提訴されたり、告訴されたり、反訴されたりすることが、どうしても必要だというならば、それを拒むつもりは筆者には全くない。筆者の目指すところは、「私ではなくキリスト」であるから、自分の栄光、自分の身の安全、自分の個人的幸福が、筆者の守りたいすべてではないのである。

とはいえ、筆者の見立てによると、おそらく、筆者は、法廷闘争には向かないタイプであり、それが筆者の生きるフィールドでもなく、魔女狩り裁判に引き出されることが、筆者の運命でもないから、冒頭に挙げた御言葉に照らし合わせても、そういうことは起きないであろうと言っておきたい。すでになされた告訴に対しては、筆者の側からの幾重にも渡る告訴が、これを相殺する手段になるだろうと前々から述べている。

ただ、法廷闘争はともかく、この度、筆者が裁判所と出会ったことだけは、非常に運命的な出会いであり、絆であったと言える。これは筆者の人生の宝であり、判決を通して成就したこの不思議な「干潟」と筆者との「結合」、「一致」は、これからも、おそらく生涯に渡り、続いて行くはずである。

筆者は、判決を通して、裁判所の仕事に結び合わされたのであり、今や裁判所の飛び地のような「家」もでき、そこで筆者の「帰宅」を待っている人たちも現れた。離れから母屋に行くときが、この先も、あるかも知れないし、ないかも知れないが、筆者がどこにいようと、母屋はいつも筆者の心の中にあって、どんなに遠く、顔を合わせることがなくとも、そこに暮らしている「家族」は、筆者といつもつながっている・・・。

このようにして、筆者には新たな「家族」が出来たのであり、裁判所それ自体が筆者の「家」である以上、筆者はこの先、わざわざ訴訟を起こしたり、訴訟を提起されることによって、裁判所の中に入れてもらおうと門戸を叩く必要もないのである。

干潟は今や筆者と一つになり、筆者の心の内側から、命の水が流れ出すようになった。筆者はその水を求めて門戸を叩く側に立っているのでなく、かえってその生ける水を人々に分与して、慰めを与える立場になっている。魔女狩り裁判に関わっている暇はもうない。今後は新たな使命を全うして行くために、残りの時間を費やすだけである。


主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7)

キリストの復活の命は、無から有を生み出すことのできる命であり、この世の経済も、人間関係も、仕事も、すべてを支配し、キリスト者にいつでも必要な助けを供給することができる。

とはいえ、それらはあくまで私たちの精神的生長にふさわしいレベルにおいて、一歩一歩、実現する。私たちが主の死と復活の命を知ったからとて、いきなり一足飛びに億万長者になるとか、桁違いの賢人に引き上げられるというわけではない。

私たちの無力に見える人間的な要素の只中に、キリストが働いて下さり、すべての必要を満たすに十分な不思議な秩序が生まれるのである。

良い人間関係を得るには、キリスト者の人格的生長が必要である。たとえば、本人が無知である間は、周りにも、無知な人々が取り巻くであろうし、心の生長と共に、価値ある尊い人々との出会いが生まれて来る。

今、十年来、筆者の周りで続いて来た混乱に満ちた紛争が、終わりを告げようとしている。筆者の周りには、どんなことが起きても、筆者を決して見捨てず、裏切らず、そして、筆者の言い分の正しさを信じて、筆者の心の求めに応答してくれる人々が現れ始めたためだ。それは敵が長い間、蒔き続けて来た、分裂や、疑心暗鬼といった作戦が、ついに功を奏しなくなって、打ち破られたことを意味する。

しかし、そのように信頼できる人々が現れたのも、筆者自身が、彼らを命がけで愛し、従い抜こうと決意したことの結果であって、筆者が全く心を開かないのに、人々の側だけで、心を開いてくれたり、筆者を信じてくれることはない。

ある意味で、自分が人に与えたものだけが、自分に戻って来ているのだと言うこともできよう。
 
ところで、人に対して心を開くことは、裏切られたり、誤解されたり、離反されたり、不意の別れに至るリスクをも負うことを意味するから、容易なことではない。何より正直であらねばならないため、常に自分の心を試される。もちろん、信頼できる相手を見抜くための十分な知識と経験も必要となることは確かだが、人間関係に初めから100%の保障などというものがあるはずもない。

私たちは、常に様々な試練によって翻弄され、試されながら、自分で望んでいる関わりを、自分で作り上げて行くのである。状況や、相手の態度が、結果を決めるわけではない。物事の最終決定権を持っているのは、私たちキリスト者自身であり、私たちが心に信じ続けたことだけが確固として実現するのである。
 
2009年にキリストの十字架の死と復活の意味を知って以来、筆者は神に従う道を選びつつ、人間の指導者につき従うことを避けて来た。ところが、ここに来て、信仰者でないにも関わらず、目に見える人間としての地上の権威者に対し、神に従うのと同じように、従い抜くことの意味を教えられている。

そこには非常に不思議な、信仰者の交わりにも似た、えも言われぬ満足をもたらす関わりが存在することが分かった。
 
それは宗教団体とは関係のない、ごくごく普通の生活の中で起きていることである。

聖書はこう述べている、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22-24)

これは奴隷制のあった古代ローマ帝国の時代に、奴隷たちに向かって述べられた言葉であり、現代では、奴隷制度の肯定のためかと批判を受けることもあるかも知れない。確かに、奴隷制度は様々な理不尽をはらんでいたとはいえ、聖書はそうした制度の理不尽さを強調して、制度の廃止のために運動を起こすことなどを決して信者に奨励してはいなかった。

むしろ、各時代に、どんなに不合理な社会制度があっても、キリスト者は、あくまで地上において定められた主従関係や、社会の秩序を守りながら、その秩序を転覆させることなく、信仰のない主人に対しても、キリストに従うように従いなさい、その従順によって神に仕えることができる、と教えていたのである。

筆者はここしばらく、以上の御言葉の確かさを教えられている。信仰のない人々のもとで、地上の主人に従いながら、神に仕えることが、実際に可能なのだということを知らされている。

しかも、力づくで脅されて従うのではなく、生活のためにやむなく嫌々従うのでもなく、あくまで自由な意思により、真心から、主人に仕えなさいと言われているのであって、そのような関わりを打ち立てることは、実際に可能なのであり、それによって、天における報いを得ることができると知らされている。
 
それにしても、筆者の人生において実現している物事は、すべてが信仰によって呼び出されて来たものばかりである。

筆者はキリスト者の交わりに属していた頃も、新たな交わりに足を踏み入れる前には、必ずと言って良いほど、兄弟姉妹の心を得られるように、主に祈った。「主よ、あの人の心を私に与えて下さい」と、あまりに大胆かつ率直な祈りをしていたことを、しばしば兄弟姉妹にも、語ったくらいである。

それは、筆者が、見知らぬ交わりの中に出て行こうとする時、自分の生来の力を頼みとして、人々との関わりを築くことができないのを分かって、恐れを感じつつ、ただ主の御名のゆえに、自分がそこで受け入れられ、願っている交わりが実現するよう、神に求めたものであった。

そして、神は筆者がやむにやまれぬ思いから、新たな交わりに足を踏み入れる必要を覚えていることを知って下さり、必ずと言って良いほど、願いに応えて下さり、ほとんど特別と言っても良いほどに親しい交わりを与えて下さったのである。

筆者は、通過したほとんどの交わりにおいて、最も重要な部分を目撃し、必要不可欠と思われる体験を得ることができたと考えている。筆者が自らそれを手放すまでの間、その交わりは有意義であり続けた。だが、当時の筆者は、信仰の有無に関わらず、あらゆる人間関係は、暗闇の勢力によって激しく試され、その試練を乗り越えたものだけが、永遠に価値あるものとして残るのだという事実を知らなかった。

筆者が属した交わりにおいては、絶えず分裂、敵対、信頼関係を破壊するための様々な陰謀や工作がはりめぐらされた。それらすべての策略を乗り越え、信頼関係を守り抜かなければ、交わりを有効に保つことができないという事実を、筆者が知らされるまでには、相当に長い月日と、痛みに満ちた経験がなくてはならなかった。

そうした試みのすべてを耐え抜くためには、ただ現実的な策を講じるだけでは不十分であり、何より自分の心で、大切にしている人々や価値を、最後まで手放さずに、守り抜くための激しい防衛戦が必要となった。

目に見える状況に変化が起きるよりも前に、まず自分自身が、その交わりが、どれほどの疑いの中でも、神聖さを保たれ、守り抜かれることを信じ切らねばならないのである。心の戦いを突破したものだけが、現実生活において、揺るぎない価値として守り抜かれるのであって、防衛を諦めてしまった時点で、結果は確定する。

それが、とりなしの祈りの効果でもあるのだが、それには、とりなしの祈りなどという一般的な言葉では表現しきれないほどの意味がある。愛する人々を、絶対に一歩も退かないという強い覚悟と決意のもとで、敵の陣営から行われる激しい攻撃と圧迫の中から断固、守り抜く姿勢が必要となる。そうした激しい心の戦いに勝利をおさめ、自分の心のすべての恐れを自ら打ち破って、尊い価値ある交わりを保たなければならないと分かったのは、様々な試練によって、実に多くの交わりが、壊滅的なダメージを受け、破壊され、離散して、だいぶ後になってからのことであった。

私たちは、敵のあらゆる攻撃から、自分たちの交わりを信仰によって守る必要がある。そうして敵の放つ死の力によって触れられることなく、それによって滅ぼされなかったものだけが、復活の領域に移行し、揺るぎない価値として残るのである。

そのようなわけで、筆者が受けた判決文も、バプテスマを通過することを求められた。判決を放棄せよと求められたこと自体が、筆者にとって、一種の「死」を意味した。これは王妃エステルが王の前に進み出るに当たり、死を覚悟した瞬間にも似て、筆者が、価値ある宣言を守り抜くために、与えられた試練であった。

だが、こうして判決文が筆者と共に、信仰よって試されることになったのは、非常に良い契機であり、また必要不可欠な試練だったと言える。なぜなら、それによって、私たちは新たに死をかいくぐって、復活の世界に移行することができるからである。

筆者はすべての恐れに打ち勝って、これを守り抜くことができると確信している。そして、洪水のあとには、静けさと平和が訪れ、以前のような戦いはもうなくなることも。その領域に移行した時こそ、以下の御言葉を大胆に宣言できるだろう。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり

 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

このような天的秩序が実現するためには、私たちが深く主の死の中にとどまることが必要であり、それだからこそ、筆者が大切にしている価値は、常にあらゆる方法で試され、信仰によって試され、死を経由して復活の領域に移行し、そこで目に見えない永遠の証印を押されなければならないのである。

判決文は、筆者にとって、初めから、死んだ文字ではなく、実に不思議な効力を及ぼして、筆者に生きた命に溢れる出会いを与えてくれるものだったのだが、それが復活の領域に移行した後では、今まで以上に、不思議な効力を持つものへと変わるだろうと思う。

それはもはや紛争当事者に対する法的宣言などという意味合いをはるかに超えて、永遠に至るまでも変わらない、神から筆者へ向けられた愛の宣言のような効果を持つものとなり、常に筆者の生きているそば近くに、この地にいつまでも約束としてとどまり、筆者のみならず、筆者の死後に至るまで、広域に渡り、影響を及ぼすだろうという気がしてならない。
 
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 
それは未来に起こることでありながら、同時に現在起きていることなのであり、筆者は、信頼する人たちと共に、その宣言がもたらす洪水のような愛の只中にすでに立たされていることを感じている。その生きた宣言あればこそ、現在の人間関係も与えられたのであり、その交わりはこれから生長し、深まって行くものなのである。

判決文に限らず、すべての言葉は、筆者から見ると、実体を呼び起こすための命令である。命令としての効力を失って、抜け殻となった言葉は、もはや言葉とは呼べず、単なる死んだ文字の羅列でしかなく、筆者は、そういうものを憎んでいる。

だから、法的効力を失った判決文などというものを、筆者は考えることさえできないのであって、元来、言葉というものは、およそすべてが命を保った、実体の伴う、生きた効力を持つものでなければならず、権威ある命令でなくてはならない。

私たちキリスト者は特に、自分は神の力ある御言葉によって生かされているのであって、目に見えるすべてのものは、神の言葉によって保たれていることを信じている。その言葉とは、うわべだけの文字の羅列でなく、神が最初に天地を創造され、「光あれ」と命じられた時と同じ、真のリアリティとしての言葉である。

だから、判決文が、その効力を保つかどうかという問題は、筆者にとっては、筆者自身の生死に直結しており、それはつまり、筆者が、この先、命なるキリストご自身を知って、その御言葉によって生かされることの絶大な価値を知った後の、生きた言葉の世界にとどまるのか、それとも、キリストご自身に出会う前の、一切の希望のない、死んだ文字の世界に自ら逆戻るのか、という問題に直結している。
 
それは筆者がエクソダス前の世界に戻るのか、エクソダス後の世界にとどまるのか、という分岐点でもある。

エジプト軍は、何とかしてエクソダスを押しとどめようと、武器を手に主の民を追って来るが、私たちはすでに紅海を渡ったのであり、時計の針を逆にして、エジプトに戻って罪と死の奴隷になることはできない。

筆者は、ただ時間軸を逆にできないから、キリストを知る以前には戻れないというだけでなく、新たな出会いによって生まれた愛の関係が、あまりにも強く、死によっても断ち切れないほど強いものであるから、それに出会う前の自分に戻ることは決してできないと言う他ない。

そのことは、人がキリストに出会って、花嫁なる教会として完成するためには、「その父と母を離れ」、すなわち、自分の生まれながらの出自に死んで、新たな出会いに向かうことが必要であるという次の御言葉にも重なる。

「「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31-32)

ウォッチマン・ニーが、このことを『キリスト者の標準』の中で巧みに表現している。人類は、キリストの十字架を知って、救われる以前には、アダム、もしくは、モーセの律法(罪と死の法則)という残酷な「夫」に結ばれて、己が罪のゆえに絶えず責め立てられ、罰せられ、奴隷として売られ、過酷な生活を送っていたが、主と共なる十字架の死によって、その悪しき天然の関係が断ち切られ、キリストを新たな主人とする「再婚」が成立し、私たちは新たな自由な生活に入ったのだと。

エクソダス前の世界は、律法の支配する世界であり、そこには、罪と死の法則だけが働き、人は絶え間なく死の恐怖に脅されて、暗闇の勢力に屈従するしかない。それは不自由と、苦痛の満ち溢れた世界である。それは生まれながらの父母、すなわち、アダム来の出自が支配する世界である。

だが、神は私たちを暗闇の支配から連れ出し、愛する御子の支配下である、エクソダス後の世界へと導かれた。私たちはそこで生まれながらの「父と母を離れ」、新たな主人であるキリストに結ばれて、命の御霊の法則の中を、自由と安息の中を生きる。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

これは花嫁のベールアウトの瞬間であると以前に述べたことがある。ただ罪と死の法則から解放されるだけでなく、神と人とが、顔と顔を合わせて相見え、「似た者同士」へ変えられる。人類にとっては、弱く、劣って、みすぼらしい生まれながらの出自に死んで、神の栄光を反映し、キリストの性質を内側から付与されて、主に似た、新しい者へと変えられて行く過程である。

これが、キリストとエクレシアとの「結婚生活」であり、その生活は、私たちにあまりにも大きな平安、安息をもたらすものであって、そこには愛に基づく自由な関係が成立しており、栄光に満ちた変容がある。

そこで、このような絶大な解放、栄化の恵みが、信じる者に約束されていることを知ってしまった後で、再び以前の世界に、すなわち、「父と母」(アダム来の出自)に戻ることは、もはや不可能である。

そのような復活の領域へ向かう過程で、判決文のみならず、筆者自身や、筆者の人間関係や、筆者の交わりも、すべて絶え間なく、十字架を通るよう、試されており、死をくぐることによって、新たな価値としてよみがえらされている。

筆者の側で必要なことは、どんなに試みられても、心の中で、固く信頼を保ち、価値ある宝を手放さずに保ち続けることである。

保ち続けるとは、絶えずエクソダスを経て、復活の領域にそれらが保たれるよう、筆者にとってかけがえのない価値であるもの、人々を、絶えず守り抜き、かくまうことである。
 
それは言葉を変えれば、愛し、信頼し続け、呼び寄せ続けることを意味する。必ずしも、愛には愛で応答があるから、誰かを愛する、というものではない。地上でどんな関わりがあろうと、応答があろうとなかろうと、その関わりを決して手放したくない、敵に渡したくないと願うならば、自分の側からの愛と信頼を、どんなことがあっても、投げ捨ててはならないのである。

私たちが信仰の領域で、手放さなかった関係だけが、永遠に至るまで残り続ける。この法則性はすべてにおいて同じである。私たちの生活も、健康も、経済も、何もかもすべてが、私たちの信仰にかかっているのであって、信仰の領域において、私たちがあらゆる試みにも関わらず、確固として守り抜いて手放さなかったもの以外は、すべて滅びゆくものとして消え去って行くことになる。
 
そのことが筆者に分かるまで、相当に長い歳月が必要であった。だが、それを学習するために、最も必要だったのは、筆者が命を投げ打ってでも、自分自身がどうなっても構わないから、自分のすべてと引き換えにしてでも、守り抜きたいと思う交わりや、人々、価値に出会うことだったかも知れない。

キリストと信じる者とが、非常に強い信仰による愛の絆によって一つに結ばれているように、その他の人々との間でも、同じような強固な愛と信頼による連帯が、生まれることが必要だったのである。

神の御言葉は、相当以前から、筆者の心に蒔かれ、筆者の内側で発芽し、霊的には一つとなっていたが、筆者は、自分一人だけでは、主の御身体なる教会を完全に構成することができず、主の御思いを表すためには、団体に編成される必要があった。

敵はそれを全力で妨害し、筆者が決して人々と連帯しないよう、分裂や、悪評や、疑心暗鬼の種を蒔き、筆者を人々から引き離そうとしたが、判決は、そうして蒔かれた不信を打ち破り、筆者を信頼へと導き、筆者と人々との間に、確固とした協力関係、連帯が成立しうることの最初の強力な証しとなった。

主の御言葉が、筆者の霊に刻みつけられ、神との関係を再生させたように、人の書いた言葉である判決も、不思議な形で、筆者の心の中に刻みつけられ、筆者の人間関係を新たに再生させたのである。

そこで筆者は、以前には、信仰のためならば、命を賭しても構わないと、絶えず告白し続けて来たが、現在は、そうした生き方が、主に対して仕えるように、人々に仕え、人々を愛し、信頼するために、自己放棄するという生き方の中に実現するようになった。

以前には、筆者は、自分には確固とした信念があると思っていたが、今はかえって、人々の方に、筆者よりも、まさった信念、あるいは、高い目的があり、権威ある言葉や、宣言を発することができる人々がいることも分かったので、そうした人々を見ると、筆者は喜んで自分の考えを投げ捨て、彼らと共に協力して進んで行くようになった。

信仰者であるかないかはもはや関係がなく、信仰がなくとも、そこに信徒の交わりに非常に近い、それと同じくらい、愛情や、配慮に満ちた、強い信頼で結ばれた関係が成立している。筆者は、彼らに信仰がなくとも、自らの信仰によって、彼らを覆い尽くし、彼らを十字架のバリケードの中に入れてしまう。

そのように自由で新しい協力関係が、気づくと始まっており、筆者はもはや一人で生きているのではなく、キリストの目に見えない御身体なる団体の一員として召されている事実を発見した。また、そこで間接と関節をつなぎ、命を流し出すための管として置かれている役目が分かってしまったので、その役目を発見しなかった以前に逆戻ることはできない。

おそらく、生ける水を流し出すための干潟の掘削作業の中で、その水の流れを押しとどめていた最後の障害を、判決はぶち抜いて取り払ったのである。

だから、今や前から書いている通り、この不思議な名のついた土地から、全国に向かって、命の水が、生ける水の川々が、奔流のように流れ出す時が来ている。それはやがて洪水のようにすべてを覆い尽くし、やがて命が死を飲み尽くしてしまうだろう。

その頃には、筆者が辿って来た苦難の痕跡など、人が思い出すこともなくなるに違いない。筆者自身は、それを覚えているが、それも慰めや励ましによって、良き思い出に変えられていることであろう。

今、巨大なパイプラインからの放水作業が、すでに始まっているのであって、この作業はもはや何人もとどめることができないほどの勢いになろうとしている。

神は人々を死に至らしめるのではなく、立ち帰って生きることを望んでおられるのであって、尊い御子の犠牲の上に、神が自由を宣告された人々を、再び死の恐怖の奴隷とすることは、誰にもできない。

神が結び合わせたものを、人が引き離すことはできない。そこで、キリストとエクレシアとが強い愛と信頼の絆で結ばれているように、エクレシアの只中にも、愛や慰めや配慮に満ちた命が駆け巡っているのであって、一人一人はそこで助け合い、支え合う関係に置かれているのであり、これらをばらばらに分解して、再び出会わなかった以前に引き戻すことはできない。
 
主の民を追って紅海を渡ろうとしたエジプト軍は溺れ死んでしまった。主の民を絶滅させようと企んだハマンは木にかけられて吊るされた。筆者に命を与えた宣言を無効化しようなどと考える人々がいれば、かえってその人々自身が、命を奪われることになる。
 
筆者には、目には見えずとも、筆者のいる干潟から、命の泉がすでに激しい流れとなって湧き出ていること、祝福に満ちた流れとなって、筆者の周囲を潤していること、やがては洪水のような流れにさえなって行くだろうことが確信できる。敵にとらわれていた人でさえ、その様子を見れば、立ち帰って、その恩恵にあずかりたいと願うことであろう。

多くの人々が、敵の策略によって分裂、離散したが、同時に、信仰によって、多くの人たちを獲得し、さらにまさった交わりを得ることができた。その交わりは、未だかつてないような深いレベルに達しており、筆者の弱ったところや、欠けたところをも、覆い尽くしてし、互いの弱さをかばい、支え合うことのできる命の交換が確かに行われていることが分かる。

だから、いつの日か、紛争などというものがかつてあったことさえ、忘れ去られる時が来よう。それよりも、こうして、団体としての体が、少しずつ組み合わさり、生ける霊の家として生長しつつあり、御座から始まる、激しく、同時に、優しく、清らかで、澄んだ、生ける命の水の流れを、ようやくこの地から、本格的に流し出す作業が始まったことが、大きな喜びである。

この見えない事業の価値を確かに知っている人は、ほとんどいないが、筆者には、非常に長期に渡る壮大な事業が確かに開始したことが分かり、それがやがて多くの人々を潤すときを待ち望むだけである。
 
「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の満ちにとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 神に逆らう者はそうではない。
 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 神に逆らう者は裁きに堪えず
 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩編第1編)