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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

毎年、2、3月は、筆者が静かに冬眠させてもらいたいと切に願う季節だ。一体、なぜ大人の社会には、春休みというものがないのか。

筆者のような人間は、この時期、ひたすら家に閉じこもり、世間に顔を出さずに、布団でもかぶっているのが無難である。これは筆者が若い時分から、一年で最も気力が衰える時期であり、そのエネルギー枯渇の習慣は、全く変わらない。

2月には、絶望的な気分がどっと押し寄せ、すべてが嫌になり、活動意欲がゼロに近くなる。3月には、ただ生き永らえるだけで精一杯となる。春にたどり着く直前に、新年度の戸口に手をかけたまま、ばったり倒れてそこでお終いになってしまわないために、かろうじて生きているとしか言えない状態になる。

それにも関わらず、社会は立ち止まってはくれない。そこで、筆者は起きて来る出来事に対処する能力がなくなり、うつ状態にも近い絶望的な気分で、やっとのことで春にたどり着く。

今年も例年にならって、この時期に、未だかつてない悪い出来事が連続して起きた。筆者はそれに対処する気力もなく、絶望的な気分で、信頼していた人々の助けさえも拒んで、自らより一層の絶望的な窮地に立った。

それと同時に、なぜか世界にも、コロナウィルスという未曾有の災難が押し寄せた。しかし、もともと何もなくとも、たとえようなく陰鬱な気分になる季節だけに、世界的な災禍も、筆者にとっては大した出来事には感じられなかった。

とにかく、生きて行かねばならない。何が起きようと、歩みを止めるわけにはいかない。あらゆる災禍に立ち向かうしかない。自分の痛みと疲労に無感覚になってでも、日々、新たな一歩を踏み出すしかない。
 
ところが、3月になると、信仰による新たな友・協力者も現れて、筆者の回復のために祈ってくれた。そこで、桜の咲く頃には、絶望的な気分も振り払い、3月最後の雪の降る寒い日曜日には、筆者はすべての災難に自ら立ち向かって、これを打ち破って生きる気力をほとんど完全に回復した。

今もみぞれまじりの冷たい雨が外では降っているが、筆者は全く天候に左右されず、果たさねばならない仕事を果たした。
  
祈りの力は大きかった。ただ単に暖かくなって、活動意欲が回復したというだけにはとどまらない。長年に渡り、失われた人生を取り戻すための、内なる大いなる力が回復してきたのである。

地中深く蒔かれた種も、春が来れば、その気配を察知して、固い殻を破って発芽する。そのように、神がお与え下さった筆者の命に込められた回復の力が、自然と効力を発揮し、ただ生きるために生きるといった次元ではなく、心身の深いところで、どのように生きたいのかという願いが、何かを成し遂げるための力が湧いて来たのである。

筆者が頼るのは、人でも、状況でもない。主なる神ご自身である。筆者がどんなに愛する人間も、肉なる弱い人間に過ぎず、筆者を助けたり、支えたりする力はない。もしも人に助けを求めれば、共倒れに終わるだけである。

だから、筆者は人ではなく、神に助けを求める。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

いつ御前に出て
 神の御顔を仰ぐことができるのか。

昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。

わたしは魂を注ぎだし、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。

わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの血から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く。

昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。
(詩編42:1-9)

かつて筆者が嵐のような苦難の中で、主に見え、十字架のキリストを知った日のことを思い出す。多くの友が、神が力強い御腕を持って、筆者を窮地から救い出して下さったことに、快哉を叫んだその時のことを。

苦難や試練や孤独は、何と人の心を神に向けさせるのに好都合であろうか。もしも孤独がなかったなら、苦難がなかったなら、どうして筆者が真剣に神を呼び求めることなど起きようか。

だから、何が起きようと、落胆する必要などなく、すべてのことに感謝し、すべてのきっかけを主なる神に心を向けるために使うべきなのである。

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。

わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。

もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
(詩編51:12-19)

静かな平安が心に満ち、暗闇の中で目を凝らせば、すべての問題に対する解決が、もうすぐそこにあり、手の届くところに、おぼろげに見えているのが分かる。それは人の耳にはとらえがたい霊の歌のようである。人の思いをはるかに超えて、主の静けさ、平安の中に住み、主からすべての物事の解決を受けなさい。

心静まっていると、カルバリの十字架において取られた勝利が、筆者の人生に適用されるのが分かる。主が血潮を適用して下さる。あなたの人生のすべての問題に対し、主ご自身が解決となって下さる。主は災いの日に、ご自分の僕たちが、損失を被ることがないよう、一人一人、印をつけるように見つけ出し、助け出して下さる。だから、恐れることは何もない。

キリストは、へりくだった方であり、私たちを苦難から助け出すことを、まるでこの上ない光栄のように考えて下さる。私たちの心の渇きを、慰めによって満たして下さり、すべての問題に対し、解決となって下さり、心を煩わせないようにと言われる。

だから、私たちは静かに主の助けを待つべきである。主の霊は、私たちのために給仕する姿を取り、僕のようにへりくだって仕えて下さる。その謙遜を知るとき、私たちの心は一層、砕かれて柔らかになり、慰めを得る。

そして、心の深いところから、霊のうめきのように、賛美と感謝の歌が流れだす。

私の魂よ、神を待ち望みなさい。大いなる方を。地上の何ものでもなく、ただお一人の神を、その清い、尊い霊を真直ぐに待ち望みなさい。主は必ず、あなたの呼び声に応えて、あなたのもとに来て下さり、あなたを満たして下さる。主は遅れることはないし、あなたを見捨てられない。

だから、私の魂は、主に向かって、感謝と勝利の歌を歌う。そして、私の愛する方は、地上の何者でもなく、天に住まわれるただお一人の神であると告白する。たとえ全地のすべてのものが、これを否定し、嘲ったとしても、私は疑わない、主が私のために勝利を取られたこと、そして、私を生きている限り、守り、支えて下さることを…。

そういうわけで、この先も様々な苦難に対し、勇気を持って、立ち向かって生きて行かねばならないが、主が筆者の勇気となり、力となって下さると信じられるため、筆者には、恐れることは何もない。
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それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
 愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、
 あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
 愛がなければ、無に等しい。

 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
 愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。
 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。
 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
 幼子のように思い、幼子のように考えていた。
 成人した今、幼子のことを棄てた。

 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
 だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。
 わたしは、今は一部しか知らなくとも、
 そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
 その中で最も大いなるものは、愛である。」

(Ⅰコリント13:1-13)
 
世界中で緊急事態が展開する中、我が国だけは、まるで何事もなかったかのように日常に戻りつつある。さすがにあの原発事故をさえ、何事もないかのごとくやり過ごそうとした国だけのことはあると感じる。

筆者の周りでは買い占めも起きていなければ、騒動もない。もちろん、勤務が休みになることもない。当ブログでは、オリンピックは決して開かれないと予想しているが、それ以外の点において、この国の人々が危機に直面しても、まるでないがごとくにそれをやり過ごす力には非常に驚かされる。

筆者は、日常生活を一歩一歩、踏みしめながら、素朴な生活を守り抜いて生きることが、非常事態に対する確かな抵抗であると感じている。

ところで、冒頭に挙げた御言葉は、キリスト者でも、往々にして、耳を塞ぎ、口に上らせることも避けて通りたいと考えるような、最も身につまされる箇所であり、教会でも、結婚式が行われる時などを除いて、滅多に語られることもない箇所だ。

なぜなら、この御言葉を語ると、クリスチャンは自分の愛の卑小さ、非力さ、自分自身の人格の未熟さ、欠点を思い知らされ、神と人との前で、恥じ入らずにいられないからだ。

牧師たちも、往々にして、この御言葉とは正反対の人生を歩んでいる。忍耐はないし、情け深くもなく、妬みと競争心に燃え、自慢話が大好きで、高慢に人に説教をする。その上、復讐心が強く、些細なことでいつまでも相手に恨みを抱いて赦そうとせず、時に平然と嘘をつき、人を侮辱し、黙って理不尽を耐えることなどまっぴらごめんという態度である。

そこで、そんな牧師たちはもちろんのこと、信者たちも、この箇所を語るとき、そそくさと足早に通り過ぎようとする。そして、ほんの少しだけ立ち止まっても、要するに、これはキリストの愛、神の愛のことを言っているのであって、自分たち人間の愛などはそれに遠く及ばない、これに倣おうと思っても、人間は未熟だから、なかなかできないものだ・・・、などと自己弁明の言葉を添えるのが通常である。

とはいえ、筆者には最近、この箇所が思い浮かんで来るようになった。そして、この御言葉は、そんなにも非現実的なことを言っているのではなく、キリスト者の自然な生長段階をよく示しているだけのように感じる。

それは筆者の周りに置かれている人々の質、そして状況が、今までと全く変わって来たためでもある。

最近、筆者は人々に誤解され、根拠のないことで悪しざまに言われ、嘲笑の的とされ、あるいは、自分の努力の成果が正当に評価されなくとも、その理不尽に耐える力が、以前よりも、少しずつ、増し加わって来たように感じる。

地獄の軍勢から来ているとしか思えない集団的な悪意に取り囲まれるときにも、恐怖に立ち向かう力が、前よりはるかに養われて来たように思う。

状況は相変わらず困難に満ちているにも関わらず、筆者が恐怖を感じることが、だんだん少なくなって来ている。それもこれも、天はすべてを見ており、すべての出来事の本当のありようをちゃんと観察している方がおられるという確信のゆえだ。

天においてのみならず、この地上の人間社会においても、多くの人がうわべだけの様相を見て誤解するようなことがあっても、事の真相を見抜いている人は、どこかにいるものだ。ただ一人であってもいいから、筆者が自分の苦労を真に知ってもらい、評価してもらいたいと願う人が、真実を知ってくれれば、それでばいい。その誰かがわざわざ言葉をかけて筆者をねぎらってくれずとも、真実が知られているというだけで十分なのだ。

つまり、筆者の受けた苦しみを知っていてくれる人が、天においてのみならず、この地上においても、どこかに存在している。たとえ声に出して共感を示さずとも、その痛みを分かち合ってくれる人が、どこかに存在している。そのことが分かっていれば、自分の受けた苦しみが、ただちに取り去られずとも、不合理な状況が、ただちに改善せずとも、失ったものに償いが与えられずとも、慰めを受け、心安らいでいられる。

それは不思議な平安である。

これまで長い長い間、筆者の苦悩を受け止めることのできる力を持った人間は、ほとんど現れなかった。そのことが、筆者の人生の悲劇だったと言っても良い。ところが、近年、そういう力を持った人々が、ちらほらと複数、現れ始めた。順調なときだけ、喜んで付き合うのではない。逆境の時にも見捨てず、根気強く向き合うことのできる人。

もちろん、筆者は誰にも依存するつもりはないので、理想的な人物の到来を待つつもりはないし、他者に向かって、長い長い愚痴を吐露し、説明に説明を重ねたりして、理解を乞うようなこともしたくない。苦しみを分かち合うにも、ほんの一瞬の語らいで良い。いや、語らいさえ成立しなくても良い。ただ受け止められている、理解されている、知られている、という確信が、ありさえすれば良い。

それがあるだけで、状況が根本的に解決しておらずとも、あるいは、自分の望みの通りに物事が運んでおらずとも、苦しみの元凶となる出来事が何ら取り去られたわけでなくとも、心が満たされるし、勇気を出してそれに立ち向かって、進んで行く力が与えられる。

そういう意味で、自分を理解できる力を持った誰かに、自分を知ってもらっている、という感覚は、大きな安心感をもたらすし、心を強くする。

だから、神に自分を知っていただいていることが分かれば、人はとても心を強められるはずだ。次の御言葉にもある通りだ。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

グノーシス主義者は、自分が神によって「知られる」客体であることに反発を示す。彼らは自分たちこそ「主人」になりたいので、客体とされることを侮辱のように考えている。そもそも彼らは、創造主なる神がおられることを認めず、自分たちは造られた者であって、被造物に過ぎないという事実にさえ納得しない。

だが、筆者はそうは考えない。神に知られていることは、人にとってどれほど光栄なことであろうか。人は働くとき、雇い主の満足を考えないだろうか。ペットは、飼い主に喜ばれることに、生きがいを見いださないだろうか。

筆者の飼っているペットたちは、筆者から眼差しを注がれる瞬間を切に待ち望んでいる。筆者の姿を見ると、飛び跳ねて喜ぶし、鳥も筆者の行くところどこへでも後を追って飛んでくる。

彼ら動物たちは、筆者によって知られ、存在を喜ばれ、受け止められていることに、慰めと光栄を見いだしている。筆者が姿を現すこと、筆者が彼らの存在を受け止めることが、彼らの喜びであり、光栄である。その関係の中に、どうして侮辱や、卑下などが存在し得ようか。

それと同じように、筆者も、筆者を愛し、受け止めることのできる者の眼差しによって見つめられ、知られ、受け止められる瞬間を、光栄なものとして待ち望んでいる。

もちろん、神以外に、人の心を隅々まで理解し、人を愛し、受け止めることのできる方はいない。だから、筆者を完全に理解できる存在とは、神に他ならない。

とはいえ、地上においても、神と人との関わりを表す絵図として、人を深く理解することのできる人間たちが時折、現れる。信仰の友の中にも、そうでない人たちの中にも。
 
そういうわけで、筆者の周りに現れる人間の質が、近年、変化して来たのを感じる。もちろん、残念なことに、以前よりも状態が悪くなって、理解が成立しなくなって去っていった人々もいるにはいたが、その反対に、非常に稀有な理解を示す人々も現れて来たのである。

そういう人たちから、ほんのわずかな助けを得るだけでも、筆者は心満たされ、十分に一人で歩いて行ける力をチャージされる。そういう人たちが存在すると分かっているだけでも、心を強くされる。

そうして、他者の強さによって、筆者が自分の心の弱さを覆われるとき、筆者は、自分自身もまた誰かに対しては、とても強い人間であること、筆者の強さも、他人の弱さを覆うために役立つことが分かる。

そのとき、黙って他者の弱さを担うことができるようになる。自分が誰かをかばってやったなどと吹聴して、他人の前で誇る必要はないし、他者の弱さを暴露する必要もない。むしろ、黙って、他者の弱さを身に引き受け、自分のもののように負うだけで良いのだ。

そうして、黙って、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを負ってご覧なさい! そうすれば、そこにどれほどの栄光が与えられるか、試してみれば良い。弱いはずにも関わらず、そこに神の強さが働き、苦しんでいるはずにも関わらず、慰めが与えられる。窮乏しているはずなのに、満ち足りており、迫害されているにも関わらず、行きづまりに達することなく、何にも不自由のない、十分に恵みを受けた人間として、すべてに毅然と立ち向かい、尊厳と喜びを持って、すべてに勝利をおさめることができるようになる。

「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12:7-10)

筆者が地上において何をどれだけ耐え忍んだか、それが誰のためであって、誰がそれによって利益を受けたのか、そんなことを誰にも説明する必要はない。それを知っていて下さる方は、神だけで良い。神が筆者の苦労を知って下さり、ねぎらって下さりさえするならば、筆者はどこまででも人の誤解を恐れずに進んで行くことができる。

主が筆者の労苦をねぎらって下さるのが、いつなのか、筆者は知らない。だが、いつかその出会いが来るときまで、筆者はこの地上において奮闘を続ける。その時がくれば、筆者は、主と顔と顔を合わせるようにして向き合い、筆者は自分の心の労苦が、すべて主に知られていることを、鏡に映すように知らされて、心から安堵を覚えるだろう。また、その時に、はかりしれない忍耐を持って人を愛して下さる神の愛の大きさをも、はっきりと鏡に映すようにして知らされることになろう。
 
今、筆者のこの手には、ただ自分自身以外には、自分の心以外には、捧げるものが何もない。しかも、それは様々な痛みや苦しみや悲しみを通過して、踏みしだかれたり、乱暴に扱われ、擦り切れて、よれよれになって、古びかけている筆者の真心である。しかし、飾らず、気どらず、あるがままの正直な心である。

その気取らない真心を主に捧げる以外には、筆者には差し出せるものがない。だが、そんな古びた心にも、キリストと共に十字架の死を経由するなら、主の復活の命によって、新しい命の力が注ぎ込まれる。

いつの間にか、苦しみは慰めに満たされ、悲しみが喜びに取って代わり、弱さが強さに覆われて、勇気が与えられる。すると状況は何も変わっていないのに、心の中心に立っておられるキリストの命の統治により、すべてが徐々に変えられて行く。

そういうわけで、命の水を注ぎだすためのパイプラインは今も作動中である。筆者が休業の札を置いておきたいと願うときにも、それは休みなく稼働したままであり、筆者はその水を流し出すための生きた通路とされている。

ウォッチマン・ニーが「血の高速道路」と呼んだものが、筆者を切り裂いて作られている最中なのである。つまり、命の水を流し出す作業は、人が割れたビスケットのようにならない限り、決して完遂できないものであって、私たち信じる者の痛み苦しみの只中に働く死なくして、復活の命が流し出されることはない。

だから、筆者は死の立場に甘んじるしかなく、日々、水の下に沈められ、殺されていると言っても差し支えない。その死と引き換えに、命が人々のもとに届けられているのである。それが筆者の役目となり、職業のようになり、筆者が建設しているパイプラインは、まさに筆者自身を切り裂いて作られている通路である。

とはいえ、それは筆者が一人だけで完遂する孤独で苦悩に満ちた悲惨な体験ではないし、無意味な自己犠牲でもない。主が共にいて下さり、筆者の労を知ってねぎらって下さっているので、それは孤独ではなく、耐えられない試練でもない。

むしろ、非常に逆説的なことに、そこには大きな喜びがあり、慰めが伴い、何より、愛がある。神への愛、そして、人々への愛がある。復活の命は、人々のためだけではなく、まさに筆者自身のためにも与えられているものなので、そのパイプラインの恩恵を真っ先に受けて、命の力によって満たされ、強められるのも、筆者自身である。

主は、絶対に筆者を見捨てられない、と言われる。だから、筆者は、自分を取り巻く状況を変えるために、終わりなく弁明したり、奮闘すまいと決意している。主が共にいて下さり、すべてを知っていて下されば、それだけで満足である。その命なる方にこそ、すべての解決があることを筆者は知っているからだ。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)


すべて肉なる者は知るようになる わたしは主、あなたを救いあなたを贖うヤコブの力ある者であることを。 

「シオンは言う。
 主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。
 
 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
 あなたの城壁は常に私の前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃墟とした者はあなたを去る。
 
 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。

 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。
 
 破壊され、廃墟となり、荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子はら
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕えられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。
 
 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を知につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕われ人を救い出せるであろうか。
 主はこう言われる。
 捕われ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。

 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救いあなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。」(イザヤ49:14-26)

* * *
 
オリンピックは、当ブログで再三、予想して来た通り、開催できずに終わる道筋がかなり現実的なものとなって来た。

また、この機に乗じて緊急事態宣言を狙っている人々がいるようだが、それは多分、叶わないのではないかと筆者は考えている。この点について、筆者自身は、よくは分からないし、在宅勤務で給与をもらえるならば、それが最善だと思っているのだが、筆者のいる職場は、テレワークにも、在宅勤務にも対応しておらず、そんな近代的な対応を期待できるところでもない。

だから、緊急事態宣言に伴い、外出禁止令が出され、出勤が停止されて在宅勤務になる…という「夢のような」話はあまり思い描けない。そして、筆者は日常生活が制限されたり、外出が禁止されることなど全く望んでいない。

「ウィルスのせいで内定取り消しになった人もいるのに、在宅勤務を望むなんて、ヴィオロンさんの話は不謹慎だ!」とおしかりを受けそうだ。

確かに、そういう批判が出てもおかしくないほど、街は殺気立っている。日曜日に外へ出ると、平和に見える家族連れさえ、殺伐とした雰囲気を漂わせており、ディスカウントストアに行くと、カップルのうち、まだ若い女性が、レジの店員をヤクザのようなまなざしでにらみつけている。「ウィルスをうつすなよ」と目で合図しているのかも知れないが、何と殺伐とした光景だろう、日曜日の家族の平和な買い物だというのに・・・。

筆者はというと、持ち物の修理のために、初めて行く店をネット上で探して家を出たが、日曜に予約もなく、もう夕方に近い時間帯になってから動いたというのに、思いがけなく、とんとん拍子に話が進んで、すべての必要がかなえられた。事前の説明では、できないと言われていたことさえ、可能となり、自前での修理であったとはいえ、とても嬉しくなってしまった。

ここのところ、筆者の日常生活においては、極限的なストレスが津波のように押しよせ、筆者は心の平安を保つことが困難となり、とても一人ではこの問題には立ち向かえないと考えて、「主にある2、3人」がどうしても必要だと感じた。言い知れない深さの悪に立ち向かうために、仲間が必要であると思ったので、探したのである。

その時、神は祈りの有志を与えて下さった。知り合いのつてさえないところを、ゼロから探したが、腐っても鯛、というたとえは不適切かも知れない。ほとんど絶望的と思われていた思いがけない場所に、仲間が見つかり、さすが、キリストへの信仰のあるところには、奇跡が伴うと、間違っても、他宗教の信者になど声をかけなくて良かったと思った。というより、出会わせてくれたのは主である。
 
「求めよ、そうすれば与えられる」、「捜しなさい、そうすれば見つかります」と、聖書に書いてある通りだ。

こうして、祈りの有志が与えられたことで、筆者の生活に対する天の防衛が強化されたのではないかと思う。不思議なほど、心に平安が戻り、日常生活で大切なことが何であるのかが、よく分かるようになって来たのである。

これまで筆者の人生には、助け手を名乗る様々な不誠実な人間が現れては消えて行った。彼らは、口先だけで調子の良いことをさんざん言って、筆者を持ちあげ、筆者を助けるふりをしながら、その実、自分が筆者から助けを受けるために、あるいは、栄光を盗み取るために接近し、しかも、筆者から取れるものをすべて取り尽くすと、空っぽになった筆者を踏みつけにし、嘲笑しながら、置き去りにして去って行った。

そういう種類の人々には、おびただしい数、遭遇して来た。そこで、彼らのパターンも大体分かるようになった。だから、基本的に、筆者はそういう人たちに利用されたくはないため、誰からの助けをも求めないし、誰かに自分を理解してもらおうとも願わない。

だが、そうは言っても、信仰の戦いにおいては、「祈りの有志(勇士)」が必要になることがある。それくらい、最近、筆者をとりまく環境はますます厳しさを増し、霊的戦いも、激しさを増している。

ある時、派遣社員は「愛人」だと、筆者に言った人がいた。それは永遠に「正妻」になれない「愛人」、蔑まれた地位だという意味である。しかし、筆者は、今、契約社員であろうと、正社員であろうと、一人の偶像(代表)のもとに雇われているすべての被雇用者は、いわば、男女に関わらず、みな社長の愛人みたいなものなのではなかろうかという気がしている。

職場の中で、ヒエラルキーを上にのぼりつめようと、ものすごい競争が行われる。男であれ、女であれ、嫉妬と憎しみに燃え、競争者を押しのけ、陥れてでもいいから、上に行こうとする。負担は他人に押しつけ、自分は楽をし、有利な立場に立つために、水面下で苛烈な競争が行われる。

だが、他者を押しのけて、ヒエラルキーの階段をのぼりつめさえすれば、「正妻」の座を勝ち得られ、誠実で信頼のおける関係に入れるというのは、幻想でしかないと筆者は思う。

一人の目に見える人間を象徴として頂点にいただく組織は、すべて「ハーレム」みたいなものである。ハーレムというのは、一夫一婦制の原則に基づいていないから、その中のどこを探しても、真実や誠実さなどないのだ。

そこで「夫」とか「主人」の役目を果たすトップとは、命の通わない、死んだ彫像みたいなもので、みんなの欲望を投影して作られた「もの言わぬ偶像」である。「虚無の深淵」と呼んでも良いかも知れない。生きた一人の人間とさえ呼べない、作られたむなしいイメージである。

だから、そのようなものとの「結合」を私たちは求めるべきではなく、そのようなものに「供え物」を捧げても、報いがあるわけではない。つまり、世の中で、人間関係の争いに勝とうと、必死に競い合って高い地位を求め、何とかして上部の覚えめでたい人間になろうと努力しても、そんなことは、無意味であるし、不実な偶像に近づく人は、傷つけられる。

とはいえ、私たちは自分に与えられた僕としての役目をきちんと果たすことは必要である。ただそれ以上に、与えられた契約以上に、心をすり減らし、疲れ果てる競争に巻き込まれたり、人からの賞賛や栄誉を受けようと願って、自分をすり減らさないことである。
 
この絶え間なく神経を消耗する競争社会にあって、筆者は、信頼できる、誠実かつ真実な人間を探している。我こそは信頼に値すると名乗り出た人間は、ことごとく偽りであった。

信頼できるかどうかは、一人一人の人間性にかかっており、職業上の立場や、知名度とは全く関係がない。

そして、確かな人間性とは、キリストにあってしか確保できないものである。
  
筆者は、筆者一人だけに忠実であって、誰とも筆者を競争させない関係を求めている。真に心を打ち明け合い、助け合うことのできる人間関係を。

筆者の人間関係の結び方は、非常に深く、求めるものが大きい。そして、その求めの中には、人間に対する期待のみならず、神に対する筆者の求めと期待の大きさが、反映しているような気がしてならない。

だからこそ、筆者の渇望を神に持って行くと、そこに平安が訪れるのである。そして、主は筆者の心の求めを、とても光栄なものとして受け止めて下さっている気がするし、その渇望の深さを知っていればこそ、ご自身の豊かさによってそれを満たすために、筆者を信仰に導いて下さったのではないかという気がしている。

神と人との関わりは、キリストだけを仲保者として、そこに誰をも挟まないものである。

同じように、人と人との間で信頼関係を築くためにも、そこに競争者がいてはならず、唯一無二の関係、「一夫一婦制」の原則が適用されていなければならない、と筆者は考えている。それは、夫婦だけでなく、その他のすべての人間関係に当てはまる原則のように思う。

つまり、筆者は、信頼関係が成り立つためには、まずは一対一の関係がなくてはならず、そこに誰かが競争者として挟まって来るようでは、初めから信頼は成り立たないと考えている。

筆者が求めているのは、筆者の他にスペアを作らず、筆者以外の誰をも賞賛せず、筆者を己の欲を満たす道具として扱わず、真に筆者の利益のために奔走してくれ、筆者が困ったときに筆者を拒まず、筆者の窮状を嘲らず、筆者の他に競争者を絶対に作らない関係だ。
 
喧嘩しても、仲直りでき、弱みを知られたからと言って、悪用される恐れがなく、一度、傷つけられたくらいのことでは、ただちに関係性が壊れることもなく、さよならを告げられると逆上し、恨みに燃えて、復讐に及ばれるような恐れのない関係。
 
非難されても、プライドを傷つけられたと怒り出さず、裏切られても、耐えることができ、誤解されても、誤解が解けるまで待つことができ、たとえ筆者が間違っていても、筆者がその間違いに気づいて立ち戻るまで、じっと待つことのできる関係・・・。

そんな関係が成立するためには、神のような忍耐が必要になると言えるが、それだからこそ、神は筆者の心の求めに対し、「分かった」と言って下さるような気がする。

「あなたの求めは、私でなくては満たせません。
 だから、あなたは私を待ちなさい。
 あなたが本当の本当の満足を得たいなら、
 私が現れてあなたを満たすまで、あなたは待ちなさい。
 また、私以外のものを決して求めてはなりません。」
 
神は、筆者が人間に求めている期待の高さを知っておられ、それゆえ、筆者の失望と嘆きの深さも知っておられ、今なお、筆者の求めを真に満たせるのは、神御自身しかいないことを知っておられ、そのことを幾度も筆者に告げて、主の内にとどまるよう説得なさり、その上で、筆者をそばにおいて、兄弟姉妹を配置し、見守っておられるという気がする。

だが、最近、人間の中にも、神の愛と忍耐に匹敵することはないにせよ、それに類する愛と忍耐を持つ人はいるのだろうと、筆者は思うようになった。それは筆者自身の内面の生長があったためかも知れないが、筆者の出会う人間の質が変わって来たのである。

以前のように、誠実さのかけらもない、裏切り者ばかりが現れるようなことはなくなり、少しずつ、少しずつ、人生を分かち合える仲間のような近しさを持つ人々が現れるようになって来た。
  
もちろん、それは信仰者であればこそだ。この世の人々であっては、やっぱりいけないのだ。

筆者は、喜びも、悲しみも、共に背負っていける唯一無二の関係、筆者の信頼に応えうる生きた人間を求めている。
 
どんなに見かけがよく、知的で、態度が洗練されて、注目や信頼を集めているようであっても、根本的に、内心が空虚で、生き方が病んでいるエフゲニー・オネーギンのような人間はもうたくさんである。

知性や、洗練された物腰が、すなわち誠実さや真実ではない。
 
オネーギンたちは、有名になりたがり、権力と地位を目指すことも多く、今の世では、余計者どころか、成功者である。大勢の取り巻きに囲まれて、常に幸せで、満ち足りていそうで、人気者で、自慢話にも事欠かない。

だが、筆者は個人的にオネーギン族はたくさんなのである。なぜなら、彼らは「ただ一人の人」に対して忠実であることがどうしてもできないからだ。よって、オネーギンの周りには、必然的に「ハーレム」ができる。オネーギンは内心が病んでいるので、どうしても保険をかけずに他人とつき合うことができない。だから、人と人を競争させる。自信がないので、誰かと向き合うときにも、常に心の逃げ場となりそうな「愛人」を別に用意しておかずにいられない。

それに、自己中心で自惚れ屋なので、本当の意味で他者のために心を注ぎだすことができず、他者を助けるのさえ、自己満足のためでしかない。

従って、オネーギンは誰かに向かって愛を語るときでも、それを語り出す前から、すでにその相手を裏切っている。究極的には、オネーギンは自分自身しか愛することのできない人間である。すべての他者を己の栄光の道具とすることしかできず、そして、その愛は病んでおり、本物ではない。

もちろん、これはすべてオネーギンという人物像を用いた人間関係の比喩に過ぎないが、そもそもこんな不誠実な種類の人間に、何も期待できることはないから、こういう種類の人々については、その生き方に巻き込まれないことこそ肝心である。

彼らの幸福は、きちんとした基盤の上に作られていないため、脆く、崩れやすいものでしかなく、彼らの価値観に巻き込まれると、ひどく傷つけられる。

だから、そのような生き様からは、離れ去るべきだと筆者は考えている。人と競争させられて、ヒエラルキーの階段をよじ登る人生から、離れ去るべきであって、その競争に勝つことが、幸福を得る手段であるかのような幻想にとらわれるべきではない。

筆者は地上に築かれたどんな関係においても、誰とも競争したくないし、競争させられるつもりもない。不実な関わりには飽き飽きしている。
 
筆者はキリストがその血の代価を支払って、贖って下さった人間であり、死を経て生かされたのだから、筆者の価値は、キリストの血の値段である。神がお一人であるように、筆者の代わりはどこにもいない。もともと代わりがないものに、どうやってスペアを作って競争させることができるのか。誰がどうやって、主に贖われた筆者が与えることのできる以上の満足を、信仰もないのに、人に与えられるのか。

そういうわけで、筆者が求めているのは、名実共に「あなたしかいない」という台詞だけであって、いつでもいくらでも予備のある、裏切りを前提とした関わりではないのである。

その唯一無二の関係は、私たちが信じる神が、ただお一人であって、スペアなどなく、私たちが、全身全霊で、ただそのお一人の神だけを愛すべきなのと同じである。

ただ一人の神だけに忠実であるからこそ、神は私たちの呼び求めに、応じることを光栄として下さる。
 
そこで、主にあって、贖われたキリスト者は、主の血の代価を持って贖われた自分の持つ絶大な価値をしっかりと認識しなければならない。
  
そして、キリスト者同士が出会うとき、その交わりには、1+1をはるかに超えた効果が生まれる。

それは、都合の良いときだけの連帯ではなく、都合が悪くなっても、切れることのない関わりである。主が結びつけて、出会わせて下さった関係であり、共に主を誉め讃えることを目的に、永遠にまで続いている。だが、その関わりは、義務ではない。あくまで自由意思に基づく関係性なのだ・・・。

そういうわけで、筆者の人生では、キリスト者との祈りの共同戦線が張られると同時に、たちまち見えない領域で、何かが打ち破られた気がしている。
 
それは、キリストご自身の豊満であるエクレシアから助けを得たからかも知れないし、あるいは、絶え間なく人々を競い合わせるオネーギンの不実な「ハレーム」社会の嘘の影響が、打ち破られたためかも知れない。
 
この世の立場がどうあれ、私たちは、断じてたくさんの競争者と競い合わされ、ヒエラルキーの階段をよじ登って行くことでしか、自分の価値を証明できない哀れな一群ではない。

私たちは、ただ一人の男子キリストによって贖われた尊い純潔の花嫁であり、この方が、私たちの価値を確かに認めて下さり、私たちを選んで下さったゆえに、私たちはこの方と同様に、愛と尊厳に満ちた存在なのである。

その事実が、雲間から太陽が姿を見せるように、はっきりと示され、取り戻された。

ああ、この深い心の平安に変えられるものが、何かあるだろうか。この世のどんな競争に勝ったところで、この平安を得られるだろうか、と感じた。

そういうわけで、筆者は、心の中からすべての不誠実な人々の影響を追い払い、この世の喧騒、また、うわべだけの立場に気を取られることをもやめて、キリストの内に住むこと、ただ彼の内だけに住むことへと戻って行った。

そのことについて、キリスト者と共に祈り合い、「アーメン(その通りです)」と同意したのである。

その時、この世を超越して、天の御座の高みからすべてを足の下にし、見下ろすことのできる心の自由が戻った。時を止めるように、何もかも、すべてに手を止めて、今一度、主に自分をすべてお捧げし、「彼の中に住む」道に入り、平安を取り戻したのである。

それと同時に、この社会で、疲れ切って、責任を押しつけ合い、非難し合う人々の哀れな状態が、はっきりと見えるようになった。つい少し前まで、筆者もその囚人のように疲れ切った人々の一人だったのだが、彼らの歩いている姿を見ただけでも、心の惨状がどんなものかがはっきり見えるようになった。

どれほど人々が主ではない別な事柄に気を取られ、そのせいで平安を失っているかが、彼らの姿を見たときに、改めてはっきりと理解できたのである。
 
だから、筆者自身、もう一度、何もかもを主に委ね、もつれた糸を解きほぐすよう、筆者の手に余るすべての問題を、主に解決してもらうために委ね、主が解決を握っておられることを固く信じて、真っすぐに前を向いて進んで行こうと思わされた。

もはや、すべての問題は、筆者の手を離れ、神の領域へと移されて行った。平安は、こうして筆者の手から重荷が取り去られるに比例して戻って来たものであった。
 
* * *

読者は読む必要を感じていないかも知れないが、筆者自身のために、オリーブ園、A.B.シンプソン、「キリスト生活」の「第6章 どのようにして主の内に住むのか」 から、部分的に抜粋しておきたい。これは何年も前に、筆者が十字架のキリストと出会ったときに、非常に新鮮な心持ちで読んだものであり、今再び、オリーブ園の新着ブログにも掲載されているようである。

この記事は、キリスト者が心の平安を保ち、キリストと二人三脚で進む上で、避けては通れない秘訣を記したものである。読むのは簡単であるが、実践している人がどれくらいいるか。この記事は、心の通い合った夫婦の生活のように、私たちが絶えず主の中で、主に立ち戻り、主と相談の上で、すべてを決めて、歩んで行かねばならないこと、それなしに、日常生活において、キリストの内にとどまることができないことを示している。

もちろん、その生活の中には、私たちの心に、主以外の何者かが挟まることはない。自分自身の衝動でさえ、その静かな平安な生活の妨げとならないように、警戒せねばならないのである。

* * *
 
ヨハネは、小さな子供たちだけが主の内に住むことができる、と言っているかのようです。すなわち、私たちが小さくなる時だけ、主ご自身を十分に知ることができ、自分の力を用いるのをやめて彼に依り頼む時だけ、私たちを保持する主の力を知ることができる、とヨハネは言っているかのようです。

ヨハネは私たちに呼びかける時、「あなたがた」と言わずに、「わたしたち」と言っています。これからわかるように、ヨハネは自分自身を小さな子供の一人と見なしています。ヨハネは、古い自分であるボアネルゲ(雷の子)が死んだ時から、霊の中でまったく小さな子供になりました。ヨハネはイエスの御胸によりかかりましたが、それはイエスの支える御腕から離れないためでした。

私たちはキリストご自身の栄光を見てきました。また、キリストにあることと、キリストを私たちの内に持つことがどういうことかも見てきました。そして今、私たちはこれらのものに強く印象づけられたいと願います。ヨハネは、「小さな子供たちよ、彼の内に住んでいなさい。それは彼が現れる時、私たちが確信を持つためです」と言います。

私たち信者は、主の内に住むこの生活をどのように維持すればいいのでしょうか?あなたは自分を主にささげ、自分の意志と力を放棄し、自分の生活を主に支えてもらうことに同意しました。またあなたは、真の花嫁のように、自分自身、自分の名前、自分の独立性を放棄しました。その結果、彼は今、あなたの主となっておられます。あなたのいのちは彼の内に飲み込まれました。そして、彼があなたのかしらとなり、すべてとなっておられます。

さて、愛する方々よ、この生活はどうすれば維持できるのでしょうか?主は、私たちは彼の内に住むべきであり、私たちが彼の内に住む程度に応じて私たちに内に住む、と言っておられます。「私の内に住んでいなさい。そうすれば、私もあなたがたの内に住みます」。
 

ヨハネによる福音書十五章四節。(訳注)


今を生きる


まず第一に、主の内に住む生活は、今を生きる生活でなければなりません。それは惰性で流れ続ける急流ではなく、小さな行いや習慣の連鎖です。あなたは、今この時、主を完全に所有し、今この時、完全に救われ、今この時、勝利をおさめます。今この瞬間を満たしたものは、次の瞬間をも満たすのに十分です。ですから、もしあなたが毎瞬この交わりを更新していくなら、あなたは常に主の内に住むでしょう。あなたはこれを学ばれたでしょうか?あなたの生涯における失敗の大半は、一瞬を失うこと、一針の縫い目の切断、小さな裂け目、岩の割れ目――そこから水の雫がしたたり落ち、一本の急流になります――から来ます。しかし、もしあなたが一歩も歩みを失わず、一つも勝利を逃さないなら、あなたは主の内に住んで常に勝利するでしょう。

ですからまず第一に、この秘訣を学びなさい。すなわち、もはや恵みも勝利も必要としないほどの聖潔に達することはない、ということです。しかし、もしあなたがこの瞬間に恵みを受け、次の瞬間にも恵みを受け続けるなら、生涯の終わりに、あなたは主の恵みの大洋をことごとく所有するでしょう。最初、それはほんの小さな流れかもしれません。しかし、毎瞬流れ続けさせなさい。そうすれば、その水路が終わらないうちに、それは無限の大海原になります。


意志による決断


次に、主の内に住むことは、意志による決断を続けることによって、また、常にキリストに信頼し続けることによって、確立されなければなりません。主の内に住むことは、あなたの意志の有無にかかわりなく、不可抗力的な衝動として自然に実現されるのではありません。あなたは、主に信頼することから開始して、それが習慣になるまで繰り返さなければなりません。これを悟ることは非常に重要です。

祝福を得た時、それ以上何の努力もしなくても、その祝福は流れ続ける、と考える人が大勢います。しかし、そうではありません。意志の行為、選択の行為は、霊的生活の真の舵輪です。人が罪から救われるのは、イエスを救い主として実際に選択することによります。人が聖別されるのは、自分自身を明確に明け渡して、キリストを自分のすべてとして受け入れることによります。

ですから、愛する方々よ、あなたは主の内に住むことが呼吸するのと同じくらい自然なことになるまで、しっかり舵輪を握って前進し続け、毎瞬毎瞬、キリストに信頼すること、キリストによって生きることを選び続けなければなりません。
それはちょうど、溺死から救われた人のようです。人々が彼を水から引き上げたとき、呼吸は停止しています。呼吸は自然に戻ることはありません。苦労して人口呼吸を続けることによって、呼吸が戻ります。人々が半時間ほど空気を吸わせたり吐かせたりした後、無意識的な呼吸活動が認められるようになります。そして、呼吸本能がよみがえってきて、自発的な呼吸が始まります。間もなく、その人は何の努力もせずに呼吸するようになります。

しかし、それは最初に一定の努力をすることによって起きます。そして、徐々にそれが自然になって行きます。キリストに関しても同じです。もし、キリストの内に住むことを自然なものにしたいと願うのなら、それを霊的習慣にしなければなりません。預言者は「神にとどまる心」について語り、ダビデは「私の心は主に信頼して揺るぎません」と言いました。私たちは決断をもって始め、いかなる代価を払っても主に従う必要があります。そうするなら、少しずつ習慣が確立されて行きます。

<中略>


自我の抑制


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、自分に信頼しないことを常に学ばなければなりません。自我の抑制が、常に神聖な満たしと能力を得るための第一の要件でなければなりません。何らかの非常事態が生じた時、人は飛び出してしまいがちです。ペテロは、自分が敵に立ち向かえるかどうかわからないのに、剣を抜いて飛び出してしまいました。突然の衝動に駆られて行った行為は、数週間にわたる後悔という結果に終わることがあります。衝動的に事をなすのではなく、主を受け入れなさい。私たちが主から方法を教わる時だけ、主は私たちを用いることができます。

ですから愛する方々よ、自我を抑制することを訓練しましょう。そして何事についても、主を見上げて、「主よ、あなたの御旨は何でしょう?あなたのお考えはどうでしょう?」と尋ねるまで、決定を差し控えることを訓練しましょう。そうするなら、あなたと主の意向が食い違うことはないでしょう。そこにはさいわいな調和があるでしょう。このようにキリストの内に住む人々は、差し控える習慣、静かにしている習慣を身につけます。彼らは落ち着きのないおしゃべりではありません。彼らはよろずのことについて常に見解を持っているわけではありませんし、自分がなすべきことをいつも知っているわけではありません。彼らは性急な判断を差し控えて、神とともに静かに歩みます。むこうみずで衝動的な精神は、主に聞き従うことを妨げます。


依存


もしキリストの内に住むことを願うなら、キリストは人生の非常事態だけでなく、すべてを引き受けて下さることを憶えなければなりません。そして、常に主に頼る習慣を養わなければなりません。主に依り頼み、いたるところで主を見いだし、彼が私たちの生涯の事業を引き受けて下さったこと、そして困難は一つもないこと、もし私たちが主に委ねて主に信頼するなら、主が私たちを運び通して下さることを認識しなければなりません。


主の臨在を認識すること


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の心の中心におられることを認識しなければなりません。主を見い出すために、彼方の天に上って、主が行かれたあたりをさまよう必要はありません。主はまさにここにおられます。主の御座はあなたの心の中にあります。主の富は身近にあります。あなたは神の臨在を感じないことがあるかもしれません。しかし、聖霊があなたの心の中におられる事実を受け入れて、その事実に従って行動しなさい。すべてのことを主に持って行きなさい。そうすれば間もなく、主の臨在を実際に喜ばしく感じるようになります。感情から始めてはいけません。主がここにおられることを信じて行動することから始めなさい。ですから、もしあなたがキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の内におられ、自分が主の内にあるものとして、主に応対しなさい。そうするなら、主はあなたの信頼に応えて、あなたの確信に誉れを与えて下さいます。


すべてのものの中におられる神


キリストの内に住むことを願うなら、人生に訪れるすべての事柄の中にキリストがおられること、そして、摂理の過程で起きることはすべて、ある意味で神の御旨と関わりがあることを認識しなければなりません。試練は偶然ではありません。それはキリストと関係無いものではありませんし、「神はなぜ私をこのような試練にあわせるのだろう」といぶかしんで抗議するしかないようなものでもありません。

私たちは、神が試みの中に導かれたこと、そして、たとえ洪水の高波が押し寄せても、神は御座に座しておられ、大波のうねりや水の轟きよりも力強い方であることを信じる必要があります。また私たちは、神は
「人の怒りを賛美に変え、怒りの余りをとどめられる」ことを信じる必要があります。私たちは「神は我らの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、我らは恐れない。たとえ地は移り、山が海の真中に移っても。たとえ、水が立ち騒ぎ、泡だって、山々が揺れ動いても」(詩篇四十六篇一~三節)と言わなければなりません。

私たちはすべての出来事を、人が選択しうる最善のもの、あるいは、神が与えうる最善のものと見なす必要はありません。その出来事が私たちに臨んだのは、神がご自身の力を私たちに現すためかもしれませんし、あるいは、聖潔、信頼、落ち着き、勇気といった学課を私たちに教えるためかもしれません。その出来事は何か神の御目的にかなうものなのです。ですから、別の境遇を求めるべきではありません。今いる境遇に打ち勝つべきです。現実から逃避して、「自分の好きなところに行けば、キリストの内に住むことができるだろう」と言ってはなりません。私たちは、安らかな港にいる時も、嵐の海にいる時も、キリストの内に住まなければなりません。すべては神の許しによります。神は万事を共に働かせて私たちの益とし、ご自分の目的を果たされます。このことを認識しなさい。


外側の感覚に注意する


キリストの内に住みたいのなら、感覚に警戒する必要があります。体の感覚ほど、私たちをさまよわせ、危険な野原や牧場の脇道にいざなうものはありません。私たちの目は、どれほど私たちを迷わせてきたことでしょう!道を歩いていると、気を散らせる数千のものに出くわします。中には、クモのような目を持っている人々もいます。彼らは前後左右、あらゆる方向を見ることができます。
「あなたの目はまっすぐ前を見、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」この世が心の中に侵入するのを許すなら、私たちは主の臨在から引き離されてしまいます。

箴言四章二十五節。(訳注)


会話は、それがたとえクリスチャンどうしの会話であったとしても、もしその百分の一でも聞くなら、完全に汚されてしまいます。ですから、あなたは自分の耳を閉ざし、自分の目を閉ざして、小さな範囲に生きなければなりません。
何かする時に、一度に多くのことをしようとしてはいけません。それは気苦労を招くだけです。

水グモという小さな生き物がいます。それは、沼地などの湖底の泥の中に住んでいます。泥の表面から数インチ中にもぐり、始終そこで暮らしています。水グモには不思議な器官があり、それによって自分の体よりも数倍大きな気泡を自分の周りに集めることができます。水面に上がって空気を集めては泥中にもぐります。この小さな気泡は水グモにとっては大気です。水グモはその中に巣を造り、子供を育てます。「空気のあるところに水は侵入しない」という法則のおかげで、にごった水に囲まれた小さな家庭は、水上の澄んだ大気中で生活するのと同じくらい安全です。そのように、私たちは自分の生息圏の中に入って、主と共にとどまることができます。たとえ罪に取り囲まれ、下には地獄があり、人々はもがき、誘惑され、罪を犯していても、私たちはキリスト・イエスと一緒に天上にいる聖徒たちと同じように安全なのです。


内なる祈り


さらに、キリストの内に住むには、内なる祈りの習慣、心の中で神と交わる習慣を養わなければなりません。私たちは、「神は霊ですから、神を礼拝する人は霊と真実の中で礼拝しなければなりません」「すべてのことについて感謝しなさい。なぜなら、これこそ神があなたがたに求めておられることだからです」という御言葉の意味を知らなければなりません。言葉を口に出さずに心の中で祈るこの習慣は、主の内に住む秘訣の一つです。神秘家が用いた古い用語の一つに「静思」というのがあります。これは「静かな霊」ともいえるでしょう。

ヨハネによる福音書四章二十四節。(訳注)
テサロニケ人への第一の手紙五章十八節。(訳注)


目をさましていること


主の内に住むことと関連するもう一つの言葉は、「目をさましていること」です。この言葉は、漂うことの正反対です。それは固守する精神であり、絶えず警戒していることであり、主に守られることです。さて、これは、あなたが固守警戒の働きをすべて一人でしなければならない、ということではありません。あなたは手を舵の上に置かなければなりません。そうするなら、キリストが舵を操作して下さいます。それは列車のブレーキのようです。運転手がブレーキのレバーに触れて電流を流すだけで、列車は止まります。それはまた、列車の動力のようです。技師は自分の力で列車を動かす必要はありません。レバーを回すだけで、列車は進みます。クリスチャンは自分で戦う必要はありません。イエスの御名の中で合い言葉を唱えさえすれば、天の力がそれに続いて働きます。このようにして毎瞬、私たちは交わりと勝利の中にとどまることができ、ついにはキリストが私たちのいのちそのものとなられます。


神の導きに従う


もしキリストの内に住むことを願うなら、神に自分を助けさせようとすることをやめて、神の道の中に入り込み、神に導いていただかなければなりません。信者は「私がキリストに仕えることを選んだのであり、キリストは私を助けなければならない」という考えを自分の中から取り除かなければなりません。信者はキリストの道に入りました。そして、キリストが信者を担っておられます。なぜなら、キリストは他の道を行くことができないからです。
もしあなたが川の真中にいるなら、あなたは川を下って行かなければなりません。もしあなたが神の真中にいるなら、あなたは神と共に行かなければなりません。あなたが自分の人生を神に明け渡すなら、それは何でもできるほど強くなり、天のように素晴らしくなるでしょう。


不慮の出来事


おそらく、不慮の出来事についてお話ししておいた方がいいでしょう。主はしばしば、私たちを警戒させるために、突然誘惑が襲いかかることを許されます。そのようなことが起きたら、それを主からのものとして受け入れなさい。まつげが閉じて目に危険を知らせるように、それはあなたに警戒させるために送られたのです。誘惑は、しばしば私たち自身の不注意から生じます。私たちが道を外れる時、私たちは誘惑にあうことによって、自分が敵の国にいることを悟ります。もし私たちが主の内に住んでいるなら、主の許しがない限り、悪は私たちを打つことができません。おそらく、私たちが中心からはずれる時、キリストは敵を利用して私たちを脅かし、ご自分に立ち返らせるのでしょう。それはちょうど、羊の群れを柵の中に追い込むために、牧羊犬が放たれるようなものです。大きな災いにあうより、小さな失敗を犯す方がましです。


失敗


しかし、十分注意していたにもかかわらず失敗してしまった場合、決して落胆してはなりません。決して、「自分は祝福を失ってしまった」、「こんな生活は自分には実行できない」などと言ってはなりません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、主は真実でただしい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」という御言葉を思い出しなさい。

ヨハネ第一の手紙一章九節。(訳注)


神を現実に経験する方法


多くの人は神を現実の方として感じていません。多くの男性にとって、自分が抱えている困難な仕事の方が神よりも現実的です。多くの女性にとって、自分の仕事や試練の方が神よりも現実的です。多くの病人にとって、自分の病の方が神よりも現実的です。私たちはどうしたら神を現実の方として経験することができるのでしょうか?私が知る最善の方法は、神を現実の事柄の中に迎えることです。頭痛は現実です。その中に神を迎えなさい。そうすれば、頭痛が現実であるように、神も現実となられるでしょう。そして、頭痛が去った後も、神の臨在がとどまるでしょう。これは素晴らしいことです。試みは現実です。それは人生において火のように燃えさかります。神はそれ以上です。洗濯やアイロンがけは現実です。神をあなたの家庭の中に迎えなさい。そうすれば、神は現実となって下さいます。私たちが自分の生活をキリストに結びつける時、彼は現実となって下さいます。

バンヤン樹もこのように成長します。まず、幹と枝々が天に向かって伸びます。次に、枝々が地面に向かって成長し、土地に根をおろします。そして徐々に、数百の枝々が互いに織り混ざり、絡み合って、嵐や風にも動じなくなります。インド洋の熱風ですら、引き裂くことができなくなります。そのように、神が一人の人を救われる時、神は一本の枝を植えられます。その後、神が困難の中にあるあなたを訪れて、あなたを満たし、聖別し、助けて下さる時、その神の満たし、聖別、助けが新たな枝々となります。こうしてあなたの人生は数百の枝々によって神に根ざし、神に結ばれます。地獄の全勢力といえども、その交わりを破ることはできませんし、あなたを主の愛から引き離すことはできません。

主イエスよ、あなたご自身を私にとって、
生ける輝ける現実として下さい。
いかなる外側の物事よりも、
信仰のまなざしにはっきりと見せて下さい。
甘美な地上の絆よりも、
さらに親しく、さらに親密にならせて下さい。

さらに私に近づいて下さい、
生ける愛する救い主よ。
あなたの御顔の幻をさらに明るく輝かせ、
あなたの恵みの御言葉をさらに栄光で満たして下さい。
人生が愛に変わるまで、
地上の天が天上の天に変わるまで。

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

町はすっかり閑散として、買い物にでかけると、客がすれ違う客に敵対的な眼差しを向け、店員から話しかけられることにさえネガティブな反応を示す場面も見られる。公共交通機関でも、人々は自分が感染者とみられることを極度に恐れつつ乗車しているかのように見受けられる場面もある。

阪神大震災・東日本大震災の直後には、巷に溢れる悲劇的なニュースは大いに同情と共感を呼び、みなで苦難を分かち合い、乗り越えようとの雰囲気があった。しかし、今回のウィルス騒動では、同じ苦難をともにしている者同士、団結して乗り越えようという雰囲気は見られず、むしろ、より人々の分断化が進み、責任の押し付け合いがあり、隣人同士が互いを警戒し合ったり、品物を奪い合う競争者になってしまうような殺伐としたニュースも飛び交っている。

何か大きな時代の変わり目が来て、これまでの国の方針そのものが揺らぎ始めているのを感じる。裁きの時が来たとまでは言わないが、国の施策はことごとく裏目に出て批判を浴びており、自粛モードの中で、ゴールデンウイーク中の楽しいバカンスや、オリンピックの話題なども、すっかりどこかへ消え去り、口にすることもはばかられる状況になり、いかにしてパンデミックの阻止だけでなく、不安心理の拡大が、暴動や騒乱や政変に結びつくことを防ぐかに心血を注ぐべき状態になったという印象だ。
 
とはいえ、筆者はごく普通の日常生活を続けているだけで、買い占めにも走らず、日常生活に支障をきたす事態にも遭遇していない。震災の時もそうであったが、被害と無縁の地域にはいなかったはずなのに、なぜか筆者の周りには、深刻な被害にあったという人もほとんど現れない。

緊急事態宣言へ向けての法整備が行われるとかいった物騒な話が流れる中でも、筆者は、ただこれまで以上にごく普通の日常生活を送らねばならないと要求されているだけのような気がする。閑散とした町で、日々の通勤を続けることや、相変わらず、こなさねばならない予定に着手することは、それ自体がチャレンジである。

我が国がこれを機にどういう方向へ向かうかは知らないが、筆者の個人の人生において、問われているのは、ただ自分自身の心だけである。

あなたは恐れて退却し、打ち負かされるのか、それとも、立ち向かって勝利を得るのか。
 
ジョージ・ミュラーはすべてのことについて、神に祈れと勧めた。届いた荷物をくくっている紐の結び目が解けない、といった些細な問題についても、神に祈れと。
 
もちろん、声に出して祈ったりしない。神頼みするわけではない。しかし、私たちの内におられるキリストは、すべての問題に対する解決である。
 
だから、この方が共におられるのに、行きづまりなどが、どうして訪れようか。
 
* * *

筆者は最近、物事の本当のありようが、見かけとは正反対であるということに、気づくようになった。

人前に立って演説をし、注目を集めたがる人間の中に、真の実力者はいたためしがない。口達者で饒舌でネットワークを築くことに熱心な人間の中に、真の知恵者がいたこともない。

大勢の人々に囲まれ、人気を博しているように見える人間が、その反面、孤独な悩みを持て余していなかったことはない。

うわべだけパフォーマンスが得意で、さも自分には優れた能力があり、知恵があるかのごとく見せかけることに巧みな人間は、ことごとく詐欺師の類と考えてよい。

その原則は、牧師が神の代理人ではない、というのと同じである。

神に選ばれているかどうかは、うわべだけのパフォーマンスによって決まるものではないのに、見せかけの立場によって、自分が「選ばれた人間」であることを証明しょうとする人々は、ことごとく、選びから漏れていると考えて差し支えない。

つまり、自分たちは神に選ばれた人間であるという名札を下げて集まっているキリスト教という一大集団では、真実性が極端に薄れ、失われているということである。
 
だが、信仰と関わりのない人間社会にも、同じ原則が当てはまる。弁舌巧みで、パフォーマンスに優れ、コネを結ぶのが大得意な人間に、実力や、真実性や、誠実さがあるかどうかは、試してみれば、すぐに明らかになる。

試さないでうわべだけのパフォーマンスを真に受けているから、いつまで経っても、詐欺師を詐欺師と見抜けないまま騙されて終わるのである。

過去には「ヴィオロンさん、私はあなたを助けてあげたいんですよ」などと言って近づいて来る人々もいたが、残念ながら、そんな風に、他人の弱みを見つけ出しては、かいがいしく助力者をきどろうとする人々が、真に助力者の名に値する人間だったことは、一度もない。
 
聖書的な事実に照らし合わせても、それは偽りではない。なぜなら、真の助力者とは、見えないキリストご自身だけであって、目に見える人間はことごとく頼りとはならないからだ。

だとしたら、目に見える人間が、弁舌の巧みさ、パフォーマンスの巧みさ、優れた仕事ぶり、人的ネットワーク、「実力の程」などを誇っていたら、どうだろうか?

ある人々が、自分には高い地位がある、職責がある、俸給がある、豊かさがある、だから、ヴィオロンのごとき貧しい人間とは違う、などと誇っていたら、どうだろうか?

まず、それは詐欺師の類と考えて差し支えない。

彼らは、人前で己が富と権勢を誇っているのではなく、主の民の前で、当てにならないものを誇っているだけなのだ。よって、彼らが凋落するのは避けられない。

この人たちのパフォーマンスは、すべて自分の愚かさ、無能さ、空虚さを覆い隠すための嘘、時間稼ぎでしかないからだ。

だが、彼らは「毒麦」として、刈られるその日が来るまでは、放置されるだろう。いつか裁きの時が来て、何が実体の伴う本物であり、何が空虚な偽物であるかが、試され、明らかにされる日が来る。うわべだけの内実のないパフォーマンスでは、生き残れないし、無能な役立たずとして放逐される日がやって来る。

時が縮まっており、その日が驚くほど駆け足で近づいて来ていることを筆者は感じている…。
 
* * *

以前から、当ブログでは、労働は、人が自己の罪を自分で贖うための救済手段であるため、本質的に神の救いに敵対している、と書いたことがあった。そして、そのような悪しき文脈を離れた仕事のあり方を模索せねばならないと。
 
しかし、この問題についての考察を推し進めて行く中で、筆者が改めて気づいたことがある。
 
この世においては、賃金が払われている限り、対価としての労働を提供するのは当然であるから、雇われている人間が、その立場を捨てずに、以上の仕組みから脱出することはできない。

とはいえ、その世界でも、高給で雇われている人間が、低賃金で雇われている人間以上の働きをしさえすれば、賃金格差が不公平を招くという問題は解消されるのだ。

問題は、世の中がその逆を行っているところにあり、若くスキルもなく低賃金で雇われている未熟者が、人一倍苦しい労働を押しつけられる一方で、経験豊富で年齢も高くスキルもあるはずの高給取りが、その上に君臨してふんぞりかえって遊びながら、舌先三寸で空虚で的外れな命令を下し、不労所得にも近い俸給を得ているところに、不公平の源があるのだと・・・。

賃金格差は、支払われている賃金に見合った労働が提供されれば、なくなる。そこで、経験豊富でスキルの高い高給取りが、誰よりも大変で責任の重い仕事を必死になってこなし、他方、低賃金で雇われている未熟者が、彼らの何倍も負担の軽い仕事をするようになれば、格差などといった概念そのものが消えうせるのだ。

かつて手束正昭というカリスマ運動を率いる牧師が、『教会生活の勘所』という著書の中で、「霊の父・母」である牧師夫妻は、信徒の模範としての威厳を保つために、決して自ら教会のトイレ掃除などしてはいけない、などと書いていたが、これはとんでもない偽りであり、聖書の事実は、それと真逆である。

主イエスは、偉くなりたい人こそ、他の人々に仕えなさい、と教えたのであるから、まず、御言葉の奉仕者である牧師夫妻こそ、信徒の模範として、率先してトイレ掃除に従事すべきなのである。

安定した献金を得ている大教会の牧師が、立派な服を着て壇上に立って信徒たちに向かって偉そうに説教を語る前に、誰にも告げずに膝をかがめてトイレ掃除をすれば良いのである。そこから始まり、すべての雑用を自らこなすべきである。

なぜなら、キリストは、実際に、ご自分がひざをかがめて、弟子たちの汚れた足を水できれいに洗われたからである。牧師たちが、まず汚れ仕事を率先して担うようになれば、それを見た他の信徒たちも、その姿にならう日も来よう。

そういうわけで、高給をもらっている年配者たちは、若者たちの前で、自ら模範となって、自分の手を汚して、苦しい労働を率先して引き受けるべきなのである。自分の仕事がいかに楽であるかを他の人々に思い知らせるために、可能な限り働かず、権威をふりかざして君臨し、偉そうに説教し、役職を書いた名札をぶらさげて、無意味な会議に延々と明け暮れるために、仕事をするのではいけない。

そんな仕事ぶりでは、誰からの尊敬も受けられず、 年齢は、自分だけがずるく立ち回って楽をするための狡知を生み出すための時間としかみなされず、高齢者への憎しみは増し加わって行くだけであろう。
 
もちろん、これは理想論であるとはいえ、実地にも適用可能であるということに、筆者は気づき始めた。

多くのスーパーなどでは、高齢者のための割引がある。高齢者はお金を持っているから、割引することで、さらに消費欲を刺激しようという店側の作戦なのであろう。他方、若者には金がないから、もともと豪奢に散財するはずもなく、どうせ半額セールを狙ってやって来るような客に、割引してやったところで、もとが取れないという考え方なのである。

だが、筆者の考えはそれとは逆であり、若者には、今、手元に何もないからこそ、社会が彼らに未来を与えてやるために、投資しなければならない、というものである。時間的余裕も必要であれば、経済的余裕も必要である。

その余裕を若者(そして若者とは呼べない不況世代も含め)に与えるために、全社会的なアファーマティブ・アクションを実施する必要があり、それを早急にしなければ、この国はもう持たず、未来がない、というのが筆者の考えである。

就職氷河期への支援などは大海の一滴に過ぎず、全社会的アファーマティブ・アクションが必要なのである。すでに人生の安全圏に滑り込んでいる高齢者や、子供のいる家庭、金持ち世帯への優遇策ばかりを頭をひねって考えるのではなく、今、何も持っていない乏しい若者の未来のために、社会が投資をしてやらねばならない。

それができなければ、少子化など解消されるはずもなく、労働力の不足も補うことはできないまま、いずれ町には高齢者が溢れ、介護を必要とする者が溢れ、それを助ける者もなくなり、国は滅亡へ向かうだけである。

他人が困っているときに、残酷にそれを見捨てて、踏みつけにし、嘲笑して来た人間が、どうして自分が困ったときに、他人の助けを受けられようか。老いては自分が見捨てられ、踏みつけにされ、嘲笑されるだけである。

そうならないためには、相互扶助が成り立たなければならないのであって、強い者がその強さを行使して弱い者を助ける社会が成立していなければならないのである。

* * *

そういうわけで、筆者は、筆者よりも強い者が、筆者のために何をすべきか、また、筆者が筆者よりも弱い者のために、何をすべきかを考えている。日々の生活は、そのための実験場であり、そのために労することが、筆者の労働であり、奉仕である。

この世がいかに絶望的に見えても、正しいことは、それなりに実行可能であり、主張し、行いさえすれば、ちゃんと実現することができる。

そこで筆者は、これ以上、むなしいものに注目しないために、うわべだけの見かけ倒しのパフォーマンスや、「自分たちは特別に選ばれているから、あなたとは違う!」などと豪語する人々の自慢話には、全く耳を傾けないことに決めた。

ノアが箱舟建設していた時も、きっとそんな有様だったろうと思う。地元住人たちのうち、誰がその作業の意味を理解したであろうか。嘲笑の的にしかならなかったに違いない。地元住人たちは、自分たちの幸福と安寧は永遠に続くと考え、自分たちこそ選ばれた者だと考えていたため、ノアがなぜその世界を脱出するために箱舟など作っていたのか、一切、思い当たる理由もなかった。ゆえに巨大な箱舟建設は単なる嘲笑の的だったに違いない。
  
地元住人たちは自分の幸福に酔いしれ、その世界はいつまでも安泰だと自慢話を続けていたが、その自慢話は次の一言に集約される、「わたしたちは女王の座に就いており、やもめではないから、孤独を知らない!」

もちろん、それは女王バビロンのつぶやきである。私たちは安全圏に滑り込んだ、豊かになって、乏しいことは何もなく、たくさんの愛人たちや取り巻きもいるため、孤独とは一切無縁であり、心配することなど何もないと・・・。

だが、本物の女王がそんなことを言うはずがない。自慢話をするのは、本当に高貴な身分を有さない僭称者だからである。偽り者だからこそ、自分が本物だと語らずにいられないのだ。

だから、頼りにならないものを頼り、幸福でないものを幸福と偽り、不正にまみれた富を誇り、偽物の王が本物を自称する・・・、そんなむなしい会話の共犯者とされないために、筆者はその会話からは遠ざかることにした。

筆者は心の中で言う、多くの人々は、勝敗はすでに着いた、などと言って、自分の栄耀栄華を誇っているが、まだ勝負の場は終わっておらず、筆者の待っている人は、ここには現れていないと。約束の時間は、まだ来ていないし、本物の王は現れておらず、その王は、自分がやって来たときに、各自の隠れた働きを見て、それを評価すると言われたのだから、筆者はその時を目指して走っていると。

彼らは、他人を可哀想がることで、自己の優位性を感じることを、よすがとしているのかも知れないし、己が富や権勢を誇ることで、他人を駆逐できると勘違いしているのかも知れないが、筆者には、可哀想がられる筋合いもないため、余計なお世話だと思っているし、富や権勢を見せびらかされたからと言って、それを羨むこともない。

筆者が何ら不憫がられる立場にないことは、筆者に日々与えられている課題が、達成不可能なノルマでないことによって、逆説的に証明されている。

こうして、筆者は、誰がどんなに気を逸らそうとしても、ただ自分の分を果たすだけで、人々が誇示する「可哀想でなくなる」ためのヒエラルキーの階段を膝でのぼらず、彼らが自己の優位性として見せびらかしている善悪知識を得るために手を伸ばすこともしないと決めた。

筆者は、かつて裁判官が果たしているような役割を自分も果たしたいと望んだが、今は、その知識と権力の階段をさらに上に上って行くことで、さらなる決定権を持ちたいとは望まない。

そうした判断や決定は一定の効果を持つし、何よりも正義を判断するという仕事には、非常に大きな魅力と、きらびやかさと、権力も伴うが、筆者はそうした仕事の中に真実や正義が見いだせるわけでないことをよく知っているし、何よりも、自分よりも貧しい者たちを罪に定め、虐げるための所業に加担したくない。

それゆえ、筆者は人の考える「善悪知識」から離れ、人の上に立つ権力を求めず、自分よりも貧しい者たちから自分で取立をしないため、かえって、人の注目する知識と判断の全く伴わない領域に去ることに決めた。いや、去ることに決めたというより、筆者はそれに関わってはならないという結論が自然と出て来たのである。
 
そうして訪れたのは、判断しているようで、していない領域、罪に定めているようで、定めていない領域、悪人がいるようだが、いない領域、徴収しているようだが、していない領域だ。

こうして、人の考える正義を貫くために作られたピラトの階段に背を向けることは、人が誉だと考えるものに背を向け、むしろ、敵意と嘲笑の中で箱舟建設をすることにも等しく、その意味を理解する者も少ないであろうが、その生き方は、孤独と見えても、孤独ではない。なぜなら、見えない領域で、ちゃんとその働きを見て評価する「王」がいるからだ。

人目を集め、何か派手なことを達成しているように見えながら、その実、真実性もなければ、公平性もない空虚なパフォーマンスにはこれ以上、加担したくない。

この世からの権勢も、知識も、権力も、栄誉も、賞賛も必要ない。他人の評価など全くどうでも良いことであるから、ただ自分の心の中で、偽りがないと信じられる生き方を貫き、人の目に正しいと認められるのではなく、神の目に正しいと認められる人生を目指すのみである。
 
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)

むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って命を得ることができますように。

以前、当ブログでは、1940年に幻と消えた東京オリンピック同様、今回のオリンピックも、決して開催できないで終わるだろう、という趣旨の記事をいくつも書いた。なぜなら、オリンピックを国威発揚のために利用しようという理念そのものが誤っているからだ。その後、誰も予想していなかった思わぬウィルス騒動によって、それが現実味を帯びて来ている。

また、昨年、宝塚市が就職氷河期世代を対象とする公務員採用試験を行ったのに引き続き、今年、政府もが就職氷河期世代への支援の一環として公務員での採用試験を行ったが、それは百倍の倍率を超える、一般の通常の試験以上の難関となった。

呆れるような馬鹿馬鹿しさである。正規雇用に恵まれなかった貧しく弱い人たちを集め、一見、彼らを助けてやるように見せかけながら、他方では、通常の正規雇用の試験よりもはるかに過酷な競争試験を課して、多くの人々をふるい落とす。それを「支援」の名のもとに行うことは、まさに呪いを招くような悪なる所業だと筆者は思う。

だが、そのような状況を見つつも、「正規」とは何か、ということを考えさせられる。筆者は牧師制度を、牧師と信徒のヒエラルキーを思い出さずにいられない。そして、そのヒエラルキーは、人をディスカウントするために作られたものであって、そのものさしに踊らされている限り、人に平安はやって来ないと思わずにいられないのだ。
 
神に救われているかどうか分からない不安を持つ人間が、教会に所属すれば、安泰だと思って、教会の正会員になったところで、そんな会員証によって、何ら救いの確信が得られるわけではない。その埋められない不安を何とかするために、次には、神学校へ行って牧師になり、「献身」することで、神に近づこうとしても、それによって神に近付けるわけではない。
 
神学校の卒業証書も、教会の会員証と同様、何ら救いの保証とはならず、牧師になったからとて、外側を飾ることはできても、その人間性は1ミリたりとも変わらない。罪が贖われるわけでもなければ、心の内側は全く変革できない。

同様に、自分が「選ばれた者」になるために、必死になって努力をし、かいがいしく奉仕を重ね、常に他者からの承認を得るために、死ぬまでずっと終わりなきヒエラルキーの階段をひざでよじ登り続ける人生は、まるで自分の力で自分を救おうとするむなしい努力と同様であり、不毛だから、一刻も早く、やめた方がいい、と思う。

その果てに何が待っているのか。ピラトの階段の上にあるものは十字架の死である。その十字架の死を、キリストが負って下さったという立場に立たない限り、あなたはその刑罰を絶え間なく自分の身に負わされることになるだけである。

自分が安全圏だと思う場所へ滑り込むという目的のためだけに、一生、はるか上へ上へと続くピラトの階段をひざでよじ登るという苦行の毎日が待っているだけである。

「正規」だとか「非正規」だとか、牧師であるか、信徒であるかなど、どうでもいいことであるが、そもそも自己の力で「選ばれた者」というレッテルを得るために、終わりのない階段をのぼり続ける人生は、やめにしないか。
 
聖書の原則は、いつもそれとは反対で、選ばれなかった者が選ばれる、というパラドックスに満ちている。ユダヤ人たちは、諸国の民の模範となるべく、神の選民として選ばれたが、かえって今日まで心頑なにされて、救いにはあずからなかった。そこで、救いは選ばれなかった民である異邦人に宣べ伝えられた。
 
キリストにつながる系譜にも、ユダヤ人からは卑しい民として蔑まれていたモアブ人のルツ、ダビデがその夫を殺して娶った妻バテシェバ等、およそ「選民」にはふさわしくないと言われる経歴の持ち主たちが、信仰によって名を連ねている。ダビデ自身もそうだ。

ダビデの犯した罪も大きかったが、それでも、彼ほど神に愛された者は他にいないのではないか。そう言えるほど、ダビデはただ一途な信仰によって、神に受け入れられ、覚えられた。

私たちが神に受け入れられるのは、自分の努力によるのでもなければ、生まれや、立場や、能力や知識によるのでもない。自分で自分を選んだからでもないし、選ばれたという誇りによるのでもない。それはいつも神の側からの一方的な恵みなのである。
 
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない」 
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:25-26)

こうして、「自分たちは選民だ!」と神の御前で豪語する人たちが退けられ、かえって選ばれなかった民であるはずの人々が、恵みによって救いへと入れられる。

誰よりも、キリストご自身が、「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(1ペテロ 2:4)と言われる通り、人には拒まれ、世からは蔑まれ、人々の目には、神にさえ捨てられたように見えた。

しかし、キリストは罪のない神の独り子でありながら、神の姿に固執せず、己をむなしくし、十字架の死に至るまで御父に従順であられたがゆえに、神はキリストを高くあげて彼の御名をすべての名にまさる名とし、
 
「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ恣意を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

と言われるのである。キリストは、信じる者にとっては、神に選ばれた尊い生ける石であり、救いの岩である。だが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

「つまずきの石、妨げの岩」である。
(1ペテロ2:6-7)

そこで、私たちは、自己の力によってではなく、私たちのために、すべてを達成して下さったこの方の御業によって、神に選ばれ、受け入れられる民となることを目指すことはよくとも、自己の力によって、世から承認や賛同を受けることで、「世から選ばれよう」とする努力は、もうやめて良い頃合いであろう。そこには、何かしら深い堕落の誘惑が潜んでいるのではないかと筆者は感じざるを得ない。
    
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(一ヨハネ2:15-17)

だから、世の人々が、毎日のごとく、筆者の目の前に現れては、肉の欲、目の欲、生活のおごりなど、自慢にもならないものを自慢し、自分たちと一緒に来れば、世の幸せが手に入ると誘いをかけて行っても、筆者はそれに耳を塞ぎ、彼らに着いて行くことを拒む。
  
「ああ、あなたは未だにこんなにも貧しく、乏しい生活を送っているのですね! 本当に可哀想ですね。でも、私たちはあなたと違います。ですから、私たちと一緒に来なさい、そうしたら、私たちはあなたに素晴らしく豪華な食卓と、退屈しない会話を与えてあげられますよ!」

「あなたは誰を待っておられるのです? なぜ人生を楽しまないのです? あなたをこんなにも孤独のうちに待たせている人のことなど放っておいて、手っ取り早く、私たちと一緒に来て遊びましょうよ。楽しいですよ。一言、お言いなさい、『どうか私を一緒に連れて行って下さい』と。そしたら、私たちはあなたを最後の子分として連れて行き、存分に楽しませてあげますよ。あなたが待っている人は、きっと約束をすっぽかして来ないでしょう。ですから、あなたは当てが外れて恥をかかされるだけですよ」

「私たちは人生を謳歌しています。現在に100%満足しています。なのに、なぜあなたはいつも物足りなさそうで、何かを待っている風情なんです。え? この世が堕落している? 肉の欲は神の御心に敵対する? 今見ていないものを信じる力が生きる糧ですって? そんなわけがありませんよ。今、見えているものがすべてなんです。その今を楽しまなくてどうするんです? あなたにはきっと人生の楽しみ方が分かっていないんですよ。私たちが教えてさしあげましょう・・・。」
 
たとえそんな誘いの声を聞いたとしても、筆者はそれに着いて行かない。その誘いに乗って、彼らに着いていけば、その先には、罪の連帯責任が待っているだけなのだ。

ちょうど 不良グループが、カツアゲの現場で、見張り人をつとめる人間が必要だからと、あなたに声をかけて行くようなもので、それに着いて行けば、彼らの共犯者となってしまうだけである。だから、筆者ははそうした自慢話に耳を塞ぎ、お引き取りいただくようお願いするだけだ。

中には、知識欲、出世欲、権力欲を刺激する誘いもある。色々と話術は巧みであるが、どの誘いも、それに応じるだけの価値を持たない。
    
人は自分には手の届かないもの、自分に与えられていないものを見せつけられたとき、心に焦燥感を覚えたり、自分も同じようにならねばならないと感じたり、あるいは、自分はそういうものに値しないから、その高みから排除されたのだという悲しみを心に覚えることもないわけではないだろう。
 
だが、一瞬、そういう心の動きが起きても、大抵、後になって、それらは、手にするに値しなかったからこそ、与えられなかったのだと分かる。それは決して負け惜しみとして言うのではない。私たちが、まことの羊飼いである主にあっては、どんな時にも乏しいことはない、という御言葉は、真実であり、自分にまだ与えられていないもののことで、他人を羨む必要はないし、ましてそれを不足であるかのように他人に補ってもらう必要はないのである。
 
むしろ、神の御前に頭を垂れて、己を低くする人間にこそ、恵みが与えられるのだから、愚かしい自慢話と肉の欲を誇る生活とはきっぱりと一線を画し、いつ主の恵みの時が訪れるかを待っていればいいだけのことだ。自分には悩みごとなど何もなく、万事は順調で、欠けたところもないから、神の助けなど全く要らないと豪語して、自慢話に明け暮れているような人間には、放っておいても、そのうちふさわしい破滅がやって来る。

だから、そんな人間を羨んだり、気にしたり、あるいは腹を立てたりする必要は全くないのである。

実際、こんな箇所も聖書にはある。

「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)
 
だから、筆者は世の中で高い地位についている人たちが、様々な自慢話を語って聞かせても、それに関心を持つこともなく、賛同もせず、彼らがどれほど筆者のような立場にある人々を蔑み、嘲ったとしても、彼らを羨まないし、彼らと一緒に行かないことに決めた。

その人たちが誇っている富とは、不法や虐げによって手にしたものであって、真の裏づけを持たないものである場合がほとんどだからだ。彼らが誇っている外側の美も、人を欺くための偽りの外見に過ぎず、本物でないことがほとんどである。
 
今、世の中で起きている様々な騒動を見るにつけても、自分たちは選ばれた者だと豪語し、富んでいて、おごり高ぶっている人たちへの審判の時が、近づいて来ているような気がしてならない。 

こういう時に、私たちがなすべきことは何だろうか。家の門に過越しの血潮を塗って、家の中に静かに隠れることではないか。それは外出を控えるという意味ではない。神の御前で心静まって、主と二人きりになり、すべての相談事を、ただお一人の神にのみ打ち明け、この世にある一切のものに対して、執着を持たず、霊的死にとどまることを意味する。

そういうわけで、筆者は、世との交流を望まず、世と世にあるものを愛さず、目に見えるものに頼ることをやめて、より一層、見えない神を見あげたい。

人を救う力を全く持たないむなしいものは、もう見たくもない。そこには肉なる人間も含まれれば、この世の全ての富も含まれる。そういうものを筆者の眼差しに映すことさえ厭わしく、それらのものに心を奪われるなど論外である。

だから、筆者を救う力を全く持たないむなしいものをこれ以上、見なくて済むよう、その代わりに命の道に目を移すことができるよう、神に希うのである。
 
「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。

 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。
 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。
 あなたの道に従って
 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。
 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。
 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)