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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(2)

このところ、オリーブ園で連載されているオースチン-スパークスの論説は非常に興味深い内容なので、転載しておきたい。
 
まずは、T. オースチン・スパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (9)  から。
 

交わりのために成長する重要性

 そしてさらに、霊的交わりのために霊的成長がなければなりませんさらに優った積極的交わり抜きで、関係を持つおそれがあります。この関係は続きますが、今やあなたは交わりの中を進んでおり、真の霊的交わりのために霊的に成長しなければなりません。

交わりは私たちの関係性の所産であるべきであり、交わりに導かない関係性にはその麗しさと豊かさが欠けており、その真の目的に達していません。ある共通の基礎、共通の立場という点を超えて、私たちは互いにやって行くことはできません。

常に
あなたの自己が優勢なら、ただ主と共に進んで行きたいというあなたの望みのみに基づいてあなたと共に進んで行くことは私にはできません。また、あなたもその立場に基づいて私と共に進んで行くことはできません。私たちが一緒に進んで行けるのは、キリストという共通の立場がある時だけです

「合意なしに二人は一緒に歩めるだろうか?」。これは「合意なしに二人は関係を持てるだろうか?」という問題ではありません。確かに二人は関係を持つことができます。
同じ両親、同じ家族の子供たちは、一つの血によって関係していますが、一緒には歩んでいないかもしれません

一緒に歩む問題は進み続けて前進する問題です。共に歩めるのは、合意している時だけであり、共通の立場がある時だけです。もし一方が手前で立ち止まり、他方が進み続けるなら、この二人の間の交わりは進んだ地点までに限られます。もし一方が肉の中で進み、他方が御霊の中で進み続けるなら、彼ら二人が御霊の中で進み続けるのをやめる地点で彼らの交わりは終わりますが、彼らの関係は終わりません。

私たちは人々によって支配されてはなりません。たとえ彼らがクリスチャンであってもです。私たちはキリスト教の組織によって支配されてはなりません。たとえクリスチャンの組織であったとしてもです。私たちはあらゆる点で霊なる主によって支配されなければなりません。

 ここに豊かな実りがあります。御霊の度量の中で共に進むこの立場を得る時、私たちは絶対的有用性の立場に達します。とても多くのことがこれにかかっています。往々にして人は知的に何かを理解・把握し、それを誰かから得て、その中で進み続けようとするのですが、その事柄は彼らの存在中に決して造り込まれておらず、彼らはそれを人づてに得たにすぎません。それは彼らの存在中に、聖霊の懲らしめ・鍛錬・訓練によって、決して造り込まれていません。そして、それが彼らの内側から現れることは決してありません。聖霊によってその事柄を内側に造り込まれるというような問題では、私たちは確かでありたいと願っています。



この記事は、なぜ私たちはクリスチャンのうちのある人々と、信仰の歩みを途中までしか一緒にできないのかという問題に対する良い解説となっている。

これはある意味では困難で痛ましい問題でもある。なぜなら、神は決してクリスチャンの成長の度合いを最初から限定されたりはしておられないからである。一人一人の人間の生まれつきの才能や性質には様々な違いがあるとはいえ、それは霊的な度量の違いとは異なる。

神が初めからあるクリスチャンだけを偉大な霊の器として定め、ある人々を小さな器として定められたという考えは正しいものではない。たとえば、旧約聖書に登場する霊的先人たちは、ある種の型を示しているのであって、これを今日のクリスチャンにそのまま当てはめたりしないようにしたい。

ある人々にはダビデのように霊的に偉大な召しが与えられているが、ある人々はサウルのように失敗者となって終わることが決まっているなどと考えたりすべきではない。

(むろん、これは信者が人生における選択を誤った場合に当然、負わなければならない報いを意味するのではないし、信者が故意に御霊に逆らい続けた場合にも、信仰の失敗者とならないという意味でもない。)

ただ私たちは、クリスチャン同士の間に、あたかも人間の生まれつきの能力や才能のように、霊的命の等級のようなものが初めから定められていて、成長の度合いが初めから限られているなどという考えを持たないようにしたい。

新生されたクリスチャンの歩みは、同じ種類の植物の種を地面に蒔くようなもので、その種に初めからあまりにも大きな違いがあって最初から違った成長の度合いが定められているということは決してないのである。
 

主の民に関する大いなるすべてを含む言明は、彼らは神のための祭司の王国となるために選ばれたということです。これはつまり、主の民の僅かな人々ではなく全員が神のための祭司の王国となるよう召されているということです。

神は最初からイスラエルを祭司の王国と見なしておられました。民全体が祭司の地位にあると見なしておられました。これは次にレビの部族が引き継ぎました。レビの部族は全イスラエルの初子を代表するものであり、主の御前にもたらされて、聖所での務めのために分離されました。主の御思いでは、これは全イスラエルをその地位にもたらすことを表していました。

しかし同時に、そこには相違があったことを理解しそこなうことはありえません。そこにはレビ人たちがおり、祭司たちがいました。レビ人たちがおり、アロンの息子たちがいました。彼らは同じではなく、異なっていました。しかしこの相違は、相違が生じることを主が意図されたからではありません。

 私たちはこれをすぐに単純化してしまいますが、まず第一に、次のことをはっきりさせなければなりません。すなわち、
神が持っておられる最高の最も完全なものは彼のすべての民のためであり、一部の人のためではないのです。あるものは自分には過ぎたものである、自分がそれに到達することは決して主の意図ではない、と感じる時は常に、これを思い出して下さい。彼の豊かさは一部の人のためだけであるという考えを、あなたの思いの中から完全に追い出さなければなりません。

「御霊による生活」 第五章 祭司団 (1)

 
しかし、現実には、クリスチャンの霊的な成長には大きな違いが発生する。ある人々は霊的に前進し続けるが、ある人々は途中で停滞してしまうか、もっと悪い場合には後退し、脱落する。

私たちは、そのようなことは、神が新生されたクリスチャンに初めから定めた違いを意味するのではなく、おのおののクリスチャンの望みに応じて生じる違いなのだと気づくべきである。

すべてのクリスチャンには、それぞれが同じ種類の種のように、大きな霊的成長を遂げる可能性が備わっているものの、成長が起きるかどうかは、あくまで各自のクリスチャンの望み、また歩みによる。

今日、多くのクリスチャンを名乗っている人々の成長を妨げているのは、人間の作り出した宗教組織や、宗教指導者の教えという、人間が作り出した思惑や制度の枠組みである。あまりにも多くの信者が、これらが人自身が作り出した規則や考えに過ぎず、神の霊的な命の統治とは何の関係もないのものであるということを認めず、その枠組みから出る可能性を考えてみることもない。そのため、彼らがとどまっている枠組みが、そのまま彼らの霊的成長の限界となってしまうのである。

それはちょうど何メートルも生長する可能性を秘めた巨木の種を小さな温室に閉じ込めて育てようとするようなものである。

人間の作った宗教組織や、宗教指導者の教え以外にも、信者の霊的成長を縛り、邪魔し、制限しているものは多くある。たとえば、それはこの世の常識であったり、不信仰から来る信者の誤った思い込みであったり、信者自身が自分の心の中でもうけた制約などである。

一つ前の記事に、一羽の雀を天にはばたかせるのか、それとも地に落とすのかは、信者自身の心の選択にかかっているのだということを書いた。このことは、信者が自分で管理するよう地上で任されたものを、生かすのか殺すのか、増やすのか減らすのか、繁栄させるのかそれとも衰退させるのか、といった選択は、信者自身の信仰にかかっていることを意味する。

同じように、信者自身が霊的にどれだけ成長を遂げるのかも、信者自身の望みにかかっているのである。

言い換えれば、真に霊的に成長を遂げたければ、信者は自分自身のちっぽけな思いの限界をとりはらい、神の御思いにふさわしいだけの高さ、広さ、深さ、長さをもった思いを抱く必要がある。神が人に望んでおられるのと同じほど、気高く、高潔で、壮大な願いを抱き、それが自分に実現可能であることを固く信じ続け、どんな困難に遭遇する時も、あきらめることなく前進し続けなければならない。

信者が抱く望みの高さ、大きさに応じて、信者を取り巻く環境が押し広げられる(もしくは狭められる)。環境が信者の信仰を規定するのではなく、信者の信仰が、信者を取り巻く環境を規定するのであり、もしもその逆が起きているならば、その信者はもはや信仰に従って生きているとは言えない。

ところが、多くの信者が、自分で自分の信仰の成長を縛り、停止させていることに気づいていない。そのようにして信者が自分でもうけている限界や制限の中には、「私とはこのような人間である」とか「私はこのような人間でなければならない」といった信者の思い込みもある。

多くの信者が、「私は大した人間ではありませんから、大それたことはできません」などと告白することを、あたかも謙虚さであるかのように勘違いしている。しかし、そのように告白してしまえば、それが現実となるのは避けられない。

つまり、「私は大した人間ではありませんから…」と自ら述べている信者が、キリストの身丈にまで成長することはまず絶対にあり得ない。

そのようなわけで、信者は、神が願っておられる御心を真に掴み、本当にそれにふさわしいまでに成長し、遠くまで歩いて行こうと願うならば、まずは自分で自分を縛っている思いの狭さや限界自体を取り払い、変えなければならないのである。そして、「自分とはかくかくしかじかの人間である」という、自分でもうけた制約そのものを取り払って、神が自分に願っておられることは一体、何なのかという視点で自分を見るようにしなければならない。

ほとんどの人は、その必要性に気づかず、生まれ育った環境で身に着けた常識に従ってしか自分を見ようとしないため、信者となっても、キリストに似た者とされることの意味が全く分からず、自分が何を目指しているのかも分からないまま、完全にこの世の常識的な考えと枠組みの中だけで生涯を終えることになってしまう。

冒頭に挙げた記事に話を戻すと、クリスチャンは、自分の霊的な成長に応じてしか兄弟姉妹と交われない。そこで、交わりの中にいた信者の誰かの霊的成長が止まってしまうと、それまで一緒に歩いて行くことができた兄弟姉妹が、もはや共に進んで行けなくなるということがしばしば起きる。

宗教界にいる多くの信者たちは、信徒の交わりという問題について完全に誤解しており、彼らは、自分が所属している宗教組織にいる人々が兄弟姉妹だと考えているため、その組織に所属している限り、信徒の交わりから除外されることはないと考えている。

しかし、そのような考えは誤りである。そもそも地上の宗教団体に所属して得られる人間関係は、地上的な人間関係と何ら変わらず、御霊による霊的交わりではない。

当初は無知のゆえに、そうした地上組織がキリストの体を表すものであるかのように誤解している信者がいたとしても、その信者が真に霊的交わりを探求するならば、やがてその組織が誤りであることを見いだし、真理に従うために、そこを出て行かねばならない時がやって来る。

こうして、ある真理に気づいた信者が、それに気づかない人々の集合体を後にせねばならないということが起きるのである。

そのような現象は、信者が地上的な宗教組織を離れ、クリスチャンの兄弟姉妹と自由に交わっていても、やはり起きて来る。

そこでも、その交わりにいる誰かの霊的成長が止まり、あるいは、その人が霊的に後退し始めたり、もしくは、人間的な思惑に惑わされて、真理から逸らされたり、あるいは、自ら指導者となって他の信者たちを管理・統制し始めたりすれば、その交わりはもはや自由な交わりではなくなり、御霊の働きが損なわれる。

すると、そのことに気づいた信者は、その交わりを中止して、自分一人であっても、そこを出て先へ進まなければならなくなる。

このように、御霊による交わりは、キリストを土台としてか成り立たず、御霊の自由が損なわれれば、交わりが成立しなくなってしまう。人間的な思惑や力によって牽引される交わりは、信徒の交わりではなく、もはや別な何かである。

悪魔は心から信徒の交わりを憎んでいるので、これを壊すために、全力を尽くす。そこで、かつては自由であった信徒の交わりに連なる成員の心が、キリストの御霊とは異なる影響力から来る別の教えに誘惑され、逸らされて行く危険は十分にあり得る。

あるいは、キリスト教界をエクソダスしたと言っていた人々が、再び、キリスト教界に戻って、宗教組織や指導者の束縛の下に入ることもあれば、自ら指導者になろうとすることもある。

そのようなわけで、一旦、御霊の自由の上に打ち立てられた交わりの中にいたはずの信者たちが、再び、人間的な思惑の支配下に入り、そのために、御霊による交わりが損なわれると、信者は、最終的に、御霊自身がその交わりを去って、その交わりが完全に堕落・変質して破壊されるよりも前に、そこを去らねばならなくなる。

サタンの誘惑に屈して、聖書とは別な教えに逸れていった人々が、自ら交わりを壊したという自覚を持つことはほとんどない。霊的に後退した人々がその自覚を持つこともまずなく、まして自ら指導者となって、キリストに代わって交わりを支配しようとするような人間が、その行為が悪であることを自覚することはまずない。彼らを説得しようとしても、それはほとんど不可能な相談である。

そこで、信者はそのようにして御霊とは完全に異なる別の影響力が入り込んできて交わりが汚染されたことを悟れば、そして、それが助言や忠告によって修正できる範囲を明らかに超えていることが分かったならば、そこにいる人々を、共に前進できる兄弟姉妹であると考えることをやめて、静かにその交わりを出て行かねばならない。交わりが異なる福音によって汚染された事実を知りながら、人間的な情愛にとらわれて、そこに長い間、残っていれば、いずれ深刻な害を受けることになろう。

このように、一旦、光を受けて前進していた信者が、後退するか、脱落するかした場合、その人との交わりは、まるで異教徒との交わりと同じような具合になってしまい、同じクリスチャンを名乗っていながらも、交わりが全く成立しなくなるという状況が起きうるのである。

そこで、たとえクリスチャン同士であっても、共に手を携えて霊的に前進して行けるかどうかは、その人自身の霊的成長にかかっていると言える。

途中までは共に前進出来ても、途中から脱落してしまう人々は非常に多い。そして、たとえ物理的には互いに顔を合わせることのない兄弟姉妹同士であっても、キリストの身体全体は一つであるため、他の信徒らに先駆けて、霊的に目覚ましい成長を遂げ、キリストの体の中で、先駆的な役割を果たしていた信者が、別な教えに逸らされて脱落すると、それは後方にいる人々にも大きな悪影響を与えることになる。

エクレシアは全体としては軍隊のような力を持つものであり、物理的な制約にとらわれず、互いに連動して機能しているため、一人一人のクリスチャンが霊的に成長を遂げるとき、それはエクレシア全体の増強となり、サタンと暗闇の軍勢に対する大いなる衝撃力となる。一人一人の信者の霊的成長が、エクレシア全体にとっての力となり、暗闇の勢力にとって重大な脅威となる。だからこそ、サタンは何とかしてエクレシアの交わりを破壊し、一人一人の信者の霊的成長を阻止し、できるなら彼らを誤った道へ逸らし、交わりを分断・破壊しようとするのである。

とはいえ、他の信者の状態がどうあれ、あなたは決して前進をあきらめず、キリストだけを土台として、進み続けなければならない。たとえ一人きりで出発せねばならないと感じられる時でも、あなたが前進し続けるかどうかが、エクレシア全体の前進にも大きく関わって来るのであるから、進み続けることをあきらめてはいけない。

 しばらく離れなければならなかった兄弟姉妹とも、また交わりの中で再開できる時が来ないとは限らない。しかし、キリスト者の歩みの目的は、かつてあったような交わりを維持・再現することにはなく、ただキリストに従うことだけが目的でなければならない。

さて、以上は、信者が、自分の思いを、神が信者に願っておられるスケールにふさわしいまでに押し広げ、高い目標を持ち、自分で自分の成長に限界をもうけず、自分に与えられた高貴で責任の重い使命にふさわしい自覚を持つべきことについて書いて来た。

そのように高い目的意識と、それに見合った広い心を持ち、神の約束の御言葉に従って、自分自身がそこに到達できることを固く心に信じないことには、信者の霊的成長など起こり得ないのである。

次に、信者が自分の「さまよう思い」をコントロールすることについて書きたい。

現在、筆者の作業場は小鳥たちの楽園のようになっている。筆者のパソコンの画面にはたくさんの小鳥が止まっており、キーボードも、小鳥たちが走り回る遊び場となっている。南国の美しいブルー、ピンクなどの、小鳥たちの珍しい色が、目を楽しませてくれる。

これらの小鳥を見ながら、筆者は、標題の御言葉の意味を思いめぐらしている。

キリストの復活の命は、環境を創造する命であり、この世のすべてを超えた支配力を持つことを、これまでの記事で幾度か述べて来た。御霊によるキリストの新しい命は、信者の地上におけるすべての必要性を整えることができる。

そこで、信者の生活に、損失のように思える出来事が起きた時でも、信者がもしそれを損失であると認めず、素早くそこから立ち上がって前進を続けるならば、驚くほど素早くダメージが回復されるばかりか、以前よりももっと豊かな恵みが与えられる。

筆者が出会った小鳥たちも、御霊の統治の中で与えられたものであると言える。偶然ではない様々な波乱に満ちた出来事が多々起きる中、筆者は様々な条件を指定して鳥を探して来た。これまで何度も小鳥を探して来たが、珍しい種類の良い雛を見つけるのは簡単なことではない。筆者の周りにいる鳥たちとの出会いも、一つ一つが偶然ではなかった。

だが、小鳥の話は単なる比喩に過ぎず、ここで筆者が言いたいのは、信者には自分を取り巻く環境条件を自ら創造し、自分の支配下に集まって来るものを、どんな風に治めるかを、自分自身で決める権限があることだ。

信者は信仰によって、すべての願うものを無から呼び出して獲得し、得たものを主人として管理・統治する権限を持つ。その影響力は、小さな生き物だけでなく、信者の支配圏内にあるすべての人、物事、条件に及んでいる。

そこで、信者は、信仰によって何かを得ようと願うだけでなく、得たものを適切に管理・統治する方法を学ばなければならない。その過程で、信者の統治には、信者自身の思いがかなりの影響を与えることが分かってくるだろう。

生き物を育てると必ず分かることは、動物たちには、間違いなく、言葉を超えた伝達能力が備わっており、主人の思いを言葉によらずに、瞬時に的確に察知する能力があるということだ。

飼育されている生き物たちは、主人である人間が今、平安を感じているのか、それとも恐怖を感じているのか、何の伝達手段にもよらず、瞬時に察知できる。彼らは、主人が安らいでいることによってのみ、平安を得る。

また、これらの生き物は、主人が同じ部屋を立ち去って、少し離れた見えない場所にいても、主人の心がどういう状態にあるのかを的確に察知することができる。

筆者はこのような能力を、当初は動物に備わる本能的な直感や、人間である主人の生活に合わせる適応力なのだと思っていたが、実は、そこには単なる言外のコミュニケーションを超えたもっと重大な影響力の行使があることに気づいた。

その影響力は、やはり、すべての生き物を治める主人と、その支配下にある生き物の主従関係から発生して来るものなのである。それは王国における王と臣下の関係にも似ていて、飼い主の考えは、これらの生き物たちに瞬時に伝わるだけでなく、生き物の運命を決めてしまうほどに重大な決定権・影響力を持つ。

たとえば、飼い主が怒りっぽく、絶えず不安にさいなまれている人間であるのに、ペットだけが平安で幸福であるということはまずない。そればかりか、飼い主がペットを愛さなければ、ペットの方が、自分は必要とされていないと思い、世をはかなんで去って行くということさえ起きかねない。

どんな飼い主であっても、飼い主の意志と思いは、圧倒的な影響力となって生き物に行使される。それが主人であることの意味である。人自身が思っているよりも、はるかに強く、また、些細な思いに至るまで、人間の思いや感情は、生き物に伝達され、決定事項のように作用する。

そこで、飼い主は、自分自身の思いが、自分の配下にいるすべての生き物にとって、善き決定となり、良好な影響を与えるように、自分自身をコントロールしなければならない。

もちろん、飼い主は、自分たちの生活に脅威を与えるすべての悪しき力に立ち向かって、これを撃退し、いと小さき命を養う主人としての役目と責任を果たすべきことに加え、彼らを幸福に生かすために必要な条件を整えねばらならない。

その過程で、人間は、自分の思いがどれほどすべての環境条件に重大な影響を与えているかに気づかざるを得なくなるだろう。

筆者がなぜ今、生き物を例に話をしているのかと言えば、人間を相手にする場合は、受ける影響力が強すぎるため、どこまでが自分の責任範囲であるのかが、分かりにくいからである。

仮に軽自動車とダンプカーとの接触を考えてみた場合、あなたが運転していたのが軽自動車であって、相手が運転していたのがダンプカーであれば、あなた自身の影響力がどこまでのものであるかは極めて分かりにくいだろう。ダンプカーの力が強すぎるからである。このように、人間を相手に関わる場合は、相手から受ける影響が大きいがゆえに、自分自身の思いや行動がどれほど相手に影響を及ぼしているかは見分けにくい。

しかし、人間よりもはるかに弱く小さな生き物が相手であれば、人は自分がその生き物にどれほど絶大な影響を及ぼしているかを、人間を相手にする場合よりももっとはるかによく知ることができる。

多くの人々は、飼い主として果たすべき責任と言うと、まずは餌や水を与えること、適切な温度管理をすること、清潔な環境を整えること、などの物理的な飼育条件を思い浮かべるであろう。もちろん、これらの世話は必要なことである。だが、それよりももっと根源的なところに、飼い主の思いというものが存在する。

人が自分自身の思いを守ることの重要性は、あまり強調されないが、これは非常に重要な問題マである。飼い主の思いが平安であり、安定していなければ、物理的世話が行き届いていたとしても、その支配下にある生き物は幸福になれない。そもそも、飼い主の思いが安定していなければ、ペットの幸福はあり得ず、それは、しばしば、物理的な世話が行き届かない最たる原因となる。ただ愛情があるだけではダメで、変わらない愛情、常に安定した愛情を注ぐにふさわしい準備ができていなければならない。

だが、このことはペットの飼育に限らず、すべてのことに共通しており、人自身が平安に生きられるかどうかの鍵は、その人自身が自らの思いを守れるかどうかにかかっている。

多くのクリスチャンは、常に安定した愛情を、ペットのみならず、自分自身にも、他者にも、注ぐ用意ができていない。彼らの心はあまりにも不安定で、変わりやすく、その上、彼ら自身が、自分は怒りっぽい性格に生まれたとか、苛立ちやすいとか、不安に影響されやすいとか、体が弱いなどと考えて、自分で自分の性格を規定し、自分の弱さが自分の生まれ持った傾向であり、変えられない習慣であるかのようにみなして、自分の心を圧迫するあらゆるものに毅然と抵抗して、自分の心を守ることをほとんど完全にやめてしまっている。

それゆえに、彼らは自分の心の平安をかき乱すあらゆるものに勇敢に立ち向かうこともなく、受け身に翻弄されるだけとなり、自分の心を防衛の砦のように守ることができず、まるで風にきりきり舞いさせられる木の葉のように、起きる出来事に翻弄されては心の平安を失い、自分ばかりか、自分の支配下にあるすべてのものを危険にさらしているのである。実のところ、それは全く正しい行動とは言えない。

そういうことは、その信者が自分の思いをコントロールする術を学んでいないために起きることであり、また、同時に、信者が自分で自分の性格を規定してしまっているために起きている誤解なのである。

そのことを知らない人々の中には、以上のような天然の弱さからもっと進んで、たとえば、自分は運が悪いとか、決して人から愛されないとか、肝心なところでいつも失敗するとかいった、極めて否定的な根拠のない思い込みを頑なに真実であるかのように信じ込んで生きている者もある。それは彼らが心の思いの深いところで、すでに自分の人生を規定してしまっていることを意味する。

そのような否定的な「信仰告白」を繰り返していながら、一体、どうしてその人がキリストの身丈まで霊的成長を遂げることなどあり得ようか。

たとえば、自分の人生があたかも不幸の連続であるかのように自ら思い込み、決して自分は人から十分な愛情を注がれることなく、十分にかえりみられることもなく、何かの痛ましい事件の犠牲者となって生き続けるしかない被害者であるなどと、心の深いところで根拠もなく思い込んでいる人間が、自分の周りにいるいと小さき命を真に幸福にできることは決してないと言えよう。

そういう意味で、前回も書いた通り、「一羽の雀」をはばたかせるか、地に落とすかという選択は、生き物の飼育という問題をはるかに超えて、その飼い主である人間自身が、果たして自分を治めることができているのか、自分を生かすつもりなのか、殺すつもりなのか、生と死のどちらを選ぶのかという選択と深く関わっているのである。

本来、多くのものを適切に管理し、多くの命を生かさなければならない立場にあるはずの人間が、自分は不幸だと思い込み、環境の主人となるどころか、環境条件に振り回され、それゆえ、常に自分を失って、周りの命に大きな悪影響を及ぼしながら生きているといった現象は、決して一部の弱い人々にのみ起きていることではなく、霊的成長を遂げたいと願っている多くの信者にもしばしば当てはまるものなのである。

今日、クリスチャンを名乗っているほとんどの信者は、自分で自分をどれほど制約し、規定してしまっているかを知らない。彼らは口では、「キリストに似た者とされたい」と告白するが、それが一体、どういうことを意味するのか、内容を分かっていない。聖化だとか、栄化だとかいった専門用語のような概念を論じることはあっても、その内実が何であるのかほとんど理解してはいない。

彼らは自分というものを、あたかも救われる前まで、もしくは昨日まで、積み重ね、作り上げて来た狭い自己イメージであるとみなしており、そこに変化が起きうる可能性を全く想定していない。過去の蓄積として自分自身で作り上げた自分のイメージが、明日も、明後日も、続くのだと思い込んでおり、それに無意識のうちに束縛されてしまっているため、そこに信仰の働く余地が全くと言って良いほど存在しないのである。

その思い込みは、完全に事実無根というわけではなく、その中には、幾分か、信者自身の生来の性格や傾向も含まれており、事実、そのような過去が繰り返されて来たのかもしれない。

しかし、信者の信仰による歩みは、過去によって規定されるものでなく、信者の天然の命によって規定されるものでもない。そこで、まことしやかな「過去の蓄積」を自分自身だと思い込んで生きている限り、その信者の中から、天然の命の限界を打ち破るような信仰の働きは決して起きて来ることはない。

サタンは、信者の天然の傾向を入念に研究済みであって、信者の天然の命から来る限界や欠点を、あたかも信者の変えられない「運命」であるかのように思い込ませる天才である。それは、悪魔は、信者がいつまでも過去に縛られ、自分の天然の命の弱さから抜け出せず、決してその制約から立ち上がって、キリストの復活の命の豊かさにあずかれないことを願っているためである。

楽器の練習をする際に、昨日と同じように弾こうと考える者はいないだろう。必ず、昨日よりは上手く、昨日よりももっと自由に、より美しく、より高い完成度で演奏しようと考えるはずである。どんなに目標が遠く感じられても、根気強く、そこに近づいていきたいと願い続けているからこそ練習するのである。

ところが、信仰による歩みについて、あまりにも多くの信者たちが、いかなる目的も持っていない。彼らは何の目的意識もないまま、漠然と昨日と同じような今日を生き、その延長として明日が来るだろうと考えているだけで、全く目的意識も持っていないのに、まるで偶然のように自分に進歩が起きるのを受け身に期待しているだけである。

彼らはキリストに似た者とされることが、自分自身の内面の作り変えを意味し、自分の中で人として損なわれた尊厳を完全に回復することを意味しているなどとは全く考えてもみない。むろん、自分自身の内側で、天然の堕落した命の衝動に従って生きている限り、人としての尊厳がどれほど深刻に損なわれているかに気づいてもおらず、そのままでは、人生において完全な主権を打ち立てることもできないと分からない。

サタンは、信者に天然の弱さが克服不可能であるかのように思い込ませようとするか、もしくは、それを克服することは、人間の力では到底、不可能であるから、あきらめるしかない、と思い込ませようとする。そのようなサタンの策略が功を奏すれば、信者は自分のあれやこれやの弱さにひしがれ、それを否むことは、神のまことの命によってのみ可能であると考えてみようともせず、自分で自分の弱点を克服しようともがいた挙句、一向に克服できない自分の欠点や弱点に対する罪や恥の意識に常に苛まれて生きるしかなくなる。

そうしてサタンの策略が功を奏すれば、サタンは信者をただ天然の命の弱さによって思うがままに翻弄するだけでなく、その次に、信者の天然の傾向とは何の関係もない余計な重荷までも次々と信者に押しつけて来た上、それらを背負って生きることが、信者の「運命」であるから、あきらめるしかないと思い込ませようとするであろう。

サタンが願っているのは、信者の思いをひっきりなしに重荷によって圧迫し、かき乱し、平安を失わせ、信者があらゆる物事を判断する際に、ただ受け身に出来事に翻弄されるだけとなって、決して正常な決断が下せないように仕向け、主体性を失わせることである。

サタンは信者が神の国の霊的統治を持ち運ぶ王のような威厳と権威を備えた存在だということを何としても気づかせまいとしており、信者の見えない王国を統治する主人としての威厳と権威を損ない、信者が与えられた召しにふさわしい生き方ができなくなるように仕向けようとする。王の威厳にふさわしい者と言うより、奴隷と呼んだ方が良い生き方を強いようとする。

そのためにこそ、サタンは、信者は弱く、欠点ばかりを抱えた、一人では何事もできず、失敗を繰り返すだけの無力な人間であるから、常に誰かの助けと支えがなければ生きられないかのように思い込ませ、信者がまかり間違っても、大それた高貴な目的意識など持つことなく、自分がキリストの持っておられるすべての性質にあずかるにふさわしい人間であるなどという自覚を持たないように仕向けようとするのである。

サタンが願っているのは、信者が一生、自分の天然の命の限界から一歩も出ることなく、罪と死の法則だけに支配されて翻弄される客体として生きることである。

だが、信者はそのような悪しき惑わしの策略を打ち破り、これを振り切って、前に進んで行かなければならない。このことは、信者が重荷を避けて通ることを意味せず、むしろ、どれほどサタンが信者に不当な重荷を押しつけようとして来たとしても、信者がこれに勇敢に立ち向かって、それを撃退する方法を学び、その重荷を自分自身のものとして背負うことを断固、拒否する姿勢を保持することを意味する。

聖書には、「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。」(詩編68:20)という句があり、これは新改訳では、「ほむべきかな。日々、 私たちのために、重荷をになわれる主。」となっている。神は私たち自身を背負われる方であるから、私たちはいわれのない重荷によって心を絶え間なく圧迫されて正常な判断力を奪われることを固く拒否すべきなのである。確かに、主に従う上で、日々、負わねばならない十字架があるとはいえ、主イエスはその荷は軽いと言われた。

サタンが押しつけて来る重荷は、人間には負いきれない重荷であって、信者はそれを引き受けてはならない。しかし、その重荷の中には、信者の天然の命から来る限界だけでなく、信者が常識であるかのように考えて自分でもうけた制約なども含まれている。

信者の霊的成長にとってしばしば最も有害な障害物となるものが、信者自身が過去の記憶の蓄積や、人の言葉や評価を通して得た自分自身のイメージ、または、聖書に反する自分の常識を通して作り上げた自分自身のあるべきイメージである。

ガラテヤ人への手紙の中で述べられている「御霊の実」は、今日、多くのクリスチャンにとってほとんど絵空事に等しい。この聖句は今日、多くの信者の間で、「クリスチャンになった以上、人々に対して親切で善良な人間になりましょう」といった道徳訓くらいの意味合いにしか理解されていないが、ここで述べられていることは、そういう意味をはるかに大きく超えた、信者の内なる人格の作り変えのことである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:19-26)

信者の内なる天然の人が、主と共なる十字架ではりつけにされて死に、その代わりに、キリストの高貴な人格の性質が、その信者自身の人格として付与され、信者がそれに一体化して行くということが起きねばならないのである。キリストの人格が、信者の人格と一致して働き、キリストの命に備わった性質が、信者自身のものとされ、信者の内側から発揮されなければならないのである。

だが、その作り変えは、決して信者の自覚や同意と関係なく自動的に起こることはない。その作り変えの過程で、信者の思いや、魂にも、十字架が適用されなければならず、信者は自分がそれまで自分だと思っていた天然の人を否み、これを手放し、それとは異なる人格(命の性質)に従って生きることを自分自身で選択せねばならない。

そのためには、何が天然の命に属するものであり、拒まなければならない性質であるかを、信者自身が理解せねばならない。

そんなにも多くの時間をかけて学ばなくとも、多くの人々は、自分の人生の調和を狂わせるようなあらゆる変調が、自分自身の心の中に存在することに、すでに気づいているだろう。

人の心の中には、さまよう思いがあり、それはきちんとコントロールしなければ、信者の心の中を荒れ果てた庭のようにしてしまう。それは、たとえるならば、演奏家が楽器を奏でる際に、様々な外的な要因によって注意を乱されたために呼び起こされた調子の外れた音のようなもので、信者の人生という美しい演奏を不意にかき乱し、場合によっては、壊してしまう。

しかし、信者は、信仰によって、主と共に自ら望むものを創造する者として、ちょうどどんなに劣悪な環境条件の下で演奏を強いられるときにも、最高かつ最善のパフォーマンスができるように自己鍛錬する演奏家のように、自分をコントロールする術を学ばなければならないのである。常に自分にとって完全な舞台が用意されてから、完全な演奏をしますと言っているのではだめなのである。

信者は、自分を取り巻く環境条件に関係なく、自分の内面をコントロールし、そこから信仰によって、自ら環境条件を治める術を学び、それによって、自分の人生の真の主人としての自立と尊厳を回復しなければならない。その回復作業に当たって、信者は、心の変調となりうるすべての要素を、自分の内から追い出さなければならない。

信者が自分自身の心を治める術を学ぶ過程は、非常に根気強いプロセスを必要とするもので、ただ主と共なる十字架における、主の死と信者との一体化、信者が天然の命の衝動を拒んで、神によって与えられた新しい命に従って生きることによってのみ可能である。

神の栄光にあずかるとは、信者自身の内面の作り変えと決して無関係に語れるテーマではないと筆者は考えている。それは決して、地上で信者が大々的な伝道を繰り広げてクリスチャンの数を増やすとか、大規模な事業を行って世間に注目されるといったことを意味しない。

地上で完全にただの人のように肉に従って生き、御霊の働きを知らず、御霊の導きに従って生きる方法も学ばないまま、信者が地上での生涯を終えても、復活の時が来さえすれば、栄光に満ちた姿に自動的に変えられると考えるのは、かなり甘いであろうと筆者は思う。

信者はこの地上において、すでにキリストと共なる死と復活にあずかっているのであり、復活による作り変えは、すでに今の時点からその人の内側で進行中なのである。やがてキリストが来られる時に、私たちがどの程度、主と共に栄光にあずかることができるのかは、私たちが今、この地上で、天然の命をどれほど否み、キリストの復活の命に従って生きたかという度合いによる。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

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命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(1)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

さて、標題につけた「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉は、従来の文脈では、神がご自分の創造された最も小さな取るに足りない命までも、最新の注意を払って心に留めて、養っておられるという、神の愛や憐れみの深さを示す文脈でよく引き合いに出される。

しかし、今回は、そういった従来の文脈とは、少し違う文脈で、この御言葉を引用したい。

なぜなら、今回の記事のテーマは、一羽の雀が地に落ちるかどうかは、私たちの采配にかかっているのだという点にあるからである。

神は人類を創造された際、地上のすべての生き物に対する支配権を人間に任された。それゆえに、むろん、神はそれらの生き物の生殺与奪の権を握っておられるとはいえ、現在、それらの生命を直接的に管理する権限を与えられているのは、私たち自身なのである。

創世記の人類創造の場面にはこうある、

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 」(創世記1:26)

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 」(創世記2:19-20)

以上の御言葉に示されている「名をつける」という行為は、人間が地球上のすべての生き物の名を支配することで、その生き物の命に対する支配権を握ったことを表す。地球を、神が造られた大きな庭にたとえるならば、人間はその庭を管理する園丁のような存在である。

神はこの目に見える世界をご自分で直接、統治することもできたが、あえてその支配権を人間に委ねられ、人が神の代理としてこの目に見える世界のすべてを適切に支配・管理するよう任されたのである。

しかし、その後、アダムの堕落が起こり、アダムが任された地上における支配権は、堕落したアダム自身と共に、悪魔に渡ってしまった。しかし、それにも関わらず、神が人間を創造された目的はその後も全く変わっていないのである。

堕落して不適格者となったアダムの代わりに、神は人類に与えられた正当な使命を取り戻させるべく、独り子なるキリストを地上に遣わされた。クリスチャンは、キリストの十字架の贖いが、ただ単に、人間の罪の赦しのためだけにあるのではなく、また、贖われたキリスト者が個人的に聖霊に満たされて幸福な生活を送る目的のためだけでもなく、また、福音宣教によって地上にキリスト者が増え広がるといったキリスト教の拡大などという目的のためでもなく、そもそもアダムの失敗によって失われた統治権を人類に取り戻させるためにこそ、キリストが贖いを成就されたことを認識する必要がある。

そこで、今日、神はキリストにあって新生されたクリスチャンに、再びこの地の適切な統治権を任せようとしておられるのである。それによって、人自身が神の御思いの体現者として、山上の垂訓に見るような神の憐れみに満ちた霊的統治を、この世に実現することを願っておられるのである。
 
とはいえ、その統治権とは、目に見えない霊的な統治を指しており、この世に目に見える地上の権力を打ち立てることではない。御霊による統治は、新生されたクリスチャンが、この世に自分たちの名を冠した偉大な宗教組織を作り上げ、その威信を全地にとどろかせ、地球の覇者たろうとするといった方法でなされるのではない。

御霊による統治は、常に取るに足りない一人一人のクリスチャンの心の内側で、目に見えないひそやかな形で、個人的に進行する。それは人の目からは隠された歩みであるが、どんなに取るに足りないように見えるクリスチャンであっても、その内側で、もし御霊による統治が実際に行われているならば、そのプロセスは、天地にとって絶大な価値を持つ。

今日、宗教組織に所属しているほとんどのクリスチャンは、自分に与えられた絶大な御名の権威を知らず、キリストの復活の命に働く偉大な法則性をも知らず、その新しい命の力を行使した経験もほとんどないばかりか、自分に任されている支配権のことなど全くと言って良いほど知らない。

彼らは、まるで次々とチャンネルを変えながらTV画面にくぎ付けになる視聴者のように、数多くの宗教指導者のパフォーマンスに心を奪われ、魅力的な指導者らが、自分たちの代わりに物事を決定してくれ、自分たちの代わりに命令を下してくれるのを受け身に待っているだけである。

このような信者たちは、指導者が与えてくれる哺乳瓶を介さなければ、自分では何一つ聖書の御言葉の意味をわきまえることもできず、何事も決められず、いつまでも天を仰いで、神のお告げや宣託が自分にそれと分かる形でひらめき降りてくるまで、そこを動かないと決めてただぼんやりと待っているような具合である。

彼らは、祈りと称して無数の願い事を告白することはしても、誰かがゴーサインを与えてくれるまで、決して求めている解決が与えられたと心に信じることなく、大胆に立ち上がって自分の人生を自分で決めるために歩いて行こうともしない。彼らの祈りは、言いっぱなしの告白のようなもので、彼ら自身にとってさえ、神がそれに応えられたかどうかは、しばしば全く重要ではないのである。

こうした人々は、クリスチャンを名乗っていても、人間の古い言い伝えに従って生きており、宗教的なしきたりを守ることには熱心であっても、その生き方は、完全にこの世の不信者と変わらず、この世の常識から一歩も外に出ようとはしないため、彼らには、キリストが信者にお与え下さった内なる命の法則性に従って主体的・能動的に生きた経験もなければ、御子の贖いを通して自分に与えられた命の中にどれほど測り知れない神の力が隠されているかといった知識も全くと言って良いほどない。

一言で言えば、今日のあまりにも多くの信者は、自立の力が欠けすぎており、神が与えて下さった新しい命の力だけによって生きた経験自体がないため、その命の性質を知らず、その命の中にどんなに偉大な力が隠されているかも知らないのである。

キリストの復活の命に働く法則性は、それを行使しなければ、発揮されることはない。車を運転するためには、車のメカニズムを知らねばならず、楽器を弾くためにも、楽器の性能を理解しなければならないのと同じように、御霊による新しい命の法則性に従って生きるためには、信者はまずはその命がどういう性質のものであるのかをよく探ってこれを知り、その命を活用する方法を自分で学ばなければならない。

それなのに、ただ天を仰いでいつまでも願い事を祈っているばかりで、自分で物事を考えようともせず、自主的に決断も行動もせず、宗教指導者が決めた古い人間的なしきたりや常識に従って歩み、自分に与えられた新しい命の法則性に従って生きる秘訣を全く探ろうとも知ろうともしない人々のうちには、新しい命の法則性が働くことは決してない。

その命は、あくまで信じる者に個人的に一人一人に与えられているものであり、誰も本人に代わってこれを行使することのできる者はいないのである。従って、信者がいつまで経っても、自分以外の誰かがやって来ては、自分を適切に指導・操縦してくれることを願っているだけの受け身の赤ん坊のような状態では、キリストのよみがえりの命の法則も、御霊に導かれて生きることも、その人には最後まで分からずじまいで終わるであろう。

話を戻せば、宗教界には、常に時代を超えて、キリストの復活の命の統治といったものがあることなど考えもしない赤子的クリスチャンが大勢いるとはいえ、そのような現状とは一切関係なく、神が人間を創造された当初の目的は、今日も、全く変わらず、それはあくまで人間が、地上の目に見える世界およびそこに住むすべての生き物たちを適切に管理・支配する者となることなのである。その管理を通して、神の栄光を生きて地上に表すことなのである。

そういう意味で、「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉の意味は、本来の意味から転じて、天の父は、一羽の雀も含め、地上にいる生き物たちを管理する責任と役割を人間に委ねられたので、今やその雀が地に落ちないかどうかは、人間自身の選択と確信にかかっているという意味として受け取れる。
  
それは言い換えれば、キリスト者には、自分の許しなく、自分の支配圏内にあるいかなる命も失われることがないように支えることができるという絶大な権限が与えられていることをも意味する。むろん、地上の命はいつか終わりを迎えるとはいえ、信者は少なくとも御霊によって生きている限り、信者自身の同意なくして、信者の支配する領域にある命に突然の災いがふりかかることなどを防ぐことができるのである。

もしもそれにも関わらず、信者が自分の支配圏内で思いもかけない異変や災いが起きていることを察知したなら、信者の生活のどこかに御霊による支配の破れ目がないかどうかをもう一度、点検することを勧めたい。信者が生活の中で何を最優先しているのか、優先順位が狂い、命の御霊の法則から信者自身が逸れていないかどうかを点検することを勧めたい。

信者の生活には試練や苦難ももたらされるが、ほとんどの場合、それは信者自身が準備が出来た時にやって来る。神は信者に何かの犠牲を求められるときには、事前に信者が心の準備をする猶予を設けてくださる。しかし、悪魔が信者を攻撃するために不意にもたらす災いには、信者が心の準備をする余裕はない。そのような出来事が起きる時には、今一度、信者は、御霊の警告を軽視したりしたことがなかったどうか、十分に目を覚まして警戒を怠らないでいたかどうかを振り返ることを勧めたい。
 
王国という言葉は、王の支配権が及んでいる領域を指し、神の国とは、神の命の統治が及んでいる領域を指す。御霊が信者の内に住んで下さることによって、神の国が信者の只中に来ていることは、信者自身が、御霊を通して働く命の法則を一定の領域に及ぼし、その領域を管理・支配していることを意味する。

キリスト者は、神に対しては子供であり、僕であるが、地上のすべてのものに対しては、一人の王のような存在なのであり、信者には自分の支配領域を治める権限があり、それを適切に治めることを神に期待されているのである。

繰り返すが、キリストの復活の命を内に持っている信者は、神の命の統治を持ち運ぶ存在であるから、圧倒的かつ絶大な支配権を実際に持っているのである。

しかし、この地上に生きている限り、信者の内には二つの命が存在している。堕落した有限なアダムの被造物の命と、神の永遠の命である。

堕落した朽ちゆくアダムの命に従って生きるなら、信者を通して周囲に及ぼされるのは、罪と死の法則だけである。しかし、命の御霊の法則に従って生きるならば、そこには命と平安が生まれよう。信者がこの二つのうちどちらの命に従って生きるかによって、信者を取り巻く領域に、どのような性質の影響が及ぶかが決定する。

信者はこの選択について非常に注意深くなければならない。信者は自分の支配圏内にあるすべての生き物、自分が関わるすべての他者にとてつもない決定的な影響を及ぼす存在だからである。

聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)という有名な御言葉があるが、これが意味するところも、以上と同じように、実は信者の命の支配権の行使という問題なのである。

多くの信者らは、「主よ、家族を救って下さい」と受け身に祈り、天を仰いで、神が自分の代わりに働いて自分の家族を救って下さることを願い、家族に自分自身の霊的支配が及んでいるなどということは考えてもみようともしない。

だが、信者はそのように天を仰いで受け身の祈りを捧げる代わりに、まずは自分自身が、一定の霊的な支配を持ち運んでいること、自分こそが、自らの支配圏内にある全てのものに対して絶大な影響力を行使している主人であって、家族にも当然ながらその影響力が目に見えない形で及んでいることを自覚すべきなのである。

信者は、キリスト者の中にある神の新しい命の法則が、自分自身のみならず、家族にも影響力として及ぶことをまずは心から確信せずに、家族の救いといった問題に答えが与えられることを期待できない。

多くの信者の場合、足りないのは、祈りではなく、その信者の心の確信である。なぜなら、キリスト者が大胆に心に信じたことが、その信者の支配圏内にあるすべての物事に決定的な影響を及ぼすからである。家族とは、信者の霊的統治が及んでいる身近な人々のことであるが、信者自身が自らの統治権をろくに行使する方法も知らないうちに、家族の救いという問題について折るのは、間違いとまで言えずとも、ある意味では、順番が逆だと言えるかも知れない。

ヨセフは、幼い頃からすでに自分が家族の中で極めて重要な役割を果たすことを知っていた。彼の兄たちは、幼いヨセフの大胆な言葉を聞いて、ヨセフは兄たちを差し置いて自分を偉大な人間であると思い違いをして己惚れに陥っているだけだと考えて、ヨセフを憎み、妬んだが、ヨセフは、心の内側で、自分の霊的役割の重要さを初めから知っていたために、それを語っただけであり、彼の言葉は、自惚れから来るものではなかったのである。

それが証拠に、ヨセフは兄弟たちに裏切られてエジプトに奴隷として売られたが、結果的に、ヨセフのおかげで、ヨセフの家族全員が救われる結果となった。その事実は、ヨセフが幼い頃に見た夢は、彼自身が、一家の中で果たす霊的役割の重要さを予見したものであり、それは彼の変わらない召しだったからこそ、彼が奴隷として売られ、家族と離れていた間にさえも、見えない領域で、家族に対して及ぼし続けた霊的支配力があったのである。

しかし、与えられた召しが偉大だったからこそ、それが目に見える形で実現するまでの間、彼は多くの訓練を経なければならなかったのだと言える。本当の意味で、彼が家族に対する霊的支配権を行使できるようになるまでには、それほどの歳月が必要となったのである。
 
このように、キリスト者は、すべての物事が自分の意志に逆らって進んでいるように感じられる時にも、霊の内側では、御言葉に基づき絶え間ない創造と支配を行うことができると信じて進んで行かなければならない。

つまり、この世の有様がどうあれ、信者は、それとは関係なく、朽ちゆく不完全で限界あるものの只中から、命の御霊の法則によって、神の満ち足りた命の力を働かせて生きることが可能なのであると信じねばならず、その気高い目的が自分に与えられていることを確信し続けなければならないのである。

その信者が心の中で何を思いを巡らし、何を現実だと信じるかによって、その確信が信者を通して、信者の霊的支配が及ぶすべての領域に決定的な影響を及ぼす。

もしも信者が、目に見える有様に気を取られ、その限界を現実として受け入れ、罪と死の法則に従って生きるなら、信者の支配圏内にあるすべての生き物、人々、物事の運命にも、同様の影響がもたらされ、その信者の誤った選択に、信者の支配圏内に存在するすべてのものが巻き込まれるであろう。

そういう意味で、「一羽の雀」を天にはばたかせるのか、それとも、地に落とすのかは、常にキリスト者自身の選択によるのだと言える。なぜなら、神がその権限を人間に委託されたためである。

むろん、すでに述べた通り、地上に存在する命あるものはすべていつかはその生涯を終えることになるとはいえ、それでも、信者は、自分の管理している領域においては、決して自分の許しなしに、どんなに小さな命でさえ地に落ちることはないように支える力を持っていることを、まずは信じなければならない。

そして、もちろん、ここで言う「一羽の雀」とは、文字通りの雀だけを指しているのではなく、信者の支配圏外にいるすべての生き物、人々、物事、環境を象徴的に表している。これは信者が自分で世話をしたり、心にかけて管理している自分に属するすべての命と環境のことを指しているとも言える。もしくは、主イエスが「一羽の雀」よりはるかにまさる存在であると言われた信者自身をも指していると言えるだろう。

多くの信者は、そのようにして自分自身で環境を創造するというよりも、むしろ、自分が環境に創造されて、不意の出来事に常に翻弄されて生きているような按配であるが、本当はすべてが逆なのである。信者が環境を統治しなければならず、それが正しい順序なのである。

一言で言えば、神は人間に対して非常に高貴で高い目的意識を持っておられ、私たち自身には思いもかけないほどの人格的完成を願っておられ、それゆえ、非常に高度な責任と絶大な影響力の伴う重大な管理を私たちに任せようとされたのである。

私たちは、神が人間に望んでおられる御霊による命の統治の完全な行使が、どれほど高い成熟度を必要とするものであり、重い責任が伴うものであるかを、おぼろげながらに想像することはできよう。

だが、生きている間に、その支配権の行使に相応しいまでに、キリストの身丈まで成長して到達することは、すべてのクリスチャンのミッションなのである。

キリストの復活の命は、統治する命であるから、その統治の力を働かせて、自分の関わる圏内すべてに及ぼすことができることを、クリスチャンはまず知らねばならない。そして、アダムの朽ちゆく魂の命と、キリストを通して与えられた神の永遠の命と、どちらに従って生きるのか、自分自身で決めねばならない。

そして、もし命の御霊の法則性に従って生きると決めたなら、これまでのように、恐る恐る自分の願い事を神に申し上げたり、不安の表明でしかないような祈りを言い表すといった生き方から、大胆に、望みを確信して、自ら命の支配権を行使するという生き方に転換する必要がある。

しかしながら、それは単純な道のりではない。その方法を学ぶために、信者はしばしばヨセフが辿ったような苦難の道のりを辿らねばならない。

順境の時に、大胆な願いを告白し、それを信じるのは、誰にとってもたやすいことで、そのためには信仰など要らない。しかし、すべての物事が閉ざされて、絶望的で、困難に見える状況の中で、神の恵みの約束に堅く立って、目に見えない命の御霊の統治を大胆に働かせて生きることには、信仰が必要である。

信者に期待されているのは、そのようにして、ただ信仰によって、任されたものを管理し、この世の卑しい朽ちゆく有限なものを通して、見えない高貴な永遠の収穫を得ることを通して、神のはかりしれない恵みの大きさ、完全さ、命の豊かさを、目に見える形で世に実現・証明して行くことで、神に栄光を帰することなのであり、それが、地上でクリスチャンに任された、神の喜ばれる奉仕なのである。

地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表し、絶えずさらに優った天の故郷を熱望する

彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)

神の言葉は生きて活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、心の思いと意図を識別します。

神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
 心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙四章一二節、改訂訳)

ヘブル人への手紙四章一二節のこの注目すべき節は、魂と霊の区別、両者を互いに「切り離す」必要性、それがなされる手段をはっきりと示しています。これは、信者が真に「霊の中で神にしたがって」生きる「霊の」人となるためです(ペテロ第一の手紙四章六節)

ペンバーはこの節に関して、次のように指摘しています、「使徒がここで言っているのは、神の御言葉の切り離す力である。祭司が全焼のいけにえの皮をはいで、四肢をばらばらに切り離したように、神の御言葉は人の存在全体を霊、魂、体に切り離す」

フォウセットは次のように記しています、「神の言葉は『生きていて』、『力があり』(活動的・効果的で、ギリシャ語)、『人のより高度な部分である霊から、動物的魂を分けるにまで至る』」「神の言葉は、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し、肉的・動物的なものから霊的なものを分離し、魂から霊を分離する」「神の言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在、魂と霊を分ける」「この描写は、祭司の剣によって、文字通り関節を切り離し、骨髄を刺し通してさらけだす所から取られている」。

神の霊が信者の霊の宮から自由に活動するかわりに、信者は魂の命によって支配されるおそれがあります。この危険性に対して目を開かれている信者にとって、ヘブル人への手紙四章一二節はとても示唆的であり、教訓的です。フォウセットの言葉はこれを示しています。

霊の人になることを願う信者のうちに、ただち次のような疑問が生じるでしょう、「私はどうすればいいのでしょう?どうすれば、私の歩みや奉仕の中にある魂的なものを識別できるのでしょう?」。

いま考察しているテキストによると、私たちは私たちの大祭司に自分を明け渡さなければなりません。この方は「もろもろの天を通って行った」方であり、この方の目に「すべてのものは裸であり、あらわにされています」(ヘブル人への手紙四章一三節)この方が祭司の務めを果たされます。彼は、鋭い両刃の剣である御言葉を用いて、私たちの内にある魂と霊を切り離すまでに刺し通し、「心の思いと意図」さえも識別されます。フォウセットは注解の中で、「『思い』と訳されているギリシャ語は心や感情に言及しており、『意図』または『知的観念』と訳されている言葉は知性に言及している」と記しています。

主は、私たちの肉体的・道徳的弱さに同情することのできる、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブル人への手紙二章一七節、改訂訳)となるために、人となられました。この方だけが、祭儀用の剣*を用いて、思い、感情、知性、知的観念さえも刺し通し、魂の命を忍耐強く「切り離す」ことができます。なんという働きがなされなければならないのでしょう!

聖霊が内住している霊が支配し、あらゆる思いを虜としてキリストに従わせるには、動物的な魂の命が取り除かれなければなりません。ではどうやって、動物的な魂の命は、その「関節と骨髄」さえも貫いて探知され、取り除かれることができるのでしょう?私たちの大祭司は、決してしくじったり、諦めたりされません。主は裁きの中から勝利をもたらされます。ただしそれは、人が自分を主の御手に委ね、主に信頼する場合です。主は神の霊により、生ける御言葉の剣を振るって下さいます。

魂と霊(Soul and Spirit)ジェシー・ペン-ルイス著  第4章 いかにして「魂」と「霊」は切り離されるのか



裁判官に会う日程も決まり、着々と物事が進行している。
 
さて、このところ、悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去るだろうという御言葉の意味を知らされている。今回は、御霊によって歩む生活を考える上で、邪悪な思念を退けるというテーマについて語りたい。

かつて当ブログでは、主と共なる十字架における自己の死について、幾度か語ったことがある。信者の生まれながらの体の邪悪な働きに対しては、主と共なる十字架における霊的な死が信者に適用されることが実際に可能であると。

多くのクリスチャンが、信仰生活の最初に、罪との格闘において、この段階を通る。そして、罪に対する勝利は、人自身の力によるのではなく、御言葉を通して、人間の堕落した肉体に働く主と共なる十字架の死が適用されることによって初めて可能になるのだと知る。

だが、十字架の働きはそこで終わらない。体に対する十字架の霊的死が適用されれば、次なる段階として、魂の命全体に対する十字架の死が適用されるという段階がある。それは、人の天然の肉体と魂に働くアダム来の命の邪悪な働きに対する死である。
 
罪との格闘が、最初は失敗からしか始まらないように、信者が魂の命の邪悪な力に気づいて、これを御言葉によって克服する方法を知るにも、それぞれの段階がある。まずは気づき、抵抗、格闘、勝利といった段階がある。

悪魔は、クリスチャンに対して、あたかもクリスチャン自身が思い描いていることであるかのように見せかけながら、邪悪な思念を外から吹き込むことができる。悪魔は、信者に恐れや、不安や、神に対する疑いや、罪悪感や、その他、信仰を曇らせるあらゆる邪悪で不潔な思念を心の中に混ぜ込もうとする。

それだけではない。悪魔は光の天使に偽装して、信心に見せかけた誤った思想や、常識に偽装した御言葉にさからう悪しき思念を、もっともらしい理屈のように見せかけて、信者に信じ込ませることもできる。

とにかく悪魔は神の栄光を曇らせる様々な虚偽の思いをクリスチャンの思念の中に絶えず注入しようとしており、それによってクリスチャンの自由を奪い、信者が自分で自分を縛り、信仰が働く余地がなくなるように仕向けているのである。

このことを知らないうちは、クリスチャンはそうした悪しき思念が自分自身の思いなのだと勘違いし、それにとらわれたまま生き続けてしまうだろう。

だが、もしもクリスチャンが、悪魔から来た思いを自分の思いであると信じ込み、また、それが抵抗することも、変えることもできない運命的な結論であるかのように信じて受け入れれば、その思念が実際にクリスチャンの霊の内に働いて現実になってしまう。

悪魔が狙っているのはまさにこのことであり、本来は、神の恵みに満ちた御言葉を地上で生きて実践し、御国の秩序を地に引き下ろすために存在しているはずのクリスチャンを、悪魔の思念を実現させるための道具に変えてしまうことなのである。

そこで、信者の心が戦場となる。信者の心には様々な敵矢が撃ち込まれ、神から来たのではない様々な種がまかれるのである。信者がそれに気づいてこれを取り除かない限り、その種は発芽し、雑草のようにはびこり、信者の心全体がやがて神から来たのではない思想に専有されて行くことさえ起きかねない。
 
だが、信者は誰しも天然の魂の命の邪悪な働きについ初めからて熟知しているわけではないので、この戦いは、完全な勝利から始まるというわけにはいかない。まずは信者が様々なきっかけを通して、霊的な敵が、自分の思いの中に、悪魔から来る要素を注入しようとしているということに気づくところから始めねばならない。

幾度かの失敗と、悪しき思念との格闘の末、ようやくクリスチャンは、自分の天然の魂に働く邪悪な衝動を見分けてこれを撃退する必要に気づき、やがて御言葉による実力行使によって、毅然と自分の思いの中に混ぜ込まれようとする様々な誤った考えに抵抗して打ち勝つことができるようになる。
 
信者は、御言葉に合致しない、神に栄光を帰さない、御言葉に敵対する、悪魔に由来する邪悪な考えや、さらに、自分自身に害を及ぼすような考えを、即座にきっぱり拒否する必要があると分かる。

もしもそれが分からないままでは、その信者は自分が一体、何に攻撃されているのかも分からないまま、ただやられっぱなしの状態が続くであろう。こうした無知な状態をすべてのクリスチャンが脱しなければならないのである。
 
たとえば、クリスチャンが稀に誰かからあからさまに呪いの言葉を浴びせられるということも、現実には全く起きないわけではない。しかし、クリスチャンは、そうした悪意ある言葉を聞いたときには、即座にこれを心の中で断ち切らなければならない。なぜなら、御言葉を参照すれば、私たちのためには、すでに木にかかられて呪いとなられた方がおられるので、そうした邪悪な言葉を私たちが身に背負う必要もなければ、そんな責任も全くない。そのことにちゃんと気づかねばならない。

それができなければ、信仰あるクリスチャンでも、呪いの言葉を受け入れてそれを身に引き受けるなどという馬鹿げた事態に至りかねないのである。

だが、悪意を持って第三者から発せられた言葉であれば、それが悪であることは、比較的誰にでも分かりやすい。誰もそれが神から来たものであるとは思わないであろうし、そんな言葉を真に受ける人も少数であろう。

だが、ふと人の心に何気なく思い浮かぶ様々な思念の中にも、そうした邪悪な起源を持つものが含まれていることがあると、気づいているクリスチャンたちはどれくらいいるであろうか。文字通り、自分の心に去来するすべての思いを、御言葉に照らし合わせて吟味し、まことの大祭司なる神の御手に委ねなければならないことを真に知っている人々はどのくらいいるであろうか?
  
邪悪な起源を持つ思いが、まるでその人自身の思いつきであるかのように装って、人の心に外から注入されるということが実際に起きうるのである。いや、四六時中起きていると言って過言でないかも知れない。そこで、信者は自分の魂に対しても、十字架の霊的死の働きが不可欠であることを知らねばならないのである。

たとえば、どんなに敬虔なクリスチャンであっても、何かよく分からない倦怠感、諦念、恐れや不安に駆られたりすることが全くないわけではないだろう。それは一時的な体調不良や、疲れに伴ってやって来るもののように思われるかも知れないが、それだけではない。
 
大概、暗闇の勢力は、信者の体の弱体化に伴って、邪悪な思いを注入するということに注意が必要である。以前にも書いたように記憶しているが、主イエスは十字架上で、痛みを和らげる効果のある酸い葡萄酒を拒まれた。(ただし息を引き取る直前には、それとは違った文脈でこれを受けられたが)。

このことは、イエスが罪なくして罪人の代表として、十字架刑の苦しみを、人工的な緩和なしに余すところなくその身に背負われたことを意味するが、同時に、主イエスが、体の働きを少しでも麻痺させるような薬の服用によって、霊的な命の支配力が弱まることを拒否されたことをも意味する。

つまり、痛みを和らげるためのアルコールを含めた様々な薬の服用は、ただ人間の苦痛を緩和するだけでなく、人間の判断力を鈍らせ、人が自分自身を治める力自体をも鈍らせ、失わせてしまう効果を持つのである。

霊は信者のうちで支配力を持つ司令塔であるが、体の働きと一切無関係にその支配力を実行に移せるわけではない。従って、体の力が弱まり、バランスが崩れれば、それに伴い、人間の思考力、判断力といったもののすべても低下する。霊的な識別力、判断力も、当然ながら、弱まって来る。
 
そこで、サタンは大概、信者の体のバランスが崩れた時に、信者の魂や霊に対する攻撃をしかける。体の弱体化には、過労や、病気やあからさまな災害によって引き起こされる変調もあれば、投薬による感覚の鈍麻もある。そこで、クリスチャンはそうした体の変調・弱体化を可能な限り、避けるべきである。不必要な薬の服用によって、霊的な命の統治の力までが弱まることに無知でいてはならない。
  
サタンが、こうして信者の体の弱体化に乗じて、正体不明の恐れや不安や疑いを注入して来るとき、信者はこれに毅然と立ち向かって、その思念を撃退することが必要となる。どんなに疲れていても、その思念がどこから来るものであるのかをきちんと見分け、受け入れてはならないものを拒否する姿勢を失わないようにせねばならない。

特に、自分や、家族や、自分に属するすべての大切な人々の命に危害を加えようとするような思念、人生で目指していた目標を諦めさせようとしたり、理由もなく失望落胆させる思念といったものには、徹底的に立ち向かって、これを受け入れることを拒否し、気力を奮い起こして立ち上がって抵抗・撃退しなければならない。

こうした格闘により、信者には、生まれながらの魂の命に働く邪悪な思いを否むことの秘訣がだんだん分かって来る。

だが、このことは決して信者が、主に従う上での苦難を一切、背負わなくなることを意味しない。悪しき思いを退けることと、試練と一切無縁の人生を送ることは別である。依然として、信者の人生には、様々な試練は起きて来るのだが、それでも、信者はこれに極めて積極的に立ち向かって、御言葉により大胆に武装して、これを克服し、勝利する秘訣を学ぶようになる。御名のゆえの苦しみを負いつつも、それに対する勝利があることを確信し、その試練の一つ一つを信仰によって乗り越えて行く秘訣を知るのである。
 
理由もなく苦しみにもてあそばれ、サタンのなすがままになることが、日々十字架を取って主に従うことではない、ということを、信者は心して理解しておかねばならない。霊的な戦いは、まさに信者の心の内側で始まるのであって、信者の魂が戦場となり、神の御言葉と悪魔の虚偽との間で、争奪戦の対象となるのだということを覚えておかねばならない。

私たちはすべてのことについて、神の限りなく豊かな命を選ぶのか、それとも、悪魔の押しつけて来る束縛や限界や死を選ぶのか、問われている。文字通り、すべての選択において問われている。私たち自身が、どちらを真実だとみなして受け入れるかによって、その後の人生が変わる。御言葉に根差して、自らの思いをコントロールすること、御言葉に合致しない思いを退けることは、私たちが神の恵みと祝福に満ちた人生を失わないでいるために、必要不可欠な日々の戦いである。

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守りなさい。聞いて忘れてしまうことなく、行う人になりなさい。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」
(ヤコブ1:19)


「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」
(ヤコブ1:22-25)


キリスト者の交わりは正直かつ誠実でなければならない。そこで、時には、どんなに相手にとって耳の痛いことであっても、言うべきことは、言うべきときに、はっきりと相手に伝えねばならない。

それができなければ、交わりは人間のエゴによって甘やかされ、腐敗し、ダメになって行ってしまう。だが、もしも一言苦言を呈しただけでも、たちまちダメになるような交わりがあるとすれば、それは最初から多分、交わりと呼べるものではなく、長続きする人間関係でもないと言えよう。

その意味で、筆者は今まで自分に、いや人間に対して、あまりにも優しすぎ、優柔不断であった側面があることを否めない。筆者は誰かに、二、三言、苦言を呈した際、その相手が、のらりくらりとその忠告を交わすようなことがあっても、かなりの猶予をもうけてその相手と向き合って来た。

だが、そのようなことをすると、最後には、その人間のわがままによって害を受けることになる。わがままを通したい人間が、忠告を聞くふりだけをして時間を稼ぎ、結果的には、その忠告をないがしろにして踏みにじった挙句、自分に耳の痛い助言をして来た人間を悪者扱いして排除するということが、度々起きて来たのである。

そうした教訓に立って、最近は、二、三回、よくよく話し合って注意しても、全くそれを聞き入れず、態度が変わらない人には、それ以上、関わらないようにしている。どこで線を引くかということに関して、慎重な判別がなされなければならないのだ。

だが、同時に、正直な態度を保持していると、助言を素直に聞き入れながら、互いに変化して行くことのできる関係が存在することも、次第に分かって来る。もしも常に歯に着せて、良いことづくめの甘い言葉だけを言わねばならない人間関係があるとすれば、それはこの世的な人間関係であって、キリスト者の交わりとは関係がない。

だから、時には、兄弟姉妹は、互いに言うべきことをはっきりとお互いに言い合い、正直であり、誠実であることが必要となる。しかし、それは、それぞれが人間としての情愛で結ばれるのではなく、キリストを介した信仰の絆で結ばれていればこそ、できることだ。

もしも人間の情愛による関係しかそこになければ、それは打算に基づくものであるから、利益がないと分かれば、たちまち崩壊するであろう。しかし、主がつなげて下さった絆は、そんなにも簡単なことでは壊れない。長い時がかかるかも知れないが、互いに辛抱強く進歩して行くこともできるのだ。

兄弟姉妹は互いに光をもたらす存在である。誰かが教師となって教えることはなくとも、それぞれが互いを照らし出す光を持っている。その時、自一人一人が、自分を照らし出してくれた光に正直に誠実に向き合うことができるか、できないかによって、そのクリスチャンのその後の歩みは分かれる。
 
そして、兄弟姉妹から光を受けなくとも、我々は御言葉によって絶えず光を受ける。生まれつきの自分の顔を鏡に映して見るように、生来の自分の衝動や欲望だけに従って生きるのではなく、御言葉を受け入れ、これを実践して行くことによって、いつか正真正銘の自由にたどり着くことができる。むろん、キリストを信じて私たちは自由とされているのだが、段階的に実現する自由というものもある。それはアダム来の自分自身からの自由でもある。
 
さて、オリーブ園の記事「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (2)」にも書いてあるように、時にキリストに根差した生活の最も大きな障害となるものが、形骸化した枠組みとなった宗教である。

当ブログは2009年以来、ずっとキリスト教界をエクソダスすべきことを唱えて来たが、その頃には、キリスト教界と牧師制度の欺瞞に気づき、そこからエクソダスすべきと唱える信者たちは、かなりの数、存在しており、活発な議論が行われていた。

その当時、既存の教団教派に失望して、教会難民のようになって、教会を離れた信徒の数は非常に多く、そうした人々が、既存の教団教派にとらわれることのない、聖書に忠実なエクレシアを模索していた。その当時、多くのクリスチャンたちが牧師制度を離れ去るべきと公然と唱えており、そうした論は珍しくもなかった。

ところが、エクレシアを模索していたそれらの人々が、その後、欺かれ、まっすぐな道を進めなくなり、散らされたのには、大きくわけて二つの原因があると考えられる。

一方には、「キリスト教界からエクソダスせよ」と言いながら、キリスト教界をエクソダスしていない群れがあった。その群れは、牧師制度を否定していたが、実際には、牧師制度と同じように、リーダーを立ててそれに従っていたのである。

他方には、カルト被害者救済活動のような偽りの運動があり、それが牧師制度の悪を糾弾する信者たちを傘下に集めては、巧妙に彼らを再び牧師制度のもとへ帰属させようとして行った。

これら二つともが、表向きには牧師制度を批判していたものの、両者ともに、実際には牧師制度に深く根差しており、従って、牧師という存在と訣別することができない自己欺瞞の運動だったのである。

このような欺瞞の運動に関わっている限り、信者は決してキリスト教界をエクソダスできず、キリストだけに従って生きるのも無理な相談である。

そのため、「キリスト教界をエクソダスせよ」と言いながら、それをしなかった群れは、その後、どんどんキリスト教界寄りになって行き、ついには一人の指導者を立てて、日曜礼拝を厳守するまでになった。有料のセミナー、売れ筋の出版物などをキリスト教界を通じて販売し、もはや何の区別も存在しない。
  
筆者が、これらの双方の群れから離れ、完全に牧師制度と無縁の真に独立した群れを模索し始めたとき、どれほど激しい妨害や攻撃が起きてきたかを見れば、キリスト教界という宗教組織が、いかに組織内に取り込んだ信者をいつまでも奴隷として拘束し、自由になることを許さず、かつ、牧師が信者の上に立つというヒエラルキーを何としても死守しようとするかを、誰しも十分に見て取れるだろう。

これが宗教というものの本質だとも言える。

カルト被害者救済活動は、信徒が牧師を訴えるという動きを、あくまで牧師の承認のもとにコントロールしようとしていたところに、根本的な腐敗と欺瞞があった。このように、背後に牧師がついている反対運動は、ある意味で、牧師と牧師のプロレスごっこと同じような出来レースなのであり、決して信徒の自主的な運動とはならず、本当の意味で、牧師制度の腐敗を根本的に正す原動力ともならない。

それが証拠に、かつてカルト被害者救済活動に関わる牧師が、カルト被害者のメールなどの個人情報を、加害者の牧師に無断でそっくり転送したことが発覚したために、カルト被害者から絶縁を言い渡されたりもしている。

その後も、この牧師は絶え間なく被害者の個人情報の漏洩を続けてきたが、それは彼がカルト被害者を傘下に集めているのは、被害者を自由にするためではなく、決して牧師制度から逃がさないように束縛することが目的だからである。
 
このような運動に身を寄せてしまえば、被害者は自由になるどころか、より一層、束縛されて行くことになるだけである。

それだけではない。この牧師は、自教団とは何の関係もない信徒を利用して、被害者が自分の囲いのもとから逃げられないように脅し、圧迫し続けている。

このような現象から見ても十分に分かるのは、牧師制度を敷くキリスト教界が、もしも地獄のようなところであるとすれば、カルト被害者救済活動というのは、その地獄から信徒を逃さないための、地獄の門番のようなものでしかないということである。

そんな運動が、根本的に牧師制度そのものを撤廃したり、キリスト教界を浄化する原動力には絶対にならないことは明白である。
 
キリスト教界の誤りに気づきかけ、牧師制度の誤りに気づきかけ、牧師に反旗を翻そうとした信徒たちを、再び牧師のもとへ集め、聖職者階級という階層制が、決してキリスト教界からなくならないように、それに疑いを抱いたり、反対する信徒たちを骨抜きにし、潰してしまうために、カルト被害者救済活動という偽りの運動が存在するのである。

だが、牧師制度や、教職者階級制度が、聖書に照らし合わせて、れっきとした誤りである以上、そうした運動や制度の中には、今後も、御霊の生きた息吹きは決して誰も見いだせまいと思う。

そこで、私たちは静かにそうした制度を離れ去る。神ご自身が、その制度が誤りであることを証明されるだろう。私たちがそこを離れ去った後、この教界は前よりも一層悪くなるだろうことを筆者は確信している。今、抜け出さなければ、抜け出ることさえできない時が来るであろう。

私たちは宗教組織に根差すのではなく、指導者に根差すのでもなく、見えないキリストにのみ従う民である。宗教組織に根差す信者は、その宗教の枠組みから出られない。特定の指導者に根差す信者は、別の指導者のもとにいる信徒と交われない。彼らの関係は、ちょうど医者と患者のようなもので、かかりつけの医者ができてしまえば、その医者から紹介状を書いてもらわない限り、別の医者にはかかれず、別の病院にも行けない。医療の世界では、セカンドオピニオンも尊重されるが、封建的なキリスト教界ではそれも無理である。信者は一人の牧師のもとへ行けば、その牧師に拘束されてしまう。ある教団は、信者が教団から離脱することさえ許さない。

そのような牧師制度のもとで繰り広げられる「教会のカルト化対策」などは完全に嘘っぱちである。それが証拠に、彼らは、カルト化教会の牧師が、この世の法に従わないと言って非難しているが、そういう彼ら自身が、法に従わず、自分に不都合な場合は、裁判の結果さえ軽んじるという自己矛盾を呈している。

村上密という牧師は、かつて鳴尾教会がアッセンブリー教団から単立化した際、これに反対して、教団を通して教会に裁判をしかけて裁判に敗れたが、その際、「私は裁判の結果など意に介さない」という趣旨のことを豪語している。

そこから見ても分かるように、彼らは、ある時には、「教会は聖なる法だけが支配しているために無法地帯になっているから、その聖域にこの世の法を適用し、聖域を撤廃せねばならない」などと言って、「この世の法に従え」と言いながら、教会に裁判をしかける。

ところが、その後、彼らにとって不利な判決が出ると、彼らは「この世の法だから限界があるのだ。この世の法を超えた聖なる法に従え」と言う。裁判結果などはどこ吹く風、自分たちにとって得になる結果だけは認めるが、損になる結果は、この世の司法がもたらす結論であろうと、たちまち「意に介さない」と言って、自分たちはこの世の法を超える規範に従う超法的な民であるかのように言い始めるのである。

こうした主張は完全に詭弁であり、彼らが振りかざしているのは、この世の法でもなければ、聖なる法でもなく、ただ自己の義それだけである。

聖書には、冒頭に挙げた通り、「人の怒りは、神の義を全う(実現)するものではない」という聖句があるが、そのように人間の義憤と、神の義は一致しない。私たちにはやはり最終的な裁きを神に任せるという慎重さが必要である。

だが、そんな彼らの言うことにも半分は理があると言えるのは、彼らが指摘している「教会のカルト化」問題とは、要するに、牧師制度につきものの問題だということである。牧師制度ある限り、その教会では、腐敗が絶えず、牧師が「法」となって信徒の心を支配し、結果として、無法地帯が出来上がることは避けられない。だからこそ、教会のカルト化から身を避けたいならば、牧師制度そのものをきっぱり離れ去るべきなのである。牧師が牧師をやっつけるという構図の中では、決してこの問題から抜け出ることは誰にもできない。そうなると、キリスト教界から出る以外に選択肢がないのは当然であろう。
 
そもそも教会のカルト化は1980年代になって始まったのでなく、特定のあれやこれやの教会だけが腐敗したわけでもない。教会のカルト化は、牧師制度が根本的な原因となって引き起こされているのであり、見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に信者を従わせようとする反聖書的な思想から来ているのである。

現にカトリックの聖職者制度においても、プロテスタントで起きていることと相当な類似性のある大規模な腐敗が起きているが、そうしたことも、決して近年になって始まった現象ではない。神の福音が、聖職者という特権階級を養うためのビジネスとなり、それゆえ、信徒が、聖職者階級を支えるための道具として食い物にされるとき、そうした腐敗堕落が起きて来るのは当然である。教会成長論などといったものは、この聖職者ビジネスの途上に現れて来たに過ぎない。
 
だから、聖職者階級という階級制度ある限り、カルト化問題はなくならず、それゆえにこそ、カルト化を取り締まる側に立って救済活動を率いているはずのアッセンブリー教団とこの活動を率いる牧師こそが、他のどの教団や牧師よりも深刻にカルト化しているという現実が存在するのである。
 
繰り返すが、カルト被害者救済活動に正義など微塵もなく、私たちは悪しき牧師制度全体と訣別せねばならない。私たちは見えないキリストのみに従い、根差す民であり、どんな教団、教派であれ、特定の指導者の思惑が、あたかも神の聖なる法であるかのように押しつけられる囲いの呪縛に束縛されるべきではない。

私たちはどんな教団教派にもとらわれることなく、信仰によって同じようにキリストに根差すすべての民と、一つのエクレシアを形成している。

私たちはそうした真のエクレシアの姿を模索するその一員であり、その時々で、同じようにキリストだけに頼り、聖書に忠実なエクレシアを追い求めている信者に出会っては、主の御名のもとに集まる二、三人の群れを形成して来た。

日曜礼拝だとか、家庭集会だとか、聖会だとかいった目に見える囲いが、信徒の敬虔さの証になるのではない。ごく普通の日常生活の中で、互いに会って交わりをし、食事をし、主を誉めたたえ、恵みを分かち合う。讃美歌も歌わないかも知れないし、必要がなければ、祈りさえしないかも知れない。聖書の朗読なども行なわないかも知れない。

だが、たとえそうであっても、そこには、あくまで主を中心とした交わりがれっきとして存在しており、そのためにこそ集まり、話し合っていることを、一人一人が知っているのである。

なぜ、主の御名の中に集まる二、三人なのか? それは、おそらく、規模が二、三人を超えてしまうと、なかなか親密な交わりは難しくなってしまうからだろう。

もしもそこでリーダーとなって教えと垂れようとする人が現れれば、そこでその交わりはおしまいになる。兄弟姉妹は互いに助言し合い、光によって照らし合う存在ではあるが、それは誰かが教師となって誰かを教える関係を意味しない。階層制が出来てしまえば、その交わりはそこで死んでしまう。

さて、この記事の後半に書いておきたいが、ある人々が、当ブログに逆SEOがしかけられているというのは嘘だと言っているのだが、以下のような記録がたくさんあるため、皆さん、嘘に騙されないよう気をつけられたい。
 
当ブログへの集中アクセス履歴 
  
もちろん、サーバーに負荷をかけるような集中アクセスを繰り返すことは、ブログに対する明白な攻撃であるから、当然、被害を主張されても仕方がないということは、おそらくご存じの上でやっておられるのであろう。

筆者はIPアドレスの開示請求のための訴訟に及ぶ予定にしているが、こうした嫌がらせ行為は当然ながら、その範疇に含まれて来る可能性が高い。
 
筆者は、上記のアドレスの持ち主が、カルト被害者救済活動のコアな支持者だと言うつもりはないし、キリスト教関係者だとも考えていない。だが、カルト被害者救済活動が暴走した結果として、本来はキリスト教と何の関係もない人々の間にまで、無実のクリスチャンに対するいわれのない憎悪や迫害を駆り立ていることは事実である。

そうしたネット上の嫌がらせに取り組んでいる「宗教的ネトウヨ」のような人々を、筆者は総称して「サイバーカルト監視機構」という言葉で呼んでいるだけである。だが、むろん、彼らは実際には、何一つ信仰心など持ち合わせていない人々であるから、宗教的な要素はなく、またネトウヨでもない。
 
筆者は、カルト被害者救済活動というものが登場して来たその最初の頃から、この運動は、カルト化した教会を是正・改革することが真の目的ではなく、むしろ、必ずや既存の教団教派に属さない信徒らをカルト扱いして排除することが主要な目的となるだろうと警告して来た。

筆者はそのことを10年前から警告している。要するに、カルト被害者救済活動というものは、カルトを撲滅することが目的なのではなく、初めから、真実、主に従う神の民を迫害し、殲滅することを真の目的とする悪魔的運動なのだと。

彼ら自身が書いていることなのだが、人を欺くためには、真実の中に多少のデマを混ぜ込めば良いのだそうだ。危険なのはこの点である。彼らの言うことの80%が本当だったとしても、残りの20%が嘘であれば、その20%の嘘によって、神の聖なる民が無実にも関わらず断罪され、迫害され、排除される危険が出て来るのである。

そういうわけで、私たちは一つの情報、一つの記事を読むときに、その背景に至るまで事実を詳細に分析し、文脈を疑いながら読む癖を身につける必要がある。そうでなければ、簡単に欺かれるだろう。

繰り返すが、生きた人間に決して異端審問の権限などを与えてはならない。そのようなことをすれば、必ず、本物の異端だけでなく、偽物の異端(つまり全く異端ではない真実な信仰まで)も、共に異端として駆逐されることになり、それは必ず現代の異端審問所となって暴走して行くだけである。

私たちクリスチャンは、誰と交わり、誰と交わらないかを、自己決定する権限は持っているが、地上から異端を根絶したり、力づくで排除するとなれば、それは全く別の話である。

そもそも異端というのは、思想であるから、構造面からの緻密な分析なくしては、見分けることもできず、排除もできない。異端に対する取り組みは、平和的で根気強い議論の積み重ねの上にしか成り立たないのであり、平和な議論ではなく、力の行使によって異端の排除に及ぶ人々は、根本的に方法論をはき違えているのであり、これは大変危険な暴力的運動である。

だが、今、カルト被害者救済活動にとどまらず、既存の教団教派に属さない人々の信仰心そのものを敵視し、侮蔑し、排除しようとして、憎しみを駆り立てている勢力が存在していることを感じざるを得ない。そうした世相が形成されつつあることを感じる。
 
たとえば、以下の記事も、そうした世相に照らし合わせて読むと、ある種の非常な危なっかしさと怖さをはらんでいることが分かる。これはある意味で、大変に誤った方向へ人々を導く記事だと言えるであろうから、ちょっと取り上げて注意を促しておきたい。

ネトウヨの中心層は40代~50代、バブル崩壊などを経験!「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 」(情報速報ドットコム 2018.06.05 22:10)

たとえば、この記事の標題のつけ方に、すでに相当な注意が必要である。

まず「ネトウヨの中心層は40代~50代」という決めつけに、本当に信憑性のある具体的な根拠があるのかどうかを、記事を読んで確認してみよう。

その前に、まず、ここで「ネトウヨ」と呼ばれている人々が、誰を指すのかという問題について考えねばならないが、ここで言われている「ネトウヨ」とは、ただ単に最近、弁護士に大量に懲戒請求を送りつけたという事件に関わる人々だけを指すのであって、本来の「ネトウヨ」の概念は、この事件にとどまらず、もっと広いものであることに注意しなければならない。

つまり、この記事では、ネトウヨの概念が極めて矮小化されているのである。

次に、この記事の元記事となった日刊ゲンダイの記事「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」の文面を読んでも、そこに書かれているのは、

「この会見でもうひとつ驚いたのは、懲戒請求した人たちの年齢構成だ。あくまで和解に応じた人での範囲だが、最も若い人で43歳、中心層は40代後半から50代で、60代、70代も含まれていたという。」

ということだけで、ここには年齢層を示す正確なデータもなければ、60代、70代の割合が全体のどの程度を占めていたのかも示されていない。つまり、どこにも40~50代が中心層だと言えるだけの明白な根拠が示されておらず、不確かな伝聞だけしかそう決めつける頼りになるものがないのだ。さらに、それさえも、和解に応じた人々だけの年齢層であるから、和解に応じなかった人々も含めなければ、全体の年齢構成を判断する正確な根拠とはならないことは言うまでもない。

こうした不確かなデータしか存在しないのに、ゲンダイの記事が「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などと決めつけて標題としているのは、ある意味、あまりにもあからさまな誘導的なタイトルの付け方であり、特定の年齢層の人々に対する侮蔑や憎悪を煽るタイトルだとさえ言える。

また、筆者に言わせれば、この年齢は必ずしも「失われた20~30年世代」と重なるわけではないので、必ずしも就職氷河期などを経験して、社会で冷遇された人々と一概に結びつけることもできないのだが(多少のズレが存在する、どちらかと言えばネトウヨと名指しされているその層は、煽りは受けたかも知れないが、一番過酷な時代の直撃を免れた人々である)、ほとんど根拠のない連想ゲームのような具合で話が進み、「就職で不利となり、社会で居場所を失って、自尊心を傷つけられた世代がネトウヨ化した。そうした世代が、大体40~50代の世代に集中しており、この年齢層は、不安定な雇用情勢などが引き金となり、危険思想の持主となりかねない社会の不穏分子だ」といったような、ある種のイメージ操作のようなことまでが行われていることを感じずにいられない。

そして、仮にそのようなこと(この世代のネトウヨ化)が現実にあるのだと仮定しても、それに対する対策は、そもそも就職氷河期世代に政府が緊急かつ明白な雇用の手を差し伸べることでなければならず、中でも高学歴の人々に安定的なポストを供給することにあったのであり、無謀な大学院の拡張や、デフレ脱却に対する無策といった政府の施策の数々の失敗が、彼らのネトウヨ化を招いた根本原因であることは明白にも関わらず、そうした政府の責任という問題には蓋をしまま、いきなり、「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などという標題をつけ、あたかもこの年代層が社会を不安定化させている不穏分子であるかのように決めつけているところに、まさにこの記事の「空恐ろしさ」があると言えよう。

さらに、この記事の「空恐ろしさ」はこれだけでは終わらない。以上のような曖昧なデータしか存在していない元記事を根拠に、記事の書き手も、ネトウヨについて、「ネット上では工作員だの雇われているだの言われていることもありますが、彼らの9割は本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる一般人でした。」などと断言する。

だが、ここで言われている「9割」というのが、何の内訳であるのかもはっきりせず、彼らが本当に雇われていなかったのかどうかや、一般人なのかどうかなども、現時点ではすべて未確定の事実であるにも関わらず、推測だけで、ネトウヨは「工作員ではない」という決めつけがなされる。むろん、ここで言う「ネトウヨ」とは、弁護士に懲戒請求を送りつけた人々だけに限定されているのだが、そのことも十分には触れられていない。
 
仮に、彼らが実際に工作員でなく、いかなる雇用関係もない一般人であったとしても、それはあくまで弁護士に懲戒請求を送り、和解に応じた「ネトウヨ」だけを対象とするのであって、それ以外のネトウヨ全体が、工作員でないのか、雇われていないのか、といった問題は、この事件だけを通しては全く見えて来ない事実であるにも関わらず、そのことも触れられていない。

こうして、記事では、まるで弁護士に懲戒請求を送り和解に応じた人々だけを「ネトウヨ」とみなすかのように、物事を極度に矮小化した果、「ネトウヨは俗にいう雇われ工作員ではありませんでした」と受け取れるような結論が提示されているところに、ある種の世論誘導的な空恐ろしさを感じざるを得ない。

さらに、そうしたネトウヨが「本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる」ことは、ただ単に彼らの愚直さ、愚劣さを示しているだけであるにも関わらず、それをあえて「純粋」と呼び変えるところにも、この記事のある種の「空恐ろしさ」がある。
 
「純粋」という言葉は、本来、こういう文脈で使うべき言葉ではない。これはカッコつきの純粋さであり、むしろ、以上のようなネトウヨは、決して純粋ではなく、不純であり、愚直、愚劣であったからこそ、このような悪事に手を染めたのである。

さらに進んで言えば、本来、宗教とは何の関係もないネトウヨに対して「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 があるなどと決めつけ、宗教に対する敵視まで呼び込もうとしていることに、筆者などは、一体、この記事の目的は何なのだろうかと、背筋がぞっとして来るのである。
 
宗教と無縁の運動を「宗教的」と呼ぶからには、相当な根拠がなければならない。もしもネトウヨを宗教扱いしたいのであれば、そこには、戦前・戦中の国家神道などのイデオロギーの分析が土台にあり、安倍政権との思想的な親和性が前提として語られなければならない。

しかし、この記事には何らそうした前提となる考察の裏づけや分析がないまま(むろん、現政権への思想的な批判もきちんと向けられないまま)、いきなりネトウヨに「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 などというレッテルが貼られ、ネトウヨをいきなり無差別的にひとくくりに「宗教」という名と結びつけて、特定の年代層に対する蔑視に加えて、宗教全般に対してまでも侮蔑の眼差しを向けさせようとしているところに、この記事の本当の「空恐ろしさ」がある。

一体、この記事の真の目的はどこにあるのかという疑惑が生じるのは当然である。本来、ネトウヨに対しては「安倍真理教」などと言った名称が向けられており、そうした文脈で批判がなされるならまだ分かるのだが、ここで言われている「宗教」なるものが何であるのかは、全く明らかにされていないため、論点のすり替えを感じるだけである。
 
むろん、筆者は「宗教」を擁護するつもりはないのだが、今、ここで述べていることは、聖書に基づくキリスト教の信仰の本質は、宗教にはないということとはまた別の問題である。

そこで、筆者は、以上のような、正当な文脈を外れた「純粋」だとか「宗教的」だとか、根拠のない年代層の決めつけなどの曖昧な言葉の使い方が、結局は、宗教全般に対する敵視、特定の世代に対する敵視、社会から打ち捨てられた不遇の人々に対する差別感情や憎悪、はたまた既存の教団教派に属さない人々の純粋で素朴な信仰心そのものに対するいわれのない憎悪や敵意を生んでいきかねないと考えるがゆえに、この記事の「空恐ろしさ」を感じずにいられないのである。

結果として、こういう類の決めつけの記事は、40代から50代の人々に対するいわれのない差別感や、社会的に不遇の立場にある人々に対する蔑視や、真面目な信心を持つ信者に対するいわれのない侮蔑の念、蔑視を呼ぶだけで、根本的なネトウヨの分析には全くなっていないと言えよう。
 
かつては以下のような記事も出され、一般的には、政府与党によるネット上の書き込みの大規模な規制・監視が、ネトウヨと呼ばれる人々を生んだのだということは、今や世間の共通見解のようになっているのに、以上の記事はその前提まで否定しかねない勢いである。

「自民党の凄まじいネット工作!!自民党はツイッターやブログの書き込みを常時監視し、問題があればすみやかに反論&削除を要請!

  
自民党が組織的に人員を雇用して大規模なネット規制や監視を行い、世論誘導を行って来たことは、今や周知の事実であり、ネトウヨはそうした中から生まれて来た雇われ工作員であることも、ほとんど共通見解になっているというのに、以上のような記事は、そうした政府のネット上の工作からは人々の目を背け、ネトウヨの問題を極度に矮小化することで、それをあたかも個人の問題、特定の年代層の問題であるかのように置き換え、問題をすり替えて、自民党による組織的で大規模なネット上の工作などは、まるで行われていなかったかのように、あるいは、それとネトウヨの発生は全く無関係であるかのように話をごまかす効果を持っている。

つまり、以上のような飛躍した内容の記事は、「ネトウヨとは、社会で行き場がなくなり、ネットで気晴らしするしかなかった特定の年代層の個人が、愚直で信じやすいがために、ネットの嘘に騙されて煽られただけで、自民党の工作などとは一切、関係ないんだよ」と世間に信じ込ませる手段となり得るのである。(ついでに政府の施策の失敗がもたらしたネット難民のような人々の存在という問題をも、侮蔑によってかき消してしまう効果もある。)
 
こうしたあまりにも飛躍した論理が高じると、最後にはまるで皇帝ネロがしたように、ネトウヨが引き起こしたすべての災いまでもが、ネトウヨとは何の関係もないクリスチャンに転嫁されて、「純粋過ぎて宗教カルト化した人々がすべての原因だったのだ」などというとんでもない虚偽の風説の流布にさえつながりかねない怖さを感じる。

関東大震災の後で、朝鮮人に暴動の罪が着せられ、多くの人々が何のいわれもない害を受けたのと同じで、宗教とは何の関係もない出来事が、宗教や、信仰心に根拠もなく結び付けられ、特定の集団がバッシングを受けたりすることにつながって行くことは、歴史上、度々、起きて来た事実なのである。

そこで、ネトウヨの罪をいわれなく宗教や信仰心にかこつけようとするこうした根拠も不明な曖昧な内容の記事は、特定の集団をターゲットとして憎悪を煽る流言飛語をまき散らす人々にとって格好の材料になりかねない危うさを持つ、ということを何度でも断っておきたい。今はまだそういう人々はそう多くはないかも知れないが、そのような風潮がじわじわと強まって来ていることを筆者は感じるのである。
 
そこで、筆者はこの種の記事には何とも言えない嫌悪感を覚えている。繰り返すが、ネトウヨを生んだのは、間違いなく、政府与党であり、安倍政権のイデオロギーである。もちろん、ネットにたむろして鬱憤晴らしをするしかないような行き場のない個人を生んだ原因も、政府の施策の失敗にある。そうした問題をすべて個人の問題に置き換えて、個人だけを叩き、さらに、思想的・宗教的なところに原因をすり替えることで、人々の目を問題の本質から逸らし、本当の問題の原因を胡散霧消させようとするこうした記事による巧みな世論誘導の中に、筆者は歴史を都合よく簡単に書き換える者たちの「空恐ろしさ」を感じずにいられない。

このようなわけで、我々は何かを信じる前に、その根拠となるソースについて、まず十分な分析を行わなければならず、その際には、枝葉末節のように細かい情報だけを頼りとするのではなく、広い視野を持って大局的に物事を見なくてはならない。特に、勧善懲悪の物語がもたらす単純な正義感に踊らされるのは命取りであって、そのことは弁護士に懲戒請求を送りつけたネトウヨの行動にも十分に当てはまるが、これを批判している側にも同じように当てはまる。

ネトウヨを批判していたつもりが、いつの間にか、自分たちの批判している対象が、本来のものとは全く別の何かにすり替わり、罪のない者たちにいわれなく石を投げる行為に加担していた・・・ということが起こらないように、特定の年代層、特定の宗教、あるいは信心があるかないか、といった人々の属性に応じて、特定の集団に対する差別、侮蔑、敵愾心、憎悪、偏見などを煽る傾向のある記事にはよくよく注意しなければならない。

現代はフェイクに満ちた時代なのであるから、すべての情報に注意が必要である。宗教に向けられるヘイトというものも存在するということを我々は覚えておかなければならない。

筆者はそういう意味で、カルトに対する憎しみを極端なまでに煽り続けるカルト被害者救済活動は、一種の「宗教ヘイト」と言って差し支えない極めて危険な運動になっているとみなしている。聖書は独麦を抜くなと教えている。誤った思想にふさわしい時に裁きを下されるのは、神の仕事であって、人間の仕事ではない。必要なのは、クリスチャン一人一人が真実な信仰に立って歩むことであって、他者の歩みに干渉して力づくでこれを変えようとすることではない。侮蔑や憎しみや対立や猜疑心を煽る内容の記事は、いかなるものであれ、よくよく注意しなければならない。